印度學佛敎學硏究第六十七巻第二号 平成三十一年三月 二六四
虚堂智愚と南宋後期の曹洞宗
佐
藤
秀
孝
松 源 派 の 虚 堂 智 愚 ︵息 耕 、 一 一 八 五 │ 一 二 六 九︶ と い え ば、 破 庵 派 の 無 準 師 範 ︵仏 鑑 禅 師、 一 一 七 七 │ 一 二 四 九︶ と と も に 南 宋 後 期 の 楊 岐 派 の 流 れ を 代 表 す る 臨 済 禅 者 と し て 知 ら れ る。 ﹃虚堂和尚語録﹄ ︵以下、 ﹃虚堂録﹄ ︶ 巻末には法嗣の閑極法雲 ︵間 、 一 二 一 五 │?︶ が し た﹁行 状﹂ が 存 し、 事 跡 も か な り 詳 し く 窺 う こ と が で き る。 な か で も 興 味 深 い 特 徴 の 一 つ と し て、智愚の生涯に曹洞宗の禅者が大きく関わっており、修行 期や住持期・閑居期を含めて智愚の人生の分岐点で曹洞禅者 が重要な役割を演じている。逆にいうと智愚の活動を通して 禅 宗 史 上 に 埋 も れ た 曹 洞 禅 者 ら の 事 跡 も 判 明 す る の で あ り、 南宋後期の曹洞宗の状況や宗旨を知る上で智愚一代の事跡に は看過し難いものが存する。 南 宋 代 の 曹 洞 宗 は 丹 霞 子 淳 ︵徳 淳、 一 〇 六 四 │ 一 一 一 七︶ の 法 を 嗣 い だ 真 歇 清 了 ︵悟 空 禅 師、 一 〇 八 八 │ 一 一 五 一︶ と 宏 智 正 覚 ︵宏 智 禅 師、 大 覚、 隰 州 古 仏、 一 〇 九 一 │ 一 一 五 七︶ と い う 二 禅 者の活動によって始動しており、彼らが提唱した黙照禅はそ の後の曹洞宗旨を特色づける重要な用語となっている。北宋 末から南宋初期の動乱期に河南や湖北の地から江南に下った 曹洞宗の一派は、清了や正覚らの化導によって一時期かなり の 勢 力 を 有 し て い た よ う で あ る。 し か し、 や が て 楊 岐 派 ︵大 慧 派 祖︶ の 大 慧 宗 杲 ︵妙 喜、 大 慧 普 覚 禅 師、 一 〇 八 九 │ 一 一 六 三︶ が公案参究の看話禅を唱導し、清了の禅を黙照邪禅と決め付 けて大々的に批判すると、しだいに臨済宗に押されて曹洞宗 の勢力は衰退へと向かった。南宋後期に入ると、江浙の禅林 は楊岐派一色に塗り替えられた感があり、曹洞禅者の数は激 減して細々と継承される状態に陥っている。 清 了 の 法 嗣 に は 大 休 宗 珏 ︵小 珏、 一 〇 九 一 │ 一 一 六 二︶ ・ 妙 覚 慧 悟・ 指 南 道 揮・ 澹 堂 徳 朋 ︵竹 筒 和 尚、? │ 一 一 六 七︶ ら が あ り、その後も真歇派は勢力を弱めつつも、辛うじて大休宗珏 │足庵智鑑│長翁如浄と継承されている。この系統から南宋 後 期 に 長 翁 如 浄 ︵浄 長、 一 一 六 二 │ 一 二 二 七︶ が 出 て お り、 入 宋 求 法 し た 永 平 道 元 ︵仏 法 房、 一 二 〇 〇 │ 一 二 五 三︶ が 如 浄 の 法を嗣いで帰国し、日本禅林に導入された真歇派はやがて日 本曹洞宗へと大変貌を果たしている。二六五 虚堂智愚と南宋後期の曹洞宗︵佐 藤︶ 一 方 、 正 覚 の 法 嗣 に は 自 得 慧 暉 ︵ 一 〇 九 七 │ 一 一 八 三 ︶ の ほ か 、 聞 庵 嗣 宗 ︵ 宗 白 頭 、 一 〇 八 五 │ 一 一 五 三 ︶ ・ 石 窓 法 恭 ︵ 石 牕 、 一 一 〇 二 │ 一 一 八 一 ︶ ・ 了 堂 思 徹 ︵ 徹 白 頭 ︶ ら が 輩 出 し 、 宏 智派 は自得慧暉│明極慧祚│ 東谷妙光│ 直翁可挙 │雲外雲岫 │ 無印 大証 │ 天章 景雲と相承され て 元末明初ま で維 持され て い る 。 宏 智 派 の 流 れ も 直 翁 可 挙 ︵ 静 慧 禅 師 、 一 二 一 一 │ ? ︶ 晩 年 の 法 嗣 で あ る 東 明 慧 日 ︵ 白 雲 、 一 二 七 二 │ 一 三 四 〇 ︶ と 、 雲 外 雲 岫 ︵ 妙 悟 禅 師 、一二 四 二 │ 一三 二 四 ︶ の 法 嗣 で あ る 東 陵 永 璵 ︵ 妙 応 光 国 慧 海 慈 済 禅 師 、 一 二 八 五 │ 一 三 六 五 ︶ に よ っ て 元 代 後 期 に日 本 禅 林に 導 入され 、 日 本 禅 宗二 十四流 の 二派 を形 成し て い る 。 日本 の宏 智 派 とくに東 明 派は南北 朝 室町 期に五山 派 唯 一 の曹 洞 系 として鎌 倉 円 覚 寺の白 雲 庵 を 拠 点に 鎌 倉 ・京 都 ・ 肥 後 ・ 越 前 な ど に 展 開 し て い る 。 智 愚 は 明 州 ︵浙 江 省︶ 象 山 県 の 陳 氏 の 出 身 で あ り、 参 禅 学 道を開始した直後、宏智派の曹洞禅者に参学して宗旨を研鑽 している。 ﹁行状﹂ には徧参歴遊した直後の消息として、 至 二 十 六 歳 一、 無 二 経 世 意 一。 父 母 見 下 有 二 異 相 一 舌 貫 中鼻 端 上、 聴 下 其 依 二普 明 寺 僧 師 蘊 一出 家 上。 一 日、 聞 下誦 二杜 工 部 天 河 詩 一、 長 時 任 二 顕 悔 一、 秋 至 輙 分 明、 縦 被 二微 雲 掩 一、 終 能 永 夜 清 上。 忽 有 二警 発 一、 辞 親 出 郷。 首 依 二雪 竇 煥 和 尚 浄 慈 中 庵 皎 和 尚 一、 公 務 外 惟 坐 禅。 二 老 撫 愛、常置 二 之左右 一。 ︵ 大 正 四 七 ・ 一 〇 六 三 a∼ b、 以 下 ﹃ 虚 堂 録 ﹄ の 引 用 は 大 正 蔵 の 頁 の み ︶ と記されている。一六歳のとき郷里象山県の普明律寺におい て出家した智愚は、行脚して最初に明州奉化県の雪竇山資聖 禅 寺 で 雪 竇 文 煥 の も と に 投 じ、 つ い で 杭 州 ︵浙 江 省︶ 銭 塘 県 の南屏山浄慈報恩光孝禅寺で中庵重皎に参学している。文煥 は自得慧暉の法嗣、重皎は石窓法恭の法嗣であって、ともに 宏 智 正 覚 の 法 孫 に 当 た る。 ﹃虚 堂 和 尚 語 録﹄ 巻 六﹁仏 祖 讃﹂ に は 多 く の 臨 済 禅 者 ら に 伍 し て﹁宏 智 禅 師﹂ ︵一 〇 三 二 a︶ と ﹁石 窓 和 尚﹂ ︵一 〇 三 二 b︶ の 祖 賛 が 存 し、 智 愚 が 重 皎 を 介 し て正覚や法恭の曹洞宗旨を少なからず受けていた状況が窺わ れる。曹洞の宗風は坐禅を重視した黙照禅とされるが、智愚 は雪竇山の文煥や浄慈寺の重皎のもとで公務のほかは只管に 坐禅を実践し、文煥や重皎も若き智愚を常に左右に置いて親 しく接化指導をなしたものらしい。 その後、松源派の掩室善開や運庵普巌 ︵少瞻、 ?│一二二二︶ に 参 じ、 大 慧 派 の 無 二 □ 月 や 秀 巌 師 瑞 ︵? │ 一 二 二 三︶ に 学 ぶ など、智愚は江浙から江西・湖南の叢林を歴参し、多く臨済 禅者の門戸を叩いている。ところが、参学の最終段階で智愚 は再び浄慈寺に到って真歇派の如浄のもとに投じて問答商量 を交わしている。時期的に見て日本僧道元が明州県の天童 山 景 徳 禅 寺 で 同 じ 如 浄 に 投 ず る 直 前 の こ と で あ る。 ﹁行 状﹂ には、
二六六 虚堂智愚と南宋後期の曹洞宗︵佐 藤︶ 由 是 回 浙 到 二浄 慈 一見 二浄 和 尚 一。 浄 問 云、 爾 還 知 三所 生 父 母 通 身 紅 爛 在 二荊 棘 林 中 一 麼。 師 云、 好 事 不 在 二忽 忙 一。 浄 随 後 打 一 拳。 師 展 二 両手 一云、且緩緩。 ︵一〇六三 c∼一〇六四 a︶ という如浄と智愚の機縁が載せられ、如浄の厳しい問い掛け を窘めるような智愚の応対が記されている。江戸期の白隠慧 鶴 ︵一 六 八 六 │ 一 七 六 八︶ も﹃荊 叢 毒 蘂﹄ 巻 一 ︵白 隠 全 集 二・ 一 三 頁︶ に こ の 両 者 の 話 頭 を 取 り 上 げ て 拈 提 し て い る が、 浄 和尚が如浄を指すとは気付いていないようである。 智 愚 は 紹 定 二 年 ︵一 二 二 九︶ に 四 五 歳 で 嘉 興 府 ︵浙 江 省︶ 嘉 禾 の 流 虹 興 聖 禅 寺 に 開 堂 出 世 し て よ り、 咸 淳 五 年 ︵一 二 六 九︶ 一〇月に杭州餘杭県の径山興聖万寿禅寺で八五歳の生涯を終 えるまで、隠山閑居の時期を含めて諸禅刹の住持を歴任して いるが、 その間にも曹洞禅者と頻繁に関わりを持っている。 智愚が明州定海県の瑞巌開善禅寺を退住して明州県の啓 霞 山 崇 梵 禅 院 ︵霞 峰︶ に 寓 居 し て 頌 古 百 則 を 編 纂 し た 際 も、 と き の 住 持 は 真 歇 派 の 棘 林 □ 杞 ︵一 に 棘 林 杷、? │ 一 二 五 八︶ で あ っ た。 ﹃虚 堂 録﹄ 巻 五﹁頌 古﹂ に 載 る 智 愚 の 自 序 ︵一 〇 二 四 a∼ b︶ は 淳 祐 二 年 ︵一 二 四 二︶ 正 月 に 啓 霞 山 ︵霞 谷︶ で さ れ て い る。 棘 林 杞 は、 足 庵 智 鑑 ︵一 一 〇 五 │ 一 一 九 二︶ の 法 嗣 で 如 浄 と は 同 門 に 当 た る。 ﹃虚 堂 録﹄ 巻 一﹁慶 元 府 万 松 山 延 福 禅 寺 語 録﹂ の﹁師 在 二 啓 霞 一 受 請 辞 衆 上 堂﹂ に て 智愚は ﹁雖 作 二 萬松孤頂雲 一、終憶 二 霞峰老人石 一﹂ ︵九九二 a︶ と霞峰老人すなわち棘林杞に感謝の意を表している。 智 愚 が 州 ︵浙 江 省︶ 義 烏 県 の 雲 黄 山 宝 林 禅 寺 ︵双 林︶ に 住 持 し て い た 際 に は、 蘇 州 ︵江 蘇 省︶ 呉 県 の 承 天 能 仁 禅 寺 の 住 持 で あ っ た 宏 智 派 の 短 □ 遠 ︵遠 鉄 橛、? │ 一 二 四 七︶ が 智 愚 に 遺 書 を 呈 し て い る。 ﹃虚 堂 録﹄ 巻 二﹁ 州 雲 黄 山 宝 林 禅 寺 語 録﹂ に﹁承 天 短 遠 和 尚 遺 書 至 上 堂﹂ ︵九 九 九 c︶ が 存 し、 短 遠 が 示 寂 し た の は 淳 祐 七 年 の 夏 頃 と 推 測 さ れ、 智 愚 は ﹁洞 山 愚 癡 斎﹂ の 故 事 を 引 い て 短 遠 を 追 悼 し て い る。 短 遠 は 明 極 慧 祚 ︵法 祚︶ の 法 を 嗣 い だ 高 弟 で、 南 北 朝 期 の﹃仏 祖 正 伝 宗 派 図﹄ で は 如 浄 の 法 嗣 と 記 さ れ て い る。 ﹃枯 崖 和 尚 漫録﹄巻中﹁短篷遠禅師﹂ の項に、 短 篷 遠 禅 師、 平 生 不 設 二 臥 具 一、 昼 夜 枯 坐、 得 二遠 鉄 橛 之 称 一。 開 二法 餘 杭 永 寿 一、 為 二明 極 嗣 一。︵中 略︶ 後 住 二 呉 門 承 天 一。 一 日 上 堂 云、 承 天 一 句、 言 前 分 付、 達 磨 不 会、 隻 履 帰 去。 越 宿 無 疾 坐 逝。 時 光 東谷亦道行、一力起 二洞上之宗 一、無 謂 無 人。 ︵卍続蔵一四八・八三 d∼八四 a︶ とあり、短遠は常に坐禅を好み、昼夜を忘れて鉄の杭を打 ち込んだかのごとく枯坐し、江南叢林に﹁遠鉄橛﹂の異名を 轟 か せ た と さ れ る。 破 庵 派 の 雪 巌 祖 欽 ︵慧 朗 禅 師、? │ 一二八七︶ が ﹃雪巌和尚語録﹄巻二﹁仰山普説﹂ で、 十 八 歳 行 脚。 鋭 志 要 三出 来 究 二 明 此 事 一、 在 二双 林 鉄 橛 遠 和 尚 会 下 一 打 二十 方 一。 従 朝 至 暮、 只 在 二僧 堂 中 一、 不 出 二 戸 庭 一。 縦 入 二 衆 寮 一、
二六七 虚堂智愚と南宋後期の曹洞宗︵佐 藤︶ 至 二後 架 一袖 手 当 胸、 徐 来 徐 往、 更 不 二 左 右 顧 一、 目 前 所 視、 不 過 二 三 尺 一。 洞 下 尊 宿、 要 教 三 人 看 二狗 子 無 仏 性 話 一。 只 於 二雑 識 雑 念 起 時 一、 向 二 鼻 尖 上 一軽 軽 挙 二 一 箇 無 字 一。 纔 見 二念 息 一、 又 却 一 時 放 下 著。 只 麼 黙 黙 而 坐、 待 二 他 純 熟 久 久 自 契 一。 洞 下 門 戸、 工 夫 綿 密、 困 人 動是十年二十年不 得 到 手。所以難 二於嗣続 一。 ︵卍続蔵一二二・二五六 d︶ と 語 っ て お り、 祖 欽 は 若 い 頃 に 宝 林 寺 ︵双 林︶ で 実 際 に 短 遠に参学している。短遠は修行僧らとともに朝から晩まで 坐禅と経行に明け暮れ、工夫綿密で容易に嗣続し難い孤高な 一面を有していたとされ、そんな中に曹洞宗が江南禅林でし だいに衰微していく一つの要因が存したともいえよう。また 当時の曹洞禅者は坐禅中に学人に雑念が起こったとき、これ を払うための手段として﹁趙州無字﹂の公案を参究させてい た事情なども知られて興味深い。 ﹃虚 堂 録﹄ 巻 六﹁仏 祖 讃﹂ の 末 尾 に﹁宝 林 遠 和 尚 遊 山 像、 師孫侍行﹂という祖賛が収められており、これは宝林寺前住 の 短 遠 が 法 孫 と 遊 山 し て い る 姿 を 頂 相 に 描 い た も の で あ る 。 そ の 画 像 に 対 し て 智 愚 は ﹁ 徳 臘 倶 高 、 孫 枝 益 茂 。 以 二 勤 儉 苦 節 一、 中 二興 肄 業 一、 以 二 老 気 餘 韻 一、 平 二視 諸 方 一。 眉 稜 垂 雪 、 竹 凝 霜 。 歩 趨 有 人 兮 清 風 可 継 、 澹 常 古 道 兮 劫 外 徜 徉 ﹂ ︵ 一 〇 三 三 a∼ b︶ と述べ、短遠の風貌と人徳を称えている。 智 愚 は 淳 祐 九 年 ︵一 二 四 九︶ に 五 年 間 住 持 し た 州 宝 林 寺 を 突 然 に 退 住 し、 杭 州 銭 塘 県 の 北 山 景 徳 霊 隠 寺 の 鷲 峰 庵 ︵松 源 塔 下︶ に 閑 居 し て い る。 宝 祐 元 年 ︵一 二 五 三︶ 春 に 新 た に 霊 隠 寺 に 住 持 し た 宏 智 派 の 東 谷 妙 光 ︵? │ 一 二 五 三︶ は 閑 居 中 の 智愚に対し﹁霊隠立僧普説﹂を依頼している。妙光は同門の 短遠と力を合わせて曹洞宗旨を維持興隆するに努めていた 禅者とされる。 ﹁行状﹂ には、 五 年 嬰 二 強 寇 之 難 一、 帰 二 松 源 塔 下 一。 東 谷 和 尚 主 二冷 泉 一、 欲 挙 二立 僧 一。 恐 不 俯 二 就 衲 子 一、 再 三 礼 請。 師 従 之、 開 室 普 説、 垂 二三 転語 一。罔 有 二湊泊 一。 ︵一〇六四 a︶ とあり、智愚と妙光との関わりを伝えている。法祖松源崇嶽 ︵一 一 三 二 │ 一 二 〇 二︶ の 墓 塔 が 立 つ 鷲 峰 庵 に 閑 居 し て い た 智 愚に対し、新たに霊隠寺に入院した妙光は執拗に立僧首座と して化導を補佐してほしい旨を願ったものらしい。 ﹃虚堂録﹄ 巻一〇﹁新添﹂の﹁答莱宣長老書﹂の中で智愚は﹁光老恐 三月初進院、移単帰松源塔所去﹂ ︵一〇六三 b︶ と述べている。 明州象山県の莱山広福禅寺に住持していた法嗣の無爾可宣 に対し、妙光が三月に霊隠寺に入院するだろうから、それま でに霊隠寺の松源塔所にやって来るように促している。明州 県の阿育王山広利寺の住持であった妙光は大慧派の大川普 済 ︵一 一 七 九 │ 一 二 五 三︶ の 後 席 を 継 い で 霊 隠 寺 に 遷 住 す る こ とが決まった時点で、すでに鷲峰庵の智愚に何らかの打診を
二六八 虚堂智愚と南宋後期の曹洞宗︵佐 藤︶ なしていたものであろう。おそらく曹洞禅者として珍しくも 霊隠寺に住持した妙光は曹洞宗と親しい智愚に立僧普説を願 う こ と で 門 下 を ま と め た か っ た の で あ ろ う。 ﹃虚 堂 録﹄ 巻 四 に は 侍 者 浄 覃 編﹁霊 隠 立 僧 普 説﹂ ︵一 〇 一 五 a∼ 一 〇 一 七 a︶ が 収 め ら れ て お り、 智 愚 は 洞 山 下 の 疎 山 匡 仁 ︵矮 師 叔︶ の 機 縁 を も と に 普 説 を 行 な っ て い る。 こ の と き 智 愚 は﹁虚 堂 三 転 語﹂ の 機 関 を も っ て 修 行 僧 に 課 し た と さ れ、 ﹃虚 堂 録﹄ 巻 八 ﹁虚堂和尚続輯﹂ には、 師 在 二霊 隠 鷲 峯 塔 一、 杜 二絶 世 諦 一。 衲 子 請 益、 遂 立 二三 問 一示 之、 各 令 二著 語 一。 一、 己 眼 未 明 底、 因 甚 将 二 虚 空 一 作 二布 袴 一著。 二、 劃 地 為 牢 底、 因 甚 透 二者 箇 一不 過。 三、 入 海 算 沙 底、 因 甚 針 鋒頭上翹 足。 ︵一〇四四 a︶ という﹁虚堂三転語﹂の内容が収録されている。世縁を途絶 していたにも拘わらず、多くの修行僧が智愚の接化に浴して おり、智愚は妙光に頼まれて普説をなすとともに、三問の機 関を立てて修行僧の力量を点検していたわけである。 宝 祐 四 年 ︵一 二 五 六︶ に 智 愚 が 明 州 県 の 阿 育 王 山 広 利 寺 の住持を務めると、同じ県西南一二〇里の仗錫山延勝禅寺 の住持となっていた棘林杞が阿育王山に到って智愚と再会を 果 た し て い る。 ﹃虚 堂 録﹄ 巻 三﹁慶 元 府 阿 育 王 山 広 利 禅 寺 語 録﹂に﹁仗錫和尚至上堂﹂が収められており、智愚は﹁山僧 昔寄 二霞谷 一、与 二 棘林老子 一也如 是。別去一十餘年、今日相 見 亦 如 是﹂ ︵一 〇 〇 四 c∼ 一 〇 〇 五 a︶ と 述 べ て い る。 宝 祐 四 年といえば本師智鑑が示寂してより数えて六五年の歳月が経 過しており、法兄如浄が示寂してより数えても三〇年目に当 た る。 す で に 棘 林 杞 は 九 〇 歳 前 後 に 達 し て い た 計 算 に な り、 智愚にとって老熟した曹洞禅者との交友には、きわめて意義 深 い も の が 存 し よ う。 ﹃虚 堂 和 尚 語 録﹄ 巻 一 〇﹁新 添﹂ に ﹁棘林和尚遺書至﹂ と題した偈頌が伝えられている。 因 記 七 峰 来 二 玉 几 一、 去 年 花 月 下 二 雲 拗 一、 未 周 二 一 歳 一 背 二 盟 我 一、 剔 二尽春燈 一眼不 交。 ︵一〇六二 b︶ 棘 林 杞 は 示 寂 に 際 し て 遺 書 を 阿 育 王 山 の 智 愚 に 呈 し て お り、 この人の最期を窺う上で貴重な消息を提供している。去年花 月とは宝祐五年二月を指すと見られ、七峰とは仗錫山の存す る四明山の峰々、玉几とは阿育王山のことである。阿育王山 を去って一年を経ず我に背盟したとあるから、棘林杞は宝祐 六 年 ︵一 二 五 八︶ 初 春 に 示 寂 し た も の で あ ろ う。 智 愚 と 曹 洞 禅 者 と の 交 流 は 棘 林 杞 に お い て 極 に 達 し て い る 感 が あ り、 ﹃虚 堂 録﹄ 巻 六﹁仏 事﹂ に﹁棘 林 請 下 為 二 二 沙 弥 一 付 上 衣﹂ と 題した偈頌 ︵一〇三三 c︶ が、巻七﹁偈頌﹂ にも ﹁棘林﹂ と題 した偈頌 ︵一〇三五 b︶ が収められている。 一 方、 道 元 の 高 弟 で あ る 永 平 下 の 寒 巌 義 尹 ︵法 王 長 老、 一 二 一 七 │ 一 三 〇 〇︶ が 弘 長 三 年 ︵南 宋 の 景 定 四 年、 一 二 六 三︶ に
二六九 虚堂智愚と南宋後期の曹洞宗︵佐 藤︶ ﹃永 平 広 録﹄ 一 〇 巻 を 携 え て 入 宋 し、 如 浄 門 下 の 無 外 義 遠 ︵? │ 一 二 六 六︶ を 台 州 ︵浙 江 省︶ 黄 巌 県 の 瑞 巌 浄 土 禅 院 に 訪 ね て い る。 舘 隆 志 氏 が 発 見 紹 介 さ れ た 新 出 の﹁寒 巌 尹 和 尚 本 伝﹂ によれば、 亀 山 院 弘 長 三 年 癸 亥、 携 二道 元 禅 師 語 録 一再 入 二 宋 国 一。 景 定 五 年 甲 子、 無 外 義 遠 序 并 跋。 咸 淳 改 元、 霊 隠 退 耕 徳 寧 跋。 同 年、 浄 慈 虚 堂 智 愚 跋。 経 二 五 載 一、 文 永 四 年 而 帰。 時 着 二 舩 于 筑 州 博 多 津 一、 留 二 住 聖 福 寺 一 三年。 と 在 宋 中 の活 動 が 簡 略に 記 され て い る 。義 遠 は 道 元 の 語 録 を 抜 粋 校 訂 し て ﹃ 永 平 元 禅 師 語 録 ﹄ 一 巻 を 編 集 校 訂 し 、 景 定 五 年 ︵ 一 二 六 四 ︶ 一 一 月 に 自 ら 序 跋を 寄 せ て い る 。 義 尹 は 咸 淳元 年 ︵ 一 二 六 五 ︶ 三 月 に 杭 州 霊 隠 寺 に 赴 い て 無 準 下 の 退 耕 徳 寧 ︵ ? │ 一二 六 九 ︶ か ら 跋 文 を 得 、 同 じ 三 月 に 杭 州 浄 慈 寺 に 赴 い て 智 愚 か ら も 跋 文 を 得 て い る 。﹃ 永 平 元 禅 師 語 録 ﹄ の 末 尾 に 、 尹 上 人、 持 二 日 本 元 和 尚 永 平 集 一 来。 観 二 其 締 構 一、 深 遠 不 堕 二語 言 一。 自 謂、 得 二天 童 浄 和 尚 不 伝 之 旨 一。 況 此 老 平 時 発 越、 皆 鏗 鏘 昂 枿 、 絶 二 出 規 矩 之 外 一。 以 此 見 之 、 元 老 則 有 二超 師 之 作 一。 覧 二斯 録 者 一、 従 而 魯変。 大宋咸淳改元春三月、奉 勅住 二持京国浄慈 一虚堂智愚書。 [息耕] [虚堂] ︵曹全宗源下・四二 a∼ b︶ という智愚の跋文が収められている。道元の語録を目の当た り に し た 智 愚 は﹁深 遠 に し て 語 言 に 堕 せ ず﹂ ﹁天 童 浄 和 尚 不 伝の旨を得たり﹂ ﹁元老は則ち超師の作有り﹂と感慨を語り、 道元の持つ超師の作略を大いに賛嘆している。 で は 、 咸 淳 元 年 三 月 に ﹃ 永 平 元 禅 師 語 録 ﹄ に 徳 寧 や 智 愚 の 跋 文 を 得 た 後 、 帰 国 の 途 に 着 く 咸 淳 三 年 ま で 残 り 足 掛 け 三 年 を 義 尹 は 何 れ の 禅 寺 で 過 ご し て い た も の で あ ろ う か 。 こ の 点 で 一 つ 興 味 深 い の は 愛 知 県 豊 川 市 の 円 福 山 妙 厳 寺 ︵ 豊 川 稲 荷 ︶ に 、 文 永 元 年、 寒 巌 尹 老 入 宋 時、 自 二 虚 堂 和 尚 一授 二 伝 観 世 音 一 像 并 咤 枳 尼 天 菩 一 軸 一。 先 師 代 々 伝 来 到 吾。 経 二 幾 星 霜 一、 画 軸 磨 滅 不 分 明。 後 人 恐 憾 焉、 故 書 添 二 尊 号 一、 納 二于 鎮 守 堂 一。 子 々 孫 々 守 二護 之 一、 永勿 令 二失却 一 也。 文安元甲子年十一月吉旦、東海義易。 [花押] と い う 文 安 元 年 ︵一 四 四 四︶ 一 一 月 に 寒 巌 派 の 東 海 義 易 ︵? │ 一 四 九 七︶ が 書 き 残 し た 自 筆 の 中 世 文 書 が 残 さ れ て い る こ と であろう。義易は寒巌義尹│鉄山士安│東洲至遼│梅巌義東 │ 華 蔵 義 曇 │ 東 海 義 易 と 嗣 承 す る 室 町 後 期 の 曹 洞 禅 者 で あ り、妙厳寺にとって豊川稲荷信仰の基である観世音菩像と 咤枳尼天画像が在宋中の義尹に対して智愚が付与したもので あると代々伝えられて来た事実が知られる。義易がこの文書 を記したのは義尹が示寂して一世紀半近くを経ている。その 内容がどこまで史実を伝えているかは定かでないものの、義 尹が縁故の智愚を頼って浄慈寺から径山に掛搭し、引きつづ き智愚の信認を得ていた可能性はきわめて高いと見られる。
二七〇 虚堂智愚と南宋後期の曹洞宗︵佐 藤︶ い ま 一 つ 楊 岐 派 の 皖 山 正 凝 ︵止 凝、 一 一 九 一 │ 一 二 七 四︶ の 法 を 嗣 ぐ こ と に な る 蒙 山 徳 異 ︵古 筠 比 丘、 一 二 三 一 │?︶ が 径 山 に 到 っ て 智 愚 と 問 答 商 量 し て い る。 徳 異 と い え ば 徳 異 本 ﹃六 祖 壇 経﹄ を 校 勘 し た こ と で 名 高 く、 ﹃蒙 山 和 尚 六 道 普 説﹄ 一巻、 ﹃禅門撮要﹄巻上﹁蒙山法語﹂などが知られる。 ﹃増集 続伝燈録﹄巻四﹁松江澱山蒙山徳異禅師﹂ の章に、 参 二蘇 之 承 天 孤 蟾 瑩 一。 蟾 問、 亡 僧 遷 化 向 二甚 処 一 去。 師 罔 措。 発 参 究。 因 下首 座 入 堂、 墜 二 香 合 一 作 声 上、 豁 然 有 省。 乃 成 頌 曰、 没 興 路 頭 窮、 踏 翻 波 是 水、 超 羣 老 趙 州、 面 目 乃 如 此。 武 忠 呂 公 聞 之、 寄 頌 旌 美。 登 二 径 山 一、 謁 二 虚 堂 一 語 契。 然 師 未 二 以 此 自 足 一、 往参 二 皖山於鼓山 一。 ︵卍続蔵一四二・四一六 d︶ と記されており、徳異が径山に上山して智愚に参じたことは 知られていたわけであるが、記事内容はきわめて簡略であっ て徳異が智愚と交わした問答などは何も記されていない。 一方、高麗国に伝来した写本の﹃諸経撮要︿蒙山和尚語録 草稿﹀ ﹄ には冒頭に ﹁蒙山行実記﹂ が所収されており、 夏 終 如 浙、 依 二承 天 孤 蟾 瑩 一。 偶 罹 二 塞 疾 一、 蟾 躬 慰 之、 舉 古 以 驚 二 対 機 不 一 殊、 病 間 道 益 進。 次 因 蟾 問、 亡 僧 遷 化 向 二甚 処 一去。 師 罔 措、 発 堕 肢。 越 二 数 日 一、 坐 參 次、 第 一 坐 入 堂、 落 二香 合 一 作 声。 豁 然 大 悟、 頌 云、 没 興 路 頭 窮、 蹋 飜 波 是 水、 超 群 老 趙 州、 面 目 只 如 此。 京 湖 制 武 忠 呂 公、 旌 以 頌。 可 斎 李 公、 交 誉 之。 自 是 遍 二叩 叢 席 一。 時 湖 之 天 寧 雪 巌 欽、 思 渓 石 林 鞏、 浄 慈 石 帆 衍、 皆 入 室 衡 鶩。 直 趁 二 径 山 一、 謁 二 虚 堂 愚 一。 愚 拈 二瓶 楳 一 令 頌、 契 機 参 堂。 後 請 益、 五 祖 不 具 二三 縁 一而 生、 達 麼 葬 二熊 耳 一三 年 後 禺 二宋 雲 於 葱 嶺 一、 是 神 通 妙 用 耶、 工 夫 做 到 耶。 堂 云、 箇 亦 是 工 夫 辺 事。 師云、者工夫如何做。堂寄 之指見 二皖山 一、契心冥嚮。 とかなり詳しい動向が記されている。同じ﹃諸経撮要︿蒙山 和尚語録草稿﹀ ﹄ に所収される ﹁蒙山行蹟﹂ にも、 後 入 蜀。 年 三 十 三 疾 作 甚 苦。 因 誓 言、 疾 若 即 被 緇。 果 疾 、 飯 僧 即 薙 髪。 徃 依 二 承 天 蟾 一。 蟾 問、 亡 僧 遷 化 向 二 甚 処 一去。 師 罔 措。 数 日 夜、 因 第 一 座 落 二 香 合 一 作 声。 師 豁 然 大 悟 曰、 没 興 路 頭 穹、 蹋 翻 波 是 水、 超 群 老 趙 州、 面 目 只 如 此。 又 参 二 径 山 愚 一、 請 益 曰、 五 祖 不 具 二三 縁 一而 生、 達 摩 葬 二 熊 耳 一三 年 後 遇 二宋 雲 於 葱 嶺 一、 神 通 妙 用 耶、 工 夫 做 到 耶。 愚 云、 此 工 夫 辺 事。 師 云、 做 工 夫 如 何。愚指嘱 二皖山 一。 とあり、やはり徳異が径山の智愚と交わした問答が伝えられ る。 徳 異 は 瑞 陽 ︵江 西 省︶ 高 安 の 盧 氏 の 出 身 で、 早 く か ら 仏 道 を 慕 っ て い た が、 三 三 歳 の と き に 蜀 地 ︵四 川 省︶ で 生 死 に 関わる大病を患ったことを契機に出家している。まもなく蘇 州 呉 県 の 承 天 能 仁 禅 寺 に 赴 い て 真 歇 派 の 孤 蟾 如 瑩 に 参 学 し、 その後に径山の智愚のもとに投じている。如瑩は如浄の法嗣 であるから、無外義遠や日本の道元とは同門に当たる。石帆 惟衍が智愚の後席を継いで浄慈寺に遷住する際、これに交代 して如瑩が承天能仁寺に住持しているものと見られる。 如瑩は徳異の疾病の体験を踏まえて﹁亡僧、遷化して甚の 処に向かって去る﹂と迫っているが、このとき徳異は答えに
二七一 虚堂智愚と南宋後期の曹洞宗︵佐 藤︶ 躊 躇 し て い る。 数 日 後 の 夜、 第 一 座 ︵首 座︶ が 入 堂 し て 香 合 ︵香 箱︶ を 落 と し た 際、 そ の 音 を 聞 い て 徳 異 は 豁 然 と 大 悟 し た。すぐに徳異は﹁没興にも路頭窮まり、蹋翻すれば波は是 れ水なり。群を超ゆる老趙州、面目只だ此の如し﹂という偈 頌を詠じており、住持如瑩に呈したものであろう。その後に 徳 異 は 径 山 の 智 愚 に 参 じ て 問 答 を 交 わ す の で あ り、 ﹁蒙 山 行 実 記﹂ に よ れ ば、 如 瑩 の も と を 辞 し た 後、 徳 異 は 湖 州 ︵浙 江 省︶ 烏 程 県 の 天 寧 報 恩 光 孝 禅 寺 に 破 庵 派 の 雪 巌 祖 欽 に、 湖 州 帰 安 県 思 渓 の 法 宝 資 福 禅 寺 ︵円 覚 禅 院︶ に 松 源 派 の 石 林 行 鞏 ︵一 二 二 〇 │ 一 二 八 〇︶ に、 杭 州 浄 慈 寺 で 石 帆 惟 衍 に そ れ ぞ れ 参 学 し、 そ の 後 に 径 山 の 智 愚 に 謁 し て い る。 ﹁蒙 山 行 蹟﹂ と ﹃増 集 続 伝 燈 録﹄ で は 如 瑩 の も と か ら 直 ち に 径 山 の 智 愚 に 参 学したかのごとく伝えている。 径山に到った徳異に対して智愚は瓶楳にちなんで偈頌を作 らせており、徳異の詠じた偈頌を見て機が契って参堂を許し ている。径山に掛搭して後、徳異は請益の折に智愚に﹁五祖 は三縁を具せずして生まれ、達摩は熊耳に葬りて三年の後に 宋雲に葱嶺に遇う、神通妙用なりや、工夫做到なりや﹂と問 う て い る。 五 祖 弘 忍 ︵栽 松 道 者︶ が 三 縁 を 具 せ ず に 生 ま れ 変 わった故事、初祖菩提達磨が熊耳山に葬られて三年後、宋雲 が パ ミ ー ル 高 原 ︵葱 嶺︶ で 達 磨 に 遭 遇 し た﹁隻 履 達 磨﹂ の 故 事の真意を問い質している。徳異にとって生死の問題が如何 に切実であったかが窺われる。智愚は辦道工夫によって到達 すべき境地であることを示し、皖山正凝に参学して決着を求 むべきことを勧めている。 智愚の生涯を概観すると、真歇派と宏智派の曹洞禅者との 関わりに満ちており、当時の曹洞宗の実態を知る上でも﹃虚 堂録﹄などに載る記事は欠かすことができない。南宋後期に 智 愚 ほ ど 曹 洞 禅 者 と 関 わ り を 持 っ た 臨 済 禅 者 は 他 に お ら ず、 曹洞禅者たちも積極的に智愚と親しい道交を保とうとしてい る。果たして智愚は曹洞宗の何に引き付けられたのか。南宋 代の曹洞宗は道元によって日本に将来されているが、道元の 場合は曹洞宗意識を前面に出していない。南宋後期の曹洞禅 者らの実態は定かでなく、如浄と妙光以外の曹洞禅者は禅宗 燈史や僧伝に名すら載せられておらず、智愚の活動を通して 辛うじてその存在が確認される程度である。もちろん、智愚 が曹洞宗の法脈を受け継がず、臨済宗松源派の禅者として生 きた事実が最も重要であろう。 ︿キ ー ワ ー ド﹀ 虚 堂 智 愚、 虚 堂 和 尚 語 録、 曹 洞 宗、 真 歇 派、 宏 智 派、 長 翁 如 浄、 棘 林 杞、 短 遠、 東 谷 妙 光、 無 外 義 遠、 寒 巌 義 尹、 永 平 元 禅 師 語 録、 孤 蟾 如 瑩、 蒙 山徳異 ︵駒澤大学教授・文修︶