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The Upbringing of Ping-lu (平盧) Chieh-tu-shih(節度使) by Hsuan-tsung (玄宗) and Small Kao-chu-li (小高句麗). (continued)

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The Upbringing of Ping-lu (平盧) Chieh-tu-shih (節度使) by Hsuan-tsung (玄宗) and Small Kao- chu-li (小高句麗). (continued)

日野, 開三郎

https://doi.org/10.15017/2328419

出版情報:史淵. 89, pp.1-26, 1962-12-01. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン:

権利関係:

(2)

玄宗の平慮軍節度使育成と小高句麗国

︵ 承

前 ︶

日 野 開

[ )

第 五 節 軍

平慮軍節度使管下の軍団と兵力とは開一万と天宝とでその数に非常な聞きがある︒殊に天宝二年には大軍拡が行はれ︑家同

の大増設があった︒そこで考説も比の事実に即応して天宝元年以前と二年以後とに分って扱ふのが理解に最も便利でゐる︒

天宝元年以前の軍団

資治通鑑ざ天宝一克年正月の条︑通典時一一一州郡序目︑旧唐書崎一二地理志・序文等によって天宝元年の平慮惇下の軍同名

及び兵馬数を表示するに左の如くである︒表中の一半虚・虚龍両軍の設置年次はそれぞれ方鎮表と新白書地理志及び唐会要

時七節度使の項等に依ったものであるが︑尚詳しくは問箪問共に本文に論究する︒各軍聞の現位置は︑平虚箪と安東都護

府とは先に考証した所に従ひ︑論闘は満鮮地理歴史研究報告第一冊所収︑松井等氏﹁惰唐二朝高句麗遠征の地理﹂に拠る︒ 第一項

検閲は臨検閲とも云はれ︑叉検林関・檎関とも書かれ︑早くより史に著れてゐる要地である︒安東都護府は天宝元年には

未だ燕郡に在り︑遼西故郡城に移ったのは翌二年であるから︑資治通鑑等が遼一白故郡城の地を部護府としてゐるのは誤り

とし

て訂

正し

た︒

表に

依る

に︑

天宝元年の軍団は四︑そのうちのこは営州と安東都護府に︑二は平州に在り︑総兵力は兵三万七千五百

玄宗の平鹿箪節度使育成と小高麗国︵承前︶

(3)

使

天 宝 元 年 平 康 管 下 軍 団

・ 兵 力 表

漁 康関 飽

平 寧虚 団

捉 軍 軍 名

、 、 、 、一 一O 八 六

0  0 O

0  0  0  0

0  0  0  0 

四 馬

一 五 七 二

0  0  0  0

0  0  0  0 

紋 天 宝 間 関 一

| 

元 七 苅 五

! 伝 年 年 年 年西

七 七 七 四 一 一 暦

関治リ、1,1 yII

h

! 竪

人︑馬五千五百匹となる︒平州が幽州節度使の巡属から平虚藩に割属せられたのは天宝元年であるから︑虚龍・撒関の二

軍団が平虚の隷下に移されたのも此の年の筈で︑開元末までの軍団は平虚と安東との遼酉地区内二軍団に限られることと

なる

四軍団の沿革を考へるに︑平慮箪の開元五年設置は既に論証した所で再考の必要はない︒平州の虚龍軍は天宝元年設置 ︒

と明瞭に書き伝へられてゐるが︑一平州は嘗て開元二年に安東都護府の護衛として営平鎮守使の軍団が置かれた所であるか

ら︑此の鎮守軍団との関係に於いてその沿革を再検討すべき余地がある様に思はれる︒開元五年の平慮中阜の設置と︑此れ

に続く七年の安東都護府の平州から燕郡への進出は必然的に営兵鎮守軍団に大きく影響したことと思はれるが︑此の地の

重要性から推して軍団が全く撤去せられたとも考へ難く︑従って鎮守箪団と虚龍軍との閥の系譜的関係の有無をしらべる

必要がある︒詳細は便宜上後文に論述する︒

識関守捉の設置年次に就いては所伝が無い︒然し満華交通幹線に沿ふ軍事上の要衝としておそくも開元の初め回︑恐ら

くは更に測って則天武后の世の契円人李尽忠等の叛乱頃に既に置かれてゐたのでは無いかと思はれる︒開元年聞の存在に

就い

ては

確.

誌が

あり

︑詳

しく

は後

述す

る︒

(4)

最後に安東都護府であるが︑此の場合の都護府は平虚・虚龍の二軍や撒関守捉と並べられてゐる所よりして︑明かにそ

れらと並ぶ軍団としての周法である︒都護府は理蕃機関であり︑叉州格の行政機関でもあり︑それらの沿革に就いては既

に述べたが︑更に叉軍団としての沿革の考察が必要なわけでめる︒安東都護府を軍団の意味に使用してゐるのは︑当時さ

うした慣用があったからに相違ないが︑本来は理蕃機関である安東都護府を︑以て箪団に迄転用するに.至ったのは﹁安東都

開元

二十

五年

陶州

節度

使管

下軍

団ト

鹿

静家一軍

凶附央軍

北 平 軍

総関守捉北平守捉

安東鋲守

楠州域内婿州城内

治州城内

使

易州城内現州城内

定州城西

平州石城県

所在は本文参照

:MS 

川州↑所布は本文参照 護府の軍団﹂と云ふ正確な表現の略としてであらう︒安東都護府護衛の軍団は︑平州時代には営平鎮守と呼ばれて居り︑叉後述する如く遼西故郡城時代には安東守捉と呼ばれてゐるから︑燕郡時代にもやはり正式の軍問名を有してゐたと見る可︑きであらう︒開元五年︑営州毎契円から奪還して燕郡の復興に新手した時︑此所に経略鎮と呼ばれる軍団を設けたことは先に述べた如くであるが︑翌々七年︑都護府が平州から燕郡に移されて来た時︑先っその護衛の任に当ったのは必ずや此の経略鎮の兵であったであらう︒然し同時に叉此の地の兵力が大いに増強せられたことも疑ひ無いから︑経略鎮の名がそのままであったかどうかは慎重に検討する必要がある︒詳しくは此れ亦後述する︒

六地ハ玲兵部に述べられてゐる人節度使は開元二十五年頃の状態を伝へ

たものである︒従って平虚は廃藩せられて幽州藩に併入せられてゐたの

であるが︑此の平慮の箪団を吸収した当時の幽州節度使管下の軍聞は上

表の如く十三を計へる︒天宝元年の幽州節度使の軍団は九︑平虚は四で

(5)

玄宗の平慮軍節度使育成と小高麗国︵承前︶

あるから︑合計十三となり︑軍団総数に於いての増減はない︒又その箪鎮名は十一迄共通でゐるが︒二は椙長してゐるQ

即ち開元の北平守担と安東鎮守は天宝元年には無く︑その代りに虚龍単と安東都護府とが天宝一五年にあって開一苅にない︒

安東鎮守は当然安東都護府に当るものと解せられるから︑北平守捉は虚龍軍に当るものではないかとの考へが生れて来る︒

つまり燕郡時代の安東部護府の護衛軍団の正式の名称は六典に云ふ安東鎮守であったことが緩められると共に︑北平︷寸捉

と麗龍軍との聞に系譜的なつながりのあったことが察せられるのである︒

新唐書鳩一二地理志・河北道の条に依れば︑本道内には北一平と呼ばれる地名が二つあったことが認められる︒その一つは

定州所管の北平県である︒その条下に

万歳通天二年︒以拒契円更名狗忠︒神龍一苅年復更名︒

とある如く︑此所は契丹の河北侵入を防ぐ一要衝であった︒去によれば北平軍は定州城西に在ったと云ふから︑恐らくそ

れは此の北平県におかれたもので︑軍名はその地名に因んだものであらう︒他の北平は平州の郡名としての北平である︒

唐の

各州

の郡

名は

天宝

三年

に附

され

たも

ので

ある

が︑

陪書

一一

一一

一地

理忘

北平

郡︒

統県

一︒

一円

二千

二百

六十

九︒

慮龍

とある如く︑平州の郡名の北平は陪代の古名に因んだもので︑天宝三年に初まる新しい名祢ではない︒北平守提は此の一平

州治に置かれたものに相違ない︑川治は虚龍県治でもある︑して見ると︑成誼箪と北平守捉とは同じ一半州治に在ったこと

となる︒先にも言及した如く︑同一一地に別の二軍団は併置しないのが唐朝の一貫した方針であるから︑比の万針からすれ

ば同じ平州治に在った北平守担と虚龍家とは別

ω

軍団ではなく︑同一軍団の別名であったと見なければならぬ︒開元二十

五年の史料に北平守捉の名が見え︑虚龍軍の名が無く︑逆に天宝元年の史料に虚龍軍の名がみのって北平山寸捉の名が無いの

は︑北平守捉が此の間に虚飽軍と改められたことを示すものと解すべきであらう︒虚健軍の設置年次としてい伝へられてゐ

(6)

る天

宝元

年は

︑そ

の史

︑北

平山

↓u

u 批が

慮龍

箪と

改め

られ

た年

であ

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︒所

謂軍

鎮に

は︑

箪・

山一

リ川

批・

城・

鎮守

等の

別が

あり

軍は格式が最も高く︑守担・城・鎮守より軍に改められる時は﹁升﹂と云ひ︑反対の場合は﹁降﹂と云ひ︑単に箪名を改

める時は﹁.史﹂又は﹁改﹂と去って︑単とそれ以外の軍同との聞に絡式的伝一線を引いてゐたυ

ぃ版

龍箪

は軍

凶と

して

ω

沿

革は開元時代の北平守担に由来するが︑軍としての出発は天宝元年で︑それが虚龍軍の設置を天宝一苅年と書き伝へしめた

所以と思はれるじ同様の表現例は他にも見出・5

れる

北平山寸担のおかれた平州は将て安京都護附のおかれてゐた開元二年から七年まで尚一平鋲守使の箪問が置かれてゐた所で

ある

c安東都護府の燕郡への移転と共に都護府の護衛役としての軍団はもはや平州に必要でなくなったが︑此の地の柔・

契川に封する軍事的平山一一.要性から軍閉そのものの必要性は依然失はれることなく︑よって守つした役割を荷ふ可き新芯意味

を有った軍団が引続き存置せられ︑それが北半守担であり︑天宝元年︑平虚藩に割隷せられる際に虚龍軍に升せられたも

のと

解せ

られ

る︒

開元五年の燕郡回収と共に此所に置かれた軍聞は経略鎮であったν経略鎖は遼西地区に於ける要地としての燕郡の鎮護

の為めに置かれたものであるが︑間一苅七年の安京都謎府の設置は此の地の箪問に従米の地方鋲護の外に都護府批常設の新な

重任を加へることとなったし然し新に別の一軍団を添置することは当時の方針が固く避け

τ

ゐた所であるしそこで燕郡の軍

同は此の二大任務に対応し得る強力な軍聞に一新せられ︑かくて此所に安東鎮守が生れ出たものと解せられる︒理蕃機関

としての安京都護附の機能を発却させる為めの武力機関は一平雌取節位使であって︑宏一成鎮守だけの武力ではない︒安一栄鋭

守は都護府を衛る護身軍団であり︑併せて燕郡を鎮護してゐたものであるG

以上

の考

察に

依れ

ば︑

一平

底・

陶州

刷滞

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河北

方.

面の

車問

数は

開元

二十

五年

から

天主

一元

年迄

の六

年間

を通

じて

十三

同定し︑北平守捉が慮龍軍と改められた外︑実質的な変化は無い︒軍団数及び兵力数は閲元・天宝時代を通じて増加一方

鹿 使

斗J.

(7)

玄米

の平

慮渚

節度

使育

成と

小河

麗国

︵承

r凶 ︶

」 −

の大勢を辿ってゐるから︑開元二十五年以前の軍団や兵力数がそれ以後に比して多かったとは大勢的に考へ難い︒平虚蒋

が平州及びその二軍団を領したのは天宝元年で︑それ迄の箪聞は平虚軍と安東鎮守とのこつにすぎず︑

その

兵力

も閥

一苅

で兵員二万四千五百︑馬四千九百であったこととなる︒閲元中期頃の軍悶兵力は或は此れより少く︑二万程度であったか

とも思はれる3幽州藩の軍団は九︑兵員数は九万一千四百人︑それに天宝一克年に平慮に移隷せられた平州の二軍団を加へ

た開一苅末の軍聞は十一︑兵員数は十万を越える︒奨・契円の強攻を受けた際の平ぃ肢が期州滋の力に頼らなければならなか

った所以は此の軍団数及び兵力の関係にはっきり窺はれるであらう︒

辺境問備の軍問には大兵団たる軍・城・守捉・鎮守等の所調軍鎮の外に︑五百人以下数十人程度の小規脱な鋲・成がみの

った︒軍鎮が高宗の儀鳳以後に発達した白ものであるのに対し︑鎮・成は唐初以来の制であるが︑軍鎮の発達するに連れて

逆に

その

数多

白意

義も

減少

し︑

開元

時代

には

尚数

.白

の鎮

e智子してゐたとは一五へ︑辺防の任は荊んど全く軍鋭に移行し去っ

て居た︒平虚藩の地区内にも鎖成が置かれてゐたことはその若干の鎮成名が伝帯してゐることから確められるが︑然し強

力な柔・契丹の侵窟に対しては財団かに燦哨的な役割を果し得る程度にすぎなかったと思はれる︒先にあげた平州の二鎮十二

成中に見える紫裳・白狼・昌繋・遼西等の諸成︑当時の文献の諸処に散見する通定・懐遠鎮︑旧唐香川一二地理志に見える

陽師鎖・静蕃成等︑遼西地区内の銀成名は必ずしも少くない︒それらの現位置を逐一比定して行けば此の方面の形勢を明

かにする上に大いに役立つこと疑ひ無いのであるが︑史料乏しく︑二三のものを除く外︑その比定は事実上望み得可くも

なく︑且つ鎮成の辺防時代は開元以前に既に過ぎ去ってゐるので︑此所では鎖成の考証は一切割愛する︒

第二項天宝二年以後の軍問

契丹・奨その他の強過に対する防衛第一線に立つ平虚務の謹一曲地区に於ける天宝一万年以前の兵力が僅かに二軍同二万余

にすぎなかったのは︑此の地方の生産の貧弱さ︑此れを補給する輸送の困難さ等に制約せられた為めでゐるが︑天宝二年

(8)

に入ると︑恰もかうした経済的制約を無視するかの如き寧聞の大増設が遼西地区内に於いて遂行せられてゐる︒新唐書地

理志・河北道の平州・営州民ぴ州格としての安東都護府の条下を見るに︑移しい軍団の名が記されて居り︑そのうちから安

禄山の挙兵以前に置かれてゐたものを拾ひ出すと︑長城内の平州では従来からの虚龍軍・撒関守捉の外に新増のものは無

いが︑長城外遼西地区に於いては従来の平虚軍の外に懐遠・保定のニ軍︑従来の安東鎮守の後身と思はれる安東守捉の外に

汝羅・燕郡・懐遠・一以閥・裏平の五守捉が挙げられており︑遼西地区内で合計七軍団の増設せられたことを知る︒以下此

れら新旧軍団の位置や沿革等を出来るだけ考究することとする︒

平 慮 軍

平慮漏の牙軍として最ち古い沿革をもっ平慮軍に就いては此れ迄巌々色々の角度から述べ尽しており︑今更附け加ふ可

きも

のは

無い

ω

懐 遠 寧

当時の遼西地区には同じ懐遠と呼ばれる地が二つあった︒その一は小高句麗との国境に近い今の北鎮附近に比定せられ

る懐遠鎮であり︑今一つは営州の東北︑今の四角坂土城の地に比定せられる懐遼である︒此所は燕支械の所在地で︑惰末

に遼西郡が置かれた時その三管県の一たる懐遠県が置かれ︑唐初に遼州が置かれた時その郭下県となった所である︒北鎮

附近の懐遠鎮は営州から遠隔の地であるが︑懐遠県の地は営州に近い︒営州の地内に在りとせられてゐる懐遠軍は当然此

所に置かれたものと見る可きでゐる︒懐遠軍と同名の懐遠守捉は懐遠鎮に置かれた軍団であらう︒唐会要崎七節度使の項

の毎使管内軍の条に

懐遠軍︒在故遼域︒天宝二年二月︒安禄山奏置︒

とあるは︑懐違憲が遼州の故地に置かれたものである乙と︑その設置は天宝二年二月で︑安禄山の指揮に依ったものであ

玄宗

の平

慮軍

節度

使育

成と

小高

麗国

︵承

前﹀

︿日

野︸

(9)

使

ること等を明かにしてゐる好史料である︒先に考証した如く︑此所は開元末年の頃に順佑州が置かれ︑その郭下県として

やはり慢遠県が置かれた所であるが︑此の順化州は新唐書・方鎮表・幽州の開元二十九年の条に

幽州節度副使領平慮軍節度副使︒治順佑州︒

とある如く︑開元二十九年には幽州節度副使兼平慮軍節度副使の治所とせられた︒時の両節度副使兼任者は外ならぬ安禄

山であった︒此の安禄山の出駐は突厩帝国の瓦解による柔・契丹・室奪等の万一の動揺に備へたものであらうが︑その為

めには必ずや相当の部隊を率ゐてゐた筈である︒その屯駐部隊は恐らく平虚軍等の一部を差遣したものであらうが︑やが

てそれらの差遣部隊は此の地の重.要性から独立常駐の軍団に更められて懐遍箪と名づけられ︑それが天宝二年二月であっ

たのであらうυ

仰 安 東 守 捉

安東守捉は安東都護府を護る軍団でなければならぬから.五人宝二年以後は都護府が最後に移された遼困故郡誠に置かれ

てゐたこととなる︐平州に在った時代の都謹府の軍団は営ギ鎮守.燕郡時代は安東鎮守と時ばれ︑安東

γ

捉は

遼西

故郡

川州

時代の軍団を指す名称であったと云へる︒

ω

燕郡守担

燕郡守捉が都護府の去ったあとの燕郡に在った軍国の名称であることは云ふ迄もあるまい︒今の義県に当る此所は︑営

州より北鎮等を経て小高句麗の首都遼陽に入る満筆交通幹線上の要地であり︑叉北方懐遠軍の地を経て契丹・室章・抹輔

等の諸族に至る交通幹線上の要地でもあり︑東北面控制の上に官州と並ぶ重要な地位を占めてゐた︒都麓府の護衛とは別

に此の要地の鎮護の為めに有力な箪団を必要としてゐたわけである︒閲元七年に都護府が入って来る以前︑開一苅五年の遼

西地区奪回と共に早くも此所に経略鋲が置かれてゐるのはかうした必要に出たもので︑天宝二年に都護府が去った後の此

(10)

の地の鎮護の為めに燕郡守捉が置かれてゐるのも同じ理由によったものと考へられるυ

安山

見の

乱後

︑一

平底

軍節

度使

は搬

tC

ぃ ー

せられるの止むなきに至ったが︑営州と燕郡とには引就き軍聞がおかれており︑唐会要M−節度使の項の﹁毎使符内軍

附﹂︑活陽節度使鶴岡下鋲安感の条に依れば︑燕郡守促は平慮務が撤廃せられてから三十余年を経た徳宗の貞元二年四月二

十二日︑此の地の領有者であった幽州節度使により鎖安軍に升せられてゐる ωl時に幽州は所謂河朔三鎮の一として自立の

態勢を張って居り︑柔・契丹の防衛にも自力一本で当ってゐたG鎮安寧の設置はかうした防衛の強化の為めで︑如何に燕

郡が辺防上の要地であったかを一亦すものであるυ燕郡守担の設置年次は安東鎮守の去った天宝二年内のことであらう︒

ω

汝羅守捉

汝雑守担は汝縦に置かれた軍団であること︑夏めて云ふ迄もあるまいυ汝縦が首州の東南二百七十虫︑大凌削下流右山

の一地に比定せられてゐることは先に述べた如くであるυ又安東守挺の外に汝続出リ担が並び存してゐたことは︑安東都護

府の所在地を汝離に比定する従来の所説の誤りなることを立証する決定的な史料であることも先に述べた如くであるω

のん

寸捉

の設

置年

次に

就い

ては

所伝

がな

い︒

w瓜間守捉

ホ一聞は氏広間山に因んた地名で︑此の山脈を負った要地に置かれた・己のであるν医無慮・医無間・医母間等とも記され

て周礼・准南子・漢書・後漢書等に見え︑漢代には無慮県が置かれてゐた︒今の北鎮︵広寧︶の地に比定せられ︑医京一間

山は

その

西北

に速

H一してゐるし瓜悶守担は此所に置かれたものであらう︒此所は附・凶・契丹時代を通じて皆州・燕郡・

遼西城・汝雛を経て越陽に入る交通幹線上の一要地をなしてゐたb此所に守担がおかれたのはそれが為めであるじ設置年

次は

所伝

がな

い︒

w懐遠守捉

玄誌の平腐箪節度使育成と小高麗国︵承前︶

:fL 

(11)

使

懐遠守捉が遼河に近い懐遠鎮に置かれた軍悶であることは先に二言した如くである︒此所は陥唐の高句麗遠征に於いて

常に作戦上の要地となって居り︑殊に陥の遠征に於いては樋株の集積場となって居たので︑当時の文献にその名が散見し

てゐるが︑その正確な位置は判ってゐない︒松井学士は此れを北鎮附近梢々東方に比定してゐるがも l園旧一色民は多少此れ

を修正して北鎮の東南に求め︑今の一二盆河以西の聞に比定す可きものの如しとせられてゐる

1

此の守捉の設置年次も所伝

F弘 ︑ ︒

UN

JB

u

ω

裏平守捉

裏平は遼東部の郭下県として早くより史に著れ︑前漢より前燕に至る迄専ら今の遼陽の地を指してゐた︒只後説の時代Eに遼東郡を西に選レ︑従って裏平県も共に西遊したことがあり︑その地は今の諮県︑即ち燕郡に比定せられてゐる︒ 1

然し

遼陽は小高句麗の園都︑燕郡は燕郡守捉の置かれてゐた所であるから︑たとへ裏平県の故地であっても裟平守捉の候補地

たり得る所ではない︒そこで更に遼東郡叉は裏平県にゆかりのある地を求めるに︑今の新民県の附近︑遼河の西なる遼演

塔の地に比定せられてゐる通定鎖がある︒此所はもと高句麗が武属選と呼ぶ城を置いてゐたのを︑陪の燭帝が大業八年の遠

征の際に攻め取り︑遼東郡及び通定鎮を置いた所である︒降って唐の貞観十九年の遠征に於いては名将李世劫が営州を発

して懐遠鎮に進かが如く陽動しつつ通定鎮より遼河を渡り遼東に侵入して高句麗を狼狽せしめてゐる︒ l此の通定鎮に置か

れた遼東郡は一日比遼東新城とも云はれた︒唐の高宗の永徽五年︑高句麗は此の地から西方に出撃し︑当時唐に味方してゐ

た契丹を攻め︑却って大敗してゐる

ol

叉閲元末天宝初の湖海の北進に逐はれて来投した払裡株輔を以て置いた払浬州も亦

此の地方に比定せられること︑先に論証した如くである︒降って遼代には此所に遼州が置かれ︑開原方面に住する所調北

女直を統轄する北女直兵馬司の︐肘とせられてゐた︒遼の首府臨撹府から東京遼陽府に入る交通幹線は此の遼州を経由して

ゐた︒つまり通定鎖は遼東より遼西に入って或は契丹に通じ︑或は営州に往来する街道上の要地をなし︑且つ懐遠鎮と説ん KL

(12)

で唐の直轄領の東端の関口を掘してゐたのであるο懐遠・亙閲等に守捉が置かれてゐた以上︑此所にも守捉が置かれぬ筈

はない︒妥平守捉は必ずや此所に置かれたものであらう︒裏.平なる守捉名は此所巴宮て遼束郡が建てられてゐたことに困

ってゐるのであらう︒但し此所は開一万・天宝の交に来投した払浬抹輔人を以て払出州が置かれた地であり︑払浬州は小高

句麗国に隷属せしめられてゐたのであるから︑此所に山口の軍団を置いたとすれば︑相互の関係に就いて一考しておく必要

があ

る︒

通定鎮は唐の東北端に置かれた辺境の鎮である︒鎮治は恐らく小さな米務であったであらうが︑その皆域は者地に向つ

て大きく拡がってゐたであらう︒払混戦輯人はその管域内におかれたが︑鎮の治所を居住地としてゐたのでは無かったので

あらう︒そして守捉は鎮城に置かれ︑払出人と相侵すことなく両日仔してゐたのであらう︒此の守捉も亦設置年次の所伝が

ない︒恐らく懐遠・鎮閲・汝羅等の三守担と同時であったのであらう︒

制 保 定 軍

新唐書・万鎮表・胸州の天宝二年の条に

平慮軍節度使治遼西故城︒副都護領保定軍使︒

とあるが︑叫に考証した如く︑右の一半厳軍節度使は万鎮表の撰者が原資料に安東部護府とゐったのを政て改作したちのと

解せられるから︑原文は

安東都護府治遼西故域︒副都護領保定軍使︒

とあったものと見る可︑きである︒何れにしても比の記事に依って保定軍は副都護を軍使とする重要んは軍団であり︑天宝二

年には置かれてゐたものであることを知る︒所で天宝元年の軍団名中には未だその名は挙げられてゐないのでゐるから︑

保定軍の名が文献に始見する天宝二年は即ち創置の年でもあったこととなる︒

v

使

(13)

玄米の平巌寧節皮使育成と小高彪国︵承前︶

天宝十四年十一月叛旗を献して自ら雨下した安禄山は︑活陽︵幽州︶節度副使民佑をして沼陽を︑平虚箪節度副使呂

知識をして一平虚を︑別将官両秀綴をして大同を︑それそれ留守せしめ︑次いで翌至徳一克年四月.平虚の目知講をして安東副

μ ν P

γ

都護馬霊誉を誘殺せしめたυこのこと密資治通鑑J

安禄山使平慮節度使呂知海誘安東副大都護馬軍誉殺之︒

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都護

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旧唐

審問

一介

劉全

諒伝

知諮逐受逆命︒誘殺安東副都護・保定軍使馬霊音︒云一式︒

とて︑副都護・保定軍使馬霊警と一五っており︑副都護の保定軍使兼任が定制として安禄山の挙兵迄守られてゐたことをぶ

してゐる︒次に新盾書時十侯希逸伝に

営州人︒附o天宝末為州枠将︒守保定巧安禄山反ω

使中

人特

朝一

以命

希逸

︑斬

以狗

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山又

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将徐

一帰

道為

節度

使︒

希逸

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東都

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玄志

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︒一

広一

o

とあって︑保定軍使馬霊習の被殺後もその部将供希逸が勤王側に立ち︑都護と協均して安禄山側に立った節度使に対抗

し︑此れを攻め殺してゐるν保定ω阜の幹部のかうした吊躍は強力な保定箪を背景にしてゐたからでなければならぬ︒憾む

らくはその位置を明かにすることが出来ない︒太平賓宇一起す七河北道・営州の条にその四至人到を記して

東南五保定寧︒旧安東都護府︒二百七十型︒

とあるは︑保定軍に治してゐた副都護を都護と混同した記事で︑史料としては全く無価値のものであるυ軍使たる副都護

が勤王派として安禄山側の平慮寧節度使に誘殺せられたり︑その将兵が平慮寧節度使に対する勤王側の攻勢の先頭に立つ

たりしてゐる事実から推せば︑その治所は営州治から余り遠く無く︑少くとも都護府に比して営州に近かったのではない

かとの推測が抱かれる︒詳しくは後考を倹っ︒

(14)

遼西地区内の軍団は以上に尽きる︒あとは長城内平州の慮龍軍と撒関守捉とである︒

帥 虚 龍 翠

虚龍軍に就いては天宝二年以後特に考説すべき変遷ば無かった様でめる︒

川協関山寸捉

識関守捉に就いても附言すべき変化は無かった様であるが︑新唐書の地理士山に此のん寸捉を営州の条に掲げ︑恰る営州の

域内に置かれたものであるかの如く扱って居ることに就いてその所以を考案しておく︒

論関

は惰

書・

旧唐

書に

識関

︑新

出口

書に

撒関

・検

閲︑

資治

通鑑

ヰ一

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.に

織聞

と記

し︑

Ar

修永平府志イベも識を正とすと論じてゐる︒附代には別に今の山西省の北辺に檎関があり︑それとの混同を避ける意味では p

同問

註は

﹁倫

当作

総﹂

と云

ひ︑

撒関が勝ってゐるが︑別に何れが正誤であると論ずる担のことは無い様でゐる︒検閲は臨︵林︶檎関・倫林関等とも呼ば

れ︑

新唐

香川

一一

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士山

・河

北道

・平

州・

石城

県の

条に

石城県︒本臨議︒武徳七年省︒貞観十五年復置︒万歳通天二年夏名︒有臨識開︒

一名

臨間

関︒

云云

とある如く︑唐代には紛れもなく平州の管域に属してゐた︒今の山海闘の西万十邦型の地に当り︑階居の高句麗遠征軍が

遼東に往来する際はその都度此所を通過しており︑当時の満華交通幹線上の重要関円であった︒契丹の侵入を防ぐ上に色

長城線地帯の要衝で︑識関守捉がおかれたのはその為めである︒所で同じ新唐書・地理志の営州の条下には泳関守捉の名

をあげ︑営州の西四百八十用に在りと記し︑恰も検閲守捉が営州の域内に在ったかの如く取扱ってゐるQ但し右の西は正

しくは南西である︒平州の論闘は長城に近く︑その常州治迄の距離は布に云ふ四百八十引に略々当っており︑従って営州

の西︵南︶四百八十里と云ふ説明は誤りでないが︑撒関守捉を一千州の条下に挙げないで営州の管下に記した取扱ひは明か

に大きな誤りである︒然らば何故に此の様な誤った取扱ひが生れて来たのか︒翻って天宝一苅年の十節度使総叙の記事を顧

玄宗

の平

鹿軍

節度

使育

成と

小高

麗国

︵承

前︶

︵ 日 野 ︶

(15)

玄京の平成寧節度使育成と小高麗国︵承前︶

るに

通典・旧唐書・資治通鑑胡註の三番共に識関守捉の位置を蛍州の西︵正確には園南︶問白人十回正在りとしてゐ

る︒比れは撒関守担が平虚箪節度使に属する軍団であった為め︑節度使に関する記事としての立場からその位置を示すに

も会府たる営州治を基準とした迄で︑撒関Jザ捉が営州管内に在ったことを意味したものではない︒新麿書・地理志の撰者

は迂澗にも此のことを暁らず︑﹁営州の西四百八十里﹂の記事を営州治の西四百八十旦が営州の管域内に在るとの意に早

合点し︑よって識関守捉を営州の条下に入れたのであらう︒

以上︑天宝二年以後に於ける平慮務内十一軍団の個々に就いての考説を詰みたが︑その結果︑二年以後の増置にかかる

新軍団は遼西地区の七で︑その内容は懐遠・保定一山箪と安東・汝羅−

E

閲・懐遠・裏一半の五守捉となる︒安東守捉は軍団

名としては安東鎮守として従前から登場してゐたものであるが︑二年に比れ迄箪鎮のなかった遼−画故郡城に移ったのであ

るから︑実質的には新増に外ならず︑逆に右五守捉の外に登場して来る粥郡守捉は軍団名としては全くの新顔であるが︑

安東鎮守が東に移された後におかれたものであるから︑実質的には新増とはならないわけであるυ

平虚藩内の軍回数は

開一克二十九年迄は僅かに平屋軍と安東鎮守との二つにすぎなかったのが︑翌天宝一五年には平州の虚龍箪と検閲守捉との割

属を受けて四軍団となり︑翌二年以後は更に遼西地区内に七軍団の新増がめって都合十一寧団に達した︒新設七軍団のう

ち︑設置年次の明かな懐遠・保定の二軍と安東守捉とは天宝二年である︒して見ると天宝一二年は平虚落の軍団が急増せ

られた時期であったこととなり︑延いては設置年次不明の汝縦−

Z

悶・懐遠・裏平の四守捉も恐らくはやはり天宝二年で

あったのであらうとの推測が抱かれる︒天宝元年から三年迄は平虚藩の独立時代であり︑然も節度使は一世の怪傑安禄山

であった︒七軍団の新増設と云ふ大軍拡はかうした条件の下に於いて初めて可能であったと考へられるから︑右四守担の

天宝二年設置とする推測は当らずと雄も遠くはあるまい︒

平慮藩管下諸寧固に就いての個々の考察は以上に尽きる︒個々の考察を通じて云へる最大の問題点は天宝元年から二年

(16)

にかけての大軍拡で︑それが如何なる要請に応じ︑如何なる目的を以て行はれ︑落の発展にどの様な関係を有ってゐたか

が新に考察の対象となって来る︒

第三項天宝初年大軍拡の意義

天宝元年より翌二年にかけて行はれた.平虚務の大軍拡に於いて故大の問題点となるのは︑二年に於ける七単聞の増設で

みのる︒元年の増領二軍は幽州から在来の軍団を割属せられたものであり︑何れも長域内に在ったのに対し二一年の増設七軍

団は悉く新設であり︑然も長城外遼西地区にあるものばかりであったからである︒そこで先づ比の新設七軍聞に就いてそ

の意

義を

考へ

て見

る︒

新設七軍団のうち︑所在の不明な保定寧を除く他の六寧団をその位宣に就いて見るに︑山女京都誕肘部下

ω

安東守捉を初

め汝羅・広一間・懐遠・裏一半の諸山寸捉︑共せて五軍団が遼西故郡城及びそれ以東の地に置かれ︑その先端をなす懐遠・亙闇

・裏平の三守捉は小高句麗国との境界線たる遼河に近い地点に在った︒従って此れら五守捉の設置は主として小高句麗万

面に対する軍事力の強佑を目的としてゐたものと見るを得ょう︒旧との安東鎮守のあとに置かれた燕郡守捉も遼西故郡城

の安東都護府から西万四十里に当り︑百八十里の距離をもっ営州よりも数倍都議附に近かったυ安東副都護が軍使となっ

てゐた保定躍も︑その位置は不明であるとしても︑蛍州よりも都議附に近記レてゐたと見て誤りないであらう︒都護府よ

りも営州に近かったのは懐遠軍只一つである︒所で惰の大業人年︑場帝が遼西郡を設け︑粟末誌報人突地稽を太守とし︑

ゆ 七

の一党の力を以て大高句麗の西侵に対抗せしめんとした時︑郡の所管とせられた遼困︵郭下︶櫨河・懐遠の三県はそれぞ

れ安東都護府︵安東守担︶燕郡守担及び州以遠箪の所在地であったυつまり此れら三箪団の地は遼東勢力の西侵を防ぐ大凌

河の天険に沿ふ要衝で︑特に安東都護府の地はその中︑むをなしてゐたのであるQ

此の

様に

考へ

ると

︑懐

遠軍

・燕

郡守

捉の

置にも小高句麗万買に備へる意味が合まれてゐたと昆て誤りないであらうω勿論︑懐遠軍や燕郡守捉は契丹に備へる箪鎖

玄宗の平鹿箪節度使育成と小高麗国︵承前︶

L

(17)

使

としての役割をも持たされてゐたであらうが︑遼東の勢力に備へる役割を無視してはならぬ︒

新設の諸軍鎮は大凌河流域以東︑即ち遼西地区の東部に集中しており︑従ってその所管州府は営州と見るよりも州絡と

しての都護府であったと解すべきであらう︒新設の出向箪鎮は燕郡守捉と共に都護府治争中心としてその周凶を取巻いた形

で散在してゐる︒新唐書の地理志は安東・懐遠・保定の一守捉二軍のみを州格としての都護府の管域内におき︑裏平・亙

聞・懐遠・汝羅の四守捉を営州の管域内に置いてゐるが︑四守捉を営州管内に置くはそれらの位置に視て頗る不合理で︑

先にも述べた如く漁関守捉を営州管内に置いてゐるのと同様︑地理志の撰者の謬見と云ふ外ない︒懐遠寧を都護府の管域

内に置いてゐるのは︑嘗て隔の遼西郡が懐遠県を管してゐた史実から推せば肯けないことはない︒燕郡守担も同様でみの

る︒かくて州格とレての都護府の管域は新設の七軍鎮及び廿州市守捉の所在地を包括する頗る広大なものであったことを知

る︒比の広大な管域に対する州格としての都護府の行政力は多数軍鎮の布置によって速に浸透した答である︒天宝一苅年の

営州の管戸数は九百九十七︑燕郡に在った都護府の管戸数は一千五百八十二で︑共に一千一戸前後であったのに対し︑都護

府東遷後の管戸数が五千七百十八にも達してゐるのは︑かうした広大な地域に対する行政力の浸透の結果であらう︒

新設諸軍団が何れも小高句麗万

E

に備へる為めのものであったとすれば︑総数七に

JF

O表ぷ軍団の新設は唐の東北政策の

重点が大きく遼東の経営に移されたことを意味する︒遼東の経営に直接当ってゐたのは安東都議府である︒安東都護府が

東に徒り︑その移転の年が七軍団増置と時を同じうし︑共に天宝二年でみのった所以は右の如き事情に在ったのでゐる︒

七軍団の増設に際しては当然兵員の増募があり︑平虚藩の総兵力は増したことと思はれるが︑平慮軍や安東鎮守から

分遣せられたものとあった筈であるから︑七家間の兵数がそっくりそのまま平成部の兵数増加でめったとは一五へない︒先

掲の新唐書問酔侯希逸伝に彼が営州の御将として保定城を守ってゐたとあるは平底箪将兵の新箪鎮への分遣の例でゐる︒

然しかうした分遣は新寧鎮創設の際の処置で︑各軍鎮完成後は自給自足の態勢に移り︑叉平虚宮中も補填せられ︑結局︑平

(18)

慮藩総兵力の大増強となったであらう︒

新設七軍団及び燕郡守捉の所在地は州格としての安東都護府の管域であっても︑軍団そのものは総て節度使に直隷して

ゐたわけである︒然し八軍団が都護府の管域内に所在し︑遼東に備へる意味で都護府を援けて行かなければならぬ役割ぞ

負はされてゐたとすれば︑八箪聞と都謹府との関係は当然濃・留なものとなる︒仮に都護と節度使とが衝突した場合︑都護

の立場は有利となり︑それだけ都護府に対する節度使の威権は弱佑せざるを得ない︒それは藩政の運営に支障を来す恐れ

がめり︑叉奨・契丹が動揺した際の節度使の作戦にも影響する所なしとしない︒かうした節度使の都護に対する相対的な

威権の弱佑ぞ補強せんとしたのが平州管下の虚随軍及び檎関守捉の割属︑兵力にして一万三千人

ω

転属であったと忠はれ

る︒つまり天宝元年の平州及びその管下二軍鎮一万三千人の幽州節度使からの転属は翌年に於ける遼西地区東部の七軍同

いはばその前段階をなすものでみのったと解せられるのである︒尚安東都護と節度使との対立は安

禄山の叛乱を機として現実化するのであるが︑此のことに就いては章節を更めて詳考する︒ 新

設に

連る

処置

であ

り︑

創設以来︑大突厩F帝国の威力を背景として暴掠を遅しくして来た契丹・柔に対する防制を諸問の活動の中心としてゐた一千

産軍節度使が天宝元年を界としてその重点を大きく東万の満洲対策に転換したのは︑先づ第一に突版帝国が開元末に瓦解

し︑それに従って契丹・奨の暴掠も弱まり︑対契丹・柔防制の労苦から解放せられた為めであり︑第二に此の突販の互解

に乗ずる働海の北進政策が逮かに活滋となり︑満洲の形勢に大変佑を来した為めである3既に詳論した如く︑激海ば純通

古斯系幹輯諸旗併呑の宿願を達成すべく北征を敢行し︑鉄利・越喜・払浬等の有力諸部を悉く征服して直轄領民とし︑彼

等のうちの反抗分子は逃れて唐に投じ︑唐はそれらの来奔諸部人を遼東に置いて小高句麗国の民に編入した︒遼西地区東

部に軍聞を充実し︑小高句麗国との国境に威圧的な寧容を布いたのは︑来奔の昧輔諸部人が小高句麗圏内で妄動するのを

監視し︑更に勤海の新興威力を眼のあたりに見た同一民族の小高句麗国自身が此れに帰向するを遍止せんとしたもので︑

玄宗

の平

鹿寧

節度

使育

成と

小高

麗国

︵承

前︶

︵ 日 野 ︶

(19)

玄宗

の平

慮箪

節度

使育

成と

小高

麗国

︵承

前︶

かうした遼東対策としての寧団新設が懐遠や燕郡に迄及んでゐたのは︑純通百斯系幹輔諸族の入唐路が扶余から懐遠に至

る街道であり︑懐遠及びその背後の燕郡の固めが忽せに出来なかったからである︒つまり天宝初年に於ける平虚藩の軍団

増加による大軍拡は︑突厩帝国の瓦解を機として展開せられた東北辺外の形勢の急変︑即ら従来の契丹・柔に代る溺海の

強大佑に即応したものであったのである︒此の大仕事を断行してのけたのは安禄山であるが︑比の時既に彼が禍心を包蔵

し︑軍拡も一一崩に於いて決起の日に備へる意図を有してゐたか否かは明かでない︒

営・平二州に在る在来四軍鎮の兵力は三万七千五百人で︑一軍団の平均は九千余人となるο新設七軍団の平均が此の様

に大きいものであったとは考へられないが︑然し鎮成の如き数百人以下の小規模なものでなかったことも紛れない︑天宝元

年の十節度使管下諸軍鎮の兵数を見るに︑剣南・嶺南の西南両境のニ藩を除く北辺入藩に於いては一軍団の平均五千余︵臨

右︶から一万余︵沼陽︶にも達し︑従って一二千程度の小規模なものはひしろ稀である︒所謂軍鎮のうちで寧は概して規模

が最も大きく︑天宝元年の北辺人節度使管下の寧を通観すると︑千人程度のものも絶無ではないが概ね数千から多きは三

万を越えてゐる者さへある︒逆に守担は概して規模が最も小さく︑八藩管下のうちにも千人を割るものさへあるが︑それ

は寧

ろ例

外的

で︑

一般には少くとも千人を越え︑多きは七千人を越えるものさへある︑天宝以後増置の軍鎮はかうした平

均規槻を下廻って小型佑したかの観があるが︑それでも尚千人を割るのは例外的なものであったと云へる︒此の様に見て

来ると︑新設の平慮七軍団も補給その他の事情から一様に大型であったとは見難く︑都護府の安東守捉︑副都護兼任の保

定軍︑嘗て副節度使の治所となってゐた懐遠軍等を除く他の四守捉は恐らく小型であったであらう︒小型四軍団の兵力

合計ぞ少く五千と仮定し︑他の三寧団の合計金一万と見ても︑少くとも一万五千には達してゐたこととなる︒或はもっと

多かったかも知れない︒とすれば忽ち問題となるのは︑平慮務の経済的弱髄性からして︑当然務外からの補給であった告

である︒天宝年聞に補給の為めの陸海両運使が併置せられてゐた所以は比の軍拡に求む可︑きである︒地理的に見て陸連使

(20)

は営平ニ州の四軍鎮の補給︑海運使は都護府管域内の七箪鎮︵但し懐遠軍は事情やや奥る︶の補給を主としてゐたと考へ

られる︒都護府管域内の兵力が補給を海運に依ってゐたことは安史の乱の推移に大きく影響してゐるので︑敢て此所にそ

れを指摘しておく︒

第 六 節 平 庫 軍 節 度 使 の 強 化 と 小 高 句 麗 国 の 制 圧

平虚軍節度使は玄宗が激動する東北辺外の形勢に対応して辺防を処理して行く為めの第一線武力機関として長域外遼西

地区に育成したものであり︑従って平虚藩の推移には東北辺外の形勢の変佑と此れに処する唐の対策とが常に反映してゐ

た紘一向である︒平慮藩の沿革をその置廃・職責・構成・領州・箪団等から隣務陶州節度使との関係に至る迄詳細に考察した

のは︑小高句麗を中心としてその周辺に展開せられた東北辺外の大きな動きが唐朝に於いてどの様に把へられ︑どの様に

対処せられてゐたかを究明せんが為めである︒東北辺外の形勢の推移そのものに就いては︑突廠の興亡︑契丹の暴掠︑溺

海・綜輔の抗争等を中と心して既に詳考した所で︑此所ではそれらの動きが平慮軍節度使にどの様に反映し︑叉本務がど

の様に対応して行ったかと云ふ点を考察の中心とする︒先づ此れ迄に考説した一平虚務の沿革をその置廃・離合・領州・軍

団等に就いて表示するに左の如くである︒

平 鹿 軍 節 度 使 年 表

− 年 号 一 西 暦 一 躍 廃 沿 革 一 領 州 沿

↑関

一苅

五年

一七

一七

一世

平憶

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七年

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川中

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廃藩o幽州滞に併入

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玄宗

の平

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節度

使育

成と

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承前

︵ 円 野 ︶

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(21)

二七年 玄宗の平康軍節度使育成と小高麗国︵承前︶

復滋︒独立

O

都護府を遼商故都城一

一平康一室章・綜潟︵溺海・黒水以下諸猷鴇︶両蕃︵契丹・奨︶小高句麗管内諸蕃等の健制鎮撫

11 11 11 11 11 11 11 11 11 11 1

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1

11

11

11

一幽州一平鹿を背後より支援︵突動は主として梁・契丹との対抗︶

軍団は武力機関たる節度使の生命であるので︑特に取出して左に表示しておく︒

二九年

天宝一苅年

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独立専任

鹿 使

援砲軍・漁関守捉明領

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表に就いて訟も注目を悲くのは一平成務が胸州と不可離の関係をもってゐたことであるu

創部

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安禄

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主る三十七年間︵七一九

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七五五︶に於いて平慮滞の独史時代は僅かに十三年︑残りの二十四年は幽州の支配下におかれ

てゐ

Qかうした自主性の喪失は務鋲に取って最も致命的な打撃であり︑それだけに最も深刻な辺外情勢の反映であった

と見なければならぬ︒よって此の幽州務との離合を中心としつつ平慮溝の推移と辺外情勢との関係を考察して行くことと

する︒此の立場に立った場合︑平虚務の沿革は大関四期に分つことが出来るυ

第一

期は

開一

苅七

年か

ら十

五年

迄の

九年

間で

創置独立の時代︑第二期は同十六年から二十六年迄の十一年間で︑幽州の一元指揮の時代︑特に二十年以後は平慮の廃藩

に迄進んでおり︑第三期は二十七年から天宝二年迄の五年間で︑中聞に二十九年の一元指揮が挟まれてゐるが︑大体に於

いて復務独立の時代であり︑第四期は天宝三年から十四年迄の十二年間で︑陶州の一元指揮の時代である︒

第一期は岡元五年に契丹から奪凶した遼西に一平虚藩を創置し︑満洲への通路としての遼西を確保して契丹・奨・小高句

蝉・揃海・株鞠諸部等を制川し︑それによって大突厩・帝国の左替を切断すべき態勢を整へた時代である︒遼西の奪回は先

に別天武店の時これを喪失したその日から唐が宿願として来た所であり︑それが開元五年に達成せられたのは︑久しく唐

を川迫して来た突臓の巨品開黙畷可汗が老表して開元問年に部下に殺され︑その前後数年にわたって突.欧の抗力に甚しい減

退を来してゐた為めであるυ此の期間の一平虚務の兵力は一平虚翠・安東鎮守の二軍鋲と若干の鋲成とより成る推定二万前後

にすぎず︑河西の赤水軍三万三千人︑河東の天平寧三万人等に比すれば一軍にも及ばなかった︒かかる小濯が独立よく

その

使命

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唐に

帰属

鹿使

(23)

玄米の平塚軍節E皮使育成と小高麗国︵承前︶

たからである︒然し足下に勤停を以て鳴る奨・契丹の本土を控へ︑更に遠く満洲の閣制煤に当る安東都護府を抱いてゐた平

慮の職責は余りにも︐大きく︑此れに対する二万前後の兵力は余りにも小さく︑然も箪拡は補給の面から望み雑く︑ここに

平慮漏の将来は多難なるべきことが予見せられてゐた︒第二期は此の予見せられた危倶が現実となって現れた時代であ

黙畷可汗の老衰被殺によって一時衰退した突阪は此伽可汗の下に倍旧の勢を以て盛返し︑塞外を制覇し︑玄宗の大唐をも る

注加圧倒した︒突厩の勢力を最も鋭敏に感受する契丹は忽ち此れに附し︑その臣官可突子の一一派が開元十三年頃より不穏な勤

きを初め︑実も此れに同調し︑開元十八年には親唐派の契丹酋長李部間を殺し︑唐から降嫁した彼の妻東離公主を一半胞に

奔らせた︒一半胤が開一万十五六年の頃から綱州の一元指閣下に入り両法一体の作戦体制に入ったのは︑平庖の過少兵力のみ

ではかかる形勢に対抗出来なくなったからである︒契丹・奨の政胞は益々隠しく︑府は開元二十年に大征討軍を起して決

戦を挑んだが︑可突子は巧に遠遁して鋭鋒をかはしただけで︑唐寧班師の現二十一年には早くも来冠した︒二十年の平鹿

の廃灘︑尚州への併入はかうした契丹・柔の暴掠に対する非常対策の意味をもっ︒尚此の宵側の非勢は湖海にも利用せら

れ︑店の東北橋燦は採々危ふくなった︒即ら大唐が閲元十三年に黒水抹輯と提携して揃洲政策を強化せんとしたことに不

満を抱いてゐた湖海は︑開元二十年に至って山東の登州に入冠し刺史を殺して気勢をあげた︒明かに唐の平慮・削州二線

の兵力が契月・奨に引きつけられてゐた成に乗じたものである︒平胞の廃務︑陶州への併入はかうした面からも促進せら

れたものと思はれる︒一平胞に対する尚州の一一一ん指揮は大将陶州の兵力をも平胤の兵と共に第一線部隊とし︑その巨大な力

を以て非常時を切抜けしめんとしたものである︒

かうした東北辺の危急を救ったのは二十一年に剛州節度使となった張守珪で︑

め︑二十三年正月︑窮境に陥った可突子は部下に殺され︑その白は洛陽に伝へられた︒此の報は忽ち湖海の態度に影響し︑ 急攻をさげた彼は漸次可突子を迫ひっ

参照

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