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ベルクソンと「開いた道徳」-「愛の飛躍(エラン・ダムール)」の本質について-: 沖縄地域学リポジトリ

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(1)

Author(s)

西平, 哲次

Citation

沖縄大学紀要 = OKINAWA DAIGAKU KIYO(11): 59-84

Issue Date

1994-03-01

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/5802

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ベルクソンと「開いた道徳」

エラン・ダムール ー「愛の飛躍」の本質1こついて- 西平哲次 序説 ベルクソンの倫理学は明らかに「生の倫理」の系譜に位置づけられるが、そ

の道徳説は彼独自の哲学からの帰結である。それは生をすべてのものの根源に、

従ってまた倫理学においてもその原理にしようとする「生の哲学」である。そ

れ故、ベルクソンによれば一切の道徳は生命学的なものである。しかも彼の生

の倫理の特徴は、生の維持保存よりも躍動する生命力の重視にある。ベルクソ

ンの見解では、生命の本質は不断に生起し流動する創造的活動であり、飛躍す

る力である。この生命の自由な連続的な躍進は、その自己発展のうちに二つの

様式として、動物における本能と人間に発達した知性を産み出した。

ではその後、人類は社会や道徳をいかに発展、進化させたであろうか。そこ

で彼は二種の道徳を区別する。一つは「閉じた道徳」であり、今一つは「開い

た道徳」である。前者は社会的強制、圧力、義務への服従を本質とし、後者は

生命の自由な創造的進化の作用による全人類にかかわる一層高貴な道徳である。

さて「閉じた道徳」が行われるのは、ベルクソンのいう「閉じた社会」にお

いてである。この社会は家族、都市、国家等の共同体であるが、その成員は有

機的に結合され、ただ固定した習慣や制度に機械的に従っているにすぎず、個

人の心は「集合的意識」に全く埋没し同化している。また閉鎖的、排他的感情

が支配的である。これに対して、いわゆる「開いた社会」においては、世界の

根源的生命力の創造的飛躍に合一し、その「生の飛躍」は、「愛の飛躍」にま

で高められる。そして創造的努力の本質そのものである愛によって、全人類を

包括しつつ無限に進化しつづけ、宗教化されるに至る。

しかしこの動的な開いた道徳は、道徳的英雄、偉大な神秘家の存在と人格の

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呼び声によってはじめて可能ならしめられる。この道徳の天才、いわば人類の 教師の「開いた魂」に我々は魅惑され、強制されることなく服従し、その完全 な道徳を模倣し、典型(師表)を憧`農する。このような道徳的情緒が次第に拡 大して、真の理想社会へ方向づけられる。だが全人類を包括する「聖なる社会」 が現実のものとなる曰はまだ遠い未来のことであろう。それはイエスの「神の 国」のように-つの理想的極限である。それにしても、文明社会を自分の運動 のなかに引き入れ、そして今日でもなおそうしつつあるのは、神秘家たちの魂 であることは、やはり真実である。しかも彼らの魂の奥底をゆさぶり流れてい る「愛の飛躍」(エラン・ダムール)は、ベルクソンにおいて「生の飛躍」(エ ラン・ヴィタル)によって統一的に理解されており、結局、彼は道徳と宗教の 根底に、エラン・ヴィタルの流れを見ていたのである。こうして我々は、宇宙 的原理であるエラン・ヴィタルと人格的原理であるエラン・ダムールとの結合 をベルクソン倫理学において直観できるのである。 さて本稿では以上のベルクソンの道徳論の意義を明らかにし、さらにカント の「義務倫理」、ニーチェの「権力への意志」およびシュヴァイツァーの「生 命への畏敬」の思想に関連させつつ、比較考察を試みようと思う。 第一章「二源泉」の意図 「道徳と宗教の二源泉」(1932年)の理論的意図については、ジャック・シュ ヴァリエの「ベルクソンとの対話」の中でベルクソン自身が次のように説明し ている。 「私はモラルを提供しようなどという意図はない。ニーチェのようにモラル を発明することなど私にはできないのである。人間行動を律する必要なものは、 人々はとうの昔から知っていた。私が為しうることは、ただその根拠を新たに 指摘し、その理由を明確にし、確認することであり、私よりはろか以前から人々 に知られていた諸真理、最も高らかな魂の持ち主たちがつねに実践してきた真 理、それを再び提示するだけである。」① つまり「二源泉」の第一の意図は、何か新しい倫理学を創造することにある のではなく、すでに存在する道徳を説明し、その源を明らかにする、いわば道 -60-

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徳現象論なのである。そしてベルクソンが考察しようとするモラルとは、究極 的には、キリスト教のモラルである。彼によれば道徳は、イエスの山上の説教 によって人類に与えられた。キリスト教のみが、人に対する人の義務というも のを啓示し宣言した。すなわちすべての人間に隣人を見、すべての人間を愛す るよう、我々に教えたのだ。すべては山上の説教の中で言われてしまった、ほ かには何もない、というのがベルクソンの倫理観である。それ故、彼の関心事 はイエスもしくはキリスト教の神秘家たちが神的愛によって開示する事象なの である。すなわち特異な、特権的な魂の持ち主たちにのみ啓示される神の愛に ついて、その倫理学的意義を検討することである。 次に「二源泉」の第二の意図については、その第四章によって指摘しなけれ ばならない。再びジャック・シュヴァリエによれば、ベルクソンは、第四章が 実は他の書物になるはずだったと語ったという。②それはこの著作の第四章 が最初の三つの章と意図を異にすることを意味している。この章では、近代の 物質文明を分析し、その問題点を抽出しようと試み、さらに人類の未来の方向 づけが問われている。たとえばベルクソンは書いている。 「人類は自らのなした進歩の重荷に圧し潰され、ロ申吟している。人類は自ら の未来が自らに掛かっていることを十分には自覚していない。人類は自らがな お生きつづけることを欲するか否か、まずそれを確かめる必要があろう。それ から人類は単に生きつづけることを欲するのみなのか、それともさらに、やが てある曰、宇宙がこの頑迷な地球上においてさえも、神々を創造するというそ の本質的な機能を発揮するために必要な努力をなす覚悟があるかどうか、それ を間うてみる必要があろう。」③ 第四章のこのような実践的傾向は、独自の社会哲学となっている。すでに存 在するモラルの理論的な分析から得られた「閉じたもの」と「開いたもの」と いう観念は、ここにおいて、実践的問題にも役立てられている。それが「閉じ た社会」と「開いた社会」のイデーによって展開され、民主的精神や進歩と複 雑化の極に達した後の「単純で質素な生活」への回帰、「神秘的精神」の予見 がなされている。我々はここに、先立つ三章と異なり、実践的理想主義者とし てのベルクソンを見ることができるのである。④ -61-

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第二章責務と生命 さてベルクソンは「二源泉」を次の言葉で書き起こしている。

「禁断の木の実の思い出は、人類にとってと同様、個人の記憶にとっても、

最も古いものである。」

彼が聖書の「創世紀」を踏まえたこの文章で言おうとしたのは、道徳とはま

ず禁止であり、人間の社会生活は制止とともに始まるということである。我々

はこのような命令や義務のもとで育てられる。カントもまた義務倫理を説き、

道徳をアプリオリな実践理性によって体系化したが、ベルクソンにおいては、

「道徳的責務は理'性の要求とは別なるもの」として理解される。⑤責務は理性

的なものであるかのどとく見えるが、実は「社会の共同生活上の要求こそ責務

の発してくる源泉である」という。⑥社会がその時代の道徳をつくり上げる

のである。要するに道徳とは個人に対する社会の圧力であり、共同体の維持の

ために、その成員に強制する社会の制止なのである。このような見解は、コン

トを祖とする実証主義や、デュルケムらの社会学派と同じ理論に立つと言えよ

う。すなわち彼らの見解によれば、道徳は個人の背後に存する社会の発展に応

じて必然的に変化していく相対的な慣習にすぎず、倫理学は普遍妥当的規範を

問題とするものではなく、単なる「習俗の科学」として、実証的、科学的に研

究されるべきものとなる。ただし、ベルクソンはこれで道徳現象がすべて説明

し尽くされたとは考えない。彼は当時のフランス哲学界における科学主義、主

知主義を克服して、彼らの社会的決定論に対して、個人の自発性に基づく本来

の道徳の姿を明らかにしようとした。特にキリスト教道徳の優位性と神秘主義

の本質の考察によって、動的な人類道徳なるものを高次の「開かれた道徳」と

して立証したのである。 さてベルクソンの社会道徳の起源の問題に戻ろう。人間は社会生活を営み、

その規範として法や道徳をもっている。哲学者たちは、その理由をどちらかと

いうと知的な領域に求めてきた。そしてその原理をアプリオリで客観的なもの

でなければならないと考えてきた。たとえばプラトンの善のイデア、カントの

道徳法則などはその代表的なものである。これに対して、ベルクソンは、道徳

をより自然なものと考える。すなわち蟻や蜂の社会生活が本能的であると同様

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に、人類の社会生活も本能的な傾向に根づくものであると考える。もっとも昆

虫の社会と人類の社会との間には大きな差異がある。つまり動物の生活が本能

に支配されているのに反して、人類の場合は、社会生活の具体的な規定は本能

ではなくて習'慣である。他の動物にあっては本能が果たしていた役割を、人間

においては知性が果たすことになったが、その知性とは元来自己中心的で自由

な振る舞いをしたがるものである。しかし自已の利益をはかって社会の徒をい

よいよ破る段になると、反省が生じ、我々の心は不安におそわれる。「反省の

あるところには必ず予見があり、予見のあるところには必ず不安がある。」⑦

やはり今まで通りに社会の規範に服従し、社会の一員として生きる気持ちにな

る。これが一種の社会的本能と化した道徳である。それは排他的で変わらない

ことを本質とする。

「もちろん人間社会はさまざまに変化するのに反して、昆虫社会は型にはめ

られている。前者は知性に従い、後者は本能に従う。しかし自然は我々に知性

を与えた以上、社会組織の型もある程度までは自由に選ぶことを許したにして

も、やはり社会生活を営むように我々を定めた。魂に対して、あたかも重力と

物体の関係と同じような関係を保つ一定方向のある力が個人的意志を同一方向

に傾かせて、集団の凝集を確保する。これがすなわち道徳的責務である。」⑧

要するに、我々は反省する知性、自己本位的な知性が与えられており、生命の

求める社会の安定、秩序を破壊する危険を持っているので、この知性の解体作

用に対抗する生命の自動的防禦装置として道徳的責務を必要としたのである。

社会生活における責務は、結局こうした生命力の反作用にほかならない。

「この見地からすれば、責務は何か特別のものであることをやめて、きわめ

てありふれた生命現象一般に結びつくことになる。」⑨

実際ベルクソンは、人間の自然的社会を一個の有機体にたとえて説明してい

る。有機体の細胞は目に見えないひもで結びつけられていて、巧妙な階層秩序

をなして相互に従属関係を保ち、全体の最大利益のためには部分の犠牲を要求

することもあるような規律に自然に従っている。もちろん必然的法則に従って

いる有機体と、多数の自由意志から構成されている人間社会とはどこまでも別

物である。しかし、それらの自由意志も、一度それが社会として組織されると、

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その時から有機体に似た面が出てくる。そして「人為的なこの有機体にあって 習,慣の果たしている役割は、必然性が自然の作品のうちで演じている役割と同 じである。」⑩ この視点に立てば、社会生活は共同体の必要に応じた一個の習'慣の体系であ るように思われる。それらの習'慣のうち大部分は服従の習'慣であるが、こうし た服従の習'償が我々の意志に圧力を加えてくる。それらに反抗することもでき るが、その場合、再びこの習慣の方に引き戻される。 「我々はだれでも-瞬間、意識的になって、自由になろうという意図を抱い ても、すぐさま必然性にとらえられるだろう。こうした必然性の感情こそ、責 務と呼んでいるものにほかならない。」⑪ かくしてベルクソンは道徳的行為の源泉を、生の維持のために社会が個人に 対して課する社会的威圧であるとみなすのである。 第三章個人のうちなる社会 我々各自は、常に社会に属している。社会生活から完全に絶たれた個人を思 い浮かべようとしても、それはむだというものである。彼に社会が目にはいら なくても、社会の方が彼を見守っている。「我々は誰しも絶対的な意味で社会 から孤立することはできない。また孤立しようと思う人もなかろう。」⑫ これとは逆に、個人的自我が社会的自我を生き生きと、また現存するものと して保っている限り、たとえ孤立していても、彼はその社会全体の鼓舞を受け て行動できるのである。自我の堅固さというものは、このような連帯性の中に あるのである。この意味において、「社会的自我を陶冶することこそ、社会に 対する我々の義務の要にほかならぬ。」⑬すなわち自分自身をできるだけ社会 化することが義務なのである。 ベルクソンは道徳的良心についても、この社会的自我との関係から考察する。 「良心の判決とは、社会的自我の下す判決にほかならない。」⑭ そこでベルクソンは犯罪人の魂の中の悔恨の感情を分析してみせる。この感 情は、最初は刑罰への恐れと混同されるかもしれない。しかし綿密に観察して みれば、彼は人々の間にいながら、ただ独り無人島にあって感ずるであろう以 -64-

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上の孤独感を抱いていることがわかる。つまり彼は社会の外へ追放されている と感じている。だが彼は自分の罪を告白することによって、再び社会の中に戻 れるだろう。そうすることで彼は罰せられるだろうが、再び他の人々との共同 性を取り戻せる。ベルクソンによれば、実にこういう心情が犯人を動かして自 首せしめる力なのである。罪人はこうして真実の中に立ち戻ることによって、 再び一本の糸で社会の一点に結びつく。 「彼は社会に対して無関係ではなくなる。いずれにせよ、もはや彼は社会と も、社会から自分自身のうちに運んできたものとも、完全に断絶してはいない。」 ⑮ 彼は完全に社会に戻れたのではないにしても、少なくとも社会の傍らに、そ の近くにいるのである。 ところでカントにおいても良心は「最も鋭い自己審査」として重視されてい る。彼は良心を「内的裁判官」、「人間の内なる内的法廷の意識」と捉えた。⑯ ただしベルクソンの良心の概念とは異なり、それは生得的、知性的な道徳的素 質であり、良心とは実践理性そのものを意味する。だがこうした合理主義道徳 は、ベルクソンによれば、すでに事実上存在している或る実在事象の知的翻訳 にすぎない。或る実在事象とは何か。それは「社会的責務」、つまり社会の統 一、社会の保存と幸福、別の言葉で言えば、「閉じた社会」に有用な力である。 たとえばカントのいう義務の定言命法も、ベルクソンに従えば、社会的有用性 の表現なのである。それ故、義務への服従とは、いわばすでに存在する社会の 要請に対する理性的な分別ある服従なのである。かくして知性のみに訴える合 理主義道徳は、結局、社会的本能、「閉じた社会」への奉仕に終わってしまう。 これに対して高いエートスやキリスト教的な愛徳は、定言命法の彼岸に立つ。 ⑰定言命法はもっぱら素朴な、基本的な道徳だけに関係するが、道徳的な生 活が低い価値の狭い範囲の中に囚われたままであるなら、その生活は内容の乏 しいものとなろう。とはいえ、あらゆるものに向けられ、あらゆるものを愛す る高いエートス、最高の価値の追求は、決して誰にでも要求できるものではな い。この種の徳は少数の選ばれた魂によって渇望されるものである。 こうした観点から、ベルクソンはカント的な義務倫理を越えて、「偉大なる -65-

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人間たちの抵抗しがたい魅力」と「彼らを模倣しようとする人々の憧`原」によ る「開いた道徳」を提唱したのである。 第四章閉じた社会 しかし以上のベルクソンの道徳的責務のとらえ方、すなわち有機体や昆虫社

会との比較による説明の仕方には異議を唱える人があるかもしれない。つまり

ベルクソンの考えている社会は極めて単純な人間社会、原始的な未開の社会に

すぎないとも言われよう。なるほど原始社会では集団が絶対的な力をもち、個

人は集団を離れては存在できなかった。また個人の考え方を規制する倫理は、

集団の慣習である。さらにこの慣習や集団の体制が神聖視されて、「運命」(モ

イラ)とか「正義」(ディケー)などの観念が形成される。ところが人間社会

はいかに進歩し複雑になっても、その士台のたてまえ、自然の意図は同じまま だというのがベルクソンの見方である。ただ文明人が原始人と違うのは、特に

前者にあっての知識と習`慣との莫大な量の集積によるのである。それ故、「我々

の文明社会は、自然が我々を直接に運命づけていた社会とどれほど異なってい ようとも、やはりそうした社会と根本的な類似を呈示している。実際、我々の 文明社会にしても、やはり閉じた社会なのである。」⑱

従って文明社会も所詮は一定数の個人を包容するだけで、他の個人を締め出

すことを本領としている点に変わりはない、とベルクソンはいう。

「閉じた社会とは、その成員が相互に支え合いながら、自分たち以外の人間

には少しも顧慮を払わず、たえず他を攻撃するか、自らを防衛するかの態勢に

ある社会、要するに成員がひたすら戦闘態勢を強いられている社会である。」 ⑲ 社会が我々に課する義務が目指しているのは、社会の結束である。人間が幾 世紀の文明の間に社会の獲得したあらゆるものでどれほど豊かになっているに しても、それでもやはり、社会はそうした原始的本能を必要としているのであ る。要するにベルクソンは、「我々が社会的責務の根底に認めた社会本能は、 どれほど広大な社会であるにせよ、やはり一個の閉じた社会を目指している。」 ⑳とみなすのである。 -66-

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我々は前に、道徳的義務の根底には社会的要求が存在していると言っておい

た。だがそこで考えていたのは、-体どういう社会だったろうか。それは人類

全体を包容するような社会だったろうか。しかし社会的本能自身は、人類を目

指すものではないのである。ところが人は好んで次のように言う。

「国民の徳性は家庭で仕込まれるが、これと同様に祖国愛から人類を愛する

ことを覚えるものだ」と。⑪この場合、我々の共感は連続的進歩によって拡

大し、性質を変えないままで増大し、ついに人類全体を包むに至る、と考えら

れている。だが愛される対象がこのように漸次に拡大してゆくに応じて、それ

に比例して感情も単純に、漸次膨脹してゆくと思うのは錯覚であり、幻想にす

ぎないとベルクソンは述べている。すなわち、

「我々が現在そのうちに生きている社会と人類全体との間には、開きがある。

つまり両者の差異は本質上のものであり、単なる程度の差にとどまるものでは ない。」⑫ ベルクソンによれば、我々が生来的に、直接的に愛するのは、今日でもなお

身内の者や同国人であって、人類愛は間接的のもの、後得のものにすぎない。

我々は順次に家族と国民をへて人類に達するのではないのである。

「我々は、一躍人類のかなたへ移されるのでなくてはならぬ。人類を目標と

せずに、人類を越えることによって、人類に達しているのでなくてはならない。」

人類へはまわり道をしなければならない。なぜなら、人類を愛せるのは、た

だ神を通して、ただ神においてのみだからである。

「閉じた社会から開いた社会へ、また社会体から人類へは、拡大の道によっ

ては絶対に移れない。この両者の社会は本質が違っている。けだし、そうした

変化は質的なものであって、量的なものではない。」⑭これがベルクソンの繰

り返し強調する点である。

第五章道徳的英雄の呼び声

以上では、もっぱら社会の圧力だけを論じてきた。今やこの圧力とは別な道

徳に移る時である。そこで今度は、完全な道徳とはどのようなものかを考えて

-67-

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みよう。

その際、ベルクソンは、この完全な道徳の化身とも言うべき例外的な人々を

考察の対象とする。それはギリシャの賢者やイスラエルの予言者、仏教の阿羅

漢、そしてキリスト教の聖者たちである。ベルクソンは完全な道徳性を彼らの

うちに求め、今まで問題にしてきた道徳との間には単に程度の差ではなく、質

的差異があると強調する。これから研究しようとする絶対的道徳は、模範とな

る特権的な人格に諸人がこぞって模倣することに基づくものである。ではなぜ

聖者たちはこのように模倣する人々をもち、また善の偉人たちはその背後に群

集を引き寄せたのであろうか。

それはたとえば音楽が、ちょうど通りすがりの人を街角の踊りのなかに否応

なく引き入れるときにも似て、道徳における先導者たちは、我々を思いもよら

ぬ情緒の響きのなかに導き入れるのである。

「彼らは何一つ要求しない。しかも獲得する。彼らは諭す必要すらない。彼

らは存在しているだけでよい。彼らの存在がそのまま招きとなる。」⑮

つまり自然的責務が、圧力ないし圧迫であるのに反して、完全な道徳のうち

には、招きがある。人格の呼びかけがそこにある。またそこに見られるのは、

人格に対する信仰と自由なる随順である。このように典型に参入して自己形成

するという随従は、心情の改良であり、心理の変更であり、改心である。

今まで論じてきた義務は、社会生活が我々に課する義務だった。ところが第

二の道徳は単に社会的であるのではなく、全人類的であると言ってよいであろ

う。そこで告知されるのは、新しい生命であり、その時、我々は別の道徳が不

意に出現することを感知するのである。それは道徳的英雄によって喚起される

開いた魂の道徳との接触を意味する。

今までの考察で明らかのように、人間は社会と-体をなしており、両者はと

もに個人的及び社会的保存という同一の仕事に没頭している。その点では、功

利主義的、社会主義的倫理も、カントの義務倫理と同様、閉じた社会の倫理と

言えるであろう。ここでの魂の態度をベルクソンは、円を描いていつまでも一

つ所を旋回している状態にたとえている。それは一種の停止した状態に等しい

であろう。 -68-

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これに対して、もう一方に全人類を包容する「開いた魂」の態度が考えられ る。 この魂は、動物、植物さらには全自然へまでも及び、人類全体を包む真の人 間社会を創造しようとする愛の意志である。なおここで注意すべきは、第一の 態度から第二の態度への移行は、自己拡大によるのではない。つまり社会道徳 と人類道徳との差異は、程度上のものではなく、質的なものである。それ故、 家族愛、祖国愛、人類愛のうち、はじめの二つの感情と、第三の感情との間に 質的差異を認めることが重要である。つまり前二者は選択と排除を含み、従っ て闘争を誘発することがあり、憎悪を除外せぬもの、自然的、本能的なもので ある。ところが第三のものは、愛そのものである。 閉じた社会道徳から開いた人類道徳に至るためには、まず魂を開かねばなら ない。ところで、ベルクソンによれば、閉じた道徳から開いた道徳へと飛躍さ せる駆動力は、「情緒」である。それは超知性的なものとしての「創造的情緒」 である。⑳ベルクソンは、「芸術、科学そして文明一般の偉大な諸創造行為の 原点に、ひとつの全く新しい情緒がある」⑰と述べて、情緒そのもののもつ 創造的能力を強調する。 それは表象に先行し、表象を潜在的に内含し、ある程度までは表象の原因で もあるような情緒であって、単に表象の結果であったり、表象につけ加わるに すぎぬ情緒とは区別される。つまり情緒には二種類あって、そのうち第一のも のは、知性以下のものであって、表象に続いて起こるひとつの動揺にすぎぬ。 心理学者が普通扱っているのはこちらの方である。また世人が感性を知性に対 立させたりするときに考えているのもこれである。 しかしもう一つは、知性以上のものであり、思惟、イデーに先行し、恩`准以 上のものである。かくして、ベルクソンは倫理的行為の実行性を理性にではな く、むしろ第二の情緒的な能力に訴える。彼によれば天才の作品もこの創造的 情緒によって生まれたものであり、また道徳を創造した人々の場合もこれと同 様である。実際、ベルクソンは「二源泉」の中で、作曲家たちの芸術行為と神 秘家たちの倫理的行為との本質的な類似性を指摘している。⑳ ベルクソンにおいては、情緒は魂の感動のことであり、創造は何よりもまず -69-

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情緒を意味する。感性的なものであっても、真に深い情動は、形而上学的実在、

至高存在を発顕させ、さらに倫理的行為を可能ならしめるものなのである。こ

の意味における情緒は、従って、一切の精神的創造の起源であり、新しい生き

方の、また新しい考え方の源泉でさえある。

人類には知的天才がいるように、意志の天才も存在する。道徳的英雄とはそ

の意志的天才である。では何がその人々をそのような天才にするのか。ベルク

ソンによれば、彼らを創造に導くその原動力は、この情緒にほかならない。そ

れはそこから意志と知性が生まれ出る熱情であって、そのような道徳的英雄の

灼熱せる魂が群集の魂をも焼き尽くすのである。

第六章’憧惰の道徳

倫理の原理を理性的なものに求めず、情緒的なものに認めようとする方向は、

シェーラーの倫理学にも見られるが、そこに生の哲学からの影響を見のがすこ

とはできない。また、カントにおいて道徳的感情とは「道徳法則への尊敬」で

あった。この感情は全く理性によって生ぜしめられたものであり、あくまで道

徳法則を前提としてのみ、それに基づいて生ずるものである。従ってまたこの

感情には、常に道徳法則に従うことを責務と感ずる強制が伴われている。かく

してカントにとって、義務の念こそ道徳的行為の動機でなければならない。こ

れに対して、我々はベルクソンを通して道徳の発生における情緒の役割をみて

きた。その情緒を我々が吸い込んでいれば、またその情緒が浸み込んでいれば、

我々はその情緒に従って、それに動かされて行動するだろう。

ベルクソンは、いかにすれば道徳は魂を捉えうるかを問い、倫理的行為の実

効性を求めて、純粋理性にではなく、むしろ情緒的な能力にそれを見いだした。

もはやカント的な純粋理念は道徳的行為の起動力たりえない。こうして彼は、

人格の典型とそれへの自由なる帰依、憧慢によって新しい倫理の道を探究しよ

うと試みるのである。

「宗教の開祖、神秘家や聖者、道徳的生の英雄たちがここにいる。我々は、

彼らの示した模範に引きつけられて、あたかも勝利者の隊列に加わるかのよう

に、彼らに加わる。実際、彼らは勝利者である。彼らは自然の抵抗を粉砕し、

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人類を新しい運命にまで高めたのであった。」⑳ ここでは人はもはや社会的威圧に屈するのではなく、ある魅力に捉えられる

のである。すなわち「圧力」(Pression)のかわりに「億`原」(aspiratiop)を

見いだすことができる。この憧慢の道徳のうちには、暗にある進歩の感情が含

まれている。我々が前に言っておいた情緒とは、この前進への熱情にほかなら ない。まさにこの熱情によって、憧'農の道徳が-部の人々に受け容れられ、さ

らに世界中へ拡がっていったのである。そしてこの熱情の「歓喜」(joie)の

うちには、安楽の「快感」(plaisir)以上のものがある。 さて我々は前に宗教の開祖や神秘家、聖者について触れたが、今この人々の 言葉を傾聴してみよう。

彼らはまず、自分の感じているのは「自由」の感情であると言っている。彼

らは実際、安楽や快楽や富など、大多数の人間をつなぎとめている一切のもの に対して無関心である。それらから解放され、一種の軽やかさと喜悦を覚えて いる。そして偉大な神秘家たちは、自分の魂から出て神に至り、再び神から人 類へまで降りてくるある流れを感得していると言明している。 「私たちが他の人々を愛するのは、神においてである」と宗教は語っている。 しかし、より狭い感情を拡大することによっては、決して全人類を包容するこ とはできない。愛に達するためには、「英雄的行為」(エロイスム)へ参加する 外に道はない。すなわち道徳的英雄たちの行為の模倣、あるいは英雄たちの呼 び声や魅力への応答によって可能になるのである。「神的な人々の呼び声が聞 こえて来れば、我々すべてがその声に追従することはないにしても、それに従 わねばならぬことは万人が感じるであろう。」⑩

第七章「エラン・ヴィタル」と「エラン・ダムール」

ベルクソンによれば、このような自由なる魂、道徳のこの新しい側面を深め てゆけば、そこには生の産出力との合一した感情が見いだされるという。つま り人類を愛する力は、この本源の躍動する力(エラン)との接触のうちから汲 み出したものなのである。 「生の飛躍」(エラン・ヴィタル)は、道徳の英雄を仲介として、種が造ら -71-

(15)

れた当初にはおよそ問題にすらなりえなかった展望を、種の将来のために物質 から獲得する。すなわち社会的連帯から人間的同胞愛へと進んでゆくこと、そ れは自然の計画中にはなかったものである。自然の手から離れたばかりの人間 は、知的で社会的な存在であった。だが人間は思いもかけぬ発展を遂げた。と いうのは人間のうちの特に天賦の才に恵まれた者が、閉ざされていたものを再 び開き、自然が人類のためになし得なかったことを可能にしたのである。 それはベルクソンによれば、人類の偉大な先導者たちが、再び、「生の飛躍」 の方向へと身を置き戻したということである。すなわち人類を引き連れてゆく 英雄的人格によって提示された創造的なる開いた道徳は、自然を超越すること によって、かえって本源的生の創造的飛躍に参与するのである。 ベルクソンは「閉じた道徳」と「開いた道徳」を区別するけれども、それも 発生における二元論を主張するものではなく、二つの道徳の根源的起源を「生 の飛躍」の流れにおいてとらえ、同一の根源から派生したものとして洞察した と見るべきである。 その意味において道徳の英雄と神秘家たちは、自らの内奥に沈潜し、自己を 造り出した「生の飛躍」そのものを直観することによって、自己を超越して、 神の創造に参与したと言われるのである。それは生の根源そのものへの自覚的 還帰を意味している。またそれは、創造的エネルギーの大奔流への突入である。 こうして生命は、社会がさらに前進するのを助けるために、再び生命のなか に浸ったような若干の勝れた個性に対して、新たな推進力を伝えた、と見るこ とができよう。 ここに於いて我々は、ベルクソンが、「道徳はすべて生命学的本質のもので ある」⑪と述べた根拠を理解し得るのである。 第八章開いた道徳 従って「閉じた道徳」と「開いた道徳」との関係は、静止と運動との関係に あると言えよう。すなわち「生の飛躍」の運動が静止して出来たものの一つが 閉じた社会とその道徳であり、これに対して、開いた道徳は運動そのものの中 に再び入ることである。それは止めようとして止めえぬ衝迫であり、動かんと -72-

(16)

してやまぬ要求である。 こうして自らを開く魂は、全き「歓喜」を経験する。それは閉じた道徳にお ける安泰感の経験とは異なる。なぜなら、全くのところ、「歓喜」が前進であ るのにひきかえ、安楽は停止ないし足踏みにすぎないからである。 この意味において「福音書の道徳は、その本質から言って、開いた魂の道徳 である。」⑫ 閉じたものから開いたものへの移行がキリスト教によってなされたこと、し かも突如たる飛躍が行われたのは確かである。そこには創造が見られる。拡大 せずにはおかぬ衝迫、広く伝えようとする熱望、躍動、こうしたものはヘプラ イ・キリスト教的起源のものである。魂が自らを打ち開いてゆくこうした行為 は、定まった法式のうちに閉じ込められた道徳を純粋な精神性へ拡げ高める働 きをするものである。たとえば、主の山上の説教における6つの反対命題の形 式によって、「閉じたもの」から「開いたもの」への飛躍が明瞭に語られてい る。その中の一つを見てみよう。 「隣人を愛し、敵を憎めと言えることあるを汝ら聞けり。されど我は汝らに 告ぐ、汝らの敵を愛し、汝らを責むるもののために祈れ。」(マタイ、5章43節) ここには律法と福音、正義と愛の対比が明らかである。 さらにストア派をキリスト教道徳と比較してみよう。ストア派は自分たちを 世界市民と称し、すべての人間は兄弟であり、同じ神から出たものだとも言っ ている。それはキリスト教の言葉とほとんど同じものである。しかし、それら の言葉は、同じ反響を呼び起こさなかったし、人類を引っぱってゆくことに成 功しなかった。なぜなら、「そこには飛躍(エラン)が欠如していた」⑬ので ある。大火のように魂から魂へと際限なく拡がってゆく感情、あの「情緒」が 見いだされないのだ。 このような類の情緒を古代ギリシャに求めるとすれば、ただソクラテスにお いてであろう。彼は宗教的、神秘的次元の者であった。そうでなければ、ソク ラテスが弟子たちの魂を燃え上がらせたものが理解されない。彼の比類なき魅 力は、「開いた魂」に基づくものである。すなわちストア主義が本質的には哲 学だったのに対して、ソクラテスは何か純粋理性を越え出たものに依存してい -73-

(17)

たと考えられる。 歴史に足跡を残した偉大な道徳的人物たちは、こうして時代を越え相寄って

神の国を形づくり、我々をその国へ招く。そして我々の魂の奥底で何ものカコが

その声に応答し、現実の社会から、その理想の社会へと心のうちで身を移すの である。

「いずれにせよ、新しい社会的雰囲気を、つまり人々が一度その体験をもて

ば、もはや二度と元の状態に戻りたくないと思うような社会を、心のなかで思

い浮かべているような道徳的創造者にいつも立ち戻らねばならぬ。」⑭

そうした少数の選ばれた魂は、集団の限界内に止まったり、自然の確立した

社会の連帯`性に甘んじたりしないで、「愛の飛躍」(エラン・ダムール)に包ま

れて、人類全体を目指して突進したのである。

「このような魂の出現は、新しい種の創造とも言うべきものだった。また創

造的努力の本質そのものと見られる愛を、それぞれ独自無二の形態で顕すもの だった。」⑮

そして創造的情緒が彼らの周囲に拡がっていった。今それらの偉大な有徳者

を思い浮かべ、彼らの言葉を開き、彼らの行為に注目する時、我々もまた彼ら の運動のなかに引き入れられるのを感じる。それは実に抗いえぬ魅力だからで ある。 「生命は、通常はその発生以来、人間種を特徴づけている社会形態の大綱の 保存に専念するものであるが、例外的には、個人の力に頼って社会形態を変貌 させることもある。そしてこの個人とは、その一人一人があたかも新しい種の

出現さながら、実に創造的進化の力を体現した人たちなのである。」⑳

第九章神秘的生と道徳教育

さて「二源泉」の第一章末尾において、ベルクソンは、一種の道徳教育論を 述べている。 しかしそれも終局的には英雄たちの行為への合流をめざすものである。従っ て英雄たちの呼び声あるいは魅力を伝えることが教育の使命となろう。そこに は主知主義倫理の場合と対照的に、義務の定式はもはやない。かえって、カン -74-

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卜が倫理的価値を認めなかった人格の範例の方が取り上げられる。典型、師表 としての英雄たちのイマージュから、ごく自然に彼らのなしたと同じ行為が行 われることが期待されるのである。カントにとって重要なことは、道徳的行為 を規定するアプリオリな原理であったが、ベルクソンにおいては、英雄たちが 倫理教育にとって重要な契機である。実際、魂に作用するのは、抽象的な道徳 法則ではなく、直観的な典型だけである。それ故、典型は規範よりも根源的な ものである。 とはいえ、純粋理性に訴え、義務に結びつける道徳教育の効用と必要性を否 定しているわけではない。ただ道徳的感覚に確信と洗練とを与えるためには、 知性に訴える教育だけでは不十分なのである。 そこで彼は、二つの道が教育家に開かれていると考える。その一つは、賎の 道であり、今一つは、神秘的生の道である。第一の方法によって、非個性的な 習慣からなる道徳が注入される。だが第二の方法によっては、ある人物の模倣 が得られ、さらにその人物との精神的結合が得られる。ベルクソンにおいては、 人間的な理性の自律性よりも、人間的なものと神的なものとの結びつきの方が 強調されている。「我々は第二の方法を宗教的と呼ぼう。いな、神秘的とさえ 呼びたい。」⑰ この第二の場合では、人はある人格の招きに応答するのである。ベルクソン は、一般人の英雄たちへの合流を次のように描いている。 「偉大な神秘家の言葉が、我々のうちの誰かのうちに反響を見いだすとすれ ば、それは我々自身の胸底にも神秘家が-人眠っており、目覚まされる機会を ひたすら待っているからではないだろうか。」⑱ これは英雄たちに従うこと、模倣することが、そのまま追従者たち自身の真 実の自己の開花になる、ということを意味する。その時、自分とは比較になら ぬ大きな力をもった存在に浸透されているのを感じる。その様は、歓喜のなか の歓喜ともいうべき再生の経験であろう。真の神秘主義の言葉を聞くとき、大 部分の人々の胸奥には、何かそれに反響するものがある。そして神秘主義は、 真に驚嘆すべき展望を打ち開いてくれる。またその極致は、生命の顕示する創 造的努力と触れ合うことである。事実、神秘家は、自分の内部に自分自身より -75-

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も勝れた何ものかを感じている。それは人間生活の調子を一変させ得る全く新

しい情緒として、彼のうちにある愛である。

「偉大な神秘家とは、人間種のさまざまの制限を飛び越え、神の働きを続け、

かくしてそれをさらに先へ伸ばしてゆくような個性のことである」⑳とベル

クソンは定義し、さらに彼は、「完全な神秘主義とは、行動であり、創造であ

り、愛でなくてはならない」⑩と述べている。

さて熱烈な愛と行動的なものこそ「完全な」神秘主義だとするベルクソンは、

ギリシャの神秘主義は絶対的意味での神秘主義へは達しえなかったとみなす。

たとえばプロティノスは確かに神秘主義者の一人である。しかし、「行動は観

想(テオリア)の衰弱である」とする彼は、依然としてギリシャ主知主義への

忠誠を守っている。彼は脱我の境地から、さらに行動のなかに沈潜する地点に

は達しなかったのである。

では東洋の神秘主義についてはどう見ているであろうか。インド人はバラモ

ン教の初期から、解脱は諦念によって得られると確信していた。この諦念は自

分自身および万有への没入であった。また仏教は、バラモン教の方向を変えは

したが、それを本質的に変容させはしなかった。もとよりベルクソンは仏教が

愛を知らずにいたなどと言うのではない。ただ仏教は、人間行動の効力を信じ

なかった。それは人間の行動の効力に信頼をおかず、そのペシミズムによって、

神秘主義の徹底化を阻まれたのである。

「それ故、ギリシャにも古代インドにも、完全な神秘主義は、飛躍(エラン)

が不十分だったため、さらに偏狭にすぎる理知に妨げられたために存在しなかっ

た」⑪と結論づけている。

第十章キリスト教神秘主義

ベルクソンにとって「完全な神秘主義とは、やはり偉大なキリスト教神秘家

たちのそれである。」⑫そして具体的には、聖パウロ、シエナの聖カテリナ、

聖テレサ、聖フランチェスコなどの名をあげ、彼らの特性として、行動への熱

意、堅忍、予言的な識別力、単純の精神、さらにすぐれた良識を指摘している。

また彼らは一切を包む大歓喜、あるいは脱我などの神秘的経験をする。その

-76-

(20)

時、神がそこにあり、魂は神のうちに在る。 「最早われ生くるにあらず、キリスト我が内にありて生くるなり。」 (ガラテヤ書、2章20節) パウロの魂は神性に満たされており、神の活動と-つなのである。

「だが大神秘家にとって、真に大切な問題は、まず自ら模範を示して、人類

を根本から造り変えることである。」⑬すなわち彼は、神を通して、神の愛を もって全人類を愛する。 「愛において働く信仰のみ益あり。」(ガラテヤ書、5章6節) もちろん、それは哲学者たちが理性の名のもとに勧告した同胞愛ではない。 それをベルクソンの言葉で述べると、「神秘家の愛の方向は、生命の飛躍の方 向そのものであり、こうした愛は、特異な天賦の人々に完壁に伝えられた生命 の飛躍である。」⑭ このような「エラン」(飛躍)がキリスト教の偉大な神秘家のうちには見い だされるのである。それ故、彼らは一般に行動の人であったのである。 こうして「二源泉」においては、偉大な神秘家を通じて、愛の神が説かれる に至る。 「我々が神を必要としているように、神もまた我々を必要とし給う。もし我々 を愛するためでないとするならば、どうして神が我々を必要としよう。」⑮ また、「創造とは神の愛を受けるに値する存在を仲間とし給う神の御業である」

⑯とも述べている。ここでは、ベルクソンの神は、創造者であると同時に、

人格的な愛の神であり、人間と神との人格的な交わりが説かれている。このこ とからも彼の神概念は全くキリスト教的であることが明らかであろう。 「神は愛であり、愛の対象である。また神の愛は、神に属した何ものかなの ではない。この愛が神自身なのである。」⑰ このベルクソンの言葉は、まさにキリスト教の愛の観念の決定的表示たる、 「神はアガペーなり」と一致するものである。 「愛は神より出ず、おおよそ愛ある者は神より生まれ、神を知るなり。愛な き者は神を知らず、神は愛なればなり。」(ヨハネ第一書、第4章7節) なぜ神は愛し給うのか。それは愛することが神の本質だからである。 -77-

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「愛する者よ、かくのごとく神われらを愛し給いたれば、われらもまた互い に相愛すべし。」(同書、4章11節) かくして、ベルクソンの「開いた道徳」がここにおいて、キリスト教神秘主 義と完全に一致することは、以上の考察から明らかである。 第十一章ニーチェとペルクソン ベルクソンは、彼の「生の哲学」の延長線上に愛の神を見いだした。また、

「社会の圧力」と「愛の飛躍」とは、生命の互いに補い合う二つの発現であり、

道徳的英雄たちも、実に創造的進化のエネルギーを体現した者として把握され ている。そしてベルクソンが、このような神を知ることができたのは、キリス ト教神秘主義の研究を通してであった。 ところで、同じく「生の哲学」に立脚しながら、逆に、キリスト教から出発 して、反キリスト者に変貌した思想家がいる。周知のように、その人とはニー チェである。 ニーチェにおいて、「生の本質」とは、生を拡張、増大させようとする「権 力への意志」である。彼はこの自己超克の意志を「超人」という概念によって 表示し、キリスト教の思想と対抗させたのである。すなわちニーチェは、キリ

スト教道徳は、同情や寛容、謙虚と従順、忍耐の美徳を説くが、そこには弱者

の強者への「ルサンチマン」(怨恨感情)がひそんでいると解釈し、隣人愛の

教説は、弱者の無力感、嫉妬と憎悪の屈折した表現にすぎないと断言したので ある。

「惨めな者のみが善い者である。貧しい者、力のない者、賎しい者のみが善

い者である。悩める者、乏しい者、病める者、醜い者のみが唯一の敬虐なる者

であって、彼らの身にのみ至福はある。」⑱ こうして道徳における奴隷一摸が始まる。それは弱者の優れた者、高貴なる 者への精神的な復讐による価値転倒にほかならない。 では彼の「君主道徳」、貴族的方式による道徳とはどのようなものであろう か。

「善とは何か?-権力の感情、権力への意志を高める一切のもの。

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(22)

悪とは何か?-弱さに由来する一切のもの。

幸福とは何か?-権力がしだいに大きくなる感情、抵抗を克服してゆく感

情。

弱者と出来損いは亡びるべし-これが我々の人間愛の第一命題。彼らの滅

亡に手をかすことはさらに我々の義務である。

およそ悪徳よりも有害なるものは何か?-すべての出来損い的人間と弱者

に対する同情的行為、キリスト教。」⑲

ここに見られるのは、支配欲、力こそ正義なりという冷酷、非情さである。

豊かな生命力の肯定が、ただちに弱者を押しつぶして進む、強者の原理と同一

視されている。

しかしニーチェのこのようなキリスト教解釈上の一面性と誤解は、ベルクソ

ンの「開いた道徳」ないし「開いた魂」の立場から、正しい方向で解釈され、

美しく結晶するに至ったのである。

ベルクソンはこう語っている。「私にとっては、聖人こそは真の超人であっ

て、ニーチェの超人はそのまがいものにすぎない」と。⑩

ベルクソンにおいて、ニーチェの権力意志説がもっていたエゴイスティック

な側面は克服され、生命の発展のしるしとして「愛の飛躍」(エラン・ダムー

ル)という人格性の原理が展開されていった。ここに我々は、既成道徳に対す

るニーチェの積極的破壊の意志が、生命再建の実践へとよみがえり、純化され

た愛の宗教として更生されていく姿を見てとることができよう。従って、ベル

クソンこそ、ニーチェ思想のもつ、ニヒリズム的傾向をみごとに肯定へと転換

させてくれた人であったと言ってよいであろう。

第十二章「愛の飛躍」と「生命への畏敬」

以上の意味において、ベルクソンに最も近い思想家として、A・シュヴァイ

ツァーをあげることができるであろう。彼もまた、ニーチェ思想との対決を意

識しつつ自己の倫理を構築した哲学者の一人である。

さてシュヴァイツァーは、西洋の哲学の歴史は、楽観的世界観を求める苦闘

の歴史であると言う。⑪彼によれば、西洋の哲学者たちは、楽観論的・倫理

-79-

(23)

的世界観を実証しようと努力し、そのため人生の意味を世界の意味によって把 握しようと試みた。だが、それは不可能なことであった。なぜなら世界には悪 が存在し、合目的性を疑わしめる現象がいくらでもあるからである。それ故、 シュヴァイツァーは、別の考え方をとり、人生観を直接、我々の内にある「生 きんとする意志」に求めた。 「生きんとする意志の本質は、十分に生きぬこうとすることである。すべて のものは、自己を完全に実現しようとする欲求をもっている。それは生存とと もにすべてのものに与えられている。」⑫ しかし、やがて人が成長し思考が目ざめると、人生の意味について懐疑が生 ずる。しかもそれは、たいてい悲観論的となり、ついには自殺さえ肯定しはじ める。しかし人間は自殺を拒否する。なぜだろうか。シュヴァイツァーは、そ れは、「生きんとする意志」の方が、悲観論的認識よりも強いからであると言 う。 だから我々は、人生の単純な肯定を、自覚されたそれに転じなければならな いo 「倫理は、わが生きんとする意志における生命肯定とともに自然に与えられ ているところの世界肯定を、私がどこまでもつきつめて恩'准し、実現しようと することによって生ずる。」⑬ さらに真の楽観論とは、個人の生きんとする意志をして、他のすべての生き んとする意志との共存を体験することである。 「それ故、倫理とは、私がすべての生きんとする意志に、自己の生に対する と同様な生命への畏敬をもたらそうとする内的要求を体験することにある。」 ⑭つまりそれは、「私は生きんとする生命にとりかこまれた生きんとする生命 である」⑮という認識である。 その際、シュヴァイツァーはその生命がどれほど価値があるかなどとは問わ ない。彼にとっては、生命そのものが神聖なのである。従って、倫理とはすべ ての人が自己の生きんとする意志を畏れ敬うことであり、同時に生きんとする 意志をもつ他のすべての生命を畏れ敬うことである。それ故、シュヴァイツァー の倫理の根本原理は、生命への畏敬によって動機づけられた、生命への献身で -80-

(24)

ある、と言えるであろう。 「生命への畏敬とは、すべての存在の基礎をなしている無限の、究めがたい、 前進する意志への感動である。」⑯ 以上のシュヴァイツァーの思想と比較した場合、ベルクソンの「二源泉」の 思想もまた、同一の問題意識のもとに展開されていることが理解されるであろ う。たとえば彼は、「経験的オプティミズム」を提唱している。それは次の二 つの事実を確認することによって成立すると言う。すなわち、 「第一に、人類はともかく生に愛着しているのだから、全体として生を善い ものと判断しているということ。第二に、快苦の彼方に位置する至純な歓喜が あり、神秘家が最後に到達した純粋な歓喜というものが存在するということ。」 ⑰ こうした見地から楽観的世界観が正当化される。これがすなわち、ベルクソ ン的オプティミズムである。つまり、ここでは歓喜と神秘家の現存性によって、 楽観論が肯定されているのである。 またシュヴァイツァーにおいては、我々が愛と呼んでいるものの本質は、 「生命への畏敬」として把握されていた。この態度は、まさにベルクソンにお ける「開いた魂」の態度そのものと言ってよいのではなかろうか。 「この魂は、全人類を包容する、と言っても決して言い過ぎではないであろ う。いな、それでもまだ不足でさえある。なぜなら、この魂の愛は、動物、植 物、さらには全自然へまでも拡がっているからである。」⑱ 以上の比較によって、ベルクソンにおける「生命の飛躍」の究極の形態たる 「愛の飛躍」の思想と、シュヴァイツァーにおける神秘的な「生きんとする意 志」による「生命への畏敬」の思想との共通性は明らかである。 従来の西洋の倫理は、人間および社会に対する態度だけを問題としてきた。 それは狭すぎるという欠陥をもっていた。しかし今や、倫理はあらゆる生命に まで拡大され、すべての生命への善意ある態度であるという思想に到達したの である。そこには、「愛の形而上学」と「神秘的精神」が見いだされる。 かくして、すべての偉大なる倫理は、深い宗教性を秘めているというのかi我々 の考察の結論である。 -81-

(25)

<図説・ベルクソン倫理学の全体構造と過程〉

(エラン・ヴイタル) 生の飛躍 閉じた道徳 一一 閉じた社会 開いた魂 一一 創造的情緒 愛の飛躍 (エラン・ダムール) 開いた道徳 一一 開いた社会

=〉

=〉

二>

二つ

-82-

(26)

【引用文献・脚注番号】

ベルクソンの原著からの引用ページ番号は、全て現行のPUF版のものであ

る。なおアンドレ・ロピネ編の「ベルクソン著作集」(フランス大学出版局、'959年)

には、PUFのページ付けが横に添えられている。「道徳と宗教の二源泉」の略

号は、nsで表記される。 8 33 02380039007 9M070673078079003344547762239424315589911222222222 ①●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● PPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPP ●●●●●■●●●●●●●●●●●●●●●DC●● SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSS 。●●●●●●●●□●●■●●●●●●●●●●CD

DDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDD

⑳⑭⑮⑳⑰⑳⑳⑩⑪⑫⑬⑭⑮⑳⑰⑱⑲⑩⑪⑫⑬⑭⑮⑯⑰

①中田光雄「ベルクソン哲学」 (東京大学出版会)P326~327 ②上掲書、P338 ③DSP、338 ④中田光雄、上掲書、P343 ⑤DSP19 ⑥DSP、17 ⑦DSP222 ⑧DSP283 ⑨DSP23 ⑩DSP2 ⑪DSP7 ⑫DSP9 ⑬DSP、8 ⑭DSP10 ⑮DSP、11 ⑯Kant・全集Ⅵ(アカデミー版)P438 ⑰NHartmann.「哲学入門」邦訳 (晃洋書房)P179 (石川文康、岩谷信)訳 ⑱DSP25 ⑲DSP、283 ⑳DSP、27 ⑪DSP27 ⑳DSP28 -83-

(27)

⑱ニーチェ「道徳の系譜」 (第一論文、第七節) ⑲ニーチェ「反キリスト者」(第二節) ⑩セルティランジュ 「アンリ・ベルクソンとともに」1941 三嶋唯義訳(行路社)P23 oシユヴァイツァー「文化と倫理」1923 第二部、5章~16章参照 邦訳「シュヴァイツァー著作集」第7巻 (白水社)氷上英広訳 70117 89219 233327 PPPPPⅣ狐

薔曹曹薔嘗PP

掲掲掲掲褐SS 上上上上上DD ⑫⑬⑭⑮⑯⑰⑱ 【参考文献】 坂田徳男、澤潟久敬共編「ベルグソン研究」、勁草書房、1961 中田光雄「ベルクソン哲学」、東京大学出版会、1977 市川浩「ベルクソン」、講談社、1983 淡野安太郎「ベルグソン」、勁草書房、1958 池辺義教「ベルクソンの哲学」、第三文明社、1976 中島盛夫「ベルグソンと現代」、塙書房、1968 ジヤンケレヴイツチ「アンリ・ベルクソン」、新評論、1988 ヴイエイヤール・バロン「ベルクソン」、白水社、l993 森田雄三郎「シユヴアイツァー」、日本基督教出版局、1973 笠井恵二「シユヴアイツア一.その生涯と思想」、新教出版社、1989 川島秀一「カント批判倫理学」、晃洋書房、1988 小倉志祥「カントの倫理思想」、東京大学出版会、1972 ペイトン「定言命法・カント倫理学研究」、行路社、1986 ゲオルク・ピヒト「ニーチェ」、法政大学出版局、1991 ミユラー・ラウター「ニーチェ・矛盾の哲学」、以文社J983 ジル・ドウルーズ「ニーチェと哲学」、国文社、1974 三島憲一「ニーチェ」、岩波書店、1987 ●●●●●●●●●●●●●●●●● 1234567089m、咀旧Ⅲ咀肥Ⅳ -84-

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