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ポスト・サッチャリズムの政治に向けたメイジャー政権下の改革 ―市民的保守主義と行財政改革を中心に

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ポスト・サッチャリズムの政治に向けた

メイジャー政権下の改革

―市民的保守主義と行財政改革を中心に

The Politics of Post-Thatcherism under the John Major Government:

Civic Conservatism and the Reform of Public Services

安田 英峻

Hidetaka YASUDA 本稿は、ポスト・サッチャー時代におけるイギリスの保守党政治がどのような展開を見せているかを分析 するため、メイジャー政権(1990 ~ 1997)を取り上げる。メイジャー政権に関する先行研究では、サッチャー 政権が招いた社会的・経済的格差を始めとした負の遺産に対し、新たな政策路線を提起できなかったという 評価が根強い。本稿はこの理解に修正を加えることを目的にしている。 本稿では、メイジャー政権下の保守党が提起した新たな政治理念に注目し、それが国内政策の展開に与え た影響を考察する。分析の結果、当時の党知識人が提起した「市民的保守主義」の理念が、公共サービスの 質的改善を目的とする「市民憲章」において反映されていたことが明らかとなった。本稿は、サッチャリズ ムに代わる新たな政策路線として、メイジャー政権は地方自治体やその関連組織である学校、病院、行政な どのコミュニティ活性化を進める理念を打ち出し、実際の国内政策において展開したことを明らかにした。 KEY WORDS: 現代イギリス政治、ポスト・サッチャリズム、メイジャー政権、市民的保守主義、市民憲章 † 神戸大学大学院国際協力研究科博士後期課程

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I.

 はじめに

1.問題の所在 1990 年代半ば以降、ヨーロッパ各国では、左派政党の躍進を受けて右派政権の下野が相次いだ。イギリ スでは、当時与党であったジョン・メイジャー率いる保守党政権が、1997 年総選挙においてトニー・ブレ ア率いる労働党に大敗し、2010 年の政権交代まで 13 年にも及ぶ低迷を余儀なくされた。 この保守党の長期低迷には、マーガレット・サッチャー政権が生み出した新自由主義的な改革の遺産が 影を落としており、同政権以降に進行した貧困、失業、犯罪、公共サービスの質低下といった「壊れた社 会」が、有権者の保守党離反を招くことになった。1997 年総選挙に敗北した保守党は、党の支持率低迷と 上述の社会問題を受けて、サッチャー政権が基調とした苛酷な市場化政策を改め、社会的排除の対策や公共 サービスの質的改善を約束する「現代化戦略」を党内で進めていく。そこでは、国家対市場という対立軸で はなく、サッチャー政権下で軽視された中間団体の役割を強調することで、党の軌道修正が図られた。特に デイヴィッド・キャメロン党首の下で提唱された「大きな社会」構想は、地方自治体や第三セクターなどの 市民社会の役割に力点を置くことで「壊れた社会」に有効な措置を講じていく政策枠組が提起された。この ような野党期保守党の取り組みは、ブレア率いる労働党が掲げた「第三の道」の政策路線に収斂していく脱 サッチャー主義の試みと理解される(Driver 2009: 85–96;Dorey 2011: 194–196;Hayton 2012: 102–103;阪野 2017: 143–148)。 こうした経緯を踏まえ、本稿はメイジャー政権期の党内政治とその政策展開に着目する。先述の通り、市 場原理を基調としたサッチャー政権下の政策路線は、90 年代初頭の時点で社会的・経済的格差の拡大を招 き、メイジャー政権は路線の維持が難しい状況にあった。本稿は、メイジャー政権下の保守党内で検討され た議論や政策的措置を考察していく。 メイジャー政権に関する多くの研究は、欧州統合をめぐる党内紛争、閣僚の不祥事、経済運営能力の欠 如、労働党の躍進による政権基盤の弱体化に焦点を当てており(Stevens 2002: 138)、保守党の政策転換とい う観点から同政権を評価したものは少ない。というのもメイジャー党首下における党内状況を見ると、サッ チャー政権来からの対立軸である欧州問題だけでなく、ウェット(福祉重視)とドライ(市場重視)をめ ぐる議員間の分裂にもメイジャー政権は苛まれていたからである(Gamble 1996: 42–44)1。国内の経済軸を めぐっても党内紛争が生ずる中、90 年代以降、多くの保守党の党員たちはサッチャー主義を支持せず、む しろ市場規制や社会保障の拡充といったリベラルな政策を求めるようになった(Whiteley, Seyd, Richardson 1994: 134–140)。 だが、彼らの期待とは異なり、メイジャー政権は新自由主義的な経済政策を前面に掲げ、前政権の政策を 踏襲した。それは特に「壊れた社会」への対応に表れている。イギリスは 1993 年の時点で 300 万人の失業 者を抱えるほどの不景気に苛まれていた。しかしメイジャー政権は、労使・社会保障政策や行財政改革など の分野でサッチャーの新自由主義的な改革の継続を徹底した。雇用規制緩和、最低賃金制度の廃止、強制 競争入札制度の対象範囲の拡大はその顕著な例とされる。1997 年にメイジャー政権がブレア率いる労働党 に大敗した理由は、サッチャー主義に代わる構想や政策を打ち出すことがなかった点に起因すると、多く 1) 国内政策をめぐっては、例えばメイジャーは福祉重視派の平議員からの造反を恐れ、3 万人の失職に繋がる炭鉱閉 鎖計画の延期決定や郵便事業の民営化の棚上げを余儀なくされた例があり、政策決定における制約が当該政権に あった点が指摘される(Cowley 1999: 12–13)。

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の先行研究は分析している(Bonefeld, Brown, Burnham 1995: 109–110, 121;Seldon 1994a: 40–44;Retain 1997: 127–128;Kavanagh 1997: 194–209;Kingdom 1999: 65;阪野 2016: 194–207)。 一方、メイジャー政権は新自由主義に基づく政治を維持したものの、人頭税の撤回や PFI の導入に見られ るように、サッチャー時代の反省を踏まえた政権運営や政策転換を図ったと指摘する研究もある。若松は、 メイジャーはイデオロギーに偏向しない「中間派」や「社会的(道徳)リベラル」とされる政治家を閣僚や 党役職に起用することで、政権基盤や政策の方向性に均衡を保っていたと言う(若松 2019: 28–33)。 またヒックソンは、保守党のイデオロギー的立場からメイジャーを見た場合、①市場原理を強調する ニューライト、②社会保守の伝統的トーリー主義、③ケインズ主義的介入路線を支持する「1 つの国民保守 主義」、④党内対立を回避する中間派、などの多様な価値観を内包していたと指摘する。同氏はこれらの点 を捉え、メイジャー政権は特定の価値判断を追求し対決的姿勢を採ったサッチャー政権とは違い、プラグマ ティックな政権運営を重視したことを説明する(Hickson 2017)。 このメイジャー首相の政権運営を都市再生政策やワークフェア導入などの政策と関連させて、キャメロン の「大きな社会」構想や労働党政権の先駆となる政策がメイジャー政権下で展開されたと指摘する研究も ある(Williams 2017: 204–213)。近年見直されるメイジャー政権に関する研究を勘案すると、メイジャーは 自由経済に親和的な路線を維持しつつ、歴代の保守党党首が重視していたプラグマティックな価値観を基調 とすることで、市場原理主義に必ずしも傾斜しない柔軟な政権運営や政策選択に繋がっていた点が確認で きる。 2.本稿の視点 本稿は、メイジャー政権に関するこうした再評価を肯定的に捉えつつも、同政権が積み重ねてきたプラグ マティックな政権運営がポスト・サッチャー時代の保守党内での基本方針の策定過程にどのような影響を与 えたのかを考察したい。確かに、党首の価値観や政治姿勢は、政党の方向性を規定する上で大きな役割を果 たす。しかし先行研究は、政権運営の方針・手法に焦点を当てているものの、それがいかなる新たなアジェ ンダを党内で生み、政策の中に反映していたのかについて検討していない。 この点を検討するため、本稿は政治理念と国内政策の展開に重点を置いた分析を進める。政治理念は直面 する社会的課題の解決策を提供する認識枠組の総体であり、政策内容やその展開に影響を与えるものと理解 される(Campbell 2002)。1990 年代のイギリス政治の文脈では、従来ブレア率いる労働党の理念的刷新とそ の政策内容に多くの研究は注目してきた。これに対し本稿は、実用主義的な政権運営を試みたメイジャー政 権が、党内でいかなる政治理念を新たに模索し、どのような国内政策を実施したのかを明らかにする。本稿 は、この分析を通し、従来のメイジャー政権に対する理解に修正を加えることを目指している2

II.

 サッチャー党首下の保守党政治

本章は、メイジャー政権に先行するサッチャー政権期の政治を再確認する。同時に、保守党の新自由主義 への傾斜が、従来理解されてきた保守党像とどのように異なるのか、当時の保守派の知識人の間でどのよう な危惧が高まっていたかを以下で整理する。 2) なお本稿は、メイジャー政権下の保守党が研究対象であるため、新労働党との比較や野党期の保守党については論 点として扱われていない。

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1.イギリス政治の転換とサッチャリズム 第二次世界大戦後から 1970 年代に至るまで、保守党は、労働党に歩みを寄せる形で混合経済、完全雇用、 労働組合との協調といった福祉国家路線を維持してきた(Kavanagh 1997: 29–30;小堀 2005: 13–14)。この 「合意政治」の下、保守党は、富裕層と貧困層との国民的統合を重視する「1 つの国民保守主義」の理念を 掲げる福祉受容派を中心に、集産主義的な社会政策を継承してきた(Dorey 2011: 49–52;今井 2018: 21)。 しかし超党派は、1970 年代のオイルショックに伴う世界的不況、イギリス国内における物価上昇と 100 万人超の失業者の発生を受け、福祉国家路線の修正を模索することになった(Kavanagh 1997: 52–56;今井 2018: 26)。その際、保守党は、経済問題研究所(Institute of Economic Affairs)や政策研究センター(Centre for Policy Studies)などの新自由主義系のシンクタンクを中心に、フリードリヒ・A・ハイエクの政治哲学や貨幣 供給量の制限を説くマネタリズム論などを党内的に検討した(Kavanagh 1997: 96–103; Garnett, Hickson 2009: 91–102)。そして 1979 年に成立したサッチャー政権は、数次に渡る民営化政策、労働組合改革などを始めと した競争原理に基づく改革に着手した。しかし、その代償として、経済的進歩から排除される層や地域を拡 大させたばかりでなく、労働組合によるストライキ、犯罪の増加、都市暴動などの治安上の問題が生じた。 ギャンブルは、これらの対応をめぐるサッチャー政権の理念を「自由経済と強い国家」と指摘する。経済 領域では自由放任的であるも、市場経済の恩恵を受けないアクターの抵抗を抑制するため、却って中央政府 の集権化を強めた側面を説明する概念である(Gamble 1994: 36–43[小笠原訳 1990: 49–58])。80 年代当時の イギリスは、地方自治体の歳出超過や財政赤字に苛まれていた。このためサッチャー政権は、自治体の機能 を市場経済に移転し、抵抗勢力の抑制のため「強い国家」による法と秩序の強制や伝統的規律(例:家族、 道徳など)の強化といった権威主義による補完を進めた。その結果、大ロンドン議会廃止、自治体業務を強 制的に官民競争に晒す強制競争入札制度、地方税の上限設定などに見られるように、地方自治体の政治的領 域や権限は削減・剥奪され、市場原理に基づく改革とその抵抗勢力の弱体化が目指されたと理解される(近 藤 2001: 129–134;小堀 2005: 56–59)。 2.「保守主義の破滅」とその議論 だが 1980 年代後半以降、サッチャー政権は、経済的自由主義に親和的であった当時の党外の保守派の知 識人からの批判も高めることになった。顕著な批判者が、当時オックスフォード大学ジーザスカレッジに所 属していたジョン・グレイという政治学者である。グレイは 80 年代においてハイエクなどの自由市場主義 の思想家に傾倒した研究者であり、当時はサッチャー派が推進する経済的自由主義を支持するニューライト 系の知識人として位置づけられていた(Dorey 2011: 168; Hayton 2012: 35)。 しかし、グレイは 80 年代末頃の社会的・経済的格差を始めとした弊害を見る中、経済的自由主義者の立 場から反サッチャーの論陣を張る立場に転向し、サッチャリズムは「保守主義の破滅」を招いたとの論陣を 当時展開した(Gray 1997)。本稿がグレイの議論を取り上げる理由は、後に検討する保守党側から提起され た政治理念との間で、サッチャリズムに対する反省をどのように保守党は行うべきかどうかで当時論争と なったためである。このグレイの議論では、保守党が戦前から重視していた姿勢が、サッチャー政権によっ て逸脱した点を批判しており、新自由主義が自明となった社会では従来理解される保守党像に回帰すること はできないと、保守党の同一性の危機を指摘している(Hayton 2012: 14, 35)。 では、従来の保守党像とサッチャー政権との間では何が異なるとグレイは主張するのか。グレイは、保守 派が共有すべき姿勢として「反普遍主義」「反進歩・反世界改善論」「文化的形態の優位性・反還元主義」を 挙げるも、それらの認識が保守党から喪失したと言う。

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まず「反普遍主義」とは、人間の本質は文化的差異に依存し、人間の自我は特定の文化的形態により形成 されると認識する立場である。次に「反進歩・反世界改善論」は、人間や政治には不完全性が存在し、画一 的な手法で物事は改善されないという理解を前提にする。最後に「文化的形態の優位性・反還元主義」は、 市場や政治のあり方は様々な文化的基盤や社会的文脈によって規制評価を受けるべきものであり、それらに 機能的自律性を与えることを拒否する反啓蒙主義を標榜する立場とされる(Gray 1995: 106–108; Gray 1997: 41–44)。 彼によれば、人間の自己同一性は、コミュニティが持つ文化的基盤に基づいて形成され、そこに属する人 間は地域特有の「共通理解」や「ローカルな知識」に裏付けられるという(Gray 1997: 38–39)。その例とし てグレイは、近隣近所や教会といった顔見知りの社会が、尊敬すべき規範や社会監視を促してきたと述べる (Gray 1997: 49)。ゆえに、従来の保守政府は「中間組織、共通文化、自由な社会を活気付ける価値観の支援」 を重視し、市場原理から距離をとってきたと指摘している(Gray 1993: 50, 55)。 だが、サッチャー政権が受容した「束縛なき市場制度」の拡大に伴い、コミュニティは創造的破壊の強風 によって散らされ、中間団体の役割が弱まりつつある(Gray 1997: 6, 25)。その結果、コミュニティに元来 存在していた「先例」や「過去の権威」は人々に軽視され、他人を慮ることのない「主観主義者」や宗教的 戒律を重視しない「無律法主義者」を惹起した(Gray 1997: 26–27)。そして公益性が低下したコミュニティ では、アンダークラス層を中心に貧困、低学歴、犯罪が頻発し、それが中間層にも伝染しつつある状況とさ れる(Gray 1995: 89; Gray 1997: 7)。 以上の分析を踏まえて、グレイは「保守派はイデオロギーの危険性と理論の限界を思い出すべき」だと市 場原理に傾斜した保守党を批判し(Gray 1993: 65)、サッチャー政権は歴代政権と異なり、イデオロギーの 不完全性を認識せず、多元的な市民社会が果たす役割を軽視していると危惧したのであった。

III.

 市民的保守主義 Civic Conservatism の政治理念

1.デイヴィッド・ウィレッツの経歴 保守党が市場原理に傾斜したことに批判が向けられる中、首相に就任したメイジャーは挙党一致のため欧 州と経済について妥協的姿勢を採り(若松 2019: 30–33)、特定のイデオロギーに偏向しないプラグマティッ クな政権運営を志向した。その一方、サッチャー政権来からの自由経済志向は維持された。本稿では、そう した柔軟な態度に基づいた政権運営下にて提起された政治理念の検討を行う。 ここで重要となる議論が、デイヴィッド・ウィレッツという当時の党知識人が提起した「市民的保守主義 (Civic Conservatism)」である。本稿が「市民的保守主義」を扱う理由は、メイジャー政権の初頭の段階で、 市場依存の問題と市民社会の荒廃という前述のグレイと同じ憂慮を示しながらも、著作として保守党側から 脱サッチャー主義に向けた新たな理念を体系的に提示した数少ない先駆的議論だからである。「市民的保守 主義」を提唱したウィレッツの著作は出版当初から衆目を集め、保守党の党改革派の筆頭として野党期保 守党の政策見直しにも影響を与えていった(Garnett, Hickson 2009: 164;Dorey 2011: 173–181;Williams 2017: 203;平石 2016: 173–183)。だが、「市民的保守主義」の内容やメイジャー政権期の政策との関係については、

メイジャー政権の不人気もあって議論は深まっていない3。以下、その議論に入る前にウィレッツの略歴とメ

3) 平石は 20 世紀末イギリスの左右両極において議論された市民社会論を分析する文脈から「公民的保守主義」とし、 阪野は一言もウィレッツを言及しないがポスト・サッチャーをめぐる保守党政治の文脈から「市民的保守主義」と

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イジャー政権期における彼の役割を整理する。 ウィレッツは 1956 年にバーミンガムで生まれ、地元のキング・エドワードスクールに通い、進学した オックスフォード大学で政治哲学や政治経済学を専攻した。在学中のウィレッツは、転向前の指導教員グレ イが専門とするハイエク論や自由主義論に傾倒し、その影響を強く受けた。卒業後、彼は 1978 年から 1984 年まで財務省に勤務し、この間にナイジェル・ローソンの財務秘書官としても従事した。その後ウィレッ ツは財務省を退職し、サッチャー政権の政策室(Policy Unit)の一員として 1984 年 4 月から 1987 年 1 月ま で社会保障・医療・経済分野の政策アドバイザーを勤め、その後 1987 年 1 月から 1992 年まで政策研究セ ンターの理事、並びに保守党調査部のロビン・ハリス理事のアドバイザーとして党を支えてきた。そして、 1992 年総選挙でハバント地区から下院議員に当選を果たしたのを機に、彼の議論は前政権の弊害を修正で きる理念として広く知られるようになった(Willetts 1992: iv–viii; Willetts 1997a: ii; Garnett, Hickson 2009: 156; Mortimore, Blick 2018: 235)。

彼が世間的に注目を浴びるようになったのは、選挙期間中の 1992 年 3 月中旬頃、『近代保守主義』(Willetts

1992)の出版であった。これにより、ウィレッツは「サッチャー主義的急進主義と壮大なトーリーの伝統と の調和を試みている」人物として評価されていく(The Economist, 64, 23 May 1992)。同書は、その 2 年後に

「社会市場財団(Social Market Foundation)」という旧社会民主党のシンクタンク4から刊行した『市民的保守

主義』(Willetts 1994)の元となった。彼はさらに 1996 年に「自由経済と市民的保守主義」(Willetts 1996)、 1997 年総選挙直前の 2 月に『なぜ保守党に投票するのか?』(Willetts 1997a)、1997 年総選挙後にはグレイ との共著論文として『保守主義は死んだのか?』(Willetts 1997b)などを出版した。 この間、ウィレッツは財務省・院内幹事補、大蔵卿委員会院内幹事、ランカスター公領政務官を歴任、 1996 年には主計長官に任命され(UK Parliament 2020)5、その後 1997 年 1 月には党役職の保守党調査部の議 長職に信任されるに至った。当時を知るマイケル・ヘゼルタイン副首相(1995 ~ 1997)によると、ウィ レッツは「[1997 年総選挙の]マニフェスト起草にて中枢的役割」も担ったという(Heseltine 2000: 507)6 以下では、ウィレッツが提起した「市民的保守主義」の内容分析を進めていく。同時に、戦後イギリス保 守主義の潮流から見た場合、「市民的保守主義」がどのように位置付けることができるかについても検討す る。 訳す。本稿は後者の文脈に沿う研究のため阪野の訳語を採用した。なお平石の議論は、現実政治の動向や諸政策を 検討しておらず、また複数人物の議論を統一的に議論しており、市民的保守主義の理念的特性が明確化されていな い課題がある(平石 2016;阪野 2017: 148)。 4) 社会市場財団は、社会民主党デイヴィッド・オーエン党首率いる自由党への合同反対派の残党を中心に、貴族のア リスター・キルマーノックとケインズの伝記作家であるロバート・スキデルスキーの協力を得て、1989 年に設立 された組織である。当該組織は「新自由主義と社会主義ではない社会市場」を強調する組織であり、イデオロギー 的には曖昧なスタンスであるとされる(Baston 1996: 62–63, 65–70)。 5) ただ、ウィレッツは 1996 年 12 月 11 日にハミルトン・スミス事件をめぐり、下院の倫理基準・特権委員会に正 式報告を怠ったことで、主計長官の辞任を余儀なくされている(The Times, 12 December 1996; The Times, 31 January 1997)。

6) 1997 年総選挙の公約は、ノーマン・ブラックウェル政策室顧問の下、保守党調査部のウィレッツ議長とダニー・ フィンケルステインの「司令塔(midfielder)」により作成された(Major 2000: 702–703; The Mirror, 20, 18 March 1997;

The Independent, 8, 3 April 1997)。特にフィンケルステインについては、元々はオーエン党首の側近だったが、1990

年の党解散に伴い、1992 年総選挙直前にオーエン派(Owenites)として保守党に入党した経歴を持つ。その後、前 述した社会市場財団の理事(1992 ~ 1995)に就任し、1995 年夏には保守党調査部の理事に任命された。こうした 経緯から、フィンケルステインを始めとするオーエン派と社会市場財団が、脱サッチャー主義という意味でメイ ジャー政権への政策提言や人的資源の供給面で影響を与えていた点が指摘される(The Independent, 8, 3 April 1997; Baston 1996: 65–67, 69–70)。

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2.市民的保守主義とはなにか ウィレッツは 80 年代には、その経歴ゆえに、保守党内の潮流から見ると「サッチャーの崇拝者」にあた ると考えられてきた。だが、そうした人物でさえ、サッチャー政権以降の保守党は市場原理に傾斜したと いうグレイの批判と同様の認識を抱いたのである(Garnet, Hickson 2009: 155)。ウィレッツは「自由市場こ そが過去 20 年間の保守主義の知的創意性・政治的ダイナミズムを生んできた」と、サッチャー政権の成果 を認めつつも「自由経済だけでは十分でない」と考える(Willetts 1994: 21;平石 2016: 177)。そこにあった ウィレッツの懸念は「開放された営利主義が共同体意識を破壊していた」との認識であり、1990 年代のイ ギリスは行動規範の低下、片親、未成年犯罪、長期失業者の増加といった問題に直面していることを憂慮し た(Willetts 1992: 78; Willetts 1994: 7–8, 30–33; Willetts 1996: 83)。

しかしウィレッツは、保守党に必要なのは、福祉国家路線の回帰ではなく「市民社会を構成する制度・価 値といった文脈の中に自由市場を位置づける」ことだと主張する(Willetts 1994: 24;平石 2016: 178)。その ため彼はグレイとは異なり、市場制度を肯定的に捉えており、その運用次第では市民社会の再生は可能であ ると指摘している。では、市民社会の中に自由市場を位置づけるべきだと言うウィレッツの議論は、何を意 味しているのか。 従業員がやる気を持ち、より大きなチームに所属していると彼らが感じ、そして最善を尽くし たいと思っているのであれば、企業はより理に適ったものとなる。現代の経営手法は、企業内 部における協力とチームワークの感覚を的確に作り出すことである、なぜなら、そうした類の 企業は、非常に大きな効率性を享受し、開かれた競争市場で恩恵を得るためである(Willetts 1994: 17)。 ここでウィレッツは、市場制度の中で私益を追求する企業を始めとした主体が、チームとして機能し、 人々がそこに社会参加できている状態を重視している。そしてその成功例は、日本型資本主義にあると、 ウィレッツは自身の著作の中で肯定的に評価している。ウィレッツによれば「巨大企業でさえ持続的な競争 圧力に晒されている」にも拘らず、戦後日本は、アングロサクソン型資本主義と異なる経済的成功を収めて いると主張される。その理由として提示されるのが、日本の企業統治は、会社への帰属意識を強める内部制 度(例:終身雇用制度)を編成することで組織の効率的経営や企業利益だけでなく、従業員間の協調や忠誠 心を創出している点にあるという(Willetts 1992: 84; Willetts 1994: 17)。一方で、イギリスを含めたヨーロッ パ各国は、私益を追求する主体が協調や連帯などのコミュニティの機能を必ずしも果たしておらず、そのこ とがスラム街を始めとした社会崩壊の問題を招いていると指摘される(Willetts 1994: 19–20)。 そのため、「市民的保守主義」の議論では、ニューライトが強調する経済的自由主義を基調としつつも、 帰属や連帯といった「1 つの国民保守主義」が強調する価値観を強調する。だが、社会問題を解決すること が期待されるアクターは、中央政府によるものではなく、人々に居場所を与えるコミュニティであり、なお かつ、それらが適切な競争原理を働かせていることがウィレッツの議論では重視されている。 中でも、ウィレッツの議論では、公共サービスを提供する組織(例:学校、病院、行政、職安)がそう した役割を果たすコミュニティとして考えられており、マイケル・オークショットの言う「企業的結社 (enterprise association)」の概念が重視される(Oakeshott 1975: 117, 129[野田訳 1993: 20, 37])。 ここでいう企業的結社は「或る共通目的、共同して獲得されるべき或る実質的状態、継続的に満足される べき或る共通の利益」であり、会社、軍隊、共同組合で見られる、ある目的に同意し、その共同目的や共通 利益を追求するため結集した人々の集まりを意味する。また企業的結社は、打算的、道具的、合目的に使

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用されるルールの定式以外を見ないと結社され、各主体が目的のために連帯を得る集合体を指すとされる (Oakeshott 1975: 114–115[野田訳 1993: 15–18])。つまり企業的結社は、何らかの利害追求の場として機能す

る組織であり、「市民的保守主義」の議論ではこの活性化が重視される。

前述したように、ウィレッツは、私益を追求する主体がコミュニティとして機能していない点を憂慮し た。これを是正するために活性化されるべき関係が「購入者と供給者との間における独立した対等な関係 (an armʼs length relationship)」に見られる「契約関係」にあると主張される。というのも、学校や病院といっ た公的組織は「職員と両親、生徒と患者の両方の忠誠心を命ずることができ、またすべき」という前提が存 在し、それらは利用者の選択や組織間競争といった競争的性格を帯びつつも、相互が質的向上のために影響 を及ぼしあう関係が成立するためと著作で触れられている(Willetts 1992: 149; Willetts 1994: 47, 50)。 つまり、競争的性格が公共サービスには存在している一方、購入者と供給者はサービスが果たすべき社 会的公益という共通利益も目指す役割も担っているがゆえに、ウィレッツは企業的結社の活性化を重視し たのである。そのため「個人や組織は彼ら[自身]の目的を追求するべき」であるとウィレッツは主張し (Willetts 1994: 20)、学校や病院といった供給者と購入者にあたる市民との距離は近い関係にあるべきだと強 調している。この実現のために、政府は地方自治体やその関連組織に分権を進めると同時に、市民の意思決 定や社会参加を促す必要があると著作で提言されており、ウィレッツはその実例に保守党の政策である市民 憲章(Citizenʼs Charter)がそれに沿うものと例を挙げて説明する(Willetts 1997a: 53, 66)。

なぜなら、公共サービスの運営や質的改善が、市民の関心事項であることは自明であり、どのような責任 が供給者にあるのかが周知、監査されなければ、共通利益の実現は生まれ得ないからである。そのため地 方組織は、情報公開制度やオンブズマン制度といった「肩越しの透明性や審査」や「知る権利」を確保す る必要があり、その役割を市民憲章は果たしているとウィレッツは主張した(Willetts 1992: 149, 160; Willetts 1997a: 67–69)。 しかし、それと同時に、市民憲章には市民が担うべき義務や責任を紐付ける役割もあるとされ、伝統的 トーリー主義が強調する権威や道徳といった社会保守的な考えも強調されている。ウィレッツによれば、市 民憲章は「市民の権利や消費者力という言葉には公共サービスの利用者が責任ある行動をしなければならな い意味」があり、各地域の公共セクターがその行動基準を定め「権威と指導を行使できる必要」があると言 う(Willetts 1994: 38, 43;平石 2016: 182)。なぜなら多くの人々は、イングランドやウェールズを始めとす る広域行政を単位としたリージョナル・アイデンティティよりも、近隣近所にある病院、学校、行政といっ たローカル・アイデンティティに帰属意識を抱いており、そうした地域組織こそが若者を始めとした人々に 教育的役割を果たすことができるからだと、ウィレッツは強調するのである(Willetts 1997a: 52–53, 66)7 以上から、戦後イギリス保守主義の潮流から「市民的保守主義」の議論を見た場合、1 つの国民保守主義、 ニューライト、伝統的トーリー主義という、それぞれ競合する要素が含まれた理念ともいえる。しかし、そ れらは対立的関係して捉えられておらず、むしろそれぞれの潮流が持つ利点の相互補完を試みる議論として 理解することができる。 なぜなら「市民的保守主義」は、供給者と購入者という選別的な概念を念頭に置きつつも、地方自治体を 始めとする地域の企業的結社が、連帯、道徳心・忠誠心といった伝統的価値観が果たす役割にも期待されて いるためである。そして、これらのことを実現するためには、学校や病院といったコミュニティが役割を 担うことができる「正しい制度的環境」を政策として整備する必要があると著作中で強調される(Willetts 7) 一方、スコットランドやウェールズといった広域行政単位の議会創設については、地方自治体が持つ権限や意思決 定を剥奪することになるとウィレッツは述べており、そうした地域政府の設立は 90 年代当時においては反対した (Willetts 1997a: 66)。

(9)

1992: 105; Willetts 1994: 27)。 その制度的環境とは、情報公開、効率的運営、組織監査といった政策的措置を行う市民憲章が「市民的保 守主義」の理念に沿う政策とされ、共通利益を追求できる関係がコミュニティにおいて機能すれば、社会問 題の解決に繋がるとウィレッツは主張したのであった。

IV.

 メイジャー政権下における市民憲章の導入と監査制度の改革

1.市民憲章の目的とその概要 サッチャー政権下の国内政策は、地方自治体やその関連組織が担ってきた機能を市場経済に移転すること で政府の集権化を進めたと理解され、メイジャー政権も同様と評価されてきた点は既に触れた。では「市民 的保守主義」が強調する地域組織の活性化という観点から見た場合、市民憲章はいかなる政策であったの か。以下では、ウィレッツの政治理念が、どのように現実の政策に結びついたのかどうかを検討する。 市民憲章は公共サービスの質的基準を定め、市民によるチェック・システムや情報公開を確立させること で、サービスの質的改善を実現することを目的とした政策である(阪野 2016: 196–197)。そもそも市民憲章 が提起された背景には、サッチャー政権下では公共サービスの基準が未成熟で、その質的保証が疎かにされ た経緯があった。そのことは首相自身も深刻に考えていた。そのため、政権が本格的に始動する 1991 年 1 月時点からメイジャー保守党政権の「ビッグ・アイディア」として市民憲章は提起され、後の選挙戦でも前 面に掲げられたのであった(Kavanagh 1997: 201;Williams 2017: 208–209;小堀 2005: 197)。 こうした背景の下、市民憲章は、行政組織が遂行するべきサービスの水準内容や責任を規定した憲章文 書を定め、「住民の権利」として保障されるべき「質、選択、基準、価値」の履行を促すことが期待され た。これらが不履行の場合、利用者には苦情、是正措置、説明責任、補償などの措置が保証される。営利主 義・顧客主義志向で質改善に応える市民憲章は「現代版マグナカルタ」とも呼ばれ、成果のあった組織に は「チャーターマーク」と呼ばれる褒賞も与えられ、供給者にあたる行政サービスのインセンティブを強 める政策が導入されたことで既に知られている(Cabinet Office 1991;Connolly, McKeown, Milligan-Byrne 1994: 25–26;自治体国際化協会 1993: 4–6;梅川 1998: 272–273)。

それゆえ以下では、従来の研究ではあまり注目されていない市民憲章をめぐる政策立案過程やその制度 改革の実態を分析したい。なぜなら、市民憲章の導入に際して、自治体の会計・運営を「経済性、効率性、 有効性」の観点から財政監査を行う監査委員会(Audit Commission)が 1992 年 3 月に地方自治体法(Local Government Act 1992)による制度改革が行われたためである(Humphrey 2002: 42; Challis, Clarkson, Warburton 2006: 26–27, 39)。

この監査委員会は、1982 年に創設されたクァンゴ(Quasi-Autonomous National Government Organisation: QUANGO)とも呼ばれる「半自律的中央政府組織」の 1 つであり、地方自治体の財政赤字を改善する ため外部監査を毎年行う組織である(若林 1987: 232–234, 238–239;小堀 1999: 141–144;Humphrey 2002:

40–41)8。だが、監査委員会が政府の意思系統から自律しているかは曖昧なものと考えられている。実際、

監査委員会は監査を行う監査人に至るまで公務員ではないが、監査委員会の委員は環境大臣の任命制であ 8) なおクァンゴは、1988 年のネクスト・ステップス(Next Steps)白書以降から設立された事業庁(executive agency)

とは地位が異なる。事業庁は公的部門の業務のうち、政策の計画立案は省に残し、業務執行は新たに創設される代 理機関にあたる事業庁に委譲・分離させる組織のため、省庁の管理下か否かで異なる(小堀 1999: 139–140;梅川 1998: 240–246)。

(10)

り、監査委員会は監査の業務遂行状況を政府に報告する義務がある(若林 1987: 235–237;Humphrey 2002: 40–41)。そうした政府との意思系統ゆえ、監査委員会は政府からの独立性は疑わしいとされ、その監査をめ ぐる説明責任は消費者より上級官庁を意識した傾向が強いと考えられている(若林 1987: 249;木寺・内貴 1989: 147;小堀 1999: 145;Humphrey 2002: 40)。 そうした監査委員会は、メイジャー政権が定めた 1992 年地方自治体法を受け、地方自治体や公的組織の 財政監査に加えて、公的組織の達成事項について国内規格(national standards)に沿う業績指標(Performance Indicators)の監査も担うことになった(Boyne 1997: 17–18; Humphrey 2002: 42; Challis, Clarkson, Warburton 2006: 37–40)。 ただ、この制度改革は規制機構による営利主義的な業績管理に留まっていない。なぜなら監査委員会は市 民憲章の導入に伴い、自治体や行政機関などの諸団体の透明性を高めることで行政運営に対する住民の関心 を高め、社会が抱える様々な問題を解決するための補完的役割を担ったからである。では、どのように監査 のあり方は変わったのか。以下では、「市民的保守主義」の理念がどう政策に反映されていたかを検討する。 2.保守党執行部における市民憲章の政策立案過程 市民憲章はどのように政策立案が進んだのか。ここでは市民憲章をめぐる政策立案過程を分析し、理念が 執行部間で共有された問題意識として認識されていた点を確認する。 まず首相に就任したメイジャーは、合意形成や幅広い閣僚参加を重視することで、中道寄りの政策路線を 採った。党内人事の観点で言えば、メイジャーは党内左派のへゼルタインを環境大臣に指名し、人頭税撤回 に見られるように、地方自治や国土開発をめぐる政策変更を意図した人事となった。その中、メイジャー政 権はサービス当局者代表を始めとした経済界以外のアクターも市民憲章の政策審議に参入させ、1991 年 7 月 21 日の白書刊行に向けた検討が進んでいった(Seldon 1994b: 155–161;Hogg, Hill 1995: 96;若松 2019: 31–32)。 1992 年総選挙まで残り 1 年の状況の中、メイジャーは 1991 年 1 月時点で「国内政策領域における新しい アイデアを迅速に明らかにする」ことを政策室の優先事項とした(Major 2000: 249)。執行部は「1980 年代 の保守党の政策課題については、民営化が優位を占めていた」のに対し、「業績基準」「適当な監査と説明 責任」「公共部門改革」といった質的改善を争点とし、1991 年 3 月 23 日には市民憲章の構想を公表し、同 時に憲章の草稿提出を各省に求めた。一方、メイジャー首相と側近のサラ・ホッグ政策室顧問らによると、 市民憲章の政策立案過程の中で、財務省から支出拡大の懸念を受けていたが(Hogg, Hill 1995: 93–95; Major 2000: 249–251)、党執行部間では「説明責任の向上」や「公共サービスの質改善」を目的とした改革実施と いう点で見解の相違はなかった。

実際、サッチャー改革の旗振り役を担った経済問題研究所のグラハム・マーサー理事は、3 月 25 日に自 身のシンクタンクから、①情報公開、個人の権利保護の成文化、②提供者と消費者との契約、③市民の意 思決定権を重視すべきとする小論を刊行し、消費者主義による評価制度や質管理の意義を喧伝した(Mather 1991: 76–77; Financial Times, 19, 26 March 1991)。また白書刊行 1 ヶ月前の 6 月 3 日の首相公式別荘チェッカー ズの政策会議では、首相を含め閣僚らは、市民憲章の実現可能性を担保できる多様なメンバーを登用した。

例にマーサーやウィレッツ9といったシンクタンク代表者の他、5 つの規制団体10、サービス当局者、消費者

9) ウィレッツは「公務員に名札を付けることで、無愛想ないし拒否的な返答をする前に 2 度考える」ことで慎重な判 断を促せると期待した。そして、そのことを彼は会議で提唱し「(メイジャー)首相は 100 万人の公務員に名刺を 付け、顧客により反応させ、仕事に大きな自尊心を与える計画を検討している」という当日の意思決定の詳報も報 じられ、その後導入された(The Times, 27 June 1991)。

(11)

団体、経営者団体などの各代表 20 名近くの外部専門家が制度設計に関与した(The Times, 4 June 1991; Hogg, Hill 1995: 96; Major 2000: 254; Seldon 1998: 191)。メイジャー政権内の執行部は、制度改革の影響を受けるア クターの意見も取り入れることで、消費者と供給者の応答関係を高める改革案を練っていった。 そして 1991 年 7 月 21 日に政府白書『市民憲章:基準の向上』が公刊され、白書では 9 点の実現方法が公 表された。それらは①民営化推進、②広範な競争、③外部委託、④業績給、⑤全国・地方における業績目標 の公表、⑥達成された基準に関する包括的な情報公開、⑦効果的な苦情処理手続の完備、⑧強力で独立した 監察制度、⑨是正措置である(Cabinet Office 1991: 4–5;安 1997: 73–75)。①から④は行政効率化を目的にし たものに対し、⑤から⑨は監査委員会が新たに実施することになる通時的・共時的に行われる行政評価制度 とサービスの質的管理を意図したものであった。一方、利用者に対しては、①質基準、②公開性、③情報、 ④選択、⑤非差別、⑥利用可能性、⑦サービスが上手く提供されない場合の改善措置が、一連の市民憲章改 革の中で保証されると公表された(Cabinet Office 1991: 5;安 1997: 75)。 上述の基準に則り、中央省庁では、部門毎に憲章が策定された。ステファン・ドレル保健省政務次官の答 弁によると、患者憲章は専門家、NHS 管理者、消費者団体の利害関係者によって策定された(Hansard, HC 25 July 1991, vol. 195, c906W)。その後、市民憲章は全国的に導入されていった。例えば、患者憲章は 1991 年 9 月のスコットランドより導入が始まり、翌年 3 月には全国各世帯に配布・導入された(Cabinet Office 1992: 5)。 一方、地方では、地域団体との合議により策定されたエディンバラ議会、学生組合により策定されたノッ ティンガム・トレント大学の例に見られるように、運営のあり方や業績達成目標は各当事者に委ねられた (The Herald (Glasgow), 7, 6 March 1992; The Times, 26 April 1993)。こうした地域憲章は、最終的に、学校、医療 機関、自治体などの約 1 万以上の組織によって導入され、国内規格を底上げする役割(例:数次に渡る患者 憲章の改定)や組織独自の運営を規定する役割11を果たした(Cabinet Office 1996: 14–16, 19–20)。 確かに、市民憲章において、サッチャー政権からの市場化政策の枠組は継承されている。だが、市民憲章 は、1991 年に公表された白書や地方の憲章策定過程に見られるように、質改善のため、利用者はサービス のあり方に影響力や意見を投影し、供給者がそのニーズを踏まえた開かれた運営を行うことが求められた。 そのため経済的側面のみならず、地域のサービス組織の自主性を期待する政策が党執行部によって政策化さ れたことが指摘できる。 3.監査委員会と地方自治体の主幹業務拡大:1992 年地方自治体法の施行 では、市民憲章の導入のため、どのような制度改革が行われたのか。その制度改革が 1992 年 3 月 6 日に 改正された地方自治体法である。92 年法は、監査委員会と地方自治体の主幹業務の拡大が改革趣旨であり、 市民憲章を機能させる上で重要な役割を担った。 まず監査委員会は次の業務を行うことになった。それは、①全国的に比較可能な業績指標を特定した 上で12、過去数年間含めた自治体の業績達成事項の国内調査を毎年行い、その結果を全国刊行(national publication)する(第 1 条・第 3 条)。②新規の業績指標を適用する際は自治体や関係団体と協議する(第 2 れにあたる(The Times, 4 June 1991)。

11) 例えば、北アイルランドのロンドンデリーにあるセント・メリーズ中等学校では、当時、保護者と生徒に「可能な 限り PTA に参加する」「時間通りに登校する」「子供を奉仕活動に参加させる」などが記載された契約書に似た文 書提出が求められた(Cabinet Office 1996: 19)。

12) 監査委員会が策定する業績指標は、地方議会、消費者団体、政府省庁などの助言を経て、策定されたとされる(AC 1994b: 8)。

(12)

条)。③会計結果に関する議会への勧告書提出(第 5 条)。④法律違反や運営問題の公開措置(第 7 条)であ る(HMSO 1996: 1–8;AC 1994a: 7–12;自治体国際化協会 : 1997: 89–90, 114)。③と④は、監査委員会が地方 自治体やその関連組織の公的規制や情報公開を促す制度であるのに対し、①と②は事前協議制も含めて監査 委員会(監査人)と地方自治体との協調・補完関係に基づき、質的管理や業績記録を行う制度となる。また 業績指標の適用と策定にあたり、自治体毎で異なる人口密度、社会的剥奪、地理的差異、歴史的要因、言 語・文化的差異などを踏まえる方が地域のニーズに作用し易いことから、達成すべき業績目標やターゲット については公的機関や自治体に決定権が委ねられた(AC 1992: 5–8; AC 1994b: 11–13, 22–24)13。これにより監 査委員会は、地方自治体の会計監査だけでなく、サービスの質的監査を新たに担うことになった。同時に、 監査委員会は、地方自治体の運営改善とその有権者の社会生活の向上のため、経済的効率性のみならず自治 体や公的機関が直面する社会状況にも配慮した監査が求められた。 一方、地方自治体は次の業務を行う。それは、①監査委員会が要求する業績指標に関係する情報を集計 し、結果は会計年度終了の 9 ヶ月内に地域で流通する新聞・雑誌で公開する(第 1 条~第 3 条)、②監査委 員会が 12 月 31 日までに課した業績指標は翌年度より適用され、その公表義務がある(第 1 条)、③委員会 勧告には 4 ヶ月内に議会審議と対応策を示し、審議 7 日前には勧告内容や開催日時を地域で流通する新聞 紙上で通知する(第 5 条・第 6 条)である(HMSO 1996: 1–7;AC 1994a: 7–12;自治体国際化協会 1997: 89, 104, 114)。 前述した監査委員会が行う①の業務と関連させると、自治体が行う業績結果の集計とその地域内刊行 (local publication)は市民憲章の実施面で重みを持つ。まず監査委員会は 92 年 12 月までに指標を作り、自治 体は 1993 年 4 月から 1994 年 3 月の間に業績指標に準拠した行政評価を行い、その結果を 1994 年内に市民 向けに地域内刊行する。そして監査委員会は、95 年初頭に通時的・共時的に行われた地方自治体の業績比 較結果の全国刊行を行い、その全国刊行では業績結果の原因分析、地方自治体や公的組織の推奨される行動 指針などが記される。これら内容は監査委員会側からの地方当局の組織運営に対する提言や業績指標の改定 などの場面で活用されることになった(AC 1994b: 7–10, 49; AC 1994c: 15)。また、一層制と二層制が混在す る複雑な地方自治制度のため、地域内刊行にあたり、時差出版や共同出版などの連携が地方自治体の間で求 められた(AC 1994a: 14–15)。 92 年法の施行に伴い、組織側はサービスの質改善のため、運営責任の明確化に努めるとともに業績指標 に沿う業績目標や憲章文を定めることが求められた。そして地方有権者に期待される役割として、流通され る地域新聞や憲章を通して、組織に説明責任やサービス改善にフィードバックすることであり、これに沿っ た運営が求められた14 これら法改正の結果、自治体とその関連組織間の協力関係も生み出され、そこでも監査委員会はその調整 の役割を担った。具体的には、政策ネットワークとも呼べる行政間・組織間協力が形成されたことである。

監査委員会や内閣府内に部局化された市民憲章ユニット(Citizenʼs Charter Unit)の後援の下15、質的改善に向

けた「問題共有と解決」のため「会議・研究会」が不定期に開催された。そこでは、監査委員会の地域ス 13) 業績指標の内容、目標、成功率などの定義が自治体毎に異なることで生ずる欠点に、ハードルの低い目標を定める 自治体や業績比較の難化があったとも指摘される(Boyne 1997: 19)。 14) 実際の執行面に簡単に触れると、例えばブリティッシュ・レイルにおける乗客への損失補填金に関する調査で は、1993 年から 94 年にかけて 470 万ポンドが支払われたが、1994 年から 95 年にかけては 350 万ポンドに減少し た。満足度も 1992 年の 77% から 1994 年には 86% という改善結果も表れ、分野毎にこうした監察が実施された (Cabinet Office 1995: 14)。

15) 市民憲章ユニットでは「憲章・質のネットワーク(Charter Quality Network)」や「憲章・質のセミナーと研修会 (Charter Quality Seminars and Workshop)」が組織され、活動内容は同様であるも、1,000 人強が集まり知見や情報共

(13)

タッフ、組織運営者、自治体関係者、消費者団体などが集まり、知見の共有や組織の枠を超えた提言が盛ん

に行われたのであった(AC 1994c: 14–15; Cabinet Office 1995: 2; Cabinet Office 1996: 4–5)16

確かに、営利主義の浸透という点ではサッチャー政権とメイジャー政権との間で大きな違いはない。だが 政策目標とその展開で相違がある。92 年法の施行に伴い、監査委員会は地域住民が抱える生活の問題解決 に向けて、サービス組織の自主性を重視しつつも、情報収集や調査研究に基づく政策提言を促し、時に組織 間交流を促す役割も果たしたためである。 その意味で、本稿では、地域組織の活性化という「市民的保守主義」が趣旨とする理念が、執行部の構想 段階から政策実施に至るまで一貫して重視された点が指摘でき、市場化路線は維持されつつも地域組織に対 する配慮があったことが確認できた。

V.

 結語

本稿は、ポスト・サッチャー時代における保守党の改革を検討するため、メイジャー政権内で提起された 政治理念と国内政策に注目した。近年の研究では、メイジャー政権は自由経済路線を踏襲しつつも、実用主 義的な政権運営や政策選択を展開した点が指摘される。 それならば、メイジャー政権下の保守党では、いかなる新たなアジェンダが党内で重視され、どうサッ チャー政権とは異なる政策を行ったのか。この点について先行研究は必ずしも充分に触れてこなかった。本 稿はこの問いに答えることを目的とした。 そこで、本稿が注目した政治理念が、90 年代当時の党知識人であるウィレッツが提起した「市民的保守 主義」の議論である。「市民的保守主義」の理念は、地方自治体やその関連団体である学校、病院、行政と いった「企業的結社」の役割を期待するものであった。なぜなら、市民が購入者として質的改善を追求し、 供給者がその需要に応えるという共通利益の関係図式が成立すれば、コミュニティにおける様々な社会問題 を解決できると考えられたからである。さらにウィレッツは、「市民的保守主義」が期待する趣旨が市民憲 章において展開されているのだと主張した。 この彼の議論に則り、本稿は市民憲章をめぐる政策展開に注目した。市民憲章はサービスの質的改善やそ の基準を明らかしようとした政策であり、その導入に際して監査委員会の改革が行われた。同委員会は、地 方自治体やその住民に対してというより、上級官庁を意識した監査をする傾向があると理解されている。し かし、同委員会は、1992 年に行われた制度改革に伴い、地方自治体やその地域住民の事情に即した監査を 担うと同時に、政策改善や組織間協力を促進する主体として機能することになった。 そのことから、「自由経済と強い国家」というサッチャー政権の政策路線が、メイジャー政権でも維持さ れたとの理解には一定の修正が必要とされる。なぜなら、メイジャー政権は経済路線では自由経済路線を維 持しつつも、中間団体の活性化を意図した政治理念が党内で掲げられ、それに基づく政策が着手されたため である。 では、そうした取り組みがあったにも拘らず、なぜメイジャーは政権交代を余儀なくされたのか。加え、 「市民的保守主義」の議論は、どう野党期保守党と関連するのか。この点は別に検討を行っていきたい。 16) また人口約 6 万 7 千人を抱える小規模自治体のエプソム&ユーウェル区では、無作為に選ばれた 21 ~ 64 歳の住民 30 名が、憲章内容の在り方、業績指標、目標、情報公開などを題材とした検討会を自治体、監査委員会、調査会 社の協力の下、開催した(AC 1994a: 19–22)。

(14)

〈謝辞〉

本稿はイギリス政治研究会(2020 年 9 月)における報告内容を加筆修正したものであり、参加された先 生方から貴重な講評を頂きました。加えて、本稿の投稿に際し、匿名の査読者の方々からも筆者では気づき 得なかった知見を賜ることになりました。この場を借りてお礼申し上げます。

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The Politics of Post-Thatcherism under the John Major Government:

Civic Conservatism and the Reform of Public Services

Hidetaka YASUDA Doctoral student, Graduate School of International Cooperation Studies, Kobe University

Abstract

This article offers a new historical interpretation of the British Conservative Party’s politics after post Thatcherism under the leadership of John Major. Much previous research on Major’s leadership has argued his party could not have cope with Thatcherite legacies, including socio-economic divisions.

To counter argue that general understanding, this article addresses the new political ideas suggested under the Major’s pre-miership, and the effects it had on gave public policies. The result of the analysis revealed that the concept of “Civic Conser-vatism” which was proposed by party intellectual David Willetts, and it reflected in “Citizen’s Charter”. This article argues that the Conservatives attempted to revive local institutions such as schools, hospitals, and municipalities to distance themselves from Thatcherite policies which was finally implemented as an internal policy.

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