• 検索結果がありません。

沖縄県の幼稚園創設期における気運醸成に関する一考察~寄留商人の動向を中心として~: 沖縄地域学リポジトリ

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "沖縄県の幼稚園創設期における気運醸成に関する一考察~寄留商人の動向を中心として~: 沖縄地域学リポジトリ"

Copied!
10
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

Title

沖縄県の幼稚園創設期における気運醸成に関する一考察

∼寄留商人の動向を中心として∼

Author(s)

喜舎場, 勤子

Citation

沖縄キリスト教短期大学紀要 = JOURNAL of Okinawa

Christian Junior College(30): 179-187

Issue Date

2001-12-20

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/9701

(2)

沖縄県の幼稚園創設期における気運醸成に関する一考察*

∼ 寄 留 商 人 の 動 向 を 中 心 と し て ∼

喜 舎 場 勤 子 * *

要 約 本稿は、いわゆる寄留商人らの動向に焦点をあて、沖縄県初の幼稚園が設立されるに至った、 気運醸成過程の解明を目的とする。方法としては、まず、寄留商人の商業活動を中心に検討し た。ここでは、本県既存の商業形態を浮き彫りにするとともに、明治10年代半ばから急増し始 めた寄留商人らが、商店街を形成する等、社会的にも多大な影響力を及ぼし得る勢力を形成し ていた事を明らかにした。同商業活動は、同園の対象地域であった那覇区西村・東村で展開さ れており、特に強い影響力を保持していたのが鹿児島系寄留商人であった。次に、これらの活 動を支えた、本県初の銀行である第152国立銀行、及び、その後同銀行業務を引き継いだ第147 国立銀行那覇支店と、鹿児島系寄留商人らとの密接な関係について言及した。更に、これらの 背景的要因について、西南戦争の影響を指摘した。当時、薩摩士族らは鹿児島県庁職員等の公 職を追放されており、起死回生を試みる形態で沖縄県における金融機関の創設運営にその手段 を求めたものと考えられるからである。明治政府の抑圧を受ける中、威信回復を狙う薩摩士族 と、新天地における商業の拡張で身分昇格を願う鹿児島系商人らの野心が交錯し、沖縄県にお ける幼稚園創設の気運となって表出したと考えられる。 I . は じ め に

沖縄県における初の幼稚園Ckindergarten]

は、1893(明治26)年の那覇高等尋常小学校内に 幼児30余名を収容し、仮設された幼稚園とされて いる')。同幼稚園附設当時、本県では小学校教育 の普及さえ難航しており、幼稚園の設立要望に至っ てはほとんど皆無であったと察するに難くない。 このような社会状況の中、沖縄県初の幼稚園は設 立されたのであるが、依然として入園当初の様子 を含め、解明されていない点が数多く残されてい る。同幼稚園1期生となった、30余名の園児達に ついても同様である。小学校教育さえ定着してい なかった当時の県下、一体どのような社会階層の どのような人たちの子弟が入園し、その後の存続 を支える要因となっていったのであろうか。 興味深いことに、那覇高等尋常小学校へ幼稚園 が附設された頃、寄留商人2)と呼ばれる人々が沖 縄県へ流入し、同幼稚園が対象とする校区内に数 多く居住している。その様子については、「当地 にて内地人の威張る有様は調度欧米人の日本に来 て威張ると同し釣合」3)との記載や「利ある仕事 は総て内地人の手に入り」3)、「内地人は殿様に て土人(沖縄県民)は下僕たり」3)〔()内は 筆者加筆〕といった記述を残すほど、これら寄留 *AStudyontheFactorofGroundSwellMovementstoFoundaKindergarteninOkinawa FocusontheTradesmenResideTemporarily^-**IsokoKisyaba

(3)

沖縄キリスト教短期大学紀要第30号(2001) 商人らの動向は、当時の社会状況を分析する上で、 無視できない勢力を形成していたと考えられる。 そこで、本稿では、沖縄県初の幼稚園設立の気 運醸成と寄留商人らの関わりの可能'性について検 討 す る 。 対 象 時 期 は 、 寄 留 商 人 が 急 増 し 始 め た 1882,3(明治15,6)年頃から那覇高等尋常小 学校へ本県初の幼稚園が設立された1893(明治26) 年頃までとする。しかし、その期間をより詳細に 検証するため、その前後も若干言及する。研究方 法については、主に寄留商人らの経済活動、特に 商業の発展や金融機関の創設経緯に焦点をあて、 どのような形態で当時の社会へ影響を与え、延い ては本県初の幼稚園設立の気運醸成と結びついた かを明らかにしたい。 Ⅱ.寄留商人と商業活動 1 沖 縄 県 の 商 業 形 態 まず、本県既存の商業形態を概観する。1888 (明治21)年の記録によると、当時の県庁所在地 であった那覇港内には、東村と塩浜の2カ所に市 場があり、主として東村の市場での売買が盛んで あったようである4)。商いは、主に露店で行なわ れ、食料・衣類から生活雑貨に至る種々雑多な物 が 、 何 の 取 り 決 め も 無 く 、 各 々 の や り 方 に 応 じ て 取 り 引 き さ れ て い た 。 ま た … … 元 来 土 人 ( 沖 縄 県 民 ) は 店 を 張 ら ざ る (ママ) 習'慣にて如何なる商人にても皆な行商にあら ざるなし……〔()筆者加筆〕4} 等の記載のように、『町屋』5)と呼ばれる露店で の、物々交換や行商が本県の商いの主流を占めて いた。このような当時の様子については、後の商 店街となった通堂・大門通・石門通あたりも、多 くの民家が本県特有の高い石垣で囲われ、街路に 面 し た 店 が ほ と ん ど 存 在 し な か っ た こ と 等 が 、 太 田朝敷(1865年-1938年)により記されている6)。 更 に 、 代 表 的 寄 留 商 人 の 一 人 で あ っ た 平 尾 巳 之 吉 (1863年-1936年)も、『琉球新報』〔1932(昭和 7)年5月29〕のインタビューに対し、来島した 明治17年頃を回想する形で同様の事を述べている ことから、本県既存の商業形態が、主に露店や行 商に頼るといった特徴を持っていたことが読み取 れる。 また、 ……此露店商人は更に一人の男子あるなく 総て是れ老若の婦人のみなり沖縄の習'慣にて 商売は婦人の受持……4) … … 旅 店 に 反 布 を 蔚 す 者 市 場 に 雑 貨 を 市 く マ マ > ふ者店舗に座して商品を蓄く者頭に重大の物 品を載て往来を通行する者多くは皆女子なり 道路修繕の為多数の女子の頭に萱を載て土砂 を運搬するは屡見る所なり男子にして傘を携 へ悠々緩歩する者道路に群を成すは先つ旅行 者の目を驚すの一顕象なり……7) 等のように、外来者の目に男逸女労と映るほど、 商業従事者のほとんどが婦人であったという特徴 も持ち合わせていた8)。このような当時の事情を 反映して、寄留商人らも商業活動の初期において は、 一難事あり土地の商売は皆婦人なるか故に 内地商人等に至ても皆娼婦を置き日々の商売 互に婦人の業となり9) と本県の'慣習に倣わざるをえなかった。1932(昭 和7)年5月26日付け『琉球新報』には、米穀商 永井吉太郎(生没不詳)の談として、『女童児は 男に近寄るな』との本県の1慣習により、主人が店 先に立つと客が寄り付かず、馴染みの辻(当時の 遊廓)女を店番として置いていたこと等も語られ ている。

(4)

2 . 寄 留 商 人 の 急 増 本県に定住し商いを生業とする、いわゆる寄留 商人らが出現し始めたのは、明治初頭頃からで、 薩摩奉行所の御用商人の前田英次郎・小牧藤助ら がその先駆けであったとされている'0)。その後、 通称「清兵衛殿」(シーベードン)と呼ばれた塩 屋清兵衛(生没不詳)が、那覇の西本町の民家を 借り、雑貨類を商ったのが本県における雑貨商の 噴矢となった'')。店の様子は、7,8畳の座敷に 反物・手ぬく令い・筆や紙をはじめ墨にいたる文房 具類等を雑然と広げ商っていたようである。 那覇高等尋常小学校へ幼稚園が附設された明治 20年代、「当節内地人の沖縄に入り居るもの凡そ 二千名に近し……」3)との記録が示すとおり、毎 年平均約2,500名余りが、他府県より本県へ寄留 しているく資料1〉。これらの他府県人は、1882, 3(明治15,6)年頃から、県庁職員・教員・警 官・商人等として本県へ流入するようになった。 特に、その数を伸ばしていたのが、鹿児島からの 寄留者たちであった'2)。このような現象の背景 には、西南戦争の沈静化といった事‘情が指摘され てもいる。 歴史的経緯や地理的関係を一つの背景として、 鹿児島系寄留商人らは本県へ流入するようになっ た。そして、本県初の幼稚園が設立さた明治20年 代には、日毎にその数を増し、社会的にも多大な 影響を及ぼし得る勢力を形成していたのである。 特に、1888(明治21)年には5,831人と突出した 数字となって本県へ流入している。1888(明治21) 年といえば、甘蒔作付制限'3)が解除された年でも ある。糖業の売買を中核に勢力を伸ばしていた当 時の寄留商人らにとって、作付制限の解除は、商 売の拡張という新しい可能‘性の広がりを意味する ものであったのではないだろうか。1888(明治21) 年の突出した数字は、このような事‘情が反映され たものと考えられるのである。 3 . 那 覇 区 西 村 ・ 東 村 の 商 業 活 動 次に、1900(明治33)年9月27日から同年10月 11日にかけ、7回に亘り『琉球新報』に掲載され た「寄留商人案内(1)∼(7)」を中心に、当時の寄 留商人らの様子を検討する。 ここで沖縄県設置以降から同連載が掲載された 1900年頃までの県内における社会状況の変遷を、 か な り 大 雑 把 で あ る が 概 観 し た い 。 那 覇 高 等 尋 常 小学校附属幼稚園が設置された明治中期、その歴 史的経緯に基づく清国との密接な関係と、明治政 府との狭間で沖縄県民の心‘情は複雑に揺れ動いて いた。しかし、県民の心情的ゆらぎを、ある種決 定的に方向づける出来事が起こる。1894(明治27) 年、日清戦争における日本側の勝利である。その 後、県民の心情は清国から次第に日本へと傾斜し ていく。このような現象は、教育界において普通 教育の就学率上昇といった数字となって現われて いった14) 一方、上述した県民意識の変化と平行して、寄 留商人らは、明治10年代の半ばから活動を開始し、 次第に力を貯え、明治30年代に入る頃には、本県 既存の商業形態であった『町屋』に代わり、店舗 が立ち並ぶいわゆる「商店街」を形成し商業を展 開するようになっていた。7回の記事の掲載は、 当時活躍していた合計35名の寄留商人について紹 介したものである。その内、勉学のため県外に居 住していた1名、及び、住所の記載が不完全と思 われる1名を除き、残りのもの全てが那覇区西村・ 東村に店舗を構えているく資料2〉。 当時、東村には、後に戦前(沖縄戦/1945年) の 那 覇 市 役 所 と し て 使 用 さ れ る こ と と な っ た 天 使 館〔冊封使来琉時(中国)の宿泊施設〕があり、 一方、西村には県庁(薩摩藩の在番奉行所跡)や 沖縄県尋常師範学校(那覇西村2番地)等があっ た'5)。このように、那覇4町の一角を占める西村・ 東村は、廃藩置県後の行政中心地としての役割を 担う場所となっていたのである'6)。そして、この ような大規模の商業活動は、主に鹿児島系寄留商

(5)

沖縄キリスト教短期大学紀要第30号(2001) 人 ら に よ り 担 わ れ て い っ た 。 Ⅲ 、 鹿 児 島 県 の 動 向 1.沖縄県の金融機関創設と薩摩士族 次に、上述した寄留商人らを支えた金融機関の 設立経緯に焦点をあて考察をすすめる。沖縄県に おける金融機関の起点は、1880(明治13年3月 15日、鹿児島系寄留商人村田孫平の寄留宅(那覇 区東村95番地)において開業された第152国立銀 行であるとされている'7)。その創設に至った背景 には、西南戦争(1877年/明治10年)に敗れた薩 摩士族らの存在があった。当時、明治政府に反逆 した薩摩士族は、鹿児島県庁や役所等の公職から 追放され、県庁職員のほとんどを中央政府から派 遣された他府県人により占められるという状況を 生み出していた。 ここで、かなり大枠ながらも、鹿児島県におけ る初期の金融機関の設立状況を垣間みることとす る。明治5年に発布された国立銀行条令を受けて、 わが国最初の国立銀行として、第1国立銀行が 1873(明治6)年7月に中央で創業を開始した18) それから、わずか5ヵ月後、鹿児島県初の銀行と して第5国立銀行〔1873(明治6)年12月〕が創 設されている。これは、地理的条件をふまえても、 かなり早い時期の銀行設立であったといえる。そ の後、政治的動乱を経て、1878(明治11)年には 更に2件の国立銀行設立の動きが、士族らを中心 に起こった。しかし、この2件の設立要請は一本 化され、第147国立銀行〔1879(明治12)年10月 開業〕として設立をみることとなる。このように、 鹿児島県内においては、かなり早い時期から薩摩 士族らを中心とする活発な金融機関設立の動きが あった。しかし、上述した動向は、銀行設立に加 わることができず不満を抱えた士族や商人らを排 出することにもなっていった。 一方、1879(明治12)年頃といえば、琉球藩が 廃止され沖縄県が設置された年である。当時の鹿 児島県の状況は、既述のとおり、明治政府に反旗 を 翻 し た 士 族 ら に と っ て 必 ず し も 居 心 地 の 良 い 場 所ではなく、沖縄県の設置は新しい可能’性を示唆 するものであった。かつて属領同様の土地であっ た沖縄では、刀を振りまわして商売ができたとい う歴史的背景が、薩摩士族らの目を沖縄へ向けさ せる、心’情的要因になったとの指摘もある'9)。 したがって、沖縄県は、これらの薩摩士族にとっ て新天地を築く恰好の場所として映っていたとも 考えられるのである。大阪系寄留商人の平尾巳之 吉も、『琉球新報』〈1932(昭和7)年5月29日〉 の紙面において、来島した当初のエピソードを次 のように語っている。すなわち、鹿児島県出身者 がその横暴さ故に「ヤマトンチュー」(大和人) であったのに対し、その他の県外出身者は敬意を 示すものとして「ウフヤマトンチュー」(大大和 人)と呼ばれていたというものである。当時の鹿 児島県寄留者の沖縄での様子が看取できるかと思 われる。 2.第152国立銀行と第147国立銀行那覇支店 上述した状況を背景とし、薩摩士族を中心とす る第152国立銀行は設立された。同銀行の設立発 起人が、全て鹿児島県人であったため、設立申請 の手続きは便宜上鹿児島県庁で行なわれた。1880 (明治13)年3月、資本金10万円として、同行発 起人の一人でもあり取締役でもある鹿児島系寄留 商人村田孫平の寄留宅にて営業が開始されている。 以下が設立当初の役員である20)。 役 職 氏 名 ( 身 分 ) 寄 留 先 取 締 役 頭 取 福 島 巌 ( 士 族 ) 取締役松田通信(士族)那覇区西村199番地 〃 児 玉 東 一 ( 士 族 ) 那 覇 区 西 村 6 6 番 地 〃 村 田 孫 平 ( 平 民 ) 那 覇 区 東 村 9 5 番 地 支 配 人 徳 田 作 兵 衛 ( 平 民 ) 特筆すべきことに、取締役頭取福島巌を除く全 ての役員が、同銀行の業務と平行して個別に事業

(6)

を 展 開 し よ う と し た 形 跡 が あ る 。 ま ず 、 支 配 人 で あった徳田作兵衛は、開業直後辞任しているが、 1880(明治13)年の県砂糖審査委員の筆頭に記さ れ 、 沖 縄 県 庁 収 納 の 砂 糖 を 公 売 糖 の 価 格 で 買 い 取 り た い 旨 の 申 請 を し て い る こ と 等 か ら 、 砂 糖 仲 買 商人であったようである。徳田の辞任後について は不明だが、おそらく砂糖買付け業務に専念した ものと考えられる。児玉東一については、1881 (明治14)年10月に外9名の発起人と共同で、資 本金2万円の営業申請をしているが却下されてい る2')。村田孫平は、浦添間切の勢理客川原の約2 万 8 千 坪 を 養 蚕 ・ 製 茶 業 拡 張 の た め 開 墾 の 申 請 をしているが、これも却下されている22)。ところ が、松田通信については、仲島大瀬辺りから仲毛 付近の埋め立て一帯を買い占め、屠獣場を新設し 大々的に事業を展開しようとしたため、『松田さ ん豚の神』23)と唄われるようにもなった。このよ うな経緯により、同銀行は松田銀行とも呼ばれた ようである。しかし、事業に手を出しすぎた結果、 1888(明治21)年に閉店したとされている。その 後、第152国立銀行は廃業し、その業務は第147国 立銀行の那覇支店〔1883(明治16)年開業〕へと 引き継がれていく。 このように、第152国立銀行は当時の鹿児島県 内の事情を背景として、諸々の思惑を持つ薩摩士 族や商人らにより設立されたものであった。そし て、同様に薩摩士族の思惑を準む形態で設立・運 営された第147国立銀行那覇支店が、県庁の公金 の取り扱いや寄留商人らの預金・貸し付け業務等 を引き継いでいったのである。本県初の幼稚園が 設立された1893(明治26)年頃、那覇区西村・東 村を拠点に活発な商業活動を展開していた寄留商 人らを支える強力な柱として、第147国立銀行那 覇支店は重要な役割を担っていた24)。 3 . 幼 稚 園 の 創 設 次に、鹿児島県における幼稚園設立初期の状況 を 垣 間 見 る こ と と す る 。 鹿 児 島 県 に お い て は 、 1879(明治12)年4月、鹿児島女子師範学校附属 幼稚園(鹿児島幼稚園)として設立されたものが その先駆けであるとされている25)。わが国初の幼 稚園として開園された東京女子師範学校附属幼稚 園(1876年/明治9年)に次いで、第2番目の幼 稚園として設立された。日本において第1号の幼 稚園が設置された東京から、地理的にも遠く離れ た鹿児島県に、第2番目の幼稚園が設立されたこ とは興味深い。その背景的要因として、やはり西 南戦争の影響が指摘されているのである26)。同戦 争 終 結 後 、 中 央 か ら 派 遣 さ れ た 官 吏 ら の 子 弟 教 育 を重視したためとするものである。それを裏付け るように、東京女子師範学校附属幼稚園の保母豊 田芙雄(1844年-1941年)が約1ヵ月もの長旅を 経て、鹿児島県に赴き、直接設立の指導をしてい るのである。第3番目の幼稚園としてほぼ同時期 に開園した大阪府立模範幼稚園〔1879(明治12) 年5月〕も、同様に幼稚園設立に伴い、東京から 保 母 の 派 遣 を 依 頼 し て い る が 断 ら れ て い る 事 等 か ら、鹿児島県における幼稚園設立に対しては並々 ならぬ関心を向けていた事が窺われる出来事であ る27)。また、大阪府立模範幼稚園のそれと比較し て、鹿児島女子師範学校附属幼稚園規則において は、保育科目の名称や室内会集の時間および内容 等、東京女子師範学校附属幼稚園のそれを修正し、 より独自性を持たせて設定されていること等も、 同幼稚園設立の一つの特徴を表すものであろう28)。 豊田らが東京女子師範学校附属幼稚園設立当初の 反省を踏まえる形で、より積極的に鹿児島県にお ける幼稚園設立に関わった熱意を示すものである と考える。 Ⅳ . お わ り に 以上述べてきたように、沖縄県初の幼稚園が設 立された明治20年代半ばには、毎年平均2,500人 余りが県外から流入し、公職等に従事する者とし て本県に居住するようになっていた。中でも、鹿 児島系寄留商人らの動向はめざましく、那覇高等

(7)

沖縄キリスト教短期大学紀要第30号(2001) 尋 常 小 学 校 附 属 幼 稚 園 の 対 象 地 域 で あ っ た 、 那 覇 区西村・東村に店舗を構え、いわゆる「商店街」 を 形 成 す る 等 、 活 発 な 商 業 活 動 を 展 開 し て い た の で あ る 。 そ し て 、 そ れ を 支 え る も の と し て 、 鹿 児 島県に本店を置く、第147国立銀行那覇支店の存 在があった。 鹿児島県における金融機関の創設、及び、その 発展の経緯については、既述のとおり西南戦争の 影響による薩摩士族と明治政府との確執がその背 景にあった。すなわち、同戦争終結後、薩摩士族 らは、明治政府に反逆した罪で、県庁職員を始め ほとんどの公職から追放されるという状況に置か れていた。このような事‘情から、同士族らは自ら の威信を賭け、金融機関の設立に携わることで復 興 を 試 み た と も 考 え ら れ る の で あ る 。 わ が 国 に 国 立銀行が創設されてから、わずか6ヵ月後の鹿児 島県下における銀行創設という現象もうなずける ことである。更に、おもしろいことに、同県では、 わが国第2番目という、かなり早い時期の幼稚園 設置の動向もあった。そして、その背景に、やは り西南戦争の影響があったのである。上述のとお り、当時、鹿児島県では、明治政府より派遣され た官吏らが居住しており、その子弟らの教育を重 視したためと考えられているからである。 明治政府の抑圧を受ける中、何らかの手段で威 信回復を狙う薩摩士族、及び、新天地における商 業の拡張で身分の昇格を願う鹿児島系商人らの野 心が交錯する形で、沖縄県における初の幼稚園設 立 の 気 運 と 結 合 し た と 考 え ら れ る 。 そ し て 、 明 治 政府から派遣された公職従事者らの子弟を養育す る機関であり、ある種特権的色彩を醸し出してい た鹿児島女子師範学校附属幼稚園(鹿児島幼稚園) の設立・普及が、更に薩摩士族や鹿児島系商人ら の社会的地位の保障・昇格に対する思いを増幅さ せたのではないだろうか。 1893(明治26)年、沖縄県では小学校教育の普 及さえ困窮する中、初の幼稚園として那覇高等尋 常小学校附属幼稚園が設置された.このような状 況下、入園した園児たちの30余名という数字は、 時代の潮流に翻弄された大人達の諸々の思惑と共 に 、 次 世 代 へ 託 す 希 望 を 象 徴 す る も の で あ っ た と 思えてならない。 【注】 1)山田有慶1928『開校四十年記念誌那覇尋

常高等小学校』大同印刷pp.1-39参照。本稿

では、幼稚園が附設された当時の「那覇高等尋 常小学校」という名称を用いる。先行研究は、 阿波根直誠1989(復刻版)「第4編初等教育」 『沖縄県史』4教育国書刊行会、及び、宜保美 恵子1985.2.「沖縄県幼児保育史(第1巻)」 『琉球大学教育学部紀要』第28集第二部、神山 美代子1999.12.「沖縄の保育施設の概念と形 成の過程」『沖縄キリスト教短期大学紀要』第 28号等がある。 2)一定期間以上沖縄県に居住して商業等に従事 し、近代沖縄の経済に多大な影響を与え、且つ 社会的にも重要な役割を担った他府県出身の商 人を指す。 3)沖縄県1989(復刻版)「琉球見聞雑記∼明治 21年沖縄旅行記事∼」『沖縄県史』14雑篇1国 書刊行会p.487.

4)沖縄県「琉球見聞雑記」『同上書』p.485参照。

5)比嘉春潮1970『新稿沖縄の歴史』三一書房 p.462o 6)太田朝敷1932『沖縄県政五十年』国民教育 社p.201. 7)一木喜徳郎「一木書記官取調書」『沖縄県史』 14雑篇1p.506. 8)那覇士族は首里・久米士族と異なり、科(コ ウ/官吏登用試験)に合格しなければ役人への 道がなく、妻が夫の出世や家計を支えるべきだ とする強い社会的役割期待があった。那覇市 1974『那覇市史』通史篇近代史琉球新報社 p.178等参照。 9)河原田盛美「琉球備忘録」『沖縄県史』14雑

(8)

M1p.203. 10)石川政秀「第6章商業の発展と寄留商人」 『那覇市史』通史篇近代史p.172等参照。

11)太田朝敷『前掲書』pp.200-201o

12)太田朝敷『前掲書』pp.64-65,201-202参照。

後の県令大迫貞清(1886年4月∼1887年3月) により、官吏・教員・警官の殆どは他府県出身、 特に鹿児島県人の雇用が多くなったとされてい

る。比嘉春潮『前掲書』p.424参照。

13)琉球王府時代、食糧事情や糖価格への影響を 考慮して、甘蕨作付面積・地域が制限されてい た。このような事'情は置県後もいわゆる「旧慣 温存政策」において踏襲された。沖縄県1989 (復刻版)『沖縄県史』沖縄近代史辞典国書刊

行会p.180参照。

14)沖縄県1989(復刻版)『沖縄県史』20沖縄県 統計集成国書刊行会P.775、及び、浅野誠ほ か1976.12.「沖縄における置県直後の小学校 設立普及に関する研究」『琉球大学教育学部紀

要』第20集第一部p、24等参照。

15)那覇市1979『那覇市史』2−7那覇の民 族サン印刷p.30、及び、那覇市『前掲書』通

史篇近代史p.23参照。

16)その後、同地域は、更に発展を遂げ、本県初 の百貨店となる山形屋(S3年創業)、及び、 大小各種の商店の出現や銀行等の金融機関が立 ち並ぶようにもなっていった。西里喜行1982

『近代沖縄の寄留商人』ひるぎ社p.211参照。

17)牧野謙吉1966.11.「沖縄第152国立銀行の変

遷」『沖縄歴史研究』第3号厳南堂p.34o

18)日本銀行調査局1957『日本金融史資料』明 治大正編大蔵省印刷局p.136.

19)牧野謙吉「前掲論文」p.33.

20牧野謙吉「前掲論文」pp.34-36参照。「第152

国立銀行株主名簿(明治13年3月)」(牧野pp.

37-44)によれば、株主60名の内、東京府出身 の2名および沖縄県出身の1名を除く全員が鹿 児島県出身者で占められている。また、身分の 内訳に関しては、平民約27%(16人)に対し士 族約73%(44人)である。業務内容は、御用預 金に大きく依存し、一般預金者については、商 業従事者が47%(明治19年末)を占めていた。 21)沖縄県1989(復刻版)『沖縄県史』11上杉県

令関係日誌国書刊行会p.262o

22)沖縄県『同上書』pp.133-134.

23)太田朝敷『前掲書』p.221、及び、1899明 治32)年10月9日付け「琉球に於ける養豚」 『琉球新報』参照。 24)寄留商人らは、商業以外にも移出入交易・金 融・海運・鉱山開発・開墾事業・漁業等、多方 面へも参入し活発に事業を展開していた。西里 喜行1981『沖縄近代史研究』沖縄時事出版 pp.143∼154. 25)倉橋惣三ほか1983(復刻版)『日本幼稚園史』 臨川書店p.135. 26)村山貞雄1973「17.鹿児島に創られた最初の 県立幼稚園」『日本幼児保育史』第1巻フレー ベル館p.112参照。 27)湯川嘉津美1993.3.「明治初期地方における 幼稚園受容の‘性格」『香川大学教育学部研究報

告』第1部第88号p.164。結局、「大阪府立模

範幼稚園」は、保母見習生2名を、1878(明治 11)年2月に東京へ派遣し、その見習い終了を 待って幼稚園を設立した。 28)村山貞雄「前掲論文」pp.113-117参照。 【付記】 1.引用文中の旧字体は新字体に、漢数字は算用 数字に改めた。 2.1932(昭和7)年5月26.29日付け『琉球新 報』については、那覇市1969『那覇市史』資 料篇2中2新聞集成を使用した。

(9)

沖縄キリスト教短期大学紀要第30号(2001 <資料1〉他府県人出入の推移 6000 4000 2000 0 人 1 1 1 i 1 1 1 I 1 I I 1 1 1 年 8 8 8 8 8 8 8 8 8 8 8 8 8 8 8 8 8 8 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 ●-●流入 ローマ流出 出典:沖縄県1967『沖縄県史』20沖縄県統計集成厳南堂 p.282を基に作成。

<資料2〉「寄留商人案内」にみられる寄留商人一覧

氏 名 住 所 1 中 , 馬 辰 次 郎 (鹿児島汽船会社監査役) 那覇区字西38※実兄中馬徳次郎(同会社監査役) 2 大 嶺 柳 吉 (共同汽船会社取締役) 那覇区字西17※宮崎県本店(黒岩商会) 3 大 坪 岩 次 郎 (鹿児島汽船会社監査役) 那覇区字西27※実兄大坪嘉太郎(大阪砂糖会社社長) 4 小 牧 藤 助 那覇区字西10※鹿児島県本店(小牧藤兵衛管理) 5 前 田 英 次 郎 那覇区字西69※鹿児島県本店(鮫島武八郎管理) 6 海 江 田 丑 之 助 (汽船会社取締役) 那覇区字西89※鹿児島県本店(海江田金次郎管理) 7 若 松 太 平 (汽船会社取締役) 海江田丑之助経営の商店に隣接 8 鮫 島 武 八 郎 那覇区字西69 9 矢 野 治 右 衛 門 那覇区字西42 ※那覇支店(甥矢野彦兵衛管理)/鹿児島県本店 ( マ マ ) 10 新 名 助 次 郎 那覇区字15※鹿児島県本店(実兄柴田政次郎管理) 11 慶 田 覚 太 郎 (鹿児島汽船会社取締役) 那覇区字東207※鹿児島県本店(慶田政太郎管理) 12 児 玉 利 吉 (共同汽船会社監査役) 那覇区字西25 商 業 穀 物 ・ 砂 糖 穀物・茶・砂糖 米 穀 ・ 砂 糖 砂 糖 等 穀 物 ・ 砂 糖 米 穀 米 穀 雑 穀 雑 穀 紙 類 ・ 砂 糖 酒 ・ 醤 油 等 砂糖・物産等

(10)

13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 氏 名 住 所 児 玉 常 七 那覇区字東184※和歌山県出身 古 賀 辰 四 郎 京 都 在 住 ※ 福 岡 県 出 身 藤 井 吉 次 郎 (共同汽船会社取締役) 那覇区字西11※同商店(叔父福山仁之助管理) 吉 田 得 蔵 那覇区字西46 ※同商店(柿本清右衛門・渡辺覚之助管理) 渡 辺 任 助 那覇区字東90※他へ移転 太 原 佐 太 郎 那覇区字西19 田 代 鹿 之 助 那覇区字西90 藤 田 喜 兵 衛 那 覇 区 字 西 8 ※那覇支店(次男藤田正八郎管理)/鹿児島本店拠点 − ■ 一 二 局 橋 栄 吉 那覇区字西43※鹿児島県本店(佐々木商店) 原 田 次 郎 那覇区字西22 吉 川 吉 衛 門 那覇区字東182 山 下 清 左 衛 門 那覇区字東183 飛 岡 吉 太 郎 那覇区字西54※鹿児島県本店(実父管理) 井 ノ ロ 平 次 郎 那覇区字東101 (共同汽船会社取締役) ※那覇支店(甥井ノロ政雄管理)/鹿児島県本店 黒 松 直 次 郎 (共同汽船会社社長) 那覇区字東205 相 良 金 次 郎 那覇区字西33 平 尾 喜 三 郎 那覇区字東84 浜 崎 喜 太 郎 那 覇 区 字 東 7 ※ 鹿 児 島 県 出 身 (ママ) 原 田 直 次 那覇区字西※宮古島に雑貨店開業・海産物買い付け開始 柳 元 半 兵 衛 那覇区字東21 池 畑 盛 之 助 那覇区字西50※鹿児島県本店(池畑太平次管理) 吉 永 藤 市 那覇区字東119※鹿児島県出身 畑 中 庄 次 郎 那覇区字西72 商 業 海 産 物 等 海 産 物 記 載 無 し 雑 穀 ・ 砂 糖 雑 貨 ・ 砂 糖 砂 糖 等 砂 糖 等 雑 貨 茶 ・ 雑 貨 雑 貨 ・ 貿 易 雑 貨 ・ 貿 易 雑 貨 雑 穀 ・ 材 木 砂 糖 材 木 雑 貨 雑 貨 卸 売 煙 草 雑 貨 ・ 海 産 物 汽 船 会 社 船舶関連請負 業 煙 草 ・ 砂 糖 反 物 砂 糖 出典:1900年9月27.29日、10月1.5.7.9.11日付け「寄留商人案内(1)∼(7)」『琉球新報』 を基に作成。

参照

関連したドキュメント

(2)施設一体型小中一貫校の候補校        施設一体型小中一貫校の対象となる学校の選定にあたっては、平成 26 年 3

[r]

・ 化学設備等の改造等の作業にお ける設備の分解又は設備の内部 への立入りを関係請負人に行わせ

本案における複数の放送対象地域における放送番組の

小学校学習指導要領総則第1の3において、「学校における体育・健康に関する指導は、児

なお、保育所についてはもう一つの視点として、横軸を「園児一人あたりの芝生

学校の PC などにソフトのインストールを禁じていることがある そのため絵本を内蔵した iPad

小・中学校における環境教育を通して、子供 たちに省エネなど環境に配慮した行動の実践 をさせることにより、CO 2