国立北京女子高等師範学校校長許寿裳の辞職をめぐ って : 女師大事件への前奏
その他のタイトル The resignation of the preident Xu Shou shang (許寿裳) of National Beijing girl's high
normal school : The prelude to Beijing women's college of education Incident
著者 山内 一惠
雑誌名 關西大學中國文學會紀要
巻 27
ページ 41‑61
発行年 2006‑03‑20
URL http://hdl.handle.net/10112/12600
裳辞戦の背景にあったと考えられる︒
許寿
裳は
︑
四
一九二二年七月十八日︑国立北京女子師範大学︵以下︑女師大︶の前身である国立北京女子高等師範学
校︵以下︑女高師︶の校長に就任する︒その在眠期間に︑女高師学生の中から許寿裳排斥運動が起こり︑
二月二十八日︑後任の楊蔭楡にその職務を譲って辞戦する︒彼の辞職について触れられている内容は︑許寿裳が︑封
建的な教育の悪習を排除し︑民主的︑進歩的な教育体制を推し進めたことによって︑北洋軍閥政府の不満をかい︑更
に︑女高師の高学年の学生からも不満の声があがり︑辞眠に追い込まれ︑その結果︑北洋軍閥政府の忠実な手足であ
( 1 )
る楊蔭楡が後任として︑再び封建的な教育を実行したとするものである︒確かに︑当時の政治的︑思想的環境が許寿
しかし︑これまでの許寿裳研究の中で︑女高師学生は校長としての許寿裳の何に不満を抱き︑排斥運動を起こした
は じ め
に
女師大事件への前奏ー—_
山 内
一九二四年
恵
国立北京女子高等師範学校校長許寿裳の辞職をめぐって
女高師で許寿裳排斥運動が起こるのは︑ のか︑又︑当時の社会的環境の中で︑許寿裳が学校運営を通して直面した現実がどのようなものであったのかという視点から︑許寿裳が女高師校長を辞職した問題について論述されたものを目にしたことはない︒
本稿では︑許寿裳が辞戦を決意するに至った具体的︑現実的な理由を考えてみたい︒そこで︑許寿裳が︑当時直面
した﹁教育制度改革﹂に沿って実行した女高師の改革とそれに対する女高師学生の反応︑許寿裳排斥運動を強力に後
押しした女高師附属中学︵以下︑附属中学︶に連動した﹁改革﹂をめぐっての問題を︑当時の資料によって詳述しな
がら︑許寿裳がとった学校運営方針を︑その進展過程で︑女高師学生と附属中学がどのように受けとめ︑許寿裳排斥
運動につながっていったかを述べようと思う︒更に︑許寿裳を辞職に至らしめた具体的な事実関係を明らかにするこ
とで︑その後起きた女師大事件の要因の一端を生む事実関係を指摘できればと考えている︒
許寿裳の女高師運営方針
一九二三年夏休みからである︒七月三十日︑女高師学生自治会は全体大会
( 2 )
を開催し︑校長許寿裳及び総務主任呉清林に書面で退職を要請することを全体一致で議決した︒この議決に基づいて︑
八月四日付﹃晨報﹂に﹁女高師学生自治会全体啓事﹂を掲載して︑﹁校長許季弗先生は一年来︑眠務を怠り︑教育を
害すること︑すでにそれ極限に達する︒⁝⁝七月三十一日︑許氏に手紙を出し︑退職を要請し︑この日より以後︑許
( 3 )
氏個人のすべての命令は︑同人等一切承認せず︒呉清林先生に至っては︑自ら辞職せり﹂と声明した︒これは女高師
( 4 )
学生の許寿裳に対する宣戦布告である︒翌二四年一月十二日付﹃順天時報﹄﹁女高師校長潮﹂には︑﹁女高師校長許寿
裳︑多数の学生の不満によりて︑すでに辞職を決定する﹂として︑女高師学生自治会全体による﹁謹呈教育総長釣緊﹂ 四
ある
︒ で
は ︑
が載
り︑
四
その中で︑﹁女高師は︑許寿裳校長が辞表を提出してより以来︑またたくまにニヶ月を過ぎようとしている
が︑教育部は許校長の辞表に対して︑未だ批准していないとはいえ︑許校長はすでに辞朦することで自らの主張とし︑
今に至るもまだ学校に戻って校務を執らないため︑全ての校務が停滞してしまっている﹂と︑現状を訴えて新校長の
速やかなる就任を求めている︒これによると︑﹁ニヶ月を過ぎようとしている﹂とあるので︑許寿裳は︑
十一月には辞表を提出し︑校務から退き︑学校を離れてしまっていると考えられる︒ 一九二三年
一体︑女高師の学生は許寿裳に対してどのような不満を抱いていたのであろうか︒そのことを考えるために︑
先ず︑許寿裳の在職期間における学校運営について見ていきたい︒
許寿裳は︑教育部令によって女高師の校長に就任する︒彼が女高師校長に就任した当時は︑丁度中国の教育制度の 改革の時期であった︒就任後ニヶ月の一九二二年九月二十日から三十一日にかけて︑教育部は察元培を議長として学 制会議を召集し︑十月十一日から二十一日にかけては︑第八回全国教育会聯合会が開催され︑教育制度の改革につい
(5 )
て討議された︒その結果︑十一月一日︑全国教育会聯合会提出の原案を採用して︑﹁学校系統改革案﹂すなわち新学
( 6 )
制が公布されたのである︒そこには︑﹁以前の高等師範学校はその水準を高め︑師範大学に改める﹂とする主旨が盛 り込まれていた︒許寿裳はこの新学制に照準を合わせて︑女高師を女師大に改組するために︑桔極的に動き出すので
(7 )
着任早々の八月七日︑新学制公布に先立って︑教育部により女高師の﹁招生簡章﹂が公布され︑国文系一年生四十
名を募集した︒その内訳は︑各省選送学生二十二名︑本校附属中学生進学枠二名︑本校直接募集十六名となっている︒
更に︑﹁附則﹂として︑﹁今回の国文学系は十一年(‑九二二年筆者注︶四月一日印刷の本校の国文部のクラス別
許寿
裳は
︑
制公
布以
前に
︑
つまり︑許寿裳は︑新学 一九二二年秋に︑﹁本校の
課程規準を適用しない﹂と明記されている︒これは︑国文系一年生即ち一九ニ︱一年九月入学生から︑新学制に則って︑
別の課程規準を使用することを意味するものである︒この時に合格したのが許広平である︒許広平の回想によれば︑
許寿裳は就任後︑理科のために実験器具を︑文科のために図書雑誌を購入し︑理科と文科のバランスをとった︒その
上︑学生のために衛生︑温暖に配慮して︑借金をしてまで全宿舎にスチームを入れた︒同時に︑教師の人選では︑北
京大学︑北京師範大学等から優秀な教師を招聘し︑又北京大学の察元培と連絡を取り︑学術講演会に女高師の学生が
( 8 )
︵9
)
参加できるように取りはからったということである︒更に︑﹁女師大︽本校略史︾﹂には︑
組織大綱を制定し︑本校のすべての行政系統を改革し︑そして新しく課程を改定した︒これにより評議会を設け︑雑
誌が出版され︑各種行政委員会も順次設けた︒この年の冬︑校長は女子の大学に改組する意見書を評議会に提出し︑
会の議決を経て︑大学討論委員会を組織し︑学則を規定した︒その後︑大学準備委員会と改称した︒民十二年(‑九
二三年筆者注︶三月になって︑評議会は女子の大学に改組することを議決した︒そこで︑民十二年度より︑大学
予科生文科・理科各一クラス︑師範科体育学系一クラスを募集することになった﹂とある︒
一九二二年度の学生募集要項に制度改革を先取りする形で実行にとりかかっていたということであり︑
また上述の﹁以前の高等師範学校は水準を高め﹂るとする新学制の主旨にそって︑学校の設備の整備︑優秀な教師の
招聘︑学生の知識の向上︑学校の組織改革に力を入れ︑女師大への改組に向けて着々と準備を進めていたと考えられ
るの
であ
る︒
一九一七年九月から一九ニ︱年一月まで︑江西省教育庁の庁長を勤めた後︑女高師校長に就任するまで︑
教育部図書審査委員会常任委員に就いていた︒彼は庁長時期の経験と実績をかわれ︑更に︑教育部内で進められてい
四四
験することになり生じた問題である︒ では︑許寿裳の女師大への改組に向けた積極的な学校運営が︑許寿裳に対する高学年の学生の不満とどのように関
係するのであろうか︒許広平の回想には︑ある日︑戦員が辞めさせられたことを不服として︑わざわざ抗議しにやっ
てきた︒この事があってから︑偶然のように見えて︑実際は同調して騒ぎ出した高学年の文科の学生が︑突如盛んに
噂を流した︒許校長がどんなに不公平か︑理科の主任は許校長の親戚がやっているから︑理科の器具の費用は各科の
にビラを書く手伝いをさせ︑許校長を追い出した︒高学年の文科の学生には理由があった︒彼女らは一年足らずで卒
( 1 0 )
業だが︑許校長の下では︑眠業紹介の好機会をつかむことができないと疑心暗鬼に陥っていたという内容の文章があ
上掲の記述によって確認できるのは︑まず︑許寿裳に対する学生の不満の︱つに︑理科と文科の間に不公平な経費
分配があったということである︒当時︑理科の主任は︑許寿裳の甥である許世旅であった︒事実を確かめることはで
きないが︑許寿裳は身内との癒着を指摘されたことになる︒次に︑高学年の学生が学校の就職問題に対する対応に不
安と不満を抱いていたということである︒旧学制で入学した高学年の学生達は︑卒業が近付いた時に新学制移行を経 る ︒ 設備費の大部分を占めているのだ等々︒その上︑ 女高師学生の許寿裳に対する不満 されたのではないかと思われるのである︒ た教育制度の改革を把握できる立場にいたため︑
四五
その後公布される予定の新学制促進の要員として女高師校長に任命
一部の高学年の文科の学生は至る所で新入生をつかまえて︑彼女ら
旧学制時︑女高師へ入学した学生の情況は以下のようなものであった︒北京女子師範学校から北京女子高等師範学
一九一九年四月十八日である︒同年六月︑教育部訓令第二三九号により︑﹁北京女子高等師範
( 1 1 )
学校暫行簡章﹂︑及び北京女子高等師範学校に昇格して初めての﹁招生簡章﹂が同時に公布された︒この一九一九年
の﹁招生簡章﹂では︑数物化学部予科一クラス︑博物部予科一クラス︑家事科予科一クラス︑各三十名を募集し︑そ
一九
二0年六月の﹁招生簡章﹂は︑英語部予科︑数物化部予科︑音楽体操専修
科︑各三十名とし︑その内︑各省選送五十四名以内︑北京本校募集十五名︑上海募集十名︑北京本校補習科進学十二
( 1 2 )
名と
して
いる
︒
一九ニ︱年八月の﹁招生簡章﹂は︑国文部予科一クラス四十名︑理科部予科一クラス三十二名︑その
( 1 3 )
内︑各省選送四十二名︑北京本校募集二十八名︑本校附属中学生進学枠二名となっている︒これによれば︑
年から三年間の募集人数の約半数以上は︑教育部が募集要項を各省へ通達し︑各省が予め試験をして選抜した各省選
送学生である。彼女たちは、学費・食費•寄宿費を免除された経済的負担の軽い国立の師範校に在学している地方出
身者
であ
る︒
許寿裳排斥運動が始まった一九二三年夏︑高学年に在学していた学生とは︑本科︵予科一年修業後︑本科三年︶或
( 1 4 )
︵1 5
)
いは専修科︵三年修業︶の上位学年の学生である︒又許広平の同級生であった陸晶清の回想から︑高学年で就戦問題
を抱えていたのは︑裕福な名門︑高官の子女を除き︑ほぼ附属中学出身者と各省選送学生の上位学年に限られる︒卒
業を一年後にひかえた学生の目には︑許寿裳が女師大への昇格のためにとった積極的な学校運営は︑すぐさま自分た
ちの利益につながらないと映ったと想像できる︒ましてや︑彼女らは︑旧学制の範疇で卒業するので︑女高師の女師
大への昇格には直接関係なかったのではあるまいか︒それよりも︑卒業後の進路がどうなるかが最大関心事であった の内︑各省選送学生は各三名とある︒ 校に改組されたのは︑
四六
一九
一九
のではないかと考えられるのである︒
四七
と思われる︒彼女らの卒業後の就職に方策を講じているのが︑許寿裳の後任︑楊蔭楡である︒許寿裳が退職して一ヶ
( 1 6 )
一九二四年三月二十七日付﹃順天時報﹄に︑﹁女高師組織介紹委員会﹂という記事が載る︒その大略は次のよ
うなものである︒今年の卒業生の人数が多く︑その内︑経済的理由から︑急いで生活の道を講じねばならない者が︑
比較的多数なため︑校長楊蔭楡は教職員と職業紹介委員会を組織し︑紹介の方法として︑学生の姓名︑本籍︑年齢︑
卒業学科︑担当できる科目等を表に列記し︑各省の教育庁︑各中学校へ分送し︑且つ本校の周刊に掲載する︒又委員
個人の交情で︑北京の各学校へ紹介するということである︒
当時︑女子学生の就職先は教育関係︑特に学校の先生か職員以外︑ほとんど考えられなかった時代であり︑その職
場にも限りがある︒そのことを︑楊蔭楡は女性の先輩として︑教育者として︑身を以て知っていたであろう︒又︑校
長就任直前まで女高師で教鞭を執っていたのであるから︑学生の実情を熟知していたはずである︒しかし︑許寿裳は︑
女師大への昇格という大きな目標に邁進するあまり︑戦を求める多数の最上級生の切実な思いに︑答えられなかった
許寿裳と女師大附属中学
( 1 7 )
一九二二年六月︑北京女子高等師範附属中学校校友会発行の﹃闘オ雑誌﹄第一号に︑﹁北京女子高等師範附属中学
校校友会会章﹂が掲載されており︑その第十三條に﹁会長は本師範校現職校長を以てこれに充てる﹂と明記している︒
翌一三年六月発行の﹃闘才雑誌﹄第二号の﹁校友会会員録﹂に︑会長は許寿裳となっている︒女高師はその附属校の
全てを統括し︑女高師の校長は附属中学の校長をも兼任した︒許寿裳の女高師運営方針は︑附属中学の運営方針にも 月
後︑
大いに関係する︒ここでは︑附属中学が許寿裳校長をどのように受け入れたのかを考えてみたい︒﹃闊オ雑誌﹄第一
一九一七年︵民国六年︶四月︑教育部の認可を経て設立し︑八月︑歌陽
暁瀾を主任として招聘して︑九月五日に開学の典礼を執り行っている︒この欧陽暁瀾を実質招聘したのが︑当時︑北
京女子師範学校の数理科学教授兼学監主任であった楊蔭楡である︒楊蔭楡は︑女高師校長就任直後の一九二四年三月
十五日︑附属中学の談話会に出席し︑学生を前にして次のように語っている︒
七年前︑私は方校長︵北京女子師範学校校長方還筆者注︶と女高師へと改組しなければならないことにつ
いて協議をしていました︒そのためには︑先ず︑中学の創設を準備することです︒⁝⁝創設には︑もちろん詳細
且つ綿密な計画を立ててこそ︑うまくいくのです︒方先生も私の考えに大賛成してくださいました︒しかし︑中
学校は高師の附属であり︑実習の機関でもありますので︑ことのほか慎重であらねばなりません︒それ故︑この
中学校の主任は︑有能で見識があって︑はじめてその責務を担うことができるのです︒その時私は︑欧陽先生な
( 1 8 )
ら必ずみんなの期待に応えることができると考えつき︑すぐに招聘の手紙を出して北京に来ていただいたのです︒
七年前(‑九一七年︶︑女高師への昇格を前に︑女高師卒業生の教育実習の機関として︑附属中学はどうしても必
要であった︒附属中学の創設時から関わった歌陽暁瀾について︑﹃闘オ雑誌﹄第一号の﹁発刊詞一﹂で︑許寿裳の前
任校長毛邦偉は︑﹁本校附属中学は︑民国六年の創設以来︑主任歌陽先生が一人で経営し︑
歩を果たし︑年々発展を遂げ︑この五年で︑学生の人数は三百余名の多きに達したのである︒内外の教育家︑参観者 号の﹁本校大事紀﹂によると︑附属中学は︑
その時々にふさわしい進
四八
附属中学の主任として︑
四九
はみな︑成績が優秀であるのは︑殊のほか驚嘆すべき事である︒学生がみな優れているとはいえ︑学校の薫育は実に
( 1 9 )
大なる力があると云っている﹂と述べている︒又楊蔭楡も上述の談話会で︑歌陽暁瀾の功績を讃える発言をしている︒
一九一七年の附属中学創立以来︑五人目の校長として就任する︒年々替わる校長の下で︑
日々の学校運営の中心的役割をはたし︑進歩と発展に力を注いできたのは欧陽暁瀾である︒
許寿裳は就任後︑女師大への昇格に向けて女高師の改革に取り組んだ︒ところが︑﹃闘才雑誌﹄第二号の﹁本校大
一九二三年一月二十五日の項に︑﹁許校長辞職︑評議会が暫時校務の維持を行う﹂と記載されている︒当時︑
北京の教育界は︑教育総長彰允葬が︑教育経費のうわまえをはね︑北京法政専門学校の校長を更迭し︑自分の縁故者
をその職に就けた行為等に反対して︑彰允葬否認の動きを拡大していた︒殊に︑
( 2 0 )
を告訴人として﹁羅案﹂の再審議を国務会議に提出したことに対して︑同日︑北京大学校長察元培は︑すでに司法の
判断が下された案件であるにもかかわらず︑官僚と結託して司法権を侵害し︑人権を蹂躙する影允葬に抗議して︑辞
( 2 1 )
眠を宣言した︒十九日︑北京大学︑北京法政専門学校︑北京医科専門学校︑北京工業専門学校等の学生一千余名が︑
﹁駆逐彰允葬﹂を宣言して︑衆議院へ請願に赴き︑軍隊・警察と衝突︑三百人以上の負傷者を出すという流血事件に
( 2 2 )
発展した︒そのことで︑女高師︑北京医科専門学校︑北京工業専門学校︑北京美術専門学校の四校の校長も辞表を提
( 2 3 )
出して抗議したのである︒
﹁許校長辞戦﹂と記されているのは︑この時の事を指すが︑実際には︑許寿裳は十一月に辞戦しているので︑この
時は未だ辞職には至っていない︒この事件は︑許寿裳が女高師校長として︑学校外で直面していた教育界の情況を象 事
紀 ﹂
︑
彼こそ附属中学の実質的な代表者といえる︒ 一九二二年七月︑許寿裳は︑
一月十七日︑彰允葬が国会︑国務院
次いで︑﹃闊才雑誌﹄第三号(‑九二四年六月発行︶の﹁本校大事紀﹂に︑次のような記載が見える︒
七月九日︑主任歌陽暁瀾は病のため辞戦して南昌に帰る︒同月二十日︑校長は陳映瑣を派遣して校務を代行させよう
とするが︑学生会は欧陽暁瀾の引き留めを主張する︒八月三日︑学生会代表二名が南昌に赴き慰留し︑二十三日︑欧
陽暁瀾は学生会代表と共に帰校し職務を継続する︒この歌陽暁瀾の辞戦から職務復婦までの出来事は︑
寿裳は歌陽暁瀾を慰留しなかったが︑学生側は許寿裳の意志に反して歌陽暁瀾を支持したということであり︑許寿裳
と欧陽暁瀾の間にわだかまりを残す結果になったと考えるのである︒
同じく﹃闊才雑誌﹄第三号の﹁本校大事紀﹂に︑九月十三日︑新しい学生の休憩室と調理室二棟の建築が始まる︒
その建築費七百七十元を︑女高師に調達して支出するように︑以前に書面で請求したが︑女高師の返書は︑現在経費
の支出は困難であるので︑学費の項目から暫時転用し︑将来︑臨時費用から調達して返還するとのことであると︑女
高師とのやり取りが書面で行われ︑予め計上していた設備費が工面されなかったことを記している︒
これらの記載は︑附属中学を代表する歌陽暁瀾が校長許寿裳に不満を抱いていた事実の一端を窺わせるものである︒
すなわち︑許寿裳は着任してから︑外にあっては︑教育総長彰允葬への対応と︑教育経費獲得のために奔走し︑内に
おいては︑女高師の女師大への昇格に全力を傾注していたため︑許寿裳と附属中学の主任歌陽暁瀾との間で︑附属中 かったのである︒ 徴したものと言える︒彰允葬は︑一九二二年十一月︑教育総長に任命され︑二三年九月︑罷免される︒許寿裳は北京
の教育界を代表する立場にいる者の一人として︑教育総長影允葬への対応に迫られると同時に︑女高師校長として︑
女師大への昇格に向けて︑特に︑学校運営費︑設備拡充費︑人件費等を含む教育経費の獲得のために闘わねばならな
五〇
一九二三年
つまり校長許
りヽ
五
つま
学が直面している現実問題について︑互いに理解し合う機会を持たぬまま意思の疎通を欠き︑麒話をきたす結果にな
﹃魯迅与許寿裳﹄に︑﹁女師大附属中学の主任が︑真相の分からない卒業生達の中で許寿裳を攻撃したので︑彼女
( 2 4 )
らは女高師に入学後︑高学年の反動的な学生に操られて︑許寿裳反対に盲従するようになった﹂という記述が見える︒
これは︑女師大附属中学の主任欧陽暁瀾が許寿裳排斥運動の背後で糸を引いていたという意味である︒
そこで先ず︑附属中学から女高師への進学者について確かめておきたい︒附属中学では︑
四年生一クラス三十三名が卒業する︒その内︑二名は国文部予科に︑
( 2 5 )
名は国文部予科に推薦入学している︒一九二三年六月発行の﹃闘才雑誌﹄第二号の﹁校友会会員録﹂には︑上記の一
九ニ︱年度入学の国文部三名︵理科部に入学した一名は︑天津私立達仁小学校戦員となっている︶と一九二二年度入
学の国文系︵この年から国文系︑化学系と名称が変更された︶十三名︑化学系一名の名前があがっている︒
一九
二三
年夏︑許寿裳排斥運動が起こった時点で︑附属中学出身の女高師の上位年次の学生は十七名ということになる︒
で は
︑
一九二三年度入学者の情況はどうなっているのであろうか︒﹃閻オ雑誌﹄第三号の﹁校友会会員録﹂によると︑女大
予科(‑九二四年五月︑女師大に昇格したため︑ニ︱︱一年度入学者から︑体育︑音楽系の専科生を除き︑﹁女大﹂と記
載された︶三名︑女大予甲十一名︑女大予乙八名︑女高師体育系九名の新入生三十一名の名前があがっている︒
一九二三年夏から秋にかけて︑許寿裳排斥運動が繰り広げられる中︑上級生と新入生をあわせて四十八名の附属
四女師大附属中学の許寿裳に対する不満
ったのではないかと考えるのである︒
一名は理科部予科の試験に合格して入学し︑ 一九ニ︱年六月︑初めて
記載
があ
る︒
号 ︑
それ
は︑
中学出身者が︑女高師に在籍していたことになる︒その全てが排斥運動に参加したかどうかは別として︑確かに人数
的には侮れない勢力であるといえる︒後の一九二五年に社会的に表面化する女師大事件︑即ち女師大学生と校長楊蔭
楡が全面対立した学校紛争では︑学生総数二三七名中︑附属中学出身者は七七名︵﹁校友会会員録﹂﹃闘才雑誌﹄第四
一九二五年十一月︶︑全体の三分の一を占める︒女師大事件の最中︑附属中学出身者は﹁北京女子高等師範附属
中学校校友会﹂の名の下で︑附属中学の主任であり︑﹁校友会﹂の副会長でもある欧陽暁瀾を中心に︑
形成していた︒彼女らは女師大事件で楊蔭楡擁護の立場をとっていた勢力である︒ ︱つの派閥を
上述したように︑許寿裳と附属中学は︑順調な関係にはなかったと思われるが︑しかし何故︑附属中学の主任歌陽
暁瀾は卒業生を許寿裳排斥に利用したのであろうか︒陸晶清の回想によれば︑許校長はなぜ排斥されたか?
女師大の校長の椅子に座りたい人がいたからである︒楊蔭楡の後ろ盾は︑上は︑北洋軍閥系統の官僚︑中は︑彼女の
( 2 6 )
•ためにラッパを吹く論客、下は、女師大附属中学を基盤とした非常に強力な内通者であるということである。附属中
学が楊蔭楡の後ろ盾であったことは事実である︒しかし︑それだけでは︑附属中学が楊蔭楡校長を切望し︑許寿裳校
長では不満であるとする具体的且つ現実的な理由が見えてこない︒楊蔭楡が女性として中国で初めての最高学府の校
長であるとか︑或いは女権擁護等といった︑聞こえのよいものだけでは決してなかったはずである︒
そこで筆者は︑許寿裳の女師大昇格に向けての学校運営と新学制移行に伴う附属中学の学校の拡充問題に対する運
営方針との利害が衝突したのではないかと考えるのである︒﹃闘オ雑誌﹄第三号の﹁本校大事紀﹂には︑次のような
一九二四年一月十四日︑附属中学が︑次年度に高級中学部を増設する予定で︑その計画書を作成して女
高師へ送り︑女高師から教育部へ提出する︒三月六日︑附属中学組織大綱について討論する︒四月二十四日に︑教育
五
記事によると︑高級中学部の増設は︑ ばならず︑書籍儀器の設備は︑
五
部は︑本年夏休みに高級中学部を増設することを許可する︒これらの記載は︑高級中学部の増設が︑楊蔭楡が一九二
四年二月二十八日に女高師の校長に就任してから一挙に動き出したことを物語っている︒又︑翌二五年四月二十七日
付﹃京報﹄﹁女師大拡充附属中之計画﹂に︑﹁謹呈教育総長﹂が掲載されており︑附属中学の現状について︑次のよう
本校は民国六年九月に創設︑民国十一年九月より新学制を採用し︑初級中学部の設立を始め︑民国十三年九月
に高級中学部を増設する︒現在のクラス編成は︑旧制四年一クラス︑初級中学一年︑二年︑三年各ニクラス︑高
級中学文科・理科一年各一クラス︑合計九クラス︑学生総数三百二十人である︒⁝⁝本校は本年夏休み以後︑予
定どおり高級中学三クラスを増設する計画である︒新学制を推進するにあたって︑高級中学部の学年が︑未だ完
備してはいないのに︑中止したままにして計画を前に進めないわけにはいかない︒また現在各省の女子の高級中
学は︑尚未だ設立されておらず︑中央に所属するところも︑僅かにその芽を見ただけで︑設立するのも中止する
のも成り行きにまかせたままで︑その芽を育てる方法を講じなければ︑どうして全国に提唱することができよう
か︒⁝⁝校舎に関する一項について論ずれば︑本校の建物は国立大学附属校の中で最も狭小である︒すべての教
室は︑初級中学の用にしか役にたたない︒高級中学を増設して以後︑とりわけ幾つかの特別教室を設置しなけれ
( 2 7 )
︱っとして増やさなくてよいというものはない︒
に書
かれ
てい
る︒
一九
二四
年九
月で
あり
︑
そのために学校の施設や設備も整備しなければなら
ど停止状態にあったということが窺える︒ 機関が事実上︑破綻をきたしたことを語っている︒ しかし︑これには経費がかかる︒当時︑北洋軍閥政府は慢性的な財政難に陥っていた︒
( 2 9 )
行の﹃北京週報﹄︵第八九期︶は︑﹁教育部競売問題真相﹂を掲載して︑教育部の経費難の実情を紹介している︒記事
の中に︑﹁八校及び公立中小学校等も︑事実上継続不可能の状態となり︑わけても官費生を収容している︑男女師範
学校の如きは已に賄屋からの借りが数万元になって︑各賄屋は此の上賄をつづける事は出来ないと云っているので︑
若し此の上経費の支給がなければ罷課する外方法がない状態であり﹂という文章があり︑北京政府の行政︑特に教育
掲﹃
北京
週報
﹄︶
いとのことであり︑﹁男女師範学校﹂とは︑附属を含めた北京高等師範学校と北京女子高等師範学校
のことである︒記事が出た翌日︑十一月十九日︑北京の国立八校︵北京大学︑高等師範学校︑女子高等師範学校︑法
政専門学校︑農業専門学校︑工業専門学校︑医科専門学校︑美術専門学校︶は︑北京大学︑法政専門学校︑医科専門
学校の三校を除いて︑罷課に入っている︒この記事から︑当時女高師の経済状態は︑学校運営は不可能か或いは︑殆 ということが分かる︒ ないということである︒又︑新学制では︑初級中学一︱一年︑高級中学一︱一年の二段階に分け︑更に︑﹁高級中学は初級中
( 2 8 )
学に併設しなければならない﹂という一條がある︒附属中学は︑国立校としての自負と女子の普通教育を普及すると
いう使命を担って︑どうしても高級中学部を増設しなければならなかったのである︒女高師の校長は︑その附属校す
べてに権限が及ぶのであるから︑附属の前途を左右する︒許寿裳が女師大への昇格のために︑女高師を整備にとりか
かっていた時には︑新学制に移行した附属中学も高級中学部増設の準備段階にあって︑同様の整備を必要としていた
一九二三年夏以降︑教育部の経費難は︑﹁従来より尚甚だし﹂︵上
一九
ニ︱
︱一
年十
一月
十八
日発
五四
けですから︑天下の事も知れようというものです︒ を進め︑大学への昇格を優先する学校運営方針をとったのである︒しかし︑に
不満
を持
ち︑
つながり︑その結果︑許寿裳排斥運動に荷担したのではないかと考えるのである︒
人民文学出版︑
魯迅︑許寿裳の辞戦を知る
前に﹃校刊﹄を見て︑兄がすでに辞表を出され︑
五五
この教育部の破産的状態が︑官費生を収容している女高師の学校運営費︑設備拡充費︑人件費等を含む教育経費に
( 3 0 )
そのまま反映しているのである︒教育経費の支給の遅滞が厳しさを増す中︑許寿裳は借金をしてまで︑女高師の整備
そのことによって︑附属中学は彼の方針
それがそのまま許寿裳への不信を強めることになり︑更に︑高級中学部増設のために︑学校の設備・
組織の拡充を迫られていた附属中学が︑このままではその所要教育経費を準備できないという危機感を抱くことへと
一九二三年十二月十日の﹁許寿裳宛﹂︵﹃書信﹄﹃魯迅全集﹄第十一巻︑
そのうえ不眠症にかかっておられるのを知りました︒この手
紙本来なら書くこともないのですが︑本当にどうしようもなく︑これを書いてお待ちしています︒というのは詩
茎兄︵許寿裳の甥筆者注︶から︑兄が明日北京到着のはずと聞いたからです︒今度の教育部の減員は︑よそ
の課は知りませんが︑社会司では︑事務員で日々ほんとうに仕事をやりにきていた者がみな去りました︒残った
連中は︑給料支給日か︑たまに顔を会わせるだけで︑平素は杏として行方の分からぬ者ばかりです︒こういうわ 一九八一年︶の中で︑次のように述べている︒ 魯迅は許寿裳が辞表を出したことについて︑
五
一九二二年十月ーニ四年六月︑ この手紙は︑上述の十一月十九日︑北京の国立五校が罷課に突入してから三週間後のことである︒その間︑教育部
職員も給料欠配のためストに人っている︒十一月二十一日︑不在だった教育総長に黄郭が就任すると︑減員を実行し
た︒その結果︑教育部は︑魯迅が云うように︑﹁日々ほんとうに仕事をやりにきていた者がみな去りました﹂という
状態になってしまう︒このような情況の中︑魯迅は﹃校刊﹄︵﹃北京女子高等師範周刊﹄
該校文芸会編集部︶を見て︑許寿裳が辞表を提出したことを知る︒許寿裳の排斥運動が起こった一九二三年夏は︑魯
迅にとって︱つの転機であった︒﹃日記﹄︵﹃魯迅全集﹄第十四巻︶の七月十九日に︑弟周作人との不和を書き記して
以降︑八月二日︑周家の長男として一族を守り暮らしてきた八道湾の家を出て︑妻朱安と碍塔胡同へ転居するが︑母
魯瑞も魯迅との同居を望んだため︑母と共に暮らせる家をさがし始める︒八︑九︑十月の﹃日記﹄からは︑家さがし
に奔走したことと肉体的︑精神的疲労によると思われる肺結核の発熱で︑病院通いの日々であったことが分かる︒こ
の三ヶ月の間︑﹃日記﹄には︑許寿裳との手紙のやり取りや︑更に十月九日に︑許寿裳が教育部に来て︑彼から四百
元を家の購入資金として借りた事などが記されている︒魯迅も自身の家庭問題で多忙を極めていたとはいえ︑二人の
間では︑許寿裳排斥運動が進行中であるという話は交わされていたと推察するが︑資料で確認でき得るものは上記以
外に見当たらない︒魯迅は許寿裳の決断に対して︑﹁本当にどうしようもなく﹂と書いているのである︒そこには︑
教育機関を統轄する教育部自体がこのような状態であるからには︑官費生を収容している女高師の経済状態がどのよ
うなものか︑当然理解できるという気持ちが込められていたのではないかと︑手紙の文面から受け取れるのである︒
すなわち︑魯迅は︑許寿裳の辞戦の最大原因を教育関係費の支給遅滞にあると受けとめていたと考えるのである︒
五六
五七
女子の普通教育を普及するには︑その教員を養成する女子師範学校の充実を必要とし︑女子師範学校を含む女子中
等教育の教員を養成するには︑女子高等師範学校の設立を必要とする︒その意味で︑
中国において︑初めての女子の教育を行う専門学校として画期的な意味があった︒その女高師で︑当時︑各方面にわ
たる教育経費支払いの遅滞と守旧派勢力による教育改革への反発という重大な危機的状況の中で︑許寿裳は女子の普
通教育を普及し︑男女平等の教育を実現するという重責を担い︑政府の教育政策である新学制に沿って︑女子のため
の唯一の国立大学として︑女師大への昇格に向けて︑女高師を整備︑育成したのである︒しかし︑学校の整備︑育成
を必要としたのは附属中学も同様であった︒両方を同時に進めることは︑特に経費の面から限界があったと言える︒
一九二三年夏に始まり︑許寿裳は十一月に辞表を提出している︒上述した許寿裳排斥の理由は︑
すなわち︑第一に︑許寿裳が女高師を女師大に昇格させるためにとった学校運営に対する高学年の学生逹の不満であ
る︒その中の︱つは︑経費分配の不公平に対する不満︑二つは︑就戦に対する危機感からくる不満である︒第二に︑
許寿裳の女高師運営方針と高級中学部増設を必要とした附属中学の学校運営方針との衝突である︒これらは所要教育
経費の問題と大きな関係をもつ︒許寿裳は︑教育部の破産的状態によって︑彼の学校運営方針が頓挫し︑更に︑女高
師の高学年学生や附属中学から排斥の声があがったため︑辞戦を決意したものと考える︒辞職にあたって︑楊蔭楡を
( 3 1 )
後任として︑﹁校長に推薦したのは︑魯迅の親友許寿裳である﹂と陳漱漁氏が書いている︒校長を引き継いだ楊蔭楡
は︑やがて︑女師大の学生逹と対立し︑女師大事件を引き起こす︒許寿裳は女師大事件に対して︑﹁私は楊蔭楡校長 許寿裳排斥運動は︑
お わ り
に
一九一九年の女高師の設立は︑
女師大事件の主な原因は︑
つま
り︑
とは︑前任後任の関係であったため︑この度の紛争に対して︑先ずは傍観者の態度をとり︑絶対に関わりたくはなか
( 3 2 )
った﹂と書いている︒この言葉通り︑女師大事件の展開の中で︑
つ発言はしていないし︑女師大事件に関与してもいない︒許寿裳がこだわった﹁前任後任の関係﹂︑そこには︑彼が
﹁推薦﹂したという事情が存在したと思われる︒彼が﹁推薦﹂した現実的理由について︑陳漱漁氏は何も言及してい
ないが︑理由の︱つに︑附属中学の高級中学部増設問題と女高師の女師大昇格問題の両方に携わることのできる人物
として︑その両校に在職経験をもち︑両校の現状を熟知していた楊蔭楡しかいないと考えたのではないかと推測する
ので
ある
︒
( 3 3 )
一九二五年一月二十三日︑女師大学生自治会が出した﹁駆逐楊蔭楡第一次宣言﹂に述べ
られており︑その内容は︑楊蔭楡が校長に就任して以後の一九二四年の一年間に起こった出来事である︒この一年間
に︑楊蔭楡は︑附属中学の利益が女高師の利益に優先する学校運営を行い︑附属中学との関係をますます強めていく︒
彼女にとって︑附属中学は︑校長の地位を保持するための精神的支柱であると同時に︑その権力を強行するための現
実的基盤でもあったのである︒一方︑先に触れた︑﹁北京女子高等師範附属中学校校友会﹂即ち主任欧陽暁瀾を中心
とした附属中学出身者及び附属中学戦員を含めた勢力が︑許寿裳排斥運動の過程で︑附属中学の利益を護ろうとする
立場を鮮明にし始める︒もともと附属中学の主任に欧陽暁瀾を招聘したのは楊蔭楡であり︑両者の人間関係は順調な
ものであったと言える︒それ故︑女師大事件で︑楊蔭楡を背後で支持し︑又協力を惜しまなかったのである︒
許寿裳排斥運動から彼の辞戦に至る過程で︑楊蔭楡と附属中学の間で互いに連帯しうる条件が整っていき︑更に一九
ニ四年の一年間で両者の連帯関係は強化され︑結果︑それがそのまま女師大事件の要因の︱つを生むことへと繋がっ 一九二五年八月四日︑楊蔭楡が辞職するまで︑何
五八
注
一九
八一
年︑
第五
期を
参照
︒
一九
八二
年九
月︶
︑
五九
( 1
)
羅慧生﹃魯迅与許寿裳﹄︵浙江人民出版︑
出版一九八一年五月︶︑一七頁を参照︒
( 2 )
一九
二三
年八
月一
日付
﹃晨
報﹄
﹁女
高師
之校
長潮
﹂︒
( 3
)
八月四日付﹃晨報﹄︒原文は﹁倣校校長許季弗先生一年来之溺職務︑害教育︑已辣其極︑⁝⁝︑於七月三十一日公函
許氏︑請其退職︑自是日以後︑許氏個人一切命令︑同人等概不承認︑至於呉清林先生︑已自辞職突﹂︒
( 4 )
一月十二日付﹃順天時報﹄︒原文は﹁女高師校長許寿裳︑因不満於多数学生︑業已決定辞職︑⁝⁝呈為校長久讃職守︑
校務無人負責︑懇速遇派校長︑以維校基事︑窺女高師大学自許校長寿裳提出辞呈以来︑瞬将二月︑大部対於許校長之辞呈︑
雖未批准︑許校長則籍業已辞戦為詞︑迄不到校視事︑以致諸務廃弛﹂︒
( 5 )
小林善文﹁中国近代の中学教育ー学制改革の理念と現実をめぐってー﹂︵﹃神女大史学﹄︱二号︑一九九五年︶を参照︒
( 6
)
﹁第
五十
八章
教育
制度
之改
造﹂
﹃中
国教
育史
﹄︵
﹃民
国叢
書﹄
第一
編四
八︑
上海
書店
︶︑
七︱
︱二
頁︒
( 7
)
多賀秋五郎﹃近代中国教育史資料・民国編中﹄︵昭和四九年三月︑日本学術振興会︶︑二0
八︑
二
0九
頁︒
( 8 )
﹁魯迅先生与女師大事件﹂﹃許広平憶魯迅﹄︵馬蹄疾輯録︑広東人民出版︑一九七九年四月︶︑五0
三 頁
︒ ( 9 )
﹃文学論文集及魯迅珍蔵有関北師大史料﹄︵北京師範大学出版社︑一九八一年五月︶︑二七三︑二七四頁︒
( 1 0 )
前出﹁魯迅先生与女師大事件﹂︑五0
三頁
( 1 1 )
多賀秋五郎﹃近代中国教育史資料・民国編上﹄︵昭和四八年三月二十日︶︑
( 1 2 )
前出﹃近代中国教育史資料・民国編中﹄︑二七八頁︒
( 1 3 )
前出﹃近代中国教育史資料・民国編中﹄︑二0
七頁
︒ ( 1 4 )
前出﹃近代中国教育史資料・民国編上﹄︑一八七頁︒
( 1 5 )
陸晶清﹁魯迅先生在女師大﹂﹃大地﹄︑人民日報文芸増刊︑
一八
六\
一九
0頁 ︒
︱二八ーニニ三頁︑陳漱漁﹃許広平的一生﹄︵天津人民
ていったのである︒その意味で︑女師大事件の前奏であったと考えるのである︒
( 1 6 )
三月二十七日付﹃順天時報﹄︒原文は﹁京師女高師範楊蔭楡校長︑以該校歴年及本届畢業生人数衆多︑其中有志再能升学者、固不乏人、惟以境況関係、急於謀生者、較為多数、特典該校童要職教員組織一戦業介紹委員会、……介紹之方法~
孫君提議主張将学生姓名籍貫年齢︑畢業学系︑能任之科目及職務一切詳情︑列表分寄各省教育庁︑各中等学校︑並刊登本
校週刊︑装女士亦提議由本会委員個人︑以交情上之関係︑分寄前表向大処介紹︑最後欧陽女士︑提議則主張多向北京各学
校介
紹︑
衆皆
賛同
﹂︒
( 1 7 )
﹃闘才雑誌﹄︵北京女子高等師範附属中学校校友会発行︑一九二二年六月ー一九二六年十一月︶は︑年一回︑第五号
まで発行し︑毎号︑﹁本校大事紀﹂︑﹁校友会記録﹂︑﹁校友会会員録﹂を記載している︒﹃第一号﹄に掲載された﹁北京女子高等師範附属中学校校友会会章」には、本会会員は、甲種会員—本校在学生、乙種会員ー本校卒業生、丙種会員ー本校教
職員︵第4條︶の三種に分かれており︑会長︑副会長各一人︵第十一條︶︑副会長は︑﹃第一号﹄から﹃第五号﹄まで︑附
属中学主任欧陽暁瀾である︒
( 1 8 )
萬衡︑何肇蒋等筆記﹁校長楊蔭楡先生出席談話会之訓辞ー要倣好人應嘗忠様?﹂﹃闘才雑誌﹄第三号︑一九二四年六
月︒原文は﹁在七年前︑那時我同方校長商議要改塀高師︑因而預先籠塀中学︑⁝⁝創雛︑嘗然要詳詳細細的籠画︑方可︒
方先生也恨以我這個意思為然︑而中学校是高師的附属︑又是実験的機関︑應常格外注意︑所以這中学校的主任︑就要有一
位恨有才識的人︑才能擁負︒那時我就想到欧陽先生︑是必能符合衆望的︑於是就函聘来京﹂︒
( 1 9 )
毛邦偉﹁発刊詞一﹂﹃闘才雑誌﹄第一号︒原文は﹁本校附属中学校︑自民国六年成立以来︑由主任欧陽先生︑一手経
営︑應時進歩︑逐年発達︑迄今五載︑学生人数︑有三百余名之多︑内外教育家︑来参観者︑皆謂成績優良︑殊可驚異︒雖
日学生尽皆英俊︑而学校之陶冶︑実大有力焉﹂︒
( 2 0 )
一九二二年十一月二十付﹃晨報﹄﹁羅文幹被捕﹂によると︑当時の財政総長羅文幹が︑法に背き職権を濫用して︑オ
ーストリアからの借款返済を延期する条約を締結し︑その上︑収賄行為をしたとして逮捕された︒実際は︑衆議院議長呉
景廉等が事実を捏造し︑政争の道具として利用したというものである︒翌二三年一月十一日︑証拠不十分で釈放された︒
( 2 1 )
一九二三年一月十八日付﹃晨報﹄﹁券元培不屑居彰允葬之下﹂︒
( 2 2 )
一九二三年一月二十一日付﹃晨報﹄﹁衆院門前流血後之学界態度﹂︒
( 2 3 )
一九二三年一月二十六日付﹃晨報﹄﹁教育界駆影風潮日益拡大﹂︒
六〇
六
( 2 4 )
前出﹃魯迅与許寿裳﹄︑一三三頁︒原文は﹁附中主任在不明真相的畢業生中攻撃許寿裳︑致使他佃升入女高師后為高
年級反動学生所利用︑盲従他何反対許寿裳﹂︒
( 2 5 )
﹁本
校大
事紀
﹂︑
﹁校
友会
会員
録﹂
﹃闘
才雑
誌﹄
第一
号︒
( 2 6 )
前出
﹁魯
迅先
生在
女師
大﹂
﹃大
地﹄
︒
( 2 7 )
一九二五年四月二十七日付﹃京報﹄︒原文は﹁該校開塀於民国六年九月︑至十一年九月採用新学制︑始設初級中学部︑
十三年九月添設高級中学部︑現時編制為旧制四年級一班︑初中︱二三年級︑毎級両班︑高中文科理科一年級各一班︑共計
九班︑学生総数三百二十人︑⁝⁝該校於本年暑俣以後︑俯擬添設高中三班︑為推行新学制計︑高中年級︑尚未完備︑未便
中止不進︑且現時各省女子高級中学︑尚未編設︑中央所属︑亦僅萌芽︑設或任其中廃︑而不設法培口︑将何以為全国提侶︑
⁝⁝︑就校舎一項而論︑該校房屋在国立大学附校中最為狭陰︑所有教室︑僅口塀理初中之用︑添罪高中以後︑尤應具有特
別教室数帷︑其中書籍儀器︑無一不須増置﹂︵口は不明字である︶︒
( 2 8 )
前出﹁第五十八章教育制度之改造﹂﹃中国教育史﹄︑七一六頁︒
( 2 9 )
記事に魯迅の談話が載っているため︑﹃魯迅日文作品集﹄︵魯迅紀念館編︑上海文芸出版︑一九八一年五月︶に収録さ
れている︒尚︑﹃魯迅研究資料三﹄︵魯迅研究室編︑文物出版社︑一九七九年二月︶に︑楼適夷がこの記事を中国語に訳し
た︽教育部拍賣問題的真相ー教育部第一科長周樹人氏談︾と︑文宝権﹁魯迅与日文︽北京周報︾﹂が掲載されている︒又︑
陳漱漁は﹁魯迅与索薪闘争ー読︽教育部拍賣問題的真相︾﹂︵﹃魯迅史実新探﹄湖南人民出版︑一九八0年九月︶で詳述し
てい
る︒
( 3 0 )
前出﹃魯迅与許寿裳﹄︱二九頁︒
( 3 1 )
陳漱漁著︵拙訳︶﹁魯迅と女師大事件﹂﹃野草﹄七十一号︵中国文芸研究会︑二
00
三年
二月
︶︑
八頁
︒
( 3 2 )
許寿裳著﹁一八女師大風潮﹂﹃亡友魯迅印象記﹄︑上海峨媚出版︑一九四七年十月︒尚︑﹃許寿裳文集︵上下巻︶﹄
︵ 二 00
三年五月第一版︑百家出版社︶が刊行され︑許寿裳の著作及び彼に関する文章が集録されている︒
( 3 3 )
一九二五年一月二士︱一日付﹃京報﹄﹁女子師範大学風潮之拡大﹂︒尚︑﹁駆逐楊蔭楡第一次宣言﹂の原文は︑拙稿﹁一
九二五年︑魯迅の周辺ー﹃婦女週刊﹄を通して﹂﹃中国文芸研究会会報﹄二三五号︵二
00
一年五月二十七日︶に掲載︒