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佛教大學大學院研究紀要 13号(19850314) 047服部純雄「『往生論註』の菩提心について」

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Academic year: 2021

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の菩提心について

は じ め に 曇驚は﹃往生論註﹄︵以下﹃論註﹄と記す︶巻下、善巧摂化において﹃無量寿経﹄巻下、三輩往生文に基づき 案一一王舎城所説無量寿経二二輩生中雄三行有一一優劣一莫 v 不三皆発ニ無上菩提之心↓︵中略﹀是故願 v 生ニ彼 ス ノ ヲ ① 安楽浄土一者、要発ニ無上菩提心一也。 と述べている。この文は浄土への願生に際して願生者に発菩提心を要求しているようであるが、はたしてかかる記 述をした曇驚の意図は何であっただろうか。この問題に対し拙論では、﹃論註﹄が願生者をいかなる者を中心に捕 えようとしているかを明らかとし、これに基づき善巧摂化をいかに理解すべきかを考え、私見を述べてみたい。 善巧摂化に依用された﹃無量寿経﹄巻下、三輩往生文とは以下のごとくである。 仏 告 一 一 阿 難 ↓ 十 方 世 界 諸 天 人 民 、 其 有 一 一 至 心 一 願 v 生 一 一 彼 国 一 凡 有 二 三 輩 ↓ 其 上 輩 者 、 捨 v 棄 v 欲市作ニ沙門一発ニ菩提心一一向専念ニ無量寿仏一修二諸功徳︵願 v 生一一彼国↓此等 ﹃ 往 生 論 註 ﹄ の 菩 提 心 に つ い て 四 九

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併 教 大 事 大 事 院 研 究 紀 要 第 十 三 強 五

O

衆 生 、 ︵ 中 略 ﹀ 即 随 一 彼 J 仏 一 往 ニ 生 ν 其 ノ 国 一 ︵ 中 略 ︶ 住 一 不 退 転 一 智 慧 勇 猛 神 通 自 あ 円 ︵ 中 略 ﹀ 其 有 一 衆 生 一 欲 わ 於 ニ 今 世 一 同 行 ン ト 無 量 寿 仏 口 、 応 ド 発 日 無 上 菩 提 ノ 之 心 サ 修 一 一 行 f 功徳ザ願

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勺 彼 / 国 4 仏 誌 一 阿 難 一 其 ノ 中 輩 ノ 者 ぃ 十 方 世 界 ノ 諸 天 人 民 、 其 レ 有 一 至 心 一 願 ハ

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ペ 彼 / 国 一 ︵ 中 略 ﹀ 当 一 下 発 ン 無 上 菩 提 / 之 心 一 一 向 − − 専 ラ 念 U 無量寿仏 U 。 多 少 = 修 ハ 善 可 奉 ニ 持 v 斎 戒 ↓ 起 ニ 立 ジ 塔 像 ペ ︵ 中 略 ︶ 以 v ヲ 廻 向 勺 鳳 ハ ハ 弘 一 ト 彼 ノ 国 一 ︿ 中 略 ︶ 即 随 一 化 仏 一 往 − 一 生 ス 其 J 国 一 住 シ 不 退 転 一 功 徳 智 慧 次 如 一 上 輩 / 者 一 也 。 仏 血 中 一 阿 難 一 其 ノ 下 輩 ノ 者 ぃ 十 方 世 界 ノ 諸 天 人 民 、 其 レ 有 一 至 心 一 仇

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ン ト 彼 ノ 国 一 ︵ 中 略 ﹀ 払 ド 発 一 無 上 菩 提 J 之 心 サ 一 向 − − 専 一 意 可 乃 至 十 念 念 一 一 無 量 寿 仏 ザ 願 Uv 色 勺 其 ノ 圏 一 若 間 一 深 法 サ 歓 喜 信 楽 町 不 一 生 一 疑 惑 サ 乃 至 一 念 念 日 於 彼 / 仏 サ テ シ ノ ② 以 ニ 至 誠 心 一 一 勝 勺 色 勺 其 J 国 一 ︵ 中 略 ︶ 亦 得 一 一 往 生 ↓ 功 徳 智 慧 次 ヲ 如 一 一 中 輩 者 一 也 。 この三輩往生文では、﹃論註﹄善巧摂化において曇驚が指摘するように浄土への願生に際して菩薩心を発すことが 三輩の各々に説かれている。さらに上輩においては、浄土への願生という点に関連して、今世における願見仏につ いても菩提心を発すことが不可欠であるとされている。さらに﹃無量寿経﹄においてこの他に願生に関して菩提心 を発すことを説いているのは、第十九願の 設 v 我 レ 徳 一 仏 w 十 方 ノ 衆 生 、 発 一 菩 提 心 一 修 一 諸 ノ 功 徳 一 至 心 − − 発 願 v 仇

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一 我 カ 国 一 臨 一 寿 終 J 時一船十一れ与一一大 − ヲ ③ 衆 一 囲 乱 万 現 h 其人前心者、不 v ニ 正 覚 ↓ 及び第三十五願の 設 ジ 我 レ 紘 一 仏 w 十方無量不可思議 J 諸仏世界 h 其 ν 有 一 女 人 一 間 一 我 ヵ 名 字 ィ 歓 喜 信 楽 V 発 一 菩 提 心 サ 厭 二 百 町 セ シ ュ 女 身 一 ヲ ③ 寿終 J 之後 w 復 為 − ︶ 女 像 一 者 、 不 v ニ 覚 ↓ とである。三輩往生文では発菩提心を説く直後の経文にご向品専ラ念一無量寿仏一﹂︿上・中輩﹀及びコ向品専一意ヲ

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乃 至 十 念 念 ニ 無 量 寿 仏 一 ﹂ ︵ 下 輩 ﹀ を 伴 っ て い る が 、 この発菩提心と念無量寿仏との関係はいかなるものであるかは この経文の上だけでは不明確であると云えよう。第十九願と第三十五願は浄土への願生に際して発菩提心を説くに 止まり、念無量寿仏に関する記述は経文の上には見出せない。願生に際して念無量寿仏を記すと思われるものに第 十八願の ③ 設‘我得 v 一 仏 円 十 方 J 衆生、至心信楽、欲 v生ニ我国↓乃至十念、若不わ生者、不 v 一 一 正 覚 ↓ ︵ 下 略 ﹀ 。 及び下巻の三輩往生文直前に記されている テ ノ ヲ 〆 ユ Y ス レ ハ y ト ノ ユ テ ヲ ス ニ ③ 諸有衆生、間二其名号一信心歓喜、乃至一念、至心廻向、願 v 生 ニ 彼 国 ︵ 即 得 ニ 往 生 一 住 ニ 不 退 転 刊 ︵ 下 略 ﹀ 。 とがあるが、両者共に発菩提心の記述はない。従って発菩提心と念無量寿仏の関係は、﹃無量寿経﹄の中では三輩 往生文以外の箇所からは明確にすることは困難であると云わなければならない。そしてまた唯一両者を併記する三 輩往生文自体において両者の関係が不明確なのであるから、

2 4 m

量寿経﹄において両者を明確な関係づけによって ⑦ 捕えることは不可能であると云わざるを得ない。しかしあえて推測するならば、この三輩往生文では発菩提心が念 無量寿仏をなして浄土に願生する者にとり、往生を達成する上で不可欠であると考えられているのではなかろうか。 即ち発菩提心に基づく念無量寿仏が往生の要因と考えられているのではなかろうか。 ﹃論註﹄の善巧摂化には、右に検討したごとく念無量寿仏をなして浄土に願生する者にとり不可欠と推定される 発菩提心をとり上げ、﹁願 v生ニ彼安楽浄土一者、要発ニ無上菩提心一也。﹂と述べ、浄土への願生に際して発菩提 心が不可欠であるかのごとく記している。しかしはたしてこの記述は率直にそう理解すべきであろうか。 ﹃ 往 生 論 註 ﹄ の 菩 提 心 に つ い て 五

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傍教大皐大皐院研究紀要第十三披 五 まずこの記述がなされている善巧摂化とは、曇驚自らが﹃論註﹄巻下の最初に世親の﹃往生論﹄ ︵ 以 下 ﹃ 論 ﹄ と 記 す ﹀ の 長 行 を 十 重 に 分 け 、 己下此是解義分。此分中、義有二十重。一者願偶大意。二者起観生信。三者観行体相。四者浄入願 日 一 ハ 乙 ③ 心。五者善巧摂化。六者離菩提障。七者順菩提門。八者名義摂対。九者願事成就。十者利行満足。 と述べる内の第五に当る。この善巧摂化に該当する﹃論﹄の文は以下のごとくである。 如 v是、菩薩者摩他眺婆舎那広略修行、成一一就柔鞍心一如実知−一広略諸法↓如 v是成ニ就巧方便廻向↓何 ヲ 以 ノ 者菩薩巧方便廻向。菩薩巧方便廻向者、謂説ニ礼拝等五種修行、所集一切功徳善根︵不 v 求ニ自身住 持之楽一欲 v 抜二切衆生苦一故、作下願摂ニ取一切衆生一共同生中彼安楽仏国ム。是名ニ菩薩巧方便廻向 ト ③ 成 就 ↓ ここに記される柔軟心の成就、及び菩薩の巧方便廻向を曇驚がいかに理解したかを明らかにすることが、三輩往生 文の発菩提心の依用の意図を採る上で重要であると思われる。即ち曇驚はこれらを此彼二土のいずれにおいて捕え ていたのであろうか。この問題は曇驚が﹃論註﹄において願生者をいかなる者を中心として捕えていたかという点 と深く係わってくると思われる。従ってまず曇驚が﹃論註﹄を撰述した姿勢を考えることにより、願生者を具体的 にはいかなる者を中心として捕えていたかを考えてみたい。 曇驚は﹃論註﹄巻上の開巻初頭において龍樹の﹃十住毘婆沙論﹄易行品の趣意を 謹案龍樹菩薩ノ十住枇婆沙一云。菩薩求一一阿枇政致ザ有−二五種道↓一一者難行道。二−者易行道 m u

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と述べ、菩薩が阿昆践致を求めるのに難行道と易行道の二種があることを明している。この難行道については、 ト ⑪ 難行道者、謂於ニ五濁之世於無仏時一求ニ阿此政致一為 v 難 。 と述べられている。曇驚はまずここで現実の此土を五濁の世・無仏の時と捕えている。そしてこの現実の此土にお いて阿毘駿致を求めることが難行道であるとしている。一方、易行道については、 セ ン ト ニ Y ノ ニ 易行道者、謂但以一一信仏因縁一願 v 生 一 一 浄 土 一 乗 ニ 仏 願 力 一 便 得 v 往 ニ 生 彼 清 浄 土 ↓ ニ ハ レ 乙 ⑫ 乗正定之緊↓正定即是阿枇践致。 と述べられている。ここでは先の難行道において示された現実の此土を五濁の世・無仏の時とする考えに基づいて、 仏力住持、即入ニ大 信仏の因縁によってこの此土を離れて有仏の清浄の土に往生し、そこにおいて仏力に住持されて正定棄となること が易行道であるとしている。このように曇驚はまず第一に、五濁の世・無仏の時における阿毘政致の獲得を﹃論 註﹄撰述の目的としている。そしてこの目的に対する具体的方法として、有仏の清浄の土である阿弥陀仏の浄土と そこへの往生を開顕している。 では曇驚はいかなる者を中心において浄土への願生者を考えていたのであろうか。この点を考察する上で、曇驚 が﹃論註﹄巻上の最後に八番問答を設けていることが注目される。八番問答とは周知のごとく﹃無量寿経﹄第十八 ト ヲ ⑬ テ ノ タ ル 願の﹁唯除二五逆誹誇正法一﹂と﹃観無量寿経﹄︵以下﹃観経﹄と記す︶下品下生の﹁作ニ不善業五逆十悪︵具ニ 諸/不善一司との関係を問題としている。いったい﹃論註﹄が﹃論﹄の注釈のみに始終するならば、ここに八番問答 を設ける必要はあっただろうか。曇驚は八番問答をあえて設けることにより、ここに﹃論﹄の注釈にのみ始終して いては述べることができない自己の主張を述べているのではなかろうか。この﹃無量寿経﹄第十八願の﹁五逆誹諺 正法﹂の衆生と﹃観経﹄下品下生の﹁五逆十悪﹂の衆生に曇驚が注目し、その両者の関係を問題としたのは、彼が ﹃ 往 生 論 註 ﹄ の 菩 提 心 に つ い て 五

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併教大皐大皐院研究紀要第十三競 五 四 これらの衆生に対して深い関心を持っていたからに他ならない。そしてこれは恐らく曇驚が現実の衆生をこれらの 衆生の内に見出そうとしていたからであろう。即ち八番問答の第一問答において、 ト レ ス ニ ス ル 寸 ヲ ノ ト ⑬ 間目。天親菩薩回向章中、一マ一ロニ普共諸衆生往生安楽園一此指 v 共ニ何等衆生一耶。 と述べているが、これは浄土への願生者が具体的にいかなる衆生を中心とするかを問うものである。これに対し曇 驚 は 、 答 日 。 案 二 王 舎 城 所 説 無 量 寿 経 一 ︵ 中 略 ﹀ 諸 有 衆 生 、 間 一 一 其 名 号 一 信 心 歓 喜 、 乃 至 一 念 、 願 v 生一一彼国一即得ニ往生一住二不退転↓唯除=一五逆誹ニ誘正法↓案 v 此市言、一切外凡夫人、皆得ニ往生↓又 如ニ観無量寿経︵有一一九品往生一︵中略︶以ニ此経一証、明知、下品凡夫、但令下不 v 誹 一 一 誘 正 法 一 信 仏 因 縁 、 ヲ ⑮ 皆 得 中 往 生 よ 。 至 ,t,, 回 向

y と述べている。ここでは﹃無量寿経﹄巻下の初頭の経文によって往生が認められる衆生の下限を一切外凡夫、即ち ⑪ 十信の位以下の者とし、続いて﹃観経﹄下品下生の経文によって下品下生の者の往生を認めている。そしてこの下 品下生の﹁五逆十悪﹂と﹃無量寿経﹄の﹁五逆誹誘正法﹂が第二問答以下で問題とされ、 める一方で、﹁誹誇正法﹂の往生を否定している。従って﹁五逆十悪﹂の下品下生は往生が許される最下限の者と されている。しかし下品下生の往生にこれほどまでに曇驚がこだわる理由は、先述のごとく現実の衆生、即ち五濁 ﹁五逆十悪﹂の往生を認 の世・無仏の時の衆生をこの下品下生において捕えようとしていたからであると考えられる。従って五濁の世・無 仏の時と云う現実の衆生を救済するために開顕された浄土への願生という方法は、その具体的対象として下品下生 の衆生を中心として曇驚は考えようとする傾向があったと云えよう。このような視点に曇驚は立脚して、下品下生 の衆生の往生について直接言及することのない﹃論﹄に対し、﹃論註﹄を撰述するにあたり、 この点に言及しなけ

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ればならない必要が生じたのであり、あえて八番問答を設けることによってこの点に言及したと云えよう。 このような曇驚の視点は、往生に関する見解にも見出すことができる。曇驚は﹃論註﹄巻下、観行体相において、 国土荘厳功徳を述べた後に問答を設け、 む ト ユ レ ノ ナ ル J Y ユ ス ル ニ ヤ ル ユ ノ ヲ ラ 一 ハ 間目。上言 v知ニ生無生一当ニ是上品生者↓若下下品人、乗二十念一往生、宣非 v 一 一 実 生 一 耶 。 但 取 ニ 実 生 一 ニ ニ ハ タ ハ ヲ ニ ハ ク ハ ユ ス 距 セ ン ヲ ⑬ 即堕一三執↓一恐不 v 二 往 生 ↓ 二 恐 更 生 生 γ 惑 。 乙 ⑬ と述べている。これは入第一義諦釈の中で﹁彼浄土是阿弥陀如来清浄本願無生之生﹂と述べた点について、こ の無生の生を知る者は上品生の者であるとしている。そして右の問いに答えて、 答 。 ︵ 中 略 ﹀ 彼 ノ 下 品 / 人 、 雄 v 不 v 一 法 性 無 生 一 但 以 下 称 一 仏 名 一 カ ム 、 作 一 往 生 意 一 願 γ 生一一彼土︵彼土是無 ナ レ ハ ノ ニ ス ⑫ 生界、見生之火、自然而滅。 @ と述べている。ここでは下品下生の者が称名によって願生するならば、たとえ浄土が無生の生であることを知らな ヲ 7 ヲ ト ⑫ くとも、往生ができるとしている。これは入第一義諦釈に﹁体ニ夫生理︵謂ニ之浄土ごと述べている点と深い関 係がある。即ち浄土は無生界であるから、たとえ下品下生の者が無生の理を知らずに見生によって願生しても、こ の者は浄土に往生すれば結果的には無生の理を知るとしている。このように、曇驚は往生に関する理解においても、 無生の理を知らない下品下生の者に注目し、この下品下生の者の往生が許されることを強調している。 以上のように、曇驚は﹃論註﹄において﹃観経﹄の下品下生に非常な関心を払っている。これは彼が下品下生に 現実の五濁の世・無仏の時の衆生を見出すことにより、浄土への願生をなす衆生の具体的相を下品下生を中心に捕 えようとする傾向があったためであると考えられる。 ﹃ 往 生 論 註 ﹄ の 菩 提 心 に つ い て 五 五

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傍教大皐大皐院研究紀要第十三挽 五 六

次に﹃論註﹄の善巧摂化を中心とする曇驚の記述を通じて、先述の柔軟心成就の菩薩がいかなる者であるかを考 察してみよう。﹃論註﹄巻下、浄入願心には、 上国土荘厳十七旬、如来荘厳八旬、菩薩荘厳四句為 v広。入一法句為 v略。何故示ニ現広略相入↓諸仏 菩薩有一三種法身↓一者法性法身。二者方便法身。由一一法性法身一生ニ方便法身一由一一方便法身一出一一法性法 身↓此二法身、異而不 v 可 v分、一而不 v 可 v 向。是故広略相入、統以ニ法名↓菩薩、若不 v 知 一 一 広 略 相 入 一 ス ル 寸 ⑧ 則不 v − 一 自 利 利 他 ↓ と述べられている。ここでは三種二十九句の荘厳が広とされ、入一法句が略とされ、両者が相入するとされている。 そしてさらに前者を方便法身、後者を法性法身とし、両者の由生・由出の関係において相入を示し、両者が不可 分・不可同なることを明かしている。その後、菩薩が自利利他を行なう上で、かかる広略相入を知ることが不可欠 であると述べ、菩薩も阿弥陀仏と同様に法性法身・方便法身の広略相入によって自利利他を展開することを予想し ているようである。この広略相入を知る菩薩とは、得往生者、願生者のいずれであると曇驚は考えていたのであろ うか。この浄入願心の主張に基づき、曇驚は善巧摂化に 〆 ス ノ ヲ @ 柔鞍心者、謂広略止観相順、修行成ニ不二心一也。 と述べ、広略相入を知ることによって初めて菩薩は不二心、即ち柔軟心を成就するとしている。そしてこれに続い ニ ル ノ ヲ ⑧ て、﹃論﹄の﹁如実知ニ広略諸法一﹂の文に注釈して、 土 一 守 ⑫ 如実知者、如一一実相一而知也。広中二十九旬、略中一旬、莫 v − 一 実 相 一 也 。

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と述べている。ここでは広・略とは実相そのものであるとしている。従って、菩薩が柔軟心を成就すると云うこと は、菩薩が実相そのものを知ることに他ならないと云えよう。そして菩薩が自利利他を行なうためには、菩薩自身 が広略相入、即ち実相を知ることが不可欠であると考えていたようである。 さらに起観生信の廻向門釈の還相廻向においては、 還相者、生二彼土一己、得一一審摩他眺婆舎那一方便力成就、廻ニ入生死調林一 エ ② 道 ↓ 教二化一切衆生一 共向ニ仏 この内で﹁生ニ彼土一己、得二審摩他眺婆舎那一方便力成就﹂と記されている点が注目される。 ニ テ テ この還相廻向の記述では明確に﹁生一一彼土一己﹂とあり、浄土に往生した後のこととして述べられる﹁得二審摩他批 婆舎那一方便力成就﹂とは、善巧摂化における﹃論﹄の ヲ ⑧ 菩薩審摩他眺婆舎那広略修行、成一一就柔鞍心一如実知一一広略諸法↓如 v 成 一 一 就 巧 方 便 廻 向 ↓ の記述と相似するものであると云えよう。即ち起観生信の還相廻向の記述は、﹃論﹄の上記の文に基づいたもので あると考えられる。従ってこの起観生信の﹁方便力成就﹂とは、﹃論﹄の﹁巧方便廻向﹂として展開されるもので あると考えられる。また前述のごとく曇驚は善巧摂化において﹁如実知ニ広略諸法乙とは実相を知ることである としているのだから、起観生信の﹁得一一審摩他眺婆舎那一方便力成就﹂とは実相を知ることであると考えていたと と 述 べ て い る が 、 云 え よ う 。 以上のごとく起観生信の還相廻向の記述と善巧摂化における﹃論﹄の記述の相似から考えるならば、自国一言驚は起観 生信に﹁生一一彼土一巳﹂と明記し、浄土に往生した後において﹁得二審摩他枇婆舎那一方便力成就﹂を考えていた のであるから、前掲の﹃論﹄の善巧摂化の文を、浄土において菩薩が審摩他眺婆舎那を修することによって広略相 ﹃ 往 生 論 註 ﹄ の 菩 提 心 に つ い て 五 七

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悌教大事大事院研究紀要第十三競 五 八 入、即ち実相を知り、柔軟心を成就して巧方便廻向を成就すると考えていたと云えよう。即ち曇驚は﹃論﹄の﹁菩 薩﹂について、これを善巧摂化で浄土の菩薩として捕え、また﹁巧方便廻向﹂を主に還相廻向として位置づけてい る と 考 え ら れ る 。 五 このように曇驚は、善巧摂化における﹃論﹄の巧方便廻向をなす菩薩を、浄土の菩薩と考えていたと云えるので あるが、前に検討した曇驚の﹃論註﹄撰述の姿勢とこの巧方便廻向をなす菩薩を浄土の菩薩とする見解は矛盾する か 否 か を 考 え て み よ う 。 もし仮にこの善巧摂化の柔軟心成就の巧方便廻向をなす菩薩が此土の菩薩であり、巧方便廻向を往相廻向が中心 であるとすれば、この菩薩は実相を知ると云う点において上品生の者のみが該当し得るのみであり、下品下生の 者ははたして該当するであろうか。臨終における切迫した時において、善知識の方便安慰により阿弥陀仏を念・ 称する下品下生の者が、はたして﹃論﹄に﹁如 v 是、菩薩審摩他眺婆舎那広略修行、成二就柔鞍心︵如実知ニ ナ ル 広略諸法↓如 v是、成ニ就巧方便廻向↓何者菩薩巧方便廻向。ハ中略﹀不 v 一 一 自 身 住 持 之 楽 一 欲 v 抜二切衆生 ニ ス 〆 ヲ 品 タ セ ン ト ノ ニ ⑧ 苦一故。作下願摂ニ取一切衆生一共同生中彼安楽仏国ム。﹂と述べられるごとき巧方便廻向をなすことが可能であ ろ う か 。 @ また仮にこの巧方便廻向が此土において下品下生の者が自己の力ではなく﹁阿弥陀如来至極無生宝珠﹂の名号 の働き、即ち仏力によって行なわれるとして、下品下生の者の此土での巧方便廻向が可能であるとすることにより、 下品下生を願生者の中の特殊なものと位置づけるとしても、この善巧摂化の曇驚の注釈は何ら下品下生に関して特

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筆してはいない。即ち柔軟心成就の菩薩を此土の菩薩と考えるならば、善巧摂化の注釈はただ上品生の者を中心と する記述に始終していると云わざるをえない。前述のごとく曇驚は下品下生の者に対して深い関心を示しているの であるから、もし仮に曇驚がこの善巧摂化を往相廻向を主としたものと考え、巧方便廻向をなす柔軟心成就の菩薩 を此土の菩薩と考えていたのならば、当然この善巧摂化において下品下生の者に対する何らかの注釈が加えられて いなければならないのではなかろうか。 このように曇驚の﹃論註﹄における願生者の理解を通じても、この善巧摂化は浄土の菩薩に関するものであり、 巧方便廻向は還相廻向を主にすると考えるべきものではなかろうか。 _t... /" さて、善巧摂化においては前述の浄入願心における﹁菩薩、若不 v知ニ広略相入↓則不 v 二 自 利 利 他 ↓ ﹂ づき、実相を知り得た柔軟心成就の浄土の菩薩が自利利他することを、具体的にその利他面を中心に菩薩の巧方便 廻向として述べられている。菩薩が巧方便廻向を展開する過程を、曇驚は以下のごとく述べている。 ル ヲ ヲ ユ チ ル 以 v知ニ実相一故、則知二三界衆生虚妄相一也。知一一衆生虚妄一則生ニ真実慈悲一也。知一一真実法身一則起一一 ワ ニ @ 真実帰依一也。慈悲之与ニ帰依一巧方便在 γ 下 。 の文に基 ここでは柔軟心成就の菩薩は実相を知るが故に、この実相の智慧に基づいて三界の衆生の虚妄の相を知ることがで きると述べられている。曇驚は三界の衆生の虚妄の相を具体的には虚偽相・輪転相・無窮相の三相によって捕え、 @ それをすべて有漏であり、法性に順ぜず、二諦に順じない者の相としている。そしてかかる三界の衆生の虚妄の相 ル ヲ ヲ ニ チ ル ノ ノ ノ を虚妄なるものとして知り得るのは、先の善巧摂化の文では﹁以 v知一一実相一故、則知二三界衆生虚妄相−也。﹂と ﹃ 往 生 論 註 ﹄ の 菩 提 心 に つ い て 五 九

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併教大事大皐院研究紀要第十三競 六

O

して、実相を知ることによって可能であると述べている。この実相を知ると云うことは、具体的には浄入願心にお いて真実智慧と記されている実相の智慧を指すと云えよう。即ち浄入願心には、 真実智慧者、実相智慧也。実相無相故、真智無知也。︵中略﹀無知故、能無 v 不 v 知 。 是 故 一 切 種 智 ヲ ル 寸 ハ ニ ス ハ ニ ル 寸 ヲ ニ ⑧ 即 真 実 智 慧 也 。 以 一 一 真 実 一 而 目 ニ 智 慧 ︵ 明 三 智 慧 非 v 非 ニ 非 作 一 也 。 と述べられている。ここでは実相の智慧が真実智慧とされ、さらに一切種智ともされている。かかる一切種智はま た 観 行 体 相 に お い て 、 ニ ジ ト 一 冨 ハ ナ ラ カ ル ヤ ル 寸 ヲ 間目。心入ニ実相一可 v 令 ニ 無 知 一 一 玄 何 得 v 一 一 一 一 切 種 智 一 耶 。 ナ レ ハ チ リ ル ラ ハ ナ ル カ ニ ジ ル − ? ル ハ チ @ 答日。凡心有知、則有 v v v 。 聖 心 無 知 故 、 無 v v 不 v知。無知而知、知即無知也。 とも述べられている。これに基づくならば、実相を知る一切種智とは、﹁無知而知、知即無知也。﹂として説明 される戯論を超え、さらにその無分別・無戯論にも止住することなく﹁聖心 J 無知 J 故 、 無 一 所 v ハ 知 。 ﹂ として積 極的にものごとを知りきわめる智として展開されるものである。かかる一切種智を得た柔軟心成就の菩薩こそが、 初めて三界の衆生の虚妄の相を知ることが可能であるとされている。そしてこの虚妄の相を知るならば、そこに真 実の慈悲が生じると前述の善巧摂化の文は述べている。この柔軟心成就の菩薩の慈悲に関して、曇驚は障菩提門に お い て 、 ニ 品 キ ノ ヲ ル カ ニ ユ ス キ ス ル 寸 ヲ ヲ @ 抜 v 臼 v慈、与 v 日 v悲。依 v慈故抜一二切衆生苦一依 v 故 遠 下 離 無 v 二 衆 生 一 心 ∼ と述べている。即ち一切衆生の苦を抜き、衆生を安んずる心が慈悲であるとしている。

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この慈悲の展開は具体的には廻向と密接な関係を有している。﹃論註﹄巻下、起観生信の廻向門釈においては、 廻 向 一 有 一 二 種 ノ 相 ↓ 一 一 者 往 相 。 二 一 者 還 相 九 往 相 ト 者 、 以 ニ 己 ヵ 功 徳 ヴ 廻 ニ 施 y 一 切 / 衆 生 一 作 三 願 J J 共一往ニ生彼 阿弥陀如来安楽浄土 4 還相者、生二彼士一己、得二審摩他枇婆舎那一方便力成就、廻ニ入生死調林一教ニ化 ヲ ⑧ 一 切 衆 生 づ 共 向 一 一 仏 道 ↓ 若 往 、 若 還 、 皆 為 下 抜 一 一 衆 生 ︵ 渡 中 生 死 海 ム 。 と述べられている。即ちここでは往相廻向・還相廻向の二者によって廻向が説明されている。往相廻向とは願生者 自身が自己の功徳を一切衆生に廻施して一切衆生と共に往生することを願うものであるとされ、還相廻向とは先に も触れたように願生者が浄土に往生した後、者摩他・眺婆舎那を得て方便力を成就し、再び浄土から生死界に赴い て一切衆生を教化することであるとされている。さらに﹃論註﹄巻上においても カ ヲ V テ ニ ニ 上 リ ヲ セ ン ト 乙 ニ ︵ @ 廻 向 者 、 回 ニ 己 功 徳 一 普 施 一 一 衆 生 一 共 見 一 一 阿 弥 陀 如 来 一 生 一 一 安 楽 国 ↓ リ ヲ タ ヲ ク ハ 上 リ と述べられている。これは﹃論﹄の﹁我作 v 説 v傷、願見ニ弥陀仏︵ た注釈であるから、往相廻向に該当すると云えよう。 普 共 ニ 諸 衆 生 一 ニ ︵ ⑬ 往 一 一 生 安 楽 園 ご に付され この両者の廻向の説明において、往還二廻向と云う視点より、その目的と方法を考えてみよう。まず往相廻向に 品 上 リ ついては、その目的が起観生信では﹁共往ニ生彼阿弥陀如来安楽浄土一﹂と記され、巻上では﹁共見一一阿弥陀 如来一生ニ安楽園こと記され、後者には見仏を含むものの両者は共に往生を志向している。そしてその方法は、 〆 カ ヲ シ テ ユ 起観生信では﹁以二己功徳一廻一一施一切衆生一﹂と記し、巻上では﹁回一一己功徳一普施一一衆生一﹂として両者共に自 起観生信ではその目的を﹁共向ニ仏道一﹂と記して 己の功徳を衆生に施すとしている。 次に還相廻向については、 ﹃ 往 生 論 註 ﹄ の 菩 提 心 に つ い て ー 』 − /",

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併教大事大皐院研究紀要第十三競 六 一 一 成仏そのものを志向していると考えられ、その方法は﹁廻ニ入生死調林﹁教一一化一切衆生一﹂と記して往相廻向 の方法に比して、より積極的なものとなっている。以上よりして、往相廻向は自己の功徳を衆生に施すと云う方法 により往生を目的とするものであり、還相廻向は生死界に再び還って衆生を教化すると云う方法により成仏を目的 とするものであると云えよう。 このような視点に立って善巧摂化に記された廻向の説明を考えてみよう。善巧摂化の廻向の説明とは以下のごと く で あ る 。 ヲ 〆 ニ ニ 乙 品 ⑧ 凡釈−一廻向名義?謂以ニ己所 v集一切功徳一施ニ与一切衆生︵共向ニ仏道↓ ここでは廻向の目的は右の考察からして成仏を志向する点において還相廻向と云えるが、方法そのものは往相廻向 @ であり、往還二廻向に分類されるべきものと云うよりは、廻向そのものの一般概念が述べられているようである。 廻向の一般概念が右の善巧摂化のごとくであるとするならば、先の往相廻向と還相廻向の目的の相違はいかに考 えられるべ‘きであろうか。これは往相廻向が志求する浄土の性格において説明される。即ち善巧摂化に﹁彼仏国、 @ 即是畢寛成仏道路、無上方便也。﹂と述べられるごとく、衆生が浄土に往生すれば成仏が約束されるからである。 従って衆生にとっては浄土に往生できるか否かが、成仏の可否をも決定することになる。このような立場において は成仏の可否よりも往生の得不得に関心が移行することになろう。即ち往相廻向においては、 たとへ廻向の一般概 念が前述の善巧摂化のように成仏を目的とするものであっても、浄土では成仏が約束されるのであるから、眼前に 直接目的として表面化するのは成仏が約束されるか否か、即ち往生の得不得の問題となろう。そしてかかる立場に おいては成仏の問題が往生の問題の背後になると云えよう。このように往相廻向では浄土と云う成仏が約束された 場を設定することにより、成仏と云う廻向本来の目的は往生と云う眼前の目的の背後となる。そして往生を得た時

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@ において初めて成仏と云う廻向本来の目的が表面化すると云えよう。 J¥ 善巧摂化には先述の廻向の一般概念が記された後に、巧方便廻向の説明が行なわれている。 巧方使者、謂菩薩願、以ニ己智慧火﹁焼ニ一切衆生煩悩舛木﹁若有三衆生不一一成仏一我不−一作仏↓而衆 生 私 一 一 尽 グ 成 仏 一 菩 薩 己 ニ 自 成

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。 警 ハ 如 一 火 恥 モ テ 鵬 念 、 終 刊 一 一 摘 一 服 歴 一 切 ノ 州 木 ザ 良 一 令 中 伎 町 ト 尽 U o 州 木 ホ ハ 尽 w 火係 己尽甲。以下後二其身一而身先ム故、名目一巧方便↓此中、言ニ方便一者、謂作下願摂ニ取一切衆生一共同生中 ⑬ 彼安楽仏国ム。彼仏国即是畢寛成仏道路、無上方便也。 先述の考察で明らかとなったように、巧方便廻向とは還相廻向として位置づけられるから、ここでも成仏が志向さ れていると云う点において、右の考察の結果と軌を一にするものである。そして﹁智慧火﹂とは先の考察よりし て、実相を知る一切種智であると云えよう。また﹁作下願摂ニ取一切衆生一共同生中彼安楽園九﹂とは、起観 生信の還相廻向に記される﹁廻ニ入生死樹林︵教ニ化一切衆生こと云う方法によって展開されるものであり、 @ ﹃論﹄が﹁出第五門﹂として記すものである。ここにおいて衆生を摂取して共に同じく安楽園に生ぜんと云われる のは、還相廻向をなす菩薩、即ち柔軟心成就の浄土の菩薩が自己と同様に衆生を浄土に願生させることであるから、 菩薩の還相廻向は被廻向者をして往相廻向させることであると云える。即ち還相廻向の具体的方法である﹁教ニ化 一切衆生一﹂とは衆生を往相廻向させると云うことによって内容づけられるものであると云えよう。 ては後に再び触れるであろう。 ﹃ 往 生 論 註 ﹄ の 菩 提 心 に つ い て この点に関し ー占A /'¥

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併教大皐大皐院研究紀要第十三観 六 四

右の善巧摂化に巧方便の﹁巧﹂の字を説明して、菩薩が一切衆生を成仏させるまでは成仏しないと願いつつも自 @ 身が一切衆生に先立って成仏する意であるとしているが、この点は利行満足の曇驚の自利利他の理解と深い係りが あ る 。 利 行 満 足 に は 、 ト 己 カ ニ ニ チ ス ト 云 寸 ヲ レ シ テ ニ ス 士 一 ハ ⑬ 応 v知下由一一自利一故、則能利他。非中是不 v 一 一 自 利 一 而 能 利 他 上 也 。 シ ト 乙 カ ニ ニ チ ス ト 云 寸 ヲ レ ν テ セ ヲ ス ル ニ ハ @ 応 v 知下由一剥他一故、則能自利。非中是不一一能利 v他、而能自利ム也。 自利利他が即一的双運関係にあることを明かしている。従って浄土の柔軟心成就の菩薩の巧方便廻向は菩 薩の利他行であると共に、自利行であると云えよう。さらに曇驚は願事成就において﹃論﹄の ニ ︵ ⑬ 菩薩、如 v是修二五念門行一自利利他、速得 v成二就阿霧多羅三貌三菩提−故。 と 述 べ 、 に対して問答を設け、 ヤ ト 問 日 。 有 ニ 何 因 縁 コ マ 一 口 一 一 速 得 成 就 阿 蒋 多 羅 三 貌 三 菩 提 ↓ 答日。論一言。修一一五門行一以一一自利利他成就一故。然薮求一一其本︵阿弥陀如来為ニ増上縁↓他利之与−一利他一 談 、 有 一 一 左 右 ↓ 若 自 v仏而言、宜 v 一 剥 他 ︵ 自 二 衆 生 一 而 一 言 、 宜 v 一 一 他 利 ↓ 今 将 v ニ 仏 力 一 是 故 以 ニ 利 他 二 マ 一 口 V 之。当 v知。此意也。凡是生ニ彼浄土一及彼菩薩人天所起諸行、皆縁一一阿弥陀如来本願力一故。何以言 v ニ ナ ラ ン ⑬ 之。若非ニ仏力一四十八願便是徒設。 と述べ、この後に﹃無量寿経﹄の第十八願、第十一願、第二十二願を引いてこれを証している。ここではまず、願 @ @ 生者が浄土に往生すること及び浄土で正定緊に住して必ず滅度に至って諸の廻伏の難がなく、常倫諸地の行を超出

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@ して現前に普賢の徳を修習すること、即ち願生者が浄土往生を通じて浄土の衆生となり、自己の自利利他行を完成 していく過程が一貫して阿弥陀仏の増上縁に基づいていることを明かしている。そしてこの阿弥陀仏の増上縁とは ﹁凡是生ニ彼浄土一及彼ノ菩薩人天/所起諸 f匂皆縁一一阿弥陀如来本願力一故。何以一言 v 。 若 丸 一 ︶ 仏 力 一 四 十 八 願 レ 品 ナ ラ ン 便是徒設。﹂と述べられるごとく、阿弥陀仏因位の四十八願に基づくものであるとしている。 そして、この点をもとにして自利利他の内、特に利他を問題とし、浄土の衆生が行なう利他行は阿弥陀仏が増上 縁として浄土の衆生に働きかけるのであるから、阿弥陀仏の立場からは﹁利他﹂であるが、浄土の衆生の立場から は阿弥陀仏の増上縁を予想し得てこれが可能であるために﹁他利﹂とされている。即ち浄土の衆生が行なう利他行 に関し、曇驚はその主体を問題とし、阿弥陀仏の増上縁が存在する事実によって、ここに浄土の衆生と云う主体と 阿弥陀仏と云う主体の両者を見出し、かかる両者によってこれが構成されることを明かしている。従って浄土の衆 生の利他行は彼達自身の利他行︵﹁他利﹂﹀であると共に、阿弥陀仏の利他行︵﹁利他﹂︶でもあると云う主体の二重 的即一性が存在すると考えられよう。このように考えるならば、浄土の柔軟心成就の菩薩の巧方便廻向は阿弥陀仏 の増上縁に基づくものであり、それは浄土の菩薩が表にあり阿弥陀仏が裏にある主体の二重的即一性と、浄土の菩 薩の自利利他の即一的双運行であると云えよう。さらにこのことは、一方において菩薩として一切衆生が成仏する までは自身も成仏しないと誓いながら既に成仏した阿弥陀仏が、他方においては浄土の菩薩を通じて自己の利他行 を行なっているとも云えよう。即ち浄土の菩薩が三種二十九句荘厳功徳において、そのひとつとして位置づけられ ⑧ る時、その菩薩そのものも阿弥陀仏の利他としての働きを担うこととなるとも云えよう。以上のような理解に基づ いて曇驚は菩薩の巧方便廻向を捕えていると云える。 ﹃ 往 生 論 註 ﹄ の 菩 提 心 に つ い て 六 五

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傍教大皐大事院研究紀要第十三強 六 六

廻向を行なうことを述べているのであるが、 劣︵莫 v 不三皆発ニ無上菩提之心ごと述べ、﹃無量寿経﹄三輩往生文の発菩提心を取り上げている。曇驚はこれに続 以上の考察で明らかになったごとく、曇驚は善巧摂化において浄土の柔軟心成就の菩薩が還相廻向である巧方便 この善巧摂化に﹁案ニ王舎城所説無量寿経︵三輩生中雄三行有一一優 い て 菩 提 心 を 説 明 し て 、 此無上菩提心即是願作仏心。 願作仏心即是度衆生心。 ノ ト ハ f ヲ セ ジ ム ル J − − z @ 度 衆 生 心 即 摂 一 一 取 衆 生 一 生 一 一 有 仏 国 土 一 心 。 と述べ、菩提心を願作仏心及び度衆生心のシノニムとしている。これは一般に菩提心が自利利他の両面を有する心 とされる点に基づき、願作仏心によって自利面を、度衆生心によって利他面を示していると云えよう。この箇所の 記述は前述のごとく浄入願心において﹁菩薩、若不 v知二広略相入一則不 v能−一自利利他己と述べられ、広略︿即ち 実相﹀を知れば菩薩は自利利他を行なうことが可能であるとされる点に基づいたものである。即ち今この菩提心を 述べる善巧摂化が広略相入を知り得た柔軟心成就の菩薩に関するものであり、この柔軟心成就の菩薩が行なう巧方 便廻向を述べる箇所であるから、右の浄入願心の記述を受けてここに浄入願心で示した自利利他を願作仏心・度衆 生心として具体的に開示していると云えよう。そしてかかる自利利他が即一的双運の関係にある点は、前述のごと く利行満足において述べられている。 この度衆生心を曇驚はさらに﹁摂ニ取 f 衆 生 一 生 ニ J 有仏国土一心﹂と述べている。ここでは所化の対象である﹁衆

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生﹂が有仏の国土に存在せず、無仏の国土に存在していること、即ち所化の対象が無仏の国土の﹁衆生﹂であるこ とを予想していると考えられる。従ってこの文が浄土の柔軟心成就の菩薩が行なう還相廻向に関するものであるこ かかる浄土の菩薩の還相廻向が主に無仏の国土の衆生を対象として行なわ とは先の考察を通じて明白であるから、 れるべきことを予想していると考えられる。この点は﹃論註﹄巻上、開巻初頭の前述の文において、﹃論註﹄撰述 の根本課題を無仏の時における阿毘践致の獲得と宣揚した点と密接な関係があると云えるが、かかる問題は本稿で は立ち入らずにおくこととする。この﹁摂ニ取衆生一生一一有仏国土一心。﹂の文に続いて、これを具体的に前述のご とく﹁巧方便者︵中略﹀以下後二其身一而身先ム故、名ニ巧方便↓此中、言ニ方便一者、謂作下願摂ニ取一切衆生一 共同生中彼安楽仏国土。﹂と述べ、衆生に往相廻向せしめることが巧方便廻向であるとしている。このように還 相廻向も往相廻向と同様、阿弥陀仏の浄土とそこへの往生と云う具体的方法、即ち衆生を往相廻向せしめると云う 方法が選取されていると云うことは、前述のごとく利行満足において﹁凡是生ニ彼浄土一及彼菩薩人天所起諸 一ぬ皆め一阿弥陀如来 J 本願力一故ごと述べられ、三願的証がなされるごとく、かかる選取そのものが根元的にはす @ ベて阿弥陀仏の本願力、即ち阿弥陀仏の選取にかかるものであるからと云う点によって説明される。この点におい て前述のごとく還相廻向の主体が浄土の菩薩と阿弥陀仏との両者であると云う、主体の二重的即一一性が指摘される。

右の善巧摂化の菩提心の説明に続いて曇驚は菩提心を発すべきことを、 願 v生ニ彼安楽浄土一者、要発ニ無上菩提心一也。若人不 ν 一 一 無 上 菩 提 心 ︵ 但 v聞ニ彼国土受楽無問、為 v ヲ ⑧ 故 願 v生、亦当 v 不 v ニ 往 生 一 也 。 ﹃ 往 生 論 註 ﹄ の 菩 提 心 に つ い て 六 七

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傍教大皐大事院研究紀要第十三披 六 八 と述べている。ここでは文相の上からは一見、浄土の願生に際して発菩提心が要求されているようであるが、今ま での考察において明らかなごとく、善巧摂化が浄土の菩薩の還相廻向を述べる箇所である点において、 に至って初めて願生に際して発菩提心を要求する記述がなされたと云うことに不自然さを感じる。 かかる場所 先の考察のごとく、菩提心は願作仏心・度衆生心と云う自利・利他により構成されるものである。先に考察した 往還二廻向をこの自利・利他と云う視点において考えるならば、往相廻向では自己の願生と云う目的が自利面に、 自己の功徳を衆生に施すと云う方法が利他面に相当し、還相廻向では成仏を志向すると云う目的が自利面に、一切 衆生を教化して願生させると云う方法が利他面に相当すると云えよう。しかし先述のごとく往相廻向では往生と云 う眼前の目的が強調されるために、成仏と云う究極の目的がその背後になってしまった。従って曇驚が菩提心の自 利面に関して、それを願作仏心と云う成仏を志向するものとして捕える時、この菩提心は成仏を志向すると云う点 において還相廻向と直接係わってくるものであると云えよう。また往相廻向では、その利他面は先述のごとく自己 の功徳を衆生に施すとのみ記して消極的なものであるのに対し、還相廻向はこれを一切衆生を教化して願生させる と云う積極的な展開において示している。従って菩提心の利他面である度衆生心が積極的に展開するのは還相廻向 であり、菩提心が積極的に展開されると云う点において還相廻向と直接係わってくるものであると云えよう。この ように自利・利他両面において菩提心と直接係わるのは還相廻向であると云えよう。また願生者を下品下生のごと き低い機根によって捕えようとする傾向のある曇驚において、菩提心の積極的展開を往相廻向に求めているとする ことはできないと思われる。以上よりして菩提心が直接問題とされるのは還相廻向においてであると云えよう。従 って曇驚は還相廻向を述べる善巧摂化において初めて菩提心を問題として取り上げることにより、発菩提心の実質 的な要求を往生後の浄土において還相廻向が行なわれる前、即ち方便力の成就において捕えていたと云えよう。そ

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して往相廻向においては発菩提心を直接要求せず、単に願生及び自己の功徳を衆生に施すとのみ消極的に記すに止 め た と 考 え ら れ る 。 往相廻向において発菩提心が直接要求されなくとも、衆生が往生したならば菩提心が仏力によって 生じさせられると曇驚は考えていたからである。即ち﹃論註﹄巻下、触功徳には浄土の宝性功徳草について、 此 増 v道事、同二愛作↓︵中略︶有二菩薩一字ニ愛作↓形容端正、生−入染著↓経一言。染 v 之者、或生一一天上一 ヲ ⑫ 或 発 ニ 菩 提 心 ↓ と述べ、この草に触れると菩提心を発すとしている。また声聞に関して﹃論註﹄巻上、大義門功徳に、 戸 聞 、 以 ニ 実 際 一 為 v 。 計 不 v応=一更能生一一仏道根芽一而仏以二本願不可思議神力一摂令 v v彼、必当下復 ヲ 下 ヲ 〆 セ ヲ ⑧ 以ニ神力一生中其無上道心ム。︵中略︶仏能使三戸聞、復生ニ無上道心↓ @ と述べられ、無上道心、即ち菩提心なき声聞が浄土で仏力によって菩提心を生じるとしている。また観行体相では ニ ノ キ ヲ ニ ノ キ ヲ ス ス テ ヲ セ ン ト ヲ 菩薩、於二七地中︵得一一大寂滅一上不 v見ニ諸仏可 v 求 、 下 不 v見ニ衆生可 v 、 欲 下 捨 一 一 仏 道 一 証 中 於 実 際 ム 。 ヲ チ 〆 ケ ン ナ ル 寸 f ニ ム レ ハ ヲ 爾 時 、 老 不 v 得ニ十方諸仏神力加勧一即便滅度、与一三乗一無 v具。菩薩、若往ニ生安楽一見ニ阿弥陀仏︵即 ノ @ 無 一 一 此 難 ↓ な ぜ な ら ば 、 と述べ、さらに﹃論註﹄巻下、主功徳に 若人、一生二安楽浄土一後時、意願下生二三界一教中化衆生ヘ捨ニ浄土命一随 v 得 v 。 難 v 二 三 界 雑 生 水火中︵無上菩提ノ種子、畢寛不 v 。 何 以 故 。 以 v 蓬ニ正覚阿弥陀善住持一故吻 と述べ、菩提心が浄土では不朽であるとしている。このように浄土において菩提心が生じさせられ、また浄土では 菩提心が不朽であると云う考えを有する曇驚にとっては、願生に際してあえて発菩提心を直接要求する必要性がな ﹃ 往 生 論 註 ﹄ の 菩 提 心 に つ い て 六 九

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傍教大事大皐院研究紀要第十三挽 七

かったと云えるのではないだろうか。 結 論 このように﹃論註﹄では菩提心が浄土において仏力により生ぜられると云う見解を示し、また菩提心の積極的展 開を還相廻向にて捕えることにより、願生に際しての利他面を自己の功徳を衆生に施すと云う消極的表現に止めて、 願生に際しての発菩提心を直接積極的には要求しない。言い換えれば、これによって戸論﹄そのものが願生者を五 念門が修することの可能な高い機根として捕えるのに対して、﹃論註﹄が願生者を下品下生と云う低い機根を中心 と し て 捕 え る こ と ︿ こ こ に 現 実 の 衆 生 を 見 出 し て い た 。 ﹀ 願 生 者 の 機 根 に つ い て の ﹃ 論 ﹄ と の 相 違 に よ り 生 じ た 、 と密接に係わる願生に際しての発菩提心の問題を解決していると一五えよう。 従って善巧摂化において曇驚が﹃無量寿経﹄三輩往生文の発菩提心を依用した意図は、発菩提心を願生者に積極 的に要求したのではなく、浄土往生後に還相廻向として積極的な利他が展開されなければならないとの見解におい て、この利他をなす菩提心が還相廻向を行なうに先立って要求されるという点を闇明するためであると考えられる。 即ち曇驚の発菩提心の実質的要求は願生に際してではなく、還相廻向としての巧方便廻向に際してであると云えよ う。云い換えるならば、往相廻向においては浄土への往生と云う眼前の目的が表面化し、成仏と云う究極の目的が その背後となったのと同様、往相廻向に際しての発菩提心の要求は、名号の称名・憶念の如実修行を内容づける ト ⑫ ⑧ ﹁知ニ如来是実相身是為物身一﹂及び信心の﹁淳﹂・﹁ご・﹁相続﹂の問題の背後になっているとも云えるかも知れ

﹄ 町 、 。

チ h t v しかしこれは﹁信﹂の考察を通じて論及されるべきものであり、本稿ではこの点への言及はさしひかえ、別 稿 を 期 し た い 。

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なお先述の善巧摂化に﹁若人不 V 発 ニ 無 上 菩 提 心 寸 ︵ 中 略 ﹀ 亦 当 一 不 一 得 ニ 往 生 一 也 。 ﹂ と あ る の は 、 曇 驚 当 時 に お い て @ @ 貧欲に基づく願生者が存在したために、かかる者への警告であると推定される。即ち浄土とは自己のみの楽を受け る場ではなく、積極的に自利利他が展開される場であることを強調していると考えられる。曇驚当時に貧欲に基づ く願生者が存在したと云う点への史料的考察も別の機会としたい。 このように浄土往生後ーにおいて積極的に自利利他の展開がなされることを闇明するために菩提心を強調する曇驚 の姿勢は、彼が修学し、また﹃論註﹄にも多引される﹃大智度論﹄等が菩薩行について多くの記述をなしている点 と深く係るものであろう。即ち曇驚は下品下生と云う低い機根の者の往生を認める一方、浄土での還相廻向として の菩薩行を強調することにより、菩薩行を説く﹃大智度論﹄等に代表される当時の一般的な大乗仏教の上に浄土教 を位置づけていると云えよう。このように曇驚の﹃論註﹄における菩提心の強調は、曇驚当時に盛行していた﹃大 智度論﹄等の諸経論が多く菩薩行を説いていると云う点にその思想的背景を伺うことができると云えよう。 註 ①﹃浄全﹄一・二五一下 J 二 五 二 上 ②﹃浄全﹄一・一九?二

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③﹃浄全﹄一・七 J 八 ④﹃浄全﹄一・九 ⑤﹃浄全﹄一・七 ⑥﹃浄全﹄一・一九 ⑦党本において漢訳︵支婁迦識訳︶の﹁発菩提心﹂に相 当 す る 箇 所 は 中 ・ 下 輩 に は な く 、 上 輩 に お い て ﹁ 覚 り に 心 を さ し 向 け ﹂ と 藤 田 宏 達 氏 が 邦 訳 さ れ て い る ︵ ﹃ 焚 文 ﹃ 往 生 論 註 ﹄ の 菩 提 心 に つ い て 和 訳 無 量 寿 経 、 阿 弥 陀 経 ﹄ 一

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八 ﹀ 箇 所 で あ ろ う 。 こ れ に よ る な ら ば ﹁ 覚 り に 心 を さ し 向 け ﹂ る こ と は 阿 弥 陀 仏 を 思 念 し て 願 生 す る 上 で の 必 要 条 件 と さ れ て い る よ う で あ る 。 ③﹃浄全﹄一・二三七下 @﹃浄全﹄一・一九六 J 一 九 七 ⑮﹃浄全﹄一・一二九上 ⑬ 同 右 ⑫ 同 右 ⑬﹃浄全﹄一・七 七

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悌教大事大皐院研究紀要第十三強 ⑭﹃浄全﹄一・五

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⑬﹃浄全﹄一・二三四下 ⑮﹃浄全﹄一・二三四下 J 二 三 五 下 ⑫﹁外凡夫﹂を十信とする点は、佐一仏念訳﹃菩薩瑛瑠本 業 経 ﹄ 巻 上 に ﹁ 過 外 一 切 凡 夫 行 十 信 者 ﹂ ︿ ﹃ 太 孟 ﹄ 二 四 ・ 一

O

一 二 上 ︶ 、 ﹁ 十 住 以 前 一 切 凡 夫 法 中 発 三 菩 提 心 。 ︵ 中 略 ﹀ 修 行 十 信 得 入 十 住 。 ﹂ ︵ 向 上 、 一

O

一 四 中 J 下﹀とあ り、十信を過外凡夫、凡夫とするから、外凡夫は恐らく 過外凡夫の略であると思われる点に基づく。望月信享氏 は﹃菩薩理瑠本業経﹄二巻が梁以前の偽経であると判じ て い る Q 仏教経典成立史論﹄四七一?四八四︶が、そ の存在は﹃出三蔵記集﹄巻第四の失訳雑録︵﹃大正﹄五 五・二一下﹀に記されている点よりして、恐らくは曇驚 当時に存在し、曇驚が﹁外凡夫﹂と記した影響を探る上 で唯一の現存経論であると云えよう。従って現時点では ﹁ 外 凡 夫 ﹂ を 十 信 と 考 え て よ い と 思 う 。 ⑬﹃浄信﹄一・二四五下 ⑬﹃浄全﹄一・二四五上 @﹃浄全﹄一・二四五下?二四六上 ⑫この観行体相の﹁下下品人﹂︵同⑬︶は﹃観経﹄の下 品下生を指す。八番問答所引の﹃観経﹄は現行同経の ﹁ 下 品 下 生 者 ﹂ ︵ ﹃ 浄 全 ﹄ 一 ・ 五

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﹀ を ﹁ 下 下 品 生 者 ﹂ ︵ 向 上、二三五上﹀とする点に基づく。 七 ②﹃浄全﹄一・二四五上 @﹃浄全﹄一・二五

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上 J 下 ⑫﹃浄全﹄一・二五一下 @﹃浄全﹄一・一九六 J 一 九 七 ⑫﹃浄全﹄一・二五一下 ②﹃浄全﹄一・二四

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上 ⑧﹃浄全﹄一・一九六 J 一 九 七 ⑫ 同 右 @﹃浄全﹄一・二四六上 @﹃浄全﹄一・一一五一下 ト 、 、 ノ 下 ノ ヲ 下 − − @ 仏 本 所 = 一 以 起 ニ 此 荘 厳 清 浄 功 徳 一 者 、 見 ; 三 界 ︵ 是 虚 偽 相 、 是 輪 転 相 、 是 無 窮 相 、 ︵ 下 略 ︶ 。 ︵ 巻 上 、 清 浄 功 徳 ﹁ 浄 全 ﹄ 一 ・ 二 二 二 下 ﹀ 比 三 国 外 、 益 危 生 死 凡 丸 流 転 之 閣 も 。 ︵ 中 略 ︶ 払 而 札 口 乙 、 英 v 川 一 一 寸 有 総 ↓ ︵ 下 略 ︶ 。 ︿ 同 右 ﹃ 浄 全 ﹄ 一 、 二 二 三 上 ﹀ 従 ニ 有 漏 心 一 生 、 不 v順ニ法性︵所謂凡夫人天諸善、人天果 報。若因、若果、皆是顛倒。皆是虚偽。︵巻上、造論意 趣﹃浄全﹄一・二二二上﹀ @﹃浄全﹄一・二五

O

下 @﹃浄全﹄一・二四七上 @﹃浄全﹄一・二五二下 @﹃浄全﹄一・二三九下 J 二 四

O

上 ⑨﹃浄全﹄一・二三四下

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@﹃浄全﹄一・一九三 ⑨﹃浄全﹄一・二五二上 @﹁曇驚の五念門釈

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世親の五念門説との対比

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﹂ 色井秀譲著︵﹃高田短期大学紀要﹄一・一

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下 ﹀ 参 照 。 @﹃浄全﹄一・二五二上 ⑫本節は⑩の色井氏の論文に教えれらる所が多かった。 ⑬﹃浄全﹄一・二五二上 ⑬﹃浄全﹄一・一九八 ⑮﹃老子﹄上篇、第七章に﹁天長地久。天地所以能長且 久者。以其不自生。故能長生。是以聖人。後其身而先。 外其身而身存。非以其無私耶。故能成其私。﹂︵傍点著 者︶と同様の表現がある。﹃大乗大義章﹄巻上、﹁次問真 法身寿量井答﹂︵﹃大正﹄四五・二一七上﹀には、菩薩に つ い て 、 不 ニ 得 不 三 成 正 覚 一 菩 薩 有 ニ 二 種 ↓ 一 者 功 徳 具 足 自 然 成 仏 。 如二切菩薩↓初発心時皆立ニ過度一言。我当 v 二 切 衆 生 ↓ 而 後 漸 漸 心 智 転 明 。 思 一 一 惟 寿 量 ↓ 無 v 一 二 仏 能 度二切衆生↓以 v是故諸仏得二切智↓度 v v度己而 取 ニ 滅 度 ↓ 我 亦 如 v 。 二 者 或 有 ニ 菩 薩 ↓ 猶 在 ニ 肉 身 ↓ 思 惟分別。理実如 v此。必不 v 己 。 我 当 日 一 別 自 立 v願。久 住 ニ 世 間 ↓ 広 与 ニ 衆 生 一 為 v縁。不 v 一 一 成 仏 ↓ 誓 一 如 田 有 人 。 知 下 一 切 世 間 皆 帰 二 無 常 ↓ 不 v 申 常 住 ム 。 而 有 乙 修 ニ 習 寿 業行↓住ニ非有相非無相処↓乃至八万劫者甲。又阿弥陀 ﹃往生論註﹄の菩提心について 等 。 清 浄 仏 国 。 寿 命 無 量 。 とあり、衆生の救い得るもののみを救って滅度に入ろう とするものと、久しく世間に住して衆生を救おうとする ものがあることを明かしている。羅什は後者において浄 土 の 菩 薩 を 捕 え て い る よ う で あ る が 、 曇 驚 は ﹁ 今 言 一 回 一 速 紘 一 一 阿 蒋 多 羅 三 窺 三 菩 提 一 是 得 ニ 早 作 仏 一 也 。 ﹂ ︵ ﹃ 浄 全 ﹄ 一 ・二五五上﹀と述べるごとく、衆生に先立って成仏する と浄土の菩薩を考えているようである。 @﹃浄全﹄一・二五四下 @﹃浄全﹄一・二五四下 J 二 五 五 上 ⑬﹃浄全﹄一・一九八 ⑬﹃浄全﹄一・二五五上 J 下 @第十八願を引き﹁偽一

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願ル一品、十乱念 μ モ テ 便 得 ニ 往 生 ↓ ︵ 下 略 ﹀ 。 ﹂ ︵ ﹃ 浄 全 ﹄ 一 ・ 二 五 五 下 ︶ @第十一願を引き﹁札一

ι

願 力 一 札 、 色 ニ 正 定 E K ↓住サ正定 昭 氏 一 品 、 必 丞 ニ 滅 良 一 保 二 試 廻 仇 之 難 ↓ ︵ 下 略 ﹀ 。 ﹂ ︵ ﹃ 浄 全 ﹄ 一 ・ 二 五 五 下 ︶ @第二十二願を引き﹁品一

ι

願 払 一 品 、 超 一 一 山 中 常 倫 諸 札 之 私 一 一 塊 乱 修 一 一 匹 普 賢 之 札 ↓ ︵ 下 略 ﹀ 。 ﹂ ︵ ﹃ 浄 全 ﹄ 一 ・ 二 五 五 下 ﹀ @この点に関して幡谷明民は﹁如来の本願力廻向と菩薩 の本願力廻向の即一性﹂︵﹃浄土論註﹄昭和五十五年度安 居次講一四九﹀と述べている。かかる問題の詳細な考 七

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傍教大事大事院研究紀要第十三競 は 稿 を 改 め て 別 の 機 会 と し た い 。 @﹃浄全﹄一・二五一下 @﹃無量寿経論註の研究﹄藤堂恭俊著二九 J 一 二

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参 照。同氏の指摘の他に﹁如 v斯浄土、非ニ三界所摂↓︵中 略﹀蓋菩薩別業所 v 耳 。 ﹂ ︵ 巻 上 、 妙 芦 功 徳 ﹃ 浄 全 ﹄ 一 ・二二七上︶、﹁安楽是菩薩慈悲正観之由生。如来神力 本願之所 v 。 ﹂ ︿ 巻 上 、 清 浄 功 徳 ﹃ 浄 全 ﹄ 一 ・ 二 二 三 上 ﹀ 、 ﹁安楽浄土、是無生忍菩薩浄業所起。阿弥陀如来法王所 領。﹂︵巻上、妙色功徳﹃浄全﹄一・二二五上︶が指摘さ れ よ う 。 @﹃浄全﹄一・二五一下 J 二 五 二 上 @﹃浄全﹄一・二四二上 @﹃浄全﹄一・二二九上?下 @﹃論註﹄、観行体相に﹃論﹄の﹁如二彼摩尼如意宝性一相 ノ ナ ル カ 似相対法故。﹂︵﹃浄全﹄一・一九一二﹀を注釈して﹁彼 宝但能

ι

ニ 衆 色 衣 食 等 間 町 一 不 v 能 v 与 U 衆

ι

無上道願ご ︿ ﹃ 浄 全 ﹄ 一 ・ 二 四

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下﹀と述べ、摩尼宝性が無上道の願 を衆生に与えないと述べているが、これは浄土が無上道 の願を与えることを示唆するものである。徒ってこの無 上道の願を菩提心と考えるならば、浄土で菩提心が生ぜ ら れ る 一 の 証 と な ろ う 。 @﹃浄全﹄一・二四八上 J 下 @﹃浄全﹄一・二四三下 J 二 四 四 上 七 四 一 ・ 二 三 八 下 @﹃浄全﹄ @ 同 右 @﹃無量寿経論註の研究﹄藤堂恭俊著二ハ J 一 八 参 照 。 @浄土が受楽無闇であることは善巧摂化以外に、﹃論註﹄ 巻上、無諸難功徳に﹁依ハ私 v身私 v 、 ︸ 恥 丸 一 本 加 熱 v 問 仙 o ﹂ ︵ ﹃ 浄 全 ﹄ 一 ・ 二 四 四 上 ﹀ と あ る 。 し か し 浄 土 の 楽 と は 、 名義摂対に妙楽勝真心の﹁楽﹂の字を注釈して﹁三者法 楽 阻 角 楽 間 各 。 乱 智 慧 所 色 糸 。 比 ハ 智 慧 所 色 本 氏 v 体 v 活 均 一

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功 徳 一 起 。 ︵ 中 略 ﹀ 妙 言 其 好 。 以 ニ 此 楽 縁 v仏生一故。勝言 勝 ニ 出 三 界 中 楽 ︵ ︵ 後 略 ﹀ 。 ﹂ ︵ ﹃ 浄 全 ﹄ 一 ・ 二 五 三 下 ︶ と 述 ベ、智慧所生であり、仏を縁として生じた三界の楽に勝 出した楽と説かれているものと同一のものであると考え られる。従って貧欲所求の楽と浄土の楽とは質的に相違 す る と 云 え よ う 。 ※拙稿﹁﹃論註﹄における菩提心について﹂︵﹃仏教論叢﹄ 第二八号﹀において、﹁願 v ニ 彼 安 楽 浄 土 一 者 、 要 発 ニ 無 上 菩 提 心 一 也 。 ﹂ ︵ ﹃ 浄 全 ﹄ 一 ・ 二 五 一 下 J 二五二上﹀なる 文を﹁無三宝処の衆生に対して巧方便廻向の菩薩が示す も の で は な か ろ う か 。 ﹂ ︵ 三 九 下 ﹀ と 述 べ た が 、 ﹃ 論 註 ﹄ でこれを積極的手証することはできないので、本稿の結 論をもって訂正しておきたい。先学諸氏の御指導、御批 判 を い た だ け れ ば 幸 い で あ る 。 ︵ 文 学 部 研 究 科 博 士 後 期 課 程 ・ 仏 教 学 専 攻 ﹀

参照

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