産業革命期におけるスコットランドの人口動向
─人口成長と都市化─
林 妙 音
はじめに イギリス・ブリテン島を構成するイングランド、ウェールズ、スコットランドの三地域は 18世紀中ごろから農業生産性の向上と工業化の始動にともない、人口成長の歩調が加速し、 人口の地域的分布に変化の兆しが現われた。イングランドとウェールズ両地域の総人口数は 1741年から1801年までの間におおよそ600万人から890万人へと約1.49倍に増加した。19世紀 にはいると人口成長の勢いはいっそう増していき、産業革命が終盤を迎える1851年において イングランドとウェールズ両地域の居住人口は1792万 8 千人という水準まで増加するにい たった1)。一方、ブリテン島の北方に立地するスコットランドも18世紀中ごろより人口増加 の速度が加速化しはじめ、長期的に顕著な人口成長をなし遂げた地域であった。18世紀のス コットランドの総人口数に関しては、現存する集計数値が二点のみであり、一つはエティン バラの教会牧師 A. ウェブスター Webster, A. が1755年刊行の『スコットランドの人口数に 関する論考』Account of the Number of People in Scotland で発表した人口数─126万5380人であり2)、もう一つは1798年に公刊した『スコットランド統計報告書』第20巻 The Statistical
Account of Scotland で記載されている人口数─152万6492人であった3)。この二つの集計数
値はいずれもスコットランド教会総会の管轄下にある各教区駐在の牧師から回収した調査 報告やアンケート回答をもとに算出された数値であり、基礎資料自体は均質性と正確さを欠 いており、算出方法などの技術的要素も難点があったとされているが、当時の人口実情から
1) Richard Lawton, 'Population', in John Langton & R.J. Morris (eds.),
, Routledge, 1986, p.10 ( J. ラングトン& R.J. モリス編 米川伸一・原 剛訳『イギリス産業 革命地図─近代化と工業化の変遷1780-1914』原書房、1989年、10頁);B.R. Mitchell,
, Cambridge University Press, 1988, pp.7-9 (B.R. ミッチェル編/犬井正監訳・中村壽男訳『イギ リス歴史統計』原書房、1995年、7-9 頁)。
2) John Sinclair,
, Vol. 21, 1799, p.381. ウェブスターの算出・分析による総人口数と人口の年齢分布な どはスコットランド統計報告書の第21巻に収録されており、本稿はそれに準拠する。
3) John Sinclair, , Vol. 20, 1798, pp.620-621. スコットランド統計報告書 の作成経緯、作成方法、史料性格については、下記の文献を参照。Arthur Geddes, Scotland s Statistical Accounts of Parish, County and Nation: c. 1790 - 1825 and 1835 - 1845 , , Vol. 3 (1959), pp.17-22 ; 菊池紘一「18世紀スコットランド地主と村落創設運動」『社会経済史学』第37巻第 6 号、1972年、 2-5 頁;新井嘉之作「スコットランド先進地域における農業近代化の一段階─1790-1795年のロシアン農 業─」『社会経済史学』第44巻第 2 号、1978年、4 -5 頁;林 妙音『スコットランド近代繊維工業の展開』 晃洋書房、2017年、194、207頁。
そう離れたものではない概算数値とみて利用すればよいであろう4)。また、19世紀に入るとス コットランドもイギリス全国センサス5)の実施対象地域となったため、10年ごとに全域各州 各教区の居住人口に関する詳細な統計数値資料が残されている。表 1 はこれらの現存する人 口統計史料にもとづいて1750年代から1900年代にかけての人口動向をイングランド(ウェー ルズを含む)、スコットランド、アイルランドの四地域に分けて比較したものである。 表 1 から、イングランド、ウェールズ、スコットランドの三地域とも19世紀全般にわたっ て人口の持続的増加を経験したことと、アイルランドは1840年代までに人口成長が続いたも のの、その後人口減少の一途を辿るようになったことがわかる。よく知られているように、 アイルランドは1840年代中頃にジャガイモの胴枯れ病に起因するジャガイモ飢饉が発生し た後6)、住民の域外への流出が加速化し、長期的に人口減少に見舞われた地域であった。ア イルランドは18世紀全般を通して亜麻製品の生産が家内工業の形で農村地域を中心に普及 していたことに着目し、そのプロト工業のパフォーマンスを高く評価する研究がいくつか存 在している7)。しかし、一部の歴史人口学研究はアイルランドの農村工業の発展が早婚や高 出産などのような人口増加の促進要因を生み出し8)、農村の貧困と稠密な人口問題をさらに 悪化させたことを強調する一方、結果的に人口の重圧で資本の蓄積が捗れないまま、食糧 危機の突発的な発生によってこれまでの人口増加の力学が一挙に崩壊し、人口の大量流出と 脱工業化の動きが加速するようになったという論点を提示している9)。プロト工業化研究と 歴史人口学研究が描いたこのようなアイルランドの近代経済史像と比較すると、スコットラ ンドはプロト工業化の後につづく近代工業の発展にかぎってみれば、アイルランドと著し
4) Henry Hamilton, , Clarendon Press. Oxford, 1963, pp.3-4 ; T.C. Smout, - , Fontana Press, 1985, pp.240-241 (T.C. スマウト著 木村正俊監訳『スコットランド国民の歴史』原書房、2010年、250頁);William Ferguson, Oliver & Boyd, 1968, pp.174-175 (W. ファルガスン著 飯島啓二 訳『近代スコットランドの成立─18世紀-20世紀スコットランド政治社会史─』、未来社、1987年、175 頁);R.A. Houston, The Demographic Regime , in T.M. Devine and Rosalind Mitchison (eds.),
- , John Donald Publishers Ltd., 1988, p.10;Michael Anderson, The Demographic Factor , in T.M. Devine and Jenny Wormald (eds.),
, Oxford University Press, 2012, pp.39-40. M. アンダーソンはウェブスターが提示した人 口数について修正を行って、18世紀中頃のスコットランドの総人口は115万人から135万人までの範囲内で 推移していたとしている。 5) イギリスにおいて最初の全国人口調査が実施されたのは1801年の第 1 回センサスにおいてであり、それ 以後10年ごとにセンサスが実施されてきた。なお、イギリスの全国人口調査・センサスの成立背景や実施 状況については、安元 稔編著『近代統計制度の国際比較─ヨーロッパとアジアにおける社会統計の成立と 展開』日本経済評論社、2007年、第 3 章を参照。 6) 勝田俊輔・高神信一編『アイルランド大飢饉─ジャガイモ・「ジェノサイド」・ジョンブル』刀水書房、 2016年、9 -24頁。 7) 松尾太郎『近代イギリス国際経済政策史研究』法政大学出版局、1973年、101、103、226-227、236-58頁;Leslie A. Clarkson, The environment and dynamic of pre-industry in Northern Ireland , in Pat Hudson (ed.), , Cambridge University Press, 1989, pp. 254-65.
8) 斎藤修『プロト工業化の時代』日本評論社、1993年、146-48頁。
9) Christopher A. Whatley, , Cambridge University Press, 1997, p.38; 勝田・高神編『アイルランド大飢饉』、49-64頁。アイルランドの脱工業化 de-industiralisation の動きは食 糧危機が起きる以前の1820年代にすでに進行していた。19世紀中葉以後、脱工業化の運命から免れたのは ベルファストとその周辺地域のみであった。
い対照を示しており、いわば「産業革命」に成功した地域とみなされている。表 1 が示す通 り、スコットランドは1750年代から19世紀全般にかけて持続した人口成長の傾向を保持し ており、人口成長と諸産業活動の進展という二つの巨大な歴史過程は同時に進行していた地 域であった。人口成長は経済発展を推進する原動力であったのか、それとも人口成長は経済 発展がもたらした結果であったか、両者の間の因果関係の性質や方向はどのようなものなの か10)、P. ハドソンや R.C. アランが提起したこの課題を本稿の基本的問題意識にすえ、次は人 口という要素に焦点を当て、18世紀中葉以後のスコットランドの人口動向についてイングラ ンドと比較しながら、人口成長と都市化という二つの側面から検討することにする。 1 人口成長率、出生率、死亡率 表 1 をもう一度確認すると、18世紀後半の50年間においてスコットランドの人口は年平均
10) Pat Hudson, , Hodder Arnold, 1992, p.133 (パット・ハドソン著 大倉正雄 訳『産業革命』未来社、1999年、175頁);Robert C. Allen,
, Cambridge University Press, 2009, p.106 (R.C. アレン著 真嶋史叙・中野忠・安元稔・湯沢威 訳『世界史の中の産業革命:資源・人的資本・グローバル経済』名古屋大学出版会、2017年、120-121頁)。 表 1 イングランド(ウェールズを含む)、スコットランドとアイルランドの人口動向 ─ 1750年代 -1901年 単位:1000 人 地域 時期 イングランド (ウェールズを含む) スコットランド アイルランド 1750年代1) 6,467 1,265 3,191 1790年代2) 9,055 1,526 4,753 1801年 8,893 1,608 ─ 1811年 10,164 1,806 ─ 1821年 12,000 2,092 6,802 1831年 13,897 2,364 7,767 1841年 15,914 2,620 8,178 1851年 17,928 2,889 6,554 1861年 20,066 3,062 5,799 1871年 22,712 3,360 5,412 1881年 25,974 3,736 5,175 1891年 29,003 4,026 4,705 1901年 32,528 4,472 4,459
出所:B.R.Mitchell, , Cambridge University Press, 2011, pp.8-10.
注 1 )イングランドの人口数はリックマン J. Rickman が算出した1750年から1751年までの数値であり、アイ ルランドの人口数はコンネル Connell が算出した1754年の数値である。
注 2 )イングランドの人口数はリックマン J. Rickman が算出した1795年から1796年までの数値であり、アイ ルランドの人口数はコンネル Connell が算出した1791年の数値である。
約0.6%の成長率で増加していたことがわかる。この数字はスコットランドより 5 倍以上も多 い人口を持つイングランドの人口成長率の0.7パーセントにせまる水準であった11)。19世紀に はいると諸産業活動の活発化に呼応しているかのように、両地域はいずれも空前の人口増加 の時代に突入するようになった。人口成長率からみれば、スコットランドは19世紀前半期に おいて年平均1.6パーセント弱の比率で、イングランドは年平均 2 パーセントの比率で人口 が増加しつづけていた。1750年代から一度も鈍化したことのない人口増加が進行した結果、 1840年代ごろのブリテン島はとにかく人間で充満している国へと変貌を遂げてきた。これほ ど長期にわたってあまり類例をみない大規模な人口成長はどの程度まで出生率の上昇と死 亡率の低下からもたらされた結果であったのか。この問題の検証を念頭に、次はイングラン ドと比較しながら、スコットランドの出生率と死亡率の動向を確認しておこう。
表 2 はヒューストンによるスコットランドとイングランドの出生率 Crude Birth rates と
死亡率 Crude Death Rates の推移を比較したものである12)。この表からまず読み取れること
は、18世紀中頃にはスコットランドの出生率と死亡率はいずれもイングランドのそれらよ り遥かに高くて、人口事情はアイルランドと同様に、高圧な状態にあったことである。ただ し、イングランドほどではないが、スコットランドのこの時期の出生率は高い死亡率に相 殺されても余りあったため、人口はすでに増加傾向に入っていることが考えられる。1791年 になるとスコットランドの出生率と死亡率はいずれも大幅な下落を見せているが9)、死亡率 の下落幅は出生率のそれを大きく上回っていることもあり、人口増加の規模はこの間に大幅 に拡大しているように思われる。スコットランドが示すこの動きに対して、この時期のイン グランドは出生率が0.6パーセント上昇しており、死亡率が1755年のそれと変わらない水準 に止まっていることから、人口成長の速度であれ、人口の自然増加の規模であれ、いずれも 1750年代中頃より一段と拡大したことがわかる。そして、産業革命の動きが一段落した1861 年頃にはスコットランドの出生率は1791年のそれと同じ水準を保っており、死亡率は0.2% 低下しているのとは対照的に、イングランドの方はどちらの変数も低下傾向を示している が、死亡率の下落幅が出生率のそれより大きかったことから、次のような見方をとることが できよう。つまり、多くの近代工業が急速に成長した19世紀前半においては、スコットラン ドは人口成長の歩調が比較的に安定してきているのに対して、イングランドは死亡率の低下 という要因の働きで人口成長が依然として加速傾向を保っていたということである。また、 表 2 を横の方向で読みかえて両地域の人口変数を比較し直してみると、スコットランドとイ ングランドの出生率と死亡率の格差は時間の進行とともにしだいに縮小し、1861年には両地 域の人口変数はほぼ同じ水準に落ち着いていることがうかがわれる。 人口成長に寄与する要因として出生率の上昇、もしくは死亡率の低下、どちらの方がより 重要な意味をもつかという問題の検証に立ち戻って、表 2 と上述した分析内容を再度確認し てみると、イングランドとスコットランドの人口成長の背景に明確な相違が存在しているこ 11) 安元 稔『イギリスの人口と経済発展─歴史人口学的接近』ミネルヴァ書房、1982年、36頁。
12) R.A. Houston, The Demographic Regime , p.14. 表 2 の作成者であるヒューストン自身が注意を喚起し ていることだが、18世紀のスコットランドの人口状況について利用可能な統計資料は“はじめに”で言及 した二種類しかなく、正確な人口指標の算定は資料的にも、技術的にも無理が多く、したがって表 2 で示 されているスコットランド側の数値は大きな誤差が含まれていることに留意しなければならないという。
とに気づく。事実、1980年代以後に発表したイングランド歴史人口学の数々の優れた研究は ほぼ一致して、出生率の上昇が1740年代以後のイングランド人口の加速的な自然増加の主要 な寄与要因だという見解を示している13)。しかし、表 2 が示しているようにスコットランド の場合は18世紀後半以後には出生率の上昇が観察されておらず、むしろ死亡率が持続的に低 下しており、この死亡率の低下こそ18世紀中頃以後の人口成長に貢献した主要な要因である ように思われる。もちろん、スコットランド全域の平均出生率は18世紀前半にはすでにかな り高い水準で推移しており、18世紀後半にはいると若干低下するようになったが、その水準 は依然としてイングランドのそれとほぼ変わらない高さであった14)。この高い出生率自体は 人口成長の寄与要因であることは疑う余地がなかったが、1790年代から1860年代までの間に スコットランドの出生率はかなり安定した水準を保っていたため、産業革命期において死亡 率の低下の方が人口成長に対する貢献度としては、出生率のそれより大きかったというよう に考えてもよいであろう15)。 3 人口の地域分布の変化と都市成長 人口の量的規模の増大にともなって、人口密度が1801年から1851年までの間にスコットラ ンドのハイランド地方や南部高地地方、そしてウェールズの一部の地域を除いて、ほぼイギ 13) 安元『イギリスの人口と経済発展』35-39頁;Pat Hudson, , p.135. (ハドソン 著 大倉訳『産業革命』176-177頁。)フェルナン・ブロテール著 村上光彦訳『世界時間 2 物質文明・経済・ 資本主義15-18世紀Ⅲ-2』1999年、みすず書房、243頁; Joyce M. Ellis, - , Palgrave, 2001, p.31.(ジョイス・M. エリス著 松塚俊三/小西恵美/三時真貴子訳 『長い18世紀のイギ リス都市 1680-1840』法政大学出版局、2008年、46頁。)ブロテールとハドソンはイングランドの持続的人 口増加の開始時点が1740年代としているが、安元はそれより10年早く、つまり1730年代に人口の持続的増 加傾向がすでに開始していると見ている。 14) T.C. Smout, - , pp.248-249.(スマウト著 木村監訳『スコッ トランド国民の歴史』256-59頁)。
15) Henry Hamilton, , pp.4-5 ; R.A. Houston, The Demographic Regime , pp.23-24.
表 2 スコットランドとイングランドの出生率と死亡率の比較 ─ 1755/6 年、1791 年、1861 年─ 単位:千人比 出生率 死亡率 スコットランド イングランド スコットランド イングランド 1755/6年 41 33 38 26 1791年 35 39 24 26 1861年 35 36 22 21
注:出生率と死亡率は crude birth Rate と crude death rate を指す。
出所:R.A.Houston, The Demographic Regime , in T.M.Devine and Rosalind Mitchison (eds.), - , John Donald Publishers Ltd., 1988, p.13.
リス全土は人口密度の増加を経験するようになった16)。人口密度ないし人口分布の変化は地 域の間に大きな差異が存在していたが、顕著な傾向としてはより多くのイギリス人は都市と 工業地域に集住するようになり、人口はますます工業地帯と都市にかたよっていた17)。首都 のロンドンとエディンバラ、そして中世以来の地方特権都市は無論のこと、工業化の急速な 進展を反映して新興工業都市、港湾都市、炭鉱都市は数であれ、人口規模であれ、いずれも 倍にふくれあがって、都市経済は未曾有の好況に沸いていた18)。 イングランドと同じように、スコットランドも都市人口の自然増加と農村、ハイランド地 方、アイルランド地域からの移住者の流入という二つの動態要因で都市の数と都市の人口規 模が増大する一途をたどっていた。この地域では人口移動の促進要因が長期にわたって農村 社会に存在していた。例えば、当時かなり厳しい社会的批判を浴びていた限嗣相続制 entail という、土地の相続売買や経営方法を拘束するこの地域特有の制度があった。限嗣相続制が 18世紀後半まで生き伸びており19)、それは土地改良を妨害し、商工業の繁栄と人口の増加に
阻止的作用を及ぼす土地制度だとケイムズ卿 Henry Home, Lord kames (1696-1782)20)を中
心とする同時代の農業や社会改良に熱心な進歩的有識者たちが常に酷評していた4)。スコッ トランドの啓蒙思想家たちの視点からみれば、限嗣相続制は増大する農村人口を扶養する農 業生産性の上昇をさまたげる制度であり、結果的に農村からの人口流出を引き起こした制度 的要因となっていたのである21)。 スコットランドにおいて、小作農たちを無理やりに農村から押し出したもう一つの制度的 要因は囲い込みの動きであった。資源や生活物資が欠乏しがちなハイランド地方では1760年 代から広大な羊牧場を作るために牧野と共有地の大規模な囲い込み運動が進行し、多数の農 民は生まれ育ちの土地から追放され、移住を余儀なくされた22)。規模と激しさの点でハイラ ンド地方ほど深刻ではなかったにせよ、同様の動きはロウランドでも観察されていた。土地 の囲い込みで多くの借地農は慣習的な牧草地使用権などが奪われ、共同体での従来の生活様 式を維持することはますます困難になった。小さな農地は廃止されて大規模なものへとかわ り、この変革過程で土地利用の権利を失った借地農 tenant farmer は小作農 cottar や賃労働
16) Richard Lawton, Population , pp.11-13 (J. ラングトン& R.J. モリス編 米川・原訳『イギリス産業革命 地図』11-13頁。)
17) Richard Lawton, Population , p.10 (ラングトン&モリス編 米川・原訳『イギリス産業革命地図』 10頁)。 18) Joyce M. Ellis, , pp.25-27, 34-37, 38-40 (エリス著 松塚/小西/三時訳『長い18
世紀のイギリス都市』37-39, 51-53, 55-57頁)。
19) 田中秀夫『スコットランド啓蒙思想史研究』1991年、名古屋大学出版会、185、197頁。限嗣相続制がス コットランドで本格的に制度化されたのは1685年のことであり、つまりその年に限嗣封土権を定めるマッ ケンジー法 Sir George Mackenzie s Act, Entail Act 1685, c.22. が成立したのである。なお、1740年までに、 同法の弊害が社会的に広く認知されるようになったにもかかわらず、1764年にはスコットランド全土の約
5分の 1 がなお限嗣相続所領にとどまっていたという。
20) 田中『スコットランド啓蒙思想史研究』103-104頁;W. Anderson,
, Division VI, Edinburgh and London: A Fullarton and Co., 1876, pp.486-88.
21) William Ferguson, , pp.170-72. (ファルガスン著 飯島訳『近代スコットラ ンドの成立』、171-172頁);服部正治「マカロックと貴族的土地所有」(小林昇編『資本主義世界の経済政 策思想』昭和堂、1988年)、137-38頁;田中『スコットランド啓蒙思想史研究』183-97頁。
22) A. ディクビー/ C. ファインスティーン著 松村高夫・長谷川淳一・高井哲彦・上田美枝子訳『社会史 と経済史─英国史の軌跡と新方位』北海道大学出版会、2007年、37-53頁。
者 labor に転落した者が特に多かった23)。中には生活費を稼ぐために収穫の時期に近隣の農 場に移動し、季節労働者として働いた者が多数いた一方、住み込み方式で地元や都市部の資 産階級の邸宅で家内奉公するという生活手段を選択する者も少なくなかった24)。 もっとも、困窮化を避けるために能力のある者は移住という手段を選択し、都市や海外へ 向かっていた。ハイランドやロウランド東北地方では故郷を離れ、首都のエディンバラや商 工業が発展していたグラスゴウなどのロウランド中西部地方の都市を目指して移住を行っ た者が日増しに夥しい数に上っていった。こうして、生活向上の機会を求めて農村から男も 女も多くの若者が都市部に流れ込んできた。移動する者にとっては、都市は移動に伴う苦労 を上回る社会経済的利益を期待できる魅力的なイメージを持つ場所であった。日々発展する 都市には商業貿易、製造業、建設、輸送、家内奉公などの分野で豊富な雇用機会が存在して おり、都市の教会や救貧施設は農村のそれより充実した福祉救済サービスを提供することも しばしばあった25)。移住者たちはこのような様々な動機や心情をもって希望の光を放つ都市 に向かって、長い移動の旅をつづけた。18世紀と19世紀初頭において、スコットランドの都 市を含めてイギリスのほとんどの都市が経験した人口増加が主として移住者によるもので あった26)というエリスの指摘は産業革命期の都市成長のメカニズムを考察する際に格段に重 要な意味を持つように思われる。 表 3 が示すように、スコットランドでは一万人以上の居住民を持つ都市の総人口が全域人 口に占める割合は1600年代から上昇しつづけており、とりわけ19世紀前半期にかけてこの 比率は倍増に近いほど急上昇を遂げていた。1850年には100人の中に32人が都市に居住して いるという比率は西ヨーロッパ諸国の中でもイングランドのそれに次ぐ第二位の水準であ り、産業革命期におけるスコットランドの都市化の急進展ぶりがうかがわれる。また、表 4 を一瞥すると、1801年にスコットランドの首都であるエディンバラ Edinburgh と商工業都市 のグラスゴウ Glasgow はイギリス全国においてすでにランキング上位に名を連ねており、 その後40年近くの経済発展をへて、グラスゴウはエディンバラより10万もの多い人口を持 ち、イングランド綿工業都市のマンチェスターや海港都市のリヴァプールと比肩する一大商 工業都市へと成長してきたことがわかる。グラスゴウのほか、表 4 にリストアップされてい るダンディー Dundee、アバディーン Aberdeen、ペイズリィ Paisley のような地方都市はい ずれも近隣地域を後背地にする市場町でありながら、麻製品や綿製品などの繊維製品の生産 が大規模に行われていた工業都市でもあった。スコットランドはこのように18世紀中葉以後 の一世紀にわたって、歴史上異例な規模と速さで人口成長、都市化、そして産業革命という 三つの歴史過程を同時に経験してきた。冒頭で述べた問題意識を踏まえて、この三つの歴史 過程は相互にどのように関連しあって、スコットランドないしイギリス近代経済社会の一局 面をなしてきたのか、この課題の解明は次の論考に譲ることにする。 23) William Ferguson, , p.167. (ファルガスン著 飯島訳『近代スコットランド の成立』168-169頁)。
24) R.A.Houston, The Demographic Regime , p.21.
25) 中野忠・道重一郎・唐澤達之編『一八世紀イギリスの都市空間を探る─「都市ルネサンス」論再考』刀 水書房、2012年、28頁。
26) Joyce M. Ellis, - , p.28 (エリス著 松塚/小西/三時訳 『長い18世紀の イギリス都市』41頁)。
表 3 ヨーロッパ各国・地域における一万人以上規模の都市人口が該当国・地域の総人口に占める比率 ─ 1600 年 -1850 年─ 1600 1650 1700 1750 1800 1850 スコットランド 3.0 3.5 5.3 9.2 17.3 32.0 スカンディナビア 1.4 2.4 4.0 4.6 4.6 5.8 イングランドとウェールズ 5.8 8.8 13.3 16.7 20.3 40.8 アイルランド 0 0.9 3.4 5.0 7.0 10.2 ネーデルランド 24.3 31.7 33.6 30.5 28.8 29.5 ベルギー 18.8 20.8 23.9 19.6 18.9 20.5 ドイツ 4.1 4.4 4.8 5.6 5.5 10.8 フランス 5.9 7.2 9.2 9.1 8.8 14.5 スイス 2.5 2.2 3.3 4.6 3.7 7.7 北イタリア 16.6 14.3 13.6 14.2 14.3 20.3 中央イタリア 12.5 14.2 14.3 14.5 13.6 南部イタリア 14.9 13.5 12.2 13.8 15.3 スペイン 11.4 9.5 9.0 8.6 11.1 17.3 ポルトガル 14.1 16.6 11.5 9.1 8.7 13.2 オーストリア・ボヘミア 2.1 2.4 3.9 5.2 5.2 6.7 ポーランド 0.4 0.7 0.5 1.0 2.5 9.3
出所:T.M.Devine, Urbanisation, in T.M.Devine and Rosalind Mitchison eds., - , John Donald Publishers Ltd., 1988, p.28.
表 4 1801 年と 1841 年におけるイギリスの大規模都市の人口概算数 1801 年の都市の規模順位と人口数 1841 年の都市の規模順位と人口数 ロンドン(London) 959,000 ロンドン(London) 1,948,000 マンチェスター(Manchester) 95,000 マンチェスター(Manchester) 311,000 リヴァプール(Liverpool) 82,000 リヴァプール(Liverpool) 286,000 エディンバラ(Edinburgh) 81,000 グラスゴウ(Glasgow) 261,000 グラスゴウ(Glasgow) 77,000 バーミンガム(Birmingham) 183,000 バーミンガム(Birmingham) 71,000 エディンバラ(Edinburgh) 164,000 ブリストル(Bristol) 61,000 リーズ(Leeds) 152,000 リーズ(Leeds) 53,000 ブリストル(Bristol) 125,000 シェフィールド(Sheffield) 46,000 シェフィールド(Sheffield) 111,000 ニューカッスル 42,000
(Newcastle upon Tyne) ウルヴァーハンプトン (Wolverhampton) 93,000 プリマス(Plymouth) 40,000 ニューカッスル 90,000
(Newcastle upon Tyne)
ノリッジ(Norwich) 36,000 プリマス(Plymouth) 70,000 バース(Bath) 33,000 ハル(Hull) 67,000 ポーツマス(Portsmouth) 33,000 ブラッドフォード(Bradford) 67,000 ウルヴァーハンプトン 31,000 (Wolverhampton) ダンディー(Dundee) 65,000 ハル(Hull) 30,000 アバディーン(Aberdeen) 63,000 ノッティンガム(Nottingham) 29,000 ノリッジ(Norwich) 62,000 アバディーン(Aberdeen) 27,000 サンダーランド(Sunderland) 55,000 ダンディー(Dundee) 27,000 バース(Bath) 53,000 サンダーランド(Sunderland) 26,000 ポーツマス(Portsmouth) 53,000 ペイズリィ(Paisley) 25,000 ノッティンガム(Nottingham) 52,000 ボルトン(Bolton) 18,000 ボルトン(Bolton) 51,000 エクセター(Exeter) 17,000 レスター(Leicester) 51,000 グレート・ヤーマス 17,000 (GreatYarmouth) プレストン(Preston) 51,000 グリノック(Greenock) 17,000 ストックポート(Stockport) 50,000 レスター(Leicester) 17,000 ブライトン(Brighton) 49,000 ヨーク(York) 17,000 オルダム(Oldham) 48,000 コヴェントリー(Coventry) 16,000 ペイズリィ(Paisley) 48,000 パース(Perth) 16,000 マーサ・ディドヴィル 43,000 (MerthyrTydfil) 注:1)ニューカッスルの人口数はゲーツヘッド(Gateshead)のものを含む。 2)プリマスの人口数はデヴォンポート(Devonport)のものを含む。 3)マンチェスターの人口数はサルフォード(Salford)のものを含む。
出所:Joyce M. Ellis, - , Palgrave, 2001, pp.148-149 (松塚俊三/小西恵美/三 時真貴子訳『長い18世紀のイギリス都市 1680-1840』法政大学出版局、2008年、38頁)。