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真宗研究24号全

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(1)

慎宗連合學會研究紀要

ー 第 二 十 四 輯 一 一

函 和 55 2

虞 索 追 合 學 會

(2)
(3)

宗 研 究

連 合 学

第 二 十 四 輯

(4)

念 仏

者 の

﹁ し

る し

﹂ と

否 定

の 精

神 ⁝

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⁝ 秦

阿悶仏国経と無量寿経………••………•大

高 僧

和 讃

二 首

の 解

釈 ⁝

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ー源空讃二首の歴史的意味について

l

仏 教

信 仰

と 造

像 ⁝

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生即無生に於ける自証と救済………•………••長

興 正

寺 と

山 科

言 経

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西

研 究

第 二 十 四 輯

目 次

尾 正

削 弘

井 元

田 利

生 (

‑ ︱ )

了(

︱︱

︱︱ )

道 ( ‑ ︱

︱ ︱ ︱ ︱ )

瑛︵翌︶ 子

︵ 登

治 人

︵ 一

(5)

学 会 彙

『論註』における「衆生」の意義………••…………・尾

唐 初

の 浄

土 教

と 智

徹 ﹁

雑 孔

目 ﹄

の 論

意 ⁝

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・ :

教 行

二 巻

と 如

来 の

知 慧

海 ⁝

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教行信証の教行関係日

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⁝ 籐

大谷廟堂考⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝堅

輪 燈

採 用

の 史

的 論

考 ⁝

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剖………••……•………こ二さ

美 田 谷

妻 道

林 賀

玄 ︵

七 七

生︵全︶

円 ︵

九 四

(1

0

秀 (

‑ ︱

立 ︶

畑 文 正

︵ 六 へ

(6)
(7)

﹁ し

る し

﹂ と否定の精神

浄土教の宗教的実践の課題は、社会的関係•世俗的関心を超えてひとりひとりが本願念仏の教えによって目覚め、

歴史的現実のただなかに仏者として成就するところにある︒それは﹁本願を信じ︑念仏をもうさば仏になる﹂という

端的な言葉の中に語られる正教を歴史の中で証していくことに他ならない︒そして師教聞信において選びとられたそ

の信念に基づいて世俗を尽して人生を仏道に捧げていく︑そこに浄土教的実践が目指す方向がある︒ここで考察した

いことは︑このような実践の方向を倫理的実践の課題を視座に入れながら︑念仏者の﹁しるし﹂のなかに働らく否定

の精神とは如何ように語られているかということである︒

倫理において言われることは︑人間が真に人間になること︑或いは自己が真に自己に成るということである︒更に

言えば人間が真に人間に成ることが義務として要請されるところが倫理の世界である︒従って倫理の立場は倫理以前

の様々な立場と異なる︒いわば人間というものを自己の内側から問い︑その中で人間が真に人間になるという立場を

念仏者の﹁しるし﹂と否定の精神

念仏者の

秦 だ

はるム 口

人 と

(8)

ている︒至誠なるもの︑真実なるものへのひたむきな情熱なくしては宗教的実践に目を開くことも不可能である︒至

誠心への歩みの中でこそ人間存在の構造と本性が明らかになってくる︒至誠なるものへの情熱は︑倫理と宗教に一貫

するものであるが︑倫理的実践における至誠なるものへの方向は︑宗教的実践と自覚に転ぜられない限り︑常に可能

性の夢から覚めることは出来ない︒そして人間が人格として現実性にまで成就するという倫理の課題も絶望への道で かし倫理の立場を通さずしては開かれない課題である︒﹁散善義﹂における至誠心への方向がそのことを明らかにし

︵同

上︶

と規

定し

てい

る︒

彼はまた宗教を︑﹁宗教という根本概念は︑究極的関心事︑無限の関心︑人が無条件的に真摯に ﹁道徳的命法は︑人間 よ︑汝は人に取入って好かれるような点を何︱つ含まず︑むしろ服従を要求する﹂(r実践理性批判﹄︶と叫ばしめるの

念仏

者の

﹁し

るし

﹂と

否定

の精

徹底していく︒そこでは人間が連続的に生成し︑真に人間になるというのでなく︑古い自己を捨てて新しい自己に生

れかわり改新されるというような否定を契機としての飛躍ということが含まれている︒カントが強調したように︑道

徳的命令と感じ︑不断の行為の中で真の自己を選びとるということがある︒そこに﹁義務よ/.

である︒真の人問とは人格ということである︒義務としての人格である︒またティリッヒは︑ 汝︑崇高偉大なる名

が本賃的に︑それ故に可能的にあるところのものに現実的になれとの要求である︒人格ー存在は︑本性によって与え

られている人間の存在支配力であって︑これを時間と空間とのなかで現実化しなければならないのである︒人間の真

の存在は現実化されるべきものである︒そして彼の真の存在は人格ー存在であるから︑道徳的命法の内容はなにより

︑︑

︑︑

もまず︑人格になることである︒道徳的行為はすべて︑おのおの自己が人格として確立され︑同時に統合を解体する

傾向に抵抗する行為である︒

教的

課題

﹄︶

と言

う︒

なぜなら統合された人格のみが人格ー存在の可能性を成就するからである﹂

受けとれるもの︑こうしたものによって捉えられる状態である﹂

︵﹃

倫理

の宗

無限の関心︑究極的な関心事において人間が真に人間に成るということは既に倫理を超えるものの課題である︒し

(9)

しかない︒倫理の立場では倫理そのものが死ぬことによってしか自らを甦らせる道はない︒

これまで倫理の課題と実践の方向について簡単に触れることがで含たが︑次に浄土教における実践︑特に念仏者が

その信仰生活と実践においてあらわしてくる﹁しるし﹂と否定の精神という点から考えてみたい︒

宗祖においては﹁雑行を棄てて本願に帰す﹂と表白された回心とその念仏者としての実践は真の仏弟子としての金

剛心の行人の歩みに他ならなかった︒このような金剛心の行人としての念仏者の宗教的実践ぱ︑先にみた如き︑倫理

的実践とは全く質を異にするものである︒それは倫理以前の立場とは無論のこと︑倫理的人問観や実践の立場から連

続的に到達されたものでなく︑﹁いづれの行もおよびがたき身﹂として︑倫理的自己実現や聖道門的仏道成就の課題の

崩壊を自覚し︑もはやそのような立場へと帰ることの出来ない如来の本願において自己の立つべき世界を選ぴ取って

いる世界としてある︒何故なら︑倫理的・聖道門的自力修行による宗教的実践とは︑

︱つには︑有漏の心より生じて法性に順ぜず︒

なこ

れ顕

倒す

みなこれ虚偽なり︒このゆえに不実の功徳と名づく﹂︵﹃論註﹄︶ところのものであり︑従って﹁外に賢

善精進の相を現ずることを得ざれ︑内に虚仮を懐ければなり︒貪瞑邪偽︑奸詐百端にして︑悪性侵め難し︒事蛇鍋に

同じ︒︱︱一業を起すといえども︑名けて雑毒の善とす︑また虚仮の行と名づく︑真実の業と名づけざるなり︒もしかく

の如き安心起行を作さば︑

すべて雑毒の善と名づく﹂︵﹃散善義﹄︶と言われ︑

転して︑出離の縁あること無し﹂

たとい身心を苦励して︑ いわゆる凡夫人天の諸善・人天の果報、もしは因•もしは果、

み 日夜十1一時に︑急に走め急に作して頭燃を灸うがごとくするもの︑

﹁自身は現にこれ罪悪生死の凡夫︑瞭却より已来︑常に没し常に流

︵同上︶︑また﹁いづれの行もおよびがたき身なれば︑とても地獄ほ一定すみかぞか

念仏

者の

﹁し

るし

﹂と

否定

の精

﹁真実功徳相は︑一一種の功徳あ

(10)

なれば︑他力をたのみたてまつる悪人︑︵﹃歎異抄﹄第三条︶と語られ︑更には

﹁み

ずか

とおもうべからず︒ 念仏者の﹁しるし﹂と否定の精神

し﹂︵﹃歎異抄﹄︶と頷づれてくるものである︒従ってそのような自力の行を以ては﹁これ必ず不可なり﹂として自己の 宗教的救いの行においては捨てられねばならない︒人間の自力の立場︑倫理的自己実現の方向が︑本願に触れること によって絶対的否定されるのである︒倫理的実践における否定や絶望ということは︑自己の可能性を現実性にまで肯 定し高めようとするところに起るが︑宗教における絶対否定は倫理的立場を絶対否定することによって自覚による救 いをひらくものである︒人問の自力の立場は純粋否定が不可能であることによって︑人間の側からは浄土教的自覚は それ故に﹁自力と申すことは︑行者のおのおのの縁にしたがいて︑余の仏号を称念し︑余の善根を修行して︑

みを

たの

み︑

され

わがはからいのこころをもって︑身・ロ・意のみだれごころをつくろい︑

せんとおもうを︑自力と申すなり︒⁝⁝⁝⁝行者のはからいは自力なれば︑義というなり︒他力は︑本願を信楽して

往生必定なるゆえに︑

すっというのは︑ さらに義なしとなり︒しかれば︑

からず︒凡夫はもとより煩悩具足したるゆえに︑

わがみのわるければいかでか如来むかえたまわんとおもうべ

わるきものとおもうべし︒また︑

自力の御はからいにては真実の報土へうまるべからざるなり﹂

また﹁自力作善のひとは︑

自力のこころをひるがえして︑他力をたのみたてまつれば︑真実報土の往生をとぐるなり︒煩悩具足のわれらは︑

づれの行にても︑生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて︑願をおこしたもう本意︑悪人成仏のため

の︑おのおのの戒善︑

よう

よう

ひとえに他力をたのむこころのかけたるあいだ︑弥陀の本願にあらず︒しかれども︑

もっとも往生の正因なり﹂

さまざまの︑大小聖人︑善悪凡夫の︑ 開かれることがない︒

わが

めでとうなして︑浄土へ往生

わがこころのよければ往生すべし

︵﹃

親鸞

聖人

血脈

文集

﹄第

一通

︶と

おのおのの自力の信、自力の善にては、実報土にはうまれずとなり。•………••自力のこころを

みずからが身をよしとおもうこころをすて︑みを

(11)

なり

たのまず︑あしきこころをかえりみず︑

慧の名号を信楽すれば︑煩悩を具足しながら︑無上大涅槃にいたるなり﹂

ひとすじに︑具縛の凡愚︑屠活の下類︑無碍光仏の不可思議の本願︑広大智 場から念仏往生の本願を信楽する他力金剛の信心の人へ回心せしめられたとき︑絶対否定の自覚はそのまま如来の絶

対摂取を確信する正念に住する人として︑金剛心をえたる人と呼ばれる︒すなわち他力の信心の人は﹁必ず大涅槃を 正しく念仏者とは内なる金剛心によって自己の人生を尽すことの出来る者として甦えるのである︒

五濁の世︑無仏

の時という現実のなかで真の仏弟子として自己の人生を仏道に捧げてゆく行人︑それが念仏者の生活実践である︒そ の生活ほ単に世俗を肯定し煩悩の身を肯定することではなく︑如来の真実を仰ぐことによって世俗における煩悩の身 を悲しみ︑仮なるもの・偽なるものを内に批判していく否定の精神を宿したものである︒それ故に﹁真仏弟子と言う

は︑真の言は偽に対し︑仮に対するなり﹂と述べて︑

また﹁仮と言うは︑すなわちこれ聖道の諸機︑浄土の定散の機

﹁偽と言うは︑すなわち六十二見︑九十五種の邪道これなり﹂︵﹁信巻﹂︶と決判されるのも︑自らの求道の歴史 の中で定散の自心に迷い︑更には邪追に顧落してゆかねばならない末法時の道俗としての在り方を見据えているから であり︑金剛の真心の利益によって真の仏弟子とされる浄土の真宗に値遇することが出来たという︑深い懺悔をくぐ

って与えられる感激を忘れることが出来ないからである︒

この懺悔と惑激は﹁化身土巻﹂の三願転入の表白にそのまま伝えられている︒そしてこの表白に続いて﹁信に知り

ぬ︑聖道の諸教は︑在世正法のためにして︑

浄土真宗は︑在世・正法・像末・法減︑濁悪の群萌︑斉しく悲引したまうをや﹂と語り︑末代においては浄土真宗・

本願念仏の教法のみが︑

まった<像末・法減の時機にあらず︒すでに時を失し機に乖けるなり︒

その道俗をしてひとしく救い︑真の仏弟子・人者を成就する唯一の仏道であることを堂々と

念仏

者の

﹁し

るし

﹂と

否定

の精

超証すべき﹂金剛心の行人・真の仏弟子と呼ばれるのである︒

︵﹃唯信紗文意﹄︶と語られる如く︑自力の立

(12)

ト占祭祀つとめとす 天神地祇をあがめつつ 良時吉日えらばしめ かなしきかなや道俗の 内心外道を帰敬せり 外儀は仏教のすがたにて この世の道俗ことごとく 五濁増のしるしには は証道いま盛なり﹂と言い切ることが出来た︒本願が名もなぎ人々︑群萌のなかに息づぎ︑やがて燎原の火の如く燃え広がっていく姿は歴史の必然であったと言える︒しかし﹁末代の旨際を知らず﹂行証のしるしを得ることの出来ない諸寺の釈門︑洛都の儒林が︑念仏者の教団︑吉水の教団への応える道が弾圧という形をとったとき︑自らの本質をかえって露わにすることとなったのである︒既に仏教の教団というも︑その本質は︑本来の使命を見失ない︑世俗の精神に堕落し︑外道と何ら変わらない現実があった︒それ故︑ 当りにすることが出来たとき︑

念仏

者の

﹁し

るし

﹂と

否定

の精

かくして宗祖においては法然との出遇いの出来事を通して︑吉水の教団の中に本願が生命となって働く光景を目の

﹃教

行信

証﹄

﹁後序﹂に語られる如く︑﹁聖道の諸教は行証久しく廃れ︑浄土の真宗 宣言することが出来るのである︒

‑ 』

(13)

の教を私化することである︒ 林

も︑

と悲歎される如く︑行証久廃の聖道の諸教が いやしきものとさだめたる 僧ぞ法師という御名を 五濁邪悪のしるしには 和国の道俗みなともに仏教の威儀をもととして天地の鬼神を尊敬す奴婢僕使になづけてぞ

﹁邪正の道路を弁うることなし﹂という本質から︑当然の如く承元の法難という念仏教団への弾圧を加えると いうことが起ったのである︒しかしまた︑法難ということは信仰が生きたしるしであり︑人間の実存を突ぎ動かし︑

歴史的現実として働いているときに必ず起ってくる出来事でもある︒念仏者にとって法難が︱つの危機であることは 言うまでもないが︑他方では一層深い危機は︑念仏者自身における︑或いは念仏者の教団の中にあらわれる異義・邪 義ということである︒即ち︑念仏者が自己批判の精神や否定の精神を喪失して︑専ら自己肯定的な邪見をもって本願 元久元年の吉水の教団に向けられた攻撃に対して出された﹁七ケ条制誡﹂において記された如く︑それは念仏者自

身の信仰の危機が既に現われていたことを物語り︑そこに﹁普く予が門人念仏上人等に告げたまわく﹂として︑

念仏

者の

﹁し

るし

﹂と

否定

の精

かなしきかなやこのごろの

﹁教に昏くして真仮の門戸を知らず﹂︑

︵﹁

愚禿

悲歎

述懐

﹂︶

﹁ 未

また世俗の倫理を弁えるべき儒

(14)

る ︒

念仏者の﹁しるし﹂と否定の精神

だ一句の文を窺はず︑真言止観を破し余仏・菩薩を謗し奉つることを停止す可き事﹂以下︑

を説きて正法と為し︑偽りて師範の説と号することを停止すべき事﹂に到る七ケ条の制誡があげられ︑

り以後︑無智不善の輩︑時時到来す︒ただ弥陀の浄業を失するのみに非ず︑又釈迦の遺法を汚稿す︑何ぞ柄誡を加え

ざらんや︒⁝⁝此上猶制法を背く輩は︑是れ予が門人に非ず︑魔の脊属なり﹂と厳しく誡めている︒無智・煩悩によ

って念仏の教えを私し︑自らの邪見を誇るが如き念仏者の姿は︑念仏弾圧の口実を与えるだけでなく︑本来の念仏者

のあるべき姿を見失った危機としてのしるしである︒

承元の法難以後においても︑このような念仏者の姿は当然の如くあらわれ︑そのことが宗祖の帰洛の後はいよいよ

高まった時期があった︒関東における教団の動揺や異義・邪義の問題は菩鸞事件の上に最もよく見られるところであ

る︒異義・邪義の代表的なものがある逆悪無碍については︑宗祖の御消息等にたびたび記されているが︑特に﹃末灯

紗﹄第十六・十九・ニ十通︑或いは同様の消息であるものが﹃御消息集︵広本﹂﹄の第一通より第五通にわたって収め

﹃末灯紗﹄第十六通をみれば︑

しら

ずし

て︑

こそ

まず﹁なにごとよりは︑聖教のおしえをもしらず︑また浄土宗のまことのそこをも

不可思議の放逸無断のものどものなかに︑悪はおもうさまにふるまうべしと︑おおせられそうろうなる

かえすがえす︑あるべくもそうらわず︒きたのこおりにありし︑善証坊といいしものに︑

ることなくてやみにしをばみざりけるにや︒凡夫なればとて︑

られており︑そこでは造悪無碍に対して念仏者のあるべき姿︑

なにごともおもうさまならば︑ ﹁此十箇年よ

ぬす

みを

もし

ひとを ついに︑あいむつる ﹁しるし﹂を繰り返し強調し︑念仏の同朋に諭してい ﹁自ら仏教に非ざる邪法

(15)

おぼえそうらえ﹂

もころしなんどすべきかは︒もと︑

もとひごうだるこころも︑

うこと︑ゆめゆめあるべからずそうろう﹂とあり︑

まじきことをもいいなんどすることはあるべくもそうらわず︒⁝⁝めでたき仏の御ちかいのあればとて︑

じきことどもをし︑

もゆるし︑こころにもおもうまじきことをもゆるして︑

んこ

そ︑

悔し

もいかえして︑

ぬすみごころあらんものも︑極楽をねがい︑念仏もうすほどのことになりなば︑

おもいなおしてこそあるべきに︑そのしるしもなからんひとびとに︑悪くるしからずとい

また﹁われ往生すべければとて︑すさまじきことをもし︑

おもうまじきことどもをおもいなんどせば︑

くすりあり毒をこのめ︑

そうろう︒仏のちかいをもきき︑念仏ももうして︑

本願の教えを聞き︑ 身にもすまじきことをもゆるし︑ おもう

わざとすま

よくよく︑この世のいとわしからず︑身のわるきこ とをおもいもしらぬにてそうらえば︑念仏にこころざしもなく︑仏の御ちかいにもこころざしおわしまさぬにてそう

︵同

︑第

十 いかにもこころのままにあるべしともうしおうてそうろうら

かえすがえす不便におぽえそうらえ︒えいもさめぬさきに︑なおさけをすすめ︑毒もきえやらぬものに︑

、 ひさしうなりておわしまさんひとびとは︑この世のあし含ことを

いとうしるし︑この身のあしきことをいといすてんとおぽしめすしるしもそうろうべしとこそおぼえそうらえ﹂︵同︑

念仏申す身となった者においてはいよいよ深くわが身の煩悩を懺 五濁の世をいとい悲しむ身となるべきである︒そこに末法における仏弟子のしるしがあり︑念仏者として目覚

﹁としごろ念仏して衆生をねがうしるしには︑もとあしかりしわがこころをもお とも同朋にもねんごろのこころのおわしましあわばこそ︑世をいううしるしにてもそうらわめとこそ︑

︵同︑第十九通︶と示されるように︑念仏者のしるしは我が身をよしとする心を否定して︑どこまで

念仏者の﹁しるし﹂と否定の精神 めた者の間の関係の厳しさがある︒ 第二十通︶と述べられている︒ よいよ毒をすすめんがごとし︒とそうろうらんことは︑

あるべくもそうらわずとぞおぽえ

九通

︶︑

更に﹁煩悩具足の身なれば︑こころにもまかせ︑

らえば︑念仏せさせたまうことも︑その御こころざしにては︑

ロにもいうまじきことを

順次の往生もかたくやそうろうべからん﹂

(16)

であ

る︒

の生活︑宗教的実践が捧げられねばならないのである︒ 同一に念仏する道においては︑

︵同︑第二十通︶という言葉が示

され

ない

︒ 仏者における公なる世界がある︒そこに開かれる世界︵教団︶を私有化することは許

る所

にあ

る︒

罪悪の自覚というも︑このような宿業という︑共に生きる大地というところで確められており︑具縛

念仏

者の

﹁し

るし

﹂と

否定

の精

も友同朋に心を開いてゆく︑それは自らのはからいで罪悪をとどめてゆけというよりも︑懇なる同朋とともに悲しん

でゆけということであろう︒人間は孤立することによって邪見に陥り易いものであり︑そこに罪の根源もある︒それ

故に﹁としごろ︑念仏するするひとなんどの︑ひとのためにあしきこをもし︑

また

いいもせんは︑世をいとうしる

しもなし︒されば︑善導の御おしえには︑悪をこのまんひとをば︑うやまいて︑とおざかれとこそ︑至誠心のなかに

︵同︑第十六通︶と誡められる︒念仏者の信仰生活・宗教的実践のしるしは︑

あくまでも友同朋の中でなりたっていくような否定の精神から現われるものであり︑また自律の精神に支えられたも

のである︒倫理︑道徳等の法の中にも自律と否定の精神が要請されるが念仏者における自律や否定とは異なる︒

しかも念仏者の生活や宗教的実践は︑宿業の大地に根をおろし︑自らの煩悩を宿業という自覚において見据えてい

の凡愚︑屠泊の下類と言われる如き類の生活を︑同一に念仏する共なる道において悲しんでいくのである︒ここに念

﹁師をそしり︑善知識をかろしめ︑同行をもあなずりなんどしあわせたもうよしきこえそうろう︒あさま

しくそうろう︒すでに謗法のひとりなり︑五逆のひとりなり︒なれむつぶべからず﹂

すように︑念仏者のうえに成りたつ共同的世界が︑どこまでも三宝帰依の精神に基づき︑その共同の世界へと念仏者

かくして念仏者のしるしということは︑世俗の中に形を現わしながらも︑念仏申すことによって共に世を悲しみ︑

その悲しみの心をもって念仏者の共なる世界へ捧げていく姿である︒それはまた否定の心に貫かれてこそ可能なこと は︑おしえおかせおわしましてそうらえ﹂

1 0

 

(17)

阿悶仏国経と無量寿経 初期の大乗経典が成立する段階において︑学者により若千の見解の相違があるとしてもその方向と意義をかなり異ところで︑阿閑仏国経と初期の無量寿経はほぼ同じ頃成立したと考えられるが︑その系統については別であることが最近明らかにされてきている︒私も︑両経典の成立の時期あるいは地域に関する結論は別としても︑内容的には別系統のものであることを︑次のような理由によって考えてみたい︒

︱つは︑関説の経典が全く異るということである︒すなわち︑阿閑仏国経の方は︑小品般若経︑大品般若経︑維摩

経︑首拐厳経であるのに対し︑大阿弥陀経が般舟一二昧経であるという違いである︒しかも︑阿閑仏国経に阿弥陀仏が

現われず︑無量寿経に阿悶仏の信仰がみられないのである︒

二つには︑授記思想の有無に関してである︒阿閑仏国経には︑大目如来が阿閑菩薩に授記したことをのぺて︑ にした二つのグループのあったことは確かなようである︒

阿悶仏国経と無量寿経

大:

田 た

9

生[

(18)

通の理解があったように考えられる︒

爾の時︑其の大目如来無所著等正覚は︑阿悶菩薩に無上正真道の決を授けたまふらく汝は︑当来に仏と作り︑阿

② 

閑如来無所著等正覚と号し︑⁝⁝亦提涯喝仏の︑我に決を授けたまへるが如くなり という︑ここで︑ディーパンカラの授記を並記することによって大目如来の授記の意義をより重くしていることが注 意させられる︒しかし︑無量寿経にはほとんど授記思想がみられない︒これは︑浄土経典においては授記という観念 さて︑このように︑阿閑仏国経と無量寿経は別系統だと考えることがでぎるのであるが︑

にもかかわらず両経典成

立の根底には︑共通の問題意識が横たわっていたと思われるのである︒換言するならば︑経典の表現形式は異るけれ ども︑経典を編纂した意図︑目的には同じものがあったのではなかろうか︑ということである︒その共通の意識の動 きとは︑当時唯一の歴史的存在であった釈迦仏は︑数世紀前に入減してしまっており︑この世界が無仏だという歴史

的現実に立って︑

供養をし︑その説法を聞きたいという願望をおさえることがでぎなかったであろう︒したがって︑阿弥陀仏が西方︑

阿閑仏が東方と方角に違いがあるが︑その発想の根源にある﹁現在性﹂という点においては︑共通していたといえる

ので

ある

一般民衆のこころに強く望まれたのは現在仏の出現ということであった︒そして︑その仏に逢い︑

また︑現在仏が住する浄土が︑修行の場所として考えられている点も共通しているのである︒大乗仏教においては︑

菩薩が六波羅蜜の行を実践し︑さとりに至るのであるが︑それをこの現実世界ではたすことは容易なことではなく︑

そこに往生した先の世界で目的を達しようとする観念が生じてきたのである︒ が必要でなくなったためであろう︒

阿閤

仏国

経と

無量

寿経

したがって︑現在仏のまします十方浄

土に往生を楽うことが︑時代の要求として切実な問題であったろうと思われる︒

かかる現実世界に対する認識には共

(19)

と述べているが︑これは︑大阿弥陀経に

一に

哉茄

:.

..

o と述べているが︑無量寿経にも︑ しかしながら︑出発点においてこうした共通した基盤が考えられるにもかかわらず︑その浄士観︑あるいは本願の

内容に関しても大きな径庭のあることは否定できない︒さすれば︑そのような違いについていかに理解したらいいの

であろうか︒もっとも︑従来︑その浄土がよく対比されてきているように︑共通した表現もみられる︒

其の仏刹の人民は︑食せんと念ずる所に随い︑即ち自然に前に在り︒⁝⁝是の如く︑其の刹の人民も︑何の食を

皆自然万種の物有り︑百味の飯食︑意に得る所有らんと欲はば︑即ち自然に前に在り用いざる所の者は即ち自然

と記し︑同様の内容が説かれている︒また︑阿悶仏国経には︑

其の地を行くに︑足其の上を踏めば即ち陥り︑適に足を挙ぐれば︑便ち還って復故の如し︑

柔頼なる光沢あり︑馨香は芥烈たり︑足その上を履むに︑陥下すること四寸︑足を挙げおわるに随って︑還復す

ることもとのごとし︒

といって類似した表現がみられる︒

阿閤

仏国

経と

無贔

寿経

さらにまた︑阿閑仏国経の阿悶仏刹善快品に︑

仏の言はく︑阿閑如来の刹中には︑一二悪道有ること無く︑何等をか一二とは為すとならば︑ に

去る

といい︑大阿弥陀経にも 得んと念欲する所に随いて︑即ち自然に前に在り︒ の例を示すと︑阿閑仏国経には︑

いま

︑二

・‑

︱︱

一に泥梨︑二に禽獣︑

(20)

とカ 一切皆悪色有る者無く︑亦醜なる者有ること無し︒ 其の国の七宝之地は皆乎正なり︒泥梨︑禽獣︑辟葱︑銅飛嬬動の類︑阿須倫諸の龍鬼神も有ること無し︒

という文に対応している︒その他にも同じ内容の表現は数多く見出しうるのであるが︑逆に︑異る内容もしばしは現 われるのである︒例えば︑阿閑仏国経は︑浄土を説明するのに第二切利天を引ぎあいに出すのに対して︑大阿弥陀経 では︑第六天︵他化自在天︶を引例してくる︒極楽を説明するのに︑六欲天をもって説くのは︑極楽の光景を一般の 人にも理解せしめるために便利であったのであろうか︒それにしても︑

のかその理由を知る由しもない︒

また︑阿閑仏国経には︑女性に関する描写が多いということである︒これは︑無量 舎利弗︑其の仏刹の女人は︑女人の態我が刹中の女人の態の如き有ること無し︑舎利弗︑我が刹の女人の態云何

とならば︑我が刹の女人は悪色醜悪の舌あり︑法を嫉妬し︑意を邪事に著く︒

といっている︒そして︑阿閑仏の浄土は︑基本的に現実の反顕の世界として描かれているといいうる︒それは︑

其の刹中には︑

王有ること無くして︑但だ法王︑仏︑天中の天のみ有す︒

仏の言はく︑舎利弗︑普えば︑欝単趣の天下の人民は︑

如来無所著等正覚の仏刹には︑

王の治する有ることなぎが如く︑是の如く舎利弗︑阿悶 王の有ること無くして︑但だ阿閑如来︑天中の天︑法王のみ有り︑

其の

仏刹

には

︱一

の病

有る

こと

無く

何等

をか

︱︱

一と

為す

とな

らば

ある

いは

また

に次のような文において窺うことができるのである︒ 寿経に比較して大きな特色であるといえる︒例えば︑

阿閤

仏国

経と

熊景

寿託

一に風︑二に寒︑三には気して︑其の仏刹の人︑

なぜ他化自在天と︑初利天の違いが出てくる

さら

(21)

阿悶

仏国

経と

無麓

寿経

阿閑仏国経と根本的に違う点は︑極楽の説明のすぐあとに︑

一 五

﹁かの仏国の清浄安穏快楽は無為泥浬の道に次ぐ﹂とか また︑荘厳経には︑ 阿閑の仏刹には︑人民の治生の者有ること無く︑販売往来の者も有ること無くして︑人民は但だ︑共に同じく

快楽し︑寂静の行に安んず

などと述べている︒これらは︑当時の社会の実状を反映しているとみられるのである︒

悶仏の浄土が現実の世界とそれほど懸絶したものではなかったと考えることができる︒

概念において︑この現実世界と全く同質のものと考えられ︑決して︑

い点のあることは否定できない︒さらに︑阿閤仏国の諸々の荘厳を精在していくならば︑現実の世界に不足している

不備不満の諸条件を投影したものであることがより明確となるであろう︒

ところで︑無量寿経のばあい︑阿悶仏国経とはかなり内容的に違いがみられるようである︒といっても︑阿悶仏国

経における現実社会の反映としての浄土観が全くみられないわけではない︒無星寿如来会には︑

彼の極楽界は︑無量の功徳具足荘厳して国士豊念に天人熾盛なり︑

と記し︑浄土建立ということに︑当時の時代的な背景︑政治的な面からの理解も必要だといえるであろう︒それは︑

復大国王となりて︑富豪にして而も自在に広く諸の財宝を以て︑普<貧苦に施して︑

といっている文にもあらわれている︒

してしサンスクリット木︑ しかも極楽の描写をみてもきわめて感覚的であることは否定できない︒

あるいは﹁虚無の身︑無極の体を受く﹂とか︑仏教的な反省が加えられているということである︒

ただ

ただ︑この文につ

チベット訳︑無量寿如来会︑無量寿荘厳経にも見当らないので︑翻訳者自身が中国人に

③ わかりやすいように︑道教の観念をとり入れたのではなかろうか︑という指摘もある︒したがって︑ただちに仏教的 ﹁さとりの世界﹂を意味するものとはいいがた

した

がっ

て︑

われわれは︑阿

いいかえるならば︑その基本

(22)

と記して浄土の超越的な面が説かれているのである︒ な無量寿経の立場を傍証する文が経の終りの方になって と考えることには問題を残すかもしれないが︒

また︑無量寿経には︑極楽が涅槃界であるとされている︒

﹁わ

れ︑

仏 とならんに︑国土をして︑第一ならしめん︑その衆︑奇妙にして道場超絶し︑国泥垣のごとくして︑等しく双ぶもの 私の国は広大であり︑最高︑最上である︒この世のもろもろの有為の︵存在の︶うちの最勝である︒︵さとりの︶

④ 座である︒比類なぎ涅槃の世界の安楽である︒

と明かし︑極楽がさとりの世界であるといっている︒このような思想は阿悶仏国経にはみられない︒

我阿弥陀仏の功徳国土の快善を説かんに昼夜一劫を尽すとも尚復未だ立兄ず︑我但若曹が為に少しく之を説くのみ︒

ついては︑その数について︑

つぎに︑阿閑仏国経︑無量寿経の最も中心をなしている願文について両者を対比してみよう︒阿閑仏国経の本願に

はっきりした規定もなく︑しかも形が不完全なため︑どこからどこまでが本願なのかそ

のけじめがはっきりしない︒

したがって見方によっては︑種々に願数がかぞえられるが︑ここでは︑

⑤ 

ておぎたい︒さて︑その阿閑仏国経の願文の内容については︑すでに指摘もなされているが︑基本的には︑阿閑菩薩 が成適していく実践の誓願の形になっているということで︑阿閑仏自身の成仏が中心である︒しかも︑

願文が十一願中九願を数えているということは︑とくに注意しなくてはなるまい︒

天中の天︑我れ今より己往︑無上正真の道意を発し:

. . . .   一切の人民︑描飛嬬動の類に於て︑是の眼忠を起し︑意

なからしめん﹂といいサンスクリット本にも︑

阿閤

仏国

経と

無籠

寿経

一 六

また︑このよう

一応十一願とし

かかる性格の

たとえば︑第一願には︑

(23)

阿閤

仏国

経と

無最

寿経

一 七

に若し︑弟子緑一覚の意を発し︑唯意に姪欲を念じ⁝⁝現在説法したまへるをば欺くとは為さん︒

と明かし︑瞑志︑二乗心︑姪欲︑睡眠︑疑惑などの排除が誓われている︒そして︑第二願から第八願までは︑阿閑菩 薩自身の本願として同一の性格といえる︒

いい

かえ

れば

︑ ほとんどが自利の願だといってよいことになる︒

量寿経においては︑諸異本共通して︑仏に関する願︑国土に関する願︑衆生に関する願に分けられるが︑因位の実践 にふれたものは一願もない︒ここに︑両経の本願の基本的な性格の違いがあらわれているといえる︒さらに︑細かな 点に関してはそれぞれの特徴がみられるが︑

寿経にでているということである︒ところが︑阿閑仏国経のばあいは願文以外のところで︑聞名に関説して︑

諸の菩藷摩詞薩の如く︑若しくは善男子︑善女人有り︑名を聞かんに︑阿悶の仏刹に生ずるを得ん︑何に況んや︑

諸度無極の善本を合会して︑持って阿閑の仏刈を願い︑衆の善本を合会し已りて︑便ち無上正真道の最正覚を成

ぜん

をや

われわれが特に留意すべきことは︑願文に聞名往生の思想が初期の無量 と明かし︑聞名往生と善本による往生との関係が示されている︒

く︑したがって︑阿悶仏国経では︑菩薩が六度の行︑

しかし︑前後の関係からすると︑聞名往生の意は弱 および善本によって往生する意が中心であることは明白である︒

さて︑聞名思想は︑無量寿経でも後期のものにしばしば強調されてくることはよく知られていることであるが︑何故 名を聞くということだけで往生ができるというのであろうか︒それには︑聞名思想の起源︑あるいは当時の時代的な 背景などについても考察しなくてはならないであろうが︑現在のところはっきりとした結論が出されているわけでは しかし︑例えば︑名を聞くという思想は︑当時の民衆とのつながりをもっために方便的に用いられたので︑仏 教の本質的なものではなかった︒とか︑あるいは︑聞名生因の思想は︑大乗独特の説であって︑大乗教徒が小乗教徒 に対する方便引入するためのものであった︑との主張もある︒このような考え方には全面的に賛意を表しかねるが︑

一方︑無

(24)

一にしながら経典の内容が︑かくも異るのであろうか︒

聞名ということはともかく六波羅蜜を実践することに比べれば非常に容易で︑誰れにでも行いうることであったとい える︒そして︑この聞名は浄土教の特質をあらわす概念としてきわめて重要であるといえる︒そこで︑再び︑何故名を 聞くということが重視されることになったのか︒問うてみたい︒現在他方仏である阿弥陀仏は︑現在仏であるが︑こ の現実世界に出現した仏ではない︒すなわち︑具体的に世間の型態となって現われた存在ではない︒それは︑どこま でも報身仏として超越的な側面をもった仏である︒だとすれば︑

われわれが阿弥陀仏にふれることがでぎるにはいか なる方法が考えられるのであろうか︒そこに︑名前を通して阿弥陀仏と私がふれる場が開けるということになる︒そ れ以外にはありえないというべきだろう︒もちろん︑ここで名前といっても︑阿弥陀仏と融即関係にあり︑仏そのも のをさしていることは︑いうまでもない︒

しか

し︑

われわれ凡夫にとって仏と本質的に変らない名前の徳をたたえた り︑知ることはこれもまた不可能なことといわねばならない︒そこに︑諸仏によって称讃される名号の徳を聞くこと によって︑初めて如来とふれる場が開けてくるということになるのである︒ここで︑聞名の聞は原語の念

r u

にすで

に﹁信ずる﹂という意味もあり︑仏の功徳︑国土の善について聞くということはそれについて信じていくということ でもある︒このような聞名往生の思想は浄土経典の願文でとくに強調されるところである︒

以上︑阿悶仏国経と無輩寿経の浄土と本願について︑その相違点を明らかにしてきた︒

では︑何故︑発想某盤を同 まず︑阿閑仏国経には︑般若経との影響関係が顕著であるということである︒もっとも無量寿経においても︑大阿

弥陀経には般若経をはじめとする初期大乗経典との関係はみることはできないが︑平等覚経になると︑わずかながら

阿閤仏国経と無盤寿経

(25)

空の語が二度みられるからである︒

﹁願

我本

空妨

﹂︑

空思想だとするならば︑すでにその影響を想起することができるであろう︒また︑嘆仏傷には︑

ちがいを︑般若経との影響関係で論ずることはできないというべきかもしれない︒

とはいいながら︑それは表現方法においてみられるのであって︑

一 九 ﹁其浄慧本空﹂と本

ただ︑この本空がいかなる内容を指しているのか明瞭ではないが︑もし般若経の

﹁檀施調伏意︑戒忍

及精進如是一二昧定︑智慧為上最﹂という文にも︑影響をわずかながら看取することができる︒さらに︑後期の無量寿 経になると活発な影響関係が認められることは周知のことである︒とするならば︑阿閑仏国経と無景寿経の思想的な

しかしながら︑両経典の般若経と の関係を比較すると決して同一の性格でないことがわかるのである︒無量寿経のばあいは般若経の影響をうけている

やはり基本的な立場はどこまでも浄土経典の立場を ところが︑それに対して阿悶仏国経の方は基本的な立場が般若経と全く重っているということである︒これは︑す

でに指摘した本願文に明瞭に窺うことができるのであるが︑その中に︑例えば僧那僧涅

(s

an

na

ha

‑s

an

na

dd

ha

)

とい

うことばがみられる︒これは︑菩薩が願を立てても︑それを完遂することは決して容易なことではない︒そこで︑自 己の心に精進の鎧を被て修行に対する強固な決意をしなければならない︑その決意をあらわす語である︒したがって︑

ある意味では非常に厳しい内容になっているのである︒この僧那僧涅については︑般若経にことに重要視され︑放光 般若経には僧那僧涅品まであるほどである︒その他︑六波羅蜜の修行を説いている点も︑般若経の思想を前提として

いるといえよう︒

ただし︑般若経との関係がいくら強調されたとしても︑阿閑仏の浄土建立の思想や︑

その仏刹に生 れる功徳を述べたり︑願生をすすめる思想は︑般若経の思想に直接関係のないことは注意しておぎたい︒なお︑仏教

⑥ 

以外の宗教との関係も考えられるであろうが︑その際注意すべきことは︑わずかな語句の類似によって広汎な結論を

阿閤仏国経と無董寿経 保っているといえるのである︒ 般

若経等の影響を認めることができる︒

例え

ば︑

平等覚経の往勤侮のなかに︑

(26)

︑︑

また

は非常に困難である︒ つぎに︑考えられることは︑経典を編纂した人々のちがいがあるのではないかということである︒阿閑仏国経の紺

者は︑誓願や修行が出家の厳しい性格を帯びている点から考えると︑出家者であったろうと考えられる︒すでに指摘

⑦ されているように︑阿閑仏国経の作者は小品般若経の作者と同一の系統に属するのではないか︑という想像もできる︒

そして︑阿悶仏国経よりも無量寿経が格段の優れた内容になっているのは︑その信仰を生み育てて行った人々の優れ

た構想力や豊かな想像力によるものであるといっている︒このことは︑注意すべき重要な指摘であるように思える︒

なぜなら︑従来あまり大乗仏教における想像力とか構想力については問題にされなかったが︑大乗仏教の展開の歴史

のなかで︑大きな意味をもっているように思える︒例えば︑最初は釈尊一仏であったが︑後に二身︑一二身︑

身論と仏身論が展開してくるのも︑想像力︑構想力によるものであるといえないだろうか︒あるいは︑仏塔とか仏像

が形成されることも︑そういったことと関係があるといえないか︒

る人であったかを考えることは︑浄土教の本質を考える上にもきわめて重要であるが︑現在のところ明確にすること

最後に︑両者の基本的立場が大きく異っている背景をさぐるために︑

みたいのである︒これは︑とくに無量寿経において﹁浄土を荘厳する﹂というような場合用いられ︑重要な意味をも

った語と思われ︑大乗仏教の基本的な立場が保たれているともいえるのである︒

例をあげてみると︑

①大荘厳をもって衆行を具足し︑諸の衆生をして功徳を成就せしむ︑ 下すことは危険があると思われるのである︒

阿悶

仏国

経と

無量

寿経

さらに四

いずれにしても︑経典を編纂した人たちがいかな

われわれは﹁荘厳﹂ということばに注意して

いま︑無量寿経における二‑︱一の用 二

0

(27)

⑤  ④  ③  ②  ① 註

阿悶仏国経と無量寿経 的な違いがあるといいうるのである︒

⑥ 

②仏国を荘厳すべき清浄の行を思惟し、摂取せり·…••かれ、すでに仏土を荘厳すべぎ清浄の行を摂取せり、

と述べている︒ここで︑衆行を具足して︑とは自ら六波羅蜜を行ずることであり︑法蔵自ら発願し修行して︑それを 衆生に成就することを説くものであって︑菩薩行こそ荘厳の内容ということを示している︒されば︑荘厳の語はどこ までも実践的な概念として把握されなければならない︒ところで︑阿閑仏国経には︑

もって︑仏刹を成ずること是の比の如くなり﹂といって︑阿閑仏の浄土は︑阿閑仏の福徳によって成じられたという のである︒その意味では︑阿閑仏国経に荘厳の語がなくても︑基本的には変らないように思える︒しかし︑重要なる

⑧ 

違いは︑荘厳が大悲心に発するいとなみであるといわれるように︑また︑先の①の文でも明らかなように︑法蔵の荘 厳がそのまま︑私においての荘厳であるということであるといえるのである︒ここに︑無量寿経と阿悶仏国経の本質

平川彰﹃初期大乗仏教の研究﹄九八頁

﹃大

正蔵

﹄十

一巻

︑七

五三

頁中

藤田宏達﹃原始浄土思想の研究﹄一九七頁

﹃大

乗仏

典﹄

六︑

十八

頁 色井秀譲﹁阿閤仏の本願と阿弥陀仏の本願﹂

︵﹃

天台

︵﹃

印仏

研究

﹄七

巻二

報﹄八昭和四十

1一 年 ︶

芳岡

良音

﹁阿

悶仏

の浄

土の

起掠

号昭

和一

二十

四年

⑦静谷正雄﹃初期大乗仏教の成立過程﹄︱︱︱頁⑧峰島旭雄﹁荘厳と方便﹂︵﹃浄土教の思想と文化﹄所収

昭和

四十

七年

﹁阿閑仏は福徳の致すところを

(28)

以下親筆本源空讃二首の解釈に就いて︑歴史的背景を探り批判の資とし︑親鸞が何故此の二首を添加せざるを得な

(専修寺蔵)

1ー源空讃二首の歴史的意味についてーーー

高 僧 和 讃 二 首 の 解 釈

高僧和讃二首の解釈

藤 t

井 ぃ

元 t

了 i

(29)

君が太上法皇になられたのは︑ の高僧和讃制作の頃から五•六十年も以前の事で親鸞二十歳の頃だった。

後堀川帝⑩︵歳︶の院政

かったかその目的︑意図を史実の上から探求して見たものである︒

親鸞は終生師源空を勢至弥陀の化仏と仰がれていた事は建仁元年

( 1 1 1 0 1 )

正月五日及び同十

1

月廿

八日

一人を指して居られるのである︒次に﹁承久の太上法皇﹂に就いては︑御自筆で頭註に﹁後高倉院﹂とあるから問題 はない︒後高倉院は後白河法皇の御孫﹁守貞﹂持明院行助法親王で後堀川帝の御父︑隠岐院の御兄であられる︒

後鳥羽院隠岐流遷間もない頃、持明院法皇に贈られた親書と考えられるが、当初に於ける後白河•隠岐・持明院各 法皇の御信仰を端的に示されている貴重な資料である︒これを要約して︑問題の前提としたい︒

文面に﹁わが力にて世をしらせ給わん君﹂

の座に就かれた時の﹁君﹂即ち﹁持名院﹂を指して居られると思うからである︒持明院の皇子後堀川帝は身体御不自 由で︑怨霊退散祈蒻の為仁慶大僧正御夫妻の許で育たれ︑持明院も亦同じく中度の身体不自由だった︒

継承する事は︑法華経の教に従い仏道修業を積んだ︑自らの徳の賜である︒若し此の積善の身を悪道に使う様な事に なれば︑身に留まった善根も消えていよいよ深く悪道に陥ち悲しい事である︒そうなれば菩提を弔ってくれる人は誰 も居なくなるであろう︒祖父後白河法皇は此の様に私に教えられた︒万が一自分が世を怨み︑人を憎む執情を抱えて

死ぬ様な事になれば︑此の世に障をなす事もあろう︒

高僧

和讃

二首

の解

とあるから持明院が太上法皇の尊号を贈られ︑

一に善根功徳を積まれ祈繭の験によったもので︑我が力に他ならぬ︒子孫が帝位を ② 

隠 岐 院 御 親 翰 に つ い て

ただ妄念を捨てて生死を出でんと︑仏に誓われる様せめて遣言

業阪本願﹂の文中や﹁恵信尼夢記﹂其他の文書で明かである︒

従って此の上皇は後鳥羽上皇︵隠岐院︶御 ﹁上皇群臣﹂の上皇に就いて︑後白河法皇崩御は親鸞

﹁棄

(30)

高僧

和讃

二首

の解

此の年の一月源空は遷化︑此の頃親鸞

一切経供養︑刷本の法華経︑此の三つの功徳は︑自分が隠岐島

これを縁として一旦魔縁︵承久の変を指す︶に沈むとも︑

空しくはならないだろう︒関白︵道家教実︶以下の人々に私が崇りをなす等と言う事は︑夢々思っては下さいますな︒

③ 

源空が﹁選釈集﹂を著作された時︑隠岐院は十九歳だった︒その頃聖覚を招じて﹁一念義と多念義の意味﹂を尋ね られている︒それは﹁法華経により生死を出ずるなり﹂と云う遺誡に対する疑問から︑此の質問は出たのであろうが︑

まだ御理解には若すぎる︒その後間もなく栂尾の明恵を招かれ︑他力と自力の問題を尋ねて居られる︒政治的混迷と 宗教的闘詳のはげしい今︑退位を迫られた十九歳︑而も身の危険は日常の事︑これ等は皆北条氏や藤原兼実の陰謀で あると考えられ︑廿一歳の頃から追討の志を抱かれ︑秘かに刀剣の製作に専念されるのである︒爾来廿年間念仏停止 の宣旨は度々下り︑多くの念仏僧が流罪・死罪に葬られ︑遂に承久の変となる︒院四十二歳︒院の二品皇子仁和寺の 道助法親王を戒師とされ落飾︑法名を﹁良然﹂と云い罪名﹁左馬頭親定﹂となられ隠岐島へ流遷の身となられた︒

後高倉院持明院法皇・幼名守貞親王

平家が長門壇の浦で終焉を遂げた折︑兄安徳天皇⑱は海底に崩ぜられたが︑守貞親王⑱は平知盛の妻治部郷局に抱 かれて軍船にあって済われた︒戦後後白河法皇の御妹﹁上西門院﹂の養子となられ︑治部郷局は従前通り乳母となり 知盛の邸で育たれた︒皇子後堀川帝のお生れになった頃︑親子共々粟田口十楽院の仁慶僧正の宅に移られ︑ここで専 心物怪の退散と病気平癒の為の御修法を行ぜられた事もある︒仁慶は隠岐院護持僧慈円の資だった︒

ご一︶三月廿六日東大寺で仁慶を戒師として落飾﹁行助法親王

5

と申

上げ

た︒

と大要その様に書かれている︒ 流嶽の身となっても︑永久に我が身に保ち続けるであろう︒ しておく︒自分の積んだ善根︑即ち東大寺大仏供蓑︑

ニ四

建暦二年(︱ニ

(31)

高僧

和讃

二首

の解

と読まれたので︑参詣者は耳を疑った︒その後の説法で その一=日目の会座で

二五

は流罪赦免報告の為一時阪洛されている。従って此の間の事情は悉さに慈円・兜覚・東一条院•藤原信実·範光等か ら聞かれた筈である︒又御孫四条帝も極めて御身体がお弱くて居られた︒これ等は皆死霊怨念の崇りに結びつけられ︑

祈譲によってのみ此不幸から逃れられると考えられて居たのである︒然るに後堀川帝僻・四条帝⑬何れも御若くて世 を去られた︒此の御不幸は打続く飢饉・天災地変・戦禍の影響に加えて近親婚の結果だったかも知れない︒

隠岐院は前掲御親翰にもあった様に︑法華経により生死を出で︑子孫が帝位に就くのは我が力であると云うお考え は消えず︑流遷の衝撃は大きく︑身の危険に怯えられ脱出の期をねらわれていた︒勿論怨霊鎮魂の修法は欠かされな かった。然し石見・出雲•隠岐の国々には平家の残党が各所に散在し、近江豪族佐々木家が地頭職にあり、源空の念 仏門信奉者の多い地方であった︒又宋と交流もあり文化の程度は高かった︒庶民は念仏門を奉じ信仰篤く心優しい島 国である所から︑次第に﹁自内所証智﹂の境に目覚められ︑諦観の世界が見え始められた︒御母七条院や北白河院の 御便りもあったからであろうか︑現在の流顕の苦は弥陀の善巧法便なりと︑三心転生して阿弥陀仏を念ぜられる様に なった︒都から梵字阿弥陀経が送られて来たのであろう︒徒然に之を書写され後世を願われていた︒

④ 

丁度其の頃持明院法皇の皇子﹁道深法親王﹂が高野山に籠られた︒その折隠岐院から書写の梵字阿弥陀経を托され︑

四十八日の逆修法要を依頼されて来た︒

その時偶々聖覚が高野山へ参籠され︑廿四座隠岐院の為に願文を読誦された︒

﹁我朝に︑至って果報目出度きは隠岐院︑至って果報悪き人は持明院﹂

四 持 明 院 法 皇

(32)

であ

った

事は

一方隠岐院は行在所源福寺に居られて︑御領百姓村上助九郎︵現存︶或は周囲の庶民と親まれ︑

てい

る︒

明院囮は崩ぜられた︒

高僧

和讃

二首

の解

世乱れて遠国に移され︑一旦は御歎共あれど︑此の歎を善知識として懺悔し︑我が罪業苦患を恐れ︑唯一筋に後

生の一大事を心にかけて逆修も念仏もあらば︑往生浄土の素懐も確かと思われ目出度いことである︒持明院法皇

行助は一期御心にまかせず︑楽しき御思出もなくて空しく祈蒻に明け暮れて居られる︒此の不幸を仏縁として︑

後世の御営みもあらばたのもしかるべぎに︑御位のことありて今生の一時の楽しみに溺れ︑後世の御勤めもなく

て二世共に御果報悪き事である︒今生は一且の栄耀︑後世の御勤めなくんば何の憑みがあろうか

と︑縁起論と他力本願念仏の真意を二十日余にわたって説法された︒

聖覚が高野山へ参籠したのは持明院皇妃北白河院か御母七条院の要請で登山したのではあるまいか︒或は又聖覚の

説法の内容から︑持明院の病状悪化の為︑道深法親王に報告を依頼されたのかも知れない︒その後一年余を過ぎて持

﹁類緊大補任巻五一﹂には五月十四日持明院法皇越後国妙高山嶽崩︑諸国大疫発﹂と記録され

恐らく此の説法後幾許もなく叔父﹁後高野御室﹂逍法法親王や其親鶯は此の時五十歳越後巡錫中である︒

他の側近者と此の地に移られ︑親鸞や宜秋門院と落合われ︑本願念仏開眼の法悦の中に御往生になったのではなかろ

⑥ うか︒隠岐院の皇子雅成親王は飯沼善性房と云い︑越後に居られ︑元禅林寺住の同院皇子﹁覚誉﹂は飛騨鳩ヶ谷の道

場に居られ嘉念房善俊と云い︑何れも親鸞の弟子となって巡錫して居られる︒むしろ持明院法皇は親鸞或はその弟子

を頼り︑妙高山嶽の庵に入られたのではなかろうか︒後人の研究に待ち度い︒

地方史家の認める所である︒ 念仏一二昧の御日常

喜禎=︱‑年(‑三︱︱七︶八月頃から毎月五日と廿日に源福寺の他にも会所

を設けて﹁無常講﹂を結ばれている︒

⑦ 此の講式文の冠頭に﹁次第なく法則なく︑只無常を念じ︑弥陀の名を称せよ︒日時なく道場なく︑閑居の暁の天︑

二六

(33)

旅宿の草の枕︑

二七

五道六道の苦を厭うて欣ぶべきは安養の浄刹︑前仏後仏の問に生れて憑むべきは弥陀の悲願也︒借ミ

以れば我等衆生の身は朽宅の如し云々﹂と相当な長文である︒最後に願くは離苦の眼を得て︑安楽国に往生せんと結

んで居られる︒最初に掲げた御親翰と比べ︑院の信楽開発の跡を窺う事が出来る︒即ち此の御二方は生身の源空に阪

敬されたのではなく︑三心相即三身寂光の浄土に居ます源空に阪されたのである︒

此の御1一方の廻心転生は︑親鸞自らの転生を語るが如く︑念仏の先達として︑此の方々と共に源空を讃仰され︑極

めて自然に二首の和讃となって︑ほとばしり出た法悦の記録なのである︒

禅林寺静遍僧都は醍醐寺座主﹁勝憲﹂に師事し︑後に仁和寺上乗院﹁仁隆﹂に学び︑小野流・広沢流両道に精通し

た碩

学で

ある

平頼盛の子で妹は藤原基家(︱ニ︱︱ニーニ︱︱四︶の室となり︑

﹁北白河院﹂は持明院の皇妃となっている︒掠空の弟子善恵房証空は十四歳まで静遍の資となっていた︒持明院は病

悩退散祈薦を修せしめる為宣旨を以って証空を禅林寺に住せしめた︒隠岐院皇子覚誉も禅林寺に居た︒静遍は源空の

専修念仏の隆盛を嫉み書を著はして源空を弾劾した︒所が改めて撰釈集を披見してその高説に服した時源空は彼に撰

釈集を附属した︒源空寂後師の墓前に懺悔し︑それより法名を自ら心円坊︵一説に心聞房︶と称し︑高野山明遍︵一︱

四︱│‑︱三二︶を訪い蓮華谷聖となった︒明遍は聖覚の舎弟である︒此の時覚誉は師と行を共にし親鸞の門に入られ

た事は前にも述べた︒静遍の去った跡の禅林寺へは証空(‑︱七七I︱二四七︶を住持させ︑専ら念仏の道場と変った︒

証空は久我内大臣源通親の猶子となり︑母の反対をおし切って静遍を師とさせた︒所が静遍が念仏門糾弾の先峰と

なったので︑東大寺落慶供義が終った後の四月︑証空を静遍の許から︑源空の吉水の香楽寺へ入室させた︒証空の父

高僧

和讃

二首

の解

五 釈 門 儒 林 共 に 真 宗 を 悟 っ た こ と

持明院の乳母を勤めていた︒その子

(34)

皇となられ盛大な大嘗会が行われた︒ 高僧和讃二首の解釈

は藤原親季入道で法名を証玄と云った︒そこで父の法名の証をとり源空の空をもらって﹁証空﹂と言った︒証空の菩

導教学は誠に深い︒又禅林寺系譜第十一世に﹁源空﹂と記録されている︒此の時源空は既に寂している為︑これは静

遍が添加したもので︑自らは第十二世に︑証空は第十三世となっている︒此の事は静遍の源空に対する篤い遣徳顕彰

讃仰の現われであろう︒

承明門院源在子は内大臣久我通親の女で︑隠岐院准一二后にあがったオ媛である︒

ついて﹁土御門帝の御母にて︑極めて御心はやくて聖覚法印説教をば︑そらにて聞ぎ覚え給う程の上根の人にておわ

しませば云々﹂とあり︑源空の教学にも通じた頭脳明晰を以てうたわれた方である︒父通親も前章の通り当時摂政を

しのぐ有力者で財的にも豊かであった︒此の時に帝位にあられた四条帝は︑後堀川帝と藻壁門院の御子で︑持明院法

皇の御孫に当られる︒四条帝も御父後堀川帝と同じ様に御身体は魔弱で︑十七歳で崩御になるのだが︑その頃の事で

あろう︒承明門院は﹁もしやなど様々にお祈りし給う﹂と増鏡﹁三神の山﹂で述べている︒これは若しや四条帝崩に

なれば御孫﹁邦仁親王﹂が帝位に選ばれる様にと︑早くから各所の神仏に祈願をこめられていた事を述べたものであ

る︒

処が

その

通り

四条

帝は

仁治

一︱

一年

( 1 1

四一

一︶

正月

九日

に崩

でら

れた

廿一二歳で後嵯餓天

承明門院はこれぞ全く神仏の加持力︑祈薦の功能と悦ばれ︑すっかりこの事に心を奪われ︑聖覚の説法等忘れられ

た︒頭脳明敏な理智にたけた院は︑父能円の血を享け︑自分が皇妃に昇り得たのも父の加持修法の功力と︑深く信じ

たのである︒尼となった四十一歳までの念仏信仰は何であったのだろう︒爾来一二十年数々の信仰体験を味われ七十一

六 承明門院と北白河院の場合

邦仁親王は十九日践袢︑ ﹁五代帝王物語﹂は院の御本性に

ニ八

参照

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代表研究者 川原 優真 共同研究者 松宮

【 大学共 同研究 】 【個人特 別研究 】 【受託 研究】 【学 外共同 研究】 【寄 付研究 】.