(東京女医大誌・第25巻第5号頁:177−182。昭和30年5月)
本邦都鄙結核死亡率の研究
第一・報 全結核死亡率
東京女子医科大学衛生学教室(主任吉岡博人教授) 緒 言 藤 フジ 屋 ヤ ス エ(受付 昭和30年1月20目)
戦中戦後の最悪な生活条件は,第一次大戦後の 苦い経験を想起させたのであるが,全国の結核死 亡率は介入の予想に反して,昭和22年には人口10 万に対し187.2で昭和18年の224.3よりも低率であ った。其後も下降の一途を辿り昭和26年には死因 の首位を譲り,昭和28年,遂に死亡者数5万台, 人口10万対死亡率66,4となって,死亡順位も中枢 神経系の血管損傷,悪性新生物,老衰等老人性疾 患の次に転落して第4位となった。 結核死亡率については,戦前全国では明治から 昭和へと老年死亡率の下降,青年死亡率の上昇と 日本的特長が顕著となり,とくに結核蔓延の著し くない農村県の青年死亡が増加してゆくのを見 た①。これに反し戦後では青年死亡率の低下,南 濃年層の上昇と日本的特長を失V・つつ欧米のそれ と近似して来て,日本に於ける結核減少の上に曙 光を見る思V・がした(2)(3)(4)(5)。しかし乍ら現在の 結核死亡率と難も欧米のそれと比較すれば樹数倍 に余り,前途ほど遠きを知るのである。一方亦, 地域的には東北農村県の如ぎはかえって死亡率上 昇し,(5)殊に青年層が尖鋭化している(3)(4)。かく, 結核死亡率の様相がその時代,その地区によって 変遷して行くが,我国で都市と農村の環璋の相異 によって如何なる経過を辿ったのであろうか。 本報に於ては,全結核死亡率に就いて,資料の 得られる明治41年から昭和13年迄,全国の人口10 万以上の都市とそれ以下の市郡即ち農村的地城に つv・て年度を追って観察することとする。 研 究 方 法 統計資料として全結核死亡数は明治41年から昭和13 年迄内閣統計局発表日本帝国死因統計,基礎人口は明 治41年,大正2年は日本帝国静態統計,大正9年,14 年,昭和5年,10年は日本帝国国勢調査報告から求め た。尚明治42年より大正8年にいたる各年の人口を幾 何的方法で推計し,大正10年以後の国勢調査中聞期間 入口は統計局発表の入口動態統計の推計入口を使用し た。 都都の区分は全国を入N10万以上の都市の総和を求 めて都市的地域とし,入口10万以下の市部郡部を合わ せて農村的地域とした。 明治41年から昭和13年迄,毎年の都螂の粗死亡率及 び男女別死亡率を算出し,訂正死亡率は入口静態調査 及び国勢調査の施行された明治41年,大正2年,9年, 14年,昭和5年,10年につき都鄙夫々の体性及び年令 構成を同一と見散して算出し,又男女別に年令構成を 訂正して男女を比較した。訂正死亡率に用いた標準入 口は昭和5年国勢調査全国入口とした。 明治41年,大正2年置年令不詳入口は年令既知人口 の割合に配分後使用した。 昭和7年都市死亡率は東京が市制の拡張により7月 以後死亡数の著しい増加を示し,入口は新地域の推計 入口となり,甚だ不正確となるので,二二京市の死 亡数,旧東京市推計入nを算出して使用した。 研 究 結 果 1 訂正死亡率 男女総数についてます粗死亡 率を見るに,都市では第1図の如く,明治41年か ら大正の中頃迄著しく高率で,大正7年,即ち第 一次大戦後インフルエンザ流行時に異常な高率を 示した後,急速に下降し,昭和の初め頃から再び 上昇傾向が見られた。10万以下の市郡即ち農村的 地域では明治41年から大正の中頃までは粗死亡率 は都市の半分以下の低率を示し,全国の粗死亡率 に並行するも,それより梢汝低かった。しかし て,その年次的経過をみるに,農村地方は都市の 低下に反し,明治41年からむしろ一上昇し大正7年 一一一 177 一sgo 5Ge 全 結 核400 死 日 50D 率 尺20D 口 LtL・ :鳳ie。一 段. 窮1図 都鄙別全結核死亡率 糎牌閉山欝
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年 。爵和 5 次 に頂点を示した後,一旦幾分下降したが,再び昭 和の初め上昇を示すようになった。 斯る都市死亡率の著しい高率が結核死亡率の高 い青年の都市集中の影響大であると考え,標準人 口で都市と農村の性及年令構成を同一と見倣して 訂正し,また一方,異る年代の死亡率の様相の比 較にも,これによって便ならしめようとした。ま す都市訂正死亡率は第互図の如く粗死亡率と同じ く,明治41年から大正の中頃迄著しい高率であっ たが,共後下降の一途を辿る。農村訂正死亡率は これに反し,明治41年から泥々上昇し,大正9年 を頂点として下降傾向を示すが,再び昭和10年に は昭和5年よりも四々高率となる。而して粗死亡 率と訂正死亡率の比較を第1表に示すが,明治41 第1表 都鄙別男女十全結核粗死亡率及び訂正死亡率(入P:110万対) i年
全 国 都 市麗劃 男
次粗証師正烈
女総 劃 男
女 農 村総 剃 男
女 明治41 大正2 tl 9 ,t 14 昭和5 ,, 10 ゲ 151証旭町陸・i証粗調・峠・年粗証[訓証
ma: l191X 1?9一?1 ?19・!1 ?19}1 ?9f・1 226.1 208.8 223.7 194.11 195.21 185.1 185.61 185.5! 182.6 L 190.81 191.11 193.6 209.5i 208.2i 220.4 188.7 204.3 210.6 185.1 181.4 193.3 218.9 213.21 218.E 1 443.6 228.2i 229.II 428.3 238.61 243.11 361.2 206.21 260.s 203.2 1ggl>’II,V615124615 188.01 189.51 241.7 1 エ97.8 198.5 siv”一11ig:離}轍ll:1廟:繍腰:1
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年は農村も都市と同様,訂正死亡率は粗死亡率よ り稻・々低い。これは府県別訂正死亡率が昔へさか のぼる程現代の大都市を含む府県の如く粗死亡率 より低V・府県が多くなるという成績と同じであ る(1)。これにつV、て第H表に都鄙人口構成千分比 を示すが,明治41年は生産年令階級人口千分比が 農村に於ても構準人口と同じく大で,都鄙人口構 成の差異が近年ほど著しくない為であろう。大正 2年以後,都市訂正死亡蟹は一層粗亡率よりも低 率を示し,農村では訂正死亡率は粗死亡率より上 位を占めて,第π表の如く青年層の都市集中の影 170ユ 183.9 190.0 175.2 170.3 175.6 198.7i 219.9 180.51 192.0 175.4! 177.7 185.9i 173.5 1 111:醤:1塵:1 227.81 199.3i ls4.21 184.ro 響が見られる。明治大正に於ける都市訂正死亡率 の著しい高率は,先進諸国からの急激な文化の移 入に伴い結核の惨禍がます都市に現われたと見ら れる。そして,通疫によるか,或は社会経済的変 動によるか不明であるが,共の後都市は急激に下 降し農村は明治以後上昇傾向を示し,都鄙死亡率 線は著しく接近して結核が都市から農村へと侵襲 したものと思われる。農村では大正9年以後,漸 減傾向を示したが再び昭和10年は昭和5年よ1)も 高率となり,満洲事変を契機とする軍需重工業の 影響をここに見る。殊に昭利に於ける粗死亡率は ua@17L(S 一一一第罰:蓑 入口の年令構成比較(千分比) (標準入口は昭和5年全国入口による) 男 子 年 令 1. 一. 一一一 一1. 1 e r一一g ] 10t−19 1 20rt一・29 30N39 i 40nv49 50∼59層 60t−69 1 70 r−79 1 soN
計
明治41年 大正9年騨口
ァ藤禰市農禰市翻
li’ ・一一1 昭和10年i F i32 [ iOi i 104 82 63 50 39 229
2
JrO3 女 ユ08 1e4 91 58 38 28 5 1 120 99 79 67 51 43 27 11 3 103 126 117 78 54 31 17 5 1 524 1 500 1 5320∼9{129
1 10∼19 1 102 120!∼29 78 30∼39 59 40へ49 1 49 50・∼59 i 40 16・∼・・i24 {70∼79 13 i 80・一一1 3 計 98 1 116 94 1 99 101 ] 82 74 1 67 46 i 49 34 1 42 20 i 28 81 13 11 4 !一一 100 101 91 67 4釧 EgI .?.0 9i ii三三
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1 133 103 1 75 1 55 i 47 43 28 ! 14 4i 497 1 476 1 500 i 468 E riorm4”1/..17.?Ll/.i”iyi−o=?・i 青年層の都市集中の影響で都市に過大に,農村に 過小に現われたので,訂正死亡率では都鄙死亡率 は一層接近するようになる。 次に男女別に都鄙死亡率の年代的推移を比較す るのに(第皿図),粗死亡率では都鄙共に昭和6年 迄女子は男子よりも高い死亡率を示したが,昭和 7年以後男女の位置は逆転して男子は女子を凌駕 して高率となり,次第にその差が拡がろうとしてbるQ
男女の人口構成を同一一と見倣して標準人口で訂 正して男女を比較してみるに,粗死亡率と同じく 都鄙共に昭和5年迄は女子は男子より高率を示 し,昭和10年には男子は女子より高率を示すに至 った。吉岡(1)の全国に於ける肺結核の観察によれ, ば,大正9年迄は女子が嵩率を示し,大正9年以 後男子が高率となる。これに関して紡績工業を主 体とする軽工業より軍需重工業への転換が,女子 結核の優勢を男子に転じさせたと述べている。男 女の位置の転換は全国の易合と同じく都鄙別に分 っても都鄙共に見られ,全結核に於ては肺結核死 亡率の揚合よりもおくれて出現する。これに関し ては全結核中に含まれる結核性脳膜炎,腸結核, その他の結核によって影響されるものと考えられ るっ 第1図 都鄙別男女別全階核死亡率 500 全籍5。σ ご・…\ ハ
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年 “一一.一mLr“..L−LnyL“..whT;一.mL一一...“一wh Hts ia iS c io 令 lrp 2D 25 遅 特殊死亡率 年代的に特殊死亡率曲線を見 ると都市男子は明治41年,大正2年には三つの高 い山を見る(第翻図)。即ち明治41年には55∼60 才層に最も著しく高い山をなし人口10万対死亡率 704.7,ついで20・一》25才の育年層において老年層 に次ぐ山を認める。即ち20∼25才年令層では10万 対死亡率519.9である。叉,0∼5才層もかなり高 率で409.9を示す。大正9年にはこれら三峯は夫 ・ /79 一ワ50 7eo S50 60n 全 500 結 按5σ・ 死 亡450 率 400 口35e 十 万300 包 2r)o 2eo 150 10e F」a o 第11図 全結核特殊死亡率(都市男子) 1 A メ
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『へ5./ \ 眠 \き\ト 腿 750 rfoO 一HL“一TLL..L一一一.L IO , 20 3a 4C sO so ve 8D 今 第W図 全結核特殊死亡率(農村男子) b’T01. 6001一 全 j・50 結 核500 死 亡45D 率 400 尖 口350 十 万300 tt 2Jro 20D t50 TOO 50 “・“・, g’ こ霧 黙黙
D1 :1 一日召和lo年 一.一一一 ?奄?宴Mロ5二…E 一一一一 蜷ウ)4年 一一 蜷ウq無 ・・一…… 蜷ウ2釜 一…一・・ セ洛期年嚢
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一一一一一Ni一一Ettttt.・Nl,IX:一 一1 k’瘟コして,殊に幼年層と老年層の低下著しく, 老年層は青年層の峯と肩を並べるようになる。大 正14年以後,老年層は青年層よりも低下し青年層 はむしろ昭和5年,10年と幾分上昇する。而して 今日の大都市を含む府県男子に見る老年層の高率 は,また全国結核死亡亡率に於て古い日本結核死 亡の型とも云われた(1)。上述の分析によればこれ は当時におV・て都市男子の高率の影響が大であっ たためと擬えられるQ 農村男子(第IV図)では青年死亡率最も高率を なし,老年層にやや低い隆起を見る。農村青年死 亡率は20∼25才層に於て,明治41年人口10万対死 亡率354.3から次第に上昇し,大正9年には農村 青年は都市青年を越えて都市青年死亡の低下にか わって高率を示すに至る。その後,農村青年はま すます高く,老年層低下して昭和に及び日本的特 長は農村に於て著明に表われた。 都市女子は青年15∼20才層に最も高率で,明治 41年人口10万対死亡率745.9に及ぶ(第V図)。次 に乳幼児年令層は429.6である。明治41年,大正 2年には都市男子に相当する老年層に低い隆起を 第V図 全結核特殊死亡率(都市女子) 750m
700 650 ら00 全 550 結 扱50。 死 tr 450 率 40e ;’q
a 3r)〇 十 万300 包 25D 200 Ir)o Ioo roO 旧 2〔’ 30年 4u 5苓 bO 物〕 80 e i:fi,,, ’x,,ハ\
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IO 20 30 40 SO 60 nyO 80 年 今 一 180 一見る。其後各年令層に著しV・低下を見せ,特に乳 幼児,老年層は低下する。 農村女子(as vr図)も同じく青年層泉:も高く20 ∼25才層で明治4ユ年三ロ10万対死亡率392.0で老 年層の山,:或は隆起は見られなv・。明治から大正 9年迄農村青年女子は上昇しつづけ,その後は多 s r)a 500 65D 第NI図 全結核特殊死亡率(農村女子〉 600 t・ 5So 網 結5。9 核翔 死 亡4ao 率 ヌこ蜘 早300 鍬。 Y’@200 i50 1eD se X iJl >xt ]]一:’i i
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低下の傾向がある。一方,都会女子青年死亡率 低下の著しge fuめ,農村女子は大正ユ4年遂に都 女子青年死亡率よりも高率となる。 以上の所見を概括すると,明治から大正に及ぶ 市結核の高率の頃,女子に於ては特に青年層に しv・高率を示した。ここに繊維軽工業の著しい 達に基く女工哀史の悲劇を窺い,同時に医療の 困は結核の暴威にまかせ,身体的に抵抗弱き乳幼 ,環び老年層に高死亡率を示したと思われる。 に男子老年層は女子青年層に匹敵する高率であ た。 しかして明治以後都市結核死亡率の著しい低下 向に反し,農村は明治から大正にかけて漸次上 を示した。当時の都布老年,青年死亡率は漸次 下し,農村青年死亡率は高くなったが,これは 患帰郷,都鄙の交流等により,青年を通じて結 が次第に都市から農村へと侵襲して行ったもの 考えられる。 総 括 戦前迄の全結核死亡率を都鄙別,並びに男女別 年度を追って観察し,その結果を総括すれぱ, ぎのようである。 1)粗死亡率に於て,都市は明治がら大正の中頃 著しく高率で其後下降の一途を辿る。農村は明 から上昇し大正7年以後漸減傾向を示し,都鄙 に昭和以後再び上昇する。訂正死亡率も粗死亡 と同じ傾向を示すQ 2)粗死亡率と訂正死亡率を比較するに,都鄙共 明治41年は標準人ロと人口構成の差異が著しく いので,現代の大都市を含む府県の如く都鄙共 訂正死亡率は粗死亡率よりも低い。大正2年以 は青年層の都市集中の影響で,都市訂正死亡率 粗死亡率より低く,農村訂正死亡率は粗死亡率 りも高い。 3)男女総数に鋳て都市訂正死亡率は明治以後著 い高率を示したが,漸次下降したに反し,農村 は明治以後上昇傾向を示したのは,結核が都市 ら農村へと侵襲したものと思われる。農村は大 9年以後,漸減傾向を示したが,再び昭和10年 昭和5年よりも高率となった。 4)男女別訂正死亡率では都鄙共に女子は著しく 率を示したが,満洲事変頃を契機とする産業の 編成に伴い死亡率の上昇は都鄙共に男子に見ら ,肺結核よりもおくれて男女の位置は転換すQ
5)特殊死亡率に於ては,明治から大正に及ぶ都 結核死亡率の高率の頃,女子に於ては青年層, 子においては青年老年層に著しい高率を見た。 後都市結核死亡率の著しい低下の頃,男女共, 市老年,青年層は低下し,これにかわって農村 年層の上昇をみて,結核が青年を通して次第に 市から農村へ波及して行ったものと考えられ 。 終りに臨み,終始御懇篤なる御指導と,御校閲を賜 た吉岡博入教授に,謹んで御礼を申上ます。 文 献 1)吉岡博人 結核の諸統計,東西医学祉(昭和24年 2月) JcSb x L一(2)渡辺定府景別都鄙別最近の結核死亡の動向 公衆衛生学雑誌5,(3)115.(昭和23年) ⑧ 諸岡妙子 昭和22年度本邦性別年令別呼吸器結核 死亡率について女子医学研究21,(2)69∼74. (日召禾026翁三) ω 諸岡妙子 昭知22年度及昭和23年度本邦性別年令 別全結核死亡率について 女子医学研究 21,(3) 96∼1G4.(昭和26年) ㈲ 渡辺定 月別及び地域別結核死亡の最近の動向 衛生統計.5,(10,11)2.(昭和25年) 一一・@182 一・一