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デンマークにおけるヴァイキング期の都市,リーベ(Ribe)について

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デンマークにおけるヴァイキング期の都市,リーベ

(Ribe)について

著者

原 征明

雑誌名

東北学院大学論集. 経済学

100

ページ

165-183

発行年

1986-03-01

URL

http://id.nii.ac.jp/1204/00024423/

(2)

「デンマークにおけるヴァイキンク'期の都市, リーベ(Ribe)について」

「デンマークにおけるヴァイキング期の

都市,

リーベ(Ribe)について」

征明

英文タイトル

OntheVikingAgeDaniShTown,Rjbe

次 . . 、 目 1 2 3 4 5 はじめに リーベの位俄とその諸特質 発掘の経緯と手工業的生産の証跡 交場拠点としてのリーベ おわりに 1 . はじめに 今日のデンマーク諸都市にあって, ヴアイキング時代にまでその起源を 遡りうる部市としては,本稿の考察対象であるリーベ(Ribe)をはじめと し, ユトランド半島やフュン島(Fyn),そしてジーラント島(Zealand) などにいくつか点在するI)ことが知られている。 l) 即ち. ユトランド半島では,上述のリーベの他にオーフス (Arhus), ヴイ ポー(Viborg), *-ルボ-(Alborg)などがそれである。まだ, フュン島の オーデンセ(Odense), ジーラント島のロスキレ (Roskilde), リングステッ } (Ringsted)などもそのように考えられている。CfMichaelKirkby,"JE Wル伽9s(PhaidonPress,1977),p.50.,JchannesBrBndsted,T"V"gS (PenguinBooks,1978) ,P.164. −165− 1

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「デンマークにおけるヴァイキング期の都市, リーベ(Ribe)について」 そして, リーベについては北欧史に関わる当時の少ない文献史料上でも, キリスト教の伝道者アンスガル(Ansgar,A"sgizγ")が, 9世紀中葉(=860 年頃)に王(=KingHoriktheYomger)より教会建設の許可を得て,そ こに土地を与えられた2)場所として述べられてきた。 それゆえ, ヴアイキング時代に在ったリーベの具体的場所を発掘し, こ れを確かめようとする試みが従前より考古学者達によってなされてきたの だが,最近の成果をふまえると,そこで明らかとなった当時の都市集落が, 上述の史料的記録よりなお古く,既に8世紀の時代に遡る3)ことも分かっ てきた。 かくして, リーベは筆者の旧稿4)で扱ったヴァイキング期のへデビュー(HBiebM Htz繩a624)と共に,デンマークにおける最古の都市集落として位置づけら れるものといってよいだろう。加えて上述のへデビューが交易拠点として の重要性を当時有したにもかかわらず比較的短命で, 11世紀の中葉に放棄 され5), その役割が今日のシユレスヴィッヒ (Schleswig)に継承 2) 即ち,例えばリンバート (Limbert)の手による「アンスガル伝」 (随雌A靴一 s"カ/, 32)においてなのである。魔加bejfiVirmA錨“だf&MMa鱗鰄A"" B蕨”肥旙fs..Gどs"""加加abZ"漢鋸歯ECcJESfizePC"""", inR.BuChner(ed.), AzfsgFMノ"〃た“ど"E虹z脚r娩卿なc鯉列Gesc"c〃たfiesM"eltz/た応XI (Berlim, 1961),およびH. J.Madsen,A"SgzzγなC"左s-missionarytotheVikings (ForhistoriskMuseum,MoesgArd,1977),P.3.,EIseRoesdahl,W玲疏gAgw Deww"(BritishMuseumPubUcation,1982) ,P.77 3) この点については後述されようが,さしあたりCf.KlausRandsborg,Tノzg W冷かlgAgE"DE"""(St・Martin's, 1980),p、72. ,D.M.Wilson(ed.),TノJE AノひカノiETTzWbγ随一TheHistoryandHeritageofNorthernEuropeA.D.400-1100(HarryNAbrams,1980),p.152. 4) 拙稿「ヴアイキング期デンマークにおけるヘデビュ-(Hedeby)の諸相」(「東 北学院大学論集j経済学,第90号所収), 17-39頁。 5) 即ちそれは,へデビューの破壊によるのだが, このことに関わる政治的事 件は1050年におけるノルウェー王ハラルド(HaraldHardrada)の攻撃であっ た。その軍勢はスヴエイン王(SveinEsmdsson)の手薄をついてへデビューを 掠奪し, 火を放ち, この都市集落を灰壗に帰せしめたといわれるが, このこ とは考古学的証跡とも一致する史実のようである。 Cf.JohannEsBrgndsted, ". cfr.,p. 153. ,GwynJohnes,AHIsZD秒qf"ZEV辮押綴(Oxford, 1969),P. 181.,RudolfPoertner,"JeW""gs,RiseandFallsoftheNorthSeaノ, 。

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「デンマークにおけるヴァイキンケ'期の都市, リーベ(Ribe)について」 されたのに対し, リーベの場合, ヴアイキング時代に帰属するその場所が ● ● ● 後にその「中世都市」の一・部に座錠で包含されていく点にも特徴がある。 そして, リーベは後述される様に当時の国際的鞍交易拠点としての意義を 有したのみでなく, それ自体, 樋々の手工業的生産の苗みを有した都市集 落なのであった。更にまた, ここが北欧における初期キリスト教の一拠点 としてその役割を担っていたとみなされることも,既述の通りなのである。 華著の知るかぎり. わが国ではヴァイキング期のリーベについての研究 は, これまでも手薄な状態にあると思われるので, いま西欧の諸先達によ る研究の中に散見されるリーベの記述をもとにして, 以下,少し<考察を 試みようとする次第なのである。 2. リーベの位置とその諸特質 さて,極めて大づかみにいえば当面の考察対毅であるヴァイキング期の 都市集落リーベ(Ribe)は, Fig. 1にみられる通り,ユトランド半島の西 海岸にあり,筆者の旧稿が扱ったヘデビュー(Hedeby,""""純b脚)との関 係では更に北の位置をしめていた。これを詳細にみるならば, 当該の場所 はユトランド半島の内陸から北海(NorthSea)へと流れ出る同名の川, Ribeの河口から約6kmほど遡上した中流域にあり, その支流との合流地 点にもなっていた(Fig.2参照)。そして,地質学的見地からすると, 周 辺は比較的広大な砂地・革地・沼沢地をもって構成されているわけで, そ うした事実は既にヴアイキング時代が至l1来する以前より 「家畜の飼育」を 主たるものとする農業的定住の初期的形態の存在をこの地域に可能ならし めていた。後述するように,われわれはヴァイキング時代のリーベにおい て展開された注目されるべき種々の手工業的営みのうちに,皮革加工や毛 織物生産の存在を認めるが, それらに必要な皮革素材や羊毛原料は, そ N'Kings(St.JamesPress,1975),P.200. ,HerbertJankuhn,H""純",Ein HandelsplatzderWikingerzeit (KarlWachhcltzVerlag,1976),S 273. 3 −167−

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「デンマークにおけるヴァイキング期の部市, リーベ(Ribe)について」 fBi雷1Wp’ ●M■「k峠’ ○crnt『唾 withH ] I ■z“■t剴 klU0rmh Skanc

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B⑥「、胸1m BdllicS ノ W0I1m (1 試睡 一 Fig.1.Scandinavia P.H.SawerKJJVCS""dWKINCS(Methuen,1982),p.l1 の供給において上述の地理的環境と適合的な関係にあったように思われ る。 もとより, こうした状況は河川Ribeの流域に限らず認められ, それゆ え, ユトランド半島で北海に注く 諸河川沿いには,鉄器時代に遡る集落跡 が極めて多く発見されている6)。 一方,その後背地(hinterland)をともないつつ内陸に切れ込むRibe川

6) Cf. JOrgenJensen, TノiE乃氾力ZstuFyqfD"m"h (Methuen,1982), pp.

210-211.esp.Fig_67.DistributicnofthelronAgesettlementintheRibe areainSOuth-weStJutland. また, リーベがライレ (Leire)と共に極めて肥

沃な場所であったということは, ロイン(H.R.Loyn)も指摘するところであ

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「デンマークにおけるヴァイキンク'期の都市, リーベ(Ribe)について」 恥爾 Siedlul'g d“8.−11.Jh … Burg LH,d SIcdlung3eil deml1,JI'. Fig.2.RibeinNordjutland J.Hernnan Wi師邦醗rrJFiffS"""-ZurFrugeschichteder Ostseevolker(Akademie-Verlag, 1982),p.99. は, これを通じて船が北海に乗りだすことを可能ならしめていた。それは

また, 西ヨーロッパの主要な諸河川-Elbe,Weser, Ems, Rhineなど −につながって南下する海上経由の当時重要な交易ルートと接続してい たことを意味するから, フリージア商人らが, これを利用してヴァイキン グ期デンマークの都市であるリーベに到来していたに相違ない。このこと についても後述の考古学的証拠で明らかにされようが, 因みに彼らについ ては7世紀中葉以降その能動的な商業活動を腫範に展開し, とりわけ北海 ・パルト海貿易で, いわばその「海上覇権時代」を築いていた7)点が想起 7) スカンジナヴィア地方とフリージア商人の関係を論じたものは少なくなz■ -169- 5

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「デンマークにおけるヴァイキング期の部市, リ-'<(Ribe)について」 されるべきだろう。 しかし乍ら, 従前はそうした商業活動との関連で, ユトランド半島北端 のリムフィョルド(Limfjord)を通過してカテガート (Kattegat)海峡にぬ けたり, あるいはまた,へデビューとシュライ (Schlei, Slie)フィヨルド を経て,バルト海諸地域へと指向するスカンジナヴィア交易ルートの存在 が強調されていたようにみえるのであるが, リーベに関する考古学的調査 をふまえた研究が進むいま,西欧との接触点として, ユトランド半島の西 岸に位置した当該場所の存在意義が,それゆえ, 少し<問い直されてもよ いだろう。 3. 発掘の経緯と手工業的生産の証跡 さて, そもそもヴァイキング期の都市集落リーベについて, その最初の 組織的発掘が行なわれるようになったのは比較的最近のことである。その 作業は先ずステイースダル(HansStiesdal)氏を中心として1950年代に開 始され, 次いでベンカード (MorgenBencard)氏に継承されていくのだ が,彼らがこのヴァイキング時代の都市集落に出合うようになったのは 1970年代に入ってからのことである8)。即ち, 1973年から75年にかけての 発掘で今日の都市リーベの郊外に居住地跡と共に,手工業と交易の広範な 展開を物語る豊富な出土品をみた9)のが契機となったわけである。ヴァイ 、‘いが,例えばB.Rower,DfEF"EsiscJzEHfz"eノ紬/減ノl"Mf"E""(Kiel, 1937).,ElisWadstein,"OntherelationbetweenScandinaviansandFrisians inearlytimes"azgE=B"hq/"ie嘘ル"gSDcjEりんγⅣ0汀雌rTzRESe花"vol.X1 . , 1928-36, pp.425, 8) OlafOIsen,.TheMedievalTown-AHistoricalArchaeologicalProjectini-tiatedby theDanishReserchCouncil for theHumanities' ; inNiels

Skyum-Nielsen&NielsLund(eds. ),D"ishMM"""JHis"フハノセ抑C脚か裡祁応 (MuseumTusculanumPress,1981),P.139. 9) OlafOIsen,肋鉱,p、 143. ,D.M.Wilson(ed.),ThEAル]汀舵糀Wりず鰯一The HistoryandHeritageofNorthemEuropeA D.400-1100 (HarryN.Abrams, 1980), p・ 152.,ElseRoesdahl,W酎打9AgEZ)f蠅加切戒(BritishMuseumPublica-tion, 1982),p.77.

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「デンマークにおけるヴアイキング期の部市, リ-'< (Ribe)について」 キング期に属するその蝦早期の居住地は, 今日の都市リーベの中心部から は少し外れ,川の北側に位置していた(Fig.2参照)。 しかも, この場所での居住跡は, そもそも,発掘にたずさわった考古学 者達が当初予測していた以上に古く,ベンディクセン(KristenBendix-en)の検証によると出土品たる多数の貨幣一シアッタ (s"","""Us)か らみて, 8世紀中葉(750年頃)以前からの定住を示しているものとみな された。もちろんこの点は, そのほか最近になって行なわれた「年輪によ る年代決定法」 (dendrochronological results)によっても確認された'0) と ころなのである。 そこで,以下, 出土品などの情況を手がかりとして, この場所にみる経 済活動について検討を加えていくことにする。 その交易拠点としての在り方については後節で扱うとして, まず, ヴア イキング期のリーベについていえるのは明らかに職業的に専門分化した広 範な手工業的営みの展開がうかがえる'')ことなのである。例えば, リーベ では青銅部,の鋳造や金属加工が行なわれ, また,卓越したガラス製ビーズ ・競珀製ビーズなどの装身具,楕円形ブローチ(oval brooch)の製造はも とよりのこと,櫛・靴・織物その他のものが, いわば当時の「安価な消費 材」として'2}生産されていたことが指摘されてよいだろう。即ち,青銅 の鋳造についていうならば, 発掘区域からは, るつぼ(crucibles)や輪, それを保謹する粘土製の遮蔽物を備えた'」、さな窪地が現われた。また,そ 10) OlafOlsen,". cW. ,p. 143. 11) 因みに,ヤンセン(J. Jensen)は考古学者としての立場からこの点にふれ, 既に8世紀の時代にはユトランド地方においても手工業者の増加に結果した 「生産の分化」が開始され,それがリーベやへデビューのごとき「新しい定 住様式」の存在を可能ならしめていたとし, 9世紀を経過するうちに, そう した都市的な櫛造をもつ定住がさらに進展した, と主張している。 Cf. JorgenJensen,Tノ1‘乃芭hiSicn'q/""加α戒(Methuen,1982),p.220.,D.M. Wilson,dp.cir.,p. 152. 12) OlafOIsen,QP'"., p. 143. , また,櫛に関してはK.AmbrOSiani,W師就g JIgE o"bs,CombmakingandCombmakerSintheLightofFindsfromBirka andRibe(StoCkho1m,1981). 7

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-171-「デンマークにおけるヴァイキング期の郁市, リーベ(Ribe)について」 こにはスラッグ(slag), つまり熔樺が認められたところから, それが青 銅の熔解炉ないし鋳造人の仕上偶場であると断定されたわけである。 加えて, そこからは粘土製鋳型のおよそ2,000個の破片も出士したが, そのすべてが二つ割の鋳型(doublemoulds)のものに他ならなかった131o 中には,楕円形ブローチや馬を形どったブローチ製造用の鋳型に加え,鍵 用のものなどが若干含まれていたのだが, ともあれ,それらによって作り 出された製品は, デンマーク地方の少なくとも数ケ所で出土品として検証 されているという。因みに,楕円形ブローチなどは北欧の婦人達が衣服の 襟止として好んで用いたものであるところから, まさにスカンジナヴィア 諸地域向けの商品として生巌されていた'4)ことは明らかであろう。 第二に, 1970年代におけるリーベの発掘では, 装飾品たるビーズ (beads)製造に関わる種々の道具類と共にガラス片の堆積物が散征した仕 事場が二箇所において発見されており, この種の生産もその専門化した職 人達によって担われていたことについて疑いの余地がない'5)。おそらく, ここでは単色ビーズをはじめ, 裡雑な模様と色彩を施された「モザイク ・ ビーズ」などが製造されていた!‘)わけである。 ただし, これらの素材たる原料ガラスやモザイク片(/"s"")などは,

13) H. J. Madsen, AAISGER'SCITIES-Missionary to theVikings (ForhistoriskMuseum,Moesgard,Denmark,1977),p.14.,EIseRoesdahl,

妙.α/,,p. 104,

14) RoesdahlいわくⅢ 「・“リーベの手工業苫によって作られた楕円形ブローチ

は,この国〔=デンマーク〕た肱に分散しているようにみえる。」と。鰯d., p91 15) E.Roesdahl, ib",p・ 103.,H.J・Madsen、".c".,p. 14. ,D.M.Wilson,".

cfr.,p. 152. 16) 当時におけるモザイク ・ビーズの製造方法などについては, Cf, E. Roesdahl,".c".,pp. 102 103. , JamesGraham-Campbell,DEsLE舵邦“γWjh‐ /"gE7・-Krieger,Handleru.Entdecker(Kristall-Verlag, 1980), S、 102-103. , H.J・Madsen,p. 14.また, リーベを含むヴアイキング期スカンジナヴイア諸 地域でのビーズ製造について言及する文献として, AgnetaLundstr6m, {BeadmakinginScandinaviainEarlyMiddleAges; inEfrγ〃A化或”αノSr""s

9,Antikvariskt61 (Stockholm,1976),および", Surveyoftheglassfrom

Helg6' ; inEz""蜘却α/""ek6,W-Glass-Iron-Clay(AImqvist&Wiksell, Stockholm, 1981), P. 16ff.

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「デンマークにおけるヴァイキング期の都市, リーベ(Ribe)について」 ① ● リーベ自体のものでなく,おそらく西欧からか西欧経由で当地に輸入せら れたものと考えるべきである。因みに, リーベでは約2kgほどの加工用班 珀(amber)が出土した。当時,琉珀がバルト海沿岸を主産地としていた ことはいうまでもないが,切削・研磨職人のリーベにおける存在について は指摘がある'7) ものの, この場所でそれらが完成品に仕上げられたかど うかはわからない。 ともかく最近では,暁珀そのものが, ここからへデビ ュー(Hedeby,"""A”邸)へと輸送され, そこで珠玉やネックレス, あ るいはゲーム.ストーン(game-stone,Spielstein)に加工されていたのだ とする所説'8)もみられて興味あるところなのである。因みに,先達ブリ ヨンステット (JohannesBrnndsted)らによる従前の通説では,そもそも リーベの位置するユトランド西海岸一帯は,青銅器時代におけるかつての 耽珀主産地をなしていたが, ヴァイキング期に当該地域ではそれが既に枯 渇した状態にあり,主産地はトゥルソ (Truso)をその交易拠点とするバ ルト海岸へと移動していた'9)ものと考えられてきたからである。 ところで, リーベにおける手工業的営みとして注目されるべき第三のも のは,織物の生産である。即ち,その生産がどの程度の需要を満たしえた かは不明だが,発掘にともなう出土品との関連でいえば,約30個の紡錘は ずみ車(spindle-whorls)と,完全な形状をとどめた約100個ほどの機織り 用おもり (Ioom-weights)の発見が,そのことの有力な証拠をなしている。 G や ● 。 また, それにより当時のリーベには永続的に定住し, そこで紡糸や機織り 17) H.J.Madsen,". cir. ,p. 17. 18) Cf.JamesGraham-Campbell," cfr.,' 104. また,へデビューと, リー ベを結びつけ, さらにその延長をオーフス(Arhus)に到らしめる交易ルート もみられる。 Vgl. JoachimHerrmann, W晩鈍gFr 岬"dS/e""-Zur FriihgeschichtederOstseev6lker(Akademie-Verlag,1982), S 82 ,K"汀9 91.,"DiewichtigstenHandelswegeundFriihstadteimOstseegebietundin 抑 OsteurOpa. 19) また, これを示唆することとして, そもそも初期ローマ帝国時代のプリニ -(Pliny)が,琉珀を探し求めるロ百了噂4壕?闇いかけに対し, ユトラン ドや北海沿岸のことは語らず,ただバルト海諸地域のことだけを答えている からである, という。Cf.JohannesBrDndsted,T〃FW鰄加9s(PenguinBooks, 1976), p. 159. −173− 9

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「デンマークにおけるヴアイキング期の都市, リーベ(Ribe)について」 に従事する婦人達が少なからず存在したことがうかがわれるわけである。 それは,およそ織物の生産に包含される諸過程も既述の手工業的営みと同 様,長時間に及ぶ労働を必要とするので, これを永続的な定住以外の生活 と結びつけて考えることが困難である20)からなのである。 なお, このような織物生産との関わりで興味をひくのは, リーベをめ<′ る考古学的調査で,家畜一例えば羊など−の骨と,その排泄物のぷ厚 い届土が複数の地点で発見されたことである。おそらく, それは食用とい ● り うよりも, むしろ織物生産の素材たる羊毛を得るために羊などが飼育され ていたことを意味するに相違ない。また,他方において,それは輸出用に 向けられたと考えられる羊皮紙(parchment)の生産, あるいは以下に述 べる目的で必要とされた皮革の調達21)と関わりがあったろう。即ち, リ ーベからは廃棄ないし裁断された大量の皮革一特に靴,鞘それにヒモな どのもの−が, かなり良好な状態で出土しているが, それはこの場所で 皮革加工が行なわれた22)ことの明白な証拠なのである。 ともあれ, これ らの営みはある意味でそうした農業生産物の不断の供給と不可分な関係に あったといえようが,総じてヴアイキング期のリーベに存在した手工業的 生産に他ならなかった。 4. 交易拠点としてのリーベ ヴァイキング期のリーベにみられる手工業については,前節によってそ の概要が明らかにされたといえようが,次にわれわれはリーベをめぐる交 20) そもそも, リーベにおける出土品がそれ自体.永続的な定住を示す証拠で あるのか, あるいは単なる季節的な居留を示すにとどまるものなのか, 従前 は議論がわかれていたが,最近では前者の主張が支持されている。 Cf, M. BencardwithcontributionbyK_Ambrosiani,L・BenderJergensen,H.BIinch Modsen, I.NielsenandU.Nasman; 、WikingerzeitUchesHandwerkinRibe、

EineCbersicht',AcmAだ““ノ。gj",49 (1978), pp. 113-138. ,E.Roesdahl,

”・ cff,p、 78.

21) E.Roesdahl,肋蝿,p.64,78,91.

22) E.Roesdahl, iMi.,p. 101. ,H,J・Madsen,".cM.,p・ 16,

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「デンマークにおけるヴァイキング期の部市, リーベ(Ribe)について」 易拠点としての在り方について少し<考察を加えてみることにする。いう までもなく, それは本稿の第2節で既に指摘している通り, なによりも, この場所が当時の海上交易ルートに接続される重要な地理的位置をしめて いた, と考えられることをふまえてである。 しかしまた,第二には, その 手工業的営みとの関連でも, ある種のものにおいては明らかにこの地へ運 ばれた輸入素材一例えば, ガラス, モザイク片など−が使用されてお り,他方,当地からその販路を求めて流出した諸商品が存在したこともう かがわれることなど,何れにせよリーベにおける生産の営みも,それ自体, 多かれ少なかれ外部諸地域との商業的接触を前提として存在したとみなさ れるからである。 それゆえ, リーベをめぐる国内商業の存在ももちろん無視できないので あるが,先ずは当面の問題をこの時代における国際商業との関連でとらえ ると, リーベは南の方へと指向して, ラインラント, フランドルそしてお そらくはルーアン(Rouen)にみちびかれる海上交易ルートに接続されて いた23), とみなされる。 しかも, 筆者の旧稿で扱ったヘデピュ -(Hedeby,"""""αb")からの場合には約10マイル半(=17km)程の地峡 (isthmus,Landenge)の通過を要したが24), リーベにとってはそれもみら れなく, ユトランド半島の沿岸を伝って航行することで,上述の諸地域に 結びつけられることが可能になっていた。また,北海の荒波からも海上で の安全な避難場所となる群島の存在で,その航行は保護されていた。そし 23) Cf・釦chbaldR,Lewis,TheNNc汀舵輌馳",ShippingandCommerceinNor-thernEuropeA.D,300-1100 (OctagonBooks,1978),p.355.,E.Roesdahl, 脚虎銃gAgFD鋤加α雄(BritishMuseumPublicatiOn, 1982), p.92. ,Rudolf Poertner,7ソtEW鰯TZgS,RiseandFalloftheNorseSeaKings,trans.&adapted bySophieWilkins (St,JamesPreSs,1975).p.172.

theMapofF"""- サ嘩祁一J?死Sm祁一Ⅳひ瘤ermde""ei打メカE7勉丘認8"JcE館醗ナafes.,JoachimHerr-man,Wf鰄邦g"""SZEz"", -ZurFrUhgeschichtederOstseev61ker (Akademie-Verlag,Berlin,1982),S.67,Fig.71,Hi""defs-"zdV"舵ルア智蝿g沼 f加/城h醜j姥“た雄hEFzE"mpu"ldbeff""dEH"deZsDJfe押渥、RTZAsiadjE. 24) Cf・RudolfPoertner,"・域”p、 199,Mapof"IEHbノ"159sMW"""J 鰔力沈蟠.,JoachimHerrmann,n.d.O,S83, Fig.92D彫輝雄cbelcmfETzge. −175− 11

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「デンマークにおけるヴァイキング期の都市# リ-'、K (Ribe)について」 て, このルートの延長上には周知の様に, ハンブルク, エムデン (Emden)そしてドレスタツド (Drestad)などの主要な交易拠点が点在し ていた25)わけである。 さて,われわれは7世紀中葉以降より,その能動的な商業を底<展開し, とりわけ北海・バルト海貿易で「海上覇権時代」を築きつつあったフリージ ア商人の存在をみてきたが, リーベで出土した陶器類(=壷), ガラス製 品,金属製品その他多くの商品がこのルートを通じて到来した26)。逆に, リーベを通じて当時のデンマーク諸地域からの輸出品が西欧に運ばれたこ とであろう。因みに, ヴアイキング期リーベの,西欧とのこのような商業 的接触は, その考古学的証拠としての貨幣出土によっても間接的に説明さ れることだろう。即ち, リーベからは例えば1973年-75年の調査で, 8世 紀中葉あたりに帰属し, もしくはそれより後の時期まで使用されたとみら れる薄手の銀貨, シアツタ (s""", s"")が32枚ほど発見されている27) からである。そこで, 当該の銀貨シアッタについて貨幣史研究の先達,戸 上教授の指摘によりながら, 以下少し<付言しておくことにする。 そもそも,貨幣史的にみると銀貨シアッタは元来7世紀の中葉ないし末 葉頃に,従前のイングランド金貨スリムス (鯛か堀s")の品位劣下にとも なって登場一その流通は8世紀750年頃まで−したわけで,文様もロ ーマ風デザインやアングロ ・サクソン風のものまでみられるが,ともあれ, 貨幣そのものに銘文を有しないのが通例であった。 しかも,その出土地域 25) Cf.RichardHodge&DavidWhitehouse,ハ伽勉加加24C地γ/を旗α9FzE&"iE 0"gi""E""e(Duckworth,1983),p.111. ,E.Roesdahl,0P.cf/.,P、 76. 26) E.Roesdahl, i6", p、 92_因みに, リーベでの出土はみていないが,その 他にワイン.織物,隈日用の石, ウルフベルフト (Ulfberht)の剣刃なども, このルートによって北欧諸地域へと輸入される商品に他ならなかった。 Cf. JacquelinSimpson,TMIcIノセル飾9W""(B、T・Batsford, 1980), p.90, p.95map ofIJ獅塘Ag芭力zzI"--R]zJZEs.,ArChibaldR.Lewis,轆嘩,p@355."tnote,201. ,J"chim Herrman,". fz-Q,S. 144,Fi9, 144.

27) E.ROeSdahl,".C".,p、78.93、 ,G.Hatz, FindsofEngUshmedievalcoins

inSchleswig-Holstein' ; inC.N.L.Brooke&others (eds.),Si"f@si"

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「デンマークにおけるヴァイキング期の部市, リーベ(Ribe)について」 はとりわけイングランド南部・東部に集中するところから, 当該地域にお ける便利な交換手段として機能していたものとみ鞍されている。 ところが 他方, これらのシアッタ銀貨が大陸の低地地方(=Friesland)でも多く出 土するところから,それが実際はイングランドをこえた国際商業の場にお いても使用された281 と推論されている。そして, Fig. 3はそうしたシ アツタ貨の主要分布地として,新たにリーベが位置づけられることを示し Fig.3.Distributionoffindsofsceattas inEnglandandonthe ContinentDavidHill,AnAtlasofA"gj0-StzjmTzErg〃堀 (Blackwell,1981),p、 120. 28) 戸上一「鋳貨とアングロ ・サクソン早期の経済社会」 (「国民経済雑誌」第 120巻2号, 3252頁所収) ;同「アングロ ・サクスン幣制の発展について」(「国 民経済雑誌」第135巻6号, 75-94頁所収) ;同「7, 8世紀イングランドの 鋳貨と王権一th'ymus,sceatt,penning-」神戸大学・西洋経済史 研究室編『ヨーロッパの展開における生活と経済」(晃洋書房, 1984), 19-35頁所収,等を参照。 −177− 13

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「デンマークにおけるヴアイキング期の都市‘ リーベ(Ribe)について」 ている点で興味ある・ もつとも, この銀貨シアッタには元来イングランド

型とフリースランド型の二種類が存在したといわれ,

Fig、 3ではリーベ

のそれがいずれに属するか明確でない。そこで, この点にふれた他の文献 に依拠すると,確かにリーベで出土したシアッタ貨はその大多数が後者’ 即ちフリースランド型に属する21) とされている。 しかし筆者には, シア ッタのそうした識別が当面の問題にそれほど決定的な影響を及ぼさないよ うにも思われる。なぜならば, もともと銀貨シアツタは,それ自体’特定 。 、 の公的権力(=王権)により,その品位と段目を保証された鋳貨ではなか ● ● つた30)からであり,従って, シアツタがその地金に価値を有した限り, 短命ではあるにせよ, ともかくもイングランドをこえて大陸に連なる当時 の交易で,それなりの交換手段ないし支払手段として機能していた可能性 が強いと考えられるからである。このようにみるならば,前掲のシアッタ 貨の分布図はリーベをめ<'る交易の把握についてもしかるべき意義を有す るだろう。この貨幣のリーベでの出土において,例えば当時の国際的な商 品流溺に関わっていたフリージア商人の役割などが惹起されるべきは, も ちろんのことである31)。 29) Cf.Lloyd&JenniferLanig,A"gわ−&エ卿邦E測""(Routledge&Kegan Paul, 1979), p. 123. ,E.Rcesdahl,". c".,p、78.因みに, リーベで出土した シアッタ貨は5枚がporcupinetype, 25枚がwoden/monstertyPeで,共に フリースランド型であった。残り2枚は確認不能のコインである。 K・ Ben-dixen, .ThefirstMerovingiancoin-treasurefromDenmark',in;""""/

Scα祁蝉蝿沙",VI (OdenseU.P , 1974),P 85ff,esp101. ,G.Hatz,・Findsof

EnglishmedievalcoinsinSchleswig-Holstein',in;C.N.L.Brooke&others (edS.),Si""""""""""CMM2/hod(CambridgeU・P. 1983), p, 206. 30) 戸上一「アングロ ・サクスン弊制の発展について」(「国民経済雑誌」第135巻 6号所収), 82頁参照。 31) なお, シアツタ貨の製造年代からみて, その使用に直接関わらしめること には無理があるかも知れないが, フリージア人と同じく,後年9世紀以降に は同じく, 当時この国際商業ルートに活踊するアングロ ・サクソン商人たち の営みにも,みるべきところがあった点を付言しておきたい。例えば, 810年 にはアングロ ・サクソン人の船でルーアンに鉛を送るのが常であり, また, 北ガリアの一教会の改修に必要とされた同じ商品(=鉛)が, イングランド から輸入された。反対に, 9世紀を通じてラインラント地方のぶどう酒がノ

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「デンマークにおけるヴァイキング期の部市, リ-,< (Ribe)について」 ともあれ,以上のことからは, およそリーベにつながる商品流遡が, も っぱらフリースランドを経由した南の方向にあったかのごとく見えるだろ う。そして,確かにそのような指摘もみられる32) ところなのである。け れども他方,既にヴァイキング期のリーベは,ユトランドにおけるいま一 つの主要交易拠点たるへデビューと共に,例えばイングランドのヨーク 。 。 ■ (York)など”)と直接に結びついていた可能性を十分に有するように思わ れる。 もっとも, この点についての更なる考察は,紙幅の制約がともかく これを許さない。ただ,蝦近の諸文献にはこのことを示唆する交易ルート の存在がしばしば散見される34)ことも事実なのである。 とりあえず, こ のことを指摘しておくのみである。 、‘イングランドにもたらされていたが, これらはいずれもアンク'ロ ‘サクソ ン商人の手になるものであった, といわれる。Cf.ArchbaldLewis,".c".↓p, 202,291.,G.C.Dunning, #TradeRelationsbetweenEnglandandConti- nentintheLateAnglo-SaxonPeriod,'in;D.B.Harden(ed.),Dα錨AgFBri-/""(London,1956),pp.218ff. 32) D MWilson(ed.), 7ソ"Ⅳひ減力"TzHノ”〃−TheHistoryandHeritageof NorthemEuropeA.D.400-1100(HarryN・Abrams、 1980), pl52 33) 因みに, Yorkを亜味するEofemノfEないしjor秒娩の語尾も,共に語源的に はラテン語のIJff14sに由来した当時の重要な交易拠点に他ならなかったb Cf. JohannesBrondstedTノ蛇VW7gF(PenguinBooks, 1976),pp・ 154-155.そし て, 当面の考察対象であるリーベとほぼ同じ緯度にある, いわば対岸に位慨 したこの場所(=York)には,既に8世紀にフリージア〔商人〕の居住地が存 在したといわれている。 Cf.WilhelmLevison,E"glalzdα麺MIECDfi"罐'#r醜 〃彫E妙娩CE抑雌が(OxfordU.P. 1973),p.51. ,EM.Stent0n,AFIgノ0−鼬”'’ EHgjn"(Oxford.U・ P、 1965), p、219,518f.加えて,年代記(=Laconic APIgjO-SEx。〃CノI”海じん)によると, 9世紀後半(=876年)からヴアイキング 支配下のヨーク (=Jorvik)が開始される。般近, その考古学的発掘が成功を おさめ, かなり詳細に当時の都市生活の状態が分かった, と再び報じられた ばかりである。 Cf.PeterAddyman,'yORWX:ReberthofaCity",inH趣ひか 1984,May, pp. 43=45それゆえ, こうしたことの歴史的背景雄いし前提とし て, 9世紀後半以前のヨークが既にフリージア商人の媒介により,例えば対 埠の地, ユトランド半島のリーベやへデビューなどと多かれ少鞍かれ接触を 有していた, と考えることは,無理なことでないように思われる。 34) 例えば, Cf・ JoachimHerrman,a.a.0.,S. 67, Fig. 71, """z"な一榔蝿 V@r舵伽癖z"gE"/M力榊坤陀ノ舵γ雌〃"E"m"""bede""""""dEJscTTc叫堀 F河Zjisi"",MalcolmFalkus&JohnGininghams(eds.),"sわがazJAMzsx −179− 15

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「デンマークにおけるヴァイキング期の都市, リ-,、< (Ribe)について」 5. おわりに ヴァイキング時代には,複数の要因が相互に影響を及ぼして−あるい は,それが卓越して重要な場合には一つの要因が−都市集落の存在へと 導いた35)。 そして,本稿でこれまで考察を試みたリーベもそうした要因を有してい たといえようが,経済史的視点からは, そこに都市集落を特徴づける交易 と手工業の側面が存在したことと,その態様が少しく解明されたと思われ る。 もつとも,筆者においては,例えばリーベにおける常住の人口規模に ついて,およその数値さえも不明なのである。また, この都市集落を形づ くった特徴の一つたる, 家屋の購造に関しても,沈床式(sunken-featured)の建物の存在がそこで確認されているものの, それらが当時の 建築様式として,おそらく編み枝と漆喰(wattleanddaub)の壁面を有す るものであろうと推論される35)程度にとどまっている。 このほか, 当時の国際交易における拠点であるにもかかわらず, ヴァイ キング期のリーベには,筆者の旧稿で扱ったヘデビューほどの貨幣鋳造上 泊呼B流印加(Granadapub.,1981).中村・森岡・石井・共訳「イギリス歴史 地図」 (東京普篭,昭和58年). 52頁を参照。 35) 通説をふまえると, そのうち最も共通するのは疑いもなく商業,特に「海 上商業」 (maritime tTade)であって, それは港湾や輸送の拠点となりうる場 所での都市集落の発違を促した。更にまた, それが異教時代の神殿であれ. あるいはキリスト教の散会や司教座であれ, 「宗教上の拠点」は多くの人間を そこに吸引するような効果を有したことだろう。また, それゆえに「王室の 拠点」 (royalcentre)にもなった。もちろん, 内陸地帯でも陸上ルートが交又 し, 且つまた取引に関わる法律上の諸規則が確立されてくるところにも, 当 然.都市集落が成立した。商人たちが売買をする機会を有し,且つまた手工 業者がその生産物に対する容易かつ安定的な需要を見出しうるような「地方 市場」 (localmarket)カヨ,そうした場所に存在したからなのである。 Johan-nesBrgndsted,"蛇随騨邦gs (PenguinBooks,1976),pp.165-166.,Else Roesdahl,V獅聴AgED""z"f(BritishMuseumPublication, 1982), p.84. 36) E.Roesdahl, ibid.,p.78. --

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180-「デンマークにおけるヴァイキンク'期の部市, リーベ(Ribe)について」 の重要性を37)見出しえないのであって, それらがどう解釈されるべきか など,残された問題点が少なくない。 なお,最後にではあるが,われわれはヴアイキング期の都市築落リーベ が「宗教上の拠点」としての側面を有していたことを,想起しておかなけ ればならないだろう。即ち,本稿のはじめにも指摘した過り, この場所は キリスト教の伝道者アンスガル(Ansgar, A"sgnγ麓)が教会建設の許可を 得て, そこに土地を与えられた(=860年頃) ところでもあるが, そもそ も創設された教会はビルカ (Birka)とへデビュー(Hedeby)に続くスカン ジナヴィア地方における第三番目の教会であった38), といわれる。 そして, ヴァイキング期のリーベにおけるこうした教会は, さしあたり 既にキリスト教化していた少数のフリージア商人など, いわば_一時的居留 者を対象としてその機能を保持しはじめていたのかも知れなし、が, ともあ れ,外国取引に開かれた市場地がその後も初期的伝道の拠点としての役割 をもつに到ったと考えられることは注目に値する。 因みに,筆者が他の機会に行った考察では,北欧諸地域でキリスト教の 本格的受容をみたのが総じて10世紀中葉以降のこととみられるが, リーベ でも,おそらくは教会に何らかの法的保護があたえられていたものとおも われる。しかしまた, リーベのそれを含めたこれらの教会を通じての,デ 37) 因みに,へデビューでは「半プラクテアート貨」 (half-bracteates)と呼ば れる沈黙貨幣(silent coin)一年号および製造地の刻印がない−,即ち 片面のみの薄手の銀貨が, ドレスタツド硬貨を模倣して,かなり造られてい たとみられる。Cf.JohannesBrzndsted,".cj/.,P. 186-187. , P.HSawyer, "EAgEq輝雄W慰即鱗(EdwardAmold,1975). p.189.,RudolfPoertner, TMzEVW卸醗,RiseandFalloftheNorseSeaKings, trans,&adaptedby

SophieWilkins (St・ JamesPress,1975),pp.212-217. , HerbertJankuhn,

月泣"如伽EinHandelsplatzderWikingerzeit(KarIWachholzVerlag, 1976), S、 215234, ,KlavsRamdsborg,TheW酎姉gA腰飽DETIf打厘液(St.Martin's Press, 1980),p. 149ff. 38) Cf.HJ.Madsen,ANSGERSCITY-MissicTI"ym鱗9 I/i"zgs (Fcダルな酌撫ルハ""""1977), p、 3,,JOhanneSBrendSted,".Cir.,p、 307. , GwynJones,AHisicfyq/rheWhi邦纈(Oxford, 1968),p. 108. ,E.Roesdahl, ".".,p.76. 17

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-181-「デンマークにおけるヴァイキング期の郁市, リーベ(Ribe)について」 ンマーク地方における漸次的な改宗(conversion)の進展は,確かにそう したものとの相互依存の関係を保ちつつあった当時の支配者の,王国建 設の意図といささか関連があったろう。 なぜならば,神の権化と人間の相互義務で規定せられた北欧古来の信 仰39) と異なって, キリスト教が強固な統一組織をもち,服従ないし帰順 を要請するという点を,おそらく当時の政治的支配者たちが見ぬいていた からなのである40)。 しかしまた,次いでながら指摘しておくと,北欧諸地 域におけるキリスト教の漸次的浸透は,葬制または埋葬慣習の変化をもた らすだけでなく,おそらくは新たな開墾と定住の創出に関わりをもつよう 各 各 ● ● な心的態度ないし「エートス」 (Ethos) を培う効果をともなって,当該地 39) ヴァイキング期北欧における異教的信仰の諸特質については,例えば,和 田連宜「ゲルマン民族のキリスト教受容一西ゲルマンを中心として−」 (学習院大学・文学部「研究年報」第27", 1980), 101頁以下,特に101-111頁 を参照のこと。また,関連文献としてWilhelmGr6nbech, K"I加γ 騨押d RE/鞍。〃d"GEFwz"",2Bd(Dannstadt,1961),G・Turville-Petre,My"l andRE姥"打qfr舵Ⅳ、汀ノj (London,1964),FolkeStrOm,ノVDγIfiSル舵de"[メ”z, Troochsedif61kristedtid(Akademif6rlaget,G6teborg,1967 ),菅原邦城訳 「古代北欧の宗数と神話」 (人文雷院,昭和57年), H.R.E.ElnsDavidson, S""/TzEui"My"Iojpp(PaulHamlyn,London, 1969)などカミあげられる。 40) 因みに, デンマーク地方における改宗活動は10世紀に到ってドイツ皇帝の 輔力的な介入により, ようやく成果をみせてくる。そして, ハインリツヒ1 世(Heinrichl.“γI/bgleZd"ischef'K伽噌)は934年にデンマークの分国を統 一し(=934年, ハイタブ征服とクヌーバKnuba王の受洗),当時デンマーク 全体を支配していたゴルム老王(GOrm)に, キリスト教を認めるよう強制し たのである。また, オツトー2世(Otton,973-983)の治世には, 一時期デ ンマーク王ハラルド宵歯王(HaraldBluetooth, 940-985)がドイツ皇帝に敵 対し, その際異教的反動もあったとされるが,結局はオットー2世に屈服 ● ● したハラルドの改宗により,デンマークのキリスト教受容は一応の結着をみ た, と考えられている。和田達宜「ゲルマン民族のキリスト教受容(続) −ヴオーダンとキリストー」 (学習院大学・文学部「研究年報」第26輯,

1979), 77頁を参照。また史料的には, Vgl.AdamvonBremen, Hist.

ec-clesiaeHamburgensis56f(=Stein-GediChtnisausgabeBdll,,S 228ff.,

Qw""dEs9.群湖11.たんγ〃""dertsz"GEscjlic"舵figrHfzmb"FZSc""K沈腔 ""desREi"Es, hrsg.vonRudolfBuchnerundFIz1z-JosefSchmale ,

(20)

「デンマークにおけるヴァイキング期の郡市, リーベ(Ribe)について」

域における人びとの社会生活や思考形態にも,少なからざる影響を及ぼし ていくことになったろう。

(1985.3.26)

参照

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