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173 近年の研究で 現在のヨーロッパ統合につながる地域構想がさまざまな形で戦間期のヨーロッパ各地で発生し ヨーロッパ統合の再編案も多様性を帯びていたことが明らかにされてきた しかし その一方で 第一次世界大戦後ヨーロッパに誕生した新興独立国家において 膨張主義的色彩を帯びた地域構想も同時期に登場し

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173

地域構想

﹁大

学徒会

近 年 の 研 究 で 、 現 在 の ヨ ー ロ ッ パ 統 合 に つ な が る 地 域 構 想 が さ ま ざ ま な 形 で 戦 間 期 の ヨ ー ロ ッ パ 各 地 で 発 生 し 、 ヨ ー ロ ッ パ 統 合 の再 編 案 も 多 様 性 を 帯 び て い た こ と が 明 らか に さ れ て き た 。 し か し 、 そ の 一 方 で 、 第 一 次 世 界 大 戦 後 ヨ ー ロ ッ パ に 誕 生し た 新 興 独 立 国 家 に お い て 、 膨 張 主 義 的 色 彩 を 帯 び た 地 域 構 想 も 同 時 期 に 登 場 し た 。 す な わ ち 、 パ ン ・ ヨ ー ロ ッ パ 主 義 と 並 走 す る 形 で こ の よ う な 地 域 構 想 が ヨ ー ロ ッ パ 内 に お い て 語 ら れ て い た の で あ る 。 し か し 、 膨 張 主 義 的 な 地 域 構 想 は 果 た し て ヨ ー ロ ッ パ 統 合 と 相 反 す る 構 想 に す ぎ な か っ た の で あ ろ う か 。 そ こ で は ヨ ー ロ ッ パ 、 あ る い は ヨ ー ロ ッ パ 統 合 は ど の よ う に 考 え ら れ て い た の で あ ろ う か 。 以上のような疑問から、本稿では、第一次世界大戦後に 独立した新興国家の一国フィンランドにおいて幅広く支持 された地域構想「大フィンランド」に注目する。 初めに「大フィンランド」の誕生と変遷について説明し たい。フィンランドは、六世紀もの間スウェーデンに、一 九世紀初頭から約一世紀もの間ロシア帝国に統治されてき た北欧の一国である。ロシア統治時代初期から中期にかけ て、フィンランドは「大公国」として比較的自由な自治を 享受していたが、その時期に「大フィンランド」が知識人

第Ⅱ部

両大戦間期

中央

祖国

同様

学徒会

地域構想

石野裕子

(2)

175「大フィンランドは祖国と同様である」 174 いったさまざまな知識人が中心となって構想されていった 思想で、また、論者個人個人がそれぞれの「大フィンラン ド」像を掲げていたため、統一された思想ではなかった。 しかし、戦間期において「大フィンランド」は単に構想さ れただけではなく、民間団体によってその実現が試みられ た点に特徴が見られる。それゆえ、その実践がどのような 論 理 で な さ れ て い っ た か に 注 目 す る こ と で、 当 時 の「大 フィンランド」の実態を考察したい。 そこで本稿では「大フィンランド」の実現を目的とした カ レ リ ア 学 徒 会 (A K S: Akateeminen Karjala-Seura ) と いう団体に注目し、その団体がどのような考えのもと「大 フ ィ ン ラ ン ド」 を 掲 げ て い っ た の か を 考 察 す る に あ た っ て、設立初期の「大フィンランド」像を取り上げる。 カレリア学徒会は、独立直後の一九一八年の一月に勃発 した内戦の最中に東カレリア遠征 * 3 に参加したヘルシンキ大 学の学生が中心となって、一九二二年に設立された右翼団 体である。最盛期には四千人もの会員を有したとされ、会 員 は 大 学 卒 業 後 も そ の 活 動 を 継 続 す る こ と が 多 か っ た の で、政界、官界、ジャーナリズムなど多くの業界にその勢 力を伸ばしていった。カレリア学徒会は、一九四四年九月 のモスクワ休戦協定後、連合国側から「ファシズム団体」 と見なされ、解散させられるまで、戦間期のフィンランド 社会において代表的な右翼団体でもあった。また、間違い なく戦間期の「大フィンランド」を牽引した団体である。 それゆえ、カレリア学徒会の活動から当時の「大フィン ランド」の実態を考察するという視点は有効であるといえ るが、その一方で、カレリア学徒会の活動の多様性が彼ら の「大フィンランド」を見えにくくしている。つまり、後 述するが、会員一人一人の考えが異なったため、内部で対 立や分裂が生じ、組織の改変がしばしば起こったという事 実が存在する。 以上のような状況を鑑みて、本稿では、カレリア学徒会 の結成初期における「大フィンランド」の言説、なかでも カ レ リ ア 学 徒 会 初 期 の 活 動 を 牽 引 し た 二 代 目 会 長 * 4 の エ ル モ・カイラ ( Elmo Edvard Kaila, 1888-1935 ) の言説および 彼 が 会 長 を 務 め た 時 期 で あ る カ レ リ ア 学 徒 会 初 期 の「大 フィンランド」像に注目する。 カイラは、独立直後に勃発した内戦時に義勇兵としてロ シ ア・ カ レ リ ア に 遠 征 し た 経 歴 を 持 ち、 遠 征 に よ る ロ シ ア・カレリア「獲得」に失敗した後に結成されたカレリア 学徒会で中心的な役割を果たした人物である。 本稿では、カレリア学徒会という右翼団体の初期の活動 の間で構想されていった。 「大 フ ィ ン ラ ン ド」 は、 そ も そ も フ ィ ン ラ ン ド 人 の「近 親 民 族」 と の 連 帯 思 想 か ら 発 し た 地 域 構 想 で あ る。 「近 親 民 族」 の 主 な 対 象 は、 フ ィ ン ラ ン ド 東 側 に 位 置 す る ロ シ ア・ カ レ リ ア に 居 住 す る カ レ リ ア 人 で あ っ た * 1 。「近 親 民 族」という発想自体は、一八世紀以前のスウェーデン統治 時代にすでに一部の知識人の間で見られたが、前述したよ う に 一 九 世 紀 中 葉 の ロ シ ア 帝 国 統 治 時 代 に お い て、 「近 親 民族」の連帯を基盤とした「大フィンランド」思想が徐々 に 発 展 し、 人 々 に 広 ま っ て い っ た。 当 時 フ ィ ン ラ ン ド で は、知識人たちが支配階級の言語かつ自分たちの母語であ るスウェーデン語ではなく、土着の言語であったフィンラ ンド語を中心とした民族運動を展開しており、同系言語を 話すとされた「近親民族」との連帯思想は民族運動と連動 する形で広がりを見せた。しかし、実際、ロシア・カレリ ア北部に居住するカレリア人が話すカレリア語はフィンラ ンド語と一部類似性が見られるものの、カレリア語自体、 地域によってかなり異なりがあり、統一がなされていない 言語であった。また、カレリア人の風習といった文化的要 素もロシア側の影響の方が強い状況にあり、フィンランド 人のものとは異なる部分が多かった。しかし一方で、フィ ン ラ ン ド 民 族 叙 事 詩『カ レ ワ ラ ( Kalevala ) 』 の 原 詩 で あ る口承詩の謡い手がロシア・カレリアに主に居住していた ことから、その地がフィンランド民族文化の「発祥地」で あり、カレリア人はフィンランド民族文化を保持してくれ た「近 親 民 族」 と し て、 フ ィ ン ラ ン ド 内 で は 認 識 さ れ て いったのである (石野 二〇一二:三三―三八) 。 一九世紀終わりにロシア帝国のフィンランド統治方針が 変更されたことによって、自治を剥奪される危険を察知し たフィンランド人知識人たちは、防衛的見地から「大フィ ン ラ ン ド」 、 す な わ ち「近 親 民 族」 が 居 住 す る 地 域 ご と フィンランドに含めようとする構想に転換する。つまり、 「大フィンランド」の意味合いが変容していったのである。 さらに「大フィンランド」は、一九一七年の独立直前か ら単なる連帯思想にとどまらず、政治的、軍事的動向と結 び つ い た 形 で フ ィ ン ラ ン ド 人 の 間 で 共 有 さ れ る よ う に な る。この地域構想は、他の北欧諸国との連帯地域構想であ る「スカンディナヴィア主義」とは明らかに一線を画すも のであり、第二次世界大戦期においては反ソ、反共主義と 重なる形で、フィンランド社会全体に影響を及ぼす膨張主 義的性質を有する思想へと変貌した * 2 。 「大 フ ィ ン ラ ン ド」 は 歴 史 学 者、 民 俗 学 者 や 地 理 学 者 と

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177「大フィンランドは祖国と同様である」 176 場 し ( Klinge 1978 ) 、 カ レ リ ア 学 徒 会 の 実 態 解 明 が 進 む 一 方で、フィンランドの外では、カレリア学徒会は概して両 大戦間期のフィンランドにおけるファシズム団体として紹 介されてきた (例えば Morgan 2003: 86-90 ) 。イギリスの歴 史学者デイヴィッド・カービーは、カレリア学徒会は「ボ リシェヴィキの支配に対する蜂起の失敗によって東カレリ アから逃れてきた避難民を救済するために設立され、その 後の二〇年にわたって男子学生にとって最も重要な討論の 場となり、またエリートが集う場でもあり、会員の多くは フィンランド社会で高い位置を占めるようになる」と評し ている (カービー 二〇〇八:二二二) 。 そのような研究に対して、二〇〇四年にヘイッキ・エス ケリネンが著した『我々はフィンランド国家を大きくする ことを望んだ

カレリア学徒会の歴史Ⅰ』では、カレリ ア 学 徒 会 の O G ク ラ ブ で あ る「ク ラ ブ 二 二 ( Kerho 22 ) 」 の関係者から提供された新たな資料を用いて、カレリア学 徒会の全容解明がなされた。エスケリネンは、カレリア学 徒会の思想的ルーツを、独立以前のフィンランド国内の思 想潮流を受けて築かれた運動と規定し、これまでいわれて いたようなファシズム組織ではないと主張した ( Eskelinen 2004: 353-365 ) 。たしかにエスケリネンが主張したように、 カレリア学徒会が掲げた思想はフィンランドで発生した民 族運動の思想潮流に位置づけられるが、実際の活動、特に 一九三二年以降の活動を見る限り、ファシズム組織として の会の性格を否定できないだろう * 6 。 また、二〇一一年に、ミッコ・ウオラが編纂した『AK Sの道

祖国と民族思想上のカレリア学徒会』が出版さ れ、カレリア学徒会の行動ごとの詳細な分析がなされるな ど、カレリア学徒会に関する研究は未だ資料が十分でない な か 進 展 し て い る 状 況 に あ り ( Uola 2011 ) 、 現 在 も 注 目 さ れている学生団体であるといえる。 カイラ自身については、上記の文献においてその名がし ばしば登場し、また、マルッティ・アハティによる評伝が 一 九 九 九 年 に 発 表 さ れ た が ( Ahti 1999 ) 、 彼 の 思 想 に 特 化 した研究自体は筆者が確認した限り出ていない。しかし、 カ イ ラ は カ レ リ ア 学 徒 会 が 急 成 長 し た 初 期 の 立 役 者 で あ り、彼の思想に注目することはカレリア学徒会初期の「大 フィンランド」像の解明にもつながると考える。 本稿では上述した先行研究に依拠しつつも、カイラが執 筆した記事およびカレリア学徒会が発行したプロパガンダ 冊子を資料として用いることで、会が描いた「大フィンラ ンド」像を考察する。 を 牽 引 し た カ イ ラ を 中 心 に、 「大 フ ィ ン ラ ン ド」 の 実 現 を 目 指 し た カ レ リ ア 学 徒 会 の イ デ オ ロ ギ ー に 注 目 す る こ と で、戦間期フィンランドにおける膨脹主義的な地域構想の 一例を提示したい。 本論に入る前に先行研究について言及する。上述したよ うに、カレリア学徒会は一九四四年にファシズム団体に認 定 さ れ、 解 散 さ せ ら れ た 後、 大 部 分 の 関 連 資 料 は 破 棄 さ れ、一時期は忘れられた存在となった。しかし、一部の資 料はヘルシンキからミルク缶に詰められて、極秘に南ポホ ヤ ン マ ー に 送 ら れ、 そ こ で 地 中 に 埋 め ら れ る 形 で 保 存 さ れた * 5 。それらの資料は、カレリア学徒会研究が本格的に始 ま っ た 一 九 七 〇 年 初 頭 に 収 集 さ れ た。 戦 争 史 料 館 お よ び フィンランド文学協会などに点在していた関連資料、個人 所 蔵 の 資 料 等 も ヘ ル シ ン キ 大 学 図 書 館 (現 国 立 図 書 館) に 移され、保存された。 カレリア学徒会に関する研究自体は、一九七三年に出版 されたリスト・アラプロの社会学の博士論文『カレリア学 徒会

一九二〇〜三〇年代における大学生運動と民衆』 が先駆的な研究として挙げられる。同書によって、これま で謎に包まれていたカレリア学徒会の実態が明らかになっ た。学生団体としてのカレリア学徒会に注目する研究も登 図1 エルモ・カイラ (出所)Ylioppilaslehti 1938. (注)1938年の『大学生誌(Ylioppilaslehti)』25周年記 念号の表紙としてエルモ・カイラの肖像画が掲載され た。同雑誌では、カイラのイェーガー隊(第一次世界 大戦期にフィンランドで結成された義勇隊)および内 戦期の活動、カレリア学徒会での活動の業績を称えて おり、没後もカイラは大学生にとって英雄的存在であっ たことが窺える。

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179「大フィンランドは祖国と同様である」 178 かい、イェーガー隊の活動を支えるために働き、内戦が終 わる間際にヘルシンキに戻った。ミュッリュによると、カ イラは独立政府がドイツを敵と見なす一方で、西側諸国を 友人と見なしていることを批判し、ドイツおよびドイツ国 民 の 援 助 の み が 東 カ レ リ ア (フ ィ ン ラ ン ド に お け る ロ シ ア・ カ レ リ ア の 呼 称) を 獲 得 す る 可 能 性 に つ な が る も の で あ る と 主 張 し た と い う ( Mylly 2004: 680 ) 。 ま た、 カ イ ラ は保守組織である市民警備隊 ( Suojeluskunta ) にも属すな ど、独立以降も積極的に愛国運動に関与した。 カイラの活動で特記すべきことは、一九一九年から二〇 年 に か け て ロ シ ア 帝 国 時 代 に 仕 え た 軍 の 将 校 た ち を 追 放 し、その替わりに元イェーガー隊の隊員を軍の司令部に送 り込もうとするキャンペーンを掲げ、イェーガー隊時代の 人脈を駆使したり、保守系の雑誌に寄稿したりするなどし て精力的に活動したことである * 13 。カイラは、独立フィンラ ンドにとって「ロシア的なるもの」を排除すべきという信 念 の も と 、 国 防 に 携 わ る 軍 の 「 浄 化 」 を 目 指 し た の で あ る 。 以上のように、カイラはカレリア学徒会創設前から反ソ 的感情を強く抱いており、その感情がカレリア学徒会の活 動方針に反映されたといっても過言ではない。

学徒会

二代目会長就任

カ イ ラ が 一 九 二 〇 年 代 に 深 く 関 わ っ た カ レ リ ア 学 徒 会 は、繰り返すが、内戦期に東カレリア遠征に参加した経験 を持つヘルシンキ大学生が一九二二年二月二二日に結成し た 組 織 が 出 発 点 で あ る * 14 。 彼 ら は 一 九 二 〇 年 に フ ィ ン ラ ン ド・ソ連間で締結されたタルトゥ条約で、ロシア・カレリ アのレポラ、ポラヤルヴィの「自治 * 15 」が承認されたことに 不満を抱いたことがきっかけで、会の結成に至った。同会 は、同年の三月九日から「カレリア学徒会」という名称で 呼ばれるようになる。会の当初の目的は、ロシア・カレリ アからフィンランドに避難してきた難民の救済および彼ら の 教 育 で あ っ た ( Ahti 1999: 255 16 ) 。 そ の 資 金 作 り と し て、 会は難民の救済のためのポストカードの販売などを手がけ た り、 夏 に 地 方 を 巡 回 し た り す る 活 動 を 行 っ た ( Ahti 1999: 356 * 17 ) 。 アラプロによると、カレリア学徒会は内戦後の右派の反 応 の 一 部 と し て 誕 生 し た と い う ( Alapuro 1973: 99 ) 。 会 の イデオロギーは、多くの点でフェンノマンと呼ばれた一九 世紀のフィンランドのナショナリズムからの伝統につなが

学徒会

学徒会入会前

軌跡

カ レ リ ア 学 徒 会 に お い て 二 代 目 会 長 (一 九 二 三 〜 二 七 年、 二 八 〜 三 〇 年 * 7 ) を 務 め た エ ル モ・ カ イ ラ は、 初 期 の カ レ リ ア 学 徒 会 の イ デ オ ロ ギ ー を 形 作 っ た 中 心 的 人 物 で あ る 。 政治家ではなかったカイラは、研究方面でもフィンラン ドでその名が知られているわけではない。しかし一方で、 カイラはカレリア学徒会の会長として非常に重要な役割を 果 た し た 人 物 で あ り * 8 、 ま た 、「 ロ シ ア 人 憎 悪 ( Rys sä nvih a * 9 ) 」 と い う ス ロ ー ガ ン を 前 面 に 押 し 出 し た 人 物 と し て 知 ら れ る。彼の反ソ、反共主義の徹底ぶりを指して、フィンラン ド の ヒ ト ラ ー に な ぞ ら え る 極 端 な 研 究 も 見 ら れ る が ( Virtanen 2005 * 10 ) 、 本 稿 は 彼 の カ レ リ ア 学 徒 会 で の 活 動 お よび彼が会長を務めた時期の会の「大フィンランド」像に 焦点を当てる。 始めに、カレリア学徒会入会以前のカイラの軌跡の概要 を示す。一八八八年に牧師の家に誕生したカイラは、一九 〇五年にヘルシンキ大学に入学し、一九〇八年に哲学博士 候補生となる * 11 。一九〇九年にカイラはオタヴァ出版社に入 社し、地理部門の編集者となる。一九一七年のロシアでの 三月革命後、カイラはフィンランド独立を射程に入れて結 成された義勇隊であるイェーガー隊に入隊し、ドイツで実 施された軍事訓練にも参加する。カイラの行動は当時の愛 国心が強い大学生の行動そのものであり、それほど特異な ことではない。しかし、さらにカイラは独立支持派の新聞 『ウ ー シ・ パ イ ヴ ァ ( Uusi Päivä ) 』 の 秘 書 と し て も 働 き、 また、イェーガー隊の活動を支えるために、一九一七年六 月からウーシ・メツゥサ・トイミストでも働き出す。この 会社は実態がほとんどなく、イェーガー隊のために秘密裏 に活動を行うための隠れ蓑的な会社であった。九月には勤 務していたオタヴァ出版社のカイラの部屋に住所を構え、 そこでカイラはイェーガー隊のために書簡のやり取りを秘 密裏に引き受けていた ( Ahti 1999: 54 * 12 ) 。 一九一七年一二月にフィンランドが独立し、翌年一月に 内戦が勃発すると、カイラはラジオを利用してドイツおよ び白衛隊側と連絡をとる役割を果たす。三月終わりに、カ イラはエストニアのタリンに渡り、そこからベルリンに向

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181「大フィンランドは祖国と同様である」 180 シ ア・ カ レ リ ア の ソ 連 か ら の「解 放」 や、 「近 親 民 族」 国 家であるエストニアとの友好などが包含される。最後は、 「純 正 フ ィ ン ラ ン ド 性 ( Aitosuomalaisuus ) 」 の 確 立 で あ る。上述したように、フィンランドは歴史的経緯から、少 数 派 の ス ウ ェ ー デ ン 語 を 母 語 に す る フ ィ ン ラ ン ド 人 (以 下、 ス ウ ェ ー デ ン 語 系 フ ィ ン ラ ン ド 人 と 略) が 支 配 階 層 に 位置していた。しかし、独立直前から、農民や商人の家か ら大学生が誕生するなど、これまでのエリート層ではない 階層出身者が大学に入学するようになった。彼らの多くは フ ィ ン ラ ン ド 語 を 母 語 と す る フ ィ ン ラ ン ド 人 (以 下、 フ ィ ン ラ ン ド 語 系 フ ィ ン ラ ン ド 人) で、 卒 業 後 は 親 の 仕 事 を 引 き継ぐのではなく、官庁や大学等に勤めるようになった。 すなわち、フィンランド語系フィンランド人が知識階層に 上昇するようになるのである。むろん、カレリア学徒会の 会員のなかにもスウェーデン語系フィンランド人は存在し たので、会はスウェーデン語の全面的排除を目的としたわ けではなかった。フィンランド語を国の第一言語にするこ とで、国内の統一を目標に掲げたのである。 以上のような三つのイデオロギーを掲げたカレリア学徒 会であったが、会員はそれぞれのイデオロギーに肩入れす ることになり、同時に三つのイデオロギーを推進するとい う わ け で は な か っ た。 特 に「純 正 フ ィ ン ラ ン ド 性」 を め ぐっては、当初から会員間で意見が分かれており、後述す るが一九二〇年代後半からは大きな議論を巻き起こすこと になる。 そのようなカレリア学徒会が活動を始めた最中、カレリ ア 学 徒 会 の 創 設 メ ン バ ー で は な か っ た も の の、 「ロ シ ア 人 嫌悪」キャンペーンを勢いにのせており、その道ではすで に著名であったカイラに白羽の矢が立ち * 20 、一九二三年の選 挙で会長に選出されたのであった。

会長就任後

人憎悪﹂

会長就任後、 カイラは、 まず会内に 「憎悪の兄弟 ( Vihan Veljet ) 」 を 結 成 し た。 こ の 組 織 は 会 結 成 以 前 か ら 行 っ て いた反ソ・キャンペーンを継承したものであり、秘密裏に 結成されたものであった * 21 。 前 述 し た よ う に、 カ イ ラ の ロ シ ア (ソ 連) へ の 嫌 悪 感 が 独立以前から強いものであったことは、カレリア学徒会結 成前の一九一八年に寄せた「イェーガー隊、独立運動、内 戦……[我々は]憎悪せずにいられるのか?」という疑問 るという * 18 。また、同会には、内戦の影響でフィンランド国 内の統合がうまくいっていない状況を憂慮した若者が集っ て お り、 彼 ら は 自 分 た ち の 共 同 体 (ゲ マ イ ン シ ャ フ ト) を 結成したいという要求を抱えていたという。一九二三年の 終 わ り に は ま だ 会 員 数 は 二 一 四 人 に す ぎ な か っ た が ( Alapuro 1973: 101 ) 、 徐 々 に 会 員 数 を 伸 ば し て い っ た。 ま た、ヘルシンキ大学の学友会が一九二六年初めにようやく 設立されたことからもいえるように、カレリア学徒会は独 立以降の大学生の学生運動の中心的な存在として発展した ( Alapuro 1973: 58 ) 。 表 1 か ら 分 か る よ う に、 会 員 は 主 に ヘルシンキ大学の学生であり、会員の父親の職業別では大 学教授といった「自由業」の父親を持つ会員が二五%と最 も高いが、商業や手工業者が一九%、農民が二〇%といっ たように、これまでのエリートではない層の会員が一定の 割合を占めていた。 こ の こ と は 独 立 以 降 の エ リ ー ト 層 の 変 化 と 連 動 し て い る。独立以前、フィンランドにおいて大学に通うエリート 層は、スウェーデン語を母語とする元貴族階級出身者が大 多数を占めていたが、独立以降、大学の「大衆化」が起こ り、農民や牧師の家から大学生を輩出することになる。つ まり、カレリア学徒会が発展した過程は、独立フィンラン ドにおいて新たなエリート層が誕生してきた過程と重なる のである。また、カレリア学徒会は、冷戦期に活躍したウ ルホ・ケッコネンなどの政治家や、民俗学者であり学生時 代から詩人として活躍したマルッティ・ハーヴィオといっ たように多くの知識人を輩出した団体でもあった * 19 。 以上のような会員で結成されたカレリア学徒会は、カレ リア難民救済という目的から始まり、続けて三つのイデオ ロギーを掲げるようになる。一つには、国を守る意志の強 化、二つ目にはフィン・ウゴル問題、すなわち「大フィン ランド」である。そのなかには、東カレリア、すなわちロ 所属大学名 割合(%) ヘルシンキ大学 74 工業高等専門学校 11 商業高等専門学校 3 トゥルク大学 3 陸軍学校および海軍学校 7 ユヴァスキュラ教育高等専門学校 2 合計 (約2,920人) 100% 表1 カレリア学徒会会員の所属大学内訳 (注)他の高等専門学校生は集計に入っていない。 (出所)Alapuro(1973: 59)の表をもとに筆者作成。

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183「大フィンランドは祖国と同様である」 182 る ( Suomen Heimo 1923: 116 ) 。 以 上 の よ う に、 カ イ ラ は カ レ リ ア 学 徒 会 に お い て も 反 ソ・ キ ャ ン ペ ー ン を 続 け、 「ロ シ ア 人 憎 悪」 と い う 感 情 的 要素を強調することで、会の活動のイデオロギーを強化し ていったのであった。

以上のように、カレリア学徒会において、カイラはもっ ぱら「ロシア人憎悪」キャンペーンに力を注いだが、カレ リア学徒会全体で共有された「大フィンランド」像はいか なるものであったのだろうか。 カレリア学徒会初期における「大フィンランド」像を知 る上で注目すべきは、カイラが会長に就任した年である一 九二三年に刊行された『大フィンランドは祖国と同様であ る』 と い う 題 名 の プ ロ パ ガ ン ダ 冊 子 で あ る ( AKS 1923 ) 。 全四〇頁からなる同冊子は、カレリア学徒会の主要会員が 寄稿した形式となっており、全一一編のうち四編が演説録 となっている。本冊子はむろんプロパガンダを目的として いるため過激な表現が目立ち、かつ論考一つ一つが短く、 「大 フ ィ ン ラ ン ド」 の み に テ ー マ が 絞 ら れ て い る わ け で は ないが、それぞれ当時のカレリア学徒会の「大フィンラン ド」観を考察する上で重要な資料である。以下、本章では 冊子に表れた「大フィンランド」像を分類して分析する。

1﹁

民族﹂

﹂、

本冊子の最大の主題は「近親民族」であるが、注目すべ き点は「近親民族」の「解放」こそが、フィンランド民族 の発展につながるという思考である。また、逆説的に「近 親民族」の「解放」なくしては、フィンランド民族の未来 はないという思考も見られる。 例えば、最初の論考「フィンランド民族の事柄

カレ リ ア の ヨ ー ロ ッ パ 化」 で は、 「フ ィ ン ラ ン ド 民 族 が ま だ 文 化的に『太陽の元でひなたぼっこを始める』時ではない」 と諭し、 「『ロシア化』されたカレリア人の危機の背後で、 我々は太陽が昇るのを見ることはない」という比喩的な話 が 展 開 さ れ る ( AKS 1923: 3-4 ) 。 最 後 に は、 ロ シ ア 帝 国 時 代におけるフェンノマン運動の指導者スネルマンを、民族 的覚醒を、そしてイェーガー隊二七部隊もまだ必要とする で 始 ま る 論 考 か ら も 明 ら か で あ っ た。 カ イ ラ は、 「憎 悪 に よってイェーガー隊はドイツに渡航でき、防衛組織を結成 し、内戦を勝ち抜いたのである

それらは敵に対する祖 国の永遠なる憎悪である。もし我ら民族が生き残りたいの で あ れ ば、 我 々 は な お[ロ シ ア を] 憎 ま な く て は な ら な い、 盲 目 的 に、 そ し て 継 続 的 に ([   ] は 著 者 に よ る 補 足) 」 ( Ahti 1999: 184 ) と述べ、ロシアへの憎悪こそがフィ ンランドにとって不可欠であると説く。フィンランド独立 を目標に結成されたイェーガー隊に所属し、内戦期には白 衛 隊 に 属 し、 ロ シ ア・ カ レ リ ア に 遠 征 し た カ イ ラ に と っ て、 ロ シ ア (ソ 連) は 憎 悪 す べ き 対 象 で あ り、 そ の 憎 悪 こ そがフィンランドの独立を維持できる精神的拠り所となる と説いたのであった。 以上のような考え方は、一九二三年に発行されたカレリ ア学徒会の会報誌『フィンランド民族』に発表した「フィ ンランド民族の仕事」と題した短い論考にも見出せる。本 論考で、カイラは国家と民族の関係について以下のような 表現をする。 「脅 威 を 与 え る 未 熟 な 東 の 民 族 に 対 抗 し た、 西 洋 諸 国文化の前哨地帯となったハンガリーでの二つの兄弟 民族の絶望的な戦いは、マジャール人のすばらしい土 地に破壊をもたらしたが、最終的な戦いをももたらし たのである。フィンランド人の『ロシア野郎』との数 千 年 に わ た る 戦 い は 血 ま み れ の 戦 い で あ り、 ハ ン ガ リー人の戦いより非常に危険であったが、戦いはいま だ 終 わ っ て お ら ず、 そ の 終 わ り は ま だ 見 え な い」 ( Suomen Heimo 1923: 116 ) 。 以上のように、カイラはロシアとフィンランドの戦いを 表 現 す る。 続 け て、 カ イ ラ は、 「我 々 の 祖 先 は 戦 い を 望 み、 勝 つ こ と を も 望 ん だ が、 自 分 た ち の 国 の 主 人 と し て 戦っておらず、独立フィンランドの側で戦ってもいなかっ た」 と 自 省 し、 さ ら に「我 ら 民 族 に は 自 由 と 平 和 が あ る か」 と 自 問 自 答 し、 「な い」 と 答 え る。 な ぜ な ら ば、 「『ロ シア野郎』がこの五年の間に外に移動したわけでもなく、 奴らがフィンランドに自由と平和を残したわけでもない、 奴 ら は 東 の 奴 隷 的 な る も の、 東 の『無 責 任 な 行 為』 、 東 の 貧困より悪いもの、すなわちロシア的なるものをフィンラ ンドに残したのだ」と強調する。そして、カイラは「来た る べ き 戦 い」 の た め に、 「民 族 感 情 の 強 化、 積 極 的 な 祖 国 愛、すなわち『ロシア人憎悪』の必要性」を訴えるのであ

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185「大フィンランドは祖国と同様である」 184 「人 類 の 発 展 が 最 終 的 に 完 了 す る ま で 戦 争 は 必 要 で あ る。完了後は、よい気分のまま息を引き取ることがで きるだろう」 ( AKS 1923: 16 ) 。 次 に 人 類 の 戦 争 の 歴 史 を 語 る な か で、 「第 一 次 世 界 大 戦 後、多くの小国家が独立を果たしたが、ロシアとその周辺 で は 独 立 し た 国 家 は 少 な い」 と 語 り、 「ウ ク ラ イ ナ と カ フ カースの民族はモスクワの支配下に入っており、カレリア の 解 放 の た め の 努 力 は 血 ま み れ で 抑 圧 さ れ た」 と 指 摘 す る。 さ ら に、 「カ レ リ ア の 解 放 が 実 現 し て い な い の で、 我 々 フ ィ ン ラ ン ド の 民 族 国 家 は 完 成 し て い な い」 と 主 張 し、そのために、 「『ロシア野郎』と再び戦わなければなら な い」 と し、 「人 々 へ の 啓 蒙 活 動 と 民 族 プ ロ パ ガ ン ダ の 必 要性」を強調する。また、興味深いのは、現在のフィンラ ン ド を「小 フ ィ ン ラ ン ド ( Vähä-Suomi ) 」 と 名 づ け、 「『小 フ ィ ン ラ ン ド』 は 国 家 で は な い、 『大 フ ィ ン ラ ン ド』 こ そ が国家であり、それゆえカレリアを見捨てることはできな い」とする ( AKS 1923: 15-20 ) 。 「カ レ リ ア 性 に お け る 偉 大 な る 理 想 に つ い て」 と い う 論 考では、カレリア性について「フィンランド文化にとって 重要であり、カレリア性を排除したらフィンランドの文化 が や せ 細 っ て し ま う」 と 指 摘 す る。 そ れ ゆ え、 「カ レ リ ア の『解放』こそが不可欠である」という他の論考と共通の 認識を示す ( AKS 1923: 21-24 ) 。 以 上 の よ う に、 カ レ リ ア 人 を 主 な 対 象 と す る「近 親 民 族」との連帯の実現こそが、フィンランドを真の国家にす るという考えが共有されているといえる。また、ヨーロッ パに関する叙述であるが、最初の論考ではフィンランドと ヨーロッパを一体化して論じていたが、他の論考ではヨー ロ ッ パ と い う 言 葉 よ り も む し ろ「西 洋 諸 国 ( länsimaat * 23 ) 」 と い う 言 葉 が、 「東 ( itä ) 」、 す な わ ち ソ 連 と 対 置 さ れ る 形 で頻繁に出てくる。つまり、ヨーロッパは抽象的な形で表 現されているにすぎず、実体としてのヨーロッパはここで は論じられていない。

2﹁

人憎悪﹂

表現

冊子全体の論調は、カイラが掲げた「ロシア人憎悪」色 が 色 濃 く 反 映 さ れ て い る が、 「ロ シ ア 人 憎 悪」 そ の も の を 題名とした論考も寄せられている。 カレリア学徒会創設メンバーであり牧師でもあったエリ アス・シモヨキが書いたとされる同論考は終始過激な言葉 と 主 張 し、 そ れ ら が「入 手」 で き る な ら、 「北 欧 の 文 化 的 ヘ ゲ モ ニ ー は フ ィ ン・ ウ ゴ ル 民 族 に 移 る」 と 締 め く く る ( AKS 1923: 4-5 ) 。つまり、フィンランド人はカレリア人と 一 体 に な っ て こ そ、 「一 人 前」 に な り、 さ ら に 北 欧 の 文 化 的ヘゲモニーをも握るという主張が展開される。また、こ こ で の カ レ リ ア 人 の「ヨ ー ロ ッ パ 化」 と い う 言 葉 に は、 フィンランド人になるという意味が読み取れる。つまり、 論者はフィンランド人自身をヨーロッパの一員と見なして おり、カレリア人をソ連から「解放」し、フィンランドに 組 み 込 む こ と こ そ、 「ヨ ー ロ ッ パ 化」 に つ な が る と し て い るのである。 また、ここでのフィン・ウゴル民族という言葉は、フィ ンランド人とカレリア人を指しているが、別の論考ではエ ス ト ニ ア 人 も 含 め て 論 じ ら れ る な ど、 「近 親 民 族」 の 範 囲 は論考によって異なるが、基本的にはフィン・ウゴル民族 に 同 系 言 語 を 話 す 民 族 が 共 通 し て 想 定 さ れ て い る ( AKS 1923: 5 ) 。 イングリアに居住する民族、すなわちイングリア人につ い て は、 「イ ン グ リ ア の 運 命」 と い う 論 考 で 取 り 上 げ ら れ て い る。 同 論 考 に よ る と、 「も と も と 歴 史 上 フ ィ ン ラ ン ド 民族はネヴァ川沿岸に登場し、別途カレリア人とハメ人が ネヴァ川の先まで移動し、ネヴァ川の先でもフィンランド 人トゥオマス司教が勇敢にノヴゴロド王と競った」と指摘 し、歴史的経緯からもイングリアはフィンランドであった こ と を 主 張 す る。 さ ら に、 「イ ン グ リ ア ほ ど 汚 れ て い な い 民族感情が残っている地域はなく、またスウェーデン時代 のフィンランドの宝である教会がイングリアに残されてい る」とする。さらに「フィンランドの宝である民族叙事詩 『カ レ ワ ラ』 を 保 持 し て く れ た」 と い う 理 由 を 挙 げ、 イ ン グ リ ア と フ ィ ン ラ ン ド と の 文 化 的 紐 帯 を 強 調 す る * 22 。 最 後 に、 「フ ィ ン ラ ン ド の 文 化 的 遺 産 を 保 持 し て く れ た 恩 に 応 えるため、我々はイングリアに『解放』という宝物を送ら な く て は な ら な い」 と 訴 え る ( AKS 1923: 10-12 ) 。 つ ま り、本論考では言語的つながりだけではなく、文化的つな が り と い う 根 拠 を 挙 げ て フ ィ ン ラ ン ド と の 紐 帯 を 強 調 す る 。 このような「近親民族」との文化的つながりの強調は、 「記 憶 は 曲 げ ら れ る」 と い う 論 考 で も 見 ら れ る。 本 論 考 で は、フィンランドの「ナショナリズムの父」とされるロシ ア帝国時代のナショナリストであるユリヨ=コスキネンの 以下の比喩的な表現を引用し、カレリア解放のための戦い の必要性を説く。

(8)

187「大フィンランドは祖国と同様である」 186 以上のように、本冊子はプロパガンダを目的として製作 されたという性質上、過激で読者を煽る表現が多々見られ るが、カレリア学徒会初期の考えを色濃く反映したもので あり、そこに見られる「大フィンランド」像は、以下のよ うに分類される。 一   「近 親 民 族」 で あ る カ レ リ ア 人 お よ び イ ン グ リ ア 人の「解放」 二   カレリア人が居住するロシア・カレリアのフィン ランドへの併合 三   「ロ シ ア 人 憎 悪」 に 裏 打 ち さ れ た フ ィ ン ラ ン ド 民 族の真の独立および統一 以上のように、感情に訴える形で提示された「大フィン ランド」像が、カレリア学徒会の当初の目標として掲げら れたのである。

学徒会

分裂

方向性

転換

前 述 し た よ う に、 カ イ ラ は 一 九 二 七 年 九 月 か ら 五 ヵ 月 間、 博 士 論 文 執 筆 に 集 中 す る た め 代 表 を 一 時 退 任 す る。 ちょうどその時期からカレリア学徒会は、以前から盛り上 がりを見せていた「純正フィンランド性」運動にいっそう 重点を置くようになり、会員の多くもその運動にのめり込 む よ う に な る。 繰 り 返 し に な る が、 「純 正 フ ィ ン ラ ン ド 性」運動とはフィンランド語を中心としたフィンランド民 族文化の発展と強固な国家の創造を目的とするナショナリ ズ ム 運 動 で あ る ( Hämäläinen 1968: 102 ) 。 同 運 動 は、 ス ウェーデン語系フィンランド人への言語的な弾圧を想定し ていたわけではないものの、彼らの「特権」をなくすこと を目標として活動が展開された。一九二三年に「純正フィ ン ラ ン ド 性 連 合 ( Aitosuomalaisuuden Liitto ) 」 が 発 足 す る など、カレリア学徒会の外でも活動が行われていたが、そ の 影 響 が 会 に も 及 び、 特 に 会 員 ニ ー ロ・ カ ル キ ( Niilo Kärki, 1897-1931 ) のテーゼ「国民の連帯」が取り上げられ たことによって、一九二四年に内戦で生じた国内の分裂お で 綴 ら れ て い る。 シ モ ヨ キ は、 ま ず「 『ロ シ ア 人 憎 悪』 は イ ェ ー ガ ー 隊 精 神、 す な わ ち フ ィ ン ラ ン ド 人 の 精 神 で あ り、 フ ィ ン ラ ン ド を 解 放 す る も の で あ る」 と 説 く。 次 に 「フィンランドの大学生よ!」と呼びかけ、 「祖先の大いな る祖国愛と敵に対する憎悪に感謝し、祖先の伝統を大事に 育み、いっそう育成させる義務がある」と主張する。続け て、 「『ロ シ ア 野 郎』 を 愛 す る 必 要 は な く、 憎 悪 す る べ き だ」 と 説 く。 ま た「愛 と 憎 悪 は メ ダ ル の 裏 表 で あ り、 『ロ シア野郎』を憎悪することは国を愛することと表裏一体で ある」と主張する。最後にシモヨキは「憎悪と愛!   奴ら がどんな色であろうとも『ロシア野郎』に死を! * 24 」といっ た挑発的な言葉を綴る ( AKS 1923: 7-9 ) 。 本論考ほどでないにせよ、このようなロシア人に対する 憎悪は冊子全体に通底して見られるものであり、カイラが 掲げた「ロシア人憎悪」の意図に沿ったものであるといえ る。 カイラ自身の論考は最後に掲載されているが、前述した 『フ ィ ン ラ ン ド 民 族』 で 発 表 し た 論 考 の 焼 き 直 し で あ り、 語句など若干修正されているものの論調自体に変化は見ら れない。

3﹁大

地理的範囲

で は、 「大 フ ィ ン ラ ン ド」 の 地 理 的 範 囲 に つ い て、 本 冊 子 で は ど の よ う に 表 現 さ れ て い る の で あ ろ う か。 「大 フ ィ ンランド=祖国」という単純な呼びかけをしている論考も あるものの、地理的範囲を記述した論考も見られる。 前 述 し た「記 憶 は 曲 げ ら れ る」 と い う 論 考 で は、 「大 フィンランド」の東側境界線をラドガ湖と北海の間から始 まり、ラドガ湖からオネガ湖を通って白海に至ると想定す る。つまり、ヴィエナ・カレリアおよびアウヌス・カレリ アを内包するロシア・カレリアを含んだフィンランドの領 域 を 示 す ( AKS 1923: 20 ) 。 ま た、 「フ ィ ン ラ ン ド の 夜 明 け」と題した論考では、シュヴァリ、オネガ湖、ラドガ湖 沿 岸 の カ レ リ ア 人 の 解 放 を 強 調 し て お り ( A K S 19 23: 3 1 ) 上 述 し た 論 考 同 様 に ロ シ ア・ カ レ リ ア を「大 フ ィ ン ラ ン ド」の範囲に含めていることがわかる。 そ の 一 方 で、 冊 子 の 性 質 か ら か、 「大 フ ィ ン ラ ン ド」 の 主な地理的対象はあくまでロシア・カレリアに向けられて おり、フィンランド語系住民が居住するノルウェー北部の ルイヤ、スウェーデン北部についての言及は見られない。

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189「大フィンランドは祖国と同様である」 188 カイラが代表を降りた直後の一九三〇年一〇月号のカレ リ ア 学 徒 会 の 会 報 誌『フ ィ ン ラ ン ド 民 族』 の 巻 頭 に、 「カ レリア学徒会の目的」と題した囲み記事が掲載された。 「カ レ リ ア 学 徒 会 の 目 的 は、 カ レ リ ア 民 族 お よ び イ ングリア民族の解放、エストニアとフィンランド国家 との接近およびランシポホヤとルイヤに居住するフィ ンランド語系住民の権利の保障

すなわち、強固な 国家的合意と文化的連帯とが結びついた 大フィンラン 0 0 0 0 0 0 ド 0 である[傍点原文どおり、以下同様] 。 カ レ リ ア 学 徒 会 は、 現 状 に 影 響 に 及 ぼ す 信 念 を 貫 き、首尾一貫して目的に向かう[フィンランド語とス ウェーデン語の] 両言語集団が原則的に同等の権利を 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 持ち、民族的感情が強化された国家は、全フィンラン 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ド民族の幸福な未来、すなわち大フィンランドの建設 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 の た め に 耐 え う る 唯 一 の 基 盤 で あ る 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ( 0 鍵 括 弧 は 著 者 に よる補足 ) 0 」 ( Suomen Heimo 1930: 209 ) 。 つまり、カレリア学徒会は一九二三年に主張したよりも 広い範囲を示す「大フィンランド」の実現を目標に掲げた のである。また、その一方でフィンランド内の連帯こそが 「大 フ ィ ン ラ ン ド」 に 必 要 で あ る と 表 明 し た の で あ っ た。 「純 正 フ ィ ン ラ ン ド 性」 運 動 が 盛 り 上 が る な か、 こ の よ う な意思を表明した背景は明らかになっていないが、使用言 語 に よ る 会 の 分 裂 を 避 け よ う と い う 意 思 が あ っ た と 窺 え る。 こ の よ う に、 「大 フ ィ ン ラ ン ド」 の 実 現 と い う 目 標 は、フィンランド語化運動の最中にも維持されていったの である。

会長を辞任したカイラは、翌年の一九三一年に博士論文 『一六〇〇〜一七〇〇年代のポホヤンマーと海 ( Pohjanmaa ja meri 1600- ja 1700-luvuilla ) 』を刊行し、同年に戦争史 料館に職を得て、亡くなる一九三五年までその仕事を続け た。また、会長退任後の一九三三年に、カイラはカレリア 学徒会の名誉会員に推挙された。 カイラの会長退任後、カレリア学徒会は大きな変革を迎 える。一九三二年に勃発したマンツァラ蜂起と呼ばれる過 激化した反共運動への対応をめぐって、カレリア学徒会は 主要メンバーがほとんど入れ替わる状況に陥った * 27 。一九三 よび言語が分けられることで生じた国力の衰えを阻止する 方 針 が と ら れ た ( Tommila 1989: 189 ) 。 そ れ ゆ え、 基 本 的 に会員の姓はフィンランド語風でなければならないと定め るなど、会におけるフィンランド語の使用が半ば義務化さ れた ( Hämäläinen 1968: 117 ) 。 「純 正 フ ィ ン ラ ン ド 性」 運 動 に お い て 最 も 力 が 注 が れ た のは、ヘルシンキ大学のフィンランド語化である。ヘルシ ンキ大学ではその歴史的経緯からスウェーデン語およびラ テン語で授業がなされていたが、ヘルシンキ大学に進学す る フ ィ ン ラ ン ド 語 系 フ ィ ン ラ ン ド 人 が 増 加 す る と と も に フ ィ ン ラ ン ド 語 で の 授 業 も 増 加 し て い っ た。 し か し、 「純 正フィンランド性」運動者はヘルシンキ大学の措置はまだ 不十分であるとし、内戦で二分されたフィンランド国内を まとめるには「フィンランド語」という言語を中心とすべ きであり、エリートを養成する大学においてもフィンラン ド語系教授が優先して採用されるべきであり、また授業も フィンランド語が優先されるべきであると主張した * 25 。 カイラ自身はこの運動を容認したものの、会内ではあく まで「ロシア人憎悪」に関連した活動に重点を置く姿勢は 変 え な か っ た * 26 。 ま た、 同 運 動 に 反 発 す る 会 員 も 存 在 し た が、一九二八年からはヘルシンキ大学のフィンランド語化 運動にカレリア学徒会が主導的に関与するようになり、会 報 誌『フ ィ ン ラ ン ド 民 族』 も「純 正 フ ィ ン ラ ン ド 性」 運 動、特にヘルシンキ大学のフィンランド語化をめぐる運動 に つ い て の 特 集 が 続 け て 組 ま れ る な ど、 「純 正 フ ィ ン ラ ン ド性」運動に重点が置かれた。 そのような「純正フィンランド性」の盛り上がりの背景 に は、 「大 フ ィ ン ラ ン ド」 実 現 の 困 難 さ が 挙 げ ら れ る だ ろ う。 「近 親 民 族」 の 連 帯 を 謳 う「大 フ ィ ン ラ ン ド」 は、 非 常に魅力的な目標であったが、その一方で実現が決して容 易ではないことは明らかであった。それゆえ、まずはより 確実で効果が早々に期待できるヘルシンキ大学のフィンラ ンド語化運動に関心を惹かれる会員が多かったといえる。 また、エリート層の言語を統一することによってフィンラ ンド国内の連帯を図り、かつ強固な国家建設への布石を打 つという意味合いをも見出せる。 カイラは一九二八年二月に会長の座に復帰したものの、 心臓の病気が悪化したこともあり、一九三〇年九月初旬に 代表の座を降りることを表明したが、病気だけではなく、 会の「純正フィンランド性」運動への傾倒やそれに伴う会 内 の 不 和 が 重 圧 と な っ た の も そ の 一 因 で あ っ た と さ れ る ( Ahti 1999: 408, 463 ) 。

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191「大フィンランドは祖国と同様である」 190 二年以降のカレリア学徒会は、ラプア運動から派生した極 右 政 党 で あ る 愛 国 国 民 運 動 (I K L: Isänmaallinen kansanliike ) と の 連 携 * 28 を 行 い、 政 党 政 治 に 関 与 し 始 め る と 一気に政治化の道を辿ることになる。 カイラが会長を務めた八年半もの間にカレリア学徒会は 急 成 長 を 遂 げ た。 一 九 二 二 年 終 わ り に は わ ず か 六 〇 人 で あ っ た 会 員 が 一 九 三 〇 年 に は 一 〇 七 五 人 に 増 加 し た ( Ahti 1999: 409 ) 。 そ の 間、 会 の 方 針 は 首 尾 一 貫 し て い た わ け で はなく、内部で多くの衝突が起こった。また、徐々に「世 代交代」も行われたため、会の「大フィンランド」像も一 枚岩ではなかった。 初 期 に カ イ ラ が「ロ シ ア 人 憎 悪」 と い う 感 情 に 訴 え た 「大 フ ィ ン ラ ン ド」 像 は、 知 識 人 ら が 構 想 し た「大 フ ィ ン ランド」像と比較すると稚拙なものだったが、一方で感情 に訴える分、求心力を持つものであり、カレリア学徒会初 期の「大フィンランド」像を形成する上で大きな影響を及 ぼした。 カ イ ラ に と っ て 、「 大 フ ィ ン ラ ン ド 」 は 単 に 「 近 親 民 族 」 の 連 帯や 領 土 拡 張 と い う 地 政 学 的 な 構 想に と どま らなか っ た 。「 大 フ ィ ン ラ ン ド 」 は 、 フ ィ ン ラ ン ド 民 族 存 続 の た め に 不 可 欠 な も の で あ り 、 そ れ は 「 ロ シ ア 人 憎 悪 」 と い う 感 情 を 動 力 と し て 実 現 さ れ る べ き も の で あ っ た 。ま た 、 カイ ラ は ロ シ ア 人 や 共 産 主 義 者 だ け で は な く 、 ユ ダヤ 人 に 対 し て も 、さ ら に は フィ ン ランド に お け る ド イ ツ 性 やス ウ ェ ー デ ン 性 を も 排 除 し た い と す る 意 思 が あ っ た と さ れ て お り ( A ht i 1 999: 4 07 ) 、 外 に 向 か う と い う よ り も 内 な る 統 一 に こ だ わ り を 見 せ て い た 側 面 も あ っ た 。以 上 のよ う に 、 カ イ ラ の思想からはヨーロッパ統合という発想は見られない。 カイラや初期のカレリア学徒会にとって、フィンランド は「西」 、 す な わ ち ヨ ー ロ ッ パ を「東」 か ら 守 る 障 壁 で あ っ た と 同 時 に、 「大 フ ィ ン ラ ン ド」 そ の も の が フ ィ ン ラ ン ド 本 来 の 姿 で あ っ た。 ま た、 「大 フ ィ ン ラ ン ド」 は 必 然 的にヨーロッパに含まれるものであった。彼らの「大フィ ンランド」は、ヨーロッパ統合に相反する構想というより も、ヨーロッパ統合という発展した形までの想定はしてい な か っ た と い え る。 彼 ら に と っ て、 「大 フ ィ ン ラ ン ド」 と いうフィンランド民族国家の建国こそが「真の独立」につ な が る の で あ り、 そ の 先 の 未 来 に 思 い を 馳 せ る 余 裕 は な かったのである。また、彼らにとってヨーロッパは抽象的 な 概 念 で あ り、 繰 り 返 し に な る が「野 蛮 な 東」 に 対 す る 「先 進 的 な 西」 と い う 意 味 で の ヨ ー ロ ッ パ と い う 考 え に と ど ま っ て い た。 そ れ ゆ え、 彼 ら が 描 い た「大 フ ィ ン ラ ン ド」は、ヨーロッパのなかに位置することを重視した地域 構想であるが、その先のヨーロッパ統合という形にはつな がっていなかったのである。 一 方、 「大 フ ィ ン ラ ン ド」 は、 カ レ リ ア 学 徒 会 の よ う な 右翼団体からのみ発せられたわけではない。内戦期に革命 を望んだ勢力である赤衞隊の指導者エドヴァルド・ギッリ ン グ ( Edvard Gylling, 1881-1938 ) ら は、 内 戦 で 敗 北 し た 後、ロシア・カレリアへ亡命し、一九一八年八月二九日に モスクワで共産党政権を樹立した。その際、彼は同志と、 カレリア人とフィンランド文化の融合および「赤の大フィ ンランド」 「赤の北欧」 の実現を目標に掲げた ( Kangaspuro 1998: 125 ) 。 つ ま り、 「大 フ ィ ン ラ ン ド」 と い う 思 想 自 体 は、その地理的範囲やイデオロギーは論者によって異なる ものであるものの、政治的立場を超えてフィンランド人に 支持された思想であった。 本稿では、狭い範囲の「大フィンランド」像を取り上げ たが、当時のフィンランドが置かれた国際的状況を鑑みる 上で一つの示唆となるだろう。 ◉付記 本 研 究 は、 科 学 研 究 費 補 助 金・ 基 盤 研 究(B) 「戦 間 期 ヨ ー ロ ッ パ に お け る 国 家 形 成 と 地 域 統 合 に 関 す る 比 較 研 究」 課 題 番 号 24330055 (代 表: 大 島 美 穂・ 津 田 塾 大 学) の 助 成 を 受 け たものである。 ◉注 *1 カ レ リ ア 人 だ け で は な く、 エ ス ト ニ ア 人、 フ ィ ン ラ ン ド 国 境 近 く に 居 住 す る フ ィ ン ラ ン ド 語 を 話 す ス ウ ェ ー デ ン 人 ら を 含 む 場 合 も あ る。 さ ら に、 ウ ラ ル 語 族 と い う 括 り で ハ ン ガ リ ー 人 を も 含 む 言 説 も あ る が、 通 常「大 フ ィ ン ラ ン ド」 の 範 囲には含まれない。詳細は、石野(二〇一二)を参照。 *2 「大 フ ィ ン ラ ン ド」 を、 「大 セ ル ビ ア」 や「大 ル ー マ ニ ア」 と い っ た 他 の ヨ ー ロ ッ パ 諸 国 に 登 場 し た 地 域 構 想 と 比 較 す る と、 「近 親 民 族」 と の 連 帯 お よ び そ の 民 族 の 居 住 地 の 合 併 と い っ た 点 で 共 通 点 が 見 ら れ、 「大 フ ィ ン ラ ン ド」 そ の も の を 膨 脹 思 想 と 断 言 す る こ と は で き な い。 し か し、 本 稿 で は、 戦 間 期 フ ィ ン ラ ン ド に お け る「大 フ ィ ン ラ ン ド」 を、 膨 脹 主 義 的 な 性 格 が 色 濃 く 出 て い る 点 に 留 意 し て 論 じ る。 「大 フ ィ ン ラ ン ド」 の 誕 生 と 変 遷 に つ い て の 詳 細 は、 石 野(二 〇 一二:一九―六一)を参照。 *3 東 カ レ リ ア 遠 征 と は、 内 戦 中 白 衞 隊 側 の 義 勇 兵 が 宣 戦 布 告 な し で、 東 側 国 境 を 超 え、 一 九 一 八 年 三 月 に ロ シ ア・ カ レ リ ア の 主 要 都 市 ポ ラ ヤ ル ヴ ィ、 レ ポ ラ 地 域 を 占 領 し、 六 月 に 白 海 西 方 の 地 域 を 占 領 し た こ と を 指 す。 フ ィ ン ラ ン ド 政 府 も

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193「大フィンランドは祖国と同様である」 192 こ の 遠 征 に 財 政 的 援 助 を 行 う な ど、 ロ シ ア・ カ レ リ ア を 含 め た 形 で の フ ィ ン ラ ン ド「独 立」 を 目 指 し た が、 結 局 失 敗 に 終 わった。 *4 初 代 会 長 に は、 当 時、 民 族 株 式 銀 行( Kansallis-Osake pankki ) に 勤 め て い た カ ー ル ロ・ ハ ッ リ コ ル ピ( Kaarlo Hallikorpi, 1884-1934 ) が 就 任 し た が、 一 年 足 ら ず で カ イ ラ に 会 長 を ゆ ず っ た。 ハ ッ リ コ ル ピ は 名 誉 会 長 的 立 場 に あ っ た た め、カイラを「初代」会長とする先行研究も存在する。 *5 フ ィ ン ラ ン ド 国 立 図 書 館 特 別 閲 覧 室 の A K S コ レ ク シ ョ ン ( AKS:n kokoelma ) 目録より。 他方、 他の資料はラハティ に 送 ら れ、 A K S 秘 書 の E・ ハ ー タ ヤ に よ っ て 燃 や さ れ た と 記されている。 *6 た だ し、 モ ー ガ ン の よ う に、 会 の 活 動 全 体 が フ ァ シ ズ ム 的 で あ る と 断 定 す る の も 単 純 す ぎ る き ら い が あ る。 後 述 す る よ う に、 会 自 体 は さ ま ざ ま な 活 動 を 行 っ て お り、 な か に は フ ァ シ ズ ム と は 関 係 の な い 活 動 も 見 受 け ら れ る。 そ れ ゆ え、 本 稿 で は カ レ リ ア 学 徒 会 を フ ァ シ ズ ム 的 性 質 を 帯 び た 右 翼 団 体と定義して論じる。 *7 一 九 二 七 年 か ら 二 八 年 ま で 少 し 期 間 が 空 い て い る の は、 カ イ ラ が 博 士 論 文 執 筆 に 集 中 す る た め、 五 ヵ 月 も の 間 会 長 職 を 離 れ た か ら で あ る。 そ の 間、 ヴ ィ ル ホ・ ヘ ラ ネ ン( Vilho Helanen, 1899-1952 ) と マ ル ッ テ ィ・ イ ル マ リ・ カ ン テ レ (

Martti Ilmari Kantele, 1895-1970

)が会長を務めた。 *8 歴 史 家 マ ッ テ ィ・ ク リ ン ゲ い わ く、 カ イ ラ は 若 者 の リ ー ダ ー に な っ た 非 常 に 重 要 な 人 物 で あ り、 カ レ リ ア 学 徒 会 の 組 織の創造者であった( Klinge 1978: 88 )。 *9 Ryssä と い う 言 葉 は、 直 訳 す れ ば「露 助」 と い う 侮 蔑 の 表 現 で あ る が、 本 稿 で は Ryssänviha を「ロ シ ア 人 嫌 悪」 、 Ryssä を「ロシア野郎」と訳す。 * 10 し か し、 実 際、 カ イ ラ は ヒ ト ラ ー ほ ど の 実 力 を 持 ち 合 わ せ た 人 物 で は な く、 カ イ ラ の 反 ソ、 反 共 主 義 的 な 運 動 は 政 治 に影響力を及ぼすものではなかった。 * 11 このことは、 カイラが優秀な学生だったことを意味する。 * 12 実 際 に ど の よ う な 文 章 の や り 取 り を し て い た の か は 、 資 料 が 残 っ て い な い た め 、 明 ら か に さ れ て い な い ( A ht i 1 999: 54 )。 * 13 カ イ ラ は、 独 立 前 に ロ シ ア 帝 国 軍 に 所 属 し、 独 立 時 に 対 露 友 好 路 線 を と っ た フ ィ ン ラ ン ド の 英 雄 マ ン ネ ル ヘ イ ム 将 軍 をも「ロシア野郎」と見なした( Ahti 1999: 155-163 )。また、 カ イ ラ は 保 守 系 の 雑 誌『市 民 警 備 隊 雑 誌( Suojeluskunnan Lehti )』 お よ び『言 葉 と 剣( Sana ja Miekka )』 の 編 集 長 を 一 九二四〜二六年まで務めた。 * 14 三 人 の 創 設 メ ン バ ー で あ る エ リ ア ス・ シ メ リ ウ ス( Elias Simelius, 1899-1940 一九二六年に Simojoki とフィンランド語 姓に改名) 、レイノ・ヴァハカッリオ( Reino Vähäkallio 出生 没 年 不 明) 、 エ ル ッ キ・ ラ イ ッ コ ネ ン( Erkki Räikkönen, 1900-1961 )は、全員東カレリア遠征の参加者であった。 * 15 し か し、 翌 年 の 一 九 二 一 年 に、 ソ ヴ ィ エ ト 側 は ロ シ ア・ カ レ リ ア に ソ ヴ ィ エ ト 制 を 敷 き、 そ れ に 抵 抗 し た カ レ リ ア 人 を 鎮 圧 し た。 フ ィ ン ラ ン ド 政 府 は こ の 措 置 に 対 し て 国 際 連 盟 の常設国際司法裁判所に提訴したが、効果はなかった。 * 16 当 時、 ヴ ィ エ ナ・ カ レ リ ア か ら の 難 民 が 一 四 万 人 以 上 フィンランドに流入したとされる( Ahti 1999: 255 )。 * 17 一 九 二 三 年 に は す で に 七 四 人 の 会 員 が 二 〇 〇 地 区 を 巡 回 し た と い う 。 ま た 、 ポ ス ト カ ー ド も 同年 五 〇 万 枚 を 売 り 上 げ た と い う 。 ポ ス ト カ ー ド に は 「 カ レ リ ア の た め に ( K ar jalan pu ole st a ) と い う 語 句 が 書 か れ 、 カ レ リ ア の 風 景 や 人 物 な ど の 写 真 と 詩 が 印 刷 さ れ た ( E sk elin en 20 04 : n .p .; A ht i 1 999: 356 )。 * 18 カ レ リ ア 学 徒 会 で は、 フ ェ ン ノ マ ン の 創 始 者 ス ネ ル マ ン の 誕 生 日(五 月 一 二 日: フ ィ ン ラ ン ド で は「ス ネ ル マ ン の 日」 と し て 現 在 で も 祝 わ れ て い る) に ヘ ル シ ン キ の 公 園 に あ る銅像まで行進する行事があった。 * 19 女 子 学 生 に 対 し て は、 一 九 二 二 年 一 〇 月 に カ レ リ ア 学 徒 会 の 女 性 部 と し て カ レ リ ア 女 子 学 徒 会( Naisylioppilaiden Karjala-Seura ) が 発 足 し た。 な お 同 会 は、 一 九 三 八 年 に カ レ リ ア 女 性 学 徒 会( Akateemisten Naisten Karjala-Seura ) と 名称を変更した。 * 20 カ レ リ ア 学 徒 会 の 創 始 者 メ ン バ ー の 一 人 で あ る ヴ ァ ハ カ ッ リ オ は、 一 九 二 一 年 一 一 月 に カ イ ラ に 会 っ た と き、 剣 が 交 差 し た カ レ リ ア の 旗 と と も に、 「悪 魔 と『ロ シ ア 野 郎』 に 対 抗 し て( Piru ja Ryssän vastaan )」 と い う 文 字 が 書 か れ た T シ ャ ツ を カ イ ラ が 着 て い た と 回 想 す る な ど、 当 時、 カ イ ラ は 反 ソ キ ャ ン ペ ー ン で 注 目 さ れ る 存 在 で あ っ た。 ま た、 「悪 魔 と『ロ シ ア 野 郎』 に 対 抗 し て」 と い う ス ロ ー ガ ン は、 「憎 悪の兄弟」のスローガンとして再び使われた。 * 21 「憎 悪 の 兄 弟」 は 秘 密 組 織 と さ れ た が、 当 時 の カ レ リ ア 学徒会では大きな勢力であった( Eskelinen 2004: 87-93 )。 * 22 叙 事 詩『カ レ ワ ラ』 の 原 詩 で あ る 口 承 詩 は、 主 に ロ シ ア・ カ レ リ ア で 採 集 さ れ た が、 一 部 は イ ン グ リ ア や フ ィ ン ラ ンド領カレリアでも採集された。 * 23 「西 洋 諸 国( länsimaat )」 は 西( länsi ) の 国 々( maat ) を 指 し、 板 橋 論 文 で 言 及 さ れ て い る「西 洋( Abendland )」 とは語源的には意味は異なる。 * 24 「ど ん な 色」 と い う の は、 ど ん な 政 治 心 情 で あ ろ う と も という意味だと解釈できる。また「 『ロシア野郎』に死を!」 という言葉は二度綴られている。 * 25 会 員 で あ る 民 俗 学 者 マ ル ッ テ ィ・ ハ ー ヴ ィ オ(詩 人 名 ム ス タ パ ー) が 指 導 的 役 割 を 果 た し た。 詳 細 は、 石 野(二 〇 一 二:一七〇―一八四)を参照。 * 26 カ イ ラ は、 主 に 会 の 外 で フ ィ ン ラ ン ド 軍 の「浄 化」 作 戦、 す な わ ち ロ シ ア 帝 国 時 代 の 将 校 た ち を 軍 か ら 一 掃 し よ う と す る 活 動 に の め り 込 ん で い た。 ま た カ イ ラ は、 一 九 二 五 年 に カ レ リ ア 学 徒 会 か ら 出 版 さ れ た『フ ィ ン ラ ン ド の 民 族 性 問 題』 で、 「我 々 の 防 衛 軍 に お け る ロ シ ア 性」 と い う 短 い 論 考 を 寄 せ る な ど、 会 内 で も 自 身 の 主 張 を 表 明 し た こ と も あ る ( AKS 1925: 63-69 )。この点については今後の課題としたい。 * 27 マ ン ツ ァ ラ 蜂 起 は、 一 九 二 〇 年 代 末 か ら 一 九 三 〇 年 代 初 め に お い て 発 生 し た ラ プ ア 運 動 が 過 激 化 し た 事 件 で あ る。 ラ プ ア 運 動 と は、 ボ ス ニ ア 湾 西 岸 の 保 守 的 地 域 で あ る ラ プ ア で、 農 民 が 共 産 党 の 集 会 を 襲 撃 し た こ と か ら 始 ま っ た 運 動 で あ り、 共 産 党 の 非 合 法 化 の 要 求 に ま で 発 展 し た。 一 九 三 〇 年

(12)

195「大フィンランドは祖国と同様である」 194 に 実 際 に 共 産 主 義 運 動 取 締 令 が 国 会 で 可 決 さ れ る な ど、 ラ プ ア 運 動 の 政 治 へ の 影 響 は 大 き い も の で あ っ た。 ま た、 世 論 の 支 持 も 受 け て い た が、 ラ プ ア 運 動 が 過 激 化 す る に つ れ て フ ィ ン ラ ン ド 政 府 お よ び 世 論 の 支 持 を 失 っ て い っ た。 し か し、 過 激 化 し た ラ プ ア 運 動 を 支 持 す る 一 部 の フ ィ ン ラ ン ド 人 兵 士 が、 一 九 三 二 年 二 月 末 に ヘ ル シ ン キ 近 郊 の マ ン ツ ァ ラ で ク ー デ タ ー を 起 こ し、 政 権 転 覆 を 図 っ た。 こ れ が マ ン ツ ァ ラ 蜂 起 で あ る。 当 時 の ス ヴ ィ ン フ ッ ヴ ド 大 統 領 が 投 降 を 呼 び か け、 蜂 起 は 失 敗 に 終 わ っ た。 反 共 運 動 を 支 持 し て い た 会 員 の 多 く は 過 激 化 す る ラ プ ア 運 動 に つ い て い け ず、 ラ プ ア 運 動 支 持 を 表明していた会を離脱した。 * 28 IKLに活動の場を移した会員も多かった。 ◉参考文献 [定期刊行物] Suomen Heimo Ylioppilaslehti [史料集・二次文献] 石 野 裕 子(二 〇 一 二) 『「大 フ ィ ン ラ ン ド」 思 想 の 誕 生 と 変 遷

叙事詩カレワラと知識人』岩波書店。 デ イ ヴ ィ ッ ド・ カ ー ビ ー(二 〇 〇 八) 『フ ィ ン ラ ン ド の 歴 史』 百 瀬 宏・ 石 野 裕 子 監 訳、 明 石 書 店( Kirby, David ( 2006 )A Concise History of Finland, Cambridge: Cambridge University Press )。 A ht i, Ma rt ti ( 19 99 )Ry ss än V ih ass a: E lmo Ka ila 18 88 -1 93 5, Porvoo: WSOY. Akateeminen Karjala-Seura ( 1923 )Suursuomi on yhtä kuin isänmaa, Helsinki: Akateeminen Karjala-Seura. (本 文 中 で は AKS ) Akateeminen Karjala-Seura ( 1925 )Suomalaisia kansallisuuskysymyksiä, Kouvola: Kouvolan kirja ja kivipaino oy. A lap ur o, R ist o ( 19 73 )A ka tee m in en K ar jal a-S eu ra : Y lio pp ila slii ke ja kansa 1920-ja 1930-luvulla, Porvoo: Werner Söderströ, Osakeyhtiö. Eskelinen, Heikki ( 2004 )Me tahdoimme suureksi Suomenmaan:

Akateemisen Karjala-Seuran historia I, Helsinki: WSOY.

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Virtanen, Matti ( 2005 ) Adolf Hitler ja Elmo Kaila,  in: Tommi Hoikkala, Sofia Laine, and Jyrki Laine ( eds. ), Mitä on tehtävä?: Nuorison kapinan teoriaa ja käytäntöä, Helsinki: Loki-Kirjat. 著者紹介 ①氏名…… 石野裕子 (いしの・ゆうこ) 。 ②所属・職名…… 常磐短期大学・准教授。 ③生年・出身地…… 一九七四年、神奈川県。 ④専門分野・地域…… 北欧近現代史、フィンランド。 …… フ ェ リ ス 女 学 院 大 学 文 学 部( 文 学 )、 津 田 塾 大 学 大 学 院後期博士課程満期退学 (国際関係学) 、博士 (国際関係学) 。 …… 大 学 助 教( 三 二 歳、 二 年 )、 研 究 員、 大 学 非 常 勤 講 師 (三四歳、四年) 、博士研究員 (三八歳、一年三ヵ月) 。 ⑦現地滞在経験…… フィンランド ・ ハーパヴェシ (二〇歳、 一年、 ボ ラ ン テ ィ ア 留 学 )。 フ ィ ン ラ ン ド・ ヘ ル シ ン キ( 二 七 歳、 一 年、政府奨学金受給生として) 。 …… 主 に、 歴 史 家、 民 俗 学 者、 文 学 者 な ど の 知 識 人 が 書 い た テ キ ス ト 分 析 だ が、 並 行 し て 政 治 史、 国 際 関 係 史 と いった歴史的な分析を行っている。 …… 日 本 国 際 政 治 学 会 、 バ ル ト = ス カ ン デ ィ ナ ヴ ィ ア 研 究 会 、 So ciet y f or th e A dv ance me nt of Sc an din av ia n S tu dy . …… 学 部 三 年 生 の と き の フ ィ ン ラ ン ド へ の ボ ラ ン テ ィ ア 留 学。 フ ィ ン ラ ン ド 人 家 庭 に 一 年 間 ホ ー ム ス テ イ し な が ら、 幼 稚 園、 小 学 校 な ど で ボ ラ ン テ ィ ア を 行 っ た 経 験 は す べ て が 新 鮮 で、 私 の 人 生 観 を 変 え た。 私 に と っ て の フ ィ ン ラ ン ド は、 ム ー ミ ン で も デ ザ イ ン で も 教 育 で も な く、 え ん え ん と 広 が る 森、 そ こ に 住 ん で い る ホ ス ト フ ァ ミ リ ー の よ う な 市 井 の 人 々 で あ る。 そ の よ う な 一 般 の 人 々 が、 歴 史 の 転 換 期 にどのような行動をしたのかに関心を持って研究している。 …… 拙 著『 「 大 フ ィ ン ラ ン ド 」 思 想 の 誕 生 と 変 遷

叙事詩カレワラと知識人』 (岩波書店、二〇一二年) 。

参照

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