• 検索結果がありません。

こぺる No.236(2012)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "こぺる No.236(2012)"

Copied!
20
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

勺 / ﹂ 4El

u

n

ι

A

E

E

l

A

B

B

とべる刊行会

NO 236

自分史のこころみ⑫ 今を生きる街からー東九条と私 金光敏 四日市から@ がんを発症する 坂倉加代子 いのちを生きる⑧ 生と死の狭間で 長 谷川洋子 〈幻の銀河〉 ー写真と文 小林 茂

(2)

写 真 と 文 小 林 茂 広がる水銀汚染。タンザニアの金鉱山労働者から水俣病に似た症状が発 現。労働者を診察する原田正純医師。 (タンザニア・ビクトリア湖周辺。 1996年8月) 1996年、東アフリカのタンザニアで農村開発に取り組むNGO 「地球緑化の会」が、「ビクトリ ア湖環境調査団」を派遣した。団長は水俣病の専門家の原田正純さん(当時、熊本大学助教授)。 私はその記録係りとして参加した。ビクトリア湖の水質が悪化。また、 1980年代後半から、湖 周辺で金の採掘が盛んになり、その精錬過程で水銀が使われていた。採掘、粉砕、すべてが過酷 な手作業だ、った。精錬は金を含んだ泥に水銀を入れ、その混合物を火にかけ、水銀だけを蒸発さ せ金をとるという原初的な方法。蒸発する水銀を体内に吸い込むと水俣病に似た手足のしびれな どの症状を引き起こす。 レオナルド・ディカプリオ主演の映画『ブラッド・ダイヤモンド』 (2006)はアフリカの過 酷な労働によって採掘されるダイヤモンドをめぐるドラマ。『ダーウィンの悪夢』 (2004)はビ クトリア湖の巨大肉食外来魚をめぐるドキュメンタリー。金もダイヤも魚も日本に輸入されてい る。グローパル社会の裏面をわれわれは知らなければなるまい。 (原田正純医師は、当時、母親の胎盤が有毒物質を通さないという「常識」をくつがえし、母親の摂取した有 機水銀が「胎児性水俣病Jを引き起こすことを明らかにした。 2012年6月11日、急性骨髄性白血病のため死 去。 77歳。最期まで水俣に行きたいと話していたという)

(3)

自分史のこころみ⑫

今を生きる街から

東九条と私

キンクアンミン 金 光 敏 ︵ 保 育 土 ・ 京 都 市 在 住 ︶ 私が生まれ育った街は、在日コリアンの多く住む大阪 市生野区。そして、私が自分で選んで住み続けている街 は、京都市南区の東九条。私はこの街で働き、家族と暮 らし、多くの人々と出会ってきました。気がつけば、三 十 年 の 歳 月 が 流 れ て い ま し た 。 東九条との出会い 一 九 八

0

年代初頭、私は自己のアイデンティティに悩 む中、ル

l

ツを同じくする先輩や仲間たちと韓国の民主 化 、 祖 国 の 統 一 を 求 め 、 日 々 活 動 し て い ま し た 。 九 八

O

年の韓国に於ける光州民衆抗争は、軍事独裁の続く韓 国において、まさしく歴史を変える闘いであり、私は同 時代を生きる者として光州に連帯する行動を模索してい ま し た 。 ンの家を一軒ずつ訪ね、韓国民主化闘争への支援・連帯一 を主張しながら、ビラをまいて歩きました。そのことを、 私たちは﹁同胞情宣﹂と呼んでいました。この﹁同胞情一 宣﹂によって、私は東九条の門を叩く機会を得たのです。 東九条の地域の歴史も、街の人々が個々にどのような人一 生を歩んでこられたかも知らないまま、私は自分の主張一 を 一 方 的 に 発 信 し て い ま し た 。 京都市南区東九条は京都駅八条口の南側に位置し、 す う じ ん ﹁ オ

l

ルロマンス事件﹂︵一九五一年︶で知られる崇仁地一 区に隣接した、京都市の中で最も多く在日外国人が居住↑ する地域です。戦後、京都駅裏には闇市が広がり、国鉄一 沿線の高瀬川、鴨川の土手には、ぎっしりとバラックが一 こぺる 1

(4)

立 ち 並 び ま し た 。 そこでは、在日コリアンを含む多くの 人々がなんとか風雨を凌いで、戦後の混乱期を過ごして い ま し た 。 ﹁ オ

i

ル ロ マ ン ス 事 件 ﹂ 以降、同和行政が進む中、 ﹁ 崇 仁 地 区 疎 開 跡 整 備 事 業 ﹂ ﹁ 崇 仁 地 区 国 鉄 沿 線 南 部 パ ラ ツ ク地区清掃事業﹂によってバラックが撤去され、多くの 在日コリアンは居住の地を南に移していったと言われて い ま す 。 特 に 河 原 町 通 り 以 東 の 地 域 は 、 パ タ ヤ ︵ 廃 品 回 収 ︶ 、 土 工 、 日雇いで生活をつなぐ低所得者労働者が多 く 集 ま り 、 一 九 六 五 年 に は 人 口 が ピ

i

ク と な り ま し た 。 狭い路地にバラック住宅や老朽アパートが密集し、六

O

年 代 、 七

0

年代には、度重なる火災によって、多くの死 傷 者 、 擢 災 者 が 出 ま し た 。 更に南に下がると、九条と十条の問、高瀬川と鴨川の 堤 防 上 の 地 域 に 、 五

0

年 代 か ら 人 が 住 み 始 め 、 そ の 後 七

0

年代には、百八十世帯二百数十名が居住し、 そ の 八 割 以上が在日コリアンで形成されていました。 河川敷の ﹁ 不 法 占 拠 ﹂ であることから、長い間、行政施策から放 ゼ ロ ﹁

O

番 地 ﹂ ﹁ 堤 防 ﹂ と い う 差 別 的 な 置 さ れ 、 近 隣 か ら は 、 呼 び 方 を さ れ て き た 地 域 で す 。 そこにおける在日コリアンの劣一 悪な環境を目の当たりにして立ちすくんだ記憶がありま一 す。そして少しずつ一方通行の﹁同胞情宣﹂に疑問を感一 じるようになってきました。私は誰と対話しているのだ一 ろう。何も見えていないし、見ようとしていない。 四

O

番 地 で の 自 治 会 活 動 一 その後、私はこの河川敷地域の扉を聞けて、自治会活一 動に参加することになりました。一歩足を踏み入れたと一 たんに、私の薄っぺらな同情と感傷は吹っ飛んでいきま一 し た 。 ﹁

O

番地﹂﹁堤防﹂と呼ばれていた地域には、住民一 自らがつけた﹁四

O

番地﹂という誇り高い地名がありま一 し た 。 四

O

番地には在日コリアン一世の方々が多く生活一 されていて、私は彼らの生きる力、生活力に圧倒され、 ﹁気の毒な﹂在日コリアンをイメージしていた自分を恥一 前述の ﹁ 同 胞 情 宣 ﹂ で こ の 河 川 敷 の 地 域 に 入 っ た 時 、 正 直 私 は 時 代 を 疑 い ま し た 。 八

O

年当時でも水道が通つ て い な い 状 況 で し た 。 自 分 自 身 も 決 し て 裕 福 な 地 域 で 育 つ た わ け で は な い け れ ど 、 じ ま し た 。

(5)

高瀬川と鴨川の二重堤防を渡る橋が住民自らの手で造 られ、どんなに狭い土地も耕され、そこには、プッコツ は、私を歓迎してくれましたが、皆やんちゃで、最初の 頃は自治会館で暴れるだけでした。ボランティアに来て 防の狭い路地には朝鮮語の会話が飛び交い、夏祭りには チ︵朝鮮とうがらし︶やニラが植えられていました。堤くれたシスターたちが呆れて一日で来なくなったほどで す 。 民族楽器の名手のハラボジ︵おじいさん︶が奏でるチヤ ンゴ︵長鼓︶のリズムに合わせて、 ハルモニ︵おばあさ ん︶たちが乱舞する光景がありました。初めて覚えた日 本 語 の 歌 だ と 言 っ て 、 ハルモニが歌う調子外れの ﹁ 炭 坑 節﹂は、愉快だけどどこか切ない、そんな調べでした。 自治会費を滞納する住民、その住民が祭りに参加してい ることに目を吊り上げるアジユモニ︵おばさんて には人が生活する上で起きる当たり前のもめごとや喧嘩 もありました。生活と文化と人々の息づかいが、遠く祖 国を離れた京都の片隅に溢れていました。 七

0

年代は子どもが多い地域でしたが、地域から出て いく若年層が多くなり、八

0

年代には子どもが激減して いました。そんな中、子ども会を再建したところ、地域 の個性豊かな子どもたちが集まりました。ハンディキヤツ プをもっ子どもが数人いたり、 そ こ だ け ど 、 器︶を練習し、四

O

番地の夏祭りを盛り上げてくれたの一 です。八

0

年代後半には、夏祭りに四

O

番地の外からも一 人々が集まり、踊りの輪が広がっていきました。八月の一 満月の下、鴨川の河川敷には民族楽器の音が鳴り響き、 小さな﹁マダン︵広場︶﹂が生まれていました。 四

O

番地から東松ノ木町に コリアンの文化が花聞いていた都会の周縁の異空間は、 生命の危機にさらされる不安定な生活環境の上に存在し一 ていました。大火があれば、消防車も入れず、延焼し、 多くの人々が焼け出された歴史があります。大水や倒壊一 の危機があり、電話も上下水道もない地域に住まざるを一 こぺる 八人姉妹がいたり、四

O

得なかった事情は、個人の問題としてだけでは説明でき 番地近隣から子ども会に来る子もいました。子どもたちないでしょう。 3

(6)

公営住宅および住宅公団の国籍条項が廃止されたのは 一 九 八

O

年になってからのことです。長年﹁不法占拠﹂ ということで、住民の生存権を脅かす状況を放置してき たことと、住民の八割以上が在日コリアンであったこと は単なる偶然なのでしょうか。 その問、行政は同和事業 を展開し、着実に部落の住環境を整備し、雇用を促進し て き ま し た 。 明 ら か に 、 四

O

番地は置き忘れられた辺境 の 地 で し た 。 し か し 、 四

O

番地の住民が沈黙していたわけではあり ま せ ん 。 四

O

番地で育った青年たちゃ支援者が、住民と ともに災害の問題、衛生上の問題、水道の問題等の切実 な要求を行政に訴え続けていました。 その粘り強い運動 の 成 果 と し て 、 一九七九年、京都府土木事務所所長名で ﹁謝罪並び確約書﹂が提出されたのです。その書面には、 ﹁ 民 族 差 別 に よ る 歴 史 的 経 緯 ﹂ を認める文言が明記され て い ま し た 。 四

O

番地自治会と行政との血の出るせめぎ合いの中で 生まれたこの一文は、戦後、厳しい差別と無権利状態の 中で生きぬいた在日コリアンたちの苦労が実り、 一 地 域 の事業に結びついたという意味において画期的であった 年、京都市、京都府が住民の要望を受け、高瀬川をショ

l

一 トカットした上に公営住宅を建設することを合意しまし一 た。一九九六年、町名が正式に東松ノ木町となり、第一 棟が完成。現在は三棟の団地の中に、元住民と一般公募一 で入居した人々が暮らしています。︵二

O

O

五 年 現 在 、 一四七名入居。在日コリアンの割合は六二パーセント︶ 二

O

O

五年に公開された映画﹁パッチギ﹂に残された一 四

O

番地の風景は、今は見られません。 しかし現在では、住宅管理事業を担う NPO 法人東九一 条まちづくりサポートセンター︵まめもやし︶のスタツ フが、高齢化する住民の生活支援、住民コミュニティへ の協力、聞き取り作業などを精力的に行っています。在一 日コリアン一世の聞き取り以外にも、四

O

番地では少数一 派の日本人の方の興味深い聞き取りもあります。また、 会食事業のメニューにはキムチは欠かせませんし、ナム一 ピビンパ、豆もや一 と 私 は 思 っ て い ま す 。 そ の 後 、 一 九 八 二 年 に 、 全 戸 上 水 道 が 敷 設 さ れ て 以 降 、 住環境整備についての交渉が続けられました。 一 九 九 二 ル、チヤプチェ、焼き肉、サンチュ、 し ス

i

プ、タンスル、シリット、あわびのお粥、といっ

(7)

たコリアのおいしい食べ物が並んでいます。 四

O

番地自治会が勝ち取ったものは、東松ノ木団地と い う 箱 で は な く て 、 ハ ル モ ニ 、 ハラボジたちの﹁安全﹂ と ﹁安心感﹂だったのではないでしょうか。もうそこに は、強制立ち退きの危機は存在しません。 東九条で出会った在日コリアン 大学時代の民族運動の中で、 コリアンと日本人、差別 と被差別というこ極化した考え方が自分の中で固定化さ れつつあった私にとって、東九条での在日コリアンとの 出会いは衝撃的でした。 東九条の在日コリアンは、同じコリアンであっても、 私とは異なる環境で育ち、 また考え方も違いました。 ﹁ 初 め に 民 族 あ り き ﹂ ではなく、地域を基盤とした中で、 差別と貧困の問題をとらえていました。四

O

番地で少年 期を過ごし、やんちゃの限りを尽くした在日コリアンの 若 者 た ち が 、 日本人の ﹁ ア ニ キ ﹂ に 導 か れ 、 七

0

年 代 、 地域の青年会として活動していく話を、私は興味津々で 聞き、新鮮な感動を覚えたものでした。民族運動しか知 日 本 人 と 共 に 、 権利獲得のために闘かっていた在日コリアンはとても刺一 激的で魅力的でした。 コ ウ ヨ ン サ ン その中で、今は亡き高英三氏は圧倒的存在感があり、 彼を中心として地域や職場の仲間が彼の家に集まり、私一 も親交を深めていきました。私はその地域の仲間と共に、 外国人登録法、入管法の問題を議論し、アクションを起一 こしていきました。学生時代の韓国の民主化、祖国の統一 一を求めた運動から、自分たちの日本における権利の問一 題に、私自身の軸足を移していったのです。 学生時代の運動との根本的な違いは、﹁理念﹂だけで一 つながっているのではなく、地域での日々の﹁暮らし﹂ それぞれの暮ら一 らなかった私にとって、地域や職場で、 の中でつながっているということです。 しへの理解がある中での運動だったので、私が微力であっ 仲 て 間 も と の 家 関 庭 係 の が 事 崩 情 れ で る 時 ァ 間 ξ 的

は巴

房 、 多F

百加

ま が

せ 眼

ん 竺

I~

売量

つ で も ﹁ 政 治 ﹂ を語りながら、子育ての悩みも聞いてもらえる関係だっ た の で す 。 こベる 民衆文化運動との出会い 5

(8)

私が今の地域の保育園に勤め始めたのは一九八六年で す。その年、保育園に勤める在日コリアンの同僚から ﹁ 一 緒 に マ ダ ン 劇 に 出 て み な い ﹂ と 誘 わ れ ま し た 。 マ ダ ン 劇 と い う の は 、 七

0

年代以降の韓国の民主化運 動の中で、李朝朝鮮から伝わる風刺劇、仮面劇、農楽等 の伝承芸能を基盤に再創造された演劇形式です。伝統文 化の中の ﹁ 風 刺 ﹂ と ﹁譜諜﹂の精神がマダン劇の現代的 な テ

l

マの中で貫かれています。マダンとは広場のこと で、円形の広場を観客が囲み、広場の演者と観客は同じ 平面上にいて、劇の内容を共有します。この年のマダン 劇上演を機に、東九条に﹁ハンマダン ︵ ひ と つ の 広 場 ︶ ﹂ と い う 民 衆 文 化 運 動 を 担 う 、 グ ル ー プ が 誕 生 し ま し た 。 韓国に於ける民衆文化運動を情熱的に紹介し、 ヤンミンギ 地で再構築してきたのは、梁民基氏です。 日 本 の ﹁ 民 衆 ﹂ 。 こ の 言葉の響きに、私は魅了されました。 ﹁ 国 民 ﹂ で も 民 ﹂ で も ﹁ 市 民 ﹂ で も な い 、 ﹁ 民 衆 ﹂ と い う 言 葉 か ら は 、 都市だけではなく、地方も含めた人々の生活の匂いがし ます。巷で話される世間話や権力を榔撤する市井の人々 の声が聞こえてきます。民衆が文化の担い手であり、文 人 化運動が世の中を変える力になること、この奥行きの深一 い運動を、私は梁民基氏から学びました。 ハンマダンに集まった人々は、様々な背景を背負って一 いました。私のように日本の教育の中で育った在日コリ一 アン、小さい頃から民族教育を受けてきた在日コリアン、 パ ク シ ル 朴実氏のように帰化をした後に民族名を勝ち取った日本一 国籍在日コリアン、日本人とコリアンの親を持つ、ダブル一 といわれる人、被差別部落にル

l

ツを持つ人、日本人の↑ 学生、教師。そこは、ある意味、社会の縮図でもありま↑ し た 。 一 不断の実践と対話から生まれたもの 日本人とコリアンが共同で、朝鮮民族の伝承芸能を引一 き継ぐ文化運動を進めることについては、内外で波紋を一 呼びました。ハンマダンが結成された当時は、日本人と一 コリアンというこ極構造で議論されることも多く、創作一 活 動 の 中 で 、 また表現活動の中で、対立することも少な く あ り ま せ ん で し た 。 日本人と一緒に文化運動を担うことへの批判は、 }\ ノ

(9)

マダン以外の在日コリアンからもありました。 当時は ﹁ 生 野 民 族 文 化 祭 ﹂ に 代 表 さ れ る よ う に 、 ﹁ 民 族 文 化 は コ リアンが真の自己を取り戻すためにある﹂という考え方 が 主 流 で し た 。 そ の た め に 、 ﹁ 日 本 人 は 支 援 す る 立 場 で こそあれ、コリアンと同じ立場で担うことはあり得ない﹂ という考えのコリアンが多かったと思います。民族民衆 文化運動の主人公は、あくまでもコリアンだったのです。 私 自 身 も 、 日 本 人 が 朝 鮮 の 民 族 衣 装 を 着 て 、 民族の解 放を求める歌や台調を表現することに違和感があったこ とを認めないわけにはいきません。 ハンマダンの会議に は常に緊張感がみなぎっていました。その会議の様子を 見た来日中の韓国の活動家が ﹁ 健 全 な 緊 張 関 係 ﹂ と 表 現 し ま し た 。 話 し 合 い の 中 で 、 それぞれの思いや考え方を ぶつけあうことはあっても、相手を責めることはなかっ た と 記 憶 し て い ま す 。 私たちは、あきらめず議論を重ね、共に表現活動を実 践 し て い き ま し た 。 そ の 中 で 、 お互いの理解と信頼関係 が深まっていきました。私たちは、民衆文化運動の実践 に﹁資格﹂がいらないこと、必要なのはありのままの自 そ こ に は 、 在 日 コ リ ア ン 、 日本人という立場性ではな く、慎とした個人がありました。自己の解放を求めてい そんな自己を表現し、他一 者とつながりたいと求める人々にとって、韓国の民族民一 衆文化運動が希望に満ちた道筋を示していること。差別一 され抑圧されてきたコリアンだけが、民族民衆文化を継一 承する権利があるという考えは独善的であり、民衆文化一 のもつ可能性は無限であると信じるに至りました。 東 九 条 マ ダ ン へ 一 ハンマダンは、マダン劇だけでなく歌と詩の構成とい一 う独自のスタイルを持って、自主公演を重ねていきまし一 た。結成当初は﹁指紋押捺拒否運動﹂や﹁日の丸・君が一 代反対﹂等の集会に呼ばれ、歌と芝居でオリジナルな表一 その後は学校公演や地域の一 また、東九条一 るのは、在日コリアンだけではないこと。どんな立場で あ れ 、 それぞれが自分の生きる意味を探し、誇り高く生 さ る こ と を 切 望 し て い る こ と 。 現 活 動 を 行 っ て い ま し た が 、 こぺる イベントの参加が中心になっていきます。 分であり、表現する喜びであることを知っていくのです。地域で、 7 ハングル講座やチャンゴ教室を続ける中、徐々

(10)

に地域に浸透し、若いメンバーも増えていきました。 れ に よ っ て 、 ハ ン マ ダ ン は 世 代 的 に も 幅 が 広 が り 、 メ ン

i

の感じ方や考え方がますます多様化していきます。 地域での活動を通してハンマダンは、東九条で ﹁ 日 本 人もコリアンも心通わせ、お互いの文化を理解し合い、 喜 び 合 え る マ ダ ン ﹂ を創ることを目標に置くようになり ま す 。 一 九 九

0

年代になると、同じ思いを持つ東九条の 仲間が﹁東九条マダン﹂実現に向けて動き始めました。 初期メンバーが何度も話し合いを重ねながら準備をし、 行政や地域の学校、教育委員会との交捗を繰り返す中、 一 九 九 三 年 の 秋 、 ついに﹁東九条マダン﹂が開催される のです。毎年、地域の小中学校を会場にして、今年二十 回目の東九条マダンを迎えています。 東九条マダンに関わる人々の思いは様々です。コリア ンの悲願である民族の和解と南北の統一を願う人々。在 日コリアンの世代交流の場であり、民族教育の場である ことを望む人々。多文化理解の場として参加する人々。 自己の解放と真の交流を求める人々。東九条という生活 の場で祭りを楽しむ人々。プンムルを奏でて解放的にな る人々。おいしいものを食べて楽しむ人々。絵を描くの そ マダンに参加する人々が一 昨 年 は 延 べ 5 千 人 に 及 、 び ま し た 。 一 東九条マダンは、どんな小さなことでも、自分が出来一 ることで主体的に参加する個々人の思いを大切にしてい一 ます。もちろんそこには、東九条マダン実行委員会での 民主的な会議と運営努力が土台にあります。 保育園と東九条マダン チ ェ チ ュ ン シ グ 私の勤める希望の家カトリック保育園は、在忠植園長一 自らが初代東九条マダン実行委員長となり、第一回から、 園の大きな行事として東九条マダンに参加してきました。 保育園の基本方針である﹁共に生きる喜び﹂﹁地域に根一 ざした保育﹂が、東九条マダンの趣旨と一致するからで一 す。この二十年の間に、多くの子どもたち、保護者、職一 員がマダンに関わり、保育園は地域とマダンを結ぶ役割一 を担ってきました。東九条マダンの活動を通して結ばれ一 そ の 卒 園 児 夫 一 が大好きな人々。知り合いに会いに来る人々。大きくて も 小 さ く て も 、 何 か を 求 め て 、 た卒園児どうしの夫婦も誕生しています。 婦の子どもが、今年の子どもプンムルノリに出演すると

(11)

い う ふ う に 、 マダン二世が活躍する時代を迎えようとし て い ま す 。 私自身は、毎年、子どもたちとソゴチユム ︵ 小 さ い 太 鼓の踊り︶を練習し、当日は、世代を越えた百人にも及 ぶ大プンムル隊に合流します。東九条マダン開催前の ヶ月間、週に一回、保育園の隣の公園で夕方に練習をす るのですが、練習が始まる九月はまだ残暑が厳しく、 ダン直前の十月の終わり頃は、月明かりの中での練習と なります。私は子どもたちに﹁プンムルというのは、風 の 物 と い う 意 味 な ん や で 。 つまり、この民族楽器は天か らの贈り物、宝物。自分の体の一部のように思って大切 に使ってほしい﹂と話しています。自然と人が調和する 中で、自然の恵みや人々のつながりを喜びとする群舞を 子どもたちと創り上げていくことが、私のマダンでのテ

i

マ で す 。 東九条マダンで民族衣装を着てプンムルノリを経験し た子どもたちが、自分がコリアのル

l

ツをもつこと、ま た自分の隣にコリアンや日本人以外の友だちがいること を あ た り ま え に 感 じ て 、 それぞれの未来に飛び立ってく れることが、私の願いです。子どもプンムルがきっかけ

で、その後も東九条マダンに関わっている卒園児が、生一 き生きとマダンで活躍する姿に出会うと、本当に幸せな一 気分になります。彼らは、自分が自分のままでいられる、 自 分 の 居 場 所 で 輝 い て い ま し た 。 東 九 条 で 自 分 を 見 つ め る 一 私の子どもも東九条で暮らし、東九条マダンのプンム一 ル隊に参加することで、自分のル!ツを自然に受け止め一 てきました。私の故郷が生野であるように、彼らの故郷一 は東九条です。私は東九条で少しずつ、自分なりの根を一 張ってきました。そして、多くの出会いの中で、他者を一 理解しようとする経験が人とのつながりを生んできたと一 もちろん、自分本意な考えや思いあがりが一 も 言 え ま す 。 原因で、苦い思いをしたことも何度かありました。 東九条の街が、多文化を理解する理想的な場所である わけではありません。東九条マダンを快く思っていない 人々も少なからずいます。それでも着実に多文化共生の こぺる 芽は、この場所で育っていると実感しています。 私が自分の中で、在日コリアンであることを無視して 9

(12)

いたら、今の自分はなかったし、他者へのまなざしも違つ ていたでしょう。だけど、在日コリアンであることが、 私の全てではないこと、私の中の多文化にも少しずつ気 づいてきました。私は一人の人間としての小さな塊であ りますが、私の中の魂は無限大であり、それは誰にも侵 されない私だけのものです。そして、私以外の人にも、 その人だけの無限に広がる魂があり、 その人だけの生き てきた背景があることを認めています。 人を理解すること、人とつながることは、言葉にする ほど簡単なことではないと思います。大事なことは、お 互いを理解しようとする気持ち、人とつながろうとする 姿勢なのではないでしょうか。自分を理解してもらうた め に は 、 その相手を理解した上での、共通の言葉や行動 を模索しなくては何も生まれないと感じています。そし て、私は許し合う心が、人とのつながりの始まりだと信 じ て い ま す 。 私 は 、 かつて、無知ゆえに相手を傷つけて しまったことが何度かありました。 その都度、私の未熟 さを許してくれた人々のおかげで、私は前を向いて考え る 力 を 得 た の だ と 自 覚 し て い ま す 。 在日コリアンは ﹁ 架 け 橋 ﹂ ﹁ 越 境 人 ﹂ ﹁ 境 界 人 ﹂ と も 呼ばれ、平和な時代はポジティブな存在とされます。し一 かし、日韓や日朝の関係が緊迫すると、たちまち不安定一 な存在に変わり、両方から疎外される危機さえ感じてし一 ま い ま す 。 一 だからこそ、私はあえて言います。﹁私は私以外を代一 表しない。私という掛け替えのない存在である﹂と。在一 日コリアンであることで、アイデンティティクライシス一 に陥った過去とは違い、今は胸を張ります。私は根なし一 草ではなく、あちらこちらに根を張る雑草ですと。身近一 な日々の営みが勝利する日がくると。 最後になりましたが、日常に埋もれそうになる私に、 自分を振り返る機会と、考えるエネルギー、書く勇気を一 与えてくださった藤田先生と﹃こぺる﹄に心から感謝申一 し上げます。私は長年、﹃こぺる﹄から生きるための示一 唆をたくさんもらってきました。終刊は本当に残念です一 のテ!マは私も含め、読者を通して今後一 が ﹃ こ ぺ る ﹄ も 広 が る こ と と 信 じ て い ま す 。

(13)

四 日 市 か ら ⑮ 四 日 市 男 女 共 同 参 画 研 究 所 ︶

がんを発症する

坂倉加代子︵

NPO 法人 最近、これからの私の人生に、もうひと波乱あるよう な予感がしていた。娘や孫たちの身に何か起こらねばよ いがと気に懸っていたのだが、その予感は、あろうこと か病気ひとつしたことのない私が H がん H になるという 現実となって的中した。 どうして私がと思う一方で、娘や孫たちでなくてよかっ たという安堵感がある。 大事に大事に育てられ、辛い思いなどせずに成長した 私は、結婚後、心を痛めたり、右往左往する出来事に、 これでもかこれでもかと対応に迫られた。 それは姑の入院・看護・死に始まり、自由奔放すぎる 夫との葛藤、家を重んじる夫と束縛を嫌う長女との確執、 そして長女の登校拒否、夫のアルコールへの依存、次女 苦労知らず一 試練の時であった− 仕事を辞めずに人一倍こなしてきたのは仕事が一 好きだったこともあろうが、若さがあったからだろう。 仕事仲間の F さんが﹁私は結婚するまでが恵まれてい なかったから、結婚後はずっと幸せなのよ。あなたとは一 正反対﹂といつも言っていた。この﹁一生の問の幸せな一 時間と不幸せな時間の帳尻合わせ﹂論で、私は自分を納一 得させてきたのかもしれない。がん宣告にもなんとか静一 かに向き合うことができたのは、まだ私には幸せのたく一 わえが残っているからだ。 地元のクリニックで、しこりががんであると判明した一 その日から毎日、私は観察者になって自分の心の動きを一 見つめている。問診のペーパーで、﹁告知するか。告知一 するなら最初誰にするのか﹂を問われる。私は障賭する一 に

O

印を付け、︿誰に﹀の所には一 子どもじゃないんだから。それに一 ﹁ 家 族 の 方 に も 説 一 の 手 術 、 両親の介護と別れ 幼 い 初 孫 の 手 術 、 夫のがん の 発 症 ・ 再 発 ・ 死 、 の 私 に と っ て 、

Jミ て 長 が 女 青 の 天 離 の 婚 露主と 震

E

しh た り や こ 、 3 、

α

ナ ’ カ ことなく ︿ 告 知 す る ﹀ ︿ 本 人 ﹀ と 記 入 し た 。 こ"'る 私 は 世 帯 主 。 それなのに診断の後で 明 し た い ﹂ と 医 師 は 一 一 一 守 つ D ﹁家族が来なければいけませ 11

(14)

んか。私のことですから、私が伺えば十分です﹂ い ろ い ろ あ る 場 合 が 多 い の で ﹂ ﹁ う ち は 後 で H い ろ い ろ ρ など、金輪際言いません﹂。説明責任とやらが形式的に なっている。たった今、告知されたばかりだというのに、 ﹁ 後 で こんなところで頑固さを貫いている自分が面白かった。 夜、﹁やっぱり、がんやったわ﹂と伝えると、長女は ﹁ふううん﹂と言ってテレビのサスペンスを観ている。 ﹁ も う 死 ぬ か も し れ ん ﹂ と 言 葉 を か ぶ せ る と 、 ﹁ 死 な へ ん 。 死なへん﹂とテレビから目を離さない。深刻になっても かえって困るのだが、あっけらかんとしてい ら っ て も 、 る 長 女 に 腹 が 立 つ 。 書 斎 に 入 り 、 一人になると緊張の糸 が切れたのか、打ちのめされた気分が体中を走った。 かわの 乳がんで亡くなった歌人、河野裕子さんの︿手をのべ 息が足りない あなたとあなたに触れたきに 世の息が﹀を口ずさむと、ほんの少し身体が震えた。 そ れ な の に 、 て こ の その夜は自分でも信じられないくらい、 ぐっすり眠った。翌朝、四時半すぎに、いつものように 五人家族のための朝食や、早出する孫のお弁当を作らね ばと、離れへ行くと、もう長女がキッチンの前に立って いた。昨日までは﹁年をとったら家事をすること。家事 はボケ防止に一番だからね﹂と朝の支度を私に押しつけ、 私 が 退 一 職 す る ま で は 、 長 女 の 舌 一 は、私の実母ゆずり。幼い頃から母に面倒をみてもらっ ていたから、だろう。小学校の運動会で、敷物の上に広げ一 た母手作りのお重弁当が日に浮かぶ。 中学一年生から五年半もの問、孫のお弁当は私が作つ てきたが、長女の作るのが美味しいのか、孫の特大弁当一 は毎日空っぽ。﹁友だちが一口食べさせてくれ﹂と言つ一 たとか、親子の会話が気に障る。そっとお弁当をのぞい てみると、長女が搭えたおかずは見るからに素材が生き一 て い た 。 私を当てにできない生活に備えてか、長女は孫たち全一 員参加で家事ができるようにと、電化製品を整え、使い一 勝手を考えた配置をこつこつと進めている。あの日以来、 わが家には有形無形の変化が起こっている。 徐々に友人や仲間たちに伝わって一 これから人にかける言一 ギリギリまで寝ていた長女なのに。 お蔭で私はキライな 家事から解放されて肩が軽くなった。 長 女 の 料 理 は と て も 美 味 し い 。 亡 夫 が ﹁ お 前 が 料 理 屋 を し た ら 繁 昌 す る ぞ ﹂ と よ く 言 っ て い た も の だ 。 彼 女 が わ が 家 の 料 理 人 だ っ た 。 私 の 病 気 の こ と は 、 い っ た 。 そ の 励 ま し の 言 葉 か ら 、

(15)

葉 の 学 習 を し た 。 ま だ 検 査 中 の 時 に か け る ﹁ 絶 対 大 丈 夫 ﹂ ほ ど 空 々 し い も の は な い 。 ﹁ 私 の 知 っ て い る 人 は 良 性 だ っ 一 番 ふ さ わ し い 言 葉 は ﹁ 祈 っ て い ま す ﹂ のただ一言だ。高校の新聞部の先輩がかけてくれた﹁今 まで神も仏も信じたことはないけれど、全部信じて祈る からね﹂は、最初に感じた一番うれしい言葉だった。 宣告後の﹁がんばれ﹂は、なかなか心に届かないもの だ。﹁何をがんばるの?どうがんばるの?﹂と私の心が 言っている。諏訪中央病院の鎌田賓先生は﹃がんばらな い ﹄ ︵ 集 英 社 ︶ と い う 本 を 出 し て い る で は な い か 。 ﹁ が ん ばれ﹂より、百歳の詩人、柴田トヨさんの言葉﹁くじけ ないで﹂が適切だ。いろんな好症例を話してくれる人も ﹁ 私 の 場 合 は 違 う か も し れ な い ﹂ た よ ﹂ も 同 じ 。 多 い 。 それに対して ﹁ 悪 い 症 例 も あ る で し ょ ﹂ と 心 の 中 で 返 し て し ま う 。

O

さんは末期だって。あなたはまだ初期でよかった﹂は 禁句。手術するまでは本当のところはわからないのだか ら。どんな励ましの言葉も微妙にマイナス方向に心の琴 線 に 触 れ る も の な の だ 。 ﹁ 手 術 は ど こ で や っ て も 同 じ だ よ ﹂ と 友 人 の 医 師 が 言 っ た。私もそう思っていたのだが、何人もの友人が名古屋 にある病院を勧めてくれる。私は医師や病院のランクづ た く も あ っ た 。 予 約 を と る か り 決 13 けに抵抗を感じる。何よりも自分で選択した近くにある 病院が気に入っていた。女医さんでスタッフも女性ばか り。ここの空気が好きだった。先生やスタッフのまなざ しが作りものでなく、やさしく感じられた。それは同じ 生理が通わせるあたたかさに違いない。的確な検査によ る診断に何一つ疑うこともなく、セカンドオピニオンな ど眼中にない。この先生に任せようと決めていた。友人 たちが勧める転院には﹁ほっといてよ﹂﹁自分のことは 自分が決めるから﹂と言いたかった。決めたことを守り ところが友人の E さんが﹁愛知県がんセンターへ行き ましょ。たとえこの転院が失敗に終わったとしても私は 後 悔 し な い 。 連 れ て 行 き ま す 。 明 日 、

と声をあらげて言うではないか。 ﹁ あ な た に 心 し て ! ﹂ は 、 ま だ 山 ほ ど 仕 事 が あ る の よ 。 で お 願 い ﹂ と 。 症 例 の 多 い が ん セ ン タ ー そこまで言ってくれるのかと、私の頑なな心は解けて いった。長女が発した﹁これが、ばあばあの運の強さと いうことかもしれない﹂というセリフに背中を押されも こぺる E さんが会社を休んで 連 れ て 行 っ て く れ る 。 し た 。 ﹁ が ん セ ン タ ー ﹂ ま で 車 で

(16)

大きな建物は苦手。最先端医療にも興味はない。私は モルモットにされるんじゃないかという危倶さえ抱いて いた。ところが自動ドア

l

を通り、中に入ると、まず ﹁大きくないわ﹂という印象を持った。患者に不安を感 じさせない空間が設計されていると直感。適度に機械化 しながら、要所要所には人を配置している。低めのカウ ンターの向こうに座っていたスタッフは患者を前に立ち 上がり笑顔で対応する。私が想像していた、﹁ここが有 名ながんセンターよ﹂という匂いがしない。普通なのだ。 診察を受け、検査に回り、会計を済ませるシステムも スムースに動く。所々にある案内も患者の目線で書かれ ている。うろうろするだろうなんて懸念は無用だった。 私の心は、もう落ち着いていた。もちろん E さんが寄り 添っていてくれたということもあるのだが。 専門家らしからぬ雰囲気を漂わせ、風格を備えたドク ターと出会えたこともラッキーだと思った。 いくつもの検査をひとつひとつクリアーしていく。検 査室が変わるたびに、間違いを防ぐためだろう、氏名を 声を出して言うことになっている。﹁坂倉加代子です﹂ と大きな声で発すると、この世界にたった一人しかいな い H 私 H を感じ、横たわったまへ心は父や母の顔、手、 声 を 思 っ て い た 。 ﹁たぶん、転移はないでしょう﹂と診断されたことを 友人たちにメ

i

ル で 知 ら せ る と 、 ﹁ 心 底 う れ し い ﹂ ﹁ 今 ま でもらったメ

l

ル で 一 番 う れ し い ﹂ ﹁ バ ン ザ

l

イ ﹂ と 返 っ てきて、もう全快した気分になってしまう。 今のところ、まだ手術日が決まっていないので、私は 病人になり切れないのだが、周囲は、すっかり患者扱い で あ る 。 毎朝決まって ﹁ 大 好 き よ ﹂ と電話をくれる K 子 さ ん 。 D さんからは ﹁ 毎 朝 、 と メ

l

ル 。 お 祈 り し て ま す ﹂ ズ が 届 く 。 魔 よ け グ ツ 行きつけの美容師さんまでもがお水と浄水器一 を 高 め て と ニ ン ジ ン ジ ュ ー ス ゃ が ん 封 じ の 飴 、 のメンテナンスを引き受けてくれる。 車の運転を勝って 出てくれる Y さ ん 。 運 撮 係 の R さ ん 。 NPO の仕事を手 伝ってくれている大学の後輩たち。 男社会で共に働いて きた三人組の二人は伺度も私をランチに誘い、 ﹁ 医 療 費 、 足 り な か っ た ら 用 意 す る よ ﹂ ら、私はあったかいム

l

ド に 包 ま れ て い る 。 と 言 っ て く れ る 。 あの日か この幸せな 気分が病魔への不安や怖れを相殺している。 ﹁ 今 ま で に い た だ い て い た パ ワ ー を 全 部 お 返 し し ま す ﹂ と若い仲間からメ

l

ルが届く。﹁返事はいりません﹂と 添えてある。手術を前に、私の心は平穏だ。

(17)

いのちを生きる⑮

生と死の狭間で

長谷川洋子︵大阪府小学校教員 三 島 郡 島 本 町 在 住 ︶ 九月十三日 医大の検査目。ドアを聞き T 先生への挨拶もそこそこ に、私の目は机上のコンピュータ画面に矢のように飛ん でいった。腫寝マ

l

カ ー が ま た 上 が っ て い る 。 ﹁ 長 谷 川 さ ん の 平 常 値 は 、 六 か ら 七 と 言 え る で し ょ う 。 通常、数値は上がり下がりするものですが、三月から数 値が上がり続けています。次回十二月の検査日にマ

l

カ ー が 一

O

を 越 え た ら 、 PET 検査をして対策を考えましょ う 。 ﹂ 先 生 は 静 か に そ う 説 明 し た 。 東京で免疫治療 HITV をしてくださった H 先生の寛 解宣言はどうなったのだ! H 先生は﹁治療をして三年後 に再発したひとはいません﹂と言ってくれたのだ。大丈 夫 だ 。 H 先生を信じよう!いや、私はこれまでマ

l

カ ー が上がり続けると必ず再発したではないか。頭の中でさ がんで亡くなった友人・知人の顔がふと浮かんだ。所一 詮ひとは死ぬ運命からは逃れられない。私は今、一生の一 時間軸のどこに位置しているのだろう。私がすべきこと一 は何なのだろう。頭の中の声は止まず、私は混沌の中に一 た た ず 一 件んでしまった。﹁十二月まで、まず絶対禁酒、だ。そし一 て学校の中で小さくてもいい、楽しいこと、素敵なこと一 を見つけていこう﹂と、気持ちを少しずつ立て直した。 九月二十九日 運動会の後、例年のように打ち上げの席が設けられた。 低中高学年別に、子どもたちが発表したダンスや組み体一 操を宴席で大人が再現する、というのが本校の習わしな一 のだが、今年は例年になく荒れた。 若手の一部がまずビ

l

ル の 一 気 飲 み を 始 め た 。 そ し て 、 大声で嚇しながらまわりに一気飲みを促す。名前を呼ば一 れたひとたちは拒みもせず、みな次々に杯を飲み干して一 いく。そのうちダンスの再現が始まった。﹁一気飲み﹂ の首謀者のひとりが、酔いがまわったのか、女性教員を 抱いたり、蹴ったりする。校長がやんわりと制止したが、 聞かない。年長の女性教員を抱き寄せた時はさすがの私一 ま ざ ま な 声 が 交 錯 す る 。 こべる 15

(18)

も 怒 鳴 り あ げ た 。 若手が荒れるのも仕方がないのかもしれない。仕事は 増える一方、給料は下がる一方。保護者対応は大変。橋 下﹁維新の会﹂の下で大阪府は次々に教員をサンドパッ ク代わりに痛めつける。直近の締め付けは、保護者のア ン ケ 1 トによる人事評価だ。親の評価を取り入れてボー ナス査定をする。アンケート項目や方法は、どうみても 客観的かつ正確に行える内容ではない。こんな査定では、 人当たりがよく見栄えのよい取り組みをする教員などが 親から高い評価を得て、高学年やしんどいクラスの教員 E り が い は呼外におかれることは不可避だ。 学校は一部の日当たりの良い場所だけでまわっている のではない。若手の荒れには無理からぬところがあるの かもしれない。しかし、管理職も嬉しそうに一気飲みに 応じ、某教員のセクハラも結局黙認している。佳境に入っ てますますご気﹂が激しくなった。みな良く飲む。憂 さを晴らしているのか。病気になる前の私も晩的が止ま らなかった。同時にみんな嫌われたくないのか。﹁誰か ら﹂嫌われたくないのか、具体的人名がないところが恐 ろしい。管理職も同様なのだ。多数派に入っていたいの だ。お聞きが過ぎても一気飲みは延々と続いた。蛮声が んがべそをかいている。そんな Y ちゃんに A ちゃんが優一 しく声をかける。その眼差しに思わず胸がいっぱいになっ た 。 そ ん な 私 の 横 で 、 Y さんがクラスのことで悩んでい る若手をゆっくり慰め励ましている。 Y さんの語り口は一 暖かい。私まで明日からがんばれと励まされているよう一 な 気 が し た 。 私の職場だけではないと思う。府下の学校はもともと一 しんどい環境にあるのに、政治の道具にされて苦しんで一 いる。おそらくどの学校にも、苦しいと声に出して言え一 ず荒んで憂さをはらす教員がいるだろう。若手を暖かく一 支える教員がいるだろう。そして、子どもの優しい眼差一 しがあるだろう。このような混沌とした世界の中で、私一 は生と死の狭間を揺れながら生きていくのだろう。 今回で、この連載は終わります。稚拙で﹁考えなし﹂ の私にお付き合いくださったみなさま、そして優しく、 ときには厳しく指導してくださった藤田敬一さんに厚く一 お礼を申します。ありがとうございました。 いた。ビデオの中で、三人組の組み体操に失敗した 飛ぶ中、お昼の運動会のビデオが料亭の壁に再生されて Y ち ゃ

(19)

濃水飛山記 マご九五八年六月十一日、わたし は 京 都 市 下 京 区 、 河 原 町 七 条 西 南 角 の 木造モルタル塗り三階建てにあった 部落問題研究所を訪れ、その後の生 き方にとって貴重なアドバイスをも らったんです﹂。奈良市で郵便局の 支店幹部にそんな話をしたら、出席 者のおひとりが﹁うん。うん﹂とう なずく。思わず﹁あの建物を知って い る の ? ﹂ と た ず ね る と 、 ﹁ は い ﹂ との返事。彼は部落問題研究所のあ とへ入居した出版社に郵便物を配達 え に し していたという。建物がつなぐ縁に 感 動 。 マ﹁私の教え子で視覚特別支援学校 出身の全盲の学生がいた。将来、普 通学校の教師になりたいと、教育実 習ができる普通校を探したが、すぐ には見つからなかった。︵略︶これ をきっかけに、私たちは似た境遇の 学生の聞き取り調査をはじめた。障 害の有無にかかわらず、あるいは人 種 や 民 族 な ど の 価 値 を 尊 重 し つ つ 、 共に生き合うことを理念とする︿イ ン ク ル l シ ブ 社 会 ﹀ や ︿ 共 生 社 会 ﹀ の実現が議論されるようになった今 日、盲学校出身者が普通校で教育実 習をすることは、新しい社会への糸 口になると考えたからだ。これまで 5 人の話を聞いたが、全員、普通校 での教育実習はかなわなかった。彼 ら/彼女らはなぜ、受け入れを拒否 さ れ た の か 。 ︵ 略 ︶ ︿ 目 の 見 え な い ﹀ 実習生による教育実習では、︿日の 見える﹀生徒と障害を持つ教育実習 つ む 生が、どのような関係性を紡げるの かが課題となり、両者がそこから学 ぶものは大きいはずだ。異質な者同 士が出会う場は、せめぎあいも絶え ないが、それゆえに新しい価値や関 係 が 創 造 さ れ る と 確 信 し て い る ﹂ ︵ 宇 な い か ず ふ み 内一文・立教女学院短大講師。﹁朝 日 ﹂ ロ ・ 8 −

n

M

︶ 。 視 覚 障 害 者 の 教育実習を断るのは、﹁安全に実習 するのに必要な支援体制が未整備な ので﹂﹁全盲者による教育実習は生 徒の学習機会を損なう恐れがあるか ら﹂とのこと。こういう連中が他方 で人権や道徳・倫理を語るのだから 恐 れ 入 る 。 ほ ん と う か す と し マ半藤一利・竹内修司・保阪正康・ 松本健一﹃占領下日本﹄上下︵ちく ま 文 庫 。 ロ ・ 8 ︶。一九四五年八月 十五日の京都は快晴。国民学校初等 科一年のわたしは疎開先からお盆休 みで一時帰宅していました。近所の 薬屋さんの軒下におかれたラジオで ﹁ 玉 音 放 送 ﹂ を 聞 き 、 ﹁ ど う い う こ と?﹂と親父にたずねると、﹁戦争 に負けたというこっちゃ﹂とつぶや いた。わたしは本書によって、そう した小中学校時代の記憶の断片を現 代 史 に 重 ね る こ と が で き ま し た 。 そういえば、わが家の裏隣りのお う ち に 進 駐 軍 の GI が よ く 来 て い て 、 ﹁ 娘 が パ ン パ ン や っ て ん の や ﹂ と 聞 かされたけれど、意味がわからなか った。要するに、わたしはまだ幼か っ た と い う わ け で す 。 マ 長 谷 川 さ ん の 連 載 が 終 わ り ま す 。 人はみな﹁いのちを生きる﹂。大事 な こ と は ﹁ ど う 生 き る か ﹂ で す よ ね 。 長 谷 川 さ ん に 励 ま さ れ た 人 も 多 い 。 長谷川さん、ありがとう! マ入院直前の坂倉さんには無理を言 っ て 書 い て も ら い ま し た 。 坂 倉 さ ん 、 ご め ん な さ い 。 マ金光敏さんから﹁金﹂の振りがな は﹁キン﹂にと連絡あり。発音が近 いのだとか。藤田敬一︵叩− U 記 ︶ 発行者 こべる刊行会(代表藤回敬一) 発 行 所 岐 阜 市 西 改 回 字 川 向187 4 藤田敬一方 干5011161 Tel.&Fax. 058 239 5348 Email: k f凶[email protected] 印刷・発送戸田写植(干501-6閃5岐阜県笠松川円城寺838-1 Tel058・3881切羽 定価300円 年 間 牌 読 料4000円 郵便振替 01010干6141 銀 行 振 替 十 六 銀 行 正 木 支 店 こべる刊行会代表藤田敬一名義 普通口座 1418253 − 局o空 第236号 ー〆’\之矛 2012年11月25日発行

(20)

d

剤 、

二三六回守二 O 二 一 年 十 一 月 二 十 五 日 発 行 ︵ 毎 月 一 回 二 十 五 日 発 行 ︶ 一 九 九 三 年 五 月 二 十 七 日 第 一 一 一 種 郵 便 物 認 可 ... λι 価 三百円

参照

関連したドキュメント

なぜ、窓口担当者はこのような対応をしたのかというと、実は「正確な取

のようにすべきだと考えていますか。 やっと開通します。長野、太田地区方面  

“Breuil-M´ezard conjecture and modularity lifting for potentially semistable deformations after

The Cauchy problem for the Laplace equation and for other elliptic equations is in general ill-posed in the sense that the solution, if it exists, does not depend con- tinuously on

In this paper, we study determination of Sturm–Liouville opera- tor on a three-star graph with the Dirichlet and Robin boundary conditions in the boundary vertices and

• Follow label for application method used and all restrictions regarding entry restricted period, buffer zone, pre- harvest interval (PHI), aquatic toxicity, chemigation,

On the other hand, the Company submitted an application to the Fund to change the amount of financial support based on the Clause 43, Article 1 of the Fund Act due to the

○○でございます。私どもはもともと工場協会という形で活動していたのですけれども、要