徒然草の執筆年代について(I)
宮 内 三二郎
A study on Tsurezuregusa (I ) Sanjiro Miyauchi●● 69 徒然草は,元徳元年(1320) 9月のころから元弘元年(1331) 9月のいわゆる元弘の変の勃発のこ ろまでの,最長2ヶ年の間に執筆され,整理完結をみた,という橘純一氏の推定説は,昭和22年1 月発行の「日本古典全書・徒然草」の「解説」において最終的に確定され,広く学界の承認と支持 を得て,徒然草の成立時期についての通念-鎌倉時代末期-を形成するに至り,その後いくつ かの反論や修正説が現われはしたけれども,今日もなお定説たるを失なわない。 しかし,あえて私見を卒直に述べるならば,橘氏説は立論に当って, 1.徒然草は1, 2年内外の比蕨的短期間に,継続的にまとめて執筆されたものであって,長 年月に亘って書き溜められた草稿の集成ではない。 2.現行流布本の形態-章段配列-は,執筆順の原形のままであり,些少の整理補訂はな されたにしても,作者または別人の編集を倹って成立したものではない。 という,いずれも根拠の不確実な2個の仮説を前損としており,しかも,この,それ自体検証を必 要とする仮説を,考証や推論の論拠として使用したため,一種の循環論に陥っていた。だがそれに もかかわらず,この説は, 「定説」として作品や作者の研究・評論一般に大きな影響を与え,それら の前提乃至出発点とされていることが多く,そのため,橘氏説における方法上の誤まりが再三繰り 返され,研究の或る行きづまりや不毛状態が生じているように思われる。 (以上の諸点についての 詳細な批判は,別稿に譲って,ここでは省略する)。 特に徒然草の作品形態-章段の配列形式-の問題は,私の美学的関心のおもに志向するとこ ろであるが,橘氏以来の「逐段執筆」説(江戸時代の加藤磐斎の「来意」説も)は,執筆順という 自然発生的な配列方式を主張し,作品形態の構成技巧を否認するものであるために,この説の定説 化は,この問題の研究を抑制することになっているきらいがある。 そこで,このような研究の停頓状態を打開するには,橘氏説を蔵本的に再検討する一方で,同説 の前提と結論を一切白紙に還元して,新たに成立問題を探求し直すことが必要であろう。本稿の考 察は,その試みの一端である。 (徒然草の序-30段については,拙著「徒然草(序-30段)の成立」で,また176 243段 については, 「徒然草の最終執筆年代」 《昭和47年5月中世文学会発表か・ 「徒然草の作品形態」灯美 学」第89号))等で,それぞれ取り扱かったので,本稿では31-175段の部分を考察範囲とする。 この区分は,私見では,徒然草の諸章段の執筆時期の3段階にほぼ対応するものである)。70 徒然草の執筆年代について( Ⅰ )
-175段の執筆年時
1. 段(「今の内裏作り出されで---玄輝門院の御覧じて---」)0 「今の内裏」すなわち二条富小路内裏は,建武3年(1336)1月10日に焼亡した(「梅松論」・ 「統 史愚抄」)。従ってこれを「今の」と記す本殿は,この時以前の執筆になることは明らかである。橘 氏は本段の執筆動機を,記事中の「玄輝門院」の舞去にあるとみて,執筆時点を亮去の年である元 徳元年(1329) (8月)のころと推測された(前掲書23ペ-㌔)。この点については後述第15, 18項 で再論する。 なお,作者が二条富小路殿を「今の内裏」と呼び得た時期・期間は, 「統史愚抄十九」の記載(主 上光厳院。皇居土御門殿束洞院)を信ずるならば,光厳帝の在位期間を中に挟んで,この内裏の新造 の成った文保3年4月から元弘元年8月までと,後醍醐帝の京都遺草の元弘3年6月から,内裏炎 上の建武3年1月までとの, 2期間に分れることになる。だが, 「増鏡・むら時雨」「同・久米のさ ら山」と「竹むきが記」の元弘元年9, 10月の記事とによれば,光厳帝の皇居も二条富小路内裏で あった。 「統史愚抄」の記載は明らかに誤りである。従って前記のく建武3年1月以前の執筆)に は,なんら限定はつかない。 2. 70段(「元応の清暑堂の御道に,玄上は失せにし比,菊亭大臣,牧馬を弾じ給ひけるに--・ -」)0 橘氏は,作者が「文保」とあるべきところを「元応」と誤ったことから, 「記憶のピントぼけに要 する時間的距離を十ヶ年」 (22ページ)とみて,本段の執筆時期を元徳元年(1329)のころと推測 された。しかし,この10ヶ年という数字と,そこからする推測とが,信懲性に乏しいことはいうま でもない。むしろ記憶が「ピントぼけ」するほどの,かなり遠い過去の出来事を,作者に思い出さ せたもの,つまり執筆の動機は何であったかを,上記33段の場合と同じように,考えてみるべきで あろう。 「増鏡・久米のさら山」と「竹むきが記」によれば,正慶元年(元弘2年, 1332) 11月,光厳帝 の戯醇に伴なう大嘗会がとり行なわれ,その付帯行事たる清暑堂の御神楽には,当時太政大臣にの ぼったばかりの「菊亭大臣兼李が,茸琶を弾いた(「・---右の大臣兼李も太政大臣になりて,清暑 堂の御遊に髭琶つかうまつりなどきこえで・」 (「増鏡」》, 「十五日,清暑堂御神楽御遊也。 -菊亭殿 ・-・・琵琶太政大臣殿---。太政大臣殿,その夜太政大臣のはいがをけんぜらるべし---・」 《「竹 むきが記」か)。そしてかの70段の元応(実は文保)の御道は,後醐醐帝の践醇に伴なう大嘗会の折 りに催されたものであったが,その後14年を経たこの時,同じ兼李が弾いた充電は,一時紛失して 玄上 いてその後発見された宝器「玄上」であった(「茸琶,太政大臣兼季」灯御遊抄」か, 「-・・-・所作公 卿太政大臣琵琶玄上巳下五人。 ---」 《「統史愚抄」))。つまり, 「元応(文保)」ならぬ「正慶」の 御遊に,右大臣ならぬ太政大臣の兼李が, 「牧馬」ならぬ「玄上」を弾いたのである。宮 内 三二郎 〔研究紀要 第24巻〕 71 そこで私は,本段は,この正慶元年(1332) 11月の御遊の催されるに当って,作者が, 10余年前 の,清暑堂御遊と菊亭兼李と充琶(玄上・牧馬)とにまつわる事件を,ゆくりなくも思い出して書 きつけたものであろう,と推測する。この推測は,つぎの83段との関係からみても,確度が高いと 思う。 3. 83段(「竹林院入道左大臣殿,太政大臣にあがり給はんに何の滞りかおはせんなれども -」)0 この段は,左大臣西園寺公衡と同洞院芙蓉とが,いずれも太政大臣にのぼることを望まなかっ ● ● た,という話を記したものであるが,芙蓉のことを, 「相国の望おはせざりけり」,と過去の伝聞を 示す助動詞「けり」を用いて,言い切っているから,前左大臣芙蓉が嘉麿2年(1327) 8月に亮じ た時以後に執筆された,とみられる。だが進んで,それは何時であったろうか。本段は,すぐ前の 82段(「羅の表紙は---・」)と,明らかに連想上のつながりがある。しかし,この連想が生ずるに は,やはりなんらかの原因があったはずである。 私は,前述の太政大臣菊亭兼李を想起せざるを得ない。兼李は,本段の竹林院入道左大臣公衛の 異母弟であるが,持明院統方(また鎌倉武家方)として,元弘の変に後醐醐帝の配流,光厳帝の登 極に伴ない,前右大臣から一挙に太政大臣に栄進した。だが彼は,わずか半歳後の翌年5月には, 伯曹からの後醐醐帝の詔命によって太政大臣を解任され,もとの前右大臣に復させられる破目にな った。兼好が,本段の終りに, 「克竜の悔ありとかやいふこと侍るなり。月満ちては欠け,物盛りに しては衰ふ。万の事,先のつまりたるは,破れに近き道なり」,と付言した時,彼は公衛の弟の,こ の兼李のことを,心に思い浮べていたに相違ない,と私は思う。とすれば,本段は正慶2年(元弘 3年, 1333) 5月以後に書かれた,ということになる。 なお,前記の70段とこの83段との間にある80段には, 人ごとに我が身にうとき事をのみぞ好める。法師は兵の道を立て,夷は弓引く術知らず,仏 ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● 法知りたる気色し,連歌し,管絃を噂み合-り。 ---・法師のみにもあらず,上達部・、殿上人 ● ● ● ● ● ● ● ● かみさままでおしなべて武を好む人多かり。 ---とあるが, 「増鏡(むら時雨)」の護良親王・北条高時らに関する記事, ---山の前の座主にて,今は大塔の二品親王ときこゆる,いかで習はせ給ひけるにか,弓 ● ● ● ● ● ● ● ● ひく道にもたけく, ---● ---● ---● ---● ---● ---● ---● ---● ---● ---● ---● ---● ---● ・-・-・相模守高時といふは病によりて,未だ若けれど-とせ入道して,今は世の大事どもい ろはねど,鎌倉のぬLにてはあめり。犬くひ田楽などをぞ愛しける。 ---束の夷どもも,辛 うやう攻め上るよしきこゆ。 ---に思い合わせると,この80段の記事内容は, 70段と83段が書かれたであろう時期,すなわち元弘 の変のただ中における兼好の所懐であるように思われる。 またこの推測を, 76段の記事に押し及ぼすと,この76段の,
72 徒然草の執筆年代について( Ⅰ ) 世の覚え花やかなるあたりに,嘆きも喜びもありて,人多く行きとぶらふ中に,聖法師のま じりて,言ひ入れ,た1ずみたるこそ,きらずとも見ゆれ。 ---ち, 「増鏡(むら時雨)」に, ・・--・前の御代の人々,大中納言宰相すべて十人, ---官やめらるゝよし聞ゆるも,昨日 ● ● ● ● ● ● ● ● ● まで時の花と見えし人々,つかの間の夢かとあはれなり。 ---・ありし後,おのがさまざまま ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● かで散りにし古女房・上達部・殿上人など, ・---いつしかとまゐりつどふさま,谷の鷺の春 I 待ちつけたる心地して,いと頼もしげなり。 ---・なべて世に年ごろ埋もれたりし人々,いつ しか官位さまざまに息ふままなる気色ども・-・・-と叙述された元弘3年の冬から翌年の春にかけてのころに記されたものではないか,と考えられて くる。 (なお, 「増鏡」と徒然草あるいは兼好法師との関係については,拙著「兼好法師と増鏡」ほ か2篇で詳論した)0 4. 86段(「惟継中納言は風月の才に富める人なり。 ---・文保に三井寺焼かれし時, --」)。 平惟継は元徳2年(1330) 2月,権中納言となったので,本段の執筆はこの時以後のことでなけ ればならないが,作者が10数年前の惟継の小逸話を思い出して書きつけた動機はどこにあっただろ うか。それは惟継その人に関する何事かが起ったことにあったのではなかろうか。 「大日本史料」第6第の3,延元元年2月29日の条に載せられた「中院一品記」の記事によれ ● ● ● ● ● ● ば,惟継は元弘4年1月,改元定めに際し,後醐醐帝の下問に答えて, 「建武」の年号を採るとき ● ● ● ● ● ● ● ● は, 「可有兵乱之条勿論之旨」,奏上した。他方,兼好は, 63段(「後七日の阿闇梨,武者を集むる 事・--・・」)で, ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ---一年の相は,この修中のありさまにこそ見ゆなれば,兵を用ゐん事,穏やかならぬ事 ● ● なり。 と言い,また前記の80段でも, ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ---生けらんほどは武に誇るべからず,人倫に遠く,禽獣に近き振舞----とも言っており,この辺りの諸段の記事を書いたころ,兵乱を恐れ,武事を忌んでいたことが知ら れる。そこで89段は,兼好が,元弘4年(建武元年, 1334年) 1月の改元に当って示された惟継の 識見・態度(中国後漢の,この「建武」年号の時の先例をふまえて進言した)に共感を覚え,惟継 の過去の逸話を思い出して書き記したものではなかろうか。 「惟継中納言は,風月の才に富める人な り」,という冒頭の一文は,本段の内容とはあまり関係のないものであるが,それだけになおさら, かの改元定めのいきさつが,本段の執筆の直接の動機であったことを思わせる。 なお,本段のつぎの87段(「下部に酒飲まする事は---」)紘, ● ● ● ● ● ● ● ---太刀うち侭きて,かひがひしげなれば,頼もしく覚えて、,召し具して行くほどに,木 ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● 幡のほどにて奈良法師の兵士あまた具してあひたるに--・-● 幡のほどにて奈良法師の兵士あまた具してあひたるに--・-● 幡のほどにて奈良法師の兵士あまた具してあひたるに--・-● 幡のほどにて奈良法師の兵士あまた具してあひたるに--・-● 幡のほどにて奈良法師の兵士あまた具してあひたるに--・-● 幡のほどにて奈良法師の兵士あまた具してあひたるに--・-● 幡のほどにて奈良法師の兵士あまた具してあひたるに--・-● などとあって,本段(86)の, 「文保に三井寺焼かれし時」云々(山門の衆徒の焼き打ちに遭った) lゝ
宮 内 三二郎 〔研究紀要 第24巻〕 73 との連想のつながりがあり(「奈良法師の兵士あまた具して・---」は,いずれは東大寺か興福寺あ たりの僧徒の一行であろう),殺伐不穏な世相を反映しているが,これは遠い過去の出来事の話(説 請)などではなく,執筆当時の伝聞を記したものであり,その執筆当時とは,元弘から建武-かけ ての擾乱期ではなかったかと思われる。 さらに,そこから3ケ段を隔てた91, 92, 93の3ケ段の, ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● 赤舌日といふ事---。無常変易の境,ありとみるものも存せず。 ---・人の心不定なり。 ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● 物皆幻花なり。何事か暫くも住する--- (91) ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● 戎人,弓射る事を習ふに---。道を学する人,夕には朝あらん事を息ひ,朝には夕あらん ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ことを息ひて---。何ぞたゞ今の一念において直ちにする事の甚だ難き。 (92) や,殊に, ---・生あるもの,死の近き事を知らざる事,牛既にしかなり。人また同じ。 ---・されば ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● 人,死を憎まは,生を愛すべし。存命の喜び,日々に楽しまざらんや。 ---・人皆生を楽しま ざるは,死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず,死の近き事を忘る1なり。もしま た,生死の相にあづからずといはゞ,実の理を得たりといふべし。 --- (93) などという言葉には,空疎ならぬ或る切実な響きがある。これは後述の100段以下,また136段以 下の諸段についても言えることであるが,この切実さは,西尾実氏のいわゆる「詠嘆的無常観」か ら「自覚的無常観」 -の,兼好の思想の深まりを示すものであろうけれども(西尾実・「つれづれ草 文学の世界」所収の諸論文参照),平時の隠遁閑居の生活と院想的な思索の中からではなく,身辺の 人皆の盛衰生死の転変を眼のあたりにした動乱時代の体験から生まれた感懐の切実さであろう。 5. 101段(「戎人,任大臣の節会の内弁を---,六位外記康綱---・」)。 橘氏説以来, 「六位外記」は,少外記・権少外記の通称であり,本段は康綱が権大外記となった建 武元年(1334)以前の執筆,と考えられている。しかしこの推定は確実性を欠く。なぜなら,権大 外記は五位(以上)であることの証拠はどこにもないからである。建武元年以後,麿応2年(1339) に卒するまでの康綱に関しての「外記補任」の記事は,すべて「権大外記中康綱」とだけあって, 位階の記載がないが,これはむしろ康綱が官は権大外記であっても,位階は六位のままであったこ とを示していると思われる。およそ権大外記の例は古来きわめて少なく,康綱以前には,天安2年 (858)の滋野安成と,貞観8年(866)の上毛野沢由の2人だけのようであるが,それぞれ「従五 位上」, 「従五位下」と記されている。そこからすれば もし康綱が五位にのぼっていたならば,彼 の場合もそのように記載されたのではなかろうか。しかも彼は,卒去の年まで日向守や隼人正を兼 ねているが, 「職原抄」によれば, 「中国」たる日向国の国守は, 「相当正六位下」であり, 「隼人正」 ち, 「---・五位六位共任之-・--但侍者五位之後可任之」とある。 (中原康綱はおそらく「侍」で はなかったであろう)。 結局,康綱は権大外記となった後も, 「六位外記」と呼ばれた可能性があるのであり,本段は,過
74 徒然草の執筆年代について( Ⅰ ) 説の(建武元年以前)よりも後の時期の執筆でもあり得るわけである。ただし,この件は,私の成 立年代推定にとって,さほど重要性を持つものではない。 6. 段(「夢大納言光患卿・・・--洞院右大臣殿に次第を申し請けられけれぼ -・-・・」) まず文中の「光忠」は,元徳2年(1330) 11月に権大納言となったので,この段の執筆時期は, それ以後である。しかし「洞院右大臣殿」公賢は,建武2年(1335) 2月に右大臣となり,康永2 年(1343) 4月に,前右大臣から左大臣にのぼっているので,執筆はその間のこととなる。 この「洞院右大臣殿」について, 「右大臣」の「右」は「左」の誤記または誤写であろう,とし て洞院左大臣実泰をこれに当てる橘氏説は,次の段の「侍従大納言公明卿」の場合とともに,自説 に抵触する徴証を除去しようとする悪意に出た妄断である。前述の83段では,公賢の父芙蓉は, 「洞 院左大臣殿」と明記されているのであるから, 102段の場合に限って作者がこれを「右大臣殿」と 誤記したとは思えないし, 「光広本」・「正徹本」・「常緑本」をはじめ,古写(版)本に「左大臣」と あるものは,一つもないのである。 さらに公賢の日記「園太麿」には,公賢が有職故実に関して,禁裡・御所や公卿たちから問い合 わせを受け,これに答えた,という記事が枚挙にいとまのないほどあり,本段の記事内容は,この 公賢にまったくふさわしい。彼が光恵より年下であったことなどほ問題にならないのである。 7. 103段(「大覚寺殿にて,近習の人ども・・・-・・・侍従大納言公明卿---・」) 三条公明は,延元元年(1336) 5月に権大納言(「侍従如元」灯公卿補任」))となったので,本 レ 段の執筆はこの時以後のこととしなければならない。 「大納言」の「大」を, 「中」の誤記・誤写ま たは後からの補正とみて,執筆年時を引きあげようとする橘民らの説は,前段の場合と全く同様 に,いわれのない臆断にすぎない。 「大覚寺殿にて---・」という以上,本段の話は,ここを御所とし,ここで崩じた後事多法皇の 崩御の年である元亨4年(1324)以前のことであったはずである。それを作者が, 10余年を隔てた 延元元年以後に書き留めたとすれば,そこにはやはりなんらかの直接の執筆の動機があったはずで 1 ある。 ● ● ● 公明が権大納言となった延元元年(建武3年) 5月から3ケ月を経た同年8月,大覚寺が兵火に よって大半焼亡した(「《建武3年8月か28日章丑。大覚寺請堂房舎等大略係兵火。後宇多院経数ー I▲ -年所有御建立也」 《「統史愚抄」か)。 「新千載和歌集・巻第十八雑歌下」には,兼好の年来の歌友,僧正道 -レ=ニ・一-我の,つぎのような詞書と歌が載せられている(「統史愚抄」の記事もこの詞書に拠ったものである)。 建武三年八月廿八日大覚寺回禄ありしかは,故院 卒久しく御心をとどめられて造営せられける諸堂 ならびに房舎ども残りすくなく時のまの煙となり 侍りける悲しさのあまりに,深き山中に迷ひあり iJ'
宮 内 三二郎 〔研究紀要 第24巻〕 75 き侍りけるとき思ひっゞけ侍りける 権僧正道我 世の中のげに憂き時は身一つを隠すばかりの蔭だにもなし l また,公明は元来後醍醐帝に近く,元弘の変では六波羅に捕えられ(「増鏡・むら時雨」),中納言 を解任されたが,翌年光厳朝下に還任し,その翌年後醍醐帝の復位に当っても留任して侍従に復 し,大判事・大蔵卿を兼ね,上記のように延元元年5月に権大納言にのぼったが,大覚寺炎上の日 からわずか半月後の9月11日には, 、権大納言在任4ケ月で世を去っている(「公卿補任」)。 私は,兼好が「大覚寺殿にて,近習の人ども,なぞなぞを作りて解かれける処-, ----侍従大 納言公明卿・・・--」という徒然草103段の記事を書きつけたのは,大覚寺が焼け,権大納言公明が 残したこの延元元年秋8, 9月のころのことであったに相違ない,と思う。 当時は,足利尊氏の離反によって建武の新政が破れ,一旦九州に敗走した尊氏が再び西上して京 都を攻め,京都市街は両軍角逐の戦場と化し,叡山に寵る後醍醐帝に対して,尊氏は持明院続の光 明帝を擁立する(8月15日),という有様で,南北南朝分裂の直前,まさに大動乱のただ中であっ た。建武元年以来この年まで引きつづき末寺長者の栄職にあった(「東寺長者補任」)権僧正道我 を羊,この天下危急の状勢と,自己一身の頼りなさを, 「世の中のげに憂き時は身一つを・・・--」と ひたすら欺き悲しむ歌を遣したのに対して,後宇多・後二条・邦良親王と,大覚寺続に縁故浅から ぬ兼好は,その胸底には道我の悲嘆と相似たものがあったであろうに,さりげなく,往時の大覚寺 ● ● ● ● ● ● ● ● ● 殿での公卿たちの閑々たる戯れ事を書き伝えたにとどまった。思うに,このしらばくれ,このした ● ● ● たかさこそは,兼好の真骨頂であった。道我はこの年までで末寺長者を罷め,翌建武4年(延元2 年)から観応元年(1350)までの14年間は,尊氏の絶大な尊信を受けて権勢をほしいままにした三 ′宝院僧正賢俊が,二ノ長者ついで-ノ長者の地位を独占することになった。そして兼好は,後年 (貞和2年, 1346)この賢俊の伊勢参宮に随伴しているのである(「賢俊日記,裏書」)。乱世に生き た彼の処世態度は,決して直線的なものではなかった。 8. 118段(「鯉の菜食ひたる日は---・中宮の御方の御湯殿の上の-・--北山入道殿?御覧じ て---」)。 「中宮」は,後醍醐帝中宮繕子, 「北山入道殿」は,その父西園寺実兼を指すのであるが,宿子陀 元弘2年(1332) 5月, 「礼成門院」の院号を定められたから(「増鏡」, 「続史愚抄」),その時以後 はこの院号で呼ばれたはずである,との理由で,本段の執筆時期はその時以前であろう,と推定さ れている(橘氏・前掲書29-30ペ,田辺爵氏・「徒然草諸注集成」 369ペ)。 この推定には一つの見落しがある。 「増鏡」, 「続史愚抄」によれば,繕子は元弘3年 月,後醍醐帝の復位に伴ない,院号を停められて再び中宮となり(「礼成門院も又中宮と聞えさす, 六日の夜,やがて内裏-人らせ給ふ」 《「増鏡・月草の花」か,同年10月12日舞じ あらためて「後 京極院」を追号宣下された。
76 徒然草の執筆年代について( Ⅰ) それゆえ本段は,この元弘3年6月から10月までの間に執筆された,という可能性も十分あるわ けである。この点は,後醍醐帝を「当代」と呼んだ238段の場合もまったく同様であるが,これに ついては別稿で論じたのでここでは省略する。私は,これまで検討して来た31段以下の諸証例から 推して,上の可能性を重く見たい。また,それにほっぎのような傍証も見出される。 この118段の直前の117段には, 「友とするにわろき者,七つあり」,としてその第5に, 「たけ く勇める兵」が挙げられている。もともと本段は正面切った論説や訓誠ではなく, 「病なく身強き 人」や「酒を好む人」など列挙された者をみてもわかるように,アフォリズム風の身辺雑記である が, 「たけく勇める兵」がこれらとならんで挙げられているのほ,その「たけく勇める兵」たちが, 現実に作者の身近かな周辺に出入往来するようになった時期-元弘の変以後-に,この記事が 書かれたことを示しているのではなかろうか。 また118段は,つぎの119段(「鎌倉の海に鰹といふ魚は---・」)と題材や語句の上で脈絡・類 似があり(「鯉」 - 「鰹」),この2ケ段が連続執筆されたことは確実であるが, 119段の, 「鎌倉の 海に鰹といふ魚は,かの境にはさうなきものにて,この比もてなすものなり」, 「かやうのものも世 ● ● ● ● ● ● の末になれば上さままで入りたつわざにこそ侍れ」,とあるのほ,元弘の変以後,鎌倉武士が,土地 の魚と噂好を京に持ちこみ,それが京の上層階級にも及んだことを指すのではなかろうか。 さらに2ケ段を中に置いた122段(「人の才能は・・--・」)には,きわめて重要な立言がある。 ---詩歌に巧みに,糸竹に妙なるは,幽玄の道,君臣これを重くすとい-ども,今の世に は,これをもちて世を治むる事,漸くおろかなるに似たり。 ---この一文は,第1段の ---ありたき事は,まことしき文の道,作文,和歌,管絃の道,また有職に公事の方,人 の鏡ならんこそいみじかるべき。 が書かれた時からかなりの歳月を隔てた時期,また世の状勢の大きく変化した時期に書かれたであ ろうことは明白で,元弘の大事変に際会した作者の深刻な感懐を洩したものと思われる。もし以上 のごとくであるとするならば,これらの諸段に挟まれた118段もまた,前述の元弘3年6-10月の 時期に執筆されたとみてよいのではなかろうか。 \ 9. 128段(「雅房大納言は---院の近習なる人---・」)0 本殿の後節(「大方,生ける物を殺し---・」)紘, 121段(「養ひ飼ふものには,局,牛。 ・---」)と,その所論の趣旨が全く合致していて,両段がほぼ同時期に書かれたものであることを思わ せるが,それはさて措き,本段の「院」は誰を指すかについては,古来,後字多院(「寿命院抄」) ・ 伏見院(「拾遺抄」) ・後伏見院(橘純一氏) ・亀山院(安良岡康作氏)等の諸説があって確定されてい ない。それらの詳細については,橘・安艮岡・田辺民らの注釈書にゆずるが,私は,本段の記事内 容を分析検討した結果,橘氏の後伏見院説が妥当であると信ずるに至った。 (ただし,それは結論に ついてのみであって,後述のように,橘氏の論拠は肯定できない)。
宮 内 三二郎 〔研究紀要 第24巻〕 77 本段の内容は, 「院」が雅房大納言を「大将にもなさばや」と思っておられたところ,雅房が鷹の 餌にするために生きた犬の足を切っているところを見た,と虚偽の報告をした近習がいたために, 雅房の人物を悪く見直して,その後昇進もさせられなかった,というものであるが,私が読んだ感 じでは,この出来事は, 「院」が単に慈悲の心の深い人であったというだけでなく,まだあまり世俗 的分別のそなわらない比較的年少のころのことだったのではないか,と想像される。作者が, 「犬の 足はあとなきことなり,虚言は不便なれども---」,と記しているように,近習の報告はざん言で あったわけであるが,それを確かめもやずにそのまま信じこんで,その後雅房を疎んじた,という Il のは,いかにも年少の天子らしい純情さであるように思われる。 「虚言は不便なれども,かかる事を 聞かせ給ひて,憎ませ給ひける君の御心は,いと等き事なり」,という作者の筆つきにもそのことが うかがわれるのではなかろうか。 そこで,雅房大納言が「大将」に任ぜられる可能性のあった時期,ということを目安にして,請 天皇・上皇の年令を調べてみると,権大納言雅房の残した乾元元年に15才であった後伏見院(11-14才の2年半帝位に在位)が最も若く,他はいずれもはるかに年長であった(亀山院54才・伏見 院38才・後宇多院36才)。 そして何よりも, 「増鏡・久米のさら山」に,後伏見院の人柄について, ---・院の上,のどやかに出させ給ひて--・-。 ---・大方,いとなごやかにおはします君 ● の,まいて何ばかり罪ある人ならねは(二条為定ヲ指ス),かうじおぼすまではなけれど--州 とあるが,これは本段の「院」がこの後伏見院であることの有力な傍証となるであろう。徒然草 と増鏡との記事の類似(「院」と「院の上」, 「---・おはします君の」と「憎み給ひける君の」,雅 房大納言と為定中納言((公卿の人事》)は,私のく「増鏡」作者-兼好)説の傍証の一つでもある。 ここでは詳述の余裕がないが,増鏡の元弘(正慶)年間の記事と,徒然草の諸段の記事との間に は,上述に限らず,まさに陛目すべき類縁性があるのである。 ただ,本段の「院」をこの後伏見院とすることについては,難点とも思われることが一つある。 それは,後伏見院の在位中は,伏見上皇の院政が行なわれていて,帝には叙任等に関する実権はな かったであろう,という点である。しかし,そうは言っても,後伏見帝にとってほ,上皇は同じ持 明院続の,しかも実の父君であることでもあるから,なんらかの特定の事がらについて,内意を上 皇に伝え,それが容れられ,実現される,というぐらいのことはあったであろう。いずれにせよ, 本殿の主旨は,雅房が近衛大将になったかならなかったか,ということではなく, 「院」が生類を憐 れまぬ者を憎んだということにあるのであって,この二つをとりちがえては当を失することになろ う。これらの点に関連して,安良岡氏は, 「増鏡・つげの小櫛」の正安3年(1301)の記事, 土御門の前の内大臣定実,六月に太政大臣になり給ふ。 ・・-・-院の御おぼえの人なるう-, ---。御子の大納言雅房,中納言親定Lで---。持明院殿(後深草・伏見)には,世の中 すさまじくおぼされて・-・-・ を引き,この場合の「院」が亀山法皇を指すところから, 「当時の政治権力の中枢」が,後二条天皇
78 徒然草の執筆年代について( Ⅰ ) でもなく,また後宇多上皇でもなく,亀山法皇に存したものとみ, 「雅房を近衛大将に昇進させ得る ほどの政治的権力者は,この亀山法皇以外には考えられなくなる。持明院続の後深革,伏見,後伏 見の御三方を考えることは無理というほかはない」,と断定しておられる(「全注釈」上 534-535 ペ)。私はこの説に対しては異を唱えざるを得ない。 安艮岡氏は,雅房の大将昇進可否のケースを,父の定実の太政大臣昇任のケースと無雑作に同時 祝しておられるが,これはおそらくあやまりであろう。徒然草に記された出来事は,雅房が,大将 を兼ね得る官職たる権大納言となった永仁3年(1295) 12月から,彼が遂に大将に任ぜられること なく残した正安4年(乾元元, 1302) 9月までの約7年間の間に起ったことはたしかである。この7 年間とは,持明院続の伏見院および後伏見院が皇位にあった約5年間(正安2年末まで)と,大覚 寺続の後二条帝の践詐後(正安3年1月以後)の約1年半とである。従って, 「《雅房を)うとまし く,憎くおぼしめして,日乗の御気色も違ひ,昇進もし給はざりけり」,とある「院」は,決して大 覚寺続の亀山院や後字多院に限られるはずはなく,むしろ安良岡氏説とは逆に,持明院続の後深 草,伏見,後伏見三院のうちのいずれかであった公算がはるかに大である。そして前の5年間にお ける「政治的権力の中枢」は,決して亀山院などではなく,伏見院にあったことはいうまでもある まい。 (正応3年後深草院の出家後は,伏見帝の親政。また後伏見帝の在位期間中は伏見院の院政)0 この辺の事情は,安良岡氏自身が引用された上掲の「増鏡」の記事- 「持明院殿には,世の中す さまじくおぼされて -・・」-によってもうかがうことができる。 思うに,雅房の父定実が,院(亀山)の御おぼえによって,宿願の太政大臣に栄進したのも, 「政 治的権力の中枢」が, 15年ぶりに持明院統から大覚寺統(の亀山法皇)に移ったためであったろ う。また彼が正安4年に出家したのほ,子の雅房の死を欺いてのことであったと言われているが (「統史愚抄」),彼は,持明院続の政権下では果せなかった雅房の,大覚寺統政権下での昇進,栄 達を待望し,画策していたに相違ない。 さて,しかし本題たる228段の執筆年時は何時であろうか。 橘氏のく「院」-後伏見院)説の主根拠は,それが正中2年(1325) 12月撰進の統後拾遺集におけ る称呼と合致し,また同氏の徒然草執筆年代推定説(く元弘元年9月以前))に適合する,というこ とにあった(「元弘元年九月二十日の光厳天皇御践詐以後になると, ----後伏見上皇は『院』から 『一院』又は『本院』 ----とお呼びか-しなければならなかった」 《前掲書28-30ベガ)0 ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● この橘氏説にも誤りがある。 「統史愚抄十九」 (元弘元年9月20日から正慶2年《元弘3年か 5月 まで,すなわち光厳天皇の在位期間の記事)には, 「院慧鵜匠及一院」,とあり,この記載を信ずる ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● かぎり,後伏見院はこの時期にも,ふつう「院」と呼ばれており(これに対して花園院は「新院」, 後醍醐院は「先帝」),時として花園院と区別するのに「本院」や「一院」を用いることがあった, ● ● ● と解すべきであり,現に「増鏡・久米のさら山」に,′後伏見院を「院(の上)」と呼んだ(先掲)す ● ● こしあとに, 「本院,新院,広義門院,一品の官も---」と記した例がある。 「続史愚抄」では, 後伏見院を, 「一院後称法皇」と記しているのほ,第二十巻.すなわち元弘3年から延元元年までの 、井
宮 内 三二郎 〔研究紀要 第24巻〕 79 記事においてである。それゆえ,上に引いた橘氏の主張には,く徒然草元弘元年成立)という自説を 裏づけるために「統史愚抄」の記載を歪曲した作為が感ぜられる。 一般的に言えば,本段の「院」も,他の諸段(27, 48, 50, 62)のそれと同様に,記事中の人物 (本段では雅房大納言)や事がらとの関係からして用いられた称呼であって,あながち橘氏のよう に,もっぱら執筆時における称呼によったもの,とすることはできないだろう。だが私は,他の諸 段における「院」の称呼が,いずれも記事の主題の時期や場所や状況を示すために挙げられている にすぎない(「院にはまゐる人も---・」 《27か, 「院の最勝誇奉行して----」 (48か, 「今日は院-秦 るべし」 「院の御桟敷のあたり・-・-・」 《50か, 「院-参る人に---」 《62か)のに対して,本殿の場 合は, 「院」は主題人物である点,また「院」を「君」とも言い換えている点(「憎ませ給ひける君 の御心は,いと等き事なり」)を重視する。 この項(9)のはじめにもすこし触れた121段(「養ひ飼うものには---」)辛,その辺りの他の 諸段の記事内容をも考え合わせると,作者はここでは明らかに, 「治世の君」としての「院」の「慈 悲の心」を讃えることに力点を置いていることが察知され,またそれだけでなく,畜類のみか人間 同志をも殺致しあう武断の世を憤り欺く作者の心情が披涯されているようにも感ぜられる。この 「院」は,必らずや,この段の執筆時に現に「院」と呼ばれていた上皇でなければならず,またそ の執筆時期は, 「院」すなわち後伏見院が,皇子量仁親王(光厳院)の践所に伴ない,親しく政務を 執られることになった元弘元年(1331) 9月から,後醍醐帝の復位をみた正慶2年(元弘3, 1333) ● ● ● ● ● ● ● ● 5月までの間であり,執筆の直接の動機もまた,作者がこの光厳院の践醇,後伏見院の「御政務」 に際会して, 20年前の後伏見院の帝位在位中のかの逸話を思い出したところにあったと思われる。 なお後伏見院は践詐時11才,このたびの光厳院は19才であった。 10. 136段(「医師篤成,故法皇の御前にさぶらひて- 六条故内府参り給ひて -・」). 本段の「故法皇」については, 「後宇多法皇」説が動かぬところとなっているが,はたしてそれに は異論の余地はないであろうか。 一般に故人のことを,名を挙げずに「故法皇」とか「故右大臣殿」とか呼ぶのは,当人の残後あ まり時が経っておらず,その人についての記憶が世人の脳裡になお鮮明にとどまっている時期にお いてであろう。そしてそのような呼び方のできる期間は,長くてもせいぜい残後2, 3年ではない だろうか。それ以上時を隔てると,自他の印象が薄れているだけでなく,それが指している当の人 物と同じ呼称を持つ別人との紛らわしさが生じてくる場合もあるだろう。従って,その場合はもは や「誰々法皇」, 「何々右大臣殿」と名を挙げて呼ぶに相違ない。現に徒然草107段では,嘉元3年 (1305)に崩じた亀山院を, 「亀山院」と呼んでいる。 ところで,兼好の時代には,法皇崩御のことは,後深革(1304)亀山(1305)伏見(1317)後 宇多(1324)後伏見(1336)花園(1348),の前後6回有った。上述の点を顧慮すると,後深革・ 亀山の2法皇は,本段の「故法皇」には該当しない。本段の「六条故内府」すなわち六条有房は,
80 徒然草の執筆年代について( Ⅰ ) 元応元年(1319)に残したので,本段の執筆はそれ以後のこととなり,その時期に「故法皇」と′だ け書くとすれば,後深草・亀山・伏見の3法皇のいずれを指すのか,まったく不明であるからであ る。また伏見法皇の場合も,執筆時期が1320年ごろまでに限定され(それ以後になると,ふたたび 上記2上皇との区別がつけにくくなる),他の諸段の執筆年時から考えて,まず該当しないとみて よかろう。さらに花園法皇の場合は,逆にすこし晩過ぎるように思われる(1348年以後)。もっと も私の推定では,下冊の後半には,貞和年間(1345-'49)の執筆になる章段がかなりあるのご,可 能性がまったく無いわけではないが,これも上冊諸段の執筆年時を勘案して,除外してもいいだろ う。そうすると後に残るのは,後宇多・後伏見の両法皇である。 まず後宇多院の場合は,元亨4年(1324)の崩御であるから,通説の執筆年時たる1329-31年 は,それ以後5-7年を経た時期であり,ただ「故法皇」と言うだけでは, 1317年崩御の伏見法皇 とのまざらわしさが生ずるおそれがあり,もはや「故法皇」とは書かずに, 107段の「亀山院」と 同様に「後宇多院」と書くか, 103段の「大覚寺殿にて---・」のような書き方をするかしたので はないかとも思われるが,まず5-7年は貴大許容範囲内とみておくことにする。 しかし,もし「故法皇」-後宇多院とすれば,記事内容上,本段 と先述(第7項)の103段 との関係が問題になる。すなわちこの両段は,医師忠守と医師篤成とが,それぞれ三条公明と六条 有忠とをはじめとする廷臣たちに恥をかかされ,笑いものにされた,というきわめて顕著な題材の 類縁性を持つだけでなく, ・---と解きて笑ひ合ほれけれぼ 腹立ちてまかり出でにけり(103) ---と申されけるに,とよみになりてまかり出でにけり という結末の語句まで酷似している。 2人の医師(丹波氏と和気氏)が,同じ後宇多院の御所ま たは内裏)で,別々の時に,同じような目に遭うということは,あまりにも状況が符合しすぎてか えって不自然な感じがするし,またそれを作者兼好が,別々の章段で,同じような趣旨と筆致で, 同じような語句を使って書く,ということも同様に不自然で兼好らしく(徒然草らしく)ない136 段の「故法皇」は後宇多院でなく,場所も「大覚寺殿」ではない方が,両段の付き過ぎがなくて自 然なのではなかろうか。 また「後宇多法皇」説は,記事中の六条有房が,後宇多院の殊寵を蒙っていた,という事実を有 力な傍証とみなしているが,本段に記すところは,有房が「故法皇」の御前で,その供御について 医師の篤成と問答した,というにすぎないのであって,有房との関係の親疎などというようなこと は, 「故法皇」が誰を指すかを推定する上には,なんらの手掛りにも傍証にもならない。廷臣たる有 房は,後宇多院にかぎらず,格別親眠な関係にはない天皇や上皇の御前にも伺候したであろうから である。 (なお念のため付け加えておくならは「故法皇の御前に---・」は, 「故法皇」が誰を指し ているにせよ,必らずLもその人が法皇であった時期における出来事を記しているとはかぎらな い。 「六条故内府」の場合はなおさらであって,有房は内大臣にのぼった4日後には亮去したのであ るから,くだんの出来事は彼が内大臣にのぼる以前のことであったはずである0)要するに, 「後宇 J■ サ
宮 内 三二郎 〔研究紀要 第24巻〕 81 多院」説を非とする絶対的な決め手は見当らないが,内容的には不審の点が多いのである。 それでは,残ったもう一人の候補者,後伏見法皇はどうであろうか。この後伏見院は,前項(9) で, 128段の「院」としてとりあげたのであるが,永仁6年(1298)践詐・即位,正安3年(1301) 譲位,元弘3年(1333) 6月出家- 「統史愚抄」によればこの時以後は「法皇」と称せられた --,延元元年(1336) 4月に崩じた。 ここで改めて本段の記事を読み直してみると,篤成の話の持ち出し方といい(「今参り侍る供御の 色々を,文字も功能も尋ね下されて,そらに申し侍らば,本革に御覧じ合はせられ侍れかし。ひと つも申し誤り侍らじ」),また有房の応得の仕方といい(「-・・-・と申しける時Lも,六条故内府参り 給ひて, 『有房ついでに物習ひ侍らん』とて・-・-・」),さらにまた一座の人々の様子といい(「--● 『有房ついでに物習ひ侍らん』とて・-・-・」),さらにまた一座の人々の様子といい(「--● 『有房ついでに物習ひ侍らん』とて・-・-・」),さらにまた一座の人々の様子といい(「--● 『有房ついでに物習ひ侍らん』とて・-・-・」),さらにまた一座の人々の様子といい(「--● 『有房ついでに物習ひ侍らん』とて・-・-・」),さらにまた一座の人々の様子といい(「--● 『有房ついでに物習ひ侍らん』とて・-・-・」),さらにまた一座の人々の様子といい(「--● 『有房ついでに物習ひ侍らん』とて・-・-・」),さらにまた一座の人々の様子といい(「--● -と申されけるに,とよみになりて,まかり出でにけり」),至等の御前にしては,いささかくつろ ぎ過ぎて,すこし不謹慎なように感ぜられる。 (その点,かの103段の,大覚寺殿での近習たちのな ぞなぞ解きの話は,後宇多院の御前でのことではなかったであろう)0 (もちろんこれらは,実は作 者の叙述の仕方の問題として考えているわけである)0 そこで私は,本段の記事は, 「故法皇」が,先述の128段の「院」の場合と同じく幼少の天子で, 実権がなく,政務は院において執られていたころ,その幼少の天子の御前での,廷臣たちのくつろ いだ閑談の一場面を描写したものではないか,と想像する。先述の通り,後伏見院は11才の永仁6 年から, 14才の正安3年正月まで,在位わずかに2年半で,その間政務は父伏見院の院政であっ た。また有房はそのころ正三位非参議で, 49-53才であった。これは, 「有房,ついでに物習ひ侍 らん」, 「才のほど既にあらはれたり。いまはさばかりにて候-。床しきところなし」という尊大で 横柄な物の言い方をしてもおかしくない年輩である。 、 もし以上のような推測が当っているとすれば, 136段は,延元元年(1336) 4月の後伏見法皇の崩 御以後に執筆されたことになる。また執筆の動機が,この法皇崩御のことにあったとすれば,崩御 後あまり時を経ない同年夏のころに書きつけられたものであろう。そうするとそれは103段(「大 覚寺殿にて・---」)とほとんど同時期の執筆ということになり,前述したようなこの両段の題材 の採り方や文辞のいちじるしい類似性も,納得の行くものとなるわけである。 ll. 137段(「花はさかりに,月はくまなきをのみ見るものかは。 ・--・・」)0 徒然草中の最長篇で,下冊の首段に据えられている本段は,古来論議にのぼせられることが多 く,禦誉褒歴さまざまであるが,執筆年時に関しては,人名等の直接的な徴証を含んでいないた め,あまりとりあげられたことがないようである。しかし私はあえて推測を試みたい。 本段は,すでに諸家によって指摘されているように,大体3節から成っており, 「花はさかりに ・---」にはじまる第1節は, 「万の事も始終こそをかしけれ」という命題に要約されるいわゆる 「趣味論」を展開したもので,それが,葵祭の見物人たちの見物の仕方を,都部上下を対比して描 写し, 「((日が暮れ,群集の散ったあとの))大路見たるこそ,祭見たるにてはあれ」,と説く第2節に
82 徒然草の執筆年代について( Ⅰ ) つづき,さらにそこから, 「かの桟敷の前をこ1ら行き交ふ人の,見知れるがあまたあるにて知り ぬ,世の人数もさのみは多からぬこそ。この人みな失せなん後,我が身死ぬべきに定まりたり と ち,ほどなく待ちつけぬべし・-・・-」,と言い出して, --・-息ひかけぬは死期なり。今日まで逃れ乗にけるほ,ありがたき不思議なり。しばしも 世をのどかに息ひなんや。 ・---兵の軍に出づるは,死に近きことを知りて,家をも忘れ,身をも忘る。世を背ける草の庵に は,閑に水石をもてあそびて,これを余所に聞くと思-るは,いとはかなし。しづかなる山の 奥,無常のかたき競ひ釆らざらんや。その死にのぞめる事,軍の陣に進めるに同じ。 と,作者の持論ともいうべき「無常観」を緯々として説くに至る。 注目すべきはこの最後の一節で,これはすでに上冊に数多く見出される,無常の自覚を促がし, 求道専念をすすめる諸段と,一見同巧異曲であるように思えながらも,求道,修行を説こう とせ ● ● ● ず,もっぱら人の死の免れがたいことをしつこく繰りかえして強調する点,かなりそれら(特に上 冊前半部の諸段)と趣きを異にしている。それは,第4項で触れた91, 92, 93段や,第8項で論じ た122段の場合と共通するところの,徒然草における執筆時期の相違による思想,感懐の相違変化 を物語るものであろう。 殊に,上冊前半部の諸段で知られるかぎりでは,草庵における隠棲閑居の生活は,作者が好もし く思い,理想ともし,人にもすすめた生き方であり(5, ll, 58, 75段),また家集の詞書などによ れば,みずからもかなり久しく経験したに相違ない生活であったが,その彼が,この草庵生活にも 死はまちがいなく襲いかかってくることを痛切に感じとり,それを, 「兵の軍に出づる」にたとえ, 「軍の陣に進める」になぞらえたのは-つまり本段を執筆したのは-,まだともかくも世の平 和が保たれ,戦火を見ることのなかった時代においてではなく,元弘の変以後の紛擾争乱の世と, 脆くはかない人の命の実態を眼のあたりにした時期においてではなかったろうか。 それについては,なお思い当ることがある。上述のように本段では,第1節の趣味論のいわば余 論としての第2節で,賀茂の祭の日の状貴が描写され,それがまた第3節の議論を引き出す,とい ● ● ● ● ● ● う文の運びになっている(なおつぎの138段も, 「祭過ぎぬれば---」ではじまる)。いうまでも なく賀茂祭は,当時の宮廷と京市中の最大の年中行事の一つであったから,これを何かにつけて引 き合いに出すのは,なんら異とするに足りないことではある。だが,正慶元年(元弘2, 1332)の 賀茂祭は,後醍醐帝の践詐(文保2年, 1318)以来,絶えて出御のなかった持明院続の後伏見,花 園南上皇の御幸があるというので,ひときわ盛大にとり行なわれたらしく, 「増鏡」, 「竹むきか 記」, 「太平記」などいずれもこの年の祭の記事を特筆している。 (「今年は祭の御幸あるぺければ, めづらしさに人々常よりも物見皐心づかひして,かねてより桟敷などもいみじう造れり。 ---」 《「増鏡・久米のさら山」か。なお, 「増鏡」全巻を通じて,葵祭の記事はこの年のものだけである)。 ● ● ● ● ● ● また「増鏡」は,この記事につづけて, 「祭など過ぎて,世の中のどやかになりぬるほどに,先帝の 御供なりし上達部ども,罪重きかぎり,遠き国々-つかはしけり。 ・-・-・」,と書き,祭の後で,事 〟 3k \ヰ
宮 内 三二郎 〔研究紀要 第24巻〕 83 変に後醍醐帝方にくみした朝臣たちが処分された願末を,くわしく記述している。してみると,こ の年の祭は,暗く,血怪い動乱の合い間に咲き出た妖花のようなものであったろう。そして翌正慶 ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● 2年(元弘3, 1333)には, 「天下,稜に依って」賀茂祭は行なわれなかった。また5月5日の「賀 茂の競べ馬」 (41段参照)も, 「擾乱に依って」停められた。これは異例のことであった。 「統史愚 抄」は,この年の4月22日の条下に, 「抑祭停止例-・--・」として,仁寿・貞観以来の先例約20回 を挙げている。再度, 「増鏡」を引用すると, ● ● ● ● ● ● ● 「卯月十日あまり,又あづまよりもの1ふ多くのぼる中に,をとどし笠置-もむかひたりし 後伏見 足利の治部大輔高氏のぼれり。院にもたのもしくきこしめして,かの伯菅の船上-むかふべき よし,院宣たまはせけり。 ---《高氏か伯曹国-むかふべLといひなして, -・--五月七日,ほのぼのと明くるほどより,大 官の木戸どもおしひらきて, ・---七手に分れて旗をさしつゞけて,六波羅をさして,雲霞の 如くたなびき入るに,さらにおもてをむかふるものなし。 (「月琴の花」) とある。まさに天下はふたたびくつがえろうとしており,賀茂祭どころの騒ぎではなかったので ある`,徒然草137段は,賀茂祭の状景描写から無常観の説述に入り, 「しづかなる山の奥,無常のかた き競ひ釆らざらんや,その死にのぞめる事,軍の陣に進めるに同じ」,という一文で結ばれている。 この記事は,作者が上のような危急険悪な状勢の中で,不安に戦きながら,しいて心を鎮めて書き つづったもの,と想像するのは,はたして行き過ぎであろうか。 通説は,兼好は元弘の変のはじまる前に徒然草の稿を書き終えており,徒然草に事変に関する記 述がみられないのもそのためである,とする。だが私見では,兼好は元弘の変以後も,徒然草の稿 (厳密に言えば,あとで「徒然草」の一部として収録された稿)を書き継いでいたのであり,そこ には,事変に際会した彼の所懐が歴然と示されている。 137段はほかならぬその一例である。 兵の軍に出づるは,死に近き事を知りて,家をも忘れ,身をも忘る。世を背ける草の庵に は,閃かに水石をもてあそびて,これを余所に聞くと息-るは,いとはかなし。しづかなる山 の奥,無常のかたき競ひ釆らざらんや。その死にのぞめる事,軍の陣に進めるに同じ。 これは単なる道話や無常の説諭ではない。むしろ現実の非常事態に直面した作者の切実な心境表 白である。ここに対比的に挙げられた戦陣にのぞむ兵と,世に背いた草庵の住人とは,論述上の観 念的な事例ではなく,現に作者の耳目に映じた戦場に馳せ向う軍勢と,草庵にひそんでただただ世 の有様に心をおののかせている作者自身の姿であったに相違ない。 本殿は,事変が一旦終隠した元弘2年(1332)のころ以後,翌3年ふたたび戦火が京師を覆った ころ,あるいはその後2年を経て,三たび京洛が兵乱の巷となり,ついに南朝分裂と長期戦の兆し を呈しはじめた建武3年(延元元年, 1336)のころに,執筆されたであろう,と私は推測する。そ して,些段の, 身死して財残る事は,智者のせざる処なり。 ・---辛, 143段の,
84 徒然草の執筆年代について( Ⅰ ) 人の終雷の有様のいみじかりし事など,人の語るを聞くに---さらに些圭些段の, ---・信願馬より落ちて死ににけり。 明雲座主---はたして矢に当りて失せ給ひにけり。 (この後者は,建武2年7月,足利直義に戟逆された元の天台座主,護良親王を連想させる) また,箪段の,日野資朝の逸話(後述),さらにまた旦些段の, ----人の命ありと見るほども,下より消ゆること,雪のごとくなるうちに---など,このあたりの諸段の記事をみると,これらを書きつけていたころの兼好が,いかに「死」を 思うことしきりであったかがうかがわれる。殊に些蔓段の結尾の, ---・死期はついでをまたず。死は前よりLも来らず,かねて後に迫れり。人皆死ある事を 知りて,まつことしかも急ならざるに,覚えずして来る。沖の干潟遥かなれども,磯より潮の 滞つるが如し。 という一文は,上掲の137段の結文と,まったく軌を一にし,相呼応するものである。なお,この 155段は,徒然草諸伝本中,特異な章段配列を持つ「束常緑本」においては,第116段として上冊 の最末に位置し,下冊の首段たる137段(「常緑本」では第117段となる)と相対している。つまり 「常緑本」では,酷似した結論を持つ両段が隣接しており,この両段の間が上,下冊の境い目にな っているわけである。このことは, 「常緑本」の章段配列だけでなく,徒然草の「原形本」の配列 の問題に関しても,一つの示唆を与えるものと思われるが,これについては別稿にゆずりたい。 12. 152段(「西大寺静念上人・---西園寺内大臣殿--・-資朝卿---」), 153段(「為兼大納 言入道召し捕られて-・--資朝卿,一条わたりにてこれを見て---・」), 154段(「この人,末寺の 門に雨宿りせられたりけるに・-・-・」)0 この3ケ段は,いずれも日野資朝の逸話を録したもので,連続執筆されたと考えていいだろう。 数寄な生涯を送った資朝の奔放で剛毅な性格や言動を,敬慕の念を寵めて描いたこれらの記事は, 何時ごろ書かれたものであろうか。 「為兼大納言入道」が召し捕られて六波羅に連行されるのを見た資朝が, 「あな羨し。世にあらん 息ひ出,かくこそあらまはしけれ」,と言ったことを記している153段は,おそらく資朝が,その希 求通り,後に正中の変に召し捕られて配流された事実をふまえているであろうから,その年(正中 元年, 1324)以後の執筆であることは確実であろう。 だが特にこの段の内容と,またこれらの諸段がこれまで取りあげてきた元弘・建武のころの執筆 と推定される諸段に近接した位置(殊に,前述の155段の前)にあることとからすれば,やはり世 上,資朝の事件に類似した事件がつぎつぎに起り,逮捕者・流罪者の出た元弘・建武のころの執筆 とみるべきであろう。殊に元弘2年(1332) 5月30日には,資朝はついに配所の佐渡で刑死した が,奇しくも同年3月21日,京極為兼も配流地の河内(土佐からここ-移っていた)で乗じてい
宮 内 三二郎 〔研究紀要 第24巻〕 85 る。為兼はかつて歌壇に勢威を誇った京極派の総帥であったのであるから,兼好にとっては,これ また関心の浅かろうはずのない人物であった。本段(およびその前後の2段)は,兼好が資朝(あ るいは為兼)の計を伝え聞いて,懐旧,景幕の思いに駆られて書き記したもの,と一応考えること ができよう。 しかし資朝は,元弘の変後,後醍醐帝方の諸卿の処分が行なわれた時, 「このほどのついでに」 (「増鏡・久米のさら山」)課されたのであるから,作者の心理を付度すると,この時期に資朝の逸 話を好意的な筆で書きつけるということは,かりに公表の意図を持っていなかったにしても,すこ し不自然であるような気がする。むしろ,つぎのケースの方に蓋然性がある。 すなわち,建武2年(1335) 6月,権大納言西園寺公宗を主謀者とする国家観覆の陰謀(持明院 統の後伏見法皇を奉じ 北条高時の遺族らと結んで後醍醐帝を倒そうとした)が発覚して,一味が 逮捕された。その中には,ほかならぬ資朝の甥(兄,大納言入道資名の子)の日野氏光も含まれて いた(「太平記・巻第十三」, 「統史愚抄」)。公宗は,はじめ出雲国に流罪と定められたが,同年8 月2日にはついに六条河原で新に処せられた。それに先立つ7月23日には,高時の遺児時行の反乱 に際して,足利直義は鎌倉に幽閉されていた護良親王を殺した。 「神皇正統記」は,公宗の処刑を, かの資朝の場合の「増鏡」と同様に, 「コノマギレ-訣セラル」,と記している。 この公宗の処刑は,彼の政治的立場といい,事件の性質といい,資朝のそれとまことに対照的で あるが,しかも公宗は, 152段の記事に見える,資朝の噸葬の的にされた「西園寺内大臣殿」すな わち実衛の嗣子であり,その室,名子(「竹むきか記」の作者)は,資朝の姪に当るのである。 (資 朝の甥,名子の兄に当る日野氏光が,公宗の共謀者で,ともに刑死したことは,上述の通りであ る)0 これらを考え合わせると,かの152, 153, 154段は,公宗が斬られた建武2年8月以後間もなく, 公宗と対立的・対照的でしかも甚だ相似た運命を辿った資朝を偲んで執筆されたものではないか, と推測される。それは資朝の刑死の3年後,資朝が誠忠をつくした後醍醐帝の復位・新政期であっ たから,作者の執筆心理から言っても,無理のない時期と思われる。執筆心理という点からすれ ば,これらの資朝に関する記事が,元徳2年から元弘元年-かけての時期(すなわち橘氏の徒然草 執筆年代推定時期)に書かれたということは,資朝が現に佐渡に配流中の時期であるだけに,考え にくいことである。 ・ ● ● なお,前天台座主護良親王の運命を連想させる146段(「明雲座主---・」)の記事が, 152,153段 の近くに位置していることも,以上の私の推測を裏づけるものではないだろうか(前項《11か参 照)0 (未 完)