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真宗研究56号全

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(1)

ISSN 0288‑0911 

慎宗連合學會研究紀要

—第五十六輯—--

平 成24 1

慎 宗 連 合 學 會

(2)
(3)

真 宗 研 究

貞 宗 連 合 学 会

第五十六輯

(4)
(5)

「不回向の行」の内実:………•大││﹁行巻﹂所引﹃浄土論註﹄の文を通して1

如来興世の正説••……•………••高

ー﹁教文類﹂における﹃平等覚経﹄をめぐって

1

大行が開く大般涅槃道………·……•大

ー本願成就に立って因顧を探るという方法論を通してー│'

証空における法然浄土教の継承とその内実…••龍谷大学

﹁ 専 修 念 仏 ﹂ か ら

﹁ 自 然 法 爾 ﹂

親鸞晩年の思想の深化

真 宗

へ⁝⁝⁝⁝⁝・:高田学会

研 究 第 五 十 六 輯 目 次

入顧海………•大谷大学

ー 方 便 化 身 化 土 を 開 顕 す る 意 義 I

教行伯証の本質⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝

田 派

谷 派

松 田 信

北 畠 浄

佐 々 木 秀

古 田 武 彦

︵ 六

加 来 雄

佐 波

亀 崎 真

之︵

四一

英︵仝︶光 (

‑ = ︱ ‑

慶 ( ‑ ︱

︱ ︱ ︱ ‑

真︵

一八

量 ︵

(6)

江戸期宗学の性格と信仰………••大谷大学

香月院深励の学風を通して

1

曽我羅深の二河警観………••大

﹃往生論註﹄における

﹃ 十

住 毘

婆 沙

論 ﹄

金沢文庫蔵﹃浄土論注要文抄﹄ ﹃

論 釈

谷 派

真宗先哲の地獄論:⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝龍谷大学

ー 近 世

・ 近 代 を 中 心 に

1

⁝⁝⁝⁝本願寺派 と﹃九品往生義﹄を中心に 十念と逆謗釈についての考察

異端の役割⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝京都女子大学

清沢満之の晩年における

•••••••••••

﹁学問研究﹂の意義の問い直し

の諸問題………•本顧寺派

………••本願寺派

の受容

松 山

後 藤 智 道

‑ 空

谷 派 川 口

野 村 伸

永 原 智

高 田 文

淳︵

一だ

英︵

西︱

‑︶

行︵

一覧

夫︵

一合

城︵

三九

俊 ( ︱ ︱

︱ ︱ ︱ 八

大︵

︱‑

命︶

(7)

︿ 記 念 講 演 ﹀ 親 鸞 聖 人 の 鎌 倉 滞 在 と 独 立 行 政 法 人 国 立 文 化 財 機 構

. 

一 切 経 校 合 を め ぐ っ て 東 京 文 化 財 研 究 所

佛 土 と 佛 道

⁝ 同 朋 大 学 名 脊 教 授

﹃ 教 行 信 証

﹄ の 題 号 義 I

学会彙報………•…

池 田 勇

津 田 徹

五 英 (

‑ ︱ ‑ = 立 ︶ 諦 ( ‑

︱ ︱ ︱

︱ ︱ ︱

︱ ‑ ︶

︵ ︱ ‑ 西 七 ︶

(8)
(9)

﹁ 不 回 向 の 行

親鸞は

﹃教

行信

証﹄

﹁行

巻﹂

にお

いて

師法然が唱道した本願念仏を如来回向の大行として確かめ︑

凡夫に現生正定緊が開かれる要とする︒その中で親鸞は︑

明知是非︳凡聖自力之行︳故名不'回向之行也︑大小聖人・重軽悪人・皆同斉応下帰一選択大宝海一念仏成仏上

是以﹃論註﹄日彼安楽国土莫四非

1一阿弥陀如来正覚浄華之所一化生一同一念仏無一別道一故ロ

というように︑大行が自力の行ではないことを﹁不回向の行﹂の語をもっておさえていく︒この﹁不回向の行﹂の

語は︑法然が﹃選択集﹄﹁二行章﹂において︑本願念仏の質を﹁縦令い別に回向を用いざれども︑自然に往生の業

と成る﹂と述べた﹁小用回向﹂に基づくものである︒すでに︑本願念仏を如来回向の大行として確かめながら︑そ

れを師法然の言葉に依拠して改めて﹁不回向の行﹂とおさえ直していくところに︑大乗正定緊の現行における衆生

は じ め に 問 題 の 所 在

﹁行

巻﹂

所引

﹃浄

土論

註﹄

の 内

大谷派 の文を通して

亀 崎

︵﹃

定本

﹄六

七頁

煩悩成就の

(10)

一︑﹁行巻﹂における 如来回向の論拠とした ﹁不回向の行﹂の内実

﹃浄士論註﹄引用の課題 の自覚態を明らかにする重要な確かめがあるように思われる︒

(2 ) 

しかし︑従来この﹁不回向﹂は︑﹁如来より御回向にあづかるので︒行者の方よりは回向せぬ﹂という言葉が示

すように︑如来と衆生とを相対的な見地から解釈し︑衆生の自力回向は差し挟まないという意味としてのみ捉えら

れてきた︒この場合︑衆生においては結局﹁無回向﹂であると捉えていることになり︑親鸞が殊更に﹁不回向﹂と

述べる意義を十分に明らかにできているとは言いがたい︒

親鸞の確かめにおいて注目すべきは︑龍樹以下諸師の論釈に依って大行を﹁不回向の行﹂と結旬していく中で︑

﹃浄

土論

註﹄

の文をその証左の一っとしている点である︒そこで︑拙稿ではこの﹃浄土論

註﹄の文に着目し︑親鸞が﹁不回向の行﹂と述べることで明らかにしようとした大行の内実に迫ろうと思う︒

親鸞は﹁行巻﹂において︑龍樹以下の諸師の論釈に依って大行の内実を確かめていく中で︑﹃浄士論註﹂からは

まず以下のように文を抜粋している︒

﹃論註﹄日謹案一龍樹菩薩﹃十住毘婆沙﹄云菩薩求ー阿毘祓致ー有二種道一者難行道二者易行道難行道者

謂.於五濁之世・無仏時求阿毘践致為口難︳此難乃有一多途︳粗言五三以示コ義意二者外道相噂匹善乱一菩

薩法二者声聞自利・障一大慈悲こ一者無顧悪人・破一他勝徳四者・顛倒善果・能壊︳梵行五者唯是・自

シキカ

カ・無他力持如斯等事触口且皆是臀・如t陸路歩行則・苦J易行道者・謂・但•以信仏因縁願圧i­

浄土年不仏願カ一便得

l一入任生彼清浄土一仏力住持即入千八乗正定之緊正定即是阿毘践致讐・如下水路乗ー船則

マシ/\テカウ反ナルJ

KシキカJ

楽上此無量寿経優婆提舎蓋上術之極致不退之風航者也︑無量寿是安楽浄土如来別口勺釈迦牟尼仏在一王

(11)

を ︑

舎城及舎衛国恥がー大衆之中詔祁一無量寿仏荘厳功徳一即•以二仏名号一為一経体後聖者婆藪槃頭菩薩服二贋反

如来大悲之教底げ経咋止願生偲~2(『定本』三三ー三四頁)

﹁謹んで龍樹菩薩の﹃十住毘婆沙﹄を案ずるに﹂から始まるこの文は︑﹃浄土論註﹄冒頭の二道釈である︒この箇所

で注目すべきは︑﹁無量寿経優婆提舎﹂という﹃浄土論﹄の題号を註釈する題号釈の一部を二道釈に続けて引き︑

そこまでを一連の文として﹁已上﹂と結んでいるという点である︒題号釈は︑﹁無量寿﹂が如来の別号であり︑﹁無

量寿仏の荘厳功徳﹂が説かれる一︳一部経はその名号を体とするものであることを示すと同時に︑﹁後の聖者︑婆藪槃

頭菩薩︑如来大悲の教を服贋して︑経に傍えて願生の低を作れり﹂とあるように︑﹁願生偽﹂の述作の意趣を確か

めるものである︒この題号釈の文言は︑﹁願生偶﹂が名号を体として説かれる教に依拠してうたわれたものである

こと︑すなわち︑﹁称名の侶﹂であることを示唆するものであると言える︒先に引かれる一一道釈は︑阿毘践致を求

めることを指標として︑その実現を他力易行の願生道に見いだす中にあって︑﹃浄土論﹄が﹁五濁の世︑無仏の時﹂

において大乗正定緊を開顕する﹁上術の極致︑不退の風航﹂であることを表明するものである︒したがって︑この

二道釈と題号釈の一部を一続きに引くことは︑大乗正定緊の現行を願生道として開顕する﹁願生偶﹂の焦点が称名

にあることを端的に示そうとするものであると考えられる︒

ここにおいて注意したいことは︑﹃浄土論註﹄引用の課題は︑単に称名が大乗正定緊を実現するものであるとい

う事を示すことにあるのではなく︑大乗正定緊の実現が具体的に何を根拠としてなされるのかを確かめるところに

あるという点である︒このことは︑二道釈・題号釈の後に﹁又云く﹂と引文を改めて︑以下に展開する一連の引文

又 云 又 所 願 不 軽 工 右 如 来 不 一

︳ 加 威 神 将 何 以

・ 達 乞 加 神 力

︳ 所 以 仰 告 我 一 心 者

・ 天 親 菩 薩 自 督 之 詞

言 念 無 碍 光 如 来 酷 デ 生 安 楽 心 心 相 続 無 他 想 間 雑 詞

﹁不回向の行﹂の内実

︵﹃

定本

﹄三

四頁

(12)

︱‑︑称名の内実としての頻生即得生三念門釈

うとしていると考えられる︒ ﹁不回向の行﹂の内実

というように︑﹁所顧軽からず﹂云々という一節から始めているところに示唆されている︒ここで言われている

﹁所顧﹂とは︑﹁願生偶﹂の末尾に︑

我作広呻説加固頻・見弥陀仏︱

と︑﹁論を作り褐を説﹂く主旨が示されていることから明らかなように︑﹁普<衆生と共に﹂という願いのことを指

すものである︒この﹁普共諸衆生﹂こそは大乗に根ざす﹁不軽﹂の願の表現に他ならない︒親鸞が以下に引く﹃浄

土論

註﹄

の文は︑﹁願生偽﹂第一行の﹁婦命尽十方無碍光如来願生安楽国﹂についての註釈︵三念門釈︶︑第二行の

﹁我依修多羅真実功徳相説願褐総持与仏教相応﹂についての註釈︑そして﹁普共諸衆生﹂の具体的な行体を示す解

義分における回向門の註釈︵回向門釈︶の三つに分けることができる︒これらは︑それぞれが独立する断片的な抜

粋にも見えるが︑﹃浄土論註﹄においては大乗正定緊の根拠を明らかにする骨子となっているものである︒したが

って︑親鸞はそれらの文を引くにあたって︑冒頭に﹁不軽﹂の願の満足のために﹁神力を乞加す﹂という一節を置

くことで︑﹃浄土論註﹄を所願成就が何を根拠として成り立つのかという一貰した課題のもとに引くことを表わそ

親鸞は﹁普共諸衆生﹂の願が満足を得る根拠を確かめるにあたって︑以下のように一二念門釈の一々を引いてくる︒

又 云 又 所 願 不 軽 若 如 来 不 加

5︱ 威 神 将 何 以

・ 達 乞 ー 加 神 力

︳ 所 以 仰 告 我 一 心 者

・ 天 親 菩 薩 自 督 之 詞

言 念 無 碍 光 如 釆 願 一 一 生 安 楽 心 心 相 続 無 他 想 間 雑 詞 帰 命 尽 十 方 無 碍 光 如 来 者 帰 命 即 是 礼 拝 門

・ 尽 十

方無碍光如来即是讃嘆門・何以知帰命是礼拝龍樹菩薩造一阿弥陀如来讃中或言一稽首礼或言︳ー我帰命或

普共︳諸衆生

往 生 安 楽 国

︵﹃定親全﹄八︿加点篇二﹀五九頁︶

(13)

して

いる

が︑

の現

行を

五念門

言帰命礼此﹃論﹄長行中亦言ん診五念門五念門中礼拝是一天親菩薩.既顔一往生

i一恐容一不一礼故知帰命

﹃ 論 ﹄

即 是 礼 拝 然 礼 拝 但 是 恭 敬 不

︳ 必 掃 命 婦 命 是 礼 拝 若 以 口 此 推 帰 命

5

エ褐申己心宜︳一言犀叩命︱

解偽義汎談礼拝一彼此相成於碑〖―弥顕.何以知尽十方無碍光如来是讃嘆門下長行中言云何讃

Jタマヘリ

嘆 謂 称 彼 如 来 名 如 彼 如 来 光 明 智 相 如 彼 名 義 欲 下 如 実 修 行 相 臣 故 尋 天 親 今 言

︳ 尽 十 方 無 碍 光 如

ナリトハ

来 即 是

・ 依 彼 如 来 名 如 彼 如 来 光 明 智 相 讃 嘆 故

・ 知 此 旬 是 讃 嘆 門 願 生 安 楽 国 者 此 一 旬 是 作 願 門

・ 天

親菩薩帰命之意也︑麟

﹃浄土論﹄は﹁普共諸衆生﹂

親鸞はその五念門の核が称名

﹁不回向の行﹂の内実 ︵礼拝・讃嘆・作願・観察・回向︶

︵讃

嘆門

展開する願生心に焦点があることを示唆していると考えられる︒

︵﹃

定本

三四ー三五頁︶

による往生と見仏によって表わ

を中心とする三念門にあると確かめる︒

帰命と礼拝の関係性を三念門釈の一々が引かれる中で注意を喚起させられるのは︑

ず帰命ならず﹂と︑恭敬としての礼拝は帰命に必然しないと断ずるように訓をふり︑帰命の帰命たる根拠が願生心

(3 )

︑︑

︑︑

にあることを強調させていることや︑讃嘆門釈の結語を﹁此の旬は是れ讃嘆門なりとは﹂というように訓をふり︑

次の作願門釈に連結するようにしていることである︒これらのことは︑一二念門釈引用の視座が︑称名の内実として その中にあって︑今

﹁礼拝は但是れ恭敬にして︑必

そこで注目したいのは︑前の三念門釈に続けて引かれる︑以下の﹁願生安楽国﹂に関する二番の問答である︒

間曰大乗経論中処処説

1一衆生畢寛無生如一虚空云何・天親菩薩言︳願生︳邪答日・説一︳衆生無生如︳虚空︳有

7

二種一者糾凡夫所謂竺実衆生如下凡夫所見実生死上此所見事畢寛無一所〗有如一亀毛加~虚空_―一者謂諸法因

縁生故・即是・不生無=﹂所二有如一︳虚空天親菩薩・所二願生一者是因縁義因縁義故・仮名元土一非五如四凡

夫謂五り実衆生実生死也︑問日依佃涵和説︳往生一答曰於一此間仮名人中砿立五念門一前念与□

念 作

五恢

土仮名人・浄土仮名人・不五豆決定一一不如け決定異︳前心後心亦如戸牢何以故若一則無因

I果 一 若 異 則

(14)

﹁不回向の行﹂の内実

非 相 続 是 義 観 二 異 門

﹃ 論

中委曲釈一第一行三念門辛兄

(﹃

定親

全﹄

八︿

加点

篇二

10

六I‑0

七頁

︵﹃

定親

全﹄

八︿

加点

篇二

この二番の問答の中︑第一の問答は︑﹁願生﹂は凡夫所見の実体的生を願うものを表わしているのではなく︑﹁因縁

の義﹂によって仮に﹁生﹂と名づけているということを示すものである︒ここで問題となることは︑この﹁因縁の

義﹂が何を意味するかという点であるが︑ここに称名の内実を願生心に焦点を当てて確かめる中で︑その願生心が

どのようなものであるかを明らかにする重要な事柄が示されていると考えられる︒

(5 ) 

﹃浄土論註﹄においてこの﹁因縁の義﹂とは︑浄土を開顕する﹁仏の因縁法﹂のことを指すものであり︑そこに

開かれる﹁生﹂とは︑

J彼浄土・是・阿弥陀如来清浄本願無生之生・非レ如一三有虚妄生一也︑

レ生者・是・得生者之情耳︑

ころに開かれる境界であるとする点である︒

何 以 言 口 之 王 入 法 性 清 浄 畢 覚 無 生 言

10

三頁

とおさえられているように︑﹁得生の者の情﹂として体現する﹁無生の生﹂の境界である︒と同時に︑曇鸞の確か

めにおいて重要なことは︑生即無生であることを知るのは上品生の境界であって下品人の念仏往生においては実生

の執見に陥るのではないかと問いを起こし︑それに対して︑

J J

如下浄摩尼珠以一︳玄黄幣一裏投之於レ水曰水・即・玄黄一如中物色上彼清浄仏土有一阿弥陀如来無上宝珠︳

J

以無量荘厳功徳成就吊裏•投乏於一所往生者、心水専平小知枇転生見為中無生智上乎(中略)彼下品人・雖

J

J J

レ不レ知法性無牛但•以四称仏名力-作往生意顧圧彼土一彼土・是・無生界見生之火・自然而滅

と確かめているように︑﹁無生の生﹂は称名によって浄土の荘厳功徳が衆生の﹁往生の意﹂として具現化されると

その意味において︑親鸞がこの﹁因縁の義﹂において確かめようとしていることは︑﹃浄土論註﹄において明ら

︵﹃

定本

﹄三

五ー

三六

頁︶

(15)

かにされる願生道全体を﹁囚縁の義﹂の一点に託し︑﹁願生﹂が﹁仏の因縁法﹂によって開示される﹁得生の者の

情﹂それ自体であるということにあると考えられる︒この視点に立つならば︑械土と浄土の仮名人が不一不異の関

係にあることを示す次の第二問答において︑その基づくところを親鸞が﹁前念と後念と因と作る﹂というように訓

読していることも︑第一問答における﹁因縁の義﹂を受けて︑願生︵械土︶の念が前後相続していくことの一々が

︑︑

得生︵浄土︶の意を持つということ︑すなわち﹁前念と後念と囚縁生と作る﹂ということを示そうとするものであ

(6 ) 

ると考えられる︒

と同時に︑親鸞はこの二番の問答を引く際︑﹃浄土論註﹄における﹁願生安楽国﹂の﹁安楽国﹂に対してのニ︱

E

すなわち﹁其れ安楽の義は︑具に下の観察門の中に在り﹂を﹁乃至﹂しているが︑ここにもこの﹁囚縁の義﹂によ

って所顧満足の根拠を確かめようとする意図を見ることができる︒この﹁乃至﹂は︑一応は引文の構成上観察門を

引かないためのものであるが︑﹃浄土論註﹄において確かめられる観察門の内容は︑﹁得生の者の情﹂に開かれる

﹁荘厳功徳﹂︑すなわち浄土の﹁生﹂の内容を示すものであるという意味では︑願生の内実をおさえるためには重要

な箇所である︒しかし︑その﹁荘厳功徳﹂は﹁仏の因縁法﹂によって開かれるものであり︑同時に︑前に見たよう

に衆生の﹁往生の意﹂として具体化されたものである︒したがって︑﹁安楽の義﹂ということは︑﹁因縁の義﹂とし

て確かめられる﹁顧生﹂それ自体に摂し尽くされるものであると言うことができる︒そして︑﹁普共諸衆生﹂の願

は︑その﹁安楽の義﹂として示される浄土の功徳によって結実されるものに他ならない︒その意味で︑﹁普共諸衆

生﹂の願はこの﹁願生﹂それ自体に志願として十全されている︑ということがここに示されていると言える︒

ここで改めて問題としたいのは︑この﹁因縁の義﹂として確かめられる願生心は何によって起こるものであるの

かということである︒それは﹁仏名を称する力を以て往生の意を作して彼の土に生まれんと願ず﹂とおさえられる

ように︑称名における願生心の発起に他ならないのであるが︑その﹁往生の意を作して﹂というところに決定的な

﹁不回向の行﹂の内実

(16)

転換があるように思われる︒ここに︑願生の主体の問題︑すなわち﹁我﹂の内実が厘要な問題となるのであり︑三

念門釈以下に展開する引文はそれを明らかにするものであると考えられる︒

親鸞は前の三念門釈に続けて︑以下のように﹁我依修多羅真実功徳相説願褐総持与仏教相応﹂の四旬の註釈を引

いて

いる

(﹃

定本

﹄三

六ー

三七

頁︶

藍 我 依 修 多 羅 真 実 功 徳 相 説 願 侶 総 持 与 仏 教 相 応 已 何 所 依 何 故 依 云 何 依

・ 何 所 依 者

・ 依

︳ 修 多 羅 一 何 故

•以如来即真実功徳相故・云何依者・修尻念門相応故紅修多羅者・十二部経中直説者・名修多依者

羅謂四阿含三蔵等外・大乗諸経亦名修多羅此中言依修多羅一者・是三蔵外大乗修多羅非一﹃阿含﹄等経︳

也︑真実功徳相者有二種功徳二者従二有漏心一生不年生法性一所玉叩凡夫人天諸善・人天果報・若・因・若.

果・皆是・顛倒・皆是虚偽・是故・名不'実功徳二者従︳菩薩・智慧清浄業一起・荘︳厳仏事︳依二法性入一清

浄相亘心法不︳顛倒一不虚偽名真実功徳云何・不顛倒︳依二法性順三諦一故・云何不虚偽一摂衆生︳入畢党

ハタトヘハ浄故・説願侶総持与仏教相応者持名不'散不失一総名一一国以□少一摂豆多田翌願名欲楽往生虹与仏教相応者讐

如函蓋相称上也豆

ここにおいて注意しなければならないのは︑

あるという︑

この

こと

は︑

この四旬が優婆提舎の名を成じ︑

﹁願生偶﹂全体の楔として位置づける﹃浄土論註﹄の文言を全て﹁乃至﹂しているという点である︒

﹁頴生褐﹂の中でのこの四句の役割ではなく︑﹁願生偽﹂を説く﹁我﹂の依止の問題に焦点を当てて引

用していることを示唆するものであると考えられる︒ここに︑この箇所で願生の主体を確かめようとする親鸞の意

︑ 願 生 の 主 体 と 法 蔵 菩 薩 の 顧 行 真 実 功 徳 相

﹁不回向の行﹂の内実

上三門を成じ下二門を起こすもので

(17)

︵﹁

定親

全﹄

八︿

加点

篇二

﹃浄土論註﹄においては︑

(﹃

定親

全﹄

八︿加点篇二﹀ ここで注目したいのは︑願生の依止の根幹である﹁如来即真実功徳相﹂について︑﹁真実功徳相は一一種の功徳有

り﹂という形で示される不実功徳と真実功徳の両者の関係性である︒この両者は︑﹃浄土論註﹄において浄土の総

相である清浄功徳について︑

/

□︶

記汀

仏 本 所 一 一 以 起 一 荘 厳 清 浄 功 徳 者 見 下 三 界 是 虚 偽 相 是 輪 転 相 是 無 窮 相 如 駅

繭鱈豆ー自縛哀哉衆生締中鱈臼卸此三界顛倒不浄上欲下置︱︱衆生於不'虚偽処於不'輪転処秘5

︱不

細窮

ェシメムト処一得中畢寛安楽大清浄処'

と確かめられているところに表わされているように︑仏に﹁見そなわ﹂される衆生の不実の相と︑その不実の衆生

をして﹁畢覚安楽の大清浄処を得しめん﹂とする真実の相を示すものである︒したがって︑不実は真実から排除さ

れるものではなく︑真実の力用を受けるものであるという意味において﹁功徳相﹂であり︑﹁菩薩の智慧清浄の業

従り起こりて仏事を荘厳す﹂と確かめられる真実功徳も︑

二︱

‑│

︱四

頁︶

その真実の力用としての法蔵菩薩の仏事を表わすものに

他ならない︒ただし︑その場合︑不実と真実の両者の関係性は︑当面は摂化される側と摂化する側という相対的な

二相を意味することになる︒しかし︑親鸞が今この真実功徳相に確かめようとしていることは︑不実と真実のより

直接的な関係であると考えられる︒このことは︑親鸞が法蔵菩薩の仏事を﹁衆生を摂して畢寛浄に入る﹂と確かめ

﹁不回刷の行﹂の内実 図を見ることができる︒

︱二

頁︶

ているところに見ることができる︒

︑ ︑

親鸞が﹁衆生を摂して畢覚浄に入る﹂と訓読したこの箇所は︑親鸞加点の

摂 衆 生 人 畢 覚 浄 故

︑︑

︑︑

というように︑﹁入らしむる﹂となっている︒この場合︑顛倒虚偽の不実衆生をして﹁畢覚浄に入らしむる﹂とい

︑ ︑

う法蔵菩薩の仏事を意味するものとなる︒これに対し︑﹁行巻﹂における﹁畢覚浄に入る﹂という訓読は︑衆生を

(18)

える

﹁不回向の行﹂の内実

摂すること︵利他︶と法蔵菩薩自身が畢覚浄に入ること

れる︒この場合︑不実と真実の関係性は対他的摂化を意味しないことになる︒勿論︑﹁行巻﹂と加点本の訓みは矛

盾するものではない︒﹁衆生を摂して畢覚浄に入らしむる﹂ことは︑他でもなく衆生に﹁得生の者の情﹂を得させ

ることである︒そして︑その﹁得生の者の情﹂は﹁仏の因縁法﹂によって荘厳される浄土の功徳それ自体の現行で

あるから︑その﹁情﹂の根は浄土を修起するところの法蔵菩薩の願行にある︒その意味において︑法蔵菩薩が﹁畢

覚浄に入る﹂ということの他に︑衆生を﹁畢覚浄に入らしむる﹂ということは成り立ち得ないのである︒したがっ

て︑﹁行巻﹂における﹁衆生を摂して畢覚浄に入る﹂という訓みは︑﹁衆生を摂して﹂ということそれ自体が︑法蔵

菩薩が﹁畢党浄に入る﹂ことであるという︑法蔵菩薩の仏事を衆生との呼応のもとに重層的に表わそうとするもの

であると言えるのである︒

親鸞はこの真実功徳相を仮名聖教において︑

貞実功徳相といふは︑真実功徳は誓願の尊号なり︑相はかたちといふことば也︒

︵﹃

定親

全﹄

︱︱

‑︿

和文

篇﹀

八八

頁︶

と註釈するが︑この註釈の背景には︑衆生を﹁畢寛浄に入らしむる﹂ために名号を﹁無量荘厳功徳成就吊を以て裏

んで︑所往生の者の心水に投ぐる﹂ことによって︑自ら衆生の﹁称名力﹂となって﹁往生の意﹂を象り得生させる

というところに真実功徳の仏事の具体相がある︑という確かめがあると考えられる︒すなわち︑それが親鸞が述べ

︑︑

る﹁誓願の尊号﹂の力用の﹁かたち﹂に他ならない︒したがって︑名号としてはたらく真実功徳相に依止すること

は︑法蔵菩薩の仏事に直入することを意味する︒換言すれば︑﹁畢寛浄に入らしむる﹂仏事に依止することは︑そ

こに﹁見そなわ﹂される不実の自己を自覚すると同時に︑﹁畢覚浄に入る﹂法蔵の願行に乗託することであると言 ︵自利︶とが同体であることを表わすものであると考えら 10 

(19)

門を

して

る ︒

四 ︑

﹁ 普 共 諸 衆 生

﹂ と

﹁ 如 来 の 作 願

﹂ 往 相 回 向

親鸞は前の三念門釈の冒頭において︑願生心を表白する﹁我一心﹂

至﹂している︒

問日・仏法中無我一此中何以称我答日こ︱︱︱戸我有三根本︱

我_者天親菩薩自指一_之ニ――-E•用一流布語韮介_邪見自大1也、

それに対し︑殊更に﹁我依修多羅真実功徳相説願褐総持与仏教相応﹂の註釈を引くところには︑邪見・自大を超え

た﹁流布語﹂としておさえられる﹁我﹂は︑法蔵菩薩の仏事と呼応する﹁我﹂においてはじめて確かめられるとい

うことを表わそうとする意図があると考えられる︒その意味においても︑﹁普共諸衆生﹂の願の満足は︑その﹁我﹂

の発見においてなされるのであり︑ここに所願満足のために﹁神力を乞加す﹂ることが実を結ぶ焦点があると言え

親鸞は﹃浄土論註﹄の文の引用の結びとして︑以下のように回向門釈から往相回向の文を引く︒

云何回向不︱︱拾一切苦悩衆生応泣吊作願回向為舌戸得

l

︳ 就 大 悲 心 一 故 回 向 有 二 種 相

︱ 一 者 往

相二者還相往相者以己功徳同〗施一切衆生一作願共往生阿弥陀如来安楽浄土呻

︵﹃

定本

この回向門こそは︑﹁普共諸衆生﹂という所願を満足する大乗正定緊の現行を表わすものであるが︑すでに見てき

たように︑願生心の主体が法蔵菩薩であるというところにおいて︑回向門は衆生における行ではない︒親鸞が回向

﹁不回向の行﹂の内実

三七

ー三

八頁

︵﹃

定親

全﹄

八︿

加点

篇︱

‑﹀

七頁

の﹁我﹂の註釈にあたる以下の問答を﹁乃

ナリ一是邪見語・ニ是自大語・三是流布語今・言一

(20)

回向を首としたまひて

︵﹃

定視

全﹄

二︿

和讃

篇﹀

一五

一頁

というようにうたい︑特に﹁作願﹂に﹁みたによらいのひくわんをおこしたまひしことをまふすなり﹂と左訓を施

しているところにも︑不実の衆生に大乗の仏道が成り立つことの根拠を如来の悲願に確かめていることを見ること

ができる︒ここには︑﹁共に﹂という所顔の立脚地が如来の大悲心以外には無いという徹底した確かめがあると言

︑︑

ヽヽ

(9 )

︑︑

ヽヽ

(8 )

しかし︑ここにおいて注意を喚起させられるのは︑他の箇所において﹁回向したまえる﹂﹁回向したもう﹂とい

うように︑回向門が如来の行であることを示す訓がふられているのに対し︑ここでは﹁回向する﹂というように訓

がふられていることである︒勿論︑これは前に述べたように︑回向門が衆生の行であることを意味するものではな

い︒衆生の現実は顧倒虚偽に始終する不実であるから︑その衆生には﹁一切苦悩の衆生を捨てず﹂という願が実現

する根拠は無いからである︒しかしながら同時に︑依止の転換において得るところの願生心は︑﹁阿弥陀如来の安

楽浄土に往生せしめたまえる﹂法蔵菩薩の仏事それ自体の顕現であるから︑その顧生心そのものが衆生に﹁作願﹂

として惹起する﹁普共諸衆生﹂を実践する如来の心であると言える︒その意味において︑ここでの親鸞の回向門へ

の傾注は︑﹁作顧して共に阿弥陀如来の安楽浄土に往生﹂するというかたちで﹁回向する﹂その根底に︑﹁大悲心を

成就することを得たまえる﹂﹁如来の作顧﹂を確かめ︑﹁共に﹂という願が凡夫に実現する根拠を明らかにしようと

するものであると考えられる︒

このことは︑往相回向が親鸞において如来の回向として確かめられることが︑その内容としては﹁如来より﹂

える

大悲心おば成就せり 苦悩の衆生をすてずして 如来の作願をたづぬれば ﹁不回向の行﹂の内実

(21)

﹁衆生の方より﹂というような相対的なものではなく︑回向全体が如来の行であるという︑衆生と重層的な関係か

ら展開するものであることを示すものである︒ここに︑親鸞が如来回向の大行を﹁是れ凡聖自力の行に非ず︒故に

不回向の行と名づく﹂と確かめる意義を見いだすことができる︒

親鸞が大行を﹁不回向の行﹂とおさえているところには︑大乗正定緊の現行である回向が法蔵菩薩の願行︑すな

わち如来の行であり︑それが依止の転換において見いだされる﹁我﹂そのものであるという確かめがある︒それは︑

大行の大行たる根拠が如来の作願にあるということと同時に︑それが衆生の行として結実されるという意味におい

て︑衆生の自覚態として﹁不回向﹂と述べていることを表わすものである︒そこには︑師法然が﹁顧行具足﹂の義

によって﹁別に回向を用いざれども︑自然に往生の業と成る﹂と述べるその淵源に︑不実の衆生をして得生させ︑

大乗正定緊を結実させようとはたらく法蔵菩薩の願行を見いだし︑﹁回向を用いざれども﹂ということの本質を明

そしてこのことは︑その証文として︑

是以﹃論註﹄曰彼安楽国土莫四非一一阿弥陀如来正覚浄華之所在勾

同 一 念 仏 無 一 別 道 故

︵ 口

﹃定

本﹄

六七 頁︶

というように︑脊属功徳の文が引かれているところに顕著に表わされている︒この文において注意しなければなら

ないことは︑この功徳が法蔵菩蔭の修起によって象られる﹁得生の者の情﹂であるという点である︒すなわち︑こ

こで言われる﹁同一念仏無別道﹂は︑その行主体が法蔵菩薩であるからこそはじめて根拠を持つものなのである︒

﹁不回向の行﹂の内実 らかにしようとする視座があると言える︒

お わ り に

﹁ 不 回 向 の 行

の内実

(22)

(1

)

︳ ︳ ︱ ‑ ロ

( 2

)  

( 3

)  

︵﹁行巻﹂他力釈に展開する本願力回向︑

そこには︑大行が﹁同一念仏無別道﹂を開くものであるということと同時に︑それが衆生の行としてはたらく法蔵 菩薩の願行そのものであるからこそ﹁別に回向を用いざれども﹂という意味があるということが表わされていると 言える︒その意味で︑﹁不回向の行﹂は単に﹁凡聖自力の行に非ず﹂ということを言い換えたものではなく︑依止 の転換における如来の現行を自覚的に述べるものであると言える︒だからこそ︑﹁無回向﹂ではなく﹁不回向﹂な のである︒しかも︑それは﹁凡聖自力の行に非ず︒故に不回向の行と名づく﹂という文言が物語るように︑その自 覚態としては﹁自力の行に非ず﹂という一点において確かめられるものに他ならない︒ここにまた︑親鸞が五念門 の中核を称名に確かめ︑大行の全体を破闇満願の一点に集約しておさえている意義を見ることができる︒その意味 で︑この﹁不回向﹂は親鸞が述べる如来回向の内実を明らかにする重要な言葉であり︑本願念仏における現生正定

緊がその自呂見としてどのようなものであるかを表わす鍵語であると言える︒

および﹁信巻﹂に同じく﹁不回向﹂と述べる第十八願の﹁欲生﹂については今後の課題としたい︒︶

﹃真聖全﹄一・九三ヒ頁﹃教行信証講義集成﹄一四七四頁

︑︑

︑︑

この箇所は﹃浄土宗全書﹄所収の義山校訂本では﹁必ずしも帰命ならず﹂となっている︵﹃浄土宗全書﹂一・︱︱︱二頁参照︶︒この﹁必﹂について︑深励は﹁不﹂と﹁必﹂の漢字の順に注意し︑﹁必が不の字の下にあるは︑通ずることあり通ぜぬことありと云うことなり︒必不とあれば屹度通ぜぬと云うことなり︒今は不必とあるは通じ

通ぜぬと云うことなり﹂︵﹃教行信証講義集成﹄九0六頁︶と指摘する︒これによれば︑﹁不必帰命﹂は義山校訂

︑︑

︑︑

本のように﹁必ずしも帰命ならず﹂と読み︑帰命と礼拝の関係性に言及する一連する文章が︑﹁礼拝は但是れ恭

敬にして必ずしも帰命ならず︒帰命は必ず是れ礼拝なり﹂︵﹃浄士宗全書﹄一・ニ︱︱︱頁︶というように︑﹁不必﹂

︑ ︑

と﹁必﹂で対照的に読むのが自然である︒これに対して︑﹃教行信証﹄では﹁必ず帰命ならず﹂と読むように訓

︑ ︑

がふられている︒加点本においても同様に﹁礼拝は但是れ恭敬なり︒必ず婦命にあらず︒帰命は必ず是れ礼拝な

﹁不

回向

の行

﹂の

内実

一 四

(23)

り﹂︵﹃定親全﹄八︿加点篇︱‑﹀八頁︶となっており︑漢字そのものの順番は﹁不必帰命﹂であるため︑﹁必ず﹂と読んでも意味そのものに大きな違いは無いかもしれない︒しかし︑注意すべきは﹃教行信証﹄の場合︑加点本とは異なり続く文が﹁帰命は是れ礼拝なり﹂というように﹁必﹂の一字が無い︒したがって︑ここでは﹁不必﹂と﹁必﹂の対応関係ではなく︑殊に﹁不必﹂に力点を置き︑恭敬心としての礼拝は﹁必ず﹂帰命にならないことを強調し︑帰命の根拠を﹁天親菩薩︑既に往生を顧ず︒豊に礼せざるべけんや﹂や面向は己心を申ぶ︑宜しく帰

命と言うべし﹂と確かめる方に比重を置くようにしていると考えられる︒この箇所は加点本では﹁此の旬は是れ讃嘆門なり﹂となっている︵﹃定親全﹄八︿加点篇︱‑﹀九頁参照︶︒本来ここは讃嘆門釈の結語であり︑次の作願門釈との区切りとなる場所であるから︑加点本のように﹁なり﹂と訓をふるべき箇所である︒その意味で︑この箇所が﹁なりとは﹂となっていることは︑讃嘆門の具体性を作願門に確か

めようとしていることを示していると考えられる︒註

( 3 )

の内容と合わせれば︑この三念門釈は称名︵讃嘆門︶

を中心に︑称名は顧生心︵作顧門︶に︑そして﹁天親菩薩︑帰命の意なり﹂とおさえられるように︑願生心︵作頻門︶は掃命︵礼拝門︶に︑帰命︵礼拝門︶は願生心︵作願門︶にというように︑顧生心と呼応して確かめられるものとなっていると言える︒

﹃定親全﹄八︿加点篇二﹀一0

二頁

﹃浄土宗全書﹄所収の義山校訂本では﹁前念は後念の輿︵ため︶に因と作る﹂と訓読するように訓がふられている︵﹃浄士宗全書﹄一・ニ︱︱一頁参照︶︒この場合︑五念門における前念と後念の因果関係を意味する文言になり︑そこで問題となることは︑その因果が何を意味するかという点である︒

これについて︑山口益氏の指摘に注目したい︒山口氏はこの因果関係について﹁いわく︑往生ということのためには︑この世間での仮名人たるわれわれが五念門を修するのであるが︑その場合︑その五念門の行の前刹那の

ものは後刹那のための因となる︒ところで往生ということがいわれるときには︑そこに械土の仮名人が往生して浄士の仮名人となるという一転機が考えられるのであるが︑この場合の前刹那の械土の仮名人たる因と︑後刹那の浄士の仮名人たる果とは︑一であるとも異であるともいってはならない﹂︵﹃世親の浄土論﹄六七頁︶というよ

うに刹那の因果であると指摘し︑また︑﹁因果の相続﹂については﹁物の持続・継続を指す﹂ものではないとして︑﹁実態論的因果説は︑中論跨頭の八不において遮けられるものであって︑曇鸞は︑その立場において往生の

義を確立しようとするのであるから︑ここの因果の関連を意味する﹁相続﹂も︑縁起説において因果の関連の正

﹁不

回向

の行

﹂の

内実

(5

(6

一 五

(24)

7  ﹁

不回

向の

行﹂

の内

しいあり方が語られる︑その縁起説を承用する意図のものであることが知られる﹂︵﹃同﹂七一頁︶と指摘する︒山口氏の指摘によって知られることは︑﹁曇鸞が願生浄士・往生浄土ということを大乗仏教の根本的立場の上に還元して樹立しようとせられた﹂︵﹁同﹄六九頁︶中にあって︑概念的な往生の行為を考える分別を否定している

ということである︒その意味で︑義山校訂本のように﹁前念は後念のために因と作る﹂と訓読したとしても︑それをいわゆる因果の意味で捉えてはならないと言える︒ここにおいて一っ留意しておかなければならないのは︑﹁仮名の人﹂の意味内容である︒同氏は﹁械土の仮名の人﹂について﹁人間存在は︑その如実なあり方︑縁起の道理に適うたあり方としては︑空義における人間存在

としての仮名人である筈なのであるが︑われわれの現実では︑その能所が仮名・仮設とせられずに常に実休執せられ︑そこに我執我所執を起こして煩悩・雑染せられてゆく︒それは実休執人とも称すべきものであるが︑いまは︑如実なあり方としての﹁仮名人﹂たるべきものを予想して︑実体執人を稿士の仮名人と名づけたものであろう﹂︵﹃同﹄六九ー七0頁︶とし︑﹁浄士の仮名の人﹂については︑﹁空義における人間存在である浄土の仮名人は︑能所が実体執せられずに︑その実体執が常に破析せられてゆく︒実体執が常に破析せられていくということは︑

浄土の仮名人としての浄士の菩薩は︑自他平等に立つから︑一切有情の雑染のあらん限り︑それを破析し清浄化していくということ﹂︵﹃同﹄七0頁︶とし︑械士と浄土の仮名人の因果の不一不異は﹁雑染から清浄への転回の契機が︑実体論的な転変説や因中無果・因果別体説的でありえない﹂︵同上︶ことを示すものであると指摘する︒ここにおいて問題となることは︑その﹁械土の仮名の人﹂と名づけられる実体執する現実的衆生が︑何によって

自己を﹁械土の仮名の人﹂と覚知するのかということである︒それは︑同氏の言葉を借りれば﹁実体執が常に破析せられてゆく﹂ところであり︑そうであれば︑すでにそれは﹁浄土の仮名の人﹂である︒したがって︑その関係性をして﹁転回の契機﹂の不一不異と言うのであろうが︑そのことは︑五念願生がその刹那において﹁得生の者の情﹂となり︑その﹁得生の者の情﹂は刹那に実体執する衆生を﹁械士の仮名の人﹂として成り立たせ︑その刹那の連続に願生即得生の本質的な意味があることを示すものであり︑それこそがここで言われる﹁因縁生﹂の意味であると考えられる︒その意味において︑親鸞が﹁前念と後念と因となる﹂と訓読したところには︑その五念願生の内実を確かめ︑念念の頻生心が﹁因縁生となる﹂ことを示して︑顧生心の本質を明らかにしようとする意図があると思われる︒﹃定親全﹄八︿加点篇二﹀九頁

一 六

(25)

9 8 

Z疋 元

£ 

9

L

^ 七

漢 頁

(26)

来から難解とされる所が多くある︒ ﹃顕浄土真実教行証文類﹄︵以下︑﹃教行証﹄と略称︶は︑その大部分が︑題名にある﹁文類﹂という引証経論と

呼び習わす引用文である︒

この﹁文類﹂について︑中井玄道校訂﹃教行信証﹄には︑その形態などから︑七つに分類する︒この分類は﹃教

行証﹄において︑経典などを一般的と言われる読み方を変えたり︑時には経典の文字を変え︑文章を入れ替えるな

どしていることに基づくものである︒

このような﹁文類﹂の中には︑それが意図的なものか︑意図せざるものか︑容易に判断できないものもあり︑従

今回取り上げる﹁顕浄土真実教文類﹂︵以下︑﹁教文類﹂︶の﹃平等覚経﹄は︑従来から疑問が持たれ︑訓読や用

いられた文字を︑経典の原文に戻し︑理解されることが多くある︒ 問題提起 ﹁教文類﹂における

如来興世の正説

高田派

﹃平等覚経﹄をめぐって

(27)

如来興世の正説

佛語阿難︒如世間優曇鉢樹︒但有賓無有華︒天下有佛︒乃有華出耳︒世間有佛甚難得値︒今我作佛出於天下︒

若有大徳聰明善心︒豫知佛意︒若不即在佛邊侍佛也︒若今所問善聰諦聰︒

︵傍

線筆

﹃大

正蔵

2 ) 

って

いる

では︑対校本による異なりはないが︑﹃高麗大蔵経﹂︵第六巻九七九頁

C)

そして︑﹁教文類﹂では︑

平等覺経言佛告阿難如下世間有一優曇鉢樹一但有賓土炉一右y

華天下有一佛乃華出上耳世間有二佛︳甚難︱︱︱

得 値 今 我 作 佛 出

= 於 天 下 若 有 大 徳 聰 明 善 心 縁 知 佛 意 五 右 不 一 妄 在 佛 邊 侍

︳ 佛 也

︒ 若 今 所 問 一 普 聴 諦 聰 エ

この原典との訓読の相違として従来問題となるのは︑﹁若﹂の字について︑ で

ある

まず︑原典では︑次のようになっている︒ 原典と﹁教文類﹂

そこで︑まず﹃教行証﹄﹁教文類﹂における﹃平等凸見経﹄

た慧雲の﹃教行信証紗﹄などの解釈を見通し︑次に﹃大経﹄と同本異訳の経典の発起序を対照して確認し︑﹁教文

類﹂のそれぞれの経典から類緊された箇所と憬興師の﹃述文賛﹄を確かめ︑﹁教文類﹂における﹃平等覚経﹄

﹃平

等覚

経﹄

読や文字が持つ意味を明らかにしたい︒

一般的には﹁ナンヂ﹂と読むのに対 の訓読や文字の相違を確認し︑このことに疑問を示し

﹃大

正蔵

︱ ニ

ー ニ

七 九

c

ー ニ

0頁

a )

では︑傍線部が﹁妄﹂とな

︵﹃

定本

一四

頁︶ の

(28)

まず︑﹃教行信証紗﹄が用いた して︑﹁教文類﹂では︑最初の﹁若﹂には︑送り仮名がないものの︑後の二つには︑﹁シ﹂と送り︑すべて﹁モシ﹂

字句の相違は︑原典の﹁佛語阿難﹂が﹁佛告阿難﹂︑﹁豫知佛意﹂が﹁縁知佛意﹂︑﹁若不忘﹂が﹁若不妄﹂︑﹁善

現在︑﹁教行証﹄が原本とした経典は特定されておらず︑この字旬の相違が︑何に基づくのか︑断定はできない

が︑解釈するにあたっては︑多くの場合︑元の経典に戻して理解される︒そこには︑いかなる理由があったのであ

六九

一年

﹁教

文類

﹃平等覚経﹄解釈をめぐって

﹁教文類﹂の﹃平等覚経﹄に疑問を示した最初のものと思われるのが︑高田派の京都本誓寺恵雲(‑六︱︱︱︱\一

の註釈書は﹃六要紗﹂の他の﹃教行信証紗﹄(‑六八五年著︑

にはほとんどない状況の中︑多くの学匠によって読まれ︑少なからず影響を与えたことは︑江戸期の講録などによ

って

窺え

る︒

﹃教

行証

真蹟本またはそれに準ずるものを参照できる状況にはなく︑主に刊本などを用いるなどの点から︑﹃教行証﹂本文

の侶頼度が︑解釈に影響を与えているとも考えられるからである︒

﹃教行信証紗﹄が用いた﹃教行証﹄の本文について︑真岡慶心氏は︑鈴木法深氏が︑﹁恵雲は本典と六要との会本

を製し﹂とするのに対して︑六要会本とはその性格が異なるため︑﹁ある一本を底本として︑古本︑異本を示し六

︑ ︒

ろうカ 聰﹂が﹁普聰﹂である︒ と読んでいると考えられる点である︒ 如来興世の正説

翌年

刊行

である︒出版当時︑﹁教行証﹄

の本文について確認しておきたい︒なぜなら︑当時は今日のように︑

1

参照

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2003 Helmut Krasser: “On the Ascertainment of Validity in the Buddhist Epistemological Tradition.” Journal of Indian Philosophy: Proceedings of the International Seminar

代表研究者 川原 優真 共同研究者 松宮

【 大学共 同研究 】 【個人特 別研究 】 【受託 研究】 【学 外共同 研究】 【寄 付研究 】.

共同研究者 関口 東冶