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宋代八景現象考

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(1)

一、はじめに二、宋 五、 四、八景圖と八景詩 三、北宋後期の士大夫と繪畫 の「瀟湘八景圖」

章組詩による名

七、西湖十景 六、宋代八景現象 詠 世

八景現象の

一、はじめに

本稿でいう・八景現象・とは、ある一地域の景

地を八カ 乃至數カ

切り取り、各景を

として 標題し、詩歌や繪畫によって 字四字によって 體 に

寫する、一

の文

現象のことを指す。 いわゆる・八景現象・は、

い昔の

史記 印された死せる文 の中に封

現象ではない。香

や澳門の如き、

史の淺い

「古八景」と稱し、それとは別に「新八景」を いよう。また今日、中國各地で、從來から存在した八景を (1) 市に八景が存在する事實がそれを物語って

も正に活發に行われている。・八景現象・は、今なお生 (2) 定する動き れ續ける、すぐれて今日 さ な文

・八景現象・は、ひとり中國國 現象である。

においてのみ見られる文 現象なのではない。我が國においても、室町時代以

地に八景が 、各

定された。

鮮においても高麗

以 廣く東アジア 現象が各地に存在した、という。いわゆる・八景現象・は、 (3) 、同樣の 域で

められる文

ところで、近世乃至今日における・八景現象・を考えてゆ 現象でもある。

宋代八景現象考(

山)

宋代八景現象考

(2)

く際、最も缺くべからざる

件は、この現象が・

う文 游・とい 江 營爲と深く關わり合っている、という事實であろう。

時代後期(一九世紀

時は文 の實例をげる。) 、文政、天保の頃、

巧な寫實

色版畫 世繪が大量に制作され、江

の巷 その代表 に流布していた。

作家、葛

日本各地の景は、(一七九七~一八五八) 北齋(一七六○~一八四九)や歌川廣重

地をシリーズ物の

世繪に仕立てて陸續と世に問い、それぞれが好

を いる。その中には、「 して 江八景」(

景」( 、「金澤八賀縣琵琶湖の南)

奈川縣 濱の南)等の八景圖も含まれていた(

江 圖參照)。

時代後期は市民文

が 開いた時代である。

市 の經濟條件が向上し、多くの市民が泊まりがけで外地へと 民

ける繪 行に出かけた。北齋や廣重の版畫は、ちょうど現代にお

書の如き役

は、彼らの八景圖に觸れて、 を果たしている。當時の・游客・たち 版畫をガイドとしながら、版畫と同じ景 游への興趣を掻き立てられ、

に向き合い、

實の と

を 來する 北齋や廣重の を樂しんだ。

かについては、筆 繪畫なりの存在が、中國の八景現象においてもめうるか否 世繪の如き明確な役回りを演じた版畫なり

!にはまだ明確な回答はない。しかし、明 (4)

"以

#、中國各地ににわかに

$生した

世・

・游客・を誘い、・游客・の足を景點へと 八景が、

%く役 ことは、疑いようのない事實であろう。むしろ、 を果たした 世・

における八景は、それぞれの土地の美しさを對外 代 外地の・游客・を誘引することをそもそもの目 に宣傳し、

として されたに相 &定

'ない。この・

は、市民階 游・を中心とする・八景現象・ (の )熟という

世・

代 て *會條件を背景とし )立している。從って、筆

!がこれから

る、 +り上げようとす 11~ 形では立ち現れてはいない。しかし、このような 13世紀、宋代の・八景現象・においてはまだ明確な

世 現象も、むろん宋代の八景現象を 八景 本稿では、 て發展した一變相に他ならない。 提とし、それを基礎とし 15、 16世紀以 アジア #、中國を中心として廣く東 ,域に -.に /0していった八景現象の直接

ある宋代の八景現象に焦點を絞り、それがどういう時代 淵源で 文 1の中で

2み 3とされ、どのようにして

4圍に いったか、について重點 /0して に論 士大夫階 5する。宋代の八景現象は、

(を中心とするいわば限定

な上 (の文

り、 現象であ

世・

代におけるが如き市民階

(をも卷き

6んだ大規 7な現象ではないが、彼らが定めた文

枠組みは、今日の 中國詩文論叢第二十集

84

(3)

・八景現象・にもなお、

年に垂んとするこの現象の 固に息づいている。本稿は、一千 生の り立ちしてゆくまでの初期 に立ち會い、それが獨 を明らかにすることを

目とし、さらには たる 世・

代へと

をそこから探し出したいと思う。 續する發展形態の兆候

二、宋

の 「 瀟湘八景圖」

八景現象の淵源を求めると、北宋後期、宋

が う「瀟湘八景圖」にまで辿り いたとい く。八景現象は、繪畫藝 の中から

宋 生した。

か、もはや の畫はすでに失傳し、それが如何なる繪畫であったの 體に知る

はない。しかし、當時の複數の記 が、「瀟湘八景圖」の最初期の作

として、宋

の名を

げている。その最も早期のものは、沈括(一○二九~一○九三)『

溪筆談』卷一七の、以下のような記載であろう。

度支員外

宋 工畫、尤得意

有「

沙雁

」「

帆歸」「山市 浦 嵐」「江天

」「洞庭秋

「 」「瀟湘夜雨」

寺 鍾」「漁村

照」、謂之「八景」。好事

(中 多傳之。

書局香分局本)

宋代八景現象考(

!山)

歌川(安")廣重版畫「金澤八景・#$秋」圖(天保七年[1836]%後)

(4)

宋 、字は復古、洛陽の人。

士に

第し、湖南轉

官(嘉

八年)、宣撫司勾當公事(熙

四年)、度支中(熙

五年)、知

州 提 永興・秦鳳路交子(熙

等を七年)

した。その他の經 (5) 任 は未詳の部分が多いが、兄の

四~一○八三、字叔 (一○一 、甥の子)

(長兄・

の子、字は

に和畫譜』(卷一二、「山水三」) ともに、畫家として知られている。また兄弟そろって、『宣 と) 五代の されている。

筌(九○三~九六五)や李

の、宋 (九一九~九六七)等 に先行する「瀟湘八景圖」の存在を示唆する

二、三現存するが、 料が 年の先行

究によれば、それらの

はそれぞれ信憑性に某かの問題を含んでいる。また、たとえ (6) 料 ・李二氏が確かに「瀟湘八景圖」を

ければならない。從って、現象の 宋代における「瀟湘八景圖」の流行は北宋の末期まで待たな いていたとしても、

い淵源を

めることは或いは可能かもしれないが、流行の直接 ・李二氏に求 一五○年 機を、

に乏しい。なぜなら、北宋の 後も遡って彼らに求めるというのは、些か得力

!一五○年

"、とりわけ後

七、八十年の #の

"に、士大夫と繪畫、特に水

係性が $の山水畫との關

%&に接

したという顯

な變

'が ある(後 (められるからで

))。 宋

よりも世代はやや下になるが、北宋末期の詩

*・

(一○七一~一一二八/「惠洪」とも書く。また、 +洪 ことを考慮に入れれば、宋代八景現象の が下記の如き詩題をもつ「瀟湘八景詩」を詠じているいう) ,洪とも覺範とも が示唆する -點は、沈括の記載

.り、やはり宋

ろう。 (7) の繪畫にあると見なすべきであ

作八境 /妙、人謂之無聲句。演上人戲余曰、

『禪』八、 能作有聲畫乎。因爲之各賦一首。(四部叢刊本『石門文字 人 0宋詩』[以下、『

0』と略稱]一三三四・23・15162) +洪は、現存する「瀟湘八景詩」の中で最も早期の作

あるが、彼も「瀟湘八景圖」=宋 1で という 宋 詩を詠んでいる。 (8) (識を基盤として が「瀟湘八景圖」を

いた

2體 現在その手掛かりは殆ど存在しないが、仁宗の嘉 な時期については、

年 に彼が湖南轉 "の末 司 經驗が、一つの重 官として瀟湘の地を實際に訪れたという 3な 機となったことはほぼ

"

彼は洛陽出身の北人士大夫である。湖南轉 4いない。

司 彼の官 官赴任は、

5における最初期に位置する經

であるから、瀟湘= 中國詩文論叢第二十集

86

(5)

湖南の風土に觸れたのも、おそらくこの時が最初のことではないかと推測される。宋 ではないが、彼の「瀟湘 とほぼ同世代の蘇軾が、八景圖(一○三六~一一○一)

古畫瀟湘 景圖」に詩を寄せている(「宋復 。景圖三首」)

代の蘇軾

年詩集

年譜』( び孔凡禮『蘇軾 98・2、中

の作としている。蘇軾の題畫詩の(一○七八) 書局)は何れも、この題畫詩を元豐元年

ば、宋 (9) 容を踏まえれ が「瀟湘

年六(一○七四) 景圖」を制作したのは、おそらく熙七 、 て以 州へ知事として赴任し(陝西省彬縣)

の二、三年の

宋 ということになる。

は湖南轉

官赴任の嘉

末から死去するまでの

に、右二種の畫を含め、おそらく數種の瀟湘もしくは八景關

に列 の畫を制作していたものと想像される。それは『宣和畫譜』

された彼の畫題によっても十分

『宣和畫譜』に 推することができる。

された彼の繪畫

31種の中、「瀟湘秋

「江山 圖」

圖」「

また、これまで餘り させよう。 浦征帆圖」「八景圖」等は、それを彷彿と 意されて來なかった

の、以下の如き宋人 料に、蘇軾詩

がある。蘇軾「

呂昌 對する、趙 知嘉州」詩に 公(北宋末~南宋初の人)

に、 昌

得宋復古畫「八景圖」、來嘉州。其目曰、「洞庭

靄」「廬阜秋雲」「

田雁

「 」「闊浦帆歸」「雨暗江村」

藏山麓」「泉

(四部叢刊本『王元集 古柏」「石岸孤松」。 分 東坡先生詩』二一、「

別下」)

という記

!があり、これによれば、宋

は「瀟湘八景圖」と

"く

#なる別の「八景圖」も

$いていた。沈括が指摘した

%

り、「瀟湘八景圖」を始めとして、山水畫の組作は、宋

生卒年を含め宋 最も得意とする畫題であったのだろう。 の の經

「瀟湘八景圖」の制作時期は特定し に不明の部分が多いので、肝腎の

&いが、上限は

'!の

%

り嘉

の末年(一○六三)、下限は元

年 の後

はない。その根據は、宋 (を下ること 「瀟湘八景圖」のことを最初に記 する沈括『

)溪筆談』が、元

三年(一○八八)の後數年 實に指摘できるのは、北宋後期、 以上の如く、「瀟湘八景圖」の制作時期について、現在確 に執筆されたものだからである。

を中心とする四 *宗の時代(熙、元豐) (世紀の

、ということのみである。

宋代八景現象考(

山)

(6)

三、北宋後期の士大夫と繪畫

北宋の後期、

現の手段として活用し始めた時代である。むろん 宗の時代は、士大夫が繪畫を確實に自己表

ても、繪畫は士大夫と關係性の深い藝 代にあっ 王維等の僅かな例外を除けば、 領域であった。但し、

代の代表

士大夫自らが恆

に繪畫制作に

手したという記

彼らにとっての繪畫はあくまでも鑑賞の對象であって、 は殆ど殘っていない。

體 である。以後、士大夫と繪畫の離は時代が下るに に自らが創作に加わるべき領域とは考えていなかったよう

實に一 れて確

一 狹まったものの、北宋中期に至るまで、基本

況に大きな變

はない。從って、繪畫の制作は基本

に宮 て 畫院を中心とする職業畫家たちの獨占領域であった、といっ

言ではない

に顯 。しかし、北宋も後期に入ると、そこに確實 10

な變 文同(一○一八~一○七九)、王 が生じてくる。

して宋 蘇軾、晁補之、そ(一○三六~一一○一)(一○五三~一一一○) (一○三六~一○八九以後)、 兄弟等、實際に繪畫創作に

畫創作の離を伺い知る興味深い史實を一つ紹介する。 かに多數出現し始めたのである。ここに、當時の士大夫と繪 手する士大夫が、にわ

宗の熙 七年四(一○七四)

。京師開封の外

門の監督官であった驅け出しの士大夫、鄭 ・戴樓 は新法の停止を訴えるべく、民衆の慘一一九) (一○四一~一 圖」)に を繪(「流民 いて 上した。その繪圖を見るや

法黨の

が幾度となく 々

硬に 得しても

く耳を

さなかった

宗は、一夜にして新法の停止を決意するに至ったのである。

11

この事件の根底には繪畫の存在がある。鄭

創作を思いつかなかったならば、この事件は がもし繪畫の たはずである。繪畫の持つメディアとしての效力を彼が日常 立しえなかっ いつき、それを實行できた。そしてこの行爲は に自覺していたからこそ、彼は繪畫の制作をごく自然に思

り動かすという、最も理想 宗の心を搖 はこの事件の中に、當時の士大夫における繪畫 な效果をかちえたのだった。筆

!識の

"

#

を看て取りたい。では、北宋後期のこの時期に、何故

繪畫創作に對する意識に顯 $如として、士大夫の な變 變 が生じたのであろうか。

%因を、繪畫技法、繪畫理論、そして士大夫の生活空 第一に繪畫技法についていえば、水 &、の三つの側面から、探ってみたい。

'畫法の發

(と普

この變 )が、

に大きく寄與していると考えられる。少なくとも

中國詩文論叢第二十集

88

(7)

代まで、繪畫の

流をなしていたのは、

色繪畫であった ()

12

專門 色繪畫の制作は、當然のことながら、顏料に關する樣々な 知識やそれを使いこなす高度な技

と經驗を

とは想像に この點が士大夫による繪畫創作を阻む大きな障壁となったこ 求する。

明 くない。

の文人たちが普

に理想と

げた・詩書畫三

いう枠組みがある。この中、・詩・は、 ・と て最も身 宋の士大夫にとっ な自己表現手段であった。というよりも、科

度を考慮に入れれば、士大夫という地位を 制

得するために必

不可缺な

件の一つでさえあった。・書・も、個人

拙の差は存在するであろうが、意思傳 な巧 缺かせない手段であるから、彼らにとってはやはり極めて や相互交流のために

しいものと意識されていたはずである。從って、この二種については、どの士大夫にとっても、實作可能な

る 然に用意されていたといってよい。しかし、・畫・を制作す 境がごく自

境については、

同じく たわけではない。 宋士大夫の誰にも等しく用意されてい 形 に屬する・書・と・畫・の兩

みる。・書・は、言語による意思傳 を比較して られない特質を本來 という實用性から離れ に持っている。・書・は

では あるが、符號としての

字の形 に常に制

されており、

るべき形

がある 束の範圍を超えて

されることを

一方、・畫・にそのような 特質を持つ。 む 形 制 はない。森羅

てをダイレクトに表現することができる。しかし、・書・の如き

形 制 がないということは、制作

と鑑賞

共 に

の 固な識基盤(

を意味する。從って、制作 !が原則として存在しないこと) り、鑑賞 が對象を巧みに寫し取らない限 に

"畫意圖を理解されない危險性が常に

三 ていることになろう。 #たわっ

$元の對象を二

$元の空 に寫し取るためには、熟

た技 %し

が 求されるが、士大夫の日常生活にそれを

&

機會は本來 'する に用意されていないのが普

顏料に關する である。その上、

(知識を 求されるということになると、

)均 しかし、水 領域ではなかったはずである。 士大夫たちにとっては、とうてい氣輕にアプローチできる

域であった。使用すべき *繪畫は、彼らにとっても十分に想像可能な領

+,は、彼らが日常

いる毛筆と に使い慣れて

*と紙だけである。(布)

"畫の基本

技 を -

得しさえすれば、理念

にどの士大夫にとっても實作可能な

宋代八景現象考(

.山)

(8)

繪畫技法であった、といえよう。水

技法の普

は、技

側面において、士大夫と繪畫制作の

離を一氣に縮める役

を果たした、といってよい。第二に、繪畫理念についていえば、北宋中後期を境として士大夫文

繪畫の世界に一つの の最たる典型が蘇軾である。しかも、彼が展開した理論が、 質について、多くを語り始めたという現象を指摘できる。そ の中心に位置する重人物が、繪畫そのものの本

彼の理念が最も凝縮して表現された詩と文を以下に引用する。 く新しい境地を切り開いた。ここで、

論畫以形似、見與兒童鄰。賦詩必此詩、定非知詩人。詩畫本一律、天工與

新。邊鸞雀寫生、趙昌

傳 如此兩幅、疎淡含 。何

(中 。誰言一點紅、解寄無邊春。

書局『蘇軾詩集』二九、「書

陵王

觀士人畫、如 畫折枝二首」其一)

天下馬、取其意氣

到。乃 畫工、

只取鞭策皮毛槽櫪芻秣、無一點俊發、看數尺許便卷。

(中 眞士人畫也。

書局『蘇軾文集』七○、「又跋

畫山二首」其二)

いわゆる・寫意・・傳

・論の展開である。職業畫家による

確に打ち出し、・形似・よりも・寫意・・傳 密な寫實畫に對して、蘇軾は・士人畫・という枠組みを明

・を重

=に職業畫家=工畫、はここ。たし開を展論 プロフェッショナル する持 理論自體の繪畫史 て取ることができる。 と、士大夫=業餘畫家=粗放な寫意畫という對立の圖式を見 アマチュア 密な寫實畫

、美學 に先行 意義についての檢討は、すで 究において行われている

て、どのような實際 ここでは、この理論が當時の、あるいは後世の士大夫にとっ ので、ここでは論じない。 13

蘇軾の論を、畫工 たい。 意味を持ったかについて指摘しておき ると、畫工が士大夫に對して持っている技巧面における vs士大夫という枠組みの中で再解釋す

對 優位性を、この論が無力

いう を論と・寫意・ない。そこにねすることになりか拜塵工の後 な繪畫理論に立つと、士大夫は繪畫創作の領域では、常に畫 だという極めてもっともこそが最も重・形似・がつこう。 する效力をもっていることに氣 く別の 價尺度を持ち

むことによって、技巧

る士大夫がにわかに畫工との立場を に劣

轉して、中心

な創作

る。 體となりうる境を用意したのだ、と解釋することができ 中國詩文論叢第二十集

90

(9)

何れにせよ、蘇軾の・寫意・論は、結果

制作に向かう際の心理 に士大夫が繪畫 バリアーを取り拂う重

な役 たしたはずである。この を果 張のおかげで、同時代

士大夫たちは、形似の呪 び後世の から一定

ものの言いをすれば、いた繪畫が對象に 度解放された。極端な も、・寫意・の繪畫だと嘯いていればいい、という く似ていなくて 第三の生活空 この時に出來上がったのである。 況が、

における變

ず北宋中期に開 についていえば、この點はま

した士大夫文

の士大夫文 と大いに關係がある。北宋 は、

烈な彼らの

して、彼らが中心となって いる。つまり、自らが國家を支えているという自負を基盤と 體意識によって支えられて 會、文

みに新しい價値基準を打ち立て、それを先 のありとあらゆる枠組 る明確な傾向が してゆこうとす められる

14

の・寫意・論も、その

。そして、この上にあると考えると極めて理解しやすい) 長線

彼らの私 勢が

生活空

果たして、彼らは、 において發揮されないはずはない。

、硯、筆、紙等の文

を始め、

、 等の 度品(

供)や奇石や枯木等屋

を る裝 琴や骨董品等々を蒐集し、 品、

これらの物品を、彼らは自らの審美意識に沿って蒐集し、そ 答しあい、また相互に品した。 れらを身邊に置くことによって、私

空 を文學

!"生 場として相應しい空 #の に 代名詞ともいうべき・文 $っていったのである。文人趣味の

%四寶・という

&念も、北宋中期以 '、普 (したものであったことを想

いう中で、書や畫も重 )すべきである。こう な蒐集對象となっている。

兩日

*有秋氣、伏想

)居佳 +。蜀人蒲永昇臨孫知

,

「水圖」、四面頗雄爽。杜子美

-謂「白波吹素壁」

掛公齋中、眞可以一洗殘 .。願 /也。

01、上

(中 23。

4書局『蘇軾文集』五九、「與鞠持正二首」其一)

右文は、蘇軾の尺牘である。この尺牘から、繪畫が彼らの私

な日常生活空

にあってどの樣な役

ば殘 かを窺い知ることができよう。蘇軾は「水圖」を壁に掛けれ を果たしていたの

/の嚴しさを

5れ去ることができる、と

文中に引用された杜甫の詩句は「奉觀嚴鄭公廳事岷山 6いている。

畫圖十韻」(『杜詩詳 7江

」にが廳事の「武嚴官たのは上見甫て明らかなように、杜 8によっ題詩であるが、句中の一』一四)

られた山水畫であり、官廳という公

空 を裝 あった。その點、蘇軾の尺牘があくまで私 する繪畫で な生活空

にお

宋代八景現象考(

山)

(10)

ける繪畫の效用を語るのと、明らかに

一例のみを根據として なっていよう。この

と北宋後期の差

か を云々するのは些 少なくとも北宋中後期以 引な論法であるが、蘇軾の尺牘に見られるこの現象は、

の士大夫には普

に また、・臥・という考え方がある。居室に山水畫を ものである。 められる ことによって、艱 る 辛 を う 大自然の景 に出ることなく寢轉がって 想自體は、山水畫の發生と密接な關 の中に心をばせるという發想である。この發

があり、つとに六

頃からすでに存在している

。しかし、この發想が廣く士大夫 15

會 體に

し、それが私

生活空

で普 るようになるのは、やはり北宋の中期以 に實踐され る。しかも、この發想は のことと考えられ 烈な文

彼ら士大夫たちにとっても、 體意識に支えられた た。大景 に理にかなったスタンスであっ 自らが の中に己が出かけていって客するのではなく、

人として居

する私 生活空

させるという大膽な發想は、北宋士大夫の に大自然の方を移動 端 烈な自我意識を

如き意味を持つ。 改めて整理し直すと、本稿で指摘した三つの點は、以下の に表現しているといえないでもない。 第一點は、繪畫技巧における新技

の普 もいうべき士大夫の繪畫創作を容易にし、それを技 が、業餘畫家と

障した、ということである。第二點は、「形似」の呪 面で保 解放されたことにより、士大夫の繪畫創作に對する心理 から リアーが取り拂われ、かつまた文 バ の自心を滿足させる新しい としての士大夫

!價 味している。第三點は、士大夫の私 "境が整備されたことを意 日常空

にまで繪畫が

し、繪畫の效用を日常

この三點の中、第一と第三の二點は、條件 が創作への意欲をも高めたであろうことを意味している。 に體感できるようになり、それ

には いてすでに一定 代にお

#度實現していた。中

から北宋後期に至る に、それがいよいよ

し普 したという、あくまで

#

度差の問題である。從って、北宋後期における變

三 $因を、

の中であえて一つ

理論の持つ意味がとりわけ大きいと %ぶとすれば、第二の、蘇軾による新

&斷されよう。

四、八景圖と八景詩

「瀟湘八景圖」は、宋

'の後、畫題としてにわかに普

多くの畫家が實作した。 し、

南宋初期の畫院畫家といわれる王洪(アメリカ、プリンストン 作の組畫として現存するものは、 中國詩文論叢第二十集

92

(11)

大學 や宋末元初の畫)

牧谿(日本文

廳、根津美

光美 、出

等 ) び玉澗(正木美

奇圖」(北京故宮 けだが、同じテーマの作例として、南宋初期の米友仁「瀟湘 )等の僅かな作例だ 物院

) び南宋中期の李氏「瀟湘臥

圖」(東京國立

物 等をも加えれば、同)

としては、殘存數は多い部 題の宋代繪畫

『 に屬する。

宋詩』七二冊三七八五卷を

宋末期の すると、北宋末期から南 に「瀟湘八景詩」が少なからず見出せる。

①釋 の

洪の二篇の他、(一○七一~一一二八)

②王之

……「江天(一○九三~一一六九)

雨」「洞庭秋 」「瀟湘夜 」「漁村

照」「

沙 雁」(『

③喩良能(?~?孝宗 ・32・20179/七言律詩)。 』一八一二 の人)「 韻陳侍 圖」(『 李察院瀟湘八景 』二三五六・43・27052/七言

「瀟湘夜雨」「洞庭秋 ……句)八景の中、

」「

沙 雁」「漁村

照」「江天

④趙汝 の五景のみ。 」 (一一七二~一二四六)「八景歌」(『

○」云:序○○○○には八景の一が入る。の九言定型句が入る。 ……55・34210/七言古詩十句)第九句に、「嗟此何景兮○○○ 』・八六五二 『長沙志』載、度支宋

工畫、尤善爲

山水、其得意

「 !有

沙鴈 」「浦帆歸」「山市

"嵐」「江天

」「洞庭秋

「瀟湘夜雨」「 」

#寺

$鐘」「漁村

$鐘」、謂之八景。余昔嘗見圖本。

來湖湘、

目騁懷、盡得眞趣、

⑤劉克莊「詠瀟湘八景各一首」(一一八七~一二六九)(『 %作「八景歌」。

三○五二・58・36400/七言 』 句)……「浦歸帆」「

沙鴈

「山市 」

"嵐」「漁村夕照」「洞庭秋

」「瀟湘夜雨」「

#寺

「江天 $鐘」

⑥ 」

&茵「瀟湘八景圖」(一一九九?~?)(『

38208/七言律詩)……「 』三一八五・61・ 沙鴈 」「浦帆歸」「山市

「江天 "嵐」

」「洞庭秋

」「瀟湘夜雨」「烟寺

⑦楊公(一二二七~?)……「浦歸帆」「烟寺 $鐘」「漁村夕照」。

「 $鐘」

沙 '鴈」「江天莫

」「瀟湘夜雨」「洞庭秋

」「山市

"嵐」「漁村夕照」(『

』三五二三・67・42084/七言

⑧ 句)。

(密「瀟湘八景」(一二三二~一二九八)(『

67・42532/七言律詩)……「 』三五五九・ 沙鴈 」「浦歸帆」「山市

"

嵐」「江天

」「洞庭秋

」「瀟湘夜雨」「

#寺

$鐘」「漁村

$

照」。

の計八名が「瀟湘八景詩」を詠じている。この中、①③④⑥

宋代八景現象考(

)山)

(12)

に繪畫との關

湘八景をめぐる詩と畫の接 性がすでに明示されている。このように、瀟

・融合は、詩歌の方から繪畫に

み寄るという形で

行している。兩

の時

「瀟湘八景」では、という枠組は、純粹に繪畫の範疇 リードしている。 するという順序であった。つまり、繪畫が初期の八景現象を まず繪畫領域において八景現象が生し、續いて詩歌が參入 先後關係は、

ゼロから發想されたものなのだろうか。もし で

「瀟湘八景圖」が宋 のように ある以 れはふつうありえないことである。なぜならば、彼は畫家で の創始になるものだとしたならば、そ に士大夫中國傳統文

總體の最も中心

な繼承

もしくは體現

たるべき階

の る。文藝の領域にあって、彼ら士大夫が最も重 員であったからであ

かれたのが一般 文であり、彼らの優先順位では、繪畫は詩文のずっと下に置 したのは詩 である。從って、宋

い詩文における傳統から がより優先順位の高 く切り離されて「瀟湘八景圖」を

想することは原則

このような である。 る傳統を基盤として「瀟湘八景圖」を發想したと考えるべき に想定できない。むしろ、詩文におけ

點に立って再び「瀟湘八景」という枠組を考 えると、

の二文字と後

にある確かな文學 の二文字から、それぞれにわか 傳統が想

からは、『楚辭』以來この土地が育んできた獨特の文學 されよう。つまり、「瀟湘」

土が、「八景」からは、一つの土地を 風 詠じる詩歌の傳統が、容易に想 章組詩形式によって

「瀟湘」の文學風土については、先行論文が存在する されるはずである。

ここではごくごく ので、 17

「瀟湘」の地は、まず『楚辭』 略に一二の點を指摘するに止めたい。

び楚辭系文學によって、

として二つの濃厚な性格を帶びることになった。一つは、湘妃傳

によって

られる

祕 空

、もしくは巫の活

幻想 する

空 才不 としての性格。他の一つは屈原をモデルとする懷 の士が悲

の中に漂泊する空

以 この二つの性格は後世に至るまでずっと繼承されているが、 としての性格である。

がらも、それとは別に「瀟湘」の風光明媚な景 !、新たな展開が生まれた。『楚辭』の影を引きずりな

「瀟湘」=景 る詩歌が多數作られ始めるのである。これらの作例によって、 を歌い上げ

"地というイメージが、以

!、とりわけ中以

!、詩人たちの共

うに、「瀟湘」の文學風土は #識の中に新たに加えられた。以上のよ

として楚辭と詩によって形

され、それが渾然一體となって濃厚なイメージを釀し出し 中國詩文論叢第二十集

94

(13)

ている。もう一つの樣式

傳統については、

において

る。 り上げ

五、

章組詩による名

「八景」の二文字が示唆する詩歌の傳統について、

引き續き、本 に 一つの土地を で考えてみたい。

の 章組詩の形式で詠じる詩歌の系譜は、二つ は李白の「姑熟十詠」型である。 型に大別できる。一つは王維の「川集」型、他の一つ ので、王維の「川集」(五言 は、個人の別墅や官舍の園亭、寺院等を對象とするも

句二○首)を嚆矢とする。

代の代表

作例としては、韓愈「奉和

題二十一詠并序」(上 州劉給事使君三堂新 古 出版

『韓昌黎詩

和七年、五言 年集釋』八、元 や韋處厚「句)

山十二詩」(『

五言 詩』四七九、

句)、劉禹錫「

陽十詠」(上

古 出版 等がある。宋代に入っても外集八、五言律詩) 『劉禹錫集箋證』

れ、作例數は確實に倍 んに制作さ

している。この

という枠組と直接關 型は、「瀟湘八景」

「川集」が「川圖」とともに流傳したということを想 が深いわけではないが、濫觴としての

すると、土地歌という題材を背に詩と畫が結合した先例として、一定の意味を持つことになろう。以下に

げる蘇轍の文(「題李公

「瀟湘八景圖」 からは、山莊圖并敍」) 生 詩歌が王維の先例を 後の北宋後期にあっても、この系譜の 知ることができる。 く意識して制作されていた事實を伺い

伯時作龍眠山莊圖、由建

至垂雲

、 自西而東凡數里、岩 十六處、

隱見、泉源相屬、山行

南溪山、 路窮於此。

!深秀峙、可游

有四、曰

"金岩、寶

陳彭 #岩、

$、鵲源。以其不可

%見也、故特

於後。子瞻

之記、又屬轍賦小詩、凡二十章、以繼 &爲

(『 '詰川之作云。 』八九四・15・10044)

は、別墅や官舍等の閉ざされた空

地域、一 (ではなく、廣く一 )市の景

"點や

想により *跡を詠じるもので、「八景」の發 +い。

詠」(五言律詩)の他、劉長卿の「龍門八詠」(中 代における代表例としては、李白「姑熟十

卿詩 #書局『劉長 年箋 ,』上冊五四頁、五言六句)

同(下冊三六一頁、五言律詩)、劉禹錫「金陵五題」(『劉禹錫集箋 -び「湘中紀行十首」

宋代八景現象考(

.山)

(14)

證』二四、七言

量に制作された。特に北宋後期以 等がある。この系譜の作例も、宋代に大句)

後 の作例も出現している。 には、「百題」「百詠」等 詩歌の力で引き出して對外 の系譜の基盤をなしている發想は、ある土地の魅力を

ある。 にそれを宣傳する、という點に の「

川集」型がおそらく、ごく一部の讀

定して制作されたのと、この點が大きく を想 れた人は、極めて限られたの人たちである。從って、「 にせよ、官舍の園亭にせよ、そこを實際に訪ねることが許さ なる。個人の別墅

川集」型の詩は、少なくとも制作時點においては、讀

て當事 とし

の交友範圍

における限定

詠じられたはずで、 なサークルを想定して 向 閉 な性格を

方、後 している。一 の「姑熟十詠」型は、外向

開放

であることを特

とする。そして、このスタイルは、理念

六 にはおそらく、

・沈 の故事を一つのモデルとして

沈 立している。

は、齊の

金 昌元年(四九四)、太守として東陽郡(浙江 に赴任し、玄暢樓に登り、「八詠詩」)(中

書局『先秦

魏晉南北

として、宮 詩』梁詩七・中・1663)を詠じた。「竟陵八友」の一人 詩壇で

名を恣にしていた

して來訪し詩を詠じたことによって、玄暢樓を始め、東陽の 名詩人が、太守と 風光美は

詠詩」を生んだ場 國に知れ渡ることとなった。後世、玄暢樓は「八

名されるに至る。沈 として記憶され、やがて「八詠樓」と改 の「八詠詩」自體には、名

詠の は乏しく、東陽の山水を 素

寫するのは

にすぎないが 體のごく僅かの部分

、この詩によって、東陽=八詠樓という 18

確立され、人々の記憶の中に東陽という地名が確かに刻み 識が

まれることになった。そして、

人たちは、この故事から 宋の、とりわけて北宋の詩 その土地の見 る。すなわち、詩才に富む士大夫が地方に赴任したならば、 のような式を抽出したようであ を が生まれた時代、これを折に觸れて 立て喧傳すべきであるという行動式である。「瀟湘八景圖」 !し出し、詩によってその魅力を十分引き

が、蘇軾である "き、また實踐した詩人

。以下に用例を引く。 19

①「鳳

#八觀」詩、記可觀

探禹穴、不 八也。昔司馬子長登會稽、

其世一觀欲而人、古見不傷、自悼俗蓋悲 $千。二子荊州觀至澤之以七白亦太而李。里

%迹、故其

此。鳳 &如

#當秦蜀之交、士大夫之

夕 '來此八觀

皆 、又

()可至、而好事

有不能

*觀焉、故作詩以

不知 +欲觀而 。「鳳

#八觀并敍」敍 中國詩文論叢第二十集 96

(15)

(『

』七八六・14・9105/嘉

②「南康八境圖」 六年)

、太守孔君之

作也。君

作石 、 其 上樓觀臺之

見而作是圖也。東

七 、南 嶺、覽羣山之參差、俯章貢之 五 流、雲烟出

邑屋相 木蕃麗、

、 然而笑、 犬之聲相聞。觀此圖也、可以茫然而思、粲 八乎。 然而歎矣。蘇子曰、此南康之一境也、何從而 自觀之 則凡 中如珠、其夕如破璧、此豈三日也哉。苟知夫境之爲八也、 也。且子不見夫日乎、其旦如盤、其 ・

夕・雨暘・晦冥之

喜怒之變、接於吾目而感吾心 、坐作・行立・哀樂・

、有不可

數 八乎。如知夫八之出乎一也、則夫四 矣、豈特

『禹貢』之 之外、詼詭譎怪、

書、鄒衍之

談、相如之

有不一 賦、雖至千萬未

(『 題之圖上。「虔州八境圖八首并引」引 也。後之君子、必將有感於斯焉。乃作詩八章、

③坐看 』七九九・14・9248/元豐元年)

(『 八詠聊同沈隱侯。「虔州八境圖八首并引」其一 湍遶石樓、使君高會百無憂。三犀竊鄙秦太守、

④不羨三刀 』七九九・14・9248) 蜀

、聊將八詠繼東

敕賜詩人明 。臥看古佛凌雲閣、

湖。得句會應

竹鶴、思歸

復爲蓴鱸。

空好在修眉色、頭白

堪乞左符。「

呂昌 詩(『 知嘉州」

』八一四・14・9416/元

四年)

①は最も早期の用例。蘇軾が士

!第後、初めて赴任した鳳

"の見 を八つ

#び、それを詩に仕立てたもの。沈

詩」の故事は引用されてはいないが、 $「八詠

%&の の を寄せ彼に詩を求めてきて、それに應えて作った作品。作詩 揮されている。②と③は虔州知事の孔宗翰が「虔州八境圖」 '(はここに發

)機は受動

*だが、「八境」についての持

おり、興味深い。③詩にあるように、彼の意識下には沈 +が展開されて

故事がある。④は知人が、故 $の ,のすぐ -くに赴任するのを

た詩で、知人に對し、 っ

%&、行動

く以上の如、「八景」の二字は、 .式の實踐を期待している。

-くは /代の に式よる名 0章組詩形 詠の傳統を、

1くは沈

$「八詠詩」の故事を

0

想させる。これらの傳統は、士大夫の彼らに、士大夫としての有り樣を明に暗に訴えかけるものでもあった。

六、宋代八景現象

%二 をう傳統の文學夫大、士各々は、式形 2、「八で」とい土風う」とい瀟湘「に、ようたじ論景

3く 0想させる

45を

宋代八景現象考(

6山)

(16)

持っていた。「瀟湘八景圖」の獨自性は、その二つの傳統が、士大夫畫家という媒介を得て、渾然一體となり、繪畫領域で表現されたところにある。士大夫が長い時

きた文 をかけて育んで 文 の中で 最大の 生したことに、この現象が流行した うなると、 では、そこに繪畫の介在を想定できない作例も出てくる。そ で、詩歌領域で獨立して詠じられ始めると、一見するかぎり 繪畫領域における八景現象が、「瀟湘八景詩」という題材 因があるといってよい。

再び 章組詩形式による名詠の傳統の中に、それが 收され、初期の個性(詩畫の融合)を失う可能性も

無ではなかったが、結果

に八景關

の詩歌が繪畫と

關係の境地で制作されることは く無 イメージ領域にあっては、讀 よい。實際には繪畫の介在がなかったとしても、少なくとも えて少なかった、といって

に常に繪畫を

その理由は、八景の各景が であった。 想させるもの う一點に集 字四文字で標題される、とい されている。八景の標題は、「洞庭秋

「 」や

沙 雁」等のように、四文字の中、

の二文字は

場 に

や地點を規定し、後

の二文字は

として季

、時

や自然現象を規定するという傾向をもつ。こういう四文字に 帶 領域で よる標題方法は、元來、詩歌ではなく、繪畫、特に山水畫の

山水畫は、制作 用されてきたものである。

の表現意圖を正確に鑑賞

に、最低四文字の畫題を必 に傳えるため とした。どこの山水を

か、季 いたの

や時 か等々を、鑑賞 帶はいつ頃なのか、氣象條件がどうであるの の 解を除くべく、あらかじめ提示する

慣がやがて一つの傳統となったものであろう。宋

の畫家、郭熙がその と同時代 『林泉高

集』の中で、畫題について のように語っている。

一種畫春

秋、各有初中曉

!之 當分解、況其 "品、意思物色、便

各有趣哉。其他不

#拘四時、而經史

中故事、 $子

%又當各從臨時

宜 春 爲可、謂如春有早春、早

&景、早春雨景、殘

&早春、

雨早春、 &霽早春、雨霽早春、烟 '雲欲雨、春雨春靄、早春曉景、早春

雜有水村漁舍、憑高觀耨、 雨春風作斜風細雨、春山明麗、春雲如白鶴、皆春題也。…… 日春山、春雲欲雨、早春烟靄、春雲出谷、滿溪春溜、春 (景、上 沙 雁、溪橋酒家、脩橋

) 絲樵蘇、皆雜題也。(文淵閣四庫

書本) 中國詩文論叢第二十集

98

(17)

郭熙も畫題を

ね 題には特に字數に關わる制 字四字で表現している。一方、詩の標 象と繪畫との深い關わりを確 八景現象が各景を四字で標題するという事實からも、この現 も傳統も存在しない。從って、

北宋後~末期に「瀟湘八景」という枠組が普 できよう。

宋(金)に入ると、早くも瀟湘以外の土地にこの枠組みを した後、南

用した發展型が

生した。以下に、そのな

る。 體例を列記す

①曹

(一○九八?~一一七四)「題兪妾畫八景」(『

九五・33・21183/七言 』一八 ……句)「浙江觀

」「鑑湖垂

」「

松秋

」「廬山霽色」「

門夕照」「赤壁扁舟」「鄂

湘雨 光」「瀟

②楊萬里(一一二七~一二○六)「題文發叔 」。

藏潘子眞水

江湖八境小軸」(『

』二二七八・42・2612/五言

「洞庭波漲」「武昌春色」「廬山霽色」「 ……句)

門殘照」「太湖秋

「浙江觀 」

」「西湖

③蔡元定(一一三五~一一九八)「 日」「靈隱冷泉」。

沙八景」(『

46・28924/七言 』二五○一・ ……句)「岱山夕照」「

色」「祇園溪聲」「松岡夜濤」「 村春雨」「雲巖山 湖 風」「武陵橋

」「象巖

[」。

④羅仲舒(一一五六~一二二九)「蘆江八詠」(『 沙]

51・32111/五言 』二七二九・ ……句)「東橋柳色」「西浦

痕」「野

!

雲」「後江

[浙江鐘」。 」「義塾書燈」「祠堂議禮」「蘆山樵唱」「竹林梵

⑤(金)李俊民(一一七六~一二六○)「 "溪]

#水八詠」(『

九三・3・273/七言 金詩』

……句)「陶

$春色」「廣

%嵐」「

飛絮」「錦灘 #湖

&

'」「汾水孤帆」「姑山

照」「晉橋

(」「西 )

夜雨」。[山西臨汾]⑥(金)陳

(『 *(一一九○~一二七四)「蒲中八詠爲師巖卿賦」

金詩』一○四・3・441/五言

……句)「蒲津

渡」「

曉行」「 +坂 ,殿 -風」「首陽

」「東林夜雨」「西巖疊

.」「

/0

夕陽」「王官飛湍」。[山西永濟]⑦(金)元好問(一一九○~一二五七)「方

1八景」(『

一二七・4・236/七言 金詩』

……句)「松陂烟雨」「大乘夕照」「

塘夜

」「煉眞春

2」「仙 3霽」「

&川雲 4」「羅 陽 5嵐」「堵

⑧(金)陳 [河北固安]磯」。

(『 6(一一九四~一二六一)「題師巖卿蒲中八詠」

金詩』一三七・4・369/七言

……句)「蒲津

渡」「

曉行」「 +坂 ,殿 -風」「首陽

」「東林夜雨」「西巖疊

.」「

/0

宋代八景現象考(

7山)

(18)

夕陽」「王官飛湍」。[山西永濟]⑨(金)段克己(一一九六~一二五四)「龍門八題」(『

一四四・4・443/七言 金詩』

……句)「禹門

浪」「雲中

屬 雨」「疏 嵐」「雙峰競秀」「

⑩(金)段克己「蒲州八詠」(『 [山西河津] 谷藏春」「姑山夕照」「汾水秋風」。 金詩』一四四・4・444/七言

句)……「蒲津

渡」「坂曉行」「

殿 風」「首陽

「東林夜雨」「西巖疊 」 」「

「⑪何子擧(?~一二六六) 夕陽」「王官飛湍」。[山西永濟]

渭八景」(『

39292/七言律詩)……「 』三二九八・62・ 渭 嵐」「箭山

「指崖一覽」「桐 」「北澗雙流」

犁 」「

溪 隱」「大隴秋雲」「高村夜

⑫家鉉 [浙江武康] 」。

「鯨川八景」(一二一三~?)(『

39960/七言 』三三四四・64・ 句)……「東

春早」「西園秋

「沙堤風柳」「戍樓殘照」「客船 」「冰岸水燈」

」「市橋

色」「

(明・樊深、『嘉 塘雨聲」。 河 府志』一)[河北河

⑬徐瑞「(一二五五~一三二五) ] 韻 灣東湖十詠」(『

七一八・71・44670/七言 』三 句)……「兩堤柳色」「雙

「孔廟松風」「顏亭 」 雨」「湖中孤寺」「洲上百」「

!"

「新橋酒 #」

$」「江 角」「

%&

雲」。[江西波陽] ⑭

'善夫「(?~?)

(溪八詠」(『

七言 』三七七二・72・45504/ 句)……「子期丹竈」「龍潭秋

」「蘆峰夕照」「

隱」「桃源別墅」「硯峰 (溪小 」「山寺

鐘」「

繼科『嘉 )雲三峰」。(明・馮 建陽縣志』三)[

"建建陽]

この他、王象之『輿地紀

*』(一二二七年

+書)や

輿 ,穆『方

さらに、 *覽』によって、(初刻一二三九年、重刻一二六六~六七年)

a「桃源八景」(『紀

*』六八、『

「白馬 *覽』三○)……「桃川仙隱」

濤」「

-蘿 晝」「

.溪 雨」「

/陽古寺」「楚山春

「 」

0江夜 b「湟州八景」(『紀 」「童坊曉渡」。[湖南桃源]

「楞伽曉 *……』九二)「雙溪春漲」「龍潭飛雨」

」「靜

"

1林」「巾峰

2眺」「秀巖滴

」「圭峰

「巖湖疊 靄」

[廣東」。

3縣]

の二種を加えることができる。この中、①と②は、詩題に明らかな如く、題畫詩である。各景の題名から

4斷すると、兩

流の江南一帶に 5ともに、長江の中流から下 6ぶ廣範圍の中から名

*地を八地點

7び取っ 中國詩文論叢第二十集 100

(19)

た繪畫であったようだ。あたかも瀟湘の水がやがて長江と合流し東

うに、洞庭湖~武昌~廬山~ へと流れていくよ の呪 が興味深い。そして、「瀟湘」 門と畫題が展開している點

が各地に 散らばり、かくして八景現象 た「八景」は、中國各地へと をひとたび解き放たれ 敵國・金においても同時 ~⑩の作例に明らかなように、 生していった。⑤

感染力を見る思いがする。 している事實に、この現象の 行

七、西湖十景

八景現象の

宋代八景現象の掉尾を

ある。 のが、杭州の「西湖十景」で る 最後に「西湖十景」を

り上げ檢討することを

以 じて、明

の 世、

八景現象への展

を示しておきたい。

畫家稱湖山四時景色最奇

「 有十。曰、「蘇堤春曉」

院 風」「

湖秋

」「斷橋殘

」「柳浪聞鶯」「

觀魚」「雷峰夕照」「兩峰

雲」「南屏

鐘」「三潭映

春則 」。

柳爭妍、

則 榴競放、秋則桂子飄香、

破玉、瑞

飛瑤。四時之景不同、而賞心樂事

窮矣。 亦與之無

右は、

自牧『

粱 ある。ほぼ同樣の 』に見える記事で(卷一二、「西湖」) 容が、

安府、山川「西湖」の小字 穆『方輿覽』(卷一、浙西路臨 遲くとも度宗の咸淳二、三年(一二六六、六七) !にも見えるので、「西湖十景」は)

"後には、

但し、『方輿覽』の記事も、「 #立していた。(『方輿覽』の重刻本は咸淳二、三年に出版された)

南宋末期を 時」の二文字で始まるので、

現存する南宋繪畫は殆ど殘っていないが、『 $く遡ることはない。

用文 』の引

%頭にもあるように、「西湖十景」も

深い關わりをもっていた。そして、他の八景現象同樣、「西 生時點で繪畫と

宋代八景現象考(

山)

傳南宋、李嵩「西湖圖」(上&物'())

(20)

湖十景詩」や「西湖十景詞」が傳わっている。詩では、王

(?~?、南宋末期の人/「湖山十景」詩、『

と王 』三五二・67・42044) (?~?、宋末元初の人/『

詞例が、では、張 の作』三六○九・68・43218)

(?~?、

南宋末期の人/『

陳允 宋詞』五・3086)、 (一二○五?~一二八○/「西湖十詠」、『

、宋詞』五・3102) 密(一二三二~一二九八/『

ば、「西湖十景」は 「瀟湘八景」從って、を宋代八景現象の始發驛とするなら ている。 宋詞』五・3264)の作例が傳わっ 驛とみなすことができる。この兩

を相互比較しつつ、原型と發展型の相

味することを考察してみたい。「八」か「十」かという相 點を檢討し、その意

を除いても、兩

には幾つかの本質

差 が その最も大きい差 められる。

は、抽象と

象の

同である。兩

各景はともに四字で標題され、 の 二文字が

明示するという點は共 として地點を が不特定 する。しかし、「瀟湘八景」の景點 であるのに對し、「西湖十景」の方は景點が特定

されている。後

二文字が共

する標題を以下に

げる。

瀟湘八景……洞庭秋

漁村

照 寺 西湖十景…… 鐘 湖秋 雷峰夕照南屏

鐘 「

湖秋 」は、西湖の靜かな湖面が中秋の

輝く 明を受けて

景を表現したものであるから、本來、

體 指し示す呼稱ではないはずだが、現在の「 な地點を 湖秋 したが、現在の場 の南に固定されている。南宋の頃、一時期、寶石山上に移動 」は孤山 が

宋の頃より賞

と に最も相應しい地點 識されていたために場

が固定された、という(

88・

浙江人民出版 10、

『南宋京

。「洞庭」は「杭州』)

と 湖」よりずっ

體 な稱ではあるが、洞庭湖の廣大さが

他の二組は、兩 不可能なものに變質させている。 にそれを特定 る「雷峰」、「 の差がより明確である。「漁村」に對す 寺」に對する「南屏」、

も普 がどこの水邊で に存在するものであるのに對し、後

そもそも であり、地點が自ずと特定される。 は固有の地名 て、この差 體を規定する「瀟湘」と「西湖」の地名からし が明確に現れ出ている。一方が湖南

一方は個別の地點を指し示している。西湖の として用いられるほどの廣大な範圍を指す稱であるのに對し、 域の別稱

はせいぜい

15㎞、

圍の山上に立てば、湖面の

てを隈無く

!野に ることができる。「瀟湘」の一部に "め

面積は西湖の數十倍の廣さである。 #ぎない洞庭湖でさえ、 中國詩文論叢第二十集

102

(21)

繪畫として「瀟湘八景」を考える時、範圍の廣大さ、地點の不特定性が、繪畫としての自由度を保障した。畫家は、實在する景

れたことがなくても、「瀟湘八景圖」を 心象風景を紙面に寫し取ることができた。「瀟湘」の地を訪 に餘り左右されず、「形似」の拘束から離れて、

であったわけである。 くことが十分可能 13~ 15世紀、

當地の畫家の手によって大量に「瀟湘八景圖」が制作された 鮮や日本において、各々

20

が、それを可能にしたのは、「寫意」の水

象も固有の實景に制 れぞれ特定の地點と關わりがある。從って、繪畫における形 一方、「西湖十景圖」の場合はどうであろうか。十景はそ 性によるところが大きい。 山水畫という特 されるはずである

理念 。「西湖十景圖」は、 21

なくとも「瀟湘八景圖」よりは寫實 には、固有の實景から大きく離れては存在し得ず、少

重 素のい、「形似」

の畫題となったはずである。實景に

詩歌や傳聞によって想像した景 く觸れることなく、

くことは、理念

可能である。しかし、鑑賞 には

が一度西湖の湖

を持つとしたら、それが「西湖十景」と に立った經驗

「西湖十景圖」には寫實性=形似性が求められる。南宋士 を含むことになろう。 されない危險性 大夫が「西湖十景圖」を制作したという記

あるいはこれは、南宋における「士人畫」の は殘っていない。

るかもしれないが、「西湖十景圖」の 長と關係があ 時の士大夫畫家を 求する寫實性が、當 ざけた

ない。當時の士大夫にとって、實景畫は、思想 因の一つに數えられるかもしれ

にも技巧

にも最も接

條件が しかし、幸い杭州には「西湖十景圖」を可能にする最高の しにくい領域であったと思われる。

備していた。それは、宮

最高の技 畫院の存在である。當時、

をもった職業畫家たちが西湖の湖

た。彼らはいながらにして最高の素材と日常 に雲集してい

に向き合う

境を得て、西湖に材を取った繪畫を量

したに

れが最 いない。そ

「瀟湘八景」との比較に續いて、南宋の他の八景現象との に「十景圖」という形に結實したのであろう。

同を檢討する。地點特定型の八景現象は、

(③ ように、杭州以外の地ですでに南宋の中期には出現している で列記した び④)。しかし、「西湖十景」は、對外

まず、そこが首 それらにはない力な利點を幾つか持っていた。 效果という點で、

え、杭州は皇 であったという點。行在であるとはい

!が

"座する、南宋における政治、經濟、文

#

の中心地であった。皇

!、宰相以下、文武百官がここに常

$

宋代八景現象考(

%山)

(22)

した。地方に轉出する士大夫もこの地を出發し、やがてこの地に歸ってきた。また各種業界の人々が

一大據點であった。 國から集まり來る 報が專ら人によって

この事實の持つ意味は ばれていた當時、

景」は、 に大きい。彼らの實見した「西湖十 やかに 第二に、西湖 國に喧傳されることになったであろう。

び「西湖十景」が

杭州を訪れた いるという利點がある。西湖は杭州市街にすぐ接している。 覽至便の條件を備えて が、

光を目 州へ としていなくとも、身體を杭 も、 べば、自ずと西湖の山水に觸れることになった。しか のように、西湖は

氣になれば 15㎞足らずであるので、その 日で一 することも可能であった。從って、時 ができるという至便性を と勞力を大して費やすことなく、十景の各地點に立つこと

第三に、西湖山水の持つ集 備している。

取り圍まれている。そして、山が の點とも關わり合うが、西湖は市街を除く三方が山によって 優美さである。これは第二 界を り、

る。その閉 界を限定す 性が、かえって湖水を

とする一つの獨立した山水 景に山竝みを背景 圖を も、西湖がちょうど き上がらせる。しか 界に の められるサイズであるため、こ

圖は訪れたどの人にとっても、大差ない映像としてそれ 景 ぞれの心の中に結ばれたはずである。山水の配置が、游客の

に對する

意擴散を防ぎ、一つのイメージへと集

る役 させ

第四に、西湖が、 をしている。

いう、文學 宋の許多の詩人によって歌頌されたと 傳統を持つ利點がある。しかも、

湖の點景として山水を 多數の名作を殘した。そして彼らにちなむモニュメントが西 ぞれ代表する白居易と蘇軾が地方官としてこの地に滯在し、 と宋をそれ れる文學 っている。「西湖十景」の底流に流 傳統の意味は、「瀟湘八景」のそれにほぼ

る。しかも、彼ら 敵す 瀟湘文學の持つ「不 宋詩人が開發した西湖のイメージには、

くまで、明るく纖細な、かつまた純粹に心を 」「悲傷」「愁」等の暗さがない。あ

空 ばせるための

として、イメージ

!されている點も重

以上 "であろう。

べた如く、「西湖十景」は、他の土地では容易に得

#い、樣々な固有の好條件を備えていた。宋代八景現象の

$

點に位置する「西湖十景」が、このように良好な條件を存分に

%收しながら、その

イメージを對外

もとより・臥 實は極めて大きな意味を持っている。「西湖十景」の詩畫は、 に宣傳した事 ・を阻

&するものではないが、鑑賞

に・臥

・とは正反對の感興を催さしむる效力を持ったはずである。 中國詩文論叢第二十集

104

(23)

つまり、詩畫に觸れたことによって、その實景を我が目で樂しみたいという、という感興である。瀟湘八景の世界はフィクションであるから、想像の世界でゆったりと「臥

あった。ここに の光景を樂しむことは條件が整いさえすれば誰にでも可能で のに相應しい。しかし、「西湖十景」は確實に實在する、そ 」する 游文 八景現象の出發點で一度屋 が生じる絲口がある。

景現象の に閉じこめられた八景が、八 展 で、それぞれ元來存在した空に

き、「西湖十景」の ってゆ して、今度は、士大夫を始めとする詩畫の鑑賞 功によってそれが決定づけられた。そ

を屋 屋外へと誘い、現地へと呼び から なったわけである。 む媒介として機能するように

最後に、日本の八景について些か觸れたい。日本における初期の八景としては、「

江八景」と「金澤八景」が最も

名である。兩

の各景は、

二文字が地點を明示し、後

が「瀟湘八景」の後

いる。例えば、「比良 二文字を取る形式によって標題されて 」「矢橋歸帆」「石山秋

」「三井

鐘」(以上、

、「野島夕照」「江八景)

「洲崎 雁」「小泉夜雨」

嵐」(以上、金澤八景)というように。この標題法に

目するだけでも、兩

における「瀟湘八景」の影

力が

大であったことを容易に察することができよう。もちろん、命名に際して、命名

が「瀟湘八景」を

なモデルと仰いだことは疑いようがない。だが、これらの景

に觸れた當時の日本の文人たちは

憧憬を直に表現している。日本の八景を ね同時に杭州西湖への

にした彼らの

!

線の彼方には、おぼろげに杭州西湖の山水が

"たわっていた。

12~ 16世紀、日本の中世において、中國文

の最も重

享受 #な

は、禪宗の

$侶たちであった。元~

多くの禪 %の、中國から 行を積んだ $が訪れているが、その多くが杭州一帶の禪寺で修

$侶であった。また、日本から渡

&した いが、彼らの目 $侶も多

地は西湖湖

ことが、日本における八景現象流行の重 あった。そのため、彼らによって西湖の山水美が宣傳された 'の禪寺か杭州郊外の徑山寺で

#な

「西湖十景」は、ひとり・ 意識されていたことを本稿の結びとして指摘しておきたい。 の他に、八景」「西湖十景」も一つのモデルとして明に暗に る。日本における八景現象流行の初期段階にあって、「瀟湘 (機となってい )・の

・ ルとなったばかりではなく、東瀛の文人たちをも魅了し、 八景現象のモデ )外・の八景現象を現出せしめる一大原動力となったのであ

宋代八景現象考(

山)

(24)

る。[

(1)Internetを使用して檢索したところ、現在の中國で、1 ] 4千件餘の「八景」關

較 のホームページが檢索された。比 新しい八景としては、廈門八景(

建)、東

烏魯木齊八景(新疆)……等々を 景()、肅甘景(八煌)、敦東廣八江)、湛東廣景(八門、虎東) 八景(廣

(2)例えば、西湖新 げられよう。

十景(浙江杭州)、西新

八景(

欽州新 )、

八景(廣西)、柳州新

八景(廣西)、源

(廣東河源)、 八景 州新 八景(廣東

縣)、濟南八景と

(3)室町~江 景(山東)……等々。 下八

時代初期に

定された日本の八景には、

景、金澤八景、 江八

多八景、南

八景、松島八景等がある。

鮮における代表

八景には、

關東八景等がある(但し、各八景の 壤八景、扶科八景、丹陽八景、

(4) 立時期については不詳)。 世繪とは

なるが、『中國古版畫・地理卷・

景圖』(

4、湖南美 99・

出版 )に收

された各地の

景圖は、それに するものと解釋できる。同書の

頭には、劉志

中國 氏による

(5)宋 景版畫略史が載されており、參考になる。

!の經 については、島田修二

"「宋

( !と瀟湘八景」

93・3、中央公論美

出版『中國繪畫史

#究』

は『南畫鑑賞』 $收/初出 10・4[

41・4])に詳しい。 湖南轉

%司 があることによって知られる(楊殿 &官については、湖南零陵縣南の澹山岩に題名

'『石刻題跋索引』、

8、 95・

(務印書

)、三六七頁參照)。その他は

*て李 +『續 ,

-鑑長

(6) .』の記載による。

/、島田修二

"論文參照。

0筌の「瀟湘八景圖」については、郭

卷二、「紀藝上」に、 12の『圖畫見聞誌』

る。但し、『圖畫見聞誌』が基づいたと思しき 水、……山居詩意、瀟湘八景等圖、傳於世」という記載があ 0筌の殘存作品を列記して、「有四時山

0休復の『

3

州名畫記』卷上の記載では、「筌有春山圖、……山居詩意圖、瀟湘圖、八壽圖。」とあり、島田氏は『圖畫見聞誌』にいう「瀟湘八景圖」は「瀟湘圖、八壽圖」の二つを混同したか、傳寫の

李 4まりではないか、としている。

の「瀟湘八景圖」については、米

に見えるが、米 5「瀟湘八景詩并序」

5のこの作品は初出文獻が明代

あり、彼の別集『寶晉 立のもので 6光集』には收

『畫史』でも されていない。また、

*く言 この他、宋祁の「渡湘江」詩(『 7されていない。

「春に、 *宋詩』二一一・4・2422) 4湘江渡、眞觀八景圖」の句がある。宋祁は宋

り世代が上であるので、この句は宋 !よ

!以 島田氏は南宋の張 行していたことを暗示している。しかし、この詩についても、 /に瀟湘八景圖が流 を性指摘している。但し、『 8(一一三三~一一八○)の作である可能

*宋詩』卷二四一四~二四二一 中國詩文論叢第二十集

106

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