九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
朝鮮開国の要因に関する研究 : 初期的開化論と国際 環境の影響を中心として
孔, 義植
https://doi.org/10.11501/3180660
出版情報:Kyushu University, 2000, 博士(法学), 論文博士 バージョン:
権利関係:
第3章 朝鮮開国の国内的要因
朝鮮の対日開国は、 江華島事件の処理過程で朝鮮に加えられた日本の軍事 的な脅威がもっとも直接的な要因になったことは否定できない。
さらに、 朝鮮政府内では、 大院君を政権から追い出して国王親政体制を 取った高宗とその高宗の外戚勢力が反大院君路線という立場から対日柔軟政 策を駆使したのが、 朝鮮開国のもう一つの直接的要因になったことも事実で ある。
しかし、 朝鮮の対日開国は、 こうした直接的な要因ばかりでなく朝鮮開国 の背景として働いた内在的開国要因も過小評価すべきではないということは すでに述べた。
当時、 朝鮮においては、 社会全般に渡って開放を進め西洋文明を積極的に 受容できる社会的階層や条件はまだ整っていなかった。 しかし、 17世紀後半 から芽生え始めた実事求是を重視する実学思想を内面的に受入れ1)、 西洋勢 力の侵略という外部からの刺激も働いて、 一部の知識人や政治指導者は通商 開国が朝鮮の生存と独立を保てる道であるとの現実的認識から、 開国を主張 するようになった。
この章では、 こうした開国を主張していた思想家や政治指導者たちの思想 や論理を初期的開化論と規定し、 そしてこうした論理を持って朝鮮の開国を 主張した人々を初期的開化論者と名付け、 彼らの思想的基礎や対外認識、 対 日開国に対する態度などを明らかにして、 初期的開化論が朝鮮の開国に果た した役割について述べることにする。
対日開国の内在的要因を究明するためには、 17世紀以降芽生え始めた実学 思想を内在的に継承・発展きせ、 朝鮮の対日開国過程で活躍した初期的開化 論を中心に分析を行うべきである。 しかし、 分析の対象を初期的関化論に限 定すると、 当時朝鮮における思想的傾向や対外認識などに関する全体像の把 握が不十分になり、 初期的開化論に対するより客観的な分析ができないこと もあると思う。 そういうことからこの章では、 当時朝鮮の代表的な思想的傾 向であった衛正斥邪思想も研究の対象に入れて初期的関化論を論じて行くこ とにする。
両思想に関する思想的基礎や論理を比較分析することは、 結果的には朝鮮 の開国の遅延理由はもちろん、 朝鮮の開国過程及び対日開国の内容やその方 向性を理解するにも有益であると思う。
第1節 街正斥邪論と朝鮮の開国
1. 街正斥邪論の思怨的基盤
19世紀の初めに西洋勢力が朝鮮に押し寄せて来る中で、 朝鮮の知識人や政 治指導層2)は、 外部からの軍事的・政治的・経済的挑戦に単純に受動的に反 応したのではない。 街正斥邪派や執権事大派、 それから開化派はそれぞれの 独自的な思惟方式をもって現実を認識し、 その中から自身と国家の進むべき 方向を提示し、 それを実現しようとした。
衛正斥邪論は、 こうした外部からの挑戦に直面して、 すでに緩み始めた正 統儒学の内部的矛盾を克服することにより朝鮮の支配体制を守ろうとした忠、
潮や運動であった。
街正斥邪とは、 文字通り儒学の正徳を守り、 これに挑戦する邪説ゃな1)学を 斥けると言う意味である。 これを思想史的側面から考察して見ると、 斥邪の 理論的根拠は、 正統儒学の異端説にある。 つまり、 本来の衛正斥邪忠惣は、
朝鮮の政治体制の封建的秩序の理念として受け入れた孔子・孟子・朱子の学 問をl唯一 の「正学」とし、 陽明学をも入れたあらゆる他の思想と学問を「邪 学」とし、 伝統的な「正学」を衛り、 これを以て外来的「邪学」を斥けると 言うことである。 3)
この衛正斥邪思想と類似した思想としては、 「崇正学閥異論Jと 「尊華援 夷論」等がある。
そもそも宋の老・仏排斥思想であった衛正斥邪思想は、 その後、 斥邪の対 象が漢族への挑戦を企てた満州、|族やモンゴル族に向けられた。 朝鮮において は、 明清交替期に満州族の国であった清朝が斥:11)の対象とされたが、 朝鮮・後 期になると、 その対象は、 凶学(天主教)に変り、 開化期には「倭洋一体」論 になって日本も斥邪の対象となったのである。 4)
19世紀、 朝鮮における街正斥邪の哲学的基調は、 「華夷思想」と儒学の宇 宙論における「理気論J及ぴ「易学Jの「陰陽地理説」に強く結び付いてい fこ。
まず、 華夷思想は、 周知の通り、 中国が世界の中心であり、 華(文明国)で あると見て、 他の全ての国家と民族を夷秋視する世界観である。
このような中国中心の華夷思怨は、 韓国には儒学の伝来とともに浸透して きた。 特に、 朝鮮には儒学が国家支配のイデオロギーとして用いられ、 儒学 が思想、界を支配することになってから、 華夷思想は朝鮮の儒学者の聞に広く
受容されるようになった。
華夷的世界観の見地から見ると、 朝鮮は夷(東夷)の存在であった。 しか し、 華夷思想を普遍的世界思想として受容し吸収した朝鮮は、 自らを「小中 華」であると主張する傾向があった。
このような傾向の中で朝鮮中期に中国において明朝が亡び代って満州族の 清朝が登場すると、 朝鮮の儒学者たちは、 地理的概念としての「中華Jは消 滅し、 文化的概念としての「中華」は朝鮮に存在すると主張した。 5) この 論理に従えば、 朝鮮を「中華Jあるいは「小中華」と自負した朝鮮の儒学者 たちにとって西洋は夷秋であって価値的に劣等な存在であった。 つまり、 交 流の相手にする存在ではなかったのである。
19世紀の朝鮮における街正斥邪思想の主な哲学的基礎をなしていたのは、
儒学の「理気論」のなかの「主理論」であった。 í理気論」というのは、 宇 宙の万物には「理Jと「気」が内在していて、 その「理」と「気」の相互作 用によって事物の性質や形態、 あるいは運動の法則が定められるという儒学 の哲学理論である。 従って、 この理論は「理」と「気」とは分離することの できない不可分の関係にあるものであるが、 物事を主管するのは「理Jであ り、 「気」はそこに付随するものであると見ていたのである。
当時の代表的な衛正斥邪論者であった李恒老は、 「理為主気為役6)Jと 言って、 「理」を宇宙の究極的価値として重視したのに対して、 「気」を没 価値なものと見ていた。 このような主理論の思惟方式は朝鮮における衛正斥 邪派の儒学者たちに共通していた考え方であったが、 彼らは、 この論理から
「理」とr気Jとを、 それぞれ「理J= í正学」、 「気J= í西学Jに置き 換えて、 両者聞の主客:尊卑を区別し、 西洋排斥の論理としたのであった。 つ まり、 街正斥邪論者たちは、 「理主気客」という「主理論Jの論理から東洋 と凶洋との関係を「理Jと「気」との関係に擬制して、 「理J= í形而上」
= í善J= r東洋」、 「気J= í形而下J= í悪J - í西洋」と図式化した のである。 この図式によれば儒学でいう天理・人慾、 道・器、 尊・卑、 上・
下、 華・夷の関係において、 東洋は、 天理・道・尊・ 上・華になり、 凶洋 は、 人慾・器・卑・下・夷になるのであった。 7) このような主理論的思惟 方式を持っていた朝鮮後期の衛jE斥邪論者たちにとって西洋は当然排除すべ き存在であった。
もう一つ、 衛正斥邪忠、怨に理論的な基礎を提供したのは、 儒学における
「易学Jの「陰陽地理説Jであった。 í陰陽地理説Jとは、 中国を中心とし
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て東北方向は、 陽・義・性命という善の土地であるのに対し、 西南方向は、
陰・利・形気の邪の土地であるという易学の論理であった。 そのため西南に 位置した西洋は、 人II:lJの道徳性、 すなわち、 仁 ・義・干し・智が廃棄され、
形・気・利・慾が満ちている土地とされた。 8) だからこそ、 そこには鳥や 虫が住むには便利な所であるが、 人聞は住めない。 したがって、 西洋人は、
外見は人間であるが、 内而は禽獣と同じであると見たのである。 9) そのため 西洋には野盆な風習や禽獣の秩序しか存在していないとみなした。
これは、 中国の辺境に住む四蛮八夷が、 中華文明を尊んでその文明を学ん だのに対して、 凶洋は中国と絶縁の所にあるから尭舜以降の中国文明に恵ま れていないという華夷的世界観と相まって強力な西洋排斥の論理を形成し た。
衛正斥邪思想は、 まさしく当時朝鮮の支配層であった両班の立場を代弁す る思想であった。 彼らは、 19世紀に内憂外患によって露呈し始めた封建的両 班身分制の秩序の緩みを正統儒学を通じて取り戻すため、 全ての他の学説と 思想!を異端として斥け、 儒学による国論の統一を企てたのである。 つまり、
彼らは、 儒学を象徴体系として旧体制を強化する方向から思想の統一と内部 の団結を図り、 これをもって凶洋の侵略を克服しようとしたのである。 10)
この街正斥邪論は、 19世紀の半ばに李恒老・奇正鎮・金平黙など多数の儒 学者たちによってさらに理論化され、 朝鮮後期に代表される支配的思想を形 成して、 朝鮮開国反対の論理的倶拠を提供した。
2. 街正斥邪論者の思想的傾向と対外認識
ここで考察の対象とする
街
正斥邪論者は、 朝鮮開国の前後、 西勢東漸に深 刻な危機意識を感じて、 その危機を衛正斥邪思想をもって克服しようとした 代表的な人物たち、 すなわち李恒老・奇正鎮・金平黙等である。 主に彼らを 対象としたのは、 彼等は、 朝鮮後期を代表する儒学者であり、 徹底した反西 洋意識を持っていた街正斥邪論の中心人物であったからである。 11)1)李恒老(1792� 1鉛8)
朝鮮後期における街正斥邪思想の源流をなしていたのが李恒老であった。
彼は、 京畿道楊根郡壁渓単に生まれ、 3歳の時から学問の道に入り、 18歳で 漢城試12)に合格した。 しかし、 彼は、 官職の道を絶って学問に専念し、 「朱 子の言葉でなければ、 敢えて聴いてはいけないし、 朱子の意であるなら、 必
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ず従わなければならない13)Jと三-う認識を持ち、 儒学における聖賢の正統を 継承しながら諸家の説を集大成した。
彼は、 朝鮮儒学の畿湖学派14)に属しながらも、 具体的には朱子の学統を継 ぐ者として米時烈(1607 -1689)15)を最も尊敬しており、 とりわけ彼の尊嬢思 想、を継承していた。 16)
ZF恒老が活動した時代は、 まさに朝鮮が封建的矛盾に苦しんでいた時代で あって、 その上、 西洋の思想!(主にキリスト思想)や商品が浸透(清国を通じて 流入された)して社会的混乱が高潮していた時期であった。 さらに、 中国と 日本を開困させた西洋列強が朝鮮に急速に接近してきた時期でもあった。
このような混沌を極めた状況の中で、 李恒老は、 西洋の資本主義勢力の挑 戦を国家的危機と認識し、 この危機を克服する方法としては凶学と洋物を禁 止する斥洋しかなく、 それこそ当時朝鮮の政治体制が成し遂げるべき最大の 課題であると主張した。 17)
彼は、 丙寅洋擾の時、 政府に提出した上疏(嘆願書)の中で、 昨今の朝鮮 の政治状況を「危急存亡之秋」と抱握して、 国内には主戦論と主和論18)の二 つの説があることを指摘して、 主戦論を主張する者は、 朝鮮側の人であり、
ー』和論を主張する者は、 敵側の人であると区別した。 なぜなら、 主戦論を主
張すると朝鮮固有の秩序を守ることができるが、 主和論に立つ場合はみんな 禽獣の世界に落ちてしまうからである19)と述べた。
すなわち、 彼の状況認識は、 凶洋との交流は、 固有秩序の破壊をもたらす ものであり、 固有秩序の破壊は、 まさしく朝鮮の政治体制の正統性に対する 挑戦であると認識していたのである。 20)
李恒老の思想の哲学的基礎は「理気論」での「主理論Jであった。 彼に よれば「現Jを求めないで「道心」を実践しようとしない一切の事物と人削 は「悲しになるのであると見ていた。 つまり、 「理Jを志向する 「道心」が
「正」であり、 背理的人心を「邪」と見ていた。 21) したがって、 普遍的秩 序としての中華的政治文化と異なる異質の文化は、 全てが「邪」であった。
こうした理・気に対する階層的な発想は、 中国と夷秋(周辺国)との関係に まで拡大解釈された。 すなわち、 彼は、 中国の周辺国(四夷八盆)は、 中国を 崇恭して模倣しようとするのは当たり前のことであり、 中国と夷秋との関係 を永遠に変ることのできない規範として理解していた。 22)
こうした中華観念の規範意識は、 中国を支配する天子と辺邦を治める夷秋 との関係を陰・l場、 男・女、 有・臣の関係に倣って、 その階層的な秩序を永
久不変の秩序と認識し、 その文化的・政治的上下関係を強制した。 お) このような論理を持っていた李恒老にとって凶洋は、 夷秋よりも下等の存 在である禽獣のようなものであって、 排斥すべき異端であった。 í北虜は夷 秋であると言えども、 話しは通じるが、 南洋は禽獣であるから、 話しも通じ ない存在である24)Jという彼の言葉がこうした彼の西洋に対する態度をよく 物語っている。 したがって、 彼にとって禽獣であった也・洋との通交は、 考え られないことであったと万-えよう。
当時、 中国では、 阿片戦争以降、 西洋の資本主義商品経済が浸透し、 優秀 な西洋の機械や尚-品が中凶人の日常生活に使われ始めていたが、 イド"宜老はこ うした現象を強く非難しながら、 西洋がたとえ技側・術楽・才能においては 中国人より優秀であっても、 それ自体としては評価できるものではないと 言った。 すなわち、 彼は、 道徳と術業(技術業や商業)の関係を孟子の話を引 用して、 道徳を求める者を大人に、 術業に従事する者を小人に分け、 道徳が 術業に比べて価値的に優越であることを説いた。 お) 彼にとって、 人rl:lJと禽 獣、 文明と野蛮を区分する基準は、 技備や術業ではなく、 道徳であった。 し たがって、 こうした技術や術業により作られた西洋の商品は、 人間の生活に 必要な必須品ではなく、 反って人間の道徳生活を妨げる奇技淫巧として認識 されたのである。
このような華夷的世界観から出発する彼の思惟方式は、 凶洋の侵略に対す る対応の方法においても伝統的政治思想に基っ・いていた。 李恒老は、 凶洋の 通交要請とその影響が朝鮮に文化的頚廃・経済的損失・軍事的敗北をもたら し、 結局は政治的危機を招かざるをえないという「洋禍論」を展開した。
この観点に立つ彼の斥邪論の核心は「禦洋論Jとも言う。 26) 学恒老は、
西洋の思想、・学問・宗教等を全て洋学と称し、 洋学は洪水や猛獣より危険な ものと見て、 次のように洋学の禁断を唱えた。
すなわち、 「今日に於いて洋夷の禍は、 洪水・猛獣の禍より遥かにひど い。 殿下(国王)は昼夜にこれを箸戒して、 内則では有司をして邪学之党を捕 訣し、 外則では将士をして海から入る外冠を征伐している。 いまこそ人凶に なるか禽獣になるか、 或いは、 生死の別れ道の時期であるから、 誠に少でも 其の取締まりを絞めてはいけない幻)Jと李恒老は、 洋禍の中でも、 洋物28)に よる害悪を一番大きいものと見て、 洋物禁断論を緊急の課題として取り上げ た。
彼は、 洋物根絶を「内修之機要」として提示した。 つまり、 彼は、 「自分
自身を修め、 家をととのえ、 凶政を正しく治めば、 自ずから洋物は使われな くなって交易は断絶されるし、 外国もそれ以上は近寄ることができなくな る29)Jとの見解から一般百姓に対して洋物の使用禁止を促しながら、 そのた めの制度的装置を構えるよう主長したのである。
このような見地から彼は、 凶王を始めとする支配階層に向けても、 「外物 には其の種類が多くて、 一々取上げることはできないが、 その中で洋物の被 害が一番酷いのである。 故に臣は前疏において敢えて請いたように、 殿下は 自ずから断案を下ろし、�Ii食円用の間にーったりとも洋物があればことごと くそれを探し山し、 関廷に衆めてこれを焼き、 これを以て宮関・宗戚の家を 略動し、 ここにおいて君臣百姓の耳目に及ぽし、 中外上下をして暁然、 聖意 の在るとこころを青天白日の如くに知らしめれば、 志に従わざる者はないで あろう。 然る後に洋賊の来るを其の根源から絶つべきである30)Jと洋物使用 の禁止を促した。
李恒老は、 要するに、 国王自らが洋物の使用を禁止し、 もって朝廷及び国 家の秩序を確立せよと上申したのである。
李恒老は、 1866年9月、 副承旨兼工曹参判に抜躍され、 10月に辞職するま で洋禍問題について7回にわたる上疏31)を出したが、 その要旨は、 儒教的木 末思想に立脚した内修外援論であった。 彼は、 西勢東漸の対外的危機に直面 して次のような危機克服策を提示した。 すなわち、 君主の「修心と克己正 心J ・ 「洋物排斥」・「訣補征伐」がそれである。
ここで注意すべきことは、 彼はその中で洋物排斥のような経済的な対応は 重視していたが、 「訣補征伐」という軍事的対応は重視していなかったこと である。 これは、 斥洋の方法論に於いても儒教的な本末思想を援用して「諒 補征伐Jのような軍事的な対応は校末的なものと見て、 洋物排斥のような経 済的な対応を重視したことをよく物語っている。
さらに、 李恒老は、 洋物排斥も根本的な解決策ではなく、 あくまでも修心 と克気正心の手段にすぎないと見ていた。 そして洋禍を根絶するための方案 としては、 吾道を明らかにして百姓を教化し、 仁愛と倫理精神を広めて行く という儒学的方法論を提示したのである。 32)
さらに、 彼は、 統治者がiIミ学を実践することによって人倫を明らかにし、
知識人たちが正学を研究して聖人の道を守って行くならば、 百姓は邪悪な心 を持つことができなくなり、 凶洋の奇技淫巧は横行しえないだろうお)と言っ て、 内修の基本は、 あくまで儒教的道徳の実践にあると主張した。 つまり李
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恒老は、 凶洋勢力の駆遂のための根本的エネルギーを、 外形からよりは有主 を始めとした支配層と一般百姓の内面的意志から求めていたのである。
2)奇正鎮(17g8� 1お8)
朝鮮後期に活動した衡:11:斥邪論者の中で、 李恒老と共に代表的斥都論者 として挙げなければならない人物が、奇正鎮である。 奇正鎮の場合、 とド恒老 とはその哲学的基礎において若干の相違点はあるにしても、 西勢東漸に対応 して、 華夷的世界観を展開し、 「理気論」に立脚して強力な斥邪を主張した 点では同じであった。
奇正鎮の学問的な特色は、 学恒老の斥邪論が「理気論」の「主理論」を,皆、
怨的背景としているのに対して、 rl唯理論」に立脚して西勢の侵略に対応し ようとした所にある。 34)
彼は「理主気僕」と言うrl唯理一元論Jから西洋を認識しており、 朝鮮と 西 洋との関係を、 清洋な型の存在にたいする物質的な欲望のみを求める気 (妖気)の存在という対立関係と見ていた。 そのため互に相容れない属性を 持っている両者の通交は絶対不可能で'あるということである。
また、 両者の優越関係に於いては、 西洋はたとえ物質の面において朝鮮よ り優れていても、 それは「気Jの現象であり、 天命と人倫に従う朝鮮は、
「理」の主体であるから山・洋の挑戦は結局朝鮮の秩序によって克服できると 見ていた。 35)
このように奇正鎮は、 「主理論」の立場を強化して斥邪論を展開していた が、 その本質においては、 他の斥邪論者と同じ思想的傾向を持っていた。 奇 正鎮は、 1866年に政府に提出した「丙寅斥邪疏」の中で、 フランスの江華島 侵略を凶洋による朝鮮侵略の前兆と見て、 深刻な危機意識を吐偏した。 彼 は、 西洋人が内侵・ 上陸したのは、 既に前から計画されたことでであって 表面的には神父殺害事件の真相調査や解決を目的にしていると言っている が、 実際の彼らの意図は、 別にあると指摘した。 彼は、 凶洋人内侵の内面的 な目的を、 政治的従属(附庸我国家)・経済的搾取(矯蔵我山海)・文化的隷属 (奴僕戎衣冠)・社会的な風俗の破壊(漁猟我少文)・及び道徳的堕落(禽獣技生 霊)にあると見ていた。 36)
すなわち、 彼は、 凶洋が要求する通商や交流を許すことによって朝鮮が受 ける被害として、 一つは、 主権侵害という政治的な損失、 二つは、 資源の略 奪という経済的な損失、 三つは、 西洋文明への隷属という文化的な損失、 四
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つは朝鮮固有の風俗や秩序の破撲という社会的な損失、 五つは、 こうした損 失による朝鮮人の禽獣化という民族的な堕落を挙げていたのである。
奇正鎮は、 こうした凶洋の挑戦に対処するため朝廷の迅速かつ確固たる政 策の樹立を促した。 すなわち、 彼は、 凶洋からの侵略に効率的に対応するた めには、 国家が一定不変の政策を定め、 斥邪にたいする君臣の意志を固め、
国論の統ーを図るべきだと主張したのである。 幻) それから、 彼は、 国家が 取るべき具体的な政策としては、 洋物禁断と内修外援を挙げた。
彼は、 同じ上疏の中で、 洋物禁断と内修外接の立場で「近日、 豪華軽薄の 風潮あり、 洋物を求め、 洋布を耽する者が多いことは、 最も不祥のことであ り、 海冠(凶洋)束来の兆しである。 中外の宮に命じて取引きれている洋物を 探し出し、 それを大路に於いて焼き払い、 嗣後貿来者は、 外冠と見なして、
その罪を律せば、 百姓の志も一つになる38)Jと西洋商品の排斥を主張しなが ら、 一方では「百姓の志を一つにする」という内修の重要性を挙げている。
ここで分かるように、 彼の洋物禁断論で注目すべきことは、 西洋の侵略に対 する対応の問題であった。 彼は、 凶洋の優勢な勢力を基本的には「気Jの現 象と見て、 その物理的な侵略の可能性にたいする警戒心を深めていながらも そうした西洋勢力の侵略に直面して、 彼がより警戒しなければいけないと 思ったのは、 西洋勢力それ自体よりは、 自ら西洋文明に浸食され、 堕落して 行く朝鮮人の態度であった。 つまり、 彼は西洋の物理的侵略をもたらす可能 性を堕落した朝鮮社会の内部から求めたのである。 これは全ての原因を自分 から求めようとする「反求諸己」という儒学の本末観に基つ。いた考え方で あった。 このような「反求諸己」と言う本末思想は、 西洋勢力を斥ける方法 においても凶洋勢力それ自体に対する物理的抑制よりは、 自己の意志が洋物 の影響を受けないよう自己心性を修養することに重点がおかれた のであ る。 39)
彼は、 こうした内修外嬢論から内修を強調したが、 彼が主張した内修の要 諦は「内修の事を取り上げれば、 その節目は甚だ繁多であるが、 その要請 は、 結人心という三字である40)Jということから分かるように、 マ吉人心」
すなわち、 百姓の団結であった。 それから百姓の団結は、 君主を中心として 行われなければならないことで、 百姓の団結こそが君主の現実的な課題であ ると見ていた。 彼は、 君主ど百姓との関係を「君民相須天下之定型也」と見 て、 政治力を 君主に集中することを求めながらも、 それは百姓に対する一方 的な要求ではなく、 反って君主が養民徳治を行う時はじめて実現可能なこと
であると見ていた。 彼の舌・う「結人心」とは、 内修の成功を円・姓のrt-ì:に対 する忠誠心など内面的意志から求めることであると共に、 京主の「本務力 行Jを強調したのである。 つまり、 君主が百姓を苦しめるような政治をや め、 百姓のため誠心の政治を行う時、 正に「結人心」が可能になり、 洋賊を 斥け、 国家を守ることができると言うことであった。
このような君主の養民徳治を治道の根幹と見て、 それを斥�ì�の一つの方策 にしようとした彼の斥邪論もやはり朱子学的思惟の様式に起因するところで あった。
しかし、 奇正鎮は、 外嬢のための内修をただ「結人心]とか 「凶王の普
政」という観念的側面からのみ求めたのではない。 彼は、 朝鮮μJ部の制度的 矛盾や官吏の腐敗等を挙げ、 その改革を主張した。
つまり、 彼は、 1862年に起きた普州民乱の原因を分析し、 その対策を論じ た上疏式の「壬成擬策Jの中で、 朝鮮の国家的危機は対外的脅威にもその原 因があるが、 支配層の腐敗や租税と軍役の不公正な賦課にその根本的な原因 があると辛妹に批判して41)、 租税と軍役を始めとする社会・経済的改革を主 張した。
彼が改革を主張した社会・経済的な害悪は、 具体的には、 次のようであっ た。
一つは、 書院42)の民弊問題。
二つは、 大土地の私有化による公田制理念の崩壊。
三つは、 配分の不公正と一部の箸修風潮の流行問題。
四つは、 軍役の不平等問題。
五つは、 科挙制度の矛盾問題等であった。 43)
このように奇正鎮は、 当時朝鮮社会の弱体化を窮極的には政治体制の内在 的矛盾から求め、 社会・経済的側面の改革を通じてその克服を主張した点で は、 人間心性の改善から社会・経済的な矛盾を克服しようとした従来の政治 思想よりは一歩進んだ思惟様式を持っていたと言えよう。 これは、 現実的に 優勢な西洋勢力に対抗するための方法として、 直接な対決は避けながら、 内 部的な抵抗力を蓄積しようとしたという点で、 その状況的な合理性は認めな ければならないと思う。
3)金平黙(1819-1お8)
金平黙は、 学問的脈絡から見ると徹底的に李恒老の「主理論」的な立場を
継及しており、 政治忠、i恨の側而からも李恒老の「禦洋斥邪論」を一層精巧に 発展させることにより、 その後の衛正斥邪運動の理念的な支柱となった人物 であった。 44} 彼は、 外部からの危機を克服する方法においても、 李恒老の 論理を用いて論議を展開していた。
まず、 彼の対西洋観を見ょう。 金平黙の対洋認識は、 凶洋は、 全く異質な 文化圏であるとの認識が前提になっていたため異質の文化圏である以上、 朝 鮮社会の主体性を守るためにはそれを排斥しなければならないと言う対抗意 識から山発していた。
金平黙は、 丙貨洋擾など山洋の直接・間接の侵略を経験する中で、 さら に、 凶洋に対する抵抗意識を高め、 1860年代には「禦洋論」を通じてその斥 邪・斥和論を具体化させた。 彼は「主理二元論Jの立場から「四端之徳(仁 義礼智)jと「五品之倫(五倫)jを用いて、 中国人と朝鮮人は、 人類(人間)で あるが、 凶洋人は、 禽獣であるという二分法的 人獣之別之論理を 展開し た。 45}
以上の「禦洋論」の主張は、 彼の思想、ををよく表している。 金平黙は、 禦 洋論で、 禽獣大別の二分法的論理の根拠を二つの次元から説明していた。
その一つは、 華夷思想で、 彼は、 中国・朝鮮の文化圏を人類の文化圏であ ると言っていたが、 その根拠や基準を人道の有無から求めていた。 ここで言 う人道とは、 仁・義・礼・智の四端の徳と、 五品の倫及ぴ刑政の教を指して いるが、 こうした人道を持っている中国人や朝鮮人は人間であり、 持ってい ない凶洋人は人間ではないという論理であった。 46}
このように彼の「禦洋論Jの理論的背景も結局は伝統的な華夷思想、であっ たことが分かる。
金平黙の西洋認識の基調を為しているもう一つは、 易学的次元の論理で あった。 彼は同じ「禦洋論」で、 中国は世界の中心であるから、 そこに生ま れる者は耳目聡明で、 人道の揃えた人間であり、 凶洋は世界の周辺にあるか ら五行の偏気のみを受けて、 耳目心智の機能は禽獣のそれに過ぎないという わけである。
朝鮮については、 朝鮮も中凶の周辺に位置しているから五行の偏気しか受 けていないが、 陰陽説によると東北は、 陽方であるから文明の気を得て人道 を行う所であると主仮した。 47} つまり、 これは、 明らかに李恒老の論理と 根本を一つにしている当時の衛正斥邪論者に共通した論理でもあった。
彼は、 基本的に西洋を東洋に対する侵略勢力と見ていた。 彼は、 西洋は必
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ず中凶を侵略して、 その侵略は屑歯関係にある束韓(朝鮮)にまで及ぶだろ う48}と凶洋を侵略勢力と規定し、 その侵略の被害を朝鮮朝中期の清の侵略 (丙子・丁卯胡乱49})より逓かに多い日)と認識していた。
さらに、 彼は、 「反経息邪」論で洋禍により生じられる社会倫理的側聞や 経済的側面51)においての害悪を次のように指摘した。
まず、 社会倫理的側聞での害悪として、 彼は、 「凶洋の宗教と忠、怨は常道 から大きく離れているのに、 多くの土類がその宗旨に誘われて四洋の奇技淫 巧を受入れ、 それを楽しんでいる。 flli・洋は交易を通じて物質的な利益のみを 求めている。 男女の倫理.が混沌しているのにもかかわらず絹子供女がこれに 倣っている。 さらに、 凶洋の倫理は、 上下混沌しているのに、 これに向調す る勢力が培えている52}jと深刻な愛慮を示した。 つまり、 彼は、 凶洋の倫Rg と言うものは男女・上下を区別しない倫理であると見て、 儒学的正徳を最高 の普:と尊ぶ朝鮮社会の倫理観の立場から凶洋の思惣を朝鮮社会の主体性を破 壊する要因と認識したのである。 特に、 彼は、 西洋の挑戦によって生じる害 悪の中でも経済的側面の害悪を強調し、 交易を偽装した一山・洋の資本主義の浸 透に対して敏感な反応を見せていた。 つまり、 彼は、 同じ「反経息邪」論の 中で、 「本国で産出される布鳥の量が不足でないのに、 必ず西洋の布吊を買 い求め財貨を浪費することを不惜に思い、 本国で産出される医薬農園(農産 物)が不足でないのに、 山・洋の物であれば、 愛慕してそれを求める。 さら に、 皆が訪蘇教(キリスト教)を信じているのでもないのに、 自分も知らずに それに倣って行動している臼}jと論じて、 経済的側簡での交流が無駄な凶洋 製品の流入と共に凶洋の忠怨と宗教の流入を加速化させ、 結局、 朝鮮はその 社会倫理的基盤と主体性を髭失するだろうと憂慮した。
このような西洋認識を持っていた金平黙は、 そこで、 凶洋の挑戦に対応す る方法論として、 まず、 洋物禁断論を主張した。 彼は、 通貨の害悪を防ぐた めの斥洋の方案として異物を排斥し、 国産物を利用しなければならないとIi
う経済的自立案を提案した。 54} 彼が通貨の害悪を指摘し、 洋物排斥を主仮 したのは、 彼が凶洋の経済的浸透を近代的意味の資本主義経済の浸透として 認識したからではなく、 占典的意味の異端排斥と言う観点からなされていた ことは言うまでもない。 金平黙は、 斥洋の根本的方法として儒教政治理念の 根本になる「君仁行政、 其民親其上死其長」の論理を提示し、 まず、 君主が 正徳を守り、 民本政治に忠実していれば百姓は自ら忠誠心を持ち、 画家の安 衡が守られると力説したのである。 日) つまり、 彼の斥邪論における論旨の
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展開の基調は、 正統儒学の政治思想、の次元から少しも離れていない。 ただ,
ここで注目すべきことは、 「更張問答」で言うところの「良法は長くなれば 弊端が生じる、 弊端が生じれば百姓を害する、 百姓を害すれば、 すなわち国 の禍になる56)Jである。 すなわち、 彼は、 如何に「先王之良法」であっても
「弊生害民Jであれば「改革Jしなければならないと主張したのである。
このような「白強我事Jのための政策対案は、 李恒老によって提案された が、 金平黙の政策対案は、 先王之良法も害民になれば改革すべきだと主張し た点で李恒老のそれよりは妥当な代案を提示したと言えよう。
しかしながら、 金平黙の「改革Jの方法もこれまでの街正斥邪論者と同じ く「内修Jを強調している点においては、 李恒老の修身重視の禦洋論と同じ であった。
以上のような街正斥邪論は、 大院君の鎖国政策日)に理論的な根拠を提供す る事により大院君や大院君の支配下にあった政府から庇護され、 益々強化さ れて行ったのである。
3. 衛正斥邪論者の対日認識と開国に対する態度
朝鮮の伝統的対外観から見ると、 日本は朝鮮と並んで中 華文明圏に属して いた東夷と認識されていた。 しかし、 伝統的に朝鮮の知識人たちは、 中国に 対しては文化的先進国として尊ぴ、 その文化の受容に積極的であったが、 日 本に対しては文化的後進国と見なし、 日本文化の受容や交流の必要性を認め ていなかった。 そのため日本に関心をはらう朝鮮の知識人は多くなかった。
朝鮮の知識人が本格的に日本に関心をはらうようになったのは、 豊臣秀吉 の朝鮮侵略(韓国では「壬辰倭乱」と呼ぴ、 日本では「文録・慶長の役Jと 呼ぶ)以後であった。 この事件を切っ掛けとして朝鮮の知識人は、 日本を漠 然とした交隣の対象国ではなく、 直接的に朝鮮の運命に影響を及ぽせる固と して認識しはじめたのである。
しかし、 この事件以後の朝鮮知識人の日本に対する認識は、 その前に比べ 非常に悪化していた。 この事件以後、 知識人の日本観の共通的な特徴は、 日 本に対して徹底的に夷秋祝しているということである。 一部の知識人は、 日 本の軍事的・政治的な側面に関心をもって、 それに関する著述を出すなどの 動きもあったが、 ほとんどの知識人は、 日本に感情的な敵撫心をカタルシス する方法のーっとして日本を夷秋ないし野蛮国と見なしていた。 58)
その上、 明清交替以降、 朝鮮では自らを中華文明の継承者乃至は守護者で
あるという「小中華J忠怨が広がり、 これによって日本を蛮夷として軽蔑す る傾向も現れた。 こうした小中華意識は、 国際的な税実とはほど速い非現実 的な意識としてその閉鎖性と自己陶酔的な孤立主義は、 彼らの対外認識に非 常に否定的な要素として作用したが、 朝鮮後期における衡正斥邪論者の対円 認識にはこうした意識が強〈残されていた。
しかし、 政府レベルでの関係では、 善隣外交を持続してきた。 伝統的に両 国は互いに修好関係を維持するのが、 安全や国益に有利であるとの認識を 持っていた。 特に秀吉の朝鮮侵略以後、 朝鮮は日本の軍事的脅威を緩和する ために対応島を通じて経済的交流を維持しながら日本との交隣外交を続け、
相互に盛弔を知らせ、 度引や弔問使節を派遣したり、 園内外に重大な変化が あれば互いに通告したりすることを通例としていた。 59)
この慣例に従って日本は、 1850年代米国をはじめ西洋との開国の事実を朝 鮮に知らせたし、 朝鮮も1866年の丙寅洋擾の始末を対馬蒋を通じて日本政府 に知らせ、 朝鮮から退去した洋夷が日本に侵入する恐れもあるから警戒を強 めるよう忠告したこともあった。
このような両国の伝統的な外交関係は、 明治維新による王政復古を朝鮮に 知らせる過程で大きく動揺し始めた。 すなわち、 清国の皇帝のみ使える
「皇J ・ 「勅」の文字を使う日本は、 もはや交隣の相手ではない。 また、 凶 洋に開国して西洋の文物を受け入れた日本は既に洋夷であると言う「倭洋一 体論」が提起きれ、 それが説得力を持つようになったのであり、 これによっ て対日感情も悪化した。 特に徹底した華夷的世界観から中国の文化的価値、
言換えれば儒教的教理を絶対的善として重んじていた衛正斥邪論者にとって は西洋に開国した日本は、 凶洋と同じく禽獣の国として認識されるように なったのである。
金平黙は、 日本との江華島条約の締結に反対して政府に出した「代京畿江 源儒生論洋倭情迩仰請絶和疏」の中で、 今日の日本は、 過去の日本ではな く、 丙・ 丁之事(清の朝鮮侵入)は、 華・夷の区別の問題であったが、 今日之 事(江華島事件)は、 人・獣の区別の問題であるとの認識から日本を禽獣祝し ていた。 ω) すなわち、 彼は、 一部の対日開国派が対日関係を対清関係と同 ーな次元として規定しようとしたのに反対して、 清国は元々は夷秋であった が、 すでに変夷したので夷秋ではない。 しかし、 日本は西洋に開国してから は凶洋化され、 貨色のみを求め、 人理を区別しえない禽獣になったので、 通 交は絶対に不可であると主張したのである。 つまり、 彼は、 日本との関係を
西洋認識の範時から抱握したのである。
さらに、 李恒老の門下生として朝鮮開国反対運動の最先方に立っていた佳 益鉱61)は、 朝廷に出した上疏「持斧伏関斥和議疏」の中で日本との修交の不 可を力説じていたが、 その論理も金平黙と同じであった。 つまり、 過去の日 本は、 隣国であったが、 今日の日本は、 冠賊である62)と言って、 開国以降の
円本はもはや隣国ではなく夷秋であると認識したのである。
彼は、 対日開国反対の刻笑的な理由を五つの項目に分けて提示したが、 そ の要胃は次のようである。
一つは、 日本が朝鮮の軍事的な弱点を看破して講和を要求しているが、 彼 らは朝鮮に対して絶えない欲望を持っているから、 それを満足させる方策を 朝鮮は持っていない。
二つは、 西洋の場合と同じく、 日本と交易を開く場合、 日本の商品は淫箸 寄玩の箸修品であるのに、 朝鮮の品物は、 民命所寄の必需品であるから、 無 限に生産できる箸修品と資源が有限な必需品との交易は必ず朝鮮の荒廃をも たらす。
三つは、 日本は自ら倭と称しているが、 実は洋夷であるから、 日本と講和 すれば直ちに邪学、 すなわちキリスト教が全国的に蔓延する。
四つは、 もし朝鮮が日本と講和して日本人が朝鮮に往来して朝鮮人と混ぜ て住めば、 彼らは禽獣の欲求を自由に発散して朝鮮社会を混乱させ朝鮮は滅 亡する。
五つは、 清国と講和したのは、 元々清国は夷秋であったが、 中国の仁 ・義 を習い、 人聞の国になったからである。 しかし、 日本は貨色のみを楽しみに して、 人IMJの道理を知らない禽獣になったので、 禽獣との講和は不可であ る。
このように当時の衡正斥邪論者たちは、 日本の開国あるいは明治維新を境 に凶洋化しつつある日本を凶洋と同じ洋夷と見なし、 旧来の日本と区別しよ うとした。
そのような彼らの斥倭の思想の根底には、 日本の軍事的脅威からくる危機 感よりは、 日本が中華文化圏から脱皮して西洋化の政策を受容するところか ら来る文化的危機意識がもっと強かったと思われる。 臼) 雀益鉱は、 明治政 府が凶洋化政策をやめ、 脳内の親凶洋主義者を押さえ、 儒教国家として旧法 を守り、 嬢夷を実行に移すならば修交してもよかろうと主張したが、 これは 彼の華夷的見地からの対日観をよく物語っていると言えよう。
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すなわち、 街正斥邪論者の斥倭の論理は、 日本の軍事的な脅威よりは、 円 本が中華文明圏から離脱して凶洋化したことからくる文化的な危機意識に対 する箸戒感が深かったのである。
このように、 当時の衛正斥邪論者には、 日本及ぴ朝鮮を巡つての副際情勢 にはほとんど無知のまま儒教的価値観を基準に日本との開国に反対したので ある。 つまり、 すでに山・洋に国を開放して凶洋秩序へ編入されたH本との通 交は、 禽獣との通交になるから彼らにとって日本への関凪は絶対に認められ ない事だったのである。
4. 街正斥邪論の奇f-価
今まで見てきたように街正斥邪思想は、 儒教価値の固守・旧体制の維持・
鎖国をその根幹とする徹底した保守思想であった。 そのため、 衛正斥邪論者 たちは西洋はもちろん凶洋的秩序への移行を試みた日本との開困に対しても 強く反対の立場を取った。
彼らのこうした時代遅れの歴史認識は、 朝鮮をして急変しつつあった凶際 情勢への対応を遅らせ、 結果的には国難を招いたともいえるだろう.
しかしながら、 朝鮮の近代政治史における街正斥邪思想が持つ意義や役削 は、 否定的な側面のみではない。 この思想が持つ論理的矛盾や限界性にもか かわらず、 この思想そのものは、 朝鮮の近代政治史あるいはその後の歴史の 発展にそれなりの役割を果たしたからである。
以下、 街正斥邪思想の肯定的側面と否定的側面、 あるいは限界性について 述べ、 朝鮮の対日開国との関係について論じて見ょう。
朝鮮の近代政治史におけるこの思怨が持つ肯定的側面として取り上げられ るのは、 この思怨に内在していた反侵略性と主体性という二点である。
まず、 この思想において注目に値することは、 凶洋の侵略性に対する洞察 力である。 街正斥邪論者たちが西洋及ぴ日本に対して非現実的認識しか持っ ていなかったために凶洋の科学文明の威力と国力については正しく理解する ことはできなかったが、 彼らは、 西洋が取ろうとした包括的な侵略の性格に ついては正しい歴史認識を持っていた。 つまり、 街正斥邪論者たちは、 山.洋 (日本を含む)に開国を許して通商した場合に招かれる朝鮮の政治・経済・社 会的損失について相当現実的かつ具体的な認識を持っていたのである。
例えば、 李恒老は、 凶洋の通交要請とその影響が朝鮮に 文化的頚廃・経済 的損失・軍事的敗北をもたらし、 結局は政治的危機を招かざるをえないとい
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う「洋禍論」を展開して、 特に凶洋商品の流入がもたらす経済的な害悪を強 く管戒した、 すなわち、 彼は、 凶洋の商品は工業製品であって、 その生産能 力が無限であるのに対して、 朝鮮の場合は農業生産物であるから、 その生産 力に限界がある64)と述べて、 外凶の工業品と園内の農産物との交易により招 かれる朝鮮側の被害を指摘したが、 これは、 まさに西洋資本主義の植民地か らの経済的な搾取を看破したことであった。
また、 奇正鎮は、 西洋人の内侵の内面的な目的を、 政治的従属(附庸我国 家)・経済的搾取(衛政我山海)・文化的隷属(奴僕我衣冠)・社会的な風俗の破 壊(漁猟戎少文)・ 及ぴ道徳的堕落(禽獣我生霊)にあると見ていた。 すなわ ち、 凶洋人の無限な欲求が朝鮮を植民地化するだろう(無限之欲附庸我国家) とïlli洋の植民主義的陰謀を予見していた。 白)
さらに、 金平黙は、 交易を偽装した凶洋の経済的な浸透が、 朝鮮の経済的 な窮乏のみでなく、 社会秩序の混乱をもたらし、 結局は、 朝鮮の生路(生残 る道)を絶滅させる(動車色我生路無所不至66))と見て、 西洋の侵略を戒めた。
一方、 前で例をあげた佳益鉱の場合も、 日本との講和反対の理由を、 日本 商品の浸透による経済的な被害や西洋思想の流入による社会秩序の素乱等か ら求めていた。
このように当時の衛正斥邪論者たちの対西洋認識は、 中華思想や儒学的哲 学論理に基づいた非現実的で時代遅れのものであったが、 西洋諸国が試みよ うとした資本主義侵略の性格については正確に把湿していた。
これは朝鮮が開国した後、 日本の商品経済の浸透により次第に朝鮮経済が 円本経済の影響圏に編入されて行った歴史的事実から見た場合、 街正斥邪論 者たちの凶洋認識は、 それなりに一つの歴史意識としての洞察力を持ってい たと1'1えよう。
衛正斥�ì)論の肯定的評価に値するもう一つは、 この思想が持つ主体性であ る。 衡正斥邪論者たちは、 「理気論」と言う哲学的 思惟方式を用いて西洋に 対する朝鮮の優越性を説いていた。 これは、 前にも述べたように「型Jの主 体である朝鮮の秩序が「気」の現象に過ぎない西洋の秩序を圧倒するという 発想であったが、 この「主理論」での「理Jの強調は、 単純な儒学の学問的 傾向ではなく、 当時主体性の危機に直面した朝鮮が自身を主張するための一 つの表現様式であったことである。
19世紀の凶勢東漸の中で、 凶洋が朝鮮に押し付けようとした秩序は、 両体 制との|旬で合意された秩序ではなく、 朝鮮の意志とは全然関係のない一方的
なものであったので、 朝鮮として西洋の秩序の受容は当然あり得ないことで あった。
このような西洋の一方的な秩序が強要された時、 これに対抗して向幽の秩 序と主体性を守ろうと努力した思想が衛正斥邪思想であって、 その点におい て19世紀の韓民族の排他的自意識から来る保守的伝統忠、悲!という意味以上の 意味を発見することができるのである。
街正斥邪思想、におけるこうした主体性は、 日本への開園過程て\ 開国=主 体性の喪失という観点から開国反対の論理を提供したが、 開国後、 朝鮮が円 本に植民地化されて行く過程では、 抗日義兵運動の理念として、 さらに、 相 民地下では3・1独立運動の精神として承継されて行く。
しかしながら、 当時、 朝鮮の衛正斥邪論者たちが守ろうとした秩序は、 中 華秩序であったのか、 あるいは朝鮮固有の秩序であったのかという問題が残 る。 この問題は、 衛正斥邪論がもっ思想の限界性をよく物語っていることで もあるが、 朝鮮後期になれば多くの街正斥邪論者たちに朝鮮を中華思想の継 承者と見なす「小中華思想」が広く受入れたことことから考えた場合、 彼ら が守ろうとした秩序は、 必ずしも中華秩序であったとは言い難いと思う。
この衛正斥邪思想の反侵略性と自主性については、 斐在彦氏も街-,r�斥猟忠、
怨は、 このように自主的開国から開化に対する保守的性格のものであるが、
近代朝鮮における歴史的背景の中で果たした客観的役割から見て、 資本主義 列強の侵略に反対する強烈にして頑固な反侵略的性格と同時に没主体的凶洋 化を抑止した肯定的性格も正しく評価しなければならない67)と指摘した。
以上のよう街正斥邪忠惣とその論理は肯定的に評価されるにも拘らず、 こ の思想の持つ守旧性と歴史発展の動態性についての現実認識の欠如は、 この
思想の致命的限界であった。
街正斥邪論者たちの忠、恋!とその論理における限界性は、 彼らの凶洋及ぴ円 本についての認識や対応という側面と中国に対する自主性という側面からも 批判することができる。
街正斥邪論者たちにおける西洋認識の基礎をなしていたのは、 中華思;位、と 儒学的哲学論理、 すなわち「理気論」と易学の「陰陽論」であったことは既 に述べたが、 こうした経験的考察を欠く二分法的論理を持って、 凶洋と円本 を認識しようとした点にまずこの思想の大きな限界を見出すことができる。
朝鮮が西洋の侵略に直面した19世紀半ばは、 すでに東洋的凶際秩序、 すな わち、 中国中心の華夷的な世界秩序観は、 阿片戦争を境として崩れ去った。
街lE斥邪論者には、 こうした変化する世界大勢にたいする歴史意識が欠けて いたのである。そのため街正斥邪論者たちは、 「彼禽獣我人類」という観念 的対外認識から抜け出すことができないまま、 当時朝鮮社会が直面した対外 的危機状況を客観的に把握することができなかった。彼らは西洋の軍事力・
通商・ 文化・宗教を全て洋物と見て、 そうした洋物の流入による害悪につい ては正しい認識を持ちながらも、 凶洋列強の国力の源泉である科学技術を
「奇妓淫巧」と規定して、 その先進性を観念的な哲学論理を用いて全てを否 定することによって朝鮮の開明・開化に必要な先進文物の選別的な流入まで も根底から遮断する愚を犯した。
このような観念的で非別実的な凶洋認識は、 必然的に西洋の侵略に対する 対応においても非現実性を語呈することになった。衛正斥す1)論者たちの対外 的危機に直面してからの対応は、 体制の改革や軍事的・物理的抑制よりは、
百姓の団結力とか忠誠心、 また君主の内面的修養という消極的方法によるも のを重視したので、 西洋の侵略に効果的に対応することができなかった。こ れは対外的危機の原因を自分自身から求める「反求諸己Jという儒学的思惟 様式の結果によるものでもあったが、 また国際情勢に対する客観的認識の欠 如から来る当然の結果でもあった。
衡正斥邪思想の持つもう一つの限界は、 中国に対する自主性の問題であ る。筆者は、 一方的に押付けられた西洋の秩序を拒否して、 朝鮮の社会経済 的価値や政治秩序を守ろうとした点で、 この思想の持つ自主性や主体性を認 めなければならないと前述した。
しかしながら、 街正斥邪論者たちは、 西洋に対しては儒教的思惟の方式を 用いて、 朝鮮の優越性あるいは主体性を強弁しながらも、 中国に対する態度 においては、 中国中心の華夷思想、と君臣之義という宗属的地位をそのまま認 めた上での朝鮮の自主を主仮していた。
たとえば、 李恒老は、 「中凶の道が滅びたら夷秋と禽獣になる…、 前は明 を崇める万東廟68)があって尊嬢之義を保つことがあり、 それにより夷秋を退 けることができた。今再ぴそれ(万東廟)を復元して洋冠を退治しなければな らない69)Jと中華的な秩序から凶洋への対応を試みようとした。
金平黙は「反経息邪」論の中で、 中国中心の華夷秩序の中で朝鮮を見てお り、 その対清斥邪意識の基礎には、 明朝に対する「君臣之義」と「受恩意 識」が依然として残されていた。70)
さらに、 提益鉱も万東廟の復元を主張して「中華を守って人rMJになって死
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ぬ事が、 夷秋や禽獣になって生き残ることよりましである71)Jと徹底した中 華意識を表わした。
このような点から考えると、 衛正斥邪思想、の自主や主体性の問題は、 衡JI 斥祁論者の対中僅倒l認;識哉 も合めた上で寄割詐|ドZ価しなければならないし、 そうした場 合、 街正斥邪論者の自主性は、 「半自主性」という生来的な限界を免れるこ とはできない。
以上のように、 街正斥邪論者たちの論理と思想は、 朝鮮の正統儒学の限界 から脱皮することができない封建的思想であった。そのため急安する19世紀 後半の対内外的状況の中で、 伝統的儒教忠怨に立脚して総局を打開しようと した街正斥邪論者たちの論理には、 大きな矛盾と無理があったのである。凶 洋を禽獣と認識して最後まで尊華援夷思想を固守しようとしたのは、 たとえ それが政治体制の主体性と正統性を保持するための有効な論理であったとし ても、 変化する時代的状況に適応できなかった点で、 守旧的理念にすぎな かったとの批判を免れることはできない。
こうした衛正斥�ì)思怨は、 朝鮮をして自主的かつ能動的な開国を遅らせた のみでなく、 開国後の朝鮮の近代化過程においても多くの混乱と矛盾をもた らしたのである。
註
1)実学思想が開化忠、惣の源流 をなしているという点については、 韓国の学会で はほとんど異論がない 。 初期的開化思想は、 笑学思想と開化思想との架け 橋的な役割を演じた過渡的な思想であったから、 当然その思惣的な基鍛も 実学思想にある。 初期的関化思惣の源流を実学思想に求める恨拠をその忠 怨面や人脈凶から剖べてみよう。
まず、 思想、回で、 初期的開化思想は実学の利用厚生と突事求是の実用主 義、 国際関係に関する輩夷一也的世界観、 門戸開放による西洋文明の受 容、 商工業の奨励、 民放主体意識などを受け継いている。 初期的開化論点 が西洋文明の受容と開国を主張したのは、 こうした実学思怨をその思想的 な源流としていたからである。
次は、 実学思怨と初期的開化思想との関係を人脈を中心に考察して見る と、 初期的開化論者であった朴珪寿・呉慶錫・佳漢紛・ 劉大致・妥珠など は、 実学者の著作から多くの影響を受けたことは言うまでもないが、 それ
ばかりでなく、 彼等は、 実学者から直接教育をうけたのである。 朴誌が は、 朴地t源の係であり、 呉慶錫は、 萎態と一緒に金正喜に習ったのであ る 。 こうした実学者から直接・ 間接的に教育を受けた初期的関化論者は、
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次|吐代の開化運動の主役であった金玉均・金允植・朴泳孝・徐光範等を指 導して朝鮮の開化運動を本格化させたのである。
2) 胡鮮の場合は、 知識人 = 官吏 = 文化人という等式が成立する。 すなわ ち、 朝鮮では知識人であり文化人が官吏になって、 学問の研究者もその殆 んどが官吏であった。 そのためこの論文で例として挙げている思想家も殆 んどが現職あるいは'肖臓を経験した官吏である。 このよう に 朝鮮で知識 人・文化人が官吏になったのは、 官吏の採用制度やその採用基準に起因す る。 朝鮮時代は科挙という官吏採用試験により官吏を選抜したが、 その試 験での採用基準は、 法律知減ではなく儒学や文学の知識 であったのであ る。 つまり儒学の教えを身につけ、 立派な文章や詩文がつくれる者が官吏 として任用されたので、 知識人・文化人が官吏になる条件であった。 こう した事情から朝鮮では、 支配イデオロギに反する学問や思惣の発展が抑圧 され、 執権j国内部では支配イデオロギであった儒学の実践論理を巡る理論 論争だけが様んに行なわれ、 儒学は虚学化した。 こうした学問的な傾向に おいては、 実用学問は!I�視され、 技術人や専門人の社会的な地位も非常に 低かった。
2)安在彦 r近代朝鮮の忠、怨』 未来社,1984年,43頁。
4)安采直外r変革時代韓国史』 束平社,1979年,24頁。
5)向上,65貞。
6)李恒老 r華西集』巻1 r理気」。
7)安在彦,前掲書,44頁。
8)李恒老 r輩西集』巻10 r尊披」。
9)本卜忠錫・柳�鏑 『朝鮮明の政、治思想』 平和出版社, 1980年,173-174頁。
10)慎鏑j変 『近代社会思想史研究J , 一志社, 1987年,42-43頁。
11)このほかにも、 朝鮮末期の代表的な衛正斥邪論としては、 佳益鉱・洪在鶴 柳麟錫等を挙げることができる。
12)胡鮮の官吏採用試験(科挙試験制度)の一種で当時の朝鮮の首都であった漢 減府が主管して行った1次試験という性格をもっ試験。
13) r非朱子之言不敢聴、 非朱子之旨則不敢従」
李恒老 「輩凶集』 巻3 r性理」。
14) 朝鮮中期以後、 李栗谷を拒l宗として畿湖地方(京畿道 ・ 江原道)を岐拠地と して活動した儒学者たちをいう. この学派は、 理気一元論的二元論を確立 した李栗谷の学問的影響を強〈受けていた。
15) 宋時烈は、 朝鮮中期の正統儒学者で、 国家聞の関係は、 政治的・軍事的な レベルにおける力の関係を基調に するものではなく、 文化理念的なレベル で規律するものであると見て、 普遍的な中華主義を志向した代表的な学者 であり、 政治家であった.
16)安在彦 「李恒老における衛正斥邪忠怨」 飯沼二郎 、 菱在彦編 r近代朝 鮮の社会と思想』米来社,1976年。
17) これに関しては、 李れ微 「朝鮮朝斥邪論議の展開と其の意義J r朝鮮朝 政治思惣研究』 平民社, 1987年に詳しい。
18)これは、 当時朝鮮政府内ですでに開国論者が存在していたことを物訴る。
19) r今国論両説交戦、 制洋j域可功者、 国辺人之説也、 知洋11此可和当、 賊辺人之 説也、 由此則邦内保依袋之旧、 由彼則人類禽獣之域」
.李恒老 『輩西集』巻 3 r疏�ìjJ。
20)樫昌圭 r近代韓同政治思怨史』 一潮閣,1981年, 55兵。
21)李沢微,前掲論文,168頁。
22) r凶夷八蛮恭悦中国僕倣華夏亦自然不易之理也」
国史編纂委員会『承政院日記』 高宗3年、 丙寅9刀13l::J。
23) r中夏天子蛮夷天子尊卑上下全無等威此乃陰疑御陽地御抗御天女加御 男臣強御君名之不克也之無序事之不I1原」
李恒老 r華凶集』 巻10 r尊嬢」。
24) r北虜夷秋也、 猶可三-也、 南洋禽獣也、 不可言也J 李恒老 『輩凶集」巻3 r疏街」。
25) r明於道徳名以聖賢能於術業名以工匠斯二者即孟子所制大人小人之分 也J
李恒老 『華凶集』 巻10 r尊嬢」。
26)李沢微,前掲論文,168貞。
Z7) r洋夷之禍 至於今H 雌洪水 猛獣 無以可駕 殿下宵 肝愛惨 内側使有 司 船 説;
邪学之党外側使壮士入海之冠人獣之関存亡之機決於呼吸誠不可少絞 也」
李恒老 『華西集』 巻3 r疏街」。
28) 当時朝鮮には、 釜山の倭館や対清国境交易所である義州の会市を通じて、
そこから異国船による沿岸密貿易を通じて西洋商品が浸透きれていた。 こ のような西洋商品の浸透が 当時の衛正斥邪論者に洋貨に対する危機意識を 高めたのである。
29) r自修家斎而国正、 則洋物無所用之、 市交易之事絶失、 交易之事総則彼之奇 技淫巧、 不得筈失、 奇技淫巧、 不得筈、 則彼必無所為市不来会J
李恒老 『華凶集』 巻3 r疏街J。
30) r所調外物者、 事目甚多、 不可枚挙、 市洋物為最甚、 医願殿下断門容以、 九 JJIX食器用、 遂日常接之際、 ー有洋物介於其問、 則悉行捜出、 繁之闘庭而iJ't 之昭示好悪之所在、 則是克己正心之符験、 市殿下之身正失、 以是鋒動於宵 闘宗威之家、 則宮岡宗威、 莫不従志、 而殿下之家正失、 以是笹動於朝廷、
則内自朝廷、 外至還沓英不従志、 而殿下之国正実・J 李恒老 r華西集』 巻3 r疏街」。
31)彼が出した7出の上疏は、 次のようである。
辞同副承旨兼隙所懐疏(丙寅陰9月13日) 辞工曹参判疏(丙寅陰9月15日)
再疏(丙寅陰9月16l::J ) 三疏(丙寅陰9月268 ) 四疏(丙寅陰9月26l::J ) 辞同義禁疏(丙寅陰10月3日)