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ローマ植民市フィリピにおける初期キリスト教の共 同体形成

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(1)

ローマ植民市フィリピにおける初期キリスト教の共 同体形成

著者 原口 尚彰

雑誌名 ヨーロッパ文化史研究

号 13

ページ 131‑165

発行年 2012‑03‑30

URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024338/

(2)

ヨーロッパ文化史研究:

(2012年3月30日)

第13号

I31

論文

ローマ植民市ブイ】ノピにおける 初期キリスト教の共同体形成

原口尚彰

はじめに

ローマ植民市フイリピ フィリピの宗教状況

(1 ) ギリシアとトラキアの神々 (2) ローマの神々

(3) エジプト起源の神々 (4) ユダヤ教

フィリピにおけるキリスト教宣教 (1) フィリピ宣教の初め

(2) ブイリピにおけるキリスト教共同体形成

(3) 周辺世界との軋礫

福音の再定義:共同体の境界線設定の課題

結論:デイアスポラ共同体としてのフイリピ教会の形成

4

5

〆声

b

l. はじめに

ローマ植民市フィリピの歴史的研究については. この町を発掘調査し たRCollartによる大著P城秤", 1'i"どdEM""oj"edep'dissEsDrigi''es/IJs9"'!i Iαβ〃"el'jpo?"ErO"'""eが1937年に, さらには, P.Lemerle,P""esetl"

M""D"120r花"m/eti j'jpo9"ecノ罐"ど""ee胸ノz ""eが1945年に公刊され,

後続の研究の出発点となった( ! '。その後. フィリピ研究の分野では.長 1 ' 」 RCCⅡart,PM"" ''j"E'JEM""ddi"どJJepIJjss"origi""ノ"s9"'""/f"del'"。 e

ro'""i"e (2vols;Paris ; Boccard,1937) ;RLemerle,PMW)Ese".M""。"肥Or1E汁

(3)

Ⅱ32 論文

い期間にわたって進展がない状態が続いたが,考古学的研究の成果を踏 まえたパウロの宣教地の歴史的研究であるWElliger,PcJIJI"加Gri"ITE"‑

l"".PM"j,T7'""I0"jk/,Atノ1E",Ko「j""1が, 1978年に刊行きれてから.

状況が変わって来た'ユ}。特に, 1990年代以降は. LBormann,Pノロノ"j : Sm飾呪ITdCノ1risrerlge"1EMfiezMrZE"desPα塊帖や, PIPilhofer,Pノ"! i.BdJ.

Dieersre(J11・jsilic/zEG"1e師士E"""", VkA.Abrahamsen,Wひ加餉α wwrsI""P""i :D"'"/Arr師加s"1dO"1erC"J禽腕鯛EE〃〃ch"s"""Em JP, CBakirtzisandH.Koester,P/1""j"tjieTi"leqfP""!α""fer"sDe"j!

に見られるように, フイリピの町について,社会史的・宗教史的視点か ら立ち入った研究がなされるようになり, この植民市についての社会史 的・宗教史的事実が次第に明らかになってきた'3'。なかでも# Pilhofbrが 19世紀末から20世紀末の1990年代までに発見された碑文史料.を集大 成した校訂本Ph"枠j.B{"IKmmjogderI"schri/fe"vo"P卿秤jを刊行したこ とは, フイリピの社会史的・宗教史的研究を進めるにあたって大きな助 けになった(4)。

本研究は, 文献史料と碑文史料によってローマ植民市フィリピの社会 史的・宗教史的状況を正確に把握した上で, そこでなきれた最初期のキ リスト教共同体形成の過程を社会史的・宗教史的に解明する試みである。

噸ノEUirゆ・9脚fic/1r""IFIEfrlリ垂α加加e lParis : B・ccard, 19451

!zj WElligeLPRIIIIJs"1GriaノIE祁且 P/"J"i,7WiEssalo''jki,Ar/IE",KDr加rノ! (St'ittgart : KatholischesBiberlwerk,1978)‑

(J L.Bormann,PAilippi : Sf"f""dCArkre"g"'ei"de壷哩rZeif clesP"I"S (SupNT 78; Leiden; Brill, 1995) i P, Pilhoftgr,Pノカノ秤jB(JI.DjEEr5彫仁ノMrj5t iEGE脚ej F EMmP"(WUNT87; TiibingEI1 :MohrSiebeck, 1995) ラ VIA.Abrahamsen,Wb"1E"

"dwbrsliip"PM"j :Djα"α/Arremj5 ["1dOr/IErC " 〃jノ1eE"r"cノIr α〃Em (Portland:AstateShell, 1995) ; C.BakirtZisandH‑KoIBstereds.、〃1"枠iar〃12乃師e qfPm"q"dqjierノ'isD"r/' (EIIgine,Oregon:Wipf&Skock, 1998).

(M RPilhof℃r,PIzili"i,BIfIIKmmj09derli's[ノlf蛾EFI vDJIPノ"""i (WUNTll9;

TIibingen:Mohr‑Slebeck,2000) を参照。

(4)

ローマ植民市フイリビにおける初期キリスト教の共同体形成 I粥 特に, 人口の圧倒的多数を占める異教徒に閉まれたデイアスポラ状況下 に加え, ローマによる支配の影響が非常に強い環境の中で行われたキリ スト教共同体形成固有の課題と共同体の境界線設定の試みや福音の再定 義の努力の特色を浮き彫りにしたい。

2. ローマ植民市フィリピ

フイリピは, 前360年に, ギリシア人植民者によってマケドニアの東 部, トラキアに接する平野部に建設された町であり# 湧き水が豊富であ ることからクレニデス(泉の地) と呼ばれた(アピアノス『ローマ史」

4.105) (5'・後方のパンガイオン山脈には金と銀を産閃する鉱山があり,

フイリピの経済的繁栄に寄与した(ヘロドトス「歴史」 7.112)。前356 年にマケドニア王フイリッポスニ世は, トラキア諸部族による攻撃に直 面したクレニデスからの援助要請に乗じてこの町を自らの支配下に置 き,フィリピと改称し,マケドニア東部の軍事的・経済的拠点とした(ディ オドロス・シクーロス「歴史叢書」 16.3.7; 16.8.6‑7) (6}。

ヘレニズム期末期の前168年にペルセウス王統治下のマケドニア王国 はローマとの戦争に決定的な敗北を喫して,王国としての歴史を閉じた (ポリュビオス「世界史」 29.17‑19)。ローマはマケドニアを4地区に分 割して統治し, アンフィポリス, テサロニケ, ぺう.ペラゴニアをそれ 3」 CKDukouliChrysantaki, "ColonialuliaAugustaPhilippensis,'' inPノI""j J カビ

恥"EqfPm'I""dqfer/lisDE"/, (e"CBakirtzisandH.Koester; Eugine,Oregon:

Wipf&Stock,1998)5; C.vomBrocke,Griecノle"/""{J (LeiPzlg; EvangelischeVerlag

sanstalt,2007) 3839.

6」 Koukoi'liChrysantaki, 67;N.GLHammond,771EM""D71imHSmiEE07埴"蕗, ル暉加J"0"s, IJFT[j月応ror)' (OxfOrd:Clarendon, 1989)251,255;R.M.Errington,A Hf5rD〃[ツMa(ず 。"jiz (Berkele)ECA:Universit)'OfCalifbrniaPress、 1990) 133;H.L.

Hendrix,"PhUippi,"ABD6(1992)313‑317を参照。

(5)

134 論文

ぞれの首都として支配の拠点を置いた(リヴイウスIローマ建国史」

44.2‑45 44)(7」。マケドニア王国の支配層はローマに移送きれ,王国の統 治組織や軍隊は解体された。前148年に王国の再建を目指すアンドリス コスの反乱がローマによって鎮圧された後, マケドニアはローマの属州 として再編きれた':'・後15年から44年の期間, ローマはマケドニアと アカイアを統合して統治していたが, 後44年に, ローマは二つの地域 をそれぞれ別個の属州とし, テサロニケをマケドニアの首都とした{,)。

共和政末期の内乱の時代には, ローマの有力者達の軍隊がマケドニア で軍事衝突を繰り返し, フイリピもその戦場の一つとなった。前4849 年の三頭政治の時期に. ポンペイウスは, テサロニケを拠点にして軍勢 を整え ユリウス・カエサルと覇を競ったが敗退して. 東方へ逃れた。

カエサル暗殺後の第二次三頭政治の時期には, オクタビアヌス (後のア ウグストゥス)とアントニウスの連合軍が,フィリピの戦いでブルートゥ スを破った(前42年)。勝者のアントニウスは, 配下の兵士達に報償と して土地を与えて. フィリピに入植させ(デイオ・カッシウス「ローマ 史」 51.4'6) , この町をローマの植民市としてAntoni lussuColoniavictrix PhiliPPensiumと名付けた' 10」。間もなくオクタビアヌスとアントニウスの [7) Errington, 2092171EISchnabel,E"rl),Cノ1risrmFIMi"jofi、 Vb1,2; P(JIlj卿" がAg

Ear4'cノ1"rCh(DOwnerSGrOve,IL: InterVarSity,2004)ll511151.

'8 EPapazoglou, ::Quelquesaspectsdel'histoiredelaprovin,gedeMa[ijdoine,''ANRW Il.7.1 ( 1979)302308;RM.KalletMarx,H零e師。'り' foEmpirEJ刀'eDevelUP'"er'tq/

"1ERD"1("1I"1PEriI"祁加〃1EE"j̲"OPTT I481062BC. (BerkeleMCA: UniverSityOfCall iomiaPress, 1995) 12‑181D.W].Gill, "MaCedOnia,''. inD.WI,Gill/C‑GemPfeds., TIIEBookqfA[rs i""JFirsIceMj'#ひ↓SEr""9. Vb/.2FTノleBooAQ/A"si""sGr"cO R、耐[川SEr〃咽(、GrandRapids : Eerdmans, 1994)400403.

9」 Schnabel, 1151 .

'i)) KoukouliChrysantaki,8う RCollart,P/'j/"", ''i"E(fEM""0加巴岬"issEsorjgi‑

1 ノ卿sW艇'j/qjf"del'"oり卿em加"Ic (2volsiParis : Boccard,1937)I227; Schnabel, 1l52;LBOrmann,Pノ'ili"i: Smdr"IJC/'risrgnge"'ei"dgz"rZeir[ノ"PlJIJI"5(SuPNT 781Leiden; Brill,1995) 14‑15‑

(6)

ローマ植民11jフイリピにおける初期キリスト教の共同体形成 I3ラ 間に内戦が起こI) ,前31年のアクテイウムの海戦でオクタビアヌスが アントニウスを破り,最終的覇権を確立した。戦後. オクタビアヌスは 自らの配下の退役軍人の一部とアントニウス配下の退役軍人をフィリピ に土地を与えて入植きせ, この町を再組織してColonialuliaAuguSta Philippensisと改称した(' 1 }・フィリピ周辺の土地は,肥沃であり,良質の 穀物と葡萄の産地として知られていた' '2」。かつて.後方のパンガイオン 山脈は金と銀を産出していたが, ローマ時代には枯渇しており, この地 域の主要産業は農業であったⅢ]l,

帝政ローマ期のフィリピは規模の小きな町ではあったが, マケドニア と小アジアやシリアを結んで,東西に走るエグナティア街道添いに位置 し,南東には港町ネアポリスを控える交通の要衝の地であった(ストラ ボン 『地理耆』 7.323スエトニウス「ローマ皇帝伝j 「テイベリウス」

14)114)。この町はローマの植民市であったので, 入植したローマの退役 軍人とその子孫が支配階級を構成してローマ式の統治を行い, その下に ギリシア系市民や元々この地に住んでいたトラキア系市民,解放奴隷や 奴隷, ざらには 外国からの移住者が居住していた( '引。フイリピの指導 者はラテン語でduumvirと呼ばれた(幻P213/L347; 214/L349; 257/

L445; 395/L780) { '6)。植民市フイリピで適用きれる法制はギリシア風では なくローマ風であり, イタリア同様にiusitalicumが妥当するものとさ

1 1 Bormann, 1518;Ccllarl,I236.

l21 Pilhoftr, 178‑81.

]3 Pilhofer,I81.

1 141

フイリビの繁栄と地理的位置の関連を特に強調するのが. Collart, 1257, 522; Bormann,27;WA.Meeks,TJTEF"JFIUrl〕α樋Cノrjs伽"s;刀肥SDcmlHbr"q〃ノie APosrleP"J (NewHaven: YaleUnlverSityPress,1983)18である.

( l副 Kouknuli‑ChrVsantaki,23;Collart, 1258317.P

i l6)

Collart, [2623 Schnabe1, 1155;LPortefaix,SisfersRGjpi"' P。"ノ'3LErrerrofhg P/," 印"$qHdLIJke‑A㎡sqsRecei''e(JIZvFirsi‑""M)」P〃ノ神jizFTWbm"(StOckholm, AlmquiSt&Wikselllnlernational, 1988)70‑74.

(7)

'36

論文

れた(Di9.50.15‑6; 50.15.8.8) ('7」。

フイリピにおける公用語はラテン語であったが, ギリシア語やトラキ ァ語も話きれていた '・ローマ期の碑文史料には,当時の言語状況を反 映して, ラテン語の碑文(KIPl64/LOO1 ; 165/LOO2; 166/LOO4; 174/LOll;

194/L362) もギリシア語の碑文(142/G562; 143/G563; 144/G298il91/

G300; 192/G301; 193/G302) も見られる! 'ツ'。 しかし 商人や職人階級の 人達について言えば, 主としてギリシア語を使用して生活していたと推 測されている'2・'・新約聖書から知られるフィリピ教会の会員の名前につ いて言えば, クレメンス (フイリ4: 3)はラテン語名であるが, エパ フロディト (2: 25; 4: 18) , エボデイアやシンティケ(4: 2), リデイ ア(使16: 14)はギリシア語名であり,彼らの間の使用言語もギリシ ア語であったと推測される。 また. フイリピ害がギリシア語で書かれて いることに示きれているように, パウロのフイリピ宣教に用いられた言 語は, ギリシア語(コイネー)であり.使徒と信徒達はギリシア語を用 いて相互のコミュニケーションを図ることが出来たのである。 さらに,

1世紀に続く24世紀の時代にも. キリスト教徒の間ではギリシア語が 支配的であった事情は# フイリピ出土のキリスト教関係の碑文史料にラ テン語よりもギリシア語が使用きれていることが多いことや(KIP 100/G543; l02/G545; 103/G546; 130/G558; 328/G473; 329/G472;

591; 594/G497), 2世紀初頭にスミルナ教会の監督ポリユカルポスから フィリピ教会に宛てた書簡が, ギリシア語で記されていることからも確

' [7」 Collart, 1230;Gill, "MacedDnia,、'405; Bormann, 37; vomBrocke,3940; 1 Reuman,Pノ1J 雌"S (AB33B;NewHaven: YaleUniversityPreSS,20〔}8) 3.

{ 'H) Lemerle,448‑483;Hiandrix,315IMeeks,4546;Gill,413i vomBrocke,40.

l9」 KJPは, RPilhofer,Pノ'ilj"j.餌HK""/ogdErl""伽斌e"wo"p/,iljppi (WUNT 119;Tiibingen:MohrSiebeck,2000)の略である。

巳11 Pilhoftr, 182.

(8)

ローマM1も市プイリピにおける初期キリスト教の共同体形成 137 かめられる。

3. フィリビの宗教状況

(1) ギリシアとトラキアの神々

帝政ローマ期フイリピにおける宗教状況は混情的であI) . アクロポリ スやアゴラにはギリシアの様々な神々や, トラキア固有の神々や ロー マの様々な神々や, オリエント起源の外来の神々が祀られていた(21 1。例 えば, ゼウス(KIP568b/G805; 678/M661) 、 アポロン (246/G599; 359/

G434; 651/M191; 652/Ml921669/M204; 682/M665) 、 ヘラクレス (338/

L333; 339/L338; 340/L589; 650/M190),デユオニユ、ノス (500/G569; 501a/

G807; 501b/G808; 501d/G810) , アフロデイテー(681/M664) , ポセイド ン (509a/G806)のようなギリシア由来の神々に捧げる碑文が兇つかっ ている'22'。 また. トラキア固有の神々では,騎馬神ヘーロース・アウロー ネイテースの畿拝が兄られる (580/G488; 618/G565; 619/G499; 625/

G638)">・ ざらには. 狩猟の女神, 死後の世界の支配者とされる女神ベ ンデイスに対する信仰も見られる(517/L176) '24)・アクロポリスの岩に掘 られたレリーフ群において,ベンデイスは弓矢を手に持ち 犬を従える

JI Hend「ix,316i Ellig,JT,62;Collart, I389‑4861C.Pkard, "LIssdieuxd,e la"lOnie dEPhilipPEsvers ltJ lc「siとにledenDIreere,d'aPreS lesExvotorupestre5,''RHR86

( 1922) 1 17201を参照㈲

唾 Koukouli‑Chrysimlaki,24;Collart, 1423うV:A.Abrahamsen,WD"1erlf"'dWbrsノ'jp JIPノ1j""j :Djα"側/Ar"FHjs[JFIJOjノ,どr(フ"" 〃rノ'eEqrjycノ,rjgrifJFIEm(Porlland:

Astn肥She11, 1995) 15 19

'2j' Collart,I423429; Picard,144159; Pilhofer,I93 100;Hendrix,314315i Abrahamsen,69‑71.

'4」 COllari, 143() 443; POrleinix,7576; Elliger,64651ChPicard, &'LEsdieuxdela colonledePhilippes,"J<HR86(1922"lll7201.

(9)

B8

論文

姿で描かれている(2引・ また, 死後の世界の幸いの象徴として木の枝を 持っている姿で描かれている場合もある'26」 〔,

ゼウスは,天空と気候,特に, 降雨と落雷を司るとされていた(27}㈲ゼ ウスは最高神として卓越した力を持ち, オリュンボスの神々に対して君 臨していた(「イリアス」 8.l‑27)。ゼウスは世界の秩序の創設者として 正義を守護し,不義を罰すると考えられた128 」。フィリピ出土の碑文では,

ヘレニズム時代に由来するギリシア語碑文にゼウス崇拝が確認きれる (KIP568b/G805; 678/M661)。 ローマ時代の碑文にゼウスが登場しない のは, ゼウスがローマの最高神ユピテルと習合したためであろう。パウ ロがフイリピにおいて宣く伝えた「いと高き神」は(使16: 17) , 天地 の造り主なる神のことであるが(創14: 19;使17: 24を参照) .近隣都 市であるテサロニケ出土の碑文の中に, ALi <YMoてり「いと高きゼウス」

に捧げると銘打っているものがあるので(IGX/2no.62) , フィリピの 町の人々からは,ゼウス/ユピテルと混同された可能性がある。

アポロンは音楽の神であり,且つ,法の授与者と考えられていた(29).

アポロンはまた未来を予言する託宣の神であり, アポロンを祀るデロス 島やペロポネソス半島のデルフォイの神殿にはアポロンの神託を聞くた めに多くの人々が詣でていた'30)。フイリピにおけるアポロン信仰I土ギ リシア語の碑文史料によって確認されるが(KIP246/G599; 359/G434;

(zF' Collart, 1432 126) Collart, 1434.

'27' EGraf"Zeus,"DDD(1995) 1758l771;M.PNilSS●n,C'JsL・/Fic/1jEdErgr・j"h城ノ1画I RB/jgiI)H (2Bdei 3 .durChgeSeheneunderginzteAun ;Mimchen: Beck, 1967) I 389401 IWBurkert,GreekRe/igio" (Ir.1RainnうCambridge,MA:HarvardUni‑

versityPr'ass, 1985) 125 131.

配」 1bid,, 1762.

岨9) Burkert,143148.

Go' R.vandenBroek, "APollo,"DDD(1995) 138‑143}NilSSOn, 1544547,625÷ 7;

Burkert, 143.

(10)

LI‑マ柚民市フイリピにおける初期キリスト教の典│ri1体形成 139 651/Ml91 ; 652/M192; 669/M204; 682/M665) , ラテン語碑文には出て来 ない。 フイリピにおいてアポロン信仰はギリシア系の巾.民達の間に広 まっていたが. ローマ系の市民には広まっていなかったのである。

デイオニュソスは荊萄栽培とワインの神とされた。その祭儀は冬から 早春にかけての夜に行われ,新しい葡萄酒が奉献きれ デイオニュソス が到来し,顕現する様が祭儀的に演じられた131 '・フィリピ近郊のパンガ イオン山においてディオニュゾス祭儀が行われていたことは, ヘロドト スによって報告きれている (ヘロドトス「歴史」 7.lll).フイリピ近郊 では捕萄酒の栽堵が盛んであったので, この地でワインの神様である デイオニュ、ノスの祭儀が早くから盛んであったのは自然な成り行きであ る (499/Gl89)ロローマ植民市時代にもこの祭儀は継承され,ディオニュ ゾスはギリシア語ではデイオニユ、ノス (500/G569; 501a/G807; 501b/

G808; 501d/G810) ,ラテン語ではLiberPaterと呼ばれて崇拝された(338/

L333; 339/L338; 340/L589; 341/L267; 342/L292; 501c/L809) '兜1.帝政ロー マ期のフイリピにおいて, ディオニュソスはギリシア人やトラキア人の みならず, ローマ人にも崇拝きれていたと推定される。デイオニュ、ノス 信者はミユスタイ (P的rIIL) と呼ばれ(535/G207; 597/G2ll; 704a/G786) , 宗教結社(8 )を結成して.祭儀を継続的に行っていた(340/L589)"'。

注目されるのは フィリピ出土の墓碑銘の中に, ディオニュソス信者の 死後のllt界における幸いを語るものがあることである (439/GO78)"']

フイリピにおけるデイオニュ、ノス祭儀は. ワインの祝いによる集世I的高 揚をもたらすのみならず.信徒個人に死に対する恐'│布や不安を取り除き.

(]' ト M,RNil識⑪n/H. 1,R"e/CA1Robertson, "Dionysius │'0CD( 1970) 352‑353;

NiIsson,I585590.

('2 Collart,1413415; Porlefnix,98‑99.

<]' ColluT1, 1415418; Elliger,6265.

{]4」 Collart, I419420; Pilhofer,1105107; Portefaix,105106.

(11)

I4o lltk

死後の幸いを与えると信じられていたのである。

ヘラクレスはゼウスと人間の間に生まれた半神的存在であり 苦難を 乗り越えて旅をし ライオンや猪や牛を打ち倒す英雄として涌躍し,地 上の生涯を終えた後は神々の間に列する存在となった '・ヘラクレスは 礼拝の対象となり, ヘラクレスを祀る神殿が建設ざオLていた(ヘロドト ス「雁史」2.4344) '36'・ヘレクレス崇拝は元々ギリシア起源であるが フイ リピ出土のギリシア語碑文のみならず(650/MI90; 666/M201; 679/

M662) . ラテン語碑文にも登場する (338/L333; 339/L338; 340/L589;

500/L254)。この事は, ヘレニズム時代にギリシア系市民の間に定着し ていたこの英雄神崇拝が, ローマ時代にはローマ軍の退役軍人とその子 孫からなるローマ系住民達の間にも広まったことを派している。

地母神のキュベレは小アジアのフリギアに起源する地母神であるが,

フイリビのローマ人に崇拝され, 「神々の母」 (Mjmp8モ①L' ;MaterdEo‑

rum) と呼ばれている (054/LO45; 468/G179) (J7'・キユベレは,第二ポエ ニ戦争・の競中の前210年にローマに導入され.帝政期になると皇帝アウ グストゥスの庇護を受けて盛んになった。フィリピのキュベレはローマ 人が持ち込んだものが定着したと推定される '・地母神のキュベレは土 地の幾穣を守護すると考えられていたので, 農業が主要産業であった

フィリピで崇拝きれたのも自然なことであった。

(2) ローマの神々

植民.'liフィリピには, ローマ人入植者たちが持ち込んだと兄られる多

'粥」 Burkど『t,20821().

''(' ' A. l.Malherbe,"Herakles,''RACl4 ("1988) 5595831 D.EAung、"Herade5,''DDD

( 1995)765‑771 帆7) Picilrd, 194.

]H」 Collarl, 1454455.

(12)

ローマ植民市フイリピにおける初期キリスト教の共胴1体形成 I4I

〈のローマの神々が見られる。最高神のユピテル(177/LO14; 178/LO15;

186/LO23; 223/L339; 384/L615; 514/L248) の他に ユノ (208/L461) , メルクリウス (094/L590; 225/L308; 485/L617) . ミネルヴァ (474/LO91 ; 519/L245) . ウエヌス (057/LO46) , デイアナ(168/LOO6; 170/LOO8; 171/

LOO9i l73/L575; 174/LOlli512/LlO2) , シルヴアヌス (148/L682; 163/

LOO2; 164/LOOl ; 165/LOO3; 166/LOO4)等の神々が礼拝きれていた(391 >

ユピテルは天空と宙鳴を石lる神で ローマの神々の瞳高位に位置して おI) ,法と正義の守護者と考えられた。この神は. ギリシアの神々の中 では, オリュンポスの最高神であるゼウスに相当する。フィリピ出土の 碑文において, この神はiupiterOptimusMaximus (最善最高のユピテル)

と呼ばれることが多い(177/LO14; 178/LOl5; 186/LO23; 473/LO90; 588/

L236)。ユピテルに捧げる碑文は. すべてラテン語で当かれ, その多く はこの最高神に対して立てた誓願を成就したことを記念するものである (177/LO14; l78/LO15; 186/LO23; 223/L3391384/L615; 514/L248)。

女神ユノはローマ帝国を守護し,結婚を保護すると考えられていた。

ローマにおいてユノはユピテルやミネルヴァと共に主要三神として崇め られていた。 フィリピおいてもこの女神に捧げた碑文が一つ見つかって おり (208/L461) .アクロポリスの岩にその彫像が彫られている(401.知恵 の女神ミネルヴァは碑文に言及ぎれており (474/LO91 ; 519/L245) . 町の 広場にある神殿から,槍と盾で武装した姿の像が見つかっている ・肌'・愛 と美の女神ウエーヌスは碑文で言及きれることは少ないが(057/LO46) , アクロポリスの岩にはその彫像が多く彫られている崎21。

CGllart, 1393-407; Elliger,62; vomBrocke,50;Abrahamsen,15 19

Collarl,I3951Picard!121125.

Collurt,I395-396iPICard,126130_

Collart,I401iPica「d,130‑135.

(13)

I42 │輪文

デイアナは狩猟と月の神であり, 出産と女性の守護神であると考えら れていた。デイアナに捧げるフイリピ出土の碑文の多くは, アクロポリ スの岩に掘られたレリーフに刻まれている (168/LOO6; l70/LOO8; 171/

LOO9; l73/L575; l74/LOll; 512/L102) '43'・デイアナは狩猟の神として冠 を被り, 手に弓矢を持ち, 鹿や猟犬を従えた堤で描かれていた。尚, オ リュンポスの女神アルテミスが, フィリピではローマの女神デイアナと 習合していた可能性が指摘きれている 1・デイアナ礼拝の担い手には男 性信徒もいたようであるが,大多数は女性信徒達であったと推定されて いる1451o

シルヴァヌスは森の神であることに加えて, 家畜の群れや 境界線を 守ると信じられていた'46)ロシルヴァヌス礼拝を派すフィリピ出土の碑文 はすべてラテン語で書かれており (148/L682; l63/LOO2; l64/LOOl ; l65/

LOO3il66/LOO4) . この信仰の担い手は主としてローマ人であったと推 測される。シルヴァヌス礼拝は都市国家の公の祭儀ではなく, その聖所 の位置も町の中心から外れており この宗教が町の中枢を担う有力者で はなく, むしろ, 奴隷や解放奴隷のような下層のローマ人によって担わ れていたことを示唆している'47'。

また, フィリピで鋳造きれた貨幣には, フォルトゥナ(運命) , ヴィ クトリア・アウグスタ (アウグストゥスの勝利)のような抽象概念を神

!43) Collar1, 1442443;Abrahamsen,2534.

44I Abrahamsen,46 49;尚, Picard,159166は フイリピにおいてアルテミス

とデイアナが習合していることを前提に. レリーフの塒色をアルテミス像の

特色として叙述している。

45) Abrahnmsen,7479; l.AMarchal,HiemrL・ノI)1U岬り "1[〃"r" jON:AFfJr耐"jsI Rノ'efori"IA"lysisqj.PDwErpy""}㎡""JPIJI41'5Lど"eri ノIEP/'ili"i"s (Atlanta :

Socitgl)'0fBiblicalLIterature,2006) 74‑7Ei

'46」 K,Dowden, "Silvanus,"DDD(1995)1471‑1472を参照.

'卿Collnrt, 1403408; Pllhotr, I IO8−lO9.

(14)

ローマ植民市フイリピにおける初期キリスト教の共同体形成 Ⅱ43 格化した神々が町の運命を左右する守護神として登場する '。それは

フイリピの戦いとアクテイウムの戦いにおいて達成された,政敵達に対 するアウグストウスの決定的勝利によって作り出きれた政治秩序の中に 生きるフイリピの立場を如実に反映している'49)。他方 皇帝アウグス トゥスやその妻リヴィアを神格化して祀る神殿がフイリピの町の広場の 東端に存在していた'50'。 2世紀以降の皇帝では. アントニウス・ピウス を祀る神殿が広場(fbrum)の一角に発見されている (PhilippiMuseum InvINo.A25) (5'}・皇帝礼拝はフィリピのみならず, マケドニアの首都テ サロニケにも見られ,支配者であるローマ皇帝に対してマケドニア人が 忠誠を示す場の一つとなっていた(52!。皇帝はローマ帝国の現存の政治秩 序の要であ、ローマ帝国に生きる者は,世界秩序の守護者である皇帝 を崇拝し 感謝を捧げることを求められていた'53)。後に初代皇帝アウグ ストゥスとなるオクタビアヌスによって入植地を与えられた退役軍人達 とその子孫達によって営まれた植民市フイリビで, アウグストウスを始 めユリウス家の皇帝や后を神格化して最高の栄誉を捧げる皇帝礼拝が帝 政期の早い段階から行われていたのは当然に予想きれることであっ

、48j Collart,1410411; Bormann,34−36;H・Gaebler, <fDieersteColonialPrigungin PhiliPpi>''ZE"s[・hr戦魚TN""sm""A39(I929)260‑269

49) Bormann,3436.

IRIJ) KoukouliChrysantaki,25; Bormanll,41 5 vomBrocke, 5052;Gill,412; P.

Lemerle, 、、InscriptiolslatinesetgrecquesdePhiliPPes,"BCH58(1934) 461 463;L Bormann,Pl'iJIPPi ' Smdr""dC/1rjsだ"g巳加eiFTdeZ"rZeird"P"JJI"(NovTSup74j Leiden; Br11, 1995)42‑46; Schnabel, 1152; 1.A,Marchal,79.

{3') Collart,1344‑345; Elliger,60jBormann,44.

旧』 皇帝礼拝が持つ政治的意味については, S.R.EPrice,Rir""IJF fz"powErr耐ど 加Pβ ノCzイ血胡A"M"10r (Cambridge,MA:CKlmbridgeUniversityPreSS, 1984) ; idem.、 "RitualsandPOwEr," inP"""E"ire:Reljgip"(mdPoweriHRD醜"PHImpE‑

ノSOfiEIy(ed.R.Horsley;Harrisburg; PA:TrinityPreSSlnternational, 1997) 47 71を参照『:

{53I H. 1.Klauck,Tノ'EReligio"sco'irexrq/EcIrly(フノIris "iり' (tr. B.MENeil ; Edinburgh:T&TC1ark,2000)296298は小アジアでの例を挙げているが, 地 中海世界の他の土地でも事情は'百l様であろう。

(15)

Ⅱ44 論文

た(54)。皇帝礼拝の祭司(Hamen, または, sacerdos)は町の参事会によっ て選ばれる名誉職であり, ローマ市民権を持つ有力者によって担われて いた(55'。彼らが皇帝礼拝の祭司を努めた事実は,墓碑銘の中に故人の生 前の功績として刻まれ, 顕彰されている (031/LI21 ; 226/L344; 241/

L466)。

(3) エジプト起源の神々

外来の宗教では. イシスや(132/L303; l75/LOl2; 190/G2995 191/

G300; 192/G301; 252/L467; 255/L443; 506/L252; 581/L239) . セラピス (191/G300; l92/G301; 252/L467; 307/G410)のようなエジプト起源の密 儀宗教の神々を祀る祭壇がフィリビのアクロポリスの中腹に発見きれて いる'56'。これらのエジプト起源の神々に捧げた碑文は,一部がギリシア 語(190/G299; 191/G300; l92/G301i307/G410), 一部がラテン語(252/

L467; 255/L443; 506/L252; 581/L239)で書かれており, ギリシア系市 民の間にも,ローマ系市民からも受け入れられていたことを示している。

セラピスに捧げた碑文が出土しているのにオシリスに捧げた碑文が出土 していないのは, オシリス崇拝がセラピス崇拝によって代替されている ためであろう。

ヘレニズム諸都市において密儀宗教の神々は,病気や苦難からの解放 や,死後の世界における幸いを約束して個人に救済を与える役割を与え

F‑l 」 Bormann,41‑52を参照。

155 Bormrmn,4244を参照。

Is6) Elliger,66;Abrahamsen,1819;Collart,1444446; idem.,&FLesanctuairedes dieuxfgyptiensdPhillppes,"BCH53 (1929) 70‑1OO;KouKouli‑Chrisantaki, 18; F Papazoglou, "MacedoniaundertheRomans," inM.B. Sakellariou,Mn"dOFTim: 4000 YMrsq/GreekHisroひ'αHdOvjjjz"0"(Athens: EkdotikeAthen・nS.A. , 1988)207;

Gill, @Macedonia,''412;Rueman,3を参照。

(16)

ローマ植民市フイリピにおける初期キリスト教の共同体形成 I4ラ ていたと考えられる(57)。信者やたちは私的な宗教結社(9("og)を結成し,

礼拝所を建設し,役割を分担して祭儀を継続的に行っていた'58'○祭儀は 祭司を中心として執行されていた(191/G300; 192/G301; 252/L467を参 照)159)。

イシスは元々エジプトの女神であり, ホルス神の母神としてファラオ の王位を守護すると考えられていた。ヘレニズム時代に, この母性を体 現する女神への信仰はエジプトに限らず地中海世界の多くのヘレニズム 都市に広まった'60)。特に, フィリピのラテン語碑文では, 「女王イシス (IsIsRegina)」と呼ばれている (132/L303; 506/L252; 581/L239) (6! )・ロー

マ人の間で「女王」 と呼ばれる女神は, 通例は,ユノであるが, フイリ ピのローマ人は,外来のイシスをこの呼称で呼んでいたのである。彼ら は女神イシスのイメージの上に, ローマ市の守護神ユノのイメージを重 ね, フイリピの社会秩序の守護者として崇めていたのであろう。他方,

フィリピにおいて, 女神イシスは町の守護神としてのみならず,癒しの 神としても崇められていた(62}・

セラピスはエジプトにおいてプトレマイオス−世が. オシリスとアピ スを結合して人工的に作り出した神であり, ヘレニズム化されて, その 彫像はゼウスのように髭を生やしたギリシア人老人の姿をしている( '。

旧7 C・llart, I451 ; Elliger,66;WBurkert,A"e"rM)'s舵ひ'CHIrS (Cambridge,MA:

HarvardUniv,arsitVPr,Bss, 1987)8, 12.

58) Klauck,4254;RS.AScough,P[JH/ sMq"dd〃加加AssoEjqimi's (WUNT2.161 i Tubingen:MohrSiebeck,2003#) 3032

(") Collart, 1452‑453.

60! TA.BradV, "Isis,"OCD(1970) 553 554; 1.Assmann, "Isis,"DDD(1995) 855‑

860.

'b' ) Collart, 1447‑449; idem.,"LIBsanCtuaircdesdieuxfgyptiensaPhillppes,''BCH53 (1929) 8Z‑84iPIcard,172‑173.

(6z Collart, 1451 452; $$Lesanctuaire,''9293; Picard, 178.

I63' Godwin, 125 (Fig nOs.88,89) を参照。

(17)

146

論文

フイリピにおいて, イシスとセラピスは多くの場合,対で言及きれ, 同 一人物が, イシスの祭司とセラピスの祭司を兼ねることも度々あった (191/G300; 192/G301; 252/L467) (64)。尚, セラピスは冥界を支配する神 であると同時に,現世における救いの神であり, 危険や苦難や病からの 救いが祈り求められた略51。

(4) ユダヤ教

フイリピにおける古代ユダヤ教については,文献史料が存在しており,

それを少数の碑文史料が補う形になっている。 1世紀の時点でユダヤ人 居留地がマケドニアに存在したとアレクサンドリアのフイロンが証言し ているが,居住する都市を特定していない(フイロン『ガイウス」 281 282)。 しかし, 使徒言行録よるとパウロの第二宣教旅行の時には, フイ

リピの町の門の外,川沿いに「祈りの場所」 と呼ばれる礼拝所が存在し,

安息日礼拝が行われていたときれている (使16: 13)。フィリピはユダ ヤ人が居住する都市の一つであったが,礼拝所が市内の中心部ではなく,

町の門外にあったのであるから, l世紀中葉の頃 ユダヤ教はこの町に おいて十分に受け入れられておらず, 非常にマージナルな存在であった

と推測される (使16: 13, 16) {66)。

「64) Collart, 1449,452‑453; idem,, 、GLEsanCtuaire, '798{).

51 海難事故からの救済を経験した信者が, セラピスに感謝の祈りを捧げてい

る例がある (IGX/2no.67)。

' 「祈りの場所(叩oofUxIi)」がシナゴーグの建物を指すことについては.M

Hengel, 4ProseucheundSynagoget lihdischEGemeinde,GotieshausundGottesdienst inderDiasporaundinPalAstina,'' 1n乃MiriO""1dα鯉心e(FS.K.G Kuhn; hrsg.v.G Jeremias;G6ttingen:Vandenhoeck&Ruprecht,1971) 172‑173; SEhnabel ll53;

原口尚彰「初期ユダヤ教におけるデイアスポラ」 「東北学院大学キリスト教文

化研究所紀要」第28号(2010年) 34頁を参照,尚, 山内真「ビリピ人への手

紙」 日本キリスト教付│出版局 1987年14頁i Reuman,4はこの点について の十分な認識がない。

(18)

ローマ植民市フイリビにおける初期キリスト教の共同体形成 Ⅱ47 後1世紀に遡るシナゴーグ跡はまだ発見されていないが, ギリシア語 で書かれ, シナゴーグに明示的に言及する後3世紀に遡るユダヤ人の墓 碑銘は見付かっている(387a/G813=PhilippiMuseumlnYAl529)(671.デイ アスポラのユダヤ人の大多数は既にヘブライ語が読めなくなっていたの で,前2−4世紀にアレクサンドリアで│日約聖書のギリシア語訳である 七十人訳聖耆が書かれた(アリテアス301‑321 ; ヨセフス『古代誌」

12.11J18; フイロン『モーセの生涯」 2.25‑42)。彼らはギリシア語で思 考しギリシア語の聖書を読み, ギリシア語で礼拝を守っていたのであ る'68)。ローマ植民市フィリピにおいても事情は同様であり,ギリシア語 で礼拝が行われていたと考えられる。

フイリピにおけるユダヤ教は,ユダヤ系移民が持ち込んだ宗教として,

他の民族的背景を持つ宗教と競合していた。 しかし,他の諸宗教が多神 教的宗教の一つとして.他の神々の存在を認め,場合によっては相互に 同化する傾向を持っていたのに対して ユダヤ人達は他の宗教の神々の 存在を認めず, 他の宗教とは習合しないという態度を維持した。彼らは 天地の創造主なる唯一の神以外の神の存在を認めず,他の神々を人間が 作った偶像としたのだった(知13: 1 15: 19)。ギリシア.ローマ世界 の多神教的な宗教文化において, 唯一神教の立場に立つユダヤ教は極め て異なるサブカルチャーを形成したと言える(6,'・他の神々の存在を認め ず, ギリシア・ローマの神々を拝むことを偶像礼拝として拒否すること

'67」 Koukouli (こ】hrysantaki,2835; R.SAscough,PIzIJ/'sM""0"i""AFsDIFi"icrIs (WUNTZ.l61iTUbingen;Moh「Siebeck,2003#) 195.

'6s' T.Rajak, "ludaismandHellenismRevisitcd," inidem.,TJIEノ2W応ノIDmlOgIJE""

R・加e: SIIJ4jiEs"ICI』"I"ぞnrldSo 〃"fErdC"・淵 (以下. Di"ID8"と略記) (Leiden:

Brill,2001)4.

9 詳しくは,原口尚彰「初期ユダヤ教のデイアスポラ」 『東北学院大学キリス

ト教文化研究所紀要」第28号(2010年) 19‑42頁を参照。

(19)

148

論文

は, 周辺世界からはⅧ 共│司体の守護神を認めず,祝祭に参加しない非社 会的行為としては非難きれた(ヨセフス「古代誌」 3.1791 19.290; 「ア ピオン」 2.79,89>96, 148,258; タキトウス「歴史」 5.5.1)。多神教的なギ リシア・ローマ世界の文化的風土の中で.ユダヤ人は極めて異質な民族 集団として,社会の多数から敵意を持って見られることが多かった(111 マカ3: 3‑7) '701.フィリピのユダヤ人も同様の状況に置かれていたと推 測される。そのことは, 「この者達は私達の町を騒がしているユダヤ人で.

ローマ市民である私達が受け入れることも行うことも許されていない習 慣を宣伝しています」という (使16: 20‑21) , パウロらを当局者に告 発した奴隷所有者の言葉にも反映している{7! )。ユダヤ人達は礼拝所を町 の中心部を避けて 町の門の外の流れのほとりに設けることを余儀なく されていたのである (使16: 13) .

他方,ユリウス,カエサルはユダヤ人達に好意的な政策を採り,彼ら に安息日や割礼や食物規定等の宗教的慣習を守ることを許容し、収入の 一部を神殿税としてエルサレムに送ることを承認した(ヨセフス「古代 誌」14.213‑216)(72'・帝政の創始者アウグストゥスはカエサルの政策を継 承して,帝国内のユダヤ人達が父祖伝来のユダヤ教の習慣を実践するこ とと神殿税をエルサレムへ送ることを認め.以後のユダヤ人政策の範を 示した(ヨセフス「古代誌」 16.160 166;フィロン 『ガイウス」 155 158) {73)・フイリピのユダヤ人達もマージナルな存在ながら, ローマ帝国

'ア。! TREIjak, "JLldaismandHellenismRevisited,"inDiJIDgl"、 330;EM. Smallwood, 7ハEノEwsl"derR(J"1"IRMノE加加PoP7IPeyrDDjDJefi"(2.med.; Leiden: Brill,1981)

123 124,

7' ) Elliger,55‑56を参照。

H号T

. 4' HmLE(m,Tノ'eJEwsq/A側とjど"rRo"'2 (UPdatededitio油; Peabody,MA;

Hendrickson, 1995) 5 10.

<7" SchureLII] 117 118. これに対して, TXRajak, "ARomanCharterfbrthelew?,"

inidem.,刀肥ノewis/1Dm/og"ewjj/1Greece""(JRol"E(Leiden: Brill,2001)313は,

(20)

ローマ植民市フイリピにおける初期キリスト教の共同体形成 Ⅱ49 全体の政策的配慮によって民族の伝統に従ってユダヤ教を信仰し,ユダ ヤ教の慣行を実践し,神殿税を集めて送ることが認められていたと想定 される。

4. フィリピにおけるキリスト教宣教 (1) フィリピ宣教の初め

ローマの植民市フィリピにおけるキリスト教の始まりについては, 考 古史料が存在せず,新約聖書の使徒言行録の証言とIテサロニケ書や フイリピ誉におけるパウロの証言に負うところが多い。使徒言行録によ れば, 第二宣教旅行の途上, パウロはトロアスから船に乗I) ,サモトラ ケを経由してマケドニアの港町ネアポリスに上陸した後. シラスと共に ローマの植民市フィリピ(使16: 12)へ行って宣教活動に従事してい る (使16: 11‑40)。 このときには, シラスだけでな< , テモテも同行 していたと推定される (使16: 1 5) (74)。フィリピ書の前書きは,共同発 信人としてパウロと並んでテモテの名を挙げているし (フィリ 1 : l) , テモテを派遣する際の推薦の言葉はテモテとフイリピの信徒達との親密 な関係を前提にしている (2: 19‑24)。主要写本によれば,使16: 12は フイリピが, 「マケドニア地区第一の町」 と述べている(75} ところが, マ ケドニアは属州であり,地区ではない。 また, マケドニアの第一の町は フィリピでなく . テサロニケであるので, この記述は不正確である。 し かし, ローマがマケドニアを四つの地区に分けていたのは, 事実である

の勅令が妥当する範囲が小アジアの都市に限られるとしている.

'741 K.ester,5051を参照。

'75」 P74RACIP33. 36.81 . 323. 945. 1175. 1891etc.はγ TTp(jTnrig uEp(609 M[IKE6oI'[[L5 TT6ALEと読み Bは,叩血n llEp(6oE tfiEMEKF60IJi(IE TTd入LEと読んで

おI) . ネストレーアラント27版は後者の読みを採用している。

(21)

Iラo 論文

(リヴィウス「ローマ建国史」 45.29)。そこで.解釈者達は,本来は「マ ケドニアの第一区の町(wpd尼nE ILEpt6og rfigMoKmolJio:g TT6JLLg)」であっ たのが,転写の過程で叩(6T11Sの最後の5が抜け落ちたのであると推定

している〔76]・

パウロの安息日のシナゴーグ(使16: 13, 16フイリピでは「祈りの場 所(叩o・そUx'1)」と呼ばれる) を拠点とした宣教は,特に, そこに集まっ た女性達に受け入れられ 回心者が生まれた。使徒言行録によると,パ ウロのフィリピにおける宣教は, 主イエスへの信仰と救いを強調してい た(使16: 15, 17,31)。特に,ユダヤ教にシンパシーを持つ,テイアテイ ラ出身で紫布商人の「神を畏れる者」 リデイアは家族と共に回心し,洗 礼を受けた(16: 13‑15)。使徒言行録は町の門の外にあったユダヤ教礼 拝所におけるパウロ宣教に焦点をあて, 他の活動に言及していないが,

パウロはそれ以前にフイリピの町の門の中に数日滞在している (使 16: 12)。 ざらに,安息日の後の数日間を門の中にあったと推定される リデイアの家に滞在している(使16: 15)。リディアの家はパウロのフイ リピ伝道の拠点となり, そこに回心した信徒達も集まっていた(使 16: 15,40)。

パウロは占いの霊を持った女奴隷の女性から,霊を追放したために その主人の恨みを招き, フィリピの町の高官達に訴えられた。その名目 は, ローマ帝国の市民が受け入れることの出来ない風習を宣伝している ということであった(使16: 20)。この告発は, パウロがユダヤ人だけ でなく, 広く, フィリピ在住の異邦人に対しても宣教活動を行い.彼ら の一部が新しい宗教を受け入れ,新たな生き方を示したため, それが周 辺世界には新奇で危険なことに見えていたことを前提にしている。バウ

76) KoesteL50‑51を参照。

(22)

ローマ植民市フイリピにおける初期キリスト教の共同体形成 Ⅱラ ロは鞭打たれた後に投獄され, 一晩留置されたが,裁判に掛けられるこ となく釈放された(16: 2239)。留置中に地震が起こり, 囚人が逃げた と思い込んで自殺しようとした看守を励まして思い止まらせた(16: 2 28)。感激した看守は一家と共に入信し, 洗礼を受けた(16: 29‑34)。

釈放後, パウロは同労者のシラスと共にエグナティア街道を西進し, ア ンフイポリスとアポロニアを経てテサロニケに到着して宣教活動に従事 した(17: 1)。

フィリピ害におけるパウロの発言は, パウロの宣教によってフイリピ 人達の信仰者としての歩みが始まったことを前提にしているが, その詳 しい事情については述べていない(フイリ : 5‑6)。 フイリピ害におけ るパウロの勧めの内容は終末論的性格が強く,キリストへの信仰(1 : 24, 27,29; 2: 17; 3: 9) と救い(1 : 19,28; 2: 12) という基本的使信に加 えて,終わりの時におけるキリストの来臨を強調し (3: 20; 4: 5) , 「キ

リストの日」に備えるように勧めている (1 : 10; 2: 16)。

フイリピにおける宣教は困難を伴っており,パウロはフイリピで, 「苦 しめられ,侮辱された」と述べている (Iテサ2: 2)。彼はフィリピの 回心者達に, キリスト教信仰に入ることは. キリストを信じるだけでな く , キリストのために苦しむことも恵みとして与えられていると教えて いる (フイリ l : 29ルフイリピ人達は, パウロに倣って, キリストの 福音のために戦う福音の戦士となることが求められた(1 : 27‑30)。パ ウロは彼らのことを, 信仰の仲間として「兄弟達」 (1 : 12; 3: 1, 17; 4: 1,8) と呼び掛けるばかりでな<, 「愛する人達」 (2: 12; 4: 1), きらには, 「私の喜び,冠である,愛する人達」 (4: 1) と呼んでいる。

パウロらは, フィリピ宣教活動の中で, 回心者に洗礼を施し (使 16: 15,33) , コリントにおけるように主の晩餐を記念して聖餐式を行っ

(23)

1,2 論文

ていたと考えられるが(Iコリ ll : 23‑26) , フィリピ害ではこうした祭 儀的行為よりも.言葉による宣教活動に強調点が置かれ, フイリピ人達 が福音に与っており, キリストの来臨を待望し (3: 20) . キリストの日 に備えて,終末の裁きに耐えるような「清い者,責められるところのな い者」 となることが強調きれ(l : 6, 10) , 「キリストの福音に相応しい 生活を送る」ように勧められている (1 : 27)。

ローマ植民市フィリピには. ローマ帝国内の他の土地から様々な人々 が流入し, キュベレのようなフリギア起源の宗教や, イシスやセラピス のようなエジプト起源の宗教も持ち込まれ, 次第に民族の枠を越えて信 仰されるようになっていた。客観的に見ればパウロらが説いたキリス ト教も,そのような外来の宗教の一つであったが 唯一神教の立場に立っ て(Iコリ8: 3‑4) ,他の神々を人間が作った偶像と規定し 偶像礼拝 から離れることを求めたことは(Iテサl : 9 10) . 他の神々への信仰と 共存が可能なギリシア・ローマ世界の多神教的諸宗教とは異質であった。

この点は,ユダヤ教と同一であるが, ユダヤ教は民族宗教であるので,

異邦人に対する宣教活動にはあまり積極的ではなく .神を畏れる異邦人 の人たちがフイリピの町の門の外にあった「祈りの場所」で行われる安 息日礼拝に参加することはあっても (使l6: 14) , その数はフイリピの 住民の中でそれ程多くはなかったと推測される。

(2) フィリビにおけるキリスト教共同体形成

パウロの説くキリスト教は,個人にキリストにおける救いを約束して,

罪の告白と回心を迫るものであI) , オリュンポスの神々のような地域共 同体の存続と繁栄を第一義的に求めるものではないことは,密儀に与る

(24)

U−マ植民市フイリビにおける初期キリスト教の共同体形成 Iラョ 個人に救済を与えた密儀宗教と並行している'77'・フイリピにおいても,

初期キリスト教の宣教は密儀宗教と競合する立場に置かれていたと言え る'7淵'。 「救いの道」は(使16: 17) .パウロらキリスト教の宣教者だけで なく,密儀宗教の宣教者も説いていたのである'79}□

パウロが信仰に導いたlql心者たちは教会(:KK入no虹) を形成したが (フイリ3: 6; 4: 15) , それは組織形態からすると自発的加入音によっ て結成される宗教結社の一つである 80'。但し 初期キリスト教共同体が,

ヘレニズム世界の自発的納社の呼称として一般的であったeiudog (KIP 095/L346; 340/L589; 524/L103; IGX/2n05.260,309,506)*KoL!ノ6,ノ (αG l800;PLo"2139) を使用せず, 民会の集会を表すtKKATIU(αを用いてい た点は特殊である。フィリピにおいて 従来,欲K入nciaは民会の集会の 意味で用いられていたが(347/G356) , キリスト教の到来以後は.教会 の意味で使川されるようになった(101/G544; 103/G546; 125/G802;

360/G436; 528/B559).パウロを経由して導入きれた初期キリスト教用 語が定着した例であると考えられる。

{テテ」 S.C.Bflrton/G.H.R.Horsley, "AHIBIlenistiCCullGToupimdtheNewTeStmment Chur'chesii,ノAC24(1981)741を参照。

'76) R.Wil, "ThEEgyPtianCUliS inAncientMaigedonia,、' inAFIL・jEFIfM[J"d(加加〃F PIIP2応R"fjqj j/'ESEmFIdノ"Ier" 。"偲均'r""jlJ"'HEMIFI7ル"sqIDFIIAi,2629Augusf I968 (Eds.B, I"aourdasandCh.Maka「0nas; Thessaloniki ¥ II15titutefbrBalkanStud‑

ies,l970) 324‑333を参照,

w79) Elliger,68‑61

'80 AsEough,176190う idem., '#.lhe'IhessalOnlanChristianCommunityas&IProfbs‑

SlonalVOlunlaryAssociailon,"/BL ll9 (2000) 311 328; 1.S.KIoppEnborg, 、Edwin Hat(gh,ChurCheSandC()"噸α、'' inOr噌j"3["1(JMIJr/10d: roH'[JrdsfIMJwU11[jど応fα"d"Jg Q""""1""dcノげお" jり' (FS. l.H、Hu「d; ed.B.HMcLeani JSNTSup86; ShEHiel : ISOTyl993) 212238;BH.MELean, 、LT11EAgrippinillalnscription; ReligiousAsso‑

dationsandEarlyChurchFormallon,'' ibid.,239‑270を参照。これに対して.WA・

Meeks,WTcF"JJIUrlJα〃C/1rMa"§ ;刀leSo"IIMJrldQ/"1eApos"EP"I (NewHaven:

"leUniversityPress, 1983) 7484は, ヘレニズムllt界の結社と教会とは用語上

も組織形態│、も異なることが多いので. パウロがi没京した教会はヘレニズム

世界の結社をモデルにはしておらず, むしろ家唯を準拠モデルとしていると

している。

(25)

Ⅱラ4 論文

フイリピ教会も, テサロニケ教会同様に (Iテサl : 6,9 10を参照) . 伝統的な神々への信仰を離れて 活ける其の神への信仰へ回心して信徒

となった回心者集団であった。教会共1両1体の内と外とを画する境界線が 意識され. フィリピ人達は. 他の地域のキリスト教徒と共に 「キリス トにある聖徒」 (1 : l i 4: 21) . 「愛する人達」 (2: 12; 4: l)であI) , 「彼 らの内に善い業を始めた方は. それをキリストの日までに完成する」 と きれた(1 : 6)。キリスト教徒であるフィリピ人達が「神の子」である のに対して(1 : 7; 2: 15) . 周辺世界は「この世」 (2: 15; 3: 19) ,或 いは, 「邪な曲がった時代」(2: 15)として杏定的に捉えられている。デイ アスポラのユダヤ人達の自治組織であるwoMてEUiLcMが, 地上の都市の一 角に存在するのに対して(ヨセフス「古代誌」 14.235; アリステアス 310;CIG5361) ,キリスト教徒の帰属社会(woノ.irfUl'd)は,地卜.ではな<, 天上にあり (フイリ3 : 20) , 彼らは地上を旅する巡礼の民とイメージ

されている181 '。 Z世紀初めに活躍したスミュルナの監督ポリカリュルボ スは, フィリピに宛てた手紙の冒頭で, フィリピ教会のことを「フイリ ピに寄研する神の教会」 と呼んでいるのである (ポリュ序言) [コ

共lil体の成員は,互いに「兄弟(姉妹)」 と呼び合い, 共同体は家族 に擬制されていた(1 : 12, 14; 2: 25; 3: 1, 13, 17; 4: 1,8,21 ;ポリユ 3: 1)魂'・成員間の連帯意識は強く ,彼らはますます愛のうちに歩むこ とが求められ(1 : 9, 16; 2: 2) .霊の交わりのうちに互いに慰め合うこ と (2: 1) , 思いを一つにすることや,遜って他を尊重することが勧め られた(2: 1 4; 4: 23)。

!:' ! MIsek5,95; K.WNiebuhr,HEI[j2FI""花I dnusIgrqEl.Dieノ js〔A Ide"r rfjesP ‐ ms〃 ハjノ1rerD"rsrEII!"19i'1 SEI""BriC/i'1 (WUNT62;TUbingen:MohrSiebeCk, 1992) 102もこの点に注「Iする

咽ユ' T l.Burke,RImil)'MqrrerS:ASocioHi5fOri"ISi"{jyqjki"5/'ipMemp/!ors〃1 1 7ルビs§α/・"i(InJ(ISNTSup247ILondon:T&TClark,2003) を参照.

(26)

ローマ植民'ijフイリピにおける初期キリスト教の共│Ii1体形成 Iララ 共同体の指導者は, 監督(罰LOK6TOL) と奉仕者(6LcMK6〃。し)であった。

ここで,監督((wioKo'Toc) という言葉は牧会書簡(Iテモ3: 2; 4: 14;

テト l : 7)やイグナテイオス書簡(イグ・エフェl : 3; 2: 2; 4: l ; 51 2, 3; 6: 1 ; イグ・マグ2: 1 ; 3: l他多数)のように単数形ではな< ' む しろ, 使20: 28;デイダケー15: 1 ; Iクレ42: 4,5におけると│同l様に 複数形で使用されており.教会の単一的指導者としての術語的な意味を 持つに到る途上にあると判断きれる《8]'・長老たち(Y"6L'て";叩印帥そpoL) や(ユデイ6: 15‑17),司たち(iipXo',辱") (ヨセフス「戦記」 7.47; フイ ロン 『フラツクスj 78,80, 117) といったユダヤ教シナゴーグでIMいら れる指導者の呼称は. 用いられず,組織形態や用語の上で.ユダヤ人共 同体に対して一線を画している'84'・

碑文史料によれば. 後続の2−4世紀には, <TT(UKOTO5 (監督) という名 訶は単数形で用いられ, 教会の監督職を指して使用きれている (329/

G472)。 また, より下位の教会指導者として6Lo:K6,joE (奉仕者) も登場 している (115/G766; 613/G228)。他方. フイリピ書には用いられてい ない名詞耐p"66TfpO5 (長老)が碑文史料には頻出する (100/G543; 101/

G544; 102/G545; 103/G546; 106/G5491630/G581; 631/583; 632/G583)。

パウロ以後のフイリピ教会が, 2世紀以降,他の地域にある教会とl'il様 に監督一長避一奉仕者という職階制を確立して行ったことを示してい る。このことは,二世紀初頭にフイリピ教会に宛てて昔かれた, スミュ ルナの監督ポリカリュルボスの手紙が,フィリピ教会の長巻達や(ポリュ 81) Asfgough, 132は. 監督(fnLITK6TTOL) という言葉か, 周辺世界の自発的結社の

指導者のタイトルとして使用されていたと指摘する.

間4 ユーダヤ人共l,i1体の指導者の呼称については, ESchurer,771EHjsjor)」Q/"'fノどw‐

応ルPEDPIE師"1EAgEq/ル§IJSCArisi (3volS; Revi5edEnglishVersion; rev、&cd,G, Vermes/FMillar/M.Goodman; Edinburgh:T&TClark, 1986) II192‑94 102を 参照。

(27)

Iラ6 論文

6: 1),奉仕者達に (5: 2)言及していることに相応している。

代表的な信徒の中には 使徒言行録に言及がある, 自宅をパウロの官 教の拠点として提供した紫布商人リデイア(使16: 14)の他に,エフェ ソの獄中のパウロを見舞ったエパフロディトや(フィリ2: 25; 4: 18) 命の書に名が記されているクレメンスや(4: 3) ,女性宣教者のエボデイ アやシンティケの名前が知られており (4: 2) , 女性の有力信徒達の活 躍が目立っている(85)。男性優位の家父長的な周辺社会の支配的文化に対 して, フィリピの教会内部では,キリストにあって, 「男も女もない」 (ガ ラ3: 28) という理想が一部実現しているように見える。フイリピにお ける宗教史的平行現象としては, デイアナ礼拝やデイオニソス教やイシ ス敦において女性が指導的役割を果たしていたことが挙げられるI861Q

他方, 他の書簡の冒頭でしばしば用いている使徒の称号を(ロマ l : l ; Iコリ 1 : 1 ; 9: 1 ; 11コリ l : 1;ガラl : l) , パウロはフイリピ 書においては使用せず, 自分がキリストの僕たる宣教者であることを強 調している (フイリ l : 1)。パウロとフイリピ教会の間の関係は非常に 良好で,パウロは敢えて使徒の権威を持ち出す必要がなかったのである。

発信人であるパウロと受信人であるフィリピ人達との間には.共に福音 に与る者,福音の戦士であることによる強い連帯感が存在した(l : 27‑

30; 2: 25; 3: 4)。キリストの福音に基づく交わり (KoL''(jyiu)が両者 の媒介項である (1 : 5; 2: l ; 3: 10) (87'。彼らは恵みに共に与ると共に (1 : 7) '霊の交わり (2: 1)に与り. キリストのために苦しむことを共 85] AsEough, 134jAbrahamSen,82831 E. SchiisslerFiorenza, JFIMgF打・ひ' Q/Her

(NewYOrk:Cros5road, 1983) 170,

86 Ascough, 136;Abrhamsen,7479; Porteflix,75 128;MarChal,7481.

幅7 Schnabel,1159;AscOugh,142は、 Kow⑩此αがヘレニズム期の自発的結社の会

貝籍について用いられた例があることを指摘し (IGII21297) , パウロがフィ

リピ教会を自発的結社の−種と意識していたしるしとしている。

(28)

ローマ植民IIjフイリビにおける初期キリスト敏の共同体形成 Iラフ fi‑していた(3: 10; 4: 14)。

フイリピ教会は, パウロのテサロニケ宣教の際には再三経済的に支援 し (4: 14 16), パウロがエフェソの獄中にある時には, エパフロディ トを派遣して支援全をlilけている (4: 1720)。 また. エルサレムの聖 徒達のための献金運動にも, マケドニアの教会の一つとして積極的に参 加していたように思われる (IIコリ8: 1‑7; 9: 1‑5)。フイリピ教会は,

貧しいマケドニアの教会と言われることはあっても (Ⅱコリ8: 1‑2) , 紫布商人リデイアのような富裕な会員もいて. パウロや他の教会を経済 的に支援するだけの経済的基盤を持っていたのである'咄!。この点は,殿 初期には極貧者によって構成されていたコリント教会とはかなり事情が 異なっている (Iコリ l : 26‑31を参照)。当時の地中海枇界の自発的結 社が外部の団体に対して維済的支援を行うのは極めて稀であり,経済的 支援も含めた他の地域の教会や信徒との連帯は, 自発的宗教結社として の初期キリスト教会の際立った特色の一つであった' }・

フイリピ人達は有力信徒のリデイアの家を宣教の拠点にして礼拝等の 集会を行っていた(使17: 5‑9,20)。礼拝においては. 霊の働きが重視 され(フイリ2: 1) 、 祈りと願いが捧げられた(4: 6)。周辺世界の反 対に遭いながらも,彼らはパウロに協力して未信者・に対する宣教活動を 始め, パウロが去った後も福音の戦士として福音宣教をたゆむことなく 行っていた(l : 2730; 4: 2‑3)。

M) Meeks,62; Schnabcl,1154を参照、 これに対して, AsCough,ll8は, 11コリ 8: 1 2において, マケト.ニアの教会が貧しさのII'から聖徒達への献金を行っ

たという記述に韮づき. フイリピ教会の信徒達も窩裕ではなかったとする.

H91 AsEough,151‑l53.

(29)

Iラ8 論文

(3) 周辺世界との軋礫

使徒言行録によると, パウロは占いの釜を持った女奴隷の女性から.

霊を追放したために, その主人の恨みを招き, フィリピの町の高官達に 訴えられた。その名目は. ローマ帝国の市民が受け入れることの出来な い風習を宣伝しているということであった(使16: 20)。パウロは鞭打 たれた後に投獄され,一晩留置されたが,裁判に掛けられることなく釈 放された(16: 22‑39)。釈放後, パウロは同労者のシラスと共にエグナ テイア街道を西進しアンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケに 到着して宣教活動に従事した(17: l)。

ユダヤ教の慣行を守ることは, ローマ帝国の伝統的政策によって擁護 きれていたが, それは, 皇帝を頂点にするローマの支配秩序に反抗しな いという前提においてであった。メシア運動は油漉がれた救世主の到 来と新しい世界の秩序を希求する限り,既存の体制に対しては否定的な 契機を孕んでいる。特に,ユダヤで起こったメシア運動は反ローマの武 装蜂起を伴い, ローマ軍によって鎮圧きれたロ イエスがキリスト (メシ ア)であるというパウロらの宣教は,霊的メシアニズムであり,政治秩 序を転覆しようというのではないが, 反ローマ活動として当局に訴えら れる余地はあった。

フィリピにおける宣教は困難を伴っており,パウロはフィリピで, 「苦 しめられ 侮辱きれた」と述べている (Iテサ2: 2)。彼はフィリピの 回心者達に, キリスト教信仰に入ることは, キリストを信じるだけでな く 、 キリストのために苦しむことも恵みとして与えられていると教えて いる (フィリ l : 29)。 フィリピ人達は, パウロに倣って, キリストの 福音のために戦う福音の戦士となることが求められた(1: 2730) (90'。

{'0 福音のために戦う事の捕写に関して,軍事用語が転用されていることにつ

(30)

ローマ描民市フイリピにおける初期キリスト教の共同体形成 Iラ9 パウロの宣教以来, フィリピにおけるキリスト教宣教が急速に進展し て彼らの注目を引き,現存の秩序を脅かす有害な活動と受け止められた のであろう。彼らが危険視する理由は幾つか考えられる。第一に, キリ スト教にはユダヤ教と同様に天地を創った唯一の神のみを拝するという 大前提があるので(Iコリ8: 6;ヤコ2: 19), フイリピの信徒達は, テ サロニケの信徒と同様に異教の神々を礼拝することを偶像礼拝として斥 けた(Iテサl : 9 1O; ざらに ロマl : 1831 ; Iコリ8: 1 5,7 10を参 照)。そのために, 彼らフィリピの守護神ディオニュソスを含めたギリ シアの先祖伝来の神々や, 支配者であるローマの神々や神格化きれた皇 帝を拝まず,祝祭にも参加しないので, ローマ人やギリシア人指導者に 対して反社会的であるという印象を与えたであろう(9! '・第二に,パウロ が伝えたヘレニズム教会起源のキリスト讃歌は, キリストの謙遜と高挙 を描いている (フイリ2: 5 11)。神は高挙のキリストに対して. ロー マ皇帝を含むすべての名に優る名を与えている (特に、 フイリ2: 9‑10 を参照)。この思想は, ローマ皇帝を頂点とする世界秩序とは相容れな い契機を含んでいる。第三に,パウロは終わりの時における,神の審判 (神の怒り) とキリストの来臨を説いた (フイリ l : 6, 10; 3 : 20)。こう した終末論は,現存世界の秩序が終焉し.全く異なる世界が到来するこ とを説いており,体制批判的な要素を孕んでいたので現存秩序の担い手 達からは危険視される運命にあった(92'・パウロはフイリピ伝道の当初 いては E.AKrenz, "MilitaryLanguageandMetaPhorsinPhilipplans,"inOrjgか巧

"江jMe"'od; iow"rd"NEwU"dersm"di"gq/J"""'"(コcノ'risfi"iry (FSJ.H HurdiedB.HMELean; ISNTSup86; She価eld: 1SOml993)105‑127を参照,

9') ].M.G.Barcla)h ,!C・nnictinThessalonica,"CBQ55(1993)512‑530を参照。

9コト リewett, 125;R、A,HoTsley, <,Introduction:nlelmperialCult,PrimarilyintheArea ofPaul'sMiSSiCn,'' inR,HCrsleyed.,PiIMI"dEmpirE:RE/jgm"imdPDwErjFTRO"'["Ⅱ IPTIPerjqIS""' (Ha「risburg,PA:Trinit)'Presslnternaticnal,2000)20241HKoEs‑

ter,"Imperial ldeologyandPaul'sEschatolOgyinlThessalonianS''、 ibid, 158 166;A.

参照

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