した湯浅電池の技術力の高さを証明したものといえ る。自動車産業では,組立企業(いわゆる自動車メー カー)の技術力の高さや生産能力(組立台数)がしば しば指摘される。そのため,それを下支えしている部 品の供給業者の努力が霞みがちになる。しかし,こう した供給業者の技術革新やその協力に対しても,電気 自動車だけでなく,光が当てられるべきであろう。 たま電気自動車では,「49年型」が最後に生産した 電気自動車であった。その初年には1充電での連続走 行距離で約200km の走行が可能となった。また小型 車は約130km であり,スピードは中型55km/h,小型 45km/h であった。この電気自動車の大きさは,のち に同社から派生・発展したプリンス自動車工業が製造 した「スカイライン」くらいの大きさが中型とされて いる。また軽自動車くらいが小型であった。図表3 は,型式 EMS-49と E4S-49の諸元を示したものであ る。現在では車の大きさにより,極端な差はないが, 一充電走行距離などを見ると,電気自動車はその大き さにより搭載できる蓄電池の大きさ(容量)が異なっ たため,それが一充電の走行距離に影響をしているこ とがわかる。したがって,いかに蓄電池が電気自動車 の命運を左右するかである。これについてはまた後節 で取り上げる。 1949年2月,東京電気自動車は会社名を変更して 「たま電気自動車」となった。同社にとって,電気自 動車の生産台数は,1950年頃が最大であった。図表4 を見ると明らかであるが,1947年は28台であった。最 も多く生産した年は,1949年の397台であった。GHQ から生産許可されていた台数は500台であったが,当 時のわが国における電気自動車の事業者には,その程 度の生産能力しかなく,月に50台が最大とされる(田 中[1996]305-306)。ただ生産能力というよりも電気 自動車生産に必要な部品が揃わず,性能試験において 優秀な成績を収めても,潤沢に部品が割り当てられ, 供給されたわけではなかったことは容易に想像ができ る。つまり,供給部品の不足と生産能力のため,先に あげたような数字に止まったといえる。 (3)電気自動車の生産台数変化 小型電気自動車の生産台数は,1946年423台,1947 年909台,電気バスも各々124台,238台であった。 1948年度は,小型乗用車は日本電気自動車(デンカ) 392台,東京電気自動車(たま)361台,小型貨物車は 東京電気自動車(たま)13台,バスは中島製作所(中 図表 3 「たま」電気自動車の諸元 型式 全長 ホイルベース 最高速度 走行距離一充電 電動機 自重 乗員 EMS-49 4,200mm 2,400mm 55km/h 200km 6hp/80v 1,776kg 5名 E4S-49 3,650mm 2,200mm 45km/h 130km 4.5hp/44v 1,218kg 4名 (出所)田中[1996]306 図表 4 「たま」の電気自動車生産台数(単位:台) 車種
年 E4S-47 E4S-48 E4S-49 EMS-48 年合計
島号)161台,三菱重工川崎機器製作所(三菱電気号) 67台であった(商工省機械局統計課)。このように メーカーによる生産車には相違があった。 1949年度における電気自動車の生産実績は,生産計 画に対して中小型車が64%強,電気バスが53%強とい う状況であった。これは1948年度の生産実績と比較す ると,総生産台数は3台減産のために微減に見える。 ただ車種別では,電気バスが1948年度と比較して約4 割減産となった。そのため比較的需要が減退した1949 年度の生産実績ではほとんど数字上の相違がなかっ た。当時,電気自動車の事業者らによって構成されて いた電気自動車振興会では,1949年度事業として関係 当局をはじめ,国会,報道機関などに対して,電気自 動車の普及宣伝活動を活発化させていた。それによ り,電力,運輸,充電技術及び充電所の普及,蓄電池 の技術的改良など一連の問題が取り上げられることと なった。また将来の課題として,電気自動車の環境が 徐々にではあるが好転しつつあることは過去の生産実 績の推移が示しているとされた(日本自動車会議所・ 日刊自動車新聞社共編[1950]56)。 他方,1949年1月12日付の連合国最高司令官指令番 号(SCAPIN:Supreme Commander for the Allied Powers Index Number)7)では,1949年度における電