カントにおける「目的自体」 : 批判的形而上学に 属する概念
著者 林 克樹
雑誌名 人文學
号 207
ページ 1‑21
発行年 2021‑03‑15
権利 同志社大学人文学会
URL http://doi.org/10.14988/00028043
カ ン ト に お け る ﹁ 目 的 自 体
﹂
│
│ 批判 的 形 而上 学 に 属す る 概 念│
│
林
克 樹
小 論は
︑カ ント にお ける
﹁目 的自 体
der Z weck an sich selbst
﹂の 概念 が 人倫 の 形 而上 学 の 成 立の た め に決 定 的 に重 要な 意義 をも つこ とを 明ら かに しよ うと する もの であ る︒ 形而 上学 にお いて は︑ 目的 自体 が一 切の 主観 的目 的を 制約 する
︑と 思考 され る︒ こ れは 人 間 の﹁ 随意
志
Willkür
﹂ に一 つ の 超越 が 生 起す る こ と を証 し て いる
︒と こ ろ で︑ 人倫 の形 而上 学は 批判 的形 而上 学の 体系 の中 に確 固と した 位置 を占 める ので なけ れば なら ない
︒カ ント は﹃ 純粋 理性 批判
︵
Kritik der reinen V ernunft
︶﹄ に おい て
︑﹁
・・
・自 然 の 形 而上 学 な らび に 人 倫の 形 而 上 学︑ とり わ け
︑予 備 練 習
︵予 備学
︶と して 先行 する 批判
︑自 らの 翼を 恃ん で大 胆な 理性 に対 する 批判
︑本 来こ れら だけ が︑ 我々 が真 正の 意味 で哲 学と 呼ぶ こと がで きる もの を成 して いる
﹂︵
A 850/B 878
︶と 述べ てい る︒ 理性 批 判 は形 而 上 学 を基 礎 づ ける た め の予 備学 であ り︑ 形而 上学 の体 系に おい て﹁ 自然 の形 而上 学﹂ と﹁ 人倫 の形 而上 学﹂ が二 つの 柱を 成す
︒ 自 然の 形而 上学 は﹁ 存在 論﹂ と﹁ 合理 的自 然学
﹂か ら成 り︑ 前者 は﹁ 超越 論哲 学﹂ と等 置さ れ︑ 後者 は﹁ 内在 的自 然 学﹂ と﹁ 超越 的 自 然 学﹂ に区 分 さ れる
︵
A 845 f. /B 873 f.
︶︒
﹁ 超越 論 哲 学
=
存 在 論﹂は 伝 承 に お い て は
﹁一 般 的 形
― 1 ― カ
ン ト に お け る
﹁ 目 的 自 体
﹂
而 上学
metaphysica generalis
﹂ と称 せ ら れ たも の で ある
︒そ れ に 対し て
﹁特 殊 的 形 而 上 学
metaphysica specialis
﹂に 相 当 する の は 合 理的 自 然 学の 内 の 超越 的 自 然 学 で あ り︑ カ ン ト に お い て は 理 念 の 形 而 上 学 と し て の み 可 能 と さ れ る︒
﹃ 純粋 理性 批判
﹄に おい て﹁ 狭い 意味 での
﹂形 而上 学と 言わ れ る 場 合︑ 自然 の 形 而上 学 を 指し て い る︵
A 842/B 870
︶︒ 他方
︑人 倫の 形而 上学 につ いて は︑
﹁ 我々 の目 的に 今は 合致 しな いの で︑ ここ で は脇 に 置 く﹂
︵
ibid.
︶と し て︑ 詳 細な 言及 は行 われ てい ない
︒し かし これ は︑ 実践 理性 批判 とい う 課 題 にま だ 手 が着 け ら れて い な い 段階 で の こと で あ り︑ 人倫 の形 而上 学を 軽く 見る もの でな いこ とは 言う まで もな い︒ さ て︑ 自然 の形 而上 学︑ すな わち
﹁超 越論 哲学
=
存 在論
﹂と
﹁合 理的 自然 学﹂ の成 否に つい ては
︑﹃ 純 粋理 性批 判﹄ にお いて 余す とこ ろな く考 察さ れて いる と言 え る︒ 他 方︑ 人 倫の 形 而 上学 が い かな る 意 味 で﹁ 学と し て の形 而 上 学﹂ であ るの かは
︑道 徳哲 学に 属す るカ ント の著 作を 通し て見 ても
︑直 ちに 明ら かで はな いよ うに 思わ れる
︒形 而上 学と いう 語に 哲学 一般 の別 名以 上の 意味 を込 めな いの であ れば
︑さ して 拘泥 する よう な事 柄で はな いと して 片づ ける こと もで きよ う︒ けれ ども
︑筆 者は カン トの 学と して の形 而上 学を
﹁自 然の 内向 的超 越﹂
︵﹁ 主 観│ 客観
│関 係の 根拠
﹂へ 向 けて の 超 越︶⑴
の 遂行 と い う 特定 の 意 味に お い て 領解 し て いる
︒そ の か ぎり
︑人 倫 の 形 而上 学 も また
︑そ の 意 味に 沿っ て読 み解 かな けれ ばな らな いと いう 問題 意識 をも つ︒ 小論 の試 みは それ によ るも ので ある
︒ 第 一節 では
︑﹁ 目 的自 体﹂ が一 切の
﹁主 観的 目的
﹂を 制約 する
︑す なわ ち人 間の
﹁随 意志
Willkür
﹂ が道 徳性 の 原理 によ って 規定 され ると いう 事態 にお いて
︑形 而上 学的 な思 考が どの よう に働 くの かを 考察 する
︒カ ント は人 間の 随意 志を
︑一 方で は自 然の 機構 に組 み込 まれ たも のと して
︑他 方で は超 越論 的自 由に 根拠 づけ られ るべ きも のと して 位置 づけ る︒ 本節 での 論究 をと おし て示 され るの は︑ この よう な思 考は 自然 の秩 序の 内に それ を超 える 次元 への 突破 口が
カ ン ト に お け る
﹁ 目 的 自 体
﹂
― 2 ―
開か れる こと とし ての
﹁自 由﹂ に定 位し て い る︑ と いう こ と であ る
︒第 二 節で は
︑﹁ 超 感 性的 客 体﹂ と して 思 考 され る随 意志 を積 極的 に規 定す る形 而上 学が 証示 する もの
︑す なわ ち純 粋実 践理 性
=
純粋 意志 が随 意志 を規 定す ると いう 事態 につ いて 考察 され る︒ 主観│客 観│ 関係 の根 拠 へ の 超越
︵自 然 の 内向 的 超 越︶ を遂 行 す る 形而 上 学 にお い て は︑ それ は随 意志 の純 粋理 性へ の自 己超 越を 意味 する
︒本 節の 成果 とし て強 調し たい のは
︑純 粋実 践理 性
=
純粋 意志 が随 意志 を規 定す ると いっ ても︑そ れは 意志 の単 なる 自己 関係 では なく
︑随 意志 はそ の作 用︵ ノエ シス
︶の 方向 に超 越し たと ころ にお いて
﹁目 的自 体﹂ とし ての 他の 人格 と邂 逅 す る とい う こ とが 明 ら かと な っ た こと で あ る︒ 第三 節 で は︑ 人倫 の形 而上 学の 課題 は︑ 自然 の形 而上 学︵ 理念 の形 而上 学︶ が示 す空 白の 場所
︑対 象の 認識 によ るの とは 異な る仕 方で 充填 され るべ き場 所を
﹁実 践的 デー タに よっ て充 たす
﹂こ とに ある こと が見 定め られ
︑最 後に この 課題 に対 して
﹁ 目的 自体
﹂の 概念 が果 たす 役割 につ いて 言及 され る︒ 一
カ ン ト は﹃ 人 倫 の 形 而 上 学
︵
Metaphysik der Sitten
︶﹄
﹁法 論
﹂の 最 初 に 置 か れ た﹁ 人 倫 の 形 而 上 学 へ の 序 論﹂ で︑
﹁
・・
・単 なる 諸概 念か らの アプ リオ リな 認識 の体 系が 形 而 上学 と 呼 ばれ る な ら︑ 自然 で は な く随 意 志 の自 由 を 客観 と する 実 践 哲 学は 人 倫 の形 而 上 学を 前 提 す るし
︑必 要 と する
﹂︵
VI, 216
︶ と述 べ て いる
︒﹁ 単 な る諸 概 念 か らの ア プ リオ リな 認識
﹂は 原理 に基 づか なけ れば なら ない が
︑批 判 は まさ に
︑形 而 上学 の 基 礎と な る 道 徳性 の 原 理を 探 究 し︑ 確 立 す る こ と を 目 指 す も の で あ っ た︒
﹃道 徳 形 而 上 学 原 論︵
Grundlegung zur M etaphysik der Sitten
︶﹄
︵以 下﹃ 原 論﹄
︶
― 3 ― カ
ン ト に お け る
﹁ 目 的 自 体
﹂
にお いて は︑
﹁ 道徳 性の 原理
﹂は
︵行 為の 客観 的必 然性 を示 すも のと して
︶﹁ 定言 命法
﹂で なけ れば なら ず︑ それ が命 じ る の は 意 志 の
﹁自 律
﹂で あ る か ら
︑﹁ 意 志 の 自 律
﹂こ そ
﹁道 徳 性 の 最 上 の 原 理﹂ で あ る と 述 べ ら れ る︵
IV, 440
︶︒ とこ ろで
︑意 志の 自律 は︑
﹁ 目的 自体
﹂で ある
﹁人 格に おけ る人 間性
﹂が
﹁絶 対的 価値
﹂を もち
︑﹁ 尊敬 の対 象﹂ であ る︵
IV, 428
︶の は な ぜか
︑と い う 問い に 対 す る答 え に おい て 導 かれ る 概 念 であ る
︒こ こ でカ ン ト が示 す 思 考 の道 筋 は以 下の よう に整 理で きる と思 われ る︒
﹁物 件﹂ と 区 別さ れ て﹁ 人 格﹂ と呼 ば れ るの は
﹁理 性 的 存 在 者﹂ で あ り
︵
IV, 428
︶︑ こ の 存 在 者 は
﹁目 的 の 国
﹂を 支配 する 法則 に対 して 立法 者と して の地 位を もつ
︒そ れを 表す のが
﹁普 遍的 に立 法す る意 志と して のあ らゆ る理 性的 存 在者 の 意 志 とい う 理 念﹂
︵
IV, 431
︶ で ある
︒こ の 理 念に お い ては 立 法 の 根拠 と な る二 つ の 原理 が 結 合 され て い る︒ す なわ ち
︑﹁ 実 践 的立 法 の 根拠
﹂は
﹁客 観 的﹂ に は︑ 定言 命 法 の﹁ 普 遍的 自 然 法則
﹂の 法 式 と 呼 ば れ る も の│
│﹁ 汝 の行 動の 格律 が︑ 汝の 意志 を と おし て 普 遍 的法 則 と なる か の よう に 行 為 せよ
﹂︵
IV, 421
︶│
│が 導 出さ れ た﹁ 普 遍性 の形 式﹂ の内 にあ るが
︑﹁ 主 観的
﹂に は﹁ 目的
﹂の 内に あ る︵
IV, 431
︶︒
﹁ 欲求 の 主 観 的根 拠
﹂を 規 定す る
﹁実 質 的目 的﹂
︵
IV, 427
︶を 捨象 した とき にの み実 践的 原理 は形 式的 とな る の であ る が
︑こ の﹁ 形 式﹂ は│
│カ ウ ルバ ッ ハ の言 葉を 借り るな ら│
│﹁ 絶対 的目 的内 容︵
der absolute Z weckinhalt
︶﹂⑵
で あり
︑こ れ こ そ﹁ 目 的自 体
﹂と 呼 ばれ る も ので ある
︒こ こに 見ら れる のは
︑い わば 形式 が動 因と なる とい う事 態で ある
︒目 的自 体と して の理 性的 存在 者は
﹁す べて の可 能な 目的 の主 体そ のも の﹂
︵
IV, 437
︶で ある から
︑こ の目 的 自体
︑す な わ ち﹁ 客 観的 目 的﹂ が 一切 の
﹁主 観 的目 的﹂ を制 約す ると き︵
IV, 428
︶︑ 意 志規 定の 客観 的根 拠は 理性 的存 在 者自 身 で あ る︒ こう し て﹁ 目 的自 体
﹂の 概 念か ら﹁ 自 律﹂ の概 念 が 導 出さ れ る︒ そ れゆ え
﹁普 遍 的に 立 法 す る意 志 と して の あ ら ゆる 理 性 的存 在 者 の 意 志 と い う 理
カ ン ト に お け る
﹁ 目 的 自 体
﹂
― 4 ―
念﹂ は﹁ 意志 の自 律の 原理
﹂︵
IV, 433
︶ でな けれ ばな らな い︒ で は︑
﹁ 意志 の自 律﹂ を命 じる 定言 命法 とい う道 徳性 の原 理に 基づ いて
︑﹁ 人倫 の形 而上 学﹂ はど のよ うな 学と して 成立 する こと にな るの であ ろう か︒ カン トは 言う
︒﹁
︵ 前略
︶我 々は しば しば
︑経 験に よっ ての み認 識さ れる 人間 の特 殊な 本性 を対 象と して
︑そ こに おい て普 遍的 な道 徳的 諸原 理か らの 諸々 の帰 結を 示さ なく ては なら ない が︑ それ でも その こと によ って 道徳 的諸 原理 の純 粋性 が奪 われ るこ とは ない し︑ その こと によ って アプ リオ リな 起源 が疑 われ るこ とも ない ので ある
﹂︵
VI, 216 f.
︶︒ 人 倫の 形而 上学 は経 験に よっ ての み認 識さ れる 人間 の特 殊な 本性 を対 象と して
︑そ こに おい て普 遍的 な道 徳的 諸原 理か らの 諸々 の帰 結を 示さ なく ては なら ない
︒バ ート ゥ シ ャ ット が 言 うよ う に︑
﹁ 形而 上 学 と いう こ と でカ ン ト が理 解し てい るの は・
・・
・・
・︑ 純粋 な諸 概念 の批 判的 に正 当化 され たア プリ オリ 性が
︑そ れら の概 念か ら帰 結し ない 諸 々の 経 験 的 な事 態 に 対し て も また ど こ ま で妥 当 性 をも つ か が 示 さ れ る よ う な
︑内 容 を も つ 言 明 の 体 系 で あ る﹂⑶
︒ 経験 によ って のみ 認識 され る 人間 の 特 殊な 本 性 は︑ この 存 在 者 がも つ 自 由な
﹁随 意
志
Willkür
﹂に お い てま さ に 示さ れる もの であ る︒
﹃ 純粋 理性 批判
﹄﹁ 超越 論的 方法 論﹂ には 次の よう な言 明が 見ら れる
︒
﹁・
・・ 感性 的 衝 動 によ る 以 外に は 規 定さ れ な い︑ す なわ ち 感 受的
pathologisch
に規 定 さ れ 得る 随 意 志は 単 に 動物 的︵
arbitrium brutum
︶で ある
︒し かし
︑感 性的 衝動 から 独立 に︑ した がっ て理 性に よっ ての み表 象さ れる 動因 に よっ て 規定 さ れ 得 るも の は 自由 な 随 意志
︵
arbitrium liberum
︶ と 呼ば れ
︑根 拠 と して で あ れ帰 結 と して で あ れ
︑こ の 自 由 な随 意志 と関 連す るも のは すべ て︑ 実践 的と 名付 けら れる
︒実 践的 自由 は経 験に よっ て証 明さ れる こと がで きる
︒な ぜな ら︑ 刺激 する もの
︑す なわ ち感 官を 無媒 介に 触発 する もの が人 間の 随意 志を 規定 する だけ でな く︑ 我々 は︑ より
― 5 ― カ
ン ト に お け る
﹁ 目 的 自 体
﹂
離れ た仕 方で も有 用あ るい は有 害で ある もの の表 象に よっ て︑ 我々 の感 性的 な欲 求能 力に 及ぼ す印 象を 克服 する 能力 をも つか らで ある
︒︵ 中 略︶
・・
・理 性自 身が
・・
・・
・・ また もや 他の 影響 によ って 規定 され てい ない かど うか
︑そ して 感性 的衝 動に 対し て自 由と 呼ば れて いる もの が︑ より 高次 の︑ より 遠い 作用 原因 に関 して は︑ また もや 自然 では あり 得な いか どう かは
︑実 践的 な事 柄に おい ては 我々 に関 わり のな いこ とで ある
︵後 略︶
﹂︵
A 802/B 830
︶︒ 人 間の 随意 志は 感性 的に 触発 され るだ けで なく
︑理 性に よっ ての み表 象さ れる 動因 によ って 規定 され 得る
﹁自 由な 随意 志﹂ であ るが
︑こ の場 合の 自 由│
│カ ン ト は﹁ 実 践的 自 由﹂ と 呼ぶ
││ と は︑
﹁よ り 離 れ た仕 方 で も有 用 あ るい は有 害で ある もの の表 象﹂ によ って
﹁感 性的 な欲 求能 力に 及ぼ す印 象を 克服 する 能力 をも つ﹂ こと であ る︒ この 自由 は﹁ 理 性自 身 の
・・
・・
・・ 感性 的 世 界の す べ ての 規 定 的 な原 因 か ら の 独 立 性﹂
︵
A 803/B 831
︶︑ す な わ ち
﹁超 越 論 的自 由﹂ であ る必 要は ない
︒こ こで は自 由が
﹁よ り高 次の
︑よ り遠 い作 用原 因に 関し ては
︑ま たも や自 然で はあ り得 ない かど うか
﹂は 問わ れな い︒ それ ゆえ
︑理 性が 自然 の一 部に 組み 込ま れて いて
︑た とえ ば霊 長類 とい う高 等動 物の 素質 が開 花し たも のと して
︑自 然因 果性 に従 っ て 作 用し て い ても
︑﹁ 実 践 的自 由
﹂は 損 な われ な い ので あ る︒ こ うし て︑ 随意 志の 主体 であ る人 間は
︑感 性的 に触 発さ れな がら も︑ 快・ 不快 の無 媒介 の印 象を 克服 する こと がで きる
︑す なわ ち実 践的 な意 味で
﹁自 由﹂ であ ると いう こと が示 され るが
︑こ れは まさ に﹁ 経験 によ って のみ 認識 され る人 間の 特殊 な本 性﹂ であ る︒ し か し︑ 経 験 によ っ て のみ 認 識 され る も の を 対 象 と す る は ず の 人 間 の 思 考 か ら 形 而 上 学 が 生 ま れ る︒
﹁あ る 命 題
︵ 経験 の
︶を 許 容 する こ と と︑ それ を 説 明原 理
︵自 由 な 随意 志 と いう 概 念 の
︶と し
︑︵
arbitrio bruto s. servo
動 物 的 で 隷属 的な 恣意 から の︶ 区別 の一 般的 指標 とす るこ と と は別 の こ とで あ る﹂
︵
VI, 226
︶か ら であ る
︒カ ン トは
﹁・
・・
カ ン ト に お け る
﹁ 目 的 自 体
﹂
― 6 ―
諸現 象は 超感 性 的客 体
︵自 由 な 随意 志 は やは り そ うい う も の であ る
︶を 理 解可 能 に する こ と は でき な い﹂
︵
ibid.
︶と 述懐 して いる が︑
﹁ 超感 性的 客体
﹂と は︑ 認識 にお い て 与え ら れ はし な い が︑ 我々 の 思 考 の内 に 抱 懐さ れ る 対象
︑超 越論 的対 象で ある
︒実 は﹃ 純粋 理性 批判
﹄に お い ても
︑ア ン チ ノミ ー 章 で は︑ 動物 の 随 意
arbitrium brutum
と 人 間の
﹁ 感性 的随 意志
arbtrium sensitivum
﹂が 対比 され た 後︑
﹁も し 感 性 的世 界 に おけ る あ らゆ る 原 因 性が 単 に 自然 で あ った なら ば︑
・・
・・
・・ 現象 は︑ それ が随 意志 を規 定す るか ぎり
︑い かな る行 為を も現 象の 自然 的な 帰結 とし て必 然的 にす るに 違い ない ので ある から
︑こ うし て超 越論 的自 由の 廃棄 は同 時に あら ゆる 実践 的自 由を 根絶 する こと にな るで あ ろう
﹂︵
A 534/B 562
︶と 述 べ ら れ︑
││
﹁ 方法 論
﹂の 箇 所 と は 異 な り
││
﹁実 践 的 自 由
﹂は
﹁超 越 論 的 自 由
﹂に よ って 根拠 づけ られ なけ れば なら ない こと が示 唆さ れる
︒第 三ア ンチ ノミ ー解 決は
︑そ の意 味で の﹁ 自由
﹂を 矛盾 なく 考え るこ とが すく なく とも 不可 能で はな いこ とを 証示 する もの であ る︒ その 際カ ント が示 した 思惟 方法 は︑ 超越 論的 対象 に﹁ 消極 的な 意味 での 可想 体﹂
︵
B 307
︶ とし ての 意義 以上 のも の︑ 自由 によ る原 因性 とい う属 性を 付与 し て 考え る余 地を 残す
︑と いう もの であ った
︒す な わち
︑﹁ 超 感 性 的客 体
﹂の 概 念│
│超 越 論的 対 象 と も呼 ば れ た或 る も の一 般│
│に
︑感 性 的 直 観︵ 諸現 象
︶に 基 づく も の とは 異 な る 述語 を 結 びつ け て 思考 す る こ と を
﹁妨 げ る も の は 何 も な い﹂
︵
A 538/B 566
︶ こと が明 らか にな った ので ある
︒ そ れで も︑ 悟性 は︑ それ が感 性的 直観 によ る述 語と 結び つか なけ れば 対象 を規 定す るこ との でき ない 概念 の能 力で ある かぎ り︑ その よう な﹁ 客体
﹂を 未規 定の まま 置 い て おく ほ か にな い
︒﹃ 実 践理 性 批 判﹄ に おい て カ ント が 証 示し たの は︑ 純粋 理性 はそ のよ うな 客体 を積 極的 に規 定す る︑ とい うこ とで あっ た︒
﹁
・・
・道 徳法 則は 自身 の実 在性 を︑ 思弁 的理 性批 判に も満 足の いく かた ちで
︑次 のこ と を と おし て 示 した
︒す な わ ち︑ 単に 消 極 的 に考 え ら れた 原 因 性︑
― 7 ― カ
ン ト に お け る
﹁ 目 的 自 体
﹂
すな わち その 可能 性は 思弁 的理 性に とっ て把 握不 可能 であ るが
︑そ れで もそ れを 想定 する こと を強 いら れた よう なそ うし た原 因性 に︑ 積極 的な 規定 が︑ すな わち 意志 を無 媒介 に︵ その 格律 の普 遍的 法則 的形 式と いう 条件 を通 じて
︶規 定す る理 性と いう 概念 が付 け加 えら れる こと をと おし て︵ 後略
︶﹂
︵
V, 48
︶︒ 第 三ア ンチ ノミ ー解 決に おい ては 矛盾 なく 考え られ る と い うも の で しか な か った 自 由 に よる 原 因 性に
︑﹁ 意 志 を無 媒介 に規 定す る理 性と いう 概念
﹂を 付け 加え るこ とに よっ て︑ 純粋 理性 は︑ 未規 定の まま に置 かれ てい た﹁ 超感 性的 客体
﹂を 積極 的に 規定 する
︒こ れは
︑随 意志 は意 志︵ 純粋 意志
=
純 粋実 践理 性︶ によ って 規定 され る︑ とい う人 倫の 形而 上学 に固 有の 思惟 方法 が基 礎づ けら れ たこ と を 意 味す る
︒純 粋 意志
︵
=
純 粋実 践 理 性︶ に よる 随 意 志の 規 定 は︑︵ 随意 志の
︶格 律の
﹁普 遍的 法則 的形 式と いう 条件
﹂を 通じ てな され るも ので ある から
︑か かる 思惟 方法 は︑
﹁経 験に よ って の み 認 識さ れ る 人間 の 特 殊な 本 性
﹂に 基 づい て 考 えら れ た 随 意志 に お いて
﹁普 遍 的 な道 徳 的 諸 原理 か ら の 帰 結﹂ を示 すこ とに ほか なら ない
︒ 以 上の よう に︑ 形而 上学 は人 間の 随意 志を
︑一 方で は経 験 的 に 観察 可 能 な自 然 の 機構 に 組 み 込ま れ た もの と し て︑ 他方 では 超越 論的 自由 によ って 根拠 づけ られ るべ きも のと して 位置 づけ る︒ その ため
﹁実 践的 自由
﹂は 複義 的な 概念 と なる
︒も ち ろ ん アン チ ノ ミー 章 と﹁ 方 法論
﹂そ れ ぞ れ がも つ 文 脈の 違 い を 考慮 し な けれ ば な ら な い が
︑そ れ 以 上 に︑ 自由 な随 意志 とい う事 象そ のも のの 両面 性格 を見 るべ きで あろ う︒ 随意 志の 自由 は│
│斎 藤慶 典の 言葉 を借 りて 言え ば⑷
│
│﹁ 自然 が生 命に おい て当 の自 然を 超 え 出て 更 に 高 次の 段 階 へと 移 行 する 新 た な 創発 の 生 じる 場 所﹂
︑﹁ 自 然か らは 予測 も演 繹も でき ない 全く 新た な︵ 新奇 性を もっ た︶ 次元
︵つ まり 超・ 自然 的
=
形而 上的 次元︶を 切り 拓く 突破 口﹂ に位 置し てい ると いう こと であ る
︒そ の よ うな
﹁自 由
﹂が カ ント の 視 界に 入 っ て いた で あ ろう こ と は︑
﹁目
カ ン ト に お け る
﹁ 目 的 自 体
﹂
― 8 ―
的 自体
﹂の 概 念 に おい て
︑目 的 の教 説
Zwecklehre
と 目 的論
Teleologie
と い う︑ 区 別し な け れ ばな ら な い概 念 の 系 列 が交 差す るこ とか ら窺 い知 るこ とが でき るよ う に 思 われ る
︒そ の 観点 で 興 味深 い の は︑ O・ セ ンセ ン の 論考 で あ る︒
﹁ 自然 の究 極目 的は 理性 的存 在者
︑す なわ ち自 由意 志 を もつ 存 在 者で あ り︑ 自 由意 志 に よ って 彼 ら は﹃ 道徳 法 則 の下 に ある
﹄︵
CU
﹇﹃ 判 断 力 批判
﹄﹈
V 448 ff., cf.V 436
︶︒ 人 間 がそ れ に よっ て 自 然の 究 極 目 的あ る い は目 的 自 体で あ る 記 述的 要素 は自 由で あり
︑道 徳性 の能 力で ある
︵
cf. CU V 448 fn.
︶﹂⑸
︒こ のよ うに セン セン は︑
﹁ 目的 自 体﹂ を﹁ 絶 対的 価値
﹂を も ち尊 敬を 要求 する
﹁ 規範 的含 意
normative connotation
﹂を も つ概 念と して では なく
︑﹁ 記述 的含 意
descriptive
connotation
﹂を もつ 概念 とし て理 解す る⑹
た めに
︑﹃ 判断 力批 判﹄ にお いて
︑自 由で ある こと によ って 道 徳法 則 の 下に ある 理性 的存 在者 が﹁ 自然 の究 極目 的﹂ と見 なさ れる こと を示 唆す るの であ る︒
﹁目 的自 体﹂ が規 範的 概念 では なく 記述 的概 念で ある とい う セ ンセ ン の 理解 の 当 否に つ い て ここ で 論 じよ う と は思 わな い︒ 注目 した いの はむ しろ
︑﹁ 目 的自 体﹂ が﹁ 究極 目的
﹂と して 自然 の秩 序の 最上 位に ある と共 に︑
﹁自 由﹂ とい うメ タフ ィジ カル な次 元が 開か れる 地点 に位 置づ けら れる こと であ る︒ 人倫 の形 而上 学を 随意 志の 純粋 理性 への 自己 超越 に基 づけ よう とす る小 論に とっ て︑ これ は重 要な 意味 をも つ洞 察で ある
︒ 二
純 粋理 性は 道徳 性の 原理
︵定 言命 法︶ に基 づい て随 意志 とい う﹁ 超感 性的 客体
﹂を 積極 的に 規定 する
︒そ れは 純粋 実践 理性
=
純 粋意 志が 随意 志を 規定 して いる こと を証 示す るこ とに 他な らな かっ た︒ この 事態 は随 意志 の側 から 見れ
― 9 ― カ
ン ト に お け る
﹁ 目 的 自 体
﹂
ば︑ 随意 志の 純粋 理性 への 自己 超越 であ る︒ この よう な読 解が カン トの 意に 背く もの でな いこ とを
︑随 意志 の﹁ 積極 的概 念﹂ をめ ぐる 次の よう な語 法か ら見 て取 るこ と が で きる よ う に思 わ れ る︒
﹁随 意 志 の 自由 は
︑感 性 的衝 動 に よる その 規定 から のか の独 立で ある
︒こ れは 随意 志の 自由 の消 極的 概念 であ る︒ 積極 的概 念は
︑そ れ自 身そ のも ので 実践 的で ある 純粋 理性 の能 力で ある
﹂︵
VI, 213 f.
︶︒ 随 意志 の自 由を
﹁純 粋理 性の 能力
﹂に よっ て定 義す ると いう のは 奇矯 なこ とに 見え るか もし れな い︒ しか し︑ 言わ れよ うと して いる のは
︑自 由な 随意 志の 行使 にお い て 純 粋実 践 理 性が 働 き 出し て い る とい う こ とで あ る︒ 実 際︑
﹃人 倫の 形而 上学
﹄﹁ 徳 論﹂ で論 じら れる
﹁同 時に 義務 で あ る目 的
﹂が 存 在す る と いう こ と は︑ 随 意志 が 純 粋実 践 理 性の 目的 を自 己の 目的 とし て定 立す ると いう こと に他 なら ない
︒そ れゆ え︑ 純粋 実践 理性
=
純 粋意 志が 随意 志を 規定 する こと がで きる のは
︑そ こに おい て随 意志 の純 粋理 性へ の自 己超 越が 遂行 され るか らで ある
︒か かる 自己 超越 が遂 行さ れる こと がな けれ ば︑ 随意 志の 目的 はつ ねに 主観 的 目 的 であ る に すぎ な い︒
﹁ 目的 自 体﹂ が 一 切の 主 観 的目 的 を 制約 する とい うこ とが 起る とす れば
︑そ れは 随意 志の 自己 超越 が遂 行さ れて いる こと の証 であ る︒ 随意 志が その よう なも の であ る か ぎ り︑ 純粋 理 性 がこ の
﹁超 感 性的 客 体
﹂を 規 定す る 道 徳的 原 理 は
︑定 言 命 法 の
﹁目 的 自 体 の 法 式
﹂で あ る︒ すな わち
︑﹁ 汝 の人 格︑ なら びに 他の 人格 にお け る 人間 性 を︑ 単 に手 段 と して の み な らず
︑つ ね に 同時 に 目 的と して も扱 うよ うに 行為 せよ
﹂︵
IV, 429
︶︒ と こ ろ で︑
﹁ 主観 的 目 的﹂ とは
﹁そ の 現 存が 我 々 の 行為 の 結 果と し て 我々 に 対 し て価 値 を も つ
﹂︵
IV, 428
︶も の で あり
︑我 々が その よう な目 的を もつ の は︑ 我 々 が﹁ その 表 象 を通 し て︑ こ の表 象 の 原 因と な る﹂ よ うな
﹁欲 求 能 力﹂ を有 する
︵
VI, 211
︶ から であ る︒ カン トは
﹁存 在者 が自 分の 表象 に従 って 行為 する 能力
﹂を
﹁生
命
Leben
﹂ と呼 んで
カ ン ト に お け る
﹁ 目 的 自 体
﹂
― 10 ―
いる
︵
ibid.
︶︒ 言 うま で も なく
﹁生 命
﹂は
︑前 節 で見 た 随 意 志の 両 面 性格 の う ちの 一 面︑ 自 然 の機 構 の 中に 組 み 込ま れ た存 在 様 態 を特 徴 づ け る も の で あ る︒ 随 意 志 の 目 的 が﹁ 主 観 的
﹂で あ り
︑﹁ そ の 現 存 が 我 々 の 行 為 の 結 果 と し て 我 々に 対 し て 価 値 を も つ﹂ と い う こ と は︑ 先 に 言 及 し た 斎 藤 慶 典 と 共 に 言 え ば
︑生 命 に お い て﹁ 全 て が﹃ 自 己 へ﹄
﹃ 自己 の た め に﹄ とい う 力 線に 貫 か れる こ と
﹂︑
﹁ 中心 化 の 動向
﹂が 成 立 する こ と を 意味 す る⑺
︒ し か し 斎 藤 は│
│前 節で 見た よう に│
│生 命に おい ては
︑自 然が
﹁当 の自 然を 超え 出て 更に 高次 の段 階へ と移 行す る新 たな 創発 の生 じる 場所
﹂で ある
﹁自 由﹂ へと 開か れる 可能 性が ある こと を見 てい た︒ そう いう こと が可 能で ある とす れば
︑そ れは
﹁私 の 下へ と 全 て を中 心 化 せん と す る動 向 に 対 する 抵 抗﹂⑻ に 出 会い
︑﹁
・
・・
︵ふ つ う の 意味 で の﹇ 自 然の 機 構 に組 み 込 まれ た実 践的 自由 の意 味で の﹈ 自由 の前 提を 成し てい た自 己中 心化 その もの を転 倒す るよ うな
︵或 る特 異な
︑だ が自 由と いう こと の成 立に とっ ては 根本 的な
︶﹃ 自 由﹄ が行 使さ れた とき
﹂⑼
で ある
︒ カ ント の文 脈に おい て﹁ 私の 下へ と全 てを 中心 化せ んと する 動向 に対 する 抵抗
﹂に 相当 する のは
︑他 なら ぬ﹁ 目的 自体
﹂が 一切 の主 観的 目的 を制 約す ると いう 事態 であ る︒
﹃ 原論
﹄で は﹁ 人 間性 およ びあ らゆ る理 性的 本性 一般
vernün-
ftige N atur überhaupt
﹂ が﹁ 目 的 自 体
﹂で あ る と い う 原 理︵
IV, 430 f.
︶に つ い て 次 の よ う に 述 べ ら れ て い る
︒﹁ そ こ
﹇ この 原理
﹈に おい ては
︑人 間性 は人 間の 目的 とし て︵ 主観 的に
︶︑ すな わち
︑ひ とが 自分 から 現実 的に 自分 の目 的と する 対象 とし て表 象さ れる ので はな く︑ 客観 的目 的と して
︑我 々が どの よう な目 的を もと うと も︑ 法則 とし てす べて の主 観的 目的 を制 限す る最 上の 条件 を形 成す べき もの とし て表 象さ れる ので あり
︑し たが って
﹇こ の原 理は
﹈純 粋理 性か ら生 じる ので なけ れば なら ない
﹂︵
IV, 431
︶︒ 注 目し たい のは
︑﹁ 目 的自 体﹂ は﹁ 人間 の目 的﹂ す な わち
﹁自 分 の 目的 と す る対 象
﹂と し て 表象 さ れ ると い う より
― 11 ― カ
ン ト に お け る
﹁ 目 的 自 体
﹂
も︑ むし ろ﹁ 法則 とし て﹂ 表象 され ると いう こと であ る︒ 法則 とし て拘 束力 をも つ目 的自 体は
︑い わば 定言 命法 の実 働で あり
︑格 律の 形式 とし て︑ 随意 志を そ の 作 用︵ ノエ シ ス︶ の 側で 制 約 する
︒こ こ に 目 的自 体 が﹁ 中 心化 の 動 向﹂ に対 して 示す
﹁抵 抗﹂ の本 質が 表わ れて いる
︒想 起さ れる のは
﹃純 粋理 性批 判﹄ 第一 版の
﹁カ テゴ リー の超 越論 的演 繹﹂ の箇 所で 論じ られ る﹁ 超越 論的 対象
﹂の 抵 抗 性 格で あ る︒ カ ント は 述 べて い た︒
﹁ こ の対 象 は︑ 我 々の 認 識 が当 てず っぽ うに ある いは 任意 にで はな く︑ 何ら かの 仕方 でア プ リ オ リに 規 定 され る よ うに 抵 抗 す るも の と 見な さ れ る﹂
︵
A 104
︶︑ と
︒我 々の 認識 を﹁ アプ リオ リに 規 定 さ れる よ う に抵 抗 す る﹂ ので あ る か ら︑ この 抵 抗 の出 処 は︑ 感 性的 直観 にお ける 感覚 内容
︑す なわ ち現 象の 質料 の側 にで はな く︑ 現象 の形 式を 限定 する もの の側 に求 めら れる
︒す なわ ち超 越論 的対 象は
︑表 象の 主観
︵経 験的 統覚
︶を その 作用
︵ノ エシ ス︶ の側 で制 約す るも のを 指し 示し てい る︒ 同様 に目 的自 体が 示す
﹁中 心化 の動 向﹂ への 抵抗 の出 処も また
︑随 意志 をそ の作 用の 側で 制約 する もの
︑す なわ ち目 的自 体と いう 原理 を生 む﹁ 純粋 理性
﹂に 求め られ る︒ と ころ で︑ カン トは 目的 自体 の法 式を 導 くに 際 し て 次の よ う に述 べ て いた
︒﹁
・
・・ 最 上の 実 践 的原 理 が︑ そ して 人間 の意 志に かん して 定言 命法 が存 在す ると すれ ば︑ その 原理 は︑ 目的 自体 であ ると いう 理由 で必 然的 にあ らゆ る人 にと って 目的 であ るも のの 表象 から
︑意 志の 客観 的原 理を 取り 出し
︑し たが って 普遍 的な 実践 的法 則と して 役立 つこ と がで き る よ うな
︑そ う い う原 理 で なけ れ ば な らな い
︒こ の 原理 の 根 拠 は︑ 理性 的 存 在者 は 目 的自 体 と し て 現 存 す る︑ とい うこ とで ある
︒人 間は 自分 自身 の現 存を その よう に表 象す る︒ その 限り にお いて
︑こ の原 理は 人間 の行 為の 主観 的原 理で ある
︒し かし 他の あら ゆる 理性 的存 在者 も︑ 自ら の現 存を
︑私 にと って も妥 当す る同 一の 理性 根拠 に従 って
︑そ のよ うに 表象 する
︒そ れゆ えこ の原 理は 同時 に客 観的 原理 であ り︑ この 原理 を最 上の 実践 的根 拠と して
︑そ
カ ン ト に お け る
﹁ 目 的 自 体
﹂
― 12 ―
こか ら意 志の すべ ての 法則 が導 出さ れる こと がで きる ので なけ れば なら ない
﹂︵
IV, 428 f.
︶︒ 私 は自 分自 身の 現存 を︑ ある 理性 根拠 に従 って 目的 自体 とし て表 象す る︒ 他の あら ゆる 理性 的存 在者 もま た自 分自 身の 現存 を同 じ理 性根 拠に 従っ て目 的自 体と して 表象 する
︒そ れゆ えに 最上 の実 践的 原理 は客 観的 に妥 当し
︑そ こか ら法 則が 導出 され ると いう
︒し かし
︑こ のよ うに して 導か れた 法則 から は︑ 前節 で論 及し た﹁ 絶対 的目 的内 容﹂ であ る目 的自 体に おい て﹁ 形式
﹂が
﹁動 因﹂ とな る事 態︑ ひい ては
︑目 的自 体が
﹁法 則と して
﹂表 象さ れ︑ 定言 命法 の実 働と して 示す 抵抗 性格 は見 えて こな い︒ なぜ であ ろう か︒ ま ず確 かめ なけ れば なら ない こと は︑ 私が 自分 自身 の現 存を 目的 自体 とし て表 象す る﹁ 理性 根拠
﹂と は何 か︑ とい うこ とで ある
︒カ ント は﹃ 原論
﹄第 三章 にお い て そ れを 提 示 しよ う と 試み る
︒そ の 要 は︑ 私が 自 分 を﹁ 叡智 的 世 界﹂ に属 する と考 える 可能 性が ある こと を示 すこ とで ある
︒﹁ 一 つの 認知
Bemerkung
があ り︑ それ を行 な う のに 細 密 な熟 考 は何 ら 必 要 では な く︑ 最 も普 通 の 悟性 で さ え も︑ それ が
﹃感
じ
Gefühl
﹄ と 呼ん で い る判 断 力 の曖 昧 な 識 別 に よ っ て︑ そ れな り の 仕 方で そ の 認知 を 行 なう で あ ろ うと 想 定 する こ と が でき る
﹂︵
IV, 450
︶︒ そ れは
﹁我 々 に ど こか 他 か ら与 えら れ︑ その 際我 々が 受動 的で ある 表象 と︑ 我々 がも っぱ ら自 分自 身か ら生 み出 し︑ その 際我 々が 自分 の活 動性 を証 示す る表 象と のあ いだ の目 立っ た相 違﹂
︵
IV, 451
︶に 気づ くこ と で ある
︒前 者 の 表 象に つ い ては
︑我 々 は﹁
・・
・・
・・ 単に 現象 の認 識に 到達 でき るだ けで あり
︑決 して 物自 体の 認識 には 到達 で き ない
﹂︵
ibid.
︶︒ そ れに 比 べ て後 者 の表 象 に つ いて は
︑な る ほど
﹁物 自 体﹂ の﹁ 認 識﹂ に到 達 で き ない と い う点 で は 変 わ る と こ ろ は な い が
︑人 間 は
﹁ この 単な る現 象か ら合 成さ れた 自分 自身 の主 観の 性 状 を超 え て︑ 根 底に あ る 或る 何 か 別 のも の を︑ す なわ ち 自 身が それ 自体 で具 えて いる であ ろう よう な自 分の 自我 を想 定し なけ れば なら ず︑
・・
・・
・・ 自分 の中 で純 粋活 動性 であ
― 13 ― カ
ン ト に お け る
﹁ 目 的 自 体
﹂
るよ うな もの
︵感 性の 触発 によ って では 全く なく
︑無 媒介 に意 識に 到達 する もの
︶に 関し ては
・・
・・
・・ 叡智 的世 界に 数え 入れ られ なけ れば なら ない
﹂︵
ibid.
︶︒ こ のよ うに
﹁無 媒介 に意 識に 到達 する も の﹂ で あ る自 己 の﹁ 純 粋活 動 性﹂ が︑
﹁ 自分 を 作 動 する 原 因 の秩 序 に おい て 自由 と 想 定 する
﹂︵
IV, 450
︶こ と の︑ す な わち 自 己 を﹁ 叡智 的 世 界﹂ に属 す る と 考え る こ との 根 拠 と な っ て い る︒ し かし
︑周 知 の よ うに
︑こ こ で 試み ら れ てい る よ う な自 由 の 意識 か ら 道 徳性 の 原 理を 演 繹 する 企 て は 成功 し な い た め︑
﹃ 実践 理性 批判
﹄で は﹁ 理性 の事 実﹂ の問 題構 制が 採ら れる こと にな る︒
﹃原 論﹄ の失 敗は
︑実 は目 下の 論考 にと って 決定 的な 意味 をも って いる
︒そ れは
︑私 が自 分の 現存 を目 的自 体と 表象 する こと は︑ 随意 志の 主体 であ る私 の自 己超 越が 成就 した こと の証 しと はな らな い︑ とい うこ とで ある
︒﹃ 実 践理 性批 判﹄ では 次の よう に言 われ てい る︒
﹁・
・・ 道徳 法則 との 一致 に先 行す るす べて の自 己是 認の 要求 は無 効で あり
︑一 切の 権能 を欠 く︒ この 法則 と一 致す る心 術の 確実 さこ そが 人格 のす べて の価 値の 第一 条件 であ り・
・・
・・
・そ の確 実さ に先 立つ 一切 の不 遜は 誤り であ り法 則に 反し てい るか らで ある
﹂︵
V, 73
︶︒ な る ほ ど﹃ 実 践理 性 批 判﹄ には
︑﹁ 正 直 な人 間
﹂の 場 合﹁ 自 分の 人 格 にお け る 人間 性 を そ の 尊 厳 に お い て 維 持 し︑ 尊敬 した とい う意 識﹂ が彼 の支 えと なり 得る とい う例 が示 され てい る︵
V, 88
︶︒ しか し彼 は自 己の 尊 厳 の維 持 を 動機 とし て義 務を 履行 した ので はな く︑ 逆に 義務 に違 反す る こ と がな か っ たゆ え に︑
﹁ 義務 を 無 視 する こ と がで き さ えす れ ば避 け る こ との で き た人 生 最 大の 不 幸 の うち に あ って
﹂︑ か の 意識 を
﹁慰
め
Trost
﹂ と す る こ と が で き た の で あ る
︵
ibid.
︶︒ ま た︑ これ に先 立つ
﹁人 並み に誠 実な 人間
﹂の 例︵
V, 87 f.
︶の 場合
︑彼 は﹁ ひそ かに 自分 の目 で見 て自 分を 軽蔑 する こと を許 せな い﹂ とい う理 由で 嘘を つか ない の であ る が︑
﹃ 人倫 の 形 而上 学
﹄で 言 わ れる よ う に︵
VI, 409
︶︑
カ ン ト に お け る
﹁ 目 的 自 体
﹂
― 14 ―
﹁ 徳﹂ は﹁ 一度 採用 され た格 律に 休ら う﹂ こと はで きず
︑﹁ つね に新 たに 始ま る﹂ ので ある から
︑こ の例 の場 合も
︑彼 は義 務の 履行 をと おし ては じめ て︑ 自分 を﹁ 目的 自体
﹂と 見な すこ とが でき るよ うに なる ので ある
︒ こ のよ うに
︑上 記の 二つ の例 の場 合︑ 虚言 をし ない とい う他 者に 対す る義 務の 履行 をと おし て︑ すな わち 他の 人格 を目 的自 体と して 扱う こと をと おし て︑ 自己 の人 格に おけ る人 間性 が目 的自 体と 見な され てい る︒ その 意味 で西 田幾 多郎 の次 の言 明は
﹁目 的自 体﹂ の思 考を 最も カン ト的 に︵ ある いは カン ト以 上に カン ト的 に︶ 言い 表し たも のと 見る こと がで きる
︒﹁ 私 は一 つの 人格 とい うも のを 考え るに は︑ カ ン トの 所 謂 目的 の 王 国と い う 如 き考 え か ら出 立 す べき であ ると 思う
︒他 を目 的自 体と 認め るこ とに よっ て自 己が 目的 自 体と な る︑ 即 ち人 格 と な るの で あ る﹂⑽
︒そ れ ゆ え︑
﹁ 目的 自体
﹂が
﹁法 則と して
﹂表 象さ れ︑ 随意 志の 主観 的 目 的を 制 約 する 定 言 命法 の 実 働 とし て 機 能す る と き︑ それ は他 の人 格の 現存 を意 味し てい ると 考え なけ れば な ら な い︒ 再び 斎 藤 慶典 に 倣 って 言 え ば︑
﹁ 中心 化 の 動向 に 抗 うも の﹂ は﹁ 他の 中心 化﹂ であ ると いう こと であ る│
│そ れは
﹁こ の中 心化 に抗 うこ との 中で しか 示唆 され ない
﹂の では ある が│
│⑾
︒ し かし
︑自 分の 生命 を義 務に 基づ いて 維持 する とい う自 己に 対す る完 全義 務の 場合 はど うで あろ うか
︒そ こで は義 務の 履行 は自 己の 現存 を目 的自 体と して 表象 する こと の上 に成 り立 って いる ので はな いか
︒実 際︑
﹃ 人倫 の形 而上 学﹄
﹁ 徳論
﹂の
﹁自 己自 身に 対す る義 務一 般に つい て﹂ にお いて は次 のよ うに 言わ れて いる
︒﹁
・・
・理 性的 な自 然存 在者
︵ 現象 的 人 間
homo phaenomenon
︶ とし て の 人間 は
︑原 因 と して の 自 分の 理 性 によ っ て
︑感 性 的 世 界 に お け る 諸 行 動 へと 規定 され 得る ので ある が︑ ここ では まだ 拘束 性の 概念 は考 察さ れて いな い︒ しか し︑ まさ にそ の同 じ人 間が
︑彼 の 人格 性 に し たが っ て︑ す なわ ち 内 的自 由 を 賦 与さ れ た 存在 者
︵可 想 的 人間
homo noumenon
︶と し て 考 えら れ る 場
― 15 ― カ
ン ト に お け る
﹁ 目 的 自 体
﹂
合︑ 義務 づけ る能 力を もつ 存在 者︑ しか も自 己自 身︵ 彼の 人格 にお ける 人間 性︶ に対 して 義務 づけ る能 力を もつ 存在 者が 考察 され てい る︵ 後略
︶﹂
︵
VI, 418
︶︒ こ こ で は﹃ 原 論﹄ の 場 合 と 同 様 に︑ 感 性 的 世 界 の 成 員 で あ る 人 間
︵﹁ 現 象 的 人 間
﹂︶ が 自 分 を 叡 智 的 世 界 の 成 員
︵﹁ 可 想的 人間
﹂︶ と して も考 える こと がで きる と い うこ と に 基づ い て︑ 自 己の
﹁人 格 に お ける 人 間 性﹂ に対 す る 義務 づ けが 可 能 で ある と 述 べら れ て いる
︒こ の 義 務 づけ は
﹁︵ 道 徳的
︶諸 法 則 に従 う 自 己 強 制
﹂︵
VI, 381
︶で あ る が
︑そ の 成 り 立 ち は
︑﹃ 原 論﹄ に お い て は
︑感 性 的 世 界 の 成 員 に と っ て の﹁ 当
為
Sollen
﹂ が 叡 智 的 世 界 の 成 員 に と っ て は
﹁ 意欲
Wollen
﹂で ある こと に 求め ら れ てい た
︵
IV, 455
︶︒ そ の 場 合︑ 自己 自 身 に対 す る 義 務づ け は︑ 義 務づ け る 自己
︵ 可想 的人 間︶ の意 欲の 自発 性に 基づ けら れる こと に な る︒ しか し
︑道 徳 性の 原 理 を自 己 の 自 由の 意 識 から 演 繹 する こと を断 念す ると き︑ この 思惟 方法 その もの の内 部 に 決 定的 な 変 化が 生 ぜ ざる を 得 な い︒ なる ほ ど﹃ 実 践理 性 批 判﹄ にお いて も︑
﹁ 理性 の事 実﹂ であ る﹁ 道徳 法 則 の意 識
﹂と は︑ 純 粋理 性 が﹁ 自 らを 根 源 的 に立 法 的 なも の と して
︵私 はか く欲 し︑ かく 命じ る
sic volo, sic iubeo
︶ 自己 を 告知 す る
sich ankündigen
﹂︵
V, 31
︶ こ とで あ る︒ し かし 注 意 した いの は︑ 自己 強制 を成 立さ せる
﹁か く欲 し︑ かく 命じ る﹂ とい う事 態の 構成 要素 であ る﹁ かく 欲す
﹂は
︑私! に! お! い! て! 生 じる 欲 求 で! あ! る! が
︑私! か! ら! 生 じ た︑ あ るい は
︵カ ン ト が﹃ 原論
﹄第 三 章 で確 か め よ うと し た 自 発 性 の 意 味 に お い て︶ 私! が! 起し た欲 求で! は! な! い!
︑ とい う こと で あ る︒
﹁ 道徳 法 則 は・
・・
・・
・あ ら ゆる 有 限 な 理性 的 存 在者 の 意 志に とっ ては 義務 の法 則で あり
︑法 則に 対す る尊 敬を 通じ た︑ 自ら の義 務に 対す る畏 敬に 基づ いて この 存在 者の 行為 を規 定す る法 則で ある
﹂︵
V, 82
︶と 述べ ると き︑ カン トが 言お うと して いる のは
︑自 己強 制は 自己 の欲 求 に 基づ か な けれ ば 成立 し な い が︑ その 欲 求 は私 に お いて は 命 令 とし て し か意 識 さ れ ない と い うこ と で あ る︒
﹁純 粋 実 践 理 性﹂ と は︑
カ ン ト に お け る
﹁ 目 的 自 体
﹂
― 16 ―
まさ にそ うい う﹁ 欲求
﹂に 対す る命 名で ある
︒ そ れゆ え︑
﹁ 厄介 な出 来事 や絶 望的 な苦 悩が 人生 へ の 愛着 を ま った く 奪 い去 っ て し まっ た と きに
︑不 幸 な 人が
・・
・・
・・ 無気 力に なっ たり 打ち のめ され たり せ ず︑ む し ろ運 命 に 憤り
︑死 を 願 いな が ら︑ そ れ でも 生 命 を維 持 す る﹂
︵
IV, 398
︶場 合︑
││ 先 に 援 用 し た 西 田 と 共 に 言 う な ら
││ こ の 人 は 自 己 に お い て
﹁絶 対 の 他
﹂を 見 て い る の で あ る︒
﹁
・・
・・
・・ 絶 対 の 他 と 考 え ら れ る も の は
︑私 を 殺 す と い う 意 味 を も っ て 居 る
・・
・・
・・
﹂⑿
︒﹁ 絶 対 の 他﹂ と邂 逅す るこ とは
﹁明 日の 我と して 蘇る もの を越 えて
︑再 び自 己と して 蘇ら ない もの
︑唯
︑他 人と して 蘇る もの に撞 着す る﹂⒀ こ とで ある
︒ こ のよ うに
︑私 の一 切の 主観 的目 的を 制約 する
﹁目 的自 体﹂ につ いて
︑随 意志 が純 粋実 践理 性
=
純粋 意志 によ って 規定 され ると 記述 する 場合︑意 志の 自己 関係 以上 のも のは 見え にく いが
︑本 当は
︑随 意志 をそ の作 用︵ ノエ シス
︶の 方向 に超 越し たと ころ に他 の人 格と の邂 逅が ある とい うこ とが そこ に証 示さ れて いる ので あり
︑こ れは 人倫 の形 而上 学の 大切 な成 果で ある と言 うこ とが でき よう
︒ 三
最 後に
︑随 意志 とい う﹁ 超感 性的 客体
﹂に 対し て積 極的 な規 定を 与え る人 倫の 形而 上学 が︑ 主観
│客 観│ 関係 の根 拠へ 向け て超 越︵ 自然 の内 向的 超越
︶を 遂行 する 批判 的形 而上 学の 体系 にお いて どの よう な位 置を 占め るこ とに なる のか
︑見 通し をつ けよ うと 思う
︒そ れを とお して
﹁目 的自 体﹂ が批 判的 形而 上学 の概 念と して もつ 意義 を再 確認 した
― 17 ― カ
ン ト に お け る
﹁ 目 的 自 体
﹂
い︒ カ ント は﹃ 純粋 理性 批判
﹄第 二版 の﹁ 誤謬 推理
﹂章 にお いて
︑﹁ 私 は考 える
﹂と いう こと は﹁ 経 験的 命 題﹂
︵
B 422
︶ であ り︑ そ れは
﹁規 定 さ れ てい な い 経験 的 な 直観
︑す な わ ち 知覚 を 表 現す る
﹂︵
ibid.
︶ と 述べ て い る︒ この 言 明 の意 味は 次の よう に説 明さ れる
︒﹁ こ こで は 規定 さ れ てい な い 知覚 と は 実 在的 な 或 るも の
etwas R eales
を 意 味す る に すぎ ず︑ それ は与 えら れて おり
︑し かも 思考 一般 に対 して の み 与 えら れ て いる の で あり
︑そ れ ゆ え 現象 と し てで は な く︑ また 事象 自体 その もの
︵可 想体
︶と して でも なく
︑所 行に おい て現 実 存 在す る 或 るも の
etwas, was in der Tat existiert
とし てで あり︑私 は考 える とい う命 題に おい てそ のよ うな もの とし て標 示さ れる ので ある
﹂︵
B 424
︶︒ 規 定さ れて いな い経 験的 直観 ある いは 知覚 の内 容で ある
﹁実 在的 な或 るも の﹂ は﹁ 所行 にお いて 現実 存在 する 或る もの
﹂で あり
︑働 くも ので ある
︒こ こで 言わ れよ うと して るの は︑ 超越 論的 統覚 はそ のノ エシ スの 方向 への
︑す なわ ち自 己自 身へ 超越 にお いて
︑自 己の 自発 性
Spontaneität
を見 るも のと し て 存在 し て い ると い う こと で あ る︒ G・ ピヒ ト が言 う よ うに
﹁自 発 性 は︑ そ れ自 身 を 積極 的 に 規定 し よ う と思 う な ら︑ 自由 と し て考 え な け れば な ら ない
﹂⒁
ので ある から
︑超 越論 的統 覚の 自己 自身 は広 義の 行為 的自 己で ある
︒し かも
︑同 じ章 の最 後に 付せ られ た﹁ 合理 論的 心理 学か ら宇 宙論 への 移行 に関 わる 一般 的注
﹂に は︑ 問題 とな る自 発性 は︑ まさ に純 粋実 践理 性に よっ て規 定さ れる 自由 な随 意志 の本 質と して のそ れで ある と解 する こと が で き るよ う な 示唆 が 見 られ る
︒﹁ し か し後 に な って
︑経 験 の うち にで はな く︑
︵ 単に 論理 的規 則で はな く︶ アプ リオ リに 確 定 して い て 我々 の 現 実存 在 に 関 わる よ う な︑ ある 種 の 純粋 な理 性使 用の 法則 のう ちに
︑我 々を 我々 自身 の現 存在 に関 して まっ たく アプ リオ リに 立法 する とし て︑ かつ この 現実 存在 をま た自 ら規 定す ると して 前提 する 機縁 が見 出さ れる とし よう
︒そ うす ると 一つ の自 発性 が︑ それ によ って 我々
カ ン ト に お け る
﹁ 目 的 自 体
﹂
― 18 ―
の現 実性 が規 定可 能で ある が︑ その ため には 経験 的直 観の 諸条 件を 必要 とし ない
︑そ うい う自 発性 が発 見さ れる であ ろう
︒そ して 我々 はこ こで 次の こと に気 づく であ ろう
︒そ れは
︑我 々の 現存 在の 意識 のう ちに は︑ 我々 の感 性的 にの みど こま でも 規定 可能 な現 実存 在を
︑あ る種 の内 的能 力に かん がみ て︑ 叡智 的な
︵な るほ ど単 に考 えら れた
︶世 界と の関 係に おい て規 定す るこ とに 役立 つこ との でき るも のが 含ま れて いる
︑と いう こと であ る﹂
︵
B 430 f.
︶︒ す でに 論じ たよ うに
︑自 由な 随意 志の 主体 であ る我 々の 現実 存在 はど こま でも 自然 の機 構に 組み 込ま れた もの とし て︑ 感性 的に 規定 可能 なも ので ある が︑ 随意 志は
︑感 性的 に触 発さ れる のみ なら ず︑ 純粋 実践 理性
=
純 粋意 志に よっ て 規定 さ れ る こと を と おし て
︑そ の 自発 性 を 発 現す る の であ る
︒こ の よ うに 見 る とき
︑随 意 志 と い う
﹁超 感 性 的 客 体﹂ は﹁ 叡智 的な
︵な るほ ど単 に考 えら れた
︶世 界と の関 係﹂ にお いて 規定 され てい る︒ しか も︑ その 規定 が﹁ 定言 命法
﹂と いう 道徳 的原 理に 基づ いて なさ れる とき
︑自 由は 単に 考え られ るも ので ある こと を超 えて
︑そ の実 在性 にお い て証 示 さ れ るの で あ る︒ それ は
︑随 意 志が
﹁同 時 に 義 務で あ る 目的
﹂を 自 己 の 目的 と し て定 立 す る こ と を と お し て︑ 純粋 理性 への 自己 超越 を遂 行す るこ と︑ すな わち 自己 のノ エシ スの 方向 に超 越せ る﹁ 目的 自体
﹂と して の他 の人 格と 邂逅 する こと であ る︒ こ うし て明 らか にな るの は︑ 主観
│客 観│ 関係 の根 拠へ の超 越は
︑表 象の 主観
︵経 験的 統覚
︶を 起点 とし てな され る場 合に は超 越論 的統 覚が
︵さ しあ たり の︶ 終点 であ るの に対 し︑ 随意 志を 起点 とし てな され るな らば
︑超 越論 的統 覚を その ノエ シス の方 向へ 超越 した とこ ろに ある もの まで も開 示さ れて くる とい うこ とで ある
︒経 験的 統覚 も随 意志 も︑ 自 己を 見 る も のと し て│
│西 田 幾 多郎 と 共 に 言 え ば
││
﹁ 自 覚 的 一 般 者﹂ に 於 て あ る も の と 考 え る こ と が で き る⒂
︒ 経 験的 統 覚 は﹁ 知 的自 己
﹂︑ 随 意志 は
﹁意 志 的自 己
﹂と 言 う こと が で きよ う か︒ 意 志的 自 己 は その 自 己 超 越 に
― 19 ― カ
ン ト に お け る
﹁ 目 的 自 体
﹂
おい て︑ 知的 自己 より も深 く自 己を 見る ので ある
︒な るほ ど︑ 自然 の形 而上 学の うち
︑理 念の 形而 上学
︵超 越的 自然 学︶ もま た︑ 自然 の外 向的 超越 は不 可能 であ り︑ 内向 的超 越の みが 可能 であ るか ぎり
︑主 観│ 客観
│関 係の 根拠 への 超越 を︑ 統覚 の自 己自 身の 方向 へ深 める こと によ って 遂行 され る︒ しか し︑ その 際理 念の 対象 であ る或 るも の一 般に 付与 され る特 殊な 述語 は︑ カテ ゴリ ーの
﹁類 比に よる
nach der A nalogie
﹂ 使用
︵
vgl. A 678/B 706
︶か ら得 るこ と がで きる のみ であ る︒ 理念 の対 象は
﹁想 像さ れた
eingebildet
﹂ 対象
︵
vgl. A 670/B 698
︶に すぎ ず
︑こ れ は︑ 対象 の 認 識に よる のと は異 なる 仕方 で充 填さ れる べき 空白 の場 所が そ こ に ある こ と を示 す の であ る
︒人 倫 の 形而 上 学 とは ま さ に︑ この 場所 を﹁ 実践 的デ ータ によ って 充た すこ と﹂
︵
BXXII
︶ であ る︒ その
﹁デ ータ
﹂が 案出 さ れ たも の で ない こ と は︑ 私と いう
﹁中 心化 の動 向﹂ に対 する 抵抗 に出 会う こと
︑す なわ ち﹁ 目的 自体
﹂が 定言 命法 の実 働で ある こと にお いて 確証 され る︒ 注
引 用 文 中 の
﹇
﹈ に よ る 補 足 は 引 用 者 に よ る も の で あ る
︒ カ ン ト︵ImmanuelKant,1724-1804
︶の 著 作 か ら の 引 用 に 際 し て
︑KritikderreinenVernunft
に つ い て は 慣 例 に 従 い
︑ErsteAuflage
︵1781
︶ とZweiteAuflage
︵1787
︶ の 頁 数 を
︑ そ れ ぞ れ A
︑ B の 略 号 と 共 に 本 文 中 に 記 入 し た
︒ そ れ 以 外 の 著 作 に つ い て は
︑ ア カ デ ミ ー 版
︵dePreußischenAkamiicederWissenschafthglKaHent’sgesammelteSchriften,raöniusgegebenvonderKen
︶ の 巻 数 と 頁 数 を 本 文 中 に 記 入 し た
︒ な お 訳 出 に あ た っ て は 諸 家 の 訳 文 を 参 照 し た
︒ 記 し て 感 謝 申 し 上 げ る
︒
⑴
﹁ 自 然 の 内 向 的 超 越
﹂︑
﹁ 主 観
│ 客 観
│ 関 係 の 根 拠 へ の 超 越
﹂ と い う 語 法 は 次 の 書 か ら 学 ん だ
︒ 量 義 治
﹃ 宗 教 哲 学 と し て の カ ン ト 哲 学
﹄︑ 勁 草 書 房
︑ 一 九 九
〇 年
︑ 二 四 八 頁
︒
カ ン ト に お け る
﹁ 目 的 自 体
﹂
― 20 ―