科学の方法
飯田隆
1986
年
太陽が明日も昇るというのは仮説に過ぎない。すなわち、われわ れは、太陽が明日昇るかどうかを知ってはいないのである。 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』 6.36311経験的確信
ウィトゲンシュタインの言にもかかわらず、われわれは、明日もまた太陽 が昇ることを確信している。それだからこそ、われわれは、夜、寝に就く前 に、朝はいつまで待っても来ないのではないか、などと思い患いはしないの である。つまり、太陽が明日も昇るというわれわれの信念は、明日は晴れる だろうといった単なる推量とは大きく違うように思われる。だが、こうした 確信の根拠はどこにあるのだろうか。 この問いに対するひとつの答は、「これまで夜の後に朝が来なかったことは なかった」というものかもしれない。つまり、これまでそうだったから、今 度もそうだ、という答である。だが、これが根拠として薄弱なものに過ぎな いかもしれないことは、十分に考えられる。ラッセルがその著書『哲学入門』 の中で物語っている、先見の明に欠けるところあったニワトリの運命が思い 出される。このニワトリは、毎朝、飼い主から餌をもらっていたので、普段 と変わりないある朝にも、同様に餌をもらえるだろうと期待していたのに、 その代わり締められて飼い主の朝の食卓に供されてしまったのである。 だが、このニワトリは、あまりにも世間に無知であったために、他のニワ トリがどのような運命をたどったのかを知らなかっただけだ、と言われるか もしれない。このように言う人は、夜の次に朝が来ることは、人類の歴史を 通じて何万回となく経験されて来た事実であり、これが明日も繰り返されな いと考える方がどうかしている、と言うだろう。 この答で満足できるものなのか、あるいは、満足すべきものなのかを検討 することは、先に廻して、その前に、別の答え方があるという主張に耳を傾 けてみよう。その別の答え方とは、われわれの確信には、科学的な根拠があ ると言うものである。科学的説明
われわれのもっている確信に対する、「これまでそうだったから、今度も そうだ」という形の根拠よりもはるかに優れていると思われる根拠は、なぜ 「これまでそうだった」かの説明を基にして「だから、今度もそうなんだ」と 言うことであろう。こうした説明の典型的なものが科学的説明である。明日 もまた太陽が昇るだろうというわれわれの確信は、単に、このことがこれま でに例外なく繰り返されて来たということの知識によるだけでなく、なぜこ うした事実が繰り返されて来たかの理解からも由来することができる。明日 の太陽については、地球の自転運動の性格、太陽系の安定性、ひいては、太 陽系の秩序を支えている万有引力の性格といった事柄を挙げることができよ う。こうした事柄は、夜の次には朝が来るという経験を人類が重ねて来たと いう事実が、どのような条件に依存しているかを教えてくれる。そして、そ れは、さらに、そうした条件が変化するという特別の理由がない以上、明日 もまた太陽が昇ると信じてよいと告げるのである。 こうした説明は、「これまでそうだったから、今度もそうだ」という形の説 明と対比して、二つの長所をもっている。 第一に、こうした科学的説明は、太陽が明日も昇ると信ずることが誤りと なる可能性を明るみに出す。たとえば、太陽が何らかの原因で突然爆発する とか、太陽系外の物体の侵入によって太陽系の現在の均衡が破れるようなこ とは、不可能ではない。大事なことは、これまで繰り返し経験されて来た事 実に対する科学的説明は、そうした経験が繰り返されなくなるような例外的 状況がどのようなものであるかを(ごくおおざっぱな仕方でしかなくとも) 指定できることである。それは、「ひょっとすると例外もあるかもしれないけ れども、またそうなるだろう」という単なる予測なのではない。 第二に、「これまでそうだったから、今度もそうだ」という形の説明に関連 する事実は、単一の種類のものである。つまり、明日の太陽の場合には、こ れまで毎朝太陽が昇ることが観測されたという種類の事実だけが、この形の 説明を支えるものとなっている。これに対して、太陽系の構造的安定性によ る説明を支えるものとして引かれる事実は、単一の種類のものではない。そ れらの事実の多くは、太陽も地球も直接には関係していないものである。た とえば、太陽系の安定性の重要な要因となっている万有引力の性格を考えれ ばよい。万有引力が逆二乗型の法則に従う事実は、単に、太陽と地球の間の 関係を証拠とするものではない。 科学的説明のもつこうした利点は、どちらも、それが理論的説明であると いうことから来る。理論的説明の最大の特徴は、法則のもとへの事実の包摂 という形で説明がなされることにある。法則は明示的に示される必要があり、 また、何かが「法則」と呼ばれうるためには、単に同様な事例が多数見いだ されるというだけでなく、ある程度多様な状況でも適用できるということが 必要である。法則のもつ、こうした明示性と包括性が、(1) 個別の場合に適用される場合の条件を明らかにし、(2) 単一の種類の事実だけでなく、多様 な種類の事実をその証拠として持ち出すことを可能にするのである。 しかしながら、科学的説明という形で法則に訴えることは、太陽が明日も 昇るだろうという、われわれの経験的確信に対して、本当に何かを付け加え ることになるのだろうか。このように問うことはばかげているように見える。 明らかに、科学的説明は、単なる経験的確信からの大きな前進であると思わ れるからである。だが、これが何の前進ともならないという結論に導く議論 が存在する。
法則と未来
科学的説明は、経験的に見いだされる一般性を、法則への包摂によって説 明する。昼と夜とが規則的に交代して来たという過去の事実がなぜ生じたか は、地球の自転運動とそれを支配している力学的法則によって説明される。 そして、将来もまた昼と夜との交代が規則的に生ずるであろうと信ずべき理 由として、科学は、同じ力学的法則からの帰結である太陽系の構造的安定性 を挙げる。 ここで生ずる当然の疑問は、こうした法則が将来も妥当する保証はどこに あるのか、というものだろう。この疑問に対して、そうした法則の将来にも わたる妥当性の根拠を与えるような理論的説明によって答えることは、問題 を先に引き延ばすだけのことである。たしかに、法則が、それよりもさらに 一般的な法則から導かれる場合もある。だが、このときには、このさらに一 般的な法則について、それが将来も妥当する保証はどこにあるか、という問 いが、再び、頭をもたげてくる。つまり、未来における妥当性に関しては、法 則も、それが説明する経験的一般化と同様に、その保証を欠いているという 結論に導かれるように思われる。 だが、他方で、何かが法則として立てられるときには、それは必ず例外な く一般的に妥当するものと意図されていることも事実である。とりわけ、法 則は、過去だけでなく未来にわたっても妥当するものとして考えられている。 科学における法則は、自明な真理として頭ごなしに与えられるものではな い。法則が受け入れられることの根拠は、最終的には、観察された一連の事 実を説明できるということに求められる。(一連の法則を説明するために導入 される高次の法則も存在する。だが、こうした高次の法則を受け入れること は、より低次の法則を受け入れることに依存し、この依存関係を辿って行く ならば、最終的には、一連の観察された事実ということに行き着くはずであ る。)これまでに観察された事実は、たとえいかに膨大であろうとも、観察し うる事実の一部分に過ぎない。それに対して、法則は、観察しうる事実のす べてと合致するはずだという意図をもって主張されるものである。 したがって、これまで受け入れられて来た法則と明らかに矛盾するような 事実が観察されることになるという事態は、明らかに可能であるように思われる。結局のところ、われわれにとって、法則の妥当性を保証しているのは、 これまでに観察された事実の範囲を越えず、将来に観察されるはずの事実で はない。 いま、新しく観察された事実が、これまでに受け入れられて来た法則と矛 盾し、その結果、別の法則が提案され受け入れられたとしよう。このとき、わ れわれは、新しい事実が観察された時点で、法則そのものの内容が変化した と考えるだろうか。言い換えれば、この時点より前まではそのときに受け入 れられていた法則が妥当していたのだが、この時点以後は別の法則が妥当す るようになったのだ、と考えるだろうか。われわれは、そうは考えまい。以 前受け入れられていた「法則」は誤りだったのであり、その「法則」が受け 入れられていた間でも、実は、新しく提案された方の法則が妥当していたの だ、と考えるだろう。
科学の形而上学的基礎
現在受け入れられている法則が将来にわたっても妥当するという保証は経 験的にはない。われわれに与えられているのは、過去の観察のみであり、現 在受け入れられている法則がそれらとどんなに良い合致を示しているとして も、その法則に反するような事態が将来観察されることがないと言い切るこ とは不可能である。だが、上で見たように、「法則」という言葉をわれわれ は、これまでに観察された事例のみならず、未だ観察されていない事例をも 包括すべきものとして用いている。そうすると、どのような法則であろうと も、それが正しいと信ずべき理由はないように思われる。とりわけ、科学的 説明がすべて法則への訴えかけを含むものである以上、科学的説明の正しさ を信ずべき理由はないように思われる。 18世紀の哲学者ヒュームは、ほぼこのように論ずることによって、当時 隆盛に向かっていた近代の物理科学に対して、「知識」の資格を与え得るか、 という問題を提起した。興味深いことには、「サイエンス science」という言 葉は、もともとラテン語の「スキエンチア scientia 」に由来し、それは更に は、ギリシア語の「エピステーメー epist¯em¯e」にまで遡れる。そして、エピ ステーメーは、知識として、単なる信念(ドクサ doxa )と対比されるもの である。つまり、ヒュームの問いかけは、「科学」という名称自体が僣称に過 ぎないのではないかという問いかけであったとも言える。 かれに続く18・19世紀の哲学者たちは、ニュートン力学の疑い得ない 成功を前にして、ヒュームの懐疑的結論に満足することができなかった。そ の結果は、科学的説明を受け入れるべき根拠として、経験によっては正当化 されえないという意味での、何らかの形而上学的原則が持ち出されることと なった。そうした試みは、大きく二つに分けることができる。 第一のものは、科学が、われわれの認識とは独立に存在する世界の客観的 描写を与えるものであるという、多くの科学者に共有されている前提から出発する。「自然法則としての科学法則」といった言い方には、多くの場合、こ うした前提が含まれている。すなわち、世界には、われわれによって発見する ことのできる法則性がある、という信念である。個々の法則は、経験を手が かりとして発見することができるが、それがまさしく「法則的」なものであ るという信念、すなわち、世界が将来も同じような法則性を示すという信念 は、経験によって正当化することはできない。それは、たとえば、「自然の斉 一性」といった、経験を超えた形而上学的原理によってのみ、正当化される。 これに対して、カントに典型的に見られるような立場は、科学的説明を信 ずべき根拠を、われわれとは独立に存在する自然秩序への信仰にではなく、 科学的認識というものがそもそもわれわれ人間の認識の構造に依存している ということに求めようとする。科学が明らかとするような法則は「自然法則」 と呼ばれるとしても、その「自然」とは、われわれの認識と独立に存在する ものではなく、むしろわれわれによって構成されたものである。したがって、 自然の法則性は、われわれの認識のあり方の反映であることになる。こうし た説明は、もちろん、経験によって正当化することはできない。その意味で これもまた、何らかの形而上学的原理によって、科学を基礎づけようとする 試みであると言える。 この二つの立場のいずれもが、18・19世紀におけるニュートン力学の 圧倒的成功の強い影響下に形成されたということに注意する必要がある。当 時の哲学者の多くは、ニュートン力学を、自然現象に限るならば、その究極 的な説明を与える理論であると見なした。それゆえに、そうした哲学者たち にとっては、その妥当性を信ずべき根拠を経験に見いだすことは不可能であ るというヒュームの指摘は、スキャンダラスなものと映じたのである。 だが、この事情は、19世紀末から20世紀初頭にかけて大きく変化する こととなる。
推測と反駁
何よりも大きなインパクトを与えたのは、相対性理論の出現であった。ヒュー ムの指摘にもかかわらず、18・19世紀の知識人にとって、ニュートンの 理論の圧倒的成功(観測された事実との合致の精度、これまでに知られてい なかった惑星の存在の予知とその確証、緊密な体系性、等々)は、これこそ、 古人には隠されていた真理であり、人類はついに、知識=エピステーメーを 所有するに至った、と思わせるに十分であった。アインシュタインの相対性 理論は、まさに、この確信を一挙に覆した。それは、単に、ニュートンの理 論が誤りであることを示しただけではない。科学は究極的な真理を与えうる かという、科学の本質についての根本的な問いに対して、相対性理論が与え た影響こそ、むしろ、はるかに広く大きなものであった、と言うべきである。 それは、唯一の究極的な科学的理論という観念を疑わしいものとするという効果をもった。ニュートンの理論に取って代わったアインシュタインの理論 こそが、「本当の」究極的理論であると考えることはできない。この新しい理 論もまた、いつの日か、別のより良い理論に取って代わられるかもしれない のである。 究極的理論という観念の放棄は、今世紀の科学哲学の中で重要な位置を占 めるポッパーの哲学において、もっとも明確である。かれにとって、科学と は、最終的な真理に到達しそれを所有しているといった意味での知識(エピ ステーメー)ではない。科学的理論とは、その真理性が立証されることは決 してなく、常に反駁の危険に直面している、推測(ドクサ)である。 科学が、エピステーメーではなく、ドクサに過ぎないとするならば、それ は、他のもろもろのドクサから区別されるものなのか。もし区別されるとす るならば、その区別は何に存するのか。たとえば、天文学がわれわれに与え るものと、占星術がわれわれに与えるものとの間で、どちらかを選択すべき 理由はあるのか。 こうした問いに答えるために、天文学の法則を支持するような観察事例と、 占星術の「法則」を支持するような観察事例との間の量的な比較に頼ること はできない。第一に、法則を支持する事例が多いことは、その法則を真と見 なすことの根拠には決してならない。ポッパーは、ヒュームの懐疑的結論を 全面的に受け入れる。すなわち、ある時点までに観察された事例のすべてが ある法則を支持していることは、その時点以後の観察も同様にその法則を支 持すると考える理由とはならないのである。第二に、占星術の「法則」がす べての観察事例によって「支持される」ということは十分に考えられる。と いうのは、そうした「法則」が、もともと、どのような観察事例とも「合致」 するように作られているという可能性があるからである。 いま触れた点に、科学を他のもろもろのドクサから区別する特徴がある、 とポッパーは考える。もし仮に、どのような観察事例とも矛盾することのあ りえないような主張から占星術が成り立っている(現実の占星術は必ずしも そうではないかもしれないが)とするならば、占星術は、どのような観察に よっても反駁されえない。この場合でも、ある占星術の体系を別の占星術の 体系よりも優れているとする理由はありえよう。たとえば、一方が他方より も緊密に組織立てられているといった判断は可能である。しかしながら、あ る主張に関して、観察によるその反駁の可能性がないということは、それが、 われわれがどのような経験をもつかにはまったく影響されないということで ある。ということは、そうした主張が、世界についての情報を経験から獲得 するといった営みとは無関係である、ということでもある。 つまり、科学を他のドクサから区別するものは、科学が反駁の可能性をもっ ているという点にある。そして、科学的理論が、世界あるいは実在と接する のは、観察による反駁の試みにおいてであり、それが可能である限り、科学 は実在について何かを言うものであると見なされるのである。
ポッパーによるならば、科学とは、大胆な推測を立て、その推測を可能な 限りのテスト、すなわち、反駁の試み、に晒すことによって進行する。ある 時点において受け入れられている科学理論は、それが真であるから受け入れ られているのではなく、これまでなされた反駁の試みに耐えて来たというだ けのことであって、これが明日にも覆されるという可能性は常に存在するの である。
理論的存在者
推測と反駁によって進行する科学というポッパーの科学観においては、科 学の地位がエピステーメーからドクサに「引き下げられた」とはいえ、科学 が目指すものが真理であることには変わりがない。科学的仮説という形の推 測は、世界がどうあるかについての仮説であり、その仮説が真であることを われわれが知ることはないとしても、それは、世界についての真なる叙述を 与えることを意図して提出されるものである。 これとはまったく異なる科学観の伝統が存在する。それは、19世紀末の オーストリァの物理学者マッハに端を発し、アインシュタインも一時期その影 響下にあり、さらには、量子力学の形成期に大きな力をもった科学観である。 それがどのような科学観であるかを説明する前に、科学的説明がもつ、こ れまで触れて来なかったもうひとつの問題について述べておかねばならない。 科学的説明に用いられる法則の未来にわたる妥当性をどう保証するかとい う問題とは別に、科学的説明に関して必ず出て来る問題がある。太陽が明日 も昇ることを信ずべき根拠を天文学者に聞くならば、話は、地球の自転運動 の仕組みから始まって、遅かれ早かれ、太陽系が構造的に安定している理由 にまで及ぶであろう。そして、力学の法則が持ち出されることになる。とこ ろで、力学の法則は、普通には「力」についての法則であると考えられてい る。ここでの問題は、力というものが本当にあるのか、という問題である。 これは愚問であると思われるかもしれない。だが、次のように考えてみれ ばよい。目の前の机は、見ることができるし、触れることもできる。太陽は、 触れることはできないが、見ることはできる。だが、太陽が地球に及ぼして いると言われる力を、われわれは見たり触れたりできるだろうか。「四季の変 化があることをわれわれは見ることができる。そして、この変化は、地球が 太陽のまわりを回ることによって生ずるのであり、それは、太陽が地球に及 ぼす力によるのだ。」と答えられるかもしれない。だが、これは、力を「直 接に」見ることではなく、その「効果」と考えられるものを見ることでしか ない。同様に、どのような物体間にも引力が存在することを示したとされる キャベンディッシュの実験においても、観察できるのは、吊り糸のねじれと いう引力の「効果」に過ぎない。 日常の経験的確信の基礎になっているのは、われわれが身近に経験する(つ まり、見たり触れたりする)ことのできる事物や出来事の間に観察される規則性である。こうした規則性を法則の形で書き上げることもできる。たとえ ば、四季の星座がどのように変化するかを、法則の形で書くことができる。 こうした法則を「現象論的法則」と呼ぼう。 ところで、科学的説明の中核にあると考えられる類の法則は、こうした種 類の法則ではない。たとえば、ケプラーが発見した惑星運動についての三つ の法則は、いずれも現象論的法則であると言える。だが、惑星がなぜそのよ うな法則に従う運動を行うかの説明、すなわち、惑星運動は太陽の引力によっ て行われるという説明は、引力という「直接には」観察されないものを持ち 込む説明である。力、電流、電子、遺伝子、のように「直接」観察にはかから ないが、さまざまな現象を説明するために措定されるものは、しばしば、「理 論的存在者」と呼ばれる。科学的説明を典型とするような理論的説明が他の 種類の説明に対してもつ際だった特徴は、それが理論的存在者を措定するこ とにある。 そうすると、明日もまた太陽が昇ると信じてよいかを科学に問うときに返っ て来る答は、われわれが既に見知っている種類の事実間の法則的連関をより 精密な仕方で定式化したものには留まらない。科学は、われわれが見知って いるこの世界が、実は、そう見える通りのものではなく、われわれに見える 法則性も、われわれには見えないものたちの間の法則性に依存している、と 告げるのである。 だが、科学が措定するこうした理論的存在者が「ある」と言い切るにはた めらわれる事情が存在する。もう一度、ニュートン力学における「力」を取 り上げてみよう。力の概念を力学の基礎概念に取るべきかは、19世紀末に、 しばしば論議された問題である。この問題について見事な書物(『力学原理』 1894)を著したヘルツは、力学が三通りの仕方で定式化できることを示した。 第一のものは、力を基礎概念のひとつに取り、第二のものは、力の代わりに エネルギーを、第三のものは、同じく、力の代わりに質量を、基礎概念とし て取る。ヘルツ自身は、最後のものを採択するが、そのことは、ここでの問 題とは直接関係がない。大事なことは、力学に関して、力を基礎概念とする 定式化と、力を基礎概念とはしない定式化の両方が可能であることが何を示 すか、である。それは、つまり、力のような理論的存在者は、われわれが直 接見ることのできる太陽や机とは違って、実際に「ある」のではなく、われ われの目に見える一連の事実を体系的に表現する際の表現の手だてに過ぎな いことを示すのではないだろうか。そうすると、科学が、われわれに世界の 「本当の姿」あるいは「あるがままの姿」を示すのだ、と言うことには何ら根 拠がないのではないだろうか。
道具としての科学
実際のところ、理論的存在者一般に対する反対は、長い歴史をもつ。科学の 内部においてさえ、理論的存在者の存在を主張する科学法則を額面通りに取るべきではないという意見を見いだすことができる。このような意見をもっ とも良く代表するものが、理論を道具と見なそうという「道具主義」の科学 観である。それは、きわめてラディカルな仕方ではあるが、理論的存在者が 本当に「ある」のかという疑問と、法則が未来にも妥当する保証はどこにあ るのかという懐疑の双方に対して、ある解答を与えるものでもある。 この科学観によれば、科学理論は、世界がどうあるかについての叙述を与 えるものではない。たとえば、ニュートンの理論を額面通りに取れば、それ は、すべての物体の間に働く力としての万有引力の存在を主張している。そ うすると、この力は、世界の構成要素のひとつであるはずである。だが、い ま問題としている科学観の擁護者は、次のように論ずる。 —われわれの観 察にかかるのは、個々の物体の運動だけであり、物体間に働くとされる力を 「直接に」観察することはできない。また、こうした力について成り立つとさ れる法則は、それが普遍的に妥当するとの意図をもって主張されている限り、 それが疑いの余地なく立証されるということは論理的にありえない。だが、 こうした法則が世界についての叙述である、と考える必要はどこにあるのか。 結局のところ、われわれに与えられているのは、個々の物体についての個別 の事実でしかない。法則というものが必要なのは、ある個別的事実を述べて いる観察言明から、他の観察言明を導くために過ぎない。つまり、法則とは 演繹のための道具なのである。このように考えるならば、法則の真理性を問 題にする必要は生じない。したがって、法則が未来においても妥当するかと いう問題は、われわれが真理を所有しているかどうかの問題ではなく、現在 われわれがもっている道具を将来も信用してよいかどうかの問題であり、こ の問題に対しては実践的決断以外の解答があるわけではない。また、法則が その存在を主張しているかのように見える、力やその他もろもろの直接観察 にかからないものども、すなわち、理論的存在者も、世界の構成要素なので はなく、われわれが使う道具の部品に過ぎない。 たしかに、ある種の「科学的理論」を道具として用いることは可能である し、また、それは、実際に行われていることでもある。たとえば、天動説的 天文学は、今でも航海のためには使われている。そして、それは、まさに計 算の便宜のための道具として使われているのである。だが、科学的理論の役 割は、本当に、計算のための道具に尽きるものだろうか。
理解の枠組みとしての科学?
道具主義の科学観は、なかなか魅力的なものではあるが、基本的な点でわ れわれを満足させないだろう。それは、われわれの多くが、科学を、単に何 らかの結果を生み出すための操作的道具の集積と見なすことに抵抗を感ずる からである。否定できない事実は、科学的説明を与えられてわれわれは何か を理解したような気になることである。これが錯覚に過ぎないということは考えられるだろうか。考えられないわけではあるまい。しかし、いずれにせ よ、道具主義を取る場合には、こうした「錯覚」がかくも強力なものである のはなぜかを説明することができねばなるまい。 他方、科学的説明によってわれわれが何かを本当に理解しているとするな らば、このときに理解されているのは何についてかが明らかにされねばなら ない。それは、多くの人が自然に考えるように、世界についての理解なのだ ろうか。それとも、かつてカントが考えたように、それは、世界についてと いうよりは、むしろ、われわれ自身についての理解なのだろうか。 推測と反駁によって進行する科学というポッパーの科学観は、科学がわれ われとは独立に存在する世界とかかわると言う。その根拠は、推測に対する 反証が挙がったとき、その推測と衝突する何らかの実在があるとわれわれが 知るということに求められる。しかしながら、反証においてわれわれは「実 在と接する」という、この主張は、疑いうるし、また、実際に疑われて来た。 さらに、ヘルツによるニュートン力学の三通りの定式化が示唆しているよう な問題もある。つまり、科学理論の中で用いられている基本的概念ですら、 それに対応する実在があると結論することは誤りであるかもしれない。 では、科学は、われわれが、われわれにとっての「世界」を理解するため に採用する枠組みのひとつなのだろうか。そうした枠組みは、科学以外にも 存在するだろうか。もしも存在するとするならば、そうした他の枠組みでは なく、科学という枠組みをわれわれが選び取るべき理由はあるだろうか。 それとも、哲学者がしがちなように、理解という観点からのみ科学を見よ うとすることは誤っているのではないだろうか。むしろ、世界に働きかけ、世 界を変えようとするところに、科学の存在価値があるのではないだろうか。