近世村絵図にみる空間表現の歴史的変化
││播磨国﹁真広村絵図﹂
の 通 時 的 分 析
│
│
五
嵐
勉 十 は じ め に
近世村絵図にみる空間表現の歴史的変化
近世の村落空間は︑どのように形成され︑いかなる構造を有し︑いかにして組織されていったのであろうか︒かか
る点を考察することは︑過去の村落空聞を再構成し︑その歴史的変化を解明する歴史地理学にとって︑極めて重要な
課題といえよう︒
近世村落に関する﹁空間論﹂をみると︑今までのところ︑空間の主体たるイエやムラの社会集団を支柱にして︑そ
の広がりを空間的に画定し︑その変化を明らかにする方向で進められてきたように思われる(ーなまた︑村落空間の
分胞や統合の問題をダイナミックに把握する試みも行なわれているす
vo
かかる研究においては︑歴史地理学のみな
らず︑村落地理学や社会地理学の分野からのアプローチによっても︑多くの知見が得られたす)︒
これらの研究においては︑村落空間を構成するいわばノラ・ムラ・ヤマの空間のうちハる︑主にムラの空聞を中心
85
として考察が進められてきた︒本稿では︑村の領域や︑基本的かつ日常的な行動の展開された場である耕地空聞を支
86
柱にして︑村落の空間構造を再構成し︑その歴史的な形成過程を明らかにしたい︒
ノラないし耕地空間の復原に際しては︑検地帳の土地分類が有効な証拠であったし
(5 Y
今後もかかる方法を深化
させる必要があろう︒しかしながら︑本稿では︑検地帳には表現されない︑あるいは︑それとはニュアンスを具にす
ない︒ここでは村絵図を再検討することによって︑ る村の領域に耕地︑ないしは土地を復原することを試みたいす)︒この作業にとって︑有効な史料は必ずしも多くは
かかる問題にアプローチしようとするものである︒
近世の村絵図には︑単に景観要素の空間的配列すなわち空間形態のみならず︑種々の情報が込められている︒それ
A.明和2年 (1765)
B.明和9年(1772)
近世村絵図にみる空間表現の歴史的変化
F.文化10年 (1813)
(一部)
〔真広村区有文書〕
H.明治初期 写真 1r真広村絵図」
は︑絵図すなわち古地図が︑当時の人々の生活世界︑あるいはそれについての地理的知識の空間表現とみなされるか
らである︒人聞の自分をとりまく世界についての知覚は︑それを表現するために用いる言語的範醇によって︑大きく
表現された空間構造を再構成する試みでもある︒ 影響されるがハ7﹀︑広くコミュニケーション・システムの中で︑古地図を解読することは︑かかる知賞世界を解読し︑
ところで︑村絵図の基本的性格のひとつとして︑作成目的がかなりの程度︑明示されていることがあげられるす)︒
すなわち︑中世の荘園絵図等に比べると︑近世の絵図には﹁凡例﹂が明示されているものが多い︒これは︑いわばな
87
くてはならないものであって︑村絵図の様式化のひとつである︒発信者によってコード化され︑受信者によってコl
88
ド解読されるメッセージが存在するけれどもハ
9v
︑様式として明示された﹁凡例﹂を解読するだけであれば︑作成目
的は解読し得ても︑表現された情報の豊富な意味内容を解読することはできないであろう︒
本稿では︑作成目的つまり史料批判にかかわる凡例には︑十分な検討を加えるけれども︑それを含めた記号体系を
解読することに努めた白﹀︒さらに︑一葉の絵図︑それはかなりの程度︑時間的・空間的連続として表現されている
とはいえ︑ある特定の時の断面における﹁空間のスナップ・ショットコ己であるから︑その時点までの空間表現にと
どまるものである︒空間構造の歴史的変化︑すなわち構造的連続は︑歴史的史料の動態的な研究によって明らかにさ
れる(担︒したがって︑同一地域において作成時期の異なる複数の絵図が得られれば︑それらを時系列上・に配列し︑
通時的♀広島
B E n )
な分析を行うことが可能である
( 8 0
本稿は︑近世村落の空間構造︑とくに村の領域や耕地空間を再構成し︑その歴史的変化を︑主に村絵図史料を検討
することで明らかにしようとするものである︒これによって︑かかる考察にとっての村絵図利用の有効性
と限界a u
に関する一つのモノグラフを提供したい︒
﹁真広村絵図﹂の構成と分類
考察の素材として選ばれた村絵図は︑播磨国赤穂郡の真広村におけるものである
a z
当村には︑近世中期から明
治初期にかけての大小二ハ葉の村絵図が残されている︒もっとも︑これらは採色絵図に限った場合であって︑単色の
絵図や川普請絵図等を加えるとかなりの数になる︒
本稿では︑紙数の制限上︑採色絵図一六葉のうち八葉を中心にして考察したが︑写真ーにはそのうちから四葉を例
近世村絵図にみる空間表現の歴史的変化 89
真広村周辺の地形図
〔明治28年測図,同39年修正,
図 1
示した︒この選択に際しては︑作成年代︑
作成
目的
︑
および表現内容を十分に考慮し
1 : 2万地形図「那波」を縮小〕
て行なったものである︒
←)
地域の概観
真広村は︑現在の相生市矢野地区の一部
を占める︒当村は︑千種川の一支流をなす
矢野川が北から南へ構造谷を貫流し︑その
中流域に位置している︒集落は︑自然堤防
上の徴高地に疎塊村の形態をなして展開し
ている︒村域は︑南北方向の狭長な構造谷
と︑東西方向のそれとの交界点にあるた
め︑矢野地区の中にあっては︑比較的広い
平地が発達している(図1Y
また︑この
東西方向の構造谷には︑竜野街道が通じ︑
これは古代の山陽道に比定される道路であ
ること︑矢野川をはさんで両岸には︑現氾
濫原と‑J一・五メートルの比高をもっ沖
90
積段丘が発達し︑この段丘面には︑条里型の土地割が一部確認される詰﹀こと(図
2)
︑
かなり古くまで遡ることができる︒ および中世には東寺領の矢野
庄が展開していたこと(ざなどを考えると︑当地域の開発は︑
近世においては赤穂藩領に属していたけれども︑幕府預所としての支配を幕末まで受けた︒慶長一四年三六
O
九)の古検では︑村高四六七石七斗七升九合の村であった︒戸口をみると︑近世を通じて六O戸内外で︑多少の変動
がみられるものの比較的安定していた
83
先進的地域にみなされるが︑史料でみる限り商品農業はあまり発達して
山地 開折谷 理積谷
沖積段丘
後背湿地 自然堤防
旧河道 溜i也
図圃図口図圏図面白
o 500m
Lーーー一一ーーー』
正修部
を
翻凶も古い時期の作成になるのは︑川判明和二年(一七七五)のものである 分α
腕 学 ( 写 真 1lA
﹀O
まず︑この絵図の分析を通して︑本稿における絵図分 の橋析の具体的手法を提示したい︒
村 高 広
︹
真
条里型 土地割
いなかったようである︒村高は︑近世後期には四八O石余まで増加する
が︑かかる僅かな増加分は︑後述するように︑荒蕪地の切添的な新聞に
よるもので︑耕境の外延的拡大はほとんどみとめられない︒
。
﹁明和二年村絵図﹂の構成と分類
真広村の村絵図は︑領域図と耕地仕訳絵図に大別されるが︑これら
は︑村の明細図的な性格も兼ね備えている︒一六葉の村絵図の中で︑最
この絵図に表現したもの︑すなわち作成目的を考察するために︑
凡 図2
例﹂も含めた記号体系を表1に分類して示した︒図3にみるように一O
の﹁凡例﹂のうち︑道・川および山などのパスとリッジはハ思︑本絵図の
9 1
近世村絵図にみる空間表現の歴史的変化
表 1真広村絵図分類表
分類番号 11 ~ 1 ~ 1 4 1 ~ 1 6 I~-I-n 91 リ|ヤ 1141~1~
明
主つ和九S明F 天
明 寛政 寛政 化文 文化
主 i政文 政文 器刻明
和 左同 左同 同
作成年代 墓三年 三三年
2fu 年合@、語J 年フE
こご年フロ三七年 左
三
実三昆年 完 j三C己L コ年 ノ九 ノ、、.
) ) ノ、、.:;; d
原(c寸m) 562× × 0 回X I │岨!X I 日│田X I X 56 × XIX 32 × X I X 554× × × × 450 28
4 1
47 92 I 42 I 91 I 41 3 399 I 46 46 48 I 9 559 59 55 39 .
文字注記 0¥010¥010101010101 1010101010
屋敷 O O 010 O O O
点 高札 010 O
的 郷蔵 O O
記 荒神 O O 01 10 O
号 神宮 O O 01 10 [0
井堰 O O O I 10
道 O O O O O O O O O O O O O O O O
線 JII O O O O O O O O O O O O O O O
的 溝 O O O O O O O O O
記 村境 O O O O O O
号 字境 O O O O
堤防 O O O O O
池山
O 8 8 O O 8 O O 810 O
i i i
面
取新覧轄 畑 同
下
所閲
O O O 的
記 O
O O
号 O O
O 01010 01
「凡例」数 Wl7 17 14 1 5 1 5 1514 1 5151418181819 I 6
題主 領 領 領 基
地争
論
図 議
領 領 取下
場絵
図 領 蛾 図
領
域 i 事頁
作片
地L
「域 岡
荒「域
図
域 域 域
藍
そ 図 図 筒図
の
他 所
L‑ 略 略 図
注)分類番号中のアルブ7ベットは,本文で考察した8棄の絵図を示す。
絵図の寸法は, cmの概数
92
ハ
7 7
﹀基本的構図を決定している︒また︑凡例の最初にあげられた﹁片作ノ団地﹂と﹁五分通ノ団地﹂の面的記号に有徴性
が見出される︒片作の田地とは﹃地方凡例録﹄にみる﹁片毛作﹂の困地を指し︑裏作としての麦の作付ができない深
(マ マ﹀
田に分布するのが一般的である
a v
また︑﹁五分通ノ団地﹂とは︑﹁五分取﹂の田地を意味するものと考えられる宕﹀O
G F E D C B A 真 真 二 上 西 字 池 庚 庚 木 村 池 峠 ノ 村 村 村 御 、 溜 谷
、 御 田 真 j也 溜 字 字 国 地 廃 、 池 こ な 地 村 真 、
丁 か 小 庚 三
回 す 河 村 木
か 村 二 村
立 木 真
K J H会 村 庚
、 、 、 立 村
字 字 御 二 御 真 会 立 新 前 回 木 田 虞 会 田 田 地 村 地 村
明和2年 (1765)村絵図の構成(写真 1‑A参照)
え
1.片作/田地 2.五分通の田地 3.田地
4.井七キ 5.池 6.山 7川 8.草 9.i毒 10.家
この耕地の土地条件については不明で
あるが︑片作地に近接していることか
ら︑同様な地形環境にみられるものと
判断される︒すなわち︑それは平地と
山地の交界部付近の山裾や︑矢野川の
ハ ッ ク
・ マ
lシュに分布が限定されて
いる
ところで︑この絵図に表現したも ︒
の︑すなわち主題は︑関連文書が残さ
れていないので速断はできないが︑
お
そらく︑この二つの耕地を明示するこ
とにあったのであろう︒しかしなが 図3
ら︑表現された情報の意味内容は多様
である︒それは︑諸記号が隣接する
木村と上村にまで配置されていることに代表される︒すなわち︑これは真広村の領域を明示するためのものにほかな
らないことに気づくのである︒
まず︑真広村の団地を濯概する用水の井堰の分布をみると︑図4
にみるように︑河川濯翫と溜池濯淑に大別され
る︒このうち︑上田が最も卓越する安定耕地は︑沖積段丘上の字﹁二町田﹂に展開しているが︑ここは矢野川と一l
一・五メートルの比高があるため︑真広村地内で直接取水することができない︒そのため︑矢野川上流の上村地内︑
字﹁鍋子﹂に設けられた井堰から取水している︒この鍋子井(現﹁上井﹂)は︑①上村字鍋子︑②二木村字京明︑③真広
近世村絵図にみる空間表現の歴史的変化
村字二町田を濯概するが︑これは寛政四年(一七九二)以降︑現代
まで続いてきた慣行である詰)︒しかしながら︑寛政四年までは①
の真広村字二町田に︑まず最初に濯概されており︑刻割(時間)番
水にもと守ついて強固な水利秩序が形成されていた
a u o
この水利慣
行は
︑
かなり以前にまで遡及できるものと考えられるが︑下流の真
広村に最も優先的な水利権が与えられていたことは︑当村の開発を
考える上で興味深い︒かかる水利権が上村地内にある鍋子井堰と密
接に関連するために︑村の領域の一部として︑この場所が絵図に表
現されたものと考えられる︒
また︑二木村の﹁池の谷﹂の記載も︑この谷が真広村の字﹁前
93
図 4
田﹂の段丘上を潤す用水源であることから︑二木村の家敷や田地を
94
示したものと思われる︒この池は二木村の領域内にあるが︑真広村
明和2年 (1765)村絵図の視点
との立会池であり︑真広村の領域表現にとって重要な場所である︒
同様に︑東端の﹁峠池﹂は︑本紙への継ぎ足し部分であるが(図
3)
︑ここにおける文字注記︑﹁字峠︑真広村二木村溜池立会﹂の筆
致と
向き
︑
および採色の色調が︑本紙と相違していることからし
て︑後に継ぎ足されたものと思われる︒それは︑この場所がもとも
と真広村に帰属する土地であったけれども︑溜池の水利権を共有す
る二木村との聞で︑独占的水利権を主張する争論が起り︑溜池を含
図5
めた字峠の土地争論にまで展開したためであろう︒絵図作成の二年
のと考えられる︒ 権は両村の立会として決着をみていることから︿号︑少なくとも︑明和二年以降︑同四年までの聞に継ぎ足されたも 後︑明和四年(一七六七)に字峠の領有権は真広村に︑峠池の水利
次に︑本絵図の視点︑すなわち諸事物の方向をみると︑図5のように︑①矢野川の谷筋に沿う北方への視点︑@そ
れと直交する谷筋に沿う東方へのもの︑@そこから北方へのもの(字池の谷)と南方へのもの(字峠﹀の三つに大別
される︒これらの視点から判断して︑本絵図は放射空間的に展開する表現形態をとっており︑領域図的性格を有して
関係
を含
めた
︑
いることが︑この点からも補強されるハ
80
この場合︑真広村自村の領域に限らず︑この時点における隣村との領域
かなり広域的な領域を表現したものとみなされる︒
以上のような考察を残る一五葉の絵図を対象にして行ない︑表ーにそれを分類して示した︒これをみると︑真広村
絵図の主題は︑領域図と耕地仕訳絵図に大別されるが︑それのみならず︑これらに高札場や郷蔵および宗教施設等の
ランドマlグが記入されると︑それらは村の明細図としての機能を備えることになる︒近世の村絵図は総じて細見図
的であり︑領主の交替時には明細帳とともに差出されたり︑あるいは控として村に長く保存される
a v
そして争論
が起った時には﹁村定﹂や﹁覚﹂などの証文と同じように︑後世まで証拠として重要な意味を担うようになる︒
空間構造の歴史的変化
95近世村絵図にみる空間表現の歴史的変化
ある特定の時期に作成された絵図は︑それ以後のものにさまざまな影響を与える︒すなわち︑村絵図作成の時点で
作成目的にかかわらず︑過去に描かれた絵図が表現内容や方法に︑意識的に︑あるいは無意識に規制を与えることが
少なくない︒とりわけ︑ある一定の文脈において意味の付与された場所を表現する場合に︑かかる点が影響するであ
ろう︒この史料それ自身が備えている自己規定の性格安﹀は︑記号や構図などの空間表現における連続と不連続にあ
らわ
れる
︒
付領域表現の歴史的変化
明和二年(一七六五)の村絵図にみる村の領域表現は︑まさに村の用水取水地としての矢野川上流に設けられた井
堰と︑支谷の溜池を明示するためのものであった︒すなわち︑水を得る場所は︑たとえそれが他村の領域内にあろう
とも︑白村の領域にとって極めて重要な構成部分をなす︒かかる領域認識を絵図上に表現し確認する手続きが重要な
のであり︑これによって共通の領域認識が形成されると︑後の絵図においては必ずしも表現される必要性は少なくな
96
る︒図6にみるように︑倒明和九年(一七七二﹀とO天明三年(一七八三)の村絵図が︑基本的に川判明和二年の村絵
かかる確認の手続きの連続とみなされよう︒さらに︑その表現は糾から︒図における領域表現を継承しているのは︑
に向うほど簡略化し︑︒寛政三年(一七九一)以降の絵図では︑池の谷すなわち二木村の領域は記載がみられなくな
っているのがわかる︒しかしながら︑この時期から現代に至るまで︑真広村における池の谷池の水利慣行は依然とし
て続いてきているハ
8 0
これに対して︑東端の字峠は全絵図を通して描かれた場所である︒ここは先述のように︑元来︑真広村に帰属する
主 一 明 和2年(A} 豆一一明和 9年 (B)
・3 天明3年(C) ー 一 寛 政 3年 (D) 文化10年(F)
s一文化6年(E) 弘化年間(G) 明治初期 (H)
L一銭図に共通する
額1ま
lkm
。
領域であるが︑矢野川谷とは離れた飛地的な周縁の場所であり︑二
村絵図にみる村落の領域表現の歴史的変化
木村にも峠池の水利権があること︑そのために︑明和年聞には争論
を起していることなどの点から︑常に描き続けねばならない場所で
点 目ヲ Q︒
しかしながら︑この場所についての表現内容をみると︑明和年間
の絵図と必ずしも同じ文脈で描かれてはいないことがわかる︒それ
は︑①矢野川谷と字峠との距離(実際は約一・六キロメートル)が
著しくせばめられて表現されているもの(図
6 ω
・的
)︑
@竜
野街
道と字峠とのそれが(実際は約一0メートル)著しく拡大されてい
るもの(図6制・例﹀の二点に認められる︒
図 B
かかる点は︑基本的には絵図のもつ主題表現にかかわる問題であ
る。
すなわち︑後述するように︑制寛政三年(一七九一)︑的文化六年(一八O九)および回文化一O
年(
一八
三一
一)
の各
絵図
は︑
それ
ぞれ
﹁林
成・
薮成
﹂・
﹁段
免﹂
(倒
﹀︑
﹁御
普請
所﹂
(例
)︑
および﹁起返取下場﹂(例)を表現したもの
であり︑基本的には矢野川とそれに合流する二木川の河川沿いに関しての地理的知識を表現したものである︒
したがって︑村絵図の諸記号や構図は︑ほとんどが河川を中心にして決定されている︒そのため︑字峠や河川流域
に種々の表現上の歪みが見出される︒しかしながら︑これはかかる作成目的のためだけによるものではない︒それは
この段階において︑すでに現実として村の領域が画定していたこと(号︑そのことが逆に︑先の作成目的に従って表現
近世村絵図にみる空間表現の歴史的変化
を査めた領域であっても支障はなく︑村の領域についてさほど注意を払う必要のない状況を示しているのである︒L
たがって︑これはスタティックな安定を有する領域認識を表現したものと考えてよかろう︒
そして︑弘化年間(一八四四│一八四七﹀と推定される村絵図
と︑冊明治初期のものは︑現実の領域と極めてa u
よく整合する︒これは地図的表現における進化論的な図式でとらえるよりも︑むしろ領域認識の歴史的な形成過程の
表現であるとみなされる
a y
口
土地および耕地分類の歴史的変化
ここでは﹁耕地仕訳絵図﹂を例に︑耕地(ノ一フ)空聞において耕地を仕訳ける︑つまり土地を分類して表現するこ
とについて考察を加えたい︒それは検地帳以後において︑検地帳の土地等級分類ではとらえられない︑あるいはそれ
とは意味あいを具にする耕地の分類を︑絵図に表現された限りで復原することによって︑より村人の意識に近い耕地
97
空間を明らかにすることである︒
98
o 100m 医翠荒所
日 林 成 ・ 薮 成 図 段 免 l2ill普請所
川W明和二年の絵図においては︑先述のように︑一般の団地と区別されていた分
類は︑この絵図に限られ︑後の絵図は︑全て河川流域における﹁荒所﹂と︑そ
れに対しての対応が記号化されている︒
まず︑耐判明和九年(一七八三)の絵図において︑最初に﹁荒所﹂が描かれてい
る(図7l①﹀︒史料で確認される限りにおいて︑矢野川は度々氾濫している︒か
かる氾濫によって︑安定耕地をなしていた沖積段丘上には︑ほとんど被害は認め
られないが︑現氾濫原は﹁押掘﹂や﹁砂入﹂の被害を受けることが多かった詰)︒
その場合に﹁普請目論見帳﹂や﹁普請出来形帳﹂が普請絵図とともに提出されて
村絵図にみる河川流域の土地表現
いる自﹀︒かかる状況は矢野川の荒れ川的な性格とともに︑川除普請が進展して
いないことを物語っている︒堤防が築かれて河道が固定されるのは︑弘化年聞に
なってからである︒
とこ
ろで
︑
かかる﹁荒所﹂は︑村落住民にとっていかなる意味をもつのであろ
うか︒いうまでもなく︑このような場所は︑荒所すなわち﹁川欠﹂の場所である
﹁高
の内
引﹂
から
︑
つまり減免の土地である︒年貢率が固定し︑耕境の外延的拡
大が終了した村落にあっては︑高の内引きに対する意識は極めて重要である︒こ
図7
の絵図以後のものにおいては︑かかる﹁荒所﹂の記号が微妙に表現と意味内容を
変えて推移してゆく︒
一般に︑高の内引きは﹁郷蔵敷引﹂︑﹁堤敷引﹂︑﹁溝代引﹂等の人工施設に対する﹁年々引﹂と︑
﹁荒
地引
﹂︑
JII
成
引﹂︑﹁池成引﹂︑﹁川欠引﹂︑﹁砂入引﹂等の災害地に対する﹁連々引﹂との二つに大別される岳﹀O寛延年間以降に一
般化した﹁有毛検見法﹂の下では︑検見役人にかかる内引きの土地を明示することが必要であった︒この情報は︑村
から検克役人に﹁検見内見帳﹂と村絵図を一組として提出されるのが一般的であった︒
寛 政 二 年 三 七
O﹀の﹁御検地之改書上帳﹂には︑この年﹁前々川欠石砂入山崩等之荒地之分︑取下ケ起返井林九
薮成被仰付候之分﹂として︑二八石四斗三升九合(二町三反三畝)が連々引となっている(哲︒かかる荒所は︑検見
成に際して安定耕地(﹁御団地﹂)と区別されて詳細に表現される︒これが耕地仕訳図であるが︑その作成方法はかな
近世村絵図にみる空間表現の歴史的変化 99
り様式化されておりハ号︑その内容は村の明細図と極めて
川普請絵図の一例(安永7年:1778)
ω 寛 政 年
七 九
類似する︒したがって︑耕地を仕訳るという主題にもとず
いていても︑必ずしもそれのみに限定されず︑耕地空間に
視点の中心を据えながら︑耕地を分節化し︑村落空聞を表
現している︒耕地空間の中でも︑とりわけ最も仔細に表現
されねばならないのは︑前述の高引きの土地である︒
図7にみるように︑倒明和九年の絵図における荒所は︑
の絵図では
﹁林
成・
薮成
﹂
の場
所
写真 2
となっている(図
71
②)︒それは先の﹁荒地之分取下ケ
起返井林成薮成・被仰付候之分﹂とあるように︑
﹁起
返
100
し﹂すなわち荒地の再開発を意味している︒したがって︑荒所
は災害地であって高引きの土地であると同時に︑再開発の土地
として評価されていることがわかる︒もちろん︑かかる評価は
検見役人のみならず︑村人にも想定されよう︒
ところで︑この荒所の起返しは︑川除と堤防を築くための普
請という手続を必要とするから︑耕地仕訳絵図とは別途に︑普
請目録と普請絵図を普請役人方に提出せねばならない︒この絵
図は
︑
まさに川を治めるために描かれるから︑耕地仕訳絵図と
は全く異なった文脈で描かれた︒写真2にみるように︑この絵
図には︑荒所は記載されずに︑矢野川の極端なメアンダーと︑
河道に沿う屋敷群および背後の﹁御田地﹂が描かれている︒こ
こか
ら︑
イエとムラにとっての矢野川に対する脅威にも似た意
識を続みとることも可能であろう︒
矢野川に対するイメージハ哲には︑普請絵図にみるように︑
災害を及ぼす川という意識と︑堤防を築いて川を治め荒所を再
開発するという行動をとることで︑潜在的耕地とみなすような
評価のパlセlプション(哲の二面性がみられるように思われ
近世村絵図にみる空間表現の歴史的変化 101
河lIf. i也
河原 ヤプ
図 園 田 耳 目 囚 口 巴 醐 己
防 回 敷 地 堤 道 溝 水 畑 屋
・ 暮
る︒いずれにせよ︑安永年間以降の
断続的な川普請(ムラ仕事で行なわ
れたであろうが)によって︑制仰の村
絵図以降にみられた混沌としたムラ
とノラの空聞は︑しだいに組織化さ
れてゆく︒図8にみるように︑弘化
年間の絵図では︑矢野川のゆるやか
な曲流と︑それを可能にした堤防の
明治28年の地籍図にみる土地利用
線的記号によって︑整然とした土地
利用空間に分節化されているのがわ
かる︒すなわち河道を中心として︑
両岸における堤防︑起返取下地︑本
畑および本田のシンメトリックな空
聞がそれにあたる︒かかる村落空間
は︑図9に示した地籍図とほぼ整合
図 g
するが︑起返取下の土地は﹁ヤブ﹂
として表現されている
a z
102
tヨ
点的記号と象徴表現の歴史的変化
最後に︑絵図上の点的記号および象徴の表現から︑村落の空間構造について可能な限り考察を加えよう︒
まず︑屋敷の表現をみると︑弘化年間の耕地仕訳絵図における﹁居村﹂という文字注記による表現(図
8) 以外
は︑すべての絵図に形としての屋敷を記号化している︒これは︑糾明和二年の絵図における表現を基本的に踏襲し︑
自然堤防上に疎塊村の形態で描かれている︒しかしながら︑これはイエやムラの表現とはいい難い︒当村における小
地域集団は﹁所﹂と呼ばれ︑﹁五反田所﹂︑﹁西所﹂︑﹁東所﹂︑﹁河原所一の四つから構成される品﹀Oまた︑天明年間
きな
い︒
においては三二の五人組がみられるが(︒︑村絵図においては︑かかるイエやムラの空間的単位を読みとることがで
同様
のこ
とは
︑
﹁荒神﹂のシンボルからも述べることができる︒すなわち︑矢野川流域諸村においては︑
一般
に野
神としての荒神が各小地域集団単位に柁られることが多いが︑真広村絵図の場合︑荒神を統合する大荒神が︑︒天明
~屋敷
郷蔵 図10
ロ
二年︑伺文化六年︑文化一四年および同明治初期の各絵図
に一つづっ記されているのみである︒しかしながら︑図m
にみるように︑かかる荒神や神社が山裾に位置し︑
ノラ
と
ヤマを区切る境界に位置している
83
したがって︑この
シンボルは︑それ自身で一つの機能を有していたことに間
違いはなかろう︒いずれにせよ︑
ムラ空間の考察にとっ
て︑村絵図の利用には限界があるように思われる︒
次に︑上意下達のコミュニケーションの媒体として重要であった﹁御高札﹂は︑﹁藩政村﹂のランドマlクとして
位置づけられ︑村請制の村落体制を示す御蔵は︑年貢の搬出に容易な道路のノlドに配置されている︒これらのラン
ドマ
1クは︑従来の景観復原研究において等閑視されてきたものといえよう︒
また︑村落の景観要素として重要な送葬の墓地は︑全ての絵図に描れていない︒これはおそらく︑当村の墓地が矢
野川の河原近くにあったために(図9V一般の村境にある場合とは︑その性格を異にするためと考えられる︒しか
しながら︑不浄な場所を村はずれに置くということと︑河川沿いに置くことは︑同じ文脈で理解される︒すなわち︑
後者は不浄なものを河川によって流し去ることに通じるものであって︑遠ざけることには変りがないのである︒
近世村絵図にみる空間表現の歴史的変化
これらの記号や象徴の空間形態から︑空間構造を問うことも可能であろうが︑現段階では十分な考察に及んでいな
い(
必)
︒い
ずれ
にせ
よ︑
かかる空間形態が居住の連続性と相侠って︑極めて連続的に把握されねばならないものであ
ることは論をまたないであろう︒
四 おわりに
本稿では村絵図にみる空間表現の通時的な分析を通して︑村の領域や耕地空聞を支柱に︑村落の空間構造の歴史的
変化を考察した︒具体的には︑村の領域表現からそれが形成されてゆく過程と︑耕地と土地の分類表現から荒所の再
開発を経て︑耕地空聞が組織化されてゆく過程を論じた︒
真広村絵図は領域図と耕地絵図に大別されるが︑いずれも村の明細図としての意味が付与されており︑豊富な情報
103
が表現されている︒そのうち︑絵図にみられる村の領域表現の歴史的変化は︑検地以降における村の領域を絵図に描
104
いてゆくことで確認してゆく手続であったと見なされる︒
また︑検地以降の村人の耕地に対する関心は︑必ずしも検地によって等級づけられた耕地にのみ向けられたのでは なく︑村落の置かれた歴史的条件にもとづいて︑河川流域の減免地に細かな意味づけを行なっていたことが明らかに なった︒近世の村落空間には︑まさにこのような意味づけられた空聞がみられたのであり︑これは村絵図に表現され た限りで明らかにされた︒ここに村絵図利用の有効性が認められよう︒また︑制度としての近世村落にとって重要な
ランドマlクである御高札や御蔵は︑村絵図からはじめて明らかにされよう︒
しかしながら︑主体としてのイエやムラの空間的把握については︑必ずしも十分に論を尽してはいない︒実は︑
カ ミ
かる点が村絵図利用における一つの限界を示すものに他ならないであろう︒この点に関して︑さらに検討を加えるこ
とが残された課題である︒
いずれにせよ︑村絵図に表現された情報の意味内容を考察することは︑近世村落の空間構造を把握するための一つ
の素材となり得るであろう︒
︿付記V本稿は︑歴史地理学会第二七回大会において口頭発表を行なったものに加筆訂正したものである︒本稿の作成にあ
たり︑終始︑御指導を頂いている谷岡武雄先生︑日下雅義先生をはじめとします立命館大学地理学教室の先生方︑ならびに︑多
くの御批判を頂いた蔦川絵図研究会の会員諸氏︑そして史料に関して御尽力をして下さいました大阪商業大学の富岡儀八先生︑
相生市史編纂室の皆様にお礼申し上げます︒また︑本稿の素材は︑もともと矢野川流域の水利慣行に関する長期の共同調査にもとずいている︒ここにおいて︑徳島大学の平井松午氏︑立命館大学大学院の高橋学氏には水利慣行︑村落および地形に関して︑
多く御教示を頂いた︒誌上を借りて深甚の意を表します︒
注および参考文献 近世村絵図にみる空間表現の歴史的変化
(l
)
たとえば︑石原潤﹁集落形態と村落共同体│特に讃岐の事例を中心にl
﹂人文地理一七│一一九六回︑山澄元﹁毛
利藩政村の一考察│知行制と共同体l﹂人文地理一八
1 2
一︑一九六六︑野崎清孝﹁奈良盆地の村落構成﹂奈良大学紀要六︑
一九七七︑などがあげられる︒
(2
) 上原秀明﹁農村社会の空間構造とその変容に関する一考察i甲斐国を事例としてl﹂人文地理三四│六︑一九八二︑五十
嵐勉﹁近世山村における耕地開発と村溶構造│越後国頭城郡下平丸村│﹂人文地理三五│五︑一九八三︑
(3
)
橋本征治﹁散居村における社会構造の地理学的研究│嘱波における事例│﹂人文地理二一│六︑一九六九︑山野正彦﹁丹
波山地における村落の空間形態とその内部構造﹂人文研究二八1二︑一九七六︑浜谷正人﹁村落社会の地域史論1
ムラの 拡大・統合を中心にしてl﹂山形大学紀要(社会科学)八│二︑一九八O︑平井松午﹁丹波高地東部における宮口座と村落構
造上
白川
都府
京北
町矢
代地
区を
例と
して
│﹂
人文
地理
一一
一一
一│
五︑
一九
八O
︑な
どが
ある
︒
(4
)
かかる空間の構成論は︑近年︑民俗学者によって提示されたものである︒福田アジオ﹁村落領域論﹂武蔵大学人文学会雑
誌二一│二︑一九八O︑松崎憲三﹁村落の空間論把握に関する事例的研究│千葉県海上町倉橋を事例として!﹂国立歴史
民俗
博物
館研
究報
告第
二集
︑一
九八
一二
︑
(5
) 大脇保彦﹁土佐における近世初期の村落についてl長宗我部地検帳による若干の考察i﹂人文地理一七│一︑一九六回︑
(6
)
かかる土地分類は︑民俗分類にまで発展させるためのひとつの試みでもある︒
(7
)
エドマンド・リIチ(青木保・宮敬造訳)﹃文化とコミュニケーション﹄紀伊国屋書庖︑一九八て七一t
七八
頁︒
(8
)
木村東一郎﹃村図の歴史地理学﹄日本学術通信社︑一九七九︑
(9
)
出R
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‑ H h
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(印)絵図分析の基本的枠組は︑高川絵図研究会の手法に依拠している︒菖川絵図研究会﹁葛川絵図にみる空間認識とその表
現﹂日本史研究二四四︑一九八二︑同﹁絵図を読む﹂地理二九│一1
五・
七︑
一九
八四
︑ 105