カリフォルニア州サンホアキンバレー北部の日系計画植民地
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(2) 矢ケ崎. 42. 第1国. 典. 隆. 力IJフォルニア州サンホアキンバレー北部の概要と研究対象地域(1920年代). 移民や移民集団は,ホスト社会のなかに生活の基盤を確立し維持して行くためにさまざ まな適応戟略を用いる。つまり,ホスト社会が異なれば,それに有効な適応戦略が選択・ 実行され,その結果,形成される移民社会にも差異が生じることになる.カリフォルニア, ハワイ,サンパウロに形成された日本人移民社会を比較・対照すれば,このことば明らか である。また,カリフォルニアのセントラルバレーにおいても地域的状況は各地で異なっ ており,形成された日系社会や農業形態にも地域差がみられた。これは,異なったホスト 社会のなかで日本人が多様な適応戦略を用いたことを示している。別稿ですでに指摘した ように,特定の場所に特定の時代に形成された移民の社会や経済活動を理解するためには, 採用された適応戦略を検討し,それを地域的・時代的な枠組みの中で解釈することが重要 である(Yagasaki. 1995)0. マセド郡とスタニスロース郡の日本人の植民活動には,二つの特徴的な形態がみられた. 一つは独立した入植によって形成された自然発生的な日本人移民社会であり,スタニスロー ス郡のタ-ラックからモデストにかけての地域では,日系農場が分散的に存在した。ここ では,第二次世界大戦前には,白人地主から小区画の農地を借地してキャンタロープなど のメロン類が栽培されたo一方,広い土地を購入して小区画に分割し,日本人に販売した 計画的日系植民地も存在した.ヤマトコロニーとコーチズコロニーがそれであり,いずれ も敬度なキリスト教徒の実業家として知られた我孫子久太郎が情熱を注いだ植民開発事業 であった。ヤマトとコ-テズの計画植民地とクーラック地域の日系社会は地理的に非常に 近接していたが,異なる適応戦略によって異なった農業や移民社会が展開された。すでに 筆者は,ヤマトコロニーとターラック地域の日本人の移民農業と移民社会に関して,日系.
(3) 43. カリフオルニア州サンホアキンバレー北部の日系計画植民地. 社会の持続性の観点から若干の比較を試みた(Yagasaki. 1996)。またt. ターラック地域の. 日本人による植民と社会については,借地方式や民族組織に焦点を当てて詳細に検討した (矢ケ崎1996)0 ヤマトコロニーに関しては,. Noda. (1981)が詳細な歴史を残しているし,杉浦(1986). や池本(1986)も日系コミュニティの形成や変貌を論じている.コ-テズコロニ-に関し ては,. (1993)のモノグラフがあるo本稿では,こうした研究を参考にしなが. Matsumoto. ら,設立から1920年代未頃までのヤマトコロニ-とコ-テズコロニーを対象として,植民 方式,農業組合,農業経営,民族組乱. ホスト社会との関係に焦点を当てて,タ-ラック. 地域との比較を交えながら,論じてみたい。. Ⅱ. 日系植民地の建設. 1.我孫子久太郎 自然発生的に日系社会が形成されたターラック地域と,ヤマトコロニーやコーチズコロ ニーなどの計画植民地との決定的な相違は,植民地の立案と実行にあたった情熱的な事業 家の存在であるoタ-ラック地域に,ヒ)L,マーコロニーに代表されるように,スウェーデ ン系の人々の入植が進んだ背景には,不動産業者として土地の分割と販売に従事したフル トバーグ(Nel$. 0.. Hnltberg)がいたことはよく知られている(Hohenthal. et. al.. 1972)0. 非計画的な入植でもそうしたコミュニティリーダーとしての先駆者や指導者の存在は重要 であったが,計画値民地では,大規模な土地の買収や土地の分割・分譲が必要なため,プ ロジェクトリーダーとなる事業家の存在はなおさら重要な要素であった. 日本人のコロニー開発の原動力となったのは,我孫子久太郎であった.彼はサンフラン シスコに本拠をおいた実業家として知られたが,同時に敬度なキリスト教徒であり,理想 主義に基づいた日系キリスト教コロニーの建設に情熱を燃やした。我孫子の人生について は岡の『我孫子久太郎伝』 (1980)に詳しく善かれているし,. Noda. (1981)もヤマトコロ. ニーの建設に関連して論じている。これらを参考にしながら,まず,我孫子と植民地建設 の経緯について概略を述べてみたい。 我孫子は1865年に新潟県の水原村に生まれたが,生後間も無くして母親と死別したの で,母方の祖父である我孫子胎堂の養子となり育てられてたo家業の紙販売業を手伝って いたが,. 17歳の時に友人とともに東京に向けて出奔した。キリスト教宣教師に最初に接し 1885年. たのは水原村であったが,翌年の1883年には京橋の長老派教会で洗礼を受けた。 には,サンフランシスコ福音会の修学生として渡米することができた(岡1980:5月9日)0 サンフランシスコでは福音会に入会し,間もなく,その運営に携わるようになった。 1887年6月の選挙で我孫子は会長に選出されており,福音会のリーダーとしての活動は その後もずっと継続することになる。. 1892年秋からはカリフォルニア大学(バークリー). に籍をおいて社会学を学んだ.一方,サンフランシスコでさまざまなビジネスを展開した. 最初はレストランを経営したし,後には洗濯屋も営業した。. 1899年4月には,すでに買収. していた『桑落日本新聞』 (旧ジャパン・ヘラルド)を『日米新聞(Japanese. American.
(4) 矢ケ崎. 44. 典. News)』と改題して発行した(岡1980:5月10,. 隆. 11日;Noda. 1981:3)0. 1900年代に入ると,日本人人口が増加するとともに排日的な社会環境を生まれる。. 1906. 年にはサンフランシスコで排日運動が深刻化し,. 1907年には日米の政府の交渉が始まり,. 1908年には日米紳士協約が結ばれることになる。. 『日米新聞』の発行を通じて,アメリカ. への移民の促進,在米日本人の権利の保護,都市や農村での雇用の開拓と拡大,一世がア メリカに定着するように教育することを目指した。彼は写真結碑の方式を擁護し,日系移 民の将来は,一世が貯蓄し,土地に投資し,豊かな農場を経営することにあると提唱した (Noda. 1981:5)。キリスト教の理想主義と福音会で得た指導力に基づき.また広報機関と. しての『日米新聞』を利用して,. 1936年にサンフランシスコで逝去するまで日系移民社会. の向上に努力した。 増加する日本人を指導したり永住させ,将来の日本人社会の発展の基礎として,我孫子 は恒久的な日本人植民地の建設を夢見た。このために,我孫子はいくつかの事業経営をは じめた。. 1904年には,. 2年前にサクラメントに設立された桜府勧業社をサンフランシスコ. に移して日米勧業社(Japanese. American. lndustrial. Company)とした。これは日本人. 労働者の派遣会社で,ユタ州オグデンに支店を,ワイオミング州とアイダホ州に出張所を 設8J.鉄道会払 月13日).. 鉱業会社,製糖会社と契約して,日本人労働者を派遣した(岡1980:5. 1904年には,ユタ州の甜菜産業に契約労働者を供給する独占権を獲得しているo. 日米勧業社の社員がハワイに出向いて,数百人の日本人労働者をサトウキビプランテーショ ンからリクルートした。甜菜の収穫期が終わると,労働者はサザンパシフィック鉄道に派 遣され,保線作業に従事した。労働者はワイオミング,アイダホ,ユタ,ネバダ,カ))フォ ルニアに送られた。オグデンの鉄道部門だけでも, ともあった。日米勧業社の活動は, 1981:11112)0. 3,000人の労働者が派遣されていたこ. 1904年から1907年にかけてピークに達した(Noda. 『日米新聞』は順調に部数を延ばして,サンフランシスコばかりでなく西部. 諸州にも読者をもっていた。 同じ時期に,サンフランシスコには最初の日系銀行である日米銀行が設立された。 年3月に植田憲三等によって設立された日米金融社は, American. 1903年に日米銀行(The. 1899. Japanese. Bank)に改組・発展した。ヤマトコロニーに後にかかわることになる植田憲三. は, 8,500ドルの株式を所有する最大の株主であった。. 1906年2月には正式に法人化され,. 83,200ドルの株式が販売された。株主となったのは日米勧業社にかかわる人々であった。 我孫子は日米銀行の経営には直接にはかかわらなかった。日米勧業社の資金は日米銀行を 通じて,日系植民地の開発事業の基盤となったo また,. 1907年に我孫子は米国殖産会社(American. Land. and. Produce. Company)杏. 設立して社長となった.これは植民地の建設のために土地の購入や分譲にあたる会社であっ た。我孫子はビジネスマンであると同時に理想主義者でありt. はじめから,サンフランシ. スコに本拠をおいたビジネスを基盤として,彼の夢である日系植民地のヤマトコロニーと, その後に建設されるクレッ-コロニーおよびコ-テズコロニーの建設にあたった。.
(5) 45. か)フォルニア州サンホアキンバレー北部の日系計画植民地. 2.土地の購入 ヤマトコロニーが建設された土地は,カリフォルニア州中央部,マセド郡北部に位置し, サザンパシフィック鉄道とアッチソントピカアンドサンタフェ鉄道に挟まれ,サンホアキ ン川の支流であるマセド川の左岸に位置する。 物栽培などに粗放的に利用されていた。. 1900年代に入っても,この地域は牧場や穀. 1871年にはサザンパシフィック鉄道が北からマ. セド川を越えてこの地域に到達したが,リビングストン市街地はマセド郡役所を誘致する ために翌年に計画された。郡役所はリビングストンには設置されなかったので,市街地の 発展や入植者の流入はみられなかった.したがって,農地に対する需要は低く,まとまっ た土地を日本人が購入することに抵抗はみられなかった。植民事業が成功するためには, 農産物の市場である大都市へのアクセスが不可欠となるが,リビングストンはサザンパシ フィック鉄道によって,サンフランシスコやロサンゼルスと結ばれていたoこれと平行し て走るアッチソントピカアンドサンタフェ鉄道も,この地域と大都市を結んでいた。今世 紀はじめの排日運動は大都市を中心に展開されたので,孤立した農村集落を形成すること によって,排日的社会環境から距離を保つことも可能であると考えられたo ド郡公式図を見ると,マセド水路瀧親会社(Merced. Canal. and. Irrigation. 1888年のマセ Company)が. 経営したマセド水路のクレッシー分水路が西流してリビングストンまで到達しており,港 概用水がある程度は確保できた可能性も考えられる。. 第2図. ヤマトコロニーとクレッシーコロニーの土地分割形態(1919年). official. Map. of the. County. of Merced. California. 1919による..
(6) 46. 矢ケ崎. 典. 隆. ヤマトコロニーを建設するための土地の購入には,日米勧業社と米国殖産会社があたっ た.ヤマトコロニーは第1地区,第2地区,第3地区から構成されていた(第2図)0. 1906. 年に日米勧業社が第1地区(1,313エーカー)杏,サクラメントのモリソン(William Margaret. and. Morison)から購入した.第2地区(453エーカー)は複数の地主からの購入に. よってまとめられたもので,. 1907年の調査では米国殖産会社によって所有されていた。第. 3地区(1,448エーカー)については,我孫子自身が1907年にクレッシー(Frank Lettie. and. Cressey)から購入し,それを1908年に米国殖産会社に売却している(Noda. 1981. 9・10)。第1地区の土地の購入では,エーカーあたり35ドルが支払われたが,これは未開 空地としてはきわめて高かった。当時の小麦農場の価格は,エーカーあたり15-20ドルで あったという(Noda. 1981:19)0. ヤマトコロニーの棄に隣接したクレッシーコロニーの建設は.入植者の増加に伴う需要 の拡大によって,. 1918年にはじめられたoクレッシーはこの地域の大地主の一人で,サン. タフェ鉄道の駅に彼の名前がつけられていた(Gudde の購入にあたったのはThe. Yamato. Farming. and. 1949)。クレッシーコロニーの土地 Produce. Companyで,これは1914年. に法人化された.役員は我孫子久太郎と1人のヤマトコロニー入植者,そしてサンフラン シスコの弁護士コルデン(Guy. Calden)であった.コロニーの土地は,ヤマトコロニー. の兼に隣接し,サンタフェ鉄道の両側に広がっており, た未改良の土地が形作られた(Noda また,. 1981. 4回の売買によってこのまとまっ. :69・70)0. 1919年には,マセド川の北側に,サンタフェ鉄道のコーチズ駅を中心に2,000エー. カーの土地が購入されて,コーテズコロニーが建設されたoこの事業には,我孫子が中心 になって設立した加州土地会社があたった(岡1980:5月15日)。. 3.土地の分割と販売 ヤマトコロニーでは,南西のリビングストンから北東のクレッシーにかけて合計して 3,200エーカーはどであったが,これが40エーカーの小区画に分割された(第2図)0 年11月には,. 1906. 2人の日本人が最初の入植者としてヤマトコロニーに入った。. 入植を促進するために,日米勧業社は1907年に『日米年鑑Japanese. AmericanYear-. book』にヤマトコロニーの宣伝を掲載している.ヤマトコロニーは,資金があまりなくて ち,独身でも妻帯者でも,アメリカ永住を希望し,真面目に働き生活態度のよい人を求め ており,そうした日本人には理想郷になるだろうとしている(Noda 5ドルで7年間の返済という支払い方法は魅力的であった(Noda. 1981:10・11).毎年 1981:19)0. ヤマトコロニーでは,多くの入植者は40エ-カーの小区画を購入した。しかし,初期の 入植者には複数の区画を購入した大地主もいた。このほか,不在地主もいた。 には『新世界新聞』から19名の地主がいたことがわかるし,. 1908年7月. 1910年の『日米年鑑』では,. 我孫子(73エーカー)をはじめとして2人の不在地主が確認できる(岡1980:5月14日)0 このはかにも,日本に在住する知人が投資用に購入した土地を経営する入植者も存在した ようである(Noda. 1981:27)。新しい入植者は,自分の土地に住み着くことができるまで,. 早い入植者のコミュニティリーダーの住宅に仮住まいし,互いに助け合って住宅の建設や. :.
(7) 47. かノフォルニア州サンホアキンバレー北部の日系計画植民地. 井戸掘りにあたった。資力の乏しい人々は,資金を蓄積するまで大農場に住み込みで働い f=. (Noda. 1981:27,. 69)o. 地図上ではヤマトコロニ-は明確な境界線をもっていたが,実際には,人口の増加にと もなって,もともとの植民地の外側に土地を購入する人々もおり,コロニーの範囲は拡大 するとともにその境界はあいまいになった.また,植民地建設時に線引きされたコロニー の多くの区画は,日米銀行が倒産した後,白人の所有となった。日米銀行は1909年10月 1922年には清算が完了し. にカリフォルニア州銀行監督官の命令で営業停止処分を受け, でいる(矢ケ崎1988)0 Banking. 行局(State ラン(Max. 1917年には,第1地区と第2地区にあった未売却の区画は,州銀 Department)によって,リビングストンの木材業看であるランド Griffin). Landram)と,マセドの農産物委託販売業着であるグリフィン(Tom. 240. に販売された。彼らは386エーカ-の土地に3万ドルを支払った.これらの土地は, エーカーの連続した土地と,残りは20エーカーかそれより大きな区画に別れており,すべ Chronicle. てが未改良の土地であった(Livingston. 1920年までには,. る)。ヤマトコロニーは,. 1917年9月28日,. Noda. 1981. :220によ. 2,450エーカーの面積をもっていた。. ヤマトコロニーが東に拡大したのがクレッシーコロニーであり,これは我孫子による2 番目のコロニー事業であった(Noda. 1981:69)。ヤマトコロニーは40エーカーの区画に. 分割されたが,クレッシーコロニーでは区画の単位は20エーカーであった(第2図参照)0 コーテズコロニーの土地買収と分割については詳細が不明であるし,分割状況を示した 地図についても筆者はまだ目にしていない。ただし,. 1919年発行のマセド郡公式図を見る. と,サンタフェ鉄道のコーテズ駅から南にかけて,サニーエーカーズトラクトと名前がつ けられた分譲地があり,. 40エーカー区画が44カ所みられるoこれが買収されてコーチズコ. ロニーが設立されたと考えるのが妥当であろう.カリフォルニア大学ロサンゼルス校の大 学研究図書館に所蔵される日系アメリカ人研究プロジェクト(JARP)コレクションには 『職業並二戸口調査』が含まれており,クーラック,モデスト,コーテズ地域の日本人の 植民状況を知ることができる.このなかで, 規模別に土地所有状況をみると, 4人,. 50エーカーが2人,そして,. ずつであったo. 1928年には,. 50エーカーが2人,そして,. 1922年と1928年の土地所有状況がわかる.. 40エーカーが7人, 45エーカー,. 20エーカーが13人, 45エーカー,. 80エーカーが4人, 35エーカー,. 10エーカーがそれぞれ1人. 40エ-カーが9人,. 35エーカー,. 20エーカーが. 80エーカーが4人,. 10エーカーが1人ずつであった.. 20エーカーと40エーカーが中心的な規模であったことがわかる。. 4.入植者 ヤマトコロニーの入植者を特徴づけたのは,キリスト教,入植者の教育水準の高さ,理 想主義であり(Noda1981:14),これは,クレッシーコロニー,コ-テズコロニー,そし て自然発生的に日本人農場が集まったターラック地域とは異なった特徴であった。初期の 入植者のなかには,日本で中涜階層で教育水準の高い人々がおり,ある程度の英語を話し た(Noda. 1981:14,. 21)。キリスト教を中心にした入植者の募集が行われた訳ではなかっ. たし,カリフォルニアには日系キリスト教徒が多くはなかったが,構民地事業の推進者の.
(8) 48. 矢ケ崎. 典. 隆. なかには3人のキリスト教徒がいた。最初の2年間におよそ38人が入植したが,このうち の16人はキリスト教徒であった(Noda 代であったが,. 1981:22).なお,年齢構成は多様で.多くは30. 18歳から53歳までの幅があった(Noda. 歌山県人や千葉県人が多くいた(Noda 後述するように, れたが,. 1981:22)。初期の入植者には和. 1981:27)0. 1910年代末には排日運動が高まり,土地販売のボイコット運動も行わ. 1918年に始まった新しい入植者の流入は1922年まで続いた.新しい入植者はダ. ミー会社の名前で土地を購入した.これらの多くは,新たに建設されたクレッシーコロニー に入植した.ここには,. 1925年までには10組の夫婦や家族いた(Noda. コーチズコロニーの入植は, じまった(Matsumoto. 1919年の8月から11月にかけて,. 1913:114)0. 1981:89-90)。 13組の夫婦によってほ. 1928年の日本人の構成は,前述の『職業並二戸口調. 査』 (JARPコレクション)からわかる。成人男性が55人(妻帯者が42人,独身者が12人),. 成人女性が43人(妻が42人,寡婦が1人),そして,. 20歳以下の子供が134人いた。このよ. うに,子供をもった家族によって構成されている様子をうかがうことができる。. Ⅱ. 農業経営と農業組合. 1.農業経営 乾燥した未開墾地での開拓はたいへんで,農場経営が軌道に乗るまでにはさまざな困難 が存在した。ヤマトコロニーの農業経営の目標はブドウ栽培であったが,植え付けてから 収穫が期待できるまでには4-5年かかったので,現金収入をもとめて,副業が営まれた. ユタ州で甜菜労働に従事した入植者もいた。兄弟や共同経常の場合には,労働を分担して 農外労働に従事したり,ブドウの植え付けが終わると,農場を後にして農外労働に従事す 人もいた。サツマイモ,アスパラガス,トマト,メロン,ナスなどの作物を栽培して現金 を得ることも行われた(Noda. 1981:28)0. 砂嵐は深刻な問題で,これは3日間も続くことがあったという。これによって,日常生 活は麻痔したし,せっかく植え付けた若いブドウ樹が砂で覆われることもあった。害虫や 野兎などの被害も深刻であった。 飲料水や港混用水の確保も重要な課題であったが,初期の入植者は地下水に依存してい たようである。マセド郡では, Huffman. Land. and. Water. 1888年からクロッカー・ハフマン土地水会社(CrockerCompany)によって澄概用水の供給が行われていたが,その. 水路は, 1919年12月に設立されたマセド濯概地区によって1922年に買収され,さらに 1926年にはマセド川上流にエクスチェカーダムが完成して,水の供給が整備されて行く (Adams. 1929)oただし,どの程度の水がいっ雇親水路でヤマトコロニーまで供給されて. いたのかについては不明である。 ヤマトコロニーでは,. 1910年までには,. 25家族がさまざまな作物を3,000エーカー程度. 耕作していた.1,100エーカーがブドウで,残りがアプリコット,アーモンド,イチジク, モモ,アスパラガス,サツマイモ,トマト,ナス,スイカ,アルファルファであった. (Hohenthal. et. al.. 1972:114)。ブドウや果樹の多くはまだ生産年齢には達しておらず,.
(9) 49. カリフォルニア州サンホアキンバレー北部の日系計画植民地. 1910年から1914年までには,. その他の一年生作物は経営を支えるうえで重要であった。. 1920年代. 農場経営が軌道に乗った。ブドウはホワイトマラガとトカイが中心であったが,. 1981:224).また,農作物の多様. には,トンプソンシードレスへと中心が移った(Noda. 化が試みられ,ストロベリー,ネクタリン,プラム,ペアーなどが試された。接ぎ木たよっ て,珍しい種類のブドウが試された(Noda. 1981:96)0. コーチズコロニーでも,入植の時期はヤマトコロニーと比べるとかなりあとになったが, 当初の状況は似ていた。入植者は掘っ建て小屋で原始的な生活条件に耐えなければならな et al・. かった。電気がひかれたのは1925年のことであった(Hohenthal. 1972:114)。砂嵐. 冬の冷え込み,野兎による被害を受けた.うさぎ狩りは毎年のコミュニティの行事になり, 一世は野ウサギをかなり食べたという(Matsumoto. 1993:46・47)0. コーテズでも,農業経営の中心はブドウであり,トンプソンシードレスを植え付けた。 成木となるまで,入植者はターラック,ヂネア,ヒューソンなどでブドウの収穫に従事し て現金収入を得た。ブドウの収穫が軌道にのったころにはt大恐慌で,ブドウの市価は暴 落した。ブドウ園が成熟し,不況の時期に,コーチズの入植者は労働集約的なストロベリー, 1993:46)。大恐慌の間は,. ナス,タマネギ,ニンジンな一どの作物に転換した(Matsumolo. 5月と6月はストロベリーの収. 野菜類がとくに重要であった.家族労働が中心であった.. 穫期であったoこれに続いてナスの収穫やモモやアプリコットの収穫が行われたo二世は 出荷用の箱作りに忙しかった。夏の間に秋のブドウ用の箱が作られた0 の作付けを行い,その後に除草や間引きを行って, を作付けし,これは6月に収穫された(Matsumoto. 12月に収穫された。. 8月にはニンジン 1月にはタマネギ. 1993:66)0. 2.農業組合 日系植民地の大きな特徴は,共同出荷を目的とした農業組合の存在で,それらは日本人 移民による適応戦略の一つであったoヤマトコロニーでもコーチズコロニーでも,これら は農業や社会の中心的存在として機能した。 1914年までは,ヤマトコロニーの入植者はサンフランシスコの委託販売業者に個人的 に出荷していた。入植者は果吻や野菜を農場で箱詰めし,. 2-3の委託販売業者を選んで. 彼らに出荷した.コロニーの生産量が増大するにつれて,自ら出荷業務を行うメリットが 出てきた。委託販売業者はブドウをいくらでも歓迎したが,売れ残った分については,坐 産者が箱代t委託札輸送量を負担したので,損失はすべて生産者にかかってきた(Noda 1981:41)0 ヤマトコロニー会では出荷協同組合を組織することが相談された.購買組合はすでに 1910年に組織されていた(Noda. 1981:41).組合委員会が設立されて準備が進められ,. 1913年5月4日に産業組合が正式に組織された。リビングストンに事務所を借りて,. 7月. から組合の活動がはじまったo農産物はすべて農場で箱詰めされ,ブドウや果物を午後2 暗から3時ころに鉄道駅にもって行き,貨車は午後遅い時間に急行列車に連結されて,翠 日早朝のサンフランシスコ市場に間に合うように輸送された(Noda 年には,産業組合の出荷場を建設するための準備をはじめた。. 1981:43-44)0. 1916. 1917年にはリビングストン.
(10) 50. 矢ケ崎. 産業組合(Livingston. Cooperative. の株式を購入した(Noda. 典. 隆. Society)が正式に法人化された。各組合員は100ドル. 1981:78)0. 共同パッキングは,パッキングの均一化質の統一化,量の増大,大市場へのアクセス などのメリットがあったが,共同出荷に対する態度は一様ではなかった.大規模生産者は すでに大きな出荷場を所有し,労働者を雇用しており,共同出荷サービスを受けるメリッ トは少なかった。大規模生産者のなかには組合を脱退する者もいた。ヤマトコロニーの分 裂は, 1927年の農協の分裂に現れた。リビングストン果物生産者組合(Livingston Growers. Fruit. Association)vは1927年に法人化され,一方,もともとのリビングストン産業組. 合はリビングストン果物組合(Livingston. Fruit. Exchange)として1929年に法人化され. た。古い農協に止まった人々の多くは小規模生産者であった。一方,新しい組織LFGAの 創立メンバー12名のうちの10名は和歌山県人であり,彼らの多くは大規模な生産者であっ た(Noda. 1981. :79,. 96-97)0. なお,クレッシーコロニーの日本人入植者も農業組合を組織したが,わずか数年で解散 した。これは,独立した組合を維持するだけの農産物が生産されることがなかったからで ある。そのかわりに,クレッシーの入植者はヤマトコロニーの農業組合に加わった(Noda 1981:91)0 コーテズコロニーにも,コーチズ産業組合(Cortez. GrowersAssociation)が1924年4. 月18日に非営利会社として正式に組織された(Matsumoto. 1993:47;Hohenthaletal.. 1972:114)。我孫子の方針にしたがって,コーチズの日本人はヤマトコロニーと同様に, 経済活動を農業に限定することによって,その敵意を回避したoしかし,農産物の出荷に 関しては,人種間の接触は避けることばできなかった。産業組合は必要な適応戦略であり, ヤマトコロニーにはよいモデルが存在した(Matsumoto. 1993:47)0. 1924年の年末までには,コ-テズ産業組合に7名が新たに加入して,組合員は11名で あったoこの時期までには,. 757ドルを投資して出荷場が建設され,組合員に対して,カ. リフォルニアフルートエクスチェンジ(California. Fruit. Exchange)を通して出荷される. ブドウ一箱当たり1セントまたは2セントを課して,建設費の不足分の535.25ドルを捻出 することが決まった。翌年もこの組合は発展した。出荷場を拡大し,組合の所有地に井戸 を掘って生活用水を供給し,電話網を設置した(Matsumoto. 1993:49)0. 大恐慌の前にもカリフォルニア経済は不況に入っており.ブドウや果物の価格は低下し ていた。コーテズコロニーの農民は他の作物に転換を図ったが,彼らの多くはイチゴや野 菜の栽培経験をもっていた。とくにストロベリーは重要になり, コ-テズイチゴ生産者組合(Berry. 1928年12月28日には,. GrowersAssociation)が組織されたo. この組合は,. コーチズ産業組合とは独立した組織であったが,事務所,マネージャーを共有していた。 1933年にはイチゴ生産者組合はコ-テズ産業組に吸収された。また,組合員がタマネギ, ニンジン,ナスなどを栽培したので,産業組合内には疏菜部が設置された。とくにニンジ ンの出荷は第二次世界大戦まで継続した(Matsumoto. 1993. :49-51)0.
(11) 51. カリフオルニア州サンホアキンバレー北部の日系計画植民地. Ⅳ. 移民社会とホスト社会. 1.移民社会 移民社会は,それを構成する人々の属性と彼らを取り巻くホスト社会によって規定され る。移民は適応戦略として,経済的,文化・社会的,教育的,行政的な目的のためにさま ざまな民族組織をつくる。移民の構成や属性は時間とともに変化するし,ホスト社会も不 変ではない。本章では,そうした民族組織,移民社会の構成メンバー,ホスト社会との関 係について検討してみたい。 ヤマトコロニーでは.キリスト教という信仰と,入植者の教育水準の高さが重要な要素 であったことは前に述べたが,民族組織として教会の役割は大きかったoただし,初期の 時代には,熱心なキリスト教徒の数は少なく,キリスト教は少数派であったoキリスト教 の礼拝は個人の住宅で1907年10月に最初に行われ,それから7年間は日曜礼拝は何軒か 1907年にはキ. の住宅で行われた。日曜礼拝への参加者は5-10人程度であったという。. リスト教徒が日曜の労働を避けるように決議したが,それは収穫期には無視された。初期 の熱心なキリスト教徒は少なかったが,新しい入植者に対しては.キリスト教徒によって 布教活動が行われ,. 1909年から1914年にかけて16人が洗礼を受けた。コロニーはキリス. ト教徒のコロニーとして発展して行く(Noda. 1981:35,. 37・39)o. 1908年から教会の設立が論じられたが,実現にはいたらなかった.最初のコミュニティ の建物がホールと呼ばれ,教会でなかったことば,コロニーが全体としてはまだキリスト 1981:45)。コロ. 教を完全に指向するまでに至っていなかったことを示している(Noda. ニーに教会が建設されたのは1917年のことであった.入植者は第1地区の区画27番の西 側の10エーカーを購入し,教会の用地に当てた(Noda. 1981:72;Hohenthal. etal.. 1972:. 114)。これは,教会を維持するだけの経済的な余裕が出てきたことと,子供が増加して教 育に対して関心が高まりはじめたためであった。こうしてリビングストン日本人キリスト 教会(Livingston. Japanese. Church. のチャーターメンバーは46人であった(Noda. は牧師を雇用できなくなり,. of. Christ)が1917年1月14日に正式に組織され,そ 1981:71-72)。その後,不況のために教会. 1929年には,経済援助を受けることができたメソジスト派に. 加盟し,リビングストン日本人メソジスト教会(Livingston へと名称を変更した(Noda. Japanese. Methodist. Church). 1981:101).ヤマトコロニーでは仏教活動は行われなかったo. ヤマトコロニーでは,住民組織としてヤマトコロニ-会(ColonyAssociation)が植民 地の運営に重要であった.これは, く規則が定められて,. 2月末には役員の選挙が行われた(Noda. 定期的に会合をもったが, 日本人会(Japanese. 1908年1月9日の最初の住民集会で発議され,まもな 1981:35)。コロニー会は. 1915年には解散も考慮されたという。これは,行政機能をもつ. Association)とはならなかったので,その権限が限定されたためで. あった。コミュニティホールは1914年に建設され,コロニー住民の活動の場となった.コ ロニー会は天皇誕生日の祝賀会を開催したし,コロニーの出生,死亡,結婚の記録をとっ た(Noda. 1981:75・76)0. 人口増加は,新規の入植者の流入によって,また,独身の入植者が花嫁を迎えて家族を.
(12) 矢ケ崎. 52. 典. 隆. もっことによって生じた。新規入植者の増加は,ヤマトコロニーの拡大とクレッシーコロ ニーの設立という空間的な拡大を引き起こしたばかりでなく,日本人の属性を多様化させt 植民地を社会的にも政治的にも変えることになったo初期の入植者であるパイオニアは 「最初の13人」として新来者には知られていた。新来者は30代または40代はじめで,パイ オニアたちよりも若かった。. 1910年代後半はヤマトコロニーにおける結婚ラッシュの時. 期であり,コロニーを形成する単位は,単身から家族への変化が見られた(Noda 53,. 1981:. 70171).. 土地所有規模でも大土地所有者と小規模所有者の区分が生じた。小規模所有者は20エー カーあるいは40エーカーを所有した。早く入植し,大きな土地をもっていた生産者は規模 の拡大を行った。彼らはモモ乾燥場,出荷作業場,夫婦労働者のための簡易住宅,単身労 働者のための飯場,ガレージ,納屋,鍛冶屋の仕事場,その他の建物をもっていた(Noda 1981:70,. 94)o古い入植者と新来者との間の経済的な格差は,不況によって拡大した.. 第一次世界大戦がもたらしたブーム期は終わり,農産物価格は下落し,農民は苦労しはじ めた。. 1920年禁酒法によって,ワイン市場は消滅した。生産過剰は価格の下落と輸送のた. めの貨車の欠乏を引き起こした。. 1924年には生食用ブドウの市場が暴落した.ヤマトコロ. ニーのブドウの多くはマラガ種で,これは最も大きな被害を受けたo グストン銀行(Livingston. Bank)が閉鎖されたo. 1926年には,リビン. 1927年にはモモが収穫されないまま腐っ. た。さらに,世界恐慌によって,ヤマトコロニーの入植者もクレッシーコロニーの入植者 ち,経営規模を問わず影響を受けた。早くからの入植者のなかには,規模を拡大し過ぎて 土地を失った者もいた。新来者のなかには,農業をスタートできない者もいた。クレッシー コロニーの多くの入植者があきらめて,転出したという(Noda ヤマトコロニーとクレッシーコロニーの関係をみると,. 1981:95) 1920年代の植民地の拡大にと. もなって.両者の社会的な距離は大きいままであったoヤマトコロニーは確立された社会 であり,クレッシーコロニーは新しく,悪戦苦闘していた(Noda1981:91)。経済的・社 会的な差異がヤマトコロニーとクレッシコロニーの住民を分離しており,同様な分離はヤ マトコロニーの住民の間に生じた(Noda. 1981:93)0. 一方,コーチズコロニーでは,キリスト教徒だけで構成されていたわけではなかったが, 我孫子久太郎の植民地計画に賛同した一世はキl)スト教への信仰をもっていた。多くは合 衆国に到着後間も無くして改宗した人々であった。一世はキリスト教学校を設立し,最初 の礼拝は1920年12月に個人宅で行われた。. 1922年には,我孫子が教会のために確保して. おいた区画に教会が建設された。その後,教会の維持が困難となったため,長老派教会が スポンサーとなり, 足した(Matsumoto. 1927年にはコーテズ長老派教会(Cortez. Presbyterian. Church)が発. 1993:52)。教会は,一世にとっても二世にとっても重要な社交の場. となった。. コ-テズコロニーの特徴の一つは,キリスト教徒に加えてかなりの仏教徒が入植してお り,彼らが仏教会を維持していたことである。キリスト教徒の大部分はサンタフェ鉄道の 南側に住んでいたが,その北側には仏教徒が多くいた。 たといわれ,. 1934年には仏教徒は12家族であっ. 1920年代中頃からは,ストックトン仏教会の僧侶が毎月1回コ-テズを訪れ.
(13) 53. カリフォルニア州サンホアキンバレー北部の日系計画植民地. 1972:114;Matsum-. て,法話会と日曜学校をコ-テズホールで行った(Hohenthaletal・ oto. 1993:53)。また,. 1928年には,我孫子が教育用に確保しておいた区画に学園が建設. され,日本語学校が開かれた(Matsumoto コ-テズでは,. 1993:69)o. 1920年代に入って排日運動が激化したにもかかわらず,入植者が流入し. たo設立はヤマトコロニーに比べるとかなり遅かったが,産業組合,二つの教会,教育組 織が完備しており,社会的互助組織をもった日本人社会が維持されていた。なお,コーチ ズコロニーは距離的にターラックと近接していたので,経済的・文化的・社会的にも交流 が強かったと考えられるo別稿でも論じたように,タ-ラックに日本人の土地会社のタラックファーム会社が設立された時に,その副社長と書記はコ-テズコロニー在住の二世 であった(矢ケ崎1996)0. 2.外国人土地法への対応 1913年には多くの排日措置法案が州議会提案されたが,カリフォルニア州外国人土地 法が通過している。この法律は,帰化不能の外国人が,そして彼らが過半数の株式を所有 する会社が,土地を購入することを禁止し,借地も3年までに制限するものであったoた だし,この外国人土地法は遡及することはなかったので,すでに土地所有権を確立してい たヤマトコロニー入植者は直接の影響を受けなかった。このため,個人で土地を所有し続 けた入植者が多かったが,広い土地を所有していた人々は,. 8月10日の法律施行の直前に. 会社を設立して所有権を会社名義にした。その後も,土地所有を目的として会社が設立さ れたが,法人化は名目的なものであり,外国人土地法の基準を満たした会社はなかったo 我孫子久太郎と懇意であったサンフランシスコの弁護士カルデン(Guy. Calden)は,こ. れらの会社の弁護士であり,時にはその株式を所有した。どの会社も遵法であったが,そ の名称はアメリカ的であり,それによって日本人が土地を購入したり借地したりすること ができたという.一世のなかには,子供の名前で土地を購入し,その後見人となる場合も あった(Noda. 1981:90)0. コーテズコロニーが建設された時点では,すでに1913年カリフォルニア州外国人土地 法が施行されていたが,一世はアメリカ生まれの未成年の子供の名義で会社を設立し,そ の後見人として会社の役員となることができた。アメリカ生まれの二世が成人すると,そ の会社を解散し,農地の所有権は彼らの名義に書き換えられた(Matsumoto. 1993:48)0. コ-テズでも,産業組合の設立や農地の購入に際して,サンフランシスコのエリオット・ カルデン法律事務所の援助を受けた。. 3.民族間関係 ヤマトコロニーの住民は,リビングストンの白人社会との摩擦を避け,友好関係を維持 するようにつとめた.このために,ヤマトコロニー会がとった方針は,植民地外との接触 や交渉には一部の理解のある住民が窓口となり,コロニー住民は農業に専念し,町では商 売をすることを差し控えた(岡1980:5月15日)。この地域に商店を開こうとした日本人 はいなかったし,日本食品などはサンフランシスコへ注文された。タ-ラックから商人が.
(14) 矢ケ崎. 54. 典. 隆. 日本食品をもってヤマトコロニーまで行商にくることもあった(Noda リビングストンの白人との社会的な交流もあり,. 1981:40,. 98)0. 1909年にメソジスト教会が設立された. 時にはチャーターメンバーとなったコロニー住民もいたo町で主催される慈善活動にも日 本人は積極的に参加した(Noda. 1981:51,. 80)0. ■1910年代中頃まで,ヤマトコロニーは社会的に統合され,リビングストンとの関係は順 調であったoこうした日本人コロニーの動向は町の注目をそれほど集めなかった。リビン グストンにはリビングストンクロニクル紙が刊行されていたが,. 1913年外国人土地法が. 施行された際にはt土地法に関して二つの短い記事がのせられただけであったし,日本人 が土地会社を設立しても,それらはローカルな出来事扱うコラムでコメントなく掲載され た。リビングストンクロニクル紙は,ヤマトコロニーの日本人に関して友好的な記事を掲 載した。しかし,町とコロニーとの間には距離が保たれていたことも事実であった(Noda 1981. :. 47・48)o. 1915年以降,経済的な繁栄がはじまり,人口においても規模においても日系社会が拡大 した。ヤマトコロニーの繁栄は,農業に基盤をおいたリビングストンの繁栄に重要な役割 を演じたので,ヤマトコロニーに対して白人が積極的な評価を行うようになった.. 1910年. 代末には.リビングストンクロニクル紙は次のように報道している。「リビングストンで ヤマトコロニーはど美しい場所はおそらくないだろう.ここには.州でももっともすぐれ たブドウ園と果樹園が何百エーカーにわたって存在する。われわれの日本人の友人は彼ら の場所をもっとも繁栄した場所にした。」. (Livingston. Chronicle. 1919年9月12日:Noda. 1981:81による). しかし,この頃からカリフォルニアの排日運動は新たな展開をみせる。第一次世界大戦 寺乳復員軍人や軍需産業から帰還した労働者が増えると,経済的な競合が増加し,一時的 に沈静化していた大都市部の反日感憎が再び高まった。日本人排斥同盟が組織され,排日 的キャンペーンが展開された(McClatchy. 1921)oマセド郡でも排日的気運が高まり,. 19. 20年に入るとマセド郡排日協会が設立され,日本人への土地を販売をやめるというボイコッ ト運動が展開される.こうした地域的な動向と平行して,カリフォルニアでは二つの外国 人土地法が通過したし,日本政府は写真花嫁に対してパスポートの発給を停止した。合衆 国最高裁判所は日本人を帰化不能の外国人と定義することを法的に承認した。. 1924年に. は移民法によって日系移民の涜入が停止された。 マセド郡で展開した排日運動の背景には,. 1919年秋にはじまったコ-テズコロニーへ. の日本人の入植があったと推察できる。リギンダストンでは, 10年以上におよぶ白人社会 と日本人のヤマトコロニーとの関係を通じて,両者の間にデリケートなバランスに基づい た平和的な共存関係が形成されていた。しかし,コーテズの入植にともなって,リビング ストンの世論は,日本人を一般の日本人と我々の日本人に分類しはじめた。リビングスト ンクロニクル紙もその社説で,. 「リビングストンでは,日本人に関する我々の状況は他の. 地域とは昔も今も異なっている。ここには上流階級で上等の日本移民がいた。彼らはよき 隣人であり,よい農民であり.愛国者であった--しかし,それは,数週間まえとは言わ ないまでも数カ月前に存在した状況であった--我々は盲目でいられることばできないし,.
(15) 55. カリフォルニア州サンホアキンバレ-北部の日系計画植民地. もっと多くの日本人がここに釆つつあるという事実に対して我々は鈍感ではいられない。」 Chronicle. (Livingston. ''No. まもなく,. 1981. 1919年11月21日:Noda. MoreJapanese. :■82)0. Wanted"の看板がリビングストンのハイウェイの入り 1981:83)。日本人への土地の販売を阻止する運動も継続. 口の両側に立てられた(Noda. された.ヤマトコロニーの日本人リーダーは白人社会と連絡を取り合って,土地の購入な どの自粛をはかったというo. 5月には,リビングストン商業会議所は排日的な看板を撤去. することを決定しており,その理由として,. 1月から日本人に対して土地が販売されなかっ. たこと,日本人パイオニアが人口増加を押さえるように協力したこと,そして,そうした 看板が将来の入植者に誤った印象を与えかねないというものであった。看板は撤去される かわりに, :84. "Livingston,. ;Matsumoto. 1993. the. Community. with. a. 1981. Destiny"に書き替えられた(Noda. :39)0. リビングストンでは,日本人に対するあからさまな敵意は1922年の末までなくならな 1976)0. かったが,クーラックで1921年7月に発生したような暴力事件はなかった(Ichioka 実際,排日運動が目立った時期でも,町とヤマトコロニーが完全に断絶することはなく, 個人的な付き合いは継続した。高等学校の野球チームのコーチは若い日本人で,彼は192. 1981:. 4年にはリビングストンクロニクル紙にマネージャーとして記載されたという(Noda 87)0 1920年代末以降は,白人社会の関心はメキシコ人やフィリピン人に向けられるよう になっており,コロニーと町との共存関係はその後も継続することになる。ただし,町の 白人とコロニ-の日本人の間の境界は明確に引かれたままであった.リンビングストンク ロニクル紙のアダムズは,. 1920年の年末に,ヤマトコロニーについて,この州において熟. .山こ反発し戦う同郷人から独立を保った唯一の日本人であるとして,日本人問題はリビン グストンでは解決したと宣言しながらも,彼は,日本人もアメリカ人も物理的な同化を欲 1993:41)0. してはいないと述べている(Matsumoto. こうした経緯から明らかになるのは,ヤマトコロニーとコーテズコロニーの日本人問の 社会的距離,確執,競争意識であったoマツモトは,. 「反日的な感情と組織が強まること. によって,民族的な忠誠心は階級の線に沿って分断された」と解釈している(Matsumoto 1993:34)。中産階級でかなりの教育を受けた人々によって早くから入植が進んだヤマト コロニーと,労働者階層を中心に排日運動の真っ只中に入植が展開されたコーテズコロニー には,社会経済的ギャップが存在し,緊張関係が生まれたという。コーチズの二世はスクー ルバスでリビングストンの高等学校に通ったが,彼らは,経済的に裕福で洗練されたヤマ トコロニーの二世と接触し,競争意識を燃やしたという(Matsumoto. Ⅴ. 1993:73)0. むすび. 今世紀に入って1920年代末まで,カリフォルニアの日本人は社会増や自然増によって 増加し,各地に日本人の移民社会が形成された。その間,カリフォルニアの人口は増加し 続けたが,その経済は好況や不況を経験した。増え続ける日本人人口に対して, 米紳士協軌. カリフォルニア州外国人土地法,. 1908年日. 1924年移民法が施行され,日本人の入国や.
(16) 56. 矢ケ崎. 典. 隆. 経済活動を制限した。このようなホスト社会の動向を反映するように,日泰人は適応戦略 をとったが,それは地域的に多様であった。本稿では,我孫子久太郎が理想主義に基づい て建設した日系植民地を取り上げて,設立から1920年代末頃までの植民地の特性と展開 について概略を示した。 その結果,ヤマトコロニーとそれが東へ拡大したクレッシーコロニーでは日系社会の特 徴が異なっていたし,それらは北のコ-テズコロニーとも異なっていたことが明らかになっ たoこれらの計画植民地を,スタニスロース郡のターラックからモデストにかけて自然発 生的に形成された日系移民社会と比較してみると,適応戦略の多様性がさらに明らかとな る。これらについて概要をまとめてみたのが第1表である。 本稿では,二次資料に大幅に頼らざるを得なかったが,日本人による植民活動と移民社 会の観点から,計画値民地であるヤマトコロニーやコ-テズコロニーと,自然発生的入植 地であるターラック地域とを比較・対照するための考察の枠組みは提示できたと考えてい る。今後,タ-ラック地域に関して行った分析(矢ケ崎1996)と同じレベルで両コロニー について検討する必要があるoそのためには,郡役所の土地台帳に基づいた土地所有の分 柿,マニュスクリプトセンサスを利用した入植者の分軌. ローカル新聞を利用したホスト 社会の検討が必要となるoまた,スウェーデン系入植地のヒルマーコロニーやアゾレス諸 島出身のポルトガル系農民の活動との比較も重要であろう。そうした検討を蓄積すること によって,今世紀はじめのサンホアキンバレー北部の風土や地域変化が明らかとなる。今 後も引き続いて検討を行うつもりである。 第1蓑. サンホアキンバレー北部の日系農業社会(1906年-1920年代末) 自然発生的入植地 タ-ラック.モデスト地域. 開始年. 1907年. 集落形態 指導者. 分散的 コミュニティリーダー. 計画植民地 ヤマトコロニークレツシ-コロニ-. 1906年1918年 集団的集団的 プロジェクト/プロジ コミュニティリーグ リーダー. 人口. 土地(エーカー) 所有地 借地等 農業経営. 1919年 プロジェクト/ コミュニティ. リーダー. 494人(1920年) 412人(1928年). 205人(1919年)20戸余. 67人(1920年) 232人(1928年). 322(1928年). 1,751(1918年) 分譲区画40分譲区 125(1918年). 1,136(1928年) 分譲区画20/40. 7,150(1919年) 2,340(1922年) キャンタロープ等. ブドウ.果樹ブドウ. メロン類. 都市的営業. コ-テズコロニー. ブドウ.果樹 一年生作物. 食料雑貨」下宿、理髪、 洗濯など. 民族組織 経済. クーラツクファーム会社 など. 文化.社会 教育 行政 宗教 公共施設 民族間関係. 日系社会の持続性. クーラツタ社交倶楽部 夕-ラック婦人会 日本語学校 スタニスロース日本人会. リビングストン-. 産業組合 ヤマトコロニー会. 日本語学校 キリスト教会-. 日本人ホール 排日運動 白人間の利幸対立 強制追放事件 消滅. コ-テズ産業組合. コミュニティホール-. キリスト教会/仏教会 -テズホール. 弱い排日運動排日運 友好的共存関係 看板事件. 強い排日運動. 持続持続. 持続.
(17) 57. カリフォルニア州サンホアキンバレー北部の日系計画植民地. 献. 文. 池本幸三(1986):アメリカ史における日系移民とその農業コミュニティーカリフォルニア州と大和. コロニーを中心として-,戸上宗賢編著『ジャバニーズ・アメリカン-移住から自立の歩み-J] ミネルヴァ書房, 163-227瓦 岡. 省三(1980). 在米日本人会(1940) 杉浦. 1980年5月8日-8月30臥. :我孫子久太郎伝北米毎日新聞,. 直(1986). 『在米日本人史』在米日本人会.. :. :日系人農民コミュニティにおける居住様式の変遷とエスニシティの変容-カリフォ 483-506真.. ルニア州リヴインダストン地区の事例から-.人文地理38,. 1-19見. 矢ケ崎典隆(1985). :かJフォルニア・デルタの開発とアジア系移民人文地理学研究9,. 失ケ崎典隆(1988). :か)フォルニアの日本人移民社会における金融の諸問題.横浜国立大学人文紀. 要第一類34,. 101-121頁.. 矢ケ崎典隆(1990). :アメリカ合衆国における農業地域の変貌.横浜国立大学人文紀要第一類36,. 1-17貢. 矢ケ崎典隆(1993a). 『移民農業-カリフォルニアの日本人移民社会-』古今書院.. :. 矢ケ崎典隆(1993b,1994) 設と崩壊(1). :カリフォルニア州デルハイにおける州立植民事業:実験的コロニーの建. (2).横浜国立大学人文紀要第一類39,. 矢ケ崎典隆(1996). ment. A. Pb.D.. G. (1949) H. A.. Hohenthal,. Turlock Ichioka,. Y.. Emma. (1976) Gee. Los. ter,ロCLA, Iwata,. M.. ed.. (1962). :. of. The. :. J. E. ed.. in. Valley. California Ethno-. Studia. group.. Angeles, The. :. Portuguese. Angeles.. University. (1972). of. Streams. :. 185011970's.. Californians,. California. in. a. Press,. thirsty land,. Berkeley. a. histo131. the. 0f. Turlock.. Turlock. Counterpoint. The. Lo§. names.. Turlock,. 1921. :. Califomia,. of. California place. City. rlBgion.. Joaquin. immigrant. an. of. assimilation. in agriculture. al., Caswell,. et. San. in the. colonization and. Immigrants University. :. Depart・. California,. of. 33, 1-157. :. dissertation, E.. Gudde,. (1977). State. Sacramento.. acculturation. UPsaliensa. R.. districts in California. Bulletin, 21,. Swedish-American. :. the. of. grlaPhica A.. Works,. (1970). P.. study. Graves,. Irrigation. :. Public. of. Fjellstr6m, :. 670-692瓦.. (1929). F.. 45163貢.. :カリフオルエア州タ-ラック地域における日本人移民の植民活動と移民社会.. 地理学評論69A, Adams,. 65-79頁;40,. incident. Per:SPeCtives. on. :. Forceful. Asian. expulsion. America,. Asian. of. laborers.. Japanese. American. Studies. Cen-. 195-199.. Japanese. immigrants. in California. agriculture.. Agriculturlal mstory. 36,. 25-37. Matsumoto,. Ⅴ. L.. (1993). nia, 191911982. McClatchy,. Ⅴ. S.. Washingtoll,. :. Farming. Cornell. (1921) D.C.. :. the. University. Japanese. home Press,. Place,. immigrlation. a. Japanese American. community. in Califw-. Ithaca.. and. colonization.. Government. Printing. Office,.
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