• 検索結果がありません。

年齢意識の比較研究にむけて

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "年齢意識の比較研究にむけて"

Copied!
12
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

年齢意識 の比較研 究 にむけて

友 木 透*

筆者は西アフリカ・コー トジボワール共和国の東南部に位置するアジュクル社会 の調査 を

,こ

の 10年あまりにわたって行 って きた。この社会は周辺のい くつかの民族 と同様 に

,い

わゆる年齢階梯 制 (age grade system)と 年齢組 (age set)が 組織 されてお り,メ メル

=フ

ォテの言 うように年齢 階梯制がこの社会の根幹 をな しているといっても過言ではない [Memel Foto 1980]。 私の調査 に おいて も,この年齢階梯制 と年齢組 には常に意識 させ られて きた。 その中か ら生 じて きたのが

,人

びとの年齢意識はどのようなものか という疑間である。 アフリカの多 くの社会では

,西

洋 との接触以前にはきちっとした暦が な く

,正

確 な年齢認識 も持 たなかったとされる(1)。 後に詳 しく述べ るように

,ア

ジュクル社会 もその ようなアフリカ社会 の一 つであったようだ。だが

,そ

のようなアフリカ社会 にも

,植

民地化 とほぼ同時 に西洋の グ レゴリウ ス暦が もたらされ,ま た統治の必要から年齢の調査 もおこなわれるようになった。 コー トジボワー ルがフランスの植民地 となったのは1892年であ り

,抵

抗 を続けたアジュクル社会 も1910年頃まで に はほぼ植民地行政の実効支配のもとにおかれた。つま り

,20世

紀初頭 にはこの社会 に も

,西

洋の暦 の影響が始まり

,同

時に人びとの年齢が問題になるようになった と考えられるのである。 それか ら今 日までお よそ100年が経過 したが,ア ジュクルの人びとの年齢意識が完全 に西洋化 した かといえば

,そ

うではない と思われる点がい くつ もある。だが

,そ

れはアジュクル社会

,あ

るいはア フリカにおける特別の現象で もないだろう。多少 とも自社会のことを考 えてみれば

,太

陽暦の明治

6年

(1873年

)の

導入 には じまり

,近

代化の過程で時間と年齢の意識の西洋化が 日本で も図 られた。 にもかかわらず

,完

全 に西洋化 していない点 もなお多 くある。 もちろんアフ リカ と日本 での変化が 同一だったわけではない。明治以前か ら太陰太陰暦が 日本では使用 されてお り

,干

支 も年や 日を表 すのに使用 されていた。アフリカと日本では歴史的な背景が異なっているのである。 本稿では

,年

齢意識の比較所究のノー トとして

,は

じめに「年齢」 についての予備的考察をし

,次

にアジュクルの人びとの年齢意識について検討する。その後で

,ア

ジュクル との比較 を しつつ 日本 の年齢意識の検討 をす る。その上で,こ れか ら何 を問題 とすべ きかについて述べてお きたい。

1

年齢 とは

1.1絶

対年齢 と相対年齢 まずは じめに

,本

稿の主題である を参照 しなが ら検討 してお きたい。 「年齢

Jが

何 をさしているのかを,フ ォーテス [Fortes 1984] 年齢 は

,大

き く

2種

類 に区別で きる と考 え られる。「絶対年齢」 と「相対年齢」 である。辞 書 に よ

*

地域社会講座 (社会人類学)

(2)

茨木 透 :年齢意識の比較研究にむけて れば

,例

えば『広辞苑』では,「年齢」 とは「人が生 れてか ら現在 までの経過期 間を年 また は年 月 日 に よつて数 えた もの」 とされ る。生年,または生年月 日を基準 に数値化 され た年齢 を「絶対 年齢 」 と してお く。 さまざまな書類 に年齢 を書 き込 まなければな らない時は この絶対 年齢 を用 い る。 この 絶対 年齢 の算 出には基準年 または基準 日を同定で きること

,つ

ま り暦 が使 われ て い る こ とが前提 と なる。人類学が調査 して きた「未開」社会 において

,年

齢観念 が存在 しない と指摘 され て きた の は, この絶対年齢が存在 しない とい う意味であろ う。 この ような絶対年齢 とは別 に「相対年齢」 とい うものが考 え られる。 日常生 活 で は 「誰 か と誰 か と比べ て どち らが年上で どち らが年年下か

,あ

るいは同 じぐらいか」 とい うこ とが 問題 とな る こ と が よ くある。例 えば兄弟 の間で

,あ

るい は仲 間の間で

,誰

が年 長 で誰 が 年少 で あ るか を認 識 してい る。 この認識 には必ず しも数値化 された絶対年齢 は必要ではない。他者 の「年 齢」 は さま ざまな身 体 的特徴 か らあ る程度 は推 定で きる。 また「誰が誰 よ りも先 に生 まれたか」 とい う出生 の順 さえ明 らかであれば

,数

値化 された絶対年齢 を用 いず とも同年配 間の長幼 の判 断 は可 能 で あ る。 他 者 よ り も自分が年長か年少か によつて,この人物 の前 での行動 にさまざまの規 制 が はた ら くこ とが あ る。 この時知 る必要があるのは「年齢差が何才 あるか」 とい うことよ りも,「どち らが上で どちらが下か」 であろう。 この ような数値 を使 わない「年齢」が「相対年齢」 である。 「 未開」社会 には暦が なか ったため絶対年齢が存在 しなかったのは無理 もない。 しか し

,家

族 の 中や小 さな共同体 の中で成員相互 の相対年齢が意識 されなか った ことは考 え に くい。 少 な くと も, 暦が なか った アジュ クル において

,親

族 の間で アニやオ トウ トの分 別 は ご く普 通 に行 われ てお り, 出生順 も意識 されているの。子 どもたちで も仲 間同士 で誰が年長で誰 が年 少 か は知 ってい る。 ただ し

,出

生順 による相対年齢 は,まった くの「 よそ者」 との間で は機 能 しない こ とも述 べ てお く必要 があるだろ う。共 同体 の外部か らや って きた人の年齢 は

,絶

対 年齢が わか らな けれ ば 身体 的特徴 か ら推定す る しか ない。 相対年齢 は小 さな共 同体 を越 えた適用が難 しい

,逆

,絶

対 年 齢 は 同 じ暦 を使 う範 囲 で あ れ ば通 用す る。む しろ

,暦

の成立 こそが統一的な権力 の成立 と不可分 でなので あ る。 時 々の政治 的 ・宗教 的権力 は暦 をめ ぐる聞争 を繰 り広 げて きた。その ような暦 の存在 を前提 とす る絶対 年 齢 には

,支

/被

支配 のための道具 と しての色 が濃 い。少 な くともコー トジボ ワール にお い て は

,住

民 の生 年 月 日

=絶

対年齢 を最初 に必要 と したのは植民地政府の側であ り

,そ

の 目的 は人頭税 を集め るためであっ た。本稿 で これか ら検討 してい くの も主 にこの「絶対年齢」 についてで あ り

,以

後 特 に示 さない 限 り「年齢」 とあるのは「絶姑年齢」 をさす こととす る。

12年

齢 を知 る 人 にはそれぞれ固有 の絶対年齢があるこ とは今 日では自明の ことの ようであ る。 私 自身 も誰 かか ら年齢 を問われれば

,(少

し頭 の中で確認 を した上で

)自

分 は何才 だ と答 える こ とが で きる。 この答 えを どの ように して導いてい るか

,計

算式 を書 けば (私の年齢

) =

(現在 の年 月 日) ―

(私

の生年月 日

)(但

し「月」以下切り捨てり

となる。これが

,日

本で今一般に用いられている満年齢の算出方法である。 この計算が可能 とな り

「私の年齢」が算出できるのは

,①

印刷 されたカレンダーなどによって現在の年月日を知ることがで

きること

,②

私が自分の生年月日を記憶 していること

,①

この両者の除算ができること

,が

必要であ

る。

(3)

鳥取大学教育地域科学部紀要 地域研究 第 5巻 第 2号 (2004) ①のカレンダーその他の手段は

,暦

が制定 されていることが前提 となる。 同時 にその暦 に簡単 に アクセスできることも必要 となる。だが

,印

刷 されたカレンダーがた とえ今 日の ように普及 してい るとして も,日 め くりで もないカレンダーに日々

X印

などをつけてい く習慣 な どない場合 には

,今

日という日が何月何 日であるのかはす ぐにあやふやになる。今 日が何 日であ るか を確 実 に知 るため には

,誰

かが暦 を日々欠かすことな く刻んでい く必要がある。毎 日

,誰

のためで もな くただ 自分 の ために日を刻むことを繰 り返 し続けた人物 こそ

,孤

島に暮 らす ロビンソン・クルー ソーであ った。 そのような習慣のない私は

,そ

の 日に配達 された新聞などで今 日が何 日かを確かめるのである。 次に②の生年月 日の記憶について考えてみたい。自己の生 まれた日を知つていることは今 日の 日 本ではごく当た り前のことで

,問

われれば自動的に答 えることができる。 この ように 自己の生年月 日が自明の知識 となる過程では

,数

え切れない反復訓練があつたのであろう。例 えば

,私

の場合

,子

どもの頃か ら毎年のように誕生 日が祝われることで

,生

年月 日が記憶 のなか に刻み込 まれ きたので あろう。成長 してか らも何か個人の書類 を提 出する際に生年月 日と年齢 を記入することが求 め られ, そのつ ど私は私の現在年齢の確認 を繰 り返 しているのである。 ところで

,言

うまで もないことであるが

,人

は幼児期 までのことはほ とん ど記憶 していない。 し たがって私が生 まれたことを私は自分の経験 として覚えているということはあ りえない。私が私の 誕生 日を知っているのは

,私

が誕生 したのは何年何月何 日だ,と 誰かか ら聞か されたか らにほかな らない。この誰か―一おそ らく母親や父親一一 こそが,ま ず私の生年月 日を記憶 し

,そ

してそれを 私に語 つたのであろう。こうして私は私の生年月 日を覚え込 まされてきた“)。 このような語 りの くりかえしによる「刷 り込み」がなければ,自 己の生年 月 日が わか らない可能 性は大 きい。その例 を

,サ

ウジアラビアで大学生に日本語 を教 えていた時のエ ピソー ドと して

,イ

ンターネットのホームページ上にみることがで きる。 「誕生 日はいつですか」 という質問をすると,「せんせい

,た

ん じょうびがわか りませ ん。」 と いう答えが返って くることがある。赴任 してまもな くは冗談 を言つてい るのか と思 ったが

,本

当に知 らないのである。この国では誕生 日を祝 うという習慣がな く,ヒ ジュラ暦 (イス ラム暦) 何年の何月に生 まれたかは親か ら聞いてだいたい知つているが

,何

日であるか まで は気 に しな いのであるlbl。 誕生 日を祝 う習慣がないのは

,ア

ジユクルにおいても同様である。出生登録や身分証 明証 に生年 だけでな く月 日までが記載 されている人は今では多いが

,だ

か らといって誕生 日を特別視 している 風ではない。一方,日 本で行われている誕生 日のお祝い も

,内

容か らしてその普及が最 近 の もので あるという程度の見当はつ く。ケーキに歳の数だけの蝋燭 を立てるというどう考 えて も洋風 の儀 式 が広がったの も

,お

そ らく戦後のことではないだろうが6)。 1.3年 齢 はどのように使われているのか このような幼い頃か ら覚え込まされたゆえに忘れることなど考 えられない私の生年 月 日と

,そ

れ か ら割 り出す ことので きる年齢は

,私

の人生のいたるところで立ち現れて くる。 第一 に

,私

の アイ デ ンティティを示す ものとして使われ

,第

二に,さ まざまの権利 や義務の発生お よび消滅 を画す る ために用い られている。これらとは別に

,七

五三などのさまざまの儀礼 も年齢が根拠 となって執 り 行われている。それぞれについて検討 してい く。

(4)

茨木 透 :年齢意識の比較研究にむけて 私の所持 しているものの中で私のアイデンティティが記載 されている ものには

,ほ

とん どの場合 に生年月 日の記載がある。運転免許証や健康保険証

,そ

れにパスポー トな どがそれにあた る。例 え ば

,運

転免許証に記載 されている他の項 目は

,氏

,本

,住

所であ り

,健

康保険証 のそれ は

,氏

名 およびフリガナと住所である。パスポー トの場合 には,ロ ーマ字記載の氏名

,性

,本

,そ

れ に身 長が記載 されている。いずれ も生年月 日が欠ける例 はない。そのほか私の勤務先である鳥取大学が 発行する身分証明証は非常に簡単 なもので

,氏

名 と生年月 日のみの記載 だけである。生年 月 日だけ はどこにもあるのである(り 。 私が私であること

,私

の同一性 を示すためには

,私

の名前 とともに私の生年月 日が欠かせ ない と 考 えられているのだろう。それは

,私

の性別や私の身長 より以上に私のアイデ ンテ ィテ ィ確 認 に必 要なのであるとも言える(D。 このような私の同一性確認 として用い られる生年月日が

,実

際の運用 では年齢 と して立 ち現 れ, 近代のさまざまの制度 との関係が結ばれる。思いつ くものを少 し挙 げる と

,就

,選

挙権 と被 選挙 権

,年

金支給

,な

どが年齢によって始 まる。これに徴兵制があれば兵役 も含 まれるだろうし

,ア

フリ カでの人頭税のことはすでに述べたとお りである。そのほか国家 とは直接関係のない

,就

職 や退職 も年齢 に左右 される し

,婚

姻可能年齢が民法で決め られていることもよ く知 られた ことであ る。 こ

れらは

,子

どもと大人

J老

人の区分として使われているようであるカギ9,し かしすべてがそ うではな

い。たとえば新聞の求人欄を見れば

,採

用資格の年齢侑

U限

があらゆる年代 にわたつてあることがわ

かる

(lω

一方

,近

代 国家 の統治 システム との関連以外 に年齢 は,さ ま ざ まの人生俵 礼 とい う形 で意 味 をな して きた。 日本 における七五三 に始 ま り

,元

,厄

年 お よび前厄 ・後厄

,還

暦 の祝 い な どで あ る。神 的 なる もの との関係 おいて

,特

定 の年齢が契機 となっているのである。 これ らの儀礼 につ いて は民 俗学 に多数の成果がすでにある [赤田ほか 1998]。

2

ア ジ ュ クル 社 会 の年 齢 意 識 前章での年齢 についての多少 の議論 を もとに

,筆

者 が調査 してい る ア ジュ クル社 会 の年 齢 意 識 を 次 に検討 したい。最初 に,アジュクルの成人儀礼 とそれによ り結成 され る年 齢組 につ いて簡 単 に述 べ る。その後 で

,ア

ジュクル社会 における個人認識 について検討す る。 その上 で ア ジ ュ クル にお い て年齢が どの ように認識 されているかについて検討 したい。

2.1成

人儀礼 と年齢組 アジュ クルでは30あ ま りある村 を単位 に,「ロウ (あ17)」 と呼 ばれる成 人儀礼 を組織 して い る。 この儀礼 はデ ィブ リム村 を中心 とする約半数の村 では

2年

ご とに

,ブ

ブ リ村 を中心 とす る残 りの半 数 の村 では

2年

,2年

,4年

の周期 で執 り行 われている。筆者 が調査 している村 は

,後

者 に属 し

,19

99年,2001年 ,2003年 と成人儀礼があ り

,次

回 は2007年 に予定 されている。成人儀礼 を受 けるのはお よそ20才 を過 ぎた男性 で

,儀

礼 の終了 とともに一人前 とみな される ようにな る。儀礼 を同時 に経 験 した者 たちは

,以

後生涯 を とお して同 じ年齢組 (オウォル ン勁 η)(・)に属 す るこ とになる。 年齢組 の全体構造 を

,表

1を 参照 しなが ら説明 してお きたい。年齢組 は全 部 で

7つ

あ り

,そ

れ ぞ れが名称 を もつ。名称 も

7つ

で,ンボルマ ン

,ニ

ベ ン,オボジュル

,セ

テ,ン ジ ュル マ ン

,ア

ブ ルマ ン,ンベ デ ィエの順 に循環 して用 い られる。それぞれのオウォル ンは さらに

3な

い し

4の

サ ブ カテ ゴ リーに分かれ

,同

時 に儀礼 を行 った ものは

,同

じオ ウォル ンの 同 じサ ブ カテ ゴ リー に属 す る こ と

(5)

鳥―取大学教育地域科学部紀要 地域研究 第5巻 第2号

(2004) 13

となる。例えば2003年に儀礼 を行 うと

,ア

ブルマンiカ タが一生涯のオ ウォル ンとなる。新 しいオ ゥォルンがで きるのは

8年

に一度

,オ

ウオルンの名称 は7であるか ら―

,56年

で年齢組名 は循環 してい

くことになる。つまり

,お

よそ

76オ

になると同じオウォルン名をもつ若者の成人儀礼が執 り行われ

るのである。

1

ロウの実施年 と年齢組・ サブカテゴリー名 年齢組名 デ イブ リム ブブ リ デ イブ リム ブブ リ ンボルマ ン オジ ョンタヾ バ ゴ カタ ボマ ニベ シ オジ ョンバ ′ヾこゴ カタ ボ マ オボジュル オ ジ ョンバ バ ゴ カタ ボマ セテ ォジ ョンバ バ こゴ カ タ ボマ ンジユルマ ン オジ ョンバ バ ゴ カタ ボマ アブルマ ン オジ ヨンバ バ ゴ カタ ボマ ンベデ ィエ オジ ョン′ヾ バ ゴ カ タ ボマ 1902 1904 1906 1908 1910 1912 1914 1916 1918 1920 1螺2 1924 1926 1923 1980 1932 1942 1944 1946 1948

9 5 2

9 5 4

1903 1‐905 1907 1911 1913 1915 1919 1921 1923 1927 1929 1931 1935 1937 1989

︲ 9 4 5

195.1 1953. 1955 1958 1960 1962 1964 1966 1968 1970 1972 1974 1976 1978 1980 1982 1984 1986 1988 1990 1992 1994 1996

︲ 9 9 8

2 0 0 0

2 0 0 2

2 0 0 4

2 0 0 8

2 0 ︲ 2

1959 1961 1963 1961 1969 1971 1975 1977 1979 ︲983 一 ︲985 ︲987 一 1991 1993 1995

︲ 9 9 9

一 

2 0 0 7

2 0 0 9

2 0 ︲ ︲

2.2個

人認識 アジュクル社会において個人のアイデ ンテイテイとして通常用 い られ るのは

,名

前・ °

,出

身村 の

(6)

茨木 透 :年齢意識の比較研究にむけて 名

,先

に述べ たオウォル ンの名称 の

3つ ,な

い しはこれ らに母系 集 団名 を加 えた

4つ

で あ る。他 者 の母系集団名が記憶 されてい ることは

,か

な り親 しい関係 以外で はあ ま りみ られない。 これ に対 し, 名前 と出身村名,オ ウ ォル ン名お よびサ ブカテゴリー名 は

,他

者認識 には必ず含 まれ る。 オ ウォル ン名 は

,ア

ジュ クル全然 で共通す るもの となっている。表1に示 した ように

,デ

イブ リム 集 団 とブブ リ集 団で は儀礼 の行 われる年 に

1年

のずれはある ものの

,(ボ

マの有無 はあるが

)ア

ジユ クル社会全体 で同時期 に儀礼 を行 った者 は同 じオウォル ン名 を持つ ことになるか らだ。 また

,個

人認識 にオウ ォル ン名が伴 うのは

,男

性 に対 して だけ で は な い 。 女 性 に射 して も同様 で あ る。女性 はロウ儀礼 に参加 しない と

,公

式 には言 われ る。実際

,儀

礼 の中心 は男性 であ り

,女

性 が そ こに参加 していることは注意 していない とわか らないか もしれない。そ もそ もロ ウ儀礼 に参加 で きるのは

,村

の会議での承認 を経 てであ り

,女

性が その会 議 の場 で正 式 の ロ ウの参 加 者 と して承 認 される ことは考 え られない。 だが女性 たちは自分 と同 じ年 頃の男性 のオウォル ン名 を 自己の オ ウ ォ ル ン名 と考 え

,非

公式 ではある ものの同 じオウォル ンの男性が行 うロ ウ儀礼 に

,儀

礼 の期 間全 体 を とお して様 々な形で関与 してい るのである。集団での成人儀礼 を行 わない女性 の オ ウ ォル ン名 は, 女性 自らが決めてい るのである。 こう して

,成

人 を過 ぎた アジュ クル人 は男 女 か か わ らず 自己の オ ウォル ン名 を持つ こととな り,自己認識 に も他者認識 に もオ ウ ォル ン名 が 欠 か せ ない もの とな って いるのである。 オウ ォル ンが他者認識 に常 に伴 うのは

,現

に生 きている人 に対 してだけではな く

,す

で に亡 くなっ てい る人に対 して も同様 である。以前

,い

くつかの村 を訪 問 し

,そ

の村 の歴代 村 長 につ い ての聞 き 取 り調査 を行 った ことがあ った。村 長制度 は,も ともとアジュクル には な く

,フ

ラ ンス植 民地 当局 が要請 した新 しい制度であ る。だが新 しい とはいえ

,そ

の設置 は20世 紀初 頭 の こ と と考 え られ

,話

を聞いた老人たち もまだ生 まれていない時のことであ る。に もかかわ らず

,歴

代 村 長 の名 前 と就 任 の順序 はどの村 で も完全 に記憶 されていた。 さらに個 々の村長の オウォル ンはサ ブ カテ ゴ リー も含 めてほぼすべ てす らす らと答 えが返 って きたのであ る。ただ

,在

任期 間が いつ か らいつ まで とい う 回答 を得 ることは

,最

近 の村長の場合 で も難 しか った。村長就任 とい う出来事 の記 憶 には

,そ

れが 何年 で あった とい う年代 は伴 わ ないのであ る°°。 そのほか私 自身に関 して も,この社 会 を調査 してい る間に年齢 を尋 ね られ た こ とは

,ほ

とん ど記 I隠 にない。それはいつ も通 って調査 を続 けている村 でだけではな く

)初

め て の村 を訪 間 した時 も同 様 であ る。 もちろん調査 をは じめた当初 には

,生

年 を聞かれた記憶 は あ る。 この 時

,村

の人 々は私 の生年 をもとに同年配の集団の年齢組 のオウォル ン名が何 か を教 えて くれ た°5)。 そ れ以 降

,自

分 の 名前 とオウ ォル ン名

,そ

れ に加 え 日本 か ら来ていることを言 えば

,初

対 面 の ア ジ ュ クル人相 手 へ の 自己紹介 は十分である。 この ように,アジュ クル社会 においては個人認識 には当然 の ようにそ の人 の オ ウ ォル ンが伴 うの である。そ して,オ ウ ォル ンで人 を認識す るためか,この社会 で は年齢 は まった く重 要 で は ない。 成人 の アジュクル人が互 いの年齢 を意識す ることはほ とん どないであろ う。 そ れ は

,長

幼 の意 識 が ない とい うのではない。「あの人は何歳 だ」 とい うふ うに他者認識 を しない と言 うこ とだ。その代 わ り,「彼 の オウ ォル ンは何 々だ」 と認識 しているのである。

2.3年

齢意識 アジュクル人 は

,ア

ジュ クル人相互の認識 にはオウォル ンを用 い

,こ

の 時 に年齢 はそ れ と して認 識 されていない と前節 で述べ た。だが

,ア

ジュクル社会か ら一歩外 に出れ ば

,年

齢 は否 応 な くつ い

(7)

鳥取大学教育地域科学部紀要 地域研究 第 5巻 第 2号

(2004) 15

て回る。 まず

,身

分証明証について述べ よう。コー トジボワールでは外 出す る と警察官か ら身分証明証の 提示 を求め られることが頻繁にある。その時 もし不携帯だ と罰金 を科 される可能性 が あるので

,町

に用で出かける時などには絶対 に忘れてはならないのが身分証明証である。 い うまで もな く

,こ

の 身分証明証には

,住

所 と氏名のほか生年月 日の記載欄がある・ °。 そのほかに

,子

どもを小学校 に通わせることで

,親

は子 どもの年齢 を意識せ ざるを得 な くなる。 コー トジボワールの小学校 は満

6オ

か ら入学可能で 日本 と同 じく

6年

制である。決 め られた学 区は なく,自 由に学校 を選んで生徒の方が希望す る学校 に登録する。この登録 には出生証 明書 を添付 し なければならないことになっていて

,役

所 にそれを頼みに出かけねばならない。 調査 をしている村については

,村

に小学校が設置されているので

,村

に住 んでい る子 どもはこの 小学校 に通わせ ることになる。 したがつて

,子

どもを学校 に通わせることはそれ ほ ど難 しくはない はずだが

,そ

れで も全員が満

6才

か ら通い始めるというわけで もない。 それ に加 えて

,か

な りの頻 度で落第がある。同 じ学年 を

2回 3回

と繰 り返す ことも珍 しくな く

,な

かなか12才で卒業 とい うわ けにはいかない。一方

,小

学校が受け入れるのは満16才を上限とすることが決 め られてい る。 それ で16才に近づ くにつれ親 もあせ りは じめ,自 分の年齢 をすでにはつきりと意識 してい る子 ども自身 もあせ りはじめるのである。 それで

,16才

で卒業に失敗 した りす るとあ きらめるのか というと

,そ

うで もない。無論

,学

力が伴 わずにもとか ら期待 もされていない子 どもは

,小

学校卒業資格 も持たない ままに学校 に通 うことを やめる。だが

,期

待 されていなが らも

,何

かほかの事情で失敗 した場合などには

,別

の手段 も考 え ら れる。それは

,新

たに別の出生証明書 を作 り子 どもの生年 を変更 して しまうとい う方法 である。 こ のようなことも

,や

ろうとすればで きないことではない(171。 このことが

,私

に年齢について関心 を持たせ ることになった。なるほ ど確 か に生年 を変更す る こ とは「不正」で「年齢詐称」には違いない。だが

,考

えてみると

,新

たな出生証 明書 を作 るのは一 人では無理で

,届

けを受け付 ける役人の「共謀」が不可欠である。おそ らく役人は何 らかの「お礼」 を受け取 ったには違いないが

,し

か しそれはたかが しれた額で しかないだろ う。 同 じく

,新

たな出 生証明書 とともに就学を受け入れた小学校の方 も

,同

じ学校 なのだか ら

,証

明書が新 しい ものであ ることは十分に承知 していたはずである。つまりこの「不正」は

,不

正 をはた らこうと した本人 だ けでは行 えず

,役

人と先生の「共謀」がなければ不可能なのである。 さらに

,村

の人 間 も全員が こ のことについて了解済みと思われる。つ まり

,ア

ジユクル社会全体が生年 の変更 を「黙認」 してい ると考えられるのである。

3

日本 の年齢 意識 アジュクルの年齢意識には

,成

入以降に年齢か らオウォルンヘの切 り換 えがある こ とと

,生

年 月 日が取 り替 え可能 と考えられていることの二点が

,通

常の絶射年齢 にもとづ く年齢観 とは大 きく違っ た点であった。ここではこの絶対年齢 にもとづ く年齢観に

,今

日の日本 の年齢意識 は どれ ぐらい近 づいているかについて

,少

し歴史を考 えなが ら検討 してみたい。 かつての 日本の年齢制度には

,か

ぞえでの年齢計算

,千

支の使用

,元

号の使用 と頻繁な改元

,な

ど があ り

,そ

のことが年齢意識に大 きな影響 を及ぼ していた と考えられ る。 さらに

,今

日で は満年齢 が普及 してかぞえで数えることがほぼな くなってはいるものの

,千

支 も元号 もなお使用 され続 けて いることもある。そこでこれ ら

3つ

の制度 について検討 してい くことにする。

(8)

茨木 透 :年 齢意識の比較研究にむけて

3.1か

ぞえという方法 かぞえで年齢 を計算するとはどのような方法かをは じめに説明 しておこう。 まずかぞえでは

,子

どもが生 まれた時点で

(0才

ではな く

)1才

とされる。 その後

,年

齢 は誕生 日を期 に増えるのではな く

,新

年 を迎える度に

1才

ずつ加算する。 したが って

,満

年齢 とで は誕生 日が来るまでは

2才

の差

,誕

生 日を過 ぎてか らは

1才

の差が生 じる

,と

い うのがかぞ えでの年齢計 算法である。つ まり,こ の方法によれば正月が くる毎に自己の年齢 を増や していけば よいだけで, 一人ひとりの誕生 日を記憶 している必要は特にないことがわかる。 このようなかぞえの方法 しか

,明

治生 まれの私の祖父は しなかった記憶がある。 かぞ えか ら現行 の満での計算 にするように定め られた法律 が1950年施行の「年齢の となえ方に関する法律」(昭和24 年法律第96号

)で

ある。そこには次のようにある。

1

この法律施行の日以後

,国

民は

,年

齢 を数え年によつて言い表わす従来のならわ しを改めて, 年齢計算 に関する法律 (明治三十五年法律第五十号

)の

規定により算定 した年数 (一年 に達 し ないときは,月 数

)に

よってこれ を言い表わすのを常 とするように心がけなけれはな らない。

2こ

の法律施行の日以後

,国

又 は地方公共団体の機関が年齢 を言い表わす場合 にお いては

,当

該機関は

,前

項 に規定する年数又は月数 によつてこれを言い表わ さなければな らない。但 し, 特にやむを得ない事由により数え年によつて年齢 を言い表わす場合 においては

,特

にその 旨を 明示 しなければならない。 1950年頃には,ま だかぞえが一般的であったことが第1条か らうかがえ

,そ

れは役所 も例外 ではな かったことが第

2条

か らわかる。祖父がかぞえで しか計算 しなかったことも当然 とい えば当然 であ ろう。また

,役

所の書類の年齢 を記載する欄 に

,(満

)の

ような書式が しば しばあ るの も

,第

2条

によるものが今 日までそのまま残 っているのだろう。七五三や厄年の年齢 にはかぞえを使 って いる人はまだいるのか もしれないが,こ れらを除 くとかぞえは今 日ではほぼ廃 れて しまった と言 っ てかまわないだろう。制度的にも年金受給の開始は誕生 日を期 してと,よ り厳密化 されている(0。

3.2千

支 と元号 かぞえが廃れて しまったのに対 し

,干

支はまだ多少は意識 されている。「何年生 まれ」 と聞 くこ と で

,生

まれた年の干支 を質問 していることは

,今

で も説明 しな くて も了解 されるだろう。 もっともj 自己の生年の干支は知つていて も

,他

者の生 まれ年の干支 をどれ ぐらい知 っているか は疑 わ しい。 ご く一部の親 しい関係 にある者についてしか千支は知 らないのが一般的ではないだろうか。 この干支 による生年の認識は

,し

か し

,ア

ジュクルのオウォル ンに似 て数ではな く名詞 で生 年 を 認識 しているのであ り

,年

齢計算には不向 きなことはわかる。また人の千支 を聞いて知 った と して も

,あ

る程度の年齢以上の人だと

,一

回 り上 なのか (下なのか

)ど

うか判断がつかない こ ともある。 その混乱 を赳けようとするには

,千

支 を十干十二支 として使 えばよい。十干十二支で は

,表

2の

よ うに60までならば個々に表すことがで きる。だが,こ れはこれで複雑す ぎて年齢計算 には実用 的で はないように思える。十干十二支それ 自体は大正時代末でも

,違

和感 な く出来事 の記述 には使 われ ていたのであろう。例えば甲子園球場の「甲子」の命名は

,建

設 された1924年 (大正13年

)が

甲子

(9)

鳥取大学教育地域科学部紀要 地域研究 第 5巻 第 2号

(2004) 17

の年に当たることに由来するそうだ。だが,十 二支単独ではなく十千十二支が どれほど年齢に使わ

れていたかは,調 べてみる必要があるだろう。

2 +干

十二支 干支番号 干 支 音読み 訓読み 千支番号 千 支 音読み 訓読み 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 甲子 乙丑 丙寅 丁卯 戊辰 己巳 庚午 辛未 壬 申 癸酉 甲戊 乙亥 丙子 丁丑 戊寅 己卯 庚辰 辛 巳 壬午 癸未 甲申 乙酉 丙戊 丁亥 成子 己丑 庚寅 辛卯 壬辰 癸 巳 こうし おぅちゅう へいいん ていはう ぼ しん きし こうご しんび じん しん きゆう こうじゅつ おつがい へい し ていちゅう ぼいん きt辞う こうしん しん し じんご きび こうしん おつゆう へい じゅつ ていがい tまし きちゅう こういん しんぼう じん しん きし きのえね きのとうし ひのえとら ひのとう つちのえたつ つちのとみ かのえうま かのとひつ じ みずのえさる みずのととり きのえいぬ きの とい ひのえね ひのとうし つちのえとら つちのとう かのえたつ かの とみ みずのえうま みずのとひつ じ きのえさる きの ととり ひのえいぬ ひのとい つちのえね つちのとうし かのえとら かのとう みずのえたつ みずのとみ 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 甲午 乙未 丙 申 丁酉 戊戊 己亥 庚子 辛丑 壬寅 癸卯 甲辰 乙巳 丙午 丁未 成 申 己酉 庚戊 辛亥 壬子 癸丑 甲寅 乙り「 丙辰 丁 巳 戊午 己未 庚 申 辛酉 壬成 癸亥 こうご おつび へい しん ていゆう ぼ じゅつ きがい こうし しんちゅう じんいん きtまう こうしん おっ し へいご ていび ぼ しん きゆう こうじゅつ しんがい じん し きちゅう こういん おつぼう へい しん てい し ぼご きび こうしん しんゆう じん じゅつ きがい きのえうま きの とひつ じ ひのえさる ひのととり つちのえいぬ つちのとい かのえね かのとうし みずのえとら みずの とう きのえたつ きのとみ ひのえうま ひの とひつ じ つちのえさる つちのととり かのえいぬ かの とい みずのえね みずのとうし きのえとら きの とう ひのえたつ ひのとみ つちのえうま つちのとひつ じ かのえさる かのととり みずのえいぬ みずの とい 千支が生年 を表すの に今 日まで使用 されているこ とには

,元

号 で の生 年 記憶 の不便 さ との 関係 が あつた ように思 われ る。西暦が導入 されるまで

,元

号 で年 を示 して い たの は周 知 の こ とだが

,元

号 による年表示 は出来事 の 日付 を示すのには どうにか使用で きて も

,年

齢 計 算 の よ うな一 定 期 間 の長 さを求めるため には

,改

元が あ るため にまった く不 向 きなのである。 と りわ け江戸 時代 には頻 繁 な 改元が な されていた。生 きている間に何 回 もの改元がある と

,元

号 で の計 算 は相 当難 し くな る。 過 去 の元号が何年続 いたか を記憶 していなければ

,年

数 の計算が で きないか らだ。 明治以降には

,天

皇一代 に一元号 と改め られ

,改

元 の頻度 は少 な くなった。だが

,や

は り改元 をは

(10)

茨木 透 :年齢意識の比較研究にむけて さんだ年数計算は難 しい。平成 と昭和の間の引 き算はかろうじて可能か もしれ ないが

,平

成 と大正 の間の引き算 をどれほどの人が無理な くできるかは疑間である。

3.3年

齢意識 かぞえによる年齢計算や千支による生年の記憶はすでに明治には広 く普及 していたようだ。アジユ クルのように近代 になるまで絶対年齢が存在 しなかった社会 とは異なるのであ る。 だが

,年

齢意識 が存在 したか らといって も

,生

年が改変不可能だと考 えられていたわけではない ことは

,次

のい く つかの例が示す とお りである。そこか ら,ア ジュクルの二重の出生証明書の事例 も

,そ

れほ ど逸脱 したことではないことも多少は理解で きるだろう。 第一の例は

,実

際は年末生 まれの子 どもの誕生 日を1月 1日 として届け出る とい う「不正」 であ るは9)。 これは少な くとも戦前 までは行われていたと考 えられる。この届出を してかぞえで年齢 を計 算すると

,年

齢が1オ低 くなることになる。だが

,正

月生 まれにすることに何か実質的な利益 があっ たのかはわか らない。 第二の例は

,私

が子 どもの時代 (昭和40年代頃

)に

噂 として聞いた例 である。 3月 の末 に生 まれ た子 どもの誕生 日を4月 2日生 まれ と届け出た り

,逆

に4月 の始めにに生 まれた子 どもを 3月 末 に 生 まれたと届 け出る「不正」である。 どちらも子 どもの就学開始 にまず影響 し

,誕

生 日を数 日早 く した り遅 くした りすることで

,実

際には1年分の効果が生 じることになる。 日本では出生届 には

,通

例は医師ない し助産婦の出生証明が必要であ り,こ れ ら2つの例 とも医師 や助産婦の「共謀」な しには行 えない「不正

Jで

あることは明 らかである。 つ ま り

,誕

生 日は何 ら かの理由で都合が悪ければ変更 されることはあ りえるということ

,そ

して出産関係者や役場 の関係 者 もそれを了解するであろうことが

,か

つて実際にあるいは噂 としてあ つたのである。 ただ

,こ

れ らの頻度や真偽 を歴史的に確かめることは

,相

当困難 な作業になるだろう。

4

お わ りに 本文中にも述べたように

,年

齢意識 に関心 を持ったのは二重の出生証明が可能である とい うこと を知った

,あ

る種のカルチ ャー・ショックか らであった。 しか しその後

,人

類学 において年齢研 究 がほとんどないことに気づ き

,テ

ーマを放 り出そうともしていた。今 回研 究 ノー トとして曲が りな りにも形には したが,ま だまだわか らないことだらけである。 そのうちのい くつかを記 しておこう。第一に

,4年

に 1回 の関 日つ ま り2月 29日 に生 まれ として 子 どもを出生登録 をしている例はどれ ぐらいあるのだろうか とい う疑間であ る。 もっ とも

,産

科 で はあらか じめ分娩促進剤 を投与 しするなどして

,関

日に生 まれることを回避す るような方策 をすで に取つている可能性 も今 日では十分考 えられるので,こ れ も過去のことなのか もしれない。第二 に, 親のわか らない「捨て子」の生年月 日をどのように決めるのか という疑間である。月 日の欄 を空 白 のままには しない と想像するが

,は

た してどうなのだろう。その他,比較研究としては

,太

陰暦を使っ ているイスラム圏の年齢意識 について

,基

本的なことか ら始 まりさまざまな疑間がある。 年齢「詐称」は

,芸

能人やスポーツ選手においては時々発覚す ることがあ る。 アメ リカ人で

Kl

の選手であるボブ,サップの年齢詐称騒動 (2003年 9月

)や ,ブ

ラジル人でイタリアのサッカーリー グ・セリエ

Aの

「エ リベル ト」 ことルチアーノの氏名 ・年齢詐称事件 (2002年 8月

)な

どは記憶 に 新 しい。サ ップの場合,1970年 代の合衆国において

,父

による1973年生 まれ と しての登録 と母 によ る1974年生 まれ としての登録の二つの出生登録があるため混乱 したということである。 これが本 当

(11)

鳥取大学教育地域科学部紀要 地域研究 第 5巻 第 2号

(2004) 19

な ら

,ア

メ リカの 出生 登 録 シス テ ム もコー トジ ボ ワー ル並 み の レベ ル で あ る こ と を証 明 す る もの で あ り

,む

しろそ ち らの ほ うが驚 きで あ る。 この ほか,スポ ー ツ に関 しては,サッカーにお け るオーバ ー エ ー ジ問題 な ど,これ か らの年 齢 意 識 を左 右 しうる問題 が 生 じて い る。 こ の 分 野 で は今 後 も年 齢 規 制 が さ らに厳 格 に な され る と予 想 され

,注

目 して い きた い(2ω 。 注 (1)ア フリカにおける時間意識 についてはエバ ンス

=プ

リチ ヤー ド

[1978],Bohannan[1953],Niangoran

Bouah[1964]な

どを参照。 (2)ア ジェクルでは双生児 には出生順│こ特定の名前がつけ られる。双生児 を出産 したその次の出産で生 まれた子 ども,つ まり双生児たちの弟や妹の名前 も固定されている。 (3)乳児の場合 には「何才何 ケ月」 と答 えるので,「日」以下が切 り捨て となる。 (4)も ちろん私の出生登録 を開覧すれば,私 の生 まれた 日,時間,場 所 などはそこに届け られてい るので

,私

の 生年月 日を自分で知ることはで きるはずである。このことが可能になるのは,出 生の届け出制度が普及 して いることが条件であることは言 うまで もない。

(5)岩 本隆― http://www jpf gO jp/j/1earn j/vouice j/chukintO/saudi/2002/report01 html。

(6)ち なみに鈴木は日本の人生儀礼 を論 じるなかで,初 誕生 は取 り上げているが毎年の誕生 日には言及 してい な い [鈴木 1998] (7)鳥 取大学発行の英文の身分証明証 には,ロ ーマ字での氏名 と職位の記載があるだけで,■ 年月 日の記載 はな い。同一機関が発行する身分証明証が和文 と英文で個人を同定する項 目にずれがあることは興味深い。 (8)近代 システムにおける個体識別の問題 を扱 ったもの としては渡辺 [2003],名 前 につい て考察 を した もの と して出口 [1995]を あげることがで きる。 (9)運転免許取得,飲酒喫煙の禁止なども満年齢で規定 されている。 (10)2003年 11月の衆議院選挙の際,自 民党の二人の元首相が党で決めた比例区74才定年制 を理 由 に

,議

員引退 を余儀 な くされたことは記憶 に新 しい。 (■)アジュクルの年齢組は,同 時にロウ儀礼 を受けた者か ら構成 される。ロウ儀礼 を受 けるのは20才 を過 ぎた 頃の男性であるが,厳 密には19才の者 も受けることがある。 したがつて,正 確 にはオウオル ンは年齢組 で は な く儀礼 を同時に受けた集団,つ ま り同期集団とするのが正 しい。 (12)こ の時老人 もロウ儀礼 に加 わる。 したがつて,ロ ウ儀礼 を成人儀礼 とするこ とは,その一面 を とらえたに す ぎない。 (13)個 人の正式の名前は,「与 えられる名」,「父親の名」,「洗礼名」か ら構成 されている。 (14)こ の社会 には,西 欧の影響 を受ける以前はきちんとした暦 もな く,紀 年 もなか つた。暦 で存在 していたの は,大乾期 ,大 雨期,小 乾季 ,小 雨期の 4つ の季節および 6曜 か らなる週であつた [Niangoran Bouah 19 643。 月の名前はな く,日 を数字 を使 って表す こともなかつた。一年がいつか ら始 まるか も明 白で はな く, 紀年 もないゆえ年 を数で もって表す こともなかった。 (15)筆 者は同年配のオウオルンであるオボジュルの一員 と認め られるために,オ ボジユルのメンバーに酒を贈っ た。それ以降ボジュル (オボジュルの単数形

)オ

ジ ョンバ として認め られている。酒 を受 け取ることによっ てオウォルンには新 しいメンバーを受け入れることが可能である。これは他村出身者 にも同様 に要求 され る 儀礼であ り,私 だけの特夕Jではない。 (16)身 分証明証の生年月 日記載欄 には,生 まれた年だけが記載 されているもの もある。■年 月 日がすべ て記載

(12)

茨木 透 :年 齢意識の比較研究にむけて されるようになったのは,い つ頃のことかを調査する必要はあるが,「身分証明証 を見せ て ほ しい」 と頼 む ことに躊躇 してこれまでなかなかで きなかった。 (17)二 重の出生登録が可能なことには,制 度的な理由もある。コー トジボワールで は戸籍制度 はな く

,出

生 や 婚姻,死 亡,住民登録などの届 出はそれぞれ独立 してファイルされる。 したがって 2つ 以上の役所 に別 々の 届出を して も,照 合 されることはまず考えられず,二 重登録は比較的容易だと考えられる。 (18)所 得税の扶養控除は,子 どもが何月に生 まれようと,あ るいは何月に結婚 しても,月 割 りではな く1年 間分 の控除が される。かぞえの時代の制度の名残 なのだろうか。 (19)筆 者の戦前生 まれの叔父は1月 1日生 まれである。

(20)タ イにおけるオーバーエージ問題は,http i//members aol com/siamcOke/age htmlを参照。

参 考 文 献

赤田光男 ・福 田アジオ (編),1998,『 時間の民俗』(講座 日本の民俗学

6),雄

山閣。

Bohannan, Paul, 1953, `COncepts of Tiェ ne amOng the Tiv of Nigeria,' So,ιんψ9sι9rれ broLL′れαどげ スれιんropο′οgノ, 9(3): 251-262

出口 顕,1995,『名前の アルケオロジー』,紀伊 國屋書店 。

エバ ンス

=プ

リチ ャー ド

,EE,1978,『

ヌアー族 』,向井元子訳,岩波書店 。

FOrtes, Meyer, 1984, IAge, Generation, and Social Structure,' in David I Kertzer and Jennie

Keith(eds),AF9

αれ

,4れ

とんrOpοιοFとcαι Tん9ο′夕,Ithaca,N Y i Cornell University Press, pp

99_122

Goody, Jack, 1976,(Aging in Nonindustrial SOcieties,' in Robert H Binstock (ed), Fraれ

'b。 。乃

qテ Agιれ

g

αnJ ιんθ Sοc,αι Sc,9ん

c9s,New York:Van Nostrand Reinhold,pp l17-129

カー ン,ステ ィーブ ン,1998,F時間の文化 史』,浅野敏夫訳,法政大学 出版局 。

真 木悠介,1981,『時 間の比較社会学』,岩波書店 。

Memel FOt6,Hartts,1980,L?可

澪ιεttθ pοιどと,9,9,9 LotFJο,ん′ο

,ryれ

9 socとιιtt ιjgれαFD′?a cι αsses

,'ag9 (c∂ι9 ,'乃οj′θ), Paris I PrOsence aFricaine et Abidian:Les NOuvelles ЁditiOns

Africaines

永 田 久,1982,『暦 と占いの科学』,新潮社 。

Niangoran― Bouah, Georges, 1964, Lα Dιυtslοれ ,, Tθttpt9 9ι ι9 Cαι?几 J′】θ′′jι,9ι 09s P9″ ριθs

Lαごαれαうrθθ 09 C∂ ι9 ,'Iυοtr9, ParisI Institute d'Ethno10gie

鈴木正崇,1998,「人生儀礼」,赤田光男 ・福 田アジオ (編),『時間の民俗』(講座 日本 の民 俗 学6),雄山 閣,205

∼224買 。

参照

関連したドキュメント

これからはしっかりかもうと 思います。かむことは、そこ まで大事じゃないと思って いたけど、毒消し効果があ

 今日のセミナーは、人生の最終ステージまで芸術の力 でイキイキと生き抜くことができる社会をどのようにつ

自然言語というのは、生得 な文法 があるということです。 生まれつき に、人 に わっている 力を って乳幼児が獲得できる言語だという え です。 語の それ自 も、 から

・私は小さい頃は人見知りの激しい子どもでした。しかし、当時の担任の先生が遊びを

では恥ずかしいよね ︒﹂と伝えました ︒そうする と彼も ﹁恥ずかしいです ︒﹂と言うのです

法制史研究の立場から古代法と近代法とを比較する場合には,幾多の特徴