(42) 印 度 學 佛 教 學 研 究 第49巻 第1号 平 成12年12月
バ ル ビ ー ル ・ス ィ ン グ の
『ペ ン の 奇 蹟 』
岡
口
典
雄
バ ン ジ ャ ー ビ ー 語 の 随 筆 「ペ ン の 奇 蹟 」Kalam di Karamatは ,ド ク タ ー ・バ ル ビ ー ル ・ス ィ ン グ 〈Dr. Balbir Singh〉(1896年12月10日 ∼1974年10月1日)の 同 名 の 処 女 随 筆 集 『ペ ン の 奇 蹟 』(1949年)に 所 収 さ れ て い る 作 品 で あ る.作 者 は ラ ー ホ ー ル の カ レ ッ ジ の 理 学 修 士 課 程 在 学 中 の1921年 に ロ ン ド ン大 学 の 化 学 専 攻 研 究 生 に 選 ば れ,1923年 に は 同 大 学 か ら博 士 号 を 取 得 し て 帰 国 し て い る た め,通 例,Dr.の 称 号 を 冠 し て 呼 ば れ て い る.小 稿 で は 「ペ ン の 奇 蹟 」 を 軸 と し て 作 者 の 随 筆 文 学 の 特 徴 に つ い て 考 察 す る.兄 バ ー イ ー ・ヴ ィ ー ル ・ス ィ ン グ 〈Bhai Vir Singh〉(1872年12月5日 ∼1957年6 月10日)が 詩 作 を 中 心 と し散 文 の 歴 史 小 説 を も 手 が け,ス ィ ク 教 の 復 興 運 動 を 導 い た の に 対 し,バ ル ビ ー ル ・ス ィ ン グ は 随 筆 を 中 心 と し た 散 文 の 著 作 か ら 出 発 し て 哲 学 書 ・聖 典 グ ル ・グ ラ ン ド ・サ ー ヒ ブ 用 語 大 辞 典 の 執 筆 へ と生 涯 を 捧 げ た. 辞 典Nirukt Sri Guru Gramth Sahibは,第2巻 ま で が パ ン ジ ャ ー ビ ー 大 学 か ら 出 版 さ れ て い る(第1巻1972年,第2巻1975年).他 の 随 筆 集 に 『久 遠 の 眼 差 し 』Lammi Nadar (1959年)『 清 き 姿 』Suddh Sarup (1966年)が あ る.そ れ ぞ れ の 随 筆 集 に 所 収
さ れ た 作 品 数 は,『 ペ ン の 奇 蹟 』 に12編,『 久 遠 の 眼 差 し 』 に9編,『 清 き 姿 』 に 5編,合 わ せ て26編 で あ る.随 筆 集 『ペ ン の 奇 蹟 』 に 所 収 さ れ た12編 は,1934 年 か ら1944年 に か け て,す べ て 兄 が1899年 に 創 刊 し た 文 芸 誌 『カ ー ル サ ー ・サ マ ー チ ャ ー ル 』Khalsa Samacarに 発 表 さ れ た も の で あ る.1) 現 代 パ ン ジ ャ ー ビ ー 文 学 の 歴 史 を 便 宜 上,第1期(1898∼1930)第2期(1930 ∼47)第3期(1947∼)に 分 け た 場 合 ,第2期 は ナ ー ナ ク ・ス ィ ン グ 〈Nanak Singh〉 (1897∼1971)と グ ル バ ク シ ュ ・ス ィ ン グ 〈Gurbakhsh Singh〉(1895∼1979)の 登 場 を も っ て 始 ま る.ナ ー ナ ク ・ス ィ ン グ の 功 績 は,ス ィ ク 教 徒 と し て の 理 想 像 を 追 求 す る に と ど ま っ て い た バ ー イ ー ・ヴ ィ ー ル ・ス ィ ン グ の 作 品 か ら 大 き く脱 皮 し,パ ン ジ ャ ー ビ ー 小 説 を 世 俗 化 し た こ と に あ る.パ ン ジ ャ ー ビ ー 小 説 の 父 と評 さ れ る 所 以 で あ る.グ ル バ ク シ ュ ・ス ィ ン グ は さ ら に 宗 教 的 な 束 縛 を 離 れ,世 俗
-465-バ ル ビ ー ル ・ス ィ ン グ の 『ペ ン の 奇 蹟 』(岡 口) (43)
的 な 日常 の 人 間 関 係 を描 き,現 代 パ ンジ ャー ビ ー語 の散 文 体 を確 立 した 作 家 と し
て 知 られ て い る.2)
自 由 な主 題 を平 易 な 口語 体 を 用 い て表 現 した2人
の 小 説 ・随 筆 とは対 照 的 に,
ス ィ ク教 を主 題 と し,グ ル バ ー ニ ーgurbani(聖
典 に収録 された 「
グル 〔
ス ィク教 主〕
の言葉」)に 限 らず 東 西 の 碩 学 の著 作 ・箴 言 を 引 用 文 と して駆 使 したバ ル ビー ル ・
ス ィ ン グ の随 筆 は,グ ル マ ト ・サ ー ヒ トgurmat sahit(グ ル の思想 を扱 う文学)と 称
され る.
随 筆 集 『ペ ン の奇 蹟 』 の12の
随 筆 の 内容 は,〔 歴 代 グル の伝 記 〕 〔
ス ィ ク の 教
義 〕 〔
倫 理 哲 学 〕 〔
社 会 論 〕 〔
文 学 論 〕 の5種
に大 別 で き る.① ∼ ⑫ の番 号 は註1)
に 示 した 発 表 年 代 順 の作 品 番 号 で あ る.
〔
歴 代 グ ル の伝 記 〕(⑧,⑨,⑩,⑪)⑧,⑩
は題 名 が 示 す よ うに,そ れ ぞ れ初 代
と第5代
グル の伝 記 とそ の 思 想 及 び哲 学 を主 題 と した もの で あ る.⑨,⑪
は第10
代 グ ル の 伝 記 に基 づ き,戯 曲 的 な 手 法 や 比 較 思 想 論 的 手法 を 用 い て,第10代
グ ル
を讃 えた 内 容 で あ る.〔 ス ィ ク教 義 〕(①,③,⑫)い
ず れ も特 定 の グ ル一 人 に 限 る
こ とな く,ス ィ ク教 思 想 及 び 哲 学 全 体 を他 の イ ン ドの思 想 及 び 哲 学 の文 脈 の 中 で
位 置 づ け る作 業 を して い る.〔 倫 理 哲学 〕(②,⑤,⑥)ス
ィ ク教 思 想 及 び 哲 学 の
特 質 と優 越 性 を 古 今 東 西 の諸 思 想 及 び哲 学 との 比 較 に お い て論 じ,独 自 の見 解 を
提 示 して い る.〔 社 会 論 〕(⑦)ス
ィ ク教 社 会 に お け る女 性 の地 位 につ い て論 じて
い る.〔 文 学 論 〕(④)18世
紀 の ブ ッ レー ・シ ャー の カ ー フ ィ ーkafi(押 韻叙 情詩)
に始 ま り現 代 に至 るパ ン ジ ャ ー ビー 詩 作 の系 譜 と伝 統 を,兄 バ ー イ ー ・ヴ ィ ー ル
ス ィ ング の 作 品 を 中心 に据 え て 述 べ た文 学 評 論 的作 品 で あ る.
宗 教 ・哲 学 を 基 調 と した 文 章 で あ るた め,随 筆 集 『
ペ ン の 奇 蹟 』1冊 中 に は 古
今 東 西 の31に
及 ぶ 文 献 か らの 引用,26人
の 著 作 ・箴 言 が 含 ま れ て い る.従 っ て
この ジ ャ ン ル は,格 調 の高 さ は あ っ て も,学 術 紀 要 の 如 く,本 来 広 く一 般 的 に 読
まれ る性 質 の も ので は な い.し か し作 品 の構 成 を概 観 す る と,無 味 乾 燥 な 宗 教 論 ・
哲学 論 の文 章 に終 わ らせ な い た め に工 夫 さ れ た要 素 が 浮 か ん で くる.ま ず 対 話 を
中 心 とした 導 入 部 の戯 曲 的展 開 が い くつ か の作 品 に 共 通 す る特 徴 で あ る.「ペ ンの
奇 蹟 」 は こ う始 ま っ て い る.
ムガル皇帝バ ハー ドゥル ・シャーの宮廷 の謁見 の間.廷 臣たち は今 日はいつにな く畏敬
の雰囲気 を漂 わせ,首 を垂れて座 して いる.グ ル ・ゴー ビン ド・ス ィングの臨席 の故であ
る.対 論 が始 まって いた.一 人のサイイ ドが,奇 蹟の実在 につ いてグルに尋ね る と,グ ル
は答 えた.
-464-(44) バ ル ビ ー ル ・ス ィ ン グ の 『ペ ン の 奇 蹟 』(岡 口) 「奇 蹟 は皇 帝 バ ハ ー ドゥル ・シ ャ ー の 口 に在 る.皇 帝 の 発 した一 言 が,貧 者 を富 者 に変 え,生 け る者 の命 を奪 い,罪 人 の 命 を救 うこ とも で き る」 サ イ イ ドは こ の答 え に満 足 しな か った.彼 は 「あな た に も奇 蹟 が在 り ます か 」 とさ らに 問 い 詰 め た.グ ル は ポ ケ ッ トか ら金 貨 を 取 り出 して答 え た.「 も う一 つ の奇 蹟 は貨 幣 だ 」 サ イ イ ドは こ の グル の答 を 人 を 喰 った 挑 発 と捉 え,苛 立 ち を 感 じた. 「ご覧 あれ,サ イ イ ド殿,こ の貨 幣 に は 奇 蹟 の力 が在 る.貨 幣 の た め に 人 々 は争 う.貨 幣 を 与 え 兵 士 を死 に赴 かせ る こ と もで き る」 サ イ イ ドの 心 に怒 りの炎 が燃 え 盛 った.し か し彼 は何 も言 え な か った.少 し冷 静 に な っ て ま た彼 は グ ル に尋 ね た. 「あ な た御 自身 の 奇 蹟 も在 りま す か 」 こ こで グ ル は どん な答 を示 した で あ ろ うか.彼 は突 然,剣 を 鞘 か ら抜 い た. グ ル は 抜 い た 剣 を指 して 言 った.「 サ イ イ ド殿,こ れ が私 の 奇 蹟 だ.こ の 剣 は 一 瞬 の う ち に汝 の首 を斬 る こ とが で き る.そ う して 一瞬 の うち に汝 の疑 問 に終 止 符 を 打 つ こ とが で き る.こ れ は奇 蹟 で はな い か 」3) こ の 部 分 に 関 す る 限 り,そ の 文 章 作 法 は 小 説 と異 な る も の で は な い .ま た 初 期 の 作 品 「理 想 の 力 」Adars di Sakti (1935年)で は,眠 りか ら覚 め た 老 兵 と洞 窟 で 彼 を 見 つ け た エ ジ プ ト人 と の 対 話 文 を 導 入 部 に,ま た7章 か ら 成 る 「輝 く真 珠 」 Abdar Moti(『 久 遠 の 眼差 し』1959年 所 収)で は 序 盤 の 第1章 と 中 盤 の 第4章 で 対 話 文 を そ れ ぞ れ4ペ ー ジ ず つ 展 開 し て い る.い ず れ も 戯 曲 形 式 で,そ の 部 分 だ け 取 り出 せ ば,戯 曲 に 他 な ら な い.深 遠 な 主 題 を 興 趣 あ る 文 章 を 以 て 提 示 す る た め の 文 章 構 成 上 の 特 徴 と言 え る. 次 に 『ペ ン の 奇 蹟 』 に 所 収 さ れ た12編 を 執 筆 し た 時 期 の 作 者 の 経 歴 と 主 題 の 変 遷 に つ い て 考 察 し て み よ う.作 者 は,ロ ン ド ン か ら帰 国 後1924年 か ら は,国 内 の テ レ ビ ン油 産 業 の 基 礎 作 り に 貢 献 し,そ の 後1926年 か ら1935年 ま で は,デ ヘ ラ ー ・ ド ゥ ー ン の ケ ン ブ リ ッ ジ 予 備 校 の 校 長 を 務 め た.こ の 時 期 は デ ヘ ラ ー ・
ド ゥ ー ン に 住 む プ ー ラ ン ・ス ィ ン グ 〈puran Singh〉 と ク ダ ー ダ ー ド 〈Khudadad〉 の 二 人 の 先 輩 が 作 者 と親 交 を 持 っ て い た.外 国 で 化 学 を 修 め た 共 通 点 を 持 つ 三 人 は 哲 学 ・文 学 の 分 野 で も 議 論 を 重 ね た.1936年 か ら1946年 は 兄 バ ー イ ー ・ヴ ィ ー ル ・ス ィ ン グ と と も に 聖 典 グ ル ・グ ラ ン ド ・サ ー ヒ ブ 読 本Samthia Sri Guru Gramth Sahibの 執 筆 に 専 念 し た.こ の 時 期,聖 典 の 註 解 と並 行 し て 書 か れ た 随 筆 は ク ル バ ー ニ ーkurbani(自 己 犠 牲)を 強 調 し た 色 彩 を 帯 び て く る .「 ペ ン の 奇 蹟 」 で は 次
の 文 章 に 続 き,さ ら に 聖 エ ドマ ン ド の 殉 教 へ と言 及 し て い く.
奇 蹟 とは何 で あ ろ うか.エ マ ー ソ ン は定 義 して い る.「 真 の奇 蹟 は 自己 犠 牲 で あ る.こ
-463-バ ル ビ ー ル ・ス ィ ン グ の 『ペ ン の 奇 蹟 』(岡 口) (45) の奇 蹟 か らそ の後 の す べ て の奇 蹟 が 生 ま れ る」 しか し この 奇 蹟 は,自 己犠 牲 が無 駄 に 終 わ る ので は な い か とい う葛 藤 や 疑 い を ま っ た く持 た な い 人 の み が 為 し得 る もの で あ る.自 己 犠 牲 は身 を も っ て実 践 して 見 せ る師 で な け れ ば 教 え る こ とはで き な い.当 時 そ れ を実 践 で き る師 は グル ・テ ー グ ・バ ハ ー ドゥル の みで あ っ た.グ ル は 己 の 首 を捧 げ る 以外 に は全 う で き な い,時 代 の要 請 を 悟 って い た の で あ る.4) 「ペ ン の 奇 蹟 」 以 後 の 主 題 は,献 身 ・自 己 犠 牲 ・殉 教 を 軸 に 設 定 さ れ る.「 グ ル ム ク 」(1944年)で は,グ ル ム ク は 自我 を 殺 し 自 己 を 犠 牲 に す る者 と 定 義 さ れ,ま た 己 の 血 管 を 切 り,不 幸 な 人 々 に 血 の 滴 を 与 え て 奇 蹟 を 起 こ し,や が て 死 に 至 る 行 者 「バ ー バ ー ・ラ ク ト ・デ ー ヴ 」Baba Rakt Dev(『 久 遠 の 眼差 し』 所 収)で は,エ マ ー ソ ン の 定 義 が 再 び 引 用 さ れ る .特 定 の 登 場 人 物 を 設 定 し た 物 語 的 ・戯 曲 的 展 開 を 中 心 と す る 傾 向 は 定 着 し,ト ラ ク ト(宗 教 宣 伝 用 の パ ン フ レ ッ ト)の 原 稿 に と
ど ま ら な い,固 有 の 文 学 作 品 と し て の 性 格 を 強 め て い く こ と に な る.「 ペ ン の 奇 蹟 」 は 主 題 と文 章 構 成 の 両 面 で 道 標 と な る 作 品 で あ る.
1)12編 の タ イ ト ル と 発 表 年 月 日 を 年 代 順 に 並 べ 換 え て 記 す.①Sukh Dukh (1934.9.27.)② Upkar Bhagti (1934.10.11.)③Adars di Sakti (1935.1.10.)④Pamjabi di Ramaz Bhari Kavita (1936.3.13.)⑤Mazhab vic Dakhal (1936.5.)⑥Karm Nam (1937.1.21.)⑦Sikhi Mamdal vic Istari da Darja (1938.1.6.)⑧Sri Guru Nanak Dev Ji (1941.11.20.)⑨Kala Kausal di Kuthali (1942.2.5.)⑩Sri Guru Arjan Dev Ji (1943.7.22.)⑪Kalam di Karamat (1943.12.30.)⑫Gurmukh (1944.10.26.)2)拙 稿 「現 代 パ ン ジ ャ ー ビ ー 文 学 ― そ の 概 観 ― 」 『ウ ル ド ゥ ー 文 学 』9, 1996, pp.5-63)"Conve Nibamdh", Bhasa Vibhag Pamjab Patiala, 1996, p.31 4) 上 掲 書pp.33-34
〈キ ー ワ ー ド 〉 パ ン ジ ャ ー ビ ー 文 学,バ ル ビ ー ル ・ス ィ ン グ,グ ル マ ト ・サ ー ヒ ト