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斎藤喜博『わたしの授業』の一つの読み方-斎藤喜博のカウンセリング・マインド-

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(1)Title. 斎藤喜博『わたしの授業』の一つの読み方-斎藤喜博のカウンセリング・ マインド-. Author(s). 若原, 直樹. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. C, 教育科学編, 46(2): 19-32. Issue Date. 1996-02. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/2110. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 平 成 8 年 2月. 北海道教育大学紀要 (第1部C) 第46巻 第2号 lo f Hokka i do Un i l i i i t t Journa ver on(Sect s onIC) Vo y ofEduca ‐2 .46 , No. Februar y ,1996. 斎藤喜博 『わた しの授業』 の一 つの読 み方 ~ 斎 藤 喜 博 のカ ウン セリ ン グ・ マイ ン ド ~. 若. 原. 直. 樹. は じめ に. 斎藤喜博 ( 19 11~1981 ) は, 戦後の日本の教育実践と授業研究に多大な影響を与えた‐ その膨大な著作に 残された彼の授業論は, 独特な内容と用語法に満ちている‐ これらの著作が執筆された時代は, 今日の授業 研 究 に お ける コ ン ピ ュ ータ の 利用 が ある の でも なく, ビ デ オテ ー プの 記 録 に よ る 授 業 分 析 が あ る の で も な. い‐ ただ, 純粋素朴に斎藤自身の目と耳による観察をもとにして, 授業に対して斎藤個人の感じるさまざま な省察を述べているのである. そうした仕事の集大成は 『斎藤喜博全集 第一期 18巻』 および 『斎藤喜博 全集. 第二期 12巻』 におさめられている‐ その大部分は, 斎藤の観察した授業についての, 彼自身による. 解説や批評である‐ したがって, そこでわれわれ読者が読む授業は, いつでも斎藤の目を通して語られる限 りでの授業である. 斎藤の感覚する主観と他方の授業それ自体の客観を, われわれが見比べて斎藤の主観の 当否 を 論 じる こと は できな い.. しかし, その数少ない例外がある. 授業をテー プから起こして逐語記録と してまとめた 『介入授業の記 録』 と 『わたしの授業』 である‐ 中でも 『わたしの授業』 は, 斎藤自身が試行した授業をそのまま文字にし た記録であり, これによってわれわれは斎藤の授業を, 彼の言葉を通さずに直接に知ることができる‐ と ころ が, そ こ に掲 載 された 授 業 の 数々 を 読ん だ と しても 意 外な こと に 多 く の 人々(筆 者 を も 含 む) , ,. は,「授業の名人」 と斎藤が呼ばれたことを納得するだけの, 瞳目すべき見事な授業者ぶりをそこに見ること はできない‐ 何らか感動的で奇跡的な授業展開のパフォーマンスがあるのを期待して 『わたしの授業』 を読 むならば, 肩すかしを食うのである‐ むしろ, 多くの教師の日常の授業と斎藤の授業に, さほど大きな違い があ る よ う に は見 え な いと い うの が正 直 な と ころ で ある‐. 斎藤の評論や解説に見られる, 彼独特の深遠で高進な授業観と, 一方彼自身のおこなう授業の平凡さとの このギャッ プを埋める理解をつくる必要を筆者は感 じていたのだが, それはなかなか得られずにいた. しか し, 筆者 が近 年, ロー ジ ャ ズ の 諸論 稿 を 読 み, か つカ ウ ンセ リ ン グの 研 修 会 (ワ ーク シ ョッ プ) に 参加 す る. 機会を重ねていたとき, 期せずして, カウンセラーや研修会講師の指導 (カウンセリ ングの用語で言うなら ば, 「指 導」 と い う よ り は 「態 度」 と いう べ き である が) と 『わ た しの 授 業』 に おける 斎藤 の指 導 に は 同質 , のも の が ある こと に気 づ く こ と が で きた‐. 本稿は, 両者の一致を斎藤の授業記録にもとづいて具体的に検証して, 斎藤喜博の授業方法の本質がカウ ンセ リ ン グ・マイ ン ドに基 づ く 教 育 に あ っ た こ と を論 証 しよ う とす る も の である‐ カ ー ル ・ ロ ー ジ ャ ズ (Car I LOger 02~1987 ) が 「非 指示 的療 法」 とい うカ ウ ンセリ ン グの 理 論と 実 践 sl9. を創出して心理学と心理療法に大きな足跡を残したことは周知であるが, 彼はまたその理論を 「学生中心の 教授」 「非指示的授業」 として教育の実際場面にも適用すべく研究していた‐ 「私たちは学習者中心法 ( l ‐ ea mer-centered p ) r ocedur e s. を 大学 の コ ース に適用 す る こと を試 みた.. …. その方法は教えるという試みを. 1 ( ) や め て, その かわ りに学 習 を促 進 す る 状 況 をつく りだ す よ う試 みる の である‐ 一 ロ ー ジ ャ ズ は, 「意 味 の ある 19.

(3) . 若 原. 直. 樹. 学 習」 の行 なわ れ た と きに人 間 が成 長 す る 点 で は, カ ウ ンセ リ ン グも 教 育も, そ の 本質 に おいて 何 も変 わ り はな い と考 える の である. カ ウ ンセ ラ ー が 直 接 にク ライ エ ソトを治 癒 する の ではなく て, た だカ ウ ンセ ラー とク ライ エ ソトとの く関. 係のあり方〉 が治癒するのだと考えるロージャズは, 通常の教育についてもそれと同様の観点から 「意味の ある学習」 を促進する教育の条件について述べている‐ 本論で見るとおり斎藤の授業を見ると, まさ しく ロージャズが 「われわれは, 他人を直接的に教授することはできない‐ われわれはただ, 他人の学習が容易 2 ( )と言うとおり 斎藤は子どもを直接に指導するのではな に展開するようにすることができるだけである」 , く, 子 ども と の学 習促 進 的 関係 をつく る こと に専 心 して い る こ と が見 て とれ るの である‐ さて, ロー ジ ャ ズ は, 『治 療 と教 育 に おけ る意 味の ある 学 習』 と いう論 文 の 中 で, 「意 味の ある 学習」 の た. 3 )を挙げているのだが 以下 斎藤の 『わたしの授業 が大部分においてその4条件にかな てい めの4条件{ っ 』 , , る こと を, 順 に 指 摘 して みよ う‐ と はい っ て も, 斎 藤 がロ ー ジ ャ ズ の 仕 事 か ら何 か を 学ん でい る と いう直 接 的な 関係 が ある の ではない‐ た だ, ロー ジ ャ ズが 自 分の膨 大 なカ ウ ンセリ ン グの 記録 の 中 か ら成 功 事例 を と. りだしてそこに何らかの共通の条件はないかと研究したのと同様に, 筆者も斎藤の授業事例の中から, どの 事例にも共通していて, なおかつロージャズとも共通している条件が含まれていないかを分析 したのであ る.. 1. 問題との直面 「教育への第一の示唆は 学生が自分の生活の中で関係している問題に どの程度であっても, 現実的な , , か かわ り が で きるよ う に さ せ, そ れ に よ っ て 解決 したい と 思 っ て い る 問題 に気 づ か せるよ う にす る とい うこ 4 ( ) と であろ う‐ 一 大学 の 正 規 の 講 座 よ りも 自主参 加 の公 開講 座の 学 生 の 方 が 良 く 学 ぶ と い う 事 実 か ら, ロ ー ジ ャ ズ は, 「意 味 の ある 学 習」 と い うも の は, ま ず 学 生 の知 覚 して いる 〈問題> が あ っ て こそ 始 ま る の だ, と. い話である‐ 強調する. この見解は, 教育を実践し研究する者のほとんどの人の同意を得られるわかりやす‐ しかし論点は, では公開講座とは違って自主的に来るわけではない学校児童の授業において, 「意味のある 学 習」 を どの よう に引 き起 こす か である‐ 斎 藤 は授 業 に お いて, どの よ うに 子 ども を 「問題 と直 面」 させ るの だ ろ う か.. それを見てみると, 学習課題や発問を, 決して斎藤の都合によって 「上から」 唐突に子どもに投げかける の で はな い とい う こ と である‐ あく ま でも 子 ども に則 して, 子 ども にあわ せて, く問題〉 を そ こ で つ く り 出 す‐ ( 1 ) 子 どもの 「いま」 を知 る.. 周知のように, 斎藤が自分の授業を公開して見せるとき, 国語の詩の授業をすることが多いのだが, 初対 面の子どもを相手に詩の授業をつくりだす際に, 必ず, 子 どもそれぞれに教材を自由に音読させることから 始める‐ 一人一人の読む姿勢を見, 読む声を聞きながら, 斎藤はその詩に対する児童の理解の程度や授業に 向かう意欲や理解を知り, 授業のすべり出しを考えるのであろう‐ 具体的に言うと, 「な る べ く 大 きな声 を 出 して 一 回読 ん で見て下 さい‐ 」 , , 「一 人一 人 で バ ラ バ ラ に 読 ん で下 さ い. 」 , 「一 人 読 ん でも らいま しょ う か あ なた 読 ん でみて.」 . , ,. 20.

(4) . 斎藤喜博 『わたしの授業』 の一つの読み方. な どと 言 っ て 子 ども た ちの 読 み方, 読 む声, テ キス トをた どる 目, そ の姿 勢な どか ら, 子 ども の 「し・ま」 を モ ニタ ーす る こ とか ら授 業を 始 動 させる‐ ま ず, 子 ども に活 動 さ せ, そ れ を 見 るの である. あ る演 出家 との 対 談の なか で, 斎藤 はこう述 べ て い る‐ 「いま の お 話 の 中 で, 『子 ども の心 の 中 に 何 か が始 ま る. そ れ を待 っ て, 教 師が 子 ども への 攻 撃 を か けて いく』 とい う こと が 出ま した が, これ は教育 の 本 質, 5 ( 授 業 の本 質 を 鋭く 指摘 な さ っ て いる と 思 うん です- 」 に の,「何 か が始 ま る, そ れ を待 っ て一 とい う 斎 藤 の こ. とばに表われているとおり, 彼は授業に先立って不動の学習指導案を堅持するのではなし・ . そもそも斎藤 は, 授業に先立って計画を立てておき, どれだけその計画通りにできたか否かで授業を値ぷみするという発 6 { ) 想 を して いな い‐ 「若 い と きか ら授業 案 と い うモノ を あま りつ く っ た こと がな か っ た‐ 一 と い う‐ も ちろ ん 十. 分な教材研究を済ませての上ではあるが, それをどういう順で展開していくかについては, その場にのぞん でか ら子 ども に 応 じて 決め る の で ある‐. ( 2 ) 子どもの疑問から授業を出発させる‐ そして, 斎藤の場合, 子 どもたちの音読がやんだあと, 彼らに対して決してかねて用意の, 選びに選んだ 特別の発問を投げかけるというわけではない‐ ただ正攻法で, 読み終えた子どもたちに対してその詩や物語 の大意や感想をたずねるのである‐ または, 読めなかった漢字やわからない言葉をたずねる. 斎藤 : どん な こ と が 書 いて あ っ た? この な か に. (・・ 子 ども た ち 無言 ・ ・) 大 きな へ び が で た こ と が 書 いて あ っ た ?. 斎藤:いまきいていて, 頭へず-と, ことばや景色が浮かんできま したね. どんな景色が浮かんでき た? 斎藤 : どこだ っ たか な, 『秋の. … 』‐ その次はなんと読んだらいいかねえ.. 斎藤 : そ れ で, わか らな いと ころ が あ りま す か. 言 葉 でも な ん でもわ か らない と ころ が あ っ た らきいて く だ さ い‐ こ う 言 っ て 斎 藤 は, 授 業 の 切 り出 しに お いて 子 ども の 現 状 を知 る こと につ と める‐ いわ ば, 「診 断」 す る の である. そ して, 子 ども の疑 問や 理 解にも と づ いて そ こを 契機 に して授 業を 出発 さ せよ う とす る‐ きわ めて. 単純な出だしである. 何も, 特別の技巧を用いない. ( 3 ) 子どもが熟考するように, 二つの選択肢の形で 〈問題〉 を示す. では, 子 ども か ら何 も <問題〉 が 出 て こな い と きに は どうす る か‐ も しこれ がカ ウ ンセ リ ン グな ら, そ う い うと き はカ ウ ンセ リ ン グの 場 を解 除す る と ころ で ある. 本 人 が 必 要 と して い な いと きに は, カ ウ ンセ リ ン グは成 立 しな いの だか ら. しか し, 教 育 の 場 合 はそ う い うわ け に はい か な い‐ こ こがカ ウ ンセ リ ン グと 教 育 の 根 本 的な相 違 で ある (カ ウ ンセ リ ン グでは, 「問題 と直 面 させ る」 の を意 図す る こと はあ りえ な い). そ こ が, 斎 藤 の 授 業 は 「カ ウ ンセリ ン グ・マイ ン ドに 横 溢 して いる (カ ウ ンセ リ ン グそ のも の で はなく)」 と 本 稿. で述べる所以である‐ 教育の場合, もしも子どもから発言も何も出ない場合には, さすがに教師の方から何 らかの問いをしないわけにはいかない. こう いう と きに, 斎 藤 の と る方 法 は, 教 材 に 対 す る二 つ の 解 釈 を 自 ら示 して, 子 ども た ち がそ の どち らの. 解釈をとるかを訊く方法である. 斎藤 : そ れ で は, きいて みま す け ど 『森 の はず れ』 の, 『はず れ』 と い うの は, 森の 中 で す か, 外 で す 21.

(5) . 若 原. 直 樹. 7 ( ) 力).. 7 ( ) 斎 藤: この夕 日 は, 落 日 です か‐ そ れ とも, 太 陽 が沈 んだ あとの夕 方 の 光 ですか‐ どっ ち です か. 斎 藤: そ の 次に 『と ぼ りと ぼ り雪 の 上 を あゆん で きたと き』 に, 雪 はふ っ て います か, ふ っ て いま せん か. ふ っ て る? ふ っ て な い?◎ この よ う に子 ども に 選 択 肢を 提示 す る方 法を, 斎 藤 はよく 実 行 す る‐、そ の 場 合, 「結 局, メ ロス は 間に 合 っ たの, 間に合 わ なか っ た の」 と い う正 解 のわ か りき っ た 答 え を 問いか け る, よ く 見 ら れ る 教 育 的 挑 発 と は. 違って, どちらとも即答はできかねる微妙な選択肢を投げかけるところに斎藤の特徴がある‐ メロスの例の よ う な わ か り き っ た 問 い では子 ども は く問題〉 に 向か う 必要 はなく, 教 師に 向か っ て しま う‐ しか し, 二 つ の, 見 分け にく い選 択肢 を与 える と, 子 ども は (おと な でも) く問題〉 に 向か いやす い. 瞬 間, そ の どち らに ,. なるのか, 思わず考え込んでしまうのである‐ 自分なりに考えて, どちらかを自ら選んで回答したくなる発 問 である. つま り <問題〉 は最初, 子 どものものではなく斎藤の提出した問題なの である が, 子 ども は, つ い, その問題をひきとってしまうのである‐ そうした発問は, 斎藤のよく練られた教材研究からつくり出さ れ て い る のだ が, こ こ での 要 点 は, 選 択肢 の 形 で 問う とい う, そ の方 法 である‐. ( 4 ) 「聴 き, さ らに 訊く」 こ とに よ っ て 子 ども の思 考 を促 す. これら( 2 3 ) ( )の方法によって子どもの意見を聞いた後, 斎藤は, 先ず第一に, 自分の質問に答える子どもの 返 答 に 耳を 澄ま せ て, それ を よく 理 解す る こと につ と める‐ そ して 第 二 に, も しそ の 返答 に不 明の と ころ が あれ ば, そ の 子 ども に さ らに質 問す る (「発 問す る」 の では. なく)‐. [纂 [ 豊も ど ‐の い. 漕. 三 三 三 星 憂 [ 曇 藁電 ご盈蓄華 算 喜 宅幸ふまので, 表. . - . ‐ 言 : 言 を蒙す ぎ 言 [ 憲三家々 菅島竺蛋員驚喜 誓 曇 , 一 もちろん授業の要所においては, 斎藤の方から重要な発問を投げかけることもあるのだが, その場合でも 発問の重大さにかかわらず, それがこの授業の要点だとは誰にも気づかれないほどにさりげなく投げかけら れ る こと が多 い. 多く の 場 合, 上 の よ う に子 ども の 意見 にか らむ質 問の 形 で行 な われる の である‐ 子 ども の. 思考がそこにまで及んできたときにはじめて, 斎藤は間髪を入れずに, 重要な発問を質問という形で投げか けるのである. はためには, それが果たして子どもの意見を聞き返す 「質問」 なのであるか, それとも斎藤 の 事 前の 準 備 か ら生ま れ た 「発 問」 である の か, その 区別 が つ け られ なし・ほ どの 自然 さ である.『わた しの授 業』 を一 読 したと きに感 じる ケ レン味の な さ, 表 面 的な凡 庸 さ は, ここ に起 因 して いる‐. i [露 髭 茎 ≦憲二 . わ か ないれ [憲二湯す & が 勧 22. より. ら ・・.そ. 。,. こうなの か, こ っ ち な の か‐. で,あなた. いう. すき 吋 なの, 伽 .あるの F,.

(6) . 斎藤喜博 『わた しの授業』 の一つの読み方. 生 徒: 雪 が 降 っ て い る と きに, 親子 で何か を しゃ べ っ て いて, じっ と 父 が 子 ども に何 かを 教 え て い る‐ 斎 藤: 今 の 人 は, こう (「雪 が 降 っ て い る と きに」 と) い っ て い るわ け です よ‐ そ こ で あ い ま い な の は 1 4 ね, 「雪 が 降 っ て いる と き に」 とい うの は, ず ー っ と 前か ら話 を二 人 が して い るの ?(). 書 ミニ 誉 誓 表 言 言 き i え麗麗; 馨 茎 要 言 [ 喜 憂謙三 上 善 霊 響 …. わ か らな い よう に した ん だ と思 いま す.. 1 5. () て わ か らな い よ う に した と い うん だ ね. だれ が 消 した の? だ れ が消 したと 思う ?. [義 三要 ;川‐一 という 伊. ‐ .. ぞ うし 一 の.うがいいの ぞ うし. 6 1 ) ( た の.. 溌鷺. )( )( 3 )で例示したとおり, 要するに斎藤はまず子どもに先手をとらせ, 子どもの指したその先手を 以上( 1 2 見て, それに合わせて自分の問いを投げかけ, 再び子どもに思考を促すようにつとめるのである‐ 前述 の, 「『子 ども の 心 の 中 に何 か が 始 ま る. そ れ を 待 っ て, 教 師が子 ども へ の攻 撃を かけて いく』 と い う こと が 出ま した が, これ は教 育の 本質, 授業 の 本質 を 鋭く 指 摘な さ っ て い ると 思 う ん です. 」 と い う言 明 は,. 自分の授業方法の正当さを確認したことばでもあった‐ 斎藤は, ある教師の授業を 「相手に出させること 1 ( のと 厳 しく 批 評 した が 「何 と, 相 手 の 出 した 事 実 を捉 え る こと が でき ない か ら, 処 置 も で きない ん です ね.」 , か が 始 ま る, そ れ を 待 っ て」 とい う言 明, そ して この, 「相 手 に 出 させ」 て 「そ の 事 実を 捉 える こと」 とい う. 言明に, 斎藤の指導法の真髄がうかがえる. このように, 子どもの思考の流れに乗って, その文脈の中の不明部分に着眼してそれを子ども自身の眼前 に浮 き彫 りにす る 斎藤 の方 法 は, 「自分 の 問題 に直 面 す る」 こ と か ら教 育 は始ま る と考 える 点 で, ロ ー ジ ャ ズ. のあげる第一条件と一致している‐ ただ し,( 2 )の 選 択 肢 を 与 え て 問 いか ける 方 法 に見 られる と お り, 子 ども が 先 手 を さ してく れ な い場 合 に は 教 師 が刺 激 を 与 える と こ ろ は, カ ウ ンセ リ ン グと は異 なる. ロー ジ ャ ズ な らそ う い うと き, ず っ と 沈 黙 を 続 けて, ク ライ エ ソ トの こと ばの 生ま れ るの を いつ ま でも 待 っ て い る だろ う‐. 2‐ 教師が真の自己であること ロ ー ジ ャ ズ は, 意 味 の ある 学 習の 起 こる 第 二 の 条件 と して, 教 師 が 「一致 ( )」 して いる こと を congruence あ げる. 「一 致」 と は, 人 が 「ある がまま の 自 分 である 一 - - 仮面 をか ぶ っ て い るの でも なく, ある 役 割 を 8 1 ( } 演 じて いる の でも なく, 何 か 見 せか けて いる の でも ない 一 - - と いう こと である. 」. これを教育に適用するのは難しい‐ なぜなら, 教師にはいわば三層の主体があって, 第一に生身の人間で あり, 第二に教師であり, 第三に授業者で, 場面によってこの三つを使い分けることは当然のこと である (と考 え られて い る) か らで ある‐ つ ま り, 教 師 と して 事前 に学 習 指 導案 を あ らか じめ計 画 して おいて, し. かも授業中にはそれを子どもに気取られないようにして授業者を 「演ずる」 のがふつうであるから,「仮面を か ぶ らず, 役 割 も演 じず」 と いう の は教 育の 世 界 で はで きにく い こ と で ある.. の. 「一致」 していない授業. 授業におけるコミュニケーショ ンは日常のそれとは異なり, 教師は自分で答えを用意していながら相手に たずねるという特殊性を持っている‐ そうした作為でもって授業をしているとき, 教師は 「不一致」 の状態 23.

(7) . 若 原. 直. 樹. である (知 らない かの よ う によ そ おい な が らたず ね る, と いう 意味 で). 子 ども が 学 年を重 ねて 大 きく な っ て く る と そ の 不 自然 さ に気 づ いて, しだ い に応 答 を控 える よ う に なる. ロー ジ ャ ズ の 説か らす る と, 教 師 がそ うい うア ンフ ェ ア な態度 では, 「意 味 の ある 学 習」 は起 こ らな い とい うのだ が, 斎藤 に あ っ て は, どう で あろ うか‐. 斎藤においても, 子 どもの問題から出発する授業の創出に失敗している事例もある‐ 普通一般の授業に見 られ る と 同 じに, 斎 藤 の用 意 した発 問を 子 どもた ち に ぶつ ける 場面 である‐ しか し, そ れ は斎 藤 にと っ ての. 不本意な方法であるように見える.『わたしの授業』 の中には, 初対面の, 有名な (と聞かされている) 斎藤 に対面するために生徒が緊張しているのであろうか, 子 どもの消極的なままの低調な授業もある‐ こういう 授業 の と きに, 斎藤 と い え ども, わか りき っ た 正 解 を次々 に子 ども に言 い あて させ る,、教 師の 「不 一致」 な. 平凡な発問をせざるをえないでいる. 斎 藤: と ころ で, おか ん は, 何 を して い る の. 生徒: ひ ば りの声 を じっ と 聞いて い る‐ 斎 藤: それ で, だれ が 「だ ろ う な」 と 言 っ て い る の?. 生徒:作者. 斎藤:作者ですね‐ どこで, だれが 「だろうな」 と想像しているの.( … ) 第二蓮になると何の声を 聞い て いる の 生 徒: 牛‐ 斎 藤: う ん, 牛 は どこ でな いて る の‐. 生徒:里. 斎藤:里ですね‐ 斎 藤: この 牛の声 は, 現在 聞 こ えてい る の を 聞いてい る の だね‐. …. どう なの かな, そ う か な‐ ‐ハイ 1 9 ( } ) ハイ, 大ち が い‐ 文 章 を みてく だ さい. 賛成 の 人. (子 ども たち 手 を挙 げる.. 斎 藤 の最 後の発 言 (「ノ・イ, 大 ち がい‐ 」) に象 徴 さ れる と お り, これ らの 発 問 はす べ て, 正 解を 知 っ て いて. 子どもにたずねている. おそらく, 初対面のおとなしい子どもたちに対してわ ざと容易な発問をすることに よ っ て 子 ども を授 業の リ ズ ムに の せ よ うと して, こう いう 発 問を 続 けるの だろ う が, こ ういう 単 純発 問 が 多. い斎藤の授業記録は, 読んでいてもやはりつまらない授業になっている‐ もちろんそれには, 斎藤自身も十 分気がついている. 子どもが挙手も発言もしないので, 斎藤がいちいち指名 して返答させているし, 授業が 2 0 { ) 十 分 に広 が っ て はいか ないの で, 思わず 「みな さん は想 像力 が 貧 困 だ ね. 」 と 嘆 息しても いる‐ この よう に, 自分 で はす でに答 えの知 っ て いる 教 師 が, しか し教師 と いう立 場 上 子 ども に発 問す る と い う 授 業 で は, 子 ども は, 第 一 に たず ね られて いる気 が せず, む しろ 「ため され て い る」 と感 じる で あろ う. 第 二 に, そ の た め に子 ども は自 分の 意 見を すす ん で は言 い にくく, 「先 生の 答」 を あて る構 え にな る‐ つ ま り,. 子 どもは 「かれ (教師) がこの仮面の背後に, 真に感じているのは何か, 彼が真に経験しているのは何か, と疑 い たく なる の である‐ … ・このような関係では, 防衛はとれず, 意味のある学習や変化は起こり得 な い.一四 ゆ えに, 教 師 は自分 の知 っ て いる ことを きく と い う, この よ う な 「不 一 致」 状 態 (そ れ が 普 通 は 「発 問」 と いわ れて いるの だ け れ ども) を で きる だ け 避 ける 必要 があ る . ,. ( 2 ) 子どもの解釈をたずねる しか し, 授業 に おいて, 教 師が 「自分 の知 らな い こと を きく」 の は, どの よ うに して 可能 だ ろ う か‐ 24.

(8) . 斎藤喜博 『わたしの授業』 の一つの読み方. 斎 藤 が, 子 ども に 自分 の 「知 らない こ と」 を 聞いて いる 具 体例 を あげる‐ 授 業 の 冒頭 で, 子 ども に 音 読さ. せた後の最初の発問がそうである. みな さん が 思 っ た こと, この 2 2 } ( お話 を 聞い て 思 っ た こと を, どう いう 言 葉 でも い い です か ら言 っ てく だ さい ね.. 斎藤:皆さんが読んで, またきいていて, どんな感じがしたかね.. …. 斎藤 : そ れ は どん な情 景か, 頭 へイ メ ー ジを つく っ て下 さい‐ おかん が, どん な 山の どん な, どの へ ん に, どん な か っ こう を して い るん だ と い う こと を, 映画の場 面 の よ うに, 皆 さん の 頭 の中 に絵 を 節) つ く っ て 下 さ い‐. こ う い う場 合, 斎 藤 はあくま でも 子 ども ひ と りひ と りの 解釈 に 耳 を傾 ける こと にな る. つ ま り, 常識 的 な 正 解 な らも ちろ ん 斎 藤 は知 っ て は いる の だ が, 目の前 のそ の 子 ども が どん な こと を考 える子 ども である か に つ いて は斎藤 はま だ 知 らな い. この よ う に 回答 そ のも の に 関心 を 持 つの な ら, 知 っ て いる ことを 問う不 一 致 の 状 態と な る が, 回答 す る 人 間に 関心 を 持つ の な ら ば 「一 致」 の 状態 に と どま れる の である‐ こ れがカ ウ ン. セリングの精神である‐ その場合子どもは, 教師 (斎藤) の求めている答えを推し測る必要はなく, 自分の 意見を表現すれ ばよい‐ 3 ( ) 子 どもた ち の 意 見 の 中 に 「差異」 を見 つ ける.. 自分のもつ正解を当てさせる類の発問を逃れるための, 斎藤の具体的な方法は, 二つの理解を示して子ど も にそ の 選 択を ゆ だ ね る, 前述 の 方 法 で ある. つま り, 隠 され て い る ひ とつ の答 (そ れ は教 師 によ っ て 「隠. されている」) を当てさせる授業ではなく, 子どもが二つの答の間で葛藤する授業をつくるのである. そ の 場 合 た と え斎 藤 が どち らか の 解 釈に確 信 をも っ て いた に して も, そ こに ひ きよ せ る こ とを め ざ して 子. どもたちを指導 (誘導) する意図は, 斎藤にはない‐ ただ, その対照を契機にして, 教材に対する解釈を深 めて ほ しい とい うの が 斎 藤 の希 望 であ る ら しい.. そしてもっとも自然なのは, 子どもたち自身のなかからそうした対立が生まれて, それをめぐる議論が子 どもたちの間で始まる場合である‐ そうなれば教師は, 生ま身の自分と教師としての自分の 「不一致」 にお ち い る 危 険性 を も たず に, カ ウ ンセ ラ ー の よ う に公 平 中立 に, 司 会 の役 に 徹す る こと が で きる‐. 斎 藤 : なる ほ ど, そ う です か. いま の 人 おも しろ い こと い っ た‐. … 一軒だけ貧乏なんだろうって‐. この へ ん どう か な ? み な さん, ほか の 人 は? 一 軒 だ け貧 乏, ほか はみん な だ い じん? <こ の あ と, 子 ども た ち に 意 見 を求 め て, そ の あと〉 そ う す る といく つ も 説 が 出た ね‐ 一 軒 だ け びんを誓う‐ そ れ か ら, だ い じん が一 軒 あ っ て, あと は 2 4 ( } み ん な 貧 乏. も う ひ とつ な い か な‐ 全 部 が 貧 乏 と い うの はない ? 村 じゅ う貧 乏‐ 斎 藤 : うー ん, 心 がや さ しい‐ さ あ, こん どはだ れ か あるか な‐ は は-, 「不 思 議 なよ う だ」. は はあ, そ ち らの 人も 「静 か」 と いう こと ばを 使 っ て, 今の 人も 「さ び しい と こ ろ」 と か, 「静 ) か」 と いう こと ばを 使 っ て いる ね‐ はい, あなた は三%. 斎藤 : (森 春樹 の 詩 『指』 の一 節, 「乳 房 を ま さ ぐっ た 彼 の 日の 感 触 よ」 につ い て) 乳房 を ま さ ぐっ た‐. 誰の乳房? …. はい, あな た, 誰 の乳 房 ? 25.

(9) . 若. 原 直. 樹. 生徒:自分. 斎藤:自分の. ほう自分説が大変多いね. 私が言ったもんだから, みんなそれになびいちゃっ たんか . はい, そ のう しろ. 生 徒: お母 さ ん. 斎 藤: お母 さん. 今度 はお母 さん と 言 う人 が出て きた‐ 自 分の と い う の と, お 母 さ ん と‐ ま だ あ る か. な‐ あなたどう? 生 徒: 彼 の. 斎 藤: 彼 の, な る ほ どね. 三 色出 て きた‐ 自分 のだ と いう 人, お母 さん と言 う 人, ぜ んぜん ち がう 第 三 2 6 { ) 者 だ. 彼 だ. さあ, どう か な‐. このように, 斎藤が子どもたちの意見の中にある差異をもとに考えさせたり, みずから二つの選択肢を示 して考えさせる前述の方法は,<問題〉を子どもの中から生成させる役割をもっていると同時に, 斎藤が主導 的に子どもを誘導して 「教師役」 を演ずるのを避ける役割をも果たしている. そしてわれわれが授業記録を 読 ん でいる と, こう いうや りと りの おこな われ て い る 部 分 が, 確 か にそ の 授業 のハイ ライ トにな っ て いるの を感 ず る の であ る‐. ( 4 ) 問答式をやめて, 斎藤が自分の理解・教養を講義する. 斎藤の 「わたしの授業」 を読んでいて意外に思われるのは, 授業の 「名人」 と呼ばれる斎藤ではあるが, 子 どもに問うのをやめて自分の理解や教養を, 長い時間をかけて子どもに一方的に話すことが珍しくないこ と である‐ 通 常 の意 味 でい う 「授業」 で はなく 一 種 の 「講 義」 の よ うに, 斎 藤 はと きと して 自 分の 教養 を 遠. 慮なく披涯する. もちろんこうして直接知識を教えるのは一般的にはよい授業とはいえないのだが, しかし斎藤が披漉して いるほどの水準の理解や知識に問答によって到達させるのは不可能である‐ もしそれを, 発問や指示を小出 しにして子どもをその理解にまで導く方法にすると, 「無条件の受容」 (後述) とはならず条件づきで子ども を是認する教師主導型の授業に入ってしまう‐ そしてそのような指導は教師 (斎藤) を, そのことを知らな いかの顔をして授業するという 「不一致」 の立場にも立たせる. そのことを斎藤は拒否して, それよりは本 来の自分の姿のまま講義をする方法を選ぶのであろう, と筆者は解釈する.. 3. 無条件の積極的理解と共感的理解 ロー ジ ャ ズ に よ れ ば, こ れ は 「受 容」 と も 表 現 される の だ が, そ れ は, 相 手 の 「よ い,. 積極的な成熟し. た, 自信のある社会的な感情の表現を受容するのと同時に, 否定的な, 悪い, 悲痛な, 恐ろしい, 異常な感 7 2 ( ) 情の 表 現 をも 受 容す る こと である. 」 つま り, カ ウ ンセ ラ ー (教 師) が 何 らかの 条件 を示 して, 相 手 を 自分 に 従 わ せ よ うと する も の では な い‐ 相 手 を ある がまま に, そ れ と して 認め る こと である‐ ロー ジ ャ ズ の 言 うセ ラ ピー に お ける この条 件 が, 一 般 の教 育 の場 面 で は, 他 の 条件 に比 べ て も っ と も適用. しにくい条件であると言わなけれ ばならない‐ なぜなら, 教育においては学習指導案で 「授業目標」 を明示 することに端的に表われるとおり, 子どもを導くだけの目標をあらか じめ教師が先に持っていて, 子どもの 今の言動がその目標に照らして プラスであるかマイ ナスであるかをつねに価値判断しなくてはならない‐ つ まり, 学校の教師は生徒を 「無条件に」 受容することはできない. 教師のもつ目標に適している意見ならば 26.

(10) . 斎藤喜博 『わたしの授業』 の一つの読み方. 大いに受容することはできるのだが, それにはずれた意見を受容するわけにはいかないのである 斎 藤 は, この 問題 を どう 解決 して い る だ ろ う か‐. ( 1 ) 自分の理解と異なっていても, 子どもの解釈を認める. 第 一 に, ロ ー ジ ャ ズ と 同 様 に, 自 分の 目標 を 取 りさ げて, 子 ども を 無条件 で受 容す る場 合 が ある‐. 自分とは異なる解釈を子 どもが示した場合どうするかについて斎藤は明言しているわけではないが, 少な くとも 『わたしの授業』 においては, 教材について子どもの解釈が絶対的な誤解ではない限り, それとして 容認 して い る‐ た と え ば, 『絶句. 杜甫』 の 「江 碧 に して. 鳥い よ い よ 白く」 の と ころ で, 斎 藤 は鳥の 数 を 問. 題 に した.. 斎 藤: 白い 鳥 は どれく らいい る の ? 一羽 ? う ん, 一 人一 人 で言 わ な い で, ぱ っ と 言 っ ち ゃ っ て. 児 童: -羽 (口々 に)‐ 斎 藤: うん, 一羽. 一 羽 と い うイ メ ー ジね‐ う ー ん, 一 羽 か な‐ 五 十も 六 十 も いな い ん か な‐ どっ ち が いい か な‐. ) … … ( 略. どう して一 羽 の ほ う がい い の ? どう して 一 羽 と 決 め た の. あ な. た, ど う ?. 児 童 : 何か きれ い だ し, 何 か, 五 十羽 と か いる と, う よ うよ して い る 感 じ‐ 斎 藤: あ あ, うる さく な っ て しま うね. なる ほ どな‐ じゃ, 先 生も そ う なる かな. 一 羽 に して おく ほう. がいいね.. …. ・ (略) ・・揚子江が広々と流れている‐ しかもそれが, 深い青みどり, その. 2 8 ( } 上 に 一 羽 の 白い 鳥 が高く と ん でい る.. 常識的にはこの場面は鳥の群舞と解釈されているのだが, そして斎藤も 「うーん, 一羽かな‐ 五十羽も六 十羽もいないんかな. 」 とその解釈にたっている気配を見せてはいるが, 子 どもたちの一羽という解 釈も成 り立 つ こと を そ れ と して 認 めて, 次の 問題 に進 ん でいる‐ この よ う に 斎藤 に あ っ て は, ほ とん どの 場 合 子 ど も の 意 見 をま ず は容 認す る. この こ と につ い て, 「これ は. …. ・ (子どもの) 読み誤りとしか言えないであ. ろうが, 斎藤氏はさすがに誉めはしないものの, この読みに疑問を出したり, この読みを否定をしたりとい う こと は一 切 して い な い‐ 〈窓 意 的 に勝手 に, 想像 す る こ と が, 詩 の 読 み方 なの だ〉 と い う こと 」 そ れ で は, 「 2 9 ( )と批判 す る 見方 も ある を, 結 果 と して 斎 藤 氏 は子 ども た ち に 教 えて しま っ て い る こと に なる の で ある‐一 ‐. しかし, 確かにこれが授業者としての斎藤の基本的な態度である.『わたしの授業』 では, ある一定の理解に 向けて 子 ども を巧 み に導く と い う 授業 方 法 は見 られ な い. この こと は, 決 して 斎 藤 はい つ でも く子 ども の 理. 解内容> を正答として是認するということではなく, 子どもの学習をすすめるその 〈意欲と過程〉 を是認し て い る の である. そ して 次 に見 る と お り, も し理 解 内容 が 間違 っ て いる も の な らそ れを 是正 す るの はや は り 子 ども 自 身 でな け れ ばな らな い と考 え る の である‐. 2 ( ) 対立の議論に決着をつけず, 留保してそのまま授業を進める. また, 意見が子どもたちの間で対立したとしても, どちらかに軍配を揚げることをせず, その決着を留保 して, その後の授業の流れに託す場合が多い. 「そ れ では きいて みま す け ど 『森 の はず れの』 の 『はず れ』 と い うの は 森の 中 です か ? 外 です か ?」 , , , 「 →そ の 決着 そ うす る と この鹿 は, この 3つ の どこに 立 っ て いる のか, ま だ は っ き り しま せ ん が, み な さ ん 3 0 ( } がそ れ ぞれ に考 えて おい て 下 さい ね. 」 ′ 27.

(11) . 若 原. 「…. 直. 樹. この 夕 日 は, 落 日 です か‐ そ れ とも, 太 陽 が沈 ん だ あとの夕 方 の 光 です か. どっ ち です か‐ 」. → そ の 決着 「さ あ, この 詩 で は, どち らを と っ た らい い かね‐ 二 つ でた とい う こと を頭 に おいて, みな さん 3 0 ( ) が さま ざま に 想像 して きめ て く だ さ い. そ の こ とも考 え な が ら も う一 回読 ん でみま しょ う. 」 ,. 教師が最後の判定者となるのを回避するこの方法は, 子 どもたちが無理なく自然に一定の理解に到達する の を 待 っ てい る 斎藤 の 姿 であ り, そ れ はあた か もク ライ エ ソトの 思考 が 深化 する の を 「待 っ て い る」 カ ウ ン セ ラ ーの 姿 と 同等 であ る. これ は, 子 どもを 教 育す る の に斎 藤 が 性 急 で はな い こと をも示 して い る. 気長 で ある し, 子 ども が 自身 で回答 に達 する こ と を尊重 して いる‐ そ してそ の こと は,「この無 条件 の積 極 的尊重 と 3 1 ( )と い うロー ジ ズ の 見 方 と いう 安 全 な感 じをつく りだす 程度 に応 じて, 意 味の ある 学 習 が おこなわ れ る」 ャ 軌を 一 に して いる と 解 釈 で きる の で ある. や はり, 最後 の 審判 者 は子 ども 自身 であ る べ きな の である‐. ( 3 ) 共感的理解 ロ ー ジ ャ ズ の いう 「セラ ピス ト」 を 「教 師」 に, そ して 「クライ エ ント」 を 「子 ども」 に 置 き 換 え る と,. 「意味のある学習」 の起きる第四の条件は 「教師が 子 どもが内面から見ているままに その世界を適切に , , , 3 ( 0 共感 的 に理解 し, 経験 して い る こ と である‐ 一 い わゆ る, 「共感 的理 解」 である.. 斎藤:この詩を読んでどんなことを感じたか.. …. うう ん, な る ほ どね.「指 が 秋の 木の葉 の よ う に 落. ちて しま うの がわ か らな い‐ 」 斎 藤: な る ほ どね‐ これ はす ごい こ とをま た 言 っ た ね. みな さん, 大変, いろ いろ立 派だ ね‐ 斎 藤: ほ ほう, これ は おも しろ い. 3 3 ( ) 斎 藤: そ うする と, どう して 指 が 落 ちて しま うの だ ろ うか. ま っ たく 不思 議だ ね. 上の よ う に, 斎藤 は子 ども か ら出て きた意見 に, きわ めて 肯 定 的に 共感 す る‐ この 部 分 につ いても, 「明 ら 2 9 ( ) か に誤 っ て いる と 言 わ ざる を えな い子 ども たち の 読 み取 りに も 同意 して しま う‐ 一 と い う批判 が ある‐ この. 批判は, 詩の読みとりという国語教育の視点からの批判である‐ しかし, この場合斎藤は, 子 どもの自力に よる発想それ自体を肯定しているのである‐ 発想の正誤を問題にする以前にまず, 子どもの個性的な感覚と その表現そのものを自主的な学習の進展の兆候と感じて, それを歓迎し励ま しているのである‐ 斎 藤: どん な こと が 書い て あ っ た ?. 生徒:わかんなし … ・ (他の子が何か言い出そうとする) 斎 藤: う ん ? いや, 今 考 えて い るか らね. 全然 わか らな い? 生 徒: う ーん, か な しい おか ん が みたい. 斎 藤 : そ う ですね‐ い い じゃ な いの‐ 「か な しいおか ん が 見 た い」 (と 板 書 す る)‐ 斎 藤: つ けた しでなく て も いい です よ‐ みな さんの考 えを言 っ てく だ さい‐. 生徒:おかんは. … 何かの・・音を. …. うんと,. …. とういう. …. 音でも・、 ・・聞いている. ・・ (とつ と つ と, と ぎれ と ぎれ 言 っ て いる) 斎藤: なる ほ ど, うま い こと 言 うね. こ り ゃ たま げ たな あ‐ おか ん はね, どう い う音 でも 聞いて いる 音 を 聞い て る っ て ね. どん な音 が あ っ たの‐ 生 徒: う ー ん, 雲 雀 の声 と, さ. … との方で, … 牛の. …. なく声‐. 3 4 ( ) 斎 藤: な る ほ どね, 雲 雀 の声 と, 牛の 鳴く 声 を 聞いて いる んだ っ て, いいね え‐ 28.

(12) . 斎藤喜博 『わた しの授業』 の一つの読み方. この 例 の よ うに, 子 ども が た どた ど しく て も じっ く りとつ きあ っ て発 言 の次 の 展 開を 待つ‐ 「(子 ども か ら) 非 常 に い い もの が 出て く る ね. だ か ら, そ うい う も の を誘 い 出す ん が, 教 師なん です.」 そ して, 出 て きた ら,「教 師 は感 動 して や る と いいん です よ‐ 共感 して や らな いと 駄 目. 私 なんか非 常 に共 感 3 5 ) す る ん で す よ.」(. 「あ とかく しの 雪」 の 授 業 で 授 業 す る 教 師の指 示 のま ず さを 見て い たと きも, 「そ れ は はも う, わか っ て ,. やるほうがいいですよ‐ この子は, 大へんいいことを言っているんです. … ・そういうことに感動して ㈲ やるとよい. 感動して, その感動を通して, その発言の中身になるものをみなに伝えてやることですね. 」 と, 共感の必要を授業者に説明している‐ 共感 す る と い う こ と は, そ れ が正 解だ と 是 認す ると いう 意 味 で は決 して なく, そ の子 の 目に はそ う 見 えて い る の だ と い う こ とを 教 師 が 理 解 し, あた か も 自分 が 見 えて い るか の よ うにそ れ を よく 理 解 で きた ことを 認 め, か つ相 手 にそ れ を 知 らせ る こ と な の である.. おわりに ま と める と, 以下 の 点 で, 斎 藤 の 授 業方 法 はカ ウ ンセ リ ン グマイ ン ドに 立 つ 教 育 であ っ たと 言 える‐. ( ) 問題との直面 1 学 習 は本 人 が 問題 と 直 面 した と きに始 ま る と ロー ジ ャ ズ は言 う.. 教育においては一般には, まだ問題を持っていない子どもに対して, 教師が課題や問題を与える‐ そして それへの興味関心や 「やる気」 を惹起するように教師はさまざまに工夫する‐ しかし斎藤は, 授業の発端を 子 どもの疑問や感想から出発させる‐ 教材は与えるが問題は与えないというのが, 斎藤の基本的な態度であ る‐ ただし, それで子どもが問題をもたない場合には, 斎藤の方から二つの理解を示してその選択をうなが す形で子どもの問題意識を喚起する‐ そして, いったん子どもから発言が始まると, その発言に耳を傾けて 聴き, さらに訊く (質問する) ことによって子どもに自分自身のもつ問題を気づかせて, 学習の深化をうな が す の であ る.. ( 2 ) 教師が真の自己であること 教師が真の自己と 「一致」 していると生徒の学習はすすむ, とロージャズは言うのだが, 通常の教育では この条件を満たすことは難しい. なぜなら, 教師は子どもを導いていく ゴールや正解をあらかじめ計画して お き, しか しそ う した ゴール は あた かも 存 在 しな い か の よ う に演 じな が ら授業 を す る か らで ある. しか し斎. 藤はその意味での ゴールをもうけない. ただ子どもの理解をひらくことそれ自体, そしてそこに見られる理 解 の 差 異 を も と に 話 し合わ せる ことそ れ 自体 を ゴー ル に して いる と い っ て よ い‐. ただし, 子 どもの理解がそれ以上は深まらないと見るや, 子どもとの問答をやめて, 斎藤自身の理解や教 養を講義する展開に変える‐ この斎藤の二つの態度の対照は矛盾しているかのようである‐ しかし, そうで はない‐ 筆者の理解では, その二つの中間の態度では教師は自分自身と生徒とを操作する,「不一致」 状態の 授業展開となるのであって, それを斎藤は避けているのだと解釈できるのである.. ( 3 ) 無条件の積極的理解と共感 上の 「一致」 と深く関わるのだが, 授業者の斎藤は一定の ゴールや正解を堅持していないがゆえに, この 「無条件の積極的理解」 および 「共感」 という二条件に合致しやすい‐ 一般の授業においては, 子どもの発 29.

(13) . 若 原. 直. 樹. 言は授業目標に照らしてそれに近づく発言であるか遠ざかる発言であるかを教師は評価し その評価にもと , づいて授業展開に調整を加える‐ しかし 斎藤にあっては 授業の ゴールへと子どもを巧みに導くという構 , , えを最初からもたないので, 子どもの発言を直接にでも腕曲にでも否定したり修正することはない 発言内 ‐ 容の正誤を判定する役割をもたず, 判定は子ども自身にまかせて授業の以後の展開にゆだねる. 斎藤の尊重 するものは, 子どもの発言内容にある以上に,〈その子どもがその内容の発言をする〉という事実に対してで ある‐ そ の事 実 を 尊 重 して, そ の 子の意 見 に共感 で きるま でに よく 理解 しよ う とつ とめ る の である ‐. 斎藤自身の著作にも斎藤研究の諸論文にも, 斎藤がロージャズに学んでいたという報告は一度も見られな いか ら, そ う した 事実 は存在 しない の で あろ う‐ しか し 斎 藤 喜博 と ロー ジ ャ ズ と では その 生 きた 国 と研 , , した 究 分野 はも ちろ ん 異 な っ て いる もの の, 同 時代 に生 きたと いう こと, そ して人 間 と直接 にかか わ っ た 自. 身の膨大な実践の蓄積の中から自らの理論を創造したという研究方法において 両者は非常によく共通して , いる. そしてさらに, 実践的なその理論内容 (4条件) においてきわめて類似した結論に到達しているので ある‐ これ が, 本 論 の 明 らか に した 内容 であ っ た‐ 以下, 斎 藤 の授 業 のカ ウ ンセ リ ン グ的な性 格 につ いて, さ らに若 干の 付 言 を して おく .. ( ) 知識の普遍的な正しさよりも学習の深化 a 一 般 にカ ウ ンセ リ ン グと 教 育 (授 業) と が 異 なる 点 は 前者 ではカ ウ ンセ ラ ーが 到達 目標 をも っ てい な い ,. のに対して, 後者では教師は目標を持つのはもちろんのことその実現のために一度そのためのプロセスを予 習 して, その 予 習の と お りに子 ども を 導 こう とす る こ と である‐ と こ ろ が 斎 藤 の 『わ た しの授 業』 を見 て い. ると, それが教育の場面であるにもかかわらず, 斎藤は子どもたちを巧みに統率 して最後には全員を或る一 定の解釈にまで到達させる手腕をふるおうとしてはいないことがわかる‐ 斎藤がつとめていたのは 子 ども , の学習が進展することそれ自体 である. そのため, 一般的な理解や学問的には常識とされている正解を基準 にして子 どもの理解に価値判断を下すことをむしろ控えている. ただ, その子なりの学習が促進されるよう に集 中 してい る 斎藤 の よ う す が 見 える の である‐. 同じことは, 授業にかかわる教師の態度についても言える. 後述する 「授業の一回性」 にそれは端的に表 現されるのだが, どんな授業も教師にとっては未知の授業であるべきだというのが斎藤である. 一定の方法 を確立してその適用を繰り返す授業論を, 斎藤はしりぞける‐「一般的な方法論を学び,他人の作り出した方 法をそのまま安易にまねをしていただけでは, 子どもを変革するような生きた授業にはならない‐ “ ・ど 3 ( の ん な に苦 しく た いへん であ っ て も, 自 分 で自 分の方 法 をそ の 時々 に 創 り出さ なく て はな らな い‐ 一 と. この と ころ も,クライ エ ント対 して技 術 的 に応接 す る こ とが戒 め られるカ ウ ンセ リ ン グの考 え方 と酷 似 して いる .. 教師の人格と生徒の人格の,「一回限り」 -の真剣な交流が授業をつくるというのが, 斎藤の授業論である‐ 決 められた計画にしたがってすすめる教育ではなくて, むしろ未知に突入することをおそれない‐ 斎 藤 によ れ ば, 授 業 と は 「と きに は, 教 師の 意 識の 底 に さ えな か っ た よ う な,『わ か らな い未 知』 に 向か っ. ての追求もされていかなければな らないものである‐ 」 そういう 『わからない未知』 への挑戦が授業の中で あってこそ, 授業は追求的・創造的なものになり, したがってまた 「教師も子どもも追求的で創造的な人間 3 8 ( ) に な っ て いく の である. 」 つ ね に, 「いま . こ こ で」 を 尊重 する 態度 を強 調 す る授 業 論 にも 斎藤 の カ ウ ンセ リ ン グ・マイ ン ドが 見て 取れ る.. ( b ) 個人との問答が中心 子ども集団を相手にしていながらも, 斎藤は基本的には, ひとりを相手にして授業をすすめているのだと 30.

(14) . 斎藤喜博 『わたしの授業』 の一つの読み方. 考えられる. 集団を組織する方法とか, 教室全体を統率するような指導法を強調することはほとんどない. ある瞬間においてはひとりの児童に対面していて, その瞬間の積み重ねが全体の授業をつくるという方法論 に な っ て いる. む しろ, 個 人の力 を 開く こと に 主 眼 が ある よ う に見 える‐ 次の よ うなや りと りがそ れを よく. 示している‐ 別の生徒の発言を牽制して一人の生徒との対話に集中 している様子が見てとれる‐ 生徒:. …. 空いっ ぱいになく/雲雀 (すずめ) の声を/じっと聞いているやるで. 斎 藤 : 今度 は ここ (雲 雀) を, 「す ず め」 に した ね‐ 別 の 生徒 : く も す ず め じゃ ない の ? 3 9 ( ) 斎 藤: い や, この 人 はす ず め っ て 読 ん だ ね‐. 斎 藤: どん な こと が 書 いて あ っ た ?. 生徒:わかんなし … ・ 斎藤: (他の子が何か言い出そうとすると) うん?いや, 今考えているからね (とそれを制して)- 全然 わ か らな い?磁). ひとりの子どもの熟考についていき, その子の到達した結論がたとえ不十分あってもそれをそのまま確認 する斎藤である. このように, 個人の言いたいことをまず確実に理解する‐ その後, それを教室全体に公開 するという循環をつくり出す方法である‐ このようにして互いに学びあう関係, すなわち最初に教師とわか りあい, 次に仲間全体でわかりあう関係の授業をつくり出すのが斎藤の方法である‐ ( ) 一回性 c )教科内 こうしてみると, 教師が子どもたちに向かって授業をする場合に必要なのは, 通常言われている( a )子どもとの関係をつくり維持発展させる能力 b )教育方法の専門知識 のほかにもう一つ c 容の専門知識,( が 必 要 だ と 思わ れ る の である‐ 斎 藤 の 場 合 は, このう ち( b )の 方 法 は, む しろ 他 の 2者 (a, c) よ りも 副次. )として定型化したものは著しく少なく, 有名なと b 的であるようだ‐ 斎藤の長い教育実践に比すと, 斎藤が( )と は, 教科 の 知 識( )を こ ろ で は 「0 0 ち ゃ ん式 ま ち が い」 「ゆ さぶ り」 く らい である‐ 斎 藤 に おいて 方 法( b a )の 関 係を つく りだす 能力 に は, 教 )に お いて 創 造す る 形式 の こと であ る. そ して, この( 子 ども との 関 係( c c. b )よりも( )に関する 〈直感的で芸術的 師個々人の人間的な感性が微妙にかかわっている‐ 斎藤の著述には,( c な〉 表現があふれているのはそのためであろう‐ 斎藤の授業方法を一定の 「教育技術」 として定型化するのは難しいと一般に見られるのもこのためであ る‐ すなわち自分と個々の子どもとの く関係〉 を中心とするそのときどきの教室の状況に応じた臨床的な方 法をとるために, 斎藤の方法は一般化しにくいと解釈されるのである‐ 学校参観者から,「どのようにすれば 斎藤先生のように. …. できる よ う にな る の です か‐ 」 と い う類 の, 一 般 的マ ニ ュ ア ル を 求 め る 質 問 を 受 け. るごとに斎藤が不快の念を示すのはこの事実をよく表している‐ 以上本論で見てきたとおり, 斎藤は教えるのが上手なのではなく 「聴き上手」 なのだと理解した方が, 彼 の授業法の本質をよく理解することができる‐ 斎藤の授業の特徴はカウンセリングと同様に場の固有性を尊 重していて, 普遍的な正しさというものを前提とせず, むしろそれよりは個々人の学習の深化それ自体をめ ざ し, そ の ため に一 人ひ と りの 子 ども の 意 見 を よく きく (訊く ・聴く) こと にあ る.. 31.

(15) . 若 原. 直 樹. 〈注〉 『ロージャズ全集 第五巻』 ( 1 ) カール・ロージャズ 「カウンセリングと教育」 ( ) 岩崎学術出版社 1974年版 p‐59 ( 2 ) 同上書 p 7 3 . ( 3 ) 正確には5条件をあげているのだが, 最後の第五の条件とは, その前の4条件が相手に伝わることという内容なので ここでは除 , 外して考える‐ ( 4 ) 前掲書1) p‐197 ● ( 5 ) 斎藤害博 「演出と教育」 (『開く 第五集』 ) 1974年 国土社 p.70 ( 6 ) 斎藤害博 「わたしの授業 第6集」 (『第ロ期 斎藤害博全集 6巻』 ) p‐146 なお以下, 単に著者名を 「斎藤」, 全集を 「第n期 全集」 と略記する‐ 『第n期 全集 5巻』 ( 7 ) 斎藤 「わたしの授業 第3集」 ( ) p .16 「 『 ( 8 ) 斎藤 わたしの授業 第1集」 ( 第ぽ期 全集 4巻』 ) p‐77 『第n期 全集 5巻』 ( 9 ) 斎藤 「わたしの授業 第3集」 ( ) p‐39 『第江期 全集 5巻』 ⑩ 斎藤 「わたしの授業 第4集」 ( ) p.20 2 『第n期 全集 5巻』 皿 斎藤 「わたしの授業 第3集」 ( ) p‐7 3 『第n期 全集 5巻』 鋤 斎藤 「わたしの授業 第4集」 ( ) p .277 「 『 ⑩ 斎藤 わたしの授業 第4集」 ( 第=期 全集 5巻』 ) p‐344 『第n期 全集 5巻』 側 斎藤 「わたしの授業 第4集」 ( 5 ) p‐26 『第=期 全集 5巻』 鰯 斎藤 「わたしの授業 第4集」 ( ) p‐204 鰯 斎藤 「わたしの授業 第3集」 (『第n期 全集 5巻』 ) p‐1 25 筋 斎藤 『模擬授業の介入~続々 介入授業の記録』 -茎書房 197 9 p.1 92 鰯 前掲書1) p.19 2 『第n期 全集 5巻』 ほめ 斎藤 「わたしの授業 第3集」 ( ) 吃 の 斎藤 「わたしの授業 第3集」 (『第韮期 全集 5巻』 ) 御 前掲書1) pp‐19 2~19 3 『第n期 全集 5巻』 鋤 斎藤 「わたしの授業 第4集」 ( ) 「 『 御 斎藤 わたしの授業 第3集」 ( 第江期 全集 5巻』 ). 2 p .20 p ‐36. 側 斎藤 「わたしの授業 ㈲ 斎藤 「わたしの授業. p ‐206 p .203. 齢 斎藤 「わたしの授業. 『第n期 全集 5巻』 第4集」 ( ) 『第n期 全集 5巻』 第4集」 ( ) 『第ぼ期 全集 5巻』 第3集」 ( ). p‐40 p ‐62. p‐99~100 p 前掲書1) p.193 『第亘期 全集 5巻』 御 斎藤 「わたしの授業 第3集」 ( ) p.28 鰯 阿部 昇 「斎藤害博・詩の授業についての批判的検討」 (日本教育方法学会紀要 『教育方法学研究 19 ) 』1994 鋤 斎藤 「わたしの授業 第3集」 (『第n期 全集 5巻』 ) p‐9 ,10および16 ,17 御 前掲書1) p.19 3 節. 07 p.1. 岡 同上書 p‐194 縄 斎藤 「わたしの授業 御 鯛 岡 倦 の 鱒 御. 『第=期 全集 5巻』 第3集」 ( ) pp ‐95~96 『第ロ期 全集 4巻』 斎藤 「わたしの授業 第1集」 ( ) pp ‐91~92 斎藤 前掲書17 ) p‐84 斎藤 「続 介入授業の記録」 -茎書房 1979 p.149 『第1期 全集 9巻』 斎藤 「私の授業観」 ( ) p‐238 「 『 斎藤 教育学のすすめ」 ( 第1期 全集 6巻』 ) p 1 ‐379,38 ・集 ( 『 斎藤 「わたしの授業 第1 第ロ期 全集 4巻 ) 9 」 p‐0 』. (本学助教授 旭川校). 32.

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参照

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