研究ノート アングロ・サクソンイングランドとヴ
ァイキング――「モールドンの戦い」(The Battle
of Maldon)をめぐる小論――
著者
原 征明
雑誌名
ヨーロッパ文化史研究
号
14
ページ
149-172
発行年
2013-03-30
URL
http://id.nii.ac.jp/1204/00024428/
ヨーロッパ文化史研究 ; 12013年3月30H) 第14号 149 研究ノート
アングロ・サクソンイングランドと
ヴァイキング
ー「モールドンの戦い」 (TheBattleofMaldon)
をめく、る小論一
原 征明 はしがき 歴史的背景 モールドン (MtlldDn、Maeldune 1 とその古戦場について ,」f英語で苔かれた詩 〆BattleofMaldon” 造幣所モールドンルエセルレッドⅡ世(4JEthelredll)時代の貨幣 まとめ 参考史料 1 1 勺 皇 句 。 4 鼎 P . r 、 胃 ノ 1. はしがき 本稿は,最近筆者が継続して取り組んでいる標題のテーマの一つとして 考察の対象と なる現地に直接おもむいて得られた情報や資料をふまえたものである。なお. この場所 Maldonに関しては‘《マルドン”と記述される場合もあるが‘ 以下では現地で確認したので "モールドン、,と表示したい。 2. 歴史的背景 本稿で扱う戦いがおこったのは, ブリテン島に対するヴァイキングの侵入・略奪の歴史 において「第二の波動」と把握きれる時代のことである」 !。 「アングロ・サクソン年代記」 によれば西暦991年の出来事として記録されていて, イングランドではエセルレッド い 因みに、 ヴァイキングによる攻撃の「第一の波動」はおおむね835-935年の頃である□ この時代 には既にウェセックスエアルフしヅド (AlfredtheGreat)の統洽下で結束したアングロ‘サクソン 車との一進一退の戦いの結果デーン人首.領グスルムとの間に「和平協定」が締結きれ、 これによ りインクラントではローマ時代に起源をもつ「ウオトリンク街道」 (WatlingStreet) を境界として‘ 概ねその東部・北部地域かヴァイキングに割譲されていたのであった。I5oゴ 研究ノート
(Aathelred theUnready'在位の987-l016)が王2'として統治した時代のことであった。エセ
ルレッドは979年にキングストン ・オン・テームズ(Kingstonuponn'ames)で加冠きれ たが英国史の中では「無分別王」の悪名で知られている。それは彼の時代にイングランド の土地や貨幣的財産の多くがヴアイキングの手にわたってしまうことになった際の王でも あったからである. 因みに, ここで彼が即位するにいたった経緯について少し<述べてみると. 次のようになる。彼の父エドガー王釦 (Edger,bornc 943,ParentS: Edmundland(St)Elgiva)は975年
に没するが,そのあと生き残った二人の王子エセルレッドとエドワード (別々の妾による) を推す派閥争いが生じ‘初めはこの争いにおいて優位にたっていたエドワードが暗殺きれ, その原因ないし責任がエセルレッドの母であるエルフリダ(Elfrida) にあると流布きれる など‘ イングランド内部における諸勢力の政治的混乱があった。 実はそうした事情がこの時代のイングランドに対するヴァイキングの激しい攻盤をもた らす原因でもあった。実際1O世紀には西のアイルランド海. 東に位置する北海の双方に おいてブリテン島のいたるところがヴァイキングの攻躍にさらきれた。 例えば, アイルランド海で活躍するヴァイキングの攻撃は今日のウェールズ地方を中心 に集中し10世紀の間それが止むことはなかったし(4! 、 980年代にはウェールズ海岸沿いで エセルレツド11世(JEthtalredllthEUnread)' (986/69I0l6,在位978 1016ノ ト エドカー平和王とそ 凸 の二番目の妾との間の息子㈲その治批はデーン人. ノルウェー人による度萠なる襲喋で混乱した. 『ア ングロ・サケ・ノン年代記」の記述のために悪評高いが.最近の研究では、 日I王l語文学の繁栄‘ ′白‘僚的 財政的な行政の効率性といった治世の肯定的な面も強調されるロデーンケルドの支払いも損失だけ をもたらしたのではなく ‘ 良質の貨幣鋳造と課税体系の転換をうながした側面があるとの見解もあ る.ただし. 治世後半の1002年のデーン人虐殺のような事仲.裏切り話. そして有能な軍事指導 昔を見いだせなかったことによる失政との関連で,彼の治世における兵l:の弱さが伝えられ, 雌終 的にはデーン人の勝利の婆│封となったため 1013年にデンマーク王スウエンによI)北部イングラン ドとロンドンが服従させられた”エゼルレッドは家族と共にノルマンデイに逃れるが101弗年に将 来の善政を誓約し召還された口彼の死使王国はまず実子エドマンド (Edmund, Ironsidc,M1勇王) とスペイン ISweyn}の息子クヌートP (Cmut) に分割領有された。 1016年にエドマンドが没すると. ケヌートが全イングランドの王位を継承し‘ ノルマンディ公リシャール2世の娘で‘ エゼルレツト’
の媒婦となったエマ(Emma) と結婚した。CfS.KIayn'ss#刀祀Diplo'""<y.KingAE"'elred 刀1fUHr"の,
< l980) ,HR.Loyn {ed) ,"IcMi"jEAgEJ,ACorld5EEJIqdpPmdm, (Thames&HlldsDn, 1989) ,p. 13
、 Bor[1 ; c.943.Parents : Edmund&(St) EIgiva. Asccndedthenlorone: lO,etober959. CDronatlon:
BathAbby, 1 1MEly973.Authorit) : @KingDftheEnglandandoftheotherpEopl,alivingwithinBrltfli]]'. Mar ried: ( 1 )Ethelneda、daughterofetlldorman. (2)Elfridil,daughterGi ealdormanofDEvonChildren; With { 1 ) ,oneson, theiiltLIrcKIngEdwardthEMartyr;wlth (2) 、 twosons,EdmondandEthelredll ; onc ill,agitimatedaughter> (St)Edith,orEadg)1thDiedtWivighester,8iul)'975. Burled;Glastonbur)'Abbey,
Cit.,NlelGrant,K加邸抄Q""sIH.Collins,2004),p.102. 因みに. エドカー王は在位'1'に40の修道院
存つくったといわれるように「修道院改革」 ( m・nasticrevival )に熱心であった オズワルド(Oswald, ? 992)がクリコ.二一の影響を受けてフルーリ修道院に滞在(950頃) して学んだあと帰国しエドガー
王の庇護のもとで数多くの修道院を建設されるロ イギリスの修道院牛活が連綿たる生命を持ち続け
たのは. まさにエドガー王の政策によるものであった”
4 Towin (963) 、Clynnog(978),Chester (980),Holyhead (968,971,977,98(),981),Llanbadamflwr (988),
St.DOgmael. s (988) ,St David' s(988,999) ,Llancarfll](988),そして今凹のComwall地ノノのWakhet (988, 997),Padstow(981),TnvIst・ck&Lydtbrd(997) というようにである□ (数字は攻盤された年)
アンケロ・サクソンインケラント『ヒヴ7-イキング IラI の侵攻は西南イングランドにも広がり. 加えて一般に1O世紀後半は1町ヨーロッパにおけ るヴァイキングの攻唯が│¥間きれた時代でもあった。そして990年代になると後のノル
ウェー王オーラフ (OIfhfTryggvason,KingofNorway)訓とデンマーク王スウェン以髭王
(Swein:Forkbeard',KingofDenmark) '耐の指揮l、≦にあるヴァイキングの人坤:によるイングラ ンドへの攻盤が強まっていたからである。オーラフとスヴェンによるイングランド・エセッ クス州で展開されたのが水桶で披う 「モールドンの戦い」 (BattleofMaldo'1,991年) なの である刊□ この時期ヴ7.イキングの攻撃に対抗するエセルレッド王によるイングラント'側 の対応は、 イングランド地ノj防衛軍を固めるエアルドルマン (Ealdorman. すなわち伯) に任命きれ” , おそらく従前の形式での戦闘があったものと忠われる□ こうしてデーン人 ヴアイキングに対抗するモールドンの戦いはビアトノース (Byrhtnoth) なる人物が直接 指揮をとl)イングランド防衛車がこれに対応することになったコ ビアトノースの男気‘ 従 臣たちの忠誠の稚‘ また流liⅡのすえ当地モールドンで死体となI)没したことについては, 古英語による著名な躍文の時によって後世に残きれることになったゴ (後述) そのことについて. きしあたりこの事件に関するいま一つの史料「アングロ・サクソン 年代記」m''eAnglo-SaxonChronide) における記述のみを以トーに掲げておくⅧ "BattleofMaldon"についての「年代記」 991. HerwazsGyPcswiCgehergod; andaalterlxemswy6eral)ewirsByrihtno6ealdormanofsla-ganagIMeldune. AndoniamgearemangerrddelJrtmangealdferestgaibIDeniscummannum fbrl]ammyclanbroganレehiworhtonbel)amsfEriman; I)EEtwfEs"restxI)usendpunda.paene オーラフl ilt ( rl鷺位c、995 10(〕0) ス'ケェン '牡と共にggi狸三はロントンを襲蟻し. 後に南來イ ングランドへの攻蠣をやめるこしへの代償として16、()()Oポンドの銀の』と払いを,'2けたCfjacquc-lineSimpSon,刀IどVik"IgWbrld(B・I.Batsibrd, 1980) ,P.34,,994. Inthis)'"rOlilfandSwclllcInmctoLondon ontheNativit)'o1、St.Mar)「wilh94ships,andthIB)「proCeededtoattackthedi)「stou(1)'and'、'ishtJdalSok)set ilonhre; but lhcrcthe)' suifbredmoreharmandinjurythanthe)"everth(}ughtan)'citizcnswDLlldduto1hern thentheKingandhis,goundlorsdtJtcrminedto5endtothemf'ndpmmisethcmtribu"andProvislons,on
conditi(Jnththt thc)' sho,11d"tlsIg lhatharrymg. Andthe)' thenacc,aptiedthat, illldihcwh()Icarmycnmethe]1 toSGL'thamPkmnnd(('()kwi],lerqui,rtersthere; andtheywer<sProvision,adIhr('ugh[)lli flll ihtJWestSEIx()n DavidC・DoLIglils (CIJI1cralEditor) ,V,)1. 1, [)oro 42(Eyre&SP()ttiSwo()de (1955),P.214iditt('
kingdcm andthtj>「wcrePaidl6,000p()undsinmonこり
th)'Whitclock (cd),E"8"sノIMsIUrimIDOに以加ヒHrc500-lO42(Eyre&SP{)ttiswoOde (1955),P.214idittQ
(EyreMEthuEI1,l97()),p.235. アンダー‘ラインは引用肖・によるⅢ スヴ]、ン 1世(イ│{位985? ()14).彼はハラルド青歯王(HaraldBluet・oth) 1cli'唱の「ルーンイi碑」 の建立打・−のI)"-でクヌート大fの父に、'1たるノ、物である、 Nみに 才--ラフとス氏ツr、ンに率いられた組織的軍隊は‘ イースト ‘ 7'ンクリ7'地〃で/FIIのサ フオーク州イブスヴf ツチIIP5wkh) を襲い武器を略奪し‘ さらにブラックウォーター川 (R Blackwater)へと1+1「しモールドンから約1マイル程の距離にあるNcrtha,腸に攻唯の拠LI.':を蕊い たのであるCflolll1Kinross,Disr[)1'(!ri'igBLIfrl(yMfkq/E"g1"IIJ (ShirePubl.、 1989) ,p. 10. 四部ミッドランド地ノjはしすフウィ・ ン. ヨーケはエルフヘルムに委ねていた”
'ラ2 研究ノート
9
raedgeriEddell
EErestSyricarcebisceoP-991 [A] InthisyearOlafcamewith93shipstoFolkstone,andravagedroundabout it,andso fmmtheremlpswich, andoverranitall, andsotoMaldOn. AndEaldormanBrihtnothcame againsthimtherewithhisarmyandibughtagainsthim; andtheykilledtheealdormanthereand hadcontl-Clofthefleld. AndaherwardSpeacewasmadewiththemandthekingstoodsPonsorto himanerwardsathis"nlirmation. [C(D,E)] InthiSyearlpSwiChwaSravaged,andvel・ysoonafterwardsEaldormanBrihtnothwas killedatMaldon・ AndinthatyearitwasdetermindthattributeshouldfirstbepaidtoDanishmeI1 becauSeOfthegreatterrortheywere(gauSingalongthecoast・ nleirstpaymemwaslO,000pounds. l I1 ArchbishopSigerichrstadvisedthatcourse. 3. モールドン(Maldon,Maeldune) とその古戦場について 現在のモールドンはエセックス州東部にあるイギリス海峡に面した浩町であるロ ロンド ンから行く方法一つではないが.筆者はリヴアフ.−ル,ストリート駅発の列車で40分稚 のチェルムスフォード (Chelmsfbrd)で降り, そこからモールドンヘと向かうローカル. バスへと乗り換える方法をとった。そのとき目的地へと向かうバスの乗車客は品初から 私を含めて二人だけである。当然のことながらバスは途中で幾つかの停留所に立ち寄った が結局新たな客は誰もいないまま45分間程の移動であった。 モールドンの特徴はその立地上エセックス州で比較的高い所に位置していて. しかも ブラックウォーター川(R Blackwater) を上から見渡せるその戦略的な立地条件にあり, 古くから定住者を引きつけていたようである。 また, 今日のモールドンの北側には以前 "Tid'stOwm''と呼ばれていたHeybridgeが位置している。そしてこのヘイブリッジは湿地 帯を横断する水路である&cCauseway''によってモールドンにつながっている。河川によっ て結びつけられたこのような立地上の特徴がサクソン人定住の当初からあったため, モー ルドンはエセックス州でもコルチェスター (Cokhester)に次いで記録に残る最古の都市 の一つをなしたのである□ 申
EClassen,&EE_Harmer (Eda) 、A打AFIglOS(IxIJF7Cノ"0"AJffromBrtishMuseum,CottonMS.,TiberiLIsB
IV(Univ.ofMachesterPTEs, 1926) ,p、52.
1 1〕
アングロ・サク・ノンイングランドとヴァイキング Iラョ 図l干潟時のモールドン湾遠方に見るC狐lseway (蕊者撮影’ 筆者は今夏モールドンを訪れた8月25日の干潮時刻をあらかじめ把握しておいた。そ れはこの時刻に合わせて港へ向かえばモールドンの町はずれの地点でその昔ヴァイキン グ軍が押し寄せたといわれる浅瀬のルートが見られ写真に収められるからであった。日中 の干潮時刻である正午過ぎ午後0時27分に合わせタクシーで向かい獺影した写真がこれ である。 (図lを参照。) 次にこの場所がモールドンにおいてどのような位置関係にあるのかが分かる他の写真 も載せておく。 (図2) この二つの写真によって分かるように.干潮時に現れる細いルートはノーシ.イー島
(NortheyIsland) とつながっていて. 当時の戦いではヴァイキングの軍団がその道を利用
して上陸し、
ビアトノース(Byrhtnoth,Britnoth,Beorhtnoth)が率いるサクソン軍に攻撃
を仕掛けたということになるのである。 10世紀末モールドンであった歴史的事件を記念 するように 今はその場所に当時の戦闘を指揮したその人物ビアトノースの銅像が立って いる。しかしそれは現代の彫刻家1ohnDoubleday氏の手による近年(2006年)の作舶で あり. これより古い像はモールドンの中心部AllSaint'sChurchに見られるc ところで.私はモールドンに到着したときにモールドンで確かめたいことが幾つかあっ た。例えば,その一つは「モールドンの戦い」でのサクソン軍の敗退の結果エセルレッ ド11世統治のイングランドは多額の貢納金(Danegeld) を要求されたことのゆえに貢納Iラ4 研究ノート 図2航空写真によるNortheV島とCausewaV(anexhibitatMaldOn) 金の支払いに一部関わり12世紀まで続いた「造幣所」がこのモールドンに存在していた という先達の指摘を受け.その場所が一体何処であったのかを確認したかったことなどで ある←それを解決するために私は「情報センター」の助けを借りることになったが, あい にく同所のスタッフが応えられる事柄ではなかった。このために同所からたまたま連絡 がついたモールドン在住の地方史研究家ステイーブン・ナン(StephenRNunn)氏が駆け
つけてくれ.快く私のガイド役を終日引き受けてくださった。同氏は"DeputyTbwnMayor
ofMaldon"の肩書をもつ方で. この町の歴史に関する近著がありジャーナリストとしても 活躍している地方史家で.私にとっては願ってもない"助け舟,'の役割を果たしてくれる 方であった。加えて モールドンの戦いに関して語る同氏の説明の一つは.筆者にとって 無視できない論点になることになった、それはこの戦いがあった「場所」について通説が 指摘する説明に関してなのである。通説によれば. ヴァイキングの軍団は前掲の航空写真 に見られるNortheylslandから干潮時に現れる細い道(causeway)を渡って本土のサクソ ン軍に攻撃を仕掛けてきたということになっている。しかしこの当時の一連の戦闘におい でイングランドの各地に攻撃を加えていたヴァイキング軍団が一体ここモールドンでは 最初からなぜそうした「不利な戦法j''!'を敢えて採用したのか。それにもかかわらず最終 u この場合攻め入るヴァイキング軍団は狭陰な道を羅列で進まざるを得ず逆にそれは陸地で守 りにあるサクソン軍がむしろ攻撃しやすくなり 有利なのである。アングロ・サクソンイングランドとヴァイキング Iララ :’ 1 図3. OldMapfbrMaldon(anexhibitatMaldon) 的には大勝利をおさめイングランド側から多額の貢納金をえたことに疑問が残らないのか どうかということなのである。 このことは以下に述べるブルフ(l'"'fi) としてのモールドン.そしてそこにあったと いう造幣所(mint)の場所の問題にも関係する。S.ナン氏によれば.そもそも今日のモー ルドンにみる港湾の地形を1,000年前のものと同一視すべき根拠はない。BlaCkWaterにつ ながる入江(creek)はその昔はもっと幅が広くなっていて.その一帯が湿地をなしその
奥にまで進めた('2)と考えられる。従って今その奥端に位置する今日のHeybridge付近こそ
実は両軍の交戦場所であった可能性がむしろ高いのだと私に語りかけてくれた。 加えて, この奥地の場所の方が旧来からのロンドン・ロードに接続し、 しかも当時ヴァ イキングの攻撃目標であったブルフ(バラ)に近かったからであるという。因みに, 図4 はモールドンで頂戴したものであるが. この中の‘書き込み"は私に説明した際のS.ナン 氏によるものである。 彼によってBurhと書き込まれた矩形の空間は古くから存在したロンドン.ロード上に あり,地形上いまこの町モールドンの高台('3をなす中心部に当たっている。ここには「教 (!z; 勿論モールドンにおけるこのような地形の「変化」などに配慮した研究が近年まったくないと いうことではない。例えば.地名学者ドッジソンの研究はそれにあたる。)ohnMcNDodgson,nle SiteoftheBattleofMaldon, ;D.CScragg(ed.),WIeB""IcqfAイaldb"A.D99I(B.Blackwell,1991),pp・'70‐ 179. 1B' Maldon,はOEのMeldunnであり.原義は@Ghillwithama=r(=markorcross)である。 『蕊
胃 J o 菫歸、I子 −−ーーー■--丙、 丙、 ー
アングロ・サクソンイングランドとヴァイキンク Iラフ 図5. AIISai'lt'sChurch(談者搬影)
雛
詞 卜蟄識
葵
蟻鰐 1 函4 1 一二 DI H‘ 、蘭 = I I 。 図6. -IheSiteofOldMint,Maldon(筆誉撮影) 区教会」であるAllSaint'sChurchが建っていて.教会の正面上部にビアトノースの像が置 かれ,入I)口付近の一角の部分が大切に保存されている。まさにこの一角こそが当時のモー ルドンにミントすなわち「造幣所」が置かれていた場所なのである。 (図5.図6)Iラ8 研究ノート 4. 古英語で書かれた詩"BattleofMaldon" 「モールドンの戦い」について害かれた古英語詩は, この戦いが終わって間もなく, サ クソン軍の勇気ある行為が人びとの心の中にまだ記憶として残っている問に書かれた‘帥 ものとぎれ,マニュスクリプトで残きれた。 しかし厳密にいえばロンドン・ブリティッシュ ライブラリーに保存きれてきたその作品は18世紀(1731年)における不幸な出来事, す なわちコットン ・ライブラリー(COttOnLibrary)での火災で一部がひどく損傷したため. ポドレアン図書館(BodleianLibrary,Oxibrd)などに分散していた他の写本に頼り後年転写・ 補填されたものといわれている。従って, このことはテクストの成り立ちそれ自体に関す る研究' 1う' としても価値ある対象であるが, その問題をめぐる概要16'についてふれる若干 の文献を本稿の脚注に示すだけにとどめたい。そしてまた,古英語詩"BattleofMaldon"に ついても, このページにおいては出典' 17'のみを示すにとどめ. いきさか多くの紙幅を費 やすことになる古英語詩の「モールドンの戦い」の全文は本稿の最後におくことにしたい。 因みに,掲載した古英語詩でわれわれが関心を持つのは, 本詩のなかでサクソン軍が一 体いかなる戦法を採用しと§う戦ったかを知ることなのである。この詩によると, 戦いにお けるサク、ノン軍の指揮官であるビアトノース伯(EarlByrhtnoth)が. まず兵士たちを集め て忠告を与えて勇気づけ,盾を構えて壁を作った防御体勢をとり, しっかりと敵に立ち向 かう様に命じている□ ここから当時のアングロ・サクソン軍側の対応は「密集戦術」をと る歩兵の戦いであったことがうかがえるわけであるc従ってこの場合, モールドンの戦場 では限られた空間で両軍が衝突して相手が全滅するまで死戦を演じていたことが分かる□ 換言すれば, それは当時の政治機構にあって軍隊の絆はその主君の指令にその部ドが忠実 に従軍義務(かれi) を果たすというアングロ・サクソンイングランドの伝統的な戦闘形態 に他旗らなかった' '蝋’ことを伝えている。 しかもこの詩の前段にみられるようなヴァイキ '' D.M.Wilson,刀IEA"g/DSI"0'1s (FredericA・Praegenl960)p. 128. 15 わが国でも文書学を含む新しい研究領域をめぐり解釈学的研究がGlobalCOEProgramとして西洋 リ』研究者によって最近開かれ,一冊にまとめられたことは記憶に新しい。 「テクスト布置の解釈学 的研究と教育」第12回国際研究会報告雀.加藤修編「雁史におけるテクスト布置」 (Confgumtion dutexteenhistoire)名古屋大学大学院文学研究科’ 2012.
mi" CfD.G.Scragg(ed.),77'eB""IEq/.M"ldo", Introduction1.TExt,pp. 1 8. ,古英語によるマニユスクリブ
卜そのものの写真版についてはD.GScragg (ed.),7門どB""e"Ma"。〃 (B,Blackweil, inaSSoCiatio]1with
theManchesterCcntrefbrAnglo-SaxonStudies,1991),PP3-14. '7 Djim,PP, 1831. Ⅲ卿 10世紀のウェセックス王国では 既にシャイア (shirs)がそれぞれの│白をおき2−3分割されてい たし 躯thelweard伯の手になるラテン語版年代記において当時のエドガー王の頃はハンドしツド (/114"側rEd)がフュルド (jj'r!ノ) と│両I義語として使用され‘ 軍役の義務がハンドしツドの保有者によっ て負担されていた”このように. 戦闘に際しては伯の箙旗につき従う地ノフ戦士は砿の配卜.にある者 たちなのであった、従って「モールドンの戦い」の詩に見るフュルドは自分たちのロード (この場
アングロ・サクソンイングランドとカアイキンク. ’ラ9 ング側からの伝令すなわち「貢納金支払い」による講和の打診をも拒否して戦い続吐最 後には指揮官ビアトノースもその親族や彼に忠誠をつくした多くの兵士たちともと.も流血 の末に死体となって横たわり戦場の露と消えたのであった。 これに対してこの時代のヴァイキング軍団は例えばシェラン島のトレレボー (Trelle-borg)や北東ユトランドのフィヤカート (Fvrkat)そしてリムフィヨルドのアッケスボー
(Aggersborg)など北欧に見られる「軍事キャンプ」' '9に常駐しそこを拠点に厳しい軍事訓
練を経験した“つわもの,,たちの集団であったことはいうまでもない。 5. 造幣所モールドンとエセルレッド11世("thelredll)時代の貨幣 古戦場となったモールドンに「造幣所」が設けられたのは一体なぜであったか。それは この地が既にアルフレッド大王の時代から「デーンロウ地帯」 との境界に接近しこれに 対時するサクソン ・ イングランド側の防御砦ブルフ (61"ノ!)帥の機能を果たしていたから である。つまり本稿の晶初においても述べたように, モールドンはⅡ.l来からのロンドン ・ ロード上にあるだけでなく 、 イギリス海峡に面したエセックス州のこの場所が高台に位置 して戦略上有利な港町に他ならなかったからである。'21 ’ ところで‘ アングロ・サクソン時代の古銭学・貨幣に関する専門家の一人ブラックバー ン(MarkBlackbum)氏による最近の論文には次のような趣旨が述べられている。即ち.モー ルドンにおいてビアトノース (Byrthnoth)伯と同等の地位にあった人物は, 貨幣の使用 合ビアトノース伯) を指揮官とみなす者たちによって儲成されていたといえる』CflamesCampbell&GtheTs (ed, ) ,刀肥AFTlJI(JSITxo11s, {PhaldonPress,Oxibrd, 198Z) ,PPl72 l73.
旧
こうした巾事キャンプについては 例えばPallELaurmg,AHismり'q/.DE河加ark (HCST&SGN,
Cop,anhagen,1960),pp.52-53.iH.R.Loyn,T71fJWAi"9s (BTBatsibrd, 1977),P64HPhptoa,10hanneS Br(Jndsted,刀'EWA伽g5 (Penguil]Book5,1978),pp.173 181;DavidMWiIson (ed) ,刀1EN(〕riAEr〃’㈹r〃 ('nlames&HLldsIzIn, 1980) ,Ppl36, 153, 158 肌Ⅲ 他にLondon,Hertibrd,B,adlbrd,Tamwurth,ChesterなどがあげられるDCfRichardHumblc,刀疋廊"。/ Sax()FIEr'gl4'FId(StMartinPress, 1975) ,P,235. 』' ’ ブルフないしバラの歴史をたと§れば.それは9世紀半ばに始まるヴ7'イキングによる略奪にあiハ イングランドでは9世紀の後半になって南部の主要都市に防壁を購築するいわば「ブルフ政策」が |削始され、 さらにそうした安全な場所で継続的な礎幣製造が展開きれるようになった□ さらに’0 世紀になり前述の「ブルフ政策」が拡大されエセルスタン王の時代に「王国を通じて一つの通街の みが使川されること そしていかなる者もボルト以外において鋳衡を製造してはならない」ことが :ii告され.法典上にもあらわれ.新設のバラを造幣所(ミント) としたため、 その数と分布が拡大 きれたという経緯がある。
II ÐELSTAN, 14.Bemyneterum.Dridda: IxEtanmynet s)'okrealldfescyngesOnweald: -7nanmonne
myntrtigebutoncnpO1・t. . . 、 62.…eliestopamo6rumburguml.、Athど]stan,sLawi l4.,Cofg,amingmontayerS
Thirdly, (hat ther,B Istobeonecoinageoverall theking'sdominion,nndnconeistommtmone)'Except ina tcwI1.…14.2.…othiarwIseintheotherbomughon巳、DorothyWhitelOCk(、ed),E噸J芯ノIHj5m〃mjD“l""“芯,
I6o 研究ノート
1
I!
醇樹 図7 Bvrthnoth像(筆者撮影) 身分上セイン(thegns)や事実上々立場にある人間は貨幣 に関して熟知していた。即ち を打刻する技術も心得ていて 配られていたかもしれない。 「貨幣製造所」において造幣人としてその技[=打型]を 彼ら造幣人の多くは,過去20年以上にも前の状態と比較す ると貨幣がもっと均質がとれていたということに気づいていた。少数の者たちは. イン グランドがヨーロッパの他の地域と比べてとても良質の貨幣が造られていたという評価を 与えている。その意味でエドガー王(957/9-75)の時代の貨幣制度とはまったく異なって いたのである. と。 さらにブラックバーン氏は続けて次のように述べている。即ち. 当時の貨幣は理論的 には英国全域における「法貨」 (legaltender)ではあったが.地域によって偏差があった こと。そして刻印もrexA".2IorI"打に標準化されてはいるが.4"giorI"打に標準化されてはいるが 10世紀の第2-第3四半期に かけて. ゆっくりとした形で重量の基準が下落し ペニーが1 。659から1458へと下がっ ている。その一方で90%強の基準から60%もしくはそれ以下に下がっていること。そし てこの時代にはモールドンを含も47カ所のミントが改革にかかわっている。エセルレッ ド11世の時代にはそうした改革に75カ所もミントが関わっていたのである(22) ・と。 ところで私はこのたびのモールドン現地調査から戻った後「ロンドン大学歴史研究所」22 Cf,MarkBlackburn, JEthelred、SConageand!hePaymentofT[ibute, :DonaldScragg(ed.) Y71EB""leq/
アングロ・サクソンイングランドとウァイキング 161 で渡英最後の数日間を研究成果の整理に充てる機会を持った。その際に同研究所において 偶然手にした近刊の定期刊行物"ノ”r師卸ノO/.MEDIEMALHISTOR1"',vol.38Number2, 1une, 2012 (Routledge)のなかに, 貨幣史に関し筆者がかかえる問題に承唆を与.える一つの興味 ある論文を読むことができた□それは, やはりイギリス貨幣史を扱った品近の研究論 文cj'で¥ 12世紀にカンタベリー大司教であったアンセルム (AnSelm,1093-llO3)の貨幣 政策を論じたものであった□ この論文によれば, アンセルム大司教は自らが貨幣発行権の 継承者として当時3名の造幣人に責任を持つ立場にあったこと (p. 172) , また彼の関心事 は大陸との交易に大いに配慮した結果カンタベリー・ ミントの場合には主に大陸で発行 された貨幣(コイン) との交換に重点を置いた貨幣改鋳(re-cDinage) を採用していたこ とが述べられていた。換言すればカンタベリーでの改鋳には量目や品位の向上が認めら れるということなのである“。 しかしそれならば, 12世紀のイングランドに関わるこうし た具体的事例が示すように, それに先んじる11世紀に関するエセルレッド11世の貨幣政 策に関してもその同じ脈絡で・ 1-分に説明できることになるのだろうか, というのが私の素 朴な疑問なのである。 もちろん 上掲の論文においてはカンタベリー大司教アンセルムが 関わった貨幣政策の具体的事例に言及しているが.実は冒頭部分には筆者の期待できる内 容もあった。即ち, 西暦c.973 1058にかけてのアングロ・サクソン貨幣(コイン)の産 出高についてみると. エセルレッド11世の時代とクヌート大王のもの, とりわけ(crux) (c.991 997)及び:quatrefbil' (c、 lO17 1023)が最大量に達していたとしていることなので ある[〕その根拠として古銭学者メトカーフ (MichaelMetcalf)の主張を引用し次のように も述べているからである。つまり, 彼はこうした二種類の特徴的なコインが, それぞれ
'] Gll,asE.MGaspIarandSveil]H.Guilbeck, $GMone),anditsuse inthfthQughtandexperiel](geofAnSElm
archbiShOPofCanterbury (1093 1109) ''トノpIjrn(コノツMEdie叩IHism";V01 . 38,N●2, JLIne2012,ppl55-182、
因みにこの論文の著者の一人であるSveinGLIllbeck氏は同学術雑誌において以 ドのように紹介され
ている。即ち、 AssociateProfEssorattheDEpartmentofArcha,aology,MuseumofCulturalHistor)WUnWof
Oslo. また、彼は"specialistonVikingandmedievalcoinageandthehistor)「 ()fm(mey''とある=
コイ このことに関連し, 「日本西洋史学会」 {2012.5 11) 中世史部門においても興味ある報告があった、 それは鶴烏博和氏による「長い1 1世紀のイングランドにおける貨幣製造人のI阯界」である,同氏 の報告はその中心を王にケント地方におかれてはいたが973年以来エト,ガー壬以降に統一的歯幣 制度が徹底され. 一王国一通貨ともいうべきペニー貨はその商純度のゆえに_化西ヨーロッパ経済│観 で受容されたということを強調きれたのであった、 この点について私はヴァイキングとの矛『利を目 的に支払われた大量のデーンケルト {Danegeld)の存在をふまえれば. 当時の貨幣改鋳は結果とし てその肘,位(ないし拭月)の低下をもたらしたと見ることができないかという趣旨の質問を試みたゴ しかし鶴島氏はエセルレツド11世の時代でも. むしろペニー蛍の品位は高まっている口即ち、王権 して‘ 私の考えを褥定さオした による貨幣政鋳は むしろ貨幣の品質向上へと指向しているのだと しかもそうした貨幣改鋳において必用とされた索材としての「銀」の大部分は大陸からもたらされ たものであると補強された。西洋中世経済における「銀」の俄給がほぼ大陸(ドイツ )の独占する ところであったことは知られているのだがしかしもしそうであったとするならば、 インケラントキ が必要とした大鼓の「銀」入手への支払いないし代償は一体何であったのか, そのことがいま少し 明確に示されるべきでなかったろうか、
〆 I62 研究ノート 400,000,000∼470,000,000枚の規模で発行きれたと推計しているのである樫5 と。一体,筆者 の考察対象であるエセックスのモールドンに存在したものを含めこの時代の造幣所(ミン ト)の役割をどのように考えたらよいのであろうか。 つまり,宥和金デーン・ケルトについてその支払い金額が公的に「アングロ・サク、ノン 年代記」に記載きれはじめるのは本稿が扱う 「モールドンの戦い」があった991年以降の ことで, その時以来1081年にいたる28年間だけではあるが, この『年代記」に記録され た数字だけでもイングランドは実に195,000ポンド(別の写本によれば240)000ポンド余り) という巨額の貨幣がヴァイキング側に支払われた'26'ことになっているからである。 確かに, この時代の北欧スカンジナヴイア地域においてアングロ,サクソン貨幣が大量 に出土することが知られてはいるが, そうだとすれば, 当時のイングランド側には更にこ れを上回る大量の銀貨が製造きれていなければならないであろうし, 当然それを必要とし た商品流通の実態と貨幣それ自体が存在していたと見なきねばならないであろう。因みに, ロウソン (M.K.Lawson)はデーン・ケルト支払いの全てが貨幣で支払われたということ はあり得ない'』71 と主張しているし, マーチン・アレン (MartinAllen)は10-11世紀にお けるデーン・ケルトの時として大量の支払いに関しては教会が重要な貢献を果たしたろ う“' , とも指摘する。そのような見解は, サイモン・ケインズ(s・KEvnes) も強調してい るわけで 当時の教会によって保有きれていた金や銀塊,宝石や教会のプレートに加え, その他の金属製品などの全てが考えられる支払い手段であった」3,! ということが示唆され ている。 従って エドガー王の時代からモールドンには造幣所が存在していたのではあるが, そ こでの貨幣製造を含めてエセルレッド11世統治の時代に採用された「貨幣政策」の性格 については, こうしたことにも配慮した更なる検討・評価されねばならないであろう。 ]g MichaelM巳にalf℃DntinuityandChangeinEnglishMonElar)「Historyc.973-1086(Part l) '、Brj"s/1M"池J‐ 〃岬"cノ皿{mfJI(1908),20-49IMIchaelMetCalf:ContinuityandChangeinEnglishMonetaryHistor)『に.973 (Parl2)'Bri"sノ1Mィ加蒔"岬#ごノGI〃”ノ (1981) ,52-92 (鐙 “) Jh CfAngIoSax・nChro'licle,991,994, 100Z, 1009、 l〔)14, 1018>DoT・thyWhitelock(、ed,),E噸"SノIHjsZ[〕rjmノ DocI4P7'EF'15 (EyreMethuen,l979),PP.234251.
!'7 IVlK.Lawson,"Thosestorieslooktrue'' ; level taxationinlhereignsofJEthelredllandCunut'',Eflg"5ノ1H芯一
mri"IRE''iewlO4, (1989),p.404.
i2H MartinAllen,Mn癖"IdMIJFIり'か'MEdiE1'm/Engl'JFTd(CambridgeU.R,2012),P.278.
口u SymonKeyntJs,ContextofthebattleofMaldon, 1nD.GSEragg(ed) ,W1fJBfJrrle。/Ma"oHAD99I (Oxfbrd,
アングロ・サク・ノンイングランドとヴァイキング 163 6. まとめ 以上これまでいくつかの視点から少し<考察をしてきたが「モールドンの戦い」 とい う出来事に関してはその解釈をめ〈"って今なお疑問が残らないわけでない。 これまで本文の中では述べなかったが. 例えばこの出来事がおこった年代それ自体に関 しても 「アングロ・サクソン年代記」の脚注にもあるように991年ではなく , むしろ993 年であった'3(Ⅷとする主張きえみられる。 さらにこの戦いが実際におこなわれた場所そのものについて異論があることは既に述 べたとおりである□たまたまモールドンで筆者の案内役をつとめてくれた地方史研究家ナ ン氏(StephenPINunn)の説明には無視できないところが多い。つまり, 1千年以上も昔 のモールドンは入江の奥まった場所(=Heybridge)が中心なのであり,しかもロンドン・ロー ドに連なるサクソン時代の防御砦(I)Mγ仰) にそこが近い。それなのに. ヴァイキング軍の 直接の攻撃目標であったと思われるその‘‘戦闘地点,,がなぜここからはなれて距離のある 町はずれの場所でなければならないのかというのがS-ナン氏がモールドンで筆者に語っ ていたことである。 帰国陵に, 「モールドンの戦い」に関しかつて地元紙に執筆していた記事']! 'のコピーが 彼から再び私あてに送られてきた。英国の著名な歴史家にあっても中には現地を見ないで この問題を扱っている場合があることに常々疑問を抱いると語っていた同氏にとっては, 筆者が現地確認のために遠路はるばる訪ねて行ったことを評価してくれたからかも知れな L1 ,』 、 それによると.サクソン時代の砦(帥rh)は"Panta'sstream'' (theRiverBlackwater)によっ てモールドンから隔離されていること. そしてHeybridgeからモールドンにいたるルート は今でも #thecauseway'' {the"bricg'' ?) と呼ばれていて, 百年前までは湿地帯(ma,・shland) であったところを横断している。 ざらに, 近くには死者を弔う記念に建てられ当時まで時
代を遡れるSt・Andrew教会がある。 これは後の1016年における「アッシンドンの戦い」
IBatleofAshinndon) ]2'の事例と同様である. と結んでいる。
BM CfDorothe)"Whitelock(ed)E轤ノハノIHisIDrimノD[]“ME"おvol.l,p_234,thefbotnotelfbr (A)
991iPro-fgssorCampbellcalledmyattentiontoacaretmarkDver991, shGwingthescribe>whoaddedthisannalaiter
thenumberfrom989to992hadbeenwrittEninahorizontal line,with993asthenextmarginalnumber,
meanttheentrytObelongtD991. Theannal thIsI・eibreisevidencefbrthepresen,aEofOlafTryggvason, later
kingofNoTway,atthebattleofMaldon.
3' WAS〃REALい' ‘THEBATTLEOFHEYBRIDGE, ? Maido、,sBIoodVen,ごounterGf991 byStePhenP
Nunnl2/3/2004
'64 研究ノート いずれにせよ, 「モールドンの戦い」はその出来事があってから1千年以上経ても, こ のように今なお議論の的になっている。 また,伝説・伝承の形成に関わる別の一次史料や それを説明できる考古学的証拠の新たな発見は恐らくできないであろう。それでも,エセッ クス州の当地モールドンの歴史においては確かにあった著名な出来事として, とりわけ地 元の人々の記憶のなかに残されている事柄なのである。 7. 参考史料 'IExtofTheBattleofMaldonfromtheeighteenthcenturytranscript'JJ brocenwurde Hetl)ahysSahwaane horsfbrlastan, fborafysan (z"dfbr6gangan, hicgantohandum"(it{o}higegodum. l>la卜彪rOifanmaag Eerestonfunde, l)"seeorlnolde yrh6ogebolian, helethiml)aofhandon leofneneogan, hafbcwi61)aasholtes, ['"dtoixErehildestop; bel]a"1manmihteoncnawan l)"secnihtnolde wadall記中a"'wlilge, しahetOwaSpnu"I fen9. Eachi"'woldeEadric hiSealdregelfEstan, freantogeltohte; onganl]afOr6beran gartoguレe; heh縄megodgebanC l>ahwilel)ehemidhandum healdanmihte bOrdiZ"bradSwUrd; beOthegelfESte l)aheastibranhisfrean fbohtansceolde BalxerByrhtno6ongan beornastrymian, rad"ldr2edde, rincumtrhte huhisceoldonstandan a測坤onestedehealdan, α脚創brdl)cEthyrarandan rihteheoldon, itEstemidfblminn, "1dnefbrhtedonna. PahehEeftiel)"fblc fEgere8etry"imed, helihtebamidleodon bEerhi'"leofbstwaas, b記rhehisheor6werod holdostwiste. Pastodonstaz6e, sti6liceclypode wicingalar, wordummrlde> seonbeotabead bri"'lil>endra
H.R.Loyn, '"花崎kiIIgJJ IFIBr""1 (B.T:Batsfbrd, 1977) 、pp.90 91
H DG.Scragg(ed),WIEB[l"IEq/Mm"DFIAD99I (BaSilBlaCkwell,1991),pP.l830. なお
る現代英語の対訳部分は省略し 本稿掲赦にあたり古英語詩のみを新たに打ちil'Iした
'61 アングロ・サクソンイングランドとヴアイキンケ 露rfendetol)ameorle l)asrheonofrestod: :Mesendontobe stEmenSnelle, heton6esecgan l)配中umostsendanra6e beagaswiagebeDrge. AFIdeowbetereis l>(Ergel)isnegarrfss midgalblefJrgyldon Ponlnelweswahearde lhilldedm1on. Nel)urfeweusspillan gifgeSpedal]tOl)am: wewilla6wi61)amgolde gri6ftestnian. Gyfl)ublagltgerrdeSt Peherricosteart, b彪巾ul)ineleoda lysanwille, syllans記mannu"2, onllyrasylfradom, feohwiafreode, "FIIJnimanfriaastus, wewillal>midbamsceattu"! ustoscypegangan, onilotltran, "fieowfril)eshealdanl Byrhtno6mal)elode, bordhaftnode, wandwacneiEsc, wordummrlde, yrre"ldanr記d ageafhimandsware: 4Gehyrstl>u,sEelida, hw錘tbisfblcsege6? Hiwilla6eowtogaf)le garassyllan, irttrynneord ""ealdeswurd, baheregeatubeeowa3thildenedeah Briff1mam'aboda, abeodeftongean! Segel)inu"1 1eodu"! micclelal)respel1, I>"rherstyntunlt)rcu6 eorlmidhiswerode, Pewilegealgean ebell]ysne, zEIJelredeseard, ealdresmines fbk"dfbldan. Feallansceolon h"l]enefethilde・ Tbheanlicmebince6 i]IErgemiduru"Isceattu'" toscypelgangon unbelbhtene, nugel)usftorhider onumeeard inbecomon Nesiseoleg'aswasoife sincgegangan: usscealordfJPIde'gg "rgeseman, gri"IguaPlega, "r[wlegofblsyllonj Hetl)abordberan, beornasgangan, I)"hionlJa"'easte6e eallestodon. Nemihitel>agrfbrwfEtere werodtolJanlo6rum: l)rrcomHowende nodasiterebban; luconlagustreamas. Tblanghithiml]uhte hwagnnehi togasdere garasberon.
166 研究ノート HihferPantanstreammidpraSSebeStodon, Eastseaxenaord im(iseasSChere; nemihtehyrafEnig ol>ru"'derian butonhwal)urhilanes iyhtlylgename. Selodutgewat. l]anotanstodongearowe, wicingafela, wigesgeorne Hetl>ahirle6ahleo healdan1Jabricge wiganwigheardne sewiEshatenWuliStan, cafnemidhiscynne -'"wfEsCeolanSunu-IJe6onefbrmanman midhisfranca"ofSceat l>elxerbaldlicost onl]abricgestop. IxErstodonmidWulfSta"e wiganunfbrhte, 妃眠re""(IMaccus, modigetwegen, l)anoldon2ctl)ai"1brda llca"'gcWrcan, a,chiftEstli,ce wi66afVndweredon レahwilel)ehiwagPna wealdanmOstOn Pahil>"ongeaton ""dgeOmegeSawon, IJ"hiし露rbricgweardas biterefimdOn, ongunnonlytegianlJa la6egystas: basdonl>"hiuPgangan aganmoston, oltrbonefbrdfaran, fel]ankedan. Daseeorlongan fbrhisoitrmode alyfanlandestofela laIJere6eode; onganceallianlJa ofercaldwrter Byrhtelmesbeam (beomasgehlyston): :Nueowisgerymed: gaaricencetous gumantogul)e・ Godanawat hwai>aarewaslstowe wealdanmOteノ Wodonl)awIElwulfas, fbrwfeterenemurnon, wicingawerod, westoferPantan, oferscirwaater, scyldaswegon, lidmentolande lindebaaron. IJErongeangramu"1 gearowestodon Bvrhmo6midbeomum. Hemidbordumhet wyrcanlJonewihagan q"db"werodhealdan ftestewi6fEondu"' I)awfEsfle]ohteneh, tirEEtgetohte: wiEssEGtidcumen i{rrbiErfEgemen fEallansceoldon. lxerwear6hreamahafbn; hremmaswundon, carna3scslgcorn; wa3soncorl)ancyrm.
,6'7ノ アンケロ・サケ、ノンイングランドとヴァイキング Hi letOnl]aoffblman feolheardesperu, Igrimmelgegrundene garasHeogan. Boganwagronbysige, bordordonfeng. Biterwagssebeadurass; be・rnasfeollon ongehwas6erehand,hyssaslagon. Wundwear{61Wulfmaar, waalragstegeceas, Byrhtno6esmEEg; hemidbillu"Jwear6, hiSSwustersunu, swi6eibrheawen lxerw;fer{6]wicingu"1wil>erleanagyfen: gehyrdeicl]"Eadweard annesloge swi6emidhisswurde, 5wengesnewyrnde, I)"him"tfbtu"'feoⅡ駐gecempa-l)feShimhis6eoden bancgesigede, IXI"'burl>ene, i)ahebyrehaafde. Swastemnetton sti6hicgende, hysasirthilde, hOgodongeome hwal]fermidorde 記rOstmihte onfkEgeanmen feorhgewinnan, wiganmidwEEPnu"1. Wtelfboloneor6an. StOdonstasdefWste, stihtehiByrhtno6, bazdl]"hyssagehwylc hogodetowige beonDenonwolde domgeたohtan. Wodjawigesheard, weepenupdhof bordtogebeorge, ""[Jwi6I)EesbeornesstoP Eodeswaanr記d eorltol)a"'ceorle: rgl)erhyrao6ru"' yfeleshogode. Sende6asesEerinc supernegar l)"gewundodwear6 wigenahlafbrd.
Hcsccafbamid6a"1scyldc Pcat l scsccaittobferst, ('"di]"speresPrengde lJ(ErhitsPrangongean. Gegremodwear6segu6rinc: hemidgarestaI唱 wlancnewicing l)ehi"'l)awundefbrgeaf Frodwrssefyrdrinc; helethisfiancanwadan burh6eeshySSeshals; handwiSode bfEtheonba}郡鮭rscea6an feorhgerEEhte. DaheolJerne ofstlicesceat b"seobyrnetobeerst hewfeSonbreostu"1wund l]urh6ahringloca";hi'"龍theortanstod irtterneord. Seeorlwirsl)eblil)ra: hlohbamodiman, sasdeMetodel)anc
Ⅱ68 研究ノート
6aasdEEgweorces l)ehi"IDrihtenfbrgeaf Forlet l)adrengasu"! daro6ofhanda, Heoganofiblman, l)"setofbr6gewat Purh6one記l)elan, JEI)elredesl)egen. Himbehealfbstod hvselinweaxen, IgnihtongecamPe, sefullcanice brfedofl]ambeorne blodignegar, WulfStanesbearn, WUlfmrrsegeonga; fbrletfbrheardne faraneftongean: ordingewod l]"seoneorl)anke8 l)ehislJeodenaar l>earleger記hte. Eodel>agesyrwed secgtol]ameorle; hewoldel)agsbeornes beagasgefecgan, reaf"""hringas, ""dgerenodswurdl l>aByrhtnO6brfEd billodSce6e bradq"dbruneccg, [1"donl>abyrnansloh. Tbral)ehinegelette lidmannasum, しaheP露seorles earmamyrde. FeOllPatOfbldan italohilteswurd: nemihtehegehealdan heardnemece, waJpneswealdan. l]agytl)"wordgecwfe6 harhilderinc, hvssasbvlde,苧 ” b記dganganfbr6 gcdegefEran.
NemihtePaonfbtu"' leng fWstegest!aindan; hetoheoftnumwlat IIcIgePancel]e, 6eodaWaldend, ealralxEra,Wnna beiconworuldegebad. Nuicah,mildeMetod, m"stePearie h"l)uminu'"gaste godesgeunne, l)"minsawultoae sifiianmote, onl]ingeweald, l)eodenengla, midfril)efbrian. Iceomfi-ymditolJe l)"hihelscea6an hyanannemoton! Dahineheowon hfE6enescealcas, 。"(Jbegenl>abeornas l>ehi"'bigstodon, :Elfn(E)6"I(JWulmfEr, begenlagon, 6aonemnhyrafreanltorhgesealdon. HibugonlJaiTambeaduweレel]記rbeonnoldOn し鑓rwurdonOddanbean iErestonneame, Godricframgul)e, '"dbonegodanfbrlet
169 アングロ・サケ、ノンイングランドとヴァイキング IJehiwimrnigneoit meargesealde; hegehleopし。nceoh IJeahtclhishlafOrd, onPa"'ger記du"', I)ehitrihtnewfes, ""dl'isbroarumidhimbegenfErlnldon, GodIwline""dGodwig, gulJenegymdon, aCwendonfra'"I)a"'wige ('"!北。newudusohton, Hugononl>"fkesten α"北yrafeorebl'rgon, ""mannama l>on"ehitaanigmige6waare, gyfhilJageearnunga eallegeml'ndon I)ehehimtOdugube gedOnhfEfde. SwahimOffaondirg ferasfEde onレa"1meしelstede, 1>ahegemothifeftle, ll"lXermodelice manegasprazCon IJeeftirtし記rifle l)oliannoldon. l]awear6afEallen'>fesfblcesealdor, 記しelredeseorl. Eallegesawon, heor6geneatas, l)"hyraheorralaag. ba6aarwendonfbr6 wlancePegenas, uneargemen efStongeorne: hiwoldonPaealle o6ertwega, liffbrlat(aln o"eleofhegewr'acan Swahibyldefbra beam"lfrices, wigawintrumgeong, wOrdummfElde, JElfwineレacwr6 (hecnellensprfEc): <Gemunlal)]bamiEla l)eweOiffEtmeodosprfrcon, I)on"eweonbence beotahofbn, hEEleaonhealle, ymbeheardgewinn: numaggcunnian hwacenesy. Icwylleminerl)clo callu"'gecyl)an, │ l>"icwfEsonMyrcon micclescynnes; wfEsminealdafkader Ealhelmhaten, wiSealdOrman wOruldgESIEElig. NesceolonmeonlXErel)eode l)egenasfetwitan "ricof6isseiyrde ltranwille, eardgesecan, numinealdorlige6 fbrheawen2ethilde. Meisl)"hearmamasst: hewiEsaag{6]erminmizEg"dminhlaibrd・’ I)ahefbr6eode, fteh6egemunde, I)"hemidorde annegerfehte, notanonl)a祝fblCe, P"rseonibldanlrg
I70『 研究ノート
lbrwegenmidhiSwwpne. Onganl>awinasmanian, frynd"!dgeitran, l)"hifbr6eodon.
Oflgemrlde, Escholtasceoc:
Hwagt, l)u,"lfwine, haftlsteallegemanode, I)egenastol)earfe. Nuurepeodenli6, eOrlOneoraa", usiseallu'71 l)earf b"ure=ghwylc ol)ernebylde, wigantowige, l)ahwilel)ehew"penm記ge habban"1fihealdan, heardnemece, garα"劇godswurd. UsGodrich記踊, earhOddanbeam, eallebeswiCene: wendebassfbrmoniman, ijaheonmearerad, onwlancanl]a"1wicge, l>"waarehitureblafbrd; fbrl)anwear6heronfelda fblctotwfEmed, scyldburhtobrocen. Abreo6ehisangin, l)"thchcr i swamanignc manailymde' LeofSunugemiElde, ""hislindeahOf bordtogebeorge; hel]a"'beorneoncw記6: :Icl)"rgehate, 11"icheononnelle Heonfbtestrym, acwillefi'r6organ, wrecanongewinne minnewinedrihten, NeしuribnmeembeSturmere stedefEstehEEl"6 wordu"1rtwitan, numinwinegecranc, h"ichlaibrdleas hamsi6ie, wendefra"1wige; acmescEalwEEPenniman, ord〃”irEnJ HEftllvrrewod, ftahtfestlice, leamhefbrhogode. Dunnerel]acwfE6, daro6acwehte, unorneceorl, ofbreallclypode, brdb"beornagehwylc Byrhtno6wrece: Nemeegnawandian sebewrecanl)enCe6 freanonfblce, nefbrfEoremurnan. bahifbr6eodon, fboreshinerohton; ongunnonlJahiredmen heardliceltohtan, gramegarberend, "IffGodbIEdo荊 b"hemostongewrecan hyrawinedrihten ""donhyraltOndu"' fylgewyrcan. Himsegyselongan geornlicefylstan;
アングロ・サク、ノンイングランドとヴァイキング 171’ hewassonNor6hymbron heardescynnes,
ECglafeSbearn, himwiEsJEsに崎6nama. Henewandodena astl)a"Iwigplegan, aChc l lysdcibr6 Hangcnchc;
hwilonheonbordsceat, hwilonbeomtize5de; "freembestunde hesealdesumewunde l>ahwile6ehewaspnawealdanmoste. IJagytonordestod Eadweardselanga gearo"ldgeornhll; gylpwordw71sPrEEc, I)"henoldefleogan fbtmagllandes, ofbrbEecbugan, l)ahisbeteraleg. Hebr&cI)onebordweall '"[fwi6l)abeOrnaSitaht, o61)"hehissincgyfm Onl)a"'S記mannu"『 wuralicewrec, EErheonwfElel9ge. SwadydezEl)eric, 2el)elegefEra, fusα"㎡fbr6georn, feahteOrnoste, Sibyrhtesbroaor; (1"swi6emagnigober dufbncellOdbord, cEnehiweredOn. BEErstbordeslasrig, "1fJseobymesang gryreleO6aSu"1. 1)aaStgu6esloh Offil)onesaglidan, l)astheoneor6anfeol], q"6fETGaddesmEEg grundgeSOhte Ra6ewear6EEthilde Oifi fbrheawen;
heh垂戯e6eahgehorl)od IxEthehiSfreangehet, swahebeotode&l・ wi6hisbeahgiftm l)fethiSCeoldOnbegen Onburhridan, haletohame, 066eonherecrinlclgan, OnwaglstOwe wundumsweltan. HelEEg6egenlicE 6eodnegehende. Dawcar6bordagcbrEc Bril"mcnlwodon gu6egegremode Garoftburhwod ftEgesltorhhus、 ForI6]6aeodeWistan, l)urStaneSSuna, wiabasSecgasfeaht. Hewaasongel)ranghyral)reorabana, izrhi"1Wigelimlesbearn onbar"waalelaage. bfErwfEssti6gemot・ StodonftEste wiganongewinne- Wigendcruncon wundu"1werige. Waalfeoloneorban.
172 研究ノート
OSwOld"㎡EadwOld eallehWile, beganl)agebrol)ru, beornastrymedon, hyrawinemagas wOrdonb記don h記thi lxErfEt6earfe boliansceoldon,
unwaclice wtEPnaneotan
Byrhtwoldmabelode, bordhafbnode,
sewassealdgeneat, fescacwehte;
hefi'lbaldli,ce beornaslirrde:
&HigesCeal lJeheardra, heortel)ecenre, modsceall)emare, beuremirgenlytlaa Herli6ureealdor eallfbrhea'iwen, gOdongreote. AmfEggnornian
Se6enufr愚"! IJiswigplegan wendanPence6. I亡eomimditores: framicnewille, acicmebehealitminu"1hlafbrde, beswaleofmmen, licganbencej Swahi"I)elgaresbearn eallebylde, Godrictogube. Oithegarfbrlet, waslsperewindan onl)awicingas; swaheonl)amfblCe fyrmesteode, heow""hynde, olall){どrheonhildegecranc Naasb"naseGodric レe6agu{6]efbrbeah.