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宋 代 に お け る 養 子 法

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(1)成立. 養方に 対 す る 効 果. ︵上︶. 村. 宋代における養子法 i判語を主たる史料としてi. はじめに. 第一節. 第一章養子の目的 第二章同宗養子. 養子たる要件︵以上本号︶. 1 養親たる要件. 一 要件 2. 実方に 対 す る 効 果. 効果. 養子文 書 と 除 附. 一一当事者. 三 一. 第二節. 二. 終了. 康. 一. 第三節. 宋代における養子法︵上︶. ノ.

(2) 早法六四巻一号︵一九八八︶. 異姓養子. 義子としての異姓養子. 第一節嗣子としての異姓養子. 第三章. 第二節 おわりに. 第四章養女. はじめに. ︵3︶. ︵4︶. ︵5︶. ︵6︶. ︵7︶. ︵8︶. あわせてもおらず︑なお完全には立法の欠を埋めうるものでもないけれども︑ともかくも現実の法廷の場で述べられ. 方官の裁判例である判語を史料として活用しなければならないのである︒それは︑今日の判例のような体系性を持ち. 代わるものとしての︑典籍中から発見した慣行だけによってはこの欠を充分には埋めることはでぎない︒そこで︑地. 清末から現代中国への過渡期にわたって行われた慣行調査によって旧中国の法を語らせることはでぎないし︑それに. 欠を補うものとして︑他の史料を活用しなければならないことは言うまでもない︒しかし︑﹁旧慣調査﹂の名の下に︑. る︒そもそも︑養子法︑家族法に限らず︑一般に立法が不備であった旧中国の民事法を研究するにあたっては︑その. 活用してはいなかった︒判語が法制史の史料として有効に活用されるようになったのは︑仁井田氏の研究からであ. しかし︑これらの研究のうち︑戴氏以前のものは︑その史料を立法例や典籍︑慣行調査などに取るのみで︑判語を. 次︑水谷国一︑西山栄久︑戴炎輝︑仁井田陞︑滋賀秀三らの各氏によって行われてきた︒. ︵2︶. ︵1︶ いわゆる旧中国における養子法についての研究は︑多く家族法全体に関する考察の一環として︑東川徳治︑清水泰. 二.

(3) た︑現実の法慣行の記録なのであるから︒ ︵9︶. ︵10︶. 本稿は宋代における養子法の実態を︑以上のような観点から︑現在に伝えられている宋代の四種の判語. ︵12︶. 当代の. を主たる史料とし︑その他の諸史料もできる限り参照して︑その理念と現実の両側面か. 名判決文集である﹃名公書判清明集﹄と︑個人文集中に判語を収録する﹃勉斎先生黄文粛公文集﹄︑﹃後村先生大全 ︵11︶. 集﹄︑﹃文山先生全集﹄ ら︑体系的に叙述していこうと試みるものである︒. 引用文中において︹︺内は原註を︑︵︶内は筆者註を示す︒また︑註文において︹︺内は重出文献の略号を示す︒ ︵2︶清水泰次﹁支那の家族制度の研究﹂︵﹃早稲田法学﹄八巻︑一九二八年一月︶︒. ︵1︶東川徳治﹁支那法ト養子﹂︵﹃法学志林﹄二〇巻四号︑一九一八年四月︒のちに﹃支那法制史研究﹄︵有斐閣︑一九二四年九月︶に収録︶︒. ︵3︶水谷国一﹁支那に於ける家族制度﹂︵﹃満鉄調査資料﹄七三編︑南満州鉄道株式会社庶務部調査課︑一九二八年二月︶︒. 制度概要﹂︵﹃支那の姓氏と家族制度﹄六興出版部︑一九四四年一月︹西山﹃家族制度﹄︺︶︒. ︵4︶西山栄久﹁支那に於ける家産分割に関する法規と慣習とに就て﹂︵﹃東亜経済研究﹄一二巻三号ー四号︑一九二八年七月・一〇月︶︑同﹁家族. ︵5︶戴炎輝﹁近世支那並台湾の養子法﹂︵﹃台法月報﹄三一巻七号−二号︑一九三七年七月−二月︶︹戴﹁養子法﹂IlV︺︒. ︵6︶仁井田陞﹃唐宋法律文書の研究﹄︵東方文化学院︑︸九三七年三月︶︹仁井田﹃文書﹄︺︑同﹁支那近世の戯曲小説に見えたる私法﹂︵石井良助. 同﹃支那身分法史﹄︵東方文化学院︑一九四二年一月︶︹仁井田﹃法史﹄︺︒. 編﹃中田先生還暦祝賀法制史論集﹄岩波書店︑一九三七年三月︶︑同﹁支那養子法の史的変遷﹂︵﹃史学雑誌﹄五〇編二一号︑一九三九年一二月︶︑. ︵7︶滋賀秀三﹃中国家族法論﹄︵弘文堂︑一九五〇年四月︶︹滋賀﹃法論﹄︺︑同﹃中国家族法の原理﹄︵創文社︑一九六七年三月︶︹滋賀﹃原理﹄︺︒. 北大学学報﹄一九八六年三期︶など︑相続法の一環としての研究もなされている︒. ︵8︶最近︑中国においては莫家斉﹁従︽名公書判清明集︾看宋朝的継承制度﹂︵﹃法学雑誌﹄一九八四年六期︶︑郭東旭﹁宋代財産継承法初探﹂︵﹃河. 三. び北京図書館︵巻一〇まで︶に所蔵されている︒宋刻本については影印本︵古典研究会影印﹃名公書判清明集﹄一九六四年八月︹影印本﹃清明. ︵9︶﹃名公書判清明集﹄︹﹃清明集﹄︺は︑宋刻不分巻本︵明刻本の巻四︑五︑八︑九にほぼ相当︶が静嘉堂文庫に︑明刻十四巻本が上海図書館およ. 宋代における養子法︵上︶.

(4) 早法六四巻一号︵一九八八︶四. 九八五年九月︶があり︑梅原郁氏による邦訳がなされている︵梅原郁訳注﹃名公書判清明集﹄同朋社︑一九八六年二一月︹梅原訳﹃清明集﹄︺︶︒明. 集﹄︺︶および王曽喩︑陳智超︑呉泰の三氏による標点本︵中国社会科学院歴史研究所編﹃中国古代社会経済史資料隔第一輯︑福建人民出版社︑一. 刻本については標点本︵中国社会科学院歴史研究所宋遼金元史研究室点校﹃名公書判清明集﹄中華書局︑一九八七年一月︹中華書局﹃清明集﹄︺︶. る部分については東京大学東洋文化研究所所蔵の上海図書館本からの複写ならびに中華書局﹃清明集﹄を使用する︒なお︑﹃清明集﹄の解題︑紹. がある︒本稿への引用にあたっては︑宋刻本残存部分については影印本﹃清明集﹄を使用して明刻本との対校を挟註で示し︑明刻本にのみ残存す. 大学出版会︑一九六四年三月︹仁井田﹃研究﹄N︺︶に収録︶︑同﹁永楽大典本﹁清明集﹂について﹂︵仁井田﹃研究﹄W︶︑同﹁名公書判清明集. 介については︑仁井田陞﹁清明集戸婚門の研究﹂︵﹃東方学報﹄東京四冊︑一九三三年一一月︒のちに﹃中国法制史研究法と道徳法と慣習﹄︵東京. ︵﹃大安﹄一〇巻九号︑一九六四年九月︒のちに﹃宋代史研究﹄︵東洋文庫︑一九六九年三月︶に収録︶︑陳智超﹁明刻本︽名公書判清明集V述略﹂. 解題﹂︵影印本﹃清明集﹄︶︑長沢規矩也﹁版本解説﹂︵影印本﹃清明集﹄︶︑周藤吉之﹁古典研究会刊・静嘉堂文庫蔵﹁名公書判清明集﹂について﹂. ︵﹃中国史研究﹄一九八四年四期︶︑同﹁宋史研究的珍貴史料−明刻本︽名公書判清明集V介紹1﹂︵中華書局﹃清明集﹄附録七︶などを参照︒. 〇︵中華書局﹃清明集﹄附録二︶に︑四庫全書所収﹃勉斎集﹄も巻三二ー三に同内容の﹁判語﹂を収めるが︑本稿への引用にあたっては宋刻本を. ︵10︶黄韓﹃勉斎先生黄文粛公文集﹄︹﹃勉斎集﹄︺︒静嘉堂文庫所蔵宋刻本の巻三八ー四〇に﹁判語﹂を収める︒北京図書館所蔵元刻本は巻三八ー四. 使用し︑元刻本︑四庫本との対校を挟註で示す︒. 書には﹃清明集﹄と重複する判語があるが︑その引用にあたっては﹃清明集﹄を使用し︑﹃後村集﹄との対校を挟註で示す︒なお︑程有慶﹁︽後. ︵11︶劉克荘﹃後村先生大全集﹄︹﹃後村集﹄︺︒四部叢刊本の巻一九二⊥二に﹁書判﹂を収める︒中華書局﹃清明集﹄附録三にも収録されている︒本. 収蔵されているとのことであるが︑﹁書判﹂は含まれていない模様である︒. 村居士集V鉄琴銅剣楼旧蔵宋本﹂︵﹃文献﹄一九八七年三期︶によれば︑北京図書館に宋刻本﹃後村居士集﹄五十巻本のうち三十八巻が残本として. 判語を含まないので︑本稿においては使用しない︒. ︵12︶文天祥﹃文山先生全集﹄︒四部叢刊本の巻二一に﹁文判﹂を収める︒中華書局﹃清明集﹄附録四にも収録されている︒なお本書は民事関係の. 第一章養子の目的. 家族は継続的に発展成長して行かなければならず︑それは親から子︑子から孫へという承継関係の連鎖によって実.

(5) 現されて行く︒しかし︑自然の成行きにのみ委せていては︑この鎖が杜切れてしまうとぎがある︒そのとき︑この杜. 切れた鎖に新たな環を接ぎ足してやる手段が︑養子なのである︒ ぎ 中国人にとって︑家族の継続とは︑まず第一に祭祀の継続であった︒彼らの死生観によれば︑人は死ぬと﹁鬼﹂と う. ︵13︶. なって﹁鬼界﹂に赴くが︑そこでの生活の糧は生前の世界に求めなければならない︒すなわち︑生前の世界で彼ら. ﹁鬼﹂を祀り︑供養しなければ﹁鬼﹂は﹁酸え﹂死んでしまうのである︒﹃春秋左氏伝﹄の︑. 楚の司馬の子良が越椒という子をもうけた︒子文が﹁この子は殺さなければいけません︒この子は熊虎の姿を. し︑貌狼の声をしています︒殺さなければ必ず若激氏を滅すことになりましょう︒諺には︑狼は子供のとぎから. 野心を抱いている︑とあります︒この子は狼なのです︒育ててはなりません﹂と言ったが︑子良はとりあわなか. った︒子文はこのことを非常に心配し︑死ぬ間際にはその一族をあつめて﹁椒が政治を行うようになったら︑速. かにこの地を去れ︒そうすれば難を免れるであろう﹂と言い︑泣ぎながら﹁人は鬼になっても食物を求めると言. うが︑︵椒が若敷氏を滅してしまえば︶若散氏の鬼は鰻えてしまうだろう﹂と言い遺した︒︵楚司馬仔浪生子越轍︑. 子文日︑必殺之︑是子也︑熊虎之状而貌狼之声︑弗殺必滅若散氏臭︑諺日︑狼子野心︑是乃狼也︑其可畜乎︑仔. 良不可︑子文以為大感︑及将死︑聚其族日︑椒也知政︑乃速行奥︑無及於難︑且泣日︑鬼猶求食︑若敷氏之鬼︑ ︵14︶ 不其饒而︶. という記述はこの点をよく説き明している︒そして︑この祭祀を執り行う者は︑当然彼らの男系の子孫でなければな. 五. らなかった︒つまり子孫が絶え︑家が絶えることは︑鬼に対する祭祀が絶え︑鬼を鞍え死にさせることであった︒子 宋代における養子法︵上︶.

(6) 早法六四巻一号︵一九八入︶. ︵15︶. 六. がないことが最大の不孝とされる理由は︑まさにここに存在する︒ところが︑自然によっては子が得られないとぎが. ︵16︶. ある︒そのとき﹁生命の接木﹂によって祭祀承継者たる子をつくりあげることが︑養子制度の第一の目的なのであっ た︒. 養子の目的がまず祭祀の継続にある以上︑ある者が子をもうけずに死亡したときは︑その死後においても養子をも. うけてやることが許されなければならなかった︒それは祖先の祭祀だけではなく︑まず第一に当の死者本人の祭祀を. ︵18︶. ︵19︶. 執り行うためにである︒この﹁死後養子﹂は祭祀継続を目的とした旧中国養子法の特色のひとつであるが︑これは養 ︵17︶ 子制度が﹁家のための養子﹂であるよりも﹁親のための養子﹂の色彩が強いことを明かにしている︒﹁死後養子﹂を. 立てて﹁滅びた国を再興し︑絶えた家を復活させる︵興滅国︑継絶世︶﹂ことは︑実は﹁人の命脈の復活﹂を主とし て問題としていたのである︒. そしてまた︑祖先の祭祀はその男系の子孫でなければ執り行いえないという点から︑旧中国養子法のもうひとつの 特色︑﹁異姓不養﹂という原則が導ぎ出されて来るのである︒. なお︑他人の子を養子とすることを﹁乞養﹂﹁過房﹂﹁立嗣﹂﹁立継﹂﹁立後﹂などと言い︑養子の側から見れば﹁出 よぎ 継﹂﹁人の後となる︵為人後︶﹂と言う︒﹁過房﹂とはコ房を過る﹂︑すなわち実方の房から養方の房へと移りわたって ︵20︶. 行くことであり︑﹁立嗣﹂は嗣子に立てる︑擬制すること︑﹁立継﹂は継子に擬制することである︒﹁出継﹂とは実方. の房から出て︑養方の後を継ぐ意味である︒また︑旧中国においては︑単に﹁子﹂と言った場合には男子のみを指す. のであり︑本稿もこの用語法に従う︒﹁子﹂とは﹁嗣子﹂すなわち祭祀の承継者であり︑女子は原則として祭祀の承.

(7) ︵21︶. 継者にはなりえなかったのである︒. 宋代の判語にも︑養子の目的が祭祀の継続にあることを述べたものがある︒. 法廷で︵原告阿張は︶﹁学文は自分の実弟以外の者を自分のために立嗣しようとは願っておりませんでした﹂. と陳述しているが︑彼女の言うとおりにしてしまえば学文の血統は絶えてしまうことになる︒⁝⁝これは李学礼. ︵学文の実弟︶が兄の家産を我が物にしようと企んで︑母親阿張を唆して訴訟をおこさせたものであるに違いな. い︒兄弟の恩情を忘れ︑継絶の誼みを棄て︑兄の祭祀を廃し︑兄の鬼神を鞍えさせようとするものである︒この. ような行いをも忍ぶべきであるとするならぽ︑どのような行いでも忍ぶべきことになってしまおう︒︵今此所陳. 乃称︑学文自親弟下︑不願更与之立嗣︑如此則是絶学文之後莫︑⁝⁝此必是李学礼志在呑併乃兄之家業︑遂教其 ︵22︶ 母以入詞︑忘同気之恩︑棄継絶之誼︑廃其祭祀︑酸其鬼神︑是可忍也︑敦不可忍也︶. 恵孫が実父の家に帰り王広聞︵実父︶の家産を承継したので︑王恰︵養父︶の祭祀は絶えることになった︒し. かし恵孫が実家に去っても︑衡孫︵王恰の実弟蜀の死後養子︶がなお養家にとどまるから︑蜀には後嗣がある︒. 恰には後嗣がないことになるが︑蜀の祭祀が絶えなければ聖与︵恰と蜀の実父︶の祭祀も絶えることはない︒た. だ悲しむべぎことは︑王恰の鬼が祀られなくなってしまうことだけである︒族長王聖沐が本司に訴訟をおこし︑. 法に従って昭穆相当者を択んで王恰のために命継しようと求めたのは︑当然の義挙である︒︵其穂孫只得帰所生父. 七. 家承紹王広聞之業︑而圧胎之香火絶奥︑雛然慮孫難去︑衡孫尚存︑是濁有後︑而胎無後︑蘭之香火不絶︑則陛陣 ︵23︶ 之香火亦不絶︑但可惜︑王恰為不祀之鬼耳︑族長王聖沐経本司陳乞照条択昭穆相当人為王恰命継︑義当然也︶ 宋代における養子法︵上︶.

(8) 早法六四巻一号︵一九八八︶. ︵24︶. 八. 養子︑とりわけ死後養子は︑死者が﹁祀られざるの鬼﹂となることを避け︑その祭祀を執り行わしめることを目的と していたわけである ︒. ところが︑養子は現実には祭祀承継だけを目的としたものではありえない︒第三章で述べるような︑棄児収養とい. うある意味で﹁子のための養子﹂的なものもありえたし︑南宋︑褒采の家訓書である﹃蓑氏世範﹄に. 貧者は他人の子を幼時から養子とすべぎである︒なぜなら︑貧者には老後の糧とする田宅がないので︑その子. の反哺のみが頼りとなるからである︒幼時から衣食の世話をして育てなけれぽ︑その心を自分の許にとどめてお. けないからである︒従って富者が他人の子を養子とするときには成人を養子に取るべきなのであるが︑今世の富. 人は養子をはばかって︑ものごころのつかないうちから撫養したり︑極貧の子を養ったりしている︒そんな子は. 長じて不肖となり︑家産を破蕩してしまうであろう︒そうなってから離縁の策を講ずるから︑結局訴訟沙汰にな. ってしまうのである︒︵貧者養他人之子︑当於幼時︑蓋貧者無田宅可養暮年︑惟望其子反哺︑不可不自其幼時衣. ︑. ︑. ︑. ︵26︶. 食撫養︑以結其心︑富者養他人之子︑当於既長之時︑今世之富人養他人之子︑多以為韓︑故欲及其無知之時撫 ︵25︶ 養︑或養所出至微之人︑長而不肖︑恐其破家︑方議逐去︑致有争訟︶. と書かれているような︑老後の反哺︑扶養を目的とした︑言わば﹁生ける親のための養子﹂も存在していた︒更に判 語には︑. 人が子がなくて立継に至るのは︑その家産を保全し︑祖宗の祭祀がきちんと執り行われるように願ってのこと ︵27︶ にすぎない︒︵人之無子而至於立継︑不過願其保全家業︑而使祖宗之享祀不志焉耳︶.

(9) ︵28︶. 祭祀の継続だけでなく﹁家業を保全﹂することも養子の目的としているものがある︒養子が第一に祭祀の継続を目的. としていたとは言っても︑現実には同時に家産も承継するわけであるから︑養親や死者が資産家であったとぎなど. は︑往々にしてその財産を目当てに養子となり︑あるいは我が子を養子にしようと争う現象があらわれ︑判語にはこ のような事例が数多く見出される︒. 丘荘すなわち丘六四は丘萱の従兄である︒丘萱は子を残さずに死亡し︑あとには阿劉が単身やもめ暮しをして. いた︒丘荘は邪心を抱き︑従弟が死にかけるとその家産を目当てに匠噺を立継しようと鵬をはさんだ︒この図々 ︵29︶. しい企みが達せられずに終わると︑悪企みを次から次へと考え出し︑ついに︑家産分割によって丘萱のものとな. っていた三濯里の田五十種を︑勝手に契約書二通を作成し︑自ら仲買人として朱府に売り渡してしまった︒︵丘 ︵30︶. 陛即丘六四者丘匿之従兄也︑匠藍身死無子︑阿團単弱嬬居︑丘荘包蔵禍心︑垂涯於従弟之方死︑染指於匠噺之立 継︑観観不獲︑姦巧横生︑童将丘萱三盟里已分田五十種︑自立両契︑為牙売与昧府︶ おい. そもそもどうして萢遇は︑父母が死亡し家産分割が行われてから八年が経過し︑兄の子敬も死亡したところ. で︑その弟善甫と姪鹸慶に無理矢理立継の文書に署名させ︑自分の子文孫を︵亡兄︶煕甫の後嗣にしようとした. のだろうか︒これは実は︑兄にまだ後嗣が立てられていないことを気遣ったからではなく︑兄と弟へと分割され. た家産を奪い取ろうとしたからというだけのことなのである︒︵夫何随腿者︑独於父母亡分業八年之後︑兄序廠. ︵31︶. 亦亡︑遂抑逼其弟膳哺姪齢慶籏押立継文字︑以己子戊孫為熈庸後︑此山豆誠念其兄之未立後哉︑不過欲奪其一兄一 弟已分之業爾︶. 宋代における養子法︵上︶九.

(10) 早法六四巻一号︵一九八八︶. みこん. むすめ. 一〇. ︵詑︶. 熊賑元は三子をもうけた︒長男は邦︑次男は賢︑三男は資と言った︒熊資が死亡し︑その妻阿甘も改嫁してし. まったので︑︵熊資の房には︶在室の女が一人残っているだけであった︒熊資の戸には田三百五十把があり︑. ⁝⁝法によれば全てこの女に給与されるべきものであったが︑成婚しないうちに死亡してしまった︒今二人の兄. が自分の子を立嗣しようと争っている︒⁝⁝立嗣の主張は︑弟のためという名目ではあるが︑実はその田産を得. ようとしてのことなのである︒︵熊賑元織翻本生三子︑長日廓︑次日贋︑幼日贋︑態陰身死︑其妻阿肘已行改嫁︑ ︵33︶. ごろつぎ. 惟存室女一人︑戸有田三百五十把︑⁝⁝従条尽給付女承分︑未及畢姻︑女復身故︑今二兄争以其子立嗣︑⁝⁝立 嗣之説︑名難為弟︑志在得田︶. 陳如椿は術策によって生計を立てていると自称しているのだから︑その本性は破落である︒訴訟をおこして劉. 氏の財産を根こそぎ分捕ろうとしたが果せなかったので︑陳敏学が訴訟をおこすのを助けたのであるが︑それは. 緻障の子を陳知県︵劉氏の亡夫︶の嗣子に立て︑後目劉氏の財産を我が物にしようと企んでのことであった︒こ. れは市井の破落の常のこととて厳しく責めるまでもないが︑辰漢知県である陳敏学は士大夫の身でありながら義. 理を顧みず︑劉氏が自分の叔母であることも心に留めず︑わざわざ本州に文書をよこし︑破落陳如椿と共謀して. 妄に訴訟をおこし︑叔父の家産を分捕ろうとしたのである︒これほど破廉恥な行為は他にはあるまい︒︵陳如椿自. 称挟術為生︑則其為人乃破落︑把持起到劉氏銭物而不得︑遂扶陳敏学論訴︑意欲立敏学之子為陳知県之嗣︑異日. 併有劉氏物業︑此市井破落之常︑不足深責︑辰漢知県陳敏学身為士夫不顧義理︑不念劉氏乃其叔母︑亦敢移本 ︵34︶ 州︑与破落陳如椿挟同妄訴︑欲以呑併叔父之業︑廉恥道喪麟翫儒鵬︑莫此為甚︶.

(11) ︵35︶ ︵36︶ このような紛争が昂ずるとそれに付随して暴力沙汰が発生したり︑延々と訴訟が繰り返されるのはもとより︑謎告. 事件がひきおこされることもあった︒判語には︑実子がないので生前養子を取った者の死後︑その遺腹子と自称する 者があらわれて裁判に持ち込まれた事件があるが︑これを裁いた官司は. 李五︵自称遺腹子︶は饒氏一族の家に出入りしていたから︑おそらく彼に味方する者も多いであろう︒族長た. ちを召喚すれば︑彼に有利な証言をするために出廷して来る者もいるに違いない︒だがその実は︑おそらくは饒. 操が応申を養子にしたことについて同族の中に不平を抱く者が大勢いて︑この機に乗じて薩を操ってその意を ︵37︶. ︵38︶. 遂げようと画策L︶たものであろう︒︵縁李五出没於族人之家︑往往多有主之者︑若問族長︑必有出而証︑其実大 藁饒躁過房応坤︑族多不平︑乗機抵幟欄糊本︑令得以膀︶. と︑養子縁組についての不満がこのような事態をひきおこしたのだとしている︒かような次第であるから︑これらの 紛争を裁判しなければならない官司としては︑. 死者の祭祀を存続し︑絶えた家を継がせることは︑法が明確に定めているだけではない︒死者と同宗の兄弟子 ︵39︶. 姪たる者︑みな天倫を心得て︑少しでもそこから利益を得ようなどと思ってはならない︒︵存亡継絶︑非特三尺 昭然︑為宗族兄弟子姪者︑皆当以天倫為念︑不可有二毫利心行乎其間︶ という警告を発せざるをえなかったわけである︒. しかも︑これとは逆に︑死者の遺産が僅少であったり皆無であったりすると︑. 一一. 王平︵死者︶の許には耕すべき田地も住むべき家屋もなかったのであるから︑誰もわざわざ立嗣されようとは 宋代における養子法︵上︶.

(12) 早法六四巻一号︵一九八八︶. 一二. 思うまい︒まして族人には立嗣を争おうという者もいないのであるから︑王方︵王平の兄︶がこの件は自ら処理. すべきであって︑適当な者がいれば立嗣すればいいし︑いなければ仕方がないのであきらめればよい︒官府を煩 ︵40︶. す必要はないのである︒︵王平既無田可耕︑無屋可居︑誰肯願為立嗣︑況族人又無争立嗣者︑王方可自区処︑有 人則立︑無人則已︑何必携動官府︶. というように承継老があらわれて来ないという事態が生じてくる︒また︑立嗣されるべぎ死者の一方が富裕で他方が. 貧困であったりすると︑富裕な方については立嗣争いがおこるが︑貧困な方は顧みられなかったり︑押しつけあいに なったりする︒. 擦氏一族には四つの房があり︑その第三房の軽院には二子があった︒長男は陵伽といい︑牌をもうけた︒次男. は汝励といい︑杷をもうけた︒梓と杷はともに死亡し︑それぞれ女の贅婿はあったが実子はなく︑命継も行われ. なかった︒楊夢登と李必勝は梓の婿であり︑趙必泄は杞の婿である︒⁝⁝今薄氏︵梓の生母︶は﹁二人の孫婿に. 老後を託したく︑杞と梓には後嗣を立てるつもりはございません﹂と言っているが︑婦人や女子に理法が解る筈. もない︒⁝⁝命継の一件は︑酪院の血統を存続させ︑薬氏の間でいがみあう争いを絶つように処理しなければな. らない︒尊長の察械らはみな一致して第二房の楷の子樺を杷の後嗣にするように主張しているが︑これが極めて. 妥当である︒第四房の榛が自分の子紹を立てようと争っているが︑これには全く道理のないことはすでに王主簿. の判決原案が明かにしている︒しかしこの判決原案の処置ではまだ不充分である︒杷のために立嗣するからに. は︑梓を後嗣のないままにしておくわけにはいかない︒梓には婿が二人いるので持分が少くなり︑杷には婿が一.

(13) 人なので持分が多くなる︒それゆえみな杷の後嗣となることを願い︑梓の後嗣にはなろうとしないのである︒察. 氏で描いてきた系図によると︑四房のうち︑楷には男子が三人︑榛にも男子が三人いて︑出継することがでぎ. る︒県に通達して︑楷の子樺と榛の子紹に県庭でくじを引かせ︑一人を梓の子︑もう一人を杷の子に命立させる. こととしたい︒養子を立てたあと︑梓と杞の家産田地山林は︑本県に官に委ねて︵両者とりまぜたあと︶公正に. 均分させるように請う︒そうすれば天によって裁かれたのだから︑貧富不公平だという不平もなくなるであろう︒. ︵均分された財産は更に︶半分を立てられた養子に︑半分を贅婿に与えることとする︒女は実の女なのである. し︑婿も長年賛婿として暮してきたのであるから︑法令を適用して均分すべきである︒︵察氏有四大位︑第三酪. 院位二子︑長日汝加︑生梓︑幼日汝励︑生杷︑梓杷倶亡︑各有女贅婿而無子︑不曽命継︑揚夢登李必勝梓之婿. 也︑趙必泄杷之婿也︑⁝⁝今萢氏乃日︑只欲依二孫婿以養老身︑不願為杷梓立後︑婦人女子︑安識理法︑⁝⁝命. 継一事︑所合区処︑以綿一位嗣続之脈︑以絶諸位眺睨之争︑尊長薬械等合詞推択︑以第一位階之子樺為陀後︑極. 為允当︑而第四位榛者︑乃欲以己子紹争立︑全無道理︑已見干王主簿所擬︑然亦有区処未尽者︑既為杷立嗣︑又. 量可使睡無後︑牌位二婿︑事力稽分︑陀位一婿︑生理稽足︑故又皆願為陀之後︑而不為睡之後也︑以療氏所画宗. 枝図観之︑四位中惟階有三子︑陳亦有三子︑可以出継︑今欲帖県︑将階之子障藤之子紹当官拮闇︑以一為睡之. 子︑以一為杷之子命立︑既立︑所有両分家業田地山林︑伽請本県委官従公均分︑庶幾断之以天︑而無貧富不公之 ︵41︶ 嫌︑合以一半与所立之子︑以一半与所贅之婿︑女乃其所親出︑婿又贅居年深︑稽之条令︑皆合均分︶. 一三. 葉秀発は子がなくて死んだ︒本県は経書と法にもとづいて︑孫と呉とはともに異姓であるから立嗣できず︑同 宋代における養子法︵上︶.

(14) 早法六四巻一号︵一九八八︶. 一四. 宗昭穆相当の者から嗣子を求めなければならないとしたが︑これは筋道が通っている︒もし昭穆相当を論ずれ. ば︑容之も詠之もともに秀発の堂弟であるから︑容之の子慧孫も詠之の子寄孫もともに立嗣しうる︒ところが今. 二人とも我が子を秀発の後嗣に立てようと争い︑容之は﹁慧孫を立てて三年経ちました﹂と主張し︑詠之も﹁寄. 孫を立てて三年経ちました﹂と主張している︒ところで彼らの実兄の瑞之にも後嗣がないのであるが︑容之は. ﹁寄孫はもう瑞之の子に立てられました﹂と主張し︑詠之も﹁慧孫はもう瑞之の子に立てられました﹂と主張し. ている︒両者の主張は喰い違い︑ともに我が子を秀発の後嗣にして瑞之の後嗣にはしないように争っている︒. −⁝これは秀発の家産が富裕であるのに︑瑞之の家はおちぶれてしまっているからであろう︒容之と詠之は利益. を求めて兄弟喧嘩をしてはばからず︑官に訴訟をおこして恥じず︑ついには彼らの母を偏愛と誹るに至った︒. ⁝容之と詠之を召喚し︑役所で慧孫と寄孫の二名に香を焚いてくじを引かせ︑天に裁ぎを委ねて︑一人を瑞之. の嗣子︑一人を秀発の嗣子とするように︒そうすれば人の謀りごとは自ら消滅し︑天理が自ら明らかになり︑死. 者の祭祀を存して絶えた家を継がせ︑老人を安らかにして幼児を慈むことになり︑生者も死者もみな恨みを抱く. ことはなくなるであろう︒︵葉秀発無子︑本県援経拠法謂︑孫与呉皆異姓不応立︑只当於同宗昭穆相当者求之︑. 可謂名正言順︑若論昭穆相当︑則容之詠之皆秀発堂弟︑而容之子慧孫詠之子寄孫皆可立也︑今乃各以其子争欲立. 為秀発後︑容之謂巳立慧孫三年︑詠之亦謂已立寄孫三年︑但其親兄瑞之亦無後︑容之謂寄孫係已立為瑞之之子︑. 詠之亦謂慧孫係已立為瑞之之子︑二説交馳︑争欲以其子為秀発後︑而不願為瑞之後︑⁝⁝蓋秀発生理頗裕︑瑞之. 家道侵微︑溶に歴絢利忘義︑遂閲干踏而不顧︑訟干官而不趾︑甚至謳其母以偏受椴甦︑⁝⁝欲喚上溶に詠に︑.

(15) ︵42︶. 当庁以慧寄二名焚香拮團︑断之以天︑以一人為瑞之嗣︑以一人為秀発嗣︑庶幾人謀自息︑天理自明︑存亡継絶︑ 安老懐少︑生死皆可無憾︶. このような場合︑官司は不公平であるとの不満を解消し︑後日の紛争を回避するため︑二房の財産を合算してから均. 分したり︑香を焚いてくじ引ぎを行わせたりして︑公平さに腐心しなければならなかったのである︒. このように︑養子縁組は往往にして族内の紛争をまねぎがちであったから︑後嗣のない死者のために敢えて立嗣を 行わず︑次の判語のように︑兄弟が順番に祭祀を担当するという方便もとられている︒. 萢通一は四子をもうけた︒長男は煕甫︑次男は子敬︹すなわち監税︺︑三男は遇︹すなわち達甫︺︑四男は述. ︹すなわち善甫︺という︒煕甫は妻を嬰り︑子ももうけたが︑まもなく夫妻も子もみな死亡してしまった︒理に. 従えば︑当然煕甫のために立継を行うべぎところである︒⁝⁝煕甫の死亡時にはその父母ともに存命していた. が︑どちらも立継の意思はなかった︒それはその子を愛していなかったからではなく︑﹁わずかな財産ではある. が︑現存する三子に分与すれば三子の財力は均しくなるが︑もし︵三子の子のうちから︶孫一人を煕甫の後嗣に. 立てれば︑三房のうち一房だけが︵通一の︶家産の半分を取得し︑残る半分を二房で分けあうことになるから︑. 三子の間に財産の厚薄の差ができてしまう﹂と思ってのことであったろう︒これが通一の本意であったから︑. ︵立継は行わず︶むしろ家産は三子に均分することにし︑煕甫が︵妻の持参財産で︶自ら購入した田地を蒸嘗田 い. ︵収入を祭祀の費用に充てる田︶として三房に一年交替に管理させ︑煕甫の祭祀を執り行わせることにしたので お. 一五. ある︒三房の子たちはみな煕甫の猶子にあたるから︑こうすれば立嗣を行わなくても祭祀は絶えないのである︒ 宋代における養子法︵上︶.

(16) 早法六四巻一 号 ︵ 一 九 八 八 ︶. 一六. ⁝煕甫が死亡してから十五年︑春秋の祭祀は欠かすことなく行われてきた︒これは萢煕甫十五公の黙嘗田があ. ったからである︒萢通一の三子が︑父の命に従って毎年交替に季節の祭祀を行ってぎたから︑萢氏の鬼も酸える. ことはなかったのである︒︵萢通一有子四人︑長日煕甫︑次二日子敬︹即監税︺︑次三日遇︹即達甫︺︑次四日述. ︹即善甫︺︑煕甫已婆妻生子︑未幾︑夫妻与子倶亡︑以理言之︑当為立継︑⁝⁝当煕甫死時︑其父母倶存︑皆無立. 継之意︑非不愛其子也︑蓋謂︑叢爾田業︑分与見存三子︑則其力均︑立一孫為煕甫後︑則一房独分之業已割其半. 戻︑割其一半使二子分受之︑則三子中立有厚薄之分︑此通一之本意也︑故寧均与三子︑而以煕甫私置之田為悉嘗. 田︑使三房輪収︑以奉其祭祀︑三房之子皆其猶子︑錐不立嗣︑而祭祀不絶奥︑⁝⁝煕甫死已一十五年︑而春秋祭. ︵超︶ 祀無歓者︑以所立萢煕甫十五公厭朝本丞ハ嘗田在故也︑為三子者︑遵父之命︑輪年時祀︑則随氏之鬼不鞍臭︶. 一二頁︶︒. 要更るに︑養子の目的はまず第一に祭祀の継続にあったのであるが︑実際にそれに関わった者にしてみれば︑家産. ﹃春秋左氏伝﹄宣公四年︒. 仁井田﹃法史﹄七七三ー四頁︒. の承継の方がより大きな関心事であったことは間違いないのである︒. ︵13︶. ヤ. 滋賀﹃原理﹄コ三頁︒. ︵14︶. ヤ. ︵15︶. ヤ. ﹁要するに養子は︑たとえば家のためなどではなくして︑ 人のためのものであった﹂︵滋賀﹃原理﹄. 仁井田﹃法史﹄七七四頁︑滋賀﹃原理﹄二三頁︒ ヤ. ︵17︶. 滋賀﹃原理﹄三六六頁註︵86︶︒. ﹃論語﹄尭日第二〇︒. ︵16︶. ︵19︶. ︵18︶.

(17) ︵班︶ただし︑﹃清明集﹄巻九︑戸婚門︑取願﹁孤女瞭父田﹂に﹁愈梁死干紹定二年︑ 並無子孫︑僅有女禽百六娘︑贅陳応龍為夫︑. ︵20︶これらの用語の意義については︑滋賀﹃原理﹄一一五−二四︑三二一貢参照︒. ﹃清明集﹄巻八︑戸婚門︑立継﹁叔教其捜不願立嗣意在呑併﹂︒. 子孫︑仰以続祭祀者惟愈百六娘而已﹂とあるのは注目に値しよう︒ ︵22︶. このほか︑﹃清明集﹄巻七︑戸婚門︑立継﹁探繭立嗣﹂に﹁命継一事︑所合区処︑以綿一位嗣続之脈﹂とあるのも参考になる︒. ﹃清明集﹄巻 八 ︑ 戸 婚 門 ︑ 立 継 ﹁ 父 子 倶 亡 立 孫 為 後 ﹂ ︒. :愈梁既別無. ﹃衰氏世範﹄巻一︑睦親﹁養子長幼異宜﹂︒. ︵23︶. ︵25︶. ︵24︶. 史料には明確なかたちではあらわれないが︑家内労働力の確保という目的も明かに存在していたであろう︒そしてそれは嗣子としての養子よ 義子としての養子により多く求められたに違いない︒仁井田﹃法史﹄七七四ー五頁参照︒. ︵26︶. ﹃清明集﹄巻八︑戸婚門︑立継﹁治命不可動揺﹂︒. 結局︑祭祀承継と家産承継は同一物の両側面のように︑不可分の存在なのである︒滋賀﹃原理﹄一一七−二〇頁参照︒. ︵東方学会編﹃東方学会創立二十五周年記念東方学論集﹄東方学会︑一九七二年一二. ﹁種﹂は土地の面積の単位︒愛宕松男氏は︑南宋福建地方に特有の狭小な面積単位で︑明代の﹁弓﹂と同一のものと推定している︵愛宕松男. 二一五頁註㈱︶︒. ﹃清明集﹄巻五︑戸婚門︑争業﹁従兄盗売已死弟田業﹂︒. ﹃清明集﹄巻八︑戸婚門︑立継﹁艘訟其叔用意立継奪業﹂︒. ︵滋賀﹃原理﹄二〇二頁註︵a︶︶︒. ﹁把﹂は﹁水田を測る面積の単位であって種子もみ手のひらに一杯をまくだけ︑または早苗一たぽを植えるだけの広さを意味するものらしく. ﹃清明集﹄巻四︑戸婚門︑争業﹁熊邦兄弟与阿甘互争財産﹂︒ ﹃勉斎集﹄巻三九翻曄鱗﹁陳如椿論房弟婦不応立異姓子為嗣﹂︒. 而諸位子弟群然将夢登等行打﹂︵﹃清明集﹄巻七︑戸婚門︑立継﹁探圏立嗣﹂︶︒. ﹁察氏立嗣︑研木之訴︑雛日二事︑実則相因︑只縁立嗣未定︑遂致研木有争︑⁝⁝近因夢登奉其妻父生母萢氏之命︑就本位山内研伐柴木︑於. 一七. ﹁陳鉄之妻傅氏命同宗三歳之姪以為之嗣︑経官除附︑初不違法︑初不擬理︑陳鑑乃垂涯資財︑見利忘義︑欲以己子擁継︑陳鑑無端興詞︑横擾 宋代における養子法︵上︶.

(18) 早法六四巻一号︵一九八八︶. 一八. 寡婦︑自県而州︑自州而監司︑自監司而省部︑漠渡二十籐年︑詞訟始絶﹂︵﹃清明集﹄巻一三︑懲悪門︑妄訴﹁挟讐妄訴斯凌孤寡﹂︶のように︑県か. この不動産の回復を求めて訴訟をおこしているうちに死亡してしまっている︒. ら中央まで︑二十余年にわたった事例がある︒しかもこの例では立継の訴が不首尾に終わった陳鑑がその後傅氏の不動産を実力で侵奪し︑傅氏は. ︵37︶﹃清明集﹄巻八︑戸婚門︑別宅子﹁無証拠﹂︒. 病が原因で自総したのを︑自殺させられたのであるとして誕告した謳告者の一人王子才︵陵氏の姪︶について︑その動機を︑﹁王子才簸得樹撒鮒因. ︵38︶﹃清明集﹄巻一三︑懲悪門︑告紆﹁自撰大辟之獄﹂︑﹃後村集﹄巻一九三﹁饒州司理院申張惜児自経身死事﹂では︑姜氏の下女張借児が精神. 立跡む紳欲覆叔母之出黍⁝:白撰期轍鮒大辞之獄﹂としている︒ 9 ︵ 3︶﹃清明集﹄巻七︑戸婚門︑立継﹁不可以一人而為両家之後別行選立﹂︒. ︵40︶﹃清明集﹄巻=二︑懲悪門︑誕頼﹁提挙司判﹂︒この事件は﹁仮為弟命継為詞欲謳頼其堂弟財物﹂﹁又判﹂﹁提挙司判﹂﹁王方再経提刑司釘銅押. 平への立嗣を求めたもの︒. 下県﹂の四判からなり︑貧困な実弟匡陥の︑生前は面倒も見なかった圧防が︑死後︑堂弟王子才が匡呼の財産を横取りしたと謎告し︑あわせて. 第一章で述べたように︑養子は本来祭祀承継を目的としていたのであるが︑現実には家産の承継という面も無視で. 第二章同宗養子. 祐五年為始︑租課長房先収︑以後輪流掌管︑周而復始﹂とあらわれている︒. 牒洪郎中請︑提幹兄弟四人︑将贈埜田業開具田段坐落畝歩産銭︑専置一簿︑開載契簿︑長位拘収︑別立購螢関約︑並経印押︑毎位各収一本︑自淳. 尚有為義庄者︑今贈螢国土乃祖先瓶置︑弟兄皆有分者︑若恐諸弟不能保守︑則経官立約︑花利輪収︑祭享之飴︑以助伏縢︑通天下之成法也︑・. として紛争が発生している︒なお︑祭祀財産の兄弟による輪流管理は﹃後村集﹄巻一九二﹁持服張輻状訴弟張載張轄妄訴購埜産業事﹂にも﹁前輩. ︵43︶﹃清明集﹄巻八︑戸婚門︑立継﹁艘訟其叔用意立継奪業﹂︒もっともこの判語では︑結局次男子敬の死後︑三男遇が自分の子廉を立嗣しよう. ︵姐︶﹃清明集﹄巻七︑戸婚門︑立継﹁兄弟一貧一富拮國立嗣﹂︒. ︵41︶﹃清明集﹄巻七︑戸婚門︑立継﹁探醐立嗣﹂︒. 王.

(19) ︵44︶. きないものであった︒これら﹁承継﹂に与る︑本来の意味での養子を本稿では﹁嗣子としての養子﹂と呼ぶ︒ところ. が現実には嗣子とすることを目的としない養子も数多く存在していた︒これは棄児や後妻の連れ子を成人するまで養. 育するようなもので︑いわば一時的な︑仮の養親子関係であり︑本来﹁承継﹂には与りえないものであった︒このよ うな養子を本稿では﹁義子としての養子﹂と呼ぶこととする︒. ところで︑嗣子としての養子は︑祭祀承継という目的から︑養親と姓を異にしてはならないのみならず︑﹁同宗﹂. すなわち父系の血統を同じくする者でなければならなかった︒ここに︑養子を考察するにあたって︑﹁同宗﹂と︑﹁異. 宗同姓﹂も含めた意味での﹁異姓﹂とを区別する必要が生じてくる︒本来同宗養子が嗣子としての養子︑異姓養子が ︵45︶. 義子としての養子︑と載然と区別されている筈であるが︑しかし現実には異姓の嗣子としての養子が数多くあらわれ て来るからである︒. 本章では同宗養子を養子の原則的存在として︑養子の一般的な成立︑効果︑終了とともに論じ︑異姓養子について は章を改めて論ず る こ と と す る ︒. ︵必︶仁井田﹃法史﹄七七九頁︑滋賀﹃原理﹄五七六−八頁︒. ︵45︶なお︑同宗の義子としての養子も理論的には考えられるわけであるが︑これについては﹁これは親生男子なければやがて嗣子となり︑親生男. 一九. の義子というものは︑理論上は可能であっても︑実際上は殆んど問題とならない﹂︵滋賀﹃原理﹄五七九頁︶との滋賀氏の指摘に従って支障ない. 子あれば異姓単純養子と同じ地位に止るであらう︒いづれにしても特にその性質を考察する必要がない﹂︵滋賀﹃法論﹄一〇一頁註︵4︶︶︑﹁同宗. と思われる︒. 宋代における養子法︵上︶.

(20) 1. 早法六四巻一号︵一九八八︶. 要件. 第国節 成立. 一. 男子がないこと. 養親たる要件 ①. 二〇. 唐代の戸令に ︵妨︶ 子がなければ︑同宗で昭穆相当の者を養子とすることを聴す︒︵諸無子者︑聴養同宗於昭穆相当者︶ ︵嬰︶ と規定されているように︑養親となるべき者はまず第一に︑男子がない者でなければならなかった︒. この唐令の規定は宋代にも受け継がれ︑北宋天聖令には ︵銘︶ 子がなければ︑同宗の子で昭穆の合する者を養子とすることを聴す︒︵無子者︑聴養同宗之子昭穆合者︶. 嫡子︵正妻の. との規定が置かれ︑南宋の判語には ︵49︶ 子孫がなければ︑同宗で昭穆相当の者を養子孫とすることを聴す︒︵諸無子孫︑聴養同宗昭穆相当者為子孫︶ という令文が引用されている︒. 養子が実子がないとぎの祭祀の継続の確保のための制度である以上︑正当な承継者である男子. 子︶庶子︵妾の子︶を問わず︑また実子養子を問わないーがすでに存在しているのに︑わざわざ更に養子を取るこ. とは必要性を逸脱した行為であったわけである︒すでに男子が存在しているのに改めて養子を取れば︑家産分割に男.

(21) ︵50︶. 子均分という原則を取る以上︑家産はますます細分化され︑農業経営も小規模化して困難の度を増していくことにな るから︑不必要な養子は国家政策的見地からも否定されるべきものであったのである︒. 方森には実の兄弟がいないのだから家産分割文書など作るはずがない︒妻阿黄との間にでぎた実子方治がいる ︵51︶ のだから命継を行うことはない︒︵方森既無親兄弟︑安有支書︑既有妻阿黄親生子方治︑安用命継︶. 死者には子も女もあったのである︒四世の再従兄弟がその子をならび立てようとするなどという道理があろう ︵52︶ か︒︵死者有児有女︑山豆有四世再従兄弟欲以其子双立之理︶ ︵53︶ ただ︑養子だけしか存在しないときには二人目の養子を取ることが許容された事例もあるし︑それが異姓養子であ ︵54︶ る場合には官司の側から﹁双立﹂を勧めた判語もある︒更に︑. 萢僧は今︑淳煕三年︵一一七六年︶の契約書を根拠として争い︑﹁︵係争中の︶山地には養母阿黄と兄誠之の墓 ︵55︶ 所があります﹂と主張している︒︵萢僧今以淳煕三年之契争理謂︑由内有所養母阿黄及兄誠之両墓︶. という記事は︑すでに実子︵兄誠之︶があるのに養子︵僧︶を取っていたことをうかがわせる︒貧困︑災害︑戦乱な. どのために子供の死亡率が高かったであろう旧中国においては︑子はやはり多ければ多いほどよいというのも親たる. 一二. 者の真情だったのではなかろうか︒実子があっても経済的に余裕があればあえて養子を取ろうとしていたであろうこ. 養親の年齢. とは想像に難くない︒. ②. 宋代における 養 子 法 ︵ 上 ︶.

(22) 早法六四巻一号︵一九八八︶. 二二. 養親となりうる年齢が問題となるのは主として未成年死亡者のための死後養子の場合であるが︑生前養子の場合に も︑いつの時点で﹁無子﹂であればよいのか︑という点が問題となる︒. 戴炎輝氏は﹁其尋常天亡未婚之人︑不得概為立後﹂という清例の規定を引いて﹁死者に対してさへも二十歳以上に ︵56︶. あらざれば養子を立てることが出来ない︒⁝⁝生者は将来に於て子を得る見込ある故︑二十歳以下なる場合は養子を. 為すことを許す必要がないから死者同様に考へなければならない﹂として︑生前死後を問わず未成年者は養親たりえ. ないとしている︒宋代にはこの件についての立法例は見出せないが︑判語を見る限り︑生前養子では単に成年者であ. ることのみが要件というわけではなく︑逆に死後養子では未成年死亡者でも養親たりうる場合があったようである︒ まず生前養子の場合︑成年であることを直接に要件とした事例は見出せないが︑. 方森は庚申年︵慶元六年︑一二〇〇年︶の生まれで︑二十歳で阿黄を嬰った︒阿黄は甲子年︵嘉泰四年︑一二. 〇四年︶の生まれで︑十六歳で方森に嫁いだ︒阿黄は癸未年︵嘉泰一六年︑一二二三年︶内に一女を生んだ︒名. は柳姑といい︑五歳で父を喪った︒現在十五歳である︒阿黄は乙酉年︵宝慶元年︑一二二五年︶内に一男を生ん. だ︒名は拾といい︑三歳で父を喪った︒現在十三歳である︒方亀は﹁︵自分は︶方森が伯の方凱から養子に取っ わたくし. た者です︒八歳になったばかりの丁丑年︵嘉定一〇年︑一二一七年︶五月に父方森とともに書坊鎮に行って小さ. な質屋を営みました︒己卯年︵嘉定二一年︑一二一九年︶正月に亀の父は妻阿黄を嬰りました﹂と供述して. いる︒︵養子を取ったのが︶丁丑年だとしても︑方森は十八歳になったばかりで方亀を養子にしたことになる︒. 大体︑子がなくて立嗣を行うのは︑老人になってしまったのでなければ︑重病に罹ってしまったというような︑.

(23) やむをえない場合なのであって︑十八歳になったばかりで何の理由もなく︑他人の八歳の男を養子にすることな. どありえないことである︒⁝⁝方森の存命中︑方亀は彼とともに書埼鎮で商いをしたことを思い出し︑今彼の遺. した財産を見て欲を出し︑養子にされたという主張をでっちあげたのである︒︵方森係庚申生︑年二十而嬰阿黄︑. 其阿黄係甲子生︑年十六而嫁方森︑阿黄於癸未年内親生一女︑名柳姑︑五歳喪父︑見年一十五︑阿黄於乙酉年内. 親生一男︑名治︑三歳喪父︑見年一十三︑所謂方亀者︑拠其供称︑係是方森就伯方凱抱養為子︑年方八歳︑於丁. 丑年五月随父方森同到書坊開小典買売︑己卯年正月亀父続嬰阿黄︑以丁丑考之︑方森年始十八而已︑抱養方亀為. 子︑大抵無子立嗣︑初非獲已︑不是年老︑便是病篤︑豊有年始十八︑無故抱養他人八歳男為子之理︑・−⁝方森在 ︵57︶ 日︑方亀想随其在書坊買売営運︑今見其死後有遺下物業︑遂啓貧図之心︑創為抱養之説︶. という︑十八歳の未成年者が養子を取ったという主張を不合理として斥けた判語があり︑これは未成年者は生前養子. の養親たりえなかったことを示していると言えよう︒しかし︑この判語は更に立嗣の条件を﹁是れ年老にあらざれ. ば︑便ち是れ病篤﹂と限定してぎている︒これは無子の成年者ならばいつでも養子を取れたというわけではなく︑ ︵58︶ ﹁将来に於て子を得る見込ある﹂限りは一般に養親たりえなかったことも示しているのである︒. では︑﹁病篤﹂はともかく︑﹁年老﹂とはどの程度の年齢を指しているのだろうか︒仁井田氏は﹁唐律令等では妻年 ︵59︶. 五十にして嫡子なぎとぎ︑庶子を嫡に立てる規定があり︑又︑妻五十にして子なぎとぎ︑離婚原因となるが︑この年. 二三. 齢を収養の場合の無子の解釈に利用し得るかも知れない﹂とし︑妻五十歳という条件を提示する︒また︑時代は相当 ︵60︶ に遡るが︑﹃春秋公羊伝﹄には妻の月経の終了によって養子を取ったとする記述があり︑妻に子ができなくなったと 宋代における養子法︵上︶.

(24) 早法六四巻一号︵一九八八︶. 二四. き︑というのが条件のひとつであったようである︒しかし︑残念ながら宋代の判語には夫妻ともに幾歳が﹁年老﹂で ︵61︶ ︵62︶. あるかを直接明かにしてくれるものは見当らない︒ただ︑三十五歳程度で﹁不嬰而無子﹂として養子を取った事例. や︑養子収養後に実子をもうけた事例があることを見れぽ︑実際にはそれほどの高齢でなくても養子収養を行ってい たようである︒. 次に死後養子の場合には︑. 李学文は妻を婆ってから死亡した︒その祖︵陵の父︶は彼のために立嗣を行ったが︑墜は未成年の子では. ︵63︶ なかった︵ので正当な立嗣であった︶︒︵李学文既嬰而亡︑其祖又嘗為立嗣︑則非未成丁之子案︶. とあるのを見れば︑未成年死亡者に対する立嗣は行わないのが原則であったように思われる︒しかし現実にはその死 亡時の年齢によって異った対応がなされていた︒. 未成年死亡者は服制上︑死亡時の年齢によって長蕩︵十六歳以上十九歳以下︶︑中膓︵十二歳以上十五歳以下︶︑下 ︵64︶ 残︵八歳以上十一歳以下︶︑無服之蕩︵七歳以下︶︑不為蕩︵生後三月未満︶の五段階にわけられていたが︑下蕩につ いては. 下残には立嗣できないという法規定はもともと存在しない︒⁝⁝それなのにその財産を︵戸絶として︶没官し ︵65︶ てしまうとは︑道理にあわないことである︒︵下残不当立嗣︑初無此条︑⁝⁝今没入其業︑於理安乎︶ としてこれに対する立嗣をみとめる判語と︑. 朱運幹は二子をもうけた︒長男の司戸は科挙に及第したが︑次男の詰僧は十歳で死亡した︒下蕩に立嗣すると.

(25) いう道理は聞いたことがない︒朱運幹は情にほだされ︑族人に惑わされて︑朱元徳の子介翁を詰僧の後嗣に立て. たが︑すぐに後悔して県に訴訟をおこしてこれを離縁した︒それから何年も経っている︒最近朱運幹が死亡する. と︑その遺骸も冷えないうちに元徳が訴訟をおこしてもう一度その子介翁を︵運幹の︶孫に立てようとした︒:. 朱司戸に命ずる︒亡父の遺思に遵って介翁を斥けるように努め︑薄情な族人に惑わされてはならない︒︵朱運幹. 有両子︑長同戸登科炉襯後︑次詰僧十歳幼亡︑未聞有為下蕩立嗣之理︑朱運幹情之所鍾︑為族人鼓惑︑遂立朱元徳. 子介翁為詰僧之後︑随即追悔︑経県投詞︑遣已多年奥︑近朱運幹身故︑肉未及寒而元徳訟端随起︑且復欲以其子 ︵66︶ 介翁為孫︑⁝⁝仰朱司戸︑遵故父之命︑力斥介翁︑母為薄族所揺︶. としてこれを斥ける判語の二通りの対応が見られる︒しかし後者が﹁理﹂を根拠として下蕩立嗣を斥けるのに対し︑. 前者はこれを﹁初めより此の条なし﹂︑禁止規定はないとしてみとめるのであるから︑少くとも下瘍立嗣を禁ずる法. 文は存在していなかったことになる︒とすれば長蕩および中蕩に対する立嗣を禁ずる法文も存在してはいなかったで あろうから︑﹁法﹂としては下傷以上への立嗣は許容していたと解するべきであろう︒. 一方︑無服之残および不為瘍の夫亡子の場合には立嗣はみとめられていなかったようである︒. 三歳で天亡した子に︑法に違い順序を越えて立嗣を行えば︑これについて争う訴訟をやめさせることはできな ︵67︶ い︒︵夫以三歳幼亡子︑違法越次与之立嗣︑安能弼争者之詞︶. 二五. と︑判語は三歳天亡の子への立嗣を﹁違法﹂と決めつけているのであるから︑これについては何らかの立法がなされ ていたことが推測される︒しかし︑結局は 宋代における養子法︵上︶.

(26) 早法六四巻一号︵一九八入︶. 二六. そもそも曽氏にとって呉鎮は実の子なのである︒我が子が早死にしたのに︑それを後嗣のないままにしておく ︵68︶ ような母親がある筈がない︒︵縁曽氏之於呉鎮︑乃其親生之子也︑豊有其子早世︑母氏忍使之無継者︶. というように︑早逝した子に対して立嗣を行うのは親としての当然の人情であるとした判語も残されているから︑未. 養親と同宗であること. 養子たる要件. 成年死亡者に対する立嗣は現実には相当程度行われていたと見てよいであろう︒. 2 ①. ︵70︶. 前掲の令文に見られるように︑養子はまず第一に養親と同宗︑すなわち父方の祖先を同じくする血族集団に属する ︵69︶ 者でなけれぱならなかった︒これは︑同宗者でなければその祭祀を執り行いえないとされるからである︒この項につ いては次章で詳説する軌. ② 養親と昭穆相当であること. これも前掲の令文に見られるように︑養子は養親と﹁昭穆相当﹂の関係になければならなかった︒もし﹁昭穆不相 ︵71︶ 当﹂の養子縁組がなされれば︑違令罪ということで答五十の刑罰が科され︑縁組は無効とされて戸籍上の記載は﹁改 ︵72︶ 正﹂されることとされていた︒. 昭穆とは︑祖先の宗廟を祀るとぎに︑﹁太祖若しくは始祖は永久に太祖始祖であつて︑其の廟は遷らざるものであ.

(27) る︒故に之を不遷の廟と云ふ︒太祖の次の代を昭と為し︑太祖の次の次の代を穆と為す︒之より以後︑四代を昭と為 ︵73︶. し︑五代を穆と為し︑六代を昭と為し︑七代を穆と為し︑永久に交互に代り行くものである﹂ということであり︑. ﹁昭と穆とは一代毎に定まるものであつて︑一度昭となつたものは永遠に昭であり︑一度穆となつたものは︑永遠に. 穆となるのである︒昭が穆となり︑穆が昭となる事は断じて有り得ない︒又昭穆が一代交互に定まる関係で︑父と子 ︵処︶ とは常に昭穆を異にし︑祖と孫とは常に昭穆を同じくする﹂から︑養父と養子も昭穆を異にしなければならなかった ︵75︶. のである︒この昭穆の序が守られた状態が﹁昭穆相当﹂であり︑具体的には養子は養父から見て子と同一の排行にあ. る者ー姪︑堂姪︑再従姪︑三従姪︑⁝⁝ーでなければならなかったのである︒. 王学正思中は江氏を要って妻としたが子ができなかったので︑弟学録の次男作霧を養子とした︒作霧は二度妻. を婆ったが︑ともに子ができなかった︒そこで王思中夫妻は姪の宗二秀の次男を作霧の養子に立てた︒名は華老. といい︑昭穆相当である︒王永錫は華老の叔父であるが︑彼の書いた系図にも彼の供述書にも異議は述べられて. いない︒鷹は嘩彪の祖母であるが︑彼女も異議を唱えていない︒祖父と父とが養子とし︑尊長が嗣子となるこ. とを命じ︑祖母が支持しているのであるから︑華老が作霧の嗣子であることは山岳のように安定しており︑誰に. も動揺させることはできないのである︒︵王学正思中婆鷹為妻無子︑立弟障腺次男為子︑名昨縣︑婆両妻倶無. 子︑王思中夫妻又為立姪宗二秀次男為子︑名華老︑可謂昭穆相当奥︑王永錫於華老為叔父︑所画宗枝及所供状並 ︵%︶. 二七. 無異辞︑江氏於華老為祖母︑亦無他説︑祖父父養之︑尊長命之︑祖母主之︑華老之得為作霧嗣︑安如山嶽︑誰得 而動揺之哉︶ 宋代における養子法︵上︶.

(28) 早法六四巻一号︵一九八八︶. いとこ. 二八. 除子恭は嗣子なくして死亡した︒堂兄徐子仁が次男を子恭の嗣子にしようというのは義挙である︒⁝⁝徐子仁. がその子椎孫に兄︵?︶徐子恭の後をつがせることは︑昭穆は順であり︑法に障磯はない︒⁝⁝椎孫に賑の後 ︵77︶. 嗣となることを聴す︒︵除子恭死無嗣︑堂兄除子仁以次子為之嗣︑義也︑⁝⁝除子仁以其子准孫継兄除子恭後︑. 昭穆為順︑於条無凝︑⁝⁝聴椎孫為感後︶. 恵孫が帰宗してしまった以上︑本宗内から一人昭穆相当者を選んで王恰の祭祀を承継させるだけのことであ. る︒この道理は甚だ明白である︒⁝⁝王家の族長王聖泰らを召喚して取調べたところ︑王広柄の次男淵海だけが. ちょうど三歳で王恰を叔と呼ぶ排行にあり︑このほかには王恰を継ぎうる者はいないということである︒︵恵孫. いとこ. 既已帰宗︑只得就本宗内選一昭穆相当人継承王恰香火︑其理甚明白︑⁝⁝喚到王家族長王聖泰等契勘︑只有王広 ︵78︶ 繭次子淵晦方三歳︑喚圧胎係是叔行︑此外別無可継之人︶. 今王方は県に﹁堂弟の王子才が実弟の王平が遺した財産を搬び去ってしまいました﹂と訴え︑王平のために命. 継するよう求めている︒⁝⁝王方の訴えを繰り返し調べ︑真心を以って判断すれば︑これは弟のために命継する. という美名をかりて︑王子才の財産をだまし取ろうとの策を弄しているにすぎず︑他には何の目的もないのであ. る︒命継の件については王方は﹁昭穆相当ということでは︑王子才の次男を立嗣できます﹂と言っているが︑こ. れは下心を覆い隠そうとしているのである︒この主張は合法であるから争う余地はないが︑しかし王平には財産. がないのであるから︑事は少々処理し難い︒しかし王平を祀られないままにしておくわけにはいかないから︑命. 継の当否は王氏の房長たちが相談のうえ︑最も適当な者を嗣子に択び立てるのに従い︑そのうえで官司がこれを.

(29) 処理することとしよう︒︵今拠王方経県論︑堂弟王子才搬伝親弟王平身後財物︑乞与命継事︑⁝⁝反覆王方之. 詞︑律之諒心之法︑不過欲仮為弟命継之美名︑以施其牢籠騙取之術耳︑外此何意︑至干命継一節︑王方所陳︑以. 昭穆相当而論︑則有王子才之次子可立︑此尤足寓有心干無心者︑果是合法︑又復何争︑但王平既無財本︑命継之 ︵79︶ 説尚難区処︑然王平亦不可使為不祀之鬼︑命継之当否︑明当従王宅房長中従長商議択立︑却聴官司施行︶. 人家の立継は元来祖父母父母の治命︵正常な精神状態での遺言︶にもとづぎ︑昭穆相当で法意と抵触すること. がなければ︑官司であっても少しも干渉することはないのである︒︵人家立継︑固有出於祖父母父母之治命︑而 ︵80︶ 昭穆相当︑法意無擬︑錐官司亦不容加毫末其間︶. 以上の判語が示すように︑養子としてまず考えられるのは昭穆相当者であり︑昭穆相当者であればその養子として の地位はきわめて安定したものであった︒. これとは逆に︑昭穆不相当者︑すなわち養親の尊属︑同排者︑孫以下の排行にあたる者は︑法的には養子とはなり. えないものであった︒昭穆不相当者を立嗣し︑昭穆の序を乱すことは宗廟の秩序を乱すことであり︑祖先への祭祀を. 正しく行えなくし︑鬼を鞍えさしむるに至るからである︒従って昭穆不相当者の立嗣に対する官司の態度はかなり厳 格なものであった︒. 世光は子をもうけずに死亡したが︑未成年の二女がある︒通仕は丞公︵世光の養父︶の実弟なのであるから︑. ⁝公正な心で世光のために立嗣を行うべきであった︒しかし孤児をあわれむ義挙は行われず︑財産を分捕ろう. 二九. という思いにばかりとらわれて︑何をさしおいても我が子世徳を世光の後嗣にしようと︑世光の遺言二通をでっ 宋代における養子法︵上︶.

(30) 早法六四巻一 号 ︵ 一 九 八 八 ︶. 三〇. ちあげてその根拠としている︒世俗には弟を養子とすることももとより存在するが︑それは宗族内に異議を唱え. る者がないときに︑はじめて認められることである︒しかし今訴訟は何年にもわたっている︒もし早々に悔悟し. ないのならば︑この二通の遺言は抹消してしまうだけである︒なぜならば︑国家には弟を養子に立てるという法. 規定は存在しないからである︒もし世光が現存し︑自ら官に出頭して世徳を養子にしたいと申立てたとしても︑. 官司は別に昭穆相当の人を求めさせるだけのことである︒まして︵世光は死亡し︶族衆も支持せず︑根拠となる. のは官の検認を受けていない遺言だけとあっては尚更である︒︵障脆死無子期郁醸村︑却有二女尚幼︑樋仕者屡. 之親弟︑⁝⁝当公心為世光立嗣︑今憧孤之誼無聞︑謀産之念太切︑首以己子世聴為障暁之後︑而宝蔵難轍劉世随遺. 嘱二紙以為執手︑世俗以弟為子︑固亦有之︑必須宗族無間言而後可︑今争訟累年︑若不早知悔悟︑則此遺嘱二紙 ︵81︶. 止合付之一抹︑何者︑国家無此等条法︑使世光見存︑経官以世徳為子︑官司亦不過令別求昭穆相当之人︑況不蕎 族衆︑不経官 司 之 遺 嘱 乎 ︶. 江斉戴は子をもうけずに死亡した︒昭穆相当者を求めれば江淵の子瑞が継ぐべきなのであるが︑一族の者は. ﹁江淵はその子の一人に斉孟︵斉戴の兄︶を継がせたことがあるが︑︵その子は︶人の後となる者の責を尽すこ. とができなかったから︑︵睡は廃除して︶肛超の孫禧に斉戴を継がせたい﹂と訴えている︒今取調べたとこ. ろ︑禧は超の子であり︑孫ではない︒孫でなければ昭穆は不順であり︑有司としてはこの主張に従いたくても従. えない︒やむをえないので︑別に他派から択ぶしかない︒︵江斉戴無子︑論来昭穆相当︑則江淵之子︑名瑞者︑. 可継之︑而族党之訴則謂︑江淵嘗以子継斉孟奥︑不能尽為人後者之責︑故欲以江超之孫︑名禧者︑継斉戴︑今契.

(31) あによめ. おとうと. ︵82︶ 勘︑禧乃超之子︑非孫也︑非孫︑則昭穆不順︑有司難欲従之不可得也︑無已︑則別択他派︶. 阿陳は捜であり︑張養中は叔である︒捜は遺棄子を養孫にしようとし︑叔は我が子を兄の後嗣にしようと. している︒⁝⁝阿陳は夫張養直の死後︑三十年にわたって後家を通し︑実子願翁を養育してきたが︑願翁は二十. 四歳で死んでしまった︒そこで願翁のために立嗣しようというのである︒⁝⁝今張養中はどうしても次男の亜愛 いとこ に継がせようとしているが︑なんとまあ︑亜愛は願翁の弟ではないか︒もし弟を孫にするのであれば︑天の倫は. 千々に乱れてしまおう︒﹁昭穆相当﹂の法に照らしても︑まったく不当である︒︵阿陳艘也︑張養中叔也︑捜欲立. 遺棄子為孫︑叔欲以自己子為嗣︑⁝⁝阿陳自夫張養直身故之後︑已守志三十年︑撫養就生胤継一子顧倫︑年二十 ︵83︶. 四歳而天︑遂与願翁立嗣︑⁝⁝今張養中必欲以次子亜愛為継︑殊不知︑亜愛願翁為弟︑若以弟為孫︑則天倫素 乱︑揆之昭穆相当之条︑委為不合︶. の. の. 同宗に子の排行にあたる者がいない場合には︑養子を立てずに直接養孫を立てることが行われた︒南宋令 ︵艇︶ 諸無子孫︑聴養同宗昭穆相当者為子孫︑ にある﹁無子孫﹂﹁為子孫﹂はこれを示すものであるし︑判語にもこの条文をもとに. 法には﹁諸そ子孫無ければ︑昭穆相当の者を乞するを許す﹂とある︒⁝⁝法にも子がなくて孫を立てることを ︵85︶ 聴すということが言われているのである︒︵在法︑諸無子孫︑許乞昭穆相当︑⁝⁝況法中亦許無子立孫者聴︶. 三一. と言っているものがあり︑実際に無子立孫を行った事例も残されている︒ ひつぎ 俊達は実の子孫がなかったのだから︑以前田地を売却して三人の喪を埋葬したのは死者のために行ったことな 宋代における養子法︵上︶.

(32) 早法六四巻一号︵一九八八︶. 三二. のである︒公礼は俊達の死後養孫となったのであり︑当該田地はその祖父の葬儀のために売却されたのであるか ︵86︶. ら︑︵その返還を︶訴え出る余地はない︒︵俊達既無親的子孫︑則当来売田骨以茎三喪︑乃死者之幸也︑公礼既是. 俊達死後過房為孫︑所売田骨係為乃祖掩骸︑又何訟為︶. 彬と彦輔は兄弟であるが︑数十年前に家産を分割して別居し︑兄弟づきあいもしていなかった︒彬は兄である. が盲目で子孫がなく︑彼の死に際に彦輔はお上の威で彼を脅して無理矢理八歳の孫栄寄を彼の後嗣にさせた︒そ. の一年後︑彬が死ぬと彦輔は戸絶と検校の訴訟をおこした︒すると彬の妻阿陸はこれを不平として︑田八畝︑会. 子千絡︑家屋一棟を栄寄にわかち与えて実家に帰らせ︑自分は女百三娘とともに剃髪して尼になり︑家をこわし. て寺にしてしまった︒⁝⁝もし彦輔が本当に兄を愛し嬢を思う気持から彼の血統が絶えることを憐れんでこれを. 継続させようと自分の孫を兄の孫にしたのであれば︑もとより法にも理にも適っており︑兄弟の真情の委曲を尽. くした措置だと言えよう︒何も悪いところはない︒ところが彬が残するや戸絶の訴訟をおこすとは︑彦輔は実は. 天倫の愛にもとづいていたのではなく︑孫を利用して財産を分捕ろうとしただけなのである︒⁝⁝もし阿陸が尤. 氏の血統を絶とうと栄寄を立孫させないのなら︑それは許されない︒今は栄寄を立ててしまった以上︑彼に夫の. 後をつがせ︑田地家屋銭会をわかち与えて養育することが︑夫のためにも自分のためにも︑下策とはいえやむを. えないことなのである︒すでにわかち与えた田地家屋銭会はそのまま栄寄に与えるほか︑阿陸に全力でその夫と. 女の葬儀を行わせ︑それでも余った田地があれば︑その半分を尤彬の購墳田として栄寄に管理させ︑典売は許さ. ない︒今は仮に彦輔父子に栄寄が成人するまで預けて管理させる︒これで理にも適おう︒阿陸は尼になってしま.

(33) い︑家屋も寺になってしまった以上︑動産と残る半分の田地は彼女の意に委せて老後の費用とさせる︒︵彬与彦. 輔兄弟也︑析居各暴已数十年︑不知有手足之義久臭︑彫為兄︑警而無子孫︑彦輔干其垂亡之時︑脅以官司強以其. 八歳之孫栄寄為之後︑越一年︑彬死︑而彦輔又興戸絶検校之訟︑干是彬之妻阿陸心懐不平︑但棲田八畝会千絡屋. 一所給付栄寄︑帰本生家撫養︑乃与其女百三娘削髪為尼︑棄屋為寺︑⁝⁝使彦輔果有愛兄念艘之意︑憐其絶嗣︑. 思所以継之︑以己之孫為兄之孫︑本合理法︑又能以骨肉真情委曲区処︑夫山豆不可︑何為干彬之方褒也︑又興戸絶. 之訟︑蓋彦輔本非篤天倫之愛︑不過欲以其孫拠有其家賀耳︑−⁝使阿陸尽絶尤氏之嗣︑不立栄寄為孫︑則不可︑. 今既立栄寄︑以紹其夫之後︑又棲田畝銭屋以購之︑則所以為夫謀為身謀︑亦不得已而為此下策臭︑除已棲田畝銭. 屋与栄寄外︑欲告示阿陸︑先端力安葬其夫其女︑伽将見在田産︑再棲一半作尤彬謄墳田︑今栄寄為主︑不許典 ︵87︶. 売︑目今権責付彦輔父子︑為其孫主張︑以侯出幼︑干理亦順︑所有阿陸身既為尼︑屋既為寺︑応随身浮財及所絵 一半田産︑合従其便︑終老其身︶. ところが︑唐令および北宋天聖令には﹁孫﹂の字が入うていないことから︑﹁養孫﹂の是非について北宋期には若 おいのこ. 干の論争が行われていたようである︒元豊三年︵一〇八○年︶には︑. 元豊三年三月二日︑太常礼院が﹁国子博士孟開が姪孫の宗顔を嫡孫にしたいと乞うております︒令には﹁子無 ︵88︶. ければ︑同宗の子昭穆合する者を養ふを聴す﹂とありますが︑﹁子孫継絶して応に戸を析するべければ︑十八以 ︵89︶. 上にあらざれば析するを得ず﹂ともありますから︑孫が祖父を直接継ぐことはみとめられていることになりま. 三三. す︒また︑晋の侍中萄顎が子がなくて兄の孫を養孫にした例もあります︒開の乞うようにしていただぎたく存知 宋代における養子法︵上︶.

(34) 早法六四巻一号︵一九八八︶. 三四. ます﹂と言上︑これに従った︒︵元豊三年三月二日︑太常礼院言︑国子博士猛開乞以姪孫宗顔為嫡孫︑拠今僻悩︑ ︵90︶. 無子者︑聴養同宗之子昭穆合者︑又日︑子孫継絶応不析戸者箭当︑非十八以不得析翻罫当︑則是有孫継祖者︑又晋 侍中筍顕無子以兄之孫為孫︑請如開所乞︑従之︶. とて︑国子博士孟開への立孫にあたって︑わざわざ﹁子孫継絶﹂を文言とした令文と︑晋の筍顎の立孫の故事を典拠 としている︒また︑政和三年︵一一二二年︶には︑. 政和三年閏四月二十七目︑戸部尚書劉柄が﹁有旨王彦林が弟彦通を叔母宋氏︵の夫の父?︶の継絶孫にするこ. とを請うています︒戸部員外郎蓋洗は﹁彦通の件は元豊年間の孟開が姪孫宗顔を嫡孫に立てた例を見れば︑非常. に筋が通っている﹂と主張し︑大理寺の官もみな妥当であるとしていますが︑寺丞呉壊だけは異議を唱えていま. す︒⁝⁝孔子は﹁絶世を継げば︑天下の民心を焉に帰す﹂と言っていますが︑そもそも後嗣がなく絶えてしまっ. たからこそ継絶を行うのです︒もし祖父に子があっても妻を婆ってはじめて養孫を取れるのであり︑未婚のまま. 死んでしまっては養孫を取れないというのでは︑天下に絶えてしまう家は数え切れないでしょうし︑礼も法も誤. ったものになってしまいます︒これは蓋洗の主張が正しいのです︒⁝⁝﹁絶戸をみな継がせてしまったら︑天下. には戸絶︵による収入︶がなくなってしまう﹂との主張もありますが︑そもそも法が養子養孫を定めているのは. 天下の戸絶にょって滅んでしまう家を救うためなのです︒戸絶財産による収入はいかほどかというと︑政和元年. ︵一一一一年︶の諸路の戸絶銭はわずか一万余貫にすぎません︒もし全ての戸が後嗣を立てて戸絶がなくなれ. ば︑年に一万余絡の収入を失うとしても︑それは聖主のたのしみというものです﹂と言上︑これに従った︒︵政.

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