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− とべる刊行会NO 236
自分史のこころみ⑫ 今を生きる街からー東九条と私 金光敏 四日市から@ がんを発症する 坂倉加代子 いのちを生きる⑧ 生と死の狭間で 長 谷川洋子 〈幻の銀河〉 ー写真と文 小林 茂写 真 と 文 小 林 茂 広がる水銀汚染。タンザニアの金鉱山労働者から水俣病に似た症状が発 現。労働者を診察する原田正純医師。 (タンザニア・ビクトリア湖周辺。 1996年8月) 1996年、東アフリカのタンザニアで農村開発に取り組むNGO 「地球緑化の会」が、「ビクトリ ア湖環境調査団」を派遣した。団長は水俣病の専門家の原田正純さん(当時、熊本大学助教授)。 私はその記録係りとして参加した。ビクトリア湖の水質が悪化。また、 1980年代後半から、湖 周辺で金の採掘が盛んになり、その精錬過程で水銀が使われていた。採掘、粉砕、すべてが過酷 な手作業だ、った。精錬は金を含んだ泥に水銀を入れ、その混合物を火にかけ、水銀だけを蒸発さ せ金をとるという原初的な方法。蒸発する水銀を体内に吸い込むと水俣病に似た手足のしびれな どの症状を引き起こす。 レオナルド・ディカプリオ主演の映画『ブラッド・ダイヤモンド』 (2006)はアフリカの過 酷な労働によって採掘されるダイヤモンドをめぐるドラマ。『ダーウィンの悪夢』 (2004)はビ クトリア湖の巨大肉食外来魚をめぐるドキュメンタリー。金もダイヤも魚も日本に輸入されてい る。グローパル社会の裏面をわれわれは知らなければなるまい。 (原田正純医師は、当時、母親の胎盤が有毒物質を通さないという「常識」をくつがえし、母親の摂取した有 機水銀が「胎児性水俣病Jを引き起こすことを明らかにした。 2012年6月11日、急性骨髄性白血病のため死 去。 77歳。最期まで水俣に行きたいと話していたという)
自分史のこころみ⑫
今を生きる街から
東九条と私
キンクアンミン 金 光 敏 ︵ 保 育 土 ・ 京 都 市 在 住 ︶ 私が生まれ育った街は、在日コリアンの多く住む大阪 市生野区。そして、私が自分で選んで住み続けている街 は、京都市南区の東九条。私はこの街で働き、家族と暮 らし、多くの人々と出会ってきました。気がつけば、三 十 年 の 歳 月 が 流 れ て い ま し た 。 東九条との出会い 一 九 八0
年代初頭、私は自己のアイデンティティに悩 む中、ルl
ツを同じくする先輩や仲間たちと韓国の民主 化 、 祖 国 の 統 一 を 求 め 、 日 々 活 動 し て い ま し た 。 九 八O
年の韓国に於ける光州民衆抗争は、軍事独裁の続く韓 国において、まさしく歴史を変える闘いであり、私は同 時代を生きる者として光州に連帯する行動を模索してい ま し た 。 ンの家を一軒ずつ訪ね、韓国民主化闘争への支援・連帯一 を主張しながら、ビラをまいて歩きました。そのことを、 私たちは﹁同胞情宣﹂と呼んでいました。この﹁同胞情一 宣﹂によって、私は東九条の門を叩く機会を得たのです。 東九条の地域の歴史も、街の人々が個々にどのような人一 生を歩んでこられたかも知らないまま、私は自分の主張一 を 一 方 的 に 発 信 し て い ま し た 。 京都市南区東九条は京都駅八条口の南側に位置し、 す う じ ん ﹁ オl
ルロマンス事件﹂︵一九五一年︶で知られる崇仁地一 区に隣接した、京都市の中で最も多く在日外国人が居住↑ する地域です。戦後、京都駅裏には闇市が広がり、国鉄一 沿線の高瀬川、鴨川の土手には、ぎっしりとバラックが一 こぺる 1立 ち 並 び ま し た 。 そこでは、在日コリアンを含む多くの 人々がなんとか風雨を凌いで、戦後の混乱期を過ごして い ま し た 。 ﹁ オ
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ル ロ マ ン ス 事 件 ﹂ 以降、同和行政が進む中、 ﹁ 崇 仁 地 区 疎 開 跡 整 備 事 業 ﹂ ﹁ 崇 仁 地 区 国 鉄 沿 線 南 部 パ ラ ツ ク地区清掃事業﹂によってバラックが撤去され、多くの 在日コリアンは居住の地を南に移していったと言われて い ま す 。 特 に 河 原 町 通 り 以 東 の 地 域 は 、 パ タ ヤ ︵ 廃 品 回 収 ︶ 、 土 工 、 日雇いで生活をつなぐ低所得者労働者が多 く 集 ま り 、 一 九 六 五 年 に は 人 口 が ピi
ク と な り ま し た 。 狭い路地にバラック住宅や老朽アパートが密集し、六O
年 代 、 七0
年代には、度重なる火災によって、多くの死 傷 者 、 擢 災 者 が 出 ま し た 。 更に南に下がると、九条と十条の問、高瀬川と鴨川の 堤 防 上 の 地 域 に 、 五0
年 代 か ら 人 が 住 み 始 め 、 そ の 後 七0
年代には、百八十世帯二百数十名が居住し、 そ の 八 割 以上が在日コリアンで形成されていました。 河川敷の ﹁ 不 法 占 拠 ﹂ であることから、長い間、行政施策から放 ゼ ロ ﹁O
番 地 ﹂ ﹁ 堤 防 ﹂ と い う 差 別 的 な 置 さ れ 、 近 隣 か ら は 、 呼 び 方 を さ れ て き た 地 域 で す 。 そこにおける在日コリアンの劣一 悪な環境を目の当たりにして立ちすくんだ記憶がありま一 す。そして少しずつ一方通行の﹁同胞情宣﹂に疑問を感一 じるようになってきました。私は誰と対話しているのだ一 ろう。何も見えていないし、見ようとしていない。 四O
番 地 で の 自 治 会 活 動 一 その後、私はこの河川敷地域の扉を聞けて、自治会活一 動に参加することになりました。一歩足を踏み入れたと一 たんに、私の薄っぺらな同情と感傷は吹っ飛んでいきま一 し た 。 ﹁O
番地﹂﹁堤防﹂と呼ばれていた地域には、住民一 自らがつけた﹁四O
番地﹂という誇り高い地名がありま一 し た 。 四O
番地には在日コリアン一世の方々が多く生活一 されていて、私は彼らの生きる力、生活力に圧倒され、 ﹁気の毒な﹂在日コリアンをイメージしていた自分を恥一 前述の ﹁ 同 胞 情 宣 ﹂ で こ の 河 川 敷 の 地 域 に 入 っ た 時 、 正 直 私 は 時 代 を 疑 い ま し た 。 八O
年当時でも水道が通つ て い な い 状 況 で し た 。 自 分 自 身 も 決 し て 裕 福 な 地 域 で 育 つ た わ け で は な い け れ ど 、 じ ま し た 。高瀬川と鴨川の二重堤防を渡る橋が住民自らの手で造 られ、どんなに狭い土地も耕され、そこには、プッコツ は、私を歓迎してくれましたが、皆やんちゃで、最初の 頃は自治会館で暴れるだけでした。ボランティアに来て 防の狭い路地には朝鮮語の会話が飛び交い、夏祭りには チ︵朝鮮とうがらし︶やニラが植えられていました。堤くれたシスターたちが呆れて一日で来なくなったほどで す 。 民族楽器の名手のハラボジ︵おじいさん︶が奏でるチヤ ンゴ︵長鼓︶のリズムに合わせて、 ハルモニ︵おばあさ ん︶たちが乱舞する光景がありました。初めて覚えた日 本 語 の 歌 だ と 言 っ て 、 ハルモニが歌う調子外れの ﹁ 炭 坑 節﹂は、愉快だけどどこか切ない、そんな調べでした。 自治会費を滞納する住民、その住民が祭りに参加してい ることに目を吊り上げるアジユモニ︵おばさんて には人が生活する上で起きる当たり前のもめごとや喧嘩 もありました。生活と文化と人々の息づかいが、遠く祖 国を離れた京都の片隅に溢れていました。 七
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年代は子どもが多い地域でしたが、地域から出て いく若年層が多くなり、八0
年代には子どもが激減して いました。そんな中、子ども会を再建したところ、地域 の個性豊かな子どもたちが集まりました。ハンディキヤツ プをもっ子どもが数人いたり、 そ こ だ け ど 、 器︶を練習し、四O
番地の夏祭りを盛り上げてくれたの一 です。八0
年代後半には、夏祭りに四O
番地の外からも一 人々が集まり、踊りの輪が広がっていきました。八月の一 満月の下、鴨川の河川敷には民族楽器の音が鳴り響き、 小さな﹁マダン︵広場︶﹂が生まれていました。 四O
番地から東松ノ木町に コリアンの文化が花聞いていた都会の周縁の異空間は、 生命の危機にさらされる不安定な生活環境の上に存在し一 ていました。大火があれば、消防車も入れず、延焼し、 多くの人々が焼け出された歴史があります。大水や倒壊一 の危機があり、電話も上下水道もない地域に住まざるを一 こぺる 八人姉妹がいたり、四O
得なかった事情は、個人の問題としてだけでは説明でき 番地近隣から子ども会に来る子もいました。子どもたちないでしょう。 3公営住宅および住宅公団の国籍条項が廃止されたのは 一 九 八
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年になってからのことです。長年﹁不法占拠﹂ ということで、住民の生存権を脅かす状況を放置してき たことと、住民の八割以上が在日コリアンであったこと は単なる偶然なのでしょうか。 その問、行政は同和事業 を展開し、着実に部落の住環境を整備し、雇用を促進し て き ま し た 。 明 ら か に 、 四O
番地は置き忘れられた辺境 の 地 で し た 。 し か し 、 四O
番地の住民が沈黙していたわけではあり ま せ ん 。 四O
番地で育った青年たちゃ支援者が、住民と ともに災害の問題、衛生上の問題、水道の問題等の切実 な要求を行政に訴え続けていました。 その粘り強い運動 の 成 果 と し て 、 一九七九年、京都府土木事務所所長名で ﹁謝罪並び確約書﹂が提出されたのです。その書面には、 ﹁ 民 族 差 別 に よ る 歴 史 的 経 緯 ﹂ を認める文言が明記され て い ま し た 。 四O
番地自治会と行政との血の出るせめぎ合いの中で 生まれたこの一文は、戦後、厳しい差別と無権利状態の 中で生きぬいた在日コリアンたちの苦労が実り、 一 地 域 の事業に結びついたという意味において画期的であった 年、京都市、京都府が住民の要望を受け、高瀬川をショl
一 トカットした上に公営住宅を建設することを合意しまし一 た。一九九六年、町名が正式に東松ノ木町となり、第一 棟が完成。現在は三棟の団地の中に、元住民と一般公募一 で入居した人々が暮らしています。︵二O
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五 年 現 在 、 一四七名入居。在日コリアンの割合は六二パーセント︶ 二O
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五年に公開された映画﹁パッチギ﹂に残された一 四O
番地の風景は、今は見られません。 しかし現在では、住宅管理事業を担う NPO 法人東九一 条まちづくりサポートセンター︵まめもやし︶のスタツ フが、高齢化する住民の生活支援、住民コミュニティへ の協力、聞き取り作業などを精力的に行っています。在一 日コリアン一世の聞き取り以外にも、四O
番地では少数一 派の日本人の方の興味深い聞き取りもあります。また、 会食事業のメニューにはキムチは欠かせませんし、ナム一 ピビンパ、豆もや一 と 私 は 思 っ て い ま す 。 そ の 後 、 一 九 八 二 年 に 、 全 戸 上 水 道 が 敷 設 さ れ て 以 降 、 住環境整備についての交渉が続けられました。 一 九 九 二 ル、チヤプチェ、焼き肉、サンチュ、 し スi
プ、タンスル、シリット、あわびのお粥、といったコリアのおいしい食べ物が並んでいます。 四
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番地自治会が勝ち取ったものは、東松ノ木団地と い う 箱 で は な く て 、 ハ ル モ ニ 、 ハラボジたちの﹁安全﹂ と ﹁安心感﹂だったのではないでしょうか。もうそこに は、強制立ち退きの危機は存在しません。 東九条で出会った在日コリアン 大学時代の民族運動の中で、 コリアンと日本人、差別 と被差別というこ極化した考え方が自分の中で固定化さ れつつあった私にとって、東九条での在日コリアンとの 出会いは衝撃的でした。 東九条の在日コリアンは、同じコリアンであっても、 私とは異なる環境で育ち、 また考え方も違いました。 ﹁ 初 め に 民 族 あ り き ﹂ ではなく、地域を基盤とした中で、 差別と貧困の問題をとらえていました。四O
番地で少年 期を過ごし、やんちゃの限りを尽くした在日コリアンの 若 者 た ち が 、 日本人の ﹁ ア ニ キ ﹂ に 導 か れ 、 七0
年 代 、 地域の青年会として活動していく話を、私は興味津々で 聞き、新鮮な感動を覚えたものでした。民族運動しか知 日 本 人 と 共 に 、 権利獲得のために闘かっていた在日コリアンはとても刺一 激的で魅力的でした。 コ ウ ヨ ン サ ン その中で、今は亡き高英三氏は圧倒的存在感があり、 彼を中心として地域や職場の仲間が彼の家に集まり、私一 も親交を深めていきました。私はその地域の仲間と共に、 外国人登録法、入管法の問題を議論し、アクションを起一 こしていきました。学生時代の韓国の民主化、祖国の統一 一を求めた運動から、自分たちの日本における権利の問一 題に、私自身の軸足を移していったのです。 学生時代の運動との根本的な違いは、﹁理念﹂だけで一 つながっているのではなく、地域での日々の﹁暮らし﹂ それぞれの暮ら一 らなかった私にとって、地域や職場で、 の中でつながっているということです。 しへの理解がある中での運動だったので、私が微力であっ 仲 て 間 も と の 家 関 庭 係 の が 事 崩 情 れ で る 時 ァ 間 ξ 的は巴
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つ で も ﹁ 政 治 ﹂ を語りながら、子育ての悩みも聞いてもらえる関係だっ た の で す 。 こベる 民衆文化運動との出会い 5私が今の地域の保育園に勤め始めたのは一九八六年で す。その年、保育園に勤める在日コリアンの同僚から ﹁ 一 緒 に マ ダ ン 劇 に 出 て み な い ﹂ と 誘 わ れ ま し た 。 マ ダ ン 劇 と い う の は 、 七
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年代以降の韓国の民主化運 動の中で、李朝朝鮮から伝わる風刺劇、仮面劇、農楽等 の伝承芸能を基盤に再創造された演劇形式です。伝統文 化の中の ﹁ 風 刺 ﹂ と ﹁譜諜﹂の精神がマダン劇の現代的 な テl
マの中で貫かれています。マダンとは広場のこと で、円形の広場を観客が囲み、広場の演者と観客は同じ 平面上にいて、劇の内容を共有します。この年のマダン 劇上演を機に、東九条に﹁ハンマダン ︵ ひ と つ の 広 場 ︶ ﹂ と い う 民 衆 文 化 運 動 を 担 う 、 グ ル ー プ が 誕 生 し ま し た 。 韓国に於ける民衆文化運動を情熱的に紹介し、 ヤンミンギ 地で再構築してきたのは、梁民基氏です。 日 本 の ﹁ 民 衆 ﹂ 。 こ の 言葉の響きに、私は魅了されました。 ﹁ 国 民 ﹂ で も 民 ﹂ で も ﹁ 市 民 ﹂ で も な い 、 ﹁ 民 衆 ﹂ と い う 言 葉 か ら は 、 都市だけではなく、地方も含めた人々の生活の匂いがし ます。巷で話される世間話や権力を榔撤する市井の人々 の声が聞こえてきます。民衆が文化の担い手であり、文 人 化運動が世の中を変える力になること、この奥行きの深一 い運動を、私は梁民基氏から学びました。 ハンマダンに集まった人々は、様々な背景を背負って一 いました。私のように日本の教育の中で育った在日コリ一 アン、小さい頃から民族教育を受けてきた在日コリアン、 パ ク シ ル 朴実氏のように帰化をした後に民族名を勝ち取った日本一 国籍在日コリアン、日本人とコリアンの親を持つ、ダブル一 といわれる人、被差別部落にルl
ツを持つ人、日本人の↑ 学生、教師。そこは、ある意味、社会の縮図でもありま↑ し た 。 一 不断の実践と対話から生まれたもの 日本人とコリアンが共同で、朝鮮民族の伝承芸能を引一 き継ぐ文化運動を進めることについては、内外で波紋を一 呼びました。ハンマダンが結成された当時は、日本人と一 コリアンというこ極構造で議論されることも多く、創作一 活 動 の 中 で 、 また表現活動の中で、対立することも少な く あ り ま せ ん で し た 。 日本人と一緒に文化運動を担うことへの批判は、 }\ ノマダン以外の在日コリアンからもありました。 当時は ﹁ 生 野 民 族 文 化 祭 ﹂ に 代 表 さ れ る よ う に 、 ﹁ 民 族 文 化 は コ リアンが真の自己を取り戻すためにある﹂という考え方 が 主 流 で し た 。 そ の た め に 、 ﹁ 日 本 人 は 支 援 す る 立 場 で こそあれ、コリアンと同じ立場で担うことはあり得ない﹂ という考えのコリアンが多かったと思います。民族民衆 文化運動の主人公は、あくまでもコリアンだったのです。 私 自 身 も 、 日 本 人 が 朝 鮮 の 民 族 衣 装 を 着 て 、 民族の解 放を求める歌や台調を表現することに違和感があったこ とを認めないわけにはいきません。 ハンマダンの会議に は常に緊張感がみなぎっていました。その会議の様子を 見た来日中の韓国の活動家が ﹁ 健 全 な 緊 張 関 係 ﹂ と 表 現 し ま し た 。 話 し 合 い の 中 で 、 それぞれの思いや考え方を ぶつけあうことはあっても、相手を責めることはなかっ た と 記 憶 し て い ま す 。 私たちは、あきらめず議論を重ね、共に表現活動を実 践 し て い き ま し た 。 そ の 中 で 、 お互いの理解と信頼関係 が深まっていきました。私たちは、民衆文化運動の実践 に﹁資格﹂がいらないこと、必要なのはありのままの自 そ こ に は 、 在 日 コ リ ア ン 、 日本人という立場性ではな く、慎とした個人がありました。自己の解放を求めてい そんな自己を表現し、他一 者とつながりたいと求める人々にとって、韓国の民族民一 衆文化運動が希望に満ちた道筋を示していること。差別一 され抑圧されてきたコリアンだけが、民族民衆文化を継一 承する権利があるという考えは独善的であり、民衆文化一 のもつ可能性は無限であると信じるに至りました。 東 九 条 マ ダ ン へ 一 ハンマダンは、マダン劇だけでなく歌と詩の構成とい一 う独自のスタイルを持って、自主公演を重ねていきまし一 た。結成当初は﹁指紋押捺拒否運動﹂や﹁日の丸・君が一 代反対﹂等の集会に呼ばれ、歌と芝居でオリジナルな表一 その後は学校公演や地域の一 また、東九条一 るのは、在日コリアンだけではないこと。どんな立場で あ れ 、 それぞれが自分の生きる意味を探し、誇り高く生 さ る こ と を 切 望 し て い る こ と 。 現 活 動 を 行 っ て い ま し た が 、 こぺる イベントの参加が中心になっていきます。 分であり、表現する喜びであることを知っていくのです。地域で、 7 ハングル講座やチャンゴ教室を続ける中、徐々
に地域に浸透し、若いメンバーも増えていきました。 れ に よ っ て 、 ハ ン マ ダ ン は 世 代 的 に も 幅 が 広 が り 、 メ ン
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の感じ方や考え方がますます多様化していきます。 地域での活動を通してハンマダンは、東九条で ﹁ 日 本 人もコリアンも心通わせ、お互いの文化を理解し合い、 喜 び 合 え る マ ダ ン ﹂ を創ることを目標に置くようになり ま す 。 一 九 九0
年代になると、同じ思いを持つ東九条の 仲間が﹁東九条マダン﹂実現に向けて動き始めました。 初期メンバーが何度も話し合いを重ねながら準備をし、 行政や地域の学校、教育委員会との交捗を繰り返す中、 一 九 九 三 年 の 秋 、 ついに﹁東九条マダン﹂が開催される のです。毎年、地域の小中学校を会場にして、今年二十 回目の東九条マダンを迎えています。 東九条マダンに関わる人々の思いは様々です。コリア ンの悲願である民族の和解と南北の統一を願う人々。在 日コリアンの世代交流の場であり、民族教育の場である ことを望む人々。多文化理解の場として参加する人々。 自己の解放と真の交流を求める人々。東九条という生活 の場で祭りを楽しむ人々。プンムルを奏でて解放的にな る人々。おいしいものを食べて楽しむ人々。絵を描くの そ マダンに参加する人々が一 昨 年 は 延 べ 5 千 人 に 及 、 び ま し た 。 一 東九条マダンは、どんな小さなことでも、自分が出来一 ることで主体的に参加する個々人の思いを大切にしてい一 ます。もちろんそこには、東九条マダン実行委員会での 民主的な会議と運営努力が土台にあります。 保育園と東九条マダン チ ェ チ ュ ン シ グ 私の勤める希望の家カトリック保育園は、在忠植園長一 自らが初代東九条マダン実行委員長となり、第一回から、 園の大きな行事として東九条マダンに参加してきました。 保育園の基本方針である﹁共に生きる喜び﹂﹁地域に根一 ざした保育﹂が、東九条マダンの趣旨と一致するからで一 す。この二十年の間に、多くの子どもたち、保護者、職一 員がマダンに関わり、保育園は地域とマダンを結ぶ役割一 を担ってきました。東九条マダンの活動を通して結ばれ一 そ の 卒 園 児 夫 一 が大好きな人々。知り合いに会いに来る人々。大きくて も 小 さ く て も 、 何 か を 求 め て 、 た卒園児どうしの夫婦も誕生しています。 婦の子どもが、今年の子どもプンムルノリに出演するとい う ふ う に 、 マダン二世が活躍する時代を迎えようとし て い ま す 。 私自身は、毎年、子どもたちとソゴチユム ︵ 小 さ い 太 鼓の踊り︶を練習し、当日は、世代を越えた百人にも及 ぶ大プンムル隊に合流します。東九条マダン開催前の ヶ月間、週に一回、保育園の隣の公園で夕方に練習をす るのですが、練習が始まる九月はまだ残暑が厳しく、 ダン直前の十月の終わり頃は、月明かりの中での練習と なります。私は子どもたちに﹁プンムルというのは、風 の 物 と い う 意 味 な ん や で 。 つまり、この民族楽器は天か らの贈り物、宝物。自分の体の一部のように思って大切 に使ってほしい﹂と話しています。自然と人が調和する 中で、自然の恵みや人々のつながりを喜びとする群舞を 子どもたちと創り上げていくことが、私のマダンでのテ
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マ で す 。 東九条マダンで民族衣装を着てプンムルノリを経験し た子どもたちが、自分がコリアのルl
ツをもつこと、ま た自分の隣にコリアンや日本人以外の友だちがいること を あ た り ま え に 感 じ て 、 それぞれの未来に飛び立ってく れることが、私の願いです。子どもプンムルがきっかけマ
で、その後も東九条マダンに関わっている卒園児が、生一 き生きとマダンで活躍する姿に出会うと、本当に幸せな一 気分になります。彼らは、自分が自分のままでいられる、 自 分 の 居 場 所 で 輝 い て い ま し た 。 東 九 条 で 自 分 を 見 つ め る 一 私の子どもも東九条で暮らし、東九条マダンのプンム一 ル隊に参加することで、自分のル!ツを自然に受け止め一 てきました。私の故郷が生野であるように、彼らの故郷一 は東九条です。私は東九条で少しずつ、自分なりの根を一 張ってきました。そして、多くの出会いの中で、他者を一 理解しようとする経験が人とのつながりを生んできたと一 もちろん、自分本意な考えや思いあがりが一 も 言 え ま す 。 原因で、苦い思いをしたことも何度かありました。 東九条の街が、多文化を理解する理想的な場所である わけではありません。東九条マダンを快く思っていない 人々も少なからずいます。それでも着実に多文化共生の こぺる 芽は、この場所で育っていると実感しています。 私が自分の中で、在日コリアンであることを無視して 9いたら、今の自分はなかったし、他者へのまなざしも違つ ていたでしょう。だけど、在日コリアンであることが、 私の全てではないこと、私の中の多文化にも少しずつ気 づいてきました。私は一人の人間としての小さな塊であ りますが、私の中の魂は無限大であり、それは誰にも侵 されない私だけのものです。そして、私以外の人にも、 その人だけの無限に広がる魂があり、 その人だけの生き てきた背景があることを認めています。 人を理解すること、人とつながることは、言葉にする ほど簡単なことではないと思います。大事なことは、お 互いを理解しようとする気持ち、人とつながろうとする 姿勢なのではないでしょうか。自分を理解してもらうた め に は 、 その相手を理解した上での、共通の言葉や行動 を模索しなくては何も生まれないと感じています。そし て、私は許し合う心が、人とのつながりの始まりだと信 じ て い ま す 。 私 は 、 かつて、無知ゆえに相手を傷つけて しまったことが何度かありました。 その都度、私の未熟 さを許してくれた人々のおかげで、私は前を向いて考え る 力 を 得 た の だ と 自 覚 し て い ま す 。 在日コリアンは ﹁ 架 け 橋 ﹂ ﹁ 越 境 人 ﹂ ﹁ 境 界 人 ﹂ と も 呼ばれ、平和な時代はポジティブな存在とされます。し一 かし、日韓や日朝の関係が緊迫すると、たちまち不安定一 な存在に変わり、両方から疎外される危機さえ感じてし一 ま い ま す 。 一 だからこそ、私はあえて言います。﹁私は私以外を代一 表しない。私という掛け替えのない存在である﹂と。在一 日コリアンであることで、アイデンティティクライシス一 に陥った過去とは違い、今は胸を張ります。私は根なし一 草ではなく、あちらこちらに根を張る雑草ですと。身近一 な日々の営みが勝利する日がくると。 最後になりましたが、日常に埋もれそうになる私に、 自分を振り返る機会と、考えるエネルギー、書く勇気を一 与えてくださった藤田先生と﹃こぺる﹄に心から感謝申一 し上げます。私は長年、﹃こぺる﹄から生きるための示一 唆をたくさんもらってきました。終刊は本当に残念です一 のテ!マは私も含め、読者を通して今後一 が ﹃ こ ぺ る ﹄ も 広 が る こ と と 信 じ て い ま す 。
四 日 市 か ら ⑮ 四 日 市 男 女 共 同 参 画 研 究 所 ︶
がんを発症する
坂倉加代子︵
NPO 法人 最近、これからの私の人生に、もうひと波乱あるよう な予感がしていた。娘や孫たちの身に何か起こらねばよ いがと気に懸っていたのだが、その予感は、あろうこと か病気ひとつしたことのない私が H がん H になるという 現実となって的中した。 どうして私がと思う一方で、娘や孫たちでなくてよかっ たという安堵感がある。 大事に大事に育てられ、辛い思いなどせずに成長した 私は、結婚後、心を痛めたり、右往左往する出来事に、 これでもかこれでもかと対応に迫られた。 それは姑の入院・看護・死に始まり、自由奔放すぎる 夫との葛藤、家を重んじる夫と束縛を嫌う長女との確執、 そして長女の登校拒否、夫のアルコールへの依存、次女 苦労知らず一 試練の時であった− 仕事を辞めずに人一倍こなしてきたのは仕事が一 好きだったこともあろうが、若さがあったからだろう。 仕事仲間の F さんが﹁私は結婚するまでが恵まれてい なかったから、結婚後はずっと幸せなのよ。あなたとは一 正反対﹂といつも言っていた。この﹁一生の問の幸せな一 時間と不幸せな時間の帳尻合わせ﹂論で、私は自分を納一 得させてきたのかもしれない。がん宣告にもなんとか静一 かに向き合うことができたのは、まだ私には幸せのたく一 わえが残っているからだ。 地元のクリニックで、しこりががんであると判明した一 その日から毎日、私は観察者になって自分の心の動きを一 見つめている。問診のペーパーで、﹁告知するか。告知一 するなら最初誰にするのか﹂を問われる。私は障賭する一 にO
印を付け、︿誰に﹀の所には一 子どもじゃないんだから。それに一 ﹁ 家 族 の 方 に も 説 一 の 手 術 、 両親の介護と別れ 幼 い 初 孫 の 手 術 、 夫のがん の 発 症 ・ 再 発 ・ 死 、 の 私 に と っ て 、す
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ナ ’ カ ことなく ︿ 告 知 す る ﹀ ︿ 本 人 ﹀ と 記 入 し た 。 こ"'る 私 は 世 帯 主 。 それなのに診断の後で 明 し た い ﹂ と 医 師 は 一 一 一 守 つ D ﹁家族が来なければいけませ 11んか。私のことですから、私が伺えば十分です﹂ い ろ い ろ あ る 場 合 が 多 い の で ﹂ ﹁ う ち は 後 で H い ろ い ろ ρ など、金輪際言いません﹂。説明責任とやらが形式的に なっている。たった今、告知されたばかりだというのに、 ﹁ 後 で こんなところで頑固さを貫いている自分が面白かった。 夜、﹁やっぱり、がんやったわ﹂と伝えると、長女は ﹁ふううん﹂と言ってテレビのサスペンスを観ている。 ﹁ も う 死 ぬ か も し れ ん ﹂ と 言 葉 を か ぶ せ る と 、 ﹁ 死 な へ ん 。 死なへん﹂とテレビから目を離さない。深刻になっても かえって困るのだが、あっけらかんとしてい ら っ て も 、 る 長 女 に 腹 が 立 つ 。 書 斎 に 入 り 、 一人になると緊張の糸 が切れたのか、打ちのめされた気分が体中を走った。 かわの 乳がんで亡くなった歌人、河野裕子さんの︿手をのべ 息が足りない あなたとあなたに触れたきに 世の息が﹀を口ずさむと、ほんの少し身体が震えた。 そ れ な の に 、 て こ の その夜は自分でも信じられないくらい、 ぐっすり眠った。翌朝、四時半すぎに、いつものように 五人家族のための朝食や、早出する孫のお弁当を作らね ばと、離れへ行くと、もう長女がキッチンの前に立って いた。昨日までは﹁年をとったら家事をすること。家事 はボケ防止に一番だからね﹂と朝の支度を私に押しつけ、 私 が 退 一 職 す る ま で は 、 長 女 の 舌 一 は、私の実母ゆずり。幼い頃から母に面倒をみてもらっ ていたから、だろう。小学校の運動会で、敷物の上に広げ一 た母手作りのお重弁当が日に浮かぶ。 中学一年生から五年半もの問、孫のお弁当は私が作つ てきたが、長女の作るのが美味しいのか、孫の特大弁当一 は毎日空っぽ。﹁友だちが一口食べさせてくれ﹂と言つ一 たとか、親子の会話が気に障る。そっとお弁当をのぞい てみると、長女が搭えたおかずは見るからに素材が生き一 て い た 。 私を当てにできない生活に備えてか、長女は孫たち全一 員参加で家事ができるようにと、電化製品を整え、使い一 勝手を考えた配置をこつこつと進めている。あの日以来、 わが家には有形無形の変化が起こっている。 徐々に友人や仲間たちに伝わって一 これから人にかける言一 ギリギリまで寝ていた長女なのに。 お蔭で私はキライな 家事から解放されて肩が軽くなった。 長 女 の 料 理 は と て も 美 味 し い 。 亡 夫 が ﹁ お 前 が 料 理 屋 を し た ら 繁 昌 す る ぞ ﹂ と よ く 言 っ て い た も の だ 。 彼 女 が わ が 家 の 料 理 人 だ っ た 。 私 の 病 気 の こ と は 、 い っ た 。 そ の 励 ま し の 言 葉 か ら 、
葉 の 学 習 を し た 。 ま だ 検 査 中 の 時 に か け る ﹁ 絶 対 大 丈 夫 ﹂ ほ ど 空 々 し い も の は な い 。 ﹁ 私 の 知 っ て い る 人 は 良 性 だ っ 一 番 ふ さ わ し い 言 葉 は ﹁ 祈 っ て い ま す ﹂ のただ一言だ。高校の新聞部の先輩がかけてくれた﹁今 まで神も仏も信じたことはないけれど、全部信じて祈る からね﹂は、最初に感じた一番うれしい言葉だった。 宣告後の﹁がんばれ﹂は、なかなか心に届かないもの だ。﹁何をがんばるの?どうがんばるの?﹂と私の心が 言っている。諏訪中央病院の鎌田賓先生は﹃がんばらな い ﹄ ︵ 集 英 社 ︶ と い う 本 を 出 し て い る で は な い か 。 ﹁ が ん ばれ﹂より、百歳の詩人、柴田トヨさんの言葉﹁くじけ ないで﹂が適切だ。いろんな好症例を話してくれる人も ﹁ 私 の 場 合 は 違 う か も し れ な い ﹂ た よ ﹂ も 同 じ 。 多 い 。 それに対して ﹁ 悪 い 症 例 も あ る で し ょ ﹂ と 心 の 中 で 返 し て し ま う 。
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さんは末期だって。あなたはまだ初期でよかった﹂は 禁句。手術するまでは本当のところはわからないのだか ら。どんな励ましの言葉も微妙にマイナス方向に心の琴 線 に 触 れ る も の な の だ 。 ﹁ 手 術 は ど こ で や っ て も 同 じ だ よ ﹂ と 友 人 の 医 師 が 言 っ た。私もそう思っていたのだが、何人もの友人が名古屋 にある病院を勧めてくれる。私は医師や病院のランクづ た く も あ っ た 。 予 約 を と る か り 決 13 けに抵抗を感じる。何よりも自分で選択した近くにある 病院が気に入っていた。女医さんでスタッフも女性ばか り。ここの空気が好きだった。先生やスタッフのまなざ しが作りものでなく、やさしく感じられた。それは同じ 生理が通わせるあたたかさに違いない。的確な検査によ る診断に何一つ疑うこともなく、セカンドオピニオンな ど眼中にない。この先生に任せようと決めていた。友人 たちが勧める転院には﹁ほっといてよ﹂﹁自分のことは 自分が決めるから﹂と言いたかった。決めたことを守り ところが友人の E さんが﹁愛知県がんセンターへ行き ましょ。たとえこの転院が失敗に終わったとしても私は 後 悔 し な い 。 連 れ て 行 き ま す 。 明 日 、。
と声をあらげて言うではないか。 ﹁ あ な た に 心 し て ! ﹂ は 、 ま だ 山 ほ ど 仕 事 が あ る の よ 。 で お 願 い ﹂ と 。 症 例 の 多 い が ん セ ン タ ー そこまで言ってくれるのかと、私の頑なな心は解けて いった。長女が発した﹁これが、ばあばあの運の強さと いうことかもしれない﹂というセリフに背中を押されも こぺる E さんが会社を休んで 連 れ て 行 っ て く れ る 。 し た 。 ﹁ が ん セ ン タ ー ﹂ ま で 車 で大きな建物は苦手。最先端医療にも興味はない。私は モルモットにされるんじゃないかという危倶さえ抱いて いた。ところが自動ドア
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を通り、中に入ると、まず ﹁大きくないわ﹂という印象を持った。患者に不安を感 じさせない空間が設計されていると直感。適度に機械化 しながら、要所要所には人を配置している。低めのカウ ンターの向こうに座っていたスタッフは患者を前に立ち 上がり笑顔で対応する。私が想像していた、﹁ここが有 名ながんセンターよ﹂という匂いがしない。普通なのだ。 診察を受け、検査に回り、会計を済ませるシステムも スムースに動く。所々にある案内も患者の目線で書かれ ている。うろうろするだろうなんて懸念は無用だった。 私の心は、もう落ち着いていた。もちろん E さんが寄り 添っていてくれたということもあるのだが。 専門家らしからぬ雰囲気を漂わせ、風格を備えたドク ターと出会えたこともラッキーだと思った。 いくつもの検査をひとつひとつクリアーしていく。検 査室が変わるたびに、間違いを防ぐためだろう、氏名を 声を出して言うことになっている。﹁坂倉加代子です﹂ と大きな声で発すると、この世界にたった一人しかいな い H 私 H を感じ、横たわったまへ心は父や母の顔、手、 声 を 思 っ て い た 。 ﹁たぶん、転移はないでしょう﹂と診断されたことを 友人たちにメi
ル で 知 ら せ る と 、 ﹁ 心 底 う れ し い ﹂ ﹁ 今 ま でもらったメl
ル で 一 番 う れ し い ﹂ ﹁ バ ン ザl
イ ﹂ と 返 っ てきて、もう全快した気分になってしまう。 今のところ、まだ手術日が決まっていないので、私は 病人になり切れないのだが、周囲は、すっかり患者扱い で あ る 。 毎朝決まって ﹁ 大 好 き よ ﹂ と電話をくれる K 子 さ ん 。 D さんからは ﹁ 毎 朝 、 と メl
ル 。 お 祈 り し て ま す ﹂ ズ が 届 く 。 魔 よ け グ ツ 行きつけの美容師さんまでもがお水と浄水器一 を 高 め て と ニ ン ジ ン ジ ュ ー ス ゃ が ん 封 じ の 飴 、 のメンテナンスを引き受けてくれる。 車の運転を勝って 出てくれる Y さ ん 。 運 撮 係 の R さ ん 。 NPO の仕事を手 伝ってくれている大学の後輩たち。 男社会で共に働いて きた三人組の二人は伺度も私をランチに誘い、 ﹁ 医 療 費 、 足 り な か っ た ら 用 意 す る よ ﹂ ら、私はあったかいムl
ド に 包 ま れ て い る 。 と 言 っ て く れ る 。 あの日か この幸せな 気分が病魔への不安や怖れを相殺している。 ﹁ 今 ま で に い た だ い て い た パ ワ ー を 全 部 お 返 し し ま す ﹂ と若い仲間からメl
ルが届く。﹁返事はいりません﹂と 添えてある。手術を前に、私の心は平穏だ。いのちを生きる⑮
生と死の狭間で
長谷川洋子︵大阪府小学校教員 三 島 郡 島 本 町 在 住 ︶ 九月十三日 医大の検査目。ドアを聞き T 先生への挨拶もそこそこ に、私の目は机上のコンピュータ画面に矢のように飛ん でいった。腫寝マl
カ ー が ま た 上 が っ て い る 。 ﹁ 長 谷 川 さ ん の 平 常 値 は 、 六 か ら 七 と 言 え る で し ょ う 。 通常、数値は上がり下がりするものですが、三月から数 値が上がり続けています。次回十二月の検査日にマl
カ ー が 一O
を 越 え た ら 、 PET 検査をして対策を考えましょ う 。 ﹂ 先 生 は 静 か に そ う 説 明 し た 。 東京で免疫治療 HITV をしてくださった H 先生の寛 解宣言はどうなったのだ! H 先生は﹁治療をして三年後 に再発したひとはいません﹂と言ってくれたのだ。大丈 夫 だ 。 H 先生を信じよう!いや、私はこれまでマl
カ ー が上がり続けると必ず再発したではないか。頭の中でさ がんで亡くなった友人・知人の顔がふと浮かんだ。所一 詮ひとは死ぬ運命からは逃れられない。私は今、一生の一 時間軸のどこに位置しているのだろう。私がすべきこと一 は何なのだろう。頭の中の声は止まず、私は混沌の中に一 た た ず 一 件んでしまった。﹁十二月まで、まず絶対禁酒、だ。そし一 て学校の中で小さくてもいい、楽しいこと、素敵なこと一 を見つけていこう﹂と、気持ちを少しずつ立て直した。 九月二十九日 運動会の後、例年のように打ち上げの席が設けられた。 低中高学年別に、子どもたちが発表したダンスや組み体一 操を宴席で大人が再現する、というのが本校の習わしな一 のだが、今年は例年になく荒れた。 若手の一部がまずビl
ル の 一 気 飲 み を 始 め た 。 そ し て 、 大声で嚇しながらまわりに一気飲みを促す。名前を呼ば一 れたひとたちは拒みもせず、みな次々に杯を飲み干して一 いく。そのうちダンスの再現が始まった。﹁一気飲み﹂ の首謀者のひとりが、酔いがまわったのか、女性教員を 抱いたり、蹴ったりする。校長がやんわりと制止したが、 聞かない。年長の女性教員を抱き寄せた時はさすがの私一 ま ざ ま な 声 が 交 錯 す る 。 こべる 15も 怒 鳴 り あ げ た 。 若手が荒れるのも仕方がないのかもしれない。仕事は 増える一方、給料は下がる一方。保護者対応は大変。橋 下﹁維新の会﹂の下で大阪府は次々に教員をサンドパッ ク代わりに痛めつける。直近の締め付けは、保護者のア ン ケ 1 トによる人事評価だ。親の評価を取り入れてボー ナス査定をする。アンケート項目や方法は、どうみても 客観的かつ正確に行える内容ではない。こんな査定では、 人当たりがよく見栄えのよい取り組みをする教員などが 親から高い評価を得て、高学年やしんどいクラスの教員 E り が い は呼外におかれることは不可避だ。 学校は一部の日当たりの良い場所だけでまわっている のではない。若手の荒れには無理からぬところがあるの かもしれない。しかし、管理職も嬉しそうに一気飲みに 応じ、某教員のセクハラも結局黙認している。佳境に入っ てますますご気﹂が激しくなった。みな良く飲む。憂 さを晴らしているのか。病気になる前の私も晩的が止ま らなかった。同時にみんな嫌われたくないのか。﹁誰か ら﹂嫌われたくないのか、具体的人名がないところが恐 ろしい。管理職も同様なのだ。多数派に入っていたいの だ。お聞きが過ぎても一気飲みは延々と続いた。蛮声が んがべそをかいている。そんな Y ちゃんに A ちゃんが優一 しく声をかける。その眼差しに思わず胸がいっぱいになっ た 。 そ ん な 私 の 横 で 、 Y さんがクラスのことで悩んでい る若手をゆっくり慰め励ましている。 Y さんの語り口は一 暖かい。私まで明日からがんばれと励まされているよう一 な 気 が し た 。 私の職場だけではないと思う。府下の学校はもともと一 しんどい環境にあるのに、政治の道具にされて苦しんで一 いる。おそらくどの学校にも、苦しいと声に出して言え一 ず荒んで憂さをはらす教員がいるだろう。若手を暖かく一 支える教員がいるだろう。そして、子どもの優しい眼差一 しがあるだろう。このような混沌とした世界の中で、私一 は生と死の狭間を揺れながら生きていくのだろう。 今回で、この連載は終わります。稚拙で﹁考えなし﹂ の私にお付き合いくださったみなさま、そして優しく、 ときには厳しく指導してくださった藤田敬一さんに厚く一 お礼を申します。ありがとうございました。 いた。ビデオの中で、三人組の組み体操に失敗した 飛ぶ中、お昼の運動会のビデオが料亭の壁に再生されて Y ち ゃ
濃水飛山記 マご九五八年六月十一日、わたし は 京 都 市 下 京 区 、 河 原 町 七 条 西 南 角 の 木造モルタル塗り三階建てにあった 部落問題研究所を訪れ、その後の生 き方にとって貴重なアドバイスをも らったんです﹂。奈良市で郵便局の 支店幹部にそんな話をしたら、出席 者のおひとりが﹁うん。うん﹂とう なずく。思わず﹁あの建物を知って い る の ? ﹂ と た ず ね る と 、 ﹁ は い ﹂ との返事。彼は部落問題研究所のあ とへ入居した出版社に郵便物を配達 え に し していたという。建物がつなぐ縁に 感 動 。 マ﹁私の教え子で視覚特別支援学校 出身の全盲の学生がいた。将来、普 通学校の教師になりたいと、教育実 習ができる普通校を探したが、すぐ には見つからなかった。︵略︶これ をきっかけに、私たちは似た境遇の 学生の聞き取り調査をはじめた。障 害の有無にかかわらず、あるいは人 種 や 民 族 な ど の 価 値 を 尊 重 し つ つ 、 共に生き合うことを理念とする︿イ ン ク ル l シ ブ 社 会 ﹀ や ︿ 共 生 社 会 ﹀ の実現が議論されるようになった今 日、盲学校出身者が普通校で教育実 習をすることは、新しい社会への糸 口になると考えたからだ。これまで 5 人の話を聞いたが、全員、普通校 での教育実習はかなわなかった。彼 ら/彼女らはなぜ、受け入れを拒否 さ れ た の か 。 ︵ 略 ︶ ︿ 目 の 見 え な い ﹀ 実習生による教育実習では、︿日の 見える﹀生徒と障害を持つ教育実習 つ む 生が、どのような関係性を紡げるの かが課題となり、両者がそこから学 ぶものは大きいはずだ。異質な者同 士が出会う場は、せめぎあいも絶え ないが、それゆえに新しい価値や関 係 が 創 造 さ れ る と 確 信 し て い る ﹂ ︵ 宇 な い か ず ふ み 内一文・立教女学院短大講師。﹁朝 日 ﹂ ロ ・ 8 −