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高 岡 城 跡 の 実 態 とっておき 埋 文 講 座 1 当 センター 高 岡 市 教 育 企 委 画 員 調 会 整 文 課 化 長 財 課 岡 田 本 上 淳 和 一 彦 郎 前 田 家 存 続 という 使 命 が 利 長 に 重 く のしかかっており 有 事 の 際 の 加 賀 藩 東 端

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(1)

埋文

とやま

Toyama Prefectural Center for Archaeological Operations

 高坏の脚は、上に行くに従って細くなって いく円錐状のものが多いが、この高坏は根 元からスリムで、かつ長い。杯の部分は内ぞ りし、2段の曲面で構成されていたり、台座 の縁にはふくらみがもたせてあったりする など、見るほどに作り手の美意識やこだわり を感じることができる。 弥生土器高坏 上市町江上A遺跡出土 とっておき埋文講座①●高岡城跡の実態 とっておき埋文講座②●弥生時代のヒスイ勾玉 埋文あらかると●「考える」授業について センターフラッシュ●催しガイド2015 行ってこられよ●米澤記念館 2015.3.20 VOL

130

富山県埋蔵文化財センター

(2)

当センター 企画調整課長 高岡市教育委員会文化財課 

岡 本 淳 一 郎

田 上 和 彦

高岡城跡の実態

とっておき埋文講座①

 

はじめに

 空中写真で眺めると高岡には、数多く の文化財を確認することができます。国 宝瑞龍寺をはじめ、国史跡加賀藩主前 田家墓所(前田利長墓所)、金屋町重要 伝統的建造物群保存地区、山町筋重要 伝統的建造物群保存地区が挙げられま すが、それらは全て前田家に関連した文 化遺産であり、その中でも高岡城跡は、 高岡市街地の中心に位置しており、高岡 開町の原点です。     

1 立地、特徴、歴史的背景

 まず、高岡城とその城下町は、小矢部 川と庄川に挟まれた高岡台地上に築か れています。高岡城は高岡台地の先端 で一番高いところに築城され、少し下 がったところに武家屋敷、台地の下に町 屋を配置しています。地形を巧みに利用 して城と城下町がつくられたことが分か ります。  次に高岡城跡の特徴は、堀が埋めら れずかつ郭の形が約400年間保存され てきたことです。江戸時代に描かれた絵 図を見ると、形が変わっていないことが 良くわかります。また、本丸の周囲に配 置されている二の丸や三の丸が、馬出 と呼ばれる防御の郭になっており、非常 に防御力に優れた城となっています。  なぜ、高岡の地に城と城下町を作る 必要があったのでしょうか。それは、歴史 的な背景から推測することができます。 高岡城は慶長14年(1609)に築城されて います。その頃は、関東に徳川家、関西 に豊臣家がいる状態で、二重公儀体制 と呼ばれる非常に複雑な政治状況でし た。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは 東軍についたものの、豊臣秀吉とは親し い中であった前田利長率いる前田家が 徳川、豊臣のどちらにつくかは重要なこ とでした。その証拠に前田利長が慶長 19年(1614)に亡くなるとその半年後に は、大坂冬の陣、1年後には大坂夏の陣 が勃発し、豊臣家は滅亡します。  前田家存続という使命が利長に重く のしかかっており、有事の際の加賀藩東 端の支城として高岡城が築かれたと考 えられます。そのため非常に防御を意識 した城と城下町になっているのです。高 岡城は、前田利長の名城と言っても過 言ではありません。  

2 高岡城跡の実態

 平成20年度から平成24年度にかけ て、高岡市教育委員会が高岡城跡詳細 調査を実施しました。  発掘調査  本丸は現在、射水神社の境内地と弓 道場、芝生の広場に使用されています。 平成23年度の調査では、芝生の広場を 対象に調査を行ったところ、近現代の造 成土の下から、礎石が検出されるととも に近世の整地土層が良好に残存してい ることを確認しました。15個の礎石を検 出し、礎石建物の存在が明らかになりま した。  この礎石建物は、廃城後に城内に置 かれた蔵のものではなく、利長居城時 の御殿ではないかと推測していますが、 建物の全容は把握しておらず、さらなる 調査が必要です。  また、平成24年度は射水神社の特別 な許可を得て、境内地の調査を行ったと ころ、本丸を囲む土塁の裾に裏込め石 を伴う 2 段の石積み遺構を確認しまし た。それらは方形の区画を思わせるよう に検出されましたが、詳細な性格につい ては分かっていません。平成23年度の 調査成果と合わせて、本丸における遺 構の残存状況が良好であることを確認 しました。  現在、朝陽橋が架かっている場所に は、慶長17年の絵図によると、「貫土橋」 と表記があります。これは、絵図の中で 「半分足掛 半分車橋」と記載されてお り、常時かけられた橋ではなく、有事の 際には本丸側に引き込むような構造の 橋であったと考えられています。江戸時 代の絵図では橋台が石垣で描画されて おり、石垣の存在も想定されていました。  平成23年度の調査では、地表面から 約30㎝下からトレンチ全体で栗石層が 検出されました。この栗石層が石垣の裏 込め石であると考えられます。  他にも近世城郭の基本構造である土 塁を確認するために、いくつかの郭にお いて土塁を調査しました。高岡城跡で、 特に残存状況が良いとされていた明丸 の土塁では、大量の盛土によって土塁を 築いていたことが判明し、砂と粘土が交 互に積まれていることから、堀を掘った 際の土を土塁に利用したと考えられて います。  発掘調査によって前田利長が生きて いた時の痕跡を発見したことは、重要な 成果だと思います。  石切丁場関連調査  石切丁場関連調査では、二の丸から 本丸にかけての土橋にある石垣がどこ から運ばれてきたかを調査しました。お よそ 7 箇所から石が供給されていたこ とが推定され、その中でも七尾市庵町 白鳥で石切丁場を新たに発見したこと は非常に印象的な出来事でした。現地 では、古記録に記載されていた伝承と 符合するような形で石が割られていた のです。近くで確認すると石を割る順番 や、矢穴(石を割るための楔)の大きさ から高岡城の築城時と同じであること が分かりました。  また、氷見市の虻が島も調査しまし た。現地で刻印の分布を確認し、特徴的 な石については図面に記録しました。刻 印の分布をみると、同じ刻印が集まる部 分が何地点かあり、同じ刻印を共有する 石工が集まって作業していた状況が考 えられます。他にも二つの刻印の間に矢 を入れ割っている事例があり、慶長期に おける石切の実態を把握する上でも重 要な成果を上げました。  高岡城は、緊張した時代背景の中で 当時最先端の設計理念に基づき築か れ、非常に防御力が高い城です。それを 証明するもの(郭や堀、土塁、礎石など の地下遺構など)が良好に残っているこ とが高岡城跡の実態です。さらに、石切 丁場が推定されているなど、城を取り巻 く環境も含めて、高岡城の歴史的価値 の高さは証明されました。  

おわりに

 これから高岡城跡をより多くの人に 知ってもらうには、高岡城跡の魅力を発 信し続ける必要があります。魅力は、た くさんありますが、前田利常と高岡市民 に守られてきた歴史も魅力の一つでは ないかと思います。  高岡城跡は今まで 3 度の危機を乗り 越えています。1度目は一国一城令、2 度目は明治の民間払い下げ、3 度目は 高度成長期の開発ブームです。3 度の 危機を前田利常や高岡市民が守ってき たことは、他の地域と比較しても突出し た特色ではないかと思います。  近年、城を中心としたまちづくりが全 国各地で行われています。高岡城跡も まちづくりの核となる大きな力を秘め ていると思います。現在の高岡城跡は、 都市公園、史跡、自然が三位一体となっ ている状況ですので、今後「高岡らしい」 史跡整備と活用を検討するとともに高 岡城跡の魅力を全国に発信していきた いと思います。 礎石 高岡城の全景 石積み遺構 栗石層 七尾市の石切丁場 明丸土塁 虻が島の石切丁場 まえ だ とし なが ぼ しょ やま ちょう すじ くるわ うま だし そ せき かん ど ばし いし きり ちょう ば なな お いおり くさび くり いし あき まる あぶ こく いん そ せき たて もの ちょう よう ばし に じゅう こう ぎ たい せい けい ちょう

(3)

当センター 企画調整課長 高岡市教育委員会文化財課 

岡 本 淳 一 郎

田 上 和 彦

高岡城跡の実態

とっておき埋文講座①

 

はじめに

 空中写真で眺めると高岡には、数多く の文化財を確認することができます。国 宝瑞龍寺をはじめ、国史跡加賀藩主前 田家墓所(前田利長墓所)、金屋町重要 伝統的建造物群保存地区、山町筋重要 伝統的建造物群保存地区が挙げられま すが、それらは全て前田家に関連した文 化遺産であり、その中でも高岡城跡は、 高岡市街地の中心に位置しており、高岡 開町の原点です。     

1 立地、特徴、歴史的背景

 まず、高岡城とその城下町は、小矢部 川と庄川に挟まれた高岡台地上に築か れています。高岡城は高岡台地の先端 で一番高いところに築城され、少し下 がったところに武家屋敷、台地の下に町 屋を配置しています。地形を巧みに利用 して城と城下町がつくられたことが分か ります。  次に高岡城跡の特徴は、堀が埋めら れずかつ郭の形が約400年間保存され てきたことです。江戸時代に描かれた絵 図を見ると、形が変わっていないことが 良くわかります。また、本丸の周囲に配 置されている二の丸や三の丸が、馬出 と呼ばれる防御の郭になっており、非常 に防御力に優れた城となっています。  なぜ、高岡の地に城と城下町を作る 必要があったのでしょうか。それは、歴史 的な背景から推測することができます。 高岡城は慶長14年(1609)に築城されて います。その頃は、関東に徳川家、関西 に豊臣家がいる状態で、二重公儀体制 と呼ばれる非常に複雑な政治状況でし た。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは 東軍についたものの、豊臣秀吉とは親し い中であった前田利長率いる前田家が 徳川、豊臣のどちらにつくかは重要なこ とでした。その証拠に前田利長が慶長 19年(1614)に亡くなるとその半年後に は、大坂冬の陣、1年後には大坂夏の陣 が勃発し、豊臣家は滅亡します。  前田家存続という使命が利長に重く のしかかっており、有事の際の加賀藩東 端の支城として高岡城が築かれたと考 えられます。そのため非常に防御を意識 した城と城下町になっているのです。高 岡城は、前田利長の名城と言っても過 言ではありません。  

2 高岡城跡の実態

 平成20年度から平成24年度にかけ て、高岡市教育委員会が高岡城跡詳細 調査を実施しました。  発掘調査  本丸は現在、射水神社の境内地と弓 道場、芝生の広場に使用されています。 平成23年度の調査では、芝生の広場を 対象に調査を行ったところ、近現代の造 成土の下から、礎石が検出されるととも に近世の整地土層が良好に残存してい ることを確認しました。15個の礎石を検 出し、礎石建物の存在が明らかになりま した。  この礎石建物は、廃城後に城内に置 かれた蔵のものではなく、利長居城時 の御殿ではないかと推測していますが、 建物の全容は把握しておらず、さらなる 調査が必要です。  また、平成24年度は射水神社の特別 な許可を得て、境内地の調査を行ったと ころ、本丸を囲む土塁の裾に裏込め石 を伴う 2 段の石積み遺構を確認しまし た。それらは方形の区画を思わせるよう に検出されましたが、詳細な性格につい ては分かっていません。平成23年度の 調査成果と合わせて、本丸における遺 構の残存状況が良好であることを確認 しました。  現在、朝陽橋が架かっている場所に は、慶長17年の絵図によると、「貫土橋」 と表記があります。これは、絵図の中で 「半分足掛 半分車橋」と記載されてお り、常時かけられた橋ではなく、有事の 際には本丸側に引き込むような構造の 橋であったと考えられています。江戸時 代の絵図では橋台が石垣で描画されて おり、石垣の存在も想定されていました。  平成23年度の調査では、地表面から 約30㎝下からトレンチ全体で栗石層が 検出されました。この栗石層が石垣の裏 込め石であると考えられます。  他にも近世城郭の基本構造である土 塁を確認するために、いくつかの郭にお いて土塁を調査しました。高岡城跡で、 特に残存状況が良いとされていた明丸 の土塁では、大量の盛土によって土塁を 築いていたことが判明し、砂と粘土が交 互に積まれていることから、堀を掘った 際の土を土塁に利用したと考えられて います。  発掘調査によって前田利長が生きて いた時の痕跡を発見したことは、重要な 成果だと思います。  石切丁場関連調査  石切丁場関連調査では、二の丸から 本丸にかけての土橋にある石垣がどこ から運ばれてきたかを調査しました。お よそ 7 箇所から石が供給されていたこ とが推定され、その中でも七尾市庵町 白鳥で石切丁場を新たに発見したこと は非常に印象的な出来事でした。現地 では、古記録に記載されていた伝承と 符合するような形で石が割られていた のです。近くで確認すると石を割る順番 や、矢穴(石を割るための楔)の大きさ から高岡城の築城時と同じであること が分かりました。  また、氷見市の虻が島も調査しまし た。現地で刻印の分布を確認し、特徴的 な石については図面に記録しました。刻 印の分布をみると、同じ刻印が集まる部 分が何地点かあり、同じ刻印を共有する 石工が集まって作業していた状況が考 えられます。他にも二つの刻印の間に矢 を入れ割っている事例があり、慶長期に おける石切の実態を把握する上でも重 要な成果を上げました。  高岡城は、緊張した時代背景の中で 当時最先端の設計理念に基づき築か れ、非常に防御力が高い城です。それを 証明するもの(郭や堀、土塁、礎石など の地下遺構など)が良好に残っているこ とが高岡城跡の実態です。さらに、石切 丁場が推定されているなど、城を取り巻 く環境も含めて、高岡城の歴史的価値 の高さは証明されました。  

おわりに

 これから高岡城跡をより多くの人に 知ってもらうには、高岡城跡の魅力を発 信し続ける必要があります。魅力は、た くさんありますが、前田利常と高岡市民 に守られてきた歴史も魅力の一つでは ないかと思います。  高岡城跡は今まで 3 度の危機を乗り 越えています。1度目は一国一城令、2 度目は明治の民間払い下げ、3 度目は 高度成長期の開発ブームです。3 度の 危機を前田利常や高岡市民が守ってき たことは、他の地域と比較しても突出し た特色ではないかと思います。  近年、城を中心としたまちづくりが全 国各地で行われています。高岡城跡も まちづくりの核となる大きな力を秘め ていると思います。現在の高岡城跡は、 都市公園、史跡、自然が三位一体となっ ている状況ですので、今後「高岡らしい」 史跡整備と活用を検討するとともに高 岡城跡の魅力を全国に発信していきた いと思います。 礎石 高岡城の全景 石積み遺構 栗石層 七尾市の石切丁場 明丸土塁 虻が島の石切丁場 まえ だ とし なが ぼ しょ やま ちょう すじ くるわ うま だし そ せき かん ど ばし いし きり ちょう ば なな お いおり くさび くり いし あき まる あぶ こく いん そ せき たて もの ちょう よう ばし に じゅう こう ぎ たい せい けい ちょう

(4)

当センター 企画調整課長 富山大学人文学部 

岡 本 淳 一 郎

高 橋 浩 二

弥生時代のヒスイ勾玉

とっておき埋文講座②

 

はじめに

 弥生時代の北陸では、ヒスイの勾玉、 緑色凝灰岩や鉄石英の管玉がたくさん 製作され、全国へ運ばれました。今日は 弥生時代における富山の遺跡の特徴で もあるヒスイ勾玉とその製作に焦点を 当てて話をしたいと思います。     

勾玉とは

 よく知られているように、アルファベッ トのCのように曲がった形をしているも のを勾玉と呼びます。そして、完成品の 勾玉には必ず孔があけられています。こ の孔を「穿孔部」あるいは「紐孔」と呼び ます。名称の通り、ここにひもを通し、頸 飾りとして使うわけです。  勾玉にはさまざまな材質のものがあ りますが、日本では、まずヒスイの勾玉 が最初に製作されました。その後時代を 経て、ガラス、瑪瑙、水晶、碧玉、滑石な どの勾玉が作られます。ヒスイの勾玉 は、もっとも古くからある勾玉なのです。  

弥生時代の勾玉の種類

 弥生時代には、様々な形の勾玉が作 られました。一番形の整っているものは 定形勾玉、そのうち形がいびつなもの は亜定形勾玉と呼ばれています。半月 形で、腹部が半円にえぐられたものは半 玦形勾玉と呼びます。そして、これら 3 つの勾玉を、「弥生系勾玉」と呼びます。  一方、動物がまっすぐ手を伸ばしてい るような形のものを獣形勾玉(櫛形勾 玉)、芋虫のような形で孔が複数あけられ たものを緒締形勾玉といいます。これら を合わせて、「縄文系勾玉」と呼びます。  

ヒスイ勾玉の変遷

 勾玉のルーツの1つは、動物の牙に孔 をあけて頸飾りにした牙玉と考えられま す。動物の強さが想起されることから、 装身具として使われるようになりまし た。それが石で作られるようになったの が、勾玉です。  弥生時代になると、縄文時代の勾玉 の系譜をひく縄文系勾玉に加え、中期か らは弥生系勾玉が現れます。様々な形 の勾玉が混在する時期を経て、弥生時 代の終わりから古墳時代になると、定形 勾玉に収束していきます。  

定型勾玉と半玦形勾玉

 定形勾玉と半玦形勾玉は、形や大き さ、出現背景が全く違います。定形勾玉 は丸みを帯びたつくりで、大きな頭部と 長く伸びた尾部を持ちます。大きさは2 ~5㎝のものが主体です。頭部には刻文 と呼ばれる刻みが入るものがあります。 刻文をもつ勾玉を丁字頭勾玉と呼びま す。一方、半玦形勾玉は、角を残した形 で、頭部と尾部の大きさがほぼ同じで す。勾玉の大きさは、ほとんどのものが 2㎝以下の小さなものばかりです。  

ヒスイ勾玉の製作地

 ヒスイの勾玉が製作された遺跡は、 福井、石川、富山、新潟に集中し、ここか ら全国各地に運ばれています。しかし、 これらの遺跡で見つかる勾玉は、半玦形 勾玉だけです。定形勾玉は、北部九州で 出現し、西日本の各地に広がっていきま す。しかし、北部九州では、定形勾玉の完 成品は出土するのですが、いまだに原石 や未成品など、製作地であることをうか がわせる出土品はまったくなく、どこで 作られたのかはいまだに謎に包まれて います。  ヒスイ定形勾玉の製作地について、 私が有力だと考えるのが、糸魚川原産 地やその周辺の朝日町、北陸西部から 原石、あるいは未成品の形でヒスイが 運ばれていき、北部九州の地で完成品 に仕上げられたという説です。北部九州 では、まだ完成前の段階のものが出土し ておらず、決定打となる証拠がありませ んが、近い将来、ヒスイ定形勾玉の未成 品が見つかるのではないかと思います。  

ヒスイ勾玉保有の意義

 福岡市にある弥生時代中期初頭の墓 から、ヒスイの櫛形勾玉が、銅鏡、銅剣、 銅矛、銅戈といった貴重品と一緒に副葬 品として出土しました。これらの銅製品 などは、一般庶民は持つことのできな い、朝鮮半島、あるいは中国からもたら された貴重な品々です。したがって、こ こに葬られた人は、この地を治めていた 「王」と呼ばれる人物だと考えられます。  副葬品として銅鏡等とともに出土す る勾玉には、ガラス製の勾玉もありま す。貴重品としてのランクは、ガラス製 勾玉が最も高く、ヒスイ勾玉がそれに次 ぐものであったと考えられています。さ らに、勾玉の形も、丁字頭定形勾玉が最 も高いランクで、次いで亜定形勾玉、半 玦形勾玉、縄文系勾玉の順だったと考え られています。  弥生時代になると、人々の間に階層 差が見られるようになります。その階層 差を表現する手段として、鏡や青銅製の 武器、勾玉などが使われたのではない かと考えられます。ヒスイは糸魚川周辺 に産地が限られる希少品であったこと から、ヒスイ勾玉もまた、階層差を表現 するものとして使われるようになったと 思われます。  

施溝分割技法の登場

 非常に硬い石であるヒスイを割る方 法として、弥生時代中期に用いられた特 徴的な技術があります。紅簾片岩の石 鋸を用いて溝をつけ、その箇所に打撃 を加えるときれいに割ることができま す。このような、溝をつけて石を分割す る方法のことを、施溝分割技法といいま す。施溝分割技法を用いると、打割面に は平坦面が得られます。平坦面ができる ことで、規格的な大きさや形の勾玉・管 玉を量産することが可能となります。ま た、ヒスイ原石から緑色透明部な部分を 効率的に取ることが可能となります。  

ヒスイ勾玉の穿孔方法

 勾玉にあけられた孔は、弥生時代には 口径が大きく、断面が円すい形でした が、古墳時代の中期になると口径が小 さく、断面が円筒形のものへ変化しま す。この口径や断面の違いは、穿孔に用 いられた道具の変化(石の穿孔具から 鉄の穿孔具への変化)を表しています。  穿孔の際には、玉が動かないように固 定する必要があります。そこで注目され るのが、上市町の江上A遺跡から出土し た鳴子形木製品です。くぼみの部分に 勾玉を固定して、孔をあけたのではない かと推定されています。日本全国の中 で、江上A遺跡でしか発見されていない 重要な遺物です。  

古墳時代のヒスイ勾玉の製作

 ヒスイ勾玉の製作が確認されている 古墳時代の遺跡には、糸魚川市南押上 遺跡、笛吹田遺跡、そして朝日町の浜山 遺跡などがあります。施溝分割技法が 認められる破片も出土していますが、こ の時代には徐々に少なくなっていくよう です。このため、緑色透明な部分を効率 的に取り出すことができず、白色部分の 目立つ勾玉が多くみられます。弥生時代 に行われた技法はすでに忘れ去られ、ヒ スイ勾玉作り自体も衰退していったこと を物語っています。  古墳時代以降の遺跡からはヒスイの 勾玉はほとんど見つからなくなります。 瑪瑙や碧玉、金銀など、様々な色の装身 具が登場したことや、かつての技法の衰 退で美しい緑色のヒスイが少なくなった ことから、ヒスイの価値が相対的に低下 していったものと思われます。  このように、ヒスイ勾玉を見ることに よって、当時の階層社会のことや、技術 や流行の変遷について知ることができ るのです。 丁字頭定形勾玉(左)と半玦形勾玉(右) 鳴子形木製品と玉類 (江上A遺跡) 勾玉の変遷 《参考文献》 ・河村好光2010『倭の玉器・玉つくりと倭国の  時代』青木書店 ・木下尚子2011「装身具」『講座 日本の考古  学』6弥生時代(下)、青木書店  など 施溝分割された荒割り品(左)と石鋸(右) (下老子笹川遺跡 弥生時代中期) りょく しょく ぎょう かい がん てつ せき えい くだ だま せん こう ぶ はん けつ がた くし がた お じめ がた ちょう じ がしら かざ め のう すいしょう へきぎょく きば だま かっ せき ひも あな じゅうけい こう れん へん がん みなみ おし あげ せ こう ぶん かつ ぎ ほう ふえ ふき だ はま やま え がみ なる こ がた もく せい ひん いし のこ くび

(5)

当センター 企画調整課長 富山大学人文学部 

岡 本 淳 一 郎

高 橋 浩 二

弥生時代のヒスイ勾玉

とっておき埋文講座②

 

はじめに

 弥生時代の北陸では、ヒスイの勾玉、 緑色凝灰岩や鉄石英の管玉がたくさん 製作され、全国へ運ばれました。今日は 弥生時代における富山の遺跡の特徴で もあるヒスイ勾玉とその製作に焦点を 当てて話をしたいと思います。     

勾玉とは

 よく知られているように、アルファベッ トのCのように曲がった形をしているも のを勾玉と呼びます。そして、完成品の 勾玉には必ず孔があけられています。こ の孔を「穿孔部」あるいは「紐孔」と呼び ます。名称の通り、ここにひもを通し、頸 飾りとして使うわけです。  勾玉にはさまざまな材質のものがあ りますが、日本では、まずヒスイの勾玉 が最初に製作されました。その後時代を 経て、ガラス、瑪瑙、水晶、碧玉、滑石な どの勾玉が作られます。ヒスイの勾玉 は、もっとも古くからある勾玉なのです。  

弥生時代の勾玉の種類

 弥生時代には、様々な形の勾玉が作 られました。一番形の整っているものは 定形勾玉、そのうち形がいびつなもの は亜定形勾玉と呼ばれています。半月 形で、腹部が半円にえぐられたものは半 玦形勾玉と呼びます。そして、これら 3 つの勾玉を、「弥生系勾玉」と呼びます。  一方、動物がまっすぐ手を伸ばしてい るような形のものを獣形勾玉(櫛形勾 玉)、芋虫のような形で孔が複数あけられ たものを緒締形勾玉といいます。これら を合わせて、「縄文系勾玉」と呼びます。  

ヒスイ勾玉の変遷

 勾玉のルーツの1つは、動物の牙に孔 をあけて頸飾りにした牙玉と考えられま す。動物の強さが想起されることから、 装身具として使われるようになりまし た。それが石で作られるようになったの が、勾玉です。  弥生時代になると、縄文時代の勾玉 の系譜をひく縄文系勾玉に加え、中期か らは弥生系勾玉が現れます。様々な形 の勾玉が混在する時期を経て、弥生時 代の終わりから古墳時代になると、定形 勾玉に収束していきます。  

定型勾玉と半玦形勾玉

 定形勾玉と半玦形勾玉は、形や大き さ、出現背景が全く違います。定形勾玉 は丸みを帯びたつくりで、大きな頭部と 長く伸びた尾部を持ちます。大きさは2 ~5㎝のものが主体です。頭部には刻文 と呼ばれる刻みが入るものがあります。 刻文をもつ勾玉を丁字頭勾玉と呼びま す。一方、半玦形勾玉は、角を残した形 で、頭部と尾部の大きさがほぼ同じで す。勾玉の大きさは、ほとんどのものが 2㎝以下の小さなものばかりです。  

ヒスイ勾玉の製作地

 ヒスイの勾玉が製作された遺跡は、 福井、石川、富山、新潟に集中し、ここか ら全国各地に運ばれています。しかし、 これらの遺跡で見つかる勾玉は、半玦形 勾玉だけです。定形勾玉は、北部九州で 出現し、西日本の各地に広がっていきま す。しかし、北部九州では、定形勾玉の完 成品は出土するのですが、いまだに原石 や未成品など、製作地であることをうか がわせる出土品はまったくなく、どこで 作られたのかはいまだに謎に包まれて います。  ヒスイ定形勾玉の製作地について、 私が有力だと考えるのが、糸魚川原産 地やその周辺の朝日町、北陸西部から 原石、あるいは未成品の形でヒスイが 運ばれていき、北部九州の地で完成品 に仕上げられたという説です。北部九州 では、まだ完成前の段階のものが出土し ておらず、決定打となる証拠がありませ んが、近い将来、ヒスイ定形勾玉の未成 品が見つかるのではないかと思います。  

ヒスイ勾玉保有の意義

 福岡市にある弥生時代中期初頭の墓 から、ヒスイの櫛形勾玉が、銅鏡、銅剣、 銅矛、銅戈といった貴重品と一緒に副葬 品として出土しました。これらの銅製品 などは、一般庶民は持つことのできな い、朝鮮半島、あるいは中国からもたら された貴重な品々です。したがって、こ こに葬られた人は、この地を治めていた 「王」と呼ばれる人物だと考えられます。  副葬品として銅鏡等とともに出土す る勾玉には、ガラス製の勾玉もありま す。貴重品としてのランクは、ガラス製 勾玉が最も高く、ヒスイ勾玉がそれに次 ぐものであったと考えられています。さ らに、勾玉の形も、丁字頭定形勾玉が最 も高いランクで、次いで亜定形勾玉、半 玦形勾玉、縄文系勾玉の順だったと考え られています。  弥生時代になると、人々の間に階層 差が見られるようになります。その階層 差を表現する手段として、鏡や青銅製の 武器、勾玉などが使われたのではない かと考えられます。ヒスイは糸魚川周辺 に産地が限られる希少品であったこと から、ヒスイ勾玉もまた、階層差を表現 するものとして使われるようになったと 思われます。  

施溝分割技法の登場

 非常に硬い石であるヒスイを割る方 法として、弥生時代中期に用いられた特 徴的な技術があります。紅簾片岩の石 鋸を用いて溝をつけ、その箇所に打撃 を加えるときれいに割ることができま す。このような、溝をつけて石を分割す る方法のことを、施溝分割技法といいま す。施溝分割技法を用いると、打割面に は平坦面が得られます。平坦面ができる ことで、規格的な大きさや形の勾玉・管 玉を量産することが可能となります。ま た、ヒスイ原石から緑色透明部な部分を 効率的に取ることが可能となります。  

ヒスイ勾玉の穿孔方法

 勾玉にあけられた孔は、弥生時代には 口径が大きく、断面が円すい形でした が、古墳時代の中期になると口径が小 さく、断面が円筒形のものへ変化しま す。この口径や断面の違いは、穿孔に用 いられた道具の変化(石の穿孔具から 鉄の穿孔具への変化)を表しています。  穿孔の際には、玉が動かないように固 定する必要があります。そこで注目され るのが、上市町の江上A遺跡から出土し た鳴子形木製品です。くぼみの部分に 勾玉を固定して、孔をあけたのではない かと推定されています。日本全国の中 で、江上A遺跡でしか発見されていない 重要な遺物です。  

古墳時代のヒスイ勾玉の製作

 ヒスイ勾玉の製作が確認されている 古墳時代の遺跡には、糸魚川市南押上 遺跡、笛吹田遺跡、そして朝日町の浜山 遺跡などがあります。施溝分割技法が 認められる破片も出土していますが、こ の時代には徐々に少なくなっていくよう です。このため、緑色透明な部分を効率 的に取り出すことができず、白色部分の 目立つ勾玉が多くみられます。弥生時代 に行われた技法はすでに忘れ去られ、ヒ スイ勾玉作り自体も衰退していったこと を物語っています。  古墳時代以降の遺跡からはヒスイの 勾玉はほとんど見つからなくなります。 瑪瑙や碧玉、金銀など、様々な色の装身 具が登場したことや、かつての技法の衰 退で美しい緑色のヒスイが少なくなった ことから、ヒスイの価値が相対的に低下 していったものと思われます。  このように、ヒスイ勾玉を見ることに よって、当時の階層社会のことや、技術 や流行の変遷について知ることができ るのです。 丁字頭定形勾玉(左)と半玦形勾玉(右) 鳴子形木製品と玉類 (江上A遺跡) 勾玉の変遷 《参考文献》 ・河村好光2010『倭の玉器・玉つくりと倭国の  時代』青木書店 ・木下尚子2011「装身具」『講座 日本の考古  学』6弥生時代(下)、青木書店  など 施溝分割された荒割り品(左)と石鋸(右) (下老子笹川遺跡 弥生時代中期) りょく しょく ぎょう かい がん てつ せき えい くだ だま せん こう ぶ はん けつ がた くし がた お じめ がた ちょう じ がしら かざ め のう すいしょう へきぎょく きば だま かっ せき ひも あな じゅうけい こう れん へん がん みなみ おし あげ せ こう ぶん かつ ぎ ほう ふえ ふき だ はま やま え がみ なる こ がた もく せい ひん いし のこ くび

(6)

「考える」授業について

 

1 はじめに

 当センターでは、児童・生徒を対象に した「出前授業」「来館学習」を行ってい ます。富山県内で発掘された出土品一 式(出前キット)や昔の火起こし道具など をもとに授業します。実際に本物に触れ た児童・生徒のほとんどは、感動し、満足 しているようです。  今年度は今までの授業を発展させ、 より感動を与えることができるような工 夫をしてみました。  

2 「考える」がキーワード

 私はより感動を与えるためには、「考 える」ことが重要だと思います。自分自 身、子どもの頃の記憶をたどってみて も、自ら考え、行動し、体験したことはい い思い出として、記憶に残っています。 この体験を児童・生徒にも実感してほし いと思ったのです。「見て、ふれて、考え て、学ぶ」これらを今年の目標に授業に 取り組んできました。その取り組みにつ いて、紹介します。  

3 火起こし体験学習

 今までの火起こし体験は、①まいぎり 法に関する説明②職員によるデモンス トレーション③火起こし体験の実施、と いう流れで行っていました。  今年度は新たに次のものを準備しま した。学習指導案、縄文服、火起こし道具 (もみぎり用、弓ぎり用)、マニュアルプリ ント。  まず、児童・生徒に縄文服を着せて、感 想を発表させます。すると、「冬寒い。風 邪をひく。凍え死んでしまう。」などの答 えが返ってきます。   次に「 そ れではどうすればい い の か?」と質問をすると、「火をおこして、暖 をとる」と大抵、答えます。  ここで火起こしが始まります。生徒に 昔の火おこしの方法を考えさせるので す。すると、多くの生徒が、手と手を擦り 合わせる仕草をします。そこで、代表に もみぎり法(一本の棒で起こす方法)を 行わせます。  実施後、感想を発表させると、「全然 火がつかない。手が痛い。疲れた。凍え 死んでしまう。」といった答えが返ってき ます。ここでは、昔も火を起こしが大変 な作業であったこと、先人たちは工夫を 重ね、弓ぎり法やまいぎり法を生みだし ていったことを説明します。  次に、弓ぎり法やまいぎり法の実施と なります。ほとんどの児童・生徒にはまい ぎり法を実施させます。そして、実施後 感想を発表させます。  これらの内容は、学習指導案として事 前に学校に配布し、また、火起こしマニュ アルも渡しました。  全体をとおして、最低4回は「考える」 ことができるようになりました。  

4 出土品解説授業

 出土品解説授業では、「出土品を年代 ごとに並べ替えてみよう」という課題を 出しました。まず、ワークシートを準備し ます。  ワークシートに製作年代の異なる4つ の出土品を提示しておきます。まず、見 た目だけで古い順に並べ変えるのです。  次に班毎に4つの出土品に触れなが ら、厚さや重さ、肌触りなどを確認しま す。続けて、触れた感想をワークシート にまとめていきます。  最後は、班の代表が並べ替えの答え を発表し、センター職員が答え合わせ、 解説を行います。  出土品に触れるだけでなく、触れるこ とに意味を持たせ「考える」ようにした のです。  

5 終わりに

 「色々考えて火をつけることで、火の 大切さや火をつける意味が分かりまし た。」「実際に触ったり、話し合ったり、考 えたりすることで、最初に考えた出土品 の並び順が変わり、最後には正解できた のでよかった。」これらは、「考える」授業 後の感想の一部です。多くの児童・生徒 は活動に意味をもって取り組むことがで きたように思えます。  今後は、まが玉づくりや組ひもづくり でも「考える」活動を取り入れたり、校区 の遺跡地図を活用した「考える」授業を 展開したりするなど、より一層、感動を与 えられる授業をしていきたいです。 (松本 真吾)  県内遺跡から出土した、他地域の文化の影響を受け た出土品や、陸路や海路などを通じてとやまに運び込 まれた出土品を展示し、古代のとやま人の他地域との 交流に焦点を当てて紹介します。 平成27年

4月11日(土)~

6月14日(日)

 全国各地の発掘調査で近年特に注目された出土品を 巡回展示する催しです。  富山県埋蔵文化財センターからは、小竹貝塚出土品 を出品します。 平成27年

8月1日(土)~

9月6日(日)

 北陸新幹線建設に伴い、県内各地で行われた発掘調 査による出土品や写真を展示します。 平成27年

9月18日(金)~

11月23日(月)

 県内で発掘された縄文時代の集落および貝塚などか らの出土品や写真パネルなどを展示し、県内の縄文時 代の社会の様子や文化を紹介します。 平成27年

12月9日(水)~

平成28年

3月21日(祝・月)

展示室

 91体の縄文人骨が出土し、注目が集まる小竹貝塚。 今展示では、埋葬人骨、復顔レプリカを初公開し、縄 文時代に生きたとやま人の姿を明らかにします。

収蔵展示室

催しガイド 2015

「古代へのとびら2015」

~古代とやまの旅~

企画展

小竹貝塚

縄文人の世界

常設

「発掘された日本列島

2015」展

特別展

「北陸新幹線を掘る」

特別展

「縄文時代のとやま」

企画展

縄文土器(小竹貝塚) 青森県から来た黒曜石(南砺市立美遺跡) イノシシ型土製品(小竹貝塚) 江尻遺跡 玦状耳飾(平岡遺跡)  親子で楽しく学ぶ考古学教室です。まが玉づくりやガラ ス玉づくりなどの古代体験を通して、先人の知恵や技を習 得します。 ・開催日 7月28日~30日 8月3日~7日 8月10日~11日 ・対 象 小学校4・5・6年生とその保護者      ※まが玉づくりは小学1年生から参加可能  考古学の入門編から近年の発掘調査成果まで、当セン ター職員を中心に著名な講師も交え、わかりやすく解説す る講座です。  平成27年度は、5月より全9回の開催を予定しています。  当センター職員が県内の遺物や古代体験キットを持って公民 館等の施設を訪れます。出土品に触れながら話を聞いたり、土 器づくりや火起こしなどの体験をしたりすることができます。 ・対象 小・中学生及び一般   火起こし、まが玉づくり、組ひもなど古代の技術を習得 する養成講座です。 ・開催日 8月18日 8月20日 8月25日 8月27日 ・対 象 小・中学生 ・開催日 8月22日 29日

■ ふるさと考古学教室

■ 県民考古学講座

■ ミニ考古学博物館

■ こども考古学クラブ

■ 夏休みの自由研究アドバイスの日

火起こし(もみぎり法) 出土品に触れて、考える 考えた意見をまとめる 火起こし(まいぎり法)

(7)

「考える」授業について

 

1 はじめに

 当センターでは、児童・生徒を対象に した「出前授業」「来館学習」を行ってい ます。富山県内で発掘された出土品一 式(出前キット)や昔の火起こし道具など をもとに授業します。実際に本物に触れ た児童・生徒のほとんどは、感動し、満足 しているようです。  今年度は今までの授業を発展させ、 より感動を与えることができるような工 夫をしてみました。  

2 「考える」がキーワード

 私はより感動を与えるためには、「考 える」ことが重要だと思います。自分自 身、子どもの頃の記憶をたどってみて も、自ら考え、行動し、体験したことはい い思い出として、記憶に残っています。 この体験を児童・生徒にも実感してほし いと思ったのです。「見て、ふれて、考え て、学ぶ」これらを今年の目標に授業に 取り組んできました。その取り組みにつ いて、紹介します。  

3 火起こし体験学習

 今までの火起こし体験は、①まいぎり 法に関する説明②職員によるデモンス トレーション③火起こし体験の実施、と いう流れで行っていました。  今年度は新たに次のものを準備しま した。学習指導案、縄文服、火起こし道具 (もみぎり用、弓ぎり用)、マニュアルプリ ント。  まず、児童・生徒に縄文服を着せて、感 想を発表させます。すると、「冬寒い。風 邪をひく。凍え死んでしまう。」などの答 えが返ってきます。   次に「 そ れではどうすればい い の か?」と質問をすると、「火をおこして、暖 をとる」と大抵、答えます。  ここで火起こしが始まります。生徒に 昔の火おこしの方法を考えさせるので す。すると、多くの生徒が、手と手を擦り 合わせる仕草をします。そこで、代表に もみぎり法(一本の棒で起こす方法)を 行わせます。  実施後、感想を発表させると、「全然 火がつかない。手が痛い。疲れた。凍え 死んでしまう。」といった答えが返ってき ます。ここでは、昔も火を起こしが大変 な作業であったこと、先人たちは工夫を 重ね、弓ぎり法やまいぎり法を生みだし ていったことを説明します。  次に、弓ぎり法やまいぎり法の実施と なります。ほとんどの児童・生徒にはまい ぎり法を実施させます。そして、実施後 感想を発表させます。  これらの内容は、学習指導案として事 前に学校に配布し、また、火起こしマニュ アルも渡しました。  全体をとおして、最低4回は「考える」 ことができるようになりました。  

4 出土品解説授業

 出土品解説授業では、「出土品を年代 ごとに並べ替えてみよう」という課題を 出しました。まず、ワークシートを準備し ます。  ワークシートに製作年代の異なる4つ の出土品を提示しておきます。まず、見 た目だけで古い順に並べ変えるのです。  次に班毎に4つの出土品に触れなが ら、厚さや重さ、肌触りなどを確認しま す。続けて、触れた感想をワークシート にまとめていきます。  最後は、班の代表が並べ替えの答え を発表し、センター職員が答え合わせ、 解説を行います。  出土品に触れるだけでなく、触れるこ とに意味を持たせ「考える」ようにした のです。  

5 終わりに

 「色々考えて火をつけることで、火の 大切さや火をつける意味が分かりまし た。」「実際に触ったり、話し合ったり、考 えたりすることで、最初に考えた出土品 の並び順が変わり、最後には正解できた のでよかった。」これらは、「考える」授業 後の感想の一部です。多くの児童・生徒 は活動に意味をもって取り組むことがで きたように思えます。  今後は、まが玉づくりや組ひもづくり でも「考える」活動を取り入れたり、校区 の遺跡地図を活用した「考える」授業を 展開したりするなど、より一層、感動を与 えられる授業をしていきたいです。 (松本 真吾)  県内遺跡から出土した、他地域の文化の影響を受け た出土品や、陸路や海路などを通じてとやまに運び込 まれた出土品を展示し、古代のとやま人の他地域との 交流に焦点を当てて紹介します。 平成27年

4月11日(土)~

6月14日(日)

 全国各地の発掘調査で近年特に注目された出土品を 巡回展示する催しです。  富山県埋蔵文化財センターからは、小竹貝塚出土品 を出品します。 平成27年

8月1日(土)~

9月6日(日)

 北陸新幹線建設に伴い、県内各地で行われた発掘調 査による出土品や写真を展示します。 平成27年

9月18日(金)~

11月23日(月)

 県内で発掘された縄文時代の集落および貝塚などか らの出土品や写真パネルなどを展示し、県内の縄文時 代の社会の様子や文化を紹介します。 平成27年

12月9日(水)~

平成28年

3月21日(祝・月)

展示室

 91体の縄文人骨が出土し、注目が集まる小竹貝塚。 今展示では、埋葬人骨、復顔レプリカを初公開し、縄 文時代に生きたとやま人の姿を明らかにします。

収蔵展示室

催しガイド 2015

「古代へのとびら2015」

~古代とやまの旅~

企画展

小竹貝塚

縄文人の世界

常設

「発掘された日本列島

2015」展

特別展

「北陸新幹線を掘る」

特別展

「縄文時代のとやま」

企画展

縄文土器(小竹貝塚) 青森県から来た黒曜石(南砺市立美遺跡) イノシシ型土製品(小竹貝塚) 江尻遺跡 玦状耳飾(平岡遺跡)  親子で楽しく学ぶ考古学教室です。まが玉づくりやガラ ス玉づくりなどの古代体験を通して、先人の知恵や技を習 得します。 ・開催日 7月28日~30日 8月3日~7日 8月10日~11日 ・対 象 小学校4・5・6年生とその保護者      ※まが玉づくりは小学1年生から参加可能  考古学の入門編から近年の発掘調査成果まで、当セン ター職員を中心に著名な講師も交え、わかりやすく解説す る講座です。  平成27年度は、5月より全9回の開催を予定しています。  当センター職員が県内の遺物や古代体験キットを持って公民 館等の施設を訪れます。出土品に触れながら話を聞いたり、土 器づくりや火起こしなどの体験をしたりすることができます。 ・対象 小・中学生及び一般   火起こし、まが玉づくり、組ひもなど古代の技術を習得 する養成講座です。 ・開催日 8月18日 8月20日 8月25日 8月27日 ・対 象 小・中学生 ・開催日 8月22日 29日

■ ふるさと考古学教室

■ 県民考古学講座

■ ミニ考古学博物館

■ こども考古学クラブ

■ 夏休みの自由研究アドバイスの日

火起こし(もみぎり法) 出土品に触れて、考える 考えた意見をまとめる 火起こし(まいぎり法)

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今度の休日、ちょっと出かけてみませんか。

富山県

米澤記念館

入善町入膳  明治時代、廃藩置県後様々な変遷を経た富山県は、明治9年 に石川県に編入されます。度重なる河川の氾濫に苦しみ、治水を 重視する旧越中の住民の意見と、行政の主力を金沢中心の道路 整備に置く加賀・能登側の意見は対立し、分県運動が起こりま す。このとき、分県の立役者となったのが、入善出身の県議で、 「分県之建白」を作成した米澤紋三郎です。  米澤記念館は、「分県の父」である米澤紋三郎と、入善町政に多 大な功績を残した米澤元健にゆかりのある資料や、入善町に関わ りの深い古文書類など、明治期以降の世相や人々の暮らしぶりな どが伝わってくる資料が多数展示されています。さらに、5月10 日(日)までは、企画展「歴史の玉手箱展」が開催されています。  建物は明治43年に書庫として建てられた土蔵を移築したもので す。入善駅からほど近く、市街地に佇む小さな博物館です。開業 したての「あいの風とやま鉄道」に乗って、暖かな春の日のお出か けはいかがでしょう。 平成27年3月20日発行 編集/富山県埋蔵文化財センター 〒930-0115 富山市茶屋町206-3 TEL 076-434-2814

富山県埋蔵文化財センターニュース「埋文とやま」

vol.130 URL http://www.pref.toyama.jp/branches/3041/maibun/index.html

《60》

■自家用車  国道8号線「入善高校西」交差点を入善駅方向へ500m ■公共交通機関  あいの風とやま鉄道 入善駅から徒歩2分 編集後記  もうすぐ27年度のスタート。待望の新幹線も開通し、今年はいろんな所からお客さんがいらっしゃることでしょう。 わくわくしながら、企画展に向けて、準備を進めるとしましょう。 (担当 坪坂) あいの風とやま鉄道 入善駅 入善駅 入善高校 入善高校 米澤記念館 米澤記念館 桃李小 桃李小 入善西中 入善西中 文 文 文 入善町役場入善町役場 じょうべのま 遺跡 じょうべのま 遺跡 入善 中央公園 入善 中央公園 入善 スマートIC 入善 スマートIC 入善高校西 上野中 椚山口 8 63 2 ● 富山大学 北陸新幹線 ● 県庁 富山駅 至新潟 富山I.C 至金沢 至高岡 野町 古沢 至魚津 北陸自動車道 ● 峠茶屋 呉羽山 県立図書館前 ファミリー パーク 県立図書館 ● 神通川 41 8 あ い の 風 と や ま 鉄 道 埋蔵文化財 センター 至新潟 至高山 富山西I.C 至金沢 八町

参照

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