34)1ettre26,ⅠⅠIe partie,p.397.
35)1ettre17,ⅠVe partie,p.521.
36)J.−L− Bellell叫《Les formes del amour dansエα♪ん〟むβJJg月諺わ言∫g》,A乃一 乃αJg∫,ⅩⅩⅩⅠⅠⅠ,1953−1955,p.194.
37)op.cit.,P.XLIV.
38)『新エロイーズ』における愛の観念の問題は,稿を改めて論じなければならな い重要な問題である。この小説で,ルソーはベトラルキスム(p如rarquisme)を 出発点としつつ,独白の恋愛観を展開しているのであるが,ここでは次の一点 を挙げるのみにとどめておきたい。主人公たちの情熱恋愛は,特に小説後半に おいて,全体的愛・普遍的愛を志向するものとして示される。クララン共同体 の中心的人物として,彼らは恋愛至上主義による自己充足的傾向や,閉鎖的・
排他的要素を超克しようとするのである。ジュリについて語るサン=ブルーの 次の言葉はその事情を端的に表わしている。「この類なき女性は妻であり,友 人であり,娘であるのと同様に母でもあるのです。そしてまたそのようなもの として,彼女は恋人でもあったのです(1ettrell,ⅠVe partie,p.486)。」
39)1allOte de Rousseau,p.737.
40)1ettre6,ⅤIe partie,p.667.
41)1ettre12,ⅤIe partie,p.741.
42)1ettrell,ⅤIe partie,p.717.
43)lettre12,ⅤIe partie,p.741.
44)1ettrell,ⅤIe partie,p.737.
45)Corre∫タ0〃dd〃Cgg 〝βr ZJg dβJ.−J.R〃〟∫∫gα〟,tOmeIII,ArmandColin,1925,
p.287.
《(・…‥)j aiconsult占Ia nature,C est−a−direle sentimentilltむieur qui
dirige ma croyanceind毎endamment de ma Raison.》
46)ibid.,p.287.
《Mon ami,je crois en Dieu,et Dieu ne serait pasjlユSte Simon ame
n,飢aitimmortelle・Voilace me semble tout cequela Religion a d,es−
Sentielet dutile.》
ジュスチーヌの物語の3っの テキストについて
宮 本 陽 子
− 0 鵬
サドは1787年から1797年に至る10年の問に,『美徳の不運』,『ジュス チーヌあるいは美徳の不幸』,『新ジュスチーヌあるいほ美徳の不幸,なら びにその姉ジュリエットの物語あるいは悪徳の栄え』,というジュスチー ヌを主人公にした物語を3度も書いている。いずれも主人公の遭遇する一 連の不幸が物語の縦糸となっている。
何放,サドは,せっかちな読者をして,「サドは退屈だ」と言わしめ,
テキストを放り出させるに足る程の冗舌さ,執拗さで,同じ主人公の物語 を3度も繰り返して書いたのか。否,そもそも,3つのジュスチーヌの物 語は,果して,同じテキストの言いなおし,あるいは延長,と言い得るで あろうか。
かかる謎を出発点に,ジュスチーヌの物語の3つのversionsを比較し,
サド独自の語り方,書き方がいかに生み出されてゆくかという,作家サド の生成の過程とその限界を具体的に究めるのが,この拙論の狙いである。
仙 1 −
『美徳の不運』(エビ∫オナ巾rfれ乃eざ滋Jαむgr蝕,1787,以後①とする)も,
『ジュスチーヌあるいは美徳の不幸』(Jαざ如g∂〟Jg∫几払才力eαr∫ゐJα むgr蝕,1791,以後⑪とする)も,同じ一人称誉自体であり,主人公ジュス チーヌが姉大姉に過去の不幸な休放を物語るという設定であるが,発話の 仕方において,2つのVerSionsの問には微妙な差異が生じている。
以下ほ,いずれも贋金造りに騙され,恩を仇で返されたジュスチーヌの 独白の場面であるが,⑪の加筆部(傍点部)に注目されたい。
まあ,と私は事の次第を知って思いました。神さまは今度こそ正義を
行なわれます。神さまは,彼のような人非人が成功するのを,お許しには ならないでしょう。私たちほ3人とも恨みを晴らしてもらえるわ1)。①
「まあ」と,私ほ事の次第を知って言いました。「桝さまは今度こそ正 義を行なわれます。神さまは,彼のような人非人が成功するのを,お許 しにはならないでしょう。私たちほ3人とも恨みを晴らしてもらえるわ
‥‥」
大いなる神よ,これまでの経験の後でもなお,私はこんなふうに考え なければならなかったのでしょうか.′2)⑪(傍点宮木)
まず,最初のversion①に見られるのは,悪白談り−】の一人物としてのジ ュスチーヌ,即ちJusとhe−narr占eのディスクールのみである。豊げ ̄Jの主,
即ちJustine−narratriceの視点はJustine¶narr占eの視点に共有,もしく は,統合されている。語っている現在は,語られている過去を別の視点か ら捉え直すための場とはなり招ず,ただひたすら,過去をそのまま語るた めの場として機能している。Justine−narratriceは,Justine−11arr¢eのそ の時の状況,感情をそのまま伝えるだけである。
しかし,次のversion⑪においては,Justine、narratrice〔1身のディス クールが加筆される。ここにおいて,Justine【narratriceはJustine−nar−
r占e の単なる代弁者でほなくなり,前者は後者をいわば外側から客観的に 見ることになる。その結果,語り手は単に過去の「私」の物語を語るのみ ならず,語りつつある現在の「私」を物語の中に投影するのである。最初 の①ではJustine−narratriceとJustine−narr占eが一休となった,いわば 単構造の語りであったのに対して,ここではJustine−narratriceと Justine−narrさeの問に距離が生じて,言たりが二重構造になる。
「語りなおし」は,以上のように,前段階における「私」の言動を反省 し,批判することに加えて,前段階における「私」の捉えた情報を訂正す る場合もある。
ラファエル神父はこのうえなく熱心に私の話を聴きました。同情と関 心を示しながら,ある幾つかの細かい点については,私に経り返して話 させさえしました。彼の主な質問は,次の点について何度も繰り返され ました3)。①
スプリーノ4)は,このうえなく熱心に私の話を聴きました。同情と関 心を示しながら,ある幾つかの細かい点については,私に操り返して話 させさえしました。しかしながら,ある動きや,幾らかの言葉が彼の本 心を暴いていました。ああ,でも,それは,後で良く考えてみて,初め て気づいたことでした。この出来事について,もっと冷静になってみた 時には,彼が私にした質問には情欲が多分に入っていることを示すよう な幾らかの仕草を,厚かましくも何度かしたことや
んで猥襲な事柄の細部に向けられていた
・し
:︵ノ・こ ・の・次
●く・な・で
・lれノ・か.Jよ
た質問が好 5っの点に 殊更に執着していたことに,気づかずにはいられませんでした5)。⑪(傍 点官本)
ここでもまた,①の語りの構造は一重であり,語り手は,物語の中の
「私」がその時に捉えた事象をそのまま声にしているだけである。これに 対して,⑪では,Justine−narratriceはJustine−narr占eが捉えた事象を 語りつつ,それを現在の発話点から問い直し,Justine−narr占eが見落とし ていた部分の付け加えながら,状況を再構成してゆくのだ。
こうして,①→⑪の間で,テキストに若干の変化が生じているが,しか し,その変化は,これまで見た来た限りでは,一人称の物語という枠組み を超えるものではない。変化は,語り手が一登場人物として知り得る範囲 内の情報に限られている。しかし,次に,⑪の他の場所を見ると,奇妙に も,⑪の話者ジュスチーヌは,その場面における一登場人物として知り得 るはずのない事柄にまで言及しているのである。以下に挙げる,女賊ラ・
デュボワとジュスチーヌが初めて出会った時の語りを参照されたい。
ラ・デュボワと呼ばれる40才の女は,あらゆる秤類の非道な行為に よって有名でした。(‥・‥・)この女は,私にある柾の関心を抱きまし た6)。(D
私の似桐こ,40才位の女がひとりおりましたが,彼女はその芙しさを共 に,彼女の犯した大罪が甚しいものであり,多種多様を極めることでも
● ● ● ● ●
有名でした。この女は,私にある種の関心を抱きましたが,それは疑う
● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ■ ●
べくもなく良からぬ関心であり,後に私が知ったように,その関心の根
ジュスチーヌの物語の3つのテキストについて
● ● ● ● ■ ● ● ● ● ■ ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●
拠は,私を改宗させようという激しい欲望なのでした7)。⑪(傍点官本)
上の例において,⑪の語り手は,−登場人物としてのジュスチーヌがそ の時に知り得る以上のこと,すなわち「後に私が知った」ことを,ここで 語ってしまっているのである。こうした傾向は,サント・マリー修道院の 破戒僧たちの人物描写においても見ることが出来る。例えば破戒僧のひと り,ジェロームの人物描写を比べてみると,①においては8),一登場人物 である「語り手=主人公」(hるros−narrateur)が描いたものとして認め得る が,⑪においては9),ジュロームという人物の過去及び習慣にまで具体的 に言及されており,どう考えても初対面の「語り手=主人公」の語りとし てふさわしものではない。こうした語りは,「私は私の物語を語る」とい う一人称小説における「語り手=主人公」の語りの原則を外れ,むしろ「あ る人物が,ある他の人物についての物語を語る」という「語り手=証人」
(t占moin−narrateur),あるいは全知の非人称,nOn−perSOnneの語りにふ さわしい。①においては揺るぎないものであった一人称の物語の原則的な 形が,⑪では崩れているのだ。語りなおすことによってJustine−narratrice とJustine−narr丘eの問に生じた距離が,両者をひき離すのみならず,語 り手そのものの在り方さえをも変えてしまっているのである。
以上のようにして,語られた主人公の物語とそれを語る話者のギャップ の中で,物語がもう一度語り直される。そして次にサドは,話者そのもの を全知の非人称の語り手にすることによって,このギャップを極限にまで 拡げた。そこから生まれる第3のVerSion『新ジュスチーヌあるいは美徳
の不幸』(エα∧bα〃βJJビJ〟∫励g o〟Jg∫加ゎJゐgαr∫(わJα〃gr班,1797,以後
㊧とする)では,先の⑪における加筆部10),すなわち,過去の「私」とい う同一人物による介入が,全き他者の介入にかわる。
「まあ」と,ジュスチーヌは事の次第を知って言った,「糾さまは今度 こそ正義を行なわれます。神さまは,彼のような人非人が成功するのを,
お許しにはならないでしょう。私たちは3人とも恨みを昭らしてもらえ
るわ‥・…」
不幸な女.′ 他ならぬこの神の摂理が,おまえの弱さがまだ当てにし ている神自身が,おまえにこんな教訓を与えた後でも,おまえはこのよ
● ● ● ● ● ■ ■ ● ● ● ● ● ● ● ● ●
うに考えなければならなかったのか.′11)⑨(傍点,宮木)
⑪における「経験」(1 exp占rience)は,この⑨では「教訓」(1esleぢOnS)
という言葉に置き換えられ,ジュスチーヌが己れの体験を単なる過去とし て集積するのみで,そこから何も学びとっていないことが,はっきりと指 摘されている。さらに,この⑧の語り手は,「神」(1a providence)という,
ジュスチーヌ白身の用いた言葉を否定的に使うことによって,彼女の世界 観そのものを否定する。先の⑪においては,Justine−narratriceは異議申 し立てこそすれ,Justine−narr占eを否定することはなかったが,⑨におけ る非人称の語り手はジュスチーヌに対して全き他者であるが故に,彼女の 言動をその根本から否定することが出来るのだ。ここで,我々は,一人称 の語りから全知の非人称の語りへと移行する語りの構造の変化が,単に情 報の量のみならず,情報の質をも変化せしめていることに気づかずにはい られない。⑨における,ジュスチーヌの言動に対するこの全面的な否定は,
このことを端的に表わしているものと思われる。
たしかに,美徳の化身ともいうべきジュスチーヌから「語り」を奪って ゆくことば,美徳の否定へと向かう。同時に,悪が顕在化してくる。一人 称の語りから非人称の語りへと移りつつある⑪において,語り手と主人公 の同一性を無視してまで語られる情報が,†訓こリベルタンについての情報 であるということに注目されたい。「私は私の不幸を語る」という①の語 りから,「私は私を不幸にした人たち,すなわちリベルタンについて語る」
語りへと移りつつあるのだ。リベルタンについて,まさに悪について語る ことが,情報の主題となり,テキストの本質になりかわろうとしているの である。⑪において,贋金造りのいまわしい姿について語ることを躊蹄す るジュスチーヌに,聴き手のひとり,コルグィル氏は次のように促す。
そうだとも,私たちはあなたに,こうした細かいことについて話して 欲しいのだ。(‥‥‥)おそらく,我々がこの学問についてこんなに無知 である所以は,これらの事柄について何か書こうとする人々が愚かにも筆 をおさえているということによる。莫迦げた心配に提われて,彼らは,ど んな馬流でも知っているような下らないことばかり語っている。そして,
人間の心の中を大胆に手探りし,その途方もない錯乱を我々に見せてくれ る勇気は彼らにはないのだ1Z)。⑪
かかる要請によって,①では「こんな男と,森に棲む野性の動物と,一 体,何の追いがありましょう13)」という語り手の主観によって捨象されて いた事象が,⑪では,主観を排し,客観的に語られることになる14)。この ことば,同時に,一登場人物として,贋金造りとは初対面のジュスチーヌ には知るべくもない,このリベルタンの肉体と精神が事細かに言表される ということでもある。ここで聴き手コルグィル氏に非難されているのは,
他ならぬ①の語り方そのものであり,同時に,ジュスチーヌの主観性その ものである。そしてまた,このような聴き手による要請が介在しなくとも,
同様の書き換えほ随所で見られる。というよりもむしろ,こうした書き換 えが⑪を構築しているといった方が良かろう。「こうしたことをあなた方 に語ることは出来ません15)」という①の故意の言い落としが,⑪では正面 からの描写に変わり16),「そうした場面は醜悪かつ長いものでした1丁)」と いう①の一行は,⑪になると,数貢にわたる具体的かつ詳細な記述とな る18)。さらにまた,①では「きびしい」「危険な19)」といった形容詞で表 わされていた刑罰が,⑪では鞭打ちの厳密な数字に置き換えられる20)
以上を言い換えれば,①で語られていたのは,リベルタンの言動や悪徒 そのものではなく,それを想像し難いもの,語り得ないものという言葉に 換置してゆく,語り手の主観に基づいた捨象作用であった。それによって 支わされるものは,語り手が語り得ないものを排除し,あるいは語り得る 言英に換置してゆく,狭い語りの場以外の何物でもない。こうして,①は,
小さく統一された世界を描き出しているのであり,そのことが,「ql篇小 説」(nouvelle)としての節度ある長さ,筋書き,構成の単純さ,均整等 を守ることと芙事に合致しているのは言うまでもない。
これに対して,「小お山(roman)と,はっきり意図されて書かれた⑪21)
ほ,「中篇小説」である①を語り直しつつ解体してゆく。それはすなわち,
「[い篇小説」①のテキストが敢えて語らなかったことを語るために,この テキストの統一的世界を構築していたことばとは別のレベルでの新しいこ とばが必要になってくるということなのだ。「筆舌に悉くし難い」猥襲な 行為,「想像もしなかったような」「信じ難い」状況,といった表現22)で 充分であるとしていた事柄について,さらに語ろうとするならば,「筆舌 に轟くし難い」「想像もしなかったような」「信じ難い」状況を語るため の,文学史がかつて想像もしなかったような言葉を,ロにしなければなら ない。そしてそのような言葉が語られる場が,サドにとっての「小吉己」で
ジュスチーヌの物語の3つのテキストについて あったのだ。⑪はそのような「小説」へと踏み込んだテキストなのである。
− 2 −
「語り得ない23)」犯罪,という表記で事足りるとしていた語り方を否定し,
「語り得ない」犯罪を語る,語り方を採用しようとすることは,以後,い かなる犯罪も語られなければ犯罪ではなくなる,ということである。①に おける犯罪とは,個々の犯罪の現実を語ることではなく,かかる現実をこ とばの背後に灰めかすこと,かかる現実に語り手が「犯罪」という名称を 与えることであった。その名称が現実そのものであるという約束,すなわ ち,ひとつの既成の文化があり,語り手はこの文化の約束の上に安易に乗 っかっていた。これに対し,語り手が自らの誠実性,確かさというものを 問い寓しつつある⑪が書き表わさんとするものは,「犯罪」という名称で はなく,犯罪の現実である。
従って,①では,たとえ現実には犯罪たり得ないもの,例えば未遂の犯 罪であっても,語り手に「犯罪」と呼ばれるだけで犯罪となり得たものが,
⑪においても「犯罪」たり得るためには,それが「現実の犯罪」として語 られねばならず,語られるためには必ず完遂させねばならない。かかる 事情から,①における,女賊ラ・デュボワの手下たちによるジュスチーヌ の義行未遂24)は,⑪では,奇怪な方法で時間を費やして完遂されることに なるが2S),それも「完遂された」という表記が問題なのではなく,ひたす ら,完遂に至るまでの現実の持続を書き表わすことが問題なのだ。「犯罪」
という目隠し的名称でもって現実に目をつむるのではなく,辛抱強く,弛 ゆみない言語化の企てによって犯罪を実現してゆくのだ。
たしかに,①において,ことばは目隠しの働きをしていた。①⑪⑨のい ずれにおいても,放蕩貢族プレサックの母殺し(①⑨),及び叔母殺し(⑪)
を未然に防どうとしたジュスチーヌは,プレサックの怒りを買い,手ひど い仕返しを受けることになるのであるが,①におけるジュスチーヌは,そ の拷問の際に目隠しをされている。
(…・・うしかし,すぐに私の頭はハンカチで包まれてしまい,おかげ でもう,彼らが何をやっているのか,少しも見えなくなってしまいまし たZ8)。①
ここには,語り手の目隠しの向こう側で行なわれている事柄については 示されておらず,我々読者は,そこにいかなる現実が展開されているのか 知る由もない。語り手の頭に被せられた一枚のハンカチが,事物のありの ままの形状,行為のあからさまな手続きに置き換わっているからである。
ジュスチーヌの頭に被せられた「ハンカチ」は,語り手にとっては,例え ば「犯罪」ということばである。「犯罪」という名称を信じ,それが置き 換わっている現実を敢えて問わない①の語り手にとって,「犯罪」と命名 するだけで,すべてが語り轟くされ,テキストは完成していたのであった。
一方,⑧⑨では,ジュスチーヌの目を覆い隠すハンカチは無い27)。犯罪 が犯罪たり得るために,すなわち,彼女が日のあたりに見たそのままの現 実,リベルタンが行勤したままの現実が語られるためには,話者の目から ハンカチが外されねばならない。ハンカチを外すということは,単なる末 梢的変化ではない。話者はいまや一切の目隠しを取り去って,およそ見る ことの出来るものすべてを語ろうとする。その時,話者の語ること,すな わちジュスチーヌの物語のテキストは,さらに深い質的変化を見せる。出 来事の書き方が変わるだけではなく,さらに,書き方の変化が出来事の姿 を変化させ,造り変えてゆくのである。
】 3 −
今まで見てきた,ラ・デュボワの手下たちによる暴行のエピソード,あ るいは,放蕩貴族プレサックのハンカチのエピソードの例で,既に気付く ことであるが,①⑪⑨の3っのVerSionsに共通して見られるどのエピソ ードにおいても,物語中の出来事は同一VerSionの平面で生起し,それが ひとつのエピソードを完成しているのみならず,ひとつのVerSionから他 のVerSionへの書き換えの中でもまた,もうひとつの展開を見せているの である。その最も典型的な例として,生体解剖を目論む外科医のエピソー ドを図式的に表わしてみると,次のようになる28)。
ここでまず,最初のVerSion①の平面上において,外科医が樵大の娘の 生体解剖を目論むが主人公ジュスチーヌの働きで未遂に終わる,という筋 書きが展開される。そして,かかる筋書きを形成している諸要素,例えば,
人物構成や拷問の遂行に関する要素が,⑪,⑤への移行において,もうひ とつ別の組み合わせを行ない,別な筋書きを展開してゆく。つまり,リベ ルタンとその一甲なる犠牲者という関係が,リベルタンと彼の娘である犠牲
eO
①儲盟を≡監禁している
l l
】
↓
EO 外科医に
⑪一人の娘が いる
1 貯
外科医に
⑨一人の娘が いる
ジュスチーヌの物語の3つのテキストについて
外科医のエピソード el e2
彼は ジュスチーヌは この娘を この娘を
→ 生きたまま → 外科医の家から 解剖したいと 逃が 思っている
l を・︼一1E 娘
のは分彼自 るやてし
ご毎日強姦し, 生きたまま ずれは 一 解剖されて きたまま
絆剖したいと 思っている
い生鮮 ︐ とをし まいる娘姦はまたいの強れたしては分日ずき剖っ彼自毎い生解思
﹂
しまったであろうと ジュスチーチは 想像するジ目娘生解惨 ユのはき剖殺 ス前犯たささ チでさまれれ ←好 l︐れまてる ヌ ︐ の
﹂
者という近親相姦及び尊族数人のテーマへ,また,未遂の生体解剖は完遂 の予想へ,そしてさらに,完遂の確認へと発展してゆく。
この外科医のエピソードのみならず,すべてのエピソードほ,リベルタ ンという,いわば犯罪の意志の化身ともいうべき人物を要として,ひとつ のVerSionにおける平面のひろがりと,ひとつのVerSionから次のVerSion へ進む,いわば垂直のひろがりという2つの次元で展開してゆく。こうし て,3つの VerSionsが,あたかも地層のように重なり,ひとつの立方体 ブロックとなって,ひとつのエピソード,ひとつの犯罪の立方的な位相を 見せている。我々は,VerSion①を通して,それをひとつの物語として読 むことも出来るし,①の中のひとつのエピソードを構成している要素のひ
とつが,⑪,さらに㊧への移行の申で展開するさまも,またひとつの物語 として読むことが出来る。そしてこの後者の物語が見せているものは,犯 罪を言説のレベルで遂行しようとする,執拗な言語活動(1angage)なの である。この言語活動こそが,サドの作品を単なるおはなしではない,文 学作品にしているのだ。
①の如く,「犯罪」という名称が犯罪の現実をすべて表象しきっている,
という約束が成り立っているところでは,名称を唱えれば,すべてが完結 し,言語活動もそこで停止する。しかし,一旦,この約束が(約束がつく っているひとつの文化が)その基底を問われだすや,ことばは現実を表象 するのではなく,自らが現実そのものになろうとする。現実から抽象され た概念ではなく,現実をその具体の姿に密着して示そうとする,といって もよい。サドは,①から⑧の問で,文学に対してこの根本的な問を発した。
その時から,彼の作品は,抽象的な概念の体系という文化のパターンに安 んじることを許されず,現実への限りない密着運動ゆえに,文化的パター ンを破壊してゆくという宿命を自ら背負うのである。言語はいまやサドに とって,あらゆる言語を否定し,現実への密着を達成するための,絶対的 他否定=絶対的自己肯定の運動そのものとなる。ここでは言語に先行する ものは何も無く,言語は代理すべきものを何も持たない。言語の外には何 も無いのだ。ただ,常に新しく,自らを犯罪の現実として生みだしてゆく だけである。このように言語活動が自らを生みだしてゆくさまを,我々は 犯罪の遂行として読むのである。かかる言語活動は,自らを生み出してゆ くこと以外に,何ら目的というものを持たないが故に,常に自らを増やし 続けることが出来ると同時に,常に未完であり続け,その不完全さを満た さんとして,さらに自らを増殖し続ける。この自己増殖の結果が,⑪と⑧ の問に見る差異,さらに⑨の存在そのものを説明し得るものと思われる。
さて,⑨を⑪からひき離している,言語の自己増殖の場となっているテ ーマのほとんどは,近親相姦(尊族殺人)のテーマと,放蕩の場面におけ る性的結合の組み合わせのテーマに分類される。
先の外科医のエピソードにおけると同様,サドの作品の数々の場面に共 通して見られるパターンであるが,①における2人の人間の間の出来事ほ,
⑪においてほ,ごく頻繁に,近親者の問の出来事となり変わり,⑨に至る と,すべてのリベルタンが何らかの犯罪を,可能な限りの近親相姦及び尊 族殺人という血族関係の綱目を通して犯そうと試みる。⑨におけるあるリ
ジュスチーヌの物語の3っのテキストについて ベルタンは,次のように言う。
私は本いとこに,ひとりの子供を生ませた。私の姪であるその子供を,
私は犯したが,さらにその子供(姪)にも,子供を生ませた。この子供 は,従って,私の姪の娘であり,同時に,私の娘であり,かつまた,彼 女は私の娘の娘であるから,孫娘でもあるわけだ2g)。⑨
ここに言表されているような事柄が,年令的,あるいは生物学的に考え て実際に可能かということば問題ではない。重要なのは,こうした実現不
● ● ● ● ● ● ● ■ ● ● ● ● ● ■ ● ● ● ● ● ●
可能なことを文章が成立させてしまっているということ,そしてこの文章 に付加文をいくらでも加えることが出来るということなのだ。文章はいか なる言語の外の現実をも前提としていない。文章はひたすら,自らのみを 現実として,自らを形成してゆく。つまり,ことばがことばを生みだして ゆくのだ。ことばに込められた情念は,決して,ことばの外の現実によって 吸収されることがないため,このことばの次のことばを要求する。それは 別のことをいうことばであってはならない。情念は常にひとつであり,同 じ要求を満たさんとしている。しかしもちろん,同じことばの単なる反復 であるはずはない。この言語の自己増殖運動ほ,近親相姦のアラベスクに,
ひとつの自己と同一なるものを見い出した。言語の自己増殖運動が活発に なればなるほど,血族関係は細分化され,さらに想像し難い,さらに実現 不可能な物語を末端肥大柾的に織りなしてゆく。ことばを得た犯罪への意 志が,幹から枝,枝から小枝へと脈々と自らを押し拡げ,ひとつの家系図 にして犯罪の絵図なるものを形成しているのだ。かくして,①では母殺 し30),⑪では叔母殺し31)だ研こ限られていたブルサックの犯罪は,⑨に至 ると,母親の強姦と殺害にとどまらない32)。彼は息子として登場した後,
再び,物語の後半で,今度は甥として,叔父ジェルディナンドの放蕩に参 加する。この叔父がまた,甥ブルサックに輪をかけたような大リベルタン で,この叔父の登場と共に,彼を中心にした家族のエピソード(従って,
またもや近親相姦と尊族殺人が犯される)が展開することになる。そして,
このエピソードは,さらにジェルディナンドの弟ヴュルヌイユの家族のエ ピソードに引き継がれることになる33)
同様にして,⑪で芽ばえていた放蕩も⑨では一層複雑繁茂を極める。消 耗することを知らない肉体は,あらゆる組み合わせを無限に反復させるこ
ジュスチーヌの物語の3つのテキストについて とが出来る。重なり合い,結合し,入れ換わり,万華鏡のように快楽のア
クロバットチームを展開させてゆく,イメージとしての肉体が,言語の轟 きることのない自己増殖の場となっているのだ。
− 4 …
複雑繁茂を極める放蕩の結合の核に,リベルタンがいて,放蕩をつかさ どる。そしてこの放蕩の絵図ほ,それを語る言語以外の何ものにも,その 存在を支えるべき現実を持たない。近親相姦及び尊族殺人の実践に心を志 くし,放蕩を様々に按配するリベルタンは,サドの言語が一切の文化的現 実への従属を解き放ち,〔1らを自由にする場であり,かつこの自由な言語 の轟きざる自己増殖の鋸動力でもある。
注目すべきは,この自由な言語が,リベルタンを通じて,おそらくほそ の究極の自己認識に到達することである。すなわち,㊧のジュロームほ,
最も華々しい犯罪歴を誇るリベルタンのひとりであるが,彼は,人間的条 件を超題してしまった犯罪の能力が,結果として犯罪の不可能性に直面す るという事態を,次のように語る。
「もう久しい問,私は同じ地点にいる」と,ジェロームは言った。「20 年以上も前から,私は,この世で人間が犯し得るどの犯罪よりも勝った 罪というものを考えてみることでしか,興奮しないのだ。しかし,不幸 にして,そんな罪ほ少しも見つからない。我々がここでやっていること は,出来るものならやってみたいことの幻影でしかないのだ。自然を凌 辱出来ないということば,私に言わせれば,人間に科せられた最大の=苦 しみだ。」34)⑨
これは言いかえれば,従来の文化が語って来た一切の現実と訣別してし まった言語が,以後おのれの進むべき迫をいわば白紙の状態で見すえてい るさまである。これまで語られて来たことの一切は語るに値しない。そし て語るに値することは,まだ誰も(サド白身も)語ってはいない。サドの エクリチュールは,ここでまさに独創の地点に到達している。⑨において サドが書くものは,ゆえに真の意味での「介J造」であり,ゆえにそれはも うひとつの創造である「自然」と厳しく対立する。
註
①エg∫f′モわr′〟乃郎ゐJα〃grれα肌rg∫Co∽♪J〜′e∫,Cercle du Livre Pr卓cieux,
Paris,1967,tXIV
⑪ん∫fJ〝e OαJβ∫肋Jゐg′げ∫ わJα〃gr紬,OC,Cercle duLivrePr卓cieux,Paris,
1966,tIII
⑨エα入ち〝〃gJJgJ〟∫励β0〝Jβ∫几ねJゐβ〟r5♂gJα〃βrf〟,OC,Cercle du Livre Pr占cieux,Paris,1966,tVI,ⅤⅠI
l)①,OC,t.XIV,p.432.
2)⑪,OC,t.ⅠⅠⅠ,p.279.
3)(訂,OC,t.XIV,p.392.
4)Versionが変わると,明らかに同一人物と思われる登場人物の名前が,しばし ば変更される。
5)⑧,OC,t.111,pp.161−162.
6)①,OC,t.XIV,p.352.
7)⑧,OC,t.ⅠⅠⅠ,p.関.
8)①,OC,t.XlV,p.394.
9)⑧,OC,t.ⅠⅠⅠ.pp.164−165.
10)本稿47貫参照。
11)⑨,OC,t.ⅤⅠⅠ,p.311.
12)⑧,OC,t.ⅠⅠⅠ,p.272.
13)①,OC,t.XVI,p.431.
14)⑧,OC,t.ⅠⅠⅠ,pp.272−273.
15)①,OC,t.XIV,p.397.
16)⑪,OC,t.ⅠⅠⅠ,pp.169−172.
17)①,OC,t.XIV,p.358. 18)⑧,OC,t.11l,pp.103−104.
]_9)①,OC,t.XIV,p.402.
20)⑪,OC t.ⅠⅠⅠ,p.181.
21)㊥の発表1791年に先がけて,1788年,サド白身によって作成された,「作品解 説つき目録」(OC,t.ⅠⅠ,pp.263−272)を参照されたい。⑧ほ,rOmanと銘う って記磯されている。さらに,⑪の献辞(OC,t.ⅠⅠⅠ,pp.51−52)において,
サドほ⑧が新しいromanであることを強調している。
22)①,OC,t.XIV,p.397.
23)①,OC,t.XIV,p.397. 24)①,OC,t.XIV,pp.356−357.
25)⑪,OC,t.ⅠⅠⅠ,pp.82−85.
26)①,OC,t.XIV,p.377.
27)⑧,OC,t.ⅠⅠⅠ,pp、126−128.
⑤,OC,t.ⅤⅠ,pp.216−㌫犯.
28)①,OC,t.XIV,pp.381−386・
⑪,OC t.ⅠⅠⅠ,pP.130−156・
CCCCCCCO O O O O O O
⑳⑨①⑪⑨⑨⑨
︶ ︶ ︶ ︶ ︶ ︶9 0 1 2 3 42 3 3 3 3 3
t.ⅤⅠ,pp.223−277.
t.ⅤⅠ,pp.405−40β.
t.XIV,pp.359−381.
t t t t
ⅠⅠⅠ,pp.107=131.
ⅤⅠ,pp.169−220.
ⅤⅠⅠ,pp.122−241.
ⅤⅠ,p.339.
Ⅰ.P.F.E.におけるフランス語・
フランス文学教育−その2
金 杉 恭 子
Ⅴ.第二学年の授業内容
第一学年から第二学年へと内容そのものがより高度になっていることば たしかだといえよう。言語学の系列では,一年で「文法」のみだったのが,
第二学年には「一般言語学入門」があり,また,−・二年とも続けて同じ 教師の担当する「文法I」では,一年次で限定詞を扱ったのに対して,二 年では,時と行為の柏(aspect)との関係,法(mode)の問題など,より 複雑なテーマを扱っている。もう一つの「文法Ⅱ」ほ,文法法則の探求に とどまらず,文法学の方法論的テーマを中心として行われた。文学系の課 目では,「文学研究方法論」が設けられ,バルザックのエβ物βG(〉rわgを テキストとして,構造主義批評の方法を学んだ。第二学年の授業内容には,
前回,本稿「その1」(「立教フランス文学」No.9)でみた意味での学の 概説段階の問題は存在していないといえる。
こうした内容の高度化にしたがって,教授法そのものも変化している。
確かにラランスでは,大きな階段教室で行われる,いわゆる COurS magistralが伝統的に確間として存在しているとはいえ,第一学年の授業 内容にみたように,く練習一講評→原理の確認→練習〉 というサイクルで 教室のディナミスムを保証してゆくやり方が,最小限度の教育法的努力と して定着していることもまた確かである。これに対して第二学年では,学 生の個人,ないしグループによる発表が多く取り入れられ,発表,それに 対する教師の批判,さらにそれに続く討論,という形で教室のディナミス ムが作り出されている。つまり,く練習〉に代わってく発表〉が置かれ,そ れにしたがって,〈講評〉はもはや教師による最終的結論という性格を失 い,教室全体の討論に向けての問題提起となるわけだ。〈練習〉が〈発表〉
に変化することによって,学生の参加が教室の場でいわば公けのものにな り,クラス全体が,発表者の〈発表〉という共通のディスクールを出発点