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アメリカ・ユダヤ人とブランダイス大学  ――「社会的正義」のホームとしての可能性(北美幸)

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(1)

今から五〇年前の一九六三年八月二八日、いわゆるワシ ン ト ン 大 行 進 の 際 に マ ー テ ィ ン・ ル ー サ ー・ キ ン グ ( Martin Luther King, Jr. ) 牧 師 が 行 っ た 演 説「私 に は 夢 が ある」は、人種の平等と差別の撤廃を訴える公民権運動の 最高の到達点として知られる。そして、同じ日の同じ会場 で、 ユ ダ ヤ 教 の ラ ビ (聖 職 者) で あ る ヨ ア キ ム・ プ リ ン ツ ( Joachim Prinz ) は、 キ ン グ 牧 師 に 先 立 っ て 演 説 を 行 っ た。 彼 は、 「ナ チ ス 政 権 下 の ド イ ツ で ラ ビ を し て い た 者 と し て」 、 最 も 恥 ず か し く 悲 劇 的 な こ と は 偏 狭 や 憎 悪 に 対 し て 沈 黙・ 傍 観 す る こ と だ と 説 き ( Meyer 2008: 261 ) 、 ユ ダ ヤ人の歴史的経験と黒人のそれを結びつけたのであった。 アメリカ・ユダヤ人は、公民権運動あるいは黒人の権利 獲得に比類なき積極的姿勢を見せたことが知られている。 先行研究によると、国の人口に占めるユダヤ人の割合は約 三パーセントであるのに対し、ボランティアとして公民権 運動に参加した白人の半分から三分の二がユダヤ人であっ た と 言 わ れ る ( Garza 1995: 149 ) 。 一 九 六 四 年 六 月 に は、 三人の公民権活動家がミシシッピ州で黒人教会の焼き討ち 事件の調査に出かけたまま行方不明となり人種差別主義者 により殺害される事件が起こったが、うち白人である二 人 は ニ ュ ー ヨ ー ク 出 身 の 若 い ユ ダ ヤ 人 だ っ た ( Kaufman 1995: 15-17 ) 。 こ の 痛 ま し い 事 件 は、 ノ ン フ ィ ク シ ョ ン 映 画『ミ シ シ ッ ピ ー ・ バ ー ニ ン グ』 (ア ラ ン・ パ ー カ ー 監 督 作 品、 一 九 八 八 年) と し て、 国 際 的 に も 人 々 の 記 憶 に 残 る

特集2

祖国

越境者

大学

︱︱

社会的正義

可能性

美幸

(2)

こととなった。 本稿では、アメリカ合衆国で初めてで唯一の世俗的ユダ ヤ人大学であるブランダイス大学の学生・教員の公民権運 動への関わりをみる。この時期のブランダイスの学生は約 八五パーセントがユダヤ人であったが、数的なことだけが 同大学を取り上げた理由ではない。ユダヤ人たちが展開し てきた教育における差別や人種隔離に対する闘いおよび大 学設立の経緯から、一九四〇年代から一九六〇年代あるい は現在にまでいたる彼らの信念の連続が見られることが予 想されるのである。結論をやや先取りすれば、ブランダイ ス 大 学 は、 ア メ リ カ・ ユ ダ ヤ 人 が 抱 い た「差 別 の な い」 「社 会 的 正 義」 の 理 想 を 実 現 す る 基 地 (ホ ー ム) と し て の 役割を担ったといえるのではないか。 本稿ではまず、ブランダイス大学の設立の経緯とその建 学の精神を検証する。続いて、学生たちの公民権運動への 参加について、いくつかの事例を紹介する。さらに、同大 学におけるアフリカおよびアフロ・アメリカン研究学科設 置の経緯についても述べる。以上を、主に一次史料として 同 大 学 の 学 生 新 聞『正 義 ( Justice ) 』 を 用 い な が ら 明 ら か にする。

大学

創設

精神

合衆国

系高等教育

機関

歴史的展開

﹁割当制﹂

問題

一九四八年一〇月、マサチューセッツ州ウォルサムに、 ユ ダ ヤ 人 の 支 援 に よ る 世 俗 的 大 学 ( Jewish-sponsored secular university ) で あ る ブ ラ ン ダ イ ス 大 学 が 開 学 し た。 「人 民 の 弁 護 士」 と し て 名 高 く、 ア メ リ カ・ ユ ダ ヤ 人 と し て初の連邦最高裁判事となったルイ・ブランダイス ( Louis D. Brandeis ) の名を冠し、 開学後わずか五年でニューイン グランド大学協会からの正式認定を受けた、大学院博士課 程までを持つ学術的にも極めてレベルの高い大学である。 ブランダイス大学の設立は、ユダヤ人たちにとって、長 いこと夢見ては破れての繰り返しの末のことであった。実 際、一九世紀の中頃から、さまざまな形でユダヤ人向けの 高等教育機関の設立が試みられてきた。一八六七年には、 フィラデルフィアにマイモニデス大学が設立されたが、同 大学は一八七三年に閉校してしまった。その後、一八七五 年にヘブルー・ユニオン・カレッジがシンシナチに、一八 八七年にジューイッシュ・セオロジカル・セミナリー・オ

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ブ・ ア メ リ カ が ニ ュ ー ヨ ー ク に 設 立 さ れ た (羽 田 一 九 九 三: 二 〇 五) し か し、 こ れ ら は 小 規 模 な ラ ビ 養 成 学 校 で ユ ダヤ学の科目がほとんどであった。カトリックやプロテス タントの各派が設けたような平信徒のための大学は設立さ れず、計画もなかった。 ユダヤ人大学の設立に対する一番の懸念は、非ユダヤ人 からの差別であった。一八八〇年代、いわゆる「新移民」 の一部として東欧系ユダヤ人の大流入が始まり、アメリカ 合衆国に居住するユダヤ人の数は一八八〇年の二五万人か ら一九二四年の四二〇万人へと激増した (野村 一九九五: 二 二) 。 こ の 数 的 な 膨 張、 ま た、 新 着 の 移 民 に は 正 統 派 * 1 の ユダヤ教徒が多く、服装や言語・生活習慣など、視覚的に も目立つ存在であったことから、大都市部を中心に国全体 で急激に反ユダヤ主義が高まっていった。 こうして、コロンビア大学やニューヨーク大学などユダ ヤ人学生数の多い大学は、一九一〇年代末には非公式にユ ダヤ人学生の入学を制限するようになった。一九二二年六 月、 ハ ー バ ー ド 大 学 の ロ ー ウ ェ ル ( Abbott Lawrence Lowell ) 学 長 は、 ユ ダ ヤ 人 学 生 が 不 釣 り 合 い に 学 生 集 団 の 中の高い割合を占めているという理由で、彼らの入学を制 限する計画を発表した。ハーバード大学が「割当制」を導 入 す る と い う ニ ュ ー ス は、 『ニ ュ ー ヨ ー ク・ タ イ ム ズ』 紙 の 第 一 面 で 報 道 さ れ、 か な り の 注 目 を 集 め た ( New York Times June 2, 1922 * 2 ) 。 一 九 二 三 年、 『ア メ リ カ に お け る ユ ダ ヤ 人 大 学』 と 題 し たモノグラフの中で、ニューヨークのラビ、ルイ・ニュー マ ン ( Louis I. Newman ) は、 世 俗 的 ユ ダ ヤ 人 大 学 設 立 の 構 想 を 発 表 し た ( Newman 1923 ) 。 し か し、 彼 の 提 案 は 受 け入れられず、実を結ぶことはなかった。一校あるいは何 校かを設立したところで、差別に遭ったユダヤ人の若者を 受け入れるには、ほとんど解決にならないと考えられたの である。あるいは、ユダヤ人で大学を作るということは、 学問の場にゲットーを作りユダヤ人が孤立してしまうこと だ と 主 張 す る 者 も 多 か っ た (

Jewish Tribune Oct. 27, 1922

) 。

第二次世界大戦後

展開

第二次世界大戦の終結は、ユダヤ人大学の設立に向けて の新たな契機となった。若者たち、とくに復員兵たちは平 和な時代に将来への思いを馳せ、今までにないほど教育を 求めた。高等教育機関在籍者の数は、一九四四年の一一五 万五〇〇〇人から四六年には一六七万七〇〇〇人、さらに 四八年には二六一万六〇〇〇人へと飛躍的に増加したが、 その拡大の大部分は復員軍人援護法の教育給付特典を利用 し た 復 員 軍 人 で あ っ た (中 島・ 池 田 一 九 七 八: 八 四 ― 八 五) 。

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ユダヤ人のリーダーたちは、ユダヤ人大学設立の夢を実 現できないかと改めて可能性を模索し始めた。この計画の 実現の先頭に立ったのが、国内で最も影響力の大きい保守 派ユダヤ教会のラビであり、後にアメリカ・ユダヤ人会議 の 会 長 と な る イ ス ラ エ ル・ ゴ ー ル ド ス タ イ ン ( Israel Goldstein ) であった。 一九四六年一月、授業停止状態に陥っていたミドルセッ クス大学の敷地と設備を利用して世俗的ユダヤ人大学を設 立する計画が開始された。そもそも、同大学が授業停止状 態に陥った理由も複雑であった。確かに同大学は、資金や 設備面での問題を抱えており、卒業生は、マサチューセッ ツ州以外の医師資格試験を受験することができなかった。 さらに一九四四年からは、同州における受験資格も認めら れ な く な っ て い た。 一 方、 学 長 の ラ ッ グ ル ズ・ ス ミ ス ( C. Ruggles Smith ) は、 米 国 医 師 会 お よ び マ サ チ ュ ー セ ッ ツ 医療協会による医師資格認定の拒絶自体が、人種・宗教に よる差別・いやがらせであると主張していた。実際、一九 四四年に在籍していた三〇〇人の学生のうち、八五パーセ ントがユダヤ人であった ( Goldstein 1951: 14, 17 ) 。 一月一五日、スミスからの手紙を受け取ってからわずか 一週間後、ゴールドスタインはミドルセックス大学のキャ ンパスを訪れた。彼は、傷んだ建物やその内装、手入れが されておらず雑草の伸びたグラウンドとともに、ウォルサ ム 市 と チ ャ ー ル ズ 川 を 一 望 で き る 立 地 に 深 い 感 銘 を 受 け た。そして「このキャンパスは本来的に偉大なるユダヤ人 大学の敷地として価値のあるものである」と述べ、この地 に 大 学 を 設 立 す る こ と を 決 意 し た の だ っ た ( Goldstein 1951: 20 ) 。 しかしながら、ユダヤ人大学の設立に対する否定的な意 見 は 根 強 か っ た。 反 対 派 の 人 々 は、 「ユ ダ ヤ 人 は ユ ダ ヤ 人 の大学に行けばよい」という差別の言い逃れの口実を与え ることで、他大学におけるユダヤ人差別が悪化するのでは ないかと心配した。また、ユダヤ人大学を設立するという ことは、国内における集団としてのユダヤ人の存在を否応 なく目立たせることになるものだった。

3﹁差別

﹂大学

一九四六年六月、シカゴで開催された全国コミュニティ 関係諮問会議の席上、ゴールドスタインは在米ユダヤ人団 体の代表らに向かって次のように言った。 言うまでもなく、それを撲滅するためにはあらゆる 努力がなされなければなりません。それはたとえば、 割当制を行っている機関を公衆の批判にさらすである とか、裁判所は認めないであろうけれども、それらの

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機関の免税措置を取り除くように訴えるとか、さらに 多くの州立大学の設立の構想を練るとか、そういうこ とです。アメリカ人として、我々は高等教育の領域か ら非アメリカ的な方針を取り除く努力をする権利と義 務があるのです。しかし、その努力がどの程度成功す るのか、あるいはどのくらいの時間がかかるのかは全 く分かりません。 (中略) 少なくとも、私が代表をつとめる光栄を有している ユダヤ人の支援による大学を支持している人々は、学 生や教員をユダヤ人に限定することは提案していない のです。提案しているのは、学生と教員を選抜する唯 一 の 基 準 を 能 力 に す る、 非 割 当 の 大 学 ( non-quota university ) なのです。 ( Goldstein 1951: 127-128 ) 翌日、総会は「人種、肌の色、信条にかかわりなく全て の人に開かれたユダヤ人大学、およびユダヤ人の援助のも とにある高等教育機関を合衆国内に設立し、拡大する最近 の 動 き を 、 満 足 を も っ て 承 認 」 し た ( Goldstein 1951: 58 ) 。 こ う し て、 ゴ ー ル ド ス タ イ ン お よ び 彼 の 支 援 者 た ち は、 「ユ ダ ヤ 人 の ユ ダ ヤ 人 に よ る ユ ダ ヤ 人 の た め の 大 学」 で は な く、 「ユ ダ ヤ 人 が 資 金 提 供 を す る、 差 別 の な い 大 学」 を ア メ リ カ の 地 に 作 る こ と を 提 唱 す る こ と で、 「ユ ダ ヤ 人 大 学」のかかえる矛盾を解消したのだった。 一 九 四 八 年 五 月 、 エ イ ブ ラ ム ・ サ ッ カ ー ( Abram Sachar ) が初代学長に就任し、一〇月には一〇七人の学生と一三人 の教員で授業が開始された。大学では、非差別の方針が曲 げられることはなかった。ブランダイスは当初から黒人学 生を入学させた。一九五二年には、約四〇〇人の学生のう ち少なくとも八人が黒人であり、教員一 人 も黒人であった ( Ebony Feb. 1952: 59 ) 。 ま た、 非 宗 派 性 と い う こ と に 関 し ても、一九五五年までにユダヤ教、プロテスタント、カト リックの三つの礼拝所が構内に設けられた ( Guerard 1956: 53-54 * 3 ) 。 ブランダイスは、知的な探究心と討論に満ちた場を醸成 し て い っ た。 一 九 五 六 年 に は、 「人 種・ 信 条 お よ び 国 籍 に よ る 分 断 と 障 壁 を な く す た め の」 講 義 シ リ ー ズ が 開 始 さ れ、さまざまな分野の講師が招聘された。その中には、ロ イ・ ウ ィ ル キ ン ス ( Roy Wilkins ) や ラ ル フ・ ア バ ナ シ ー ( Ralph Abernathy ) 、 ア ン ド リ ュ ー・ ヤ ン グ ( Andrew Young ) や ケ ネ ス・ B・ ク ラ ー ク ( Kenneth B. Clark ) と い っ た 黒 人 の 著 名 人 や 公 民 権 運 動 家 が 含 ま れ て い た ( Pasternack 1988: 133-134 ) 。 キ ン グ 牧 師 も 一 九 五 七 年 と 一 九六三年にブランダイスを訪れ、人種間の正義と非暴力に ついて講義を行った (

Justice Apr. 9, 1957 ; Feb. 26, 1963

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大学

公民権運動

「差 別 を 行 わ な い こ と」 に 対 し て 妥 協 を 見 せ な い 大 学 の 姿勢に影響され、ブランダイスの学生たちは、政治的・社 会的活動に打ち込むようになった。一九五〇年代の初めに は、 全 国 黒 人 地 位 向 上 協 会 ( National Association for the Advancement of Colored People =NAACP) の支部が大 学に設立された。一九六〇年代に入ると、ブランダイスの 学生・教員・卒業生は、キャンパスで、ボストンで、そし て南部で活動した。

運動

地域

店舗

ウールワースという、全国にチェーン展開するドラッグ ストアがあった。一九六〇年二月、そのノースキャロライ ナ州グリーンズボロの支店のランチ・カウンターで、人種 隔 離 さ れ て い な い 施 設 で 食 事 を で き る 権 利 を 求 め て、 「座 り 込 み ( sit in ) 運 動」 が 開 始 さ れ た。 こ の 運 動 は、 ノ ー スキャロライナ州立農工大学の黒人学生たちが給仕を拒ま れたことにより開始され、瞬く間に他の南部の黒人大学に 広まっていった。 ボストンでは、二月二三日に開催されたNAACPの会 合の際、この座り込み運動を支援する組織を設立するため に五つのグループの代表者が集まった。NAACP、人種 平 等 会 議 ( Congress of Racial Equality = C O R E) 、 ブ ラ ン ダ イ ス、 ハ ー バ ー ド、 そ し て ク エ ー カ ー・ フ レ ン ズ で あった。組織は、緊急公共統合委員会 ( Emergency Public Integration Committee =EPIC) と名付けられた。 EPICはボストン周辺のウールワースの店舗前でピケ を張り、その南部の店舗における差別的方針に抗議するこ とに決めた。ブランダイスからは、約七五人の学生が二月 二七日に行われたピケに初めて参加した。グループは四つ の班に分かれ、それぞれが、ブルックラインからニュート ン近辺の地域を担当した。午後一時に大学を出発し、それ ぞれの目的地へ向かい、二時から四時または四時半までピ ケを張った。学生たちは、COREの非暴力方針に則り、 店舗の前で小冊子を配布した ( Justice Mar. 1, 1960 ) 。 学生たちは、毎週土曜日にピケを続けた。ある時、彼ら は、交通が麻痺するほどの吹雪の中でピケを敢行した。三 月には、中間試験の最中にもピケを行った。その間もEP I C は 組 織 と し て 大 き く な っ て い っ た。 ブ ラ ン ダ イ ス、 ハーバード、マサチューセッツ工科大、ボストン大学の学 生グループに加えて、労働組合、教会、退役軍人のグルー

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プも参加するようになり、 会員は四〇〇人を超えた ( Justice Mar. 22, 1960 ) 。 EPICは、一九六〇年の春の間ピケを張り続けた。ブ ランダイスからの参加者は一〇〇 人 以上に増えた。四月に は、 ピ ケ は ベ ル モ ン ト、 レ キ シ ン ト ン、 ウ ェ ル ズ レ ー、 ニュートンビルの店舗にまで広がった。多くの店舗におい て、少しずつであるが確実に売り上げが落ちてきた。店舗 の マ ネ ー ジ ャ ー た ち は、 事 態 を 深 刻 に と ら え る よ う に な り、とうとう本社に、南部の店舗での差別的方針を改める よう要望を出した ( Justice Apr. 5, 1960 ) 。 サッカー学長は、三月二二日に『正義』紙上で、学生た ち の 活 動 を 支 持 す る 旨 を 発 表 し た。 彼 は、 「教 育 者 と し て 私は、学生たちが時には罵声を浴びながらも、この重要な 社会問題のために時間とエネルギーを注いでいることを喜 ばしく思う」と表明した ( Justice Mar. 22, 1960 ) 。 EPICは、一九六〇年の学年度が終わるまでボストン 地域の一三のウールワースの店舗でピケを展開した。参加 者の数は少なくなったものの、大学に残った者たちは六月 と七月にもピケを続けた。八月までに、六九の南部のウー ルワースの店舗が人種統合され、本社は、未だ人種隔離を 行 っ て い る 残 り の 店 舗 に つ い て も 統 合 す る 計 画 を 作 成 し た。ウールワースがすべての店舗の人種統合を行うと誓っ たので、EPICはピケをやめることを一九六〇年九月に 投票により決定した ( Justice Sep. 27, 1960 ) 。

自由

断食

学 生 た ち の 運 動 は、 座 り 込 み 運 動 の 支 援 に と ど ま ら な かった。翌一九六一年、学生たちは、長距離バスの車内や ターミナルでの人種隔離撤廃を目指す「自由のための乗車 運 動 (フ リ ー ダ ム・ ラ イ ド) 」 を 支 援 し た。 六 月 一 日、 お よ そ 一 五 〇 人 が 学 生 会 館 で 本 の バ ザ ー を 行 っ た ( Justice June 9, 1961 ) 。 ま た、 政 治 学 科 准 教 授 の ウ ィ リ ア ム・ ゴ ー ル ド ス ミ ス ( William Goldsmith ) は、 他 の 数 人 の 教 員 と と もにファカルティ・ショーとして寸劇や音楽を披露し、寄 付を募った。集められた金は、逮捕されたフリーダム・ラ イ ダ ー た ち の 保 釈 金 の 一 部 に 充 て ら れ た ( Justice May 8, 1962 ) 。 また、 ブランダイスで始まり、 全国に広まっていっ た 活 動 も あ っ た。 本 節 で は そ の 活 動、 「自 由 の た め の 断 食」を扱いたい。 「自 由 の た め の 断 食」 は、 一 九 六 三 年 五 月 に 行 わ れ た キ ング牧師による一万人大行進の副産物であった。行進に参 加したブランダイスの学生が、ミシシッピでは選挙の有権 者登録を巡って暴力的な衝突が頻発していること、連邦の 食糧供給プログラムにより配給される食糧が不足している ことを知り、計画を開始したのだった。

(8)

二 年 生 の ウ ィ リ ア ム・ カ ス ペ ( William Caspe ) が、 計 画 の 実 行 の た め、 「北 部 学 生 運 動 ( Northern Student Movement =NSM) 」の支部をブランダイスに設立した。 断食は、早速、五月二三日の夕方に設定された。カスペと 友人たちは、食事・飲み物を一食抜く計画への賛同を求め て回った。参加する学生は、前もって食事一回分の代金を 学生食堂に支払い、食事をしないことを表明した。NSM はその代金で小麦粉や穀物など常備食品類を購入し、ミシ シ ッ ピ 州 お よ び ア ラ バ マ 州 の 学 生 非 暴 力 調 整 委 員 会 ( Student Nonviolent Coordinating Committee =SNCC) と C O R E の 配 給 セ ン タ ー へ と 送 っ た ( Justice May 14, 1963 ) 。 「自 由 の た め の 断 食」 は、 最 初 か ら ブ ラ ン ダ イ ス で は 大 成功であった。実に六〇〇人以上が夕食を抜いた。集めら れた金は四五〇〇ポンドの食糧に変えられた ( Justice May 14, 1963 ) 。 二 度 目 の 断 食 が 実 施 さ れ る ま で の 間 に 計 画 は 全 国に広がっていた。NSMは二八〇校以上の大学と連絡を 取り、参加を要請した。大学以外にも、NAACP、SN CC、COREなど主要な公民権団体のすべて、また、ブ ネイ・ブリス・ヒレル財団といったユダヤ教関連組織の支 持を得た ( Justice Feb. 11, 1964 ) 。 こ う し て、 「自 由 の た め の 断 食」 は カ ス ペ が 一 九 六 五 年 に 卒 業 す る ま で の 間 に 計 三 回 行 わ れ た。 二 度 目 の 断 食 (一 九 六 四 年 二 月 二 六 日) に は 四 二 校、 三 度 目 の 断 食 (一 九 六 四 年 一 二 月 三 日) に は お よ そ 一 五 〇 校 が 参 加 し た。 ま た、 第 三 回 目 ま で に、 ジ ョ ン ソ ン ( Lyndon B. Johnson ) 大 統 領やキング牧師も活動への支持を表明した ( Justice June 7, 1964 ; Nov. 24, 1964 ) 。 以上のように、ブランダイスの学生たちは、他の組織や 大学で開始された活動に参加するだけでなく、自ら全国規 模の活動を興した。なお、NSMは、一九六四年頃から活 動 の 中 心 を ボ ス ト ン の 公 立 学 校 に お け る「事 実 上 の ( de facto ) 人種分離」 の解消に移した。 ボストンの黒人コミュ ニティの中心であるロックスベリーにおいて、学生たちは 子どもたちのキャンプや公園遊びの指導者になったり、勉 強を教えたりした。

南部

ブランダイスの学生や教員の中には、マサチューセッツ を離れ、南部の州まで出かけて行った者もいた。彼らはデ モ行進や座り込み、学習会に参加した。また、夏休みを利 用して約二か月にわたり選挙権登録運動のボランティアと なった学生や卒業生もいた。また、ある教員は三年間大学 を休職し、COREの活動家として南部に滞在した * 4 。個人 的に参加した者も多く、正確な参加者の数を把握すること

(9)

は不可能であるが、一九六五年の夏には大学からまとまっ た数の学生がサウスキャロライナ州に行っており、ある程 度の詳細をつかむことができる。 そ の 団 体 は、 南 部 キ リ ス ト 教 指 導 者 会 議 ( Southern Christian Leadership Conference = S C L C) の も と に 組 織された 「夏期コミュニティ組織および政治教育 ( Summer Community Organization and Political Education = S C O P E) 」 で あ っ た。 こ れ は、 前 年 に ミ シ シ ッ ピ で 行 わ れ た SNCC主導のプログラム「フリーダム・サマー」と似た も の で あ り、 全 国 各 地 の 大 学 で 選 ば れ た 参 加 者 を フ ロ リ ダ、アラバマ、ジョージア、バージニアといった南部の州 の八〇の郡に派遣するものであった。各大学からの反応は 好意的であり、最終的にSCOPEは一〇 〇〇人 が参加す る一〇週間の大掛かりなものになった。内容としては、識 字 率 向 上 お よ び 投 票 権 登 録 運 動 と 政 治 に つ い て の 教 育 で あった ( Justice Mar. 9, 1965 ) 。 ブランダイスでは、計画が発表されてすぐにキャンパス 内にSCOPEの支部が設置され、アトランタの本部と連 絡を取り合った。春学期の間、参加予定の学生たちは、大 学内で会合を持った。南部に移動する前に、彼らは地方の 権力の構造を学び、その地で起こったことについての過去 の新聞記事を読み、コミュニティ内の人種関係と紛争の歴 史について学んだ ( Justice Apr. 13, 1965 ) 。 ブランダイスからは、二三人の学生がサウスキャロライ ナ州の三つの郡で一夏を過ごした ( Leventhal 2005: 518 ) 。 彼らは、三 〇〇〇 人分の投票権登録、劇場一軒とコインラ ンドリー二軒の人種隔離廃止、そして、地元の人々が今後 も投票権登録活動を進めて行けるよう作業グループを組織 す る な ど し た ( Justice Oct. 5, 1965 ) 。 カ ル フ ー ン 郡 に 派 遣 された一人の女子学生は、隣のオレンジバーグ郡の選挙登 録の応援に出かけ、登録会場の裁判所でフリーダムソング を歌っていたことで逮捕され、留置場で一夜を明かした。 また、白人至上主義団体ク・クラックス・クランにより、 彼女と仲間たちの住んだ家の窓ガラスは銃で撃たれ、粉々 になったという ( Goldsmith 1968 ) 。 このように、公民権運動のさまざまな場面において、ブ ランダイス大学は重要な働きをした。一九六三年一一月に ワシントンDCで開催された「宗教と人種に関する学生指 導 者 会 議」 に 参 加 し た 学 生 は、 次 の よ う に 語 っ た。 「全 体 的な印象として、公民権の組織が学内にあり、学内に何の 差別もないという点で、ブランダイスは実にユニークな大 学だということを改めて感じた。私たちは主に、大学での 差別の問題について話し合われている時は、受け取り学ぶ 側 と い う よ り は む し ろ、 情 報 を 提 供 す る 側 で あ っ た」 ( Justice Dec. 10, 1963 ) 。

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大学

暗殺後

ロ サ ン ゼ ル ス の ワ ッ ツ 地 区 な ど 各 地 で の 人 種 暴 動、 ス ト ー ク リ ー・ カ ー マ イ ケ ル ( Stokely Carmichael ) に よ る 「ブ ラ ッ ク・ パ ワ ー」 の 声 明 は、 一 九 六 〇 年 代 後 半 の 人 種 関係の変化を示す象徴となった。黒人たちは、一九六四年 公民権法および一九六五年投票権法の制定に満足しなかっ た。彼らは白人社会への統合ではなく、黒人としての自ら の尊厳の確立を望んだ。非暴力の方針を放棄し、白人メン バーを追放する団体が現れた。 こういった人種関係の亀裂、あるいは再人種隔離の傾向 は、ブランダイスのキャンパスにおいても観察された。一 九六八年四月四日にキング牧師が暗殺された時、ブランダ イス・アフロ・アメリカン・クラブは、黒人学生だけのた めの瞑想を構内のハーラン・チャペルで行った。同時に彼 らは、大学が主催する追悼集会には参加しないことを決議 した ( Justice Apr. 9, 1968 ) 。 キングの死後、マイノリティの利益をより目に見える形 で組み入れるよう要求する動きが、国全体においても、ま たブランダイスにおいても高まった。具体的には、アフリ カ研究あるいはアフリカン・アメリカン研究専攻のコース の設置、マイノリティの教職員・学生の増員、キングとそ の功績を讃えての奨学金の設置、マイノリティの志願者向 けの入試制度の実施などであった。 これらの要求の一部は、大学の努力により早い段階で実 現された。一九六八年のうちに、高校卒業まで教育的に不 利な環境にあった者に対し、大学の授業の履修と並行して 英 語 や 数 学 の 補 習 授 業 を 行 う「移 行 年 プ ロ グ ラ ム ( Transitional Year Program =TYP) 」が導入された。応 募資格として人種は特定されていなかったが、入学事務責 任者によると、TYPの開始により黒人学生の数は「かな り 目 立 っ て 増 加」 し た と い う ( Justice Oct. 8, 1968 ) 。 ま た、黒人学生を対象とした「マーティン・ルーサー・キン グ奨学金」も設置された。 一 方、 他 の 要 求 に つ い て は、 な か な か 進 捗 は 見 ら れ な かった。とくに、要求事項の一番目に挙げられたアフリカ お よ び ア フ リ カ ン・ ア メ リ カ ン 研 究 学 科 の 設 立 に つ い て は、四月に教育方針委員会に要望が伝えられたものの、九 月 ま で 議 論 さ れ る こ と は な か っ た。 こ う い っ た 事 情 に よ り、学生の間では、要求が実現に向かっているのか疑う声 が上がっていた。

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占拠

一九六九年に入って間もなく、ブランダイスのキャンパ スで騒擾が起こった。一月八日午後二時、ブランダイス・ アフロ・アメリカン・クラブの学生約一五人が、前年四月 に大学に提示した「一〇項目の要求」の実現を求めて、コ ンピューター制御室のある建物、フォード・ホールを占拠 したのだった。当日の夜九時までに、立て籠もる学生の数 はおよそ六五 人 まで増えた * 5 。 立て籠もりはすぐには終わらなかった。実際それは一一 日間続き、大学全体を動揺させた。八日午後七時四五分、 モ リ ス・ エ イ ブ ラ ム ( Morris Abram ) 学 長 は、 教 授 会 が 一五三対一八で黒人学生たちの行動を非難する決議を採択 したと発表し、 直ちに建物から去るよう呼びかけた ( Justice Jan 10, 1969 ) 。 さ ら に 一 一 日 に は、 学 生 た ち の 威 嚇 的 行 動 に よ っ て 大 学 が 方 針 変 更 を 行 う こ と は な い と 正 式 に 表 明 し、 そ の 旨 を 記 し た 文 書 を 同 窓 生 や 関 係 者 に 送 付 し た ( Brandeis University, Office of the President Jan. 13, 1969 ) 。 共 感、 恐 れ、 敵 意、 混 乱 な ど、 さ ま ざ ま な 思 い で 人々は「マルコムXユニバーシティ」という垂れ幕が掲げ られたフォード・ホールを見上げた。 とはいえ、黒人学生による建物の占拠やストライキ自体 は、 こ の 時 期、 国 内 の 他 所 で も 起 こ っ て い た。 実 際、 フォード・ホールでの立て籠もりは、前年秋から黒人、ヒ スパニック系、アジア系の学生によるストライキが多発し ていたサンフランシスコ州立大学で前日に起こった警察と 学生の衝突事件に刺激されて始まったもので、同様の動き はニューヨーク市立大学クイーンズ・カレッジなどいくつ かの大学でも起こっていた。 その意味で、ブランダイスにおける立て籠もり事件の特 殊性は、白人学生たちの反応にあった。彼らは黒人学生を 支 援 し た の だ っ た。 八 日 の 夕 方 に は 五 〇 〇 人 が 集 会 を 開 き、立て籠もっている学生たちに対する大赦を要求するこ とを決議した。大学当局に提出された要望書には、全学生 二六〇〇 人 のうち八九〇 人 が署名したという。また一四日 には、黒人学生の要求の実現を求めて約三〇〇人が学長室 のある建物の廊下に座り込み、二五 人 がハンガー・ストラ イキを開始した。一月二一日に始まる予定だった期末試験 のボイコットにも、 五〇〇人以上が賛同を表明した ( Justice Jan. 14, 1969 ) 。 結局、何一つ要求が受け入れられることはなく、立て籠 もりは終わった。一月一八日午後五時、およそ七五 人 の黒 人学生たちがフォード・ホールの二階の非常用階段から外 に出てきた ( Justice Jan. 21, 1969 ) 。 とはいえ、大学当局の対応は他大学とは異なった。黒人

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学生に学科長選出の権限を与えるという要求は退けたもの の、 教 授 会 は、 一 月 一 三 日 に は ア フ リ カ お よ び ア フ リ カ ン・アメリカン研究学科を設立する方向性を承認し、四月 二 四 日 に は 一 九 六 九 年 秋 の 設 置 を 正 式 に 発 表 し た ( Justice Apr. 29, 1969 ) 。 こ う し て ブ ラ ン ダ イ ス は、 学 生 の 圧 倒 的 多数が白人でありながら、独立したアフリカン・アメリカ ン 研 究 学 科 を 極 め て 早 い 時 期 に 持 っ た 大 学 の 一 つ と な っ た。

︱︱ ア メ リ カ ・ ユ ダ ヤ 人 の ホ ー ム と し て の ブ ラ ン ダ イ ス 大学 の 可能性 本稿は、アメリカ合衆国で初めてかつ唯一の世俗的ユダ ヤ 人 大 学 で あ る ブ ラ ン ダ イ ス 大 学 の 創 設 の 経 緯 と そ の 精 神、それに続く学生たちの公民権運動およびブラック・ナ シ ョ ナ リ ズ ム へ の 関 与 に つ い て 検 証 し た。 ブ ラ ン ダ イ ス は、ユダヤ人大学でありながら学生や教員をユダヤ人に限 定も優先もしない方針を採った。また、学生たちは、マイ ノリティに対する差別を撤廃するための活動に積極的にコ ミットした。こうして同大学は、機会の平等と自由、正義 という「アメリカの理想」に対するアメリカ・ユダヤ人の 信念を、差別を行っている他大学あるいは国全体に示した のだった。 さて、イスラエルの建国はブランダイス大学の開学と同 じ一九四八年であるが、興味深いことに、アメリカ合衆国 におけるシオニスト運動に対する賛否とユダヤ人大学の創 設 に 対 す る そ れ は 連 動 し て い た。 早 く は 一 九 二 二 年、 ニ ュ ー マ ン・ ラ ビ が ユ ダ ヤ 人 大 学 の 設 立 を 提 唱 し た 時 に は、ユダヤ人大学は「シオニストによる非アメリカ的行動 の論理的最高点であり」 、「必要なく、ユダヤ人とアメリカ 人にとって有害である。根本的な誤解に基づいた考えであ る 」 ( Newman 1923: 32-34 ) と断じられた。 しかし、創設賛成派は逆に、 反 シ オ ニ ス ト は、 (中 略) パ レ ス チ ナ に ユ ダ ヤ 人 の ホームや国家を建設することは、離散状態で住んでい る国家におけるユダヤ人の平等な権利のための闘いを 放棄することを意味すると主張していたのだ。そこで シオニスト達は、ユダヤ人は抑圧のあるすべての国の 個人やマイノリティ・グループに対する人道にかなっ た民主主義的な扱いのために闘うことにより、人類社 会 の た め に 奉 仕 す る の だ と 抗 弁 し た の だ ( Newman 1923: 48 ) 。 と、シオニズムに普遍的な人道主義・民主主義が存すると

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主張することによってユダヤ人大学の創設とシオニズムの 両方を支持する発言を行った。実際、ゴールドスタインは シオニストであり、アメリカ・シオニスト機構の会長を務 めたこともあった * 6 。 もともとシオニスト運動は、居住国家への忠誠心が強く 同化程度の高いユダヤ人の間で忌避・非難されていたが、 アメリカ合衆国においてもその傾向は同様であった。一八 九 七 年 に セ オ ド ア・ ヘ ル ツ ェ ル ( Theodor Herzl ) が ス イ スのバーゼルで第一回シオニスト会議を開催すると、アメ リカ・ラビ中央評議会は、同年の年次大会において「ユダ ヤ人国家を建設しようとするいかなる試みにも反対する」 、 「ユ ダ ヤ 教 は 政 治 的 な も の で も ナ シ ョ ナ ル な も の で も な く、 精 神 的 な も の」 と す る 決 議 を 採 択 し た。 二 〇 世 紀 に 入ってからは、アメリカ・ユダヤ人委員会も「我々は自ら を ネ ー シ ョ ン と は み な さ な い。 我 々 は 宗 教 共 同 体 で あ る ……それゆえパレスチナへの帰還も……ユダヤ人国家に関 するいかなる法の再生にも期待していない」として、シオ ニ ズ ム へ の 抵 抗 感 を あ ら わ に し た (池 田 二 〇 〇 四: 六 九 ― 七〇) 。 このように、社会経済的な差別を受けることはあるにせ よ、法的にはユダヤ人も非ユダヤ人と同じ「市民」である アメリカ合衆国においては、シオニズムはますますのこと 少数派の突出した動きとなり、全体としてユダヤ人はイス ラエル建設に対して消極的、慎重な姿勢を採っていた。同 じように、自らに向けられる迫害・差別を「ホーム」の建 設によって究極的に克服しようというシオニズムと同じ論 理では、アメリカ合衆国でユダヤ人大学が設立されること は叶わなかった。人種・民族が溶け合う「るつぼ」を是と するこの国では、他のマイノリティおよび彼らの「平等」 も包摂し、追求する必要があったからである。 その意味で、ブランダイス大学は、長きにわたって「祖 国」建設を求め、また実際にイスラエル国が建設されるも 暮らしの祖国をアメリカに定めたユダヤ人たちによって、 「差 別 が な く 少 数 派 が 生 き や す い、 社 会 的 正 義 の 実 現 の た めの理念のホーム」として建設され、成長していったとい えるかもしれない。 「三 つ の 祖 国」 の 議 論 に 照 ら す と、 イ ス ラ エ ル は、 ユ ダ ヤ人のルーツの祖国と呼ぶには離散状態があまりにも長き に わ た っ て し ま っ た。 そ れ ゆ え 彼 ら は、 タ ル ム ー ド (口 伝 律 法) を「持 ち 運 べ る 祖 国」 と し、 ユ ダ ヤ 人 と い う 文 化 的 共同体をルーツとした。イスラエル国は最初から居住を想 定しない「遠きにありて思ふ」理念の祖国となったともい える。実際、アメリカ・ユダヤ人のイスラエル移住の動き は目立たず、現在においても世界最大のユダヤ人人口を擁 するのはアメリカ合衆国である。そして、ブランダイス大 学はシオニストらによって設立されたものの、ミニ・イス

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ラ エ ル と は な ら な か っ た。 「約 束 の 地」 と し て ロ シ ア・ 東 欧からのユダヤ移民が目指したアメリカの平等、自由、正 義を、暮らしの祖国以上に希求し実現できる場として、ア メリカ・ユダヤ人の理念のホームとなった。 なお、公民権運動参加者の意識においてもイスラエルの 位 置 づ け は さ ま ざ ま で あ る。 あ る 人 物 は、 「イ ス ラ エ ル に 一年間留学しラビになろうとしたが、女性であるために叶 わ ず、 帰 国 し 公 民 権 運 動 に 参 加 し た」 と 語 っ た ( Booth 2005 ) 。 ま た 別 の 者 は、 イ ス ラ エ ル を 支 持 せ ず、 一 九 八 〇 年代にはユダヤ人によるパレスチナ支援団体の代表者を務 め た * 7 。 こ う し た ユ ダ ヤ 人 大 学 お よ び イ ス ラ エ ル の 位 置 づ け、そしてユダヤ人内部の多様性に鑑みると、アメリカ・ ユダヤ人にとっての「三つの祖国」はあまりにも複雑に絡 み合っていると言わざるをえない。 ◉注 * 1 ア メ リ カ の ユ ダ ヤ 教 に は 改 革 派、 保 守 派、 正 統 派 の 三 つ の大きな宗派がある。 * 2 ハ ー バ ー ド 大 学 に お け る「割 当 制」 を 学 術 的 に 論 じ た 研 究 と し て は、 Karabel ( 2005 )、 Synnott ( 1979 )、 Steinberg ( 2001 [ 1981 ]) 、 Pollak ( 1983 )などがある。 * 3 現在ではイスラム教の礼拝所も設けられている。 * 4 ジ ェ イ コ ブ・ コ ー エ ン( Jacob Cohen ) 教 授 に 対 す る イ ンタビュー(二〇一二年五月八日)より。 * 5 『ニ ュ ー ヨ ー ク・ タ イ ム ズ』 紙 で は 八 〇 人、 『シ カ ゴ・ ト リ ビ ュ ー ン』 紙 で は 一 一 〇 人 と 報 道 さ れ た( New York Times Jan. 9, 1969 ; Chicago Tribune Jan. 10, 1969 )。いずれ に し て も、 ブ ラ ン ダ イ ス の 黒 人 学 生 の か な り の 部 分 が 立 て 籠 もりに参加したという。   * 6 ル イ・ ブ ラ ン ダ イ ス も シ オ ニ ス ト 運 動 指 導 者 で あ っ た が、 彼 自 身 は 一 九 四 一 年 に 死 亡 し て お り、 大 学 名 に 彼 の 名 を 使 用 す る こ と は ゴ ー ル ド ス タ イ ン の 希 望 と ブ ラ ン ダ イ ス の 遺 族の了解によるものであった( Goldstein 1951: 79-82 )。 * 7 ア イ ラ・ グ ル ッ パ ー( Ira Grupper ) 氏 に 対 す る イ ン タ ビュー (二〇一三年一一月二日) より。 グルッパー氏はジョー ジア州およびミシシッピ州で公民権活動に参加した。 ◉参考文献 池 田 有 日 子(二 〇 〇 四) 「ア メ リ カ に お け る シ オ ニ ズ ム の 論 理 ―― ル イ ス・ ブ ラ ン ダ イ ス に 関 す る 考 察 を 通 じ て」 『政 治 研 究』五一号、五九―九二頁。 中 島 直 忠・ 池 田 輝 政(一 九 七 八) 「第 二 次 大 戦 後 の 米 国 に お け る 高 等 教 育 政 策 ―― 連 邦 立 法 を 中 心 と し て」 『九 州 大 学 教 育 学部紀要(教育学編) 』二四号、八三―九八頁。 野 村 達 朗(一 九 九 五) 『ユ ダ ヤ 移 民 の ニ ュ ー ヨ ー ク ―― 移 民 の 生活と労働の世界』山川出版社。 羽 田 積 男(一 九 九 三) 「ア メ リ カ 型 大 学 の 創 設 と そ の 教 育 ―― ユ ダ ヤ 系 の 大 学 を 中 心 と し て」 『研 究 紀 要』 四 五 号、 一 九 九 ―二一六頁。 Booth, Heather ( 2005 ) Heather Booth statement. Jewish

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◉ 著者紹介 ◉ ①氏名…… 北美幸 (きた・みゆき) 。 ②所属・職名…… 北九州市立大学外国語学部・准教授。 ③生年・出身地…… 一九七二年・福岡県。 ④専門分野・地域…… アメリカ史、アメリカ研究。 ⑤ 学 歴 …… お 茶 の 水 女 子 大 学 文 教 育 学 部( 英 文 学 英 語 学 専 攻 )、 九 州 大 学 大 学 院 比 較 社 会 文 化 研 究 科( 国 際 社 会 文 化 専 攻 )、 メ リーランド大学カレッジパーク校大学院 (歴史学) 。 ⑥ 職 歴 …… 日 本 学 術 振 興 会 特 別 研 究 員( 博 士 後 期 課 程 在 学 中 )を 経て現職。 ⑦ 現 地 滞 在 経 験 …… メ リ ー ラ ン ド 州 カ レ ッ ジ パ ー ク 市( 二 〇 〇 〇 年 よ り 一 年 間、 留 学 )、 ニ ュ ー ヨ ー ク 市( 二 〇 一 一 年 六 月 〜 七 月、 米 国 国 務 省 の 招 聘 プ ロ グ ラ ム に よ り ニ ュ ー ヨ ー ク 大 学 客 員 研 究 員 )、 マ サ チ ュ ー セ ッ ツ 州 ケ ン ブ リ ッ ジ 市( 二 〇 一 二 年 三 月 〜 二 〇 一 三 年 九 月、 ブ ラ ン ダ イ ス 大 学 に て フ ル ブ ラ イ ト 研究員および同大学客員研究員) 。 ⑧ 研 究 手 法 …… 二 〇 世 紀 前 半 に 関 す る 研 究 を 行 っ て い た 時 に は 文 書 館 で の 史 料 調 査 を 主 要 方 法 と し て い た が、 最 近 は、 元 公 民 権 活 動 家 の 同 窓 会 へ の 出 席 な ど に よ り 得 ら れ た 人 脈 を 頼 っ て聞き取りなども行っている。 ⑨ 所 属 学 会 … … ア メ リ カ 学 会 、 日 本 ア メ リ カ 史 学 会 、 北 米 エ ス ニ シ テ ィ 研 究 会 、 北 九 州 ア メ リ カ 史 研 究 会 、 九 州 西 洋 史 学 会 等 。 ⑩ 研 究 上 の 画 期 …… 二 〇 一 一 年 六 月、 ニ ュ ー ヨ ー ク 州 で の 同 性 結 婚 合 法 化 と そ の 数 日 後 に 行 わ れ た ニ ュ ー ヨ ー ク 市 の ゲ イ・ パ レ ー ド。 五 〇 万 人 の 人 出 と 通 過 す る だ け で 三 時 間 か か る 五 番 街 で の パ レ ー ド に 圧 倒 さ れ、 ア メ リ カ の 多 元 性・ 多 様 性 の 究極の姿を突き付けられた思いがした。 ⑪ 推 薦 図 書 …… 野 村 達 朗『 ユ ダ ヤ 移 民 の ニ ュ ー ヨ ー ク ―― 移 民 の 生 活と労働の世界』 (山川出版社、一九九五年) 。

参照

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