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理 性 と ﹁ 理 性 の 限 界 の 向 こ う ﹂

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はじめに   従来のイブン・アラビー︵Muh.yī al-Dīn ibn ‘Arabī, d. 1240︶思想研究では︑彼が後代に与えた影響の大きさが強調されるのに対し︑前代の思想伝統と彼の思想の関係性についての考察は遅れている 1︒この問題を論じた既存の研究

では︑スーフィー思想︑哲学︑神学︑シーア派思想といった種々の潮流の思想との比較によって彼の思想との異同

を検討し︑これらの伝統から彼が何を自説に取り入れたかを考察する手法が主であった 2︒一方で︑彼が前代の思想 調︵‘aql︶稿

『宗教研究』93巻輯(2019年)

理 性 と ﹁ 理 性 の 限 界 の 向 こ う ﹂

││﹃マッカ開扉﹄にみるイブン・アラビーによる他説との知的対話││

相   樂   悠   太

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を積極的に批判した事例は比較的注目されることが少ない 3︒しかしながら︑彼に影響を与えた他説は︑それに対し

て彼が肯定的な態度を示したものだけとは限らない︒彼に対する前代の思想的影響を考察するうえでは︑彼を取り巻く当時の思想的環境の中で彼によって受容された部分だけでなく︑拒絶された部分も視野に入れるべきである︒

  イブン・アラビーはしばしば人間の理性︵‘aql︶の能力を神秘主義的文脈の中で否定的に論じることで︑これに 立脚した哲学者や神学者の方法論を批判し︑彼らの知的営為から自説を差異化したことが知られている 4︒しかしながら︑彼のこの議論を紹介した従来の研究では︑聖法や神秘体験と理性の単純な対立関係が示されるにとどまるこ

とが多く︑この議論の焦点や根拠︑意図は十分に考察されていない︒このため︑﹁理性﹂論が彼の霊魂論の中で有

する意味は積極的に評価されてこなかった︒たとえば︑イブン・アラビーの霊魂論の非理性主義的傾向を中世キリ

スト教思想と比較し︑両者の類似性を指摘したタカーチ︵Takács︶の研究では彼の主著﹃マッカ開扉﹄︵al-Futūh.āt al-Makkīya︶がほとんど使用されず︑同書における彼の議論の論理展開は十分に跡づけられていない 5︒また︑神に ついての知に関するイブン・アラビーの認識論を取り上げたハキーム︵H.akīm︶の研究では︑内的感覚との関係性

といった人間の認識の仕組みの問題に関して︑自然学的霊魂論の考え方を用いて彼が展開した議論が注目される︒彼が理性による知の限界と神秘道を通じた自己実現の重要性を説いたことも強調されるが︑彼の﹁理性﹂論と神秘

主義的認識論の有機的連関性は明らかにされていない 6︒イブン・アラビーの認識論における知の源泉︑認識の過 程︑知の対象という主題を扱ったアブラハモフ︵Abrahamov︶の研究でも︑彼が聖法による知を理性による知よりも上位に置く一方で後者の価値を無視してもいないと説明されるなど︑もっぱら両者のあいだの優先順位の問題が

焦点化されるのみである 7︒

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理性と「理性の限界の向こう」

  本稿では理性を神秘主義的視点から否定的に論じるさいのイブン・アラビーの論理展開の構造分析を通じて︑彼の神秘主義的霊魂論の中で﹁理性﹂論が果たした欠くべからざる役割を明らかにする︒これによって神秘主義

的霊魂論の一展開として彼の﹁理性﹂論をとらえなおし︑異なる思想潮流に対する彼の批判的応答が︑彼自身の

思想形成の動因にもなっていることを示すことを目的とする︒資料としては︑彼の主著である﹃マッカ開扉﹄の中の理性を論じた箇所を︑詳細な理性論が展開された同書第五八章﹁導かれし示唆の徒︵ahl al-ilhām︶の神秘の真知

︵ma‘rifa︶と︑心︵qalb︶に流れ込み︑その想念を分かち散らす神的な知︵‘ilm ilāhī︶の真知について﹂を中心に検討

する︒

一  啓示と理性

 

││ 神についての知をめぐって ││   イブン・アラビーが理性を否定的に論じるのは主に神についての知をめぐる議論の文脈においてである 8︒﹃マッ カ開扉﹄第三章の中の︑人間霊魂の認識能力を論じる箇所で彼は︑外的・内的な諸感覚と並び言及された理性的能力︵qūwa ‘aqlīya︶が自分の力では神を認識できないことを明言する︒

理性的能力についていえば︑理性が彼︵神︶を認識するということは正しくない︒というのも理性は自らが直

観的に知ったこと︑もしくは思弁︵fikr︶が理性に与えたこと以外は受け入れないからである︒神に対して思弁の認識は無効だから︑思弁の方法での神に対しての理性の認識も無効である︒とはいえ理性というものにつ いてその定義は︑自らのもとにあるものを理解し捉えるということに他ならない 9︒   イブン・アラビーによれば︑神に対する人間の認識が成立しうるのは神が神自身についての真知を自らが望む者

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に与えたときである︒この真知には証拠も証明もなく︑その認識は思弁とは異なる方法によってなされる︒この真 知は﹁理性の認識力の限界の向こうにある﹂神秘知であるため理性にはそれを理解も説明もできない︒ゆえに﹁自らの思弁と思考︵naz.ar︶の方法で自らの理性によって神を求める者は︑迷った者である﹂とされ︑神の教示を受け

入れる準備が必要だとされる A︒   思弁の方法によって神についての知に到達しようとする学徒に﹁哲学者﹂︵faylasūf︶と呼ばれる者たちがいる︒

﹃マッカ開扉﹄第二二六章でイブン・アラビーは﹁哲学者﹂の真にあるべき姿を︑ギリシア語の原語にさかのぼっ

て論じる︒そしてそれを通じてイスラームにおける思弁の徒︵ahl al-fikr︶の諸集団を評価する︒

﹁哲学者﹂の意味は﹁叡智を愛する者﹂︵muh.ibb al-h.ikma︶である︒ギリシア語の﹁ソフィア﹂︵sūfiyā︶とは﹁叡 智﹂︵h.ikma︶のことであるから︒そして叡智が愛されるということが言われる︒ゆえに哲学︵falsafa︶の意味は

﹁叡智への愛﹂であり︑すべての理性ある者は叡智を愛している︒とはいえ︑形而上学︵ilāhīyāt︶における思

弁の徒の過ちは︑彼らが的を射たことよりも多い︒哲学者であれ︑ムウタズィラ派であれ︑アシュアリー派で

あれ︑﹇その他の﹈思考の徒の種類に属する者であれ︑同様に B︒ゆえに哲学者たちは︑まさにこの名のために非難されるのではなく︑形而上学に関して彼らが誤ったことのゆえに︑悪しき思弁がもたらすことに基づいて

預言者性と使徒性の根本に関して思考することで︑使徒たち││彼らの上に平安あれ││がたずさえて来たも

のに反抗することのゆえに非難されるだけなのである︒いったいどうして︑彼らに根拠があろうか︒彼らにとって事象は混乱している︒もしも彼らが叡智を愛するとき︑思弁の方法からではなく神に叡智を求めたなら

ば︑彼らはあらゆるものに関して的を射るだろう C︒

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理性と「理性の限界の向こう」

  ムウタズィラ派とアシュアリー派の神学者のような︑哲学者以外のムスリムの思弁の徒に関しては︑イブン・アラビーは次のように評価する︒イスラームの信仰が彼らの思考に先立ち︑彼らを決定しているから︑哲学者たちの

誤謬から彼らは守られている︒ゆえに彼らは預言者性や使徒性といった信仰の根本の部分に関しては的を射るが︑

クルアーンの章句を受けとるうえで思弁や理性的証拠を重んじるがゆえにいくつかの枝葉に関して誤っているという D︒

  上記の箇所では思弁の徒たちが理性の基準を啓示の内容に適用するという点が注目され︑彼らを批判する論拠と される︒啓示と理性の関係性は︑神秘主義思想に限らず︑イスラーム思想でひろく議論された問題である E︒スーフ ィーの立場からは︑イブン・アラビーよりも前にアブー・ハーミド・ガザーリー︵Abū H.āmid al-Ghazālī, d. 1111︶がこ の問題に対して明晰な回答を与えている︒自伝﹃誤りから救うもの﹄︵al-Munqidh min al-d.alāl︶で彼は啓示の本質を

論じるさい︑次のように述べる︒人間の認識能力のうちで理性は感覚とは別の領域に属するから︑必然的なこと

︵wājibāt︶︑可能的なこと︵jā’izāt︶︑不可能的なこと︵mustah.īlāt︶といった理性の認識対象に対して感覚の認識能力は無力であり︑それらの存在を認めることができない︒これと同様に﹁理性の向こうには別の領域があり︑そこで

は別の目が開かれ︑それによって不可視界や未来に起こること︑別の事象が見られる﹂とされ︑﹁預言者性もまた

ある領域を表しており︑そこにはある光をもつ目があり︑その光のうちで不可視界や理性が認識できない事象が顕れる﹂とされる F︒

  イブン・アラビーは霊魂論を主題とした著作﹃魂と霊の真知に関する論攷﹄︵Risāla fī marifa al-nafs wa-al-rūh. ︶の

第五章﹁魂に知が生じる仕方の説明について﹂の中で︑人間が知を得るための方法を︑人間理性の能力によるもの

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と﹁主による教示﹂︵ta‘līm rabbānī︶によるものの二つに大別する G︒後者は直接の知︵‘ilm ladunī︶と呼ばれる神秘的 直観知を与え︑それが生じるさいに魂と神のあいだに媒介︵wāsit.a︶は存在しない H︒預言者に対する啓示︵wah.y︶はこれに属し︑なかでも啓示から生じる不可視界の知は︑獲得された知の中で最も強力であり︑完全だとされる I︒

  イブン・アラビーは︑人間の魂が理性による独学を通じて神について一定の知を得る能力を持つこと自体は否

定しない︒﹃マッカ開扉﹄第五八章では︑造物主である神の存在︑諸存在者の本源的な一性︑必然的存在︵wājib al-

wujūd︶の唯一性︑必然的存在と可能的存在︵mumkināt︶の関係性の必然性といった命題は啓示とは無関係に論理 的に証明されうるとされる J︒ただし論証を通じて得られた知と啓示の内容が相反する場合︑神が自らについて述べ たことに関して神に従うことは︑思弁に従うことよりも適切であると主張する K︒啓示による知は証拠に基づくもの ではなく︑﹁理性の限界の向こう﹂︵warā’a t.awr al-‘aql︶にあるのであり︑﹁それは理性的証拠が与えることのない︑否︑一言もそれを翻訳できない︑神についての知を与える﹂︒それは心眼︵bas.īra︶によって受け入れられるべきも

のであり︑開示︵kashf︶によってのみその正しさが確証される L︒ 二  理性と諸能力

 

││ 理性の欠陥をめぐって ││

  前節では神についての知をめぐって理性を啓示との対比において否定的にとらえるイブン・アラビーの見解を見 てきた︒彼は神についての知を得るうえで理性が不能であることの理由を︑人間霊魂の能力の仕組みに即して説明する︒﹃マッカ開扉﹄第二二六章では︑人間の諸能力︵quwā︶はそれぞれ神によって定められた実相︵h.aqā’iq︶を有

し︑それにしたがって固有の仕方で認識の作用を果たすと述べられる M︒たとえば︑聴覚能力が視覚の認識対象を認

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理性と「理性の限界の向こう」

識することはできない︒そして神は﹁神の徒﹂︵ahl Allāh︶と呼ばれる使徒たちや聖者たちに対して︑理性の能力とは異なる効力をもつ能力を与えたのであり︑この能力は理性の限界の外にある︒この能力によって理性の欠陥が明

らかとなり︑諸事物のあいだの関係性の中で生じた誤りが知られ︑事物があるべき場所へと関係づけられるとい

う N︒

  ﹃マッカ開扉﹄第二九四章でも類似の説明がなされる︒事象の種類は︑理性の論証に基づく区別によって決定さ

れるのであり︑無数の被造物がすべてその理性的区別の中に入るのだから︑神の存在もそのうちに入れて説明する

ことができるはずだという意見に対し︑イブン・アラビーは次のように反論する︒ちょうど視覚や聴覚といった諸

能力による各々の認識対象の区別が正しいように︑理性の能力が及ぶ範囲では理性による区別は正しい︒しかしながら︑これによって示されることは被造物に限定される︒被造物は被造物の能力にしたがって区別され︑この区別

は個々の能力の適用可能な範囲でのみ有効となる︒ゆえに聴覚能力は聴覚の対象である言葉や音を区別するが︑

それ以外の視覚や味覚︑嗅覚や触覚の対象などはみな区別から外れる︒﹁同様に理性もまた︑自らの能力によって

﹇区別を﹈与えるのだから︑このことは︑理性の能力がその説明と実相の知を与えない神的な事象︵umūr ilāhīya︶

が存在しないということを示しはしない︒それらの神的な事象がある面では理性の区分に入るとしても︑それ以外

の面ではそこから外れるのである﹂と主張する O︒   このように︑イブン・アラビーは理性が人間の諸能力の一つにすぎず︑そのゆえに他の諸能力と同様に自身に特

有の認識様態を通じてしか知を得ることができないことを強調し︑そこに理性の限界を指摘する︒﹃マッカ開扉﹄

第五八章の中の前節で見た箇所に続く箇所では︑人間霊魂の諸能力と理性の関係性をさらに詳述する P︒

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次のことはわれわれにとって諸事象のうち最も不思議なものの一つである︒人間は自らの思弁や思考に従う が︑それは人間自身と同じ生成物︵muh.dath︶であり︑神が人間のうちに創った人間の諸能力の一つである︒神はこの能力を理性への奉仕者にしたのであり︑この能力が理性に与えるものに関して理性はこの能力に従 う︒この能力が自身の程度を超えることはなく︑記憶能力︵qūwa h.āfiz.a︶︑形相化﹇能力﹈︵mus.awwira︶︑想像

﹇力﹈︵mutakhayyila︶や︑触覚︑味覚︑嗅覚︑聴覚︑視覚からなる諸感覚の諸能力のような別の能力の作用をそれ自体ではもつことができないことは知られている︒この欠陥のすべてにもかかわらず︑理性はその主につ

いての真知に関してこれらの能力には従うが︑主がその啓典の中で︑またその使徒││神よ彼の上に祝福と平

安を与えたまえ││を通して自らについて告げたことに関して主には従わない︒これは世界のうちに生じた誤

りの中で最も不思議なものの一つである︒神がその心眼を照らした者を除いて︑思弁の持ち主はみな疑いなくこの誤りの支配下にある Q︒

  ここでは理性が世界についての情報を得るうえで諸感覚に依存することが指摘される︒たとえば︑理性が風の吹

く音や水のさざめきといった様々な音の情報を認識できるのは聴覚が届けるからであり︑理性それ自体の能力ではそれらを全く認識できない︒視覚などほかの諸感覚の対象と理性の関係もこれと同様である︒加えて︑諸能力のあ

いだの相互の依存関係にも言及される︒たとえば想像力は五感が与える情報に基づき︑記憶能力や想起能力︵qūwa

mudhakkira︶の助けを借りて初めて自らの機能を果たす︒そして思弁能力は形相化能力の助けを借りて︑想像力が捕捉した事象から別の事象の証拠の形相︵s.ūra︶を組み立てる︒これが︑理性が論証のために用いる証拠であり︑

理性の活動はこれらの能力を必要とする R︒理性のこの認識の仕組みに対してイブン・アラビーは注意をうながす︒

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理性と「理性の限界の向こう」

兄弟よ︑見なさい︒理性が何と貧しいことか︒先述したこと︵諸能力が獲得した情報︶を︑これらの諸能力の媒介がなければ何も知ることはないのだから︒これらの諸能力のうちにはたしかに病因︵‘ilal︶がある︒これら の方法によってこれらの事象から理性がいったい何を得ることができるだろうか S︒理性が受け入れようとしな

い事象を神は理性に知らせるが︑﹁それは思弁に反する﹂と理性は言う︒この理性が主の定めに関して何と無知であることか︒どうして理性は思弁に従い︑主に異を唱えるのか︒われわれは次のことを知った︒理性それ

自体のもとには何もない︒理性が獲得した知は︑受容によってのみ理性のもとに存する︒そしてこの通りなら

ば︑主がいと高きご自身に関して知らせたことを理性が主から受け入れる方が︑思弁から受け入れるよりも適

切である T︒   理性が依存する諸能力の認識作用は決して完全ではなく︑障害と誤りをもつ︒諸能力は自らに固有の性質を超え ることはできず︑理性自体も必然的なこと︵d.arūrīyāt︶によってのみ知を得るという本性に制約される︒それにも

かかわらず﹁あなたの向こうに別の能力があり︑それは思弁能力が与えるものとは違うものをあなたに与える︒その能力を天使たちや預言者たちや聖者たちといった神の徒は得るのであり︑下された諸啓典はその能力によってあ

なたに語りかける︒その能力からこれらの神の告げたことを受け入れなさい﹂という言葉を理性は受け入れない U︒   ﹃マッカ開扉﹄第二八五章でも︑理性が諸感覚や思弁といった別の能力を道具として用いて認識を行うことに触れられる︒この種の認識は非本質的な認識︵idrāk ghayr dhātī︶と呼ばれる︒本質的な認識︵idrāk dhātī︶︑すなわち

他の能力の助けを借りない仕方での認識には誤りが生じないのに対し︑非本質的な認識の場合は道具となる能力と

それに頼る能力のあいだの関係性のうちで誤りが生じる可能性がある︒﹁理性は﹇ほかのものに﹈従うものである︒

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このゆえに理性は誤りを有する﹂と述べられる︒この箇所でイブン・アラビーは理性の認識の不完全性を主張する だけでなく︑それを補うための︑それに代わる認識の存在についても述べる︒彼はここで理性に頼る思考する者たちと対比してスーフィーたち︵s.ūfīya︶に言及し︑彼らは思考する者たちの誤りを見ているから︑彼ら自身は曖昧

さのない道へと向き直るのだと述べる︒彼らは﹁確信︵yaqīn︶の目から諸事物を学び︑確信の知をもつ﹂のに対し︑

﹁無知な者は知をもっても﹇実際には﹈それについて無知であり︑確信をもたない﹂と述べる V︒   以上みられたとおり︑イブン・アラビーは人間霊魂の諸能力の一つとして理性をとらえ︑他の能力との関係性を

ふまえつつ理性の認識機能の特徴を分析する︒前節でみたような理性の不完全性と限界を主張する見解は︑こうし

た霊魂論的視点からの﹁理性﹂理解に基づく︒

三  理性と心

 

││ ﹁理性の限界の向こう﹂をめぐって ││   前節まででみられた﹁理性﹂論の中で︑理性では得られない知の存在がしばしば示唆された︒本節ではこの種の

超理性的認識をイブン・アラビーが﹁理性﹂論に基づいてどのように論じるかを見ていく︒

  本稿第一節で見た﹃マッカ開扉﹄第五八章の記述の中で︑啓示の内容が﹁理性の限界の向こう﹂︵warā’a t.awr al-

‘aql︶にあると語られた︒この表現と類似する﹁理性の向こうの領域﹂︵al-t.awr warā’a al-‘aql︶という表現がイブン・ アラビー以前の神秘主義思想家アイヌルクダート・ハマダーニー︵‘Ayn al-Qud.āt al-Hamadānī, d. 1131︶の著作の中で頻繁に用いられたことが知られる W︒彼の弁明書﹃異邦人の不平﹄︵Shakwā al-gharīb︶では︑この表現とそれをめぐる

教説がアブー・ハーミド・ガザーリーの著作の中で論及されることが主張され︑じじつ前出の﹃誤りから救うも

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理性と「理性の限界の向こう」

の﹄の啓示論の部分でこの表現が用いられる X︒イブン・アラビーも自著の中でガザーリーの諸説にたびたび言及しており︑すでに見た通り啓示と理性の関係性についてはガザーリーと似た見解を示していたため︑﹁理性の限界の 向こう﹂という表現もガザーリーの説を踏まえたものだと思われる Y︒   ここでは﹃マッカ開扉﹄第五八章の中の前節で見た箇所につづく箇所での議論を見ていく︒イブン・アラビーは

﹁信心の徒﹂︵ahl al-īmān︶と呼ばれる神秘家たちが神に近づくためにとる道について以下のように述べる︒啓示が

到来する以前から理性的思考の論証によって神についての一定の知は得られたが︑それにもかかわらず神は啓示を

下し︑神自身について知ることを求めた︒このことから﹁信心の徒﹂は︑思弁の方法から理性が到達することので

きない︑神についての別の知があることをさとる︒﹁思弁は諸存在物と結びついている﹂から︑諸存在物との関係 を断ち切るために彼らは訓練や隠遁︑努力︵mujāhadāt︶︑つながりを断ち切ること︵qat.‘ al-‘alā’iq︶︑独居︑神ととも に座ること︵julūs ma‘a Allāh︶といった修行法を実践し︑思弁の垢から心を浄める Z︒この道は預言者たちや使徒た ちから習ったものであり︑彼ら﹁信心の徒﹂はとりわけ自分たちにとっては神へのこの道が︑理性の思弁による道よりも近いことを知る a︒つづいてイブン・アラビーは神の顕現︵tajallī︶と神への観照︵mushāhada︶の場としての

﹁心﹂の機能を述べる b︒ 彼︵しもべ︶の心は神の偉力と偉大さを含む︒ゆえに彼は自らの全てをもって神の方を向き︑自らがそこから知を得るこれらの諸感覚のすべてから離れる︒この顔向け︵tawajjuh︶にさいして︑神は心の上に自らの光を

神的な知として注ぎ︑いと高き神は観照と顕現の道によ﹇って知られ﹈るのであり︑存在物がその道を受け入

れることもそれに背くこともないのだと知らせる c︒このゆえに神は次のように言った︒﹁本当にこの中には﹂

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││観照としての神についての知を指して││﹁心ある者︵man kāna la-hu qalb︶への教訓がある﹂︵︶︒ 神はこれ以外には言わなかった︒というのも心は諸状態のうちの絶え間ない変転︵taqlīb︶によって知られるからである︒それはひとつの状態にとどまることがない︒神の顕現もこれと同様である︒ゆえに心によって顕現

を目照する︵yashhad︶ことがない者は顕現を拒絶する︒というのも理性と︑心を除くその他の諸能力は﹇対象 を﹈限定するからである︒心は限定されず︑あらゆる状態のうちで素早く変転する d︒   上記引用文で引用されたクルアーンの章句の中で﹁理性﹂ではなく﹁心﹂という語が選ばれた理由は﹁すべての

人間が理性をもつが︑すべての人間がこの章句の中で心と呼ばれた︑理性の限界の向こうにあるこの能力を与えら

れるわけではないからである﹂と説明される︒心は神の顕現の多様な姿形に対応して変転するが︑理性にはこの機

能がない e︒ゆえに神についての真知は理性ではなく心によってのみ得られるとされる f︒   つづいてイブン・アラビーは神学的文脈における神概念に言及する︒被造物の世界に対する神の超越性を強調 し︑神と比較しうるものは世界に存在しないと主張する立場が﹁無比とみなすこと﹂︵tanzīh︶という語によって代 表されるのに対し︑神と被造物の世界のあいだには関係性が存在することに注目し︑神の属性は世界に存在する事象によって比喩的に言い表すことが可能だとする立場は﹁比すること﹂︵tashbīh︶という語によって代表される g︒イ

ブン・アラビーによれば︑これらの発想は両方とも︑片方の考え方のうちに神を当てはめ限定してとらえるという

意味で︑神についての知として不完全である︒﹁﹇神を﹈無比とみなす者︵munazzih︶は実相において︑無比とみなすことの中に神を限定し︑閉じ込め︑比することを神から取り上げるのであり︑﹇神を何かに﹈比する者︵mushabbih︶

もまた︑比することの中に神を限定し︑閉じ込め︑無比とみなすことを神から取り上げる﹂と彼は述べる︒神が実

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理性と「理性の限界の向こう」

際には対立する二つの概念のどちらかによって把握されるものではないことを彼は神が﹁統合のうちにある﹂︵fī al-jam‘︶と表現し︑﹁比することからはみ出す︑無比とみなすことにおいて無比とみなすなかれ︒無比とみなすこと

からはみ出す︑比することにおいて比するなかれ﹂と説く︒思弁的思考によって神を理解しようとする場合︑理性

は必ず上記のように神を限定してしまう︒これとは反対に︑心は神を限定から解き放つとされる︒心が至高なる神を含むということは︑あなたのもとにあるものが変転するということに他ならない h︒あなたの

もとにあるものの変転ということの意味は︑あなたが強大にして偉大な神についての真知をつかみ︑あなたの

もとで︑あなたの知のうちである事象を捉えるということである︒あなたが知のうちで捉えた最も高遠なこと

は︑至高なる神は捉えられず︑限定されず︑神が何かに似ることも何かが神に似ることもないということであ

る︒捉えられる対象が﹇別の﹈捉えられるものとの区別によって捉えられるということはない︒こうして捉え

られないものが捉えられた︒﹁認識を得ることができないということが認識である﹂というあなたの言葉にあ

るように i︒絶対者を含むのは心のみである︒このことの意味は︑いと高き絶対者に関して︑彼が受け入れられないということが判断されることはないということである j︒

  ﹁真知者の心﹂を主題とする﹃叡智の台座﹄︵Fus.ūs. al-h.ikam︶第一二章﹁シュアイブの言における心の叡智の台座﹂

の中でも先述のクルアーン五〇章三七節を引用しつつ心と理性を対比する︒すなわち︑この章句の中で﹁理性﹂ではなく﹁心﹂という語が選択された理由は︑心が多様な姿形や属性のうちで変転するのに対し﹁理性はほだし

︵qayd︶であり︑事象を一つの性質のうちに限定するが︑事象それ自体の実相は限定を拒むからである k﹂︒またイブ ン・アラビー本人による﹃叡智の台座﹄の要約である﹃台座の刻印﹄︵Naqsh al-fus.ūs. ︶ではこの箇所に関して﹁理

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性が心と違って︑繋ぎとめられている︵yataqayyad︶からである﹂と述べられる l︒

おわりに

  以上﹁理性﹂の概念をめぐるイブン・アラビーの記述を︑彼が﹁理性﹂を否定的に論じるさいの論理展開に注目

してみてきた︒彼によれば︑神についての知をうるための手段として理性の思弁的能力は不完全である︒彼は理性を思弁や感覚といった別の能力を統べる能力として人間の諸能力の中に位置づける︒そして︑理性のこの特徴は理

性の弱点に直結するとされる︒すなわち︑理性は別の能力から得た情報によってのみ判断をくだすことができるの

であり︑自らと同様に被造物である別の能力に依存する︒理性のこうした認識の仕方は神から直接の知を得る神秘

的直観知と対比される︒理性のもう一つの特徴は対象を限定する作用だと説かれる︒神の超越と内在のいずれを主張するにせよ︑もう片方の性質を神から排除している点で限定化による認識は不完全だとされる︒この議論と対比

して︑﹁変転﹂を本質とする﹁心﹂が神を限定から解き放ち︑神と同化するやり方で神秘的認識を得ることが説か

れる m︒

  このように︑イブン・アラビーは理性を否定的に論じるさい︑理性の機能に対する霊魂論的視点からの詳細な分

析に基づいている︒そして︑しばしば理性否定の論理と呼応させるかたちで彼が肯定する神秘的直観のありようを

描く︒従来の研究で﹁理性﹂をめぐる彼の議論は彼の霊魂論・認識論の中で消極的に位置づけられてきた︒しかしながら︑イブン・アラビーは理性の不完全性を論じることを通じて代替としての神秘知の特徴を間接的に浮かび上

がらせるという手法をとっている︒この意味で彼の﹁理性﹂論は神秘主義的霊魂論・認識論としての側面を有し︑

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理性と「理性の限界の向こう」

彼の霊魂論・認識論の中で特徴的な展開をみせる局面だといえるだろう︒

  神についての知に到達するための方法として理性の認識能力の無効性を徹底的に主張する姿勢は︑神学や哲学の

土壌からは生まれにくいと思われる︒一方でスーフィーの思想伝統においては類似の主張はさほど珍しくないだろ

うが︑神学者や哲学者の理論や発想を部分的にではあるが取り込みつつ︑ある程度明確な理路を有する主張を示し︑自説を彼らの議論に接合させて論敵との対話を試みた点は︑種々の潮流との連絡の多いイブン・アラビー思想

の特徴だと思われる︒啓示論に関しては︑彼以前に神秘主義の立場から哲学批判を行ったガザーリーの﹁理性の向

こうの領域﹂をめぐる議論と基本的には軌を一にするものの︑ガザーリーの説では﹁理性﹂論としての性質は弱

く︑啓示の必要性を全信徒に向けて説くことが目的とされるのに対し︑イブン・アラビーは理性の概念の分析に基 づき神秘知の重要性を主張し︑自らの﹁顕現﹂論も用いて神秘家の体験と境地を詳しく描写する n︒   ﹁理性﹂論の中でイブン・アラビーが試みた異なる思想潮流に対する批判的応答は︑単に他説を斥けるだけのも

のではなく︑彼自身の思想形成の動因にもなっている︒既存の理論や概念の中で彼の思想に影響を及ぼしたのは︑彼の思想の中に肯定的に取り入れられたものだけとは限らない︒他説との知的対話のこの種の型の存在も視野に入

れることで︑彼と前代の思想的関係性をより多角的に考察することが可能となるだろう︒

  イブン・アラビーの影響もあり︑彼以降の時代には神秘主義・哲学・神学といった種々の潮流の思想がたがいに接近していったといわれる︒とりわけ神秘主義と哲学に関しては︑両者の思想を融合させて神秘哲学の伝統が成立

したとされるなど︑相互の同期性と同質化が強調されることが多かった︒しかしながら︑哲学の理論や概念を取り

入れつつ哲学的方法論との相対化を通じて神秘主義の思想的立場を確保しようとしたイブン・アラビーの﹁理性﹂

(16)

論からは︑哲学との接触はむしろ神秘主義思想の自己同一性が本格的に明確化される契機であったことが見て取れ

る︒だとすれば︑ともすれば単に哲学化が進んだと語られがちなイブン・アラビー以降の神秘主義思想がイスラーム思想史において占める位置を︑上記の知見に基づき再考することが求められるだろう︒

Futūh.āt Muh.yī al-Dīn ibn ‘Arabī, al-Futūh.āt al-Makkīya, 9 vols., ed. by Ah.mad Shams al-Dīn(Bayrūt, Dār al-Kutub al-‘Ilmīya, 2006).

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(17)

理性と「理性の限界の向こう」

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︵ of New York Press, 1994), pp. 24, 72. William C. Chittick, Imaginal Worlds: Ibn al-Arabī and the Problem of Religious Diversity (Albany, State University 4︶

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(Osnabrück, Biblio, 1982), pp. 39︲48; cf. Herbert A. Davidson, Alfarabi, Avicenna, and Averroes, on Intellect: Their Cos-

(18)

mologies, Theories of the Active Intellect, and Theories of Human Intellect (New York, Oxford University Press, 1992)︶︒︵

︵ . Futūhāt, vol. 1, p. 147.9︶

︵ .10 Futūhāt, vol. 1, p. 147.︶

11 ︶

︵ 12. Futūhāt, vol. 4, pp. 227︲228.︶

.13 Futūhāt, vol. 4, p. 228.︶

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Kāmil Iyād(Bayrūt, Dār al-Andalus, 1981), pp. 145︲146.‘︶﹃ ...15 Abū Hāmid al-Ghazālī, al-Munqidh min al-dalāl wa-al-muwassil ilā dhī al-izza wa-al-jalāl, ed. by Jamīl Salībā and

︵ ﹃﹂︵﹃︶︑使 16 Asín Palacios︶

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(19)

理性と「理性の限界の向こう」

International des Orientalistes: Alger, 1905 (Paris, E. Leroux, 1906︲1908), vol. 3, pp. 162︲166.︵

.19 Futūhāt, vol. 1, p. 434.Ibn Sīnā, al-Ilāhīyāt, ed. by Sa‘īd Zāyid︶﹁ (Qum, Maktaba Āyat Allāh al-‘Uz.mā al-Mar‘ashī al-Najafī, 1983 or 1984), pp. 37︲47; Ibn Sīnā, al-Najāt fī al-h.ikma al-mant.iqīya wa-al-t.abīīya wa-al-ilāhīya (al-Qāhira, Mat.ba‘a al-Sa‘āda, 1938), pp. 225︲230︒︵

︵ 20. Futūhāt, vol. 1, p. 436.︶

︒ .Futūhāt, vol. 4, p. 433︑﹁ ..21 Futūhāt, vol. 1, pp. 434︲435. Futūhāt, vol. 4, pp. 342, 351, 364︲365︶

︒ ..22 haqāiqhaqīqa’︶﹁

︵ .23 Futūhāt, vol. 4, p. 228.︶

︵ .24 Futūhāt, vol. 4, pp. 448︲449.︶ .25 Ibn Sīnā, al-Shifā: al-tabīīyāt 6, al-nafs, ed. by Saīd Zāyid’‘‘︶ (al-Qāhira, al-Hay’a al-Mis.rīya al-‘Āmma li-al-Kitāb, 1975), pp. 32︲38; Majid Fakhry, A History of Islamic Philosophy (NewYork, Columbia University Press, 1983), pp. 138︲141; Jari Kaukua, Self-Awareness in Islamic Philosophy: Avicenna andBeyond (Cambridge, Cambridge University Press, 2015), pp. 23︲29稿︒︵

︵ .26 Futūhāt, vol. 1, p. 435.︶

︵ .27 Futūhāt, vol. 1, pp. 435︲436.︶

︵ vol. 4, p. 319︶︒ ...al-Dīn ibn Arabī, al-Futūhāt al-Makkīya, ed. byUthmān Yahyā (al-Qāhira, al-Haya al-Misrīya al-Āmma li-al-Kutub, 1975), ‘‘’‘ ..28 fa-idhāYahyāmādhāMuhyī ︶

︵ .29 Futūhāt, vol. 1, p. 436.︶ ..30 Futūhāt, vol. 1, p. 436. Futūhāt, vol. 4, p. 228︶

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