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ソ連ナショナリズムに関する一考察: 沖縄地域学リポジトリ

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Title

ソ連ナショナリズムに関する一考察

Author(s)

落合, 忠志

Citation

沖大法学論叢 = OKIDAI HOGAKU RONSO, 1(1): 77-113

Issue Date

1975-03-31

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/6443

(2)

ソ連ナショナリズムに関する-考察

ムロ

忠士

ASTuDYoFSovIETlWIoNALIslvl

TadashiOchiai 屯〈じ

l政治的支配権力の下放性に見合うナショナリズムの発展類型78.

2沸騰期のナショナリズムの4類型….………・………….……82

3ロシアにおける暴力革命成功の要因…………・…・………・…85

4ソ連ナショナリズムの源流……・………・…・86

5ソ連ナショナリズムの発現・………..………98

6ソ連ナショナリズムの表現区分・…・………・………102

7ソ連ナショナリズムの性格…・………・…・……105

8ソ連の帝国主義的ナショナリズムの展望・………..……108 -77-

(3)

1政治的支配権力の下放性に見合うナショナリズムのI発展類型

(1)発程期のナショナリズム ナショナリズムという優れて政治的社会現象が,人類社会に初めてその視座 を確保したという意味で,発程期のそれとわれわれの呼称するナショナリズム は,この現象をもって,中世と近世というふうに,人類史を区分するメルクマ ールとなって,歴史過程に登場してきた、それは一方において,キリスト教協 同体と神聖ローマ帝国という,単一的普遍的秩序の崩壊の中から,他方,封建 諸侯の封土や独立的商工業都市という,地方的割拠的勢力の中央集権的統一の 中から,つまり,コスモポリタニズムとローカリズムを揚棄するものとして誕 生してきた。それは,血縁,地縁,言語,宗教,政治,経済の共同という諸要 因のもとに,歴史的に民族意識覚醒の機の迫っていた人間集団を土台として, 有能な国王によるローマ法王の支配からの分立として,独立の支配権力の中に その姿を現わしてきた。この国王を中心として団結した民族的人間集団に,共 同の歴史的運命が与えられ,民族国家としての生活と体験を通じて民族意識の 触発と自覚化がおこなわれ,ナショナルな実体が内面的にも形成され,民族の 台頭を呼んだのである。ひとたび近代国家の建設と統一を完了すると,国王は 専制調主として絶体権老揮い,璽俄は国家なり”という類の認識のもとに,こ んどは人民と対時した。この時代には国家的利益はまだ国王個人のそれと分化 しておらず,王室の家計と国家の財政とは未分化のままであった。このような 政治的条件下での社会生活では,民族成員つまり臣民は,一体としての集団的 自己の利益を認識することができず.専帝桾主によって与えられた環境や条件 のもとに受動的な生活を営むにすぎない。これに反して国王にとっては,国家 的利益とは,とりもなおさず彼自身の利益でもあったので,その性質と内容に 通暁しており,あらゆる国家機関を動員して,その追求に余念がなかったので ある。この過程は,国王個人の主観的意図いかんにかかわらず,国際政治学的 見地から観察するならば,国王によって担われ代表されたナショナリズムの過 程にほかならない。そして当時の国家の権力構造から,この期のナショナリズ ムの担い手は,専制君主,貫族,僧侶たちであったということができる. -78-

(4)

(2)昂揚期のナショナリズム

国王に指導され,その枠組の中での生活であったとはいえ,歴史的運命の共

同という条件のもとでの永年の生活は,民族成員の間に,しだし〈にダイナミッ

クな民族意識を覚醒せしめるに至った。すでにマーカンテイリズムはヲ緩し,

国民的市場の達成と他国との通商戦争などによって国家成員つまり民族成員の

中に,自己同一と他集団との区別の意識が芽生え,さらに民主主義的な思想が

蔓延し,自分たちの利益と自由のために,専市桾主の国家支配は制限されなけ

ればならず,そのためには,新興の市民層が自ら権力的地位を獲得しなければ

ならないという,第三階級的自己支配の原理も,イギリスにおける名誉革命に

まつわる歴史的事件を契機として確立してきた。一方,ポーランドの分割,フ ランス革命とナポレオンの征服戦争,神聖司盟などの諸事象を通じて,ヨーロ

ッパ各国の民族意識が昂揚され,自由・平等を旗印として,歴史の舞台に躍り

出たブルジョアジーが,国内にそのヘゲモニーを確立し,国外に対しては,ナ

ショナリズムの新しい担い手として,この時代のナショナリズムの性格づけを

おこなったのである。 (3)沸騰期のナショナリズム

19世紀の初めまでに,先進国においてはいちおう国家の民主化が進行して

いたけれども,それは第裏階級と呼ばれる新興の中産階層に対してであって,

国家の底辺を支えている一般人民大衆にとっては,まだ,“労働者には祖国が

なw,という表現の妥当性を肯定する体のものであった。その後労働者の権利

意識が覚醒され,しだいにその組織化が進行し,一般大衆を含めて,政治的要

求が尖鋭化し,また義務教育制度の発達と,選挙権の拡大がおこなわれるにつ

れてヮ国家の支酊構造に重大な変化が見られるようになった。それまでは,自

由放任のスローガンのもとに巨大化したブルジョアジーの経済的,政治的実力

に圧倒されて,貧困と不自由の中に11申吟していた底辺の大衆が,自らの政治的

力によって」自らの経済的-.社会的運命の改革に立上ったのである。その結果,

国家そのものも,それまでの,ブルジョアジーのための,夜警国家的な,消極

政治の国家から,底辺の大衆の求める,福祉国家志秒向的な,積極政治の国家に

転化していった)そしてここに,ナショナリズムの大衆化,つまり,国民大衆

-79-

(5)

をナショナリズムの新しい担'が手とする歴史段階の開幕を見るに至ったのであ

る。

昂揚期のナショナリズムの時代の黎明期において,徐々に政治的ヘゲモニー

を確立したブルジョアジーは,自らその後のナショナリズムを背負って活動し

たわけであるが,自由放任の旗印のもとに奉じた民主主義的かつ自由主義的な

ナショナリズムの志向したものは,あくまで政治的なものであった。そしてそ

れは,消極的な,“夜警国家口的政治の枠内で充分満足することのできるもの

であった。しかしながら沸騰期におけるナショナリズムは,その基盤を政治的

志向から経済的・社会的志向に転換することによって,自由放任的国家を廃棄

して,、社会奉仕的国家"と置き換えたのである。ここに至って民族国家の性

格は再転し,その機能は政治的であるが,その内容は優れて経済的であること

が要請されるようになった。この要請は,国民大衆の経済的諸要求に応える為

の,自国の経済的禾臓第一主義ともいうべき,福祉国家の政治的志向からの,

当然の帰結なのであるが,’9世紀的な,イギリスを盟主とする経済的インタ

ーナショナリズムの廃棄を前提として初めて可能となったのである。

1919年以後現われた大規模な移民の入国に対する先進国の国境の閉鎖ほ

ど,国家間の衝突の可能性を増大する政策はない。外国からの低廉な労働力の

流入をシャット・アウトした先進資本主義国の労働者階級のzjR(の目標は,国境

という温室の中で,国家の保護を獲得することであった。例えばイギリスにお

いては,1931年以降,国家政策と社会政策とはいよいよ繁接し1,労働者は

企業家と同様に,産業の保護と助成金とに強い関心を示すようになった。計画

経済は社会主義とナショナリズムとの二面性を包含しており,その原理は社会

主義的に見えろとも,その実践的系譜は,今日の国際政治社会においては,結

局,ナショナリズムの範艤に属するものなのである。

また一方,労働者が自らの祖国を所有していないと比嶮された時代には,生

産関係における運命の共通性から,“万国のプロレタリア団結せよ'”のスロ

ーガンにも見られたように,社会主義は国際的な性格を持っていた。ところが

第1次大戦が勃発すると,今や社会化されつつある'国家において,ある程度実;

質的な政治的影響力を有するに至った各国の労働者大衆は,国敗れて失なうべ

-80-

(6)

きものを向ら行するということを,すでに自覚していたので,なかば自発的に

銃を執り,単に異なる国是を奉ずろという理由だけで,相互に殺し合ったので

ある!''この現実の意味内容は極めて重大である。それは従来の,労働者階

級の国際的連帯''1tを強調し,被支配階級としての人民大衆が自らの国家を所有

した暁には,輝やかしい国際協調の時代が訪れ,かつ階級のなし牡会を招来す

ることができると夢想した人々にとっては,まさに晴天の露露ともいうべきも

のであったへ社会'二義は,その蝿念においてはともかく,それが現実の人間社

会に具現化されろと,諸国民の間の区別をうき彫りにし,その特殊性を強調す

I(2)

ろ度合を深め,その1性格的相異を尖鋭にして0,<ものであることが証明i

されたのであろへ人衆化したナショナリズムは,いっそうナショナリスティッ

クになるのであろへなるほど,各国のプロレタリアートは,各国の政治的ヘゲ

モニーから閉め出されている間は,その共通の敵としてのブルジョアジーの存

イ[という認識のもとに,分散した自己陣営の無力を自覚しているので,その強

化策として国際的連帯性を強調するけれども,ひとたび自らの国家を所有する

やいなや,国内政治的にその』必要がなくなり,自らの失なうものを保全するた

l31

めと,さらに多くのものを獲得しようとする欲望Iこ駆られて,自ら利己的

なナショナリストに変身するものであることが,歴史的に明らかにされたので

ある。この原因には,人間の利己心,自己保存本能b自民族の優越性の信念か

らくる全人類的使命観,あるいは単なる権力欲,自己満足などが考えられるが,

いずれにもしても,ナショナリズムの担い手が一般化し大衆化したというだけ

では,なんら国際協調の条件が満たされたことにはならないのである。たとい

国家内の搾取・被搾取の関係や,抑圧・被抑圧の関係が消滅するときが訪れた

としても,そのあとにはまだ,国際間の搾取と被搾取,支配と被支配の関係が

残るし,そこまで鮮烈ではないとしても,不平等ないし不対等の関係は,相当

の長期にわたって残り続けるであろうからである、

これがブルジョアジーから下放的に政治権力に対する影響力の座に登った国

民大衆を,その担い手とする沸騰期とわれわれの呼ぶ現代のナショナリズムの

一般的'性格である。 -81-

(7)

2沸騰期のナショナリズムの4類型 (1)先進資本主義国のナショナリズム 1870年以降,19世紀の最後の20年間に,先進工業諸国はあいついで 産業資本主義から金融資本へと発展していった。それらの諸国においては,利 潤追求の方法として従来の商品輸出以上に,資本輸出が重要な意味をもって登

場してきたのである.この段階に到達した資本主義は,利潤の平均化および利

潤の逓減化という資本主義一般の傾向に対応するため,カルテルやトラストな どによる国内産業の独占化を樹了する。そして国内に蓄積された巨大な資本を, より多くの利潤の獲得を可能ならしめるような,後進tllji域に輸出するのである。 これらの主として一Bi(産品生産地域においては,原料資源に恵まれており,労 働力も豊富であるが,資本の欠之のために産業の近代化が遅れているのである から,そこに資本を輸出すれば,低廉な商品を生産することができ,国際的競 争力を強化することもできるわけである。またその為に,資本輸入国の住民の 経済生活も向上することになる、その生活が向上すれば消費性向も高まり,資 本輸出本国からの商品輸出をも助長し,まさに一石二鳥の利潤効果をうみ出す。 そのため資本輸出国は,他国からの資本の流入を阻[こし,自国だけによる排他

的な該地域経営を志向するようになる。そしてその実効を期待すればするほど,

資本輸入国に対する政治的干渉までも,あえておこなうようになるのである、 さらに,未開発地域を領有することの有利さに着眼して,先進の工業諸国は, 競って植民地の獲得に狂奔した。この結果,プロシヤとフランスの戦争の後2 0年間で,世果における未開発地域のほとんどが,ヨーロッパの先進国やアメ リカ合衆国の植民地と化してしまったのである。 イギリス,フランス,ベルギー,オランダ,アメリカなどによって代表され る植民地帝国は,相互に競争して世界を分割してしまい,世界の領士的,勢力(4) |圏的現状を設定してしまったこと,表示のとおりである。われわれ}よ -82-

(8)

璃加率 07727 これらの諸国の既iUL椎に対する|LIU防衛[|りなナショナリズムを,沸騰期のナシ ヨリズム段階における,“現状維持的”ナショナリズムとして類型化することにする。 (2)中進資本主義国のナショナリズム イギリス,フランス,アメリカ等の,先進的資本主義国のチャンピオンに対 比すれば,後進的資本主義国といわざるをえないが,全世界的視野から位地づ けるならば,中進的資本主義国,具体的にはドイツ,イタリア,日本のナショ ナリズムには,共通のパターンが見られろ。産業革命に遅れをとり,先進の資

本主義国に遅れて工業化に着手したこれらの国はMZl然,遅れて植民地獲得競

争に参加したわけで,豊かな効率のよい植民地に恵まれず,また地域的にも狭 陰であった、にもかかわらず,国内の資本制生産の伸長は,より広範な特恵的. 市場を求めてやまない。そこで自国の工業生産の発展を阻害する外的条件を打 破して,すでに固定化している世界の勢力分野を再編成することを求めるよう -83- 植比地 1876年 1914年 |繭枝 人「I lhi枝 人口 イミ|剰 1974年 l面積 人口 合計 1914年 面積 人口 イギリス 22,5 2519 33,5 393,5 0,3 '49,,8 33`8 44JOM フフ ンス 0,9 6,() 10,6 55例 (),5 39,0 11.1 95,1 アメリカ (),3 9J 9,4 97,0 9,7 106,7 ドイッ 2,9 123 0,5 64,9 3曲 77,2 111N 03 192 0,4 53J0 O|7 72,7 ベルギー. オランダ 99 453 214111(16地 14J,5 3610 地域 1876年 1900年 瑠加率 アブリカ 10,8% M1,4% 79,6% |村洋ihI;& 56.8 98,9 42.1 アジア 51.5 56.6 P 5,1 オーストラリア 100 100 0

(9)

になったのこの意味においてわれわれは,このナショナリズムを,“翻犬打破? 的ナショナリズムとして性格づけるのである、 世界の現状の打破,世界的新秩序の建設という発想は,当然のこととして, 現状維持的勢力に対する挑戦という形をとらざるをえない。後進の国が先進の 国に挑戦する為には,実力的に追いつかなければならないへそのためには,先 進国の歩んだ道を,先進国の何曙もの速さでm過して,先進国に接近する必喫 がある。それゆえ,ある後進陸Iが時間を節約してJ1業化を促進しようとすれば, 先進国の採用した自由主義的,氏}皇に義的M《かち連ざかって,国民動ji的な 全体主義的手段を採用し,それを強行せざるをえなくなる、それがムッソリー ニのファッショ的イタリア・ナショナリズムであり,ヒットラーのナチロワドイ ツ・ナショナリズムであり,犬IIL支配の承閥志向的'1本ナショナリズムであっ たのである,、 このナッヨナリズムに兄られろ特'性は,国際的には,U堺の新秩序建設とい う民族的使命感を鼓吹するイデオロギーや,好戦的なショーヴィニズムに現わ れ,国内的には,全体主義的イデオロギーや,甲[I荘義によって代表されか (8)後進資本主義的・革命国家のナショナリズム 資本主義的生産組織の未成熟から,近代的工業化に遅れ,近代化の努力は試 みているものの農業国の城を脱することができず,低Lyli活水準の人民から, 産業近代イヒの為の資本を低賃金という形式によって収奪し,そのことに不満を持 つ人民が,先進国において教育をうけ,あるいは先進国そのものに関する研究 をつうじて,新しい知識と近代化社会というものを知ったインテリたちに指導 きね搾取のなし、支配階層のいない社会の実現を信じて暴〃革命'22成功させ た国がある八実質的には一国社会主義に止まらざるを得ない国際環境にありな がら,プロレタリア゜インターナショナルとか,社会主義インターナショナル とか宣伝し,国際共産主義運動と銘うった運動組織をつくり_上げ,先進・中進 を問わず,あらゆる資本主義を否定するナショナリズムがある。それはソ連に よって創始され中国において踏襲されたマルクス主義的革命国家のナショナ リズムである。 それは,資本主義諸国の設定した世界的現状を否定する点でb現状打破的で

(10)

-84-あり,資本主義を打倒して,共産主義世界の建設を唱導する点において,新秩 序建設的なものであった,、ただ中進資本主義諸国との相異は,より大きな立ち 遅れと,挑戦の為の実力養成の時間をよりいっそう短縮しなければならなかっ たという理由から,資本主義的先進の諸国に対して,より挑戦的なショーヴイ ニズムを体現し,国内的には,よりいっそう全体主義的で,不自由と非民主性 と貧乏とを人民に強制し,パンよりもイデオロギーをたら腹食べさせてくれる 独裁国家となっていったところにある、われわれはこのナショナリズムを,い ちおう質共産主義インターナショナル”的ナショナリズムとして類型化するこ とにする、 (4)植民地・従属国のナショナリズム 先進・中進の工業国に特恵的市場を提供する植民地,あるいは政治的保護地 域において,2度の大戦を契機として台頭した,植民地解脱政治的独立を要 求して立ち上ったアジア,アフリカ,ラテン場・アメリカのナショナリズムがこ れにあたる句そして,今やすでに,ソ連の支配からの脱却を望む東欧諸国に見 られるナショナリズムも,この範晴内のものとしてよいであろう。 われわれはこのナショナリズムを,“民族解放〃的ナショナリズムと呼ぶこ とにする句 3ロシアにおける暴力革命成功の要因 マルクニヤエン竿ルスの理論によると,共産主義を志向するプロレタワア革: 命は,最高度に発達した資本主義が,帝国主義的角遂を行なう段階に達したと き,そのような先進資本主義国において勃発し,かつ成功するはずのものであ った。しかし人類史の現実は,マルクス主義的革命の理論,あるいは,革命の プログラムの誤りであることをはっきりと証明した。すなわち,1917年11 月にロシアで勃発した社会主義革命は,まだ農業国の域を脱せずb資本主義も 未発達であったヨーロッパにおける後進国でおこったのである。マルクスの理 論に反して,資本主義的先進工業国においては,機械化による大量生産によっ て,労働者の生産性が向上しv,企業の高利潤の分け前にあずかって,国民は高 -85-

(11)

い生活水準と自由を克ち取ることができ,かえって,マルクス主義イデオロギ

ーを奉ずろ革命に§またロシア的暴力革命と一党独裁の支配に対して,強い抵

抗力を示し続けていろ。それゆえ,ロシアにおいてマルクス主義的イデオロギ

ーを奉じた暴力革命が成功したについては,それを可能ならしめた特殊ロシア

的な内外の情勢力熟していたと考えざるを得ない。

この点についてわれわれは,次のような諸要因を列挙することができると思

う。

lロシアにおける資本主義が,いまだ工業化の軌道、にのらず,農業国の段階

にとどまっており,労働者や農民の生産性も低く,一般人民の生活水準は極

めて低く,かつ所有財産も乏しく貧困であったことへ

2帝政ロシアの政治的腐敗,軍備拡大および戦争'政策の遂行により,一般人

民は経済的にも,精神的にも,肉体的にも,虐げられ,帝政を怨嵯していた

ことの

8長期間にわたって革命側の闘士が養成されてきたこと,ことに,レーニンの優れ

た革命家的資質と,彼に追従するグループの革命遂行の意志と能力に,みる

べきものがあったこと。

4大戦の消粍で,ロシア支配階層の自己防衛力,ことに,治安維持能力が著

しく低下していたこと。

5急速な赤衛軍の建設と,革命イデオロギーに対する人民大衆の忠誠心の極

養に,また,大衆動員イデオロギーとしてのナショナリズムの唱導に,かな

りの程度成功したこと,

6ロシア国民が帝政をつうじて,独裁政治に服従することに慣らされていた

こと,ロシアの大衆は,いまだかって,ルネサンスも宗教革命も体験してい

なかったので,自由とか民主主義などについての,真の理解に到達してなか

ったのである。 4ソ連ナショナリズムの源流

1917年10月25日(旧暦),武装した労働者と叛乱した農民兵士らの

-86-

(12)

蜂起によって,レーニンに率いられロシア社会民主党の左派を形成していたポ (5) ノレシエヴイキが,ロシアの新たな握力の地位についたニーーーしかしレーニン一 派がbただちに革命後の国内建設を,タイム・テーブルを組んで推進していっ

たわけではなかった。.‘独力で,兵士たちは戦争を終らせ,農邑は土地を手

に入れ,労働者は工場を手に入れた;と有名なロシアの歴史家であり作家であ

り,第1回臨時政府の元外務大臣であったポール・ミリュコーフは語っている。,

レーニンは,兵士,農民及び労働者の共感を維持するために,成し遂げられ (6) プご事実を認めるだけでよかっだ,”のである。しかし,後日,.はたしてひとり(7) ひとりの労働者が,国家を統治するすべてを知っているであろう力、?zとレ ニーンに大)鯛をきらせたほど,底辺の大衆19自分たちの革命を組織化し, 秩序だてろ能力などはなかった、そこで,“労働者階級はすべてをポリシエヴ (8) イキに任せ,ボリシェヴィキは行動の統市Iを握った-7わけである。そしてひと たびその統制権を掌握すると,ボリシェヴィキがロシア支配に関して,絶対的 支配者的地位に身を置くようになったのも,理の当然の帰結というべきであろ う、それはまた,衛革命の諸目的に眼を注いでいた者たちと,革命の成功に必要 と思われる手段に注意を奪わオTていた者たち雫,,との間の,相異の終着f点であり, (9) “目的のための手段一共産党の独裁一が目的そのもの翌となり,“無情に (10)| も,彼らは大衆の無知を利用した壹鰯のである、 なかば幸運によって権力の座に運ばれたレーニンー派は,ロシア国内の反対派 と抗争しながら,しだいに,ボルシェヴィキの独裁体制を形成していった。11 月4日には,ロシア社会民主党の中央執行委員会は?34対24で,レーニン

派の主張した新聞統制に関する決議案を通過させ,(''1,2月29日には,堅大幅

にツアーリズム時代の禁書を解きはなし,それ老人民に廉価本として普及ざ諸

一” ろとともに,革命後の深刻な図書飢饅を緩和するために国立出版所を設立しだ6- また,反革命を取り締ろための非常委員会(V、CH・K)も設置した。 一万b11月14日ボルシェヴィキ政府は,ドイツに対して休戦の交渉を求め, 12月2日に休戦協定が実施された。しかし,ロシア国内には,レーニンの平 和構想に対する反対も強く,1918年1月11日の中央委員会でも,結論を |(13)l 得ることができなかった、ドイツ軍当局は業を煮やし,2月17日,ついに再 -87-

(13)

進撃を通告してきたnそして18日には進撃が実際に開始されたのである。そ

してこのドイツ軍の再進撃は,ボルシェヴィキ支配の性格を規定するひとつの

重大な要因となった。

“ペトログラードは,ドイツ軍による占領を見込んて;パニックに陥った、革

命的熱狂は動揺を来たし,ソヴィエト国家の安全カネ国際革命という望みうす

(141

い理想よりも,ますます先i宍問題となった;..'のである同ボルシェヴィキ政府

は,ペトログラードの防衛準備をすすめ,政府官庁のモスクワへの疎開を開始

する一方において,2月23日プスコフとナルヴアの戦闘で赤軍がドイツ軍を

撃破した後も,ドイツとの講和を熱心に主張し,ついに3月3日,ブレスト・

リトフスクの瀞ロにこぎつけることに成功したn

この'実績を踏まえて,権力奪取後初めての大会である第7回党大会が,3月

6日から8日にわたって開催された、もちろん最重要の議題は,講和条約批准

`の問題であった。レーニンの論法は,“ドイツ革命がやってこないならば……

われわれは滅亡するだろう……これは絶対の真理”である。だが,必)先進諸国

における世界社会主義革命は,ロシアでニコライとラスプーヂシの国で,

革命がはじまったように,たやすくはじめることはできない”,“ヨーロッパ

革命がわれわれの希望に反してあえておくれてしまい,ドイツ帝国主義がわれ

われの希望に反して,あえて攻撃してきたために,すっかり荒廃させられた国”

となってしまった。このような状態にあっては,“退却することができなけれ

115)

ぱならない、"Ⅷ‘“どんなにわずかでも時をかせ;'ぐ努力をしなければならない。

噸いまドイツに宣戦することは,ロシア・ブルジョアジーの挑発にのることを

(16)I

意味する5”だ力、らドイツとの瀞ロは必要であるというものであった。この大

会におけろ“戦争と講和についての決議”には,“・本大会は,世界の舞台にお

ける現在の力関係のもとで,ソヴエト権力のとった措置は,国際革命の利益と

いう観点からみて,不可避であぃ燃であったと確信すきllh.とあり,条約

(18)

批准の票決は,28対9でレーニン一派の勝利}と終った6-次いで3月中旬に開

催された第4回臨時ソヴィエト大会において,453対36,棄権8で批准さ

れ,条約は実施された。この結果,ソヴィエト・ロシアの西部国境は,ピヨト

ル大帝以前の線に後退することになり,将来の戦争の危険を考慮して,3月12

-88-

(14)

日,首都をペテログラードからモスクワへ移転したのである。

このようにして,レーニン政権最初cz灘関をきり抜けることに成功したレー

ニンin@よ,彼らの提唱し,そのためにこそ暴力革命を扇動した社会主義の建設

に向って歩き始めた。レーニンによると,社会主義とは,国・全人民の禾随を目

ざすようになった,そしてその限りで資本主義的独占でなくなった,国家資本

主義的独占にほかならない獺のであった'11しかし,このような理論に対しては,

当然,革命的左派からの反対があった。1918年4月の全ロシア中央執行委

員会の席上で,レーニンI主左派の攻撃に対して,“現実は,国家資本主義が

われわれにとって一歩前進であることをかたっている。もしわれわれが短時日

のあいだにロシアに国家資本主義を実現することができたならば,それは勝利

であるだろう。”“Iソビエト権力のもとでの国家資本主義とはいったい

なにか?今日,国家資本主義を実現するということは,かつて資本家隅吸が

実施していた記帳と統制を,実施にうつすことである。”鼬国家資本主義はわ

れわれにとって救いの手であるだろう,と私は言った。もしわれわオロゥヌロシア

でそれをもっているならば,完全な社会主義への移行は容易であるだろうし,

われわれの意のままであるだろう。なぜなら,国家資本主義とは,集中され’

計算され,統制され,社会化されたものであるカキわれわれにはまさにこれが

不足していろ〃からである。“国家資本主義の発展だけが,記帳と統制の仕事

を1慎重にうち立てることだけが,きわめて厳格な組織と労働規律だけが,われ

われを社会主義へ導くであろう。だがそれなしには,社会主義は存在しなし!o”

と反論するのであった.このような発想は,、必然的に中央集権的な管理国家,

ボルシェヴィキ右派を形成するレーニン派の独裁への道を拓くこと,あまりに

も明日なロジックというほかない。このような論法の延長上において初めて,

“社会主義的解放よりも,、工業化を優位におく”“ソヴエト労働者にたいして

(21) ソヴエト国家を優位'こおく③スローガン,‘`共産主義とは,ソヴエト権力プラ (22)

ス全国の電化である‐"という,,’ハーニン的定式化,レーニン的支配構想を生

むことができたわけである。 ボルシェヴィキは1917年7~8月の第6回党大会において,封駐三の土地

の没収と国内のすべての土地の国有化,銀行の国有化,大規模産業の国有化,

(15)

-89-生産と分配に対する労働者統制の実施などを採択し,後に,輸送手段の国有化 も追加した。また,ロシア社会民主労働党ボルシェヴィキは,この大会でソヴ ィエト共産党と改称した。そして,7月10日,第5回ソヴィエト大会は,最

初のソヴィエト憲法を採択したのである。やがて,②1918年6月28日,

人民委員会議は,100万ルーブル以上の資本を有するあらゆる工業企業を国 家の手に接収するという内容の,全面的国有化に関する法令を布告した、これ

が戦時共産主義の開始の合図となった(231"のである。だが_ワE7においては,5

月のソヴィエト政府軍とチェコスロバキア軍団との武力衝突を契機として,反

革命勢力との内戦が勃発し,ロ軍による占領のため,食糧危機は深刻となり,

工業生産はほとんど停滞すべ<余儀なくされていた。このようなときに,ボル

シェヴィキの採用した方棄が,戦時共産主義であった、

戦時共産主義は,ソヴィエト革命国家防衛上の必要から,一時方便的という

ふれこみで,採用されたものであった。それはワ生産と消費のあらゆる部門に およぶb国家の独占的支配と,労働能力ある者のなかば強制的な労務管理をその

内容としていた。“戦時共産主義の最も苛酷な経済的側面は,農民からの食糧

の調達__実質的に1コ没収一であった。”図クラークと中農の手にある剰余

農産物を見つけ出して奪い取るために,‘貧農委員会,が1918年夏に組織 (24) された‘のである。このようにして,ボルシェヴィキ政府}こよって,組織的に 農民の収奪が開始されたが,最終的にレーニン政権を支えた勢力も,新たに土 地を手にした貧農たちであったことは象徴的である、1918年5月から開始 されたイギリス,フランス,アメリカ,日本の連合国による北ロシアとシベリ アへの出兵は,、革命政権に重大な影響を与え,秋頃には,崩壊の一歩手前まで 追いつめられてしまったが,この危機を切り抜けさせたのは,戦時共産主義の 強引な実践と,7月に実施された徴兵制であった。徴兵制度の採用によって, 9月には45万b12月には80万,19年末には300万,そして1920

年に内戦力一段落した時点では,赤軍は560万にも達していたのである蝿

赤軍は1919年11月にオムスクを,20年1月ロストフを奪回し,つい でコルチャックを逮捕し,ユーデニッチ軍の大半は降伏して,内戦も終りを告 げた。また連合国も19年から20年にかけて撤兵し,日本軍だけが,シベリ

(16)

-90-アにおいて22年秋まで,北サハリンにおいて24年春まで駐留していた。一

方,20年4月,ポーランド軍がウクライナへ侵入してキエフを占領したので,

赤軍は6月に反撃を開始し,国境を越えて進撃するまでになったが,補給路が のびすぎて敗北を契し,1921年3月リガで講柵ヌ成立し域これによって ロシアでの内戦と干渉戦とは,-9応の終結を迎えることができたのである。 内憂外患のさなかの1919年3月の第8回党大会で,レーニンの右派に対 する,プハーリンやジノヴイエフなどの左派の対立を圧倒して,レーニン一派 の党内へゲモニーが確立した。ポリトピューロ一(政治局)とオルグビューロ

ー(組織局)が設けられ,中央委員会は,レーニン,トロッキー,スターリン,

カーメネフ,トロッキーの支持者クレスチンスキーの5名を政治局委員に選び6 ジノヴイエフ,プハーリン,カリーニンを委員候補に選んだのである。そして‘ “技術的にはこれらの新しい機関は中央委員会の小委員会にすぎなかったが,

一般的政策決定と党組織行政のそれぞれの分野て急速に至上ものJ璽爾となって

いった。中央集権的攻治支配による,〈戦時共産主義の推進が企図されたわけで ある、このような事態を踏まえてトロッキーは,膨大な赤軍組織の平和利用を 考え,労働の軍隊化,国家の経済問題の決定的解決策として,大衆を組織的に 動員するという効果的なシステムを考案した。この構想は,1920年3月~ 4月の第9回党大会で抵抗もなく軍認され,ここに,苛烈な戦時共産主義のシ ステムが,平和時においても,ソヴィエト革命国家の国内建設の有効な手段と して強行されることになったb ソ連共産党指導部の,このような猛烈な意志と手段によって,国内建設を推 進しようとする方策は,10月革命に参加した労働者や農民,ロシア.アナーキ ストやメンシエヴイキなどの革命家にとって,目的と手段の倒錯としか映らな かった。ロシア革命の理念や目的は,いつの間にかどこかに置き忘れられ,人 民はレーニン一派の権力肥大と,その権力維持のための生産実積向上チェスの 駒よろしく,使いまわされるだけの存在になりさがってしまったのである。し かも生産はとんとはかどらなかった。“1920年には,大工業の生産は,戦 前の総量の14%にしか達しなかった。1918年に,1913年の水準の10 %に低下していた鋼鉄の生産は,1921年には5%という空前の低さに落ち -9ユー

(17)

こん淫"のである。このような実情に対する不満の爆発が,,920年秋の

農民の反乱(アントノフの乱)であり,21年春のクロンシュタッ卜の反乱で あった。 1921年3月2日,クロンシュタッ卜の海軍ノ鋤での,レーニンBlD権の施 策に対する抗議運動が,次いで武力を用いた反乱に発展したのは,磐党に対す る忠誠と規律に拘束されていなかった幻滅した革命家たちの運動”であったの であり,彼らは“10月革命のそのものの名において,ソヴィエト指導者にた 伽. いして反舌Lしたテミ”のであった。彼らの行為は決して反革命ではなかった。彼 らは革命から逸脱したレーニンー派に,革命への復帰を求めて反抗したのであ る。これに対して,“ボリシェヴィキ政権は,ツアー時代のそれに匹敵する弾

圧に乗り出した。(29)・”そしてロシア革命は,レーニン一派によって“裏切られ”

てしまったのである。レーニンの方策に反対することを許さないという意味で の統一思想が,1921年3月の第10回党大会の空気を支配し,“党内に, また,ソヴィエトの全活動のうちに厳格な規律を打ちたてるため,また,あら ゆる分派結成を排除して,最も大きな統一を成し遂げるために,大会は,規律 の違反とか,分派の癸注や黙認とかの場合には,党からの除名をふくむあらゆ る党処罰の措置をとり,また中央委員については中央委員侯補に格下げすると .(30 か,非常}昔置としては党から除名さえする全権を中央委員に与える”という 決議を採択した。この決定によって,ソ連共産党の党内民主主義は否定される

ことになったのである響}レーニンという人は。“いかなる反対の意志にも服従

することができない男であった煙し⑤のであり,党はその“レーニンの鋳型にあ

わせてつ〈られ諜妃のであった。

ご人間としての権利が無観きれればされるほど,革命のエネルギーは強く結

集されち側"という意味で,“革命の条件は結局,不満が暴発する環境に内在

(35) する…幻わけで,レーニン一派としても,自分たちの裏切った革命に対する攻 撃は,極力回避しなければならない。1921年3月,ソ連政府はイギリスと の間に通商条約を締結したのを手始めに,ノールウェー,オーストラリア,イ タリア,チェコスロバキアの諸国とも通商協定を締結した。このように国際関 係の改善を図りつつ,国内的には,第10回党大会において,新経済政策,い

(18)

-92-わゆろネップを採択し,国内建設に動員される人民たちとの関係の改善を進め

たのであった。

ネップによって,穀物徴発制を現物税制に改め,自由市場を復活き也個人

交易に許可を与え.小規模な私有的上擁を許し,農民には土地の貸借,労働者

の雇い入れなどを許した。その結果,農工の生産を刺激し,1年のうちに,私

〔K]取引が墜総M2量の4分の3'30”を占めるに至った。さらに川年にiま通貨

改革をおこなったので,1921年の,国民経済復興期の終りには,農業生産

は戦1)iの87%,軽工業も75%くらいまで回復することに成功した。しかし

多額の資本を要する重工業はなかなか軌道に乗らなかったし,国家の底辺を支

えている農工の働き手たちの生活必需品の供給も,はかばかしく進まなかった。

そのためレーニンの暗殺を企てる者すら現われるようになったが,1924年 1月21日,レーニンは脳出血のため死去した。しかしたとい不十分であった としても,ネップによってソ連の経済は復興し,通貨も安定し,生産性も向上 した。だがその成果は,決して社会主義的生産によってもたらされたのではな

く,むしろ,社会主義によって揚棄されるべき,資本主義的聖宅の許容復帰に

よって達成されたのである。それゆえそこに,ネップ・マンと呼ばれる投機的

な,にわか成金たちが多数発生したことも,けだし,市峻的必然の因果であっ

たというほかない。マルクス主義的革命理論の文脈でネップを評価するならば,

経済的にはともかく、政治的には,反レーニン的,反共産党的なpそれゆえに,

純粋マルクス主義革命的な人民の自由と生活水準の要求に対する,非常に不安

定な,術数的な妥協であったのである。そのために,資本主義的方策を借入し

たということは,かえって,マルクス主義革命からの後退を意味し,こんどは,

革命の鞠11からの落伍者を生み出すことになり,倒党の下部サークルには大

きな感情的幻滅があった。共産主義青年同盟(コムソモール)は2年のうちに

メンバーの約半数を失い,自殺の頻発に悩まされ(q叱るようになったのである。

経済的にはネップによって後退しながらも,政治的には,共産党指導部によ

る締めつけは進行していった。1922年3月から4月にかけて開催された第

11回党大会は,レーニンの指導下の最後の大会であったが,この大会後の5

月,書記長制の創設と同時に書記長に就任したスターリンは,政敵のトロッキ

-93-

(19)

一を影うすいものにし,党のトロイカ指導の協力相手であるジノヴイエフとカ ーメネフに対しても,着々と勝利の準備を進め,しだいに,党指導のヒーラル ヒーを形成しつつあった。22年12月30日に,ソヴィエト社会主義共和国 連邦を正式に布告したときには,この国家を指導する党の中枢権力をその手中 に収めつつあった。この時すでに党の中枢は,“ある種の集団柵U害をもった 人々の中核となり,一般民衆とはもちろん,下部党員大衆とも別個の存在とな

ってい製のである.、

1923年4月17日~25日にわたって,第12回党大会が開催されたが,

この時にはすでに,大会代議員の選出カネ書記局の事務事項となり,書記局の

支配者であるスターリン書記長は,大会を自分の意のままに方向づける力と,

臆することなく大会の決議を棚上げする支配力とを身'につけていた。それゆえ,

ソ連の工業化を提唱するトロッキー提案の。工業の進歩こそがソヴィエト国家の基礎

であり麺し成長する工業の基礎がなけ刺鍋すべての事業は砂上の楼閣となるで

あろう。工業の発展だけが,プロレタリアート独裁のゆるきit、,基礎をつくりだず,というi

決議を,スターリンの都合のよくなるま。②まる4年間,左派が今まさに崩壊せんと

する瞬間までl3lL引き延すこともできたのである。そしてスターリンは,党指

導部内の反目や不一致を克服するために,つまり,塵かなわないイデオロギー

(40)

上の挑戦の解決を組織的警察力に次第に頼る”ようlとなっていた、また19

24年1月の第13回党協議会においても,工業化に力点を置き,ネソプにブ

レーキをかけようとする反スターリン派の希望は,なんら影響力を持つことが できなかった。そして厄の時までに,にロシア共産党内で決帝的権力をもつも

のは,書記局機関一そしてその機関を牛耳っていた男一であるということは明

白になった111"またそれゆえに,“公的な共産主義者の政治,思考活動は,‐

(42) 枚岩的であると同時に単調園になってしまし、,味もそつけもなくなってしま いつつあった。そしてこのトーンは,永続革命論に対する-国社会主義論の勝 利によって,決定的なものとなったのである。

。永久革命lql爾論は,トロッキーがドイツにいたとき,ロシア生まれのドイ

ツ社会主義者bA.L・ヘルフアント(パルヴス)と協力して,1904年に

定式化し,1905年のセント・ペテルスブルグスの革命運動で12月に逮捕

(20)

-94-された後,獄中で発展させた理論で,トロッキーの著作集哩わが国の革命里に,_

"結果と展望--革命の推進力"として,1906年に公刊されたものである14’

それによれば,ロシアにおけるブルジョアジーは非常に弱体b、つ反動的である

ので,ロシア革命は,プロレタリアートが政権を獲得するのでなければ,ブル

ジョア民主主義革命の課題すら達成することができない。しかし権力の座につ

いたプロレタリアートに,節制を求めることは極めて困難であつ;て,プロレタ

リア独裁政権はブルジョア民主革命の限界を突破して,社会主義革命に進まざ

るを得ないが,その時,ロシア人口の圧倒的多数を占める農民と必然的に衝突

することになり,ロシア一国の限界内では,革命は敗北してしまうであろうn

だが,ロシアにおけるプロレタリアートの政権奪取によって,ヨーロッパにお

ける反動勢力の支柱の役割を果しているツアーリズムが崩壊すれば,革命は必

ず西ヨーロッパに飛火する。とりわけ,ドイツに飛火する。高度資本主義国ド

イツの革命は,当然社会主義革命であるから,社会主義ドイツのプロレタリ

アートはその豊富な技術と資本とをもって,ロシアのプロレタリア政権を援助

してくれる。つまりこんどは,ドイツの社会主義革命がロシアに飛火して,ロ

シアの社会主義革命を可能にするというのである。lA5l

ところが肝心のドイツ革命は成功しなかった。1918年11月4日,キー

ル軍港都市が革命兵士の手に落ち,」間ドイツから南ドイツ一帯の諸都市で,

労働者兵士評議会が支配権を掌握し,9日の午後には皇帝を中心とする旧権力

はその支配権を失ない,午後2時に,多数派社会党のシャイデマンは,共和政

権の樹立を宣言した。また,スパルタクス団(共産党)のリープクネヒトは,

午後4時に,社会主義共和国を宣言した。10日には皇帝はオランダに亡命し

てしまった。この夜,大ベルリン地区の労働者兵士評議会は,多数派社会党3

名,独立社会民主党8名からなる臨時政権一人民代表委員会一一を選出しね

11日には無条件降伏の休戦が成立し,12日に,言論・結社の自由,ユンカ

ーの特権廃止などの広範な民主的革政の法令を発布したが,社会主義化につい

ては,なんの法令も出されなかった。急進革命派はそのような革改に反対して,

武装蜂起し,12月23日から24日にかけて,新政権の義勇軍と,ベルリン

で市街戦を展開した。29日には独立社会民主党の閣僚が政府から追い出され,

(21)

-95-1919年1月5日から14日にかけて,有名な蔵1月闘争,,力渡関され,革

命派は20万の大衆動員に成功して,ベルリンの主要建物を占領するまでにな

った。しかし’5日に,ローザ・ルクセンブルグと,カール・リープクネヒト

が虐殺されるにおよび,革命派はその['1核精神を失なうことになったn-mjbk

衆も,“平和と自由とパンを”というスローガンには引きつけられて動きはし

たものの,革命そのものにはあまり乗り気でなかった。そのうえ,革命派内部

の不統一もあって,所期の目的を達することができなかったのである、1月19

日の選挙では,スパルタクス団はそれをボイコットし,次のような結果となっ

た。そして多数派社会党,中央党,民主党(帝政権の進歩人EC党に,国民自由

党左派が合流して結成)の,ウアイマール連合派(以前の議会多数派)1こよっ

議員数得票率 て,2月12日に多数派社会党のエー ベルトが臨時大統領に選出され,13 11にシャイデマン内閣が誕生した。新 政権は5月2日のミュンヘン革命政権 の鎮定まで,旧軍隊による義勇軍の援 けを得て,国内の革命勢力を鎮定して いった。6月28日にヴェルサイユ条 約が調印され,8月14日にヴァイマ ール憲法が発効したヴェルサイユ条約1

にせよ,帝政の崩壊と革命勢力の鎮定があって,はじめて可能となる問題であ

り,ドイツ革命は完全に失敗したのである』61さらに’923年の半ばに,ドイ

ツ共産主義勢力の武装蜂起の可能性が問題になり,ソ連共産党指導部は,それ

に対して承認を与えていた。そして10月にはドイツで暴動を起すてはずにな

っていた。しかしドイツ共産党は,ゼネラル・ストライキに関して,社会民主

党の同意を得ることに失敗し,すべての暴動中1tの指令を出さざるを得なかっ

たのである。

“一国社会主義”論の原形は,レーニンの資本主義不均等発展理論のなかに

すでに見られていた。それをスターリンが発展させたものが,一国社会主義論

-96- 党名 議員数 得票率 多数派社会党 163 31,3% 中央党 88 15,6 民主 党 75 15,3 ドイツ人民党 21 3,7 ドイツ国家人民党 42 8,5 独立社会民主党 22 6,3 その他! 10 計 421 100

(22)

あるいは一国社会主義建設論といわれるものである。この理論は,スターリン

によって,1924年12月17日,"10月革命の途上"の序文堅10月革

命とロシア共産主義の戦艀の中で,初めて定珂上きれた社会主義革命の方式

に関する理論である。それによると,世界の資本主義の最も弱い環であるとこ

ろが破れて社会主義が実現する。ロシアはこの弱い環であるから,他国の社会

主義革命をまたないで,ソ連だけで社会主義を建設するのが合理的であり,か

つそれが可能であるというのである。

すでにドイツ革命は失敗し,将来にわたってその成功の見通しのたたない時

点にあっては,永続革命論は一国社会主義論の有力な敵ではあり得ない。スタ

ーリンは,まず1925年4月の第14回党協議会で,すっきりしたものでは

なかったが,党が一国社会主義論を津認しているようにみせるための声明を通

W)

過させることに成功した。~、これに対し,トロツキーのあとをうけて,スター

リンの政敵の座についたジノヴイエフは,その箸“レーニン主義”においてい

“社会主義の最終的勝利は,一国においては不可能である。………資本家

に対する社会主義的秩序の最終的勝利は,国際的規模において決められるであ

ろうl48L,と主張した。しかしスターリンに率いられたソ連共産党は,第14

回党大会において,党の基本的任務として,“わが国における社会主義の完成

~(49)

についての不信に対する闘争”を声明するという反応を示し,ここに,トロ

ッキーと共に,ジノヴイエフも党の中枢から姿を消すことが運命づけられたの

である。その後トロッキー,ジノヴイエフ連合を形成してスターリンに挑戦

し,トロッキーは自分が影響を与えてそう言わせるようになったレーニンの言

葉,轡一国における社会主義革命の完全な勝利は考えられないし,それには少

なくともいくつかの先進国の積極的な協|動が必要とされろ。そしてこの先進国

のうちにロシアを数えることはできないのである側”を引用して論争を試み

たのであった。だがもう政争の実質は理論ではなく,党内の権力闘争であり,

その権力の点ではすでにスターリンの敵ではなかった。1927年10月21

日中央委員会は,トロッキーとジノヴイエフを中央委員から解任する動議を提

出し,11月15日に統制委員会は,彼らを党から除名する措置をとったので

ある。 -97-

(23)

ここにおいてスターリンの党内へゲモニーは完全に確立し,-部プハーリン

派の存在があったけれども問題にするに足りず,-国社会主義論の具体化とし

ての工業化5カ年計画に乗り出し,後年その悪名を馳せたスターリン支配を強

行することになったのである。 5ソ連ナショナリズムの発現

われわれは前項において,ソ連ナショナリズムの源流を探ろうとして,本稿

の規模からは,やや多過ぎる紙数を費して観察を試みた③そして,ロシア的パ

トリオテイズムを別にして,いくつかの源流に行き当ることができた。

その1つは,1918年2月18日に開始されたドイツ軍の再進撃である。

この事件は,革命を成功させたロシア人民に,自分たちの祖国を外敵から守ら

なければな・らないという感情を煮えたぎらせたのである。

その2は,1918年7月に実施された徴兵制である。徴兵制は出身階級を

問わず,-率平等の兵士として国民を錬成し,外敵と内敵とから,革命国家を

防衛する機能を果した。実に,ロシア革命の勝利は,赤軍の勝利にかかってい

たのである。また軍隊という閉鎖的社会は,国1禦生よりも,郷党的なセクショ

ナリズムに向う傾向があり,赤軍の膨脹は,それだけソ連ナショナリズム成長

の内実を包含していたのである。

その3は,戦時共産主義である。革命の勝利のためにとられたこの方策は,

強い中央集権的な施策に終始し,ソ連国民の一体性の醸成に,あずかって力が

あった。好むと好まざるとにかかわらず,ソ連共産党という中核に,ソ連人民

の総力が凝集されろという,全体主義的一体国家を実現したのである。

その4は,一国社会主義の実践である。-国社会主義論の勝利は,その理論

の正当性によって永続革命論を圧倒したのではなかった。それはただ,ソ連共

産党指導部における権力争奪劇の中で,敵と味方を色分けするために持出され

た理論であったにすぎない。しかし革命の祖国ソ連の防衛と国内建設という理

論は,それなりに,下部党員の賛成をとりつけ易いものであり,人民大衆にア

ッピーソレする内容を持っていた。したがって,一国社会主義論の具体化が,ソ

(24)

-98-連ナショナリズムの特徴的側面を見せながら発展していったのも,理の当然と いうべきものである。 以上の4つの源流から流れ出したソ連ナショナリズムI主国際的表情におい てはコミンテルンの指導に,国内的表情においては5カ年計画l畷の発現を見 てとることができる。 (1)国際的発現 ソ連共産党によるコミンテルン指導 コミンテルン(Komintern)とは,共産主義インターナショナル(KOmmu-nisticheskiilnternatsional)の略称であり,まね第3インターナシ ョナルとも呼ばれる、1919年1月に,ボルシェヴィキの呼びかけで,統一

的,中央集権的に世界の革命運動を指導するために創設された機関で,194

3年5月まで活動した。第1回大会は1919年3月に開催され,ソ連共産党 のジノヴイエフが議長となって,綱領や活動方針,各党の代表1人からなる執 行委員会や事務局が選出された。第2回世界大会は1920年7月に開催さね この大会において,鐘コミンテルン加盟条件19カ条”なるものを採択し,後 日lか条が追加されて,20カ条の加入条件が設けられ,さらにコミンテルン 規約も採択した。

規約では,コミンテルンは革命的プロレタリアートの統一的な国際共産党で

あること。各国共産党はその支部であること,-国内にはただひとつしかコミ ンテルン所属の共産党を認めないこと。民主的中央集権の原則にしたがって, 全共産党はコミンテルン執行委員会の指導のもとに活動することなどを規定し た。 また20カ条はレーニンの起草になるもので, 1プロレタリアートの独裁の必要性を,人々に信じさせるような方向で,党 の機関紙が編集されなければならない。 2党機関から改良主義者を排除しなければならない。 3各党は非合法組織をつくりだす義務がある。 4軍隊内では部隊ごとに共産党細胞をつくることが必要である。 5農村や労働者組織内での活動は,共産主義者を通じておこなわなければな

(25)

-99-らない。

9共産主義インターナショナル加入をのぞむすべての党には,労働組合う協

同組合,その他の大衆的労働者組織の内部で,系統的に,またねばり強く共

産主義的活動をおこなう義務がある。

13共産主義インターナショナルに所属する党は,民主主義的中央集権制の原

則にもとづいて建設されなければならない。

15共産主義インターナショナル加入をのぞむすべての党には,反革命勢力に

たいする各ソヴィエト共和国の闘争を,献身的に支持する義務がある。

17共産主義インターナショナルの各大会のすべての決定も,共産主義インタ

ーナショナル執行委員会の決定も,共産主義インターナショナルに所属するす べての党を拘束する。

18共産主義インターナショナル加入をのぞむ党は,すべて某々国共産党(第

3インターーヲーシヨナル支部)と名のらなければならないなどという項目が眼⑪

’とっく。(511

ボルシェヴィキの体験をもとにした構想,レーニンの指令ともいえる形式を もった提出のされかた,議長国であり,共産主義者革命の成功した唯一の国で

あるというラ麓者意識が,すでにコミンテルン内部にしみこんでおり,革命の

祖国ソヴィエト共和国防衛の任務が表面に出されるようになると,われわれは

そこにソ連ナショナリズムの国際場裏での発現を見てとることができるのであ る。

第5回大会は1924年6月から7月にかけて開催され,各国共産党のボル

シェヴィキ化が承認され,ソ連におけるトロッキズムの排除が正当化されて承

認された。またソ連共産党の権力争いでジノヴイエフが失脚したので,192

6年12月にプハーリンが新議長に選ばれ,さらに29年7月には,当のブハ

ーリンの党内共Jli]で,議長を解任されろなど,ソ連共産党の家庭の事情によっ

てその動きが左右されるほど,コミンテルンはソ連ナショナリズムの道具以上 のものではなかったのである。 (2)国内的発現. 5カ年計画の発足 1926年頃から,献身的なスターリン主義者であるクイピシエフを長とす -mo-

(26)

ろ簸商経、〒会議は,ソ連工業化のための5カ年計画の草案作成を進め,192 8イド5月にソ戯した案によると,5年間に130%}と近い工業発展を示唆する ものとなっていたべ一方,ゴスプラン(国家計画委員会)は8月に2つの計画 案を苑炎したが,最善案でも5年間に約90%の成長を見込むものにすぎなか つたへ、|':運にもクイピシエフの案がスターリンに気に入られ,11月に卿、れ た1111Miii会で,192s~9会計年度の経済計画として,公式に軍認された。 そして29年の5月になって,第1次5カ年計画の開始の日付を,1928年 10月とiAlldルたのであ‐)たへ

1iI1illiilV[堆化にさきだつb26~27年ころに,工業化の速度をめぐって,

2つのり,L解が炎面化していた。そのひとつは,ゆるやかな非撞制的な経済発展 を,IL1r'Iするもので,轡発生論者”(Geneticist)と呼ばれ,他のひとつは, 強ノ」な'11家の指導によって,経済湖Uを超越することができるとするもので, “’1的諭行,,(Teleologist)と呼ばれた。スターリンに気に入られた目的 ,諭行たちは,I三葉化の推進に関しては,非常に意図的であり,野、的であった。 “われわれの任務は,経済学を研究するのではなくて,それを変えることであ る”“われわれはいかなる法則にも縛られていない,ボリシェヴィキが襲撃で

きないよ、うな要塞は存ifEしない”“速度の問題は,人間の決意如何にかかって

(52)

いろ~三というような論法にもみられるように,目的論者たちIとよって強行

された計画的I業化は,もともと経済法則に重きを置かず,政治G〈H里由と政治

的手法によって展開されたものである。一国社会主義論を振りかざして,党中

枢における権ノ]闘摘に最終的に勝利したスターリンの社会主義は,マルクスが

構想したような,先進資本主義発展の結果としての社会主義と異なって,先進

的工業化諸国の背後にとり残された後進地域,農業国の段階から,強制的に工

業国の仲間入りをするための,動員体制となったのである.

計画的ZI二葉化強行の歴史的,社会的背景が,ソ連の一国社会主義建設にあり,

そのために国民の総動員を企図し,それを実践していくとき,われわれはそこ に,非常に強けシヨナルな要因やセンチメントを看て取ることができる。そし

てこの工業化の過縄に採用された諸方策は,ソ連ナショナリズムの性格的側面

を,われわれに),』せてくれるのである。それは,要約すると,次のような内容 -10ユー

(27)

となる。 l工業化推進の時間短縮の要請 2全体主義制度の採用と個人自由の抑圧

3強力な中央集権的権力による,強引な計画的工業化の遂行

4強大な軍備の保有

5自己中心的な排外政策と権謀術数的な外交政策の実践

6ソ連ナショナリズムの表現区分 ナショナリズムの性格は,対外的表情と実践過程によって類靭化されろとい

う意味で,ソ連ナショナリズムを区分すれば,それは4つの表情に大別するこ

とができる。

(1)第1期(1917年11月~1959年8月)|

この期の特質は,国内建設のための平和外交にある。

ボルシェヴィキの暴力革命成功以来,1939年頃までは,ソ連周辺の国境

は,失なうもの老失なったままで安定していた。この時期におけるソ連の,社

会主義的国内建設と,革命政権の安定成長にとって,国際平和の維持こそ,至

上命令であったのである。そのためには,個別的に,可能なかぎりの双務的な,

中立,不可侵,保障条約というものを締結し,反ソ統一戦線の成立を随上する

という策をとり,対先進的輿現状維持,'的ナショナリズム,対中進的“現状打.

,破”的ナショナリズム,という二元的なものであったけれども,時を稼ぐため

の平和外交を展開した。その好例は,1939年8月,ソ連は,イギリスとフラ

ンスとの間に対独軍事協定の交渉中であったにも拘わらず,突如,ナチ・ドイ

ツとの間に不可侵条約を締結したといういきさつにもみられろ。

この時期のソ連は,国境線の拡張などということは,決して表面に出さなか

ったのである。

(2)第2期(1939年9月~1945年9月)

この期の特質は,大祖国戦争を勝ち抜くための必要という正当化による領土

拡大と,戦争遂行能力向上のための,連合国との協調にある。

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