目 次 巻頭エッセイ 対談 能 −受け継がれる心 論考 堂本印象における絵画と工芸の関連性 第二十八回﹁京都美術文化賞﹂ 選考委員を代表して 受賞者のことば 柳 原 正 樹 梅 原 猛 梅 若 玄 祥 山 田 由希代 梅 原 猛 38 36 15 2 1 40
さて 、私たちは日頃 、なにげなく日本画 。だが 、日本画とは さらにこの言葉はどこ 一般的には和紙に膠と岩絵具によって 画 材 そもそも日本画という言葉は、 そんなに 明治 文明開化 、西洋文化が急激に日本に上陸し 、 ﹁西洋画﹂と呼び 、それに対応して それはアーネスト ・ フェノロサというア 。明治十五年 、日本美術 に関してフェノロサは講演を行うのだが 、 その記録集﹃美術真説﹄の中で、 はじめて ﹁日本画﹂という言葉が出てくることとな るのである。つまり、 日本古来からある作 品、土佐、狩野、円山派、南画、浮世絵な ど、 すべての作風をまとめる言葉だったの である。 しかし、 日本画の運命は多難だった。西 洋文明に押しつぶされそうになりながら も、 独自の絵画を模索し続けることとなる のである。菱田春草、 横山大観らがその新 しい日本画の代表作家たちだった。 西洋美 術を受け入れながらも日本の伝統を見失 うことなく ﹁朦朧体﹂ という作風を生み出 した。だが、 線を失った絵画は日本画では ないと不評。 それでも酷評を受けたそれら は、 現代の日本画の基礎となり、 今も多く の人を魅了してやまない。
「日本画」という言葉
京都国立近代美術館長柳原 正樹
対×談
梅原 梅若家のルーツは丹波猿楽ですね。 梅若 はい 。多くが近江猿楽の流れなのです が梅若だけが丹波猿楽で 、秦氏の血筋に当た ります。 梅原 秦河勝の秦氏ですか。 梅若 河勝の弟の筋です 。織田信長の配下 、 丹波の明智光秀の領地におりました 。信長に 能を教えていたようです。 梅原 信長に。そうですか。 梅若 のちに明智光秀が信長を討ちに本能寺 へ行きますが 、うちの先祖は光秀についたた め 、謀反のあとは丹波に逼塞し亡くなります が 、子が一人 、残されます 。のちに妙音大夫 の名をとった美声の持ち主です 。ようやく徳 川家康の代になって 、再び正式に家が認めら れた時にその人が ﹁玄祥﹂を名乗りました 。 ただ 、豊臣秀吉の時代にもすでに能楽師とし て活躍していたらしく 、存在は知られていた ようです 。家康の代になって 、観世大夫の二 番目の地位をいただいて現在に至ります 。梅 若家にとってはこの ﹁梅若玄祥﹂が中興の祖 といっていいのですが 、家の者でさえあまり 認識をしていませんでした 。こうした流れを 再認識するために 、私が ﹁玄祥﹂を襲名いた しました。 梅原 梅若さんと親しくさせていただいて五 年ほどになりますが 、初めてお目にかかった 時から 、華がある役者さんだと思って見てお ります。 梅若 ありがとうございます。 梅原 華がある役者は少ないです 。それは 、 舞台に登場すると 、台詞を言わないうちから 舞台が明るくなるような光り輝く役者です 。 そういう存在を ﹁華がある﹂と形容します 。
役者の﹁華﹂とは
世阿弥が ﹁風姿花伝﹂で述べています 。舞台 俳優に限らず芸術家はもちろん 、政治家 、実 業家 、学者も ﹁華﹂のあるなしははっきりわ かるものです 。いくら練習を積んでも華のな い役者 、いくら勉強しても華のある本を書け ない学者もいます。 梅若 難しいところでございます。 梅原 ﹁華﹂ とはいったいどういうものでしょ う、役者の華とは。 梅若 その ﹁華﹂というものは 、なかなか形 になって出るものではないので 、誰がどうで あるとは説明ができないのですが 、梅若家で 申し上げれば 、私の父親 ︵五十五世梅若六 郎 、一九〇七∼一九七九︶は非常に華やかさ をもっておりました 。うまく言葉にはできな いまでも 、ごく身近にそうした存在があった ので 、子どもの頃からこんな人になりたいと 思い、 能の﹁華﹂とはこうしたものなのかと、 体で感じて育ちました。 梅原 私は人間そのものに ﹁華﹂のあるなし を問うべきだと思っています 。世阿弥のいう ﹁華﹂は 、能楽論というよりは一種の人間論 といえるのではないでしょうか 。せっかくつ ぼみを持っていながら 、花を咲かせることが できない 、 または小さな花で終わってしまう 人もいるわけです 。大輪の花を咲かせ続ける には、おそらく修業も大変なことでしょう。 梅若 耳の痛いところでございます 。私の場 合 、十三歳くらいから本格的な修業に入りま した 。梅若の倅ですけれども 、内弟子と同様 に扱うのが父親の方針でした 。その中からは い上がってこなくてはダメだと言われて 、 私 も鞄持ちから 、靴を揃えるなど 、とにかく全 部やりましたが 、そんな中で父親の姿を見て いると、やはりすばらしいのです。 梅原 梅若六郎さんは大きな花を咲かせてお られましたね。 梅若 いろいろな方と一緒に仕事をしていま
したが 、 たとえば 、ずいぶん前に亡くなられ た地唄舞の武原はん ︵一九〇三∼一九九八︶ さんとはとても仲良しでした 。二人とも華が あるものですから 、二人が話しているのを見 ていると 、とてもきれいなものをずっと眺め ているようで 、こちらまで楽しくなるのを感 じました 。私も親しくさせていただいた頃に は 、武原はんさんはもう七十歳過ぎてらした と思いますが 、ほんとうに華やかでした 。先 生がおっしゃるように ﹁華﹂というものは 、 人間性も含めたものなのでしょうね。 梅原 ﹁井筒﹂はお得意の曲でしょう。 梅若 ご承知のように世阿弥の最高の曲で す 。﹁井筒﹂ができて一人前といつもいわれ たものですが 、なかなかいい ﹁井筒﹂を舞え てはいないのです。 梅原 ﹁井筒﹂は非常に中世らしい作品です ね 。﹁伊勢物語﹂を特殊な形 、つまり在原業 平と紀有常の娘の関係で解釈している 。大変 美しい 。 いちばん美しい曲ではないでしょう か。 梅若 私もそう思います 。能楽師にとってい ちばんの憧れ、いちばんの名曲です。 梅原 初恋があり 、都へ上り 、流人になり 、 死ぬ 。その死んだ後の世界です 。霊の世界 、 極楽浄土の世界かな。 梅若 ﹁井筒﹂では 、霊である紀有常の娘が 業平の形見の装束を着て 、水に映して舞うの ですが 、その恋人を偲ぶ感情の高まりは 、こ れほどまでに人を好きになれるのか 、といっ た極限の思いを、 舞っていても感じるのです。 男としてはここまで愛される至福といいます か。
死後の世界と現世を行き来する
なり、恍惚として現れ、月を眺めている。 梅若 それを 、何の屈託もなくお月さまに同 化したように舞えといわれるのですが 、なか なか難しいことでございます。 梅原 もうひとつ私の好きな曲に ﹁善知鳥﹂ がありますが、よく上演されますか。 梅 若 は い 、﹁ 善 知 鳥 ﹂ は 大 好 き な 能 で す 。祖父 ︵二世梅若実/五十四世梅若六郎 、 一八七八∼一九五九︶が得意としておりまし た 。祖父は人間苦を表現する能役者といわれ 梅原 幽霊である紀有常の娘がその姿を水に 映して亡き恋人を思うというのは 、最高の美 ですね。 梅若 我々は ﹁水鏡の能﹂ とも呼んでいます。 能の構成でいえば非常に単純なのです 。実に シンプルにできているので 、極端にいうと何 も手の加えようがないのです 。ですからなお さら 、きちんとできなくてはいけない 。 むし ろ、難しいのです。 梅原 死後の世界といえば 、﹁姨捨﹂も私は 好きですね。 梅若 ﹁姨捨﹂ ﹁檜垣﹂ ﹁ 関寺小町﹂の三曲を ﹁三老女﹂と呼んでいますが 、二〇一五年は この ﹁三老女﹂を全部上演いたしました 。 な かでも﹁姨捨﹂は、 能としていちばん面白く、 難しいと思います。 梅原 それはやはり 、人生の終焉のその後の 世界までも描いているからですね 。死ぬより 仕方のない老人がおり 、死に果てた後に霊と
ていまして 、﹁阿漕﹂や ﹁善知鳥﹂を得意と しておりました。 梅原 登場するのは辺境の民 、蝦夷です 。魚 や鳥獣を捕って暮らす人間の罪を描いていま すね。 梅若 それを生業にしてしまっている罪です ね。 梅原 しかしね 、楽しいのですよ 、鳥を捕る のは。 梅若 楽しい⋮なるほど ! 今わかりまし た、この能の深さが。 梅原 非情な 、人間の罪の深さといえるもの ですが 、人間というのはそういう悪いことを するのが嬉しくて仕方ないのです 。能は 、そ の業を描くという思想ですね。 梅若 なるほど。先生、 参りました。表現上、 いまひとつ腑に落ちないものがあったのです が、 今、 すとんとわかったような気持ちです。 今日お目にかかってお話をうかがって良かっ たです。 梅原 ﹁鵜飼﹂もそうです 。鳥獣を殺すこと が悦楽なのです 。そのような人間の罪を告発 しつつ 、生き物の命を奪う悦びが人々の意識 の根底にあることを示す 、甚だ深い哲学が能 で表現されているのです。 梅若 私たちはつい 、理屈でばかり理解しよ うとしていたのですね 。ほんとうにすばらし いお話を聞けました! 梅原 死後の世界や霊の現れる夢幻能は主に 世阿弥の作品ですね 。とくに複式夢幻能は世 阿弥の世界 。世阿弥の父 、観阿弥は現世を描 いた 。それを現在能といいますが 、その傑作 は﹁自然居士﹂だと私は思います。
観阿弥と世阿弥
梅若 ﹁自然居士﹂ 、大変面白い能だと思いま す。 梅原 そしてもうひとつ 、﹁通小町﹂も現在 能の傑作だと思います 。観阿弥は現在能に優 れていますね。 梅若 観阿弥の時代は 、能というよりも芝居 に近い作品が多かったのです 。その後 、世阿 弥の代になると足利義満の影響などで高尚に なっていく 。そのなかで幽玄の世界 、夢幻の 世界が出てきたわけですね。 梅原 義満の男色の相手をつとめることで世 阿弥は最高の教育を受けました 。当時下層階 級におかれていた能楽師が 、観阿弥の代で将 軍お抱えの能楽師になり 、幼くして高い教養 を身につけた世阿弥は少年時代からすぐれた 役者になっていきます。 奇跡的な運命ですね。 梅若 その当時としてはあり得ないことです が 、観阿弥 、世阿弥父子がいなかったら今の 能楽もございませんからね。 梅原 観阿弥は現在能の 、どちらかといえば 艶やかな世界をつくりましたが 、世阿弥は夢 幻能を生み出しました 。夢幻能は過去を顧み る追憶の世界 。霊も現れ 、 幻想的で美しい 。 とはいえ寂しい世界には違いありません 。 そ の点では 、観阿弥の現在能のほうが 、抜けが あって面白い。 観阿弥が楠木正成の甥であることはやはり 間違いないと思います 。将軍が観阿弥一座を 召し上げたのは 、南北朝を統一しようとした からです 。観阿弥が南朝との関係が深い楠木 氏の血を引くとすれば 、一座を庇護すること により 、南北朝を合一できる 。そのような政 治的な意図があったと思います 。しかし 、や はり南朝へのわだかまりから問題が生じ 、 世 阿弥は追放される 。一世を風靡した世阿弥の 晩年の悲劇にはこうした南北朝対立の影響が あると私は考えます。
梅原 私はこれまで新作能として ﹁河勝﹂ ﹁世 阿弥﹂ ﹁針間﹂の三作を書きました 。梅若さ んにはいずれの作品にも大変大きなお力添え をいただきました。 梅若 歴史と能楽をよくご存じの梅原先生な らではの能で 、いずれも大変興味深く 、面白 く演じることができました。 梅原 能の元祖であり梅若家のご先祖でもあ る秦河勝は 、聖徳太子の側近で財務大臣でし た 。聖徳太子政権は秦氏の財力で支えられて いました 。藤原鎌足と天智天皇の策謀で蘇我 政権は倒れます 。蘇我氏が倒れると 、秦氏は 拠りどころを失い 、流罪者となって 、兵庫県 の瀬戸内海に面した地にたどり着き 、そこで わずかな農地を開拓して生き延びるものの 、 やがて死に絶える。 私はその秦河勝への鎮魂の思いを込めて 、 能 ﹁河勝﹂を書きました 。梅若さんには聖徳 太子を舞っていただきましたね。 梅若 はい 。先生じきじきのご指名で ﹁聖徳 太子﹂になりました。 梅原 また茂山千之丞さんが ﹁梅原猛﹂の役 を演じてくれました 。 これは 、現代の拗ねも のが死後の世界を訪ねるという筋です 。そし て秦河勝も聖徳太子も登場し 、最後に三人舞
新作能
﹁河勝﹂
﹁世阿弥﹂
﹁針間﹂
梅原 猛氏を舞う。 梅若 三人舞は 、﹁翁﹂の原型ですね 。今は ひとり舞ですが 、本来は三人で舞っていまし た。 ですが狂言の方と一緒に舞うというのは、 なかったですね。 梅原 狂言方は、 いつもは一段下ですからね。 ﹁河勝﹂では最後の場面でシテ方と狂言方が 一緒に三人舞をするというので 、千之丞さん が喜んでおられました。 梅若 はい 。ほんとうにはりきっておられま した。 梅原 それから世阿弥を主人公にした ﹁世阿 弥﹂ 、これも 、おかげさまですばらしい能に なりました。 梅若 非常にドラマチックなお能でしたね 。 世阿弥の息子 、元雅が殺され 、その怨霊と現 在生きている父の世阿弥とが語り合う場面が 見せ場ですね。 梅原 死んだ息子元雅の怨霊と世阿弥 。幻の 世界ですね。 実は 、私は ﹃播磨国風土記﹄を題材にして 書いた三作目の能 ﹁針間﹂がいちばん気に 入っています 。皇位継承争いの続く都から播 磨の里に逃れた皇子兄弟が牛飼いになり 、後 に都に迎えられて仁賢天皇と顕宗天皇になっ たという伝説をもとにした作品です 。梅若さ んの最後の舞がとてもよかったです。 梅若 私は ﹁国司﹂という 、ちょっと悪役を いただきました。 梅原 そうそう 、悪役です 。年貢をたくさん 搾り取る。 梅若 悪代官なのです 。そして喜びの舞を舞 う 。 お調子者なのですが 、これが実に自然に 書いてくださっていて 、違和感がありません でした。 梅原 皇位継承者の皇子兄弟はそれぞれ考え が異なる 。兄は皇位争いに出て殺されるくら いなら牛飼いのままでいいというが 、弟は 、
ホメロスの ﹁オデュッセイア﹂第十一章にあ る叙事詩で、 日本語でいうと﹁冥府行﹂です。 梅原 どういう物語ですか。 梅若 戦が終わり故郷に帰る途中 、冥府に行 き 、 死んだ母親や戦友たちに会うという話で す 。 それがギリシャ人の感覚だと 、死者と同 次元で会う 、会話するなどということは不可 能というか 、感覚的に受け入れ難く 、表現も されてこなかったのだそうです。 ところが能にはそれがある 、能ではほとん どがあの世の人との遭遇であると 。ですから ﹁ネキア﹂をぜひ能でやってほしいというオ ファーでした 。ですから 、あくまで能の形を 踏まえてつくりました 。あの世との交信を面 と向かってしてしまう 、それがギリシャ人か ら見ると新鮮だったのか 、よくわかっていた だけたようです。 上演会場は 、アテネから車で二時間程のと ころにあるエピダヴロスという遺跡で有名な たとえ殺されても自分の正体を明かしたいと いう 。そして 、謡い舞いながらどんどん正体 を明かしていく 。そこがいちばん面白い部分 です。 梅若 梅原先生の新作能はいずれも 、先生ご 自身がお能というものを大変よくご存じだか らでき上がった作品ですね。 梅原 二〇一五年七月には 、古代ギリシャの 叙事詩を題材にした新作能 ﹁冥府行∼ネキア﹂ をギリシャで上演されましたね。 梅若 ギリシャの俳優 ・ 演出家のミハイル ・ マルマリノスさんからのお話でした 。来日さ れた時に私の ﹁楊貴妃﹂ をご覧になりまして、 能をやりたいとおっしゃって 。﹁ネキア﹂は
世界遺産の野外劇場で上演
﹁冥府行∼ネキア﹂
街にある 、古代円形野外劇場でした 。紀元前 の建築で世界遺産です 。現存する野外劇場で はいちばん古いそうです 。そんな貴重な場所 で能を上演できるというものですから 、これ はぜひやらなくてはと思いました。 梅原 その場所はほとんど知られていないで すね。 梅若 そうですね。 しかしすばらしい空間で、 ぜひとも広く紹介したいと思いました 。他の 日本の芸能も 、エピダヴロスで演ずることで 以前と異なる感覚を得たり 、新たな発見をし たり 、新しい表現に遭遇できるのではないか と思います。 梅原 衣装もすべて能装束を用いたのです か。 梅若 はい 。昨今は海外公演をたびたびさせ ていただきますが 、日本の古典のいいものを 持っていきましても 、なかなかすんなりとわ かってはいただけないのですね 。何度も繰り 返し鑑賞いただくうちに理解は進むとは思い ますが 。しかし 、このたびの ﹁冥府行∼ネキ ア﹂はギリシャの作品なので 、ストレートに お客さまの反応を得られました。 梅原 なるほど、そうですか。 梅若 はい 。ですから今後は 、新しい能を創 作する時には 、世界的な視野で作品を考えて いく必要もあるな、と思いました。 梅原 今 、梅若さんにぜひ取り組んでいただ きたいと考えているのが 、私が二十八年前に ﹁ギルガメシュ叙事詩﹂をもとにして書いた 戯曲 ﹁ギルガメシュ ﹂です 。三代目市川猿之 助のスーパー歌舞伎 ﹁ヤマトタケル﹂は 、彼 が私の長大な原作を三幕仕立てで三分の一以
ギルガメシュ叙事詩と能
ドゥを訪ねてあの世へ行ったギルガメシュは あの世の神から不老不死の薬を手に入れま す。 ところが帰路で蛇に薬を奪われてしまい、 ギルガメシュはむなしく都へ帰るのです 。人 間は死すべきもので 、死の運命を免れないと いうことです。 梅若 非常に難しいのですけれども 、能はそ うした世界をすでに描いてきたと思います ね。 梅原 そうですね 。このような深い哲学的問 題を題材にしてすぐれた能楽を作ることは決 して不可能ではないと思います。 梅若 ﹁冥府行∼ネキア﹂を演出したミハイ ル ・ マルマリノスさんが 、なぜ能なのかとい う話をしてくれました 。昔のギリシャ 、古代 ギリシャというものが今の日本にはあると 思っている 、というのです 。ギリシャは多く のものを失ってしまった 、継承されてもいな い 。 しかし 、そういうものがどういうわけか 下に圧縮したのですが 、おかげですばらしい 作品になりました 。﹁ギルガメシュ ﹂も自由 に演出していただければと思います 。上演が 実演したら嬉しいのですが。 ﹁ギルガメシュ ﹂には西洋文明の重要な問 題が通底しています 。文明の起こりは自然環 境破壊の始まりでした 。シュメールを統一し て最初に都市文明をつくったギルガメシュ王 が最初に行ったのは森の神フンババの殺害で す 。森の神を殺す 、つまり森林破壊です 。そ れが自然破壊の始まりです 。五千年前 、つま りメソポタミア文明誕生の頃の世界最古の物 語とされる ﹁ギルガメシュ叙事詩﹂は 、人間 の都市文明が最初に自然破壊を行った記録と いえます。これがひとつの問題。 もうひとつは人間の死の問題です 。このよ うに森の神フンババを殺したために 、ギルガ メシュの無二の親友であったエンキドゥとい う男が祟りで死にます 。その死んだエンキ
日本には語り継がれて存在していると 。そん な風にいいました。 梅原 それは小泉八雲の考え方と同じです ね 。アイルランド人の父とギリシャ人の母を もち 、ギリシャ生まれの小泉八雲は 、日本人 の魂は古代ギリシャ人の精神と似ているとこ ろがあると感じたそうです。 梅若 そうだったのですね。 梅原 室町時代に親鸞の浄土真宗が広まり 、 また道元の曹洞宗が広まりましたが 、それは 死者供養のためでした 。中世という時代は 、 応仁の乱をはじめ戦乱が相次ぎ 、飢餓や天災 も重なり 、多数の死者が出ました 。能はその ような死者供養の芸能ではないでしょうか 。 一方 、歌舞伎は現世の芸術ですね 。能の世界 は、不思議な光が放たれた死の世界です。 梅若 能を舞う時は 、みんな祈りの心を忘れ ずやっているつもりなのです 。ですから 、外 国での公演でも 、そのことさえ感じてくださ ると、わりと理解していだたけます。 梅原 歌舞伎よりもむしろ能のほうが外国人 には理解しやすいかもしれませんね。 梅若 ﹁ネキア﹂のもとの書物を読みました が 、まさに先生のおっしゃるとおり 、死者供 養ということがかなり語られています。 また、 お話をうかがって 、﹁ギルガメシュ ﹂は能に いちばん近いかもしれないと感じています 。 能の表現したい 、もっとも礎になるものが 、 この作品に入っているのではないかと。 梅原 歌舞伎 、新劇を含め 、今いちばん 、大 きな一座を率いて新しいことができるのは梅 若さんでしょう 。今後のご活躍を大いに期待 しています。
山
田
由希代
はじめに 堂本印象︵本名・三之助︶は、主に大正、昭和期に活躍した日本画家として知られている。印象は、明 治二四︵一八九一︶年に京都上京で酒醸業を営む家に生まれた。実業家の父、伍兵衛が、絵画、墨蹟、古 美術のほか、和歌、茶道、生け花などにも造詣が深かったことから、堂本家の人々は文化的関心の強い恵 まれた家庭環境にあった。そのため、長兄の寒星は古典演劇研究家、次兄の漆軒は漆芸家、そして弟の四 郎は印象の活動を支え続けるなど芸術に関わる多くの人材が輩出された。 印象は、明治三九︵一九〇六︶年、京都市立美術工芸学校に入学し、同四三︵一九一〇︶年に卒業する と、西陣の龍村平蔵の工房に入り、図案を描く仕事に就いた。しかし、やがて日本画家を志して、大正七 ︵一九一八︶年に京都市立絵画専門学校に入学した 。その翌年 、帝展で ︽深草︾が初入選して以来 、毎年 数々の日本画を出品し続けた。大正九︵一九二〇︶年、西山翠嶂の画塾青甲社に入って絵画の研究に没頭 し 、大正一三 ︵一九二四︶年には帝展の審査員をつとめるなど 、印象は日本画の分野で大いに活躍した 。 昭和八︵一九三三︶年には、画塾東丘社を創立して主宰し、後進の育成にも尽力した。今もなお存続する 東丘社は、京都に数ある画塾のなかでも特に規模が大きく、昭和の京都画壇にとって大きな存在であった といえる。 印象の日本画の主題は、仏画から歴史画、花鳥画、風景画と幅広い。しかも、彼が取り組んだ絵画の範 囲は、伝統的な日本画の枠にとどまらず、抽象画にまで及んでいる。このことから、これまでの印象研究 は、常に画業に注目して言及されることが多かった。しかし、印象は、絵画だけではなく、広く造形対象
を視野に入れて、陶芸、彫刻、染織などの工芸作品を残した。こうした事実があるにもかかわらず、印象 の絵画以外の作品については、近年ほとんど注目されていない。 本稿では、日本画家としての印象という従来の見方を超えて、芸術家としての堂本印象を捉え直すこと を目的とする。そこで、印象の活動のなかでも、これまであまり言及されることがなかった工芸に注目し たい。印象の工芸作品は多種類にわたり、数多く制作されている。そのため、絵画のみではなく、これら 工芸を視野に入れることは、印象の全体像を理解することにつながると考えられる。 以下、まず、これまでの主要な研究にふれながら、印象における工芸の扱われ方について確認する。そ して、個々の工芸作品をみることで、その特徴を検討する。最終的に絵画との関連から印象における工芸 の位置を明らかにする。これによって、従来には見られなかった堂本印象の新たな一面を探る一つの試み としたい。 一 先行研究における堂本印象 堂本印象の画業は、世間的にも大きく評価され、昭和一九︵一九四四︶年に帝室技芸員、同二五年に日 本芸術院会員、同三六年には文化勲章を受章した。印象の絵画は、いわゆる日本画、つまり墨や岩絵具を 用いて風景、花鳥、仏教などのモチーフを繊細で柔らかな筆づかいで描いたものから、デフォルメした形 態や西洋的な表現への試み、さらに晩年には抽象表現に移行したことから、画風の変容には強く注目され てきた。そのため、印象といえば、多様な画風を時間軸によってとらえる、あるいは、具象と抽象と大き
く二分化するといった形式で繰り返し語られてきた。つまり、堂本印象に関する研究の視点は、常に画域 の広さ、画風の明確な変遷に注がれていたといえる。 ここでは、まず、これまでの堂本印象に関する研究がどのように行われてきたのか、その足跡を振り返 りながら、近年までの主な研究内容を概観していく。そして、それら先行研究において、印象の工芸がど のように位置づけられているのかを確認する。具体的には、過去に開催された主要な展覧会の図録で論述 された内容を吟味し、従来の研究において工芸がどのように扱われてきたのかを明らかにする。 一︱一 画家としての印象 印象は数多くの個展や画塾展を開催した 。その展覧会歴を顧みると 、自身の画塾展は 、昭和一三 ︵一九三八︶年以降 、亡くなるまで毎年開催している 。また 、大丸や髙島屋などの百貨店での個展の開催 にも積極的に取り組んだ。たとえば、昭和二二︵一九四七︶年には藤田嗣治との二人展を東京、京都、大 阪の髙島屋で、同二四年には大阪大丸で個展を、同二八年には滞欧スケッチ展を各地で、同二九年には新 作工芸美術展を日本橋髙島屋で 、同三四年には抽象画展を京都 、大阪の大丸で開催した 。こうした個展 は、その後も抽象画展を中心に度々開催された。昭和四一︵一九六六︶年に自身の発案による堂本美術館 が開館すると、東丘社展が毎年開催された。没後も堂本美術館にて印象作品の展示が続けられた。平成四 ︵一九九二︶年に美術館は作品とともに京都府に寄贈され、京都府立堂本印象美術館となる。それ以降も、 印象作品を紹介する企画展および特別企画展が毎年数回行われている。
実に多くの展覧会が開催されたが、印象について客観的に論じられたものは、昭和五〇︵一九七五︶年 以降 、つまり没後に開催された ﹃堂本印象︱美の巡礼︱ ﹄︵昭和五二︶ 、﹃堂本印象︱美の遍歴︱ ﹄︵昭和 五六︶ 、﹃堂本印象︱美の跫音︱﹄ ︵昭和五九︶の展覧会図録の記述にみられはじめる。 ﹃ 堂本印象︱美の巡 礼︱ ﹄において 、印象の制作活動に関する文章としては 、藤田猛 ﹁堂本印象の作風﹂ 、原田平作 ﹁堂本印 象の作風展開﹂がある︵註一︶ 。前者は印象の人となりを含めて仏画を中心とした画業が紹介されている。 一方、後者は、印象の絵画の変遷を四期に分けて絵画制作の歩みを辿っている。原田氏のように絵画の変 遷を辿る方法は、 ﹃堂本印象︱美の遍歴︱﹄での村松寛﹁堂本印象︱美の求道者︱﹂にも見られる︵註二︶ 。 ﹃堂本印象︱美の跫音︱ ﹄ では 、村松氏と原田氏が論述しているが 、ここでも村松氏は印象の画業を 、原 田氏は画風の変容をそれぞれ紹介している︵註三︶ 。 絵画のみに視線を向け 、画風の変遷を辿るという印象に対するまなざしは 、その後も継続されている 。 平成九︵一九九七︶年の﹃堂本印象展﹄で吉田洋一氏は、やはり印象の画業を、四期、つまり、帝展作家 にいたるまで 、仏画 、油彩的表現 、抽象に分けて紹介している ︵註四︶ 。これらを見ると 、印象研究の主 軸である画風の変遷を辿るという内容は、原田氏による﹁堂本印象の作風展開﹂が基盤となっているとい える。 一︱二 余技としての工芸 印象の工芸に関する記述は、絵画に比べると、圧倒的に数少ない。かつて、工芸品の展覧会が度々開催
されていたにもかかわらず、工芸に関する記載は多彩な画風を備えた画業の最後に少し加筆されている程 度にすぎない。 昭和五〇年に刊行された﹃堂本印象造形芸術﹄は、絵画とならんで彫刻、ガラス工芸、染織、陶芸、金 工、建築デザインが扱われている唯一の作品集といえる。その中で、河北倫明氏は印象について以下のよ うに記している 。﹁画伯の芸業の多様にして多彩なることは驚くばかりである 。その主体をなす絵画だけ を取り上げても、仏画あり、歴史画あり、風俗画あり、風景画あり、さらに思想画あり、抽象画あり、装 飾画あり 、これに書や襖絵なども加わっている﹂ ︵註五︶と 、まずは絵画をとりあげている 。そして工芸 分野に関しては以下のようにふれている 。﹁また種類のちがった表現ということになれば 、木彫あり石彫 あり浮彫あり、さらにはガラス、染織、陶芸などのほか、金工や家具、建築デザインのさまざまなものに まで及んでいる﹂ ︵註六︶ 。 また、印象が手がけたそれぞれの工芸品について、各ジャンルの専門家がコメントを寄せている。その 内容を簡単に見てみると、彫塑家の澤田政廣氏は、印象の木彫りについて、立体感や動きのある作品であ るとし 、また 、陶器については立体と平面の美しさを持つものであるという ︵註七︶ 。しかし 、澤田氏は 印象をあくまでも日本画家であるとし、彼の彫刻や陶器については余技としてみなしている。染色家の皆 川月華氏は 、印象のジャンルを超えた制作に対して 、大胆さを評価しているものの 、特別 、個々の作品 についてはふれていない ︵註八︶ 。陶芸家の六代清水六兵衞氏は 、印象の陶芸について形や色彩が興味深 いとし 、画家らしい独自性を評価している ︵註九︶ 。いずれにしても 、清水氏のように 、陶芸を絵画との 関係から評価する例はまれであり、印象について評する者たちが絵画を中心に据え、工芸作品を余技的な
観点から見ていたことは明らかである。しかも、その後は、先ほど見た印象没後の展覧会で記されるよう に、工芸は、絵画以外の活動といった言及に留まっている。 たしかに、印象の生い立ちに目を通すと、絵画、特に日本画が彼の制作活動の基盤となっていることは 事実である。現在でも、堂本印象の作品といえば、陶芸、彫刻、染織というより、仏画や花鳥画、抽象画 が一般的に思い起こされる傾向が強い。これは、常に印象の画業が中心に語られ続けてきた結果であると いえる。 しかし、こうした固定観念に基づいた見方が定着して、これまで見過ごされがちであった工芸制作とい う側面に光を当てることは、この芸術家の表現スタイルが画業一辺倒ではなく、画業を発展的に応用した 工芸を含む重層的なものであったことを明らかにするために重要であるといえるだろう。 二 工芸作品の実体 現在、京都府立堂本印象美術館の館蔵品において、作品の種目は﹁日本画﹂ 、﹁模写﹂ 、﹁油彩﹂ 、﹁彫刻﹂ 、 ﹁工芸﹂に分けられている ︵ 註一〇︶ 。ここで印象の工芸作品として分類されているものには 、﹁陶芸﹂ 、 ﹁染織﹂ 、﹁漆芸﹂ 、﹁金工﹂ 、﹁その他﹂がある 。﹁彫刻﹂には 、木彫り 、ブロンズ 、椅子が含められている 。 ﹁陶芸﹂は陶板が二〇点あまり 、水指が一四点 、壷一六点 、鉢三点 、皿は四〇点と一番数が多い 。﹁その 他﹂の分類にはガラス絵二点、七宝二点がある。 ﹁染織﹂は織物が七点、 ﹁漆芸﹂には盆と鉢がそれぞれ一
点ずつ、最後に﹁金工﹂が二点ある。ここでは、工芸制作を中心とした視点から、印象の工芸に関する実 体を見ていきたい。 二︱一 絵画との関係 印象が手がけた絵画以外の作品について、時間の流れによって簡単に確認すると、画風の変化と工芸制 作との密接な関係が見えてくる。 印象が絵画以外の作品を手がけたのは大正三︵一九一四︶年の木彫彩色人形であった。これらの人形は ﹃木彫風俗人形図録﹄ ︵註一一︶として昭和一七︵一九四二︶年に出版された。一連の木彫彩色人形は、印 象が画家を目指して京都市立絵画専門学校に入学する前に制作されたものである。学生時代に龍村織物で 染織の図案を描く仕事をしていた経験から、工芸に対する関心や知識を蓄積していた印象は、すでに早い 時期から造形制作に関心があったことがうかがえる。 昭和初期に制作された陶器の絵柄は 、獅子や瓜 ︹図 1 ︺など具象的に描 かれている。これらは、日本の伝統的な焼き物風とみられる。印象が、線に よる描写を重視した、いわゆる伝統的な日本画を描いていた頃につくられた ものである。しかし、明治二七︵一九五二︶年のヨーロッパ訪問後につくら れた作品は、こうした具象的表現から一変する。それは、印象の絵画表現の 変化にともなっている。渡欧前には伝統的な日本画の技法である線による表 〔図1〕《瓜の絵》 昭和12年
現を基本としていたのに対して、渡欧後の印象の絵画は、色彩と構成を主体 とする洋画的な表現を積極的にとりいれたものになる。 昭和二九 ︵一九五四︶年に開催された日本橋髙島屋での堂本印象新作工 芸美術展では 、水指 ︽形象︾ 、陶額 ︽アルゼリアの女︾ ︽白い帽子の女︾ ︹図 2 ︺、ガラス絵 ︽アトリエ︾ ︽水指とレースに瓶︾ 、陶壷 ︽金と銀と黒︾ ︽開 化︾が出品された 。展覧会の案内で 、﹁ヨーロッパのイメージを陶土に彫刻 し釉薬をほどこし最高度で焼きあげ釉薬の美を極度に発揮した絵画的な陶器 美のレリーフ﹂ ︵註一二︶と伝えられるように 、明らかにヨーロッパの影響 を受けた作品群である。対象の立体感をデフォルメし、平面に構成するキュ ビスムを意識したモチーフは、陶板のみならず、同じ年に制作された絹織物 ︽黒い卓子の静物︾でも用いられている。 昭和三〇年代は、画家印象にとって大きな転機となった。それは、本格的 な抽象表現への第一歩として 、昭和三〇 ︵一九五五︶年に ︽生活︾ 、翌三一 年に ︽意識︾ ︹図 3︺ のような幾何学表現が試みられたことによる。そして、 この幾何学的表現は、水指︽形象︾ ︹図 4︺や陶壷︽金と銀と黒︾にも見られる。 こうした幾何学表現を経て、最終的に印象が辿り着いたのは、大胆な墨の動きを画面に表す抽象作品で あった。そのような抽象表現は、国内外の展覧会にも幾度となく出品され、寺院の襖絵にも取り入れられ た。日本画での抽象表現は、国内では物議をかもしたが、海外では高い評価を受けた。 〔図2〕《白い帽子の女》 昭和29年 京都府立堂本印象美術館 〔図3〕《意識》 昭和31年 京都府立堂本印象美術館
抽象絵画が多く描かれるようになるにつれて、茶碗や皿の工芸作品の制作 が増えている 。昭和四三 ︵一九六八︶年には皿の制作が集中的に行われた 。 その多くは、明るい色が数色塗られた上に黒や金の柔らかな線で装飾されて いる。これは、ちょうど絵画にもみられる技法である。これについては後の 三にて詳しくみることにする。 このように、印象の工芸制作に見られる表現は、絵画と連動していること がわかる 。ふりかえると 、まず 、印象が伝統的な日本画を描いていた頃に は 、陶芸にも動物や植物といった具象的なモチーフが描かれていた 。しか し、ヨーロッパ訪問後、画風が一気にデフォルメ化し、幾何学的な表現に変わると、その影響はやはり陶 芸やガラス作品にも表れた。さらに抽象表現に向かった晩年には、同様に茶碗や水指もそのような表現に なっている 。明らかに工芸と絵画の制作は 、時期的にも表現的にも連動している 。 昭和四五 ︵一九七〇︶ 年に、陶芸と抽象絵画というくくりで展覧会も行われていることからは、皿や鉢などの陶芸と絵画は一連 として提示されたと考えられる。 先述したように 、印象は 、その画業に注目されるあまり 、彼の工芸作品がとりあげられることは少な かった 。 しかし 、彼が亡くなった昭和五〇年に発行された ﹃堂本印象造型芸術﹄の中では 、絵画から彫 刻 、 ガラス工芸 、染織 、陶芸 、金工 、建築デザインなど工芸の扱いが大きかった 。このことは 、印象に とっての工芸制作とは絵画制作と同等にみなされるべきものであり、ただ絵画表現が画面から陶器、ガラ スや染織といったあらゆる媒体に広げられたにすぎない。いいかえると、色彩や構成による表現の媒体が 〔図4〕《形象》 昭和29年
工芸に変わっただけで、表現そのものは絵画制作に向かう姿勢と同様である。印象にとって工芸制作は用 途のために特別な装飾を用いるというよりは、絵画と同じ感覚をもって取り組まれたといえる。 二︱二 なぜ工芸か 印象は、昭和二七年にヨーロッパ各地を訪問した後、工芸作品を精力的に制作した。手がけたものはガ ラス絵、陶器、染織などさまざまであるが、その時々に制作される工芸品に表されたデザインは、常に絵 画で用いられる画風とつながりが見られた。それは、印象のヨーロッパ訪問や抽象表現への移行などが画 家としての人生そのものにも繋がっていることを物語っている。以下、印象が絵画を超えて、工芸を手が けるようになった背景について考えていくこととする。 印象が工芸制作に関して語った言葉は、ほとんど見あたらない。ただ、印象の随筆集﹃画室の窓﹄には ﹁絵七宝﹂というタイトルで書かれた文章がある︵註一三︶ 。その内容は、基本的には彼がフランスで見た エマイユについての歴史や素材や技法が詳述されたうえで、彼自身がとらえたヨーロッパの工芸について 言及されたものである。ちょうどこの時期、印象は七宝作品を手がけていたため、この文章には、彼自身 の七宝制作に関する見解が見られる。また、フランスのエマイユだけでなくゴブラン織りにもふれている 内容からは、印象の工芸観が比較的よく表されている。したがって、 ﹁絵七宝﹂に書かれた内容を参考に、 印象がなぜ工芸を手がけたのかを読み取っていくこととする。 印象は、まずフランスの芸術について﹁殊に絵画や、織物や、金銀細工その他の諸工芸に、中世以来の
古い伝統と技術などを、すでに中世期の信仰の敬虔さを失いつつある今日まで断絶させることなく立派に 続けている﹂ ︵註一四︶とし、さらにただ古いだけではなく、常に新しく進展させているという。印象は、 その理由として、ゴブラン織にしてもエマイユにしても技法では伝統を守るが、現代の芸術家たち、ピカ ソやルオーといった現代の芸術家たちが図案をあたえていることによって新しく血の通ったものになって いると述べている。それによって、絵画とは異なる立派な工芸作品を残しているとする。 さらに、印象はこうしたフランスの工芸品の見事な美の根底には宗教の力が働いていることを指摘して いる 。信仰という核があるからこそ 、 フランスの工芸は卓越していると断言しているのである 。印象自 身、幼い頃から仏教に親しみ、信仰心が豊かであったため、外国の宗教やそれにまつわる工芸品の装飾に 関して深い理解を示したと考えられる。 しかし 、印象自身の工芸制作においては 、宗教的な意味合いを脱して 、芸術品という立場から自由に 制作されたといえる 。それは 、﹁エマイユを絵画的なフォルムにおいて表現してみようと考えていろいろ 研究をしてみた﹂ ︵註一五︶という印象の言葉から想像できる 。絵七宝について ﹁七宝釉を使って油彩の 如くに絵を描いたようなものである﹂ ︵註一六︶という言葉からも 、印象は七宝だからそれにふさわしい 図柄をというのではなく、七宝は単なる媒体として貪欲に自身の表現のための制作に取り込んだとみられ る。もちろん、七宝の特殊な素材を考慮して釉薬や熱についての綿密な研究のうえ、材質の制約にとらわ れず、静物、人物、花鳥、風景といったモチーフを自由に表現することが試みられた。エマイユやゴブラ ン織りから見たフランスにおける工芸のあり方から、印象は、日本の工芸においても伝統のなかに常に新 しさを入れ込む必要性を強く感じていたといえる。
印象が工芸を手がけるようになった理由には、彼がヨーロッパ訪問中に外国の工芸品に接触したことに あった。絵画という領域を打ち破って、 新しい創造を目指した先が印象にとっての工芸であったといえる。 三 工芸の位置 ここでは、印象の全制作活動における工芸制作の位置を見るために、工芸デザインが絵画とどのように 関わっているのかに注目したい。特に、工芸作品のなかでも陶器が多く制作された時期に注目し、それと 同時期の絵画とを比較することによって、印象にとっての工芸デザインとはどのようなものであったかを 見ていく。そして、彼の工芸制作の背景から、デザインの独自性を再確認したうえで、印象が表現した全 体像を明らかにすることとする。 三︱一 新造形について 昭和三〇年 、日展に出品した ︽生活︾は 、幾何学的な構成によって表された抽象画であったが 、その 後 、印象はさらに画風を改め 、墨の動きを使った抽象作品を多く描くようになる 。﹁新造形﹂とは 、印象 が名づけた自らの抽象表現のことである。昭和三五︵一九六〇︶年に刊行された画集﹃新造形﹄ ︵註一七︶ は、日本画の大家による新しい試みとして美術界を賑わせた。そして、それ以降、茶碗や陶板といった陶
芸作品が数多く制作されている。 吉田洋一 ﹁堂本印象の ﹃新造形﹄︱自己を表す自由な継承を求めて︱ ﹂︵註一八︶によれば 、印象の抽 象絵画は、墨の線を主体にして、その背後にある日本画特有の顔料の風合いや色合いがかもしだす料紙装 飾的な感覚があるとする。さらに、印象独自の抽象表現とは、墨色の飛沫、墨の線のリズミカルな濃淡や 交錯による構成によるところが大きいとする。つまり、筆さばきによって画 面構成がなされているところに彼独自の特徴がみられる。絵画について言及 されるこうした特徴は、陶芸にも伝わっている。 この頃制作された陶芸茶碗の全体的な特徴は、明度の高い色彩と黒い線の 組み合わせによる表現に認められる 。たとえば 、陶芸茶碗 ︽雨もまたよし︾ ︹図 5 ︺ は 、平面的に緑が塗られた横に青線を多重に描き 、さらに黄色 、紫 の線が上部にくるりと引かれている。黄色と紫の横線と垂直方向には柔らか な黒い線が加えられている。色の付け方は、大胆で筆の動きが感じられるほ どである。この作品の青い線は、自由な筆の動きに見えながら、空間を埋め るために気が配られている。この頃描かれた抽象絵画である︽開示︾や︽自 省︾ ︹図 6︺に見られる線の動きと重なる。 同じく 、陶芸茶碗 ︽秋の木の間︾ ︹図 7 ︺ は 、荒い筆遣いによって塗られ た桃色を背景として、背景より少し濃い桃色、そして黒と金が引かれた表現 となっている。左右につけられている取手は特徴的な形をしている。取手部 〔図5〕《雨もまたよし》 昭和39年 〔図6〕《自省》 昭和38年
分にはアクセントとして青色で点と細い線が控えめに引かれている 。この作品での黒や金による形態は 、 やはり抽象絵画の特徴と結びつく 。︽風神︾ ︹図 8 ︺ は金地に黒い線を主体とした色彩的な抽象絵画であ る。かたまりのように置かれた金色の上に、墨による黒い線が伸びている。絵画では、横長の画面を活か す構図となっているが、黒と金を用いることと飛沫のように筆をおく技法は両者に共通する。 また 、陶芸茶碗 ︽野辺の花︾ ︹図 9︺は青 、赤 、金色をそれぞれモザイク状に近接させることによって 多彩な印象を与える。これは抽象表現による西芳寺襖絵︽遍界芳彩︾ ︹図 10︺の絢爛さと類似している。 このように 、陶芸における表現と抽象絵画との類似点は数多く見られる が、こうした類似点は陶芸だけではなく、染織作品にも及んでいる。 ︽発芽︾ や︽生動︾ ︹ 図 11︺の表現は、同じく抽象表現による西芳寺襖絵︽夢窓慈恵︾ ︹図 12︺の墨線の動きに類似している。 このように、絵画と、陶芸や染織といった工芸とは表現の上でかなり結び ついているといえる。しかし、一方で、印象は 絵画と工芸の制作には決定的な違いがあるこ とを知っていた 。 その違いとは 、色の出し方 であった 。印象は 、﹁ 絵七宝﹂において 、ヨー ロッパの七宝の歴史を語るとき、中国の陶器に もふれている。また、陶芸を七宝と同じように 釉薬の工芸であると記している。絵画の技術を 〔図7〕《秋の木の間》 昭和40年 京都府立堂本印象美術館 〔図8〕《風神》 昭和36年 京都府立堂本印象美術館
七宝という新しい素材でいかした際に、絵画と 同じように描いても加熱すると 、﹁ おもいもつ かぬ妙な色に変化したり 、三 、 四 回と度を重ね ると美しくなって来たりして、天然的な陶器窯 の効果に似ているのである。それだけにこれら が期待したことに近い成果に達することはなか なかなのである﹂ ︵ 註一九︶と 、熱による発色 の不測性について語っている。顔料が思い通り にそのまま発色する絵画との違いは、七宝や陶 器だけでなく、糸を染めて織り出す織物につい ても同様にいえる。絵画のように描いても、ガ ラスや土や繊維という素材であるがために不測 の変化が生じることを印象は実感し、それを楽 しんでいる。印象があらゆる造形に対して積極 的な関心を持ち、芸術制作の視野を広めている 様子がうかがえる。 新造形では、絵画、工芸ともに表現は一貫し ている。印象による工芸デザインは、ものの美 〔図10〕西芳寺襖絵《遍界芳彩》(部分) 昭和44年 〔図11〕《生動》 昭和43年 〔図9〕《野辺の花》 昭和47年 京都府立堂本印象美術館 〔図12〕西芳寺襖絵《夢窓慈恵》(部分)昭和44年
しさを表すための装飾というより彼の表現そのものであるといえる。つまり、陶芸、染織、七宝などの工 芸も絵画と同じ感覚で取り組まれている。したがって、印象の創作活動の中での工芸制作の意義とは、単 なる余技というとらえ方ではなく、むしろ絵画と工芸との境のない、いわば両者に同等かつ共通の表現媒 体である点に認められる。 三︱二 工芸の役割 印象は自己の内面を絵画の画面に限らず、工芸という領域にまで広げたが、最終的に、印象にとって工 芸とは何であったのかについてまとめておくこととする。 色彩とかたちの融合による印象の工芸は 、彼自身による抽象絵画との関係が深いものであった 。した がって、工芸と絵画との密接な繋がりは、独自の総合芸術を形作ったといえる。絵画と工芸の往還が見ら れるような総合芸術が生み出された背景には、もちろん印象自身が若い頃から染織図案や木彫り人形の制 作にたずさわっていたことから、もともと工芸そのものや工芸制作に関心があったという側面も考えられ るが、彼の制作活動に工芸を組み込んだ決定的なきっかけを与えたのは、やはり、昭和二七年のヨーロッ パ訪問中の体験にあった。ヨーロッパ人の情熱的な宗教信仰にちなんだ工芸品を目にしたことで、印象が 新たな表現方法に刺激されたことは確実である。それは、ヨーロッパ訪問以後、精力的に多くの工芸品が つくられるようになったことにつながっている。印象にとって、工芸品は独自の世界を広く強く、効果的 に表すためのアイテムであったと考えられる。それは、昭和四〇年に設立し、翌年に開館した堂本美術館
︵現・京都府立堂本印象美術館︶に表れている。 堂本美術館は、印象が存命中に自ら全てをデザインして建てられた建築物である。この建築の構想と設 計 、収蔵する作品の選択 、展示の方法にいたるまでの全てに 、印象自身のヴィジョンが実現されている 。 館内にある、椅子、壁面、窓の格子、ドアの取手のデザインにいたる細部も全て印象自身によって考案さ れた ︹図 13︺。それらのデザインは 、全て抽象表現である ﹁新造形﹂に基づいている 。印象にとって 、美 術館は自らの作品の展示空間であり、作品は、独自の空間を生み出すためのものであった。つまり、作品 は空間のプロデュースに直結するアイテムになっている。印象による空間プロデュースには、工芸品が多 く用いられていた。たとえば、玄関の上部を飾るタペストリー︹図 14︺や、絵画が展示されている中に木 彫人形や椅子が置かれるなど︹図 15︺、館内では多くの工芸品が配置された。 工芸作品が制作された当時、美術館内の空間を飾るものとして、あるいは、展示品として多く見られた ことは、工芸作品が絵画と同様に、印象芸術を表すものであったことを示している。工芸品の数々は、空 間 を 飾 る も の と し て、印象独自の世界 をつくりだすうえで 重要な役割を担った と考えられる。 〔図13〕美術館内の壁面デザイン 昭和44年 〔図14〕タペストリーによる壁面装飾 昭和42年
おわりに 本稿では、これまでの堂本印象の研究において、あまりふれられてこなかった工芸分野に注目した。そ のために、まず、従来の印象に関する主要な論考をとりあげて、印象がどのように評されてきたかを明ら かにした。 従来の諸研究の内容からは、全体的に大きく二つのことが明らかとなった。一つは、画業を紹介するこ とによって印象をとらえた絵画中心の視点から 、主として画風の変遷について記述されていることであ る 。 二つめには 、絵画を中心とするため 、工芸が余技的あるいは補足的なものと見なされていることで ある。現行研究ではこのような傾向に偏り、工芸についてはあまり積極的にふれられてこなかった。しか し、印象の制作活動を総合的に見ると、絵画の視点だけでは把握できない側面があるといえる。 そこで、印象の工芸そのものおよび制作に至る背景をみていくことによって、二つの特色を見いだすこ とができた。それは、まず、印象の制作活動における工芸と絵画は、同等の表現としてつながっているこ とである 。そして 、工芸は単なる余技ではなく 、むしろ印象の広大な世界観を表すもの 、つまり 、工芸 は、印象の内面世界を独自の空間に表す効果的な表現であったことである。 このように、印象における工芸とその意味について検討することは、芸術家堂本印象の全体像を探ると きの大きな手がかりになっているといえる。印象の全体像は、絵画という一側面だけではなく、工芸をも 視野に入れて考察されることによって、はじめて浮き彫りになると思われる。
︵註一︶藤田猛 ﹁堂本印象の作風﹂ 、原田平作 ﹁堂本印象の作風展開﹂ ︵展覧会図録 ﹃堂本印象︱美の 巡礼︱﹄日本文化財団、一九七七年︶ ︵註二︶村松寛﹁堂本印象︱美の求道者︱﹂ ︵展覧会図録﹃堂本印象︱美の遍歴︱﹄朝日新聞大阪本社 企画部、一九七七年︶ ︵註三︶村松寛﹁印象画伯の画業︱その自由さと厳しさ︱﹂ 、原田平作﹁華麗の中に脈打った悲愁と変 容の中に認められる論理︱印象芸術の二つの特質を中心として︱﹂ ︵展覧会図録﹃堂本印象︱ 美の跫音︱﹄神戸市民文化振興財団、一九八四年︶ ︵註四︶吉田洋一﹁心を表現するための形象を求めて︱堂本印象の画業﹂ ︵展覧会図録﹃堂本印象展︱ 具象から抽象へ 日本画家の華麗な変貌﹄鹿児島市立美術館、南日本新聞社、一九九七年︶ ︵註五︶社団法人堂本美術館監修﹃堂本印象造型芸術﹄形象社、一九七五年、五頁 ︵註六︶前掲註五、 五頁 ︵註七︶前掲註五、 三四︱三五頁 ︵註八︶前掲註五、 八〇︱八一頁 ︵註九︶前掲註五、 九四︱九五頁 ︵註一〇︶京都府立堂本印象美術館編集・発行﹃京都府立堂本印象美術館贈品目録﹄一九九七年 ︵註一一︶松本佐多﹃堂本印象先生余技自刻 木彫風俗人形図録﹄マリア画房、一九四二年
︵註一二︶東京・日本橋髙島屋八階ギャラリー﹁堂本印象新作展覧会﹂リーフレット、一九五四年 ︵註一三︶堂本印象﹃画室の窓﹄朝日新聞社、一九五四年 ︵註一四︶前掲註一三、 二四四頁 ︵註一五︶前掲註一三、 二四七頁 ︵註一六︶前掲註一三、 二四九頁 ︵註一七︶小椋修賢編集﹃新造型 堂本印象作品﹄京都書院、一九六〇年 ︵註一八︶吉田洋一 ﹁堂本印象の ﹁新造形﹂︱自己を表す自由な継承を求めて︱ ﹂︵ ﹃前衛と伝統 堂本印象 新造形作品展﹄京都府立堂本印象美術館、二〇〇五年︶ ︵註一九︶前掲註一三、 二六一頁 ︵やまだ ゆきよ 京都府立堂本印象美術館主任学芸員︶
第28回「京都美術文化賞」
第
28回
﹁京都美術文化賞﹂
受賞者
第
28
回﹁京都美術文化賞﹂
受賞記
念展
第 28回京都美術文化賞を受賞された 浅野均氏、今村源氏、久保田繁雄氏の 三 氏による展覧会。選考委員である梅原猛 氏、新宮晋氏、樂吉左衞門氏、公益財団 法人中信美術奨励基金役員・選考委員と して、長年にわたりご尽力いただきまし た石本正氏、三浦景生氏の先生方の作品 も賛助出品いただき開催しました。 ●主催 公益財団法人 中信美術奨励基金 ●後援 京都府、 京都市、 京都府教育委員会、 京都市教育委員会 ●協力 京都中央信用金庫 二〇一六年一月十五日∼一月二十四日 於 京都文化博物館京都美術文化賞
●京都府下を基盤にして美術の創作活動を行い 、京都府 市民の精神文化向上に多大の功績があった方に対して 賞牌 賞金⋮⋮一人 二百万円 ●創作活動の対象は次のいずれかの分野 絵画︵日本画・洋画・版画︶ 、彫刻、 工芸︵染織・陶芸・漆芸・その他︶ ●第 28回選考委員 梅原 猛︵哲学者・ 国際日本文化研究センター顧問︶ 太田垣 實︵美術評論家︶ 潮江 宏三︵京都市美術館館長︶ 新宮 晋︵彫刻家︶ 辻 惟雄︵美術史家︶ 樂 吉左衞門︵陶芸家︶ 日本画浅
野
均
彫 刻今
村
源
ファイバーアート久保田
繁
雄
第28回「京都美術文化賞」受賞記念展
2015 年 5 月 28 日 於 ウェスティン都ホテル京都 2016 年 1 月 15 日∼ 1 月 24 日 於 京都文化博物館 記念展会場風景 第 28 回京都美術文化賞受賞記念展開催のテープカット 久保田 繁雄氏、今村 源氏、浅野 均氏、 布垣 豊 財団理事長 第 28 回京都美術文化賞の贈呈 布垣 豊 財団理事長による あいさつ京都美術文化賞も二十八回目を迎えました 。今回も満場一致で三人の受賞者が選ばれました 。それ ぞれ大変素晴らしい業績を上げておられ 、まさに国際的な芸術家であります 。 あらためて京都の芸術 家の層の厚さを感じました。 浅野均氏は、 故石本正氏が高く評価していた画家の一人で、 中国山水画の技法をとり入れて日本の壮 大な風景を描いています。脈々たる緑の山並みは甚だ強烈で美しく、 そのエネルギーが観る人に伝わっ てくるような迫力のある絵です 。このような山の表現は従来の日本画にはなかったもので 、新しい日 本画の創造であり、おそらく後世からも評価されると思います。 今村源氏は現代美術作家として 、菌類に深い関心をもち 、 ﹁キノコ﹂をモチーフに大変おもしろい作 品を制作しています 。それらの作品には 、どこかに地球環境や人類文明の危機を訴える思想が込めら れているようです 。また 、逆立ちした男の裸体像は様々な宇宙を表現しており 、環境が破壊されよう
選考経過
第二十八回京都美術文化賞
選考委員を代表して
梅
原
猛
久保田繁雄氏は 、 日本だけでなくアメリカ 、イギリス 、 スイスなどでも作品を発表している国際的 。赤と黒 、男と女というような二元的な思想が甚だ華やかに表現され このような三人のすぐれた芸術家を選ぶことができ 、選考委員として大変嬉しく思います 。この受 、それぞれの芸術活動がさらに大きく 、深くなれば 、それは京都にとっても日本にとって ︵うめはら たけし 哲学者・ 国際日本文化研究センター顧問︶