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フランツ・ブレンター・一・・pノの時間論(1)
水
地
宗
明 ま え が きこの論文は,フランツ・ブレンターノの哲学的時間論を,幾分詳細に,そし
てある程度まで生成(発展)史的に,叙述し説明しようと試みたものである。
ブレンターノは1868年(30歳)以前から1917年に(79歳で)亡くなるときま
で,約50年間の長期に渡って,もちろん断続的にだが,時間と連続物の研究に
従事し,その間に彼の見解は,二転三転しつつ深められて行った。これに関し
1)て,彼の遺稿の編集者のひとりであったクラウスは,次のように述べている。
時間の問題は,久しい以前から極めて強烈にブレソターノの関心を惹きつけた。 (彼 の)無数の論文が,この問題の解決の方途を探っている。……神の問題を別にすれば, われわれの時間表象の起源の問題および一般に連続性の問題以上に,ブレンターノがよ り頻繁に,より不屈の忍耐力をもって,そこへ帰って行った問題は,おそらく他にない 2) であろう。もちろんそれは,この問題があの最高の形而上学的諸問題と不可分的に結び 1) Oskar Kraus(1872−1942)は元来ブレンターノの弟子Anton Marty(1847一一・1914) の弟子であったが,ブレンターノと直接に接触し,同じくマルティの弟子であった Alfred Kastil(1874∼1950)と共に,ブレンターノの遺稿の編集を(生前のブレソタ ーノ自身によって)委任された。クラワスについては,Neue DeutSC12e捌ogr砂屠2, vol.!2(!980), pp.696−698に簡単な記述がある。また彼自身の自叙伝的記述が次 の書に収められている。Die PhilOSOf)hie der Gegenxciart m SelbstdarstellZ‘ngen, hrsg. v.Raym. Schmidt, vo1,7, pp.161−203、なおむberweg W(1923), pp.502−3,さ らにEncycloPaedia Judaica, vol. X(1934)を参照。 2)次のような問題をさすのであろう。ブレンターノの最終的な見解によると,realな ものは時間的なものである。そしてrea1でないものは,表象されることすらできな い。それにまた,時間は,つまり一切のものの時間的変化は,後に見るように,神の 生(意識)の流れの帰結なのである。2 彦根論叢 第215号 3) 付いているからでもあるが。
そして亡くなる直前の時期にも,ブレンターノは自己の時間論にもう一度手
を入れようと企てていたらしいが,そのことを或る人に知らせた手紙の中で,
彼はこう語っている。「もしかすると私は,これでもまだ研究を急ぎ過ぎたか
4)も知れません。これからは,もっと辛抱強く進むつもりです」と。ついでなが
5) ら,「急ぐ者は学問の地を歩んでいない」と,彼はよく語っていたそうである。なお,彼の時間研究の成果については一三の学派の哲学者たちは一般にこ
れまでそれにほとんど注意を払わなかったようだが一直の学派に属する哲学
者(A.Kastil)は,1938年に次のように評価している。 ある問題に費された努力の大きさのゆえに,その成果を完全無欠とみなすよう誘惑さ れることは,ブレンターノ学派の精神に対して罪を犯すこととなろう。確かに彼の思索 は非常に興味をそそるものである。時間論に関する哲学文献において,明敏さと深さの 点で,それら(ブレンターノの思索)に匹敵するほどのものを他に見いだすことは,ほ 6) とんど不可能であろう。とはいえ,学問の進歩は,それらを超えて進むかも知れない。さてこの論文は,大別して二つの部分から成る。第一部では一よく用いら
れるややあいまいな表現を借用するならば一時間意識(Zeitbewusstsein, Con− sciousness of time)の問題を取扱う。第二部では,時間についての超越的な問 題が扱われる。われわれは多数の時間的諸概念を有しているように見える。例えば‘過ぎ去
った’,‘将来の’,‘以前の’,‘以後の’,‘初め’,‘終わり’,‘変化’,‘継続’,そして‘時間’などである。これらの諸概念,とりわけ‘時間’もしくは‘時
間的なもの’の概念を記述し分析すること,そしてそのためにも,この概念が
形成される源泉となったところの直観一時間に関するわれわれの原体験一
3) O. Kraus (1919), Franx Brentano: Zztr Kenntnis seines Lebens und seiner Lehre, p. 39. 4) A. Kastil (1951), Die PhilosoPhte Franx Brentanos, p. 19. 5) lbid. p. 7: Wer eilt, bewegt sich nicht auf dem Boden der Wissenschaft. 6) Kastil (1938), ‘Zeitanschauung und Zeitbegriffe’, Naturwissenscha.ft zend Meta− physik, Publikation der Brentano−Gesellschaft, p. 107.フランツ・ブレソターノの時間論 (1) 3
を突きとめて,正しく記述すること,これが,ここで理解された意味での,時
間意識の問題である。そしてブレンターノの見解がしばしば変転したのは,特
にこの問題についてなのである。次に超越的問題とは,われわれの意識から独立に,時間あるいは時間的なも
のが存在するのか否か。そしてもし存在するならば,それはどのようなもの
か,あるいはどのような形で存在するのか,といったたぐいの問題である。
1 時間意識の問題
(!)時間の連続性と直線性時間とは何かを十分に定義することは,われわれの研究の最終目標の一つで
あるが,とはいえ研究の出発点において,時間とはどんなものかについて何ほ
どかのことが確立され合意されていないならば,時間(あるいは時間直観)を
探し当てることも,また果して探し当てたか否かを確認することも,困難であ
のろう。それゆえわれわれはここで,時間の連続性と直線性を確認しておかねば
ならない。時間について特別の説を唱える人は別として,一般の人びとの観念によれ
ば,時間は連続的なものである。したがって,われわれの時間直観も,何か連
続的なものの直観でなければならないであろう。しかし連続物とはどのような
ものであろうか。連続物についてのブレンターノの最終的理論はやや複雑であ
るが,今この段階ではわれわれがそれに立ち入る必要はなく,アリストテレス
による連続物の概念規定一これは連続物の,西洋哲学史上最初の定義である
が一を理解しておけば十分であろう。
同類の二つのものAとBが相連なる場合に,アリストテレスによれば,次の
三つの場合が区別されうる。すなわち,(1)単にBがAの次に来るだけで,必ず
しも接触はしない(つまりAとBの境界は離れていてもよい)場合。例えば自
然数2が1に続く場合。この場合,AとBの問に同類の第三のものは介在して
7) Cf. Kastil (1938), p. 8!.4 彦根論叢 第215号
はならないが,異類のものは存在してもよい。例えば一戸建の二軒の家が並ぶ
場合など。(2)Bの境界(一端)がAの境界に隣接し接触している場合。つまり
Aの境界とBの境界は二つであるが,厳密に一つの場所にある場合。この場合,
両者の間には他の何ものも介在しない。(3)AとBの隣接する境界が,単に隣接
するばかりでなくて,いわば溶け合って,一つとなっており,したがってAと
Bも渾然一体となっている場合。
さて(1)の状態にあるBをアリストテレスは相つぐもの(継起するもの,to
ephexes)と,また(2)の状態にあるものを接触するもの(haptomenon,ラテン語訳はcontiguumあるいはcontactumなど)と,そして(3)の状態にあるもの
を連続したもの(問断のないもの,syneches,ラテン語訳continuum)と呼ん
う で区別した。だから,われわれが或る連続物に思考上で切れめを入れて区切るとすれば,
この切れめはその両側の二部分の共通の境界である。また,連続物は思考上で
無限に分割されうるものである。なぜな:ら,連続物の内部には,固定的な境界も不可分なものも存在しないからである。というのは,なるほど人はしばしば
一瞬を幾何学的な一点になぞらえるし,そして点は不可分のものであるけれど
も,しかし点は線の境界(いわば切り口)にすぎないのであって,それ自身だ
けで独立して存在しうるものではないし,線が多数の点から出来上がっている
わけでもない。むしろ点は,ある線一その線はいかに短くてもよいが一に
属するものとしてのみ,つまり線の境界としてのみ,存在しうるのである。だ
から,われわれが幾何学的な線を切ろうとするときに,ある点にぶつかって切
れないという恐れはない。同様に,瞬間が一点的なものであるとしても,この
ことは,時間が無限に分割可能であることを妨げないわけである。
人はしばしば時間を一直線にたとえる。このことは,人びとが時間を連続的
なものとみなしているばかりでなく,一次元的なものとして,またある意味で
まっすぐに動くものとして考えていることを,示している。ブレンターノ自身
8) Arist. Physica, V, 3,フランツ・ブレン随一ノの時間論 (1) 5
も,一貫して時間は一次元的なものであり,ある意味でまっすぐなものである
9)ことを承認している。ヴソトは時間が少しばかり曲っているかも知れぬと主張
10)したのだが,このような主張は,ある特定の一時点が,現在から見て過去であ
ると同時に未来であるという,ブレンターノからすれば容認すべからざる不条
理を含意するのである。時間がまっすぐであるということは,任意の三つの時
点を考えた場合に,その一つは他の二点の間にあること,つまり,この二点の
一方から他方へ,方向を変えないで進むならば,必ずあの第三の点を通過する
11) ことを,意味する。但し幾何学的な直線と時間の間には,一つの重大な差異が見られる。という
のは,一つの直線はその全体が同時に存在しうるのに反して,時問は現在のみ
しか存在しえないはずだからである。なお,時間が過去から未来へ流れるのか,それとも逆に未来から過去の方向
に流れるのか,ということは,さしあたって簡単に断定することはできない。
なおまた,時聞の長さが有限か無限かという問題についても,同様である。と
いうのは,なるほどわれわれの経験する時間は有限であるけれども,時間その
ものが限界を有するということは,この経験からは結論されえないようにも見
J2) えるからである。 9) Kraus (1930), ‘Zur Pha’nomenognosie des Zeitbewusstsems’, Arehiw ftir dte Gesammte Ps:ソchologie, vol.75, p.5およびp.14(マルティのブレンターノ宛の手 紙および時間論講義);Kastil(1938), P.82;Brentano(1976), Phtlosophtscher Un・ terszcchungen xu RLaum, Zett z{nd Kontinuum, p. 84. 10)Brentano(!976),pp.84−85;Kastil(1938), p.82. Wundtの/固所は筆老には不明。 Suarezは,神は過去時を再出現せしめることができると主張した(DisputatiQnes Metaphysicae,50,9,14)が,ヴントの主張は,ブレンターノによれば,スアレスの この主張と実質的に同じものである。 11)Kasti1(!938), p.82.換言すれば,時間はただ一つの方向をもつのみである。 Marty (1916), Raum und Zeit, p. 247. 12)Kraus(!930), p.14(17ページで引用されるマルティの講義の一節)。6彦根言禽叢第215号
(2)第一;期(1868以前一1870以後)13) 14)
第一期の時間論については,僅かのことしか伝えられていない。この時期に
取上げられた主要な問題は,過去・現在・未来という時間的差異の意識がどこ
から生じるか,という問題であった。そして可能な解決の方向として考慮され
たのは,(a)これらの差異は,われわれの心的作用がかかわるところの対象に見 15) いだされる差異であるとする見解(対象差異説)と,(b)対象の差異ではなくて心的作用それ自身の様態の差異であるとする意見(様態差異説)とであるが,
13)第一一一一FS O*,旧注でも触れられているように.マルティがヴ=ルツブルク大学でブレ ンターノを聴講した時期とその前後であるが,上限も下限も不明である。なおく第一 期〉という呼称は筆者の命名によるものであって,ブレンターノ自身がそう呼んでい るわけではない。また,ここで言う第一期理論が,厳密にブレンターノの(時間意識 に関する)最初の意見であったとも断定できない。しかし公刊された文献に伝えられ ているかぎりでの彼の時間論としては,これが最初のものである。この問題に関して は,Kraus(1930), p.2のAnfanglich, p.7のブレンターノのvon der frtiheren Ansicht, p.9のマルティのwiederということばを参照。 14)第一期の時間論は,Wtirzburg大学におけるブレソターノの講義の中で発表された だけで,これに関する彼自身の著書あるいは論文があるわけではない。史料として は,次のものがある。1868年秋から1870年春にかけてヴュルッブルクでブレンターノ の講義を聴いたマルティが,約25年後(1895年)にプラ・・大学でブレンターノの第三 期の時間論について講義したとぎに,第一期および第二期の時間論にも触れており, そしてマルティのこの講義の内容が(その講義の直前に書かれたマルティのブレソタ ーノへの質問の手紙と,それに対するブレンターノの返信といっしょに),1930年に至 ってクラウスによって公表された。注9で引用された文献pp.1−22がそれである。 なおこれの英訳が次の書に収められている。LLMcAlister(ed.), The Philosophy of Brentano,1976, pp.224−239.なおこの他に, Kasti1(1938), p.11でも第一期理 論が紹介されていて(以下で引用されるが),これの方が幾分詳しい点もある。しか しカスティルが,クラウスの発表した史料以上のものを利用したのかどうか,筆者に は分らない。 15)例えば赤と緑の差異とか,こことあそこの差異などは,対象の差異(Objektsdiffe・ renzen)である。ただしく対象〉とはこの場合,心にいわば〈内在する〉対象であ る。それは表象(あるいは判断)の素材(Materie),あるいは内容(Inhalt)とも呼 ばれることがある。Kraus(1930), p.5,注4;Brentano(1924), Psychologie, vo1.ユ, p. XXXI; vol. 2, p. !43, p. 294.フランツ・ブレンターノの時間論 (1) 7
ブレソターノはこの時期には後歩を採った。ところで心的作用には(もう少し
後のブレンターノの理論によれば)表象・判断・情意の三部類があるわけだ
が,このうちで判断作用にのみ,それも肯定判断のみに,時間的様態の差異が
見られる,と彼は考えたのである。 16)この第一期時間論の内容をマルティは,次のように説明している。
ミルとは独立にブレンターノも,およそ25年前(1868−70)に,私が彼の講義を聞い たとぎに,そのような(既述のミルの見解に似た)説を提示した。何かを過ぎ去ったと して(als vergangen),もしくは将来のものとして(als zukUnftig)肯定する者は,な るほど(どちらの場合にも)同一の素材を肯定するのだが,しかし肯定の仕方(様態, die Art der Bejahung)は二つの場合で異なっているのである。 17)カスティルはもう少しことばを補って,次のように述べている。
何かを将来のとして,それから現在のとして,それから過去のとして肯定する者は, 同じものを三回肯定するのだが,しかしその度ごとに違ったふうに肯定するのである。 だから,あたかも判断が質に関してまず二種(肯定と否定)に分化するように,判断の 肯定的な質にも,さらに三種が区別されるべぎである。すなわち現在態過去態および 未来態が(ein modus praesens, ein mGdus praeteriti und ein modus futuri)。つまり,カスティルによると,判断作用はその当時ブレソターノによって,
質の面からは次のように区分されたというわけである。
判 断 肯定的 否定的 現在態 過去態 未来態 16) Kraus (1930), p. 9. 17) Kastil (1938), p. 91.8 彦根論叢 第215号 否定判断に関しては,第一期においても (第三;期と同様に),このような時 エき
間的様態の差異は想定されなかったようである。その理由は次のようなもので
あったと思われる。すなわち,ブレンターノによれば,動詞は承認(Anerken−
nung)つまり肯定判断という心的作用の言語的表現であり,動詞そのものは
一般に否定的作用を表わさない。それゆえ,動詞が時間的差異を表現するとす
れば,時間的差異は肯定判断のみに備わる差異であろう。 (つまり,否定判断
に見られる時称は,実はそれに対応する肯定判断の時称だということであろう
か。)かくして,ある対象Aをわれわれが現在態で肯定するならぽ,「Aはある」
と判断したことになり,その同じAを過去態で肯定するならば,「Aはあっ
た」と判断したわけである。〈あった〉,〈ある〉,〈あるだろう〉という時間的差異は,判断対象に備わるものではなくて,判断作用の様式の差異であり,そ
れをわれわれが内的に知覚することによって,時間的差異がわれわれによって
意識される,ということであろう。さてブレンターノが以上の結論に到達した理由ないし動機は,次のようなも
のであったらしい。a.言語(古典語を含む西洋諸言語が主として考慮されたのであろうが)に
おいては,過去・現在・未来の区別はコブラによって,あるいは一より一般
的には一動詞によって表現される。実際動詞はドイツ語ではく時間語〉
(Zeitwort)とも呼ばれるくらいである。但し動詞は通例述語内容(したがっ
て対象の属性など)をも表現するが(例えば「その犬はよくほえた」),コブラ (つまり,ドイツ語の場合,。ist”とか,,ist gewesen”とか)は,対象内容をではなく,判断作用を純粋に表現しているように思える。そして一般に動詞は
コブラと述語内容とに分解され得るのである。例えばrよくほえた」は「よく
18)第三期に関しては,Kraus(1930), p.8, Marty(1916), pl 200f.参照。 19)Kraus(1930), p.8(ブレンターノの手紙の一節およびマルティの時間論講義の冒 頭);Brentano(1911,1959), Ps ychol. vol.■, p.148;Marty(1916), p.200;KastiI (1938), p. 9!.フランツ・ブレンターノの時間論 (1) 9
ほえるものであった」と言い換えられてよい。そこで,コブラも時間的差異を
表現するのだから,時間的差異は判断作用に見いだされる差異である,と考え
られる。b.アリストテレスの著書にも,時間的差異は判断の差異であるという見解
を暗示する個所がある。とはいえ,アリストテレスの確たる意見は不明である。
けれどもトマス・アクィナスは,アリストテレス『命題論』への注釈(第9章
の
への注)において,命題を5つの異なる観点から5通りに区分している(トマ
スの意見では,この区分はアリストテレスその人の説であった)が,そのうち
の一つが時間による区分である。すなわち,その5通りとは,(1)一性(unitas)による区分(一つの命題が単純に一つであるか,それとも二つ以上の単純な命
題が接続されることによって複合的に一つであるか),(2)質による区分(肯定 と否定),⑧量による区分(全称,特称,単称,不定称),(4)時間による区分(現在時に関する,過去時に関する,未来時に関する命題),(5)素材による区分
(主語と述語の関係が必然的か,不可能的か,可能的か)である。そしてこの
最後の〈素材による区分〉(divisio enunciationum secundum materiam)の例 としてトマスは,「人間は生きものである」(必然的素材をもつ命題)と,「人 間はロバである」 (不可能的素材をもつ命題)とを挙げている。さて判断の区分とは,判断作用の区分であるが,判断作用をその対象の差異
に従って区分することも可能である。しかし上記の5通りの区分のうちでは,
対象の差異による区分であると思えるのは,せいぜい最後の区分のみである。
なおブレンターノとその弟子たちは,判断対象を判断の一もしくは表象の
22)
一素材と呼び,判断作用を判断機能(Urteilsfunktion)と呼ぶことがある。
このことが,当時,ブレソターノあるいはマルティをして,時間的差異はトマ
20) Thomas Aquinas, ln Arist, Libros Peri Hermeneias, Lib. 1, Lectio XIII, nn, 2−3 (p. 64, Spiazzi). 21) enunciatio de praesenti, de praeterito, de futuro. 22)例えばマルティの時間論講義(Klraus,1930, p.9);K. Stumpf(1919),‘Erinne・ rungen an Franz Brentano’(Krau$,19!9所収), p.136i,10 彦根論叢第215号
23)スの意見では判断作用の差異だと推定せしめたことに,あずかっていたかも知
れない,と私は想面する。しかし後年マルティは,アリストテレスのみならず, 24)スコラ哲学者たちのこの点についての見解も明瞭ではないと述べている。
さてブレンターノ以前に,時間的差異を判断作用の差異とみなす明確な見解
を発表していたのは,J. S.ミルのみであるという。ミルのその見解は,ブレンターノ自身が認めたところでは,彼の第一期理論に一致するのであるが,し
ヨのかしブレソターノはミルとは独立に自己の理論を考案したのだという。われわ
れはここで,ミルの見解一それはブレンターノの説とは表現を少しく異にし
ているので,この点からしても,われわれにとって有益であろう一を一瞥し
ておこう。 ラJ,S.ミル(1806−1873)は,『論理学の一体系』のある個所で,命題の時称
の差異について論じている。1843年(つまりマルティがブレンターノの講義を
聴いたときより25年以上も前に)に初版が出たミルのその書は,著者生存中に
8版(第8版は1872年)を重ねたが,当該個所については,初版以来最後ま
で,何らの訂正も加えられていないようである。さてミルはその個所で,まずホッブズその他の人びとの次のような説に反
対している。すなわち,ホッブズなどの意見では,例えばCaesar is deadと
23)Kraus(1930), p.9.ただしそこでもマルティは断定を避けて,そのように推測す ることもでぎようと言っているだけである。なおKastil(1938), p.91参照。 24) Marty (1916), p. 200. 25)K「aus(1930), P・7のブレンターノの手紙の一節:……(die frtthere Ansicht),die ich einmal, unabhtingig von Mill, aber in Ubereinstimmung mit inm gehegt,・・・…. なおミルの時聞論に関しては,Marty(19!6), p.200, Kastil(1938), p.91をも参 照。ブレンターノは幾度かミルに会おうとして遂に果さなかった。彼が最後に(1873 年,ブレンターノ35歳,ミル67歳)ミルの招きでパリから二仏アヴィニヨンにミルを 訪ねようとしていたとき,後者は急死した。ミルの書簡集に,ブレンターノ宛の手紙 が数通収められている。ただし時間論は話題にされていない。Collected WOrks of John Stuart Mill, vol. XVII, University of Toronto Press,ユ972.なおブレンター ノ,Ps:ychol.∬, p。62参照。 26)J.S. Mi11, A SystemげLogic,1,4,2(Collected Wosks, VII,1973, Toronto and London, p. 81).フランツ・ブレンターノの時間論 (1) 11 Caesar is not deadという二つの命題において,主語(Caesar)とコブラ(is) ヨアラ は共通であり,ただ述語つまり‘dead’と‘not dead’のみが異なるのであるが, ミルの意見では,‘is’だけでなく‘is not’もコブラであり,この二命題の述語 は,共通に‘dead’なのである。
そしてその後で,これと相似た性質の問題として,時間の差異(difference
of tense or time)についての問題をミルは取上げたのである。すなわち,例 えば次の3命題The sun did rise, The sun is rising, The sun will riseに見 られる時間的差異を,述語の変容(a mere modification of predicate)とみなす人があるかも知れないが一つまり,上の3命題はそれぞれ,The sun is an
object having risen, The sun is an object now rising, The sun is an obiect to rise hereafterと言い直せるのであって,主語のみならず述語も三者に共通である(したがって,ブレンターノの言い方だと,判断作用は等しくて,対象が異
なる)というわけだが一ミルはこの説に反対して,次のように主張した。
このような単純化は,ことばの上だけのものであろう。……過去・現在および未来は, 述語にではなく,述語の特定の主語への適用可能性にかかわる。われわれが過去の,現 在の,もしくは未来のものであるとして肯定するところのものは,主語が意味するもの でもなく,述語が意味するものでもなくて,歴然として明瞭に,述語づけ(the predi− cation)が意味するところのものである。……それゆえ時間状況は,述語にではなく, 述語づけの記号であるコブラに付属するとみなされるのが,適当であろう。以上のように,ミルの意見では,命題における過去・現在・未来の時間的差
異は,述語のではなく,述語づけ(コブラ)の差異であるのだが,このことを
〈心理学的に〉そしてブレソターノ式に表現するならば,時間的差異は判断の
素材(対象)の差異ではなく判断作用の(様態の)差異である,あるいはそこ
に源泉を有する,ということになる。その意味で,ブレソターノの第一期理論
がミルの所説に一致するという,ブレソターノ自身の見解は,妥当であるだろ
う。但しミルは‘is’と‘is not’を同等にコブラとみなしているのだから,否定 27) Cf. Hobbes, De Corpore, ch. 3, n. 6 and n. 15.12 彦根論叢 第215号
判断の時間的差異に関しても,肯定判断と同じように考えたのかも知れない,
と私には思われる。第一期理論はしかし,特に一つの致命的な欠陥のゆえに,間もなく一そし
てわれわれからすると,いかにもあっけなく一放棄された。というのは,こ
の理論からすると,時間は連続的なものではないことになるからであった。な
ぜなら,ミルも当時のブレンターノも,判断の時間的様態を,単に現在態・過
去態・未来態の(離散的な)3種のみと考えていたのである。しかるに連続物
が有限数のものから成り立つことは不可能である。われわれの有する時間概念
は,連続的なものの概念であり,したがって,この概念の源泉となる直観も,
連続的なものの直観でなければならない。だが,現在・過去・未来の3態の判
断作用だけでは,連続物を構成することができないはずである。
(3)第二期(1870以後一1894)第二期理論の第一期理論に対する根本的相異点は,過去・現在・未来の時間
的差異の起源を,判断作用とか,その他一般に心的作用の差異ではなくて,判
断の素材(対象)の差異に求めたこと,に存する。そして第二期理論のこの根
本的見地は,第一期理論の破綻という消極的理由に加えて,次のような考慮に
基づくものであったらしい。
空間内での位置の移動について考えてみよう。aという位置にある一つの赤
い点が,別の位置bに変位する場合,途中の空間を連続的に通過するであろ
う。そしてこの赤い点の場所的規定も,〈aに位置する〉赤い点からくbに位
置する〉赤い点へ,さらには〈cにある〉赤い点へ,というふうに変化する。
ところで,この場合の〈aにある〉,〈bにある〉などの規定は,対象の差異で
あって,心的作用の様態の差異ではない。換言すれば,それらはあの赤い点の
述語である。心的活動者の述語ではない。つまり,aにある赤い点が, bに位
置する赤い点となったとき,〈赤い〉という質的規定に関しては,その点は不
28) Kraus (1930), p. 9; KastH (1938), p. 91. 29) Kastil, (1938) p. 89.フランツ・ブレンターノの時間論(1) 13
変であるが,場所的規定に関しては,別種のものとなったのである。
さてそこで,これと類似のことが,現在から過去への変位についても,言え
ないであろうか。すなわち,現在から過去へ,さらにもっと以前の過去への連
続的変位は,対象差異の変化ではあるまいか。つまり,堪るものが,〈今ある
もの〉からくさっきあったもの〉へ,さらに〈もっと以前にあったもの〉へと
変化する場合,そのものの述語内容が変ったのではないだろうか。
しかしもしそうだとすれば,時間の一点のみがではなくて,何ほどかの長さ
の時間が,つまり現在の一瞬だけでなく何ほどかの過去を含む時間の延びが,
われわれによって直観されるのでなければならない一あたかも何ほどかの空
間的距離が直観されうるように。そこでこのような考え方から構築されたの
が,ブレンターノのく根源的連想〉の理論である。
だれかが「ドングリコロコロ ドンブリコ」と歌うのをわれわれが聞く場合
に,例えば「グ」という音を聞き始めたときに,先行した「ド」と「ン」はわ
れわれのの意識から消え去っているのではなくて,これらもまだ意識内に現在
し,ある意味で,まだ聞こえている。ただし「ド」と「ン」と「グ」が同時の
音として聞こえるのではなくて, 「ド」は「ン」に,「ン」は「グ」に先立つ
音として聞こえるのである。このように,われわれがある瞬間に何かを外的に
知覚するならば(例えば物体が動くのを見たり,あるメロディーを構成する一
つの音を聞く場合),その表象内容は一瞬の内に消失するのではなくて,直後
30)の極めて短時間われわれの意識内にとどまっている。しかもその間,その表象
30)ER. Clay, The Alternatzwe:AStt{dy in Psyehogogy, London,1882(ただし匿 名で出版)が命名し,W. James, PrinciPles of Psychology,1890によって有名にな つた‘specious present’(見かけの現在)が,ほぼこれに相当するであろう。他の人び とはこれを心的現在(mental present)などと呼んでいる。 L. W. Stern,‘Psychische Prtisenzzeit’, Zettschrift fdrr Psychologie, 13, 1897, 325−349; G. 」 Whitrow, The エ〉盈‘rα♂PhilosoPhy of Time,1961, p.78;E. G. Boring, Sensation and perception in the History of ExPerim, ental PsychoZogy,1942, p.602.なお水地「スピーシァ ス・プレズント」,「松山商大論集」20巻3号,1969,67−92参照。 なおSternに関しては, Brentano(!956), Die Lehre wom richtigen Urteil, p.323, 注146におけるKastilのコメントを参照。14 彦根論叢 第215号 31)
内容は,質的にも強度の点でも不変であるようだが,ただ一つの観点において
連続的に変化する。それは,時間的性格の変化である。つまり,他の点では全
く同一の表象内容(対象)が,だんだん過去へ押しやられ,次第により多く過
去のものとして現われるわけである。さて表象内容のこのような時間的変位は,当時のブレンターノの意見では,
われわれ自身の心のある特別な作用によって引き起こされるのであって,この
心的作用を彼は根源的連想(ursprttngliche Assoziation),あるいは以前知覚(Protertisthesie)と呼んだ。ここでく根源的〉という形容詞は,この作用が経
験的に獲得されたものでなくて,全く生得的なものであることを意味する。通
常の意味での連想作用は経験や記憶に依存するものであるので,それと区別す
るために,このような形容詞が添えられたわけである。彼はまたこの作用を想
像力(Phantasie)の作用とも呼んだが,連想も想像も,本来の意味でのそれで
はなく,適切な用語が見当らないために近似的な表現が借用されたと考えるべ
きであろう。またそれが以前知覚と呼ばれたのは,感覚的知覚に特有の鮮明さ
がそれにそなわるからである。それが本来の意味での知覚の一種だというわけ
ではない。根源的連想および第二期理論全般については,マルティがプラハ大学での講
義(1895年)のなかで分かりやすい説明を与えているので,長文ではあるが,
ここに引用しておきたい。 このこと(時間は,知覚に含まれる表象作用の対象において直観されるという説)は 31)Brentano(1928), Psychel. M:, p.48.ただしこれはブレンターノがずっと後(!914 年)に述べていることである。第二期に関しては,この点についての確かな史料がな さそうである。しかし,「知覚された内容を再生する」というマルティのことば(15 ページ)およびシュトゥンプの「それと質的に等しい」ということば(18ページ)を 参照。なおフッサールは,後に引用される彼の講義において,違ったふうに証言して いる。 32)後にはProterastheseと呼ばれるようになった。「過去知覚」の意。 33)Kasti1(!938), p,89.なお以下で引用されるマルティの講義(15ページ)をも参 照。フランツ・ブレソターノの時間論 (1) 15 運動(の知覚)に関して特に明瞭に妥当するように思われた。 私がこの鉛筆をぐるりと円を描いて動かす(振回す)のを諸君が表象する場合,諸君 は単に一点に位置する鉛筆を表象するのではない。もしそのように表象するのであれ ば,諸君はこの鉛筆を静止するものとして表象するであろう。そうではなくて(円周) 軌道上の異なる諸点に位置するものとして,これを表象するのであるが,しかしそれら 諸点上に同時にあるものとしてではなくて一もし同時にだとすれば,鉛筆が動いただ けの軌道の長さをもつ(輪のような)一つの物体を諸君は表象するはずであろう一む しろ軌道上の諸点に順次に,より以前,より以前に(frUher und frUher)あったもの として,これを表象するのである。しかもその場合この事実一一つまり,この鉛筆がよ り以前,より以前に(異なる位置に)あったということ一一は,他に類のない独特な仕 方で直観的に諸君に現前している(ist gegenwartig)のである。この直観は,ある独特 な想像活動(Phantasietatigkeit)のしわざである。といっても,それは通常この(想 像という)名称で呼ばれている種類のものではない。なぜなら,通常の想像活動は完全 に独創的な(originelDものではなくて,経験と獲得された(後天的)性向に基づいて のみ産出されるものであるから。これに反して,過去時間のこの(直観的な)表象にお いては.絶対的に新しい何かを一経験の内には,それに類似する何ものも与えられて 34) いないような何かを一われわれはもつ。現在のものであったものを,次第次第により 過去のものとして(als frUher und fr曲er vergangen)私が表象することによって,或 る絶対的に新しい成分が私の表象の内にはいりこんで来るのである。そしてそれゆえに ブレソターノはこの想像活動を,獲得された連想に対比して,根源的連想(urSprtingliche Assoziation)と名づけたのである。 つまり彼はこう考えたわけである。いわゆる〈根源的連想〉によって,すなわち,あ る特別の生得的な(angeboren)想像活勤によって,あらゆる感覚表象あるいは知覚表象 35) に,連続的な一連の想像表象が付着し,そして後者は知覚された内容を再生するばかり でなく,同時にそれを次のように変化させ,あるいは変容させる(vertindern oder mo. 34) だれかが自分の見たこともない怪物を空想するとしても,この怪物の主要素は,彼 がかつて知覚したものであろう。他方プPtテレステーゼにおいて直観あるいは想像さ れる時間的変化は,知覚的経験に由来するものではなくて,プロテレステーゼ自身が 独創的に産出する,というわけである。 35) kntipfe sich an・・・… .
16 彦根論叢 第215号 difizieren)のである。すなわち,それに過去という成分一しかも,だんだん以前の 過去という成分一を付加し,その結果,知覚内容がいわば時間的に変位したように見 えることになる,というふうにである。 この想像活動一これを彼はまた以前知覚(Proterasthesie)とも呼んだのであるが 一はずいぶん生き生きしており,その程度たるや,万人が,自分は運動を,あるいは 一般に変化や継起を知覚すると,(例えば)運動を見るとか,メロディーを聞くなどと, 36) 確信するほどである。 (多数の)直観的想象表象から成るこの連続物の大きさは,あまりに緩慢でない運動 が知覚されえ,またメロディーがメロディーとして認知されうる程度である。とはい 37) え,その持続は,数秒の数部分(Bruchteile von Sekunden)以上には伸びない。私が 諸君の前で話す一つの交の全体は,このような直観的な仕方で諸君に現前しない 講 義全:体は言わずもがな一で,実に短時間後に消失してしまう。その後は諸君は,獲得 された記億によって,全く普通の仕方で,以前に存在したものを再生するほかはない。 このことは,運動の場合を例に取ると,諸君に最:も分かりやすくなると私は思う。 なぜ草の伸びるのがわれわれに見えないのであろうか。それは,その運動があまりに も緩慢で.この特殊な直観的活動の中に落ち込まないからである。感覚内容をしっかり と保持して,それを時間的に押しずらすこの想像活動が仮にもし無制限であったなら ば,草の伸びるのも見えるにちがいない。われわれが十分長く眺めているならばであ る。 もう一つ例をあげてみよう。時計の秒針が動くのを諸君は〈見る〉。ではなぜ時針(の 動き)を見ないのだろうか。明らかにそれは,時針の運動が非常に緩慢なので,運動を直 観的に諸君の前に展示してくれるあの想像活動の領域内にはまりこまないからである。 この短い,ひとかけらの過去がしかし,われわれの直観的な時間表象のすべてなので 36)後に引用されるフッサールの講義の最後の部分(23ページ)を参照。しかしクラゥ スは次のように注記している。過ぎ去ったものは感覚を呼び起こしえないという意味 では過去のものは知覚されえないが,プロテレステーゼは一種目過去直観であるとい う意味では,過去のものは知覚されうると。Kraus(1930), p.12. 37)英訳者はfractions of secondsと訳している。しかしKasti1は一秒の数部分 (Bruchteile einer Sekunde)と解している。 Brentano(1956), pp.319,323.いわゆ るspecious presentは通例数秒(2∼5秒くらい)と解されている。ジェームズ説 では12秒内外。水地(1969),p。74参照。
フランツ・ブレンターノの時間論 (1) 17 ある。もっと遠い過去については,われわれはそれの褒象を概念的に形成するだけであ る。また未来の概念も,あの直観の内に与えられている〈より以前〉とくより以後〉 (Frliher und Sptiter)への類比によって,形成されるのである。この点は,空間直観 の場合と事情が相似ている。われわれに直接に直観されうる空間部分は非常に僅かであ る。われわれの視野は異常に狭い。にもかかわらず,何と,この少額の資本で巨富を築 くすべを,われわれは心得ている。われわれは概念的に空間を無限のかなたにまで延長 するのである。同様に(時閥の場合にも),小さなひとかけらの時間直観 それをあ の想像活動はすぐさま再び手放してしまうのだが から出発して,際限もなく長い時 間の概念をわれわれは形成し,「何百万年」などと言うのである。 われわれに直観的に与えられており,またさらに(付け加えて)われわれが概念的に 構成するところの,これらの時間的諸規定の全体は,一本の無限の直線に類比的なもの である。すなわち,その種ぱ(直線上の各点が場所的に別種のものであるように)一次 元内で変って行ぎ,しかも可能性としては無限のかなたにまで変り続けるのである。換 言すると, (時問には)その本性上最終的な種は存在しないのであって,怪聞直観が具 体的にどのような限界をもつかは,単にわれわれ自身に固有の構造(Organisation)に よるにすぎない。また時間直観の持続の長さも,個人により,感覚の種別によって,異 なりうるであろう。 3g) これらの時間の諸種(die Zeitspezies)は一つの連続物を形成しており,したがって, 常に多数の,否,無限に多くの種がいっしょに与えられているわけであるから,それら の間に成立する諸関係もまた,あの時間直観の内に常に与えられている。そしてこのこ とが,時間は一般的に言って何か関係的なものにすぎない,という周知の謬見 例え ばライプニッツの意見では,時間は先後の関係(das Nacheinander)である一を育成 したのである。実際には,もちろん時間は先後関係ではなくて,かえって後者は時間の 存在を前提しているのである。〈より以前あるいはより以後〉は,絶対的な時間的規定 39) を前提している一つの時借的関係なのである。場所の場合と全く同様に。
以上が,マルティの時間論講義のうちで,ブレンターノの第二期理論の内容
紹介に関する部分である。なお同じくブレンターノの弟子であったカーール・シ
38) プロテレステーゼによって直観される時間。 39) Kraus (!930), pp. 10−14.18 彦根論叢 第215号
ユトゥンプ(1848−1936)も,第二期理論について,簡単に次のように伝えて
いる。 (シュトゥンプ自身は第二期理論の講義を聴いたわけではないが,1873
年9月に彼はブレンターノから講義用プリントのようなものを貰っていて,そ
れに基づいて報告しているようである。) 時間意識をブレンターノはその当時次のように記述した。すなわち,一つの(外的あ 4e) るいは内的)知覚の各瞬間ごとに,その知覚内容によって,それと質的に等しいが, しかし出る境界まで時間的に自己を押しずらせる表象が,呼び起こされる(ausge16st werden)。この場合,彼の意見では,(現在,近い過去,より遠い過去などの)時間徴 表は,内容的(対象的,inhaltlich)規定であった。この規定の一様な変化は,まさにこ の一意識に特有の一法則性に従っているのである。彼はこの過程を,記憶の獲得 された連想’に対比して,‘根源的連想’と名づけた。複数の印象a,b,c,dが継起す るならば,第二の印象がやって来たときには,最初a b c d
のものは,上のような仕方で,すでに時間的に沈降 して(vertieft)いる。以下も同様。このことをブ レソターノは,ここに示すような図によって具象化 した。 この図で横線は客観的な時間の流れを,また各回 における垂直線は,その時その時の表象内容を意味 する。…… 41) a b a c b a あの最初の時間論には,次のような論理学的な理論も結合していた。すなわち,命題 の時間的差異は,それは動詞の時称によって表現されているのだが,」.S.ミルの説の ように,判断機能(Urteilsfunktion)と関係するのではなく,判断素材(Materie des Urteils)にのみ,かかわるのである。「昨日は嵐が荒れ狂った」と私が言うならば,私 のこの肯定(Bejahung)は,現在時称での肯定と異なるものではなくて,肯定されたも の(内容das Bejahte)のみが異なるのである。ちょうど判断が,空間的に遠い対象に 40)かっこ内もStumpf自身のことばである。内的知覚にもプロテレステーゼが伴なう ということは,マルティもフッサールも伝えていないが,:否定してもいない。しかし 後にはブレンターノは明確にこれを否定した。Brentano(1976), PP・108−113. 41)実際には最初でなくて,第二期の理論である。フランツ・ブレンターノの時間論 (1) 19 かかわる場合と,近くにあるものにかかわる場合とで(機能的に異なりはしない)よう 42) に。
E.フッサール(1859−1938)は,1884年から1886年まで足掛け三年間ヴィ
43>一ソ大学でブレンターノを聴講した。その約20年後(1904−5)に彼は,ゲッ
チンゲン大学で彼がおこなったある講義の一部分において〈時間の現象学〉を
取扱い,その際議論の出発点として,彼がかつて聴講したブレンターノの(第
二期の)時間論を紹介し,かつ批判した。そして彼のこの時間論講義は,さら
に23年後の1928年に,M.ハイデガーによって編集公干Uされた。この講義にお
いてフッサールが十分正確にブレンターノの講義内容を紹介しているか否か
は,確認しがたい点もあるが,ともあれ彼の叙述は何ほどかわれわれの参考と
なるように思われるので,入手しやすい史料ではあるが,その一部分をここに
44) 訳出してみよう。 ブレンターノは(時間の源泉は何かという問題への)答を根源的連想の内に見いだし 45) たと信じる。つまり「颪接的な記億表象の,すなわち例外を許さないある一つの法則に 従って,その時その時の知覚表象に何らの媒介もなしに付随する(anschliessen)記憶 42) Stumpf (1919), pp. 136f. 43)E.Husserl(1919), Erinnerungen an Franz Brentano(Kraus,1919所収), P.153. 44) E. Husserl (1928), Vorlesungen zur Phlanomenologie des inneren Zeitbewusst− seins.ただし以下の訳文は, Husseriana Bd. X(1966)所収の原文(R. Boehm編, pp.10−13)によって訳出したものである。なおフッサールがこの講義をおこなった 当時,すでにブレンターノは第二期理論を放棄していた。そのことをフッサールは, 当時は知らなかったとしても,とにかくクラウスによれば出版の時点(1928年)より はずっと以前に知っていたはずであるが,そのことはこの本のどこにも断わられてい ない。 45) マルティおよびシュトゥンプの報告の中では,根源的連想は記憶とは呼ばれていな い。しかしクラウスは「瞬間的記憶」(momentanes Gedachtnis)という用語一だ れの用語か不明であるが一を,根源的連想と同義の語として挙げている。Kraus (1930),p.13.なおMarty(1916), p.231でも直接的過去意識はく直接的記憶〉 もしくは〈根源的記憶〉と呼ばれてもよいが,これらの形容詞は,それが本来の意味 での記憶でないことを示す,と述べられている。20 彦根論叢 第215号
46) 表象の,発生」の内vc。 われわれが何かを見る,聞く,もしくは一般に知覚する,ならば,規則的に次の事態 が生じる。すなわち,その知覚されたもの(知覚内容)がしばらくの間われわれ(の意 識)に現前し続けるのだが,ただし修正(変容)を受けることなしにではない.という 事態が。他の変化,例えば(知覚内容の)強度や充実度一これらは,時にはより少な 47) い,時にはより目だつ程度に現われるが一の変化のような変化を別にしても,まだも う一つの,しかもとりわけ独特な(一風変わった)変化が,そこに確かに認められうる のである。すなわち.意識の内にとどまり続けるこの種のものは,大なり小なり過去の ものとして,いわば時間的に押しずらされたものとして,われわれに現われる。例えば 一つのメPディーが聞こえる場合に,個々の音は刺戟一ないしは,これによってひき 起こされた神経運動 の停止と完全に同時に消失するのではない。新しい音が発生す るとき,先行した音が跡かたもなく消え失せているのではない。もし同時に消え失せる のだったら,継起する音と音との間の関係にわれわれが注意することもできないはずで あろう。その場合,われわれは各瞬間に一つの音を聞くだけだろうし,場合によって は,二つの音の合間に,音のとぎれ(休止)を経験するだろうが,メロディーを表象す ることは決してないであろう。他方において,音の表象が意識内にとどまり続けるだけ で,事足りるのでもない。それだけのことならば,われわれは一つのメロディーの代り に,同時に響く複数の音の和音.いやむしろ調和を欠く騒音を聞くことであろう。すで に響いたすべての音を仮にもし同時にわれわれが響かせるならば,得られるであろうよ うな騒音を,である。あの独特な変容(Modifikation)が加わることによって,つまり 感覚の一つびとつが,それをひき起こす刺戦が消失した後でも, (自己に)相似た内容 の,しかし一つの時間的規定を付与された表象を自己自身の内から呼び起こすことによ って,しかもこの時問的規定が継続的に変化して行くことによって,初めてメロディー の表象が可能となる。この表象内では,個々の音はそれぞれが一定の位置と一定の時間 量をもつ。 かくして次のことが一つの普遍的な法則なのである。すなわち,与えられた一つびと つの表象に,自然的に,一連の連続的な表象群が伴ない,このそれぞれが,先行した表 46) この引用符は,フッサールがブレンターノの講義から引用していることを示すので あろう,と編者Boehmは推定している。 47)上の注31を参照。フランツ・ブレンターノの時間論 (1) 21 象の内容を再生するのだが,しかしそれぞれがその新しい(再生された)表象に過去 (もっと過去)という成分を付着させるのである。 かくして想像力(Phantasie)が生産的であることが,ここでは独特な仕方で判明す る。ここには,想像力が表象の真に新しい一成分を,すなわち時間という成分を,創造 する唯一の場合が見いだされるのである。かくして,われわれは想像力の領域で,時間 表象の源泉を発見したわけである。ブレソターノに至るまでの(彼を除くすべての)心 理学者たちは,この表象の本当の源泉を見つけ出そうとして,むなしく努力した。これ (この失敗)は,主観的時間と客観的時間の混同という,たしかに理解しやすい理由に よるのである。この混同が,心理学研究老たちを惑わせて,ここに横たわる真の問題を 彼らが看取することを妨げたのである。 (なぜなら)多くの研究者は,こう考えた。時 間概念の源泉の問題は,色や音などの概念の源泉の問題とは違ったふうに答えられるべ きではない。われわれがある色を感覚するのと同じ仕方で,われわれはまたその色の持 続をも感覚するのである。質と強度がそうであるように,時間的持続もまた感覚の内在 的一成分である。外的刺戟は,物理的過程の形態(の違い)によって(感覚のいろいろ な)質をひき起こし,過程の生き生きrした力によって強度を,また刺戟の継起によっ て,主観的に感覚された持続をひき起こすのであると。だがこれは明白な誤りである。 刺戟が持続すると言うことによっては,感覚が持続するものとして感覚されるとは,ま だ言われていない。それは単に,感覚もまた持続すると言ったにすぎない。感覚の持続 と持続の感覚とは別のことである。そして継起の場合も(持続の場合と)全く同様であ 48) る。諸感覚の継起と継起の感覚とは同じことではないのである。 持続と継起の表象を(一般に)心的作用の持続と継起という事実に帰着せしめようと 48)Cf. Boring(!942),p.575;「英国経験主義者たちは(1655年にホッブズが,1690年 にロックが,1710年にバークリが,1739年にヒュームが)こう言った。時間の観念は 観念の継起から生じる。つまり心は一つの時間的次元を有していて,この次元はそれ (心)の他の諸特性が知られるのと同じ仕方で知られるに至るのだと。しかしこの見 解には一つの誤りがひそんでいる。観念の継起は継起の観念と同義ではない。リード (1785)とトマス・ブラウン(1820)はこう指摘した。二二の知覚はだから記憶に依 存しなければならない。一系列の先の諸項は,それらが後の諸項と結合して.一つの 知覚された継起という複合体を構成するためには,引き留められ(be held over)ね ばならないと。ジェームズ・ミル(182のも同じ見解を述べた。そしてウィリアム・ ジェームズ(1890)は……」。
22 彦根論叢 第215号
欲する人びとに対しても,全く同一の反論をわれわれは当然おこなわねばならない。け れども今は,とりわけて感覚に関してこの反論をわれわれは完遂したいと思う。 次のこと,すなわち,われわれの感覚が持続する,もしくは次々に継起するが,われ われはそのことに少しも気づかない,なぜならわれわれの表象が時間的規定を全然含ん でいないからだ,ということは,考えられ得ることである。例えば一つの継起の場合を 考察してみよう。そして諸感覚が,それらをひき起こす刺戟の消失とともに消え失せる と想定してみよう。すると,われわれは諸感覚の継起に出会うだろうが,何らかの時間 の流れ(ein zeitlicher Verlauf)というものを予感すらしないであろう。新しい感覚が 登場したとき,われわれは無論先の感覚が存在したことをもはや記憶していないであ 49) ろう。各瞬間にわれわれは,まさに今産出された感覚の意識をもつだけで,それ以上の ものを何ももたないだろう。また,すでに産出された感覚が継続するとしても,それは われわれが継起の表象を得るのを助けてはくれないであろう。 (例えば)音が次々に継 起する場合に,以前の音が最初に響いたのと同じままで存続するならば,そしてそれと 同時に新しい音が次々に響くならば,われわれは同時に響く複数の音の総和を表象内に もつだけで,音の継起を表象することは決してないであろう。そしてこれは,それらの 音がすべて同時に響く場合と,少しも異ならないであろう。もう一つ別の例をあげてみ よう。運動の場合に,動いた物体が仮にもしその時その時の位置にあるものとして不変 のまま意識内に保持されるならば,通過された空間が連続的に(物体で)満たされたも 50) のとしてわれわれに現れるであろうが,しかし動きの表象をばわれわれはもたないであ ろう。以前の感覚が意識内に不変のまま居残るのではなくて,独特な仕方で変容する, しかも刻々に絶えず変容することによって初めて,継起の表象が与えられるのである。 51)感覚(の内容)は,想像へ移行する際に,絶えず変化する時間的性格を得る。だから (表象の)内容が刻々に,より多く押しずらされたものとして現われるのである。この 変容はしかし,もはや感覚の仕事ではない。それは刺戟によってひき起こされるのでは ない。刺戟は現在の感覚内容を産出するだけだ。刺戟が消失するならば,感覚も消失す る.しか嚇京焼やそ縮身が創造的である.感覚は,(記と)内容的に等しい努ミ, 49)過去の観念を有しないから。 50)上のマルティの分かりやすい説明(15ページ)を参照。 51)原語はerhtilt.英訳者J. S. Churchi11はpreservesと訳している。 52)上の注31および47参照。フランツ・ブレソターノの時間論 (1) 23 あるいはほとんど等しいが,時間的性格が加えられて豊富になった想像表象を呼び起こ す。与えられた表象への,時間的に変容させられた(新しい)表象のこの連続的な結合 を,ブレソターノは〈根源的連想〉と名づける。(そして)彼のこの理論の帰結として ブレンターノは,継起および変化の知覚を否定するに至った。われわれはあるメロディ ーを聞いていると信じる。したがって,たった今過ぎ去ったものをもまだ聞いていると 53) 信じる。だがこれは仮象にすぎない。この仮象は,根源的連想の(知覚に劣らないほど の)活き活きとした新鮮さに起因するのである。 以上は, r内的時間意識の現象学』における, ノの第二期の時間論の紹介の中心的部分である。