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真宗教学研究 第4号(1980)

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念 仏 と 社 会 念 仏 と 社 会 清 国 実 1 親 驚 の 帝 王 観 名 畑 主ヌ目昆 9 念 仏 と 社 会 大 屋 憲 20 法 繭 の 道 理 細 川 行 信 28 真 宗 の 人 間 観 秦 治 人 35 一一宗教倫理の問題点一一 説一切有部の大乗批判 吉 元 信 行 46 一一 Vaitulika-宗祖用語の二,三について

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藤 谷 大 国 58 昭和54年度教学大会発表要旨 圧 司 憲 安富信哉 67 小山正文 幡 谷 明 中 村 薫 田端哲哉 小 倉 求 春日膿智 西尾京雄

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真 宗 同 学 会

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仏 教 思 想 史

創 刊 号 編 集 H 雲井昭善・柳田聖山・田村芳朗

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源流をさぐる﹀

インドにむける神の観念: ji − − : − ji − − : 雲 井 附 芹 インドにむける神と仏の交渉::::・:・:中村元︶存 中同宗教よりみた神と仏:− ji − − : : : : : ・ : 鎌 川 茂 雄 制 川 ||実体調査にもとづく問題の提起 l l l 山 い 阪 神と仏 ll 中国の旧交 p i l i − − : : j i − − ・ : 柳 川 聖 山 ル 河 口本にむける神の観念::: ji − − : : ji − − − 川 村 芳 朗 社 即 日本にむける神と仏の交渉・:::::::::村山修一辺振 A5 ニ 六

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号 編 集 リ 井 ノ 口 泰 淳 ・ 鎌 閏 茂 雄 ・ 柏 原 祐 泉 蹴 州

︿仏教と他教との対論﹀詐

永遠の有と転変::: ji − − : : ・ : ・ : : ・ : 村 上 真 完 川 ト ヴェーダ l ン タ と 仏 教 : ・ : : : ・ : : ・ : : : : 前 川 市 J 予 h v m 火乗仏教と他思想との対論− ji − − − ji − − ・ : 片 野 道 雄 和 寸 前 中間にむける仏教と他教との対論::::::道端良秀京電 渓訳仏典に及ぼした中国思想の影響::・ J K 山 新 ﹁ 山 花 維 府 中 詰 経 ﹂ の 僧 肇 注 と 老 荘 思 想 : : : : : 山 川 和 犬 ﹄ 匂 司 道教と仏教の対論: j i − − j i − − : : ・ ji − − ド 山 積 山 内 ︵

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仏教とキリスト教との対論 ji − − : : : : : : ・ 森 岡 清 夫 書 冒 同 一 千 と 仏 教 と の 関 係 に つ い て : ・ : : j i − − − 川 川 印 刷 郎 一 −

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神道をめぐる近世儒仏の対品 j i − − ji − − − 柏 原 祐 ’ 足 止 可 第

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一 一 八 八 頁 / 一 一 000 円 / 一 丁 一 一

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円 楽 配 ︿ 仏 教 内 部 の 雲 明 | イ ン ド ﹀ 本 年 末 刊 行 平 岬 執 筆 U 行 上 許 山 ・ 塚 本 作 凶 作 ・ 兵 藤 − 犬 − M 山 雄 一 江 島 窓 教 ・ 勝 目 一 日 静 ・ 一 H 川 崎 底 辺 ・ 松 長 打 底 本誌の継続購読の登録をされた方には発行次第、扱拭け 用 紙 と 共 に ご 送 本 し 、 送 料 は 小 社 に て 品 目 仰 い た し ま す 。 趣怠蒋・申込書こ希望の方は下記宛ご連絡 κ ー さ い 。 眼でみる仏教の歴史 日本人の精神的原像を採る/

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巻 柴 田 実 高 取 正 男 ・ 赤 井 達 郎 企 画 委 員 日 編 集 委 員 林 屋 辰 三 虫 藤 井 学 中 世 編 鎌 倉 ・ 室 町 時 代 第

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回配本︵日年川月刊行︶ A 4 判 ・ 三

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頁 総論 H H日本仏教の成立/柴川尖 ー章専修念仏/ M V 雌時川氏自章内乱期の信仰/熱川公 2 章悪人正機/干業来院 9 章 五 山 と 林 下 / 竹 民 一 川 勝 3 章南都の復興/治水汗三印章遁世の芸能/酬相同日 4 章禅の伝来/雌川大仙川章念仏と題目/北川弘 5 章戒律の確立/平川定海印章勧進と結縁/開削釧附 6 章立正安国ノ/川添附二別章禅と浄土/柳川山川山 7 章遊行と捨身/桃井川川別章無常の文学/野口武−必 第 2 回 配 本 / 古 代 編 ︵ 日 ・ 1 ︶ 第 3 回 配 本 / 近 世 編 ︵ 日 ・ 3 ︶

塚 本 善 隆 柳 田 聖 山 ・ 信 一 沙 雅 章 企 画 委 員 編 集 委 員 中 村 元 井 / 口 泰 淳 第 I 編 仏 陀 の ふ る さ と 一 一 一 川 伝 米 の 過 れ に お け る 仏 れ 川 芯 の 第 H 編 中 国 仏 教 の 開 花 2 ・ ぴ と そ の M 簡 を 、 た え ず H 木 仏 教 第

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編仏教文化の交流とのかかわりあいの小で M 在 化 。 全巻予約特価四八

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念 仏 と 社 会 今日、いただきました講演の課題﹁念仏と社会﹂を論 ずるにあたり、その問題の所在を三つのテ!マをもって、 まずあきらかにしておきたいと思います。 第一救済論における個人対家の関係 第二救済論における真理観と世俗観 第三近代社会における念仏の意義 第三のテ l マは救済論をめぐるこつの問題のしめくくり として論じたいと思います。ここで言う救済とは、世俗 社会における存在の矛盾性がひきおこす人間苦悩からの 解脱を意味し、その解脱の一手段としての念仏を、仏教 学という一つの立場から、平易に述べてみたいと思うわ け で あ り ま す 。 1

ウ ィ マ ハ コ ン シ y 大 学 教 授

個人対家の関係 個人とは、西洋で言う古門出

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− を 指 す も の で あ り 、 家とは、核家族

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!というかぎられた範鴎よりも、 むしろ、日本の単一民族意識、集落意識、閉鎖的連帯意 識を含んだ家、家系、伝統を意味するものであります。 ここで注目すべきことは、すくなくともキリスト教にお い て は 、 日 出 江 田 V 羽 田

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という宗教組織が中世ヨーロッ パにおいて展開していたといっても、近代における基本 的人間救済にかかわる図式は、あくまでも個人対神の関 係のもとに描かれていたということでありましょう。宗 教の選択は個人の自由にもとづき、ここに宗教の自由と いう理念が近代において展開したのです。 勿論、親驚教学においても、個人対阿弥陀仏の救済的

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2 図式が示されてはおりますが、徳川封建体制の下に展開 した檀家組織は、依然として現存しており、宗教は行事 化され、個人としての救済意識は、はなはだ稀薄です。 宗教・宗派は、﹁家﹂の宗教・宗派だと見なされている 現状です。鎌倉以来、日本には宗教革命がなかったから で あ り ま す 。 ところが、歴史学者がしばしば言われるように、今日 の檀家組織は単なる封建体制の投影だと、さながら封建 体制下に展開された文化的遺産は、そのすべてが非近代 的であるかの如く論じられていますが、私は、そうだと は思いません。ちょうど、日本の近代的企業が、日本の 家族主義の延長であり、家族主義をたくみに取りいれて 近代的資本主義体制を確立したように、檀家組織もまた、 社会的安定と秩序をもたらすことができたのであります。 キリスト教的宗教組織を一つの規範として檀家制度を批 判する要はありません。キリスト教には教会があり、聖 書講読会があり、日曜礼拝があるように、仏教にも寺院 があり、講があり、檀家があってしかるべきだと思いま す 。 し か し 、 り ま せ ん 。 私はここで檀家組織の功罪を論ずる意図はあ その組織に内在する一要素を論ずるにとど識 めたいと思います。要するに、西洋における個人意識に 対する日本における家意識にまつわる歴史的・文化的意 を論じたいのです。 西洋文化揺監の地の一角をなす古代ギリシャの都市編 成を一瞥して見ましょう。幾何学的に縦横に切り割った 都市に林立する個々の家々は、おのおの厚い壁によって さえぎられ、その独立性をいかんなく具現しており、そ の家々の中も、完全に密閉された伺室によって、。プライ バシーがたもたれております。それは、庭と家屋の調和 を計り、唐紙・扉風によって、一即多、多即一を計らん とする古典的和室の構造とは対照的です。近代建築の機 能的側面は別として、近代建築の発想の地盤が、自我意 識によって展開されたことは、守一日うまでもありません。 そして、そのような発想が、﹁鍵の文化﹂を誕生せしめ た の で す 。 ちょっと、ポケットに手を入れてみましょう。そのポ ケットは、おそらく、自動車の鍵、アパートの鍵事務室 の鍵等々で、はちきれそうな状態なのではないでしょう か。都市と家庭と日常生活の合理化をはからんがために、 そして、他人からの侵入から絶えず自己を守らんがため に、必然的に﹁鍵の文化﹂が誕生し、﹁。プライバシー﹂

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念 仏 と 社 会 という、本来の日本語の中にはさがし得ぬ外来語を用い るようになり、人工的に人間疏外の問題を惹き起こした のであります。人間疏外は、合理化を狙う近代社会をも っともよく象徴した社会現象です。そして、その合理化 された近代社会の虜となって労務に追われるわれわれは、 機能的近代的ピルからの解放を希求して、赤提燈で一杯 やることでフラストレーションを解消し、近代社会には ちょっと縁のないタタミの香りゆたかなる我が家に馳せ 帰るのです。そこには、むのふるさとが、象徴的に、あ るいは具体的に存在するからです。 このように述べて来た私は、あながち、個人主義否定、 家族主義肯定を論じているのではありません。積極的に 近代社会の渦巻く中に生きようとするわれわれは、反動 的に、われわれの心にある文化のふるさとに帰り、生気 を養うという、そのような循環的心理状況を論じたまで です。言い換えれば、積極的に動く個性は、その個性の 憩いの場所そ要求し、日本人の場合、その場所が家であ り、赤提燈であり、タタミの文化であるということなの であります。講・組・檀家制は、その功罪はともかく、 日本の仏教徒の一つの憩いの場所ではないでしょうか。 しかし、近代化の渦中におかれるわれわれは、その憩い 3 の場所を尊重するとともに、その中において、個人的救 済意識を育成する必要がありはしますまいか。 そこで、個人的救済意識の育成とは何か、ということ が間われます。それは、個人の尊重と、社会的責任意識 を共にした、宗教意識の育成です。檀家制が単なる封建 体制の延長であるならば、それは近代社会における無用 の産物であるが、それが精神的憩いの場所であり、その 場所において、個人の尊重と、社会的責任意識が育成さ れるならば、檀家制の近代的機能を全面的に否定すると いうことはできないでありましょう。このように檀家制 度を観察した場合、それは日本の歴史の中に生まれた一 つの宗教的社会組織と見るべきだと思います。 しかし、近代的宗教的社会組織に課せられた使命とは 何か。﹁救済論における真理観と世俗観﹂は、このよう な伝統の上に成立した近代的問題意識より発想した問題 として論をすすめてゆきます。 真理観と世俗観 近代社会とは、世俗的社会を意味しております。それ は、中世的膜想的社会を指すものではありません。近代 社会においては、ヨlガ的膜想は奇異な遊戯に過ぎませ

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4 ん。合理化とは、世俗社会においてもっとも有益に

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できる制度の考案、作成、実施を意味し、帰納的思 索を重視します。一即多、多即一、縁起即空、空即縁起 といった世界観、あるいは存在原理の理解は、近代人に は至難であります。実証を尊ぶからであります。近代社 会はまた、個人的権利主張の社会でもあり、絶えず個対 個の対決を迫る社会でもあります。このような思考型態 のもとにおいて、西洋では、超越者としての神の君臨す る安国土と衆生の存在する現世とを分別し、善悪の規範 を神の意に一任したのです。神、即ち真実であります。 神、即ち真実であるが故に、神の固と衆生国土とを判然 と分別するのであります。 これに対して仏教は、二一一観を提示し、勝義対世俗の 調和をはからんとして、中道を唱えました。しかし、歴 史とは、理想と現実の結抗する修羅場であります。一一、 三の例をあげましょう。慈悲と愛は、洋の東西を問わず 宗教的倫理的徳義でありますが、世界の人口過剰を防ぐ ために人工流産を認めるべきでありましょうか。また、 平等博愛の精神も、宗教的倫理的徳義ではありますが、 自国の現労働状況維持のために、ベトナム逃避民の受入 れを拒むべきでありましょうか。中観思想は、このよう な現実的問題に対して、いかに解答すべきなのか。 仏教の救済論は、人間存在に含まれた右に述べたよう な矛盾的要素の自覚に始まり、世俗界において絶えず自 我を中心にする思考形態の打破とその実践が要求されま す。中観は、両極に対する中ではなく、いずれにもとら われない、無我の心境を指すものであり、そのような心 の、世俗的実践であります。しかも、実践であるかぎ り、心の対象がなければなりません。対象とは、この場 合、世俗のもろもろの問題を惹き起こす人聞を指してお り ま す 。 仏教は、そのような問題を、無我の理に基づいて解決 をはからんとするものなのであります。無我の理に基づ いて解決をはからんとするということは、あえて魔道に 堕ち入らんことを辞さぬ心構えであり、自己の救済もあ えて放棄せんとする心構えでもあります。それは人間存 在の矛盾性に目覚めて、なおかつ努力せんとする心を指 したものであります。ここに、念仏の社会的展開の発想 の地盤があるのであります。 近代社会における念仏の意義 仏教には業という考えがあります。ところで、この業

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を、単に過去における人間行為の累積の、未来における 報いというならば、それは近代人にとって単なる概念的 遊戯にすぎません。なぜならば、そこには主体的意味が 無いからであります。業とは、いかに明確な善悪の規範 を心得ていても、なおかつ悪に転ぜざるを得ぬ人間的衝 動 ︵

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宮 Z O ︶のよって来たるものを示す語であります。 念仏とは、このような人間的衝動の根幹を熟知して、は じめて生まれて来るはずのものでありましょう。例えば、 人を殺すのは悪であると知りながらも、戦争にかり出さ れ、自己防衛のために人を殺さねばなりません。勿論、 戦争不参を堅持し、国家権力と戦うという道もありまし ょう。しかしそれは、いずれにせよ戦うことに変わりは あ り ま せ ん 。 念 仏 と 社 会 あるいはまた、武装した盗賊に侵入され、生命の危機 にさらされたとき、自分はこのまま殺されるべきなのか、 相手を殺すべきなのかの決断が求められるでありましょ う。この時、もし、おのれの親、妻子がその場にいたな らば、盗賊を殺すのに、なんの鴎賭もないはずでありま す。このような状況におかれ、人間的衝動に駆られるの が、業なのであります。 勿論、今あげた例は極端なものではありますが、大な 5 り小なり、われわれの日常社会生活は、矛盾に満ちたさ まざまな問題を内在せしめており、われわれには、常に それに対する判断が求められているのであります。だが、 その判断の正否は、何の規範をもって定めらるべきなの か。われわれはここに、人間の知識に基づく実践行動の 限界を痛切に感じざるを得ません。言い換えれば、人間 性は善であるとか悪であるとかは簡単には決しかねる、 ということなのであります。時には仏の心が宿り、その 同じ心から突如として魔王がその頭角をあらわすことも あるからであります。そのような心に、無我の行を要求 でき得るのでありましょうか。無我行の実践者、あるい は無我行の完成者が、現にこの世に実在するのでありま しょうか。この質疑に応答する前に、無我行の内容説明 が必要でありましょう。 仏教の基本的立場は﹁空﹂である c ﹃ 起 信 論 ﹄ は 、 ﹁ 可 空﹂という動詞を以てそれを表現しております。空とは、 世俗的に躍動するわれわれの我執・我欲を空ずる、その 機能が内在する原理の本体を指すものであります。我執 ・我欲を空ずるということは、縁起の世界において無我 行を営むことを意味しております。すべての執着を空じ 去った覚者を、﹁如法﹂と称します。

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6 ﹁ 如 去 ﹂ と は 、 ではないでしょうか。 迷えるわれわれ衆生には、﹁如去﹂は、手のとどかね はるか遠いかなたに存在するものであります。しかし仏 教は、究極的には、彼士、此土の分別はいたしません。 仏教は循環的理論の上に立っております。覚者をして完 全なる覚者たらしめるものは覚悟そのもの、 1 1 1 すなわ ち空の智慧そのものーーーの応用実践であります。空の理 念はとにかくとして、空の実践は、対象のある世俗界に おいてのみ可能であります。この場合、対象とは、先に 申しましたように、人間であり衆生であります。衆生に 対する空の実践とは、慈悲を意味する。衆生に対する救 済配慮を意味するからであります。 慈悲の実践体は﹁如去﹂ではない、﹁如来﹂、ーーすな わち真理を覚った覚者が世俗に還り来ってその覚った内 容を意の如く実践する者ーーであります。大乗における 覚者をして覚者たらしめる覚悟の内容は、このような循 環的理論によって裏付けられております。そして、そこ に仏教における行の必然性、自然性が秘められておりま す。行は、世俗的社会においてのみ可能であるというこ とを、ここでかさねて申しあげておきます。 ヨ lガ的境地に到り着いたものの名称 しかし、このような覚者の実践行||空を覚り、その 覚った内容を如実に実践することーーは、矛盾に包まれ た世俗に生きるわれわれに、はたして可能なのでありま しょうか。阿弥陀信奉者は、不可能であると言う:::。 すなわち、業の深さによって、そのような神秘的心境に 達する事あたわず、いわんやそのような心境を世俗界に おいて顕現する事をや、:::と。ここに、他力という考 え方が生まれて来るのであります。他力念仏とは、従来 の修業形式を完全に否定し去ったところから生まれ来た ものであります。無我の徹底であります。そして修業と は、自己肯定を示唆するものであります。しかしまた、 他力とは、無我の徹底を意味すると一一一日うかぎりでは、そ れは仏教的伝統から生まれ、養われ来たったものである と言わねばなりません。 そこで念仏とは、我執・我欲の否定論理の上に成立し たといえども、それは報身仏としての阿弥陀||空の世 界と衆生の世界との媒介者ーーを念じ、衆生位間におけ る仏土顕現を願う善巧方便なのであります。 このように浄土教をみて来た場合、如来の意義を熟知 理解することが念仏自体の性格を理解する前提であり、 その性格を理解することによってはじめて念仏の社会的

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意義が理解できるのであると一言わねばならないでしょう。 念仏の意義とは、人間の力に限りがあることと、存在そ のものには絶えず矛盾が含まれていることの認識にはじ まり、従来の修業形式であった無我行を、他力に転じ、 無我行の徹底した他力信仰を通じて如来の本願たる一切 衆生の救済を目指すものなのであります。 結

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命 私はこれまで、一二つのテlマを通じて、﹁念仏と社会﹂ 論じてまいりました。今、それをふり返ってみましょ h ノ 。 念 仏 と 社 会 念仏は、﹁家﹂伝来の信仰型態の継承であっては無意 味であり、個個の人人の存在に対する問題意識自覚によ ってそれが芽生えて行くものでなければなりません。問 題意識の芽生えとは、個の存在から社会意識への展開を 言うものであります。なぜならば、存在そのものは自と 他の相互関係によって、はじめて意識されるからであり ます。自と他の関係の認識展開があってこそ、社会意識 が芽生えて来るのであります。 しかし、このような存在意識が、拡大すればするほど、 理想と現実の拾抗が流転展開することになりましょう。 7 その展開過程において、仏教は無我の実践を要求します。 そして、その無我の実践の徹底したところが他力信仰で あり、念仏なのであります。とは言うものの、本来的に ほ、念仏とは、仏を念ずる観想の自力行であります。こ れに対して、称名としての念仏は、衆生を救済対象にし た他力信仰であります。衆生を救済対象にしたというこ とは、歴史的には、出家仏教から在家仏教、山岳仏教へ の展開を意味しております。 しかし、称名としての念仏は、それが何百四、何千固 なされても、それだけでは無意義であると言わねばなり ません。称名としての念仏は、如来の性格そのものに対 する信解があって、はじめてその意義が成立するもので あります。すなわち、念仏とは、如来の往相と還相の二 重性格を知って、はじめてその宗教的、社会的、実践的 意義が理解できるのであります。往相とは覚りの世界へ 去り行くことであり、還相とは現実に流転するこの世界 へ来ることであります。われわれに担わされた使命は、 如来ーーー空の実践者||に対する信を、現実に流転する 世界のもろもろの問題に接するごとに深め行くことであ り ま し ょ う 。 無我の行とは、すなわち他力本願に対する深信であり

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8 ます。深信すなわち念仏ではありますが、そのような概 念の前提になるものは、如来の性格に対する目覚めであ りましょう。往相廻向、還相廻向であります。 ここに、念仏と宗教、念仏と社会の両義が一応成立す ると申せましょう。﹁一応﹂という語を、あえて加えた のは、今日の私のお話が、念仏の概念的論究であるから であります。私は、念仏実践をもなし得ぬ異生凡夫であ り ま す 。

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ま め じ 親望書の帝王観 ﹁念仏と社会﹂の題に対して、史学の分野から真向か ら論ずる用意は、今の私にはない。さしあたり、親鷺の 帝王観をとりあげて検討を試み、真宗の社会観の一端を う か 。 か つ て み た い と 思 う 。 真宗の社会観については、真宗が世俗生活や国家とど のようにかかわるか、に主な関心が集まり、王法・仏法 為本、真俗二一諦、護国思想を主題として論じられている。 その場合、たとえば護国思想では、親驚の﹁朝家の御た め国民のために念仏まふしあはせたまひさふらはば、め で た ふ さ ふ ら ふ べ し ﹂ ︵ 親 驚 聖 人 御 消 息 集 三 ︶ 、 ﹁ 主 上 臣 下 、 法に背き義に違し、企を成し、怨を結ぶ﹂︵教行信証・後 序︶の語句にもとづき、支配権力への親驚の対応が論義 されてきた。しかしながらこの問題は、部分的な語句の 9

解釈にとどまらず、親驚の思想全体の文脈にかかわって いる。ここでは、親驚の思想の中に、帝王がどのような 性格をもち、どのような位置を占めるか、について検討 し て み た い 。 経にあらわれた帝王。親驚は﹃大無量寿経﹄を﹁真実 の教、浄土真宗﹂と規定した。﹃大経﹄は親鷺の思想体 系の根本なのである。﹃大経﹄にあらわれる王・国土の 説が、親驚の帝王・国土観の形成にもたらした意義は少 なくないとみなければならぬ。 ﹃大経﹄序分において、まず、釈迦の出家・学道につ いてのべ、釈迦が算計・文芸・射御を示現し、道術をな らい、群籍を貫練し、武を講じ芸をこころみる、とある。 ﹃大経﹄を説いた釈迦は、インドの王家に生まれた人で、

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10 生来、主としての資質をそなえ、王に必要な学問・武芸 に習熟していたという。ついで釈迦が、宮中の色味のあ いだに処して、老病死ぞみ、世の非常をさとり、国の財 位を捨てて、山に入りて道を学し、服乗の白馬・宝冠・ 理洛、これらを遣わしてかえさしめた、という。王位を うぐ太子としてすぐれた資質をもち、あらゆる欲望を満 たす境涯にあることが、かえって老病死の苦への疑いを 深めるとともに、出家の決断の重さを、きわだたせる。 正宗分の法蔵菩薩出家の段でも、世自在王仏の説法を きき、法蔵菩薩は国をすて、王をすて、行じて沙門にな る、と説かれている。古代において王位につき、国土を 治めるのが、人間として理想実現の極みであるが、法蔵 は固と王位をすてて仏説をきき、発願修行する。 以上、釈迦と法蔵の出家を語る場面における、王位の もつ意義は、およそつぎのごときものとなる。王位は地 上における、最高の知恵と力の表象であること。それゆ え、王位に在ることは人間として最も深い自覚を促し、 同時にまた、矛盾を露見させること。王位といえども、 仏教の前においては相対的であり、捨てる対象となるこ と。要約すると、王位は至上であるけれども、仏教にく らべてははるかに劣るから、王位をすてて得度するにす ぎることはない、ということを説いているようである。 ﹃観無量寿経﹄発起序は、王舎城に住 h u 王家の悲劇を 説く。阿閣世太子が父王を殺して国位を奪い、母まで害 そうとする。原因は王位の継承、競望で、王家ゆえの悲 劇である。子をもたず後継者のない老王は、命終すれば 王子に生まれ替る、と卜される仙人の寿命三年を待たず に殺した。生まれてくる子が王を損う、との予言に、王 は国土そ捨てて子に附属させる、といいながら、子の逆 害をおそれ、出生に際し殺害を企てる。難をのがれて成 長した王子は父王を逆害する。父王の、王位後継への執 心、専横が阿闇世逆害の起因になっていた。﹃大経﹄に 説く釈迦・法蔵の出家にくらべ、﹃観経﹄に説く章提の 発起では、王位・王権が否定的契機として、全体をつら ぬ い て い る 。 ﹃大経﹄序分、﹃観経﹄発起序では、王位・国土とい えども、老病死と仏説の前には捨て去られるべきもの、 あるいは王位・国土が、かえって苦縁になるものとして 説 か れ る 。 他方、地上の理想王国としては、﹃大経﹄悲化段に﹁端 心正行して、主上善をなして、その下を率化してうたた あひ勅令し、をのをのみづから端守して聖を尊び善をう

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親 驚 の 帝 王 鏡 やまひ、仁慈博愛して、仏の教詩あへて顧負することな かれ﹂、また﹁仏の遊履するところの国邑丘豪、化をか うぶらざるはなし。天下和順し日月清明なり。風雨とき をもてし災属おこらず。国ゆたかに民やすくして兵支を もちいることなく、徳をあがめ仁をおこし、まつりごと 礼譲ををこなふ﹂。王が卒先して仏の教悔や︸まもり、仏 がめぐり歩くところに、安穏な国土が実現するという。 浄士教徒のもとめた、理想の王と国土の原型がここにあ る、とみてあながち不当ではなかろう。 しかし、かかる王による安穏な国土の出現は、願わし いけれども、末法においては不可能だ、と観念されてい たと思う。それよりもむしろ、末法における王と国土と して実感できたのは、﹃大経﹄の五悪段に説かれる、つ ぎのごとき説であろう。﹁主上あきらかならずして目下 を任用す。臣下自在にして機偽はしおほし。践度能行し てその形勢をしる。位にありて正しからず、それがため に欺かる。みだりに忠良を損じて天の心にあたらず。臣 はその君をあざむき、子はその父をあざむく﹂︵第二悪︶。 11 実 在 の 帝 王 。 け 日本古代において、国家は天皇の謂、朝 家は﹁おぼやけ﹂で、天皇または朝廷をさす。親鷺の在 世九十年間に即位した天皇は、高倉・安徳・後鳥羽・土 御門・順徳・仲恭・後堀河・四条・後嵯峨・後深草・亀 山の十一代にわたる。在位年数では、亀山天皇の十五年 が長く、仲恭天皇のコ一か月が短い。寿では、後深草天皇 の六十二歳が長く、四条天皇の十二歳、安徳天皇の八歳 が短い。当時おこなわれていた百王思想によると、代、が 下って百代ちかくなると、天皇の寿が短くなり、世が乱 れるといわれる。平氏が擁した安徳天皇が壇ノ浦に入水 し、討幕の兵を募った後鳥羽院が、幕府軍に敗れて隠岐 へ、皇子の土御門院と順徳天皇が土佐と佐渡へ、それぞ れ 流 さ れ た 。 天皇の権威は、すでに損われていた。院政が開始され、 院が専制君主の性格をそなえるのに伴い、院の個人的な 性向の長短が露呈するようになった、といわれる。白河 院政に対して、中御門宗忠は﹁すでに天下の品秩やぶる なり﹂﹁天下衆人、聖徳を仰がれ滅しおはる﹂︵中右記︶ と評していた。また鳥羽院政について、藤原忠実は﹁そ の政道おほく不道なり。上は天心に違ひ、下は人望に背 く。一一一宝に帰依するをもって、今に身をまつだくしたま ふ﹂︵殿暦︶とみていた。後白河院政については、九条兼

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12 実が﹁おほよそ、こころざすところは、ひとへに社稜の 安全なり。政道の素にそむくなり﹂︵玉葉︶といい、古代 に聖賢が国を治めた、淳素の時代への復帰を期待してい た。そして肝心なのは、徳化をほどこすことだ、と説ぎ ながら、﹁徳化は率爾にそなへがたし﹂﹁無徳の世、な ほもって患みがたし﹂と歎くばかりで、方策をもちあわ せていなかった。年代が下降するにしたがって、帝徳が 薄くなる、という認識が定着していたようである。こと に院政の開始、武士の拾頭により、権威を損なわれてい た摂関家・貴族の、院に対する批難はつよまっていた。 院政の経済基盤は、荘園整理により集積された院領荘園 と受領にあり、院の権威は、天皇の直系尊属親としての 親権にもとづく、とされる。そのほか、院の権威を保持 するのに、かつての十善玉説や帝王菩薩説につながる入 道法体、霊場参詣、寺塔造営など、宗教的要素が役立っ て い た と 思 わ れ る 。 親驚の父日野有範の官は、皇太后宮大進と伝えられる。 大進は従六位上相当であるが、﹃大谷一流系因﹄は﹁正 五位下﹂とする。皇太后官は天皇の生母となった后の家 政を司り、﹁精選の職﹂とされた。中務省に属し中宮職 に 準 じ る 。 叔父宗業は、大内記、文章博士、式部大輔、従三位に のぼっている。官歴からは紀伝、文章など﹁文芸﹂を修 さめ、宮廷の古実に精通していたと考えられる。後白河 院の皇子以仁王の学問の師であった。 伯父範綱は、親驚の養父で、従四位下、若狭守、兵庫 頭。後白河院の近臣であったという。いずれも位は高く ないが、官人機構につらなる人たちで、中下流の貴族意 識を共有していたとみられ、親驚は範綱や宗業を通じて 後白河院や以仁王の身辺について直接伝聞する機会があ ったと思われる。父有範が官を退いて入道し、伯父範綱 が親驚とその弟を養い、比叡山・三井寺に伴ったことは、 有範の身辺に事が起ったことを予想させる。親驚は官界 に出世して王事に従う道をとざされたのである。また祖 父経手は、従五位下、阿波権守であったが、﹁放時人﹂ といわれる。祖父が貴族社会で信用をうしない、家門に 汚点を残したことも、親鷺が門地相応に官界に出る道を ふさがれ、幼少から他の道へ転入させる要因であった。 比叡山における親鷺の身分は堂僧であった。天台宗の ﹃出家作法﹄によると、出家に際して、俗服を着しなが ら、内外の氏神、国王、父母を拝する。﹃菩薩戒経﹄に ﹁出家の人法は、国王にむかいて礼拝せず、父母にむか

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いて礼拝せず、六親につかえず、鬼神を礼せず﹂とある。 出家すると、この戒をたもつから、出家する前に、俗の 最後の作法として、氏神・国王・父母を拝するのであろ う。出家すれば、俗の世界と次元を異にし、国王・父母 に対して、ことさら礼拝をしない。けれども、守護国界 の道場として経営される延暦寺であるから、真言・止観 ・三昧など、日夜、国家を祈る行法が、修行僧に課せら れる。比叡山に入り、出家・受戒した親驚が、国王・国 土・人民のため、祈願を忘れることはなかった、とみな ければならない。 親 驚 の 帝 王 観 専修念仏の立場。源空の教の眼目は、選択本願が貧窮 と富貴、下智と高才の差別なく、平等に摂することを明 白にしたところにある。造像起塔、智恵高才、多聞多見、 持戒持律をもって本願とするなら、大多数の貧窮、愚痴、 少聞、無戒の者は、仏の平等慈悲からはずされてしまう とし、むしろ貧賎、愚鈍の者が本願の機にふさわしい、 と説いたのである。古代の国家、貴族が造営した、壮麗 な大伽藍、伽藍で養われる智恵と高才と浄戒と。そこで 実現される国家、貴族の繁栄と福田を本領とする仏教に 13 対して、源空の教は疑問をなげかけ、下賎・愚痴の一人 ひとりの救いを根本にすえた。国家・貴族を主とする仏 教の限界が、末法の時機観のもとに明白にされたのであ る。源空が国家を顧みなくなったのではい。末代におい て緊用なのは、大多数が庶民によって占められる、人間 個々人を破滅から救うことであった。 しかし源空の教が、在来の価値観の変換にもとづいて いるかぎり、国家仏教を標梼する旧仏教側からの批難を 惹きおこした。批難はおもに源空の門弟の言動から起っ ており、勅許なく新宗を立てること、宗廟はじめとする 神祇崇敬にそむくこと、国土を乱すこと、など国家没却 につながる失を三つまであげていた︵興福寺奏状︶ o ま た 、 中国では浄土一門を信じ、護国の諸教を仰がぬため、国 土に災厄がおこった例があり、﹃詩経﹄序に﹁治世の音 は安し、以ってその政、和を楽しむ、乱世の音は怨む、 以って其の政の飛くを怒る、亡国の音は哀し﹂とあって、 念仏は亡国のもととして排撃されていた︵山門奏状︶。 比叡山を離脱して源空の門弟になった親驚は、仏法・ 王法を祈念する修行を廃し、本願にもとづく念仏を根本 の行と定めた。天台菩薩僧の、国王・父母・鬼神不拝の 戒めは、﹁一切の有情は、みなもて世々生々の父母兄弟

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14 な り 。 いづれもいづれもこの順次生に仏になりて助さふ らふべきなり﹂︵歎異紗︶という、仏の回向としての救済 観に転化されて行き、仏法為本の立場が明確になった。 と 考 え ら れ る 。 親驚は、やがて妻帯を決意して﹁愚禿﹂と称するよう になる。在家の生活形態をとる親驚が、﹃教行信証﹄化 身土巻に﹁出家の人法は、国王に h u かひ礼拝せず﹂云々 と記した意趣は何か。出家であることを廃し、在家にな った親驚であるから、この引用文は親驚の境涯にかかわ らない、とする見方もできる。しかし同じ化身土巻に ﹃末法灯明記﹄の文を引用して、﹁︵仏滅後︶千一百年に 僧尼嫁妻せん、僧、枇尼尼を虫詩せん。千二百年に諸僧 尼等、ともに子息あらん。千三百年に袈裟変じてしろか らん﹂寸・末法には、ただ名字の比丘あらん。この名字を 世の真宝とせん。福田なからんや。たとひ末法のなかに 持戒あらば、すでにこれ怪異なり。市に虎あらんがごと し﹂﹁国主大臣、破戒の僧を供すれば、国にコ一災おこり、 つ い に 地 獄 に 生 ず と 。 : : : 浬 駒 栄 等 の 経 に し ば ら く 正 法 の 破戒を制す。像末代の比丘にはあらず﹂などの文から推 量すると、﹁出家の人法﹂の出家とは、末法における僧 尼、すなわち﹁名字比丘﹂﹁破戒名字﹂であり、したが って﹁真宝﹂にあてて領解されたもの、とみるのが妥当 の よ う で あ る 。 承 一 克 元 こ 二

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七︶年、専修念仏停止の宣下がおこなわ れ、法然、行空、幸西、親驚は流罪、遵西、住蓮は斬罪 に処せられた。このとき、土御門天皇が十三歳で位にあ り、父後烏羽院の院政下にあった。ここで親驚は国家の 意思に直接触れて、その本質を見きわめてゆくことにな 400 諸寺の釈門教に昏くして、真仮の門戸を知らず。洛 都の儒林行に迷今、邪正道路を弁うることなし。斯 を以て輿福寺の学徒太上天皇詳尊成・今上詳為仁聖麿 元了卯歳仲春上旬之候に奏達す。主上・臣下法に背 き義に違し、恋を成し怨を結ぶ。藍に因て真宗興隆 の太祖源空法師並びに門徒数輩罪科を考へず、狼し く死罪に坐す、或は僧儀を改めて姓名を賜ふて遠流 に 処 す 。 予 は 其 の 一 な り 。 ︵ 教 行 信 託 ・ 後 序 ︶ 信巻には、用欽・元照・朴順など、律、禅、華厳に通暁 した人が念仏して浄土を期したばかりでなく、王日休・ 劉程之・雷次宗・柳子厚・白楽天など、儒学をきわめた、 詩文の名人まで往生を願ったことを強調している。念仏 往生が普遍の教であることは自明なのに、主上・臣下が

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親 驚 の 帝 王 観 当座の感情にまかせて、念仏を停止し、源空とその門徒 を処罰したことを悲しんだのである。 いわれるように﹁主上臣下、背法違義、成悲結怨﹂は ﹃大経﹄悲化段の趣意を汲んだもので、親驚みずから存 立する末法の時機の様相を、仏説に照応させたものであ る。文辞においても、経文には﹁主上不明、任用臣下、 臣下自在、機偽多端﹂﹁更相利害、窓成怨結﹂など対応 する語句がある。時代に生れて存立してゆく、親驚みず からの体験が仏語に相応してゆくのであり、仏語と現実 とが相互に照しあい、映して出してゆく関係において、 事象のもつ意味が把えられている。 これより十一年のち、専修念仏は再び禁じられ、その 後も安貞元年、文暦元年、嘉禎元年、仁治元年と念仏停 止がおこなわれている。これらの事態に際会して親驚が ﹃法事讃﹄の﹁五潟増時多疑詩、道俗相嫌不用問、見有 修行起眠毒、方便破壊競生怨﹂の文をくりかえし照応さ せ、善導を通じて仏語と現実の相応を確かめていった、 と 考 え ら れ る 。 念仏を疑詩、破壊し、行者に隈毒を起すものに対する 態度は﹁あはれみをなし不便におもふて、念仏をもねん ごろにまふして、さまたげなさんを、たすけさせたまふ 15 ベ し ﹂ ︵ 親 驚 聖 人 御 消 息 集 ︶ と い う の が 、 そ の 基 本 で 、 ﹁ 名 無眼人﹂﹁名無耳人﹂として、あわれみ、懇切にさとす べ き だ 、 と し て い る 。 承元元年に専修念仏を禁じた後鳥羽上皇は、それから 十三年して、承久三年七月幕府討伐の戦に敗れて隠岐に 流された。このとき窺驚は常陸に移り住んでいて、御家 人が兵を募るのを見聞し、乱の結末についても詳しく伝 聞したであろう。また同八月四日、聖覚は﹃唯信紗﹄を 著わして、法照﹃五会法事讃﹄から﹁不筒貧窮将富貴、 不筒下智与高才、不簡多聞持浄戒、不筒破戒罪根深﹂の 文を引用している。隠岐に流された後鳥羽院は、十八年 間島にとざされ、延応元︵一二三九︶年二月六十歳で崩じ た。親驚はすでに京都に帰って六十七歳になっており、 ﹃教行信証﹄は後序を含めて、完成していた。 坂東本﹃教行信証﹄は、親驚六十歳頃の筆蹟であるこ と が 判 明 し て い る 。 後 序 の ﹁ 太 上 天 皇 詳 尊 成 ﹂ ︵ 後 烏 羽 院 ︶ ﹁ 今 上 詳 為 仁 ﹂ ︵ 土 御 門 院 ︶ ﹁ 皇 帝 詳 守 成 ﹂ ︵

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︶の記 載は、すべて行を改め、﹁主上﹂の字の上には、二、三 字相当の余白がある。世俗の秩序を蔑ろにせず、公式を 重んじたのであって、公開する書物として体裁も周到に 調えられている。﹃教行信証﹄全体の構成からみても、

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16 後鳥羽院、土御門院に対する個人の慾意的な感情のごと きものが、さしはさまれてくる余地はない。 親驚は源空が明白にした選択本願の趣旨を聞いて、真 実の教・行・証として論証し、その中で親驚の遭遇した 諸事象のすべてが、自らの思想形成を促す不可欠の要素 として、音 ω味づけていた。本願の旨趣を基軸として、す べての歴史事象が必然的な位置を占め、意味を担ってく るとすれば、なまの感情のごときものは昇華せられ、事 象のもつ意味がたずねられていたに相違ない。 四 君王を至上とする、古代的な社会秩序の観念が、親驚 の思考に強くはたらいていることは事実である。いま、 親驚の著作の用語について検証してみよう。﹁いま所修 の念仏三昧に約するに、いまし仏力をたのむ。帝王にち かづけば、あえておかすものなきがごとし﹂︵教行証・行 巻、元照・観経義の引文︶﹁なほ君王のごとし、一切上乗人 に勝出せるがゆへに﹂︵同・行巻、悲願二十人戦︶﹁それ菩 薩は仏に帰す、孝子の父母に帰し、忠臣の君后に帰して、 動静おのれにあらず、出没かならずゆへあるがごとし﹂ ︵ 同 ・ 行 巻 、 論 註 の 引 文 ︶ 、 念 仏 三 昧 や 悲 願 を 帝 王 や 君 王 の 威厳、超越性にたとえ、師主・知識の恩に対する報徳を、 君后につかえる忠臣の関係でとらえたものである。 ﹃ 教 行 信 証 ﹄ 行 巻 で は 、 念 仏 の は た ら き を 王 に 臨 場 ? え た 語が多いのが特徴である。たとえば﹁念仏三昧の善、こ れ最上なり。万行の元首なるがゆへに三昧王といふ﹂ ︵飛錫・念仏三昧宝王論の引用︶。その他、阿弥陀仏のはた らきの卓越性をたとえて﹁諸仏の中の王なり、光明中の 極尊なり﹂︵真仏土巻︶、﹁衆宝の王たるを以って、これを 荘厳せり﹂︵向上︶、﹁我等王の処の所として、一切悪を遮 那して﹂︵化身土巻︶、﹁我等王の処の所にして、皆正法を 護持し﹂︵向上︶。その他の警除として﹁越の王勾践に事 へ て 君 臣 悉 く 呉 に 囚 は れ ﹂ ︵ 向 上 ︶ 、 ﹁ 侯 ︵ 壬 ︶ 宗 室 宜 し く 偽 を 反 し 真 に 就 き ﹂ ︵ 同 上 ︶ な ど が あ る 。 また古代において王に帰服しないものはなく、王命に は絶対の服従を要し、さからうことはありえない。仏の 教えにしたがうことが、よく﹁勅命﹂にたとえられる。 ﹁ 是 を 以 っ て 帰 命 は 本 願 招 喚 の 勅 命 な り ﹂ ︵ 行 巻 ・ 帰 命 釈 、 信巻・六字釈︶、﹁欲生といふは、すなはちこれ如来諸有 の群生を招喚したまふ勅命なり﹂︵同・欲生釈︶、﹁また帰 命とまふすは、如来の勅命にしたがふこころなり﹂︵尊 号真像銘文・天親の帰命釈︶。帰命を勅命に随順するこころ

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親 鴛 の 帝 主 観 に例えるのであるが、帰命についての左側では、﹁帰﹂ には﹁シタカフ﹂、﹁命﹂には﹁メシニ﹂とあり、あわせ て﹁メシニシタカフ﹂となる︵浄土和讃︶。あるいは﹁帰﹂ は﹁タノム、仰セシタカフ﹂、﹁命﹂は﹁召シニカナフト イ フ ナ リ ﹂ ︵ 向 上 ︶ と な っ て い る 。 このように、阿弥陀仏や念仏のはたらぎを君主にたと え、仏に対する愚依を勅命にしたがう心にたとえるのは、 親驚の信奉した浄土経典や論疏にあらわれる、君王観と 関係があるようである。ところで﹃教行信証﹄信巻には ﹃浬繋経﹄をひき、阿闇世王の愁怖を臣の蔵徳が訪うく だりに、つぎのようにいう。法には出家と王法の二種が ある。王法において、阿閣世は父を害して王国土に逆っ たけれども、罪はない。迦羅羅虫が母の腹を破って出生 すると同様に、それは生の法であり、治国の法はそうい うものである。父兄を殺しても全く罪はない。出家の法 は蚊・蟻でも殺せば罪となる。阿閣世王の苦悩は出家の 法にもとづくもので、大師・末伽梨憤舎梨子について衆 罪消滅を期す。この警えによると、壬法には力により王 になって国土を治める、という独自の論理が存ずるので あり、逆害も容認せられる。阿閣世が王法にのみとどま っていたら、阿闇世の苦悩はなく、救済もない。 17 出 家 の 法に照して、阿闇世は大苦悩を生じ愁怖する。ここでは、 王法は相対的で無自覚な世界とみているようである。 五 理想の王・聖徳太子。聖徳太子は日本に出現して国の 政治をすすめ、仏教を実現した﹁皇﹂として、親驚にお いて重要な位置を占めている。このような聖徳太子の像 が、親鷺の上に明確になるのは、建長七︵一二五五︶年十 一月晦日に書いた﹃皇太子聖徳奉讃﹄七十五首からで、 親 繍 購 入 十 コ 一 歳 の 時 で あ る 。 右の和讃七十五首の主な内容は、太子の仏法弘興、有 情救済の功績をうたう。仏法弘興は四天王寺・六角堂・ 法隆寺の造営、三経の講説・製疏像法五百年仏法繁昌、 守屋討伐、有情救済は、四天王寺田筒院造建、憲法十七 条製定である。しかし仏法弘輿と有情救済のはたらきは、 相依一体のものとしてとらえられており、明瞭な区別は できない。四天王寺創立後、難波・大和・奈良・長岡・ 愛宕の遷都にともなう歴代天皇の造寺は、太子の意思の はたらきとみ、入滅後の太子は、国王・后妃と生まれ国 ぐに寺塔仏像を造り、有情救済をつづける、といわれる。 七十五首和讃において、太子の発する命令は﹁ A 呂 田 ﹂

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18 ︵ 太 子 の 仰 せ ご と な り て ﹁ 詔 ﹂ ︵ 宣 旨 を い ふ な り ︶ ﹁ 勅 命 ﹂ 。 ﹃大日本国粟散王聖徳太子奉讃﹄では﹁勅宣﹂の用例が ある。令旨は太子の下すもの、詔、勅宣は天皇の仰せご との意である。公文書形式にしたがって、用語をあっか い、聖徳太子に太子であるとともに、天皇と同格の位が 与えられているのである。太子の業績の中で喧伝される のは、物部守屋の討伐で、守屋は邪見、疑誘、破壊を代 表し、﹁逆臣﹂として太子の討伐を hつ け る 。 日本の王家に生れた聖徳太子に対する親驚の関心には こ面がある。一は像法に生れて日本に仏教を弘輿し、 ﹁十七の憲章つくりては皇法の規模としたまへり朝家安 穏の御のりなり国土豊鏡のたからなり﹂とうたわれるよ うに憲法を定め有情を救済した思人。二は国家・有情を 壊失する邪見、疑誘に対し真理と正義をもとづき邪と疑 を降伏させる、破邪顕正の旗手として。﹁物部弓削の守 屋の逆臣は生生世世にあひったへかげのごとく身に そひて仏法破滅をたしなめり﹂これら和讃は﹃四天王 寺御手印縁起﹄に取材しているものの、親驚存命中にく りかえし起った念仏禁止、門弟・子息の聞に発生した異 義異端、自己の中に起る疑惑と誹詩に対峠する意思をあ ら わ し て い る 。 このように親鷺における聖徳太子は、日本︵粟散国︶ に実在した理想の法皇で、仏法弘輿と有情救済の表象で あった。そして有情の一人として親驚の上にはたらく救 済は、正定家にみちびき、往相還相の回向にさしむけた、 という個別の体験がともなっている。親驚はそのはたら きを﹁聖徳皇のめぐみ﹂とも﹁聖徳皇のあはれみ﹂とも よんだ。聖徳太子の仏教崇敬は、みずから仏教を学んで 人に説き、寺塔をおこして国土人民を救済するところま でおよんだ。王は出家入道しないまでも、仏教に帰依し て有徳の僧を敬い礼拝すべきだ、と考えられている。 ﹃正信偶﹄﹃和讃﹄では、東醜の国王と梁の武帝が曇驚 を敬い厚遇し、居所にむかい礼拝した、とくりかえしう たっている。曇驚を讃めたたえたものであるが、同時に 曇驚の学徳に敬意を表わした、東貌・梁の国王に対して も、親驚が思慕の念を抱いたと思われる。﹁世俗の君子 幸臨し﹂﹁説の主勅して﹂﹁説の天子はたふとみて﹂﹁君 子ひとへにおもくして﹂いずれも曇鷺に対する親鷺の尊 崇 が 、 思 骨 骨 驚 を 敬 っ て や ま な か っ た 東 貌 ・ 梁 の 国 王 に 対 す る敬慕に転化してゆくのをみる。最初にみた﹃大経﹄悲 化段の﹁主上善をなして:::うたたあい勅令し、おのお のみずから端守して聖を尊び善をうやまい﹂の説が背景

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になっているように思える。 曇驚についで、王侯・貴族の崇敬そうけた、とうたわ れるのは源空である。承久の太上法皇︵後高倉︶の帰敬、 九条兼実の親近、上皇群臣の尊敬、卿上雲客の群集、釈 門儒林の帰依など、源空には貴族から庶民まで﹁欽仰﹂ したという。ことに後高倉院、すなわち安徳天皇の弟守 貞親王が源空に帰依して、釈門、儒林ともにみな真宗を さとったとする。﹃教行信証﹄後序の釈門教に昏く、洛 都の儒林行に迷い、主上臣下法に背き義に違す、とは反 対の事態である。親驚は、政治支配の側にも、浄土真宗 に対する﹁逆誘﹂と﹁信順﹂の二面があって、相互に信 仰成熟を、つながしたとみているようである。 親驚における源空存在の意義は、日本の国土観につな がっている。親驚は生れた日本の国土を﹁片州濁世﹂﹁粟 親 驚 の 帝 王 観 19 散片州﹂と称し、正像時代の大国インド・中国に対して、 日本を末代の片州濁世とみている。近代の天皇も、濁世 末代の王にすぎず、曇驚を崇敬した説や、梁の国がらとく らべて日本は見劣する。しかし源空の出現により浄土真 宗がひろまったことにおいて、﹁片州濁世﹂の意義が深 められ、さらに聖徳太子の出現と仏教興隆の意義をたず ねると、わが国は﹁日本国﹂あるいは﹁和国﹂として理 念をとりもどす、と親驚はみていたようである。 ︵ こ の 文 章 は 、 昭 和 五 十 四 年 十 一 月 二 十 三 日 真 宗 同 学 会 で 発 表 し た 要 旨 を 訂 正 し 、 言 及 で き な か っ た 分 を つ け 加 え た も の で す 。 ︶ ︵ 大 谷 大 学 教 授 ︶

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20 三号、 ,t!i

b.,. Z玉主

今回、計らずしも﹁念仏と社会﹂と云うテlマを頂い た。私にとっては、誠に大切な、又、いささか大きすぎ るテlマではあるが、本日は、その一端なりとも述べた い と 思 う 。 先ず、その社会ということについてであるが、当節で は、この社会の位置づけを、少くとも、西欧近代の所産 が我国に導入される以前の社会の在り方としたい。これ は、誠に、大雑把な分け方であるが、それは現在も﹁現 世利益﹂と云われているものの素型を考察しておきたい か ら で あ る 。 と云うのは、私は、かねがね、歴史的にみても、所調 ﹁現世利益﹂と云うものへの対処の仕方が、親驚聖人や その他の方にみられるように、在家仏教である真宗ほど、

他の仏教諸宗に較べて厳しいものはないと思っていた。 そして、それを考察していく中に、仏教と民俗信仰との 交渉、及び、その両者の習合と云うことが大きな課題に なっていることに気付いたのである。 周知のように、﹁神仏習合﹂は、殊に密教系の仏教︵真 喜一口、天台︶に於て、加持祈祷を守護する護法神等の関係 より、早くから行われている o 更に、浄土経典も、仏教 の我国への伝来と、ほぽ時を同じくして伝えられていて、 鎌倉期における禅宗の伝来に較ぶれば、その歴史も蓬か に古いのである。それだけに、念仏の庶民化も早いわけ で、法然上人や親驚聖人が、その念仏の本義を我国に闇 明されるまでには、念仏は鎮魂、鎮送、亡魂の追主同等の ために供されてきた一面も指摘されるところである。然 も、真宗は、その在家仏教を宗旨とするだけに、所謂﹁現 世利益﹂に対しては厳しい態度が取られることが充分に

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念 仏 と 社 会 予想され得る。ここに、親驚聖人の真仮偽の教判も、仮 に対してはもとより、偽に対しても充分の考慮が払われ たことを思うのである。聖人の数々の御著作をみても、 このような点をうかがい得る。例えば、聖人はその﹁悲 歎述懐和讃﹂の中で、﹁五濁増のしるしには、この世の 道俗ことごとく、外儀は仏教のすがたにて、内心外道に 帰敬せり﹂とか、﹁かなしきかなや道俗の、良時士口日えら ばしめ、天神地祇をあがめつつ、卜筆祭肥をつとめとす﹂ と申されている。道俗がこぞって、外儀は仏教のすがた をしているが、内心は天神地祇の神々に帰敬しているこ とを悲歎されているのである。又、﹁化身土巻﹂では、 聖人は﹁応レ知、外道所有三味、皆不レ離=見愛我慢之心ペ 貧=著世間名利恭敬一故﹂とも申されているが如く、その 鬼神観等を厳しく批判されている。又、聖人が書き与え られた書簡には、無病、息災、延命等々と云う利益に関 わることは説かれていない。そして、因みに、聖人が、 所謂﹁現世利益﹂を否定されたものの中には、現世の祈 薦、卜占、祭組、方角の士ロ凶、良時吉日の他に、罪福を 信ずることなどが挙げられ得る。 思うに、それでは、古来よりの民俗信仰とは如何よう なものであったであろうか。その内容には、霊魂観念、 21 他界観念、罪被観念、広義の呪術信仰等が挙げられ得る。 柳田国男によれば、先ず、霊魂の不滅と云うことが取り 上げられる。つまり、人々は死せばその霊は山に帰り、 永く此の国土に留まって、次第に浄化され、祖先の霊に 合体して祖霊となる。或は、更に、氏神となって、未永 く子孫をみまもってゆく。勿論、このような祖霊信仰は、 その農耕生活に密着したものであり、それ故に、又、そ の唯一の生産手段たる農耕生活をみまもる山の神や田の 神、雷神、その他の農神が、祖霊とも同一視されること にもなる。例えば、毎年の正月に家ごとに迎えまつられ る年神や歳徳神等、が、その祖霊の観念をもたれ、又、稲 作等農耕の守護神であると思われたことも自然の感情で あろう。人々はこのような神々に、感謝とその祈念を表 明したのである。 然も、霊的存在への信仰には、このような祖霊信仰に 由来するもののみならず、御霊︵怨霊︶等の諸神霊もあ げられ得る。人々は、又、御霊、或は、精霊にに煩わさ れることのないよう、これらの神々に祭組を怠たらなか ったのである。そして、このようなその処々を護る神々 は、例えば、八幡神の如き、日本における神々の地位が 高まるにつれ、又、招来した護法神等とも相侠って、次

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22 第に神仏習合が進み、本地垂迩の思想が形成されてゆく。 然しながら、以上の点を顧みて、人智ならぬ仏智に照 しみる時、天神地祇への信仰は、その感謝と祈念はさる ことながら、未だ、その関心が死の不在を願う現世のみ に向けられていると云わざるを得ない。ここには、死を 機縁として問われたる生、即ち、生死の問題には、未だ 覚めていない面が看取せられ得る。先述の﹁山に帰る﹂ と云うことも、素朴な表現ながら、人生の行く依と云う ものを指向する面もみられるが、この場合、死の問題は、 常に、生の延長線上にみられているとも云えよう。 これに対して、仏教が示したものは、釈尊の求道の機 縁となった生老病死の苦の現実と云うものを直視して、 そこに生死の迷いを出ずべき道を明らかにすることであ った。釈尊の説かれた四法印、四聖一一、因縁法の仏法の 内実は、まことによく、このことを示している。そして、 そこには、有無の見を離れ、生死流転の身より解脱して 浬駒栄が求められ、浄土の建立が説かれていることである。 又、民俗信仰の資料についても、﹁霊﹂とつく言葉が用 いられているのに対し、仏教では﹁霊﹂と云う言葉は殆 んど用いられない。例えば、祖霊、怨霊、その他の﹁霊﹂ に対しては、﹁魔﹂と云う一言葉が用いられている。﹁魔﹂ と は 、 本 来 、

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の音略で、﹁魔羅﹂とも記されるが、 それは﹁仏道修行を障臨慨するもの﹂﹁智慧の命を奪うも の﹂の意を表すものであった。ここに、その仏法の一端 を知り得ることである。 かようにして、親驚聖人は、更に念仏の本義を表明せ んがために、﹁一念多念文意﹂の中に﹁観念法門﹂をひ きつつ﹁現世護念の利益﹂を述べられている。即ち、聖 人は﹃﹁護﹂はところをへだてず、ときをわかず、ひと をきらわず、信心ある人をば、ひまなくまもりたまふと なり。まもるといふは、異学異見のともがらにやぶられ ず、別解別行のものにさえられず、天魔波旬におかされ ず、悪鬼悪神なやますことなしとなり﹄と申されている が、思うに、この御文章における﹁時と処とを距てず﹂ と云う御言葉は、逆にみれば、衆生が如何に魔障︵業障︶ 深き身であるかを示すものであろう。私達は、今に死す る身であるものを、愚にも損得にのみ心迷っている。そ の障り深きこの身を、永劫に﹁出離の縁なき身﹂と知ろ しめして、影の形に添う如く護念したもう。その本願の 名号を関信し得るその一念に、念仏の行者の益を述べら れたものが、この御文章である。それ故に、聖人が﹁一 念多念文意﹂の中で示された﹁現生護念益﹂は、 そ の

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念 仏 と 社 会 ﹁信巻﹂に於て一不された﹁現生十種益﹂とも相呼応する ものと云えよう。そこには﹁護ニ得金剛真心一者、横超二 五種八難道−必獲ニ現生十種益ことも申されて、開信す る身となるその一念に、必ず身に得られる﹁至徳具足、 転悪成善、心多歓喜:::﹂等の益が挙げられていること で あ る 。 次には、親驚聖人に次いで、存覚上人のものをみてみ たい。上人には、﹁破邪顕正抄﹂﹁諸神本懐集﹂等の著 があるが、上人はその﹁諸神本懐集﹂に於て、先ず、諸 種の神社︵神々︶を、﹁権社﹂と﹁実社﹂とに区別され る。即ち﹁権社﹂とは、本地垂述の立場にたって、神々 を杷るものであるが、﹁実社﹂は蛇、狐、その他の動物 等を直接に祭神として記るものである。上人は、この ﹁実社﹂の神々を批判されたのであって、﹁権社﹂の神 々については、正しく本地を崇めるものは、垂迩の神明 に帰し得るものとされる。だが、他方、垂迩のみを尊ぶ 者は、本地に帰すわけではないと。これをもって、上人 は、本地垂遮の信仰は、本源的に、凡て弥陀一仏に帰せ られるものであることを説かれたのである。 ここに、上人は、﹁本地垂迩﹂の所説により、一種の 神祇観を述べられたのであるが、この所説と同様の趣旨 23 は、又、後に、蓮如上人の﹁御文﹂によっても述べられ るところである。今、その一例をあげると﹁神明という は、仏法におひて、信もなき衆生のむなしく地獄におち んことをかなしみおぼしめして、これをなにとしてもす くはんがために、かりに神とあらはれて:::それをたよ りとして、仏法にすすめいらしめんための方便に、神と はあらはれたまふなり。しかれば、いまのときの衆生に おひて、弥陀をたのみ、信心決定して念仏をまうし、極 楽に往生すべき身となりなば、一切の神明は、かへりて わが本懐とおぼしめしてよろこびたまひて、念仏の行者 を 守 護 し た ま ふ べ き あ ひ だ : : : ﹂ ︵ 第 二 帖 ︶ と 。 思うに、この所説のように、正しく本地仏を崇める者 は、重迩の神明に帰するものであると云う表明は、ひと り、本地仏と神明との聞のみならず、阿弥陀仏と諸仏と の聞にも云われたことであった。つまり、観世音菩薩、 薬師仏、地蔵菩薩等は、庶民にとっては、衆生の一、一 の願いに応えて、現世の利益事﹄与え、人々の様々の苦悩 を抜き取ろうとされる諸仏であった。﹁法華経﹂の﹁観 世音菩薩普門品﹂には、このような現世の利益が述べら れている。然し、他方、﹁観無量寿経﹂の﹁定善﹂第十 の﹁観音観﹂には﹁頂上枇拐伽摩尼宝以為=天冠ペ其天

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24 冠中有二立化仏一高二十五由旬﹂と一云う文によって、観 世音はその宝冠中に阿弥陀仏を頂かれることになってい る。思うに、この観世音の御姿は、当面、衆生の個々の 苦をのぞき、現世の利益を念じながら、その心全体が衆 生の解脱を念じておられる御相であると云わなければな らない。又、根源には阿弥陀仏の慈悲を通して、観世音 の慈悲が仰がれることである。 以上、ここに民俗信仰と仏教、殊に、念仏との関り方 をたずね、念仏の本義をいささかでも明らかにせんとし た。その念仏の本義とは、仏智によるところにあると云 わなければならない。然し、他方、民俗信仰にみられる その霊的存在に対する信仰と現世利益、このような側面 が私達の心に如何に深いかも、一面、知ることが出来た。 それは所謂、近代的、啓蒙的な知性によって容易に語ら れるものではない。このような点に、私は第一に﹁念仏 と社会﹂と云う視点をみ、本地垂迩の意味するものをた ずねたのである。 では、次に明治以来の我が国の社会の趨勢について、 その一端を考察してみたい。これをみる時先ず、私達は、 そこに西欧の近代化的所産の我国への導入と云うことに 気付く。即ち、科学、技術を始めとする諸文化の導入は、 私達の社会生活にも急速なる変容を余儀なくさせている かのようである。現在では、工業生産は勿論のこと、そ の農耕生活にも、機械の導入が試みられている。然も、 情報過多とも云うべき社会は、そのマス・コミュニケー ション等により、益々画一化された思考を要請する。そ の生活にみられる利益の追求は、人々の精神性を、謂は ば、置去りにしてその利潤のみを追求する有様を呈して いる。かのテンニlス、 F ・は、所謂、ゲマインシャフ ト︵共同社会︶よりゲゼルシャフト︵利益社会︶への社会 の構造の変化を指摘しているが、このような在り方は、 国々を問わず、社会の構造が近代化されてゆく限り、た どりゆくべき相であろう。或は、ヴエ l パ l 、 M は、そ の著﹁プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神﹂ の中で、その職業意識の変化について述べている。即ち、 そ の 原 語 団 四 叶 丘 、 が 、 召 喚 、 使 命 、 天 職 、 職 業 ぞ 一 不 す よ う に、初め神の召命として従事した職業が、その価値、規 範を離れて、遂に、あくなき利潤の追求のための職業へ と変容するに至ったと云う此の説には、了解さるべき点 も少からずあろう。

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念 仏 と 社 会 何れにしても、このような諸説の背景には、西欧の近 代に固有な特質が考えられなければならない。かのハイ デッガ l 、 M は、その近代の特質を、人々がその束縛よ り自由になったと云うことではなくて、人聞が主体︵ ω 号 ・ 守宮︶となったと云うことにある。更に云えば、人聞を中 心として世界が再構成され、精神が知性に取り換えられ たところにあると述べている。その近代の本質的な諸現 象は、付近代の学問︵近代科学︶

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機 械 技 術 伺 芸 術 制 文 化 伺 神 々 の 退 場 ︵ 何 ロ 仲 間

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ロ 明 ︶ に 於 て 表 わ れ て い る とするが、第一に、価値、規範に関りなき近代科学の普 及が、欧米以外にも、その近代化への道を促したことは 周知のことであろう。文、科学が人々の生活に、大きな 貢献をなしたことも、今更、述べるには及、はない。然し、 その科学的実験による客観性の追求は、遂に、人間存在 をも、エネルギーとか、原素の次元とか云うものに、つ まり、物質的なものに還元していく形で究明していく。 然も、このような在り方は、人々各自が、自己の内面性 にふれていくと云う在り方を閉ざしてしまうことにもな る。そして、ここに生ずる人聞の問題は、特に、医学の 場に於て、堕胎とか、心臓移植とかに伴う問題として、 その話題が提供されてきたことである。その他、今日で 25 は、機械技術の問題、更には、神々の退場︵神性を奪う︶ と云う問題が出てきているが、このことは、西欧に於て は、ニヒリズムの問題として取り上げられているもので あ る 。 然も、このニヒリズムと云い、先の科学の立場を哲学 化したものとも云い得るマルキシズムと云い、又、ヒュ ーマニズムと云い、これらの近代の諸思想は、本来、宗 教に於ては否定さるべき﹁我﹂の主張が、その神性を奪 い去る程にまで成長したことによるものとも思われる。 尤も、このような﹁我﹂的思惟の在り方は、根本的には、 西欧的思惟の基調にあるものとも思われるのであるが。 そして西欧に於て、このニヒリズムの動向を最初に指 摘したのは、ニlチェ、 F ・であった。然も、その﹁神 の死﹂の主張の背景には、深く時代のより広範な、社会 的、文化的現象が洞察されている。ニlチエによれば、 このような﹁神の死﹂は、簡約すれば、その真実に現実 的なる世界であるとみなされてきた超感性的な本体の世 界が崩壊することによって、この此岸的な非現実的な世 界に踏み迷うことにある。然も、この本体と現象と云う 二元的な世界を立てること自体に、西欧におけるニヒリ ズム到来の運命があったことも述べている。然し、この

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