Title
[評定所文書覚書10]琉球「情報」の検討 : もう一つの
「台湾遭難」記事から
Author(s)
栗野, 慎一郎
Citation
浦添市立図書館紀要 = Bulletin of the Urasoe City
Library(11): 101-107
Issue Date
2000-03-20
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/20647
[評定所文書寛書10]
琉球「情報
J
の検討
ーもう一つの「台湾遭難
J
記事からー
(幕末維新刻における琉球をめぐる「情報」 の問題を、明治維新論と流球処分論の両方を 踏まえながら考察したい、というのが当初抱 いた漠然とした願望であり、計闘であった。 幕末期の琉球を介した「海外情報J
について は既に一定の成果が奈がっている(1)。一方、 │可時期の琉球にもたらされた「維新変革一に 関する「情報J
、あるいは維新政府が把援し ていた琉球の現況をめぐる「情報J
といった テーマについては、これまで十分に検討され ていなかったように思える。以上のことが如 上の「計画・願望」の理由だが、当然のこと ながら、この「計画」は挫折する、というよ りそれがいかに膨大・局:fjlな準備を必要とす るかということにようやく気づいたと言った 方がいし、以下は、このように果てない構想 と直接関係しないが、同じ関心のもとに書か れた、自分用のメモ(覚書)である。)。
評定所文書中で「日記J
(
1
年中各月日記J
)
「従大和下状」とならび、多数存在する文書 の つに「案書」がある。内務省時代に作成 された目録(I!日琉球藩評定所書類目録J)を 見れば、元和9年(天啓3年)から明治12年 (光緒5
年)までの2
5
7
年間に、総計2
2
0
点の 「案書」系文書が存在したことが確認できる。(
1
案書J
1
案書写J
1
御状案書J
1
案書総目録」 「案書目録J
1
案文J
1
案文帳」を含む。なお 「案書総目録J
1
案書目録」は8
点、「案文」 「案文帳」は8点ある。)このうち現存するも 栗 野 慎 一 郎 のが16点あり、f
琉球王間評定所文書J
(16冊F
王子リ)中で1
5
i
f
が活字化されている(2)。 「案書J
についてのまとまった論考や個別 研究はまだ見当たらない。ただし、活字化さ れた各文書にf
せされた「解題」で執筆担当者 がいくつかの見解を?主べている{31。それらの 見解を総合すると、ある程度妥当な「案書」 像がほtかびそうである。有力な見解の一つは、 「案書」は琉球側から薩摩に出された文書の 集成(写し 控え)であるというものだ。つ まり、琉球からの1
1
育報j の内容・質・量を 証拠だてる最大の史料であるとは言えそうで ある。「案書J
の史料的な性格の分析は、今 後の具体的な検討・検証に譲るとして、ここ では近世末の「案書」中の一つの記事を事例 に、琉球からの「情報」の問題を考える端緒 としたい。。
同治8年(明治2年)の「案書J
141に次の 記事がある。 一烏小堀村比嘉筑登之四枚帆船一般、人数 十三人乗組、去年間四月十日新木為積入 方久米島位渡海之仰、逢逆風宮古鳥漂着、 七月十二日同所出帆、久米島近乗寄、俄 ニ風波荒立、可致様不罷成、風i
尽漂流、 万死一生之涯相及、同廿日何地共不相知 所作乗参致j中懸、乗組人数之内九人主致 上陸、人家之様成所収立寄、居合之者共 中目逢候処、言語・文字然主不相遇、漸手様等を以漂着之成行キ目
i
童、且此所五台湾 府之内後山S
申所之出相通し、飯米等被 相与、同所1'2致ー宿候処、翌朝容貌異様 之者共五六人、刀を抜参り、衣類・髪差 等致押取候付、逃走、本船収乗付、急ニ 碇を起、風侭通船、同廿三日小舟一般漕 来、引湊二時艦解S
申所位碇を卸候処、 本船致関湯、其{尽乗捨、惣人数経卸ニ奇 官所相尋候棚、所之官人被差越、官所I'2 列参、介抱被申付、八月七日船路より如 福州被送越、所k潮懸ニ骨、十月朔日福 州南台到着、海防官より琉館屋住被引i
度 候付、存留請取、堅締方申付、致介抱、 此節小唐船より致帰帆候{寸、人数荷物 相改、別条無之候。 附、艦鮮S
申所ニ奇衣裳代・5
者遺料と して蕃銭四拾四枚被給、府許猛水S
申所収被送局候付、同所ニ奇右 同断一人ニf
寸蕃銭一枚宛・遺銭一 人ニ付一日ニ百五拾文宛被給候付 所主ニ奇為召i
量出。(以下略) 句読点は補つであるが冗長にならない程度 に要点を訳すと、鳥小堀村の比嘉筑登之の船 一般が久米島に向かう途中で漂流し、どこと も知れない場所に着岸した、居合わせた現地 人と会話を試みるが言葉が通じない、身振り 手振りで漂着の成り行きを相手に伝え、また そこが台湾の「後山」という場所であること が判明した、食料なども与えられ、そこで一 泊するが、翌朝、容貌異様の者たち五六人が 万を抜き、襲し効、かつてきた(衣類や替など を奪った)、乗組員らは急いで船に逃げその まま出帆した、二日後に「磁器早」という場所 に碇を卸したが、そこで船が駄目になったの で一向陸に上がり、現地の役所に保護された、 約二週間後に船で福州に送られた。それ以降 は通常の漂着者「請取」と同様の記述であり、 小唐船(51により帰帆したと明記されているor
F>f
t
J
には「艦牌J
から「府許猛水」に送ら れたこと、それぞれの場所で「蕃銭」が支給 されたことが記述されている。 また原文を省略した後半部分には、福州に 到着以来の「根米J
r
根銀J
支給の件や、福 ナ1'1在勤の存留通事により作成された報告書と 琉球側で作成された人数・荷物などの確認書 の合計二冊を薩摩に送り届けたこと、 j青国側 の「杏文」も書写し次第送り届けることなど がそれぞれ一行ほどの内にコンパクトに記載 されている。また、末尾にもう一つ「附jが あり、別の漂着事件(大宜味間切の馬般船の) の簡潔な報告になっている。 以上が同j古8
年の「案書」の、目録番号で 「百六十一j番の記事の内容である。差出の 日付は5
月2
8
日。差出は宜野湾与那原・譜 久山の三親方と与那城王子。宛先はA
村藤大 夫と小波津・浦添両親方である。(三司官と 摂政から、聞役と鹿児島在番に宛てて出され ている。) また、同「案書」には、この「百六十一」 番の関連記事が他に四つあり、同文書冒頭の 「案書目録J
で検索できるようになっている。 (目録番号で「百五十一J
r
百八十日J
r
百九 十一J
r
百九十二J
)
r
百五十一jは5
月2
5
日 の差出、「百八十一」は「百六十一」と向じ5
月2
8
日、「百九十一J
r
百九十二」は7
月9
日の差出であり、それそ、れ順を追って、より 詳細な事実が報告されていることがわかる。。
ざっと述べたが、一読して興味をヲ│く内容 である。特に興味深いのは、この事件(河治 7年間4月)が、三年後(同治10年10月)に 起きた、もう つの「台湾漂着事件jを連想、 させる点である。日本の台湾出兵、ひいては 琉球処分の引き金ともなった事件ーとしてあま りにも有名だが、伝えられている事実経過に 関するかぎり、この二つの事件の骨格は驚く ほど似ていると言わなければならない。残念-102-なことに、同治10年の事件の記事は現存する 評定所文書中に見いだすことができない。最 も可能性があるのは同時期の「案書」だが、 「旧琉球藩評定所書類目録」によれば、少な くとも年代か司司確になっている「案書」系の 文書は、同治10年(明治4年)の「案書」を 最後に終わっている。無論、この文書の存在 も「目録j上で確認できるだけであり、現存 する「案書」の年代的に最後の文書は記事を 引用した同治
8
年の「案書J
である。他にこ の時刻の史料として残っているのは、同治4 年(慶応、元年)から光緒5年(明治12年〕ま での「従大和下状J
1723号だが、 15年間に及 ぶト覧文書を集めた同文書の性格に由来する ものか、同文書中の同治10年と翌日年の項を 探しでも関連記事は見当たらない(6)。なお、l
可治7年の「漂着事件J
の記事もこの史料中 には存在しない。。
以上のことを念頭に霞きつつ、とりあえず この漂着記事の内容について、いくつか注釈 を試みる。まず、[烏小娘村J
は現在の首lI!_ 鳥堀町である。台湾の地名について、分かつ たJllftに書くと、「巌解」とは現在の台北市 「万華」であり、台北市内では早くから開発 された地域であったことが知られている(7)。 「後山jは台湾の中央山脈の東側日帯を広範 閤に指す言葉であることが、光緒期の地図類 から確認できる(81ur
府l
i
9
1
孟水」は福州程jの宮 署の置かれた地名と思われるが、残念ながら 最後までやl
然、としなかった。 次に指摘・確認したいのは福州に引き渡さ れてからの取り扱いについてであり、とりわ け注目したいのは「苔文J
の存在である。こ の漂着事件関係で「苔文」について触れてい るのはこの「百六十一」以外では、「百八十 一J
r
百九十一J
r
百九十二J
の三文書である。 このうち、「百八十一」はこの「鳥小堀村比 嘉筑主主之J
所有帆船の漂着事件について、 「苔文」の記載との異同を釈明している。こ の文書の差出人東風平親雲上(臼帳主取か) は在番親方二人に宛て、「沓文J
には「去年 三月宮古島到着、七月五日間所出帆、向廿一 日台湾府漂着、本給力日修補、同廿七日致出帆 候処、逢難風及破船候」といった記述が見え (琉球側の報告書の日付と異なる)、また「被 賜物」の内容も乗組員らの報告と相違がある が、とかく言語も通じない漂着場からの報告 が関連って伝わり、このように内容が違って きていると思われるので、もし薩摩側から 「御沙汰」があれば、しかるべく釈明して 「御都合J
がいし、ように「御奴計」成される べきであること、またこの通達の趣旨が「御 差図」によるものであることを述べている。 また、この文書には在番親方からの「御返答」 があり、朱書で「御本文致承知、何之御沙汰 決無御座候J
と回答されている。 「百九十一jは「百六十一」と似た形式の 文書である。ただし、内容は「百六十一J
の 末尾の「附」で触れられていた「大宜味間切 馬艦船」の漂着事件の詳細報告である(この 馬艦船の「漂着」先は台湾ではなく、r
i
折江 省之内鎮海県」であり、船も修補しただけで そのまま護送され、「国頭間切安田村津」に 着船している)。この文書でも「在唐之存留J
からの報告書や琉球側の確認書とは別に、 「苔文」の写しを送付することが告げられて いる。 「百九十二jは「百八十一」と似た形式の 文書であり、「苔文」の日付が琉球備の報告 と合わないこと、「兎角言語文字通兼、漂着 場より之御届等間違相成候奇J
、(中略)r
是 又御都合宣銅i取計百J
被成候jことが「百八十 一j と同ーの言葉で述べられている。差出人 はここも東風平親雲上であり、「御返答」の 字句も「百八十一J
と向ーである。 ここで「案書」で言及されている「苔文J
を探索してみる。「苔文J
そのものはにわかに見つからないが、「百八十一」文書(5月 28日差出)と同使 (1返上物宰領豊見本親雲 上乗船便J) で藤摩に回送された「百八十j 文 書 (6月4日差出)に「唐より到来之文写 二通右訓点為相記差登候問、可被差上候
J
とあり、これではないかと思われる。また、 「鳥小堀村比嘉筑登之机船」漂着事件、「大宜 味間切根誘I銘村馬艦船J
i
票着事件ともに中国 側の「梢案J
史料中(9)に対応する「奏文」 が見つかった。「鳥小堀村比嘉筑登之帆船」 漂着事件に対応していると思われるのは、同 治7年11月29日の日付をもっ「奏文J
ω
であ り、「大宜味間切根謝銘村馬艦船」漂着事件 に対応していると思われるのが、向治7年8 月29日と同年12月25日の日付をもっ「奏文J
(11)である。これらの「奏文jは福建.1折江の 役人から清朝の皇太后と皇帝へ上奏された報 告書であるが、地方役人の上奏文の特徴なの か、かなり読みづらい書体である。しかし、 11月29日の文に「同治七年十月初一日准台湾 淡水庁・-護送J1
船主比嘉J1
本年三月口載 貨運到古至高地方J1
七月初五日jの文字が 見えていること、また8月29日の文に「本年 六月十一日開船」、また12月25日の文に「通 船二十五人J
1
同治七年六月十一日開船J
1
二 十八日J
1
漸江鎮海J
1
八月二十二日J
1
十月 二寸七日」など、「案書」中で言及された 「杏文」の日付その他に符合する数字や地名 が見えることなどから、「案書」記事の内容 と一致するものと考えた。。
さて、同治7年の「台i
:
%
遭難j事件の概要 はこのようなものである。いささか重複する が、ここで<福ナ1'1琉球館→首里王府→鹿児島 琉球館>というルートで伝達された1
1
育報J
の形式について、「案書」の記事から確認で きることを箇条書にしてみる。 ①福州で作成された存留通事の報告書と、琉 球で作成された「人数・荷物改帳」の二冊 が存在し、原文あるいは写しが薩摩{則に届 けられている。 ②j青図から琉球に「筈文J
カ苛是出されており、 写しが薩摩に転送されている。a
存留通事の報告書と「呑文」の内容の不一 致を薩摩{開!に釈明している。さらにその点 に関して陵摩の意向を確認している。 簡略的・断片的な把握だが、以上の三点は 「鳥小堀村上ヒ嘉筑登之帆船」漂着事件、「大宣 味間切根謝銘村馬艦船」漂着事件に共通して 見いだされた構造であり、琉球船の中医への 漂流漂若事件をめぐる「情報」システムの 問題として考察されるべき対象である。。
次に、評定所文書1687号「案書jの以上の 記事を踏まえて、向治1
0
年の「台湾遭難」事 件についての史料的な確認を若干試みたい。 既に述べたように、この「台湾遭難事件J
(
1
台湾遭害事件J
1
琉球港民遭害事件J
(ゆな どとも呼ばれる)の事実を語る一次史料の出 所はかならずしも明白ではない。琉球側の史 料から見ていくと、『球陽J
には事件の直接 的な記述はなく、尚泰27年(同治13年)の項 に「本年東京送来筒稜」として、三年前の 「台湾遭難事件jの犠牲者の「縞綾J
が東京 政府から送られて来たので雪崎に埋めた、と 簡潔に語られているのが初出である(13)0 つま り「台湾出兵J
後の記事しかない。ちなみに 問治7年の「遭難J
記事も『球陽』には存在 しない。一方、『中山世譜j巻十三には、同i
古1
0
年の「遭難事件」も向治7
年の「遭難事 件」もあるていど詳しく語られている(ただ し原文では細字割行)。向治7年の「事件」 の記述について言えば、日付等は省かれてい るが、評定所文書中の「案書」の記事に近い104-という印象を受ける(14)0 jii1常、この事件について語られる持、典拠 とされる史料の つは、松田道行
f
琉球処分j 中の報告(1司である。これは当時の鹿児島県 参事大山総良の「建言J
と「報告書」本体、 および「問書jの三つから構成されている。 全体の表題は「琉球島民台湾漂到遭害云々届 出ニ付大山鹿児島県参事問努出師ノ建言弁報 告書j であり、「問書J
の部分は「宮古島六 十九人乗ノ船台湾へ漂着十二人生残リ惰州府 へ護送セラレ帰;唐船へ乗付那覇着右十二人/ 内宮古人イ中元筑受之島袋筑登之ヨリノ問書」 という、表題ともとれる但書から始まってい る。f
尚泰公実録』を編纂する目的で東恩納 寛惇が集成した「史料稿本J
中の「台湾遭難 者日記」はこの『琉球処分j 中の「問書」と ほぼ(句読点の有盤、段下げ等を除けば)同 である。松田史料中の「報告書J
(二番目 の史料)は表題こそないが、1
~J
で始まる 条書の文書であり、差出が川平亀川l・宜野 湾の三毅方と与那城王子、宛先が里村篠大夫 と豊見城・ J也城南殺方となっているところを 見ると、琉球から薩摩への報告書である「案 書J
形式の文書であり、原、史料は三司官と摂 政から鹿児島琉球館関役と在番親方に出され た「案書J
系文書だったことが推定できる。 ところで既述したように、│首j治1
0
年(明治4
年)を最後に、「案書」もしくはそれに類す る表題をもっ文書は目録上は存在しなし、件 の文書の差出の日付は「申六月」であり、事 件の翌年ニ同治11年のものと考えられるが、 首塁王府史料(評定所文書)としては編纂さ れることなく終わった文書であると言えるの か。あるいは明治5年の「琉球藩設寵」の頃 を境に、近世邦j全体を貫いて持続されていた 琉球・薩摩問の「情報」システムが模本的に 変容したためと考えるべきなのか。 実は、「尚家御蔵本目録」には「案書J
1
案 書抜J
1
御状之案書J
1
登下御状写J
1
案書抜 書」等の表題が見え(合わせて2
0
冊程度)、 また、戦後の調査(16)により、年代の記載さ れた「案書J1
案書抜書J1
案書写J
などの文 書が多数現存することがわかっている。(そ の中に「同治十一年案書写J
の表題も見いだ される)。松田f
琉球処分j 中の資料に対応 する文書がそこに含まれていることを期待し つつ、将来の確認作業を自己の諜題としたい。。
雑ぱくな内容に終始してしまった。 今回のこの「覚書J
では、現在研究が興隆 しつつある、琉球をふくめた東アジア世界の 漂流・漂着事件の全体像をふまえた議論がで きなかった。たとえば田名真之は最近の論 文聞で乾隆11年の「台湾漂着事件」を事例に、 「護送J
1
送還j システムをめぐる琉球・ 1青図 それぞれのi則の役人層の対応の問題を詳細に 分析している。驚くことに、この事件の内容 は同治7年の「台湾遭難事件J
と酷似してい る。回名が挙げている事例などを含め、近世 期全体を貫く漂流 i事着をめぐる「情報」シ ステムの問題として、同治7年と1
0
年の二つ の「台湾遭難j事件を再考する必要があるだ ろう。 また、近世末=近代初期という特殊な時期 における「情報」の問題も存在するG 同i
台1
0
年の事件について言えば、事件の記録は中国 側の「佑案J
史料に残されているが閥、当 時の地元新聞(上海)にも詳細が報じられて いる問。その白 i~ は「同治十一年四月初五 日」であり、松田資料中の「報告書j の日付 (¥申六月J)より早いものだ。つまり、この 事件の1
'
1
青報」は1
6
来の近世的なシステムで 伝達される以前に、「新聞」という近代的な 「情報jシステムの力で維新政府に伝わった 可能性がある凶。それはまた、「台湾出兵」 という政治行動の直接の引き金となった理由 としても考えられるはずである凶。 蛇足ながら「漂着」の問題に授らず、この時期の「情報jを考えるためには、静態的な 分析だけではなく、動態的な分析が要求され ていると感じる。無論、その方法の糸口も感 触もまだ見いだされた訳ではない。 いずれにせよ、近世末あるいは幕末維新期 における琉球をめぐる「情報
J
という課題は、 丁寧な史料批判と慎重な比較・検討など根気 のいる作業が要求される領域である。今後を 期して探索を継続したい。 〔注〕 (1)真栄平房昭「琉球の海外情報と東アジアj (f近世日本の海外情報j1997年)、同「幕 末期の海外情報と琉球J
C
[
琉 球 沖 縄 ー そ の歴史と日本史像j1987年)等。 (2)r
琉球王国評定所文書jの刊行順に、目録 番号で1327号(第一巻)、 1341号、 1342号、 1385号(以上第二巻)、 1387号(第三巻)、 1396号、 1397号(以上第四巻)、 1449号、 1458号(以上第五巻)、 1471号、 1487号 (以上第六巻)、 1512号(第八巻)、 1524号 (第卜巻)、 1542号(第十二巻)、 1688号 (第十六巻)。 (3)1
案書」に関する比較的まとまった考察と しては、 1387号「解題J
(大城康洋)、 1397 号「解題J
C盟、河尚)、 1458号「解題J
(星 井洋一)、 1342号「解題」、 1487号「解題」、 1512号「解題J
C以上、小野まさ子)、 1524 号「解題J
(高良倉吉)等が挙げられる。 (4) [琉球王国評定所文書j第十六巻に収録の 1688号文書。 (5)J可「案書」の記事によれば、この小唐船は 同治7年(辰年)10月2日大唐船とともに 那覇川を出帆、 10月14日に福州琉球館に到 着している。進貢使は富島親雲上、大夫は 松本親雲上である。また、家譜資料([那 覇市史資料編j)と赤嶺誠紀『大航海待代 の大琉球』中の「進貢船一覧表J
によって 進貢使以下諸役の唐名が確認できる(富島= 向文光、松本=林世爵)。なお、家譜の記事 によれば(大夫林世爵と都通事金重威の家 諸に記載あり)、この年の船旅の様子のお およそが確認できるが、帰路乗船させた漂 流民の記事は見当たらない。また、漂流民 自身の記録について言えば、船主比嘉以下 が百姓身分のためC
[中山世譜J
に1
.
鳥小 堀村百姓比嘉」と記載)、家譜資料による 事実の確認は困難と思われる。 (6)1723号「従大和下状」の性格分析は、同文 書「解題J
(里井洋一)を参照。なお、原 文.1
解題」ともに『琉球王国評定所文書』 第十六巻に収録。 (7)又吉盛j青『台湾近い昔の旅<台北編>j等 参H召。また、国立中央図書館台湾分館編 『台湾文献書目解題』第二種地図類(三) 所収「同治淡志淡水庁全図J
に「艦鮮参将 署J
、「同治纂要淡水庁図」に「艦僻県丞J
とあり、同治年間の「艦鮮jにj青国の行政 機関が置かれていたことが確認できる。 (8)国立中央図書館台湾分館編『台湾文献書目 解題』第二種地図類(ー) - (三)所収の 地図、「光緒輿図並説全台前後山総:図J
I
光緒 総図全台前後山総図J
I
光緒輿図並説台湾後 山総図j等参照。 (9)中国第一歴史街案館編f
i
青代中琉関係枯案 選編J
C中華書局、 1993年)。 (10)同書、同治三二号文書。「福建巡撫下宝第」 の上奏文。ω
問書、同治30号文書、同33号文書。 30号はl
i
折r工巡撫李i
翰章」の、 33号は「福建巡撫 ド宝第J
の上奏文。 (12)琉球から台湾への漂流・漂着事件は便宜的 に一応、①漂流事件②漂着事件①遭難事件 ④遭害事件の四つに区分することができる だろう。①漂流事件と②漂着事件の区別は 明白ではないが、前注掲、赤嶺il'(紀『大航 海時代の大琉球J
中の「漂流船,覧表」の 事例で言えば、「台湾大武陥(沈i
立)J
(嘉 慶7年)や「台湾鴫璃蘭亀山外洋J
(道光 12年)の事例は「漂着jではない「漂流J
-106-事件として考えてよいかもしれない。また、 同治7年の「漂着事件