徳 泉 さ ち
はじめに
昨年、「安藤更生コレクション受贈記念會津八一と安藤更生-學藝の継承-」展が当館にて開催された(註1)。当 展では安藤更生の旧蔵品である安藤更生コレクションより、特に會津八一に関連する資料が展示された。安藤更 生(1900 ~ 1970)は、會津八一の後を継ぎ早稲田大学文学部で長らく東洋美術史を講じ、中国、日本美術をはじ め、鑑真やミイラ研究の進展に大きな足跡を残した人物である。当コレクションは、幅広い研究分野で業績を残し た氏を反映するように日本、中国のみならず西洋各地の美術資料など、そのジャンルは多岐にわたる。とりわけ、
安藤が北京滞在時に知遇を得てから、終生、師と仰ぎ続けた周作人(1885~1967)からの書簡は、文学、歴史学 分野で活用されるべき貴重な史料といえよう。2016年度の企画展では、これら書簡資料の展示には至らなかった。
そのため、前号より周・安藤の往来書簡の翻刻の掲載を開始した(註2)。
2016年度の紀要を刊行後、当資料に関するいくつかの動きがあった。ここにその経緯を記し、備忘としておきた い。まず、大きな朗報として、周作人の御令孫、周吉宜氏より、安藤が周作人へと宛てた書簡が新たに発見された との連絡を頂いた。弘前学院大学の顧偉良教授の仲介により、安藤家のご親族の方へと追加書簡の複写資料が届け られ、ご親族の御厚意によりこれらの追加書簡(複写資料)も当館に御寄贈頂いた。その後、2017年7月には北京 の中国現代文学研究叢刊編輯部発行『中国現代文学研究叢刊』(第7期)誌上に周吉宜整理・陳力衛等訳「安藤更生 与周作人往復書信」(註3)が発表され、新発見の安藤書簡も含む往来書簡全通が公表された。周吉宜氏、陳力衛氏 らの御尽力により、全通が年代順に配列され、書簡の翻刻が公開されるに至った。この稿には安藤書簡(原文は日 文)の中文訳が掲載されている。陳氏らの翻訳の労により、当館所蔵の資料が広く中国においても活用される途が 拓かれたこととなる。この場を借りて感謝を伝えたい。こうした成果が発表された今、重ねて筆者が稿をなすこと は躊躇されるものの、本稿では館蔵資料紹介のために安藤書簡を原文(日文)のまま掲載し、記録しておきたい。
また、安藤コレクションには、書簡内容の背景や周辺の事情を伝える資料が多々含まれる。こうした関連資料を活 用し、書簡内容の理解に役立つと思われる補足情報については適宜注記を付した。
なお、安藤書簡の実物を閲覧調査したいという筆者の勝手な願いを、周作人のご令孫である周吉宜氏が快諾くだ さり、2017年9月下旬に北京にて安藤書簡を閲覧することが叶った。文房四宝に造詣の深かった安藤らしく、実に 凝った美しい便箋や封筒の数々に目を奪われ、丹精込めて丁寧に書かれた安藤の筆跡を手に取り間近に見ると、彼 の周作人への敬愛を改めて思い知るような気がした。いずれの書簡も保存状態が非常に良く、昨日書いたかのよう に墨痕鮮やかであった。このように大切に保管し続けてきた貴重な資料を快く拝見させて下さった周吉宜氏に、改 めて深く感謝申し上げる。また、閲覧場所をご提供くださった中国現代文学館副館長の梁海春氏をはじめ、スタッ フの方々へも記して謝意を表したい。
周作人書簡の翻字、及び入力作業については、主として下記の二名の尽力により完遂された。(いずれも所属は
2011年当時のもの)。
久保佐知恵(早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程)
古俣諒(早稲田大学大学院文学研究科修士課程)
また、書簡の掲載をお許し下さった安藤更生、周作人ご遺族の皆さまにも重ね重ね感謝申し上げる。さらに、周 作人研究者である本学商学学術院教授小川利康先生には、周家ご遺族の仲介から、書簡翻字の校閲や助言など一方 ならぬ御協力とご指導を頂いた。今回の北京での書簡閲覧も小川先生のご協力無くしては実現できないことであっ た。ここに心よりお礼を申し上げる。
周作人・安藤更生往来書簡の概要
前号より年代の古い順に、両者の書簡を配列し掲載してきた。今回、新たに発見された周作人書簡は10通であっ た。これらを含め、現在、筆者が把握しているところを再度整理すると、安藤書簡が33通、周書簡が47通、往来 書簡全80通となる。なお、前号に往復書簡を時系列に整理したリストを掲載したが、いくつか筆者の配列に誤りが あった。よって今回改めて訂正版リスト〔周作人・安藤更生往来書簡リスト(訂正版)〕を作成した。ここにお詫 びし、前号との差し替えをお願いしたい。
今回発見された1943年3月の安藤書簡(No,1)は、全体の中でも最も古い書簡である。当時、安藤は新民印書館 に勤め、周作人宅の近所である北京市内四区東観音寺胡同に住んでいた。文面は、新雑誌の創刊を巡るトラブルに ついて安藤が周に陳謝したもので、長文の手紙である。この後、安藤は昭和21年(1946)4月、終戦とともに日本 へ帰国し同年に早稲田大学講師となる。前号で取り上げた、1960、1961年代の書簡では前後の繋がりが不明瞭な遣 り取りがいくつかあったが、今回の追加書簡により、話の流れがかなり追えるようになった。なお、本稿では追加 書簡も古い順に掲載した。煩雑になるが、前号と突き合わせて参照されたい。
.今回は、追加書簡にあわせて、前号から引き続き1961年末より1963年6月までの全25通を掲載する。この時期の 安藤は、早稲田大学にて教鞭をとりながら著書を次々に刊行し、精力的な研究生活を送っていた。特に、1962年9 月には、早稲田大学海外研究員としてフランス、イタリア、ギリシアなど半年以上に及ぶ欧州旅行へと出かけてい る。No,46・47・48は、滞欧中のやり取りで安藤のパリでの投宿先に届けられている。1963年3月に安藤は帰国す るが、その半年後の9月には、鑑真和上円寂一千二百年記念「日本文化界代表団」の団長として訪中する。この折 に、悲願であった周作人との面会を果たした。前号と同様に、周は日本の書籍の購入を依頼したり、時には互いの 娘や孫が好む切手を贈りあったりもしている。今号の周の書簡のうちで最も長文の手紙となっているのが、No,38
(1962年4月16日)である。4月8日に信子夫人が他界した旨が記され、亡くなる前に夫人は好物であった日本の 饅頭を食べたことなどが綴られている。この悲報を受けての安藤の返信がNo,40で、巻紙に毛筆で丁重に悔やみの 言葉がしたためられている。
凡例
• 配列は年代順とし、冒頭に通し番号(No,*)を付した。
• .書簡の日時は、書簡文中に記されたものによった。また、消印が判読できず年号が不明の書簡については内容 から年号を推定し配列した。
• .活字化にあたり、表記は極力原文のままとしたが、句読点やカギ括弧、書名の前後への二重カギ括弧などを必 要最低限追加した。紙幅の都合上、原文にみられる改行や割注などのレイアウトは再現していない。
• 判読不可能な箇所については、「□」と表記した。
• 明らかな誤記も原文どおりに翻刻した。
• 書籍の書誌情報や、原文の理解のための補足情報については別途注記した。
No,1 【追加】 安藤→周 1943年3月22日(註4)
御母上様御病気御重態の趣承り、さそかし御心痛の御事と乍陰御案じ申上居り候。扨て既に御承知の御事とは存じ 候へ共、昨朝各中字紙所報の件、毎々先生より雑誌発行までは固く新聞へは発表致さぬようにとの御申附け承り居 り候にもかかわらず、張深切君(註5)自儘に捏造的発表を致し候段、小生の知らざりしこととは申せ、部下監督不 行届にて何とも申訳無く、平に陳謝仕り候。小生も実に意外にて何故に張君がかかる行動に出で候や、到底常識に ては考へられず、かかる人物にては到底今後の重大任務を担はしむる能はず。何も藝文雑誌のみに限らず、他の事 務にても担当さしむる能はず。而も本人は一向自己の失敗を認めず、新聞記者の責任なりと放言し、自分が辞職す ればそれでいいだらうと申し居る有様にて、小生も今朝断然以後は雑誌に関係すること罷りならぬと申し渡し、其 旨副社長専務へも上申致し候処。いづれもかかる人物は譬ひ雑誌問題に関連さずとも、断然解職せよと申され、其 旨本人へも申渡候。実は本朝その旨を御報告に参上仕り候処、御不在にて其意を不得。止むなく本書相認め候。御 心痛の折柄かかる不愉快極まること申上候は、何とも不本意千万にて恐縮仕り候へ共、何卒最後まで御読取の程単 へに奉願上候。先生に於かせられてもさぞかし御腹立ちの御事と拝察罷り在り候へ共、雑誌発行の事は既に各方面 に知れ渡り、今若しかかる事件にて頓挫致し候ては先生の芳名はかへって汚され放しにて、小生の最も不本意のこ とに存じ候。かかる事態に立到り候事は勿論私の責任にて私一箇の如きは今後如何様に相成り候とも致し方無く候 へ共、事態は決して私の責任辞職といふが如きことにては収拾致し難く大にしては中国文化のため小にしては新民 印書館も全く中国にも日本にも顔向け致し難き事と相成り、折角芸文雑誌を盛り立てて新文学創造の下地を作らん と努力せられ居る編輯幹事委員諸君の善意も水泡に帰すること罷りなり。更にこの雑誌失敗の後は次に来たる雑誌 もこの雑誌の失敗が邪魔になりて刊行致し難く相成り、我等が切なる希望なる次代の作家の養成にも大障害と相成 ることと存じ候。思へば二三ヶ月以来小生不敏無力の致すところとは申せ、雑誌刊行につきては幾多の思はざる障 害に突き当り心労止まず雙鬢とみに霜を加へ候。御憫笑被下度候。然し乍ら小生の頼みを致し候は何時にても先生 が小生の微意を御汲取被下、海容を賜り候事のみが杖とも柱とも存ぜられ駑馬に鞭打つて今日まで参り候。然るに 今先生に御見放しを蒙り候ては如何に処置仕る可きや何とも途方に暮れ申候ばかりにて昨日より一睡も致さず食事 も通らず家内に怪まるる有様に御座候。唯つらつら愚考仕り候に今回の事は張君の野心か不用意かは存じ不申候へ 共、事は雑誌の実体には関係無之、誰も同君を総編輯などといふ馬鹿なことを考え居るは張君以外には無之、かか る可くかかることは雑誌だに立派に出版さるれば雲散霧消す可き事かと存ぜられ候。愚意にては張君の位置が文芸 界の人か本屋の番頭なるか不明瞭なりしことがかかる間違の基なり。されば今後は新民印書館側は純然たる出版者 として皆様に御連絡申上得る人物を選定致し書物の内容、団体の人選等には関係致させまじく排印等に尽きては小 生自身之に当る決心に御座候。
御勘弁のならぬところとは重々拝察仕り候へ共、何卒今ひとたび御考へ直し遊ばれ暫く小生等の真心の現れと御覧 願上度必ず今日の失敗を取りかへし、先生の御心の相済み候様粉骨砕身可仕候。度々のことなれば先生もさぞかし 嫌気の御さし遊され候御事と拝察仕り候へ共何卒今ひとたび御考へ直し遊され私共の御指導を賜り度伏して奉懇願 候。昨日来心気顛倒し紙に向ひて筆の下すことろを知らず。愚慮の万一をも尽し難く候へ共何卒御判読願上候。
三月二十二日夜 安藤更生 泣血頓首 周先生机下
No,2 【追加】 安藤→周 1951年11月17日
周先生 羽太さん(註6)からの手紙でやつと先生の御無事を知り飛び立つ思ひでござゐます。さぞ御苦労なさいまし た事でせう。八道湾の御邸で御示教を頂きました日々は昨日のやうに思ひ起されます。私は丙戌の春帰国致しまし てその秋から早稲田大学の文学部に日本美術史を講じて居ります。唯今は表記に六畳と四畳半のバラックを建てて 住んで居ります。昔の小学校の先生ほどの生活です。但し日本の大学教授はみんな同じ程度の収入です。林房雄(註
7)などといふのが依然として売れてゐるのは馬鹿らしくなります。傅芸子先生(註8)は御無事でせうか。東京は紅葉 の盛りです。御地も柳が真黄になつた事でせう。
十一月十七日 安藤更生 薬堂先生 机下
No,18 【追加】 安藤→周 1961年4月27日
拝啓 御芳書並に郵便切手悉く拝領致しました。実に美しい切手で愚娘ども大喜びでございます。御下命の書物 は早速求めに参りますゆへもう暫くお待ちください。同封にて新発売の浮世絵切手並に琵琶湖国立公園と郵便九十 年記念の前島密の肖像をお送りいたします。なほ私は『東海道中膝栗毛輪講』(三田村鳶魚林若樹山中共古三村竹 清等の輪講したるもの春陽堂発行)(註9)と申す書物を持ってをりますが(但し三巻のうち中巻欠)お持ちでいらっ しゃいませうか。若し御手許に御座ゐませんならば次回に御注文の書物と一緒にお送り申上ます。私が青年時代に 読みまして大変参考になった本で御座います。大飢饉の由新聞から承知、心配してをります。先日申上げました三 宅島の山茶は頼んで置いた門下生が病気になりまして入手できませんでした。東京は桜も椿も散り菜の花が咲いて をります。舎下の庭上に香椿の小木あり。そろそろ芽を出しさうですからやがて香椿拌豆腐も喰べられさうです。
ちかごろ横浜の南京街へ行きますと香菜も手にはひるやうになり遥かに燕京を偲ぶには都合がよくなりました。今 学年は大学院で東洋文玩史のうち筆について講じ『洞天清禄集』を文献研究の教材に使ふことにしました。末筆な がら御身御大切に願ひ上げます。先は御返事旁々近状御報まで 敬具
四月二十七日 安藤更生 知堂先生 侍曹
No,19 【追加】 安藤→周 1961年5月10日
御下命の書物、『日本の切手』(註10)、『切手の鑑賞』(註11)手に入りましたので御送り致します。『文学碑』(註12)は小売 屋にありませんでしたので、版元へ注文して置きました。もう暫くお待ちください。『膝栗毛輪講』二冊一緒にお 送りします。但しこれは一冊欠です。若し既に御持ちでしたら誰か同好の士に差上げていただきく御座います。新 しく出ました花の切手同封します。飢饉新聞紙上にて承知。何かこちらからお送りして差支へないものが御座いま したら御遠慮なく御申し付け下さい。早速お送りいたします。五月十日 安藤更生
薬堂先生
No,24 【追加】 安藤→周 1961年8月3日
御下命の書物三冊お送りいたします。『華国風味』(註13)は弘文堂で品切れとなって居ますので古本を捜しますから もう少しお待ち下さい。小著『日本のミイラ』(註14)やっと発行されましたので同封いたします。御批正の御言葉賜 わらば幸甚です。申し遅れましたが先便にて記念切手澤山に御恵与被下ありがたう御座ゐました。東京は這一向暑 熱烈しく閉口して何も出来ません。一両日中に信州へ逃げ出すつもりです。小生の若き知友に野村万蔵(註15)の弟
子あり。時々染井の舞台に招いてくれますので近頃は小生も狂言を観る機会が多くなりました。古川氏の『狂言の
世界』(註16)早速読んでみます。いま雨が降って来ました。これで連日の炎暑もいくらか柔らぎ庭上の草木も生きか
へることでせう。今年は香椿が根元をもぐらにやられたらしく枯れてしまったので悲しんでゐますが代りに太平花 は元気がよくなりました。八道湾のお庭の樹々も偲ばれます。八月三日夜 更生
知堂先生 硯北
No,30 【追加】 安藤→周 1961年12月3日
貴翰拝承いたしました。御申付けの『駄菓子のふるさと』(註17)は入手しましたが『日本人の笑ひ』(註18)の方は只今 版元での売切れで昨日著者に会ひ暉峻君の手許にあるものを貰ふことにいたしました。駄菓子の方だけお送りしま す。先日横濱で地蔵王廟といふ本格的な中国式廟建築を発見、久しぶりで北京に居るやうな気持ちがしました。
光緒十七年の建築で小規模ながら一寸什刹後海の龍王廟に似てゐます。境内には華僑の古い墓もあり旅櫬も澤山 預かってありました。明器の切手沢山にありがたう御座ゐました。これは小女児們よりも私の方が興味がありまし た。私の貴国再訪は政府の都合で又々延期です。文化関係の使節は書道以外は全て延期。私は明年九月から半年の 予定で欧羅巴へ参りますのでそれ以後でないと北京へは行けないことになってしまひました。残念至極です。欧州 巴里を中心にして伊太利、希臘へ参ります。希臘辺で御用が御座ゐましたら何でも致しますから御遠慮なく御申つ け下さい。往路は輪船帰路は飛機のつもりです。主として各地の民芸を見て来ようと思ってをります。東京も冬で すが未だ厚い外套は誰も着てゐません。本朝凍柿子二個喫了。渋谷で油條を売ってゐた居が潰れて残念です。御地 はさぞお寒いことでせう。御身御大切に願上ます。
十二月三日 安藤更生 拝上 薬堂老師 玉机下
No,32 【追加】 安藤→周 1961年12月16日
御下命の『日本人の笑ひ』大変売行よろしく三十万部を売切った由にて、版元光文社にありませんので著者暉峻 君に交渉しましたところ、手許にあるのを是非先生にお送り申し上げてくれとのことで、別便にて御送りいたしま す。先日中島健蔵(註19)三島一(註20)等御地より帰国。北京の最近の事情多少判明心配して居ります。
私の訪華は明年になりさうですが、明年は九月から半年ほど欧州へ参らねばならず、さうなると更に延びることに なりますので困って居ります。書道関係者の団長としてなら間もなく行けるとの事で從慂を受けましたが、私は日 本の書道界の空気を好みませんので、やはり本職の美術史学者の代表として参ることとし、字書きさん達のお仲間 は辞退することにしました。近ごろの郵票少々同封いたします。酷寒の候御身御大切に祈上げます。
十二月十六号 安藤更生 周先生 侍曹
No,34 【追加】 安藤→周 1962年1月1日
謹賀新年 小野君の燕京歳時記(註21)の訳注に西山の肉胎像のことありましたことすっかり忘れてゐました。御支 教により思ひ出しました。汗顔の至りです。但し小野君は実物は見てゐない様子です。前衛・墨象の徒に対する御 高見甚だ面白う御座いました。日本の「書家」といふ人種はまことに不思議な連中で近代科学を知らざる事は熊さ ん八っあんに劣らず、そのくせ中国のことも知らずただ鰌ひげを生やし黒紋付きでこう斜にかまへ、先生と呼ばれ ることを好む職人です。「前衛派」といふのは彼等が自らつけた名前ですが、前衛といふのは第一次大戦以後の欧
州社会で権威に反抗しプロレタリアの前衛として気勢をあげた歴史の用語であることなどは少しも御存知なく、た だ新がって漢字の約束を壊さうとしてゐるに過ぎません。そのくせ既成の権威は大好きで芸術院会員などになりた がります。こんなのが書道代表でございと中共政府に招待して貰ひたがるのですからそんな連中の団長になること などいくら頼まれてもこっちは御免を蒙ります。古来、書画一致と云はれます。画の方がアプストラクト派まで出 来て形象の破壊をやってゐる現代ですから、書の方でも純粋美術としてなら、読めない字が書かれるのも御時世だ とは思ひます。あんな字で手紙を出されては困るし看板を書かれても何屋だかわからないでせう。しかし自分で勝 手に床の間へでもブラ下げて置くといふなら御自由です。ただ惜しむらくはこの種の作品に私は未だ傑作を見ない ことです。「あれは文字では無い。だから書と云はなくてもいいではないか」という批難に対して一部の主に京都 の連中ですが墨象といふ珍妙な名前を考へ出したのです。私どもが一番迷惑してゐるのはこの連中が油煙墨ではな く青墨(古松煙)をやたらに使ふことです。青墨は画家も使ひますが水墨画の場合は薄めて使ひますからいくら大 作をやってもその使用量は知れたものです。ところが墨象や前衛はむやみと大きなものを塗りつぶしますので墨の 浪費量が大きく、そのため日本では青墨が騰貴し、第一、いいものが手に這入らなくなりました。もったいない話 です(日本の墨匠も近時少しく青墨を製しますがその質粗悪用ふるに足らず)新春早々下らぬ事を書きました。北 溝沿わたりの鳩の笛の音を想ひ起しつつ。
壬寅元旦 安藤更生 知堂老師 侍曹
No,35 周→安藤 1962年1月20日
拜啓 元旦手書拜誦、關於墨象製造者之評論、甚為痛快。中國萬事前進、併有廃漢字改拉丁拼法之趨勢、唯藝術方 面似又不然、書法上或仍遵傳統、推重二王、至於絵畫方面對於前衛或アブストラクト諸派時有挖苦或痛詆的論調見 諸報章、日本墨象諸彦若知此種情形、對於前来展覧之事或須加以考慮、因為即使因對客人的礼儀上不明加批評、但 客人亦当覚得、至少是並不顕得熱烈歓迎、総是冷淡相対、彼此均覚得無聊也。暉峻君大著已経読畢、甚為愉快、近 年常看古川柳、覚得很有興味、就只是江戸風俗不易明白耳。匆々不盡。
一月二十日 周作人「知堂問訊」(朱文方印)安藤更生先生
大意:元旦のお手紙、拝読しました。墨象についての評論はとても痛快でした。中国では漢字を廃止しローマ字 を使う傾向もありますが、一方で芸術においては伝統を守り二王(王羲之・王献之)を重んじています。絵画の 方面では前衛、抽象画は酷評されていますので、もし日本の墨象派の皆さんがこうした情勢を知れば、こちらで 展示をする前に考え直すかもしれません。礼儀上で明らかな批評はせずとも、冷淡な対応を彼等も感じることに なるでしょう。暉峻(康隆)君の大著は面白く読了しました。最近は古川柳に興味があります。ただ江戸の風俗 は容易にはわからないものです。
No,36 周→安藤 1962年2月8日
拜啓 上月二十日曾寄一信、想已蒙察覧矣。“墨象”名迹只在堀江氏著“書の美しさ”(註22)上辺見到两幅、未知有 適宜印本小冊可得、以廣眼界否?堀江氏著自極精善、唯第八頁所登獣骨亀甲文照片乃係上下顛倒者、甲骨文雖不易 識、唯其中有一字從“女”字( )者却明白可見、此亦白璧之微瑕也。有下列諸書、請便中購寄為荷。
一、教養文庫『日本の職人』..(註23)
二、ゞ『日本の菓子』.(註24)
三、宮尾しげを『すし物語』井上書房(註25)
前此託購“駄菓子”此次又是すし及和菓子、所謂“過屠門而大嚼”之意歟、可為一笑。北京天気不甚冷、且節候已 経過了立春、想此後不会很冷了吧。匆々不盡。
二月八日 周作人「啞人作通事」(白文方印)安藤更生先生
大意:先月の手紙がすでに届きご覧になられているでしょうか。「墨象」の作品は堀江氏の著作中の二幅を見た だけです。何か適当な本を買って視野を広げたいものです。堀江氏の著作は実にいきとどいたものですが、ただ 八ページに載っている甲骨文の写真は上下が逆さまであることが玉に傷です。下記の書物を購入頂けますでしょ うか。〈略〉以前は駄菓子、そして今回は寿司と和菓子、これはまるで、武士は食わねど高楊枝というように、
肉屋の前で食べたふりをするようなものです。北京はそれほど寒くありません。立春も過ぎましたので今後も冷 えないでしょう。
No,37 安藤→周 1962年3月19日 (註26)
御下命の『華国風味』.(註27)大変遅くなりまして申訳御座ゐません。やっと見つけましたのでお送りいたします。
先月の末から東京は風邪の流行で舎下でも家族一同羅病、内人などは二週間に渉て臥床といふ有様で閉口しまし た。やっとみんな元気になりましたので御放念願ひます。三月に出ました切手三枚同封いたします。私も冬の寒さ がこたえるやうになりました。春が来てほつとして居ります。
三月十九日 安藤更生 周知堂先生
No,38 周→安藤 1962年4月16日〔図版1参照〕
拜啓 得前月十九日信已有三週矣、未復為歉。内人前因左腿患風湿、不能起坐、臥病五年之久、近以併發心臓病 等、終於四月八日病卒年七十五於北大医院、已経火葬、埋骨於西郊私家的坟地了。死生大事亦常事、至鄙人更可以 説業経死去一番(註28)、故別無若何大影响、但因情緒緊張、血壓難免増高、唯近二三日已経落下矣、請匆為念。知 承賜寄青木君之“華國風味”、甚感佳惠、此為現在唯一之消遺、特別是關於吃食者、兼有過屠門而大爵之意、前回 託買“駄菓子の故郷”等亦是此意、祈勿笑其貪讒耳。鄙人事実上最喜日本的菓子、明知不能避不愛國之譏、但這是 実情、今春聽説先生不能來華、我同内人均甚失望、内人還説如安藤さん來北京、本想請他帯幾個栗饅頭(因日本菓 子中只有這能経久)來的。内人病中甚想念日本風味、有些在香港可以得到、便託在香港三井物産的知人設法買些、
如罐頭的鰻蒲焼及紅(赤)味噌梅干等類、但菓子則難以得到。她時常想念栗饅頭、後來因在三井的友人有説兄弟飛 東京観光、託他設法、可是那友人却寫信給谷崎潤一郎君(註29)、由谷崎君為買了幾個、寄到香港再轉北京(一包只 能寄兩磅、共兩包、一包也就是十二三個)、到時已経病很沉重、却總算吃到了、前后共吃了三個。因為不知什么關 係、兩包只寄到了一包、其餘的一包不知道是遺失了、還是税關没収了、總之是没有到、但病人能够吃到了多日想望 的東西、那是很好的事。她向來很希望中日的關係好轉、進行通商、在北京能够買到日本的東西、這様事情将來總有 一天要做到、不過在最近的将來恐怕不能够、只希望兩辺不要弄得愈走愈遠就好了。閑話不覚説的太多了、就此止住 吧。静岡的重久君處只簡単的去了一個通知。北京近日天気漸暖了、只是多風、這是常年如此年的。草草不盡。
四月十六日 周作人「啞人作通事」(白文方印)安藤更生先生
大意:十九日に頂いた手紙から三週間も過ぎ、返信が遅くなりすみません。妻は左足のリューマチで起居に不自 由が生じ、この五年間は寝たきりの暮らしでした。近頃は心臓病も併発し、ついに四月八日に北大病院で亡くな
りました。生き死には常のこと、私はかつて一度死のような経験があるため大きな影響は受けませんが、やはり 心乱れ血圧が上がりました。送って頂いた『華国風味』は実に良著で、食いしん坊の私にとって今の唯一の慰め です。愛国心がないと非難されるでしょうが、私は日本の菓子が一番好きです。先生に栗饅頭を持ってきてもら おうと妻は思っていたので、先生の来華がなくなり私と共に心底がっかりしていました。三井物産の友人が、あ る兄弟が東京観光へ行くと聞いたとのことで、饅頭を買ってきてもらうように頼みました。しかし、その友人は 谷崎潤一郎さんにも手紙でお願いし、谷崎さんが何個か香港に送ってくださりました。香港から北京へと転送し て饅頭がこちらに届きました。その頃妻の病気は重くなってしまい三個を食べただけでしたが、熱望していた好 物を食べることでき、よかったです。以前から妻は日中関係が改善し通商がより便利になることを望んでいまし た。両国の距離がこれ以上遠ざからないことを願います。無駄話が多くなりました。静岡の(羽太)重久君には 簡単な知らせを出しました。北京は少しづつ暖かくなってきましたが強い風が吹いています。いつもの通りです。
No,39 周→安藤 1962年4月22日
拜啓 数日前才寄一信、適得見賜之『華國風味』、不勝忻幸、又得有数日耽讀也。見其中“陶然亭”一文、尤為神 往、自己雖非是酒客、對此亦不免流涎、唯惜已因了大動乱而“雲散霧消”了!近日万物長價、烟酒茶尤甚、茶價至 漲了六倍、無可消遺、唯従書籍中求之、即所謂過屠門而大嚼法也。唯此种書不可多得、故只可看雑書了。有下列諸 書、乞賜費神一找、至、感。均系現代教養文庫中書。
一、加太コウジ著『落語』(註30)
二、重森完途『京都の名庭』(註31)
三、木村重信『洞窟の美術』(註32)
四、今野円輔『怪談』(註33)
四月廿二日 周作人 安藤更生先生
大意:頂いた『華國風味』ありがとうございます。しばらく耽読できます。書中の陶然亭の一節に魅了され、酒 客ではないですが思わず涎が出ました。惜しむらくは大動乱により全ては雲散霧消してしまったことです。あら ゆるものが値上がりしています。特にタバコ、酒、茶は六倍にもなりました。これらの楽しみは書中に求めるよ りありませんが、この種の書も得難いものです。申し訳ないですが以下の書をお願いします。(以下略)
No,40 安藤→周 1962年4月28日
粛啓 御令室様御帰泉の御報に接し驚愕仕り候。ご起居御不自由の赴をば豫て承り居り候へども、かくも急に御逝 去とは夢にも愚考不仕。尊師はじめ皆様の御悲嘆さそかしと拝察、謹而御悼みの意を表し奉り候。小生の参上を御 待ち被下候由、訪燕の遅れ候事何よりも悔まれ候。あはれ大陸と三島の間政事の墻なくんば、非力愚生の如きも膝 下に参趨して高教を仰ぎ経べきを渤海東海の波必ずしも凌ぎ難からざるを、小生の如く昔より個人の自由聯合相互 扶助の世界を理想といたし居り候者にとり候ては、もどかしき限に御座候。五月七日頃神戸出帆の英吉利船にて日 本の書道代表団一行五六名(註34)にて貴地へ向かひ、団員は格別の人も居らぬ様子かと候へども、団長の山田正平(註
35)は信用の置ける人物にて現下弊邦第一の篆刻家に有て候。嘗て大正時代に上海にあり呉昌碩翁(註36)の門に入り親 しく教へを受けし事あり。小生とは少年の頃よりの親友に御座候。御引見御許しを得ば幸甚に御座候。同君に和菓 子を少々相託し候。太夫人御霊前へお供え願上候。小生外遊は九月二日の船と決まり申し候。先々略儀乍ら御悼み にて如斯に御座候。
四月二十八日 門下 安藤更生 再拝 薬堂先生 侍曹
No,41 安藤→周 1962年4月30日
御下命の現代教養文庫の中『怪談』『洞窟の美術』は丁度小斎の架上に御座ゐましたのでとりあえず別送いたしま した。『落語』『京都の名庭』は早速取寄せますゆへ少しお待ち願ひます。私は八月三十日頃東京を出立。船にて 外遊いたしますので、それまで御遠慮なく各種の御注文をお出し下さい。またパリ、ロオマ、フィレンツェ、ミラ ノ、ヴェニス、ナポリ、アテネ等にて御用の筋がございましたら何でもいたします。予定は半年、来秋には訪燕の つもりで居ります。東京は桜花已に散り果て八重桜のみ満開、小庭の香椿(昨年枯死してから別の小さなのを貰ひ ました)漸く発芽、太平花も勢ひがよくなりました。北京も花盛りでせう。何よりも御身御大切に御加餐の程願上 ます。
四月卅日 更生 周先生 至机下
No,42 周→安藤 1962年5月23日
拜啓、得二十八日手書、敬悉一一、承賜鄭重慰唁、感何可言、特此謹表謝忱。又蒙寄下書籍、亦已領収、今另開呈 数種、尚乞費心代購為荷。見報載山田君一行業已到京、下賜之物当俟公務完畢、由招待机關轉来、届時当再奉聞 耳。新出郵票一組、附呈乞賜察収。匆々不盡。
安藤更生先生五月廿三日周作人
櫻井徳太郎『昔ばなし』現代教養文庫(註37)
山中登『かっぱ物語』河出新書(註38)
武田静澄『河童天狗妖怪』〃(註39)
柳田國男『妖怪談義』修道社(註40)
大意:丁重なお悔やみの言葉ありがとうございます。本も拝受しました。今また別のいくつかの本をお願い致し ます。新聞によれば山田さんらの一行はすでに北京に到着したようです。公務が終わった後に安藤さんが託した ものは招請した部門の方が持ってきてくれるようです。受け取りましたらまた連絡します。新しい切手も一組同 封します。ご査収ください。
No,43 周→安藤 1962年7月13日
拜啓 得四月二十八日手書、即覆一信、想早已察覧矣。嗣於六月二十九日接到一信、郵戮是六月廿一、但裏辺的信的 月日乃是四月三十日、不知因何事以致遅誤也。承寄下『怪談』及『京都の名庭』等三書、則早経収到不誤。託山田君 帯下之物、因來賓照例無暇外出、向例係由招待機關派人送下、乃此次係属例外、於書法代表団離京多日之後、始由北 京税關通知、納税(極有限、只付一元二角而已)取來、費心多謝、因照來信所説、當即供於佛前矣。原品製甚精美、
唯因経手人辦事怠慢、致擱置多日、以致干燥、殊為可惜、但亦倖而終於送到、則仍當感謝者也。月餘之後即當欧遊出 發、当能有一次甚愉快之旅行。鄙人近已恢復工作、仍行翻譯希臘古典作品、此次係選譯ルキアノス散文(註41)、係素所 喜歓的著作、故亦不似為辛苦也。匆々不盡。
七月十三日 周作人「啞人作通事」(白文方印)
安藤更生先生
大意:四月二十八日のお手紙を頂いてからすぐに返信出しましたが、ご覧になりましたでしょうか。六月二十九 日に届いた手紙、文中の日付は四月三十日でした。どうしてこれほど到着が遅くなったのかはわかりません。
送って頂いた書物は確かに受け取りました。山田(正平)さんがお持ちになったものは、来客が多くて外出する 時間がなく、受け取れていません。招請した部門の人が代わりに持ってきてくれるのですが、今回は例外で、書 法団の御一行が北京を出発してから税関で税金を払うように通知がきました。頂いた物はお言葉通り、仏前に供 えました。もとは良いものであったのでしょうが、扱った人の怠慢で日がかかり、乾燥してしまったことが悔や まれます。ただ、お送り頂いたことは本当に感謝しています。欧州旅行、どうかお気をつけて。最近、私は仕事 に復帰しました。ギリシアの古典作品を翻訳しています。次はルキアノスの散文に着手します。もとより好きな 著作ですので、苦しいことはありません。
No,44 安藤→周 1962年8月13日
ご無沙汰いたしました。先日の饅頭は預けた山田正平君が北京へ着くと同時に病気になり同君だけ直ぐに飛行機で 帰国し未だに病院へ臥床中。それで先生にお眼にかかることも出来ず、人に頼んでお届けしてもらったのださうで す。東京も暑いですが御地もさぞお暑いことでせう。私は今月三十日東京出発、九月二日神戸から大阪商船のヘイ グ丸といふ荷客船で欧州へ向ひます。途中台湾香港に寄港するだけであとは一路アデンへ直行、アデンは九月二十 日、ここから飛行機でカイロへゆき四五天滞在、更にアレキサンドリアから同じ船でゼノアに着くのが二十九日、
十月一日にはパリへつきます。台湾はコレラ騒ぎで上陸はやめます。香港では久しぶりに中国の匂ひが嗅げるでせ う。船上遥かに広州を望んで鑑真和上の古へを偲ぶことができれば幸ひです。柳田国男先生(註42)、逝去され本日 葬儀がありました。政府は正三位勲一等を贈りました。このごろ政府は文化人が死ぬと勲章を贈るのが習慣のやう になってゐますがつまらぬ事です。中国が勲章を作らないのは立派だと思ひます。香椿を植えなほしたのが三尺ば かりになり亭々としてゐます。太平花は根を少し土竜にやられましたが何とか保ちさうです。今夏から東京では華 商が酸梅湯を瓶詰めにして売り出しました。可口可楽に真似て.Bai.cola.と名づけてゐますが.Bai.は梅のつもりで せう。評判はいいやうです。拙宅でも電気冷蔵庫で冷してはるかに信遠斎(註43)を偲んでゐます。新しく出た切手 少々お送りします。私の出発後に奈良美術に関する論文集が発行されるはずです。出ましたら留守先からお送り□
□□ます。酷寒の候御身御大切に遊ばされますやう。
八月十三日 安藤更生 薬堂先生
No,45 周→安藤 1962年9月20日
拜啓八月十三日手書誦悉、承賜下新出郵票多種、甚為感謝、當即轉寄予在甘粛習獣医之外孫矣。知已出發、計程當 在カイロ游覧、想多佳趣、旅中乞多収穫、用為預祝。近頃梅蘭芳舞台藝術と云ふ記念切手は發行しましたから一組 同封で御送りました。何卒御嬢様にさしあげて下さる様願ひます 草々
安藤更生先生 周作人 九月二十日
大意:八月十三日のお手紙、新発売の切手頂きました。有難うございます。早速甘粛で獣医をしている孫に送り ました。すでに出発しカイロで遊覧しているでしょう。旅中多くの収穫があること祈っています。近頃梅蘭芳舞 台芸術という記念切手が発行されましたので一揃い同封します。お嬢さんに差し上げて下さい。
No,46 周→安藤 1962年10月30日
拜啓 二十三日惠翰於今日奉到、併承賜郵票、不勝欣幸。得悉明年五月中國将為鑑真大和上開紀念大会(註44)、先 生将届時惠臨、至為可喜、唯旅欧日期不免因之需要縮短耳。査北京图書館尚無尊著『大和上傳之研究』(註45)、因此 已将見賜的一冊轉贈該館、裨供衆覧矣。北京已入冬季、唯現今尚不甚冷、室内可以不生火、即室外在早晨亦有八度 左右。鄙人近在翻譯希臘ルキシアノス之散文選集、雖較為麻煩、却頗為愉快、其餘暇則寫回憶録(註46)、已不久可 完成、計自去年開始、已寫了有三十萬字矣。艸々不盡。
十月三十日 周作人「啞人作通事」(白文方印) 安藤更生先生
大意:二十三日のお手紙、切手受け取りました。有難うございます。来年五月に中国で鑑真和上記念大会が開催 され、先生もご臨席されるとのこと嬉しいです。ただ欧州旅行は短縮されることになるでしょうか。北京図書館 にはまだ先生の著作がありませんので、一冊館に寄贈しておきました。多くの人の役に立つでしょう。北京は冬 になりましたが、まださほど寒くはありません。近頃は、私はルキアノスの散文選集を翻訳しています。厄介で すが楽しいものです。その他には回想録を書いており、程なく完成しそうです。
No,47 周→安藤 1962年11月8日
拜啓 十月二十三日手書僅有八日即到北京、可謂至速矣。明年帰貴國時有一件事奉託、請費心為找一部書如下:
『東方文化研究所漢籍分類目録』二冊(註47)、此書乃是一位魏君所要、此人亦与先生相識、即是多文閣書店的魏廣
洲(註48)、現在新華書店舊書部当店員。据此君説、先生昔居翊教寺(註49)時曾屡奉訪、且説此時方誕生一位小姐、並
記念目下不知已有少爺否、便中特為轉達。附呈郵票、乞仍贈与御嬢様、聞此種共有三輯、現時只發行此一輯也。北 京已甚冷、数日前須生火炉矣。匆々不盡。
安藤更生先生 作人拜 十一月八日
大意:二十三日のお手紙、速くも八日に北京に着きました。来年、先生がご帰朝された際に『東方文化研究所漢 籍分類目録』二冊をお探し頂けますか。これは魏廣洲君の依頼です。彼は多文閣で働いており、今は新華書店の 古書担当の店員です。彼によれば、かつて先生が翊教寺にお住いのころしばしば訪れ、その頃お嬢さんが生まれ たことのこと。よろしくお伝えくださいと頼まれました。切手も同封しました。お嬢さんにあげて下さい。北京 も寒くなり、数日前から火炉をつけました。
No,48 安藤→周 1962年11月18日葉書
(表)近日鄙人手拓.Gogh.兄弟的墓表了。魏広州は多文閣□□□私の留燕中最も親しかった書肆です。最後まで極 めて忠実に盡力してくれました。同君が先生のお宅へ出入りしてゐる事は私にとって欣快です。どうかよろしく仰 有ってください。私は明年北京へ行けたら先生の次には魏君に会いたいと思ってゐます。十一月十八日安藤更生
(裏)この家壁の色淡紅如皇城墻瓦色赭暖簾的文字真紅.Gogh.于這家臨終、今爲一個飯館了。
No,49 周→安藤 1963年5月6日
「知堂年七十九」(朱文長方印)
拜啓、得羅馬一頁書後未得來信、尊駕当已歸國了吧?鑒真和上千二百年記念(註50)見報載日本業已挙行、唯中國尚 無消息、日前曾根据尊著寫一小文、乃到处不為記者先生所賞識、已経寄到香港去了(註51)。大著『鑒真傳之研究』
則已轉送北京图書館、冀得識者利用、然亦不可必耳。魏廣洲君對於先生來華最感到熱心、見時必問及幾時可到、有 一本歴史年表拟奉贈先生、亦擱置敝处久矣。鄙人碌碌如常、雖仍在譯書、但也覚得漸益老衰矣。匆々不盡。此上 安藤更生先生 作人「作人留簡」(朱文方印) 五月六日
大意:ローマよりお葉書頂いた後、すでに帰国されたでしょうか。鑑真和上の記念式典が日本で挙行されるとの 新記事を見ました。ただ中国では何ら音信もありません。近頃、尊著に基づく小文を書きましたが、取り上げて くれる記者はいませんでした。よって香港に送っておきました。大著『鑑真大和上傳之研究』は、識者が利用で きるよう、すでに北京図書館に転送しました。魏広州君は先生の来訪を心待ちにしています。小生は相変わら ず、翻訳をしていますが次第に老いを感じるようになりました。
No,50 安藤→周 1963年6月2日
ご無沙汰いたしました。三月に帰国いたしましたが雑用に追はれて手紙も差上げずにをりましたところへ逆に先生 の御手冊を賜り恐縮いたしました。小生ちかごろ鑑真和上のおかげで中国での評判よろしいさうで今秋には懸案の 燕都行も多分実現しさうです。老師の足下に頂禮する日を楽しみにしてをります。さて一つ御教示を仰ぎたき儀有 之。それは中國の典籍を讀んでをりますとよく「某甲」といふ字が出て来ますが日本の字引類を引きますと「某 甲」は「それがし」または「なにがし」とあります。ところが日本語の「それがし」「或るもの」といふ意と「わ たくし」といふ意あり。日本人の書いた漢文などでは「或者」の時にも「わたくし」の時にも「某甲」と書いたも のがありこの問題は多年判断に苦しんでゐるのですが中国でやはり「某甲」に二つの意味があるので御座ゐませう か。それとも「或る者」の意だけで第一人称の卑称の方はないのでせうか。お伺ひいたします。私の今迄に書きた めました論文集『奈良美術研究』(註52)が出版されましたので別便でお手許へ差出します。御批正下さい。郵便切手 久しくお届けしませんでしたので大分たまりました。同封します。
六月二日 安藤更生 周先生 侍曹
No,51 周→安藤 1963年6月19日
拜啓 今日得二日手書、敬悉一一、承賜郵票多種、至為感謝。鑒真和上記念改在十月挙行(註53)、想届時定可來京、
當敬候光臨、一傾積愫。承詢某甲字義、在中國普通只作某一個人講、不実指人名、而以天干之字代之、称曰某甲、
此外第二個人則称某乙、全係指別人、不作自称代名詞之用、唯單用一某字時、有時或以自称、此与ナニガシ相似、
若是某甲乃絶不相同也。在漢文中、自己決不能称某甲、其自称作某亦無自卑之意、因為原來用某字的意思因「不 知其名」、或知之而故意不説、或其人太尊貴又或者看不起他、也都以某字代之、所以用某自称殊嫌不甚大方也。論 語、「十室之邑、必有忠信如丘者焉、不如丘之好学也。」從前書房讀書時、必諱孔子之名、讀曰、「如某者焉、不如 某之好学也」這里便是尊重之一例。艸々不尽。
安藤更生先生 作人 六月十九日「啞人作通事」(白文方印)
大意:今日、二日のお手紙とたくさんの切手頂きました。ありがとうございます。鑑真和上の記念大会は十月に 挙行されますので、その時に先生にお会いできるでしょう。「某甲」の字義についてですが、中国では普通「あ るひと」を指し、「天干」の語で代用することもあります。また、二人称では「某乙」を使います。「某乙」は他 人のことを指し自称代名詞としては使いません。ただ「某」を単独で使うときは、自称としても使えて日本語の
ナニガシと似ています。漢文中で自分のことを「某甲」と使うことはできず、また自称の「某」には卑称の意味 合いもありません。そもそも「某」とは名前を知らない人、またはあえてその名を言わない場合、または高貴な 人か身分の低い人を指す場合、いずれにも使えます。よって「某」を自称に使うことはあまり自然ではないので す。『論語』にも孔子の名前を忌み「某」と呼称する箇所がありますが、これは尊重した用例です。
No,52 周→安藤 1963年6月30日
拜啓 今日奉到大著“奈良美術研究”不勝感謝。如斯学術名著、在近年書籍甚難入手之時、得以拜讀、真可謂意外 之幸、唯自憾無知、不無明珠投暗之感耳。聞鑒真和上記念会改在十月挙行、届時想必可前來赴会、企予望了矣。魏 廣洲君時常念及、東方文化研究所漢籍分類目録、係数年前出版、如可得到、希為魏君找一部帯來也。艸々不尽。
安藤更生先生 六月三十日 周作人「知堂和南」(白文方印)
大意:今日、『奈良美術研究』届きました。ありがとうございます。このような学術的な名著は近年入手し難 く、拝読できることは望外の幸せです。鑑真和上記念大会は十月に挙行されますので、お会いできることを楽し みにしています。魏君は数年前に出版された『東方文化研究所漢籍分類目録』を欲しがっております。どうぞ彼 のために一冊お持ちください。
註
⑴ 本展覧会については『安藤更生コレクション受贈記念.會津八一と安藤更生-學藝の継承-』(2016年、早稲田大学會津 八一記念博物館)に詳しい。また、安藤更生氏の経歴や著作については、安藤更生年譜作成委員会『安藤更生年譜・著 作目録』(1972年)を参照。
⑵ 徳泉さち「周作人・安藤更生往来書簡(1)」(『早稲田大学會津八一記念博物館.研究紀要』第18号、2017年、35 ~ 48頁)
⑶ 周吉宜整理・陳力衛等訳「安藤更生与周作人往復書信」(『中国現代文学研究叢刊』2017年7期、178 ~ 215頁)
⑷ 当時、安藤は北京在住で、下中弥三郎(平凡社創業者)の創設した出版社である新民印書館に勤務していた。1942年、
中国文化人の生活を支援し、良書の出版を目的とする中国文化振興会が新民印書館の外郭団体として組織され、安藤は その理事として運営を任されていた。ここでいう『芸文雑誌』は中国文化振興会の機関誌として企画された雑誌であ る。『芸文雑誌』の総編集に当たったのが周作人であり、立ち上げの庶務を仕切っていたのが安藤と、この書簡に登場 する張深切(1904 ~1965)であった。
『芸文雑誌』創刊に至るまでの紆余曲折は、幸いにも張本人の日記が残されており、その経緯を追うことができる。
この日記の翻刻、ならびに解説は木山英雄氏の論考を参照した(序文:黄英哲・解説:木山英雄「資料『張深切日記』」
(『野草』第56号、1995年)、後に、木山英雄『周作人「対日協力」の顛末―補注『北京苦住庵記』ならびに後日編』
(岩波書店、2004年、pp422 ~ 450)に再録)。張の日記によれば、安藤と張は1943年3月ころには周家を日参してい る。再三の折衝を繰り返し、3月29日には雑誌準備委員会が開催された。翌日、新聞に「編輯長張深切、総編輯周作 人」の見出しの記事が報じられた。この報道は張の独断によるものであり、周はその報道に納得できず激怒したとい う。これら一連の紛糾の背景には林房雄や沈啓无と張との対立があったことは、前掲の木山氏の論考に詳しい。なお、
これ以後も張は編集部に残り、周は芸文社社長、安藤は顧問として発刊の準備は継続する。執筆者の人選や表紙の体 裁、台割りなど具体的な準備が詰められていく中で、4月21日の中華通訊社の新聞に再び張を「総編輯」とする記事が 報じられる。安藤が頗る心配し即座に張の所に電話をかけてきたこと、さらに、安藤らは張の辞職によって事態の収拾 を図ろうとしたことが張の日記に記されている。結局のところ、周の張への不信は解消せず、彼は辞職することにな る。さて、当書簡では、張深切が「捏造的発表」を無断で新聞にリークしたこと、以後は張を辞職させ一切事業に関わ らせないことが綿々と書かれ、周作人の離間を引き止めるべく安藤がしきりに陳謝している。内容からみて、1943年4 月21日の一件に関連する書簡であることは疑いないが、書簡末尾は「三月二十二日 安藤更生 泣血頓首」と結ばれ る。張の日記を見ても3月には該当するような出来事は見当たらず、これは動転している安藤の誤記とみるべきであろ うか。状況から考えて3月ではなく、「四月二十二日」とすべきものと推察される。さらに、書簡冒頭には周の母親、
魯瑞が重態である旨が言及されている。実際に魯瑞が逝去したのは1943年4月22日であった。未だそれを知らない安藤 がこの書簡を4月22日に書いたのであろう。
⑸ 張深切(1904 ~1965)は日本の台湾統治期に活躍した政治、文学活動家。台湾の南投庁草屯支庁に生まれ、1917年に は日本に渡り、東京にて教育を受ける。1923年には上海へ留学、1926年には広州の中山大学で学び魯迅とも交渉があっ た。1930年代は台湾にて文学活動に従事、1938年には北京に渡り『中国文芸』の主編に当たった。前注に記したように 1943年頃は『芸文雑誌』に関わるも辞職し、1946年には台湾に帰る。台中師範学校の教務主任に就任するも、二二八事 件の際に共産党の首脳であると誣告され山中に身を隠すことを余儀なくされる。以降は著述に専念し、1965年、肺癌に より逝去。(序文:黄英哲・解説:木山英雄「資料『張深切日記』」(『野草』第56号、1995年)を参照)
⑹ 「羽太君」とは、周の妻信子の実弟である羽太重久を指す。1942年に羽太重久は北京に移住し、周家で暮らした。新民 印書館に就職したため、安藤とも面識があったのであろう。なお、1962年4月16日の周作人書簡(No,38)で言及され る「静岡の羽太君」もまた同人。
⑺ 林房雄(1903 ~1975)、小説家。本名後藤寿夫。大分市生れ。東大法科中退。東京帝大在学中に短編「林檎」を「文 芸戦線」に発表し、プロレタリア作家として出発するが、のち転向。昭和8年(1933)、小林秀雄らと「文学界」を創 刊。戦後は「息子の青春」などの中間小説を書き、「大東亜戦争肯定論」で話題をよんだ。
⑻ 傅芸子(1902 ~1948)は満族、北京の人。『北京画報』や『国劇画報』を主編。1932年より42年まで京都帝国大学東方 文化研究所で研究に従事しつつ、京都帝国大学文学部で中国語を講じた。傅芸子は梅蘭芳らと北平国劇学会の創立メン バーに加わっており、演劇について造詣が深かった。
⑼ 三田村玄龍編『東海道中膝栗毛輪講 上・中・下』(春陽堂、1926 ~1930年)
⑽ 三井高陽『日本の切手(現代教養文庫 220)』(社会思想研究会出版部、1958年)
⑾ 三井高陽『切手 収集と鑑賞(現代教養文庫 187)』(社会思想研究会出版部、1957年)
⑿ 本山桂川『写真文学碑(現代教養文庫 297)』(社会思想研究会出版部、1960年).
⒀ 青木正児『華国風味』(弘文堂、1949年)
⒁ 安藤更生『日本のミイラ』(毎日新聞社、1961年)
⒂ 野村万蔵(6世・1898 ~1978)を指すか。和泉流狂言師、万蔵家六代。著書に『狂言の道』『狂言面』などがある。
1961年7月8日の周書簡ではこれらの書物の購入を安藤に依頼している。
⒃ 古川久『狂言の世界(現代教養文庫 304)』(社会思想研究会出版部、1960年)
⒄ 石橋幸作『駄菓子のふるさと』(未来社、1961年)。
⒅ 暉峻康隆『日本人の笑い 庶民の芸術にただよう性感覚』(光文社、1961年)
⒆ 中島健蔵(1903 ~1979)は、フランス文学者、文芸評論家。 中島は1961年10月に北京を訪問し、日中文化交流協会会 長として日中の文化交流に関する共同声明に調印している。なお、中国側は楚図南中国人民対外文化協会会長が署名。
⒇ 三島一(1897 ~1973)は、東洋史学者。唐の寺院経済を専攻。1932年、歴史学研究会結成の中心となり、1936年、初 代会長となる。1949年、歴史教育者協議会の初代委員長。二松学舎大学、明治大学、専修大学などの教授。日中友好の ために尽力した。三島は、1961年9月20日から10月23日まで日中友好協会派遣日本民間教育家代表団団長として訪中。
小野勝年譯註『北京年中行事記』(岩波書店、1941年)。
堀江知彦『書の美しさ(現代教養文庫 270)』(社会思想研究会出版部、1959年)。堀江知彦(1907 ~1988)は書家、
書道史家、會津八一研究者としても知られる。安藤とも交流が深く、『今日の書道』(二玄社、1954年)は二人の共編。
多摩芸術学園写真科編・撮影『日本の職人(現代教養文庫 288)』(社会思想研究会出版部、1960年)
富永次郎『日本の菓子(現代教養文庫 310)』(社会思想研究会出版部、1961年)
宮尾しげを『すし物語』(井上書房、1960年).。
本書簡について、前号の拙稿では消印のスタンプが不明瞭のため1952年と判断し配列していた。再度、前後の書簡のや り取りを確認したところ、1962年とすべきことが判明した。ここに訂正し、合わせてお詫びしたい。
青木正児『華国風味』(弘文堂、1949年)。なお、周の1961年7月1日の書簡にて本書の購入を安藤に頼んでいる。
周作人は、1939年元旦に銃殺未遂事件に遭遇している。その一件を指すか。
周作人は、1941年4月の訪日の際に谷崎潤一郎(1886 ~1965)と一度面会している。谷崎は周作人の印象を「冷静と幽 閒-周作人氏の印象-」と題して書き残している。(方紀生編『周作人先生のこと』大空社、1995年、23 ~ 27頁に収録。)
加太こうじ『落語 大衆芸術への招待(現代教養文庫 360)』(社会思想研究会出版部、1962年)
重森完途『京都の名庭(現代教養文庫 293)』(社会思想研究会出版部、1960年)
木村重信『洞窟の美術.美の誕生をめぐって(現代教養文庫 289)』(社会思想研究会出版部、1960年)
今野円輔『怪談.民俗学の立場から(現代教養文庫 175)』(社会思想研究会出版部、1957年)
山田正平、香川峯雲や殿村藍田、今井凌雪らの書家たちが中国の書道界の現状を視察するために約一ヶ月北京を中心に 長安や洛陽、上海など各地を参観した。一行が青島に到着したのが1962年5月14日のこと。6月には北京の中山公園に て日本書道展を開催したという。No,44の手紙にあるように山田正平は体調不良によりすぐに帰国した。正平以外の書 家たちが帰国したのは6月20日。なお、正平はこの際の病気がもとで、帰国後ほどなくして逝去した。
山田正平(1899 ~1962)は、大正、昭和時代の篆刻家。山田寒山の娘婿。当書簡の文中にあるように大正8年に、山 田は中国にわたり、呉昌碩(1844 ~1927)に師事した。會津八一は正平の才能をいち早く認め、少年時代から印の制 作を依頼し、彼を援助し続けた。同じく會津門下にいた安藤とも正平は親交が深かった。
呉昌碩(1844 ~1927)は、清末・中国近代の文人画家。浙江省安吉生。名は俊卿、昌碩は字。詩・書・画・篆刻とも に精通し、「四絶」と称賛される。山田正平をはじめ、日本の篆刻界に与えた影響は大きい。
櫻井徳太郎『昔話 日本人の心のふるさと(現代教養文庫 153)』(社会思想研究会出版部、1957年)
山中登『かっぱ物語』(河出書房、1956年)
武田清澄『河童・天狗・妖怪 民俗随筆』(河出書房、1956年)
柳田國男『妖怪談義』(修道社、1956年)
後に『路吉阿諾斯對話集』上下巻(中国対外翻訳出版公司、2003年)として刊行。
No,42の書簡でも柳田國男(1875 ~1962)の著作を求めているように、周作人は柳田の著作を殆ど所蔵していたとい う。周作人が柳田の民俗学に深い影響を受けたことについては、趙京華「周作人と柳田國男-固有信仰を中心とする民 俗學-」(『日本中國學会報』第47集、1995年)に詳論される。
信遠斎は、清の乾隆5年(1740年)創業、東琉璃廠の蜜果店。安藤は自身が編輯した『北京案内記』(新民印書館、
1941年)でも「酸梅湯」を取り上げ、「北京の酸梅湯は和平門外琉璃廠の信遠斎のが一番美味とされてゐる」と記す。
実際には、1962年10月4日に北京の政治協商会議講堂にて「鑑真和尚逝世一千二百周年記念大会」が開催された。
安藤更生『鑒眞大和上傳之研究』(平凡社、1960年)
後に『知堂回想録』(香港三育図書文具公司、1974年)として刊行。
東方文化研究所編『東方文化研究所漢籍分類目録』(東方文化研究所、1943年).
「魏廣洲」はおそらく書き誤りで、魏光洲(1912 ~ 2006)が正しい。魏は、北京の琉璃廠にある松筠閣で年少時より勤 めはじめ、後には西琉璃廠の多文閣を経営した。安藤が1963年10月に周作人と面会した際に、周作人は魏から託された 古墨を安藤に渡している。安藤はその交流を以下のように記す。―「魏廣洲がね、あなたの来るのを聞いて、自分は会 へないだろうから、これを上げてくれと云って、墨を持って来た」と堂の奥から紙包み二つを出して来られた。箱入り の墨二挺と、光緒の朱墨である。魏君はむかし多文閣といふ本屋をやってゐて、琉璃廠に住み、日曜ごとに必ず私の家 へ来て、頼んだ書物を捜して来てくれた。誠実な人物である。私が墨の研究をやってゐることを知ってゐるので、忘れ ずに持って来てくれたわけで、私は海を越えた古い友情のあかしを見せられて感激した。―(安藤更生「苦雨齋訪問 記」(『大安』10-11、1964年))。
安藤更生年譜作成委員会『安藤更生年譜・著作目録』(1972年)によれば、安藤の長女は1940年生。その当時安藤は北 京市内四区南庫角胡同20号に住んでいたという。
1963年5月6日に奈良の東大寺で「鑑真和上円寂千二百年記念法要」が営まれた。中国からは仏教協会副会長の趙樸初 氏、正嘉法師、一如法師らが参列したという。また、安藤は鑑真和上円寂千二百年記念鑑真和上をしのぶ夕べにて「『東 征伝』について」と題して東京朝日堂にて講演。講演会には、亀井勝一郎、井上靖、大谷瑩潤や郭沫若らが出席したと いう。
「關于鑒真和尚」(「新晩報」1963年5月5日、後に『周作人散文全集』第14巻、広西師範大学出版社、2009年に収録)
を指すか。
安藤更生『奈良美術研究』(校倉書房、1962年)
1963年10月4日「鑑真和尚逝世一千二百周年記念大会」が開催され、安藤は日本文化代表団団長として招かれた。安藤 は周との面会を条件として提示し、出席を決めたという。この訪中に同行した日本文化代表団のメンバーには、井上 靖、宮川寅雄、長島健らがいた。旅程としては、9月29日に北京着、翌日は広済寺にて趙樸初ら中国側と懇談。その 後、記念大会に出席後、10月7日に周作人との再会を果たし、8日は魯迅博物館の見学。9日から西安にわたり名勝旧 跡を参観、13日は南京に移動し、棲霞寺での「鑑真記念集会」にて挨拶、15日は揚州法浄寺平山堂にて催された「鑑真 和尚逝世一千二百年記念慶讃会」にて出席。杭州、広州を経て帰国している。なお、当館所蔵の安藤更生コレクション には、北京での記念大会時の写真アルバムが含まれる。何点か末尾に掲載したので参照されたい(〔図版2~4〕)。
No 執筆者 日付 概 要 作品 ID 備 考 1 安藤1 1943年3月22日 封書 便箋10枚 墨書 追加 * 2 安藤2 1951年11月17日 封書 便箋2枚 墨書 追加 * 3 周1 1952年9月21日 封書 便箋2枚 墨書 161 2017 年掲載済み 4 周2 1954年4月13日 封書 便箋1枚 墨書 184 2017 年掲載済み 5 周3 1960年10月6日 封書 便箋2枚 墨書 195 2017 年掲載済み 6 安藤3 1960年10月19日 封書 便箋6枚 墨書 2 2017 年掲載済み 7 周4 1960年11月19日 封書 便箋2枚 墨書 182 2017 年掲載済み 8 安藤4 1960年12月1日 封書 便箋4枚 墨書 3 2017 年掲載済み 9 周5 1961年1月2日 封書 便箋1枚 墨書 198 2017 年掲載済み 10 安藤5 1961年1月17日 封書 便箋2枚 ペン書き 4 2017 年掲載済み 11 周6 1961年1月17日 封書 便箋1枚 墨書 197 2017 年掲載済み 12 周7 1961年2月4日 封書 便箋2枚 墨書 196 2017 年掲載済み 13 安藤6 1961年2月6日 封書 便箋3枚 墨書 5 2017 年掲載済み 14 安藤7 1961年2月12日 封書 便箋1枚 ペン書き 6 2017 年掲載済み 15 周8 1961年3月9日 封書 便箋2枚 墨書 207 2017 年掲載済み 16 安藤8 1961年3月20日 封書 便箋4枚 ペン書き 7 2017 年掲載済み 17 周9 1961年4月19日 封書 便箋1枚 墨書 202 2017 年掲載済み 18 安藤9 1961年4月27日 封書 便箋2枚 ペン書き 追加 * 19 安藤10 1961年5月10日 封書欠便箋1枚 ペン書き 追加 * 20 周10 1961年5月11日 封書 便箋2枚 墨書 201 2017 年掲載済み 21 安藤11 1961年6月5日 封書 便箋2枚 ペン書き 8 2017 年掲載済み 22 周11 1961年7月1日 封書 便箋1枚 墨書 190 2017 年掲載済み 23 周12 1961年7月8日 封書 便箋2枚 墨書 200 2017 年掲載済み 24 安藤12 1961年8月3日 封書 便箋3枚 墨書 追加 * 25 周13 1961年8月30日 封書 便箋1枚 墨書 194 2017 年掲載済み 26 周14 1961年9月29日 封書 便箋1枚 墨書 188 2017 年掲載済み 27 安藤13 1961年10月8日 封書 便箋2枚 ペン書き 9 2017 年掲載済み 28 周15 1961年11月6日 封書 便箋1枚 墨書 205 2017 年掲載済み 29 周16 1961年11月10日 封書 便箋1枚 墨書 199 2017 年掲載済み 30 安藤14 1961年12月3日 封書 便箋4枚 墨書 追加 * 31 周17 1961年12月14日 封書 便箋1枚 墨書 165 2017 年掲載済み 32 安藤15 1961年12月16日 封書 便箋3枚 墨書 追加 * 33 周18 1961年12月27日付 封書 便箋 墨書 168 2017 年掲載済み 34 安藤16 1962年1月1日 封書 便箋3枚 ペン書き 追加 * 35 周19 1962年1月20日 封書 便箋1枚 墨書 192 * 36 周20 1962年2月8日 封書 便箋1枚 墨書 204 * 37 安藤17 1962年3月19日 封書 便箋1枚 ペン書き 1 2017 年掲載済み 38 周21 1962年4月16日 封書 便箋4枚 墨書 172 * 39 周22 1962年4月22日 封書 便箋1枚 墨書 191 * 40 安藤18 1962年4月28日 封書 巻紙 墨書 10 * 41 安藤19 1962年4月30日 封書 便箋3枚 墨書 11 * 42 周23 1962年5月23日 封書 便箋2枚 墨書 193 * 43 周24 1962年7月13日 封書 便箋1枚 墨書 175 *
〔周作人・安藤更生往来書簡リスト(訂正版)〕 (*は今号に掲載した書簡)