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2009年度政治学会研究会報告論文

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2009 年度政治学会研究会報告論文

A 「転換期の政党政治--歴史と現代」

戦前内閣の生存分析:議会・軍部との関係を中心に

福元健太郎(学習院大学)

First Name dot Last Name at gakushuin dot ac dot jp 村井良太(駒澤大学)

Last name at komazawa-u dot ac dot jp

要旨 本報告は、戦前日本の内閣の存続期間を決定づけた要因は何かとの問いに、新たに作成 した数量データに生存分析を適用することによって取り組む。その結果、議会が多くの内 閣提出法案を通すほど、陸相が過去に入閣した経験が長いほど、国務大臣の数が少ないほ ど、首相選定に関わった元老や重臣の数が多いほど、内閣は長続きすることが明らかにな った。軍部大臣(現役)武官制や政党内閣が内閣の寿命を縮めたとか、与党が衆議院に多 くの議席を占めるほど内閣が長期間支えられたとか、といった証拠は見いだされなかった。 以上から、戦前日本は超然内閣というよりも事実上の議院内閣制であったことが示唆され る。 謝辞 本研究は、日本学術振興会科学研究費補助金(課題番号20330023)による支援を受 けている。福元は、学習院大学計算機センター、同東洋文化研究所からも研究費を受けた。 以上の関係各位に謝意を表したい。 1

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はじめに 明治憲法体制が分権的でありながらも安定する上で、内閣がある程度存続することは重 要な点であった1。しかしまさに分権的であるが故に、内閣はどの政治主体に対応すればよ いのか、当時の政治においても、現在の研究においても、必ずしも明らかでない。制度的 には、(国務大臣を任命する)天皇の支持を別にすれば、(首相の権限が弱いことに起因 する)国務大臣の支持、(時期によって軍部大臣(現役)武官制度等に担保された)軍部 の支持が、内閣の存続には必要であった。しかしこうした制度装置が、現実政治で機能し たかどうかは、また別の問題である。状況をより複雑にしているのは、非制度的要因、あ るいは少なくとも直接には内閣の存廃に関わらない制度が、内閣の命運に影響している可 能性があることである。(首班を選定する)元老・重臣の支持、(法案成立に欠かせない) 帝国議会の支持、(これら政治エリートに影響する)社会・経済の好況もまた、内閣の事 実上の存立基盤であったかもしれない。中でも、内閣と議会との関係及び内閣と軍との関 係は、戦前日本の政治体制をどう見るかという問題に直結する。 まず、内閣が法的には議会に信任を負ってはいなくても、政治的には議会に依存するか 否かについては、学問的にも政治的にも2つの対立する見方があった。一方では、超然内 閣論に始まり、内閣は議会に左右されない(べきである)とする考え方があった2。実際に も議会は、戦後の内閣不信任決議のように、直接倒閣できる手段を持たない3。他方で、議 会に責任を負う責任内閣論に始まり、衆議院に基盤を持つ政党から大臣が出る政党内閣、 衆議院多数党が組閣する議院内閣制、といった系譜も連綿と続いてきた。第1次大隈内閣、 原内閣と順に水準を上げて、1920 年代の政党内閣期に頂点を迎える流れとして、戦前日本 政治史を描く見方がある4。ではどちらの見方が明治憲法体制という全体像を捉えているで あろうか。 次に、帷握上奏権や軍部大臣武官制などのため、内閣の政治生命は軍部の意向に左右さ れたと言われる5。確かに、第二次西園寺内閣や米内内閣のように、それが原因で総辞職し 1 こうした問題設定に立って、その答えを政党に求めたのが、三谷太一郎「政党内閣期の条 件」中村隆英・伊藤隆編『近代日本研究入門』(東京大学出版会、1977 年)、68-86 頁であ る。 2 このような大権政治論について、坂野潤治『近代日本の国家構想』(岩波書店、2009 年)、 162-210 頁。 3 このような点を重視すると、「明治憲法下の議会は国政上低い地位に置かれ、その権限は 小さかった」と評価される(三沢潤生・二宮三郎「帝国議会と政党」『日米関係史開戦に至 る十年(新装版) 3 巻』(東京大学出版会、2000 年)、5 頁)。 4 三谷太一郎『増補 日本政党政治の形成』(東京大学出版会、1995 年)、宮崎隆次「戦前 日本の政治発展と連合政治」篠原一『連合政治Ⅰ』(岩波書店、1984 年)。また、立憲国家 の確立を経て1920 年代の政党政治を肯定的に評価するものとして、伊藤之雄『政党政治と 天皇』(講談社、2002 年)を参照。 5 このような一般的な理解を生む研究成果の整理と批判について、筒井清忠『昭和十年代の 陸軍と政治』(岩波書店、2007 年)。 2

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たものもある。しかし他方で、宇垣一成陸相や加藤友三郎海相、財部彪海相のように、内 閣との協調を重視し、むしろ出身母体である軍内部の要求や反対を抑制することで、内閣 ひいては政体の安定を優先させた軍人もいた。では、内閣と軍部の接点に位置する軍部大 臣が、個別事例を超えて、全体的にはどちらを支持する傾向がより強かっただろうか。 こうした問いに対して、これまでの研究では、専ら政治史的アプローチが採用されてき た。これらの研究は多くの優れた知見をもたらしてきた。しかし、基本的には個別的な事 例を扱うだけに明治憲法体制をある角度から照射するものであり、全体像を掴むことは必 ずしも容易でなかったのではないだろうか。これに対して本稿は、戦前日本の内閣の存続 期間を決定づけた要因は何かとの問いに、新たに作成した数量データを統計分析すること によって取り組む。本報告が対象とするのは戦前の1885 年に内閣制度が発足し、1947 年の 日本国憲法施行までのすべての内閣、すなわち第一次伊藤内閣から第一次吉田内閣までの 45 内閣である。計量分析の利点は、全体的傾向を明らかにできることである。無論、政治 史学者からすれば例外を見いだすことはたやすいであろう。あるいは政治史学者は(過度 の)一般化や理論化には(学問的良心によって)消極的立場をとるかもしれない。しかし、 全体的傾向・一般化・理論化を全く意識しない政治史学者は、実際には希であろう。そう であれば、個別具体的な事例を布置する全体的な傾向を素描しておくことは、政治史学者 にも資するところがあると考える。イギリスの政治学者クリックは、「政治学なき歴史学に は果実がない。歴史学なき政治学には根がない」との格言を引いている6。本稿は、時に言 われる定性的分析と定量的分析の間の不幸な音信不通も不毛な相互批判も協働作業で乗り 越え、生産的で相互補完的な交流を企図している。 本稿の構成は次の通りである。第2節で、内閣の存続に影響した要因をいくつか理論的 に検討する。第3節で、計量分析を行う。まず離散時間の生存分析という方法を簡述する。 次に変数のデータについて詳述する。その上で結果を示す。最後に、その頑健性を確認す る。第4節で結びとする。 規定要因 内閣の存続期間に影響する要因にはどのようなものがあるか。従来の研究は、内閣がそ の存続を議会多数派の信任に負う(民主主義体制下の)議院内閣制を対象としてきた7。従 6 バーナード・クリック『現代政治学入門』(講談社学術文庫、2003 年)、172 頁。

7 以下の叙述で参照した先行研究として、Gary King, James Alt, Nancy Burns and Michael Laver. “A Unified Model of Cabinet Dissolution in Parliamentary Democracies,” American

Journal of Political Science, Vol. 34, No. 3 (1990), pp. 846-71、増山幹高「首相の辞任と支持率:

在任期間の生存分析」『公共選択の研究』37 号(2001 年)、14-24 頁、同「政権安定性と経 済変動:生存分析における時間変量的要因」『年報政治学』2002 年、231-45 頁、Mikitaka Masuyama, “The Survival of Prime Ministers and the House of Councillors,” Social Science Japan

Journal, Vol. 10, No. 1 (2007), pp. 81-93, Paul V. Warwick, Government Survival in Parliamentary Democracies (Cambridge, UK: Cambridge University Press, 1994)。

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って、与党の議席率、あるいはそれに選挙を通じて影響する経済状況が、内閣の存続期間 に影響することが確かめられている。本稿が対象とする戦前日本は、少なくとも制度的に は議院内閣制を採用していない。しかしだからと言って、内閣は議会や市場から無縁であ り得たのだろうか。また制度的に内閣の存続に拒否権を持っていたのは、国務大臣と軍部 であった。では彼らの脅しは実際にどの程度効果を持ったのだろうか。さらに事実上首相 を選定したのは元老や重臣たちだが、彼らは内閣の存続にはどれほど影響力を発揮したの だろうか。本節ではこうした要因について検討する。 内閣の一体性 戦後先進国では、閣内のイデオロギー距離が小さいほど、内閣の存続期間が長くなるこ とが先行研究から知られるように、内閣の一体性はその安定に寄与する8。ところが、大日 本帝国憲法(以下、明治憲法)は明文で内閣ないし内閣総理大臣について規定することな く、国務各大臣の補弼責任について述べるに止まる。そして同じく1889 年に定められた内 閣官制は内閣総理大臣の職権を「行政各部ノ統一ヲ保持ス」と規定し、先の内閣職権(1885 年)での「統督」という文言は弱められた。首相のリーダーシップに枠をはめるこの制度 改変により、首相は大宰相から同輩者中の第一人者となったのである9。そのため、閣内不 統一が生じた場合、首相は閣僚を罷免できず、内閣は総辞職する他なかった。従って各国 務大臣には事実上の拒否権があったと言える(目立った事例としては、第四次伊藤内閣の 渡辺国武蔵相、第二次若槻内閣の安達謙蔵内相などが挙げられよう)。一般的に、拒否権プ レーヤーの数が多い場合、内閣は崩壊する可能性が高くなる10。ここから、国務大臣の数が 多い内閣ほど、長続きしなかったと考えられる。 首相選定者(元老・重臣) 内閣総理大臣の任命は制度上天皇の大権であったが、実質的に決定していたのは、元老・ 重臣などの有力政治家である。元老は憲法に規定されることなく慣例として1898 年までに 形成された天皇の最高助言者たちで、後継首相の選定など重要な国務について諮問を受け、 分立的な明治立憲制を国益にそって統合的に運用する助けとなるよう期待された。議論な く認められる黒田清隆、伊藤博文、山県有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌、西 園寺公望の 8 人に加えて、論者によっては桂太郎、大隈重信が挙げられる11。元老は 1924 8戦前日本でも同様の問題意識として、三谷前掲『増補 日本政党政治の形成』を参照。 9五百旗頭真『秩序変革期の日本の選択』(PHP 研究所、1991 年)150-157 頁。御厨貴『明治 国家の完成』(中央公論新社、2001 年)166 頁。

10 George Tsebelis, Veto Players: How Political Institutions Work (Princeton: Princeton University Press, 2002), ch. 9.

11伊藤之雄「元老制度再考」『史林』77 巻 1 号(1994 年)。さらに、伊藤之雄「元老の形成 と変遷に関する若干の考察」『史林』60 巻 2 号(1977 年)、山本四郎『元老』(静山社、1986 年)を参照。

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年以降西園寺ただ一人となったが、それを機に内大臣が選定に加えられた。さらに、満州 事変と五・一五事件に代表される1930 年代初頭の内外危機を受けて、首相選定に新たに枢 密院議長や元首相が加えられ、重臣と呼ばれるようになった(なお歴史的用語としての重 臣とは、一般に、内大臣とは区別され、1930 年代からの新たな選定参加者を指すが、ここ では内大臣や明治期の参加者も含め、元老以外の首相選定者を重臣とする)。 元老は、内閣存続にとって正負双方の影響があると考えられてきた。一方で、首相の権 力が弱く憲法諸機関が分立的である明治憲法体制の下で、元老はその不可欠の統合的機能 を果たしたと理解される12。同時代的にも、伊藤博文亡き後、元老の中心的存在となった山 県有朋は、「政権の授受は円満でなければならぬ。而して出来上つた内閣は永く続かせる といふ事でなければならぬから、矢張挙国一致内閣が宜いに相違はない」と述べており、 成立した内閣の存続を基本的に志向していたことがうかがわれる13。また 1934 年の岡田内 閣成立時に重臣として参画した若槻元首相は当時民政党総裁でもあったが、岡田案に「至 極結構です」と同意したところ、元老西園寺から、「至極結構だけではいかん。岡田の内閣 を助けるという考えか」と問われ、「援助します」と答えたと回想している14。 しかし他方で、元老は必ずしも「元老らしい」行動を採るとは見なされず(第一次西園 寺内閣では元老による倒閣の策謀があったといわれる15)、また、憲法上の存在でもないこ とから同時代的に強い批判を受けた。明治立憲制下の二大政党制を模索した加藤高明は脱 元老政治を目指し、政治史学者吉野作造は最後の元老西園寺公望が元老を無用化している と考え、評価した16。 また重臣が権威や能力において果たして元老に比肩し得るかも問題である。これは、元 老が失われていく中、政変時の「御下問範囲拡張問題」として議論された。元老西園寺と 平田東助内大臣が元老の再生産に否定的であった一因には、原敬亡き後、元老の役割を引 き継ぐことのできる人材がいないとの考えがあった17。これに対し、平田を継いだ牧野伸顕 内大臣は、明治立憲制における有力者の役割(人格的統治)を期待し、岡田内閣選定時の 重臣会議を「元老会議の役目を果たす機関」と見なした18。 12 端的な例として、中村隆英は「山県有朋らの元老が死んだ後、もはや政党、軍部、官僚 らを統一してリーダーシップをとるものは、制度的にはもちろん個人としても存在しなく なっていた」と述べている(『昭和恐慌と経済政策』講談社学術文庫、1994 年、210 頁)。 また、五百旗頭前掲『秩序変革期の日本の選択』も参照。 13 岡義武・林茂校訂『大正デモクラシー期の政治』(岩波書店、1959 年、以下、『松本日誌』 と呼ぶ)、23 頁、1918 年 9 月 8 日。 14 若槻礼次郎『明治・大正・昭和政界秘史』(講談社学術文庫、1983 年)354 頁。 15 古屋哲夫「第一二代第一次西園寺内閣」林茂・辻清明編『日本内閣史録 2 巻』(第一法 規、1981 年)、46-49 頁。 16 奈良岡聰智『加藤高明と政党政治』(山川出版社、2006 年)、吉野作造『吉野作造選集 4』 (岩波書店、1996 年)。 17 前掲『松本日誌』330 頁。 18 牧野伸顕『牧野伸顕日記』(中央公論社、1990 年)、638 頁。また、村井良太「政党内閣 制とアジア太平洋戦争」杉田米行編『アジア太平洋戦争の意義』(三和書籍、2005 年)も参 5

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本稿は、首相選定に参画した元老あるいは重臣が多い内閣ほど、後で倒閣に走る実力者 が少なく、より長続きすると考える。 議会 先行研究によれば、議院内閣制においては、多数内閣であるほど、あるいは与党の議席 率が多いほど、内閣の存続期間は長くなる。ところで明治憲法は、内閣の存続を立法府の 信任に委ねる議院内閣制を採用していない。しかし内閣が提出した法律が成立するために は、立法府がこれを可決することが必要だとした。立法府における政権上の多数派と立法 上の多数派を区別するならば19、戦前の内閣は、前者は要らなかったが、後者は不可欠だっ たのである。してみれば、法律を通して政策を遂行できない内閣は、結局行き詰まり、早 晩倒壊を余儀なくされたと考えられる。もしこの予想が正しければ、与党議席率は内閣の 存続期間に影響しないが、閣法成立率が高い内閣ほど、長続きするはずである。 また衆議院に実際上の責任を負い、事実上の議院内閣制を志向した政党内閣が、実際に は短命で不安定であったという見方がある。すなわち、第一次大隈内閣、第四次伊藤内閣 はいずれも短命であった。そして、閣僚のほとんどを政党員で占めるという純度の高い政 党内閣としては原内閣を重要な例外として、1920 年代の政党内閣も安定的な政権を担うこ とができず、内部崩壊や政党不信によってその後の凋落に寄与したとされるのである20。そ こでこうした主張の適否についても検討する。 軍部 軍部は、軍部大臣(現役)武官制により、軍部大臣を引き上げることで倒閣する権力が 制度的に保証されている、拒否権プレーヤーであった。そのため内閣の政治生命は軍部の 意向に左右されたと言われる21。軍部大臣が、国務大臣としての立場を尊重すれば内閣は盤 石になろうし、軍部としての立場を重視すれば内閣は脆弱になろう。軍部大臣の内閣に対 するコミットメントの度合いを示すものとして本稿が着目するのは、軍部大臣の過去の入 閣経験である。政治経験を積んだ軍人ほど、軍部だけではなく広く国政全般に目を配り、 軍部が内閣に不満を持ったとしてもかえってこれを抑え、内閣は存続するだろう。あるい は内閣の姿勢に軍が基本的に賛成であるほど、自ら望む政策を展開するために実力者を送 り込み、積極的に内閣を存続させようとするだろう。 特に長期にわたり軍部大臣にあった者を挙げれば、陸相では、大山巌(1885 年 12 月 22 照。

19 Michael Laver and Norman Schofield, Multiparty Government: The Politics of Coalition in

Europe (Oxford: Oxford University Press. 1990).

20 例えば、粟谷憲太郎『昭和の政党』(岩波書店、2007 年)。

21 このような一般的な理解を生む研究成果の整理と批判について、筒井清忠『昭和十年代 の陸軍と政治』(岩波書店、2007 年)。

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日~1891 年 5 月 17 日、1892 年 8 月 8 日~1896 年 9 月 20 日の 114 ヶ月)、寺内正毅(1902 年3 月 27 日~1911 年 8 月 30 日の 113 ヶ月)、海相では、西郷従道(1885 年 12 月 22 日~ 1890 年 5 月 17 日、1893 年 3 月 11 日~1898 年 11 月 8 日の 121 ヶ月の他、内相としても入 閣)、斉藤実(1906 年 1 月 7 日~1914 年 4 月 16 日の 99 ヶ月)、山本権兵衛(1898 年 11 月8 日~1906 年 1 月 7 日の 86 ヶ月)、加藤友三郎(1915 年 8 月 10 日~1922 年 6 月 12 日 の82 ヶ月、さらに首相と兼任で 11 ヶ月)がある。彼らは、いずれも後に首相ないし元老 になっていることからしても、相当の政治力を有していたことがうかがわれる22。 経済指標 戦後先進国では、物価上昇率や失業率変化が大きいと内閣の存続期間は短くなるという のが先行研究の知見である。戦後日本でも、物価上昇率が低いほど、内閣支持率がリスク を減らす(存続を長くする)効果が大きくなることが分かっている。戦前日本についても、 経済状況が良いほど、政治エリート・経済エリートが倒閣に走る誘因が少なくなるから、 内閣は存続しやすくなると考えられる。 分析 方法 本稿は、各月1日の時点で存在した内閣が、月末まで存続したか崩壊したか(これを被 説明変数と呼ぶ)に、上記で挙げた規定要因(これらを説明変数と呼ぶ)が影響したか否 かを分析する。言い換えると、各月の内閣が崩壊する確率をリスクと呼ぶならば、各説明 変数がリスクを上げるのか、下げるのか、どちらでもないのかを明らかにする。やや注意 を要するのは、ある説明変数が内閣崩壊リスクを上げるならば内閣の存続期間は短くなる という具合に、リスクと存続期間に対する説明変数の影響(あるいは分析の係数)の正負 が逆になることである。こうした分析方法は離散時間の生存分析と言われるが、実際に統 計ソフトで行うのはロジスティック回帰分析である23。 22 フランス第3共和制や戦後イタリアで激しく入れ替わった連合政権でも、「重要閣僚は政 権の交替にかかわらずポストに止まることも多かった」。中山洋平「フランス」小川有美他 『EU諸国』(自由国民社、1999 年)、235 頁、馬場康雄「"歴史的妥協"か"権力掌握"か:第 二次大戦後のイタリア」篠原一『連合政治Ⅱ』(岩波書店、1984 年)、1-66 頁。 23 内閣存続期間を被説明変数にして通常の回帰分析などをしない理由は、説明変数の中 に月単位で変わる(時間変量)変数を含むためと(これは連続時間の生存分析をしない理 由でもある)、後述する様に首相の自然死による内閣の終焉という通常とは違った内閣の打 ち切りがあるためである。 ロジスティック回帰分析は、内閣崩壊リスクを p と置いた時に、説明変数を X1,X2,…Xn 7

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データ 観測単位は、各月1日における内閣である。以下、各変数の定義などを説明する。 内閣終焉ダミー(被説明変数) 当該月に内閣が終焉すれば1、存続すれば0となるダミ ー変数24。清浦内閣を例として説明しよう(表1)。1924 年 1 月 7 日に発足する同内閣が最 初にデータに現れるのは1924 年 2 月分であり(1924 年 1 月分には同月 1 日に存在した第2 次山本内閣が入る)、月末まで内閣は存続しているから内閣終焉ダミーは0 である。同年 6 月11 日に清浦は辞任するので、同内閣が最後にデータに現れるのは 1924 年 6 月分であり、 内閣終焉ダミーは 1 となる。それまでは内閣終焉ダミーは全て 0 である。なお首相の(他 とすれば log(p/(1-p))=a + b1X1 + b2X2 + … + bnXn となるような定数項a と係数 b1, b2, …, bnを推定する。biが正であればXiが大きいほどp も 大きい、従って内閣が終焉しやすくなる(長続きしない)ことを意味し、逆に biが負であ ればXiが大きいほどp は小さい、すなわち内閣が終焉しにくくなる(長続きする)ことを 意味する。但しこれらのことは、biが5%水準で統計的に有意でないと、言えなくなってし まう。また同じ内閣が何度もデータに登場するので、省略変数に対応するため、内閣をク ラスターの単位とした頑健標準誤差を報告する。なお本稿で用いた統計ソフトはSTATA/SE 9.2 for Windows である。 離散時間の生存分析とロジスティック回帰分析が等価である点を中心に、こうした分析 手法については、Nataniel Beck, Jonathan N. Katz, and Richard Tucker, “Taking Time Seriously: Time-Series-Cross-Section Analysis with a Binary Dependent Variable,” American Journal of

Political Science, Vol. 42 (1998), No. 4, pp. 1260-88、福元健太郎『立法の制度と過程』(木鐸

社、2007 年)、第2章補論、伊藤修一郎『自治体政策過程の動態 政策イノベーションと 波及』(慶應義塾大学出版会、2002 年)、増山幹高『議会制度と日本政治 議事運営の計 量政治学』(木鐸社、2003 年)を参照。 24内閣の開始と終焉の時点は、内閣総理大臣の就任日と退任日とし、内閣制度百年史編纂委 員会『内閣制度百年史 下巻』(大蔵省印刷局、1985 年)、第三部Ⅱ「歴代内閣一覧」、に拠 る。同書に内閣総辞職という表現はない(内閣の交替時にすべての閣僚が交代したのは1892 年が初めてのことである(御厨貴『明治国家の完成』(中央公論新社、2001 年)、264 頁))。 また、内閣総理大臣と退任日と次の内閣総理大臣の就任日は必ずしも重ならない(前者が 死去した場合など)。両者に挟まれた期間は他の国務大臣等が内閣総理大臣を(臨時)兼任 するが、その長さは一般的に次期首班を決めるのにかかる時間であって、本稿が分析する 内閣の生存期間とは性質を異にするので、分析の対象としない。蓋し、本稿が関心を寄せ るのは、内閣の実質的な生存期間であって、形式的なそれではないからである。従って内 閣総理大臣が退任した翌月一日までに次の内閣総理大臣が就任しないと、その月はデータ に現れない(具体的には、第1次山県内閣(2ヶ月)、第2次松方内閣、第1次桂内閣、第 2次山本内閣の発足時が該当する)。以上より、1886 年1月から 1947 年5月までの 737 ヶ 月間のうち、5ヶ月が欠損しているので、観測数は732 である。 8

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殺でない自然)死によって内閣が崩壊する場合は、内閣終焉ダミーを 0 とする。蓋し自然 死の原因は、内閣の終焉に影響する要因とは異なると考えられるからである25。 <表1このあたり> 月齢 当該内閣が当該月までにデータに登場した回数。例として表1を再び使えば、清浦 内閣が最初に現れる1924 年 2 月の月齢は 1 ヶ月であり、月齢 5 ヶ月で倒壊する。生存分析 では、存続期間がリスクに与える影響を勘案することが多いので、本稿でも内閣の月齢を そのまま説明変数として用いる。 国務大臣数 当該月の国務大臣の数26。 首相選定元老数 当該内閣の首相選定に参画した元老の人数(表2)27。 <表2このあたり> 首相選定重臣数 当該内閣の首相選定に参画した元老以外の有力政治家の人数(表2)。 与党議席率 衆議院において与党が占める議席の百分率。与党は、当該月に国務大臣を輩 出している会派とした28。 閣法成立率 当該月に開かれている帝国議会に内閣が提出した法律案が成立した百分率29。 25 具体的には加藤(友)、加藤(高)の死去を終焉扱いとしない(原と犬養の政治テロによ る殺害は終焉扱いとする)。この場合、総理の死をもって内閣がデータに現れるのは(内閣 終焉ダミーが全て0 のまま)終わりとなる(生存分析で打ち切りと言われる)。 26 内閣制度百年史編纂委員会前掲『内閣制度百年史』「歴代内閣一覧」に拠る。但し、そ こに掲載されている、内閣書記官長、法制局長官、内閣副書記官長は、国務大臣ではない ので数えない。班列は数えた。月ごとの実員数で、兼任、臨時代理、臨時兼任、事務管理 は数えない。 27元老には桂、大隈を含まない。首相選定者(元老・重臣)数について、第一次伊藤内閣か ら第三次桂内閣までは伊藤前掲「元老制度再考」表1(5 頁)、続いて加藤(友)内閣まで は伊藤前掲「元老の形成と変遷に関する若干の考察」図表1(74-75 頁)、続いて斎藤内閣ま では村井良太『政党内閣制の成立一九一八~二七年』(有斐閣、2005 年)、表 2(302 頁)を 用い、その後は百瀬前掲『事典昭和戦前期の日本』表二―1(20-23 頁)を参照した。 28 国務大臣の出身会派は、日本史広辞典編纂委員会編『日本史要覧』(山川出版社、2000 年)、148-155 頁、に拠り、議席数は、衆議院・参議院編『議会制度百年史 院内会派編衆 議院の部』(大蔵省印刷局、1990 年)に拠る。無所属は含まない。各月1日時点で、開会中 なら当該月が属している議会の開院式当日各会派所属議員数、閉会中なら直前の議会の会 期終了日ないし解散当日各会派所属議員数を用いた。但し、総選挙から議会開会までの間 なら、総選挙結果一覧にある当選者数を使った。上記時点に遡ると与党会派がまだ存在し ない場合は、国務大臣が上記時点で所属していた会派を参照した。以上より、この変数の 値は、議会の開会・閉会、総選挙、与党の変更の度に変わる。 29 衆議院・参議院編『議会制度七十年史 帝国議会議案件名録』(大蔵省印刷局、1961 年) から著者が計算した。厳密には、例えば12 月末から3月末まで開かれる通常議会で、3月 1日まででも最終的な閣法成立率は不明であるが、会期全体を通じた議会の内閣に対する 政治的支持の度合いを計測していると考えた。なお議会閉会中は0 になる。また議会の開 会中に内閣が交替すると(7回ある)、法案を提出した内閣が当該月の内閣ではなくなる。 なお、酒田正敏「帝国議会の『立法権』行使の時系列的変化について」有馬学・三谷博編 『近代日本の政治構造』(吉川弘文館、1993 年)、20-65 頁、にグラフが掲載されている。 9

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政党内閣ダミー 当該内閣成立時に、首相が政党員であれば1、そうでなければ0となる ダミー変数30。 陸相入閣月数 当該月の陸軍大臣が当該内閣より前の内閣で国務大臣であった月数31。 海相入閣月数 陸相入閣月数の定義のうち、陸軍大臣を海軍大臣に変えたもの。 軍部大臣武官制ダミー 少なくとも一方の軍部大臣が武官である必要がある月を1、それ 以外を0とするダミー変数32。 農業成長率 農業生産指数が前年から増加した百分率。国民総生産など他の代表的経済指 標のいくつかは、全期間を通じて値を入手することができないため用いなかった33。 結果 ロジスティック回帰分析の結果は表3の通りである。有意確率が 0.05 より小さい説明変 数の係数は「(5%水準で)有意である」と言い、統計的に信頼できる値として採用される。 但し係数は解釈が困難なので、次のようなシミュレーションの結果も報告した。まず各説 明変数が平均値(表の左から4列目)に等しい場合(基準時)、内閣の標準的な存続期間は 19 ヶ月になる(6列目)34。次に1つの説明変数だけ平均値に1標準偏差加えた値(5列 目)に変えて他の説明変数は基準時のままの場合(変化時)、内閣の標準的な存続期間がい 30 日本史広辞典編纂委員会編前掲『日本史要覧』、148-155 頁、に拠る。 31 内閣制度百年史編纂委員会前掲『内閣制度百年史』「歴代内閣一覧」に拠る。前の内閣 における国務大臣は陸軍大臣に限らない。但し当該内閣から一旦出た後に再入閣した場合 は、当該内閣において再入閣前に国務大臣であった月数を含む。他の国務大臣との兼任、 臨時代理、臨時兼任、事務管理は対象としない。但し専任の陸軍大臣がいない時の兼任は 対象とする(第二次松方内閣の高島拓殖務相及び東条首相が陸相を、(後述する海相入閣月 数については)加藤(友)首相が海相を兼任した場合が該当する。なお同書で、拓殖務省 廃止後の高島が陸相専任となっていない点は誤りなので、訂正した(秦郁彦編『日本陸海 軍総合事典 第2版』(東京大学出版会、2005 年)、95 頁)))。なお、三宅一郎「日本内閣 の政治・社会的構成」『人文学報』20 号(1964 年)、213-32 頁は、内閣閣僚中の新人割合を 検討している。 32 具体的には 1886 年 2 月までと、1890 年 8 月~1900 年 5 月までが 0 で、他の月は1とな る。典拠は、百瀬前掲『事典昭和戦前期の日本』、岩波書店編集部編『近代日本総合年表 第 三版』(岩波書店、1991 年)である。 33 三輪良一・原朗編『近現代日本経済史要覧』(東京大学出版会、2007 年、2-5 頁)「主要 経済指標」の(7)列から著者が計算した。なおこれは年次データなので、同一年の12 ヶ 月に同じ数値が入る。 34 4列目より右は、小数点以下を四捨五入した。ここで言う標準的な存続期間とは、正確 には内閣が存続する確率が半分となる月数である(存続期間の中央値と言ってもよい)。 10

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くらになるかを7列目に記した35。 <表3このあたり> まず国務大臣の係数は有意に正であるから、理論通り、拒否権を持つ国務大臣の数が多 いほど、リスクは高まり、存続期間は短くなることがわかる。国務大臣の数が11 人(例え ば第二次山本内閣から田中内閣までの多くの期間)から13 人(例えば浜口内閣から第一次 近衛内閣まで)に変わるだけで、内閣の標準的な存続期間は19 ヶ月から 13 ヶ月に減る。 次に、首相選定元老数も首相選定重臣数も係数は有意に負であるから、予想したように、 首相選定に参画していた人数が多いと有意にリスクを減らし、存続期間を延ばす結果とな った。シミュレーションによれば、首相選定に携わった元老が3人(第一次山本、原、高 橋の各内閣)でなく5人(第一次伊藤、第一次松方、第一次山県、第一次桂の各内閣)に なると、あるいは首相選定に携わった重臣が2人(例えば阿部内閣)でなく5人(岡田内 閣は6人)になると、いずれであっても内閣の標準的な存続期間は19 ヶ月から 27 ヶ月に 増える。このように内閣の存続という点に限れば、元老に代わる重臣は必要かつ補充可能 であったわけで、先に見た西園寺の懸念は杞憂であり、牧野内大臣の見通しが正しかった ことが示唆される。 議会との関係では、閣法成立率が負に有意であるだけで、与党議席率は有意でなかった。 つまり閣法成立率が高いほど、リスクは小さく、存続期間は長くなる。内閣が自らの存廃 ではなく閣法の成否だけを議会に依存している明治憲法体制の特徴と整合的な結果と言え よう。例えば、閣法成立率が26%(第 35 回議会(1914 年 12 月、第2次大隈内閣)は 27%) から67%(第1次桂内閣が最初に迎えた 1902 年の第 16 回通常議会は 75%)に改善すると、 標準的な存続期間は19 ヶ月から 24 ヶ月に延びる36。また政党内閣ダミーは10%水準なら有 意に負であり、敢えて言うなら政党内閣の方が官僚内閣よりも長続きする(標準的な存続 期間はそれぞれ29 ヶ月と 19 ヶ月である)。 軍部との関係では、陸相入閣月数が有意に負であり、海相入閣月数や軍部大臣武官制ダ ミーは有意でなかった。すなわち、陸相が過去に入閣していた月数が多いほど、リスクは 小さく、存続期間は長くなる。陸相入閣月数が16 ヶ月(小磯内閣の杉山陸相と同じ)から 40 ヶ月(浜口内閣の宇垣陸相は 39 ヶ月)に増えると、標準的な存続期間は 19 ヶ月から 23 ヶ月に延びる。また軍部大臣武官制があるからと言って、軍部が内閣の生殺与奪を握って いるとは言い切れない。 社会との関係では、農業成長率は有意でなかった。 最後に月齢の係数は有意に正であり、月齢が経つほど内閣は存続しにくくなることを意 味する。人間で言えば、乳幼児のように成長するほどリスクが減るのではなく、青年のよ うに年齢とリスクが無関係なのでもなく、高齢者のように齢を重ねるほどリスクが高まる 35 標準偏差とは、説明変数が平均値からどれくらい離れているのが普通かを表す値である。 また変化時の軍部大臣武官制ダミーは0とした。 36閣法成立率の平均値がこれほど低いのは、閉会中に0 となるためである。 11

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ということである。内閣発足のハネムーン期は、政治エリートが様子見であるのに対して、 時が経つにつれて、倒閣要因が積み重なっていくと考えられる。図1は、ある月齢まで内 閣が存続している確率を示したものである(太い実線)。参考までに、月齢の係数が0であ る場合(細い実線)と、絶対値は同じまま符号だけが負になった場合(細い点線)も示し た。月齢の係数が正であると、急速に内閣が崩壊していくことがわかる。 <図1このあたり> 頑健性 説明変数を変えた場合 以上の分析結果に対しては、本稿とは異なる変数を設定すれば結果が変わる(特に有意 でなかった要因が有意になる)のではないかという批判があり得る。しかし、90 近くの代 替的変数に差し替えた分析を行ってみても、多くの場合は有意ではなく、仮に有意な場合 でも、説明変数の組み合わせを少し変えるだけで有意でなくなった(このことを以下では 「頑健に有意ではない」と表現する)。以下では、疑義が予想される主なものについてのみ 報告しておく。 首相選定者(元老・重臣)数ではなく、各月に存在した元老の数に差し替えてみたが、 有意ではなかった。 閣法成立率は、閉会中は0 になるので、成立率というよりは議会が開いているか否かの 効果を捉えている可能性もある。そこで、議会開会中なら1、そうでなければ0とするダ ミー変数を用いると、有意でない。この他、選挙からの経過時間や有効政党数も検討した が、有意でなかった。 軍部の影響については、軍人が国務大臣に占める割合に関する様々な指標を検討したが、 多くの場合有意ではなく、仮に有意であっても解釈が難しいものが多かった37。また軍部大 臣が単に武官である必要があったか否かだけではなく、現役の武官である必要があったか 否かの効果も調べたが、有意ではなかった。その他、軍部大臣が中将でなく大将であるこ との効果、予算に占める軍事費の割合、兵員数、戦時であることの影響、なども検討した が、有意なものはなかった。 経済指標については、農業成長率以外のものを用いても有意な結果は得られなかった。 全期間を通じては値が入手できないものについても、入手可能期間だけに絞ったり、内挿 や外挿などにより値を補充したりして分析を試みたが、頑健に有意ではなかった38。史実を 振り返っても、例えば寺内正毅内閣総辞職の契機となった米騒動の背景には大戦末期の経 37 永井和『近代日本の軍部と政治』(思文閣出版、1993 年)、96-99 頁、の数値を用いた。 例えば、現役でない軍人が軍部大臣以外の国務大臣に占める割合(同書に言う実人数のM) は有意だが、何故他のほとんどの指標が有意でなくこれだけ有意なのかは、説明が困難で ある。 38 三和・原前掲『近現代日本経済史要覧』「主要経済指標」。 12

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済社会状況があり、台湾銀行救済緊急勅令案を枢密院に否決された第一次若槻内閣総辞職 の背景にも金融危機という経済問題があった。しかしいずれも運動や枢密院といったより 直接的な原因があるように、政変原因は経済的というよりは政治的なものとして説明され てきた39。本稿の分析でも、経済が内閣の存続へ影響した形跡が認められなかったのは、こ うした認識を裏書きするものと言えよう。 月齢は、対数をとっても有意である。また3次までの多項式も調べてみたが、有意でな くなる。 その他にも、軍部出身、政党出身、衆議院議員、貴族院議員の国務大臣の割合や、全閣 僚の入閣月数平均値なども分析したが、いずれも(頑健に)有意ではなかった40。 以上とは逆に、表3の結果は、説明変数の組み合わせをいろいろ変えても、多くの場合 は有意であり、頑健であった(但し、首相選定元老数と陸相入閣月数は、頑健に有意とは 言えない)。 時期による違い 時期による違いがあったのではないかという指摘もあり得るだろう。そこで2通りの確 認を行った。1つは、説明変数と通算時間(西暦年×12+月)との交差項を入れたモデルを 説明変数毎に作成して、計10 本のモデルを推計したところ、2つ有意な場合があった。1 つは与党議席率と通算時間の交差項が負であった。与党議席率の係数は当初より負である が、時期を追ってどんどん小さくなる。つまり、与党議席率が大きいほど政権は長続きす るのだが、その関係は後になるほど強まるということである。もう1つは農業成長率と通 算時間の交差項が負であった。より具体的には、1917 年までは農業が成長するほど政権は 短命に終わり、1918 年からは農業が成長するほど政権は長続きする。このように時期によ って影響の方向が正反対なので、全体をならすと有意でなくなるのかもしれない。その他 の説明変数と通算時間との交差項は有意でなかった。 もう1つはデータを対象期間の中央で分け、1916 年 10 月までのデータとその後のデータ それぞれについて、表3と同じ分析を行った。後半データについては、政党内閣ダミーが 有意に負になり、陸相入閣月数が有意でなくなった他は同じ趣旨の結果が得られた。しか し前半データについては、月齢が有意に留まるだけで、他の変数は全て有意でなかった。 以上から、表3の結果は、明治憲法体制が定着した大正期以降の動態に限られる可能性が あることを留保しておく。 39 三和良一『概説日本経済史近現代 第二版』(東京大学出版会、2002 年)、中村前掲『昭 和恐慌と経済政策』等を参照。 40 官僚出身の分析も検討したが、操作的な定義が困難であるため行わなかった。これは計 量分析の限界というより、そもそも官僚派という概念自体が曖昧なことであることに起因 する。もっとも、政党出身でも軍部出身でもない者がおおよそ官僚出身と考えれば、官僚 出身も有意でないと予想される。なお、三宅前掲「日本内閣の政治・社会的構成」は、大 臣就任前について任命による政治職の一覧表を計算するなどしており、参考になる。 13

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おわりに 政治史の計量分析という学際的アプローチによって、戦前日本の政治体制像の何が明ら かにされたか。本稿の分析結果には二つの要素が含まれている。一つは明治立憲制のメカ ニズムを示すものである。明治憲法は柔軟で運用に幅のある憲法であり、超然内閣も議院 内閣制的な政党内閣も合憲的に包み込んでいた。しかし実際には、内閣自体が脆弱である 中で、立憲政治を導入した以上不可避と意識された通り、立法の多寡に内閣の生存が依存 していた。それは議会から超然とした内閣という形式的な位置づけとは異なり、内閣が帝 国議会に実質的に責任を負っていた事実上の議院内閣制であったことを示すものである。 さらに往々にして内閣の不安定性の元凶と名指しされることの多い軍部(特に軍部大臣(現 役)武官制)が、全体的傾向としては議会ほど内閣の生殺与奪の権を握っている訳ではな いことも明らかになった。 しかしその一方で、このようなメカニズムは自己完結しておらず、戦前日本政治の全体 的傾向として、首相選定者の数が多い方が内閣の存続に有利であり、陸相の過去の入閣経 験が内閣存続に有意義であったように、個人的な調整を意義あらしめるものであった。閣 法を通すにも衆議院と貴族院の両院があり、議会乗り切りのためには時に元老や天皇の助 力を必要とした41。その上で、元老に限らず重臣の首相選定者数も内閣の存続を左右してい たという結果は、元老と重臣など他の選定参加者との間に能力的な差違がなかったか、も しくは(そうとも考えにくいことから言えば)個人の能力以上に構造化された権力であっ たことをうかがわせる。 このような戦前日本の政治体制における制度的統治と属人的統治の必然的融合という特 徴は、大枠としては政治史研究ですでに明らかにされてきたところである。しかし、議会 と軍部、内閣不信任権と立法権、陸軍と海軍、元老と重臣などの影響力の異同は、あらた めて定量的な研究によって明らかにされたと言えよう。 41 また、閣法成立率が高いほど内閣の存続しやすくなるのに対して、衆議院における与党 議席率が生存と無関係であったことは両院の基本的対等を特徴とした明治立憲制に忠実な 結果であるといえよう。 14

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表1 データの例 年 月 内閣 月 齢 終 焉 閣 僚 数 元 老 数 重 臣 数 議 席 率 議 会 回 次 閣法 政 党 内 閣 陸 相 海 相 農 業 成 長 1923 12 山本 3 0 11 2 0 9.7 48 0.0 0 33 4 -5.7 1924 1 山本 4 1 10 2 0 9.3 48 0.0 0 33 4 2.4 1924 2 清浦 1 0 11 2 0 0.0 0 0.0 0 0 0 2.4 1924 3 清浦 2 0 11 2 0 0.0 0 0.0 0 0 0 2.4 1924 4 清浦 3 0 11 2 0 0.0 0 0.0 0 0 0 2.4 1924 5 清浦 4 0 11 2 0 0.0 0 0.0 0 0 0 2.4 1924 6 清浦 5 1 11 2 0 0.0 49 96.0 0 0 0 2.4 1924 7 加藤 1 0 11 1 1 61.4 49 96.0 1 5 8 2.4 1924 8 加藤 2 0 11 1 1 61.2 0 0.0 1 5 8 2.4 1924 9 加藤 3 0 11 1 1 61.2 0 0.0 1 5 8 2.4 1924 10 加藤 4 0 11 1 1 61.2 0 0.0 1 5 8 2.4 1924 11 加藤 5 0 11 1 1 61.2 0 0.0 1 5 8 2.4 1924 12 加藤 6 0 11 1 1 61.2 50 90.7 1 5 8 2.4 1925 1 加藤 7 0 11 1 1 62.9 50 90.7 1 5 8 7.6 15

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表2 首相選定者一覧 内閣 元老 数 重臣 数 伊藤① 伊藤、山県、西郷、大山、 井上 5 三条、山田 2 黒田 伊藤、松方 2 0 山県① 西郷、松方、大山、伊藤、 井上 5 山田 1 松方① 伊藤、松方、山県、黒田、 井上、大山 6 山田 1 伊藤② 伊藤、山県、黒田、井上、 大山 5 山田 1 松方② 山県、黒田、井上、松方 4 0 伊藤③ 黒田 1 0 大隈① 伊藤、山県、黒田、井上、 西郷、大山 6 0 山県② 山県、黒田、松方、井上、 大山、西郷 6 0 伊藤④ 山県 1 0 桂① 山県、松方、井上、西郷、 西園寺 5 0 西園寺① 0 桂 1 桂② 山県、松方、井上、伊藤 4 0 西園寺② 0 桂 1 桂③ 山県、松方、井上、大山 4 桂 1 山本① 山県、大山、西園寺 3 0 大隈② 山県、松方、井上、大山 4 0 寺内 山県、松方、大山、西園寺 4 0 原 山県、松方、西園寺 3 大隈 1 高橋 山県、松方、西園寺 3 平田 1 加藤(友) 松方、西園寺 2 清浦、山本 2 山本② 松方、西園寺 2 0 清浦 西園寺、松方 2 0 加藤 西園寺 1 平田 1 若槻① 西園寺 1 牧野 1 16

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田中 西園寺 1 牧野 1 濱口 西園寺 1 牧野 1 若槻② 西園寺 1 牧野 1 犬養 西園寺 1 牧野 1 斎藤 西園寺 1 牧野、若槻、清浦、上原、荒 木、山本、大角、東郷 8 岡田 西園寺 1 牧野、斎藤、清浦、若槻、高 橋、一木 6 広田 西園寺 1 牧野、近衛、湯浅、一木 4 林 西園寺 1 湯浅 1 近衛① 西園寺 1 湯浅、平沼 2 平沼 西園寺 1 湯浅 1 阿部 西園寺 1 湯浅、近衛 2 米内 西園寺 1 湯浅、近衛、岡田、平沼、清浦 5 近衛② 0 木戸、若槻、岡田、広田、林、 平沼、近衛、原 8 近衛③ 0 木戸、若槻、岡田、阿部、米 内、広田、原 7 東条 0 木戸、清浦、若槻、岡田、林、 広田、阿部、米内、原 9 小磯 0 木戸、若槻、岡田、広田、近 衛、阿部、米内、原、百武 9 鈴木 0 近衛、平沼、若槻、広田、岡 田、東条、鈴木、木戸 8 東久邇宮 0 木戸、平沼 2 幣原 0 木戸、平沼 2 吉田① 0 幣原 1 17

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表3 ロジスティック回帰分析の結果 説明変数 存続期間(月) 係数 標準誤差 有意確率 基準時 変化時 基準時 変化時 国務大臣数 0.261 0.123 0.033 * 11 13 19 13 首相選定元老数 -0.333 0.168 0.047 * 3 5 19 27 首相選定重臣数 -0.220 0.078 0.005 ** 2 5 19 27 与党議席率 0.005 0.008 0.529 31 63 19 17 閣法成立率 -0.011 0.005 0.034 * 26 67 19 24 政党内閣ダミー -0.789 0.413 0.056 0 1 19 29 陸相入閣月数 -0.016 0.008 0.035 * 16 40 19 23 海相入閣月数 0.006 0.005 0.204 25 54 19 17 軍部大臣武官制 -0.413 0.444 0.352 1 0 19 14 農業成長率 0.014 0.020 0.505 1 10 19 17 月齢 0.057 0.014 0.000 ** 定数 -4.743 1.849 0.010 * ** 1%水準で有意 * 5%水準で有意 18

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