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メルヒェンと宗教教育(3)

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Academic year: 2021

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一 ﹁メルヒェンと宗教教育﹂ ︵ 3︶ [ 研究ノート

﹁メルヒェンと宗教教育﹂

3︶

佐々木

勝彦

野口芳子、奈倉洋子

  ﹃ グ リ ム 童 話 ﹄ に 収 め ら れ て い る 全 二 百 十 一 話 の な か で、 魔 女 について言及しているのは二〇話です。しかしこの他に﹁男の魔 女﹂の話もあり、魔女という言葉は、男女の性別を越えた包括的 な意味を含んでいることが分かります。   本項では、この﹁魔女﹂についてまとまった論考を展開してい る、 野 口 芳 子 著﹃ グ リ ム 童 話 と 魔 女 ︱︱ 魔 女 裁 判 と ジ ェ ン ダ ー の 視 点 か ら ︱︱﹄ ︵ 勁 草 書 房、 二 〇 〇 二 年 ︶ の 第 一 部 と、 名 倉 洋 子 著﹃ グ リ ム に お け る 魔 女 と ユ ダ ヤ 人 ︱︱ メ ル ヒ ェ ン・ 伝 説・ 神 話 ︱︱﹄ ︵ 鳥 影 社 ︶ を 中 心 に、 い わ ゆ る﹁ 魔 女 問 題 ﹂ に 関 す る 研究成果を紹介します。   な お 執 筆 の 時 点 で、 野 口 芳 子 は 武 庫 川 女 子 大 学 文 学 部 の 教 授、 そして名倉洋子は京都教育大学の教授であり、二人ともグリム兄 弟とその著作について多く論考を発表しています。 1︶   野口芳子   野 口 芳 子 著﹃ グ リ ム 童 話 と 魔 女 ︱︱ 魔 女 裁 判 と ジ ェ ン ダ ー の 視 点 か ら ︱︱﹄ は、 そ の 副 題 が 示 す 通 り、 歴 史 上 の﹁ 魔 女 裁 判 ﹂ と K H M に登場する﹁魔女﹂の関係を、 特に﹁ジェンダー社会学﹂ の視点から分析しています。その目次は、第一部﹁グリム童話の なかの魔女﹂ 、第二部﹁現実の歴史の中の魔女﹂ 、第三部﹁グリム 童話の魔女と魔女狩りの魔女被告﹂の三部から構成され、さらに 第一部は三章から、第二部は四章から成っています。その各章の 表 題 は 次 の 通 り で す。 第 一 部・ 第 一 章﹁ 女 の 魔 女︵ H e x e ︶ が 現 れる話﹂ 、 第二章﹁男の魔女︵ H e x e n m e i s t e r ︶が出現する話﹂ 、 第 三章﹁グリム童話の中で魔女以外で魔術を使う人びと﹂ 、第二部 ・ 第 一 章﹁ 古 代 の 魔 女 信 仰 ﹂、 第 二 章﹁ 近 世 の﹁ 新 し い 魔 女 ﹂﹂ 、 第

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二 三章﹁魔女狩りの犠牲者﹂ 、第四章﹁害悪魔術を使う魔女﹂ 。   本書において個別に言及されている童話の数に着目すると、第 一部・第一章﹁女の魔女が現れる話﹂には二〇話、第二章﹁男の 魔女が出現する話﹂には五話、そして第三章﹁グリム童話の中で 魔女以外で魔術を扱う人々﹂には一四話が、それぞれ収められて います。本項でこれらすべての内容を紹介することはできません が、 あらかじめそれらの作品名と K H M の番号を挙げておきます。 本書には索引がついていないため、今後、個別的作品の内容を検 討しようとする際に、それらはきっと役立つはずです。   第一部 ・ 第一章﹁女の魔女が現れる話﹂に収録されているのは、 次 の 二 〇 話 で す。 括 弧 の な か の 数 字 は K H M の 番 号 で す。 ﹁ か え るの王様﹂ ︵ 1 ︶、﹁兄と妹﹂ ︵ 11 ︶、﹁ヘンゼルとグレーテル﹂ ︵ 15 ︶、 ﹁ な ぞ な ぞ ﹂︵ 2 2 ︶、 ﹁ ブ レ ー メ ン の 音 楽 隊 ﹂︵ 2 7 ︶、 ﹁ ト ル ー デ おばさん﹂ ︵ 43 ︶、﹁六羽の白鳥﹂ ︵ 49 ︶、﹁めっけどり﹂ ︵ 51 ︶、 ﹁恋人ローラント﹂ ︵ 56 ︶、﹁二人兄弟﹂ ︵ 60 ︶、﹁千枚皮﹂ ︵ 65 ︶、 ﹁黄金の子ども﹂ ︵ 85 ︶、﹁青いあかり﹂ ︵ 116 ︶、﹁キャベツろば﹂ ︵ 122 ︶、﹁森の中の老婆﹂ ︵ 123 ︶、﹁鉄のストーブ﹂ ︵ 127 ︶、 ﹁ 白 い 花 嫁 と 黒 い 花 嫁 ﹂︵ 1 3 5 ︶、 ﹁ 森 の 家 ﹂︵ 1 6 9 ︶、 ﹁ 泉 の そ ばのガチョウ番の女﹂ ︵ 179 ︶、 ﹁太鼓たたき﹂ ︵ 193 ︶。   第二章﹁男の魔女が出現する話﹂に収録されているのは次の五 話です。 ﹁フィッチャー鳥﹂ ︵ 46 ︶、﹁大泥棒とその師匠﹂ ︵ 68 ︶、 ﹁ 黄 金 の 山 の 王 様 ﹂︵ 9 2 ︶、 ﹁ う つ ば り ﹂︵ 1 4 9 ︶、 ﹁ 大 男 と 仕 立 て屋﹂ ︵ 183 ︶。   第三章 ﹁グリム童話の中で魔女以外で魔術を扱う人々﹂ ︵ 1 ︶﹁各 話 の 紹 介 と 解 釈 ﹂ で は、 ﹁ 魔 術 を 扱 う 人 び と ﹂ の 話 が さ ら に 次 の 五 つ に 分 け ら れ て い ま す。 つ ま り、 ① ﹁ 魔 女 術 を 使 う 人 の 話 ﹂、 ② ﹁女の魔術師の話﹂ 、③ ﹁男の魔術師﹂ 、④ ﹁ 上 記 の 者 以 外 で 魔 法 を 扱 う 人 が 現 れ る 話 ﹂、 ⑤ ﹁ 賢 女 が 現 れ る 話 ﹂ の 五 つ で す。 そ して各項目には、次のような話が収録されています。   ①   ﹁白雪姫﹂ ︵ 53 ︶、 ﹁子羊と小魚﹂ ︵ 141 ︶。   ②   ﹁ランプツェル﹂ ︵ 12 ︶、﹁ヨリンデとヨリンゲル﹂ ︵ 69 ︶、 ﹁六人の家来﹂ ︵ 134 ︶、 ﹁水晶玉﹂ ︵ 197 ︶。   ③   ﹁歌うぴょんぴょん雲雀﹂ ︵ 88 ︶、﹁ガラスの棺﹂ ︵ 163 ︶。   ④   ﹁黄 金 の 鳥 ﹂︵ 5 7 ︶、 ﹁ 蜜 蜂 の 女 王 ﹂︵ 6 2 ︶、 ﹁ 恐 い も の し ら ず の 王 子 ﹂︵ 1 2 1 ︶、 ﹁ い ば ら 姫︵ 眠 れ る 森 の 美 女 ︶﹂ ︵ 50 ︶。   ⑤   ﹁一 つ 目、 二 つ 目、 三 つ 目 ﹂︵ 1 3 0 ︶、 ﹁ 池 に 住 む 水 の 精 ﹂ ︵ 181 ︶。

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三 ﹁メルヒェンと宗教教育﹂ ︵ 3︶   第一部・第一章   ﹁女の魔女︵ Hexe ︶が現れる話﹂   ︵ 1︶   ﹁各 話 の 紹 介 と 解 釈 ﹂ ︱︱ 本 項 で は、 全 二 〇 話 の な か か ら五つの話を選び、その解釈の概要を紹介します。   ﹁蛙の王様﹂ ︵ K H M 1 ︶   で は 早 速、 ﹁ 蛙 の 王 様 ﹂︵ K H M 1 ︶ の ケ ー ス を 見 て み ま し ょ う。 著者はまず、初稿︵手書き原稿︶から決定版にいたるまでの各版 の特徴をドイツ語の原文に当りながら検討し、第四版まで登場し なかった魔女が、第五版︵一八四三年︶になって突然現れ、そし てそれ以後定着して行くことを確認しています。この部分はヴィ ルヘルム・グリムによる加筆であり、著者はこの加筆の意味をそ の 類 話 か ら 次 の よ う に 説 明 し て い ま す。 つ ま り 類 話 の な か に は、 結婚後、王子が浮気をして王女のことを忘れてしまうという後日 譚がついたものもあり、元来この説話は﹁結婚=ハッピー・エン ド ﹂ で 終 わ る 話 で は あ り ま せ ん で し た。 ス ラ ブ 地 方 の 類 話 に は、 蛙が蛇やザリガニになっているものもあり、それらはいずれも多 産 ・ 豊穣 ・ 性欲のシンボルであることを考えると、ヴィルヘルム ・ グ リ ム に よ る こ の 加 筆 は、 こ れ ら の キ リ ス ト 教 以 前 の 民 間 信 仰、 豊穣信仰をキリスト教の枠組みのなかに抑え込む役割を果たして います。また類話において魔法を解く鍵は、キスをする、添い寝 をする、首をはねることにあり、これを決定版の内容と比較する と、たとえ親の命令であろうとも、意に沿わない独身の相手と性 交渉をもつことを明確に否定した王女の行動は、極めて独自なも ののようにみえます。しかし著者によると、ハインツ・レレケが 主張するように、ここから主体性を貫く女性の姿を読み取ること は行き過ぎであり、むしろ時代の要請する女性像が投影されてい ると考えるべきです。つまり﹁女性の貞操を非常に重視した当時 のキリスト教社会では、この王女のように誘惑に負けず、操を守 り 通 せ る 女 性 の み が 幸 福 に な る 資 格 が あ っ た ﹂︵ 五 頁 ︶ の で す。 そして著者は﹁蛙の王様﹂の分析をこう結んでいます。   ﹁ 魔 女 に よ り エ ロ ス の 象 徴︵ 蛙 ︶ に 変 身 さ せ ら れ た 王 子 を 救 出 し た の は、 処 女 で あ る 王 女 の 毅 然 と し た 態 度、 親 を も 越 え る 強 い 貞 操 心 で あ る。 エ ロ ス に よ る 誘 惑︵ 蛙 ︶ を 手 引 き す る の に 魔 女 を 引 き 合 い に 出 す と こ ろ に、 グ リ ム 兄 弟 に よ る 近 代 化 の 手 法 が う か がわれる。つまり、 彼らが生きた﹁近代﹂といわれる一九世紀は、 ミ ソ ジ ニ ー︵ 女 性 嫌 悪 ︶ の 時 代 で も あ り、 そ の 中 で も 彼 ら は ス ト イックで敬虔な改革派 ︵カルヴァン派︶ 信者であった。その ﹁近代﹂ の 思 想 的 指 導 者 で あ り、 優 秀 な 学 者 で あ る グ リ ム 兄 弟 は、 同 時 代 の 学 者 た ち と 同 じ よ う に、 近 代 の 家 父 長 制 の パ ラ ダ イ ム の な か に が っ ち り と 絡 め と ら れ て い た。 エ ロ ス の 誘 惑 と 魔 女 の 結 び つ き、 こ れ こ そ が 大 学 で ロ ー マ 法 の 知 識 を 身 に つ け た 法 律 家 で あ る﹁ 学 識 法 曹 ﹂ に よ っ て、 魔 女 裁 判 で 繰 り 返 し 強 調 さ れ た 事 項 な の で あ

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四 る﹂ ︵五頁以下︶ 。   ﹁兄と妹﹂ ︵ K H M 1 1 ︶   この話の初稿︵一八一〇年︶には継母も魔女も登場せず、王妃 になった妹を殺そうとするのは姑です。そしてその話は、姑が王 妃と鹿を処刑しようとするところで、 未完のまま終わっています。 ところが初版になると、魔女である継母が登場し、その話の大筋 は決定版まで変わりません。ただし継母の実の娘の容貌に関する 説 明 が、 ﹁ 夜 の よ う に 醜 く、 目 が 一 つ し か な い ﹂ と い う 表 現 に な るのは第二版︵一八一九年︶からです。この実の娘は、第一版で は殺人に加担していなかったのですが、第二版では母親の継子殺 しに手を貸しています。   著者は、ここに﹁美=善﹂ 、﹁醜=悪﹂というステレオタイプな 発想が表れていると解釈し、しかもそれが女性に限定されている 事 実 に 着 目 し て い ま す。 こ の よ う な 発 想 は、 ﹁ 産 業 革 命 が も た ら した役割分担社会である ﹁近代﹂ のイデオロギーの洗礼を受けた﹂ ︵ 八 頁 ︶ 結 果 で あ り、 そ れ 以 前 の 時 代、 例 え ば ロ コ コ 時 代︵ 一 七 世紀末から一八世紀︶のフランスでは、男性も美しくなければな りませんでした。特に権力の座にある男性は、整髪、化粧、華美 な 服 装、 装 飾 品 に 心 を 砕 き、 ﹁ 美 し さ ﹂ に よ っ て 人 び と の 尊 敬 を 得ようとしました。   ﹁ヘンゼルとグレーテル﹂ ︵ K H M 1 5 ︶   ここでは、魔女は、目が赤く、極度の近視で、嗅覚が獣なみに 発達し,人肉、特に子供の肉を好んで食べる、足腰の弱った老婆 として描かれています。初稿では単に﹁老婆﹂となっていた表現 が、初版において﹁石のように年とった老婆﹂と修正され、この 変更のなかに魔女に対する強い蔑視の感情を読み取ることができ ます。   魔女の目が赤いことについては、神話学あるいは宗教史の知識 からいくつかの説が紹介されています。例えば、ゲルマン神話に 登場する天候神・雷神トールには、聖獣として牡ヤギが仕えてい ました。しかしゲルマン民族の間にキリスト教が浸透するにつれ て、ゲルマンの神々は徐々に悪魔や魔女として排除され、それに 仕えていた聖獣牡ヤギも悪魔の一族とみなされるようになりまし た。時代が下ると、悪魔はこの牡ヤギの姿でイメージされるよう になり、その目は赤く、さらにこの悪魔に仕える魔女の眼も赤い のは当然のこととみなされました。なお、魔女の目が赤いことに つ い て は、 ﹁ ヨ ー ロ ッ パ に 古 く か ら 伝 わ る 民 衆 信 仰 で あ る 邪 眼 信 仰 ﹂︵ 六 四 頁 ︶ の 影 響 も 忘 れ て は な り ま せ ん。 異 教 の 神 の 忠 実 な 僕が魔女と同一視されて行った他の話としては、北欧神話に登場 する愛の女神フレイアに仕えていた猫の例があります。   嗅覚が鋭いことは、魔女が理性的存在である人間よりも、本能

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五 ﹁メルヒェンと宗教教育﹂ ︵ 3︶ 的存在である動物に近いことを示唆しています。   なお魔女の人食の歴史的背景について、著者は、カニバリズム や古代の豊穣神︵女神︶への供犠儀式だけでなく、堕胎や産児制 限で赤子を闇に葬らざるをえなかった女性の立場から考えるべき ではないか、と問いかけています。 ﹁魔女の﹁人食い﹂は、堕胎、 死産、流産、不妊の女性に向けられた社会の冷酷な眼差し、差別 意 識 が 生 み 出 し た 独 特 の 象 徴 的 表 現 と も 読 め る ﹂︵ 一 三 頁 ︶ か ら です。   ﹁なぞなぞ﹂ ︵ K H M 2 2 ︶   こ こ に も 継 母 で あ る 魔 女 が 登 場 し ま す が、 そ も そ も こ の 話 が K H M に挿入されたのは、初版ではなく第二版からでした。しか もこの第二版では、 息子に毒の飲み物を与えたのは魔女ではなく、 彼 の 両 親 で し た。 そ れ が﹁ 悪 い 魔 女 の 仕 業 で し た ﹂ と な る の は、 第三版︵一八三七年︶からです。なぜこのような変更が必要だっ た の で し ょ う か。 ﹃ ド イ ツ 伝 説 集 ﹄ に は、 悪 い 両 親 が 頻 繁 に 登 場 することを念頭に置くと、この変更は明らかに意図的なものと考 えられます。そこには、悪い母親を継母に、さらに彼女を魔女に 書き換えることにより、読者の理想的な家族像を守ろうとするも くろみが感じられます。グリム兄弟は、 ﹃グリム童話﹄を通じて、 ビ ー ダ ー・ マ イ ヤ ー 時 代︵ 一 八 一五 -四 五 ︶ の 都 市 市 民 に、 平 和 と調和に満ちた家族像を提供しようとしたのです。   し か し そ れ に も か か わ ら ず、 こ こ に お い て 悪 役 を 演 ず る の は、 なぜ男性ではなく、女性なのでしょうか。著者はこの問題に答え る た め に、 歴 史 上 の 魔 女 裁 判 の 記 録︵ 一 五 六 三 年、 七 月 一 二 日 ︶ と当時の社会構造から、次のような事実を引き出しています。つ まり、この当時、魔術は、血縁関係に関係なく、女性から女性に 伝達されるという共通認識があったこと、さらに女性は料理だけ でなく、食料の生産、管理全般に携わり、その労働力は家計を支 えるうえで不可欠であったことです。ところが女性の生産技術が 向 上 し、 そ の 生 産 物 が 市 場 に 出 回 る よ う に な る と、 男 性 職 人 は、 そ の 余 剰 生 産 物 に、 魔 術 で 作 ら れ た 毒 が 混 入 さ れ て い る な ど と いった非難を浴びせ、女性を歴史の表舞台から排除しようとしま した。魔女が登場する背景には、このような市場からの男性によ る 女 性 の 排 除 と い う 社 会 史 的 事 実 が あ っ た の で す。 こ の 意 味 で、 ﹃グリム童話﹄は一貫して﹁男性側の視点﹂ ︵二三頁︶に立ってい ます。   では、マールブルク大学法学部で学んだグリム兄弟は、魔女裁 判 の 事 例 に 精 通 し て い た の で し ょ う か。 著 者 の 答 え は﹁ イ エ ス ﹂ です。それは﹁魔女的存在に関する豊富な語彙、概念別使用法に も よ く 現 れ て ﹂︵ 一 七 頁 ︶ い ま す。 悪 い 魔 女 に は ヘ ク セ︵ H e x e ︶、 魔 術 を 使 う が 悪 く は な い 女 の 魔 術 師 に は ツ ァ ウ ベ リ ン︵ Z a u

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-六 b e r i n ︶、 ひ と に 有 益 で 神 通 力 を も つ 賢 女 に は ヴ ァ イ ゼ・ フ ラ ウ ︵ w e i s e F r a u ︶ と い う ド イ ツ 語 が 当 て ら れ、 そ の 使 用 法 は 版 を 重 ねるごとに徹底していったからです。   ﹁泉のそばのガチョウ番の女﹂ ︵ K H M 1 7 9 ︶   ﹃ グ リ ム 童 話 ﹄ で は、 多 く の 場 合、 魔 女 は 老 婆 で 悪 人 と さ れ て いますが、ここではむしろひとを救う善人の役割を果たしていま す。判断を誤って善良な末娘を追い出した父王に代わって、老婆 は娘を保護し、教育し、やがて幸せに暮らすことができるための 様々な配慮を行っています。娘は、老婆のおかげで、美しさと優 しさと忍耐力を兼ね備えた若い伯爵と出会い、最終的に幸せな結 婚 生 活 に 入 っ て い ま す。 そ し て こ の 話 は、 ﹁ お ば あ さ ん が、 み ん なの信じていたように、魔女ではなく、やさしい心の賢い女のひ とであったことだけは、たしかです﹂という言葉で結ばれていま す。   著者はこの最後の言葉のなかに、初期の魔女裁判で問題とされ た、魔女であるかどうかを判断する際の不可欠の要素、つまり当 該の魔術が﹁害悪魔術﹂であるのか、それとも﹁有益魔術﹂ある のかを問いただす問題意識を読み取っています。 ﹁害悪魔術﹂ とは、 人や家畜に、病気、けが、死をもたらす魔術、嵐、雹、水害など の 災 害 を 引 き 起 こ し て、 作 物 に 害 を 与 え る 魔 術、 さ ら に 夫 婦 に、 不和、不能、不妊、貧困をもたらす魔術を指します。同じ魔術で も、 ﹁ 害 悪 魔 術 ﹂ で な い と 判 定 さ れ れ ば、 魔 女 と 認 定 さ れ る こ と はなく、火刑に処せられることもありませんでした。   たしかにこの説話の結びの言葉は、この老婆はむしろ﹁有益魔 術﹂を使う賢女であって、魔女ではないと語っています。しかし ﹃グリム童話﹄に登場する個々の魔女像を全体として捉えるとき、 一体どんな魔女像が浮かび上がってくるのでしょうか。この問い に対し、著者は﹁女の魔女の話のまとめ﹂のなかでこう述べてい ます。   害 悪 魔 術 の 行 使 を 疑 わ れ て 隣 人 か ら 告 訴 さ れ た 魔 女、 書 物 で は な く 生 活 が 生 み 出 し た 魔 女 被 告、 庶 民 の 突 き 上 げ に よ っ て 魔 女 に 仕 立 て 上 げ ら れ た 被 疑 者 な ど、 こ う し た 魔 女 狩 り の 犠 牲 者 た ち の 姿 で は な く、 グ リ ム 童 話 の 魔 女 は、 も っ と 以 前 の、 古 代 の 魔 女 信 仰の頃の魔女を再現しているようである。 ﹁赤い目﹂ や﹁猫﹂ や﹁石﹂ な ど 古 代 信 仰 と の 繋 が り の あ る も の の み が 吟 味 さ れ て、 魔 女 と 共 に出現しているのはそのためである。 確実なのは、 ﹃グリム童話集﹄ の 魔 女 は、 ﹃ 魔 女 の 鉄 槌 ﹄ の 書 物 に 記 さ れ た 魔 女 と は 異 な る と い う こ と だ 。 魔 女 裁 判 の 裁 判 官 た ち ﹁ 学 識 法 曹 ﹂ が 持 っ て い た ﹁ デ モ ノ ロ ジ ー ︵ 悪 魔 学 ︶﹂ と し て の 魔 女 、 す な わ ち 悪 魔 と 契 約 し て サ バ ト ︵ 魔 女 集 会 ︶ で 狂 騒 す る 淫 ら な 魔 女 、 男 性 を 性 的 に 誘 惑

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七 ﹁メルヒェンと宗教教育﹂ ︵ 3︶ す る 魔 女 は 、﹃ グ リ ム 童 話 集 ﹄ に は 出 現 し て い な い 。 文 字 文 化 を 所 有 す る 知 識 階 層 の 持 つ 魔 女 像 と 、 文 字 を 知 ら な い 民 衆 の 持 つ 魔 女 像 の あ い だ に は 、 大 き な ず れ が あ る よ う に 思 う ︵ 七 〇 頁 以 下 ︶。   第二章   ﹁男の魔女︵ Hexenmeister ︶が出現する話﹂   ︵ 1︶   ﹁各 話 の 紹 介 と 解 釈 ﹂ ︱︱ 本 項 で は、 ﹁ フ ィ ッ チ ャ ー 鳥 ﹂ の解釈を中心に紹介します。   ﹁フィッチャー鳥﹂ ︵ K H M 4 6 ︶   こ の 話 に 登 場 す る 男 の 魔 女 は、 結 婚 相 手 を 求 め て 娘 を 誘 拐 し、 ﹁ 見 る な の 部 屋 ﹂ の 鍵 と 卵 を 渡 し て 娘 の 好 奇 心 と 従 順 さ を テ ス ト し、これに失敗すると、その娘の体を切り刻んでしまいます。こ の男は害悪魔術を行うわけでも、ひとを石や木や動物に変身させ るわけでもなく、ただ、多くの女性を誘拐し、レイプするために 魔術を用いています。今日の感覚で捉えると、これは正真正銘の 誘拐殺人事件です。ここには、古代の魔女信仰を思い起こさせる ものは見当たらず、また近代の魔女裁判で処刑されたケースとも 微 妙 に 異 な り ま す。 と い う の は、 魔 女 と し て 処 刑 さ れ た 男 性 は、 たいてい妻帯者か妻帯経験者だったからです。   著者によると、この未婚の男性の話の背後には、結婚したくて も主に経済的理由でできなかった男女の存在と、性衝動に関する 社会の意識の変化があります。後者に関して大きな影響を及ぼし たのは、フィヒテによって代表されるような啓蒙主義の女性観で す。それまでは、女性は男性と異なり、理性によって感情をコン トロールすることが苦手なため、性的誘惑に弱い存在と考えられ ていました。そのため性的誘惑がらみの犯罪においては、常に女 性だけが責任を問われました。 ところが啓蒙主義の時代になると、 ﹁突然、女は純粋無垢で、性的衝動のない存在﹂ ︵七一頁︶とみな さ れ る よ う に な り ま し た。 し か し こ の 話 に 登 場 す る 男 の 魔 女 は、 本当にこのような理想を追い求めて、誘拐殺人事件を引き起こし たのでしょうか ?   テストに合格すると、三番目の娘と男の魔女 の力関係は逆転しています。これは何を意味するのでしょうか ?   そしてその結末は何を意味するのでしょうか ?   なお、著者は、 ︵ 2 ︶﹁男の魔女の話のまとめ﹂のなかで、この 話の類話であり、かつて K H M の初版にも収録され、第二版で削 除された ﹁青髭﹂ ︵シャルル ・ ペロー︶ のあらすじを紹介した後で、 次のように述べています。   ﹁ 女 の 好 奇 心 は 性 的 好 奇 心 を 指 す と さ れ て い た 頃、 こ の 話 が 意 味 す る と こ ろ は 明 ら か で あ ろ う。 使 用 禁 止 を 命 じ ら れ て い た 鍵 を 使 っ て、 ﹁ 見 る な の 部 屋 ﹂ を 覗 き、 そ の 結 果、 鍵 に 血 が つ い た と い う こ と は、 す な わ ち 娘 が 貞 操 を 守 ら ず、 夫 を 性 的 に 裏 切 っ た こ

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八 とを意味する。あえて、 心理学的解釈を待つまでもないであろう。 鍵 だ け で な く、 ご 丁 寧 に 卵 ま で 渡 し て、 肌 身 離 さ ず 大 切 に 持 っ て い る よ う に と い う 夫 の 言 葉 か ら、 こ の 小 部 屋 と は 妻 の 子 宮 を 暗 示 す る も の で あ ろ う。 夫 が 留 守 の 間、 夫 は 妻 に 全 て の 鍵 を 渡 す が、 一番小さな部屋の鍵だけは開けるなと命令する﹂ ︵八八頁︶ 。   こ の﹁ フ ィ ッ チ ャ ー 鳥 ﹂ 以 外 の﹁ 男 の 魔 女 が 出 現 す る 話 ﹂ は、 著者によるといずれも、訳語としては﹁男の魔女﹂というよりも 魔術師という言葉の方が適切な内容になっています。彼らの魔術 は、害悪魔術でも性的誘惑の魔術でもなく、彼らは、現実の魔女 裁判で被告とされた男の魔女ではありません。むしろ﹁大男と仕 立 て 屋 ﹂︵ K H M 1 8 3 ︶ の 話 に は、 古 代 の 魔 女 信 仰 に お い て 魔 術 の 道具とされた﹁アルラウネ﹂が出てくることから、古代の魔女信 仰における男の魔術師に近い存在がイメージされていると考えら れます。   なお、歴史上の魔女裁判において、かなりの数の男性が魔女と して処刑されるようなったのは、その裁判の後期になってからで あり、その背後には、政治闘争、経済闘争、相続争い、金銭上の トラブル、本人や家族の体面などの問題があり、その目的は処刑 者の財産没収、地位剥奪、恨みの報復にあったと想定されていま す。   第三章   ﹁グリム童話の中で魔女以外で魔術を扱う人々﹂   ここでは、魔女以外に魔術を扱う人間として次のような人びと が挙げられています。つまり ﹁魔女術 ︵ H e x e n k u n s t ︶ を使う人﹂ 、 ﹁ 女 の 魔 術 師︵ Z a u b e r i n ︶ ﹂、 ﹁ 男 の 魔 術 師︵ Z a u b e r e r ︶ ﹂、 ﹁ 魔 法 ︵ Z a u b e r ︶ を 使 う 人 ﹂、 そ し て﹁ 賢 女︵ w e i s e F r a u ︶ ﹂ で す。 彼 ら が 登場する K H M の番号は、すでにこの項の最初の部分で紹介した 通りですので、それを参照してください。   そ れ ら 全 部 で 一 四 の 話 を 個 別 的 に 取 り 上 げ て 分 析 し た 結 果 を、 著者は次のようにまとめています。   ﹁ グ リ ム 童 話 に 描 か れ て い る 魔 女 以 外 の 魔 術 的 存 在 は、 い ず れ も 慈 し み 深 い 父 母 の よ う な 保 護 者 的 愛 情 を 持 っ て い る。 魔 女 術 を 使う継母でさえ、 継子抹殺を目論むものの、 実際には遂行できず、 中 途 半 端 な 結 果 に 終 わ っ て い る。 愛 情 と 憎 悪 が 引 き 金 と な る 魔 女 術 に は、 怖 さ よ り 母 の 哀 し さ が 見 え て く る。 女 の 魔 術 師 は、 子 供 の 幸 せ を 願 っ て 保 護 し、 説 教 し つ つ 援 助 す る の だ か ら、 母 親 か ま た は 母 親 に 限 り な く 近 い 存 在 で あ る。 一 方、 男 の 魔 術 師 は、 干 渉 せ ず 遠 く か ら 娘 を 見 守 る と い う 理 想 的 父 親 像 を 具 現 し て い る。 ま た、 賢 女 は、 対 抗 魔 術 で 魔 術 を 破 る 善 な る 存 在 と し て 描 か れ て い る。 ﹁ 魔 女 は 悪、 賢 女 は 善 ﹂ と い う 善 悪 二 元 論 に 基 づ い た 色 分 け が 見 え る。 こ の 区 分 は グ リ ム 兄 弟 が よ り 明 確 化 し た も の だ。 グ リ

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九 ﹁メルヒェンと宗教教育﹂ ︵ 3︶ ム 兄 弟 は 魔 女 で は な く て、 魔 女 以 外 の 魔 術 的 存 在 に、 よ り 鮮 明 に ﹁豊穣神﹂ や ﹁大地母神﹂ といった古代の神々の ﹁命を恵み、 育て、 開花させる﹂役割を担わせている﹂ ︵一四一頁︶ 。   この最後のまとめの部分は、わたしたちにひとつの大きな問い を投げかけずにおきません。それは、この﹁善悪二元論﹂と﹃グ リム童話集﹄の読者である﹁子ども﹂の関係を、どのように考え るのかという問題です。   ﹁六人の家来﹂ ︵ K H M 1 3 4 ︶の解説のなかで著者はこう述べてい ま す。 ﹁ 善 も 悪 も 併 せ 持 つ の が 人 間 と い う も の な の に、 グ リ ム 童 話では、人物が善人か悪人かどちらかに色分けされている。魔女 や魔術師は悪で、主人公は善というわけだ。悪は、悪人にそその かされて入れられるもので、善人には本来ないものと思わされて しまう。女魔術師の悪の度合いが、初版より決定版のほうがはる かに強調されているのはそのためだ。本当に強くて賢い相手が現 れるまで、娘を手放そうとしないのは、魔術師ゆえなのか、母親 ゆえなのか、その判断が難しいところだ﹂ ︵一〇九頁以下︶ と。   ﹁ 善 も 悪 も 併 せ 持 つ の が 人 間 と い う も の だ ﹂ と い う 主 張 に、 た しかにわたしたち大人は共感するかもしれません。しかしこれは やはりどこまでも大人の論理であって、子どもにはそのまま受け 入れにくい発想です。例えば、信号機の色が、赤と青の二色しか ないとすれば、しかも点滅によりその切り替えを知らせる装置が 組み込まれていないとすれば、どうなるでしょうか。大人の社会 では、車の問題もあり、大混乱に陥るかもしれませんが、幼稚園 児 や 小 学 一 年 生 の 場 合 は、 そ れ ほ ど 困 ら な い の か も し れ ま せ ん。 むしろ青が点滅し、 黄色の代わりをするから、 判断に迷うのです。 子どもには、曖昧な中間項のない﹁二元論﹂の方が分かりやすい のです。   人間の認識の発達は、明らかに基本的信頼に基づく健全な﹁二 元論﹂を基盤としています。これを身につけないまま育った子ど もは、その後の家庭教育、学校教育、そして社会教育において途 方もない苦労を背負うことになります。したがって﹁二元論﹂を 絶対的に否定するのではなく、それを認めつつ、さらにそれを相 対化する力を身につけることができるように配慮すること、これ が教育者に期待されている重い課題です。   さらに、 ﹁昔話﹂の様式論のところで言及した、あの﹁中間色﹂ が欠けているという話も、わたしたちの問題と深く関連していま す。読む言葉ではなく、 聞かれることを前提とした ﹁語る言葉﹂ は、 そもそも﹁原色﹂によって表現され、語られてきました。子供を 対象とするかぎり、語る者は﹁二元論﹂の限界を知りつつ、それ を提供しなければなりません。   歴 史 上 の 魔 女 裁 判 に み ら れ る 悲 劇 は、 た し か に こ の﹁ 二 元 論 ﹂

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一〇 がもたらした不幸な帰結です。したがって常にこの危険性を指摘 する必要があるのですが、 ﹁二元論﹂ を完全に否定しようとすると、 もう一つ別の﹁罠﹂にはまってしまう事実は、歴史が示している 通りです。どこかで﹁二元論﹂が﹁健全に﹂機能しないと、むし ろカオスが生じ、 それを避けようとして、 かえって独裁的リーダー シップを呼び込んでしまいます。   以上が、第一部﹁グリム童話の中の魔女﹂の概要です。これに 続く第二部﹁現実の歴史の中の魔女﹂は、 その標題の通り﹁魔女﹂ の歴史を古代から近代まで具体的に跡づけています。全体の構成 は、第一章﹁古代の魔女信仰﹂ 、第二章﹁近世の﹁新しい魔女﹂ ﹂、 第 三 章﹁ 魔 女 狩 り の 犠 牲 者 ﹂、 第 四 章﹁ 害 悪 魔 術 を 使 う 魔 女 ﹂ の 四章から成っています。今回は紙幅の関係で、残念ながらこの興 味深い第二部の内容を紹介することはできません。しかし、第三 部﹁グリム童話の魔女と魔女狩りの魔女被告﹂との関連で、次の 二つのことを取り上げておきましょう。   そのひとつは、古代の魔女は﹁善悪両面を備えた存在﹂でした が、近代の魔女は﹁悪魔と結託する存在﹂ 、﹁異教を信じ布教する 存在﹂とみなされ、魔女裁判では、魔女集会に参加していた人び との名前を挙げるように自白を強要されたことです。魔女裁判の マ ニ ュ ア ル 本 と な っ た﹃ 魔 女 の 鉄 槌 ﹄︵ 一 四 八 七 年 ︶ は 女 性 に 対 する不信感と嫌悪感に満ちており、その女性蔑視の眼差しは全巻 を貫いています。   もうひとつは、第四章﹁害悪魔術を使う魔女﹂において、五種 類の魔女の例が、つまり ① ﹁牛乳魔女﹂ 、② ﹁ 病 気 や 死 を 呼 ぶ 魔 女 ﹂、 ③ ﹁ 子 ど も を 食 べ る 魔 女 ﹂、 ④ ﹁ 性 愛 魔 女 ﹂、 そ し て ⑤ ﹁ 天 候魔女﹂ 、の例が挙げられていることです。これに続く第三部﹁グ リム童話の魔女と魔女狩りの魔女被告﹂は、この五つの魔女のタ イプがはたしてグリム童話に登場しているのかどうかを検証して います。   ここでは、それぞれの検討結果だけを紹介しておきます。   ﹁牛乳魔女﹂   この牛乳魔女とは、牛乳泥棒と、バター作りに失敗して乳脂肪 泥棒と疑われた女性のことですが、男性の牛乳泥棒の話は見当た りません。それは、この当時、馬以外の家畜の世話はすべて女性 の仕事であったためと考えられています。またこのように、自ら の不運を他人のせいにしようとする心理の背後には、いわゆる心 理的嫉妬だけでなく、この時代固有の固定観念が働いていたとさ れています。それは﹁財は常にその総量が一定である﹂とする観 念です。この観念のもとでは、誰かが豊かになることは、誰かが 貧しくなることを意味していました。

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一一 ﹁メルヒェンと宗教教育﹂ ︵ 3︶   こ の 固 定 観 念 に つ い て、 ﹃ 魔 女 に さ れ た 女 性 た ち ﹄︵ 野 口 芳 子、 小 山 真 理 子 訳、 勁 草 書 房、 二 〇 〇 三 年 ︶ を 書 い た イ ン グ リ ッ ト・ ア ー レ ン ト = シ ュ ル テ は こ う 述 べ て い ま す。 ﹁ そ の 背 後 に は、 農 耕社会で普及していた﹁財はその総量が一定である﹂という概念 があった。自由にできる土地および土地の収穫や畜産物などは限 度があり、それに応じて財の総量は一定であるということが体験 から知られていた。この社会の中では、ひとより多くの物を手に 入れた人は、その分、誰かに損害をおしつけたことになる。つま り、 増 産 は 他 人 の 減 産 の 上 に 達 成 し た 行 為 で あ っ た。 要 す る に、 あ る 人 の 富 は 他 の 人 の 貧 困 を 引 き 起 こ し た こ と に な る ﹂︵ 二 九 頁 以下︶ と。なお、 この書物は、 ﹁近世初期ドイツにおける魔女裁判﹂ に関する貴重な資料を前提としており、著者野口の研究に大きな 影響を与えています。   では、 グリム童話には ﹁牛乳魔女﹂ は出てくるのでしょうか。 ﹁出 てこない﹂ というのが正解です。 ただし牛乳が貴重な食料品であっ たことは、グリム童話においても話の大前提になっています。   ﹁病気や死を呼ぶ魔女﹂   この魔女の出現について、著者は次のような説明を加えていま す。   ﹁ 魔 女 が 接 触 や 呪 文 や 呪 物 に よ っ て 人 や 家 畜 に 被 害 を 及 ぼ す と い う 考 え 方 は、 接 触 や 祝 福 や 聖 物 で 治 す 治 療 魔 術 の 逆 の 論 理 で あ る。 つ ま り 治 療 と 害 悪 は 同 じ も の の 表 裏 を な し て い る の で あ る。 本 来、 魔 術 は 善 悪 両 面 を 持 つ 両 義 性 を 含 む 業 で あ っ た。 そ れ が、 善 と 悪 を 二 つ に 分 け る キ リ ス ト 教 神 学 の 善 悪 二 元 論 に よ っ て、 す な わ ち ア ウ グ ス テ ィ ヌ ス の 神 の 国 と 悪 魔 の 国 の 二 項 対 立 論 に よ っ て、 霊 の 持 つ 両 義 性 が 否 定 さ れ た の で あ る。 ⋮⋮   し か し、 魔 女 狩 り を 実 際 に 推 し 進 め た の は 支 配 者 当 局 で は な く、 共 同 体 の 民 衆 の 方 で あ っ た。 悪 魔 学 の 知 識 か ら で は な く、 災 害、 疫 病、 天 候 不 順と、 戦争などによって疲弊と窮乏のなかで生活していた民衆が、 生 存 意 欲 を 失 わ な い た め に、 あ る い は 自 己 弁 護 の た め に 魔 女 告 訴 に走ったのだ﹂ ︵一八五頁︶ 。     この説明のなかで、キリスト教の善悪二元論の元凶はアウグス ティヌスであるとの主張には簡単に同意できませんが、その他の 部分には耳を傾けるべきものが含まれています。では、グリム童 話 に は、 こ の よ う な 魔 女 が 登 場 す る の で し ょ う か。 ﹁ 人 に 病 気 を もたらして生死を左右する魔女狩りの魔女﹂は、グリム童話には 登場しない、というのが著者の答えです。グリム童話では、病気 や死をもたらすのは神であるケースが大部分です。

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一二   ﹁子どもを食べる魔女﹂   ﹃魔女の鉄槌﹄ ︵一四八七年︶では、この魔女になる危険性が高 い職業として産婆が想定されていますが、 現実には産婆ではなく、 産褥奉公人や近隣の婦人たちが、赤子の死の責任を問われ、魔女 として告発されています。この当時、産婆は社会にとって必要不 可欠な存在であり、むしろ一般に尊敬されていました。またいわ ゆる嬰児殺しの裁判はこの魔女裁判と明確に区別され、火刑は魔 女罪にのみ適用されました。   ﹁ ヘ ン ゼ ル と グ レ ー テ ル ﹂︵ K H N 1 5 ︶ 、﹁ め っ け ど り ﹂︵ K H M 5 1 ︶ 、﹁ 子 羊 と 小 魚 ﹂︵ K H M 1 4 7 ︶ に は、 た し か に 子 供 を 食 べ よ う とする魔女が出現しますが、いずれも未遂に終わっています。し たがって魔女神話の赤子を食べる魔女は、グリム童話には見当た りません。実際にひとを食べるのは、男の魔女や盗賊であり、男 が娘を食べるとは、おそらくレイプのことを指しています。   ﹁性愛魔女﹂   ﹃ 魔 女 の 鉄 槌 ﹄ が 害 悪 魔 術 と し て 真 っ 先 に 挙 げ て い る の が、 こ の性愛魔術です。それは、男を不能にし、女を不妊にし、夫婦の 営みを妨げる魔術、男の性器を取り去る魔術、愛情や憎悪を起こ させる魔術であり、ときには動物への変身の魔術もこれに含まれ ます。   グリム童話には、性愛魔術により男性を不能に、また女性を不 妊にする魔女は登場しません。ただし、男が恋に陥るのは﹁女の 魔 術 ﹂ の せ い で あ る と す る 話 は 少 な く あ り ま せ ん。 例 え ば、 ﹁ 恋 人 ロ ー ラ ン ト ﹂︵ K H M 5 6 ︶ 、﹁ 鉄 の ス ト ー ブ ﹂︵ K H M 1 2 7 ︶、 ﹁ 歌 う ぴょんぴょん雲雀﹂ ︵ K H M 8 8 ︶ 、﹁キャベツろば﹂ ︵ K H M 1 2 2 ︶、﹁太 鼓たたき﹂ ︵ K H M 1 9 3 ︶ のなかには、 婚約者または妻がありながら、 他の女と結婚しようとする男が出てきます。なお、現実の魔女裁 判では、動物への変身魔術のゆえに告訴される例は少ないのです が、グリム童話にはたくさん出てきます。著者は、このように魔 女裁判では妄想とみなされていた変身魔術だけが強調されている 事実の背後に、古代に造詣の深かったグリム兄弟の特別な意図が あ る と 考 え て い ま す。 つ ま り 彼 ら は、 ﹁ 近 世 の 魔 女 裁 判 に お け る 被告のイメージ︵牛乳魔女、天候魔女など︶をあえて消し、古代 の 豊 穣 の 神 に 近 い 魔 女 像 を 混 入 し よ う と し た ﹂︵ 二 二 六 頁 ︶ と い うのです。さらに続けて、著者はこう言います。   ﹁ そ の 際、 彼 ら は 本 来、 善 悪 両 面 を 持 つ 魔 女 像 を、 善 悪 二 元 論 に 基 づ い て 分 割 し、 善 い 魔 女 を﹁ 賢 女 ﹂、 悪 い 魔 女 を﹁ 魔 女 ﹂ と し て 二 分 し た の だ。 後 か ら 分 け た 言 葉 の 上 で の 分 割 で あ る か ら、 魔 女 を い く ら﹁ 悪 い ﹂ と 強 調 し て も、 迫 力 に も 説 得 力 に も 欠 け て し ま う。 グ リ ム 童 話 の 魔 女 が、 変 身 魔 術 と 殺 人 未 遂 を 繰 り 返 す 気

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一三 ﹁メルヒェンと宗教教育﹂ ︵ 3︶ 弱で慌て者の﹁独自の魔女﹂なっているのはそのせいである。   グ リ ム 童 話 の 中 の 魔 術 は、 善 悪 両 面 を も つ 者 が 多 い。 敷 居 魔 術 が 呪 い を 払 い、 命 を 救 う 魔 術 と し て 現 れ て い る し、 ブ ド ウ や 林 檎 な ど 果 樹 の 実 り を 左 右 す る の は、 ひ き 蛙 や 鼠 で あ る。 こ こ で は 動 物 が、 収 穫 を 左 右 す る 神 的 存 在 と し て 登 場 し て い る。 そ こ に は 善 悪 両 面 を 持 つ 豊 穣 信 仰 の 神 々 が 息 づ い て お り、 善 と 悪 と を 区 別 す る 善 悪 二 元 論 に 基 づ い た キ リ ス ト 教 世 界 観 と は 別 の 世 界 観 が 存 在 する﹂ ︵二二六頁以下︶ 。   しかし、もしそうだとすれば、グリム兄弟が﹁近世の魔女裁判 における被告のイメージ︵牛乳魔女、天候魔女など︶をあえて消 し﹂ という説明は、 少々問題があることになります。 ﹁あえて消し﹂ と言うからには、すでにグリム兄弟の手元にそれを示唆する伝承 資料があったことになるからです。この想定は、文献学的な根拠 を有するのでしょうか。筆者には、疑問と言わざるをえません。   ﹁天候魔女﹂   これまでの魔女の場合と異なり、天候魔女は、単独ではなく共 同して悪天候をもたらし、社会に害を加えます。そのため天候魔 女は特別に危険な存在とみなされ、一旦その嫌疑を受けると、そ の女性の家族は何世代にもわたって迫害されました。しかしそも そもなぜこのような魔女の存在が問題になったのでしょうか。著 者によると、それは、キリスト教が入る以前から存在していた大 地母神への信仰が抑圧され、禁止されたにもかかわらず、その豊 穣信仰と豊穣儀式は生き続けたことと関連しています。これを根 絶やしにしようとするキリスト教側からの企みによって、このよ うな魔女が生み出されました。当時の知識人も民衆も、この魔女 さえ排除すれば、社会の安全と安心は回復されると思い込み、特 に﹁社会的弱者﹂であるよそ者、寡婦、老婆、貧民などの要素を 備えた女性を、魔女として告発したのです   で は、 グ リ ム 童 話 に は﹁ 天 候 魔 女 ﹂ は 登 場 す る の で し ょ う か。 も ち ろ ん そ の 答 え は、 ﹁ 現 れ ま せ ん ﹂ と い う こ と に な り ま す。 し か し 社 会 的 弱 者 に 対 す る 蔑 視 と 敵 意 は、 ﹁ 悪 い 魔 女 ﹂ に 対 す る 冷 たい眼差しとして生きており、その意味では、魔女狩りを推し進 めた民衆と同一の感情を読み取ることができます。   本項の最後に、グリム童話に対する著者の深い思いを綴った文 章を紹介しておきます。   ﹁ ⋮⋮ 二 者 択 一 を 迫 る 西 洋 キ リ ス ト 教 社 会 の 論 理 は、 ﹁ 正 義 ﹂ を 理 由 に 必 ず﹁ 悪 ﹂ を 迫 害 す る。 し か し、 自 然 界 で は そ の 両 者 は 混 在 し て い る。 完 全 に 善 な る 存 在 も な け れ ば、 完 全 に 悪 な る 存 在 も

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一四 ない。人間もまたそうである。   善 悪 両 面 を 持 つ 豊 穣 の 神 々 の 懐 が 広 く、 全 て を 包 み 込 む。 善 に よ る 悪 の 制 裁 を 唱 え る 善 悪 二 元 論 の 一 神 教 の 論 理 か ら 解 放 さ れ る には、 滅ぼすことではなく、 生み出すことに心を砕く豊穣の神々、 多神教である大地母神の懐に抱かれる必要があるのではないか。   グ リ ム 童 話 に は そ れ ら 古 代 の 豊 穣 の 神 々、 自 然 の 神 々 の 息 吹 が 随 所 に 感 じ ら れ る。 グ リ ム 童 話 を 読 み な が ら、 一 人 で も 多 く の 人 が、 一神教ではなく、 善悪両面を持つ多神教の神々の世界に触れ、 その英知を学んで欲しいものである﹂ ︵二五四頁︶ 。   これはすばらしい結びですが、筆者はそのまま受け入れること ができません。日本史においても社会的差別を受けた人びと存在 したこと、他民族を蔑視の眼差しで捉え、植民地支配を正当化し たこと、敗戦後も自ら戦争責任をとろうとせず、すべてを曖昧に したこと、苦しむ難民に今なお手を差し伸べないこと、これらは た し か な 歴 史 的 事 実 だ か ら で す。 ﹁ 大 地 母 神 の 懐 に 抱 か れ ﹂ る な らば、これらの問題は解決する、とはとても思われません。大地 母神への信仰は、心の問題に影響を及ぼすことがあっても、社会 のあり方そのものを問うことはなかったし、これからもそれは期 待できません。   そもそも﹁一神教か、それとも多神教か﹂という問題設定その も の が 単 純 す ぎ ま す。 健 全 な 一 神 教 に は、 ﹁ 二 項 対 立 ﹂ の 発 想 だ け で な く、 ﹁ 多 項 共 存 ﹂ の 発 想 と 歴 史 が 含 ま れ て い る こ と を 知 ら なければなりません。キリスト教の神は、 三位一体の神であって、 単純な一神教ではありません。そもそもグリム兄弟はこの問題を どのように考えたのでしょうか。わたしたちは改めてこの問題を 問う必要があります。   なお、 先に紹介したイングリット ・ アーレント=シュルテ著﹃魔 女にされた女性たち﹄には、いくつかの印象深い言葉が記されて いるので、ここで紹介しておきます。それは、今後、魔女問題を 考える者にとって、大いに参考となるはずです。 ・﹁ 魔 女 信 仰 に は 文 化 の 違 い を 越 え て 共 通 す る 核 の よ う な も の が あ る ﹂︵ II頁 ︶。 ︱︱ も し そ う だ と す れ ば、 そ の﹁ 共 通 す る 核 の ようなもの﹂をさらに明確にするために、アジアと日本における ﹁ 魔 女 信 仰 の よ う な も の ﹂ の 歴 史 に つ い て 検 討 す る 必 要 が あ り ま す。 ・﹁ 魔 女 の 基 本 理 念 は あ ら ゆ る 価 値 や 規 範 の 逆 転 、 つ ま り 善 を 覆 し て 悪 に し 、 災 害 や 損 害 を も た ら す こ と で あ っ た ﹂︵ 二 三 頁 ︶。 ︱︱ も し そ う だ と す れ ば、 価 値 や 規 範 の 逆 転 が 起 こ る 社 会 の 変 革 期 に は、 常 に﹁ 魔 女 の よ う な も の ﹂ が 現 れ る こ と に な り ま す。 グローバリズムの波に呑み込まれつつある現在、この﹁魔女のよ うなもの﹂はどのような姿をとって現れるのでしょうか。

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一五 ﹁メルヒェンと宗教教育﹂ ︵ 3︶ ・﹁ 魔 女 像 は、 女 性 の 現 実 生 活 に 根 差 し た も の が、 否 定 的 な も の に歪曲されたのであった﹂ ︵二三頁以下︶ 。﹁魔術がもたらす害悪は、 被害者にとっては食料の損失、生命力の奪取、豊穣の妨害という 形 を と っ た ﹂︵ 六 〇 頁 ︶。 ︱︱ も し そ う だ と す れ ば、 魔 女 信 仰 の 発 生 源 は 現 実 生 活 の カ オ ス に あ り、 天 災 お よ び 人 災 に よ る 損 失・ 奪取・妨害の体験は、絶えず魔女のような存在を生みだす可能性 と結びついていることになります。   2︶   奈倉洋子   奈倉洋子著 ﹃グリムにおける魔女とユダヤ人 ︱︱ メルヒェン ・ 伝説・神話﹄は、第 I 部﹁グリムのメルヒェンと伝説の中の魔女 たち﹂と第 II部﹁グリムにおけるユダヤ人像﹂の二部構成となっ て お り、 さ ら に 各 部 は 四 章 か ら 成 っ て い ま す。 つ ま り 第 I 部 は、 序章﹁魔女という存在﹂に続いて、第一章﹁メルヒェン集の中の 魔 女 た ち ︱︱ H e x e , Z a u b e r i n , w e i w e F r a u ︱︱﹂ 第 二 章﹁ ﹃ ド イ ツ 伝 説 集 ﹄ の 中 の 魔 女 た ち ︱ ︱ H e x e , Z a u b e r i n , w e i w e F r a u ︱ ︱ ﹂、 第 三 章﹁ 森 の 中 の 孤 独 な 魔 女 と 群 れ て 踊 る 魔 女 ︱︱ メ ル ヒ ェ ン 集 と 伝 説 集 の 中 の 魔 女 の ち が い ︱︱﹂ 、 第 四 章﹁ 女 神 か ら 魔 女 へ ︱︱ ゲ ル マ ン の 女 神 た ち、 ホ レ と ペ メ ヒ タ ︱︱﹂ の 四 章 か ら、 第 II部 は、 序 章、 第 一 章﹁ 儀 式 殺 人︵ R i t u a l m o r d ︶ 伝 説 ﹂、 第 二 章﹁ グ リ ム の メ ル ヒ ェ ン 集 の 中 の ユ ダ ヤ 人 像 ﹂、 第 三 章﹁ グ リ ム の ユ ダ ヤ 人 像 の 背 景 に あ る も の ﹂、 第 四 章﹁ ヘ ー ベ ル の 暦 物 語 ︵ K a l e n d e r g e s c h i c h t e n ︶ の 中 の ユ ダ ヤ 人 像 ﹂ の 四 章 か ら、 そ れ ぞ れ構成されています。   著者は、まず序章﹁魔女という存在﹂において、魔女とは、本 来、通常の人間の能力を超えた力を有する女性を指しており、そ の能力の使い方次第で、 ある時は善になり、 ある時は悪になる﹁善 悪両面を併せ持つ存在﹂であったことを確認しています。著者の 主な関心は、その魔女が専ら悪の象徴とみなされて行く歴史を踏 まえて、グリムの﹁メルヒェン集﹂と﹁伝説集﹂における魔女像 の変化を、各版において用いられているドイツ語の変化から読み 取ることにあります。したがって第一章﹁グリムのメルヒェン集 の中の魔女たち﹂ は、 各版にでてくる ﹁ H e x e ︵魔女︶ 、 Z a u b e r i n ︵女 魔 法 使 い ︶、 F e e ︵ 妖 精 ︶、 w e i s e F r a u ︵ 賢 女 ︶﹂ と い う ド イ ツ 語 の 使用回数とその変化の状況から、次のような傾向を読み取ってい ます。   ︵ 1 ︶  H e x e ︵魔女︶︱︱ ① グ リ ム 兄 弟 が 初 稿 、 初 版 を 経 て 最 終の第七版に至るまで、絶えず筆を入れ、改稿を重ねていったこ とはすでに指摘したとおりですが、彼らはその過程で、魔女の登 場回数を増やし、 しかもその残忍さの度合いを強めていきました。 ② 元 来 両 面 性 を も っ て い た 魔 女 が も っ ぱ ら 悪 を 担 う 存 在 と な っ

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一六 て い く こ と は、 版 を 重 ね る ご と に 魔 女 と い う 語 を 修 飾 す る ネ ガ ティブな語句が多くなることからも分かります。著者はさらにそ の 傾 向 を 示 唆 す る 例 と し て、 第 三 版 か ら﹁ ト ゥ ル ー デ お ば さ ん ﹂ ︵ K H M 4 3 ︶ がメルヒェン集に入れられた事実と、 ﹁白雪姫﹂ ︵ K H M 5 3 ︶ の 妃 に 対 す る 罰 が 変 化 し て い る こ と を 挙 げ て い ま す。 ﹁ ト ゥ ルーデおばさん﹂においては、最終的に、被害者の少女を魔女の 呪縛から解き放ってくれるヒーローは現れず、少女は焚き木に変 えられたまま、孤立無援のなか、トゥルーデを赤々と照らし出す 炎 と な っ て 燃 え 上 が り ま す。 ③ グ リ ム の メ ル ヒ ェ ン 集 で は 、 継 母が魔女とされているケースが多いのですが、これも版を重ねる ごとに明らかになっていった傾向です。 著者はその一例として ﹁白 雪姫﹂ ︵ K H M 5 3 ︶ を取り上げています。つまり、 その第二版から、 死んだ妃に代わり継母が登場する話に変えられており、話のテー マは﹁母娘の確執﹂から﹁血のつながらない母と娘の確執﹂へと すり替えられています。さらに三版になるとこの継母が魔女であ る こ と が 明 記 さ れ て い ま す。 著 者 は こ の 背 景 に、 ﹁ 調 和 あ る、 愛 と思いやりにみちた家庭﹂という当時の理想的な家庭像を守ろう と す る グ リ ム 兄 弟 の 思 い を 読 み 取 っ て い ま す。 ④ H e x e に は、 Z a u b e r i n や w e i s e F r a u に は 見 ら れ な い﹁ 人 を 殺 し て 食 お う ﹂ と する属性がみられます。これは元来異教徒が初期キリスト教徒に 向けた非難であり、その後キリスト教自身がキリスト教内の異端 に向けた非難です。したがってここには、異端に対する恐怖感と 嫌 悪 感 が み ら れ ま す。 ⑤ グ リ ム の メ ル ヒ ェ ン 集 で は ﹁ 魔 法 を か け る ﹂ と い う ド イ ツ 語 と し て、 v e r w ü n c h e n と v e r z a u b e r n が 用 い ら れ て い ま す が、 両 者 は 明 確 に 区 別 さ れ、 前 者 は H e x e の 場 合 に の み 使 わ れ て い ま す。 こ れ は 次 の よ う に 説 明 さ れ て い ま す。 ﹁ 語 の も つ 本 来 の 意 味 を 考 え る と、 v e r w ü n s c h e n に は、 あ る 人 が い な くなってほしいとか、ある人に何か悪いことがあるように願うと い う ニ ュ ア ン ス が あ る の に 対 し、 v e r z a u b e r n に は そ の よ う な ニ ュ アンスがなく、 ただ魔法をかけるという意味になっている﹂ ︵四七 頁 ︶。 し た が っ て v e r w ü n s c h e n の 場 合 に は、 魔 法 の 使 い 手 に 悪 意 が あ る こ と に な り ま す。 ⑥ Z a u b e r i n が 罰 を 受 け て 刑 に 処 せ ら れ る ケ ー ス は ま っ た く な い の に 対 し、 H e x e は 罰 せ ら れ て 刑 に 処 せ ら れ る の が 一 般 的 で す。 H e x e が 罰 を 受 け る の は、 実 際 に 殺 し た り殺そうとしたりする場合ですが、それに対して課せられる残酷 な制裁は、中世末期までの刑罰を反映しています。   ︵ 2 ︶  Z a u b e r i n ︵ 女 魔 法 使 い ︶ ︱︱ メ ル ヒ ェ ン 集 に お い て Z a u -b e r i n が 出 て く る の は、 ﹁ ラ ン プ ツ ェ ル ﹂︵ K H M 1 2 ︶ 、﹁ ヨ リ ン デ とヨリンゲル﹂ ︵ K H M 6 9 ︶ 、﹁六人の家来﹂ ︵ K H M 1 3 4 ︶、﹁水晶の玉﹂ ︵ K H M 1 9 7 ︶ で す が、 害 を 加 え る 目 的 で 魔 術 を 使 っ て い て も、 前 述の如く、罰を受けていません。著者はここで、キリスト教以前 に活躍していた薬草の知識のある女性たちの働きについて言及し

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一七 ﹁メルヒェンと宗教教育﹂ ︵ 3︶ ています。   ︵ 3 ︶  F e e ︵ 妖 精 ︶ ︱︱ メ ル ヒ ェ ン 集 の 初 版 に は、 妖 精 が 登 場する話が二つ含まれていましたが、第二版以降は、それらもド イ ツ 語 の Z a u b e r i n ︵﹁ ラ ン プ ツ ェ ル ﹂︶ や d i e w e i s e F r a u ︵ ﹁ い ば ら 姫 ﹂︶ に 書 き 換 え ら れ て い ま す。 妖 精 の 話 は、 ケ ル ト と フ ラ ン ス に多く分布しており、ドイツ起源のものはほとんど見当たりませ ん。そしてこの妖精は、善悪両面を併せもった存在とみなされて おり、その名残は﹁ランプツェル﹂と﹁いばら姫﹂にも見られま す。   ︵ 4 ︶  w e i s e F r a u ︵ 賢 女 ︶ ︱︱ す で に 述 べ た と お り、 本 来 魔 女 と い う 存 在 の な か に あ っ た 善 悪 の 二 面 性 が、 版 を 追 う ご と に 別々の存在に分けられ、ひたすら悪の色彩を強めていったのが魔 女であり、これと反対に善の役割を果たすのが賢女です。ひとに 害を与える黒魔術を使うのが H e x e や Z a u b e r i n であり、ひとのた めになる白魔術を使うのが w e i s e F r a u です。   では、 同じくグリム兄弟の編集した﹃ドイツ伝説集﹄において、 この H e x e 、 Z a u b e r i n 、 w e i s e F r a u はどのように描かれているので しょうか。この問いに答えているのが、第二章﹁ ﹃ドイツ伝説集﹄ のなかの魔女たち ︱︱ H e x e 、 Z a u b e r i n 、 w e i s e F r a u ︱︱﹂です。 第一章の形式に従ってそれぞれの内容を確認しておきましょう。   ︵ 1 ︶  H e x e ︵ 魔 女 ︶ ︱︱ 伝 説 中 の H e x e に は 次 の よ う な 属 性 が 見 ら れ ま す。 ① 魔 法 を 使 う︵ 一 二 〇 番、 三 一 七 番 ︶。 ② 悪 魔 と結託し、 情交する︵一七四番、 二五一番︶ 。③ 魔 女 が 集 ま っ て 、 踊 る︵ 二 五 一 番、 二 五 二 番 ︶。 ④ 箒 に 乗 っ て 魔 女 の 集 会 に ゆ く ︵ 二 五 一 番 ︶。 ⑤ 魔 法 の 薬 草 を 煎 じ る︵ 一 二 〇 番 ︶。 ⑥ 嵐 を 呼 び 起こし、 非供物を台無しにする︵二五一番︶ 。このなかで ② から ⑥ ま で の 魔 女 の 特 性 は、 メ ル ヒ ェ ン 集 の 魔 女 に は ま っ た く 見 ら れず、 しかも魔女狩りの経典とされた ﹃魔女の鉄槌﹄ ︵一四八七年︶ に挙げられた、四つの魔女の要件に対応しています。したがって ﹃ ド イ ツ 伝 説 集 ﹄ の 魔 女 は、 中 世 以 降 の 魔 女 像 を 反 映 し て い る と 考えられます。 その四つの要件とは、 ① 魔 女 は 悪 魔 と 契 約 を 結 ぶ 、 ② こ の 契 約 は 、 悪 魔 と 魔 女 の 性 的 交 わ り に よ っ て 確 定 的 な も の になる。③ 魔女は、 害を与える魔術を使う、 ④ 魔女はサバト︵ 悪 魔が主催する魔女の集会︶ に参加する、 というものです。なお ﹃ド イツ伝説集﹄の魔女には、メルヒェン集の魔女に見られた、人を 殺して食おうとする特性はみられず、この特性はむしろ次の﹁女 魔法使い﹂に現れます。   ︵ 2 ︶  Z a u b e r i n ︵女魔法使い︶ ︱︱ ﹁女魔法使い﹂ は、 一二一番、 二 五 一 番、 に 登 場 し ま す が、 そ の 行 状 は 次 の よ う な も の で す。 ① 黒 ヤ ギ に 姿 を 変 え 、 自 分 の も と か ら 離 れ て い こ う と す る 夫 を 背中に乗せて、 家まで連れて帰る。 ② 農 作 物 を だ め に す る た め に 、

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一八 雹 を 降 ら せ よ う と す る。 ③ 子 供 を 誘 拐 し 、 切 り 刻 ん で 煮 る 。 こ れらの行状は、歴史上の魔女裁判で、魔女と判定された要件に当 た り ま す。 メ ル ヒ ェ ン 集 で は、 Z a u b e r i n と 比 較 し て、 H e x e の 方 がより悪い役を担わされていますが、伝説集では、両者の間に差 はほとんど見られません。著者は、この伝説集に見られる特徴の 背後に﹁異端審問の激化﹂の歴史を想定しています。   ︵ 3 ︶  w e i s e F r a u ︵賢女︶︱︱ ﹁賢女﹂は、 一五三番、 三八九番、 四二五番に登場します。彼女らは、メルヒェン集の中の賢女たち のように、魔法の道具を与えたりしませんが、より現実的なレベ ルでの預言者であり、助言者です。これらの話も、当時の実状を 反映していると想定されています。なお、メルヒェン集の初稿と 初版に登場していた妖精は、伝説集にはまったく姿を見せていま せん。   第 三 章﹁ 森 の 中 の 孤 独 な 魔 女 と 群 れ て 踊 る 魔 女 ︱︱ メ ル ヒ ェ ン 集 と 伝 説 集 の 中 の 魔 女 の ち が い ︱︱﹂ は、 主 に 魔 女︵ H e x e ︶ に焦点を絞り、メルヒェン集と伝説集におけるその性格のちがい を 探 る た め に、 魔 女 の 居 場 所 と、 そ の 生 活 形 態︵ 単 独 か 集 団 か ︶ について論じています。著者によると、メルヒェン集の魔女の居 場所はその七五パーセントが森であるのに対し、伝説集の魔女は 森以外のさまざまなところに住んでいます。中世の人びとにとっ て森は﹁得体のしれぬ諸力が支配する﹂異界であり、計り知れぬ 恐ろしさを秘めた場所でした。もしそうだとすれば、伝説集の魔 女はなぜ森ではなく、他の場所に棲んでいるのでしょうか。著者 の答えを聞きたいところですが、残念ながらこの問題は、本章で は取り上げられていません。   第 四 章﹁ 女 神 か ら 魔 女 へ ︱︱ ゲ ル マ ン の 女 神 た ち、 ホ レ と ペ ル ヒ タ ︱︱﹂ は、 北 欧 神 話 の 内 容 か ら ゲ ル マ ン 神 話 を 再 構 成 し ようとしたヤーコプ・グリムの﹃ドイツ神話学﹄を手懸りに、メ ルヒェン集および伝説集に登場する魔女の素性を明らかにしよう としています。具体的には、メルヒェン集の二四番﹁ホレおばさ ん﹂と伝説集の二六九番﹁荒くれベルタがやってくる﹂が取り上 げられ、さらにオーストリアのザルツブルク州に伝わる伝説と行 列が紹介されています。   ヤ ー コ プ・ グ リ ム に よ る と、 こ の﹁ ホ レ ﹂ や﹁ ペ ル ヒ タ ﹂ は、 ゲルマンの主神ヴォーダン︵北方ではオーディンと呼ばれる︶に 仕える魔女とされていますが、本来はゲルマンの女神であったと されています。ホレは、ホルダあるいはフルダとも呼ばれ、本来 は糸紡ぎを司る女神で、生命や成長に関わる豊穣の女神、家事の 指導・監督を司る女神、と考えられていました。さらに民間伝承 では、ホレは、雪を降らせる、親切で優しく、慈悲深い女神でし

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一九 ﹁メルヒェンと宗教教育﹂ ︵ 3︶ た。ペルヒタも、ホレと似た、あるいは同一の存在と考えられて いた女神です。   著者は、このホレがメルヒェン集と伝説集においてどのように 描 か れ て い る の か を 検 討 し た 後 で、 次 の よ う に ま と め て い ま す。 ﹁ グ リ ム の﹃ ド イ ツ 伝 説 集 ﹄ に 登 場 す る ホ レ は、 き わ め て 多 く の 性格をもった、多面的な存在となっている。第七番目の、ホレが 率いる妖霊たちの行列の行ないを除き、生命、成長に関わる豊穣 の女神、親切で温和な慈悲深い、太母神的な存在としてのホレを 髣髴とさせる伝説が多い。それらの話には、否定的イメージのホ レはあまりない。メルヒェンのホレに比しても、よりポジティブ なイメージをもっている﹂ ︵一〇五頁︶と。   そ し て こ こ か ら、 ﹁ こ れ は、 キ リ ス ト 教 化 さ れ た 後 も、 ド イ ツ 各地では、ゲルマン的異教の話が埋もれてしまうことなく伝説の 形で語り伝えられていることを示している﹂との結論が引き出さ れています。つまり、キリスト教の布教とともに、異教の神々は 悪魔や魔女とされ、駆逐されて行ったが、ドイツの各地には、ま だまだ異教の神々の話が生き残っていたというわけです。   ペルヒタについては、伝説集の描き方と、オーストリアのザル ツブルク州に伝えられているペルヒタ行列︵男たちによる仮装行 列︶のペルヒタ像との違いが指摘されています。ペルヒタ行列に は、 ﹁ 美 し い ペ ル ヒ タ ﹂ と﹁ 醜 い ペ ル ヒ タ ﹂ が 登 場 し ま す が、 こ れは、冬と夏の戦い、夜と昼の戦い、そして悪と善の戦いを象徴 しているとされています。著者によると、ペルヒタ行列のペルヒ タには、このように恐ろしい面と恵みをもたす面の両面が見られ ま す が、 伝 説 集 に は 恐 ろ し い 面 し か 描 か れ て い ま せ ん。 著 者 は、 その理由を探るべく、古文書に残されたペルヒタ像の変遷を跡づ けています。   第 II部﹁グリムにおけるユダヤ人像﹂は、すでに冒頭において 紹 介 し た よ う に、 序 章、 第 一 章﹁ 儀 式 殺 人︵ R i t u a l m o r d ︶ 伝 説 ﹂、 第 二 章﹁ グ リ ム の メ ル ヒ ェ ン 集 の 中 の ユ ダ ヤ 人 像 ﹂、 第 三 章﹁ グ リ ム の ユ ダ ヤ 人 像 の 背 景 に あ る も の ﹂、 第 四 章﹁ ヘ ー ベ ル の 暦 物 語︵ K a l e n d e r g e s c h i c h t e n ︶ の 中 の ユ ダ ヤ 人 像 ﹂ の 四 章 か ら 構 成 さ れています。   序 章 は、 ﹁ 一 八 世 紀 中 頃 か ら 一 八 世 紀 末 に か け て は、 ド イ ツ に おけるユダヤ人の歴史にとって、画期的な時期だった﹂という印 象的な文で始まります。これは、この時期にモーゼス・メンデル スゾーン、クリスティアン・ヴィルヘルム・ドームなどの啓蒙主 義者たちが現れ、それまで専ら否定的に受け止められてきたユダ ヤ人を積極的に評価しようとする動きが現れたことを指していま す。しかしそれは教養のある一部の人たちの間で起こった出来事

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二〇 にすぎず、一般の人びとの間では、相変わらずユダヤ人は蔑視さ れ、危険視されていた可能性があります。   そこで著者は、 第一章 ﹁儀式殺人 ︵ R i t u a l m o r d ︶ 伝説﹂ において、 まず民衆向けの本のなかでユダヤ人がどのように描かれているの かを明らかにし、次にそれをグリムの﹃ドイツ伝説集﹄にみられ る ユ ダ ヤ 人 像 と 比 べ、 最 後 に、 ﹁ 儀 式 殺 人 伝 説 ﹂ に 対 す る、 ユ ダ ヤ出自の詩人ハインリヒ・ハイネの見解を紹介しています。   一 般 民 衆 向 け に 出 版 さ れ た 本 と し て 取 り 上 げ ら れ て い る の は、 一七六〇年に発行された﹃徳によって新たに開かれた凱旋門。優 雅で教訓に満ちた三三の話﹄です。その中に収められている﹁悪 いユダヤ人﹂の話には、十二世紀以来、ドイツだけでなく、イギ リス、 フランス、 スペイン、 ボヘミア、 ポーランド、 ロシアなど、 ヨーロッパ各地に広まり、二〇世紀まで生き続けた﹁ユダヤ人の 儀式殺人伝説﹂が含まれています。この伝説の骨子となっている の は、 次 の 様 な 内 容 で す。 ① ユ ダ ヤ 人 は 、 す べ て の キ リ ス ト 教 徒 に 対 し て 敵 意 を も っ て い る こ と。 ② ユ ダ ヤ 人 は 、 宗 教 的 儀 式 に﹁ 子 ど も の 血 ﹂ を 必 要 と す る こ と。 ③ ユ ダ ヤ 人 は 、 キ リ ス ト 教徒の子供を金で買い受け、殺してその血を使うこと。   で は、 ﹃ ド イ ツ 伝 説 集 ﹄ で は、 ど う な っ て い る の で し ょ う か。 三五三話﹁ユダヤの石﹂および三五四話﹁ユダヤ人に殺された乙 女﹂を読むと、そこには、ユダヤ人はキリスト教徒の子供を多額 の金で買い取り、その血を採るために殺してしまうという話がそ の ま ま 出 て き ま す。 こ の よ う に、 ﹃ ド イ ツ 伝 説 集 ﹄ に は た し か に 儀式殺人伝説が採り入れられています。グリム兄弟は、これらの 話を実際にあったこととして受けとめたのかもしれません。   他 方、 ユ ダ ヤ 出 自 の ハ イ ン リ ヒ・ ハ イ ネ︵ 一 七 九 七 − 一八五六︶ は、 未完の小説 ﹃バッヘラッハのラビ﹄ の冒頭部で、 ﹁馬 鹿げた伝説﹂であり、儀式伝説は、ユダヤ人を陥れるために計画 的に練られた作り話である、と断言しています。今日の日本人の 眼 か ら み る な ら ば、 こ の ハ イ ネ の 主 張 は ま っ た く そ の 通 り で す。 しかし長い間、この正常な意識をもちえなかったヨーロッパ、そ してそこで生まれた ﹃ドイツ伝説集﹄ とは、 一体何だったのでしょ うか。グリムの解説によると、メルヒェンはより詩的であるのに 対し、伝説はより歴史的であるとされていますが、ここでは別の 判断基準が求められているようです。そもそも人類は、この﹁無 意識的差別感﹂を本当に克服できるのでしょうか。   第二章は﹁グリムのメルヒェン集の中のユダヤ人像﹂を明らか にしようとしています。メルヒェン集の決定版︵一八五七年︶に は、ユダヤ人が登場する話が三つあります。七番﹁うまい取引﹂ 、 一 一 〇 番﹁ 茨 の な か の ユ ダ ヤ 人 ﹂、 一 一 五 番﹁ 曇 り の な い お 日 さ まは、隠れているものを明るみに出す﹂がそれです。なお、メル

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二一 ﹁メルヒェンと宗教教育﹂ ︵ 3︶ ヒェン集の初稿と初版にのみ取り入れられた﹁よい膏薬﹂にもユ ダヤ人が出てきます。   一 一 〇 番 の﹁ 茨 の な か の ユ ダ ヤ 人 ﹂ の 話 は、 働 き 者 の 下 男 が、 金持ちの百姓に三年間奉公し、わずかな給金をもらって旅に出る ところから始まります。この下男は、その旅の途中で小人に出会 い、 彼 を 助 け た お か げ で 三 つ の 力 を 手 に 入 れ ま し た。 ひ と つ は、 狙ったら何にでもあたる吹き矢。二つ目は、その音を聞くと、だ れでも踊りださずにいられなくなるヴァイオリン。そして三つ目 は、彼の頼みごとはだれにも断られないことでした。   この不思議な三つの力を身につけた下男が﹁長いやぎひげをは やしたユダヤ人﹂に出会うところから、話は一気に面白くなりま す。決して短くない話ですので、ここではあらすじだけを紹介し ておきましょう。   ユダヤ人が、高い木のてっぺんで鳴いている小鳥を捕まえてく れるように下男に頼む。↓男の吹き矢で射られた小鳥がやぶのな かに落ちる。↓それを拾いにユダヤ人がやぶの真ん中に入ったこ ろ、下男はヴァイオリン引き出す。↓上着はちぎれ、茨のとげに 苦しんだユダヤ人は、ヴァイオリンをやめてもらうために、お金 を指し出す。↓怒りのおさまらないユダヤ人は、この経過を町の 裁 判 官 に 訴 え る。 ↓ 下 男 は 有 罪 と な り、 ﹁ 首 く く り 台 ﹂ に か け ら れる。↓下男は最後に、 ヴァイオリンを弾かせてくるように頼む。 ↓裁判官も、書記も、ユダヤ人も、広場に集まった人びとも、踊 りをやめられず、裁判官は﹁命は助けてやる。ヴァイオリンを弾 くのをやめてくれ﹂と叫ぶ。↓下男はユダヤ人に、お金は盗んだ ものであったことを白状させる。↓裁判官はユダヤ人を﹁首くく り台﹂につけるように命じ、そしてユダヤ人は﹁泥棒の罪﹂で死 刑になってしまう。   著者奈倉によると、この話の源泉は一五世紀のイギリスの詩に あり、 それがグリム兄弟に届くまでの約三百年の間に、 主人公は、 牧童↓お人よしの下男↓修道士↓ユダヤ人、と変化し、最初に登 場していた﹁邪悪な継母﹂はいつの間にか姿を消しています。し かもメルヒェン集の初版と二版では、内容も字句もほとんど同じ で あ る に も か か わ ら ず、 一 八 三 七 年 の 第 三 版 に な る と、 ﹁ 長 い ヤ ギひげをはやしたユダヤ人﹂といった具合に、非常に否定的な表 現が多くなっています。この表現は明らかに﹁悪魔﹂をイメージ させるものであり、ユダヤ人は、ずるがしこく、強欲な人間とし て描かれています。しかしでは、グリム兄弟はどうしてこのよう にユダヤ人をより否定的に描くことを選んだのでしょうか。   第三章﹁グリムのユダヤ人像の背景にあるもの﹂は、まさに前 章の最後の問いに対する、著者の答えです。著者はここで、二つ

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