九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
松浦黨の發展及び其の黨的生活 (上)
長沼, 賢海
https://doi.org/10.15017/2344411
出版情報:史淵. 10, pp.1-54, 1935-03-15. Faculty of Law and Letters of the Kyushu Imperial University
バージョン:
権利関係:
文島來
聿亘
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(満参頁二五獅本)書誹契煎illi松年八享永
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松油氏は我が凶の西北端に位する肥前松洲郡の豪族である︒而して松油郡は我が國土の西北端にあ
るといふよりは︑我が価海の西北端にある︑と云った力がょ・り溌際的である︒松浦氏はこの複雑︑か
つ愛化の等しい海岸地辮及び海上の鵬盈に刺擁してゐた︒而して其海上は朝鮮牛島及び支那大陸︑叉
は遥かに南洋方面との航迩の要術を占めてゐるばかりでない︑剛内的にも九州の最要航路ぞ擁してゐ
た︒之れ等の動かすことの州來ない大自然に制せられた松浦氏は︑或る年代の間︑他の豪族の間に
は︑見ることの出来ない特種の史的現象を通してゐる︒松浦氏の難的活動︑或は一撲蓮動が即ちそれ
である︒かょる史従は︑班に松浦氏の家史︑叉は松祁郡地方の郷土史として意義あるばかりでなく︑
或は日本民族の民族的結合史の参考とし︑或は日本民族の耽御的生活の特種性を老ふる一登料とし
て︑多くの興味を感ずるものである︒以下歎項に分って級老を述べよう︒
松浦轍の蛮展及び其の瀧的喉活
松浦薫の發展及び其の黛的生活︵上︶
」1
長沼賢海
一
−
I
右所恢の中︑恒吉名の田地の事は︑その光肌から勇に相傳せられるまでのことは︑文書に所見なく︑
其の由来を知り難い︒而して末弘名の田地といふのは︑正しくは恰土荘中村方末弘名といふのであっ
て︑中村氏の名字の所仙でもあるから︑相体の爽鋪が略ぽ知られる︒同准友永力光永分とあるのは︑ 言上状に︑
筑前怡土郡の中村氏の︑雛介畔代に於ける︑所仙の相仰は︑航ろ複雑なろものありしが如く︑典の
家系に於ても亦何様であった︒吉野時代の小村氏の家主中村彌五郎剪が︑貞和年中所領安辨を訴へた
松浦中村彌五郎勇譲言上
欲早旦依傍例︑賜安端柑知行地︑筑前閏怜土庄恒吉︑末弘︑恥名地頭職︑田畠︑屋敷︑峨野︑同庄
友︑水方光永分川地︑同剛志溌肺堂田︑堂町四段諦癖罐胆別國安常庄︑配分地田畠等事
︵下力︶︵挽力︶
右所黙考︑爲軍代和承之地︐群關來御口文︑御下知以下︑次第縦文等︑餅知行無和口者也︑然早被︵尽力︶經急速御沙汰︑賜安堵︑口致無威忠節︐恐さ言上︑如件
貞和六年十一月日
松浦髄の發腱及び其の職的生活第
一一
二 全
︵一︶中村氏
一早.諸氏の松浦薫化
jB9f11咽d■■
一 一
1
1
六郎丸名といふ名田の地である︒志叢耐堂田とあるのは同舵内の式内心古祗である志溌刺肺の川宮寺
の別営職についてゐる免川のことである︒二粁ともに叉その相傳が略ぽ判ってゐる︒最後の肺堂田に
就いては︑左の如き州仰系州が徳はってゐる︒中村氏の家系を老へるに最も適當の文献である︒
志登祁桝寺別術職川苑川榮永和仰系川
此の言上状の主榮永は︑同文書に擦れば︑﹁松汕一族中村孫四郎入道永榮﹂といひ︑建武の頃︑中村
q氏の家主として活動し︑正中︑元弘︑姓武と︑此の人に開する丈番が数通中村文沓の中に見えてゐ
る︒而して其の裕名を仰ふるものは一もない︒右志登枇堂川机傳を老ふるに︑蕃法から北6血族と思
はれる永維に︑永維からその子祁昔に︑御背からその子榮永と︲罐與州伸してゐるのである︒榮永は
押昔の子といふ注はないか︑其の名永經の一宇を体︐そして湛與されてゐる川によると︑恐らく父子
︒︒叉は他の血縁に依て篭り典へられたものであらう︒而して永維は伊勢二郎と稲し︑源氏ではないやう
である︒延慶川年五胤五日附け尼光阿なる希が︑同肺蛾川を永維に械伽されたといふことを訴ふる文
押には︑﹁三雲入迩法川祗候人︑伊勢二郎永經﹂とある︒三雲といふ地名今も糸砧郡怡土村の字名に
あり︑恐らく始土莊の代打として三雲に居り︑三雲氏を孵してゐた者であらうか︒永經はその道側の
松浦蕪の發展及び其の熊的喉活三 ﹄附寂談群蛎︶l︲香力女房寂催年鱗︶l嫁饗溌難鑿纏響恥鵜︵讃四溌型 ︲し溌真鋪綜垂11榮永︵側三謹選
価腫佛以前略之川けりMIIIIIIIIIII
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」
松浦無の發展及び其の漢的生活四
祗候人とあるから︑矢張b怡土砿の莊術の一人であったと想像される︒香力の地名も同郡缶山村の字
名にあるから︑脊力女房といふ考は︑恐らく此の地の土豪の女腸であったらう︒そして善法は之れを
芥力女房よ.け既得したのである︒さてこの孫四郎入逝榮永から測五郎必へは︑どうして相傳せられた
か︑微すべき文耕がない︒中村氏にして︑孫四郎についで活刺したものは男であって︑中村文蒋の中
に︑牌雌中此の人に開する文抑数通あり︑卿五郎男は孫川郎に次いで︑一家の棟梁となったことは︑
略ぽ川白であるから︐志度砒唯川も恐らく父子の川柄か︑或は之れに唯ずるやうな血縁關係があっ
て︑相燃せられたものであらう︒
川常寺別常を本筋とし︑堆川は從脇的のものであるから︑蕃法から榮永に至る相傳は︑法統相傳を
したとも老へられないとともない︒永經と智音とは先の系岡に親子の關係あることを注してゐるけれ
ども︑他はさうした關係を明かに認むくき祇極的の諦振はないのであるが︑前記の推定は︑甚だしく
蠅班があるやうにも恩はれない︒果して然らば榮永が中村氏を稲し︑松油蹴となったのは︑肌先以來
のことか︑それにしては永維が伊勢二郎と號し︑榮永は殊更松汕一族と孵してゐるあたり︑特に注意
すべき軸ではなからうか︒之れに閲して︑前掲彌五郎勇の言上状に︑妾端を請うた中村氏の他の所領
である六郎丸名︑及び末弘病の和傳を老へる必要がある︒中村文書の中で五郎丸名に開する最初の文
井は︑价亜榮の延慶二年六月十八日附け︑怡土友莊永方六郎丸外一所の避状である︒而して此の避状
の宛名がないから︑誰に護ったかわからない︒次が嘉暦二年八月十八日附け兵庫允の下知状であつ
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て︑筑前國怜土樅友永方六郎丸名主職に對する藤原氏女の川領を逹飢することを禁じたものである︒
藤卯氏は併亜柴から仰へたものであらう︒次は建武四年十一川十八日附け僻取錐なる者か︑六郎丸名
の地について︑尼明信と今津人住人彦三郎邨綱との争論に對し︑尼明信の勝訴を裁断した文書であ
る︒僻取堂は船土莊の価家の莊官であらう︒此の文書に擁て明信は性阿から買得してゐることがわか
る︒然らば性阿は之れを藤腺氏女より仰へられたものか︑どうか醇不明である︒或は膝腺氏女が川家
して性阿と孵したものかとも恩はれる︒妓後に尼明信から巾村棚五郎男に仰はったのは︑いかなる關
係に依てゐるか︑誇文がない︒以上六郎丸名相傳については中村氏の家系又は本姓の如何なるもので
あったかの問題を解決する史料とはならないやうである︒簸後に末弘名の相傳が問題を解決するもの
であらうか︑如何︒
未弘稿の田地相仰に開する妓側の文普は︑文永九年十月三日附け︑恰土砿の公文所の下欣である︒
宗像家忠を怡土莊末弘名の名主職に杣任してゐるものである︒次ぎが弘安元年七月三日附け︑家忠の
名主職を安堵した四方院の御教諜である︒次ぎが弘安元年十一月二十二日附け莊宵の施行状とでもい
ふべきものであって︑同じく家忠の知行を安堵したものである︒
小村文番に弘安九年九月十日附け︑沙彌正妙の土地分配溌狄かある︒併しいかな︑文諜の初めが散
供してゐる︒二兇胱一丸︑女子千與益に分誰した土地のⅡ錐の部分はあるが︑長子某の分と恩はるL
土地目録の記事の部が緋けてゐる︒自然共の分配地の打場もわからないが︑恐らく末弘名は姉子に談
松浦熱の透展及び其の戦的娠活五
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今志登祗堂川の相傳と︑未弘名の相体とを比較するに︑榮永は中村孫四郎入道榮永と糯したるが如
く︑永經は揃二郎入道永維と孵したのではあるまいか︒永經は伊勢二郎と稲したが︑正妙から中村の
松浦職の發展及び典の蹴岬能活六
られた土地の中に泣入ってゐたのであらう︒此の漉欣は正妙の涯子蝿前又五郎不幸を致し︑義絶して
あるから︐縦に對し迷飢をなすぺから歩とある︒紬は正妙の疵子か︑親知か不明である︒とにかく縦
は正妙から末弘名を誰られたやうである︒即ち乾沁二年後川川十七日附け學悪の施行状には一︐末弘名
中村伽二郎﹂と宛て上ある︒又水仁五年十川二十八H附け︑朧維︵前記學悪の花押と同じ花押である
から︑鯉忠︑朧純は同人であらう︶抑教書に中村加二郎縦と︲伊川脈二郎川と︐末弘調の那に就い
て︑争論したが︐馴がその希紫を停止したので︑馴は作毛を練に渡すべしと命ぜられたのであるo既
にして︑正安川年川月一商附け︑源練の護壯あり︑それは﹁筑前國慌土御庄怡土方中村所伽﹂を陥子
︵尼妙恵力︶熊鬼丸に誰つたものである︒其の後雁唯四年四月二十日附け讓欣を以て﹁あまうめうい﹂は末弘名だ
けを﹁まご︵孫︶いや五郎﹂に讓與してゐる︒と上で尼めういは之れを練から受けたと老へなければ
ならぬ︒今三仙地の杣仰系州を左に列堪すれば︵癖和稚關︶
電恥﹄脈#箭溌燕l#I兼l勇 二三四六︵中村矧円肌七︵中村弼五叩︶
秘郷腱l妥誰勝氏女儲尼妙信勇 二三四五六︵中村刑五郎︶
二三へ中村彌二岬︶円五六︵中村彌五師︶
末弘鳶篭碓絨l熊舟尼めうい︲勇 名
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本名を誰られてからは︑中村姓︑即ち︑源氏を孵し蠅二郎と孵したのではあるまいか︒前に述べた通
もり︑文永︑弘安の頃家主として働いた者は︑彌二郎練であった︒建治異國征伐の用意の兵杖︑弓箭︐
人馬の注進状と忠はれる丈普にも︑繩二郎源綾とある︒鎌介の末から建武前後が孫四郎入道樂永︑其
の次ぎが猟五郎男である︒中村氏が源姓であるかどうかを姑く措き︑紬以後の中村氏は︑志叢艸宮寺
の別常伊勢二郎から起って︑中村の本名を談り受け︑後に五郎丸名其の他の仙地を和傅し︑経に胎土
郡の豪放となり︑殊に海上に勢力を振ふやうになったものであらう︒
中村氏の本姓は松浦源氏でありや否や︑今微すべき史料はない︒前に述べた通り︑永仁五年綾と末
弘調の地を争った伊川腺二郎馴は︑馴といふ一宇名から察しても︑松浦源氏を穂する群であったら
ち︒斑烏文書の中に左の如き下知状あり︑
今川丁︽裟加鞭︶松汕有湘女地頭代牛︑筑前剛井川服事︑任以前妾辨之時︑沙汰付下地於女地頭代︑可被執逃読取之
壯︑依仰執達︐如件
至徳四年十川十日沙蠅︵花押︶
太宰少式殴
之れに擁て井川脈は佐志有汕氏の川価となすべく︑仙川順馴は︑有浦氏の分派であって︑早く井川原
に居住して松油源氏を孵してゐたものであらう︒而して今も糸鵬郡可也村の字名に井田脈あり︑恐ら
くと上にゐた群であらう︒又十一月二十一日附け︵年號なし︶六郎丸橘について︑松浦左近將朧糺な
松湘瀧の准展及び其の蝋的堆活七
旬
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仁瞳沁年潤十月二日・前武賊守平在御判
此の文書か︑中村文書の中にある理山は如何︒地頭浦親が中村氏の先代であって︑佐志氏の胴村を妨
げたので︑此の下知状の為しを提示されたとも解せられ︑或は中村氏が佐志との血縁關係等により︲
中村氏が雨村に對し︑何等かの利続開係があったので︑此の文書の篤が︑中村文書の中に存してゐる
のであらうとも解し得られる︒之れ等の事疵は松油一蹴の所価が怡土硴内に散在してゐたといふ事
を︑語るに十分なるべく︑中村氏も亦何等かの附係により︑恰土硴内中村に土落した松浦源氏の一流
派と老へられないことはないやうである︒併し所訓松沌中村氏として發展したのは︐恐らく伊勢氏が
入れ代ってから後の事であるやうに思はれる︒
﹁袷土庄中村方﹂と文書に見えてゐるから︑中村姓はこの中村から起ったものであらうか︑或は中村
氏が船土莊に土着したので︑中村氏の名が地名となったものか︑中村文書の上だけでは判断は川來な
松浦燃の透展及び其の蝋的生活八
る者が︑仔細を訴へ巾立てたについて︑奉行所に對し︑識言をなしたと恩はれる源康松丸の状があ
る︒中村文書に次の如き下知状かある︒
筑前剛怡土庄篠腺︑安恒雨村那
右淵村︑如肥前岡佐志九郎坤巾考︑妻女欺部氏鰯州体私仙條︑無異俄之虚︐地頭消親︑無故抑妨︑
云荏︑事庇者︑尤不便也︑無指北︿科︑御家人等所伽︑乎可有妨哉︑早止非溢妨︑任並代和仰之逆
理︑可令知行坤彼川村之狄︑依鎌か殿仰︑下知如件
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い︒現在糸鵬郡には中村といふ地名がないところを見ると︑後者であるやうに思はれる︒肥前遥野莊
には下村︑中村の地名あり︵武雄帥祉文書︶中村氏はこ上から起ったものかいかん︒青方文書哩沁徳
○O○三年十二月二十一日附け︑五砧ナマノ︵五蝿中通路に奈摩村あり︶孫五郎といふ者の下人半次郎と︑
鰯の浦新佛馬次郎といふ者との︑貸併に開する争論の判決状に﹁宰府御使中村次郎左術門肘持︵花
押︶﹂と将名がある︒宰府守謹などは︑餅時既に腱せられて︑探題となったと云ってもよい時代であ
るから︑宰府御使は少式氏の代宮で図もあったものか川かでない︒何れにしても︑肥筑の豪族に松汕
源氏花孵ふる中村氏があったに和逮ない︒中村文書に兀徳三年十二月十四日附け︑宮内輔の下知状は
中村蠅次郎︵練︶宛てになってゐる︒持と綾とは勿論同人ではないが︑同一の家族の者か︑それとも
同一族の者であらう︒恐らく東松浦郡地方に中村といふ松浦源氏を稲ふる家があって︑所仙關係で粘
土莊内に移住してゐた者であらう︒而して後仙名をなした怜土の中村氏は︑其の家名のみをついだ伊
勢二郎の子孫であらうと忠ふ︒近仙の小早川氏︐吉川氏は斑は毛利氏で︑近泄の上杉氏は疵は挺尾氏
であるが如き關係に似たものがあるやうである︒
山代三郎岡︵山代松汕氏︶と峯派藤二持︵平戸松汕氏︶との︐小仙焚胎地頭職の争論に閥する︑安
貞二年三月十三日附け︑幕府の下知状︑及び文永九年に青方太郎能高と︑峯叉五郎湛︵持の孫︶と
松浦蝿の發展及び其の蹴的唯活九 ︵二︶青方氏
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青方氏の先祀是包なる者の素姓は不明である︒是包は鎌倉時代の初め御厨莊の一部の地頭になったの
松浦鯉の發展及び其の職的生活一○
が小仙没品地頭職に開し︑手前せる際の訴︑論状及び白魚九郎入遊行兇と︑峯源藤五貞︵湛の孫︶と
が︑嘉元二年以後︑歎年に亘り︑小仙変の浦部脇の内︑佐保︑白魚の剛村に開して︑論手せる際の
訴︑諭欣︑及び元弘三年十二月日︑青方孫四郎高道の言上舷等︑青方交響の中の数多の文書を参考し
て︑青方氏の系岡老老ふれば︑左の如くである︒
1崗直︵孫四31繁︵四郎次3:.︵背方氏︶ 1是包︵糾諏峨輻雌領主︶
︵小帷斑島を相傳せるか︶
︲蔓率悪癖︾︹#⁝⁝︶ l龍同霊獅嘩上尚家麺郷嘩上尚繼黍獅睡
1塞儲癌蠣謹I浦部島の内維保︑白魚淵博越ろか︺
︵浦部島を相博・し︑青方に居るか︶l弘高傘睡I陵尚藏榊唾⁝︵白倫蔑︶
△1やや馴癖癖睡⁝⁝・⁝.:⁝⁝:⁝:⁝⁝.︵青方氏︶
○○l女子︵清原三子封引︲|川蝉○−持⁝︵平戸松浦氏︶
1閲l問⁝:⁝.︵山代松浦氏︶
= = 弓 =1世且
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支那人蘇船頭 ︵白魚氏の耐︶
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であるが︑もとは那官の末瘤の新であったと忠はれる︒︵本誌弟七號憩稿﹁元潅と松浦雛﹂参看︶平
戸松祁氏代堂と是也の子孫とが︑雁代榊論してゐるのであるが︑平戸及び山代松浦氏と是包及び雰兇
との姻戚關係を︑安貞二年三川十三日附け︑幕府の下知状に擁って岡示すれば︐右記の如くである︒
是包︑雛蝿は共に本姓が知られないが︑平安時代の末︑鎌倉時代の初めに松浦氏が漸く起らんとす
る甑︑平鳫松汕氏も山代松油氏も︑ともに是包の姻戚に連り︑しかも小仙斑の地頭職は処包との姻戚
關係に披て机伸したもの比やうである︒誹兇の子迦瀝︑弘尚は︑何れも藤原氏を孵し︑以後子孫机つ
いで︐吉野時代の家主高匝に至るまで︑その稲ふる姓には鍵化がなかったやうである︒その藤原姓を
稲する時代に︑他の松洲蹴との川に絶えざる土地州仰の紛争があり︑それについても︑亦雨者又は三
者の間に存立してゐた︑複雑な血統關係が︑争論を複雑化してゐたやうである︒青方太郎尚繼と弟膝
四郎高光とも︑所伽のことに就いて手術したことがあり︑その棚係文書︵文書の手端峡く︑日附元唯
二年八月日︶に
一︑高繼井深雨繼唾與湛︵嬢二蝿瀝雲独獅窄弟︶井源三難耀考避醗李
右高繼妻與深凡弟也︑湛妻女︑深斐︑源三︑六郎等考兄弟也︑湛子息彦一郎考深妻井源三等之甥
︿山吹︶山︑湛與高繼妻井深︑源六等者︑養戚父甥也︑凡白阿︑念□︑深︑同高繼妻井深等︑亡母誕得田地
一反︑深相仲之條勿諭也︑随而深舎弟源六與源三者︑伯父甥也︑源六與深者︑一腹兄弟也︑深小男
︵虫施︶六郎﹁川川川一披典商繼妻︑井深源六粁︑養從父兄弟也︑源六者披扶持人也︑深叔父有河三郎兵術入
秘浦蹴の溌展及び其の蝿的喉活二
I
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松浦蝋の發展及び其の蹴的生液一二
へ虫喰︶逆口凹海考︑披川領代官也︑Ⅲ海子思源五郎若︑商繼翌也︐同披令扶持者也︑將叉於深群︑川海蚕
子之山︑於別付御鯲︑岡海令巾了︑叉深叔父四郎入逝者︑披扶持也$彼子息源二郎者︑披沙汰代官
也︑彼沙汰之時牡︑且令持参内通︑朕於引付御座了︑此等之子細︑先進系岡分明也︑︵下略︶
愛に宇久氏の出てゐるのは︑商光が亡父児心より與へられたといふ讓壯は︑宇久烏の住人なる阿間梨
長辨なる春の謀書であると︑商繼の代悔深が川張してゐる等︑此の兄弟の論争に︑宇久氏が關係する
所が多いからである︒今こ上に双方の主張の正邪彩判断する必要はないのである︒青方高轆の代杵が
深と稲し︑松浦灘に脇する者の如くであ・け︑又宇久氏と青方氏とは常時の複雑なる姻戚關係にあった
ことが︑了解川來れぱそれでよいのである︒かくして青方氏を中心とする刷閲の松浦氏にして︑背方
氏と姻戚關係に於かれてない群は︑ないと云ってもよいのである︒反對に五品及び下松浦郡蒲地に散
在する松油諸氏から︑青方氏に對して氏族的考察を川ふれば︑慨髄的には青方なる家の血統は既に藤
原︑清脈︑源氏の莱別は認められないまでに松浦蝋と接近してゐた︒しかし如何に松浦の血が多分に
青方へ入り︑青方の血が松浦氏に通ってゐたと云っても︑家族制度の雌亜な我が閏の風習に於ては︑
背方は依然青方であり︑これだけの理曲では︑青方の本姓藤脈氏が改鍵せらるべきものでない︒しか
し布も生存競争上青方氏か︑その本眺を維持することが︑青方氏にとって不利益を潟すやうな事術が
起れば︑藤腺を改めて源姓を稲ふることには︑何の不思議もないことであり︑其の例に至っては古今
を通じて︑他に頗る多いことであらう︒本誌鋪七號の鰻稿﹁元遥と松浦氏﹂に於て︑松浦蝋結束の源
閃の一として︑外剛の勢力峨辿が然らしめたのであることを主張した︒文水︑弘安の役には青方︑白
魚の二氏︑ともに依然として膝脈氏を孵し︑松浦諸瀧と伍し︑稚忠報剛の斫勅をなすことに於て︑少
しもひけを取らなかった︒既にして鎌倉時代の末︑吉野時代となり︐岡内あげて動乱の巷となるや︑
時仙に虚して自術上一灘一樅の結束が更らに催逃せられたやうである︒否な松浦蕪の間に介在してゐ
た青方氏は︑松汕蹴と伍して進退を沢せなければ︑得る所なくして︑失ふ所が多いやうになったので
ある︒藤腺姓を稲へた並後の青方家の家主高睡︑其の弟高能が︑雄武四年七月日︑足利氏に出した目
安状は︑此の間の消息を明瞭に語るものとして︑頗る興味の多いものである︒其の目安の肱の何頭に
於て︑兄弟はまづ志佐氏から宇久氏を繼いだ五郎厚の﹁孫子﹂なることを訴へてゐろ︒恐らく兄弟の
彫が彫の女であったのであらう︒故に内外戚を操ぱず︑之れを松浦一族として青方も亦御支配にあり
と主張したものであらう︒左の全文を味ひたい︒
日安
肥前隅青方孫四郎商匝︑川舎弟州三郎商能巾︑何悶安術唯恥介聯
方高直よ仙能肴︑松汕志佐迦一郎御子忠︑宇久五郎呼率蝉孫子也︑餅庄川爲恩徽之地︑不撰内外
へ列︶戚︑被支配松汕御一族雌︑祁獅分限之均分欺︑随而自將砿家御下向︑最前令一烈︑同参常御一族之
以來︑菊地攻之時︑尚直被疵︑賜飼︐沖制︑北野脈合枇之時︑商能被疵︑仁木殿御上洛之時︑爲當
︿虫喰︶御一族︑逢供奉之上洛︑鵬刈陳︑宇治箙以下︑征度致耶忠了︑凡自英時辿伐之妓側︲迄十口在津之
松浦職の發展及び其の燃的埖活一三
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1
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I
松浦蝋の發展及び其の蠅的蛎活一四
へ虫職︶今介椛︑御大躯が度︐不乍離術抑一族︑杣随途忠節了︑云支配ロ見附必然也︑早煎支剛︑鰯成向後
武勇︑目安如件
建武四年七月
目安の本旨は︑背方兄弟が松浦一族として︑終姑一族一蹴と行仙を典にし︑以てあらはした英大なる
軸功に對して︑松汕一蹴と何様の恩悦に弧らうといふのであった︒﹁糊御一族﹂と敬稲したのは︑源
氏の足利氏に對する僻磁であったらう・曲來九州の豪族の主要なる者は︑少式︑大友︑菊池等大方藤
原氏であり︑之れについで平氏︑大城氏︑などが多いcか上る氏族的分野の中にあって︑松浦源氏は
源氏の天下に於ては﹁御一族﹂の光りは相樹稗度までは認められたのではあるまいか︒事狂に於て青
方氏は松洲蕪外の奈族として︑恩武も後まはしにされたことを︑今こ上に訴へてゐろのである︒青方
文諜の中に︑
孵雌三年五月日﹁松汕青方四郎州﹂の言上状の中に
右州一族相共︑杣毎度軍忠子細︑大脇派御見知之上者︑今史雌不能腫細︑指以爲御不群︑忠勤證
壯︑目録術子状︑右側二族等而冬預恩蛍御下文之庇︑於剛者︑未拝領御下文之條︑愁訴何事如之
︵上下略︶
と上に主人公たる青方四郎叩は︑尚直︑商能とは血縁上如何なる關係にあったものか明かでない︒し
かし商直についで州は家主となった新のやうである︒而して間は藤原姓を腱して源姓を稲し︑一宇橘 11
、
11
’
ろ︒この前年十二月二日附けで︑所領知行の支證や︑軍忠所見状の目録を注進してゐる︒尤も此の年
即ち暦雁二年四月には﹁御自筆︵尊氏自筆か︶御教書﹂を賜はってゐるが︑同文書中には恩鐡の沙汰
のあった證文も見えない︒既にして欺年を經︑貞和六年四月二十一日附け︑足利直冬の下壯に﹁松浦
青方四郎察﹂に對し︑筑前剛淀河三郎跡の内︑毒一拾町を宛て行ってゐる︒それと之れと關係あるもの
かどうか︑又明かでない︒
剛が松浦源氏を咄へたのは︑商直︑高能と最も血縁關係が濃厚であり︑高直等が自らその子孫と孵
した宇久氏にたよったもの比やうである︒瞬畦二年四月二十五日附け︑一色範氏の施行状には﹁松浦
宇久青方孫四郎﹂と宛て上あるから︑青方孫四郎商直も雁唯の甑には︑松浦宇久氏を稲するに至り︑
一族である四郎問︑四郎薬も︑姓及び名をかく稲するやうになったのであらう︒かくの如く藤原姓青
方氏は元弘︑建武の岡内南北の動乱に鹿し︑生存競争の必要︑自家を保全する必要等に迫られ︑終に
松浦姓を孵すろに至った事怖は︑略ぽ川かとなった︒永徳四年二月二十七日︑松浦一蹴三十余名の聯
照契約状の中には﹁あをかた幽前守間﹂の名が見えてゐる︒ を稲して所謂﹁御一族﹂になり澄し︑松油一蝋におくれた恩賞に預らんことを︑請願してゐるのであ
志自岐艸耐は松洲郡の郷土川であり︑御厨脈の綿錘守と稲してあがめられた式内の古耽である︒貞
松浦蛾の識展及び其の蝿的娠液一五 ︵三︶志自岐氏
心
|
!
とあり︑源姓を名乗り︑一宇名を稲すること︑こ上には所見がない︒然るに松浦一蕪の他家の文祥に
は︑拷松洲一蹴として一宇名を名乗ってゐること頗る明瞭である︒青方丈井嘉慶二年六月一︑附け
﹁洲一族一撲契諾條袋事﹂と題せる松浦灘の愈盟規約の連名に︑﹁志自岐仙馬介亜︵花押︶﹂とあ
松浦螺の發展及び其の職的生活一六
槻中腱掩除位のことがあった︒祭川は十條別︵城分︶王にして︑大悔司家は其の子孫であると仲へら
れる︒︵志自岐祁肺枇司志口岐氏所打の志自岐家系川︶心自岐仲肺蕪記︵太宰管内志所赦︶に弘安七
年十一月二十日附け︑大宮司源家秀の夢想︑敵船伺肺前漂漉等の事を注進する書状を牧めてゐる︒そ
れには右に述べたや弓に源家秀とある︒叉志︑雌家系川に左の文将を牧めてゐる︒
一︑大年こへに︑御たけにへひし一具︑御かLみ一升もちこまい︑かたのもち十
一︑大年こへに︑御鵬にめし三升をもって︑御脱六まい︑このうちをもって︲小もち十︑まいらす
るなり︵中略︶以上
○○大永八年五月吉岡志自岐右馬助家益︵花押︶
○とあり︑又同菩に牧むる永藤二年巳未卯月廿八円附け︑沖の宮の戎殿の棟札に﹁別者︑建主志自岐家
◎次︑子孫繁昌︑家門榮耀︑武迩長久﹂云盈の文句がある︒然らは志自岐家は代玲家を冠らせ家秀.家
益︑家次など稲した帝が多いやうに忠はれる︒同系川には
△左術門佐定繼l△庇蔀少邨轆家l△右賜助家益l△對馬守絲定霊鍔榊越l△椛助家次l
−1△楚右術門正吉歴喋膵群轆嘩祁辱釧祁計識秘十ユ睦瞬︶I︵下略︶
1
Ⅲ
114
り︑又同文書︑及び松浦文書︵松浦伯僻家所藏文書︶等に見える︑永徳四年二月廿三日附け︑同じ性
質の契約状の中に﹁し上き但馬守亜﹂といふ将名がある︒其の外の通名状にも亜といふ名が見えてゐ
るが︑志︑岐といふ肩書がないから︑こ上に梁げることを略する︒恐らく志自岐家は鎌倉時代の末か
ら吉叫昨代にかけ︑松汕一挟の雌活動期に於ては︑少くとも公には一蝋の仲間入りをなし︑姓名を共ら吉野時代にかけ︑松洲一投の雌皐
の蹴風に依て孵したものであらう︒
肥前大島の豪族大島氏は江戸時代の初め︑同島を出で︑禰岡蕪に事へ︐︵同氏の大江姓系剛には信
貞筑前に來り︑其の子信川來艦と改姓すと見ゆ︶姓を來脇と稲し︑今に至る︒来島氏現在数通の系剛
を所持してゐるが︑大別すれば二麺となる︒一は藤原姓系川︑︵後にあり︶他は大江姓系剛︵後にあ
り︶である︒藤脈姓系川の中に信ずべきもの一通あり︑其の妓初の部分は内容といひ︑紙髄といひ︑
書風といひ︑室町末期のものといひ得べく︑一般に田舎にありふれた系仙としては稀らしきものであ
る︒此の系川はしばノ︑響き繼がれてゐる︒雌初の番を繼ぎは江戸時代の初めの甑に行はれたものら
しく︑もとの系剛の経りの部分の除白に響き足されてゐる︒後更らに二度に害き足されてゐるやうに
思はれる︒もとの部分にも多少の加筆がある︒今其の雌も信ずべき部分を左に示さう︒
松浦螺の礎展及び其の蹴的吃活
︵四︶大島氏
一
七
,」
I冷 畢再宅
I
I
|
進 ょて叉木の藤原氏二なる也臣のいもうとなり 蚕蹴中納言子一一せらろ胸二母ふなかあきらの朝
むくわん太郎むくわん三耶一1通時
l 迩 昌 l
|むくわん次郎1通綱
知一子亜名雌蝿女夫大河野峯太郎
織糟催一飢蛎馴麺瓢郎
■寺01己凸竺9GJ
臣 母
い な
源次修理亮法名最源能登守法名源俊伯耆守法名帖源受領同法名源忠受領同ス︑貞加笠︶ヨ・ン︵加証︶タ︑へ加筆︶タトウ︵加筆︶カナウ︵加筆︶ 徳
識 弍部大夫l賛昌︲
○
l顯光
九條殿中衲言師輔11時光
左大將l朝光
’
松浦鯉の發展及び其の轆的龍活堀河關白大将大臣
1通綱I 録脅鰈とi
宗匠弘禰寺別常
肥前守後一一伊肥椥守豆守ニナル
中な︑︽んの政房の子 1束家
侍従
’
岡タリ のぞ、政官
都此通又 代
|
二代清
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居迄
|
I
111池l︲lll︲11脳令ご尋凸0
吟京︵判雌判︶馳錨岼炉畦︵邦雌弱︶
’
通明 叉四郎法名定西 |家政 藏人︐とシして大江氏になる
1鮒Ⅱ ヨシ︿加鉦︶ 小次郎法名源秀
一
八
●
−
此の系伽に︑鋪一同の書繼ぎをした人の顕注と恩はるL文あり︑左に示す︒
︵マロ︶︒︒CO○
湛︑法柑源忠ノ嫡兜棚次郎腰︑次兜小次郎一堂価近江守直︑三男賀加守︑四兜劫初和尚︑五列参河守0◎
通本︒雁ノ子嫡男三郎次鄭胤昌︑次男州次郎通性︑三則小次郎迦次︑女子五人アリ︒胤昌ノ嫡子酋通︑次男源五郎胤辿︑三列式部少柿︑女子三人︒酋迦子修理亮︐三郎太郎︑宣迩女子一人︒胤通嫡
︵一宇不明︶︵一字禰呵︶
子左馬口宣友︑次男治部少輔尚凸︑三男新口郎︑女子五人とある︒今來脇文辨に依て同氏代為の氏名を左に列梁する︒括弧の中の年月日は︑氏名の見える文普
のH附けである︒
へ子息︶御家人大烏次郎辿綱又次郎辿消︵文永七︑九︑十五︶
御家人大腸蝿二郎迦繼︵正唯六︑五︐九︶大江通繼
極幽郷蝿明︵孫元二︑三︑川︒姓武元︑三︑十︶
御家人大脇次郎通秀︵建武一兀︑七︑十八o建武三︑六︑日︶
大江迦秀
松浦蛾の發展及び其の蝋的生活一九
|伯信菩貞#
〆、後
イ全
DB屯贋
『
と 功ゼ ン〃凹
伯耆守伯耆守伯耆守筑前守三河守
I︵以下第一回押き繼ぎ︶l胤凸I酋迦l定通I︵以下鋪二回書き繼ぎ︶l信通l信政一︵マと︵踊鴎す︶︵翰酪す︶
来島桶太夫︑此代︸一名字替し︵以下第三同書き繼ぎ︶l信明I︵以下略︶
|
I
一−
I
松浦戦の發展及び其の蹴的喉活二○
御家人大島次郎通信︵建武三︑三︑十八︶
松浦大砧小次郎剛︵碓氷二︑七︑七︒貞和六︑四︑什一・槻雁二︑十二︑什五︶
松浦大島左京亮堅︵永和三︑九︑日︒水和四︑十一︑日︶
松汕大砧隼人亮政︵永和三︑九︑日︒永和四︑十一︑日︶
松浦大脇太郎左術門尉勝︵水測川︑十一︑日︶
松浦大鳥尾張介疫︵永和川︑十一︑日︶
今之れ等の人糞を年代順に縦に帷べ︑同時代の春は横に列畢すれば︑左の如くになる︒
︵父子︶
通綱1通清迩繼迦秀聞堅 迩明通信政
勝
蜜
之れを系岡に比較するに︑通繼︑辿秀︑迦信︑堅︑政︑勝︲淀の七人は系剛に見えてゐない︒迩繼︑
通明︑迦秀︐通信は兄鋪であるか︑叉は同時代の一族の者共であらう︒︵大江姓系州には通繼を迦綱
の弟とし︑迩秀を通明の弟とし︑通信を通秀の子としてある︒︶又系剛になき堅以下四人は︑開の兄
弟か叉は同時代の一族であらう︒︵大江姓系州には疵の名見えず︑政︑堅︑勝の三人を剛の子として
ある︶かく解すれば系剛は略ぽ文書に一致してゐる︒惜しいかな︑系川に見ゆる進以後の文書は全然
仰はってゐない︒さて系岡には剛縦大江氏を稲し︑喪昌膝原氏に復すとあるが︑間が源姓を稲する以
1 J 1 1
﹃
︲
、
前は︑依然として大江氏を孵してゐる︒そして剛から源姓を稲へ︑一族略以下四人まで︑永和三年Ⅷ
年中に軍性状を足利氏に致してその承認を得てゐる︒以て此の甑から︑其の一族の活動が盛んとなつ
たことが知られる︒系燗の顕派に擁れぱ︑湛の子︐即ち應の兄弟の中には︑大江姓時代の名乘に復蹄
してゐる者があり︑雁の子からは︑全部大江姓時代の二字名の名乗りになってゐるc
さきの來貼系側の中解繰し難い部分がある︒それは通昌と知とが兄弟であり︑知の子が女子と通綱
との二人あるが如く︑而して通細は兄迩時と共に迦昌の子のやうにもある︒即ち通綱は迩凸の子の如
く︑同時に知の子のやうにもなってゐることである︒來島系岡の大江姓系剛は國兼を大江系岡の匝房
の次にか上げてゐる︒さきの膝陳姓系川には政︵に︶房の子として大江姓を稲ふ云食とある︒そして
藤陳姓系咽の前記の中︑不可解の部分は大江姓系脳には左の如くあり︑以下前記藤原姓系圃に比較す
る爲めに︑その前後を水さう︒柵はすべて略した︒
︵前略︶
松浦戦の溌展及び其の蝋的龍禰 l登昌11剛政
濯斗騨端一辮蝿︲n郷迦信
lj二日11
| | |
忠教聞
l l l l l
中勝1竪政進 徳 減 湛
一 一 一
I
1
大江姓系剛は藤原姓系州を訂正袖催したものと恩はれる︒そしてかの不可解の部分は甚だ明白にはな
ってゐるが︑其の膝脱姓系州の複雑なる部分の説明になってゐない︒老ふるに通昌と源知とは義兄弟
であらう︒即ち源知の妻と通例の妻とが姉妹の關係にあり︑通昌の子邇綱が知に男子がなかったか︑
或は他に事怖あって︑知の子として源氏をついだといふ意味ではなからうか︒今之れ等系岡及び文書
を研究して︑大冊氏の家系に開し次の如く述べざるを得ない︒大島氏は大江氏といひ︑或は藤原氏と
もいふが︑いづれも文禅に碓漆がない︒恐らく後枇になって大脇氏がやうやく掘大となり︑系岡を定
めて家系を飾るやうになると︑或は脈脈といひ︑或は大江といひ︑其の後源氏を唱ふるやうになった
ことは︑之れを系刷に於て説明する事が困難であった結果︑前記藤原姓系川の不可解にして複雑な部
分が出来上らざるを得なかったものと考られろc l胤凸I︵下略︶1画f
ll伽﹄.11︑︑鋤●︿︐1
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松浦戦の發展及び其の蹴的生活
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一 一 一 一
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︐早田氏は北松浦郡相浦今禰の歳宮の碓司である︒家の文書︵早田文書︶には康永四年三月十七H附
け今幅松浦丹後守源清の川地寄進状を最古のものとし︑以後證町時代に至るまで定︑出雲守孵︑丹後
守進︑丹後守朧︐丹後守親等の寄進状其の外の文書を減してゐる︒松油諸家譜︵堂岐徹崎吉野氏蔵
本︶に﹁持l進l朧l定l政l親とあるのは略ぽあってゐるやうである︒後今禰松油氏が平戸松油氏
に﹁合族﹂された︵早川家譜︶際平戸に移るとある︒中価に於ては一祗の祗司︑川官にして︑武人化
した者は前記志自岐は勿論︑其の例頗る多く︑此の家も亦︑武力を以て主家に悪へた︒早田文書の中
に武事に開するものが左の一通だけある︒
念度染錐候︑側至共元敵取懸候刻︑即時途一戦︑数ヶ所被飛疵之山候︑感悦此事候︑殊淨珍討死之
條︑愁端令察候︑忠節之段︑於向後不可有忘却惟︑猫細耗岨淵大炊助可巾候︑恐為謹言
.五月廿一日 親︵花押︶
親は天文前後の人なることは︑同文番中の他の文神に擁て知られる︒早川氏の本姓は藤原氏である︒
雁永二十四年六月一日附け︑今祁松油進の早田乙鬼丸に宛てた今柵枇十二宮大窩司職の安堵状に︑
﹁任亜正讓與﹂とあり︑重正は乙鬼丸の先代である︒同文響の包紙に﹁藤原重正荊誕欣一通﹂と記し
松浦職の發展及び其の鯉的生活二三 早川内職助殿 ︵五︶早田氏
’
1
I
害テ後老ヲマツ﹂とある︒飛し︑一般の例を知らなかった者には或は不思議であったらう︒要するに
早川氏は雌永の頃には藤原氏を孵してゐた︒後源氏と號し一宇名を咽ふるやうになったのは應永以後
の事で︑松浦灘入りをなしたのは︑比較的後の事であることがわかる︒側し武士として活肋し得る勢
力が術はって︑飴めて松浦蝋に加入したものであらう︒なほ次の攻を毒派せられよ︒
松浦鰍の發展及び其の職的生活二四
てある文書に︑応永二十四年三川十一日附けで﹁いまふく大ぐうじあと弍のところ︑せんれいにまか
︵二乍不肌︶せんがま上︑ふちわらのしや御ぜんのおとおに︵乙鬼丸︶ゑゆづりあたふところじつなり﹂とあり︑
﹁藤原重正︵花押︶﹂と鶉名してゐる︒雁永前後までは早田氏は本姓を藤陳氏を捨て上ゐなかつたこ
とが︑明瞭である︒然るに同文井中︑表諜きに﹁をしんしやう早川大夫﹂とある川地の寄進狄の日附
署名に氷享十ねん正月十九日︑浦︵花押︶とあるから︑此の甑は松汕一蹴の仲川入りをして︑一宇名
を稲することになってゐたのであらう︒早川家譜に擁れぱ︑松汕郡江迎村小河の阿蠅陀堂の鰐nの銘
は︑長享元年丁未十二月吉日︑早円源幸が納めたと見えてゐる︒同氏の系州早田家譜には前に示した
感状を賜はった早川内臓肋は害と孵し︑次は治方術門弘︑次は次好︑次は次清といひ︑早田家譜には
重正が藤原氏を孵してゐたことにつき悲しく不群をなし﹁早川家後仙源ヲ以テ姓トスル事分明也︑然
ルー此﹃一藤原ト稲ス文意ヲ以テ老フル時︿︑御開家ノ如シ︑往仙ノ事其詳ナルヲ知ルペヵラズ︑疑ヲ
’
I
︲寛元二年八H十八日附け︑肥前剛御家人益田六郎と山代三郎問の後家の尼との争論に對する下文に
は︑訴人の提示した誇人︑幕府から罐否を稔諦した諦人等は︲多くは肥前の山代附近の御家人であっ
た︒其の御家人の中には︑松浦氏にあらずして︑後仙松浦氏を稲するに至ったと思はれる春の名が見
えてゐる︒即ち大宮司末時︑藤太夫家次︑︵訴人の提示した滝人︶志自岐簡司家安︐州祁汕三郎家
忠︑小佐凌太郎重商︑御厨目代吉弘等︵以上幕府から證言を微せられた人麦︶それである︒大官司と
いへぱ上下南北松汕郡では︑鏡祇か︑志自岐か︑今耐の年波樹などの外には老へられないO而して志
向岐官司の名は別にあり︑鏡肺は車野氏として知られてゐるから︑末時︑藤太夫は今祁の波寓の悔司
であらう︒早川文書に服永四年今祁浦の下狄に﹁いまふく大くし﹂と見え︑同逃の永享三年十月九日
の土地宛行状に﹁大窟司殿﹂と見えてゐる︒そして窩司は太夫と稲し︑藤腺氏を穂してゐるとと先き
に述べた通りである︒果して然らば大樹司末時︑藤太夫家次とあれば︑その藤原氏を稲するとと鎌倉
時代中期よりのことであることの硴誰となすべきであらう︒叉也自岐宮司が家秀以前家安と稲して居
る着があり︑代糞名に家の字を冠せる名を孵したことも古い以前からのことであることが︑之れに依
て明かにきれる︒相川洲は即ち和汕である︒佐仙保の西北に餅る︒今は川の名に相紳浦川あり︑机祁
松汕氏の恨鑛地である︒松浦猟の明徳四年の規約の辿名中に﹁あいのうら︵湘汕︶鬼益丸代︵花押ど
松浦熊の溌展及び其の蝋的生活二五 ︵五︶其他の諸氏
1
1
少
松浦雌の發展及び其の職的生活二六
とあり︑叉﹁あいのうらのはら︵祁洲の原か︶能登守超﹂とあり︑又﹁させほのいまふく︵佐仙保の
今禰︶左京光﹂とあり︑いづれもとNに見ゆる祁祁浦氏の子孫であらう︒早川氏は先きにも述べた通
り︑和祁油今祇の鎭守の祁主の家であって︑後今川の松浦氏の家臣の如くなったのである︒和浦は肥
前の海垰航路では亜嬰な海騨であったから︑祁浦松浦氏が薬凸して︑机汕松汕氏︐祁汕の脈の松浦
氏︑祁汕今耐の松汕氏と和ならび剛擁してゐたものであらう︒苦の州浦は今の山川村から佐仙保市の
一部を含んでゐたのではあるまいかc今佐仙保市に今祁町あり︑佐仙保の今耐といふのはと上であっ
て︑昔の扣浦今祁の地であらう︒而して此松汕氏の三家は︑恐らく和祁浦氏が分れて︑原と今耐とに
分家したものであらう︒早田交響に徴すれば今禰の松浦氏の家系は康永以後略ぽ之れを知ることが出
來るが︐康永以前の姓氏等を老ふくき何等の手がiりもない︒勿論股永の甑の家主浦より以後︑平戸
松祁降信に併合される宗金に至るまでは︑衿松浦源氏を孵し︑一宇名か一稲へてゐたやうである︒早田
家訓には﹁永職八年逝可公ノー子親ヲ以テ宗金ノ子トス﹂とあり︑練群神類從所收松浦系川には︑隆
信の二子親の條に﹁松祁丹後︵今祁松汕氏︶養子﹂とあり︑其の子定の條に﹁松油丹後︑於高腿遼東
境討死﹂とある︒吉野時代以後はかくの如く全く松浦氏の一分派となってゐたか︑果して山代叉は平
戸松浦氏の分流であったであらうか︒寛元の幕府の下知状に見ゆろ和祁洲三郎家忠が其の名乘りから
察して松浦源氏であるらしくないとすれば︑其の子孫であると恩はれる和洲氏は勿論其の分族である
相浦今耐︑相汕の隙の叩松浦氏も︑他姓より卿じたものかも知れない︒
1110日llI1I1IIIIIIIIlIIIIlII■■ⅡⅡⅡ■Ⅱ08IIIIIIIlll
卜
1
﹁小さ上太郎取高﹂も承高といふ名乗りは松浦一蹴の風習と逹ってゐる︒後枇は松浦氏になった︒明
徳四年の規約の連名中には﹁さL長門守粗﹂﹁こさN備前守﹂と相ならんで見えてゐる︒﹁さ上﹂
﹁こさ上﹂は佐々小佐佐であ〃︑今北松浦郡に佐糞村︑小佐餐村あり︑上り航路では州浦の次騨で
ある︒小佐糞川は深く瀞入してゐる入江に注いでゐる︒小佐糞はその附近である︒他の松浦灘の諸家
の文書には除り共の名が川て來底いところから察すると︑大した勢力はなかったものであらう︒明徳
の契約状に﹁みくりや三河守﹂﹁みくりやのさかもと脈打﹂の名あり︑御刎目代吉弘なる春の子孫で
はあるまいか︒山代文書弘安四年八側十日附け︑北條久時御教書︵山代榮の戦功見知の諦擁の提示を
求むる︶の宛名の一人に﹁御厨孤所源方術門太郎兵術﹂の名あり︲又同文苔に弘安六年八〃H附け︑
﹁御脚熊徳殿所﹂へ下した御脚硴の伽家の下文には︑瓶所左兵術尉源︵花押︶と群名あり︑之れ等は
何れも今の北松浦郡野屋村の地に鵬住してゐた御厨雌の碓術であらう︒青方文替の巾にも︑御厨の預
所といふ名が見え︑御脚莊雑紫行忠などいふ名もあらはれてゐる︒平戸松浦氏や︑山代掻浦氏の岨直
が御脚の執行と稲したことは既に青方氏の條で述べた辿りである︒恐らく松浦一蹴の腺流は皆御厨莊
の北W以下名主などから起ったものが多からう︒そして御肝莊の弧又は目代など孵した莊打の根擴地
が︑今の北松祁郡の御脚村の地であったらう︒この地は朧品と机封し︑伊醐里濁の湾口老占めてゐる
要地であって︑伊醐里︑楠久︑川代︑今祁︑志佐︑禰腸等亜妥な松浦難の外海への航路を抑へ︑五島
一Mに拙ってゐた御脚脈の中心地である︒こ上に土蒲した同莊の預峨︑Ⅱ代職が経に御厨を以て家名
松浦蝿の溌展及び其の職的埖活二七
11
’
−1
I
叉山代文書に擁れぱ.弘安の醜︑早岐又三郎清氏は己の所仙伊闘里内の川地を山代又三郎が押仙し
た率に對して訴へ出た︒弘安八年九Ⅱ九Ⅲ北條貞時は又三郎に毒對することを命じた︒と上に注意す
べきことは早岐又三郎浦氏の名乘りである︒明徳の契約欣には早岐の名が見えてゐない︒恐らく鎌倉
時代の唖にはまだ愈外であって︑松浦縦芯根鑛地の反中である伊鹿里に恢地を有して居て︑松浦旗の
峨辿を被ってゐる様子が︑此の訴へに依て推知することが川來る︒しかも後には早岐氏も一黙に加は
はったと見えて︑松浦家譜には川代松浦剛の曾孫︑即ち岡の孫である淀の條に﹁早岐地頭岡養子﹂と
見えてゐるc此の外︑明徳川年の松汕蹴の契約欣の述柑巾には﹁いきつきのかとう﹂︵生月の加藤︶
と稲する者二人あり︑何れも名乗りを略してあるが︑永享の平戸蕪の規約には︑加藤景明︐加藤致貞
とあり︑︵第三章の平戸蕪の規約の條を参一石︶吾妻鏡によく出て來る加藤氏と其の名乘が似てゐるか
ら︑或は同族にして︑生月烏に土着し︑後に松浦蕪化したものであらう︒此の外多くの蝋の契約肱の
述名中には︑松汕蹴化せられた他姓の者と忠はれる人交の名が少くない︒それ人︑の條下を参看して
麓ひたい︒
松油蹴の發展及び其の蹴的唯活二八
としたものであらう︒明徳の規約肱に見える御厨の二氏はこの預所︑n代の後だのものであらう︒海
東諦叫記に肥加州下松油三栗岬太守加州とあるのは︑其の内のどちらかであらう︒而して其の初め鎌
倉時代の中期に於ては︑吉弘と箔乗ってゐるところを見ると︑本來の松浦源氏であったとは連かに断
定されない︒
H 1
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以上中村︑青方︑大島︑早田の諸氏︑其他の松浦難の諸家に就いて︑之れ等の諸家が共の本来の松
浦源氏にあらざることを立證し︑或は推定した︒この事避は之れを犬にしては︑全日本民族の統合の
覗迩に比すべきものである︒全民族の各共の家共か︑川別︑黒川︲蕃別と多系︑多極であったにも係
らず︐時代を經るに從って乢族は一元なりといふ理想のもとに統合され︑複式氏族組織の民族が︑大
化改新以後︑恥一氏族細縦の雌放即ち剛雌となることを理想とするやうになった︒その皿想が益凌發
展して︑民族一元の理想が経に事涯化せられるやうになった︒亜ねていふ此の日本民族史の縮州を︑
松浦砿結束の歴史に於て︑比較的明かに見ることが出來るのである︒もしそれ民族結束の内外の朧史
的原岡と︑松浦蛾結束の内外の歴史的原剛とは蹄を一にするものがある︒この事に就いては後段に於
公松汕蹴といへぱ︑それは肥前剛松汕凹郡を本舞蕊とし︑之れが隣接地︑即ち同剛東彼杵︑杵脇︑
小城︑筑前怡土︑志摩の荊郡︑及び堂岐剛等の若干部に搬かつてゐた︒之れ等松浦雛は大別して二つ
に分れる︒即ち東西松沌郡即ち上松汕郡にゐた群と︑南北松洲郡即ち下松汕郡及び東彼杵の一部にゐ
た新とに分れる︒簸岐及び筑前糸貼郡方面の者は︑そのいづれに脇してゐたか不明である︒前考が上
松汕難であり︑後者は下松浦蹴である︒半笈時代から鍬倉時代にかけて存在した莊閲の開係から︑雨
松浦蝋の發展及び其の蝋的生活二九
て説くこと︲典する︒第二章黛的聯盟の規約
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下松汕蹴が一撲して︑一僻の蝋を形成してゐたことに州し︑雌も古い確かな史料︵次章参寿︶の年
代は︑弘安十年であるが︑彼れ等が御蝿して締結した規約にして︑現存せるものL一恭古いものは︑
雁安六年の契約状であり.之れについで嘉慶二年︑明徳三年︑明徳四年のものが都合四通ある︒此の
四度の命盟規約の中︑明徳四年の規約が鍋島侯僻家所藏の山代松浦文書︵佐焚縣文書纂の中に共の影
罵本を牧む︶と五烏青方文書の中にあり︑他の三度の契約條盈は︑全部背方文書に見えてゐる︒松汕 には一投したことはあった沙も知れないが︑術時禽盟し︑定められた或る規約の下に統制されたやうには忠へない︒上下松汕蹴の内︐上松洲蝋全冊の一投状態に就いては︑これ叉史料が緋けてゐて︑之れを明かにすることが困難である︒之れに反して︑下松汕鎭については若干の史料を有する︒以下共の沿革に就いて説かう︒
松浦蹴の發展及び其の蹴的脹活三○
松洲煎は自ら随別される︒前考は西松汕郡の岐西の小部分から︑南北松棚郡︵今北松汕郡︶にかけて
世かれてあった古の宇野御刷︑後の宇野抑肝樅に鮒係したものである︒雌永二十一年の宇久縦お規約
の秤旨の中に﹁常旋の蹴守には志自岐大群院﹂とあるは北お名礎である︒後考は束松棚郡地方にあっ
た松汕莊關係のものである︒而して上下松汕が一つに紬束した川棚︑即ち上︑下松浦一投叉は瀧とも
稲すべをものが︑組織されたかどうか︑現在の史料を以てしては進だ明かでない︒上下松汕が一時的
二︶應安の規約
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は方の字であったかも知れない︒
さない︒云掩︒といふ規定である︒ ︵平戸︶伯博家文書︑伊繭里松浦文書︑山代松浦文害︑早田文諜︑其の外下松浦蹴に厨してゐた家共の文書には見當らない︒多分紛失したものであらう︒青方文書の雁安六年の契約状も前文が少し散伏
○してゐる︒今左に之れをか.kげる︒妓初の條或の一部がないから意味を十分にし難い︒右と誠んだの
○は方の字であったかも知れない︒﹁公方の御大事﹂には一味同心の岨ひを以て各n勝手な行動か一許
︵己︵削文散恢︶へ虫耽︶へ血喰︶右御大事時者一ⅡⅢu同心之思︑ⅢⅡ|可抽車忠︑柳不可有思堂之隣
へ一一︶一於此人歎中︑所務心箭以下︑相諭出來時薪︑加談合︑依多分之雌︑可被和許︑若布異燐識者︑不依
縁者重縁︑一同可爲逝理方人云萄次於此中︑就公私一人大事務︑面登一同大事︑可被思者也
︵三︶︵叔︶
一此人数中有沙汰時︑不依兄弟俶甥縁者他人︑珈蓮非儀意見︑不可礎心底者也︑美猫盈不可有偏頗︵ 四
︶
一此人数於多分之隣︑逹背韮者︑於向後︑此人数中於︑永被披川者也︑夷
︵五︶一郎從以下中仁︑雌珍事狼耕川來︑不和符多分之俄︑爲一人不可途術意︑若此條偲巾候者.
私 曲
八幡大菩朧︑天猟犬自在天帥︑御糊於可漿候︑仙辿料秤文︑如件
雌安六年五月六日却蛎稲︵花押︶全︵花押︶伽阿︵花押︶逝阿︵花押︶能阿︵花押︶
來阿︵花押︶剛︵花押︶並︵花押︶弘︵花押︶庇︵花押︶秀︵花押︶間︵花押︶
脚芳︵花押︶剛輔三︵花押︶川諄典阿直︵花押︶遊︵花押︶有 松浦砿の發展及び其の職的生活三一
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松浦蝋の發展及び其の轆的生浴三二
︵花押︶性智︵花押︶有︵花押︶識阿︵花押︶雌︵花押︶深︵花押︶安浦
︵花押︶長備︵花押︶兜︵花押︶︵本文群の將橘は一人つ上横諜きしてある︒今便亦上
縦に詰めて響いた︒以下引川するこの繩の交神拷何断︶
第二條の意味は下の如きものであらう︒薪し一投中に︑所価︑兵賜等に開する争論超らぱ︑愈合者の
﹁多分の識﹂に依て沢し︑若しその決定に異議あり︑一決しなかった場合は﹁道理方の人﹂則ち正論
に典みすべく︑他人︑親戚に依て去就すべきでない︒又一投衆中の灸私に閥する一人の大事は︐衆中
全僻の大事と老ふくきである︒云令鋪三條は一投中として事件を﹁沙汰する﹂︑則ち虚理する場
合︑理非︑善悪に開する意見の發表を徹底せしめ︑兄弟叔甥の間柄といへども︑速慰することを許さ
歩︑又至公︑至千を先きとし︑偏雌な心を以て沙汰することを許さない︒云令第四條は一投の多分
の決議に背くものは︑一投巾を除名する云奄錐五條は一撲各側の部下に乱暴等を働くものがあった
場合には︑一投の談合による多数の決定を侠た歩して︑柵行することを許さない云奄以上契約の粘
祁は︑衆中が向合し︑衆智を集めて正義をつくし︐公平ならしめんが鰯め︑多数の意見に依って行肋
するといふにある︒而して規約の糀祁を破壊する恐れあるものは︑什肉の崎︑主從の義である︒故に
主從の韮も︑什肉の術も︑この契約の祁聖ルー傷くべきでないといふ所に︑亜軸が世かれてある︒老ふ
るに武士の剛鰐が剛鰡生活の理論の爲めに︑武士の生析の本義たる主從の義を破るといふととは.寧
ろ不可能に近い事である︒叉松浦灘といふ氏族的赫紳が︑不知不識の間に︑一投組織の原動力となつ
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てゐるのであるから︑削鰐生活の規約の爲め︑骨肉の傭を犠牲にするといふことも︑頗る困難な事で
ある︒にもか上はらす︑彼等が之れを抑へて︑よ・く一投したといふととは︑岡史上稀有の現象と見な
ければならず︑そこに一投出現の特種の原因があらなければならぬ︒後段に於て特に之れを老へた
左に其の全文をかkげる︒ この契約についであらはれたのが︑嘉慶二年の契約壯である︒全文六簡條あり︑之れを唯安のもの
に比べると蕪の緒祁を弧調し︑復興しようといふよりも︑その精測を發起せしめ︑之れを注行するに
徴って發見された規約の不備を補うたものである︒前者が貞永の式目であるならば︑後者はそれに對
しては新細又は追加的式目である︒叉前者が令であるならば︑後者は格式であると云ってもよい︒今
い○
浦一族一投契諾條荏事
︵一︶一於公方御大乖軒︑不云分限大小︑令愈合︑中途加談合︑而随多分之俄︑急速可馳参︑価火急之御大
事川來者︑承及次鋪︑可馳参︑云糞
︵一一︶一於一撲中︑所務︐弓箭︑境相論井市︑町︑路頭︑喰雌闘押︑川來之時者︑先近所人糞馳寄︑可宥時
縦︑若猫以及雌俄君︑一投一同令會合︑任迩理可令成敗︑柳不可許容僻事︑次若於一撲巾︑有誕言
松浦難の發展及び其の城的生液三三 ︵二︶嘉慶の規約
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松湘戦の發展及び其の燃的喉活三四
N鮮之縦之時︑無迭非︑不可含根︑祁瓦可窮從否︑云舞
︵ 一 二
︶
一於夜討弧雄山蛾海賊放火田畠作毛縦苅族群︑諦搬分明瀞︑直可行死罪︑柳以捷疑︐不可致珈不識之
沙汰︐次同類之事︑爲衆中之沙汰︑可被罪科︑云奄鴻
︵四︶一此一投中之人︑皿二擁外人︑和諭川來之時務︑縦雌鰯飛総︑先間一樅外之人而︑馳寄於一撲中方
ヘマ■︶而︑令勘辨剛方理非爲逆上班者︑可見繼一挑中︑若雌鰯一投中︑鰯僻事群︑一同令致訓之︑不承
引者︑南方共不可兄糖之︑仙一撲外之人計︑和諭之時者︑或依亜縁︑或任道理︑可見之考也英
︵ 五
︶
一就百姓迩散︑相互可扶持之繼否躯︑所訟爲本地頭︑雌不忠之俄︑負物年貢以下無怠勘考︑可扶持
之︑若負物︑年貢等︑無辨濟者︑不可令扶持之︐云令溝
︵ルハ︶二投中祁仲下人之事︑若應屑衆中之彼之時︑主人致訴訟者︑或依走誰︑或被相尋近所人壁而.爲下
人條分明者︑任傍例可被渡主人方︑云々英
若此條生侭巾候者
八幡大朧朧御諦於︑各可罷蒙也
林大曲宙判秘河庄山 嘉慶二年六月一日赫跡大蝿悶駕州防守剛越肌守定正奉伊勢守力長門守勝薩 ︵?︶︵不明︶ 嘩守迩仙鷲女子代公武丹後守五肥前守湛︵花押︶石見守武︵花押︶若狹守□︵花押︶
扣神祁 周防守崇︵花押︶長門守公和︵花押︶新左術門肘問側普允隠鬼益丸山城介秀明︵花押︶ 抑吉諏吉立石生川山田 大炊助與家益周防守守費因幡守家重因幡守安︵花押︶捕部助榮︵花押︶彦犬丸代兵
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卸厨卸脇川代調河志自岐祁吉・脛Ⅲ田平
肺允義本三河守守近熊腸丸佃賜介亜︵花押︶兵庫允有︵花押︶駿河守定
錐一條は双方相逮はないが︑後背には火念の場合︑衆議を雑ずして︑唯念川動することを認めること
を追加してゐる︒第二條も唯安の鋪二條に比べて︑便血化せられ︑庇際化せられてゐる︒そして合議
の標準なる道理を弧洲してゐるのは︑範を貞永式目等に取ったものであり︲條文が著しく精錬されて
來た︒鋪三條は脳安には班迩非険とあるのを︑嘉慶には夜討以下の罪名を學げてゐる︒そしてそれ等
の罪跡の硴認に州する諦搬の布無を指柚してゐる︒次に雌安の鋪凹條に祁傲する簡條が嘉膣には特に
立てLない︒そして雌安の鋪五條を張慶には鋪四︑鏥五︑節六の三簡條に立て上ゐる︒即ち嘉慶の鋪
凹條は一擴中の群と︑一挨外の者との手術︑及び一撲外の群の川に於ける争論に開する規定であり︑
同第五條は一投の人盈の仙内の百姓の逃亡に開する規定であり︑同第六條は一擁の人堂の町有の下人
の逃亡に開する規定である︒以上︑沸慶の三簡條が雌安の鋪五條に州樹すると云ってよい︒此の三筒
條の内第四條の文が難解である︒意味は一擁内の軒が︑一挽外の者と︑争論を起した場合︑一撲外
の春が假令己れの瓶絲の群であっても︑それを開︵州︶いて︑まづ一撲として衆議し︑剛方の理非を
◎︒︒◎0○○肋辨︵群議︶し︑﹁逝彫の即たらぱ﹂︵同等の理たらぱの意ならんか︑此一旬明かでない︶一投の内
の群を推け︑若し一投内の春が逝珈に反いてゐる場合は︑一撲衆と一所になって一撲内の者を諌め︑・
薪し聴かれない場合は︑双方に對して援助しない︒次に机諭粁か︑双方とも一撲外の者であるなら
ば︑或は亜総に依り︑攻は理非に依て︑一方を助くくし︒云奄といふ意味であらう︒恐らく之れ等
松浦職の滋展及び其の鯉的生活三五
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松浦蕪の礎展及び其の瀧的堆活二六
の條馴は︑雁安の規約の庇施に際して︑經嶮せられた事抵の激訓に韮いて︑建て直されたものであら
う︒細じて云へぱ︑唯安の規約は︑群しく理想的であり︑迩徳的であり︑抽象的であった︒嘉腱のも
のは︑溌際的であり︑法律的であり︑具艘的である︒此の條文の鍵化︑それ向身のみに依って見る
も︑彼等の一携的︑蝋的生活が規約に即して行はれたものであり︑且つ發展的なものであったことが
わかる︒
明徳三年の規約は次に示すが如きものである︒
本書ナランモ前文章整ハズ保存ノ価帷ナ・千LL︵以上加筆︶
︵ 前 文 散 性
︶
早凌馳参可致忠節云燕仙火急之御大事之時春︑馬一一
︑馬立
有吹畢︐以下云菊夷
ヘマ■︶一百姓赴散之事︑自領主於訴訟物考︑不論是非︑領主打可被返付也︑英
一大犯三ケ條之事︑H任本條之旨︑堅可有其沙汰︑云ぺ英
右雌子細多︑先日契諾状之條気被番赦之Ⅲ︑多分令省略考也︑若此條堂侭巾候宥
八幡大菩朧天洲大自在天祁御許︑各可能蒙候︑価起請文︑一挟之状︑如件
︵三︶明徳の規約
Ⅱ
次錐可馳参也英於一投人歎之中︑只有巾事時者︑先就是非︑一同可
〆