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筑紫文学圏論 第一山上憶良・第二大伴旅人、筑紫 文学圏

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Academic year: 2021

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筑紫文学圏論 第一山上憶良・第二大伴旅人、筑紫 文学圏

著者 大久保 廣行

学位授与大学 東洋大学

取得学位 博士

学位の分野 文学

報告番号 乙第111号

学位授与年月日 1999‑03‑15

URL http://id.nii.ac.jp/1060/00004059/

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止

(2)

笠 間 圭E 二1 院 刊

紫 筑 文 学 圏 論 山 上 憶 良

(3)

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章 

閲 歴 と 作 風 素 描

筑 前 守 以 前

り ∩

に  

酉  18

び  32

3

9

(4)

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初 代 筑 前 守 の 可 能 性

)

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係  42

第 二 章  憶 良 歌 の 形 成

‑‑

心・J

﹁ 鳥 翔 成 ﹂ 歌

に  

馴  

﹁日本挽歌﹂の標題

に  7

﹂   77

二  子 心 を 思 へ る 歌

はじめに

序の論理

愛の相剋

102 10 斗 105

( 川

(n) ( 川

(川 (六)

任  46

び  

0ろ  61

び  72

び  

95

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り  108

人  m

び  13 j

102

(5)

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四 

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山E.I白E

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□ 歌  

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⁚ 代  19 1

□ 片T代  196

七  老 身 重 病 歌

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に  208

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化  217

209 no

1 稀

(四)

(六) (川 (七 )

1 ろ3

124

造  171

び  186

終結部の意味  心

結び  204

三部作と反歌群

抑び  25

22 弓

159

135 □4 192

7

IdllIlf02

(6)

IV

第 三 章  憶 良 と 旅 人 ・ 家 持

・‑

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O

に  235

﹇ 合  235

一 

= けじめに

= 名の思想

目 独りの意識

仁  初 出 ︵ 原 題 ︶ 一 覧

264 266

( ㈱

介  2 48

び  20

四 か  281

Iφ   5㈲ び  28

回 国

:     :   27

人名索引

235 264

285 28 フ

開1

開4

(7)

山 上 憶 良 の 論

(8)

序 に 代 え て

序 に 代 え て

奈良朝前期の筑紫における万葉のありようをどう一づ⁚い表したら⁚取も的確か︑その性格を簡潔明瞭に二回で示すよ

うな表現がなかなか見当たらない︒

よく言われる﹁筑紫歌壇﹂という呼称は確かに討いえて妙と言うべきであるが︑あまりにスマート過ぎて今ひと

つ馴染めないものを感じる︒後世の歌壇のイメージを当てはめて︑それと回質のものを想定させかねないからであ

る︒そこには別に宗匠的指導者がいたわけでもなければ︑結社的集団がしのぎを削っていたわけでもない︒それ

は︑いわゆる万葉第三期の時代︑神亀から大平の初めにかけて︑大宰帥大伴旅人を中心として︑筑前守山上憶良や

府の官人たちで構成された︑ごく淡々しいつながリ方の丈学的集団であった︒

だから︑名称としては︑﹁筑紫歌壇﹂よりもむしろ﹁人宰府文学﹂﹁都督府文学﹂︑あるいは広く﹁筑紫歌圏﹂と

でもいっか表現の方が︑平几ではあっても穏やかかもしれない︒しかしこれらも︑﹁大宰府文学﹂だと場所が大宰

府に限られて官大り八が濃厚であるし︑﹁都督府丈学﹂では漢詩文を中心とした中田的色彩を強調したきらいがある︒

かといって 1筑紫歌圏﹂は︑和歌だけをからとしていたような印象が拭いがたい︒

ところで︑その亜要な舞台となった人宰府とは︑本来人陸への防衛基地で︑人智二年︵六三白村江で大敗を喫し

た結米ヤ高撒退のやむなきに至った朝廷は︑人字府を内陸縦人平府町︶に移し︑大堤水城を築き︑付近の大野山・

(9)

使

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(10)

序 に 代 え て

一時は︑梅花の宴又︒1 ︒.Iの歌群をmられた︒⁚田宣が︑その様態を﹁杏壇各言の作﹂と評して︑孔八の講壇に

弟子たちが侍座したさまにたとえたほどであったが︑旅人が人姉E⁚に任ぜられてL京した後は︑グループとしての

作歌活動はたちまちに衰退し︑わずかに憶良と麻田陽春の作を残すのみとなった︒﹁奈良詩壇﹂における長屋上と

同じような役割を︑旅人はリーダーとして庇護者として果たしていたことになる︒

しかし︑I I'}で形成された文学のありようを考えてみるに︑その人牛を収める巻五は︑長歌  〇首・短歌一〇四

首の外に︑漢詩二首・序文九・文章一・書簡六も含み︑肌にに和歌の詠出にのみ限っていない点がきわめて特徴的で

ある︒それも漢詩文と和歌は別物として配されているわけではなく︑詩文と和歌乙︒群丁書簡と和歌余れ﹁序文

と和歌・〜0 し序文と和歌と追和歌三一茫といった緊密な結介が顕著で︑最後には﹁文章十詩文十和歌群﹂二群︶

という壮大な三部構成をとるものさえ現れるに至る︒

これらの文章は︑和歌を盛り立てる前置きや前提としてあるのではなく︑和歌と対等の資格でそれと有機的に結

合し︑そのことによって和歌だけでは表しえない世界を描くのに有効であった︑和歌群を彩る添え物として付加さ

れているのではなく︑欧文と韻文︑漢文休と倭文体・ご吊ご⁚八白の二重の融合によって︑これまでにない全く新

しいスタイルを生み出しているのである︒

この混然一休となった漢和融介のあり方は︑かつてない文学的世界を構築している︒旅人はこれによって物語的

な夢幻空問を創造しようとしたし︑憶良は述ぷを目指した思想の開陳を果たそうとしていて︑共に従来の和歌的範

躊から人きく踏み出している︒それは︑形式的にも内容的にも︑狭い﹁倭歌﹂の領域の拡大化を図り︑新しい文す

様式の碓立を模索したものであった︒

5

(11)

そればかりではない︒前丈や序丈と和歌との並川︑書簡と和歌との一休化︑あるいは梅花の宴などでの集川詠や

松浦川歌群などの止ハ作の記録化︑憶良の 1謹卜﹂の形式等からは︑和歌が︲で歌い耳で聞くものから︑書いて作り

読んでゾ受するものへと完全に移行したことが知られる︒丈字で書かれたものを通して作品加悦示され︑それを受

容する形が︑これまでにも増して進化した段階に入ったものと認められ︑創造と享受は時問と空間をも隔ててより

町能になったのである︒しかも︑それを意識的に行う' Jとで︑従前の表現領域を人きく踏み越えるものになったと

思われる︒

この︑とらわれのない自在な試みを可能にしたのは︑郡から遠く隔たってしかも中田や朝鮮牛島に正対した筑紫

に在ればこそで︑地理的条件も大きく関与したと言える︒とりわけ︑祁からの隔絶は︑丈学を宮廷から自然訣別さ

せることにもなって︑文学は宮廷に奉仕するものからそれ自体自立した存在として脱皮を遂げることを意味する︒

かくて過去の拘束から解放された白山な文学創造は︑文学とは何かを自覚する時代に入ったことを示すものと言っ

てよいだろう︒フ人ざかる鄙﹂に在ることが︑かえって多様な可能性を模索する機会を自らに与える結果となって︑

文学それ自身に清新な変革をもたらし︑時代を変える人きな推進力となったのである︒

筑紫万葉を表現するには︑万葉史的にも和歌史的にも際立ったこれらの事実を標榜しなくてはなるまい︒旅人の

周辺に蛸集する人々が︑歌を核としながらも︑より広い文学世界の創造と享受に強い関心を寄せていたとするなら

ば︑それは︑﹁筑紫歌圏﹂に倣って・Hえば︑﹁筑紫文学圏﹂とでも称すべきあり方であると言えよう︒﹁歌﹂のみに

盛りきれぬ幅の広さと深さを︑﹁文学﹂という︒一⁚い方に込めたいと思う︒これとてもなお幾分の落ち着きの悪さは

残るけれども︑暫くは次善の呼称として試みに川いてみることにしたい︒

(12)

序 に 代 乙 て

筑紫文学圏の考察は︑畢竟旅人と憶良の問題に収斂するのだが︑まずは本書では憶良を中心に扱うことにして︑

旅人および筑紫丈学圏全休にかかれるものは続編言収り上げたいと考える︒

・ ゝ

1L⁚.万︶ ︑T

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(13)

閲 歴 と 作 風 素 描 1 ]

第 一 章 憶 良 の 生 涯

閲 歴 と 作 風 素 描

I 系譜と閲歴

新撰姓氏録の有京皇別下に︑

粟田朝臣  大春日朝臣同祖 大足彦国忍人命之後也 日本紀合

山上朝臣  同氏凧工 ︲本紀合

とあるのを手がかりとして︑山上氏は︑光昭天皇の皇子天足彦国忍人命を始祖とし︑その本宗春日臣︵のち人本︲朝

叫・から分枝して︑渡米系氏族の従属によっ了形成された粟田氏系から分脈した一氏族と考えられている︒さら

に︑中西進氏の推定によれば︑天智朝に来朝して大智・人武の朝廷に侍医として仕えた百済の亡命帰化人憶仁は憶

良の父であるうという︵﹁家系﹂﹃山ト憶良≒とすれば︑︒白済の地で生を受けた憶良は︑四歳の折に父に伴われて日本

の地を踏んだことになる︒なお︑憶仁は朱鳥元年︵六八﹃憶良二十七歳の夏に没し︑勤大壱位︑封一百戸を賜った︒

(14)

ユ  に︲ に ︒りトf 1い     

第 級I

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︒7歌 I︒︒︻しに9

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(15)

1 1  閲 暦 と作 風素 描

であろうが︑人録の錦部連道麻り⁚も少録の自諾史阿麻留も渡来系の出身であり︑山上氏が粟田氏と同祖関係にある

ことも決して偶然ではないだろう︒この年五月に真人が節刀を授けられて丁付け筑紫まで赴いたが︑風浪のために

渡海が叶わず︑が二年六月ようやく進発できた︒唐にあって憶良は︑儒教・仏教・道教の外︑各種宗教の交錯する

中で思索を深め︑初唐から盛唐にかけての文人だちとち交渉を持ち︑巾井の風俗・文化の吸収にも努めたことであ

ろう小︒西進氏﹁映安の生IO掲ざ︒遣唐使一行の帰路はきわめて難航し︑執節使粟川朝臣真人らが慶雲元年︵よ︶︑

副使し勢朝臣祖父らが同四年こ︒〜人使坂介部宿禰人分らが養老二年ことと三度にわたり︑その隔たりは十四年

問にも及ぶが︑憶良の帰国は少録であることを考慮すれば︑第二次かと考えられる︵中西進氏 1殷唐︶前掲書︶︒とすれ

ば︑憶良は四1 三歳から四ト八歳まで︑唐言︒⁚えば長安三年から景龍元年まで︑足掛け六年在唐したわけだが︑そ

のうち後半の三年問は川人武后の死による不安な政情下に身を置いたことになる︒帰国に際して賤宴の折に詠んだ

と思われる﹁山ト︒臣憶良在人唐時︑憶本郷作歌﹂︵Lハしがある︒

憶良の閲歴はこののち再び暫く空山となる︑和則ト︶年四〜四︶正月︑正六位下であった憶良は従五位下に昇進し︑

それは遂に彼の牛此の位階となった︒時に丘ト丘歳であった︒この時期までの憶良の叙位の経過を︑村山出氏は︑

迫害使の進発時までに人初位下か少初位に︑帰国後従七位L︑和則三︑四年ごろ正六位下と推定される︵砲良の生

仰〜山ト憶八の研I≒それから二年後︑霊亀二年こづ四月︑憶良は伯老⁚守に任ぜられた︒任地での事績も帰任の時

期も明らかではないが︑養老四年﹂〜木までには祁の官に選任されたものと思われる︒養老五年正月︑憶良六ト

ニ歳のとき︑佐為に・伊部王以下卜六名のうちの一人として︑退朝ののち東京こ目QIに侍せしめられることにな

った︒人陸的7 ⁝︒バに通した当代一流の学卜たちに交じって進講の栄に浴しえたのは︑人唐して先進文化や新知識を

(16)

憶 良 の 生涯

1陽I⁚研

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   ︵6

年I

2 作  風

以上の経歴から︑われわれは︑憶良が渡米系の卑姓の貴族にすぎず︑長く下級官人として無名時代を送ったこ

と︑その素養によって録事に起用されて渡唐を果たし︑さらには東宮侍講者にも抜擢されたこと︑伯1 守や筑前守

という国家機構の末端にあって直接民衆に接し︑律令政治の徳治主義を忠実に守りながら︑現実の矛盾と正面から

取り組んだこと︑老病にさいなまれる身に鞭打って﹁天ざかる鄙﹂に赴きはしたが︑そこで大伴旅人というよき理

12

(17)

]l  問 歴 と 作 風 素描

解者の知遇を得たこと等を知ることができる︑これらの原休験が彼の歌作に特異な影熊⁚を及はさないはずはなかっ

た︒そこには︑逃れるすべちない︿負﹀と僥倖にも近い︿.L﹀とが交錯し︑その両極の狭問で愚直なまでに一途に

自分の道を膜彙してやまない姿が彷彿とする︒他行に対しては︑負を持勺者のみの知る︑他人の傷みへの深い同情

や弱者への限りない共感を根底に挑えないことはなかった︒

億良が独自の丈学的問眼をみた内接的契機は︑0 仔即ちない旅人の妻の死とご⁚つてよいが︑彼がそれをいかに厳

粛に受け止めたかは︑悼亡丈・悼ご詐に加えて反歌を五首も付した﹁︲本挽歌﹂︵5九四〜九几︶という力作を旅人

に献⁚にしかことからもよく理解される︑旅人の立場になりきっての︑その真率そのもののありぢは︑漢詩文と長短

歌の連作という新様式と具に︑自身のその後の文学的方向をはっきりと決定づけたとこ

   ⁚えよう︒死︑それも人万を

令うせざる死︑不町抗力の突然の死に対して︑憶良の良俗はとりわけ深い︒生人叩の断絶という冷厳な浙実に直面す

れば︑もはや社人︑民衆の区別はなく︑先立つ行︑残される者の身になって︑億良は全人的感慨を傾けて歌わずに

はいられないで北はまさに憶良の根幹を酉く最人のテーマであった︒﹁︲本挽収﹂は人の立場で妻の1  逝を慟哭す

るが︑﹁歌和ト 為能一凝述輿心謡ソハ匹﹂︵5八八六〜八〜︶は公務でト京の途中急病のためにy世した熊凝の立場で

家郷にある父けへの田心いを語り︑づ筑仙田ぷ賀自水郎歌ト首﹂︵16三八六三Fバハとは亙子のえ場で海9 に遭って川らぬ

人となった龍雄を偲び丁﹁恋男トち占︲付言目﹂つ礼一︻〜酉六︼は親の立場で雌愛の幼子の急死を悲嘆している︒

初期の 1 山卜臣憶良辿和歌一匹﹂⑤︼べども有川自Efの囚われの魂をやさしく解き放とうとしたものであった︒

このように憶良の︲が牝からそれることがなかったのはド水年の宿痢の進行と良老の切辿のために︑おのれの死

を強く自覚せざる今えなか︒つたことに起囚するものであろう︑彼の持病は伯名⁚から川京するころ発し︑以米ト数年

(18)

忙 良の 生 沁

1足の関節を傷め坐臥の自山をかって執拗に彼を沁しめた︒しかも老いの深まりに加えてその度を増すのだから︑

彼にとってはまさに﹁痛き愉に塩を㈲き︑短き材の端を截る﹂一 1沈癩自火のA・ごとき 苫痛であった︑この二つの魔

の千から逃れるすべもないことを知る時︑彼は︷屑深く自しを凝視した︒﹁哀世問難`伴謡一首﹂︵5八ぺ四・八︶五︶

では﹁たまきはる命惜しけどせむ術むなし﹂と現実の無常を受け止めようとし︑﹁悲・歎俗道︑仮介即離︑易¨去

難し留詩一首 ﹂︒今﹈では﹁死をもし欲はずは生まれぬに如かず﹂とまで︒⁚い切り︑で心力具に尽きて寄る所なし﹂

さ ぱへとの自覚を深める︒続く﹁老身峨﹂ 病︑経年や苫︑及︑思児等謡し首﹂︵5八七〜白ごでは﹁五月蝿なす 騒く

児ども﹂が障害となって︑老病の九︱苫を去るために死を願っても果たしえないさらなる苫悩に呻吟する︒こうした

自己の老病死を見つめる目が︑他者の死への篤い同情を可能にしたのであった︒

かく自他の死を思う時︑憶良は﹁生の極めて奸く︑命の至りて重きを﹂知る  I沈癩自火の丈﹂﹁この認識は当然の

ことながらソえられた生をいかに生きるかを問うことになる︑嘉摩三部作の第一 ズヅ反・惑情誹

    首﹂︵5ハ∵

八□︶では︑﹁父けを 見れば尊し 妻ト見れば めぐし愛し 世の中は かくぞ道理﹂と父母・妻了という人間的

絆の絶対性を標榜して︑﹁なほなはに家に帰リて業を為まさに﹂と惑える情を説諭する︒続く第二作﹁思子等謁

一昨﹂︵5八︶ツハレ︶では︑人問愛の至純なるものとしてfへの愛を自らに確信させることによって︑愛するがゆ

えの冷しみを乗り越えようとする︒やがてそれは︑千を愛すればこそ老病苫にも耐えて長万を願って生きざるをえ

ぬ苫悩へと逢着する︵5八九七〜︷い︒︒︸︒時に憶良は宴を罷るうとして妾ドヘの﹁めぐし愛し﹂き心をユーモラスに歌

いじけもしたが︵3二七︶︑七宝にもまさる愛の対象を喪失した親の惑乱ぶりも描いてその愛執の深さを語る︵5

九つ陥〜︷六︸︒このように憶良は肉親への愛に生きることに現牡での最高の価値を認めようとした︒それは人間の倫

14

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