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19世紀初期における「古楽復興」の歴史的意義 : カッセルの≪マタイ受難曲≫再演をめぐって

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Academic year: 2021

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(1)83. 19世 紀初期 にお ける「古楽復興」 の歴 史的意義 一一カッセルの 《マタイ受難曲》再演をめぐって一一. 有 『. 島. The Historical Signiicance of the``Early Music Revival"in the]Early 19th Century ―一一―Focusing on the Revival of the``Matthauspassion''in Kassel一 ―一一. MISHIMA Kaoru Abstract: The revival of Jo S.IBach's ``Matthauspassion" in 1829 in Leipzig under the direction of Mendelssohn, is regarded as a monumental festivity; the work had been perforlmed under Bach's own direction just one hundred ycars earlier.But also in Kassel,the“. MatthauspassiOn"was five times performed. on the initiative of the Kapelllneister there, Louis Spohr(1784-1859), in Spite of repeated reactionary pressure by the Courto Analyzing and exanlining Spohr's ideas about early music and the activities of the most elite choral society in Kassel, the ``(■. acilienverein", which was directed by Spohr hilnself, we can see. that the revival of the ``Matthaus" was nOt a mere musico― historical event. In other words, looking at the repertoire of the``(■ acilienverein" and early― music elements in Spohr's ``Messe"(Op. 54, 1821), it turns out. that they learned early music under the influence of historicis]圧 l and brought it into Spohr's works in various ways.Thus elite people wcre able to realize that they had gained an understanding of high culture by singing early music together。. る ことがわか る。 そ の象徴 的 なで きご とが メ ンデ ルス. は じめ に. :「 古 楽 復 興 」 へ. の情 熱. 日本 では現在 ,ピ リオ ド楽器 を使用 した「古楽」 コ ンサ ー トは, もはや特別なものではな くなって きてお. ゾ ー ン Felix Mendelssohn(1809-47)に よ る 1829年. の「《マ タイ》再演」であ る。 これは,Jo S.バ ッハ Jo― hann Sebastian Bach(1685-1750)が ライプツ イヒの トマス教会 で 《マ タイ受難曲 MatthauspassiOn》. (BWV. り,聴 衆 を楽 しませてい る。 また多 くのアマチ ュアが. 244,1729)を 上演 した,ち ようど 100年 後 の ことで. 古楽 のグループを組み,み ずか らが演奏 を楽 しんでい. あ った。それは通常 ,音 楽 シーンの 中心 で起 こった記. る。 このことは音楽の様式 や演奏慣習に関する研究 の 大 きな成果であ り,そ れが裾野 を拡げてい ることは間. 念碑的な「祭典」 として音楽史 を彩 るもの として捉 え られる。 しか し 《マ タイ》再演 は,ベ ル リンやライプ. 違 い ない。 これ らの古楽 の聴衆やアマチ ュア演奏家 た. ツイヒのような ドイツの中心的音楽都市 のみで行 われ. ちは,そ れ まで の「クラシ ック」音楽 とは異 なった. ていたわけではなか った。 またバ ッハのみが注 目され. 「クラシック」音楽 に大 い なる好奇心 を もち,そ れ を 体験す ることに喜 びを覚 えてい るのである。彼 らをこ. がちであるが,そ れ以外 の「古楽」 も演奏 され,研 究. のような音楽活動へ と鼓舞す る源 を探 るためにはまず. ような保守的 な中都市 において も同様 であ ったのであ. 一度 ,古 楽 ブームが渡 って きた ヨーロッパ に目を向け. る。. なければならないだろ う。そうす ると,現 在 の古楽 ム ー ヴメ ン トが突如 として現 れたのではな く,実 際 は 19. カッセルの宮廷楽長 シユポア Louis Spohr(1784マタ 1859)が 中心 となって推 し進めたカッセルの 《. 世紀か ら連続 して, しか も形 を変 えなが ら起 こってい. イ》再演は,他 の都市におけるそれと比較すると,規. されていた。それは 19世 紀初期 のカッセル Kasselの.

(2) 甲南女子大学研究紀 要 第 42号. 文学 ・文化編 (2006年 3月. ). 模 にお い て も重 要性 にお い て もさほ ど大 きい もので は. も,批 評家 の ロホ リッツ Johann Friedrich Rochlitz(1769. なか ったか もしれ ない。 しか し,カ ッセルにおいて も. -1842)な どか ら, ヴ ァイオ リ ン演 奏 にお い て は,賞. 古楽復 興運動 が あ り,そ してそれ を進 め よ う とす る音. 賛 されて い るので あ る. 楽 家 の 存 在 が あ った。彼 らは なぜ 過 去 の 音 楽 を「復. ン,ロ ホ リ ッツ,そ して文 学 者 ジ ャ ン・パ ウル Jean. 活」 させ る こ とに,こ の よ うに情 熱 を傾 け て い たの. Paul(1763-1825)な ど と も交遊 関係 もあ り,シ ュ ポ. か。そ して なぜ ,い わゆ る音楽 シ ー ンの 中心都市 で あ. ア 邸 で の「室 内楽 の タ ベ Kammermusiksoire6」. るベ ル リ ンや ライプツ ィヒで はな く,こ の カ ッセ ル に. メ ンデルス ゾ ー ン,マ イヤ ーベ ー ア Giacomo Meyer―. お い て もそれが可 能 で あ ったのか 。. beer(1791-1864),モ シェ レス Ignaz Moscheles(1794. 本稿 では,カ ッセルで行 われた 《マ タイ》再演事情 を,イ ニ シアテ ィヴをとったシュポアの意識,そ して. -1870),パ ガニーニ Nicolδ Paganini(1782-1840),そ. そ の演奏 を行 った合唱協 会 の活動 を通 して探 り,19. 時 第 一 線 の音楽家 たちが 集 っていた。. 世紀前半 の 《マ タイ》再演 について,そ の当時 の脈絡 における歴史的な意義 を考察す ることにする。. 4。. また彼 は ,メ ンデ ルス ゾ ー. には. ,. して クララ ・ ヴ イー ク clala Wieck(1819-96)な ど当 この よ うな街 で育 まれた シュポアはカ ッセルの あ ら ゆる音 楽場面 に登 場 し,音 楽家 の 中心 的存在 と して重 要 な地位 を占めていた。す なわち,宮 廷楽長 と してオ. 1.カ ッセルの宮廷楽長 シュポア. ー ケス トラの指揮 をは じめ ,オ ペ ラを上 演 し,複 数 の 合唱協 会 の監督 をす るな ど当時 の 合唱運動 の一 端 に も. ドイツ中央部 の盆地 にあるカ ッセルは,グ リム 兄弟. 関 わ り,古 楽 に 目を向 け,メ ンデ ルス ゾー ンのマ タイ. が童 話 を収 集 した都市 と して │,音 楽 関係 の 出版 社 ベ. 再 演 に先駆 け て そ の 試 行 を して い た。彼 は ,音 楽 の. ー レンライター社 のお 膝元 と して ,そ して最近 で は 5. 「様 式 史」 にお い て は周縁 的存 在 で あ ったか も しれ な. 年毎 の 国際現代美術展 「 ドクメ ン タ Documenta」 に よ. い が ,カ ッセルの音楽 シー ンで は 中心 的人物 であ った. って よ く知 られて い る。. とい える。 この カ ッセルの宮廷 は シュポアに とって ど. シュポ アは,1822年 に この カ ッセ ルの 宮 廷 楽 長 と. の よ うな音楽活動 の場 であ ったのだろ うか。. して赴任 し,亡 くなる 2年 前 の 1857年 まで 35年 間 に わ た って この一 都市 に留 まる こ とに な った2。 現 在 カ. 2。. 宮廷側 の圧 力. ッセルには「シュポア通 り」 なる もの も存在 し,シ ュ ポアの銅 像 も街 の 中心 に建 ってはい る ものの ,そ の ひ. カ ッセルはヘ ッセ ン=カ ッセル選定侯 国 の首都 で あ. っ そ りと したた た ず まい に気 づ く者 は ほ とん どい な. り, したが って 当地 での音楽活動 も選定侯 の意 向 をい. い。彼 は今 では,ヴ ァイオリン学習者 によって 『ヴア. やがお うで も受 け る こ とにな り,す べ てが彼 の思惑通. イオ リン教程 Violin― Schub』 (1832)の 著者 と しては. りに進 むわけで はなか った。 シュポアが 着任す る直前. 知 られてい るが,今 日そのヴアイオリン曲や室内楽曲. に選 定侯 に就 い たの は ,芸 術 を好 む ヴ ィルヘ ルム wil_. が演奏 されることは少 ない. helm 2世 (1777-1847;. 3。. 彼 はまたヴァイオ リ ン. 在 1821-47)で あ った'。 こ. 協奏曲,そ して交響曲や室内楽曲 もい くつか書 いてい. の ヴ ィルヘ ルム 2世 の 治世下 の 時期 に,シ ュ ポアは宮. るが,そ れ らは一般的 に,同 時代 の作曲家の作品 と比. 廷 劇場 の オペ ラ上演 に力 をそ そ ぎ,1822∼ 32年 に は. 較す ると,「 亜流 ,古 典派 とロマ ン派初期 の過渡期. ウ ェ ー バ ー caJ Maria von Weber(1786-1826)の. ,. 保 守 的」,と い っ た 評 価 が な され て きた (Ricmann. 《魔弾 の射手. 1967: 709; Schnlidt 192 1 : 50; Kilian 1986: 6; Mo―. Der Freischutz》 (1817-20,1821初 演 )を は じめ,《 イェソンダ JessOnda》 (1822,1823初 演)を. ser 1928:6;Blume 1964:34な ど)。. 含 むシュポア 自身 の オペ ラな ど,40も の新 しい オペ. しか し 19世 紀前 半 の ラ イプツ イヒの ゲ ヴ ア ン トハ. ラを上演 した6。 この ように彼 は短期 間の うちに劇場. ウスでの演奏 レパ ー トリー をみ る と,ベ ー トー ヴ ェ ン. Ludwig van Bcethoven(1770-1827)や メ ンデ ル ス ゾ. のオペ ラ上演 を質量 ともに高 め,宮 廷楽団を ヨーロ ッ パで もっとも実力 のあるオーケス トラの一つ にまで育. ー ンな どの作 品 とともにシ ュ ポアの作 品 は,交 響 曲. てていった。. ,. オペ ラ とも,多 く演奏 されてお り,評 価 も高 か ったの. しか しそ う した 中 で ,1830年 以 降 にな る とカ ッセ. で あ る。若 い 頃 は ソ ロの ヴ アイオ リ ン奏者 として ヨー. ル に もフラ ンスの 7月 革命 の波 が押 し寄せ ,市 民 と宮. ー ロ ッパ をめ ぐ り,『 一 般 音 楽新 聞 A′ ′ gθ ∫ ι Jκ θν夕 ノ “ た ′θ ル ルルタ g』 (以 下 『AMZ』 と略 す)に お い て α η. 廷 の 間 の 緊張 が高 まって くる。 1831年 には 1848年 の. J∫. 三 月革 命 の 伏 線 とな る市民 と軍 隊 の 最 初 の 衝 突 が あ.

(3) 三島. 郁 :19世 紀初期 における「古楽復興」の歴史的意義. 85. り,市 民 の 劇 場 へ の 関心 が 高 ま って い た に も関 わ ら. い た。 それ はカ ッセル にお いて も例外 ではな く,1830. ず ,選 定侯 は 1832年 に い つたん 劇場 を閉鎖 し,劇 場. 年 に選 定侯付 きの大蔵書記官 コ ッホ Elias Koch(1789 -1869)が ドイ ツ で 10番 目 の リ ー ダ ー タ ー フ ェ ル. 監督 に宮廷 劇場 にお ける演 目の検 閲や禁止 をさせ るこ. 「カ ッセ ル の リー ダ ー タ ー フ ェ ル Kasselische Licder―. とになる7'。. 宗教音楽 に関 して も,そ の圧力 は同様 であった。 シ ュポアはすでに 1825年 にヘ ンデ ルの オラ トリオ 《メ. tafel」. を設立 した. H)。. この「 リー ダ ー ター フェル」 で. は,教 師 ,商 人 ,そ して手工業者 な どが メ ンバ ー であ カ ツセ ル にはすで に. サ イア Messiah》 (1741)を 自身 が 設立 した「チ ェチ リア協 会 Cacilienverein」 ,「 ヴ イー ガ ン トの ジ ン グア. 1766年 に宮 廷 か ら独 立 した 「音 楽 協 会. カデ ミー Wiegand'sche Singakademie」 ,そ して宮廷 オ. Gesellscha■. ー ケ ス トラによって演奏 し,1826年 に自作 のオラ ト. が 存 在 して い た。 また 1820年 に は ヴ イー ガ ン ト Jo― hann Wiegand(1789-1851)が 音楽 上比較 的 レベ ルの. リオ 《四終 Dic lctzten Dingc》 (1825-26)を 演奏 しよ うと準備 を始 めていた。 しか しヴイルヘ ルム 2世 は. つた (Gudenberg 1958:289)。. 」,1810年 に 「歌唱協 会. ,. Musikalischc―. Sing― institut」. など. 宮廷楽士 を使 って演奏会 をするのであれば,前 もって. 高 い 「 ヴ イ ー ガ ン トの 歌 唱 協 会 Wiegand'sche Gc― つ シュポ アは 1822年 の を設 立 して い る sangverein」. 許可 を願 い出 る必要があ るとし,シ ュポアの上演願 い. カ ッセ ル着任後す ぐに,カ ロ リー ネ ・ フォン・ヘ ッセ. を退けてい る (HOmburg 1956:72)鵬 。 また 1832年 の カッセルの 《マ タイ》初演 の際 には,息 子 のフリー ド. ンシュ タイ ン Caroline von Hcssenstein伯 夫 人家 の 社. ,. )。. リヒ・ヴイルヘ ルム 1世 (1831-66)が 宮廷 ガルニ ソ. 交 の 集 ま りを発 展 させ て ,「 チ ェ チ リア協 会」 を設 立 日 このため ここの メ ンバ ー には した ,貴 族 ,シ ユポ. ン教会やマルティニ ウス教会 での上演 を禁 じ,ま た宮. アに関 わ るカ ッセルの音楽 上 の重要人物が勢揃 い して. 廷歌手や宮廷 オーケス トラの使用 を拒 んだため,シ ュ. い た。 したが つて「チ ェチ リア協 会」 は,芸 術 的 に高. ポアは事前 にオーケス トラで 3回 練習 をしたにもかか. い レベ ル を求 め る点 で 「 リー ダー ター フェル」 とは一. わらず,デ イレッタ ン トの演奏家 とピアノ伴奏 での上. 線 を画 して い た. 演 になって しまった. 9)。. )。. m。. 「チ ェチ リア協 会」 は,19世 紀半 ばか らお こった. ,. シュポア佃1に 共和制 を積極的 に望んでいた発言 はみ. カ トリック教会が 「す さんだ」教 会制度 を立 て直 そ う. られないことか ら,彼 が宗教 曲を音楽上の興味 で上演. とい うチ ェチ リア運動 の名 にちなんで い る。 それ は美. しようと試みていたことがわかる。 しか しそれが芸術 上の配慮がない,反 動的 な選定侯 フリー ドヒリ・ヴイ. 術 ,建 築 ,詩 な どの分野 のみ な らず ,音 楽 にお いては. ルヘ ルム 1世 の治世 と重 ったために,宮 廷佃1か らみれ. 94)を 規範 とす る厳格対位法 を使用 した様 式 を理想 と. ば,こ の態度が,市 民倶1に 立 つ とい うリベ ラルな立場. した. と映 ったので あろう。 また 1846年 以降 シユポアの演 奏旅行 などのための休暇願 い はすべ て拒絶 されること になって しまったЮ. 再発見 され ,教 会 の 合唱団 や ,合 唱協 会 に よつてそれ. )。. パ レス トリー ナ Giovanni Pierluigi da Palestrina(1525-. 5)。. またそ れ に よって 15∼ 16世 紀 の 古 い 音 楽 が. らの作 品が歌 われ るこ とにな り,古 楽 の復 興 を起 こす 契機 の一 つ に もな ったので あ る。 むろん「チ ェチ リア 協 会」 自体 は宗教作 品 を演奏す る こ とも多 いが ,教 会. 3。. カツセルの「チェチリア協会」. とは直接 の 関係 が な く,そ れはむ しろ音楽的理 由か ら であ った。. 3.1.カ ツセルの合唱協 会 とチ ェチ リア運動 この よ うに,シ ュ ポアが 活動 して い た時期 の カ ッセ. 3.2。. 「チ ェチ リア協 会」 の地位 とレパ ー トリー. ルは,宮 廷 と市民 の対 立 の最 中 にあ り,当 の シ ュ ポア. シュポ アが創 立 した カ ッセルの 「チ ェチ リア協 会」. も宮廷 に仕 えなが ら,思 想 的 には宮廷側 には付 く訳 で. は ,い ろい ろな点 でその他 の 合唱協 会 とは趣 を異 に し. はな く,そ のため に宮廷傾1か らの圧 力 もあ った。 しか しシ ュ ポアの活動 は宮廷 内 に収 まる もので はな く,ソ. て い る。 まず メ ンバ ー構 成 で あ る。 (資 料 1)を 参 照 された い 固。 これ をみ る と,そ の メ ンバ ー は市民 とい. ロや個 人的 なサ ー クル活動 ,そ して合唱協 会 の指揮 も. って もか な り上層部 で あ り,ま た宮廷 関係者 ,役 人 な. して い た。. ど貴族 も混 じってい るこ とが わか る。 またハ ウプ トマ. 当時 ドイツの各都市 で は市民 の勃興 とともに次 々 に. ン MOritz Hauptmann(1792-1868), ク ル シ ュマ ン Karl. リー ダ ー タ ー フェル Liedertafelや ゲザ ン グ フ ェ ラ イ. F五 edrich. Curschmann(1805-41), デ イ トフ ル ト Franz. ン Gesangvereinな どの 合 唱協 会 が次 々 に創 立 され て. von Ditfu五. h(1801-80)な. どカ ッセ ルの プ ロ の 音 楽 家.

(4) 文学 ・文化編 (2006年 3月. や 市 の重要 人物 も入 っている。. ). また 彼 は カ ッセ ル に赴 任 す る 直 前 の 1820年 に テ イボ. また (資 料 2)は シ ュ ポ ア が 「 回状」 で 発 表 した. ー Anton F五 edrich Justus Thibaut(1772-1840)を 訪 ね. 「チ ェチ リア協 会」 設立声 明 に添付 され た規 約 案 の一 部 であ る。 ここで シュポアが 求 めて い るのは,音 楽文. てい る。 この後そ れ に啓発 され 《ミサ 曲》 (1821)を 書 いてい ることか ら,彼 か らの影響が大 きか ったこと. 化 の 向 上 ,メ ンバ ーの 地位 の 確 保 ,慈 善 ,「 教 養 と慈. が推測 で きる. 善 Jと い う教養市民 の ステー タスであ る。 と りわけ シ. デルベ ル クの法律家で,ア マチュア音楽家であ った。. ュ ポアが ,メ ンバー以 外 を内部 にい れ るこ とを極度 に. そ こで彼の主催する「古楽の集 まり」 において,シ ュ. 嫌 って お り,こ の協 会 の排他性 を強 く主張 して いる こ. ポアは イタリアの古 い宗教声楽作品 を知 ったので あ るド。 テ ィボーはアマチュアの合唱団をもち, もっぱ. とがみ て とれる。 また 「チ ェチ リア協 会」 の レパ ー トリー (資 料 3). (回. 想録 H:96)。 テ イボ ー は,ハ イ. らル ネ ッサ ンスのポ リフォニー作品を演奏 し, ドイツ. をみ る ことにす る。 これ を見 る と,カ ッセルの ハ ウプ. で古楽復興運動 を推 し進 めていた。彼は後 に『音楽の. トマ ン や シ ュ ポ ア 自 身 の 《ミサ 曲 Messe》 (op.54,. 純粋性 につい て もber Reinheit der TOnkunst』. 1621)な どの作 品 ,同 時代 の メンデル スゾー ン,ヘ ン. を出版 し,歴 史主義 ,そ して後のチ ェチ リア主義 に傾. デル Georg Friedrich Handel(1685-1759)の オラ トリ. 倒 してい る。. オ,バ ッハのモテ トや 《マ タイ受難曲》などのバロ ッ ク期の作品がある。そしてとりわけ注目したいのが ,. そ れ ぞ れ が 1回 ず つ の 上 演 で あ る が ,ア レ グ リ Gre― gorio Allegri(c。. 1588-1652),. ドウラ ンテ Francesco Du―. rante(1684-1755), ロ ツテ イ Antonio Lotti(c。. 1667-. 1740),ス カ ル ラ ッ テ イ Alessanndro Scarlatti(16601725), 力. 1リ. ッシ ミ Giacomo Carrisimi(1605-74), パ. (1824). この ように古楽に傾倒 していったシュポアは,テ ィ ボーの影響 を受け,音 楽 は歴史とともに発展 し,古 い ものは発展段階の途中にあ ったとい う歴史主義 を反映 させ た考 え方 をもってお りり,「 古 い イタリアの声楽 作品 はある部分 モ ノ トーンである」 とい う発言 にもそ れが現 れている. (回. 想録. H:96)。 さらに「今 の時. 代 の要求 に合 った純粋な声楽音楽 を,歌 唱協会のため. レス トリ ー ナ な どの 主 に イ タ リア の 16∼ 18世 紀 前 半. に か く こ と が 望 ま れ る」 と 述 べ て い る (AMz,. の 宗教 作 品 を上演 で あ る 。. 1821。 12.5。. 一 方 「 ヴ イー ガ ン トの ジ ン グア カデ ミー」 の 1822. ,Nr.49,Sp.817-820)。 そ こには,古 い宗教. 作品 をそのまま使用す るのではな く,新 しく味付 け し. ∼48年 の レパ ー トリー は ,ヘ ンデ ルの オ ラ トリオ を. たかたちで新 たに作品を創作 しようとい う意図がみ ら. この 間 10回 上 演 して い る以 外 は,メ ンデ ル ス ゾ ー. れるのである。それを反映 させて作曲 したのが,彼 自. ン,バ ッハ ,モ ー ッ ァル ト wOlfgang Amadeus Mozart. 身の 《ミサ 曲》 である。. (1752-1791)な どの 作 曲家 と して 名 は あ るが ,比 較 的新 しい作 品 で あ る。 また 「 リー ダー ター フェル」 で. 4.シ ュポアの 《ミサ 曲》. は,モ ー ツ アル ト,ベ ー トー ヴ ェ ン,ケ ル ビー ニ Ma―. (op.54,1821)の 特徴. ria Luigi Chcrubini(1760-1842)も. し tる が , そオ み らオ. 以 外 は現在 もはやその名 を知 られぬ 作 曲家た ちの作 品 で あ る口。 この よ うに二 つ の 合 唱協 会 に は,「 チ ェチ リア協 会」 にあ った ような イタリアの古楽作 品 は見当. この作 品 には,シ ュ ポアが 傾倒 して い たモ ー ッ ァル トの作 品Ю,そ してサ ン ク ト・ペ テ ル ブル クで 体験 し た ロ シア正 教 の典礼音 楽 の 影響 が 多少 み られ る創 し. た らな い こ とが ,「 チ ェチ リア協 会」 が他 の 合 唱協 会. か し注 目すべ きは,ル ネサ ンス音楽 の影響 で あ ろ う。. と大 き く異 なる点であ る。 それは指揮 者 の シュポアの. シユポ アは 『AMZ』 に この 曲 の 成 立 に 関 して記 事 を. 選択 した レパー トリー であ った。. 載 せ て い る。. )。. しか しシ ュ ポ アが 古 い レパ ー トリー を選択 した の は ,「 チ ェチ リア運 動」 のみ にその理 由が あ るの で は. この 曲 は二 つ の五 声 合唱体 と,― 中略 -5つ の ソ. な い。実 は シュポ アは ,1816年 の イタ リアヘ の 演 奏. ロ声部 ,つ ま り二 人 の ソプラノ,ア ル ト,テ ノー. 旅行 の 際 にわ ざわ ざ「 ミゼ レー レ miserere」 の 演奏 さ. ル,バ スの ため に書 い た。 わた しがそれ を五 声 で. れ る受難週 の期 間 に ローマ に滞在 し,ロ ーマ の システ. 書 い たの は,四 声 では, と りわけ低音 にお い て和. イー ナ礼拝堂 を訪 れ ,そ の際 にア レグリの 《ミゼ レー. 声 的 に十 分 で な い ことがあ るか らであ る。 ―後略. レ miserere》 や マ ルチ ェ ッロ Benedetto Marcello(1686. ― (AMZ 1821.12.5。. -1739)な どの ア ・ カペ ラ声楽作 品 を経験 して い た。. : Nr。. ,49 pp.817-820)22.

(5) 三島. 郁 :19世 紀初期 における「古楽復興」の歴史的意義. シュポアが まず,五 声部 であることの必 要性 や声部 ごとの配分な どに,事 細 かに指示 を行 っていることに. 87. に ベ ル リ ン 出 身 の 作 曲 家 ク ル シ ュ マ ン Friedrich Curschmann(1805-41)や ,バ リ トン歌 手 の ハ ウザ ー. 注 目したい。 この曲は一つのソロ群 (ソ プラノニ声 アル ト,テ ノール,バ ス),二 つ の 5声 の合唱群 ,す. Franz Hauser(1794-1870)に ,ベ ル リ ンで 《マ タイ》. なわち小編成 の第一合唱群 と大編成 の第二合唱群 の三 つのグルー プによって演奏 される無伴奏ア・カペ ラの. シ ュポ アは 1850年 の バ ッハ協 会 の創 立 メ ンバ ー の一. ,. 合唱曲である。 この作品 にみ られる古楽的 な影響 の一 つ は,「 チ ェチ リア協会」 の レパー トリー に もある ロ. の 楽譜 を入手 させ て い る (Homburg 1956:60)。. また. 人 で あ る。 しか しまたハ ウザ ー ,後 にライプツ イヒの トマ ス教会 の カ ン トルにな リバ ッハ 全集刊行 に も大 き く関 わ ったハ ウプ トマ ン,そ して と りわけ フ オル ケ ル. ッテ イの 《クルチ フ ィクス cruciix》 である。 この作. Johann Nikolaus Forkel(1749-1818)の 弟子 リュー ダ. 品 は 16世 紀末 にヴェネツイアで発展 した複合唱形式 で書 かれてお り,そ の形態 と対位法 ・和声法 において. ー Friedrich Ludwig August Lueder(1781-?)が. 2"。 またシュ ポアが 《ミサ 曲》 は類似点 をもってい る ー ローマで聴 いたアレグリの 《ミゼ レ レ》ふ うの旋律. , カツ. セルの芸術サー クルや 「チェチ リア協会」 と密接 に関 わってバ ッハの作品 をそ こに もち こみ,カ ッセルの音 楽家 たちはそれを価値あるもの として研究 し,扱 った. も,〈 アニ ュス ・デ イ〉の 中 に感 じられ る 。 またバ. ことも同様 に重要であ る。. ッハの 《モ テ ト》 にも,複 合唱形式や五声部 の ものが 2',さ らに したはずで あ る し. シュポ アは「カ ッセ ル は芸術 の シベ リアで あ る」 (Homburg 1956:73)と 嘆いていた。 シュポアもバ ッ. 16分 音符 な どの小 さい 音 価 が連 続 す る器 楽 的 な音 の. ハ協会 に次 のように述べ てい る。. 2囀. あ り,当 然 それ も意識. ,. 動 きな ど,バ ッハ に も特徴 的 な音型 か らの影響 もみ ら シ ュポアは この よ うに音楽 上で は「過 去 の遺産」 か. バ ッハ の 《パルテ イー タ partita》 を「加筆」 な し に出版すべ きだ, しか し合唱 は ピアノ版が必要な. らの影響 を随所 にち りばめ て い たが ,「 hosanna(シ ュ. ときもあ り,そ れを付 けることも望 ましい。 しか. ポアの 《ミサ 曲》にお い ては osianna)in excelsis」 の 歌詞 の反復 をしない など,典 礼文 よりも音楽 を重要視. し協会がそれに責任 を負 うことはない。 いかなる 付加 もな くバ ッハの声楽作品 を図書館 に置 くこと. したと考 えられる 。 シュポアがテキス トよりも音楽. が重要 だと思 つた。 (Homburg 1956:71). れ る20。. 2刀. を第一に考 え,と りわけ「宗教曲の雰囲気」 を出すた めに,古 楽 の要素 を,す なわちローマやヴェネツィア のポ リフォニー作品 に現 れる規範 を求 めたことの現 れ. したが つてハ ウプ トマ は ピアノンとハ ウザ ー,そ し て リュー ダーな くしてはバ ッハが熱心 に研究 される こ. であ ろ う。. ともなかったが,合 唱やオーケス トラを操れるシュポ. シュポアの作品 には この ような古楽の影響 を受けた とい う素地があ り,ま たそれ らの レパー トリー を「チ. アがい なければ,実 際の上演 にまで持 ち込 まれ得なか. ェチ リア協会」で歌わせ る,と い う土台があ った。そ. なものではなかったのである。. れか らマ タイ上演が始 まるのである。. また 2回 日以降の上演 の際 に何 の楽器 を通奏低音 に 使 ったかは明示 されてお らず,チ ェンバロを使用 した. 5。. 《マ タイ受難曲》 の上演 をめ ぐって. ったことを考 えれば,シ ュポアの果 た した役割 も小 さ. 可能性 は少 ない。《マ タイ》 を含めたバ ッハ の作 品 の 上演 におけるオリジナル楽器 の使用 やその是非が問わ. マタイ受難 カッセルにおける 1832年 のバ ッハの 《 曲》の再演は,そ れほど知られてはいないし,ま たそ. れるのは,少 し後 になってか らで,カ ッセルで も 《マ タイ》上演 に関わったハ ウザ ーは ドレスデ ンでの 《マ. しか しシュポア. は 自 ら 《マ タイ》 の楽譜 を手 を尽 くして入手 し,「 チ. タイ》上演の際にチ ェンバ ロ使用 を非難 してい る (小 林 1984:34)。 シユポアは比較的早 い時期 か ら,シ ュ. ェチ リア協会」 において 1832年 か ら 19年 間に渡 って. ポアな りに記譜や楽器 に対 して「本来 のかたち」 を守. 5回 も上演 してい る. ろ うとい う意識 があ り,ピ アノの使用 にも難色 を示 し ていた。楽譜 を「改編」 しようとす る動 きについては. の意義 もあまりない とされてい る2'。. 2"。. しか し上述 した よ うに,30年 代 は宮廷 の市民佃1に 対す る軋蝶 が大 きく,何 回 もい ろい ろな方法で 《マ タ. 抵抗 し,バ ッハ の作品 をオリジナルのかたちで忠実 に. イ》上演は阻まれてい る30。 シュポアはハ ウプ トマ ンとと もに,1823∼ 29年 頃. 守 ろ うとするシュポアの態度がみ られるのである。.

(6) 文学 ・文化編 (2006年 3月. ). パ ー トリーや会員の地位における他 の合唱協会 との差. おわりに 三カッセルの 《マタイ》上演の意味. やその排他性が,「 教養」 を欲する人々に とって有効 に働 いた。その ような中で市民 の中で も高 い教養 を欲. シュポアは古楽 の 宗教 曲を「宗教 的気分」 を起 こ さ. す る者 たちが,19世 紀前半 の,ま さに社会が劇 的 に. せ る音楽 と して位 置 づ けた。す なわ ちシュ ポアは,対. 宮廷 か ら市民社会へ と移行 して い く中で,「 古楽」 を. 位法 を技法 として ,そ してそれ ら しい音型 を 自分 の作. 歌 う際にその「教養」 をまさにかたちとして実感 した. 品 に取 り入れては い るが , ル ネサ ンス時代 にカ トリッ. はずである。すなわち,音 楽史 を歴史主義的 に捉 える. ク教会側 が 求 めていた対位法 を主 と した ,例 えばパ レ. ことも,音 楽の 中で具体的 に感 じ取 っていたと考 えら. ス トリー ナにお ける よ うな作 曲技 法 を主 眼 に置 い て い. れ得 る。 またその ことはシュポアの存在が重要な鍵 を. たわけではない。 これは しか しシ ュポア個 人のみで は. 握 っていたカッセルにおいて特別であ ったわけではな. な く,当 時 の宗教作 品 の 創作や上演 の あ りかた とも一 劇 致 して い る 。 この 時代 に「発 見 され た」古 楽作 品が. い。他 の ドイツの都市 において も同様 であ ったはずで ある。そ の ようにみて くる と,現 在 にお い て もまた. 主 に宗教作 品 で あ った こ とか ら,当 時 の 人 々 に とつて. 「古楽」 ムー ヴメ ン トなどが純粋 に音楽上 の ものだけ. は古 楽 イ コール宗教作 品 とい うイ メー ジ もあ り,古 楽. ではな く,そ こにある音楽内外 の諸要素に よって動 い. は作 曲家 が ,先 輩音楽家 の音楽 を学習 した様式 や形式. てい る と考 え られるのである。19世 紀当時 の他 の都. を 自分 の 作 品 に 要素 と して使 用す る に留 まるの で な. 市 の状況 も諸要素によって動 いてい ると考 えられるの. く,そ れは宗教 的気分 を演 出す る重 要 な記 号 であ り. で あ る。 19世 紀 当時 の 他 の 都市 の 状 況 も射程 に い. また作 曲家 たち も自らをそ うい う気分 に させ たのだ。. れ, 日本における現状 とも比較 しなが ら今後 も考察 を. す なわ ちそれは信者 自 らの 内側 か ら起 こる よ うな,あ. 深 めたい。. ,. らゆる宗教 に普遍 な敬虔 な感情 を聴衆 に起 こ させ る要 素 と して効果 を発 揮 して い たので あ る。 そ してそれ は 歴 史主義 の 延 長 上 に もあ り,だ か ら こ そ ,必 ず しも 「昔通 り」 の 形式 や 様 式 に則 って作 曲 したわ けで は な い 。 シュポアは そ の ような 自身 の 歴 史主義 的音楽観 に. )王. 1)「 グ リム 兄 弟 博 物 館」 の 隣 に「 シ ュ ポ ア 協 会」 が あ る。. 2)そ. れ まで は 彼 は,ゴ ー タな どい くつ か の 都 市 で す で. に宮 廷楽長 な どの地 位 を もって い た。. 沿 って ,チ ェチ リア協 会 で ル ネサ ンスや バ ロ ックの 合. 3)教 育者 と して も活 躍 し,1836年 か らは ラ イプ ツ イヒ. 唱作 品 を歌 わせ ,み ずか らの 曲に はその よ うな古楽的. の ゲ ヴ ァ ン トハ ウスの コ ンサ ー トマ ス ター と して活躍. 要素 を取 り入れた。そ して 《マ タイ》上演 に際 して は,カ ッセルにおいて も,シ ュポアとその他 の トップ の音楽家 たちが,真 剣 に,情 熱 をもって,取 り組み. ,. した ダー ヴ ィッ ド Ferdinand Da宙. d(1810-1873)な ど重. 要 な弟 子 も輩 出 して い る。. 4)ロ. ホ リッツは,『 AMZ』. (1804。. 12.26; Nr。. 13; Sp.. 201)に お い て 「今 までの ヴ ァイオ リ ン奏 者 で 最 も刺 激. 度重なる反動的な宮廷 の圧力にもかかわ らず,5回 の. 的 な喜 び を提 供 して くれ た。 ― 中略 ―真 の 芸 術 家 で あ. 上演 を呆 た してい る。. る。 」 と述 べ て い る。 この 他 多数 の 賞 賛 が 『AMZ』 の 評. その ようなシュポアの古楽 に対す る態度 をみてい く と,《 マ タイ》再演 を,メ ンデルスゾー ン とい う大 人 物 が成 し遂げた音楽史上の偉業であ り,単 に現代 か ら みた連続 した音楽史の 中の一 コマ として捉 えることが 難 しくなる。「バ ッハの再発見」 とい う 19世 紀音楽史 の重大な事件にとって意味があるか どうか とい う視点 か ら考 えれば,カ ッセルにおける 《マ タイ》再演 の意 義 は小 さいのか もしれない。けれ ども上のような事実 を鑑みると,今 まで考 えられてきた音楽史 とは別の角 度 で 《マ タイ》再演 の事実 を提 える必 要があ るだろ う。 す なわちそれは,シ ュ ポアが イニ シアテ イヴを と り,カ ッセルで最 も実力 の高 い合唱協会 に古楽 を歌わ せ,育 てた中で起 きたで きごとで もある。 またその レ. に掲 載 されて い る。. 5)選 定 侯 夫 人 も社 交 サ ー クル を開 き,ヘ. ッセ ンの 貴 族. や 市民 の_L層 部 は これ に参加 して い た。. 6)ヴ ェーバ ーの 《魔弾 の射手》は 51回 ,. ロ ッシーニ. Gio―. acchino Rossini(1792-1868)の 《セ ヴ ィリアの理 髪 師》 (1816初 演 )は 39回 ,ボ イ エ ル デ ュ ー Fran9oiS― Ad五 en Boicldicu(1775-1834)の 《パ リの ジ ャ ン Jean a Pa五 s》 (1812初 演 )は 30回 sonda》. 7)と. ,シ ュ ポ ア の 《イ ェ ソ ン ダ Jes―. は 22回 で あ つた。. りわけ ヴ ァー グナ ー Richard Wagner(1813-83)の. 作 品 は上 演が許可 され ない こ とが 多 く,ま た助 成 金 も 6 万 ター ラー か ら 3.5万 ター ラー に縮小 され た。. 8)そ. もそ も教 会改 革 の 行 わ れ た ヘ ッセ ンで は ,カ トリ. ックの 教 皇 史 上 主 義 に関連 す る ものが す べ て 禁止 され てお り,教 会 で の ラテ ン語 の 歌 唱 や ,ま た新 教 の 教 会 にお け る オ ラ トリオの 上演 も,真 の 教 会音 楽 で は な い と言 う理 由か ら禁 止 されて い た。.

(7) 三島. 郁 :19世 紀 初期 にお ける 「古楽復興」 の歴 史的意義. 9)オ. ラ トリオの上 演 も,慈 善 目的で大 きな収入源 であ る場合 にか ぎり,許 されてお り,演 奏 の収益 も コ レラ 患者 のチ ャリテ イー基金で宮廷の厚 生 委員会 に納 めな ければならなかった。. 10)1863年 に諸 国民戦争 の 50周 年記念 の 日に政治的動乱 は終結 の 日を迎 え,1866年 プ ロ イセ ン軍が カ ッセルに 入 り,選 定侯 は捕虜 としてプラハ に連 行 され,1875年 死去 し,ヘ ッセ ン=カ ッセル選定侯国は消滅 した。 11)ラ イプ ツ ィヒの 合唱協 会 につ い て は (三 島 2005) を参照。. 12)1835年 か らは「ヴ ィー ガ ン トの ジ ン グア カデ ミー Wicgand'sche Singakademie」. と改称 した。. 13)シ ュ ポアはカ ッセルに来 る直前 に劇場監督 を して い た フランクフル ト・ア ム・マ イ ンで シェルブ レ JOhann. 89. して きた合唱協 会 の演奏 な どに も触 れてお り,辛 国の 批評や実践問題 につい てまで述 べ て い る。そ して 1822 年 にカ ッセルに着任 した直後 に「チ ェチ リア協 会」 を 設立 して い ることか らも,彼 が以 前 か らその ような構 想 をもっていたことが窺える。. 23)こ れはヴェネツ イアのサ ン 0マ ルコ大聖堂 の建築構 造 と関 わ りの ある もので,教 会 の三 階 の 回廊部分 は左 右 二 つ に分 かれてお り,器 楽群 と合唱群 はそ の三 カ所 か ら演 奏す るのである。つ ま り音楽 は常 に二 つ のセ ク シ ョンの合奏群 によって演奏 され,そ れは一階で聴 く 者 に,大 きな効果 を与 えるのである。 シュポアの ミサ 曲 は各五声が 二 つ あ り,彼 が これ を意識 して い た こ と は まちが い な い。 また彼 は この 曲以外 に も,全 4曲. Nepomuk Schelble(1789-1837)が 「チ ェチ リア協 会」. 《複弦楽 四重奏 曲》,《 交響 曲第 7番 》,そ して 《ピ ア ノ 連弾伴奏付 きテ ノールのための歌 曲》にお いて も,器. を設立 して い るの をみてお り,そ れに触発 された とこ ろ もあ るだろ う。 また「チ ェチ リア」 とは,音 楽 の 守. 楽 ではあるが この複合奏 の形式 を使用 してい る。〈グロ リア〉の 22-25小 節や 〈アニ ュス・デ イ〉の 9-11小 節. 護聖人の名で,5世 紀後半 の ローマ教会 の処女殉教者で. にお い て,低 声部か ら高声部 ヘ ポ リフォニ ックに徐 々. あ り,500年 頃の殉教 の行動が教化的な伝説 になった人. に声部が重なってい く箇所 は,9声 部 のために書かれた ロ ッテ イの 《クルチ フイクス》 の書法 の影響 を受 けて. 物 である。 14)し か しこの「チェチ リア協会」 も 1857年 には「ジ ン グアカデ ミー」 と合併 し,「 カ ッセル合唱協 会 Kasseler になる。1848年 の革命 以 後 には,「 チ ェ チ リア協 会」 で さえ,酒 興が主 目的 と化 しその体 質 も. Gcsangverein」. い る。 24)〈 アニュス ・デイ〉H-12小 節 の旋律線 の動 き etc。. 25)バ ッハ のモテ トの うち 《主 に向か って新 しき歌 を歌 え singct dem Henn ein neues Lied》. 変化 し,ま た男声合唱協会 の興隆 で深刻 な男声 不足 に. (BWV 225),《 聖霊 は わ れ らの 弱 き を助 け た も う Der Geist hili unsrer. 悩 まされた。. Schmachheit auf》 (BWV 226),《 恐 れるなかれ,わ れ 汝. 15)16世 紀 の トレン ト公会議 にお い て も,理 想 とされた 教会音楽 は,パ レス トリー ナのポ リフォニー作 品 であ り,そ こ に極端 な跳躍進行 や「悪魔 的 な」半音 階進行 など世俗性 は一切あ ってはならなかった。 16)こ れは筆者が シュポア協 会 の資料 と BrOesikeの 論文 を参照 して作成 した ものである (資 料 2)(資 料 3)に つい て も同様である。 またこれは 1826年 ,す なわち結 成の 4年 後 の ものである。 17)そ れ らの名前 は団員 または,そ れ以外 の 当時 の合唱 曲の作 曲家であろう。 18)こ こ にはゲ ー テ,テ ィー クな どの文学者や シューマ ンやメ ンデルスゾー ンなどの音楽家な どが集 った。. 19)実 際 シュポアは 《交響 曲第 6番「歴史的交響曲 Histori―. とともにあ り Fruchte dich nicht》 イ エ ス ,来 れ. (BWV 228),《 来れ. ,. Komm,Jesu,komm》 (BWV 229)は 複 合. 唱 形 式 で,そ して 《イ エ ス は 我 が 喜 び Jesu,meine Freudc》 (BWV 227)は 5声 部 で書かれてい る。. 26)シ ュ ポ アが は じめ て バ ッハ の 楽譜 を手 に い れ たの は,1804年 か ら 1805年 にかけてシヒ トJohann Gottfried Schicht(1753-1823)を 通 しての 《2声 の イ ンヴ ェ ンシ ョン》 (Bwv 772-786)と 《3声 の イ ンヴ ェ ンシ ョン》 (BWV 787-801)で あ った。 また 《ミサ曲》作 曲時 の 1821 年 には,バ ッハ の 《マ タイ受難 曲》 は まだ上演 は して い ないが,少 な くとも 《モテ ト》 の 楽譜 も所有 して い の 6小 節以降の「Ch五 ste たことは明 らかである。〈キリエ 〉. 116,1839)を 書 いてお り,こ の. にお け る 4度 音程 の 反復 (e_a_d― g)と ,そ の gが 下行する際 の fが 上行時 に isに 変化す る転調 は典. 全 4楽 章 は,時 代順 に様式 をなぞ ってお り,そ の思想. 型的なバ ロ ック音型 である。そ の よ うな箇所 は各 曲 の. sche Symphonie」 》 (op。. を顕著 にあ らわす興味深 い作品である。. cleison」. 随所 にみ られる。. 20)〈 サ ンク トゥス〉の 14小 節以 降 に,モ ー ッ ァル トの. 27)ま たオラ トリオ 《四終》にい ては,イ エ スの レチ タ. 《ア ヴ ェ・ヴ ェ ー ル ム ・コ ル プ ス Avc verum corpus》 (1791)と 類似点がある。 またシュポアは「モーッァル トの 《レクイエ ム》 を,も っと も価値 が あ る教会音楽. テ イー ヴォをテノールの ソ ロで書 いてお り,そ れ に対 しロホ リッツは,人 間化 で きない イエ スは男声合唱 で. である」 としている。 [回 想録 I:96] 21)〈 アニ ュス・デイ〉の 冒頭部分 の第二合唱群 の厚 みの ある低音 を基調 とす る合唱 は,ロ シア正 教 の典礼音楽 の朗唱部分 を彿彿 とさせ る箇所 である。シュポアが 1802 年 にサ ンク トペ テルベ ル ク演奏旅行 に行 った際 に,そ こで典礼音楽 を聴 い たはず であった。 22)こ の記事 には,1810年 にシュ ポアが指揮 ・監督 を し た ドイッでは じめて行 われた音楽祭 な どの各地 で見聞. 歌 わせ るべ きであると意見 を述べ てい る。. 28)カ ッセル上 演 の意義が ない とされる理 由の一 つ は. ,. シュポアの 《マ タイ》上演が 音楽 上 で はな く,政 治的 イデオ ロギ ーの 問題 として位置 づ け られて い ることで ある。実際選定侯 は,上 演 の担 い手 に予 定 されて い た 音楽家 の 中に,共 和主義者 た いた とい う疑念 か ら 《マ タイ》上演 を阻んだ。つ ま り 《マ タイ》上演 をバ ッハ の音楽理解 と人々へ の その よ うな芸術 の啓蒙 とい う よ りも,宮 廷 に対す る反抗 として使 った と考 えたのであ.

(8) 文学 。文化編 (2006年 3月. 甲南女子 大学研究紀要第 42け. 90. るcし か しシユポアが政治的 に 《マ タイ》 を使 ったか どうかは別 として,逆 にそれ を余儀 な くさせ た状況が. ). 号 53-63頁 。 一一一 - 2001『 鍵盤上 を飛遊す る discr6tionと フアンタ ジーーJo J。 フローベ ルガーのチェンバロ曲にみ られる表. あ ったことが_L述 の例か らり1ら かである。. 29)1832年 ,1833年 ,1836年 ,1842年 ,1851年 の 5. 現装 置―』博 士 (文 学)学 位取得論 文 (大 阪大学大学 院文学研究科 )。. 回。. 一一一 - 1997『 ル イ・シュポア作 品論 一西 洋音 楽 史再 構築 にむけて 一』修 士 (文 学 )学 位取得論文 (大 阪大. 30)選 定侯 は L演 の担 い手 である音楽家の中に共和主義 者が い るのではないか とい う疑念か ら,《 マ タイ》上演 を阻んだとい う (小 林 1984:33)3. 学大学院文学研究科 )c. 31)メ ンデルスゾー ンが コンサ ー トホ ールでの 上演 で, 宗教的気分 を起 こ させ ることに成功 したの もそ の例 の. 一一一 -. 1993『 19世 紀前 半の ライプツ イヒにおける市 民社 会におけ る 計楽受容』修士 (教 育学)学 位取得論 文 (東 京学芸大学大学院教育学研 究科)。. 一つである。. Hans Joachim卜40SER 1968 G`sε ttjε 力r`グ. Friedrich BLUME 1964 1シ θε力. jξ jた 7g`5ε 力 力r`′ ″ E′ ′ rハ イ ι ι ∫ 7グ ピ. θ′ グαrs′ ノ′77gθ ′.Kasscl: Bttrenrcitcr. こ “ 7 卜jSrル ′ 7 Kass`′ こ 卜lonika BROESIKE 1980 Wctr′ frカ ピC力 σr`′ ′. 1930,1928。. tat PaderbOrn.) (`. θg′ ″ α′わ′ j′ j(`. `ρ. ` わ .New. JrJ/Pr/2Z″ 7グ. lago. 楽 』 東 京 三東京 書 籍 。 「夕s,た 。Kas―. j′. ア j′ イ lタ グピr′ ″rど′たι gグ′rM(lrr/7α ι ギ ραS―. `rル. Sel: Barenrciter.. (ヽ. И夕sjた ′ Fricdrich SCHMIDT 1912 Dα s ′. `rro Rcgcnsburg: Gustav Bossc Vcr―. G`S`〃. S(ヽ. たび′L`lir7こ jg`, ル7 レ rJ77″ r【 iθ. salza: Hermann Beyer&Sё. Wolff von GUDENBERG und Eberhard FREIHERR 1958 3′ ― jrハ. ). jた 1グ Peter RUMⅣ IELHOLLER 1989 Rθ ″7α ′′. ersity Press. `″. ノ 9。. ,. 1993『 音楽 演 奏 の 歴 史 一 よ み が え る 過 去 の 音. 人崎 滋 生. “. ′. И s'た 。 ノ “. 社 ,講 談 社 学 術 文庫 。. mcn der Ersten Staatsprufung fiir Sekundcrstufe H,Univcrsi―. sfο 7 1i7,7. `れ. 1997『 ドイ ツ 教 養 市 民 層 の 歴 史』 東 京 :講 談. 野 田宣 雄. ノ82θ ″2ど ノ ∂ア θ。(SchH貴 lichc Hasusarbeit vorgelegt im Rah―. 卜Iartin GECK 1967 Dj′. ん. [und]2., durchgcsehenc Aun。 , Stuttgart und Berlin in. ,・. York: Cambridge Un市. rsε. Sheim: G.Olms.(Rcprografischer Nachdruck der 5。. `′. Clive BROWN 1984 Lθ j5シ θttr,α. `rグ `“. Neue,vom VerLsser vermehrte und verbessene Aun.Hilde_. 参 考 文 献. ″7r`rグ 7た な } 力 カセ グ′r Srα グ′καss′ ′ι riイ ι s,た g`∫ ε ″g′ こ こ ィ ィ. グθr. `れ. Langen―. hne.. Lcopold SCHⅣ IIDT 1921,7`,sた rグθr=θ ″た′4sr. lirヽ. b′ rg`r′ jε 力. `b`77 ∂′ 5-ノ 8イ 8)。. (ノ. j“. ノ9。. J67カ. r―. `′. ノ. ピ ′ 2(ノ 822-ノ 866).Ph.Do Diss。 ,Universi― ′ ′ 2火 lrζルだ′ ′ ′ 7わ ピ ′ グピ. 2ι. `′. tat Gё. ttingcn.. `rr.Berlin:Max Hesse.. Louis SPOHR 1954 5ノ. ハ リ ー ・ハ ス ケ ル /監 訳 有 村 祐 輔. 1992『 古 楽 の 復 活 ∼. HUSKELL 1988 gα rム 'ν ι. Ra'jl'α. Stadt Kasscl hrsgo v.Eugcn Schmitz.Kasscl:Barenreiter.. `sた. ). ‐ ,θ ′ Hcr■ ied HOMBURG 1956 Louis Spohrs Gcigen.In:Dα 、. 1990「 二 月 前 期 の ラ イ プ ツ イ ヒ」,『 音 楽 学 』 36巻 3号 210-2H ttc 第. 吉成. 12 pp.1-7. j′. `ど. (Originalgetreuer Nach―. 力r'SS`′ bs′bjθ g″ ― (Facsimile reprint of 1860 ed.Louis Sr9θ j`.)(本 文中では『回想録』 とした。 ρ力. ′ .London: Thames. and Hudson Ltd.). 7こ こ イLO′ Gcrald KILIAN 1986 5′ ι ′. bsrbjθ grα ρttlic。. druck in Vcrbindung mn der stadt Braunschweig und der. 音 楽 の 「真 実 の 姿 」 を 求 め て 』 東 京 三東 京 書 籍 。 (Hary. cた sr`r4/5H.He■. 2グ. `お. 5′ ,θ. 順. ノ 7r.Ph.D.Diss.,. Universitat Hcidclbergo KaJsluhc:Wahl― Vcdag。. (辞. 小林義武 1984『 バ ツハ復活 -19世 紀 市民社会 の音楽運 動』東京 三日本 エ デ イタース クール出版部。. 典類 〉. V νι た θ ″ .1967 2 Bd。 ,hrsgo ィ ∫ ′ た χ′ RIEMAⅣ」 nz:Schott's Sё hne. brecht.B.M」 L′. V.Ho Egge―. 倉橋令子 1992『 ル イ・シュポア (1784-1859)研 究 一交 響曲を中心 に』東京芸術大学修士論文。 三 島 郁 2005「 19世 紀前半 におけるラ イプツ イヒの 音 楽生活」『甲南 女子大学研究紀 要 :文 学 。文化編』第 41. 定期刊行物〉 〈 g′ ′ 月 ′ν A′ ′ "`′. :ィ. s,た. j5ε セ ル 夕 ′ 7g.hrSgo v.Friedrich Rochlitz. α′ j′. Lcipzig:Breitkopf&Hanel.1798-1848.Re./1964.

(9) 郁 :19世 紀 初期 にお ける 「古 楽復 興」 の歴 史的意義. 三島 資料. 1. チ ェチ リア協 会 の メンバ ー (1826) 職. lit. 業. 名. 宮廷音楽家夫 人 宮廷画家 ・教授 の娘 親衛 隊 の オ ー ボエ奏者 作 曲家 市参事 会員 作 曲家 ・民謡収集家 選定侯 の建設大 臣 宮廷大 臣 の娘 宮廷役 人 の娘 後 の 大臣 の姉妹 作 曲家 上級裁 判所 の文書係 大蔵書記官夫 人 宮廷役 人 の娘 侍従長夫 人 営林監督官 の娘 警察監督官 の娘 医学参事官夫 人 監督官 の夫 人 監督官 の娘 オ ルガ ン奏者 、歌手. Bernhard,Herr. Curschmann,HcⅡ. Clcmcnt,HcI Ditfurth,HcI. Engelhard,Her Grandidier,Dem. Hcisterm,Frlo Von Hassenp■ ug,Dcm。. Hauptinann,IIcI. Kranz,HcI Knyrim,Madame Lennep,von,Dem。 NIIalsburg,Frau von ⅣIalsburg,Frlo von 卜4anger,Frl.von 卜longold,Madamc. Radt,Frau von Radt,Frlo von. Richter.Dem.. 資料 2「 チェチ リア協会」規約案 (一 部 を抜粋. ユ 剛. 4肇. Baucrln,Madalne Bё tter,Dcm. 作成 :三 島郁. Schmelz,HcI, Schneel, Frl. von Hc∬. Schmerfeld,. Schlrlinckc,Frlo von Schreiber,Dem。. Schmarz,Dem。 Steuber,IDem。. Spohr,Dem。 Pfeiffer,Dem.. Pfeiffer,HcI Pfeiffer,S。. ,Dem。. Pfeiffcr,C。. ,Her ,HcI. Pfeiffer,H。. Vult6,Frl.von. Wiegand,IIcI Wicgand,Dem。. Wiegand,Dcm.. Werner,Her W01氏 Madamde Wollf,HeⅡ. 職. 業. 軍代 表 団書記官 宮廷 の貴族夫 人 市長官 の娘 税 関監督官 の娘 軍 国家委員長 商業経営者 の娘 出納係 の娘 歌手 シュポア夫 人 法律 家 そ の 姉妹 そ の 兄弟 そ の 兄弟 陸軍少佐 の娘 音 楽 教 師、「 ジ ン グ ア カ デ ミ ー」 の教 師 牧 師 の娘 牧 師 の娘 上級 裁判所 の 文書係 歌手 0シ ュポ アの 2番 目の娘 芸術 アカデ ミー の教授 作 成 :三 島郁. ). §1 この 協会 の 目的 は,高 貴 で真面 目な声 楽音 楽 の真 の感性 と趣味 を呼 び起 こ し復 活 させ るこ とであ る。練習 と上演 はす べ て この協 会 のサ ー クル内 に限 られ る。 メ ンバ ー以 外 の者が ,公 開演奏 にい か なる方法で もって も参加 してはな らない 。 §2 自 らが 積極 的 に参加す る者 のみが メ ンバー と して受 け入れ られ る。真 の メ ンバ ー以外 が練 習 の 集 ま りに入 る こ と は許可 されてはな らない 。 §3 協 会が ,可 能 なか ぎ り完璧 に練 習 した楽 曲 を,真 の 楽友 の前 で演奏 す るの は感謝す べ きこ とであ り奨励 され る こ とで あ るので ,メ ンバ ー の 親戚 や友 人仲 間 をよ く練習 され た楽 曲 の演奏 会 に ときどき招 く際 は,協 会 の大 多数 の一 致 に従 うべ きであ る。 4 メ ンバ ー はみ な,協 会 の票 を集 めてか ら,新 しい参加者 を推 薦 で きる。 §. 資料 3「 チェチ リア協会」の主なレパー トリー (抜 粋 ,作 曲家の生年順 演奏 回数 l. 作 曲家 パ レス トリー ナ (1515-94) ア レ グ リ. l. l. 1. カ. 1リ. A.ス ロ. ツ. (c。. 1588-1652). ッシ ミ (1604-74). ア. カ ル ラ ッテ (1660-74) イ. (c.1667-1740). ドウラ ンテ (1684-1755) バ ツハ. (1685-1750). ヘ ン デ ル (1685-1759) 1. レオ (1694-1746) グ ラ ウ ン (1701-71) J。. 1. l. ハ イ ドン (1732-1808). M.ハ. イ ドン (1737-1806). ナ ウマ ン (1741-1801) ヒ. 卜 (1753-1823). モ ー ツ ァル ト (1756-91) ケ ル ビー ニ (1760-1842) l. l. ロ ンベ ル ク (1767-1821) ベ ー トー ヴ ェ ン (1770-1827) シユ ポ ア (1784-1859) シュ ナ イ ダ ー (1786-1853). 1. フ エス カ (1789-1826) ハ ウプ トマ ン (1792-1868) レー ヴ ェ (1796-1869) メ ンデ ル ス ゾ ー ン (1809-47). ). 作成 :三 島郁. 代表 的 な演奏作 品 Tu es Petrus》 《 Miserere》 《 Lapites pretiosi》 《 Missa》 《 Crucifix》 《 Litania》 《 Motet》 MatthauspassiOn》 《 《 Isracl in Egypt》 Mcssiah》 Samson》 《 《 《 Misererc》 《 Tode Jesu》 《 Die Schё pfung》 《 Rcquiem》 《 I PcHegrini》 《 Psalm Nr.100》 《 Ave vcrum corps》 Requ cm》 《 《 Missa》 Requiem》 《 《 Psalmodic》 《 Mceresstillc und gluckliche Fahi》 《 Mcsse》 Die letztc Dinge》 《 《 Absalon》 《 Psalm lo3》 《 Psalm》 Salve Regina》 《 《 Die sieben Schlafer》 《 Paulus》 Psalm》 《 《.

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参照

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