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ヘルダーリンの讃歌"平和の祝い"について

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(1)ヘルダー7)ンの讃歌"平和の祝い目について 青. Uber. 誠. 木. H61derlins. Hymne. 之. "Friedensfeieru. VOn. Motoyuki. AoKI*. (1) "平和の祝い(Friedensfeier)"は,後期ヘルダーリンの自由律による讃歌のなかで, "パトモス(Patmos)",. "唯一者(D?rEinzige)"と並んで重要な位置を占める作品であるo. 1800年を境に,ほんの二,三年許された詩の営みゐなかで,ヘルダー7)ンの思いは,誤解 を恐れずにいえば,あるためらいを示しづっもキリストに集中していた.むろん主題が限 定されたわけではない。愛の嘆き,河,さすらい,帰郷,祖国等々を主題とする歌によっ て拓かれ,. ,,ムネモシュネー(Mnemosyne)"という記憶そのものの詩によって閉じられた. 後期の詩の空間に,キリストの主題が占める場はむしろ部分的なものに過ぎないoしかし キリストは,歴史に足跡を記した神という大いなる逆説によって詩人の内奥に深く棲み っいてしまった`のであり,容易に歌える相手ではなかった。 えに/また,おんみの子ゆえに/深ぐ悩みました, て聞いてより;>. <マドンナよ/私はおんみゅ /快き青春の時に/おんみの子につい. (讃歌草案"マドンナに寄せる(AndieMadonna)"の冒頭)。根甲深さ. とことばの倹しさとは比例していたo準が成るためには,ことばの成熟に侠たなければな らなかっ′たが,そのためには,いわば,過飽和の平衡に働いて溶質の結晶化を招くような. ある種の外九現実からの働きかけが不可欠であったoなぜなら,神の不在あえに乏し-(, しかし延りの徴にみちているがゆえに聖なる夜とされる時氏にあって,ひたすら光の到来 を待ち望んだ詩人にとって,光の意味は時代との関わりのなかにしか求め得なかったから である。光はそれ自体で意味をなすのではなく,大地を照すときにはじめて光と呼ばれる ことができた。あるいは,ヘルダーリンには,闇雲な夜の讃美への投入を許さぬ,共同体 への確信があったからだともいえる。 ひとつのきっかけが,. 1801年2月9日,仏・喚問に締結されたリュネゲィルの和議とい. う.かたちで与えられた。第二次同盟戦争(1799-1801)は終りを告げ,ライ_ン左岸はナポ レオンに割譲されると.ころとなっI=ol) 1799年秋に着手されたとみられるオーデ"平和(DerFrieden)"において,デカウリオン の洪水の押し寄せる様に噴えられた2)戦乱の最中に立って,詩人は<平和>を招き寄せたo *ドイツ語教室(°ept.of. German). ∼.

(2) 青. 22. 誠. 木. 之. <今こそ釆たれ,汝,聖なるムーサイと/星辰の愛し子/よみがえりを喚ぶ,待ち望まれ た平和よ,来りて与えよ,/生の持続とひとつのこころを,> いのち. ●. ●. ●. <平和>へ (11Str・,誓書)0. の予感は,母宛の手紙含)などにも散見されるが,その実現をl)ユネヴィルにみた時の感動 を,弟宛の手紙が最も鮮かに伝えている。. <この事びを(受けてほしい),貴い魂よ,ぼく. らの時代は近いのだ。今こそ生まれつつある平和が,まさに平和だけがもたらし得るもの をもたらしてくれるだろう。なるほどそれは,多くの人が望むものをあまた与えてくれは する,が,わずかの人だけが予感しているものもまた与えてくれるのだ。何らかの形式・ 主義主張が勝利を収めるということでほない。そんなことは本質的なことがらではないだ ろう。むしろ,あらゆる形態のエゴイズムが,愛と善の神聖な支配の許に屈し,共通の精 神が遍くゆきわたるようになるだろう。. (---)こうほくは信ずる。そうであればこそ,. ほくはほくの人生の後半を,特に晴れやかな気持で眺めることができるのだ->4)。引用 がやや長くなったが,ヘルダーリンは,外からの働きかけをこんなふうに受けとめていた わけだ。その思いが,現実によって裏切られたかどうかは問うまい。それに私たちは,請 人の後半生が,. <晴れやかさ>を嚇みこんだ闇のなかで過ぎていった事実を知っているわ. けだから。むしろ私たちの課題は,ことばの行為によって築かれた現実を検討することで なければならない。即ち<ほくらの時代>は,まず歌のなかにあらわれたのであった。 いうまでもなく,このような感動をもって迎えられたリュネゲィルの和議がそのまま詩 に結ばれたのではない。それはあくまでも歴史の一事象として,作品成立のためのひとつ. の契機となったに過ぎない.仮に,私たちがこれから扱う"平和の祝い"に<')ユネゲィ /レ>と記されていても,それはもはやリュネゲィルではないだろう。何よりもそれは,逮. び取られたものとして<リュネゲィ_ル>なのであり,換言すれば,詩のことばば現実の文 脈を破壊するところに成り立つといえる。現実は一つ,という命題は正しいが,この命題 の真を詩によって証明することば出来ない。詩には詩の現実が生まれるからである。つま り,私たちはここで,解釈の原点は原典にあるという平凡な理屈を,以下の論述の基本的 態度として確認しておきたいと思うのであり,そこに-ルダーワンという文脈の規制を受 ける作品のアウラに至る道を探りたいと希うのである。 (2) "平和の祝い"の草稿がロンドンで発見され,ジュネ-ヴのM・ボートマ-の所有に帰 した後,バイスナ-の手を経て世に出たのは,ようやく1954年11月のことであった。5)成 立が1800年秋と推定されるから,この作品が日の目を見るまでには実に一世紀半の時が流 れたことになる。 1802年11月,ヘルダーリンはベ-レンドルフに宛てて次のように書いた。. <友よ!ほく. の考えでは,われわれはもう現代に至るまでの詩人を注解しないだろう。一般に歌い方は 別の性格を帯びるはずだ。そして,われわれはギリシア人以来,再び祖国にかない,自然 に,本来の独自性をもって歌い始めるが故に,世に出ることはないだろう>6).この手紙 の意義については後に触れなければならないが,この作品が,別の意味で,. <世に出る>.

(3) 23. ヘルダーリンの讃歌"平和の祝い"について. 迄の経緯は-おそらくは幾つかの偶然の重なり合いの結果であろうが-この作品の<性 格>を象徴的に物語っているように思える。それは,宿命と呼んでいいものかも知れな かった。ともあれ,作品は<世に出た>。しかし<平和を祝う>この作品の歌い方の独自 性は,解釈者たちの争いそのものによって証明されるという皮肉を経験しなければならな かった。7)文字どおり議論百出,さながら受け取り合戦の様相を呈したこの争いは,本論 を先取りしていえば,第2連および第9連の<祝祭の主(Fdrst 中していた。おもだった解釈の分岐点は,. des. Fests)>の解釈に集. <祝祭の主>と,第4連および第9連の<若人 しか. (Jangling)>との関係をどうみるかという点に存したo両者を同一とみるか否か? し, <祝祭の主>の同定(Identi丘kation)をめぐって提出された観点の多様性は,ある意. 味でヘルダーリン研究の健在ぶりを示したといえるが,反面,この実情は,そのような観 点の固定化の志向への反省を促しているようにも思われる。それ故,私たちは,繰り返す ことになるが,詩の現実とは何かという間に直面し続けることを忘れてはなるまいQもち ろん,. <主>が誰かという間が不当だというのではない。むしろこの間ば,作品そのもの. によって要請されているとさえいえるが,その必然性は,作品の文脈を読みとることの中 に,解を与えられ,消えていくといった質のものである。 ヘルダーリンは‥,iF和の祝いりに寄せたまえがきで次のように述べている。. <私は,こ. の作品がひたすら寛大に読まれるようお願いする。そのとき,それは必ずや解し難いもの ではなくなるだろう。しかし,それにもかかわらず,このような表現があまりにも慣習に 反すると受け止められる向きにほ,私はこう告白せぎるを得ない:こうするより他ないの だ,と。うららかな日が訪れれば,ほとんどどんな歌い方も聞えてくるものだ。そして, 歌の母なる自然は,この歌を再び迎えいれてくれるのである(---)>。先に引いたベ-レ ンドルフ宛の手紙と重ねてみると,注釈は要らない。 かれて作品に就けばいいだけだo. それにしても,. <ひたすら寛大に>という要請に導 <こうするより他ないのだ>というル. ターのことばを援用しての殊更な告白には,詩人のどのような思いが凝っていることか。 (3) 作品解釈に先立ち,ヘルダ-. 7)ンの<形式(Form)>観を探っておきたいo. ヘルダーリンはシラーに宛てて次のように書いている。. <私はここ数年,ほとんど中断. することなく,ギリシア文学の研究に動んでまいりました。いったん手懸けたこの研究を 途中で止めることば不可能でしたが,ようやく,研究を始めた当初奪われていた自由を取 り戻すことが出来ました。私は特に次の点で,この方面に興味をもつ若者たちの役に立て ると思っておりますが,それは,彼らをギリシア文字への隷属から解放してやり,これら の作家たちの精神の充溢の結果としての偉大な厳密性を理解させてやることであります (--)>. (1801年6月2日)。これは<これらの作家たち>,すなわち,特にソフォクレス. とピンダロスへの沈潜が言わしめた自負の表明である。8)研究の成果としての翻訳に対す. る世評は馨しいものではなかったが,9)ヘルダーリンには確固としてみえていたものがあ った。. <厳密性(Bestimmtheit)>ということ,それはギリシア文学に内在する形式性・.

(4) 青. 24. 木. 就. 之. 法則性ということであり,例えば,ソフォクレス悲劇への注解, (Anmerkungen. "オイディプスへの注解 Oedipus)"10)および"アンチゴネ-への注解(Anmerkungen zur. gum. Antigonae)"ll)においては,. <法則的計測(der. gesetzliche. Kalkul)>あるいは<計測的. 法則(daskalkulableGesetz)>と呼ばれる。ヘルダーリンはこの概念によって,冷たい図 式性ではなく,美を表出する詩(文学)の論理を捉えたのである。ヘルダーリンは更に もう一つの重要な概念を得た。さまざまの観念の流れから生まれるリズムに刻みを入れる ●. ものとしての<中間休止(Z益sur)>の概念であるo. ●. それは悲劇においては<純粋なことば. (dasreineWort)>一予言者ティレシアスのことば-となってあらわれるものであり,こ の作用によってある特定の観念あるいは世界の原理の暴走は堰かれ,他の観念との間に, 対立を媒介的に内包する平衡が訪れ,この平衡状態において,それぞれの観念ないし世界 の構造が明らかになるのであるo. 一方,ピンダロスとの取り組みによってもたらされたものは,神的なものを不滅なもの とする歌の力の認識,讃歌の<大きな息づかい>12)に最も適うトリア-デ形式18】の認識 などであったが,忘れてならないのは,特に祝勝歌の研究によって音調の転移を学んだこ とである.更に,措辞の面で,いわゆる<堅い結合(harte けたo. F也gung)>の大きな影響を受. この概念は,へT)ンダラートによってドイツ文芸学,特にヘルダーリン研究に導入. された,古代ギT)シア修辞学の用語であって,この結合にみられる大きな特徴は,語の孤 立性ということであり,そこでは,語と語の衝突の結果,リズムの滑らかな流れや論理の 連続性が分断されて,重い効果が生まれるのである。そこには,構文の破格性もアプリオ リなものとして在る。14) 以上の概観から,特に<形式>を介しての影響の受け方が明らかになるが,問題は何故 <形式>なのかということであり,また1801年12月4日付のベ-レンドルフ宛の手紙が伝 えるように,ギリシア人と共有できるものが<生命に満ちた関係(daslebendigeVerh去1tnis)>と<技(Geschick)>だけであるとすれば15),即ち,それが模倣の対象ではなく, <独自性をもって歌い始める>ための必須の要請であるとすれば,ヘルダーリンは<形 式>をどう捉えていたかということである。 しかし,解の一斑は既にシラー宛の手紙に与えられている。. <厳密性(Bestimmtbeit)>. は,. <これらの作家たちの精神の充溢(GeistesfGlle)の結果>であるという。ということ. ば,. <精神の充溢>と<厳密性>の内的な連関がみえたということであり,神的な内容を. 歌うに際してのふさわしさ16)のあり方が把握されたということである。心に張る思い一例 ●. ●. ●. ●. ●. えば,キリストはどう歌われればいいのか-は,客観性への意志に裏付けられてはじめて 顕われることをヘルダーリンは識ったのである。そのためには,. <強烈なエレメント,天. の火>17)をも包むことのできることばが育まれなければならなかった。ことばの<知性化 (Intellektualisierung)>18)が求められていたのだが,それはいわば<精神の充溢>を統べ る原理としての<中間休止>の要請であったともいえる。実作面では,テエーピンゲン時 代やフランクフルト時代にみられる主観性は影を潜めるようになっていたo は論文"詩的精神のふるまいについて(Uber. die Verfahrungsweise. ヘルダーT)ン des. poetiscben. Gei・.

(5) 25. ヘルダーリンの讃歌"平和の祝い"について <ことばば,創造的反省の所産である>と述べているo19)この反省(Re一 stes)"のなかで, 旦exion)>の概念は,ヘルダーリンとロマン派との境界を画定する一つの指標とみること が出来よう。20) さて,このような背景を踏まえて,実作の<形式>面に限を向けてみることにするo すらい(Die. Wanderung)",. "さ. Rhein)〟,. "平和の祝い(Friedensfeier)"は, "ライン河(Der 厳格なトリアーデ形式によって構成されているが,21)ここでは=ライン河"の構造を説明 したヘルダー7)ン白身の注解を観察して,讃歌における<法則性>の意義を探ってみたいo <この歌の法則は次のとおりである。即ち,先行する二つの組(Partie)は,形式 (Form)の点で,前進(ProgreL3)と後迫(RegreL5)によって対立しており,素材(Stoff) の点で等しい。後続の二つの組は,形式の点で等しく,素材の点で対立している。最後の 組は,普遍的な隠噴(Metapher)によって,すべてが和解している>22)。三つの詩節を単位として組(Partie)とヘルダーリンは呼んでいるが,この引用が伝えるところば,組 ′ヾルティ. 相互間の力学,その働き方,音調(Ton)の展開の仕方である。ここで用いられる<形式 (Form)>と<素材(Sto庁)>という詩の原理として捉えられた二つの概念は,通例の用法 と異なる。既に引いたホムブルク時代の論文"詩的精神のふるまいについで`には,こ の注解とパラレルな表現がみられ,それによれば,. Bebandlung)>と呼ばれ,. は<対象の理想的取り扱い(idealiscbe (Gehalt)>,く表現(Ausdruck)>,. <形式>は<精神(Geist)>あるい. <描写されたもの(das. <内実. <素材>は,. Dargestellte)>等々と呼ばれ. るo乏8)この二つの概念は,個別的に作用するのではなく,ただ等価関係において,相互的 に働く場合にのみ詩の原理たり得るものである。即ち,詩の根拠は,両者の関係に求めら れる。. ●. ●. <表現(描写)と理想的取り扱いの間に根拠と意味が存する>24)oこの根拠に立っ. て,詩は真実と堅固さとを与えられ,空疎な技巧,空虚さから護られるのであるoそれ故, Geistigsinnlicbe),形式的・質 <詩の根拠あるいは意味は,精神的・感性的なもの(das 料的なもの(das. Formalmaterielle)である>25)とされる。あるいは<詩の根拠,その意. 味は,表現,描写されたもの,感性的素材,詩において固有の表現を与えられたものと, 精神および理想的な取り扱いとの間に移行(点). (Ubergang)を形成すべきである>26)と. <精神的。感性的なもの>としての詩の根拠の転回の必然. もいわれる。この<移行>は, 性を指すものであろう。. "ライン河"においては,形式面で対立的だとされる最初の二つ <純粋な生まれのものは の組(1.Str.-3.Str.-Pl;4.Str.-6.Str.-Pz)のP2の冒頭に, パルティ. 謎である(Ein. ist. Ratsel. Reinentsprungenes.)>という正にピンダロス的蔵言が配されて,. 一つの頂点が形成され,それが詩想の転回の契機となっている。あるいは,素材面で対立 10.Str.-12.Str.-P4)紘, 的だとされる後半の二つの組(7.Str.-9.Str.-P3; ・ヾルティ. べて歌い方の調子が明らかに範じているし・(ということはPl,. Pl, P2に較. P2が緊密にまとまってい. るということなのだが),. <私は今,半神たちを患う(Halbg6tterdenkichjetzt)>という. p4の冒頭の一行によって,. P8の内容の一般性から詩人の限指しがルソーという具体的形. 姿に向うきっかけが与えられている。更に<隠噛(Metapher)>によってすべてが和解し. ているとされる最後の組において-Metapherは,移調(tJbertragung)ないし反転(Um・ヾルティ.

(6) 26. 青. kehrung)と同義である乏7)-, (Dann. feiern. das Brautfest. 木. 誠. 之. <神々と人,生きとし生けるもの/すべてが婚礼を祝う Menschen. und. G6tter,. /Es feiern. われる。その時,正に<運命は暫し/和解している(Und. die. Lebenden. all,)>と歌. ausgeglicben′/ist. eine. Weile. das Scbicksal.) > Pl, P2. これを音調(Ton)の面から観察すると,ラインの流れを歌う. は,概ね,素朴. (naiv)であり,神々によって必要とされる半神と人を歌い,詩人の思いが深く凝るルソ ーへと歌い及ぶP3,P4は,概ね,悲壮(heroisch)であり,人と神々の婚礼の祝いに始ま り,友人シンクレ-アへの挨拶(厳密にはこの最終詩節は,他の二つの詩節と調子が合わ ないのだが)をもって終るP5. (13.Str.-15.Str.)は,概ね,崇高(idealisch)である。. 以上やや長くなったが,重要なことは,ヘルダー7)ンがトリア-デ形式による詩の構造 にみているところは,単なる算数的対応関係ではなく,対立そのものを推進力とし,音を おん. 転調させて異質な空間を拓く内的な法則,つまり一種の弁証法をみたという点である。へ ●. ●. ●. ●. ●. ルダーリンは,霊感に運ばれて,悪意的に歌うのではなく,冷静な形式意志に貫かれた詩 人だということができる。 同様のことが"平和の祝い"についてもいえる。十二の詩節によって構成されるこの作 品は,先に触れたとおり,厳格なトリア-デ形式によっており,. 12行・12行・15行から成. る三つの詩節を-単位(級)とする四つの組によって構成され,各組は以下にみるように, パ}t,ティ. パルティ. 固有の音の展開によって対時的に立っている。そして,先に問題となった<若人(J也ngおん. ling)>が登場する第4建と第9連は,第9連が終りから4番目の詩節にあたっており, 両者はパラレルな位置関係にある。更にまた,全体の中心にあたる位置に-ということは, 薄行総数が136であるから78行目から79行目にかけて-主題に関わる<世界の霊(der Geist der Welt)>あるいは<時の主(Herr. derZeit)>という重い表現が配されている。28). このように,私たちは,この作品において,いわば<意味と数の彦透>29)のなかに,法 則の内的な働らきの顕著なあらわれを認めることができるのである。 (4) 上述のとおり四つの組から成る"平和の祝い"の音調を探っておく。 パルティ. 祝いが催される場の描写に始まり(1.Str.),遍く知られた者への呼びかけを経て,久し い間準備されていた業の成就する夕べの静寂を歌う第・3連に結ばれていく. Plの音の基調 おん. は,素朴(naiv)である。キリストへの呼びかけに始まり(4.Str.),その運命を叙べた後, 節度をもってあらわれる神の恵みを歌い,父と子の関係に歌い及ぶ,全体としてキリスト に捧げられたと見倣せるP2は,悲壮(heroisch)である。. <静かな時の神>の展開する業. の許,愛の綻を盟約の徴として神々と人とが寄り集う祝祭を讃え,再びキリストを呼ぶP3 は,崇高(idealisch)である。このP8は,音調の点からも,スタイルの点(第8速から 第9連にかけて,詩人のパトスの昂揚を裏付けるアンジャンブマンが観察されること,辛 リストが祝祭の主の許に招かれる第9連が,コンマとセミコロンの重畳による-センテン スとして構成されていること)からも,更に思想的にも,全篇の頂点を形成している。実.

(7) 27. ヘルダーリンの讃歌"平和の祝い"について. 現しつつある平和を眺める母と子の描写に始まり(10.Str.),それを嵐の響動から落下し た<黄金の果実>として捉える第11連を経て,一切を包み込む自然への限指しのなかに結 ばれるP4は,再び素朴(naiv)である。 このような昔の展開の仕方には,上述の注解にいわれた<前進(ProgreB)>の原理の働 おん らきを認めることができるが,それはまた,全篇の細部を統べるものである(例えば, <おぼろな眼>に始まり<輝き>に終る第2連の漸層的変化)。四楽章よりなるソナタ形 式-二つの主題の提示(Exposition). ,その展開(Durchftihrung) ,再現(Reprise)一に類 えられる80)この作品の構造を,やや観点を変えて,主題の内実を規定するものとしての. 時制(Zeitform)の面から観察するとどうか。81)むろん,各詩節相互間に多少の出入りは 認められるものの,全体として,祝祭の場を叙べるPlは<現在>,キリストの運命を叙 P3はPlと同じ立場からの発語であるが,詩人の期待ないしヴィジ. べるP2は<過去>,. ョンのなかに成就される祝祭という意味で<未来>,実現しつつある平和を歌う び<現在>を主導的時制としている。このような展開の仕方は,音の展開と軌を一にする ふん ものであり,ここにみられる,いわば枠構造は,明らかにあの<計算(Kalk仏1)>の所産 だといえよう。. ×. ×. 1.. Der. Str.) Der. Und. himmlischen,. Saal;. Wohlangeordnet, Zur. Geebneten. Hieher,. Und Vom Ihn Doch. die Tische.. Dein. Auge. vom. langen. denk'ich. schon,. l益chelnd,. sehn, den. zu. du schon. als. Auges. Tagwerk. ernsten. Und. haben. G左ste beschieden.. d益mmernden. wenn. den. Abendstunde,. zur. selbst. Kelche,. Reihe,. dort aufsteigend屯ber. Boden. liebende. Sich. goldbekr左nzter. prichtige. ferne kommend. Denn. Str.). voll und. eine. Seite da und. stehn,. weithingはnzend. Fr也chte. duftet. Teppiche. gr仏ne. um. Freudenwolk'und. Gereiftester. 2.. stillwiederklingenden,. T6ne ruhigwandelnden von, ist der gelbftet altgebaute,. Seeliggewohnte Die. ×. F也rsten. dein. des Fests.・. Ausland. germ. verlaugnest,. Heldenzugemiid,. senkst, vergessen,. 1eichtbeschattet,. P4は再.

(8) 青. 28. Und. Freundesgestalt. Beugt. Eines. Ein. Weiser. Ein Da. 3.. Und. beute. da. es. nicht. abe一. wo. L云ngst Denn. von. Echo,. Rings. auch. abendlicb rathen Lo汝e,. Ftir. Kr孟nze. mud. Die. o. sehn. nicbt,. jezt,. bei Geistern. Menschen.. und. das. heute. Abend,. nach. in der. Tiefe. von. Wetter,. Friedenslauten, o. ihr でage. hinunter.. der Unschuld,. das Fest, ihr Lieben!. der Geist ich, und. in dieser ware. jezterst,. verballend,. tausendjahrige. Ihr aber, thetlergeWOrdne, Ihr bringt. umsonst. zu. Morgen. brauBt,. tibert6nt. schlafen,. gescheuet,. das Werk. vorbereitend,. Donnerers. Flamme. noch. ist. nirgend. unerme81ich. Des. Flutb. ist er;. unverktindet. stille worden,. ist, sic h6ren. Das. Und. bist du. dock. dir,. vor. erbellen;. abe一 nicbt, nicht. Herrschaft. Zu. Allbekannter,. Nichts. mancbes. der nicht. einer,. Erstaunet, Da. mir. 之. Gott noch auch erscheint, ist dock andere Klarbeit.. Von. Str.). das Hohe.. weiL3 ich, Sterbliches mag. 誠. du. annimmst,. fast die Knie. Nur. 木. und. es. bltiht. Stille;. silbergrau. ibr Freunde! zu. sorgen. und. Mahl,. je2;teWigen. J也nglingen去hnlich.. (邦訳を添えるペきだが,紙面の都合で割愛させていただく。). 第1連は,広間(Saal)としてイメージされる祝祭の場を提示する。厳かな循環文によ ペI)オーデ. って紡ぎ出される空間に,音は満ちて,響きを返している。それは,祝祭の開始を告げる にふさわしい<前奏(Vorspiel)>82)の響きであり,楽音のハーモニイである。時は夕べ。 この静寂のひとときを迎えるまでに,昼88)はどれ程の喧騒に満ちていたことか.広間に は食卓の列。それは<平らかな床(geebneter. Boden)>に立ち並ぶといわれるが,この. <床(Boden)>は,何よりもまず広間の床であると同時に,大地をも意味するはずである. ●. ●. <平らかな>大地,ならされた大地とは,歴史あるいは時代の摺曲が克服された姿を指す のではあるまいか。. <道は悪い>といわれるが,34)今,この道は<客人(G左ste)>を迎え まろうど. るべく,ふさわしく拓けているのである。 私たちはここで,ヘルダーリンの詩の世界の本質に深く関わることばが,祝祭空間の規 定語として選ばれていることに注意を向けておこう。即ち, <rubig>,くgrtin>,. <bimmlisch>,. <golden>等である。例えば<golden>。讃歌"追想(Anden-. <still>,.

(9) 29. ヘルダー])ンの讃歌"平和の祝い"について. ken)"の第2連<夜と昼が等しい/三月のころ,/ゆったりとうねる径の上を,/黄金の夢 を重くはらんで/眠りに誘う風がわたる>に典型的にみられるように,あらゆる対立・葛 藤の止揚された至高の状態(ここでは,夜と昼によって象徴されるものどうしの対立が風 によってもたらされる眠りにおいて,象徴的に釣合うわけだ35))に関わる色であり,また 例えば<grtin>は,エレギー"さすらい人(DerWanderer)=の第3連の<世界の至福な 深い生の証たる,/かの聖なる緑が,/私を元気づけ,青年に若返らせてくれる>という用 いのち. (広間に敷きつめら. 法が伝えるように,存在の蘇生に関わるものとして神聖な色である。 れた拭珪の線は,また,野の広がりを想わせる色である。). 更に, <壮麗な秩序>を表現する36)<食卓>に盛られた,豊熟の果実の色は,丁度<火 に浸され,煮つめられて熟している果実>. ("ムネモシュネ-. Fass・, 1・. (Mnemosyne)=3・. Str.)の色をしているであろう。つまり,互いに補色関係に近い色がこの広間を彩ってい るわけだ37). しかし,このようないわば最上級のことばの総動員によって構築される広間の所在を特 定することばできるのだろうか。なるほど,. <広間(Saal)>,. <食卓(Tisch)>という比. 喰が,至福のギ1)シアを歌う"パンと葡萄酒(BrotundWein)"第4連の<壮麗な広間! 床は海原,食卓は山々>なる表現にみられること,あるいは問題の広間が<古に建てられ た,聖なるたたずまいの>という形容を冠せられていること,更に,く神の最も静かな 娘>,ゲルマニアの統治の下に期待に満ちて横たわる大地を歌う"ゲルマニア(German主en)〃第3連の<荒々しき時の前奏のうちに,神々のために育まれて/野は早くも綾な す.祭壇への捧例ま用意され,谷も河も未来を告げる山々をめぐって広く開かれている> という透明でのびやかな整いをみせる表現に,ある種のパラレリズムが認められることな どによって,ある程度の手がかりは与えられるが,しかしこの広間はあくまで,詩のなか に場を与えられた比愉とみるべきであろう。それは,いわば,祝祭の<原空間(Urraum) >88)だといえる。 晩餐の用意は整った.フ5ミ,. <遠方>よりの<客人>は未だ到着していない。 まろうど. おちかた. 第2連は,く祝祭の主(Ftirst. des. rests)>が初めて言われることによって,あの枠構. 追(音調と時制のそれについては既に触れた)の礎石が置かれる詩節であり,また,さま ざまな解釈の分岐点を成す詩節であるが故に,最も注意されなければならないものの一つ (1). <おぼろな限で(d孟mmernden. である。ここでの問題点は, して,. Auges)>の修飾にかん. (2). (1)との関連で,誰が<微笑んで(1益chelnd)>いるのかという点,. 祭の主>がこの詩節の文脈においてどう特徴づけられているかという点であろう。まず, (1)については,コンマが打たれていないこと,およびこの詩節の6行目に<祝祭の主> が<限を伏せて(Dein. Auge. senkst)>とあり,同一詩節で同種の形容が同一対象に二度 <おぼろな眼>はく祝祭の主>ではなく,詩人で. 用いられるのは不自然であることから,. ある<私(icb)>にかかると考えるべきであろう。この一句によって詩人の心的な状態が 示されているのであり,詩人の未だ実現せざるものに対する切実な思いが表現されている のである。. <おぼろな眼に,私は早くも/-/祝祭の主,その人を見る思いがする。>つ. (3). <祝.

(10) 青. 30. 木. 誠. 之. まり, <私>は,現実と怪傑の狭間,夢想ないしは幻のなかに, のであり,. <祝祭の主>を見ている. <祝祭の主>は祝いの場へ到着しているわけではないのである39)。. (2)につい. ては,やはり修飾の問題であるが,この詩節の二行目<真肇な一日の業を微笑い(Vom ernstenTagwerkl去chelnd)>は,二通りの読み方が可能である。まず詩人にかかるとみる 立場は<一日の業>の内容を,詩人が第1連において祝祭の場を歌ったことそのものだと 考えるのであるが,この一行の読み方の鍵は<微笑う(1acheln)>が握っているのである。 例えば,讃歌"ライン河(DerRhein)". (6.Str.)には,. <されど神は,息子たちの性急な. 生命を抑えて,微笑う>とあり,また"平和の祝い"の前稿態,. "宥和する者よ(Ver3. Str.)に, (1. Fassung, <神は微笑んでいる, nimmergeglaubt...)" /河たちが,山々に堰かれ,堅固な断崖を縫って,怒り狂い,奔騰しようとも-・>とある いのち. s6hnender,. der du. ところから,この<微笑>は神のものでなければならない。この詩節の9行目に,. <祝祭 <祝祭の主>は神で. の主>との関係でくおんみは,現身の者ならず>とあるところから, あり,従って<真聾な一日の業を微笑う>のは,く祝祭の主>である。しかし,. <一日の. 莱(Tagwerk)>とは何か。この間は,第3連の<業(dasWerk)>に関係していく。 さて,く祝祭の主>についてはどう言われているのか。. <されど,おんみがおんみの異. 郷をすすんで捨て,/長い征服の旅に疲れたがごと,/おんみが,つつましく,かすかな影 を漂わせて/限を伏せ,/友の姿をとろうとも,おんみ,遍く知られたものよ,/その高貴 さに,膝はくずおれんばかりだ>。 けではない。そのために, 征服の旅に(vom. langen. <祝祭の主>は神と規定されているが,特定されたわ. <異郷を捨てる(deinAuslandgernverl益ugnest)>とかく長い Heldenzuge)>という表現を手がかりに,多くの解釈が生まれ. ることになった。ナポレオン説,キリスト説,ディオニュソス説,神格化された平和説, ドイツ民族の守護霊説,太陽説等々。これらの諸説の詳細な検討は,ソンディ40)に譲らな ければならないが,大切なことは,この詩節が神の顕現に関わるものであることを忘れな エビファニィ. いことである。. <賢き者は,あまたを解き明してくれもしよう。されど,/神がいまなお. 顕われたもう時,異なる輝きが訪れるのだ>。<貿き者(EinWeiser)>の認識には,例え AIpen. (2.Str.)でいわれるよ gesungen)= うな,天を仰ぐ(空ではない)という契機が含まれないが故に,その知は,理性の所産と. ば,オ-デ"アルプスの麓で歌う(Unterden. しての栄光を有するにし七も,究極において,偲倣(Hybris)に陥り易いものだ。ヘルダ T)ンが,フィヒテとの関わり41)杏,あるいはスピノザとの関わり42)をこのような観点か 否定的に捉えたことを,ここで想起してよいだろう。顕現に随伴するく輝き(Klarheit)> エビファニィ. 描,全く<異質(andere)>だとヘルダーリンは言う。. <神(ein. Gott)>に不定冠詞を付. けることによる一般化は,く祝祭の主>を特定しないという慎しみと関わる。しかし,こ の<神>と<祝祭の主>とは同一である。 こういう立場から,諸説を眺め返してみるとどうか。例えば,ディオニュソス説。43) <長い征服の旅>という表現が,遠くインダス河まで赴いたという酒神を想わせ〔vgl."請 人の天職(Dichterberuf)". 1.Str.〕 ,もともと"酒神…と題されていた"パンと葡萄酒(B一ot <神は植民地を,勇敢な忘却を愛す>という表現, undWein)"の終連のヴアリアント,.

(11) 31. ヘルダーリンの讃歌"平和の祝い"について あるいは"唯一者(Der. Einzige)"に,大胆なキリスト・酒神・ヘラクレス兄弟観がみら. れることなどに,この説の論拠の一端をみることができる。しかし,この立場からは,私 たちの結論の一斑を先取することになるのだが,第6連の<子(キリスト)>と<父>の 関係が十分に説明できないのである。同様の理由で,太陽説も斥けられなければならないo ナポレオン説はどうか。受け取り合戦の噂矢ともいうべきこの立場は,讃歌草案"遍く 知られた者に(DemAllbekannten)",ナポレオンその人を歌う"ボナパルト(Buonaparte)"などにおいて,ヘルダーリンのナポレオンに対する傾倒ぶりが窺われる点,あるいは 既述のように,ナポレオンが"平和の祝い"成立の契機となった史実の主人公であった点, あるいは<長い征服の旅>という表現,あるいは更に,そのような史実を背景としてみた 場合に<友の姿>という表現が納得できる点などを論拠とするものであるが,たとえナポ レオンが詩的に神格化されているとしたところで,神そのものの顕現をこの詩節の主題と エビフ7ニイ. みる私たちの立場に馴染まないのである。ヘルダー))ンのナポレオンへの傾倒は事実であ ったが,この作品成立の時期には,その熟も醒めていたのである。その傍証として母宛の 手紙を引くことが出来るだろう。 <-ただ今,フランスの執政内閣が罷免され,元老院は セント・クルーへ送られ,ボナパルトが一種の独裁者になったと聞・きました>。44) とすれば,ナポレオン説の最も有力な根拠の一つとされる<異郷(Ausland)>はどう解 釈されるべきか。そのためには,. 7行目のく友の姿をとる(Freundesgestaltannimmst)>. との関連を見失ってばならないと同時に,第7連のくなぜなら久しい間,この神は,時 の主であるにはあまりに偉大であった。/そして,その域は,遥か遠くに及んでいたのだ (Denn. l益ngst. war. der. Bum. Herrn. deI Zeit. weit aus groB/Und reichte sein との関連も重視しなければならないo45)なぜなら<祝祭の主>とくこの神>とは同一であ zu. Feld,…) >. ると考えられるから。この神の働きの<域(Feld)>は,歴史の領域を包みこんでなお余り あるものだといわれる。とすれば,. <Ausland>は,政治的な意味あいでのく外国>では. なく,神性の外域部ないしは周縁を指すのであろう。それは元来,人間の,とはすなわち, 歴史の領域に対立的に存在する,神威の充溢する聖域と考えることができる。例えば,請 敬"あたかも祝いの日に...(WiewennamFeiertage...)"で,. <天なる火(himmlisches. Feuer)>が,詩人の媒介を経てはじめて安全なものになるといわれていることを想起して みれば十分だろう。神なるく祝祭の主>が<Ausland>を,しかも<おんみのAusland> ●. ●. ●. をくすすんで捨てる>のである。つまり人間にとって危険な部分,異質な部分を捨てるの であり!そのことが<友の姿をとる>ことに他ならないのである。. <眼を伏せ>とは,. いわば,人を石に変えてしまうメドゥーサが眼を伏せたようなものだ。この神自らによる くAusland>の否定,その直裁性の否定は,やや角度を変えて,神の慈しみという第5連, 第6連の主題に繋がっていくのである。 このようにみると,. <Ausland>の解釈にかんしては,. Kolonie-Theseに立って,. 祭の主>-ドイツ民族の守護霊説をとるバイスナーの所説46),サトゥルヌス・テ-ゼを一 つの論拠に平和の神説をとるビンダーの所説47)は説得力を欠くと思われる。両者ともに, 論拠は全く異なるものの,. <Ausland>の否定を<故郷(Heimat)>への帰還と解するの. <祝.

(12) 青. 32. 木. 誠. 之. <Ausland>を<異質性(Fremdbeit)>の謂に解するシレマイトの. である。この点では,. 立場48】は,その限りにおいて説得的である。 <かすかな影を漂わせ(1eichtbescbattet)>にいわれる<影>も,柔和と結びつくのであ <祝祭の主>. り,この<影>のイメージは,キリストを歌う第4連に再び現われる。が, とキリストは重なるのであろうか。 ともかく,以上のように読むことによって,第2連の3行目に始まる構文の認容性が理 解されるのである。. <友の姿をとろうとも>,. <祝祭の主>は<神>なのだ。. 第3連において注意されなければならない表現は, <業(Werk)>,. <今日(beute)>,. <静寂(Stille)>,. <祝祭(Pest)>であろう。この詩節は,不協青から協和音への移行にも. 聴えられる音の移りによって規定されるo戦争において最も露わな歴史の響動は,その終 <潮(Flut)>や<炎(Flamme)>ということばは,端的. 結がもたらす静寂に解消される。. に時代の相を象徴するが,ヘルダーリンが歌おうとしたのは,単に,ナポレオン戦争(罪 <朝よ. 二次同盟戦争)の終結によってもたらされた政治的な状態としての平和ではないo. あした. <業. り夕べにかけて久しく準備されていた業/この業が今し聞こえる>といわれるとき,. <朝より夕べにか. (das Werk)>はそのような状態を包摂してしまっている。なぜなら, けて(vpnMorgen. nacb. Abend)>は,時間的なものと同時に空間的なものをも表現して. いるからである。ヘルダーリンはこの太陽の運行を想わせる表現によって,古代(ギリシ <この業>は,束から. ア)世界対ヨーロッパという座標軸を設定したのである。つまり, 西へという歴史・文化の移りのなかに結ばれた<黄金の果実>. (ll.Str.)なのである。ヘ. ルダーリンは"ゲルマニア(Germanien)"において,文化の形成の諸段階,歴史の諸相を 鷲の飛朔によって措いた。鷲は,遠くインダスを飛び立ち,雪に覆われたパルナッソスの 頂を過ぎ,イタリアを経て,翼を揮ってアルプスの山々を越えて釆たのである。 しかし,このように夕べの静寂へと収束していく時の移り.のなかで,過渡の時ともいえ <(われわれの種族は)己の営みに汲々となり,/喧しい仕事. る昼は騒音に領されていた。. 〔"多鳥海(Der Archipelagus)"〕のだが,この<喧し. 場で,己の声しか聞こうとしない> い仕事場(tosende. Werkstatt)>の中からあの<真聾な一日の業> ●. ●. そして<今>,その昔が聞こえるのだ。なぜなら,この喧しさ, ●. ●. ●. (2. Str.)が生まれた。. ●. <極め難く轟き渡る富の. ●. 神の反響,千年に渡る嵐が,/平和の響きに気押されて,奈落の底に鳴りをひそめつつ,/ こだま. 眠りに就こうとしているのだ>から。雷の神(Donnerer)は,歴史を掌る神,時の神であ るが,注意を要するのは,この神そのものが眠りに就くわけではないことである。その反 響(Echo)が消えていくのである。これと同格に置かれた<千年に渡る嵐(das だま. jahrigeWetter)>について,バングィツほ,カール大帝の即位(800年)から7)ユネゲィ ルの和議までの文字どおり1000年間を考えることが出来るかも知れない,と穿った見方を しているが49),私たちはむしろ,この形容を何よりも戦乱の嵐の激しさを表わす修辞とし て,更に,千福年説(Chiliasmus)への連想から第4連においてキリストを歌い出すため の伏線と読みたい。 いずれにせよ,. <反響>が眠りに就くことから,時の神の変容が予想されるo こだま. tausenよ.

(13) 33. ヘルダーワンの讃歌"平和の祝い"について. この詩節の理解のために,オーデ"自然と芸術(NaturundKunst)"を視野のうちに入 れておくことば必要であろう。父子の相勉をテーマとする神話に取材したこのオーデにお <黄金時代の神>なる父サトウルヌスと,父を玉座より追放した. いて,ヘルダー7)ンは,. <感謝(Dank)>という概念を媒介として和解させよう. ユピテル(ゼウス)との対立を, とした。. (6.Str.). <変転する時が,かつての揺寵の中で/歓びに包まれてまどろむとき>. と,いっさいの分裂を知らぬサトウルヌス的世界とあらゆる秩序を代表するユピテル的世 界との統一を歌い,ヘルダーT)ンはそこに<生き生きとしたもの(dasLebendige)>を見 出すのである。また,時の神なるエビテルが<賢い師(derweiseMeister)>. (7.Str.)と. 呼ばれていることも注意しておきたいo <極め難く轟き渡る雷の神の反響が---眠りに就こうとしてい. このオーデの第6連と,. こだま. <眠り>od.. るのだ>とは,. <まどろみ>をtertiumcomparationisとしてパラレルな関係. <平和の響き>が雷の神の反響を凌駕するこの夕べの静寂のなかに,サトウル. にあるが,. ヌスが復権するのだろうか。しかし,まず私たちはここで,先に述べた意味での<平和> <時の神>であることを確認しておかなければならない。この<業. の<業>を掌るのは,. <今こそ,神々の間にも,人間たちの. >の許に,いっさいの支配関係は止揚されてある。. (後期のヘルダーリンは,しばしば神(Gott). 間にも,支配ということが見当らないのだ>. <天にも地にも専制的な力は存在し. と霊(Geist)とを同義的に用いる).この一行には,. ないということは,あらゆる生命と組織の第一条件である>という考え方50)が反映して <美しい宥和をもたらすもの(dassch6naus-. いると思われるが,この支配に代るものは, 讃歌"ライン河". Liebe. <愛の綻(der. gleichende)>即ち,. Gesez)>. (7.Str.)だとされる.. (13.Str.)においては,神々と人との婚礼のイメージによって,宥和の. 思想が述べられるが,両者に共通することば,時と永遠の<和解od.宥和(AllSgleich)> ということであって,それが<祝い(Pest)>のいわば原理なのである。祝いの一対象はむ ろん<平和>である。 くあたりには,夕べの時にあたり,この静けさの中,生気の花が咲く>。 花冠と晩餐の用意を勧める詩人の,友人たちへの呼びかけによって,第3連は,祝祭の 場たる広間を歌った第1連に連なると同時に,. <不滅の若人にふさわしく(jezt. Jtinglingenahnlich)>という表現によって,キ7)ストを歌うための準備を整えて, 環は閉じられる。. ×. 4.. Und. Str.). Der Dort. manchen. den. syrischer. nabe. Das. Kornfeld. Menschen. ×. aber. o. du,. zugethan,. Palme,. lag die Stadt,. Wo. laden,. m6cht'ich. freundlichernst unter. ×. rauschte. am. Brunnen. rings,. gerne. stillathmete. war;. die K(比lung. ewigen. Plの.

(14) 青. 34. Vom. Scbatten. Und. die lieben. 木. des geweiheten Freunde, dick. Umschatteten. 誠. 之. Gebirges,. das. Gew61k,. treue. atlCh, damit. der heiligkiibne. ham, o Jiingling! mild dein Stralzu Menschen im Wort, dick Acb† abe一 dtlnkler umscbattete, mitten So ist schnell Furchtbarentscheidend ein t6dtlich Verh去ngniB. Durch. WildniB. Verg孟nglich. 5.. Str.). Denn Nur. alles Himmlische;. schonend. Ein Gott. Und Von. Endenfern,. Und. trift daran. Nie. Auch. Uns. Doch. Viel mehr, Sind. jene. Und. es. Vom. nun. Ntln, da wir. Der. bone,. Der. Welt. ein. Weise. zu. Kr左fte,. vertrauet.. kannst. ist. ibm,. den. Vater. halten. der Geist sich. zu. du ibm. den. Yon. Ruhigm諾chtiger. wir. kennen. Feiertage. Meersfluth.. und. Ges孟nge,. sin° und. erkennen. A. wir. ni皿mer. aber,. Sohn,. Gescbenke;. dick, das. dir ist, dock. ein. nicht. Ufer. die fremden. uns,. Alllebendigen. Ist einer. Und. und. lehret Gestirn. Augen. gottgegebnen. entz仏ndet.. denn血enschlicher nit. -. des Heerds. gegeben,. Viel Freuden. Und. den. aber empfiengen die Flamm'uns. viel. Es ward. ln die H云nde. Vor. Boden. G6ttlichen. Wahn,. abe一 Dank,. der Gebende. Seegen. vom. Gipfel und. Des. den. fassen.. zu. sparte. lingst. wenn?. Ort das Wilde. Schiksaal,. ist es. war'uns. Schon. Str.). heilgen. iibt rauhbetastend ein. es,. weiB. driiber gehn,. folgt der gleicb bernach. Tiefpr也fend. 6.. das Frecbe Bum. de去 Menschen. keiner. und. nicht;. allzeit kundig. die'wohnungen. unversehn,. an,. darf alsdann kommen mud. Aucb. des Maases. rGhrt. Augenblik. einen. umsonst. aber. Menschen. geneigt. hat.. er,. gleichen..

(15) 35. ヘルダーリンの讃歌"平和の祝い"について. <私はあまたの者を招きたい,されど,おお,おんみば(Undmanchenm6cht'ichladen, du,>という第4連の冒頭はどう読むべきなのか。ここには詩人のためらいが露わ. abero. <最後の神>キT)スト("パンと葡萄酒",. である.. Hauses. において<家の宝(Des. 8.Str.)は,. "唯一者(Der Kleinod)>と呼ばれ,更に第三稿において<三つ葉の. Einzige)". クローバ(Kleeblatt)>の比職によって,大胆にもヘラクレスと酒神(エディオニュソス) エーゲィル. の兄弟とされるのであるが,ヘルダーリンは,系列を全く異にする神々を共に在らしめよ うとすることに速巡しているのだろうか。そうではあるまい。. "平和の祝い"の前稿態の 第1稿,第3連では,同じ脈絡において,キリストは<今こそ顕われよ,若人よ(Seig?-. Jtingling,jetzt erst,)>とはっきり呼びかけられているからである。あるいは. genwartig,. 又,この呼びかけに窺われる蒔庸を根拠に,キリストと<祝祭の主>とを同一視すべきで もないだろう.この立場は,. <祝祭の主>は既に第2連で登場したのであるから,再びこ. こでキリストを呼ぶのはためらわれるというものである。 むしろ私たちはここに,詩人のキリストに対する特別に深い思いを読めば十分だと考え る。キリストは,そのことばを語り終らぬうちに,時いたらぬうちに, ("パンと葡萄酒=,. て>. 8.Str.)去った人なのだ。. <昼の終りを告げ. <されど,鳴呼,ことばのさなかに,. おんみを/恐ろしい決定を下す死の宿運が黒々と包んだ>。 ヨハネ伝第4章のキリストとサマリア女との対話を背景にしたこの第4連は,驚くべき 透明さをもって,柔和な情調を生み出している。それはそのまま,詩人のキリストに対す る優しさの現われといえる。キリストは影のイメ-ジによって三重に包まれているo ●. ●. わち,. <聖なる山脈の影(Scbatten ヤま恵み. ストを包む, Freunde,. すな. ●. das. des geweiheten. Gebirges)>,そして使徒たちがキリ. <愛にみてる友,まことを知る雲も,/おんみを包んでいた(Unddielieben Gew61k,/Umschatteten. treue. dich. auch,) >更に,く死の宿運(ein. Verh去ngniB)>によって<黒々と包まれ(dunklen. t6dtlick. 逆に人間は,. umschattele)>ているo. この影によって庇られているのだ。なぜなら,聖なるものの強烈な光は影に包まれること によって柔和なものとなって人間の許に届くからだ。 そして,この影のイメージの移りには漸層法が働いて,詩人の視線はキリストの運命に収 致していき,そこで冒頭のいわば主観的な蓬巡は払拭され, 移ろい易い,が,意味のないことではない(So. ist. <かく,天なるものはすぺて. schnell/Verg益nglichallesHimmlische;. aberumsonstnich;)>という一般的な詩行が可能となり,その調子はそのままスムーズに 第5連へと繋がっていくのである。 第5連の調子は全体に一般的なものであるが,キリストへの視線が消えてしまったわけ ではなく,それは第6連後半部の大胆な発語を用意すべく,前景から退いたといえよう。 この詩節のテーマは,. <与える者(derGebende)>としての<神(einGott)>と人間との. 関わり方であり,そこから時代の相を捉えることである。 く神>は常に適度を知って<人間の棲み家(die なぜなら人間は,. W■ohnungen. <脆い器(einschwachesGef註B)>("パンと葡萄酒",. 神的な充溢に常には耐え得ないからである.即ち,. <神>は,. der Menscben). >に触れる。. S.Str.)であって, <慈しみを知って(schon-.

(16) 青. 36. 木. 誠. 之. <天なるもの>の移ろい易さば,神の<慈しみ>とし. end)>,時の世界に関わっている。. て捉え返される。しかし,時の世界の実相ば,暴慢と混乱と迷妄に満ちたものであるが故 に,人々は,. <慈しみ>そのもののあらわれといえる<贈物(Geschenk)>を識ることが. 出来ない。. <やがて,厚かましきものが,その痕を踏んでいくこともあろう。/荒々しきも 〔<聖なる地(derbeilige. のが,遠方より,聖なる地を訪ない,/酷い手で狂気をふるう。> おちかた. Ort)>は,キリストゆかりの地を指す。〕つまり,. <感謝(Dank)>一詩人によってユピテ. ルに要請されたのと同質のものである-が欠けているのだ。. <神の贈物>は<深い吟味を. 経て捉えられるものである(Tiefpr仏fendisteszufassen.)>oこの歳言的な一行は,. Und. schwer. zu. fassen. "パト. <神は近きにありて捉え難し(Nahist/. モス(Patmos)"の簡潔な冒頭に対応していようo der Gott.) >。. 既に述べたように,第6連の後半は,聖垂の発想を大胆に逆転させて,キリストを再び 歌うなかに父<(Vater)>の姿を規定し,全編の頂点たるPaへの架橋をなす。 (ヨハネ伝,. <汝等もし我を知りたらば,我が父をも知りしならん>. 14-7). <今こそわれらはその人を識る/その父を譲った今./祝祭を挙げるべく/この至高の 霊が/人間たちに身を傾けたからだ。> <その人>は,. <万物に生命を与える者(Allebendiger)-父(Vater)>の<子(Sohn)>,. <安らかにして力強き人(einRuhigm云chtiger)>,すなわち,キリストを指す。今,か の神の展開する業によって人々は,支配をめぐる争いの歴史の,キリストを知らない歴史 の終鳶,く厚かまし卓もの(dasFrecbe)>,. <荒々しきもの(dasWilde)>あるいは<狂. 気(Wahn)>,つまりティターン的なものの失権を識るのである。キリストは,永遠の存 在を象徴する<Rube>と時間的存在を象徴する<Macht>とを同時に具える者として <安らかにして力強き人(ein さて,. <至高の世界の霊(der. Ruhigm孟chtiger)>と呼ばれている51)o ho血e, der. Geist. der. Welt)>と呼ばれる<父(Vater)>. の相貌についてみると,そこには単にキリスト教的な特性が示されているばかりではない (3. Fassung, =唯一者(DerEinzige)" クレスーエーゲィル(ディオニュソス)兄弟観提示の後に, ことに気付く。. 6.Str.)には,例のキ7)ストーヘラ <確かに私は知っている/お. んみを生ましめた者,おんみの父は/同じ父であることを>と言われる。あるいは,第3 連の<雷の神(Donnerer)> アントが伝えるところでば乏),. 〔<世界の霊>と同一である。というのも,前稿憩のヴアリ <世界の霊>は<時の主>と等置されているからである〕. は,私たちに,まず"自然と芸術(NaturundKunst)"中のエビテル(ゼウス)を想わせ るのである。そのような<父>が,祝祭を挙げるために<身を傾ける(neigen)>のだ。 つまり<父>なる<世界の霊>は,主人役(Gastgeber)、とみることができるo 第4連の<私>は,確かに<招く(laden)>といっているが,. Gastgeberとみることば. 出来ないだろう。前稿態"宥和する者よ(Vers6hnender,…)"第1稿および第2稿におい ては,はっきりと<それ故,私は今日,祝いを挙げる(Drumhabichbeutedas と言われるが,. Fest・)>. "平和の祝い"においては,このようなIcbはすっかり影を潜めているの (第3連)が祝いを であり,代って<父>が,更に<無垢の日々(TagederUnschuld)>.

(17) 37. ヘルダーリンの讃歌"平和の祝い"について もたらすとされるのであるから。 しかし,誰がGastgeberなのかという間にさしたる意味があるわけではなく,むしろ <傾ける(neigen)>は,. <父>の顕われをいうneigenに注意を払わなければならない。. ヘルダーリンの愛用語の一つといえるが,このことばが用いられる場の構造は,背馳し合 うものどおしの対立の弁証法的解消,およびそこに生まれる平衡状態と要約できる。例え ば,. beutigen. <今日の大地に,日は身を傾ける(Zur. イン河",. der. Erde. Tagsich. neigt・)>. ("ラ. 12.Str.)。天と地とは,日の傾き,即ち夕べの静寂のなか,く婚礼(Brautfest)>. (13.Str.)を祝うのであるし,又,例えば<ゆたかな梢を/稔の森が水車小屋に傾ける。/ breiten. だがその裏庭には,一本の無果花が立つ(Die die M正hl,/Im. Hofe. aber. neiget/Der ("追想=, 2. Str.)。自然の象徴とし. Feigenbaum.)>. w益chsetein. Ulmwald,止ber. Gipfel. ひともと. ての稔の木,人為の象徴としての水車小屋,そして繁栄を象徴する無果花o58)また更に, l孟chelnd. <銀の雲の彼方なるエーテルは,/微笑いつつ,身を傾けて祝福を贈る(Und しろがね. 也ber Silberwolken/Neigte よ",. sich. herab. segnend. der Aether.) >. ("沈みゆけ,美しい太陽. 4.Str.)。これはディオティーマのイメージが重なる太陽(夕陽)と私との交感を歌っ. た後の表現であるが,一変した私の心象となって,父なるエーテルが身を傾けるのであるo この例などは,ヘルダーリンの詩的形象化の能力を最も見事に伝える表現であり,最も美 <微笑う>のだ。更に,. しい詩行の一つといえるだろう。父なるエーテルは, nicken. (うなずく)と同系統のことばであることを思えば,この傾きに,慈父の包容を読 ●. ●. <この至高の霊が/人間たちに身を傾けたからだ>. みとることも許されよう。ともかく,. は,以上のような脈絡に連なっている。神と人の,永遠と時の和解,これこそが祝祭の謂 ではあるまいか。. ×. 7.. neigenが. l益ngst. Denn. Str.). Und. aus. weit. Einmal. mag. Gleich. DaB, Wo Was Wenn Und Der Das. ein Gott. Sterblicben. wenn. aber wohl nun. Feld,. sein. reichte. Schiksaalgesez. und. erw左hlen,. Spracbe. eine. wir. nit,. auch. sei. So d仏nkt mir sein. ersch6pfet?. Alle sich erfahren,. der Geist, sind. vollendet. gro8. hats ihn aber. Tagewerk. auch. zu. theilen alles Schiksaal.. ist did, dad. das Beste. Zeit. wann. die Stille kehrt, auch wirkt. ×. der zu皿Herrnder. war. aber. ×. aus. sch6nausgleichendegi1t. seiner. nur von. ist der. Meister,. Werkstatt. der Liebe hier. streiten,. und. jezt das Beste,. Bild undfertig. selbst verklart davon stille Gott der Zeit und. sei.. an. tritt,. Gesez, bis. Bum. Himmel..

(18) 青. 38. 8.. Viel bat. Str.). Morgen. Yon. Seit ein Gespr孟ch Erfabren Und. liegts. B也ndniB. Nicht. h6ren. sin° und bald. Die. Mutter. alle Erde. Liebeszeicben,. DaB. ihrs noch. lm. Wo. aber. den. An Zum. Dich,. Sicb. nocb. sie h孟ngen,. Bis ihr VerheiBenen. nicht. eurem. Da. seid in. 第7連には,. Pl. fehlt; denn. Himmel unserem. auch, darum. rief ich. ist,. dich,. Bum. Fdrsten Gescblecbt. Abend. der Zeit,. des Festes;. und. eher. legt. nicbt,. all,. A11 ihr Unsterblicben, Von. untereinander. heilige Zahl. ihr Geliebtestes. Bum. Wetter,. Weise. das bereitet. unser. nicht im. ungesebn. eine. UnvergeBlicher,. schlafen. far euch. M註chte,. gastfreundlicb. Bind, und. O J正ngling, dich. P且anzen. sick 汝ennet.. tuft. und. den. an. auch. Himmliscbe. wo. in Jeglicher. Gastmahl,. Ew'gen. der Festtag,. seiet,. gegenw鼓rtig,. Beisammen. andern ist.. das ZeugniB. o鮎nbar,. Seeligen. und. M註chten. andern. ihr heiligen. bei Gesang. ln Ch6ren Die. und. daran,gleichwie. Allversammelnde,. Wunder. ihm. zwischen. sick tュnd Licht. Das. Gesang.. aber. Geist entfaltet,. dad. uns,. ihm. doch,. Zulezt ist aber. Der. vor. zwischen. kennbar. 之. voneinander,. sin° wir. allein, die Unerzeugten,. er. Sind. Str.). wir. das Zeitbild, das der gro8e. Ein. 誠. an,. der Mensch;. Ein Zeichen. 9.. 木. uns zu. sagen,. HauBe.. (第3連)との平行関係が認められるが,第3連において提示された主. 題は,より発展的に歌われて,第9連のクライマクスに向ってクレシュンドしていく。 <祝祭の主>が再度いわれるために,論者の視線が集中的に第9連に向けられていること ば理由のないことではないが,私たちは!第3達にいわれた<雷の神>,第6連にいわれ た<至高の世界の霊>が,く静かな時の神(der. stille Gott. der. Zeit)>という姿に定着さ. れることに一層の注意を向けたいと思う。 第3連と根底において共通する点は, はまず,. <朝から夕べにかけて(vonMorgen 毒した. <静寂(Stille)>の帰還ということである。それ mach. Abend)>という時間的な移り■の中.

(19) 39. ヘルダーリンの讃歌"平和の祝い"について で帰ってくるものであり,いわば薄明に再帰する翠明の平安とも呼べるものであったoそ れはまた,ギリシア世界からヨーロッパ世界に向う歴史・文化の展開の究極の姿を象徴す るものでもあった。 ここでは新たに,. <静寂が帰るとき,ひと. <ことば(Spracbe)>という要素が加わる。. っのことばも生まれる(wenn. die Stille kehrt,. aucb. Sprache. eine. sei・)>。これが運命の. 掠といわれる。第8連の<対話(Gespr去ch)>も同じ関連においての発語とみることが出 来よう。そこではもはや,バベルに由来するような混乱はみられないだろう。むしろ, <すべてのものがお互いを知る(Alle. sick. erfahren)>ことが出来るのであるo何故かo. 彫刻家として表象される時の神が,その像を完成させて仕事場を出るからであり,この像 <日々の業(Tagewerk)>,およ. が時代の指標になるからである。この<像(Bil°)>は,. <時の成就(der. び第3連の<業(Werk)>に対応するものである。それは, endung). Zeiten. Voll-. >を象徴する。 der. この<巨匠(Meister)>,すなわち<時の主(Herr. Zeit)>であるには偉大すぎる. といわれる神をキ7)ストと読むべきかどうかで論は分れる54)が,キリストだとすると, (<しかし今,時が. 前稿態の第1稿・7.Str.のパラレルな箇所が理解できないのである。. 釆たからには/彼は巨匠のように仕事場を出る。/そして,彼の装いは,祝祭の晴着に他 ならない/>一彼は,後続の詩行との関連から考えて,父を指す-)更に,第9連の<お お,若人よ>というキリストへの熟っぼい呼びかけの必然性が消えてしまうであろうoむ <至高の世界の霊>と同一と考えるoなる. しろ私たちは,前節第6連との関連からみて, ほど,キリストを指して,. ("唯一者",. <わが主(MeinMeisterundHerr)>. <賢い師(der. 4.Str.)という表現が用いられることばあるが,ここではむしろ, Meister)>("自然と芸術",. 1・Fassung,. あるじ. weise. 7.Str.)と呼ばれるユピテル(ゼウス)を想起すべきである。. ユピテルは,運命を分かち与え,すべてを形作る(gestalten)ものであったoことばの誕 生もユピテルの働きによるのであった。. この神(巨匠)が,良らの作品によって浄化されたかのように仕事場を出るのだoこの 変容を,ヘルダーリンは<静かな時の神(der. stille Gott. der. Zeit)>という表現によって. 定着するのである。なるほどこれは撞着語法に違いない55)。しかし,まさにこの撞着そ のものに意味が存するのである。なぜなら,. <時の神>は第3連においては,. <雷の神. (Donnerer)>と表象されたのであり,その神の反響,千年の嵐は,響動そのものであった こだま. のであり,そのような力動性56)が業の完成のなかに止揚されるからである。それは,時と 永遠の,動と静の総合の姿だといえよう。それ故,この<静かな時の神>の手になる像は, 第8連にいわれる<時の像(Zeitbild)>なのであり,そのようなものとして,歴史の完成 (終蔦ではない)の姿を象徴するものである。そこでは, が,地上から天にまであまねく行われる(nur. der Liebe. <ただ愛の綻ノ美しい宥和の綻 Gesez,/Das. sch6nausgleichende gi1tvonhieranbiszumHimmel)>のだ。讃歌"ライン河"の一節の引用がもう一度許さ れるなら,そのとき, 第8連についてば7),. <運命は暫し/和解している>のであるo <静かな時の神>が<偉大な霊(der. groBe. Geist)>といい替え.

(20) 青. 40. られている点,. 木. 誠. 之. P4への伏線として<母なる大地(Mutter. スタイルの面では,既に触れたとおり,. Erde)>の形象があらわれる点,. <祝いの日(derFesttag)>という全篇の主題を. 集約する表現が,詩節の捧尾に配され,第9連との間にアンジャンプマンを形成してパト スの昂揚を告げていること,などに注意を向けておきたいが,特に詩人の眼指しが<われ われ(wir)>に移ってきていることを忘れてはならない。 <われわれ>は,. <一つのことば(eineSprache)>が生まれることによって(第7連),. <対話(Gespr左ch)>となったが,究極の要請は,. <歌(Gesang)>となることであるo. <歌>は斉唱であり,ハーモニイであろう。この<ことば>から<対話>を経て<歌>へ の動きには,ヘルダーリンの歴史意識が,時代の認識と時代への要請が映されているとみ ることができる。しかし厳密にはまだ<歌>が成就したわけではない0. <まもなく私たち. Gesang)>といわれる。が,眼前には,. <偉大なる霊>. は歌となる(baldsindwir. aber. の展開する<時の像>が,. <この霊と他のものとの,他の諸々の力との同盟>の<徴>と. して在る。ということば,キリストとギリシアの神々との和解が成就している,あるいは 少なくともそれが可能であるということだ。このことば,第9連において再び語られる。 すなわち,すべてが寄り集う祝いの日に,天の神々は,奇蹟のなかにでもなく,嵐によっ てでもなく,く合唱(Cbor)>となって現前するといわれているからであり,しかもその 数は<神聖な(beilig)>ものとされているからである。 (beiligは,完全を意味するheilを吸収していることに注意しておきたい。)それ故にこ. i, <われわれ>は<歌>とならなければならないのだo. <歌>のイメージは第9連にお. いて再び現われるが,その時<歌>は<手厚い(gastfreundlich)>ものとされる.つまり, <われわれ>は<友の姿>. (第2連)をとった神(々)に,やはり友の姿で応えるわけだ。. 全篇のクライマクス,第9連の問題は,. (1) <最愛のもの(Geliebtestes)>,. <忘れ. 難き者(UnvergeBlicher)>と<若人(J也ngling)>の関係,更に第4連の<J血gling>と (2) rufenに・関する,いわゆる文法問題, (3)文法 問題とのからみでこの<若人>が,二度目にいわれる<祝祭の主(Fむst des Festes)>と ここでいわれる<J也ngling>の関係,. どう関係するか,のほぼ三点に集約できる。 ∼(1)については,これらの呼称は同一対象を指すと考えられるが,名ぎされるものに対. する視点の所在が明らかに異なっていることを押えておかなければならないoすなわち, Hauses Einzige)" (3. Fassung, 3. Str.)において<家の宝(des "唯一者(Der と呼ばれる<最愛のもの(Geliebtestes)>には,所有形容詞<かれらの(ihr)>が冠せら. Kleinod)>. れて, <かれら-神々>の側から捉えられているのであり,一方,く忘れ難き者(Unverge81icher)>および<若人(Jiingling)>は,対象との関わりの直接性を示す2人称の人称. 代名詞<おんみ(dick)>の畳用が端的に語るように;詩人である<私(icb)>の熟っぼい 心奥を明かす呼称であるo. では,第4連の<若人(J也ngling)>とここの<若人(Jtingling)>は別人なのかどうか. 前者がキリストであることに異論はない。バイスナ-は,両者は兄弟関係にあるという微. 妙ないい方をしつつも・,前掛ま車・-:・)ズト,後者iipBrJ人だという立場を取り,・く若人>.i(9..

(21) 41. ヘルダーリンの讃歌"平和の祝い"について. Str.)-<祝祭の主>という捉え方から,く祝祭の主>-<守護霊(Genius)>説を提出し た。それはまた,創造的に神を迎えるための準備が整った人間の状態の形象化であるとち 説かれたo・58)この立場に対するバイスナー自身の弁明は聞かれるが9),特に"ドイツ人に die DeutscbeI1)"や"ゲルマニア(Germanien)"を論拠にする立場に基本的. 寄せる(An. な変化がみられるわけではない。 (3)を先取していえば,この<若人>は<祝祭の. しかし,私たちは,両者は同一であり,. 主>とは別だと考える。なぜなら,同一作品中の全く同じ表現が,別々のものを指すとは 考えにくいからであり(逆にバイスナ一にとって,二度いわれる<祝祭の主>は何故同一 なのか?),更に散文稿の,本篇とパラレルな位置には,. <それ故に現われよ,若人よ,お. んみこそが他のものたちに代って意味をもつのだ(Drum. sei gegenw去rtig,. Jtingling.Kei・. ner,wie/du,gi1tstattderiibrigenalle.)>80) (ここではJdnglingはキリストであり,数 da月 aber/ihr. 行先には,. geliebtestes. auch,. an. den. nicht/fehle,・・・なる <おんみを,忘れ難き人よ,おんみ. 表現もみられる)とあるからである。また何よりも, を時の夕べにあたり(Dich,. UnvergeBlicher,. dich,. alle hangen,. sie. gum. Abend. der. Zeit,)>にみられる頓. 呼法(Apostrophe)が伝える熟っぼさば,辛))ストに捧げられたP2にみられる達巡と, Ruhigm左chtiger)>と. 聖書の詩句の大胆な逆転のなかから<安らかにして力強き人(ein. いう表現を生みはしたものの,どことなく残った半端な感じを一気に払拭し去るものでは なかろうか。 次に(2)の,いわゆる文法問題とは,く祝祭の主>の同定がかかっているくrufen>を <呼び寄せる(herbei-. どう解釈するかということであり,議論は二分される。すなわち,. <-と公告する(ausrufen)>と解するかである。前者の場合,く若. rufen)>と解するか,. 人>とく祝祭の主>とは別人であり,後者にあっては同一である。再び,バイスナ一に登 場してもらうことになるが,彼の前者に対する批即1)は要約するとほぼ次のようになる。 <若人>-この場合,若人が誰であるかばおくとして-を<夕べの時にあたって(Zum Abend. der. Zeit)>,. <饗宴の席へ(ZumGastmahl)>呼び寄せ,更にく祝祭の主の許へ. der. Festes)>呼び寄せるというように,二度も<2;u>を空間的・副詞的意. (zumFiirsten. 味に解することば,内容的な重複を意味することになり,讃歌的昂揚を妨げることになる だろう,と。これに対し,私たちは,まさに讃歌的昂揚のなかで緊密に配された三個の <zu>のうち,ヘルダーリンが始めの二つを通例の意味に,最後の一つだけを結果的範噂 (d. h. zu...ausrufen)の意味に用いたとは考え難いとするブルガ-の反論8'2) <若人-キリスト>を<祝祭の を全面的に支持したいと思う。即ち,詩人なる<私>は,. を示す<zu>. 主>の許へ招いたのである。また,. <それ故にこそ,私は呼んだのだ(denn. darum. rief. icb)>にみられる動詞の過去形にも注意しなければならない。なるほど,先行の諸行にお いてキリストをはっきり呼んでいる箇所は見出せないが,第4連の冒頭によって,また第 6連の<子(Sohn)>への言及によって,キリストは明示的にではないにせよ,暗示的に祝 いの場に呼ばれていたのである。 ●. ●. ●. ●. ●. (vgl.前稿態,. 1.Fassung,. 4.Str.でははっきりと呼びか. ●. けられていた。)祝いの場に,く祝祭の主>の許へ呼ばれていた,とはすなわち,. <至高の.

(22) 青. 42. 木. 誠. 之. 世界の霊>,く父>の許へということだ。しかし既にみたように,く父>は,一義的にキ リスト教的なものとは規定できないことを再度いっておきたい。とすれば,く祝祭の主> とは誰なのか,あるいは誰でないのか? まず,詩のタイトル"平和の祝い(Friedensfeier)"が語るように,. <平和の神>であり. く父>であり,更にく静かな時の霊>である。といっても<祝祭の主>が特定できた′こと にはならないのだが(確実なことは,それが神だということだけだ),まさに,この特定 しないということがヘルダーリンの意図だったのでばあるまいか。しかしながら,輪郭線 によって措くというよりは,墨の濃淡を施すことによって一つの姿を浮き上がらせること が可能なように,このいわば消極的な描き方によって浮き上がっている姿があるのではな かろうか。二度いわれた<祝祭の主>. (2.Str.,9.Sir.)によって作られる・枠構造のなかに,. 視点の変化に対応して,さまぎまな呼称が生まれたのではなかろうか。68)即ちく宙の神> (3・Str・), <父>. (6・Str・),く世界の霊>. (7・Str・), <偉大な霊>. (6.Str.), <巨匠(7.Str.)>,. <静かな時の霊>. (8・Str・)は,内的に緊密な連関を有し,その動きのなかに,ギリ. シア的なものとキリスト教的なものとの総合という形での神々の帰還の主題が定着された のではあるまいか。 <しかし,われらは憩いにつくことばない/おんみら約束された者,おんみら不滅の者 のすべてが/おんみらの天について語るべく/われらの家に集うまでは> くおんみらの天について(VoneureⅢHi皿mel)>と<われらの家に(in >という簡潔な対置的表現によって第9連は結ばれ,. 連の<広間(Saal)>のイメージに繋がって環を形成すると同時に,第10連の<家の戸口 (T仏r desHauses)>に受け継がれていくのである。. 10.. Leichtathmende. Str.). L仏fte. Verk心nden. ・euch schon, k也ndet das rauchende Thai derJBoden, der vom Wetter noch floffnung r6thet die Wangen,. Euch Und Doch Und. der Thiire. vor. Sizt Mutter. und. des HauBeg. Kind,. Und. schauet. den. Frieden. Und. wenlge. SCheinen. Es h孟1t ein Ahnen Vom. goldnen. zu. Lichte. gesendet,. H左1t ein Versprechen. ll.. Str.). Wohl Von. die. sin° die Wiirze. oben. bereitet. sterben. die Seele,. und. Åltestenauf.. des Lebens, aucb. unsere皿Hans). <家(Haus)>のイメージは,第1. dr6hnet,.

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