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東京大学教育学部附属学校における双生児研究開始の経緯に関する一考察 : 海後宗臣が果たした役割に着目して

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Academic year: 2021

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(1)Title. 東京大学教育学部附属学校における双生児研究開始の経緯に関する一考 察 ― 海後宗臣が果たした役割に着目して ―. Author(s). 二井, 仁美; 川尻, 采花. Citation. 北海道教育大学紀要. 教育科学編, 69(2): 17-32. Issue Date. 2019-02. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/10384. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) 北海道教育大学紀要(教育科学編)第69巻 第2号 Journal of Hokkaido University of Education(Education)Vol. 69, No.2. 平 成 31 年 2 月 February, 2019. 東京大学教育学部附属学校における 双生児研究開始の経緯に関する一考察 ― 海後宗臣が果たした役割に着目して ―. 二井 仁美・川尻 采花* 北海道教育大学旭川校教育学教室 *. 幕別町役場. A Study of KAIGO Tokiomi’s Role on the Beginning of Twin Studies at the Secondary School Attached to the Faculty of Education in the University of Tokyo NII Hitomi and KAWAJIRI Kotoka* Department of Education, Asahikawa Campus, Hokkaido University of Education *. Makubetsu Town Office. 概 要 本稿は,東京大学教育学部附属学校の創設者 海後宗臣(1901-1987)が東京大学内外で果た した役割に着目しながら,同校における双生児研究開始の経緯を明らかにするものである。海 後の自伝ともいうべき著書『教育学五十年』(1971)および東京大学教育学部附属学校『東大 附属論集』(1955-)等の検討と,附属学校創設に尽力していた当時の海後を知る同校元教職員 らへの聞き取り調査を通して,教育研究における海後の問題意識,東大附属の創設経緯,海後 と双生児研究との接点および戦後教育改革を指揮したCIEとの関係を分析した。海後の教育史 研究者としての関心がのちの東大附属における双生児研究に直結する著述を見出すことは困難 であるものの,東京大学では附属学校創設以前から医学や心理学等の領域で双生児研究が行わ れていたこと,海後の人脈における双生児研究との接点の可能性を指摘した。. 序 章 研究目的. について考察するための研究方法として,双生児 の生活史に注目し,“The history of twins, as a. 第1節 問題意識の所在. criterion of the relative powers nature and. 1875(明治8)年,イギリスの遺伝学者ゴルト. nurture”という論文を発表した1。この論文は,. ン(Galton, Francis,1822-1911)は,「氏と育ち」. 双生児研究が「遺伝と環境が人間の個人差をつく. 17.

(3) 二井 仁美・川尻 采花. るうえにいかに働いているかという問題を解決す. の著書や論文を概観すると,東大附属を双生児研. る手段になるということを初めて指摘した2」研. 究の場とすることを主張した人物であるにもかか. 究であり,この論文が双生児研究の始まりである. わらず,双生児研究との直接的な関係を示す研究. と言われている。彼の研究以来,日本でもさまざ. 的著述は見当たらない5。なぜ,海後は東大附属. まな領域で双生児研究により, 「遺伝と環境」を. で双生児研究を行うことを構想し,その構想を推. めぐる問題の検討がなされてきた。. し進めたのであろうか。この問いが,本研究の出. とくに, 東京大学教育学部附属中等教育学校(以. 発点である。. 下,東大附属と略)は,1948(昭和23)年5月30 日に東京大学附属中学校として発足して以来,双. 第2節 先行研究の検討. 生児を数多く入学させ,研究を行ってきた。この. 『海後宗臣著作集』(1980-1981,全10巻)に収. ように研究の目的で双生児を入学させている学校. 録された海後の研究に関する解説において,彼が. は,東大附属の他にはデンマークにあるのみであ. 双生児研究推進の場として東大附属の創設に尽力. 3. る 。東大附属で蓄積されてきた双生児の学力,. したことに焦点化する論稿は見受けられない。わ. 性格,健康などに関するデータは約980組にのぼ. ずかに,矢口新(1981)が「先生は東京大学教育. り,莫大な数である。一方で,1年あたりに入学. 学部を創設し,附属学校をつくり,新たな実験学. する双生児は十数組であり,研究のデータとして. 校の理想を追究した6」と述べ,海後が東京大学. その数が十分であるとは言い難い部分もある。し. 教育学部およびその附属学校の創設に尽力したと. かし,東大附属が掲げる双生児研究の特徴は,. いう事実に言及しているものの,創設者として海. 「 『ある目的のために計画された研究』ではなく,. 後が果たした役割を明らかにするものではない。. 4. 『ごく普通の教育活動を通した研究』」であると. 佐藤秀夫(1980)は,「(海後は)東京大学教育学. いう点なのである。すなわち,双生児を数多く入. 部附属学校を実験するのに努力された7」と述べ. 学させているという事実だけでなく,6年間同じ. ているが,ここにおいても創設者として海後が果. 学校に通った双生児を対象に学校生活の中で得ら. たした役割を解明するものではなかった。つま. れた様々なデータが記録・保存されている点にお. り,海後と双生児研究との直接の関係はほとんど. いても,東大附属は世界で唯一の性格をもつ学校. 検討されておらず,また,学校経営者としての海. であり,一研究機関であると言うことができる。. 後を位置づける研究はない。. そもそも,この学校を双生児研究の場とするこ. さて,このような中で,2018(平成30)年1月. とを主張したのは,創設者の海後宗臣(1901-1987). に『海後宗臣 教育改革論集』(東京書籍)が刊行. であった。戦後教育改革の最中,附属学校につい. 8 は,東大附属における された。寺﨑昌男(2018). てはその弊害を排除する必要があるとの考えから. 双生児研究は海後が「師範学校に対する占領軍当. 廃止論が高まっており,連合国軍最高司令官総司. 局者たちの批判を理解」した上で打ち出した案で. 令部(General Headquarters, the Supreme. あったことに言及した。しかし,この案を「独創. Commander for the Allied Powers. 以下,GHQ. 的な附属学校アイデア」と評するものの,双生児. と略)も廃止論を支持していた。海後は,そのよ. 研究を着想するに至った経緯について焦点化して. うな状況下で東大附属の創設許可を得るため,. 明らかにするものではない。. GHQ内の民間情報教育局(The Civil Information. 他方,『東京大学教育学部紀要』第1巻(1956). and Educational Section. 以下,CIEと略)職員. は,東大附属に在学する双生児を対象に行われた. との折衝にあたった人物でもあった。. 研究を特集している。その中に収録された論文. 海後は,教育勅語の成立過程に関する研究をは. 「東京大学教育学部附属学校における双生児研究. じめ近代日本を代表する教育史学者である。海後. において」 (1955)は,以下のように指摘している。. 18.

(4) 東京大学教育学部附属学校における双生児研究開始の経緯. での双生児研究の推進を考え出したのかという点  当時は,終戦後間もないときであったの. である。先述したように,彼の著書や論文を概観. で,旧制度に対する批判はきびしく,附属学. する限り,直接的に双生児研究に関わる業績は見. 校の存続さえ危ぶまれておった際,新たに附. 当たらない。海後の研究の背後,つまり教育研究. 属学校を発足させる以上は,その使命を十分. に向ける関心の中に双生児研究へ帰着する何かが. に果たすような組織が,考えられなければな. あったのであろうか。. らなかった。附属学校の創設に当った海後宗. 第二に,東大附属創設と海後とCIEはそれぞれ. 臣が,双生児募集を決意したのは,研究学校. どのような関係があったのであろうか。つまり,. という,附属学校のもつ1つの使命にこたえ. そもそも,なぜ海後が東大附属の創設を進めるこ. るためにほかならなかった。しかし,それは,. ととなったのであろうか。また,GHQが附属学. 双生児が,遺伝と環境との問題,ひいては教. 校の発足に難色を示す中,CIE職員と折衝した海. 育の問題を解明するための資料として,貴重. 後は彼らとどのような関係であったのだろうかと. な資料であるという,漠然たる認識に基づい. いう問いである。. たものであって,附属学校自体として,どの. 筆者はとりわけ,創設者である海後が東京大学. ような問題を取り上げ,どのような方法で研. 内外で果たした役割に着目している。寺﨑昌男. 究を進めるかについて,はっきりとした目標. (1987)が「(海後)教授は,いうまでもなく戦. 9. が,当初から立っていたわけではなかった 。. 後改革期の東大教育学部の産みの親ともいえる先 生であり,同時に,本附属学校の産みの親10」と. 東大附属が発足したのは1948(昭和23)年であ. 述べるように,海後は東大附属の発足だけでな. り,この時期は戦後教育改革の最中であった。本. く,東大附属の母体東京大学教育学部の設立にも. 論文からは,発足当時,研究学校としての使命を. 尽力した。海後は,近代日本を代表する教育史学. 果たし得る取り組みを行うことが必須であったと. 者である一方で,学校経営に携わる者として何を. いう危機迫る状況を窺うことができる。その状況. 考え,どのように動いたのであろうか。彼が学校. 下で双生児を対象とした研究の意義に着目し,双. 経営において発揮した手腕は興味深い。. 生児研究を行うことを構想したものの,それ以上. そこで,本研究では,海後が創設者として東京. の計画がはっきりとしていたわけではなかった。. 大学内外で果たした役割に着目しながら,敗戦か. つまり,東大附属において双生児研究を行うとい. ら東大附属が発足するまで,すなわち1945(昭和. う構想は,その発足を懸けて考え出した特色で. 20)年半ばから1948(昭和23)年5月に焦点を当. あったのである。. て,東大附属における双生児研究開始の経緯を明. これらの先行研究は,敗戦後の時代背景を捉え,. らかにすることを課題とする。. 東大附属における双生児研究開始の経緯につい. そのために,以下の三点について検討する。. て,研究を行う意義に着目しながら概括的に述べ. まず,第一に,教育研究における海後の問題意. ている。しかし,海後自身が具体的にどのような. 識を整理する。海後の教育研究に向ける関心の中. 考えで双生児研究推進の判断をしたのかについて. に双生児研究へ帰着する何があったのか。もしく. は,明確に示されているとは言い難い。. は,双生児研究は,研究を推進する中で帰結した ものであったか。あるいは,東大附属の創設に向. 第3節 研究課題と研究方法. けて動く中で,海後の関心とは関係なく双生児研. 先行研究を検討すると,以下の二つの問いが生. 究を推進することが余儀なくされたのであろう. まれる。. か。この問いに迫るため,海後の自伝ともいうべ. 第一に,教育史学者海後宗臣は,なぜ東大附属. き著書『教育学五十年』(1971)を検討する。. 19.

(5) 二井 仁美・川尻 采花. 第二に,東大附属の創設経緯を明らかにする。. 育学部創設の際,「教育についての研究は先ず何. 海後とCIEとの関係を検討する上で,この学校の. よりも教育の実践を対象とするものであって,こ. 創設経緯を整理し,正しく理解する過程を欠かす. こに重要な研究の本拠がある」という理念を持っ. ことはできない。そこで,東大附属の創設経緯に. てあたっていたと語っている。つまり,東京大学. ついては, 『東京大学百年史』(1984-1987) ,『東. 教育学部において行われる研究について,海後は. 大附属論集』 (1955-)の東京大学および東大附属. たとえ理論を追究する研究を行う際にもその根底. が刊行した資料を中心に整理していく。また,東. には教育の実践,つまり学校で学ぶ生徒達の姿が. 大附属創設に際し,双生児研究開始について,東. あることを忘れてはならない,あるいはいつでも. 京大学は文部省とどのような連絡を取ったのかと. 目を向けていなければならないのだという考えを. いう点については,東京大学文書館所蔵「文部省. 持っていたのであると捉えることができる。そし. 往復」 (1871-1961)を検討する。. て,東京大学教育学部の創設にあたって,海後が. 第三に,当時の双生児研究の動向を整理した上. 附属学校の存在を強く意識していたことも窺うこ. で,海後と双生児研究との接点および海後とCIE. とができる。. との関係を検討していく。創設当時,双生児研究. それでは,教育史学者であった海後の「教育に. にはどのような可能性が見出されていたのであろ. ついての研究は先ず何よりも教育の実践を対象と. うか。海後とその周辺の人物との人間関係の中. するものであ11」るという考え方は,どこからき. に,双生児研究と結びつくものはなかったのであ. たものなのであろうか。. ろうか。また,CIEとどのような関係を築き,東 大附属の創設を進めていったのであろうか。双生. 第1節 教育の道を志すまで. 児研究の動向については,東京大学教育学部附属. 海後は,1901(明治34)年9月10日,茨城県水. 中等教育学校が著した『ふたごと教育』(2013). 戸市に生まれた。旧制水戸中学校を卒業後,熊本. を中心に整理していく。また,かつて東京大学教. の旧制第五高等学校を経て東京帝国大学文学部教. 育学部および附属学校に勤務した天羽幸子氏,杉. 育学科に入学した。. 浦祐子氏に聞き取り調査を行う。そして,東大附. 海後家は,茨城県那珂郡神崎村の神社で神官職. 属の創設にかかわって海後とCIEとの関係が重要. を代々世襲しており,祖父の本家では,神社に奉. であった理由,また海後とCIEとの連絡が東大附. 仕するとともに家塾の師匠も務めていた。しか. 属の創設にどのように作用したのかを分析してい. し,海後が「私の祖父も一時は神官となっていた. きたい。. が,神官がその土地の民衆の教育にもあたったと. 以上のように,本稿は,東大附属の創設者,学. いうことは,私が後年日本教育史を研究してわ. 校経営者としての海後の果たした役割に焦点を当. かったことであ12」り,「私が神官の家を出てい. てながら,東大附属における双生児研究開始の経. ることによって,教育への関心をもち教育学の研. 緯を明らかにする。. 究につとめるようになったのではなかった13」と 回想していることから,海後が教育学の道を志し. 第1章 教育研究における海後宗臣の問題意識. たのは家庭環境が強く影響していたわけではない と認識していたことがわかる。. 本章では,海後がどのような問題意識を持って. それでは,海後はいつから教育の道を志すよう. 教育研究に取り組んだのか,また,その問題意識. になったのであろうか。海後は「私が教育に関心. に双生児研究と結びつくものがあったのかという. をもつようになった最初の動機だったと考えられ. 問いを検討する。. るのは,中学校の生徒だった頃に日曜学校での教. 『教育学五十年』において海後は,東京大学教. 師をしたことである14」と明確に述べている。. 20.

(6) 東京大学教育学部附属学校における双生児研究開始の経緯. 海後は小学3年頃より,教会の日曜学校に通う. れなくなったり,この考えを変えようとしたりし. ようになった。ここでは,中学校上級になると日. たことはなかった22」という記述からは教育に対. 曜学校教師として小学校の児童に聖書物語や讃美. する思いの強さを窺うことができる。. 歌を指導することが通例であった。海後は「当時. このようにして,海後は東京帝国大学へ入学す. の私は日曜学校の教師も教育者であるから,これ. る以前に教育学の道へ進むことを決心していたの. から教育についての研究をしなければなどとは全. であった。. く考えていなかった15」としつつも「日曜学校の 教師をしていたことから,教育についての関心が. 第2節 東京帝国大学入学後の教育研究. 高められたことは明らかである16」と述べている。. 海後が東京帝国大学文学部教育学科に入学した. つまり,当時の海後には,教育の道に進まなけれ. のは,1923(大正12)年4月のことであった。その. ばならないという使命感こそなかったものの,こ. 後,彼は1926(大正15)年に東京帝国大学大学院. の経験が教育についての関心を高め,教育の道に. (文学部)に入学し,研究を続けた。大学院卒業. 進むこととなった端緒であったと振り返っている. 後はそのまま大学に残り,1932(昭和7)年夏ま. のである。. での約6年間,助手として勤めた後,次いで国民. さらに,1920(大正9)年には熊本の旧制第五. 精神文化研究所にて勤務,1936(昭和11)年には. 高等学校への進学に伴い,草葉町組合教会に通う. 東京大学へ文学部教育学科助教授として帰任した。. ようになった。この教会においても海後は日曜学. それでは,海後は東京帝国大学に入学してから. 校教師を務め, 「高等学校生活の間のささやかな. 東大附属の創設に携わるようになるまで,どのよ. 教育指導の経験は,私の教育についての関心を著. うな研究をしていたのであろうか。例えば,教育. 17. しく高めることとなった 」と述べている。. の実践に結びつくような研究を行っていたのであ. 高等学校時代,海後は草葉町組合教会の一員と. ろうか。. 18. して白川学園 を慰問し,ボランティア活動を. 海後は,大学学部生時代に教育学概論,心理学,. 行っていた。その際,「教護施設の子どもが町の. 哲学,倫理学,社会学,宗教学などを学んだのち,. 子どもから隔離されて生活しているのを気のどく. 卒業研究では「ディルタイの思想と其の教育学説. に思い,時どき訪問してお話をしたり校庭で一緒. 上に於ける発展」(1925)と題し,教育思想につ. 19. に遊んだりしてなぐさめてやろうと考えた 」の. いての研究を行った。これは,当時,文化教育学. であった。 白川学園は熊本県立代用感化院であり,. が教育思潮の新しい研究として注目されていたこ. 「家庭又は学校に於いてしつけに困る子供」に「特. と,海後が師事していた吉田熊次(1874-1964). 別なる慈愛教育を施し以て善良なるものとする目. が教育思潮について講義や演習で教えていたこと. 「この経験は 的の特殊学校20」である。海後は,. が相まってのことであった。その後,大学院にお. 私に教育への志向を著しく高めさせたのであっ. いては,教育学の体系を課題に研究に取り組ん. て,できるならば教育界に入って何かつとめたい. だ。この先長く続く自身の教育研究を見越し,教. と考えるようになった。このようにして白川学園. 育の体系を取り扱うこととしたのであった。. の子どもたちは私を教育研究へと進ませるかげの. 以上のことから,大学学部生時代,院生時代を. 力となっていった21」と述べている。. 回顧する記述からは研究の基礎的な部分を固めて. 以上のことから,海後が教会に通うことを通じ. いこうとしていた海後の姿勢を窺うことができ. て得た経験は,彼の関心を教育へと導くもので. る。これらの研究手法は主に文献による調査およ. あったと捉えることができる。また,「今日まで. び分析であり,即座に実践に結びつくと考えられ. 教育についての関心と教育学研究に努めることで. るものではなかった。しかし,それから間もなく,. は一貫している。その間に迷って方向を見定めら. 海後は聞き取りによる調査を経験することとなっ. 21.

(7) 二井 仁美・川尻 采花. た。それが,大学院卒業後に東京帝国大学教育学. 文学部教育学科に助教授として帰任した。この頃. 研究室で助手をしていたときのことであった。. から海後は,日本近代学校史の研究を行う中で,. 大学院卒業後,海後は東京帝国大学教育学研究. 史実と現実で起きている問題とを切り離して考え. 室で助手を務めたが,この時期で着目したい点が. ることはできないという考えを持つようになった. 二つある。第一に,海後の永年の研究となる日本. という28。このような考えに至ったのには,あく. 教育史,とりわけ明治教育史の研究に着手し始め. までも根底に教育史研究があった。しかし,そう. たのはこの頃であったことである。そして第二. であっても海後は「単なる教育者として現実の問. に,聞き取りによる調査を行ったことである。ま. 題から離れて超然としていることができなかった. ずは,海後が明治教育史研究に取り組むことと. のであ29」った。. なった経緯を見ておきたい。. 以上のことから,海後の関心はのちの東大附属 における双生児研究に直結するものであったとは.  研究室で仕事を始めてから間もなくのこと. 考えにくい。しかし,海後は東大附属の創設に向. であった。吉田教授が私を呼んで君にたのみ. けて動き出す以前より,研究手法として実地調査. たいことがあるというので,何の用事かと. を行うという視点を持ち,実際にその方法をとっ. 23. 思っていると,法学部の吉野君 からたのま. ており,また教育研究に対する問題意識として,. れて『明治文化全集』の「教育篇」を編集す. 過去の史実と現実で起きている問題は不分離のも. ることを引きうけてきたので,それを手伝っ. のであるという意識を持っていた。彼の関心は,. てくれということであった。これまで明治時. 研究のベースとして教育史研究を志向するととも. 代の教育について特に研究したこともない. に,眼前で起きている教育の現実へも向けられて. し,これから教育史研究を始めようとも考え. いたのであった。. ていなかったのでいささか当惑した24。 当時,海後の関心は教育史研究に向いていたわ. 第2章 東京大学教育学部附属学校創設の経緯. けではなかったのである。彼の教育史研究の発端. 本章では,東大附属創設の経緯を検討する。. は,師事していた吉田からの依頼によって図らず. 1948(昭和23)年5月30日に発足した東大附属は,. 25. も始める運びとなったことであったのだ 。. 現在,東京大学教育学部の附属学校である。しか. 海後が聞き取りによる調査を研究手法として選. し,東京大学教育学部が創設されたのは,1950. 択したのは,管見の限り,この研究が最初であ. (昭和25)年である。つまり,東大附属は東京大. 26. る 。彼はこの研究について,自分から進んで行っ. 学教育学部の創設に先立って発足したのである。. たわけではなかったと振り返りつつも,学制発布. 東大附属は,東京大学教育学部が創設されるまで. 以前の新政府の教育施設についての調査のために. は「東京大学附属中学校」の名をもち,東京大学. 京都の古い小学校を訪ねたときのことを「書籍や. の附属学校であった。. 文書だけでは(中略)わからないということをま. 東大附属の発足には,戦後の学制改革における. 27. すます深く考えさせられた 」とも述べている。. 旧制高等学校の解体が深く関わっている。旧制東. これは,1929(昭和4)年の海後が28歳のときの. 京高等学校は,1921(大正10)年11月に設立され. ことであり,東京帝国大学大学院を卒業した翌年. たわが国最初の旧制七年制高等学校であり,1950. のことであった。以上のことから,海後は教育研. (昭和25)年3月に廃校となる30。東大附属は,. 究を始めた早い段階より,研究手法として実地調. この旧制東京高等学校の解体にかかわって誕生す. 査を行うことの意義を感じていたことが分かる。. る31。. さて,1936(昭和11)年,海後は東京帝国大学. 22.

(8) 東京大学教育学部附属学校における双生児研究開始の経緯. 第1節 旧制東京高等学校の解体. 和22)年4月から「6・3・3・4制」を実施さ. 東大附属が発足したとき,生徒は一から募集さ. せる旨を明らかにしたためである。このことにつ. れたわけではない。旧制東京高等学校を母体と. いて,『東京高等学校史』は,尋常科の復活が不. し,1948(昭和23)年当時の中学3年生は旧制東. 可能となった原因は「6・3制」の導入にあった. 京高等学校の生徒をそのまま在籍させ,そして中. こと36,新制中学校,高等学校の一貫教育は国立. 学1年生および2年生を新たに募集したのであっ. 大学の附属学校として行うほかは認められなく. た。旧制東京高等学校の解体は,「高等科が教養. なったことを指摘している37。. 学部に合併されることで新学制への対応をとった. このような状況の中で,東京大学に教育学部が. のに対し,尋常科の新学制への移行は困難を極め. 新設されることとなり,教育実習の場を求めてい. 32. という。 『東京大学百年史』 (1986)によると, た 」. たこと,旧制東京高等学校の「尋常科の廃止がす. 旧制東京高等学校が解体されることとなったの. でに決定的である以上,いささかでもその姿をと. は,学制改革により学校体系が複線型教育から単. どめたいという希望38」とが合致したのであった。. 線型教育へ改められ,「6・3・3・4制」が導. このように,旧制東京高等学校の解体とともに東. 入されたためであった33。. 京大学教育学部附属学校創設の構想,つまり,旧. 当時,旧制東京高等学校が解体されるにあたっ. 制東京高等学校側から言えば尋常科移管の交渉が. て,在籍している生徒を今後どこに所属させるの. 急速に進んでいったのであった。. かという問題が起きていた。この時期は東京大学 において教養学部および教育学部の設置について 議論がなされており,高等科の生徒については新. 第2節 東京大学教育学部附属学校創設に関する 連合国軍最高司令官総司令部からの要求. 制大学となった東京大学に新設される教養学部に. 以上のようにして,旧制東京高等学校は新学制. 収容されることとなったのであった。しかし,尋. への移行に対応しようとしたものの,旧制東京高. 常科は新制大学より段階が下であるためにそのよ. 等学校が東京大学の附属学校となることについて. うなことはなかった。学校段階だけでなく,入学. CIEから許可を得ることは難しいと考えられた。. 者選抜の方法についても文部省から改正を求めら. 東京大学が附属学校を持つことについても同様で. れたため,旧制東京高等学校尋常科は今後の見通. あった。それは,「特権学校として長い年月弊害. しが立たなくなっていたのだ。このような状況の. を流してきた全国の師範学校附属小学校を廃止し. 中で尋常科の生徒を残す唯一の方法が,附属学校. ようとしているときに東大が新しく附属学校を設. という形で東京大学に合併することであった34。. けるなどは時代逆行であ39」り,戦後改革の民主. 他方,旧制東京高等学校尋常科は1942(昭和. 化を目指す動きに相反するものとなる恐れがあっ. 17)年以後,戦時の臨時措置によって生徒募集が. たためであった。実際,旧制東京高等学校が東京. 中止されていた。つまり,1946(昭和21)年4月. 大学の附属学校として残り,東京大学が附属学校. には尋常科の生徒はおらず,高等科のみに生徒が. を付設することにCIEは難色を示したのである。. 在籍しているという状況になるはずであった。し. 藤枝(1996)によると,附属学校には,第一に. かし,旧制東京高等学校としては七年制の実態を. 練習学校,第二に実験・研究学校,第三に模範学. 維持するために尋常科を復活させる動きが高まっ. 校という性格がある40。附属学校発足の初期は,. ており,教職員の努力が実を結んだ結果として. 練習学校,実験・研究学校としての側面が強調さ. 1946(昭和21)年度の尋常科入学生の募集につい. れたが41,模範学校という性格が附属学校は「特. て文部省の承認を得られたのである35。. 権学校」であるという認識を惹起し,世間一般に. しかし,この後すぐに尋常科の復活は不可能な. もその考えが定着し,「特権学校としての弊害42」. ものとなってしまった。それは,GHQが1947(昭. をもたらす結果となってしまったという43。. 23.

(9) 二井 仁美・川尻 采花. 海後は,附属学校の創設に難色を示したCIEの. 育学部創設以前から附属学校の創設が考えられて. 主張を以下のように記している。. いたことである47。 第一の指摘について補足すると,東大附属は結.  日本の附属小学校は弊害が多いから廃校に. 果として先述の通り旧制東京高等学校尋常科を母. しようとしている際に,東大が新しく附属学. 体とし,1948(昭和23)年5月30日の入学式を. 校を設けるならばどのようなことになるの. もって発足した。当時在学していた旧制東京高等. か。東大附属には学力の高いものを選抜して. 学校尋常科の生徒を新制中学の3年生とし,1年. 入学させ,その卒業生の大部分が東大に進学. 生および2年生を新たに募集して発足したので. するようになることは目に見えている。これ. あった。最終的に,旧制東京高等学校尋常科は,. から東大附属は日本で最も高度な特権を持つ. 1951(昭和26)年3月に東京大学教育学部附属中. 学校となるにちがいない。これは教育改革を. 学校・高等学校となったのであった48。. 断行しようとしている今日,さまざまな障害. 第二の指摘に関しては,東京大学側は設置しよ. 44. となり,全くの時代逆行である 。. うとしている附属学校について,「特権学校」と いう性格を持たない学校であるように考えていた. つまり,CIEは,師範学校附属小学校の創設初. ことを窺うことができる。「特権学校」の性格を. 期に強調されていた練習学校,実験・研究学校と. 持たない学校として構想した理由の一つには,. しての側面が薄れ,附属学校は「特権学校」であ. GHQが戦後日本において種々の方面から民主化. るという側面が強くなっていた事実を重く受け止. を図っており,教育においても無論例外ではな. めていたということである。そのため,戦後の教. か っ た こ と が 挙 げ ら れ よ う。 し か し, 戦 後,. 育改革の最中で構想されている東大附属について. GHQから教育の民主化を要求される以前の昭和. は,戦前の附属学校が持っていた弊害を継承し得. 初期頃から附属学校を設けたいという希望があっ. るものであると考えたためにその存在を危惧し,. たこと,またその理由が教育研究のためであった. 創設に難色を示したのであった。. ことを押さえておきたい49。 第三の指摘については,先述の通り川崎の証言. 第3節 東京大学教育学部附属学校創設と海後宗 臣との接点. および『東京大学百年史』(1986)の記述より明 らかである。. 川崎明(1968)は東京大学における附属学校設. 寺﨑昌男が「(海後)教授は,いうまでもなく. 置の構想について,「東京大学では,大正の中期. 戦後改革期の東大教育学部の産みの親ともいえる. ごろから,研究学校としての附属学校を設置しよ. 先生であり,同時に,本附属学校の産みの親でも. うという構想があった45」ものの「十数年来,実. あります50」と述べるように,海後は東大附属の. 現しなかった46」ことを指摘している。すなわち,. 発足だけでなく,東大附属が所属する教育学部の. 東大附属創設は戦後に初めて構想されたわけでは. 設立にも尽力した。海後自身も「附属学校ができ. なかったのである。. ましたことは,東京大学に教育学部が開設される. それでは,戦後,東大附属の発足について東京. という,そういうことと非常に深い関係があるわ. 帝国大学内ではどのような動きがあったのであろ. けなんです51」と語っていることから,東京大学. うか。 『東京大学百年史』(1986)は東大附属設置. 教育学部の創設経緯にも触れたい。. の構想について,以下の三点を明らかにしている。. 海後は,『教育学五十年』において教育学部創. それは,第一に旧制東京高等学校尋常科が予定さ. 設時のことを以下のように回想している。. れていること,第二に附属学校が当初から実験学 校として構想されていること,第三に東京大学教. 24.  私は助教授として十一年つとめ昭和二十二.

(10) 東京大学教育学部附属学校における双生児研究開始の経緯. 年に四十七歳で教授になった。しかし,教授. 分かる。. として年少であったので,高木創設委員長は. ここに整理した事柄より,東京大学においては. 私を何かにつけて呼んでは創設の仕事を依頼. 戦前から附属学校を持つ構想があったこと,また,. してきていた。私はそれで創設についての実. 戦後は学制改革によって起こった旧制東京高等学. 質的な方法を考えたり,企画のもとになる試. 校の解体問題と合わせて附属学校を持つ構想が進. 案をつくったりする役目につくこととなっ. められていったことが分かる。しかし,戦前の附. た52。. 属学校の性格は創設初期の練習学校,もしくは実 験・研究学校という性格を失いつつあり,帝国大. また, 『東大附属論集』(1969)には,海後が附. 学入学のために通るべき道筋,つまり民主的でな. 属学校創設について以下のように語ったという記. い「特権学校」となっていたのであった。そのた. 録が残っている。. め,東京大学が附属学校を設けるような動きをす ることは戦後改革が目指す動きに相反するものと.  (教育学部の創設について)だいたいの構. 考えられ,CIEは東大附属の発足に難色を示した. 想は,そういうことで着手しましたが,それ. のであった。. では,附属学校は,どういうふうな学校にす. このような状況下で,CIEとの折衝にあたった. るかという,それが,なかなか,むずかしい. 人物が海後であった。海後は具体的に「学校運営. ことであります。それで,教育学部の創設を,. の企画を示しながら,民主的教育改革の推進を意. 一方では相談し,一方では附属学校をつくら. 図する実験学校を強調し,CIEからも附属学校の. なきゃならないと,並行して両方から出てき. 設置の承認を得57」られるよう動いたのであった。. ておるわけなんです53。 このような状況下で,「みんな,海後にやらせ ろということになっちゃって,私が『校長代理』. 第3章 東京大学教育学部附属学校創設にお ける海後宗臣の活躍. を引き受けるようになりました54」という流れで. 東 大 附 属 創 設 の 許 可 を 得 る た め, 海 後 宗 臣. あった。つまり,海後が東京大学教育学部および. (1901-1987)がCIEに提示した東大附属の構想. 附属学校の創設に関して動くこととなったのは,. の一つが双生児研究であった。1979(昭和54)年. 当時の教授陣の構成によるものであった。彼が教. 当時,川崎明が「双生児が偶然在学しているので. 授陣の中で一番若かったため,初めは様々な雑務. はなく,研究の目的で双生児を集めている学校. を任される形で創設に携わっていたのである。. ママ しか は,世界に二つ(もう一つはデンマーク). ここで,一つ疑問が生まれる。海後が東京大学. なく,本校が日本唯一になります58」と述べてい. 教育学部および附属学校の創設のために動いた理. るように,双生児を入学させ,その研究を行うこ. 由は,海後が教授陣の中で年少であったために動. とは非常に珍しいことであった。海後はどのよう. かざるを得なかったということだけなのであろう. にしてCIEを納得させたのであろうか。. か。この点については,前掲の『東大附属論集』. 本章ではまず,双生児研究がいつ始まり,何を. において「 『いやだ』って言えばやらないでもよ. 明らかにしようとしてきたかを整理する。そし. 55. 「ぜひ かった 」という当時の状況を示しつつ,. て,日本国内で双生児研究が行われるようになっ. 一つ,やってやろうかなぁ56」という考えに至っ. た時期に活躍した人物の中に海後と接点があった. たという海後の言葉が続いている。つまり,当時. 人物はいないだろうか,東大附属創設に向けて協. の状況から動かざるを得なかったという理由だけ. 力した人物の中に双生児研究を行うという考えを. でなく,海後自身が意欲的であったということが. 持つ契機になり得る人物はいないだろうかという. 25.

(11) 二井 仁美・川尻 采花. 点を検討していく。そして,海後とCIEとの関係. までもない。彼の発表以来,日本でも双生児は医. を見ていき,どのようにして東大附属創設の許可. 学,心理学,教育学などの立場から研究が重ねら. を得ることができたのかを明らかにしていきたい。. れ,「遺伝と環境」をめぐる問題の検討がなされ. また,これらについて,当時東京大学教育学部. てきたのである。. および附属学校に勤務していた人物の視点からも 明らかにすべく,天羽幸子氏,杉浦祐子氏へ聞き.  日本における「ふたごの研究」は,戦前に. 取り調査を行った。天羽氏は1952(昭和27)年に. 心理学の小保内虎夫63の研究と解剖学の谷口. 東京女子大学文学部心理学科を卒業後,東京大学. 虎年64の研究から始まりました。小保内は主. 教育学部および附属学校に勤務し,双生児研究に. に心理的な遺伝に関して,谷口は主に身体の. 貢献されてきた。杉浦氏もまた,かつて東大附属. 遺伝に関して研究をしていました。そして,. に勤務されており,双生児研究委員会の一員で. 東京帝国大学医学部の精神医学者である内村. あった。. 佑ママ 之65は,行動観察によるふたごの研究. 聞き取り調査からは,東大附属内部の視座で創. を行いました。一九四二年八月に長野県軽井. 設者である海後の姿が見出される。天羽氏は「あ. 沢で双生児合宿が行われたのがその始まりで. の方(海後)は,研究者っていうよりも研究団体. す。ゴットシャルトの双生児合宿の研究を参. を育ててトップに引っ張る,そういうタイプの人. 考にして行われましたが,それに比べると期. 59. でした 」と述べ,学校内部において海後は教育. 間も短く,参加したふたごも十数組と規模の. 学者もしくは教育史学者というより,学校全体や. 小さいものでした。しかしながら,精神科の. そこで行う研究をマネージメントする人物として. 医師たちによって詳細に行動観察がなされ,. 見られていた。つまり,海後は職員から,研究者. 心理学的な実験もなされています66。. としてよりも,むしろ学校の経営者として視線を 向けられていたと言うことができる。. つまり,日本における双生児研究の始まりは, 戦前の小保内虎夫(1899-1968)の研究と谷口虎. 第1節 双生児研究の担い手. 年(1902-1963)の研究にあったということである。. 双生児研究には主に二つの側面がある。一方は,. 内村祐之(1897-1980)もゴットシャルトによっ. 身体的・心理的側面などの「双生児という存在そ. て行われた双生児合宿を参考に,戦前から双生児. 60. のものの特異性を明らかにする 」ことを目的と. 研究を始めていたのであった。ゴットシャルトが. した研究である。他方は,「双生児を調査対象と. 双生児合宿を行ったのは1939(昭和14)年であり,. して用いて人一般に関する発達の原理を明らかに. 内村はその後間もない1942(昭和17)年に行った. する61」研究,いわゆる「双生児による研究」で. のであった。. ある。. それでは,戦後の東大附属が発足する前後では. 双生児研究では,一卵性双生児に生じた差異と. どうであっただろうか。. 二卵性双生児との間に生じた差異について,遺伝 と環境のそれぞれの観点から考察し,遺伝と環境.  一九四五年以降は,ふたごに関する研究が,. に関する一般的な結論を導き出そうとしている62。. 東京大学精神医学教室と脳研究所(脳研究所. さて,海外で行われた研究には,日本の双生児. 自体は一九四二年より双生児の研究を始めて. 研究に大きな影響を与えたものがある。例えば,. いました)を中心に組織的に行われるように. 第一次世界大戦後にドイツのゴットシャルト. なりました。そのきっかけは,ドイツ留学中. (Gottschaldt, K,1902-1991)が行った「双生児. に双生児研究に深い印象と関心を持った内村. 合宿」である。本稿冒頭で触れたゴルトンは言う. と昭和一〇年代からずっと双生児研究を重ね. 26.

(12) 東京大学教育学部附属学校における双生児研究開始の経緯. てきた吉益脩夫67がともに在職していたこと. ても研究対象を獲得することができるという利点. にあるようです。双生児に関心を寄せる二人. があったのではなかろうか。. が,遺伝と環境の問題を取り扱うために,共 同的な研究を始めたといいます68。. 第2節 海後宗臣とCIEとの関わり 海 後 は『 教 育 学 五 十 年 』(1971) に お い て,. 内村も吉益脩夫(1899-1974)もそれぞれ戦前. CIEが 東 大 附 属 創 設 に 難 色 を 示 す 中 で,CIEと. から双生児研究を行っていた69が,戦後になって. 取った連絡について以下のように述べている。. 彼らによって行われた共同研究は,日本において 行われた組織的な双生児研究の先駆けであった。.  東大の附属学校がどのような構想によって. そして同時に,この共同研究は東京大学における. 発足する計画であるかを具体的に決定し,そ. 双生児研究の始まりでもあった。ここに名を挙げ. れをCIEに提出して了解を求めなければ内諾. られた人物が生涯を送った時期は,海後の生没年. がえられないということになった。そこで,. (1901-1987)と重なる。そこで,海後の人脈の. 附属の性格についてわれわれ72の間で相談. 中に双生児研究との接点があったのではないかと. し,私が一人でCIEに行きこの問題を担当し. 考えることができる。. ていた二,三人の課員と面談して即決しよう. とりわけ,吉益は学生時代に海後とごく近い場. とした73。. 所で研究を行っていたと考えられる。吉益は,岡 山の旧制第六高等学校を経て1924(大正13)年に. そして,海後はこの面談のときに「学校運営の. 東京帝国大学医学部を卒業し,同大学精神病学教. 企画を示しながら,民主的教育改革の推進を意図. 室助手となった。その後,1926(大正15)年に東. する実験学校を強調し,CIEからも附属学校の設. 京帝国大学大学院(文学部)に進み,心理学を研. 置の承認を得74」られるよう働きかけたのであっ. 究したのであった70。一方,海後は1923(大正. た。東大附属の発足にかかわってこのように働き. 12) 年に東京帝国大学文学部教育学科に入学した。. かけた時期は,1948(昭和23)年度の生徒募集が. 海後が同大学大学院(文学部)に進学したのは. 行われる以前と考えられている75。それでは,な. 1926(大正15) 年であり,吉益と同じ年であった。. ぜ海後がCIEとの折衝にあたることとなったので. この年の東京帝国大学大学院入学者数は202人で. あろうか。そこで,以下では次に挙げる二点を見. 71. あり,文学部入学者数はうち60人であった 。専. ていく。第一に,東大附属の発足についての折衝. 門の研究分野こそ異なっていたものの,吉益と海. にあたる以前の海後とCIEとの関係である。第二. 後にとって同じ学部に在籍する同期生の数が60人. に,彼が東大附属創設の許可を得るために行った. であったことを慮ると,彼らがこの頃から面識が. CIEとの連絡の内容である。. あった可能性は十分に考えられる。換言すると,. まず,海後はCIEとの面談以前から,CIE職員. 彼らの関係が双生児研究という着想を得る際の一. と面識があった。海後とCIE職員との最初の接触. 助となっていた可能性があるということである。. は,1945年(昭和20)年,彼が44歳の頃であった。. さらにここで着目したいのは,東大附属が発足. 岸本英夫(1903-1964)が,海後に「日本の教育. したのは1948(昭和23)年のことであったという. が占領軍によって料理されようとしているのに,. ことである。東大附属が発足する数年前から東京. 教育学者は傍観していてよいのかと問題を持ち掛. 大学において双生児研究が行われ,戦後には組織. けてきた76」ことが契機であった。岸本と海後は. 的に行われるようになったという事実より,東大. 学科こそ違ったものの,同期で東京帝国大学を卒. 附属が双生児の入学者を募集することは,東京大. 業した親しい仲間であった。岸本はCIE内では教. 学精神医学教室と脳研究所で行われる研究にとっ. 育のことについても相談を受けていたが,教育の. 27.

(13) 二井 仁美・川尻 采花. ことはよくわからないために困っており,CIEに. か。このことについて,『教育学五十年』で以下. 行って見解を示してきてほしいということで海後. のように述べている。. をCIE教育課員室へ連れて行き,紹介したので あった77。.  経営の方針として二,三の特色について具 体的に私の考え方を示した。その一つとして.  私(海後)は(中略)自由に出入りし,私. 普通の学級の生徒は抽選で入学させ,普通の. を必要とする誰とでも自由に話してよいとい. 公立学校と同じ組成とし,少しも特殊な考慮. うことであった。何回か訪れては私設顧問の. を払ったり選別をしない方針を説明した。第. ような格となり,誰の机の前にでも行って. 二の計画は小学校で学業の遅れている生徒を. 坐って話すことができた。土曜日などは休み. 入学させ,特別学級をつくり,学習を促進さ. なので,課員そろって一緒に外出して見物し. せて普通水準の学業に高める方法の研究をす. たり,中野にあった目黒書店主の住宅に行っ. ると述べた。第三は一卵性双生児を入学させ. 78. て畳の上に坐って何かと話し合ったりした 。. て環境と教育の問題,異なった教育方法を もって教育した場合の学業の成果などを研究. 当時,海後とCIE職員が話し合ったことの一つ. する計画であることを説明した82。. に,修身,日本歴史,地理の停止ついての内容が あった。この指令の発令前に,CIE内では戦時中. 海後がCIEに対して示した三つの特色は,換言. の教科書は全国から全て回収し,製紙会社を通し. すると東大附属の具体的な構想ということであ. て再生紙にするという案が出されていた。これに. る。構想の第一は,基本的に入学者の選抜を学業. 対して海後は,戦時中の教科書を取り上げて処分. 成績によらず抽選によって決定するとしたことで. する必要はなく,それを使わないように指令を下. ある。「テストを受け,それに合格した者だけが. せば十分でないのかと考えを述べた。また,日本. 入ってくる83」ことを許され,「家庭の状況のい. で用いる文字をローマ字に改めるという案が出た. い者を選んで入れ84」るという戦前の師範学校附. ときには,「そのような国字政策はたとえ占領下. 属小学校のような選抜の仕方をしないことで民主. であっても,成功することは困難であるから,今. 教育を行う旨を示したのであった。第二は特別学. 79. のうちにやめるとよいのではないか 」と提案し. 級85を設置することであり,第三は双生児研究を. たことがあった80。このように,海後は終戦直後. 行うことであった。このような計画をCIEに伝え. よりCIE職員と関わりを持ち,友好的な関係を深. ることで「東大附属学校は一般の附属学校とは全. めるとともにCIE職員と重要な事柄について話し. く異なった実験研究学校として構想し86」ている. 合うことができる関係であったのだ。. ことを示したのであった。. しかし,その後は「二十年秋から二十一年の夏. この説明によってCIEは東大附属の在り方に理. にかけてのような親しみのある交際はできなくな. 解を示し,「そのような計画で東大附属が全国の. り,用事があって訪ねても全く事務的な会話に限. 附属学校の改革に寄与できるならば望ましいこと. 81. られるようになっ 」ていった。これは,CIE設. である87」として創設を許可する運びとなった。. 置初期の職員達は,1946(昭和21)年夏頃には殆. 東大附属の創設は「民主教育が進められる際の教. ど帰国してしまい,その上CIE職員の数が急に増. 育実践に寄与できるようにする88」だけでなく,. 加したためであった。. 全国の附属学校の在り方に対し,手本となる役割. 戦後教育改革の最中,附属学校については廃止. も担うと判断されたのであった。. 論が出ていた。そのような状況で,海後はCIEへ. 以上のことから,以下の二点が明らかとなった。. どのような附属学校の構想を伝えたのであろう. 第一に,海後は東大附属創設についてCIE側と面. 28.

(14) 東京大学教育学部附属学校における双生児研究開始の経緯. 談を行う以前から,CIE職員と面識があったこと. はないかという考察に至った。. である。第二に,海後はCIEが構想する日本への. 第三に,日本における双生児研究の先駆者とし. 指導について彼が意見を述べることができるほ. て挙げられる小保内虎夫(1899-1968)は少なく. ど,強い発言力を持っていたことである。. とも1926(大正15)年以前から,谷口虎年(19021963),内村祐之(1897-1980),吉益脩夫(1899-. 終 章. 1974)らも1930年代には双生児研究を行っていた。 そして,東大附属において双生児研究を行うこと. 本研究は,東大附属においてなぜ双生児研究が. となった時期は,日本における双生児研究開始の. 行われることとなったのか,そしてその際,創設. 時期とそう遠くなく,さらに,海後の人脈におけ. 者であった海後宗臣(1901-1987)は学校経営者. る双生児研究との接点という視点で見ると,吉益. としてどのような役割を果たしてきたのかという. と海後は共に1926(大正15)年に東京帝国大学大. ことを検討してきた。その結果,次の三点が明ら. 学院に進学し,接点があった可能性を指摘した。. かとなった。. また,東京大学においては,東大附属創設以前. 第一に,『教育学五十年』をはじめとする海後. から双生児研究が行われており,1945(昭和20). の著作を検討する限り,海後の教育史研究者とし. 年以降,東京大学精神医学教室と脳研究所で組織. ての関心がのちの東大附属における双生児研究に. 的な研究が行われるようになっていたため,東大. 直結する著述を見出すことは困難であるものの,. 附属に双生児を入学させることは,東大附属の中. 彼は東大附属の創設に向けて動き出す以前より,. で教育研究を行うだけでなく,東京大学精神医学. 教育は実践があってこそ研究としても教育として. 教室と脳研究所で行われる研究にとっても研究対. も成立するものであるという考えを持っていたこ. 象を獲得することができるという利点があったと. とを指摘することができた。. 考えられる。そこで,海後は東大附属において双. 第二に,東大附属創設の経緯を追い,東京大学. 生児研究を行うことを着想するに至ったのではな. においては戦前から附属学校を持つ構想があった. いかと考察した。さらに,CIEと海後との関係に. こと,また,戦後は学制改革によって起こった旧. ついては,海後が1945(昭和20)年からCIE職員. 制東京高等学校の解体問題と併せて附属学校を持. と接触するようになっていたこと,また,友好な. つ構想が進められていったことを確認した。さら. 関係を築いており,CIE職員に対して発言力のあ. に,附属学校の創設を考えたときに,GHQが打. る存在であったことを明らかにすることができた。. ち出した日本の民主化に向けた施策の意向を考慮. 以上,本稿では,東大附属創設の背景およびそ. することが重要であったため,その内容にも目を. の際に海後が果たしてきた役割を再検討してき. 向けてきた。ここでは,海後が東大附属創設に深. た。東大附属創設に尽力した海後の姿を追うと,. く携わることとなった経緯についても追い,明ら. 単にCIEを説得するために双生児研究を着想した. かにした。当時,海後は東京大学の教授陣の中で. のではなく,教育についてどのように検証するこ. 年少であったため,彼より立場が上の教授から任. とが真に子どもの教育に還元できるものであるか. される形で東大附属創設に向けて動き始めたので. を考える視点を持っていたとも見受けられる。つ. あった。しかし,ここで着目したいのは,海後が. まり,現実の教育に対する問題意識のもと,附属. のちに語った言葉である。このときの海後の言葉. 学校が持つ実験学校としての意義と可能性を検討. から,東大附属創設に向けて動いたのは決して当. し,東大附属を構想したのであった。. 時の状況から動かざるを得なかったという理由だ. 附属学校の在り方に関しては,現在,改めてそ. けでなく,海後自身が教育実践の場を作ることに. の意義や役割について議論されている。そのよう. 対してある種のモチベーションを持っていたので. な中で,附属学校の意義を問いながら東大附属の. 29.

(15) 二井 仁美・川尻 采花. 創設にあたった海後の構想は,先進的なものであ. 1989,pp.16-17参照) 19 前掲海後,p.254. ると言えよう。. 20 『熊本県立白川学園年報』熊本県立白川学園,1932 年,p.1. 後 註 1 井上英二「日本におけるふたご研究の歴史」遺伝学 普及会編『遺伝――生物の科学――』41巻6号,裳華 房,1987,p.47 2 前掲井上,p.4 3 川崎明「創設当初からの双生児入学と双生児法によ る研究態勢――双生児の教育上の注意も含めて――」 東京大学教育学部附属中・高等学校編『東大附属論集』 第21号,東京大学附属中・高等学校刊,1979,p.14 4 村石幸正「あとがき」東京大学教育学部附属中等教 育学校編『ふたごと教育――双生児研究から見える個 性――』東京大学出版会,2013,p.241 5 北村和夫編「著作目録」海後宗臣『教育勅語成立史 研 究 海 後 宗 臣 著 作 集 』 第10巻, 東 京 書 籍,1981, pp.735-806 6 矢口新「総説――海後教育学の成立と性格」海後宗 臣『教育研究論 海後宗臣著作集』第1巻,東京書籍, 1981,p.581 7 佐藤秀夫「総説――近代学校への歴史的・批判的考 察」海後宗臣『学校論 海後宗臣著作集』第4巻,東 京書籍,1980,p.548 8 寺﨑昌男「 『教育実践研究と附属学校』――解題」海 後宗臣『海後宗臣 教育改革論集―カリキュラム・教 育実践・歴史―』,東京書籍,2018,p.546 9 「東京大学教育学部附属学校における双生児研究に ついて」1955 東京大学教育学部編『東京大学教育学 部紀要』第1巻,東京大学教育学部刊,1956,pp.1-2 10 寺﨑昌男「はしがき」東京大学教育学部附属中・高 等学校編『東大附属論集』第30号,東京大学教育学部 附属中・高等学校刊,1987,p.1 11 海後宗臣『教育学五十年』評論社,1971(『教育研究 論 海後宗臣著作集』第1巻所収,東京書籍,1981) , p.427 12 前掲海後,p.252 13 前掲海後,p.252 14 前掲海後,p.253 15 前掲海後,p.253 16 前掲海後,p.253 17 前掲海後,p.253 18 白川学園では海後が慰問していた当時,園長とその 家族が20名程の園児と生活を共にしており,生活指導 および学業指導,職業指導・作業指導を行っていた(前 掲海後,p.254,熊本県立清水が丘学園編『清水が丘 ――創立80周年記念誌』熊本県立清水が丘学園発行,. 30. 21 前掲海後,p.254 22 前掲海後,p.251 23 吉野作造(1878-1933) 24 前掲海後,p.310 25 前掲海後,pp.311-312参照 26 前掲海後,pp.252-253参照 27 前掲海後,p.325 28 前掲海後,p.373 29 前掲海後,p.373 30 東大附属創設の際,双生児研究開始について東京大 学と文部省はどのような連絡を取っていたのであろう か。この点については,東京大学所蔵「文部省往復」 (1871-1961)を用いて検討した。この資料は東京大学 と文部省との往復文書であり,国から東京大学への指 示,また,東京大学から文部省への報告が綴られてい る。終戦の年である1945(昭和20)年から東大附属発 足までの1948(昭和23)年,さらに,それ以後の年で 目次に「附属学校」と記載のある1950(昭和25)年か ら1953(昭和28)年までの資料を検討した。しかし, 管見の限り,東大附属創設時に双生児研究を開始する こととなった経緯を明らかにすることができる資料を 見出すことはできなかった。 31 東京大学百年史編集委員会編『東京大学百年史』通 史3,東京大学出版会,1986,p.140参照。 『東京大学 百年史』は,1977(昭和52)年の東京大学創立百年記 念事業の一つとして1984(昭和59)年から1987(昭和 62)年にかけて刊行された歴史的資料である。1974(昭 和49)年に百年史編集委員会が組織され,以来10年余 りの歳月を費やして完成された(東京大学文書館 東 京 大 学Webペ ー ジ「 東 京 大 学 百 年 史 」 参 照 <www. u-tokyo.ac.jp/history/03_03_j.html>2017年1月25日閲 覧) 32 前掲東京大学百年史編集委員会編『東京大学百年史』 通史3,p.140 33 前掲東京大学百年史編集委員会編『東京大学百年史』 通史3,p.140 34 前掲東京大学百年史編集委員会編『東京大学百年史』 通史3,p.140 東京大学百年史編集委員会編『東京大学百年史』部 局史1,東京大学出版会,1986,p.1320参照 35 前掲東京高等学校史編集委員会編『東京大学百年史』 通史3,p.211参照 36 前掲東京高等学校史編集委員会編『東京大学百年史』 通史3,p.212 37 前掲東京高等学校史編集委員会編『東京大学百年史』.

(16) 東京大学教育学部附属学校における双生児研究開始の経緯. 通史3,p.212 38 前掲東京高等学校史編集委員会編『東京大学百年史』 通史3,p.212 39 前掲東京大学百年史編集委員会編『東京大学百年史』 部局史1,p.1320 40 藤枝静正『国立大学附属学校の研究――制度史的考 察による「再生」への展望――』風間書房,1996,p.4 参照. 61 前掲遠藤,p.201 62 前掲東京大学教育学部附属中等教育学校編,pp.6-7 参照 63 小保内虎夫(1899-1968) 64 谷口虎年(1902-1963) 65 内村祐之(1897-1980) 66 前掲東京大学教育学部附属中等教育学校編,pp.107108. 41 前掲藤枝,p.4参照. 67 吉益脩夫(1899-1974). 42 前掲東京大学百年史編集委員会編『東京大学百年史』. 68 前掲東京大学教育学部附属中等教育学校編,p.108. 通史3,p.141. 69 内村は1939(昭和14)年に秋元波留夫(1906-2007). 43 前掲藤枝,p.63. と共に「分裂病双生児に於ける非相似性の意義」 (日本. 44 前掲海後,pp.430-431. 精神神経学会編『精神神経学雑誌』43巻,日本精神神. 45 川崎明「附属学校のあり方について――東大附属の. 経学会刊,1939)を発表した。また,本文に記載した. あり方も含めて――」東京大学教育学部附属学校編『東. 通り,1939(昭和14)年にゴットシャルトが行った双. 大 附 属 論 集 』 第10号, 東 京 大 学 附 属 学 校 刊,1968,. 生児合宿に倣い,1942(昭和17)年に双生児合宿を行っ. pp.78-79. た。吉益は1939(昭和14)年に「精神薄弱に於ける一. 46 前掲川崎,pp.78-79. 卵性双生児例」 ( 『精神神経学雑誌』43巻) ,1941(昭和. 47 前掲東京大学百年史編集委員会編『東京大学百年史』. 16)年に「精神病質の遺伝生物学的考察――双生児研. 通史3,p.140参照 48 東京大学教育学部附属中学校・高等学校として法的 に公認されたのは,1951(昭和26)年4月,すなわち 1951(昭和26)年度になってからであった。 前掲東京大学百年史編集委員会編『東京大学百年史』 通史3,p.140参照 49 前掲東京大学百年史編集委員会編『東京大学百年史』 部局史1,p.1320参照 50 前掲寺﨑「はしがき」,p.1 51 海後宗臣「東大附属創立の意味(昭和42.4.24東 大附属における教官の研究会の講演速記)」東京大学教 育学部附属学校編『東大附属論集』第11号,東京大学 教育学部附属学校刊,1969,p.31 52 前掲海後『教育学五十年』,p.425. 究より見たる犯罪の遺伝素質と環境の意義」(日本精神 神経学会編『精神神経学雑誌』45巻,日本精神神経学 会刊,1941)を発表した。 70 大泉溥編『日本心理学者事典』クレス出版,2003, p.1198参照 71 東京大学百年史編集委員会編『東京大学百年史』資 料3,東京大学出版会,1986,p.513参照 72 文脈より,海後と高木貞二創設委員長であると考え られる。 73 前掲海後『教育学五十年』 ,p.431 74 前掲東京大学百年史編集委員会編『東京大学百年史』 通史3,p.141 75 前掲東京大学百年史編集委員会編『東京大学百年史』 通史3,p.141. 53 前掲海後「東大附属創立の意味」,p.32. 76 前掲海後『教育学五十年』 ,p.387. 54 前掲海後「東大附属創立の意味」,p.32. 77 前掲海後『教育学五十年』 ,p.387. 55 前掲海後「東大附属創立の意味」,p.32. 78 前掲海後『教育学五十年』 ,p.388. 56 前掲海後「東大附属創立の意味」,p.32. 79 前掲海後『教育学五十年』 ,pp.389-390. 57 前掲東京大学百年史編集委員会編『東京大学百年史』. 80 前掲海後『教育学五十年』 ,pp.388-390参照. 通史3,p.141 58 川崎明「創設当初からの双生児入学と双生児法によ. 81 前掲海後『教育学五十年』 ,p.392 82 前掲海後『教育学五十年』 ,p.431. る研究態勢――双生児の教育上の注意も含めて――」. 83 前掲藤枝,p.59. 東京大学教育学部附属中・高等学校編『東大附属論集』. 84 前掲海後「東大附属創立の意味」 ,p.33. 第21号,東京大学附属中・高等学校刊,1979,p.14. 85 東大附属は発足当初,普通学級のほかに特別学級を. 59 天羽幸子氏,杉浦祐子氏聞き取り調査。聞き手,川 尻采花。2017年11月14日,場所:天羽幸子氏宅。. 設置していた。生徒の入学選抜は一定地域内の入学志 願者の中から抽選のみによって行われたが,その中か. 60 遠藤利彦「双生児研究の二つの顔――心理学からみ. ら学業成績の上中下の生徒が正常分布するように編成. る『双生児による研究』と『双生児の研究』」東京大学. された学級が普通学級であった。それと同時に,「知能. 教育学部附属中等教育学校編『ふたごと教育――双生. 普通の学業遅進児学級」 , 「知能学力の中等児学級」, 「書. 児研究から見える個性』東京大学出版会,2013,p.201. 記的作業学級」が特別学級として編成されたのであっ. 31.

(17) 二井 仁美・川尻 采花. た。「書記的作業学級」とは,一般学習のほかにタイプ, 速記,文書整理などの書記的作業の学習をさせる学級 である。書記的作業の学習を終えた生徒は「就職した 際に,事務系の職場においてはもちろん,その他の職 場においてもすぐれたものになるはずである」という 仮説を証明するために設けられた学級であった。 前掲東京大学百年史編集委員会編『東京大学百年史』 通史3,p.141参照 前掲東京大学百年史編集委員会編『東京大学百年史』 部局史1,p.1324参照 石田正明「附属学校20年のあゆみ」東京大学教育学 部附属学校編『東大附属論集』第11号,東京大学教育 学部附属学校刊,1969,p.5 86 前掲海後『教育学五十年』,p.431 87 前掲海後『教育学五十年』,p.431 88 前掲海後『教育学五十年』,p.431. 本論文は,二井の指導の下で川尻が執筆した卒 業論文をもとに,川尻が再構成したものである。 (二井 仁美 旭川校教授) (川尻 采花 幕別町役場主事). 32.

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