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日本教育方法学会紀要 教育方法学研究 第 44 巻 2018 年度 (2019 年 3 月 ) 現代ドイツ教育学における指導論に関する一考察 広島大学大学院早川知宏 A Study on Führung in German Pedagogy. Tomohiro HAYAKAWA, Student o

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日本教育方法学会紀要『教育方法学研究』第44巻・2018年度(2019年 3 月)

現代ドイツ教育学における指導論に関する一考察

広島大学大学院 

早 川 知 宏

A Study on “Führung” in German Pedagogy.

Tomohiro HAYAKAWA, Student of Graduate School, Hiroshima University

 本研究の目的は,現代ドイツ教育学において指導論はどのように取り扱われ,陶冶論からどのように再 編されるかを検討し,その意義と課題を明らかにすることである。  統一後ドイツにおいて指導が語られる際,ナチズムの反省から,子どもと教師の対等性が目指され,生 活や学習の規則についても子どもとの合意や取り決めが重視されていた。しかしそれが子どものエゴを助 長していることを問題視したブエブ(Bueb, B.)は,罰則による管理として規律論と指導論を提起し論争 が起こった。こうした動向の中で指導のあり方を陶冶(Bildung)論から再構成するのがツェルナー(Zellner, M.)である。ツェルナーは,指導概念の源流を,ギリシア語のパイデイア(paideia)にさかのぼって検討し, 陶冶との関わりがあることを見出した。そして対話的な教師と子どもの関係を重視し,教室の秩序を整え る規律を,授業を成立させる前提の指導に位置づけた。そのうえで教育的指導(Pädagogische Führung) を方法的(Methodisch),教授学的(Didaktisch),組織的(Organisatorisch)な指導として展開した。こ の教育的指導によって陶冶としての自己指導(Selbstführung)へと導く必要性を提起し,指導の捉え方を 再考する必要性を示した。  本研究から明らかになったのは,ブエブをめぐる論争以降,指導に関する議論が,子どもの自由か管理 かという議論を超えて,教科内容の指導による人間形成の意義が強調されているということである。

   The purpose of this paper is to clarify how the concept of “Führung” has developed in German pedagogy, to reconstruct the concept of “Führung” based on “Bildung” and to clarify its significance and limitation.

   After the German unification, the concept of “Führung” underlined the equality between teacher and students, and in practice, for example, the lesson rules were decided by consensus building. However, Bernhard Bueb restored “Disziplin” and “Führung” as control by punishment because he criticized the equality between teacher and students, which leads to egoism of children. Because of his proposal, there was a controversy in Germany. In this trend, Meike Zellner reconstructed the concept of “Führung” from “Bildung” theory. She related “Führung” with the Greek word, “paideia”, and discovered that “Führung” should be related to “Bildung”. Giving an importance on the interactive relationship between teacher and students, she placed “Disziplin” as “Vorpädagogische Führung” which preserves order in classroom, and under this condition, she proposed “Pädagogische Führung” as “Methodische Führung”, “Didaktische Führung” and “Organisatorische Führung”, which leads to “Selbstführung” as “Bildung”.    This study clarified that although “Führung” was regarded as freedom or control in Germany since the Second World War, the significance of character formation by “Führung” in subjects was underlined after the Bueb’s debate.

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1.研究の目的と方法  近年ドイツにおいて,指導(Führung)のあり方 をめぐる議論がさまざまに行われている。そもそも 第二次世界大戦後に東西に分断されたドイツでは, 指導は異なった特質をもって提起された。東ドイツ は,第二次世界大戦後のソビエト占領時代を経て 1949年に建国され,ソビエトの教育学に基づく社会 主義的な教育が行われていた。例えばクリングベ ルク(Klingberg, L.)に代表されるような指導を自 己活動との弁証法的関係で捉える教授学的理解は日 本でも積極的に取り上げられてきた1)  他方で西ドイツでは,指導はナチズムにおける指 導者による統制を連想させるために戦後の教育実践 では避けられてきた用語であった2)。しかし1970年 代以降,授業妨害によって指導や規律(Disziplin) という概念が注目されるようになる。その契機と なったのが,1970年代に西ドイツに流入した英米圏 の学級経営=学級指導論3)であり,アメリカの教育 心理学者クーニン(Kounin, J. S.)による子どもの 動機づけやグループ活動の組織や言葉かけといった 授業妨害の介入と予防の方法について描かれた『学 級における規律と集団経営(Discipline and group management in classrooms)』(1970年)のドイツ 語 版 で あ る『 学 級 指 導 の 技 術(Techniken der Klassenführung)』(1976年)の刊行であった。同 書は,子どもの能動性が重視されていることからも 注目されることとなった。なぜなら,ナチズムに対 抗していたフランクフルト学派の影響下で,教師と 子どもの支配関係が批判されてきた西ドイツでは, 教師と子どもの対等性や子どもの自由や自己決定が 重視されていたからである。つまり,西ドイツにお いては,ナチズムに対抗していたフランクフルト学 派のアドルノやホルクハイマー,またフランクフル ト学派の第二世代のハーバーマスの影響の下に,教 師と子どもの支配関係が批判され,教師と子どもの 対等なコミュニケーションが重視されていたのであ る。その中で例えば批判的-コミュニケーション的 教授学に位置づくヴィンケル(Winkel, R.)は,子 どもの規律問題や妨害行動をどのように読み解くか を探り,教師と子どものコミュニケーションから授 業妨害や規律問題の解決の方途を提起している4) また,批判的教育学をとりこみ,伝統的な陶冶理論 的教授学に基づきながら「批判的-構成的教授学」 を確立したクラフキー(Klafki, W.)は,一般陶冶 で培う能力を「自己決定能力,共同決定能力,連帯 能力」という三つの能力の関連で捉えている5)。こ れらのように西ドイツにおいては,ナチズムの反省 から,子どもと教師の対等性や子どもの自己決定や 共同決定の実現が目指され,それはドイツ統一後も 受け継がれることとなった。というのも,ドイツ統 一は東ドイツを西ドイツ化する形で行われたため, 統一後に東ドイツの指導論はあまり触れられなかっ たからである。  こうした中で近年,ドイツの教育においてナチズ ムの反省および六八年運動を契機として,厳格な指 導が忌避され,子どものエゴを助長して,授業妨害 や暴力問題の原因となっていることを問題視し,厳 格な指導論を提起したのが寄宿舎制学校の元校長で あるブエブ(Bueb, B.)である6)。彼は,2006年に

ベストセラー本の『規律礼賛(Lob der Disziplin)』 (2006年)を刊行し,指導(Führng)と規律(Disziplin) を復権することを標榜し,罰則による管理として 規律と指導を同一に捉えたため,多くの反響をよん だ7)。さらにブエブは2008年に『指導する義務につ

いて(Von der Pflicht zu Führen)』(2008年)を刊 行することによって,規律のみではなく,指導をど のように捉えるかについての議論を交わす契機を提 起した。  指導とは教師と子どもとの対等性による自己決定 や共同決定を実現させることか,あるいは統制や管 理か,という二項対立でのみ捉えられることを問題 視し,指導概念を陶冶(Bildung)と結びつけ,ブ エブとは異なり対話を前提とした教科内容の知識の 獲得との関連から指導論を再構成するのが,ドイツ の教育学者のツェルナー(Zellner, M.)8)である。 ツェルナーは,戦後および統一後ドイツの指導の捉 え方では,教師と子どもの対等性が強調されたのみ で,授業における子どもの自立に向けた指導のあり 方が示されていないことを問題視する一方で,指導 を 復 権 し た ブ エ ブ の 論 を 抑 圧 に 導 く 非 教 育 的 (Unpädagogisch)な指導として批判する。そのう えでツェルナーは,対話的な教師と子どもの関係を 重視し,教室の秩序を整える規律を,授業を成立さ せる前提の指導に位置づけた。そして授業における 教 育 的 指 導 を 方 法 的(Methodisch), 教 授 学 的

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(Didaktisch),組織的(Organisatorisch)な指導と して展開した。この教育的指導を展開することに よって,子どもの自己指導(Selbstführung)であ る陶冶(Bildung)へと導く必要性を提起した。  本研究の目的は,これまでドイツにおいて語られ てきた指導論が陶冶論からどのように再編されるか を検討し,その意義と課題を考察することである。 そのためにまず,現代ドイツを,指導論が陶冶論に 基づいて転換される統一後ドイツに焦点をあて,ブ エブの指導論が提起される背景とその特質,および その批判の内実を明確にする。そのうえで,ツェル ナーを手がかりにこれまでの指導論がどのように再 編されるかを明らかにしていきたい。 2.統一後ドイツにおける指導論の展開  すでに述べたように,東ドイツと西ドイツの指導 論は異なって展開されたものの,1990年のドイツ統 一は,西ドイツが東ドイツを吸収する形で統一され たため9),東ドイツの指導論は,あまり触れられる ことはなかった。すなわち,ドイツ統一後は,クー ニンなどが提起したように,西ドイツで提起されて きた規則の共同決定や,子どもとの対等なコミュニ ケーションなどが強調されていた。2000年になると, ドイツにおいて「PISA ショック」を契機とした学 力低下が問題視されることによって,1980年代から 90年代にかけてのヴァイネルト(Weinert, F.)らに よる,子どもの学力向上のためには,授業において 規則による学習の枠組みを作り出し,授業を組織化 する学級指導が必要であることが明らかにされるよ うになった研究が注目されるようになった10)。その 中で,学級指導論の中で主要概念である規律や指導 に関するさまざまな文献が刊行されてきたのであ る11)。その際学級における指導は, 西ドイツの流れ を汲み, 教師による命令や統制ではなく,子どもと の規則の共同決定による秩序の形成や12),教師から の統制を回避するために教師に対する学習者の要求 を認めることなど13),学習者のコミュニケーション の機会を作り出し,意見を述べあうことを通した自 己決定や共同決定の実現による子どもの能動化とし て捉えられ14),子どもと教師の対等性が強調されて いる。  このような状況の中でベストセラー著者となり注 目を集めたのがブエブである。ブエブは『規律礼賛』 (2006年)において,厳格な指導や規律が忌避され ることで,生活や学習における小さな規則や秩序に いたるまで子どもとの合意が重視されることは,子 どものエゴを助長すると捉えた15)。これに対してブ エブが提起したのが,子どもへの他律によって自律 を目指す罰による管理としての規律と指導であっ た16)。この規律と指導を同様の意味で捉える厳格な 規律論の主張を契機に,ブエブの提起に批判的に応 答するブルムリック編集の『規律の誤用』(2007年) とアーノルドによる『迷信的な規律』(2007年)が 刊行され,子どもの人権を無視した罰による管理と して規律を捉えることへの批判がなされることと なった。しかしブエブはその後,『指導する義務に ついて』(2008年)を刊行し,『規律礼賛』(2006年) に引き続き,戦後に厳格な意味での指導が規律と同 様に避けられることが,子どもの荒れを招いている 現状を踏まえ, 「ドイツにおける教育の苦境は, 指導 (Führung)の欠落の結果である」17)と述べる。こ れがブエブによる指導の復権の試みである。ブエブ は,「指導するということは,導き(leiten),計画 し(planen), 調 整 し(koordinieren), 委 譲 し (delegieren), 制 御 す る(kontrollieren) こ と 」18) であると主張した。つまりブエブは,『規律礼賛』 (2006年)で欠落していた対話的な関係を構築する ことを強調したのではなく,これまで教師が子ども に振り回され,方向づけることができなかったこと を問題視した。そして教師自身が人を引き付けるカ リスマ的な存在となり信頼性を獲得するべきである とし19),子どもの模範となって目標を教師自身が設 定することで,子どもをその方向へ導く必要性を提 起した。なおこのブエブの指導論も『規律礼賛』(2006 年)と同様に批判がなされている20)  子どもと教師の対等性や合意に基づく指導が子ど ものエゴを助長することを問題視したブエブは, 2006年に『規律礼賛』(2006年)を,そして2008年 に『指導する義務について』(2008年)を刊行し, 子どもとの対等な関係性ではなく,上からの教師の 指導性を強調したために,罰も辞さない厳格な規律 論と指導論を提起し,規律と指導を同様の意味で捉 えたために,子どもとの対話的関係の無視や保守的 回帰を問題視されることとなり,論争が起こったの である。これに対してツェルナーは,ブエブの指導

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論を批判するだけでなく,戦後および統一後ドイツ を射程に入れながら,陶冶論から指導論を捉え直す ことを試みるのである。 3.ツェルナーによる陶冶論に基づく指導論の 再編 (1)ツェルナーの指導論の理論的背景  ツェルナーによると,指導概念は,ブエブが述べ るように管理や統制といった意味を持つ用語ではな かったという。すなわちツェルナーは,指導概念の 源流はギリシア語のパイデイア(paideia)にあり, 語源的に指導概念は陶冶概念との結びつきにあった と解釈する21)。しかし戦後になって,ナチズムの反 省から指導よりも同伴(begleiten)といった別の 概念が登場することにより,教師の指導性も後退す ることとなった22)。さらに指導とは何かについての 研究はあまりなされず,なされたとしても,教師と 子どもとのコミュニケーションや子どもから教師へ の要求23)など,子どもと教師の対等性が強調され るのみであり,授業における教科の具体的な指導の あり方は示されてこなかったという24)。ツェルナー にとって,このことは「授業において教師の指導を 後退させるために,授業と訓育のプロセスでの教師 の責任をなくすものでしかない」25)という問題意識 があった。すなわち陶冶論の立場からツェルナーは, 授業における教科内容の知識の獲得とともに人間形 成がなされるにも関わらず,その指導のあり方が問 われずに指導が単純に語られることは,子どもの自 立に結びつかないと捉えていた。つまり,知識を身 につけることで教養を身につけ,さまざまな状況下 で知識を用いて客観的に判断できたり,偏狭な思考 にとらわれず自分自身の判断ができるようになると ツェルナーは考え,文化価値としての教科内容を授 業を通して指導することで,批判的に物事をみたり 総合的に物事を判断 (überschauenden Urteil) する 主体へと形成する必要があるとする立場をとってい る26)  このように捉えるツェルナーの理論的背景はどの ようなものであろうか。ツェルナーは,新カント学 派の教育学のレクス(Rekus, J.)の弟子であり,レ クスは,新カント学派の教育学から学校教育学へと 論究を発展させている。そしてこの学派は,超越論 的批判教育学として現在も継承されている27)。この 学派の中心的な問題関心は,それぞれの教育的な思 考や行為に関する一般的に有効な原理であり,カン トのアプリオリを継承しながら,教育的な行為や経 験を成り立たせる原理として教育的な行為の方向づ けを指し示す28)。すなわちこの学派は,教育を行う ための規範的な諸原理である理論を提示すること で,理論を指針として実践における教育的な行為を 方向づけることを目指している29)。したがって,こ こでいう原理は,実践の方向を定めたり,過去の実 践を批判的に判断したり,教育計画を実行に移して いくための批判的ものさしとなるのである30)  このように理論と実践の関係を捉えたうえで,こ の学派が原理を示す前提とし論究の対象としている のは,陶冶(Bildung)であった。彼らは陶冶を, 知識の獲得とともに,人が自身で責任的にかつ自己 規定的に行為するということを意味し,教育の目標 であると捉えている31)。この教育学が陶冶を論究す る背景は, 人が自己規定的に行為しなければ, 「単な る欲求にひきずられたり,実用面で役に立つかどう かということばかりを追う考え方,あるいはそのと きどきの流行に流され,権力の支配下にあって,た だのご都合主義に陥ってしまう」32)という問題意識 があるからである。つまりこの問題意識を提起する ハイトガーは,子どもへの支配や統制を批判し,子 どもが知識を獲得することで偏った思考を避け,よ い態度を身につけていくために陶冶を重視する33) この考えについては,ツェルナーも知識の獲得の重 視や統制の批判をしていることから継承しているこ とがわかる。ただし,そうした子どもの自己規定的 な行為は指導なしに身につくものではない。それゆ えこの学派は,「陶冶という意味での,あるべき生 活実践のための諸原理を解明するだけでなく, 教育 的指導 (Pädagogische Führung) を可能にする条 件についても探究」34)し,教育的な行為として陶冶 へ導くための教師の指導の必要性を強調する。さら にレクスは,近年の PISA を契機としたコンピテン シーの対抗軸として,経済の論理に基づいた労働能 力に向けた教育によって,特定の能力を強制的に身 につけさせるのではなく,子どもが自治的に,そし て自己規定的に行為できる主体へと形成するため に,陶冶の必要性を提起している35)  こうした理論的な背景に基づき,陶冶に向けた

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指導のあり方を追求したツェルナーは,統制や支配 ではなく,人が知識を身につけ,自立的に行為が できる自己指導である陶冶を目標とする指導の必要 性を主張した。すなわちツェルナーが提起したの が,子どもの自己指導である陶冶を目標とした, 教 師 に よ る 授 業 を 成 立 さ せ る た め の 前 教 育 的 (Vorpädagogisch)な指導である規律,および,そ れを前提として行われる教育的指導である,方法的, 教授学的,そして組織的な指導であった。ツェルナー は教育的指導を行う前提である教室の秩序の形成を 規律の指導と位置づけ,教育的指導によって,子ど もが自身で知識を獲得し,自立的で責任的に行為す ることができるようになることである陶冶としての 自己指導へと導く必要性を主張したのである36)。こ こでは,まず教育的指導としての方法的,教授学的, 組織的な指導の内実を述べ,そのうえで教育的指導 を成立させるための前提にある規律の特質を述べて いく。 (2)教育的指導の類型とその特質 ツェルナーは,教師は授業において課題を子ども に示し,それを解決ができるように子どもに対して 課題に応じた解決方法を提示する必要があり, 「教師 は,授業の初めから終わりまで子どもが課題の解決 を特定の様式で行うことについての責任を持ってい る」37)と主張している。それゆえに方法的な指導が 必要とされると述べる。方法的な指導は,教科の特 性に従う, 助言 (Hinweis) などによる子どもの方法 的な行為の援助 (Hilfe) である38)。そのためツェル ナーが強調するのが,学習方法の習得のための方法 的な指導が目指すこととして,子どもが教科の課題 の固有の解決方法や議論の特定の方法を身につけ, 対話の中で価値について対決することができるよう にすることである。それによって,教科の知識の獲 得へと接続される「専門科学的に規律づけられた思 考(fachwissenschaftlich-diszipliniertes Denken)」 を育成することへとつながり39),教科とは関わらな い思考をすることが避けられると述べる。例えば, 学習方法としては,理科で言えば実験手順を正しい ステップで行うことなど,一定の知識が得られるた めの学問的な方法の習得が挙げられ,子どもが自分 自身でできるようになるまで教師の指導が必要とさ れる40)。ただし,ツェルナーによるとこうした方法 は内容に付随するものであるため,内容に関わる指 導についても論究される必要があることを指摘して いる。その際教科固有の指導に傾倒することによっ て,他教科と関連づけられず,陶冶にとって重要で ある世界の物事を理解できなくなることや,多角的 に物事をみることができなくなる危険も示してい る41)。そのためツェルナーは教科ごとに指導の内容 を切り分けてまったく別のものとして扱うのみでは なく,教科横断的な視点を子どもに持たせる指導の 重要性も提起しており,それを内容上の指導という ことから教授学的な指導に位置づけている。  教授学的な指導にとって重要なことは,子どもが それを学ぶことで後にどのような意味があるのかと いう基準による教材選択 (Lehrgutswahl) である42) それは子どものモチベーションに関わるものである ため,教師には,課題が年齢や発達段階にあってお り,テーマの複雑性を縮減できているか,教師の教 える内容が子どもの生活と関わるものであるかが問 われる43)。とりわけツェルナーは,「子どもが教材 との対決をしながら自身の生活に振り返ってその意 味を問うことは,教授学的な指導の教育的目標であ る」44)と教授学的な指導の意味を述べている。子ど も自身の生活と関わらない学習は子どもにとってそ の学習をすることの意味が不明となり動機づけにつ ながらないという指摘である。そのため,教師が教 授学的な熟慮をし,身の回りのものを教材として取 り上げ教えることを考慮することは,教授学的な指 導の基本的な視点であり,教授学的な指導の課題の 中心にあるのは,対象との子どもの対決や子どもの 能動性を可能にさせることとなる45)。またそれのみ ではなく,先述したように,多角的に物事を捉えら れるように,教科横断的な視点に導くことも忘れら れてはならない。教授学的な指導の例としてツェル ナーが説明するのが「二酸化炭素」を扱った内容で ある。ツェルナーによると,「二酸化炭素」という 用語についての扱いは,理科では光合成の学習や燃 焼による実験が行われ,有機物を燃焼させると二酸 化炭素が出ること,また光合成によって二酸化炭素 を吸収することなど,その性質を学習することにな るが,社会科では環境問題との関わりの中で取り上 げられることになり, 二酸化炭素の排出をいかに減 らしていくかを考えることにもなる46)。ツェルナー は,「同一の対象を異なった学問的な観点からみる

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こと」47)の重要性,つまり一つの用語や対象をさま ざまな教科で学び物事をみることが身の回りの物事 の見方を豊かにするために重要であり,世界を理解 し陶冶へと導かれることを指摘している48)。すなわ ち,理科で学ぶ二酸化炭素の発生のしくみや光合成 による二酸化炭素の吸収の内容と,社会科で学ぶ二 酸化炭素の抑制のありかたを関連づけることで,森 林を増やしていくことの論理などを明確に理解する ことができるのである。また,子どもの生活圏との 関わりでいえば,二酸化炭素の排出量をめぐっては, 彼らの生活圏ではどういった取り組みをしているか を関わらせながら,自身で問いをもち他者との対話 を通してさまざまな立場が出てくる中で,物事を多 角的にみること,そして最終的に,陶冶へと導く上 で必須である自己規定,つまり子どもが自身の考え を表明し,自身の立場や見解を他人に流されるので はなく自分で決定できることが重要となる49)。ここ から,確かに指導とは,教師から子どもに対して厳 格に行われるものであるということがブエブより提 起されているが,ツェルナーはそうした指導論の捉 え直しをしている。すなわち,教師が上から課題を 設定し,子どもに手順を教え,教師の想定通りに解 決させるのではなく,教師が子どもの生活との関わ りのある内容を用意し,子どもがモチベーションを もってその内容に関わる問いをもち,そして子ども が自身で解決することの重要性を提起しており,教 師から子どもへの指導というよりも,子どもが共同 的で責任的に行為して知識を獲得するといった,自 身で指導する自己指導へとつなげることを強調して いるのである。ただし,こうした内容をどのように 集団で学ぶかは授業形態や学習形態にも依拠してい るため,組織的な指導のあり方が論究される必要が ある。  ツェルナーによると,組織的な指導は,授業内容 に応じて,どの学習形態や授業形態を用いるのかに ついての熟慮である50)。ツェルナーは,子どもの自 己責任と共同責任のためにもさまざまな社会形態を 用いて課題を課すことが重要となると述べており, それは子どもたちの自治 (Autonomie) を高めるうえ で重要であることを指摘している51)。例えば, 個人作 業 (Einzelarbeit), パートナー作業 (Partnerarbeit) やグループ作業 (Gruppenarbeit) といった学習形態 に関してツェルナーは, どの形態を用いるかを授業 目標や場面に応じて熟慮する必要性を提起する52) また,ツェルナーはこうした学習形態のみではなく, 授業形態も子どもの自己指導を促すうえで考慮され るべきであるとする。すなわち,教師が選択して課 題を立てる教科授業(Fachunterricht)のみではな く,自由作業(Freiarbeit)によって子どもの自治 を確保するべきであると主張した53)。教師が課題を 設定し子どもにそれを解決させるだけでは,子ども が問いを立て自立的に活動できないことを問題視し たツェルナーは,子どもが自分自身で知識を獲得し ていく自己指導に向けて,教師の指導性を徐々にな くしていき,最後は教師の力を必要とせず,子ども が自分でまたは他者とともに課題を設定し取り組む ことができる自由作業の中で子どもの自立性を高め ることを強調したのである54)。これらより,学習形 態に関しては,グループ作業や個別作業によって子 どもの責任を身につけさせたりすることが必須だと 捉えられる。ただし,授業形態が教師の伝達に終始 する教科授業となると,教師が問いを設定しその方 向に向かって子どもを一方的に導いてしまうことも 考えられる。そのため,ツェルナーは,自由作業と いう授業形態を取り入れることによって,子どもが 学ぶ内容を準備するのは教師ではあるが,それに対 するモチベーションを持たせることで,子ども自身 が問いを設定し,グループ作業などの学習形態に よって解決していくような授業形態を取り入れるこ とを提起した。ここには,教師の制御としての指導 の捉え直しが明確に読み取れる。教師の制御として 指導を捉えるのではなく,子どもが自身で問いを持 ち共同的に問題を解決するような学習形態や授業形 態を準備することで,子どもの自己指導ができるよ うにすることが強調されているのである。  これらより,統一後ドイツの指導論である教師と 子どもの対等性の強調およびブエブの管理的な指導 論を問題視したツェルナーは,教科内容を通した人 間形成を強調し,方法的な指導として,課題に応じ た学問的な作法を身につけさせることを提起する。 しかし方法は教科内容にも付随するため,子どもの 生活にとって意味のある特定の内容を準備する教授 学的な指導も必要となる。そしてそれをどのように 獲得するかは,学問の作法のみではなく,集団によ る協力も必要となるため,組織的な指導によって子 どもが共同的に,自身で課題を立てて学ぶことも重

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要となる。こうした教育的指導によって自己指導へ 導くことにつながるのである。この教育的指導に際 して必要なのは,対話的な教師と子どもの関係 (dialogische Lehrer-Schüler-Verhältnis) である55) そのため教師が避けるべきことは,価値の教え込み であり,そうした指導は非教育的(unpädagogisch), つまり操作的 (manipulative) で教化的 (indoktri-native)になると指摘している56) (3)教育的指導の前提としての規律の指導  他方でツェルナーは,これらの三つの指導である 教育的指導が成り立つためには予防的観点を含めた 規律が必要になると述べている。ここで規律とは, 学級における規則の決定など,教育的指導を成立さ せるための前提にある前教育的なものであり,陶冶 のための前提とされる。この規律の指導に関しては, 「学習者の直接の陶冶危機が防止され秩序が保持さ れるなら,命令や叱責はふさわしい」57)とツェルナー は指導における強制性を認めている。つまり,子ど もが授業対象に取り組まず,規則を無視したり例え ば何かの実験器具を使って遊んだりしている場合も 事物へ方向づけるために命令,叱責は行わざるを得 ないとされる。ただし,そのような状況にはできる だけならないように規則の意味などの合意形成や対 話を前提とした働きかけが必要となるとツェルナー は捉えた。というのも規律化は,ブエブが示すよう に抑圧的で教化的である限り教育的ではなくなるか らである58)。したがって,叱ることに終始するので はなく,ほめることや励ましの言葉とともに子ども を援助し子どもの抑圧を回避する必要があるのであ る59)  加えて,ツェルナーが重視したのが,規律の指導 が形式主義となることを避けるための教科的な規律 である。つまり教科内容に沿った,子どもに教科の 知識を獲得するための行為を教師は要求する必要が あると指摘している。この意味で,授業における規 律は,教科内容の知識の獲得と結びつくかどうか, また規則も教科内容の獲得と関わるものかどうかに ついて問うことが重要となる60)。したがって,前教 育的な指導としての規律は,規則や行動規範を教師 が教え込むことではなく,授業における規則の共同 決定とその維持であり,それが知識を獲得するため のものかが問われなければならない。ただし,この 前教育的な指導と教育的指導は段階的に行われるも のではない。ツェルナーによれば,これらは同時並 行的に行われ,授業においては,規則を媒介にした 知識の獲得のための行為を形成する規律の指導や, 子どもの妨害行動などによる仲間の陶冶危機を避け る強制性をともなう指導もときには行われながら, 知識の獲得のための教育的指導が行われる61)。つま り,方法的な指導,教授学的な指導,組織的な指導 である教育的指導による知識の獲得の過程で,対話 的関係を重視しながらも,教師による陶冶危機の防 止のための指導や教科内容に応じた規則の意味など を学習していく規律の指導がなされ,知識の獲得の 過程の中で規律の意味を子どもたちが理解し,規律 が形成されることを指摘しているのである。  以上より,ツェルナーが提起する指導論は,3層 の構造で捉えられる。すなわち,自己指導(Selbst-führung),教育的指導(Pädagogische Führung), 前教育的な指導(Vorpädagogische Führung)で ある。自己指導は教育的指導の目標である陶冶を意 味し,人が自身で責任的にそして自己規定的に行為 するということが教育の目標とされる。教育的指導 は,子どもの自己指導へと導くための方法的,教授 学的,組織的な指導を示す。ただし,その際には, 前教育的な指導としての規律が必要とされる。これ は,授業における規則の指導と共同決定,そして妨 害行動の介入が含まれる。ただしツェルナーは, 先述したように,対話を前提とせず教師の一方的な 指導になった場合,ブエブが提起しているように, 抑 圧 的 で 教 化 的 と な り, 非 教 育 的 な 領 域 (Unpädagogischer Raum)の指導となる危険も指 摘しており,明確にブエブを批判しながら指導論を 提起していることがわかる62)  ブエブは,教師による一方的な導きとして規律と 指導を提起し,多くの批判がなされ論争となった。 その中でツェルナーは,戦後忌避され,誤って理解 されてきた規律と指導の役割を明確にしながら指導 概念を整理して捉えており,子どもとの対等性のみ を強調する西ドイツの流れを汲むドイツの指導論お よび,ブエブが述べた教師からの管理的な指導論か ら,対話的な教師と子どもの関係を重視し,授業を 成立させる規律を前提として,教科の知識を共同で 獲得し,自立するという陶冶論に基づいて指導論の 再編を試みたのである。

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4.研究の成果と課題  統一後ドイツの議論を中心に指導がどのように捉 えられてきたかを検討し,ツェルナーの考察を手が かりにこれまでの指導論がどのように再編されるか を検討した結果,以下のことが明らかになった。  まず第一に,ツェルナーは,統一後ドイツおよび ブエブの指導論を批判したうえで,ブエブが捉える 厳格な義務としての指導ではなく,陶冶である自己 指導との関連から知識の獲得による自立を想定した 教育的なもの(Pädagogisch)としての指導とは何 かを探求し,規律と指導の機能を明確に分けて指導 論を提起している点である。統一後ドイツにおいて は,ブエブが述べるように,指導と規律がただ教師 の導きたい方向へと導き管理することであると捉え られ,指導と規律が混同されその意味が明確となっ ておらず,その後に規律を含めた指導論が提起され てこなかった。その動向の中でツェルナーは,ブエ ブの批判にとどまるのではなく,陶冶論との関連か ら,教科内容を通した人間形成を強調し,知識の獲 得のための規則の共同決定による教室の秩序の形成 のための指導を,授業成立のための前教育的な指導 である規律の指導として位置づけ,授業における教 科内容を獲得するための方法的な指導,教授学的な 指導,組織的な指導の三点を教育的指導として提起 し,子どもの自己指導へ導く必要性を主張した。ツェ ルナーは,規律を陶冶のための前提とし,子どもの 陶冶危機がある場合に指導における強制性を認めて はいるが,ほめることや励ますことを強調してい る。とりわけ規律の指導は,授業を成立させるため に必須ではあるが,それが管理の道具としてではな く,授業における規則が教科内容を獲得することへ と方向づけられているか,またその規則を身につけ させるために子どもへの励ましが行われているかが 重要となるのであり,教師の強制的な介入は授業の 妨害など最低限にとどめられる必要がある。このよ うに規律を捉えることによって,規律が,ただ管理 するだけであると誤用されることを防ぐことにもつ ながると考える。つまり,ツェルナーの論は,ブエ ブが提起した規則に当てはめて,それを守れないも のに罰則を与える指導,さらに日本の状況に照らす と,授業のスタンダード化の中で子どもとの対話を 無視した「学習規律の徹底」といったスローガンに よる話し方・聞き方の統制に陥りがちな状況など, 規則にただ当てはめて統制して指導する動向に鋭く 警鐘を鳴らしているとも捉えられる。そうしたレベ ルを超えて,対話を前提として教科内容の獲得と関 連づけて教育的なもの(Pädagogisch)として指導 を構想し,それに付随させて規律論を構想し,陶冶 危機の防止のための行動の指導と教科内容の知識の 獲得のための規則の指導として提起した点は,陶冶 論の伝統を持つドイツ教育学の思考形式がよく表れ ていると捉えられ,規律の誤用を防止するために重 要である。  そのうえで第二に,ツェルナーは戦後の指導論を 踏まえつつ,ブエブによる,指導は教師から厳格に 子どもに対して行うもの,という捉え方から,教科 内容の習得との関連から子どもが自身で行うもの, という転換をすることによって指導論の再編を試み ていることである。ツェルナーは,教科内容の獲得 のための学問的な作法である学習方法の指導として の方法的な指導,そしてその方法は内容に規定され るものであるために,子どもにとってモチベーショ ンを持つことができ,多角的な視点を身につけさせ る,教科内容の指導としての教授学的な指導を結び つける。さらに知識を身につけるためには学問的な 作法のみではなく,集団が自分たちの力で問題解決 することが必要とされるために,ツェルナーは,グ ループ作業といった学習形態および,教師が課題を 提示し子どもに解決させる教科授業を越えて,子ど もが課題を自身でまた共同で責任をもって設定し課 題に取り組む自由作業といった,授業形態の指導と しての組織的な指導を提起した。それによって,子 どもが自立的に知識を獲得していく陶冶としての自 己指導へ導く必要性を主張したのである。ただし, それは教師が一方的に指導するということを意味す るものではない。ツェルナーは,子どもの自己指導 のために教師の指導性を少しずつ後退させ,実際に 子どもにとって生活と関わるモチベーションを持た せる教科内容を準備し,自由作業といった授業形態 を取り入れながら子どもたちが共同でその内容にふ さわしい方法で問題を解決する中で,子どもたちが 互いに助け合いながら自身で責任的に行為する自己 指導を強調したのである。このように,ツェルナー が提起する指導論は,子どもの自立へのプロセスを 明確にした指導の必要性を示した点,また単なる子

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どもとの対等性や自由の強調や,ブエブのように子 どもの管理や統制としてのみ指導を理解することを 再考し,陶冶論との関連から,教師の指導性を示し つつ実際に子どもの陶冶のために子どもたちが自分 自身で指導することの重要性を方法・内容面から示 した点で意義があるといえる。  ただし,ツェルナーは,指導論の転換をはかった が,結局,子どもたちが自立的で責任的に行為する とは実践的にどういうことなのか,どのように具体 的な授業実践で自己指導や教育的指導を捉えるのか ということを提起しておらず,理論的な言及にとど まっている。また,ツェルナーは戦後ドイツの指導 論を評価しているが,東ドイツにおける指導論を検 討せずに自身の指導論を提起している。本研究では, さまざまな陶冶論がドイツで提起されてきた中での ツェルナーの陶冶論の位置づけなど,他の教授学議 論との関連や教育実践への影響を描き出すことはで きておらず,東ドイツにおける指導論を詳細に検討 できていない。そのため,今後は,ドイツ教育学全 体の中でのツェルナーの論の位置づけや,教育の実 態の動向,および,クリングベルクなど東ドイツに おける指導論を評価しながら,こうした研究動向が, 教育実践をどのように変容させているのか,また日 本の指導論の到達点と重ね合わせながら,ドイツ教 育学における指導論の意義と課題を考えていきた い。 注 1)例えば,ロータール・クリングベルク著,佐藤 正夫監訳(1978)『現代教授学の理論』明治図書, 120-123頁(ドイツ語版 Klingberg, L. u.a. (1968): Abriß der Allgemeinen Didaktik. Berlin, Volk und Wissen)を参照。

2)Vgl., Zellner, M. (2015): Pädagogische Führung. Geschichte-Grundlegung-Orientierung. Peter Lang, Frankfurt am Main, S. 16. 3)ドイツにおいては学級指導(Klassenführung) と学級経営(Klassenmanagement)という概念 はほぼ同様の意味を示すものであるとされている (熊井将太(2013)「学級経営論の教育方法学的検 討-学級経営の再評価をめぐる国際的動向-」『山 口大学教育学部研究論叢(第3部)』第63巻,58 頁参照)。 4)深澤広明(2004)「メッセージを「聞き分けあう」 学級づくり」『心を育てる学級経営 8月』明治図 書,No. 235,66頁参照。

5)Vgl., Klafki, W. (62007, 1985): Neue Studien zur

Bildungstheorie und Didaktik. Zeitgemäße Allge-meinbildung und kritisch-konstruktive Didaktik. Beltz, Weinheim und Basel, S. 52.

6)ブエブは,シュロス・サレム寄宿舎制学校の元 校長である。この学校は1920年にバーデン=ヴュ ルテンベルク州に設立された民間のギムナジウム である。設立者はクルト・ハーン(Hahn, K.)で あり,第一次世界大戦後の右傾化するドイツにお いて次世代の新しい知的エリートの育成を目指し て設立された学校である。ブエブは1974年に校長 に就任し,2005年までその任を務めた。『規律礼賛』 (2006年)と『指導する義務について』(2008年) は自身が校長を務めた体験をもとに執筆された教 育論である。 7)ブエブの規律論とその批判的応答についてはわ が国でもとりあげられている。例えば深澤ら (2009)は,ブルムリック(Brumlik, M.)編集の 『規律の誤用(Vom Missbrauch der Disziplin)』 (2007 年 ) の 著 者 の 一 人 で あ る テ ィ ー ル シ ュ (Thiersch, H.)を引用しながら,ブエブの論の社 会的魅力と,自律の側面が描かれていない管理的 な規律論を批判している(深澤広明・北川剛司・ 樋口裕介(2009)「授業規律の指導に関する今日 的争点と課題-アメリカおよびドイツにおける動 向を手がかりに-」中国四国教育学会編『教育学 研究紀要(CD-ROM 版)』第55巻,53-63頁参照)。 他方で熊井(2012)は,アーノルド(Arnold, R.) の『迷信的な規律(Aberglaube Disziplin)』(2007 年)を引用しながら,ブエブの論を以下の三点か ら批判する。すなわち,ブエブの論の研究成果の 参照の乏しさ,すべての教育問題を厳格な規律で 解決しようとする教育問題の単純化と「規律の盲 信」,そして「主体」と「関係性」の不在である (熊 井将太(2012)「生活指導における「規律」概念 の検討」中国四国教育学会編『教育学研究紀要 (CD-ROM 版)』第58巻,321-326頁参照)。これ らの研究は,『規律礼賛』(2006年)をめぐるもの であり,子どもの態度形成である規律のみに議論

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の焦点が当てられている。ただし実際には,ブエ ブは2008年に『指導する義務について』(2008年) を刊行しており,ブエブをめぐる論争は規律と指 導をめぐるものであった。本研究では,規律のみ ではなく指導についても検討することで,これま で検討されてこなかった授業における教科内容の 指導など授業の指導のあり方を考察し,子どもの 自立に向けた指導のあり方とその意義を検討する。 8)ツェルナーは,カイザースラウテルン工科大学 とカールスルーエ工科大学で化学(Chemie),ド イツ語学,教育学を学び,2015年冬にカールスルー エ工科大学でバイケル(Beichel, J. J.)とレクス (Rekus, J.)の指導のもと,『教育的指導』を博士 号請求論文(Dissertation)として執筆した。彼 女は現在,カールスルーエ工科大学などでドイツ 語の講師(Dozentin)をしている。 9)吉田成章(2011)『ドイツ統一と教授学の再編 -東ドイツ教授学の歴史的評価-』広島大学出版 会,5頁参照。

10 )Vgl., Weinert, F. E., Helmke, A. (1997): Entwick-lung im Grundschulalter. Beltz/PVU, Weinheim. 11 ) 例 え ば,Apel, H. J. (2002): Herausforderung

Schulklasse. Klassen führen-schüler aktivieren. Klinkhardt, Bad Heilbrunn. Becker, G. E. (2009): Disziplin im Unterricht. Auf dem Weg zu einer zeitgemäßen Autorität. Beltz, Weinheim und Basel., Keller, G. (2008): Disziplinmanagement in der Schulklasse. Unterrichtsstörungen vorbeugen-Unterrichtsstörungen bewältigen. Bern, Huber. Haag, L., Streber, D. (2012): Klassenführung. Erfolgreich unterrichten mit Classroommanage-ment. Beltz Verlag, Weineim und Basel などが挙 げられる。

12)Vgl., Korn, C. (2003): Bildung und Disziplin. Problemgeschichtlich-systematische Untersu-chung zum Begriff der Disziplin in Erziehung und Unterricht. Peter Lang, Frankfurt am Main S. 22. 13 )Vgl., Becker, G. E. (2009), a. a. O., S. 193-197. 14 )Vgl., Apel, H. J. (2002), a. a. O., S. 102f.

15 )Vgl., Bueb, B. (2006): Lob der Disziplin. Eine Streitschrift. Ullstein, Berlin, S. 79.

16)Vgl., ebenda, S. 17.

17 )Bueb, B. (2008): Von der Pflicht zu Führen.

Neun Gebote der Bildung. Ullstein, S. 12. 18)Ebenda, S. 34. 19)Vgl., ebenda, S. 81. 20 ) ブ エ ブ の 指 導 論 は,2009 年 に『 教 育 学 (Zeitschrift für Pädagogik)』(2009年)の中でエ ルカースに書評された。エルカースはその中で, ブエブは『指導する義務について』(2008年)の 中で,なぜ,重要な問題を子どもとともに対話し て解決するべきではないのかが疑問であり,教師 と子どもの関係の欠落による教師の一方的な指導 性を批判し,実践に有用ではないエッセイと結論 づけた(Vgl., Oelkers, J. (2009): Besprechungen. Bernhard Bueb: Von der Pflicht zu führen. In: Zeitschrift für Pädagogik. Heft 3, Jg. 2009, S. 452-454)。 21)そもそもパイデイアは,陶冶(Bildung),訓育 (Erziehung),専門教育(Ausbildung)を意味し, その言葉の由来は,ギリシア語のパイダゴーギ ケー(paidagogike)である。これは教育科学や 人間の陶冶と訓育の理論を意味し,そこから派生 するドイツ語の教育者(Pädagoge)はギリシア 語のパイダゴーゴス(paid-agogos)に由来し, pais が子ども,agein が指導する(führen)とい うことを意味する。ツェルナーはパイダゴーゴス は,子どもたちの指導者(Kinderführer)として 理解され,教育者の課題は,語源的には子どもを 陶冶へ向けて指導することにあったと解釈した (Zellner (2015), a. a. O., S. 13)。 22)Vgl., ebenda, S. 14. 23)Vgl., Becker (2009), a. a. O., S. 103. 24)Vgl., Zellner (2015), a. a. O., S. 14. たしかに,ド イツにおいてはツェルナーが述べるように具体的 な指導のあり方は示されてこなかった。ただし, 指導には,どのような意味内容が付与されている かについての研究は行われてきた。例えばクロン (Kron, F.)は,『教育学の基礎知識(Grundwissen Pädagogik)』(2001)の中で,ナチズムによる教 育を引き合いに出しながら,指導という概念には 「権威(Autorität)や権力(Macht),そして支 配(Herrschaft)を想起させるものである」と いうことを指摘している(Kron, F. (62001, 1988):

Grundwissen Pädagogik, Ernst Reinhardt Verlag, München, S. 199-201)。

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25)Zellner (2015), a. a. O., S. 14. 26)Vgl., ebenda, S. 30. 27)土戸敏彦(1990)「超越論的批判教育学」の意 味するものとその射程」教育哲学会編『教育哲学 研究』第61巻,37-38頁参照。 28)Vgl., Zellner (2015), a. a. O., S. 29. 29)Vgl., ebenda, S. 27. 30 )マリアン・ハイトガー著,鈴木晶子訳 (1992) 「超越論哲学的教育の自己認識」ヘルマン・レー ルス,ハンス・ショイアール編,天野正治訳者代 表『現代ドイツ教育学の潮流』玉川大学出版部, 173頁参照。 31)Vgl., Zellner (2015), a. a. O., S. 27. 32)マリアン・ハイトガー著,鈴木晶子訳(1992), 前掲書,177頁。 33)同上書,172-173頁参照。 34)同上書,175頁。

35)Vgl., Rekus, J. (2012): Über die Notwendigkeit transkultureller Bildungsprozesse im Zeitalter Kultureller Diversifikation. In: Rekus, J. (Hrsg): Allgemeine Pädagogik am Beginn ihrer Epoche. Peter Lang, Frankfurt am Main, S. 223-231. 36)Vgl., Zellner (2015), a. a. O., S. 14-30. 37)Ebenda, S. 175. 38)Vgl., ebenda, S. 175. 39)Vgl., ebenda, S. 194. 40)Vgl., ebenda, S. 176. 41)Vgl., ebenda, S. 179. 42)Vgl., ebenda, S. 196. 43)Vgl., ebenda, S. 173. 44)Ebenda, S. 198. 45)Vgl., ebenda. 46)Vgl., ebenda, S. 176, 190. 47)Ebenda, S. 194. 48)Vgl., ebenda, S. 176f. 49)Vgl., ebenda, S. 199. 50)Vgl., ebenda, S. 200. 51)Vgl., ebenda, S. 203. 52)Vgl., ebenda, S. 201. 53)Vgl., ebenad, S. 203. 54)Vgl., ebenda, S. 203-205. 55)Vgl., ebenda, S. 239. 56)Vgl., ebenda, S. 223f. 57)Vgl., ebenda, S. 224. 58)Vgl., ebenda, S. 224f. 59)Vgl., ebenda. 60)Vgl., ebenda, S. 225f. 61)Vgl., ebenda, S. 236. 62)Vgl., ebenda, S. 239f.

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