平山郁夫画伯の「熊野路・古道」によせて
「熊野路・古道」一一何とすばらしい絵だろう。
何と奥ゆかしい題名だろう。早稲田大学の頭脳と もいうべき新中央図書館の壁面に、私たちはもっ ともふさわしい絵を飾るととができた。新中央図 書館の建設や絵の選別にいささかかかわってきた 一人として、ま乙とによろ乙びにたえない。
私は除幕されたζの絵を見た瞬間、ふしぎな乙 とに、あの西遊記で有名な火焔山を思い出した。
火焔山はシルクロード天山南路の古都トルファン の北東40キロのととろにある。乙乙を訪れたのは 1987年の盛夏8月13日のζとだった。 6世紀から 14:世紀にかけて火焔山の麓の川岸に彫られた石窟 ベゼク リク千併洞の見学もさるζとながら、幼い 少年時代に三蔵法師や孫悟空の名とともに覚えた 火焔山を実際K自分の目で見る乙とができると思 うと、実は前日あたりから胸がときめきはじめて いたのである。
トルファンは魅惑の街だった。沙漠の下を流れ る天山山脈の雪どけ水は、 地下井戸カレーズ、にいっ たん貯留され、そ乙から網の目のように張りめぐ らされた水路を通って、 トルファンの町をゴビ沙 漠随一のオアシスに育てあげた。水路沿いに生い 繁ったポプラの並木は40度を越える灼熱の夏にも 涼しい影を落とし、女性たちはその木蔭で、 水路 の清伊jな水で洗濯をしながらおしゃべりを楽しむ のであった。子どもたちはそのまわりを真裸で駆 けずりまわっていた。おそらくは千数百年前とま ったく変わらない光景が乙ζで展開され続けてき たのだろう。そ乙では人聞が明らかに主人公だっ た。
そのトルファンの街をはずれると、茶褐色の砂 礁から成るゴビ沙漠が延々と果てしなく広がって いた。 地平線の果てまで一直線にのびる道路を北 東l乙向かつて走ってゆくと、 間もなく前方左側に 赤茶けた岩肌の急峻な山塊が扉風のように横たわ っているのが見えてきた。「あれが火焔山ですか。」
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西 原 春 夫 ( 法 学 部 教 授 ・ 前 総 長 )
「そうです。」ーーまだ朝早かったのであたりは涼 しかったが、昼さがりになるとゴビ沙漠の空気が 40度を越える太陽光線によってゆらめき立ち、全 山があたかも火焔に包まれたように燃え上がると いう。それはきっと乙の世ならぬすさまじきであ ろう。孫悟空の戦った妖怪が現われるのにまさに ふさわしい舞台装置であった。 一一
火焔山の北麓にあるベゼ、クリク千併洞、高昌故 城、アスターナ古墳などゴピ沙漠の中の名所をま わっているうちに陽が高くなり、あたりは焼ける ような暑さになってきた。乾燥しきっているから 汗はたちまち塩となり、白っぽく皮膚にとびりつ いていった。日本では決して経験しないものすと、
い暑さ。その中で半日を過ごしたのちK案内され たのは、 トルファン郊外の大ぶどう薗であった。 その緑の木蔭の爽やかで、涼しかったζと、乾いた
喉 lζぶどうのおいしかった乙と、乙れは今でも忘 れられない。
森の中の涼しげな「熊野路・古道」一一それを 見たとき思い出したのが、ほかでもない乙れと正 反対のゴビ沙漠の灼熱の夏であった。火焔山はそ の象徴であったのだ。そしてそれと同時に瞬間的 にひらめいたのは、平山画伯はシルクロードの終 点として乙の熊野古道を画かれたのではないかと いう乙とだった。そういえば、かつて奥島孝康図 書館長(当時)と話し合ったのは、平山画伯にシ ルクロードを画いて頂乙うというととであった。
かつてシJレクロードを通って伝わってきた文明、
それを基礎
κ
して築いてきた日本の学問。新中央 図書館の壁面を飾る画としては、平山画伯得意の シルクロードがもっともふさわしいというのが一 致した意見であり、それ故lと乙そ平山画伯の名が 浮かび上ってきたのだった。「熊野路・古道」は、もしそれ自体を作者から 切りはなして観賞してみると、林の小暗い奥lζ消 えてゆく古い道から学問の奥深さを感じ、直立し た杉の林のたたずまいから学問の場としての図書 館の静けさを思う。それが乙の絵lと画き乙まれて いる乙とは確かだろう。しかし私は、平山画伯が シルクロードに魅せられ、何十固にわたりそ乙 lζ 旅をし、長年にわたってそれを絵の題材にして乙
られた乙とを思い合わせてみると、どうしても画 伯はシルクロードにつながる道として乙の古道争 画かれたに違いないと思わざるをえなかった。だ から乙そ乙の絵を見た瞬間、あの火焔山を思い出
したのだろう。
乙の絵は永遠に早稲田の図書館に飾られる乙と になる。絵のいわれをきちんと確かめておかなけ れば一一一。私はそのようなせつぽつまった思いを 半ばζめ、半ばは私の想像が当たっているかどう かを確かめたくて、除幕式後のレセプションの席 上平山画伯自身に私の想像をお話しし、そうであ るかどうかをおうかがいした。お答えは「そのと おりです。私は乙の絵を画きながら何度もシルク ロードの沙漠を思い出し、また逆にシルクロード の沙漠の乾燥した景色と空気の中で、日本の湿気 のある緑の森を思い出したものでした。」という 乙とであった。
三蔵法師をはじめ、 シルクロードを通って東西 の文物を運んだ人たちは、その昔、どんなにか大 変な困難に出会い、それを克服していった乙とだ ろう。志半ばにして生命を落とした人も数え切れ ないぐらい多いに違いない。私の体験した地平線 に消えるまっすぐな道や40度を越える乾いた暑さ、
天山山脈を越えるl験路などはそのと、く一部にしか すぎないし、しかも困難が生じればいつでも逃げ られる文明の利器を用いての旅にしかすぎなかっ たのだ。平山画伯は、その激烈なシルクロードの 旅の延長線上に乙の熊野古道を位置づけられたに 違いない。あの林の中の杉の香り、ひんやりとし た湿気、水の底のような静けさ、その背後l乙乙れ とは正反対のあの荒れ果てたゴビ沙漠が画き乙ま れていたのである。
熊野の歴史は古い。すでに古事記の中にその地 名は現われているという。しかし熊野の名が有名 になったのは、奈良朝から平安朝にかけて修験道 が盛んになり、三千六百峰といわれる熊野の深い 山々が修行の道場として選ばれてからであった。
修験道は日本古来の山岳信仰に、シルクロードを 渡ってきた密教、道教、シャーマニズムなどが結 合し、一種の宗教として発達を遂げた。しかしそ れはやがて特定の宗派から離れて日本人の精神構 造のど乙か奥深いととろに根を下し、脈々として 今日まで日本人の血の中K受け継がれているよう に思われる。
熊野古道は、修験者や修行を志す善男善女が熊 野三山に参詣するためにたと、った道であった。道 を求める道であったといってよい。しかし、その 道は同時に、遠い遠い西の方の楽土から宗教や思 想や文化文明の伝わってくる学問の道の最後の延 長線を意味していた。その道の窮まった小暗いと 乙ろに真理がある。乙れを求める者は、先人たち が生命がけで拓いた道をただひたすらに歩き、そ の上で、後進のために新たな道を切り開いて進ま ねばならぬ。そのようなはげしい教訓を、乙の静 かな絵は我々早稲田の人聞に示してくれていると 受けとるべきであろう。
「熊野路・古道」は、私たちがはじめに求めた とおり、シルクロードそのものだったのである。
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