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「自己」の語られ方—異文化解釈の問題に関連して [ PDF

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Academic year: 2021

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(1)「自己」の語られ方―異文化解釈の問題に関連して キーワード: 「自己」,異文化解釈,心,行為,プラクティス 発達・社会システム専攻 衛藤 聡美 [ 目次 ] 序章. め取られてしまう[Lambek&Strathern(ed.) 1998:4]。自 問題提起. 第1章 「再発見」と「裏返し」のジレンマ. らの概念枠組みをただ他者のなかに再発見するに留まる 普遍主義か、あるいは自らのものを全く逆転させた裏返. 1−1 「再発見」の落とし穴. しの概念枠組みを押しつけることで他者を理解しようと. 1−2 「裏返し」への警鐘. する相対主義か、という二つの極のどちらかに与するこ. 第2章 心のモデルとしてのコンピューター. とになるのである。異文化における「自己」が論じられ. 2−1 「心の哲学」とAI. る際、一方の極には、あらゆる人間が先天的に持つであ. 2−2 AI批判. ろう意識や感覚として内的な「自己」の観念を自明化し. 2−3 認知主義から行為の地平へ. た上で他者の意識のあり方や心理的傾向などを論じる論. ∼AI研究における行為への視線 第3章 行為からの創出 −タイ東北部 Baan Phraan Muan の事例をもとに. 者たちがおり、他方の極には、公的領域と私的領域を二 分しながら「自己」を後者に位置づけ、我々と「未開」 の人々の間の最も際立った相違として、私的かつ内的な. 3−1 プラクティス. 「自己」観念の有無を論じようとする論者たちがいる。. 3−2 Baan Phraan Muan の仏教的実践. 前者の場合、身体的・心理的に所与なる部分によってあ. 3−3 Baan Phraan Muan における悪霊祓い. らゆる人間の基底には社会に関わらず核的な普遍性―た. 3−4 タンバイアの「パフォーマティブ・アプロー. とえば感情や知覚など―があることを前提とするもので. チ」について 終章. あり、度々エスノセントリズムとの批判を受けてきたそ うした普遍主義への反発から、後者においては完全に社. 4−1 結論: 「自己」の語られ方. 会的・文化的に構成される存在としての人間を主張する. 4−2 今後の課題. ために、我々にとっては何よりも自明と感じられる私的 な「自己」の感覚が「ない」あるいは「逆転した」例と. [ 要旨 ]. して、 「未開」 の人々における私的領域の未熟と公的領域. 0.はじめに−問題提起. の発達が論じられてきたのである。そしてこの論争はそ. 本論文は、二つの問題に関心を寄せるものである。 第一 に、異文化を解釈・記述するという人類学的な営為が孕. のまま、人類学における self/person という二つの概念の 発明と住み分けをもたらしてきた。. む問題についてであり、第二に、人類学が抱えるそうし. 本論文は、上述したような明らかに反対の方向性を持. た問題を反映する形で「自己:セルフ」の観念がどのよ. つ「再発見」論者と「裏返し」論者の双方が共に犯して. うに語られ捉えられてきたかについてである。異文化解. いる本質化の誤謬を指摘するものである。彼らは二つの. 釈の問題と「自己」への関心は、本論文全体を通じて互. 意味で本質化の誤謬を犯しているものと筆者は考える。. いにリンクしながら同じ一つの方向性へと最終的には収. 一つに、概念の本質化―物象化―を指摘することができ. 斂されている。その方向とは、 「自己」を行為から語ると. る。 自らの概念枠組みを基準として一旦本質化した上で、. いう視点であり、この結論はすなわち、行為から語ると. 前者の場合はその枠組みを他者にまで敷衍しており、後. いう視点を持つことが、後述される異文化解釈における. 者の場合、その基準点を軸に概念枠組みを「裏返し」て. 「ジレンマ」からの脱却の糸口として呈示されるという. みせたり、あるいは自ら予め設定しおいた概念枠組みに. ものでもある。. 相当するものを他者のなかに見出すことができないと論. アンドリュー・ストラザーンとマイケル・ランベック. じることで我々と彼らとの異質性を主張するといった錯. が言うように、人類学者が異文化を解釈し記述する際、. 綜した試みが行われてきたのである。もう一つに、境界. その記述の多くは「再発見と裏返しのジレンマ」へと絡. の本質化を批判することができるだろう。心や個人や内.

(2) 的「自己」と、文化や社会や外的環境との境界を予め本. 人々が持つような個人的・内的な「自己」の感覚とのコ. 質化し静態化しながら、どちらがどちらに先行するかあ. ントラストをなすようなものである」というような議論. るいはどちらを基準点にし得るかという問題が、. を彷彿とさせるやり方で、バリ社会における「私的」な. self/person の二分に代表されるような擬似問題として. 個人の感覚の未発達と「公的」すなわち社会的・文化的. 長らく論争されつづけてきたのである。本論文は、そう. な地位役割の発達とを論じた[Carrithers 1996:420][ギ. した本質化ならびに事前的な物象化こそが、A か B かと. アツ 1987b:334-336]。同様の論調でギアツが意識的に. いったジレンマに絡めとられざるを得ない元凶ではない. 対極に位置させた「過去と未来とを直線的に捉える「西. のかと疑念を呈し、そうした二者択一的なフェイズから. 洋近代的」な時間概念」と「非直線的で円環的なバリ人. の脱却を目指す試みとして、ライルとギアツ両者の論考. の時間概念」という区分[ギアツ 1987b:351]を批判する. の再評価、さらに近年著しい認知科学分野での新しい思. ことでブロックが明るみに出そうとするのは、 「異なる. 考を経由して、あらゆる観念あらゆる境界あらゆる基準. 文化に属する人々は異なる世界に住む」という文化相対. 点が創出されまた再創出される場として行為を始点とす. 主義の理念が「自己」や時間の感じ方といった最も自明. る視点を主張するヴァレラのエナクティブ・アプローチ. とも思える観念にまで適用されていった場合、 「我々」 と. の人類学的手法への導入を試みている。 以降の部分では、. 「彼ら」との間にはたった一片の架橋可能性すらも残さ. 論文の構成に従って、各章ごとの要旨を呈示していく。. れなくなるかもしれない[Bloch 1977:282]という、より よき異文化理解のために唱えられる文化相対主義の理念. 1.「再発見」と「裏返し」のジレンマ. 自体が皮肉にも包含してし得る他者排斥の色彩であり、. 本論文の第1章では、学説史のレビューに代えて、. さらには、異文化に「異」なるものだけを見出すことで. self/person 問題に代表されるような普遍主義と相対主. 意図的に自らの文化と対比させるといった、人類学者に. 義とのあいだでの揺らぎ、ならびに批判/反批判の攻防戦、. よるある種「エキゾティシズム」に満ちた操作の存在な. そしてその中道を探る試みの歴史を、ストラザーンらに. のである。. よる「再発見」と「裏返し」というタームになぞらえな がら論じることが試みられている。. ギアツをスケープゴートに仕立ててのブロックによ る相対主義批判は、ある一点において有効となり得てい. 「異なる文化に属する人々は異なる世界に住む」とい. ると筆者は考える。すなわち、人類学者が異文化に向け. う文化相対主義的なスローガンは、例えば他者に対する. る視線が常に意味ありげにエキゾティックな事象へと向. 進化主義的な解釈・分析に対する反省や批判としては有. けられてきたことへの強い反感を見せたという一点にお. 用となり得る思想であり、人類学者が何らかの形でそこ. いて。ブロックによるこの指摘は、人類学者がおこなう. に立たねばならない見識でもあろう。しかし相対主義が. 「シンボリックなもの」と「文字通りのもの」[Rosaldo. 過度に素朴な思想のまま蔓延した結果として、他者に対. 1980:21-22]との二分に対するミシェル・ロザルドの鋭敏. する「異」なるものの押しつけ−ここで言われる「異」. な批判に通じるものである。しかし、文化相対主義が内. とは、単に自分自身を「裏返し」てみせただけのものに. 包するであろう異文化理解の不可能性の可能性を逃れる. 過ぎない−がもたらされてきたという批判もまた一方で. ためにブロックが打ち出す中道の策−「儀礼的コード/. なされてきた。そこで本論文では、異文化を自文化の「裏. 非儀礼的コード」[Bloch 1977:285,290]の理論化−もま. 返し」として素朴に捉える論者たちへの辛辣な批判とし. た、ロザルドが懸命にも指摘するところの「シンボリッ. て、モーリス・ブロックの手による 1977 年発表の論文、. クなもの」と「文字通りのもの」の二分という前提の上. “The Past and the Present in the Present”における. に立つものであって、 「再発見と裏返しのジレンマ」 から. ギアツ批判を取りあげている。バリ人の時間と人格につ. 抜け出すための有効な代替案とはなり得ていないと言え. いての彼の論考において、ギアツは、異文化(すなわち. よう。. 非西洋的な「未開」のコミュニティ)の「自己」を公的. ブロックによる以上のようなギアツに対する「悪しき. 領域に位置づけ、対する自らの文化(すなわち西洋の「近. 相対主義」 批判を踏まえた上で、 筆者は、 『文化の解釈学』. 代化された」社会)における「自己」を私的かつ内的な. の冒頭論文 「厚い記述−文化の解釈学的理論をめざして」. 領野へと対置させるモース以降の person 議論、すなわ. においてギアツが行っている文化の定義および異文化解. ち「アルカイックな社会の人々にとっての人格は、血統. 釈をめぐっての考察を、 「行為」 を視点の中心に据えるこ. を通じて相続される固定的な「役割」とそれに付随する. とで文化の静態化・物象化を回避しようとしているプラ. 社会的な権利や義務であって、今日の北大西洋に生きる. クティス志向の論考として再評価している。 「厚い記述」.

(3) のなかで、ギアツは、他者理解さらには意志と行為をめ. 期に似たような理論的展開、すなわち、外部(環境・社. ぐる議論に風穴を開けることとなったギルバート・ライ. 会・文化など)から内部(心)へと取り込まれるような. ルの発想を大幅に援用している。ライルは、我々の「心」. 疑似実体的「命題」としてのハードな知識観から、より. を命題知の領域ではなく方法知の次元へと置き直すこと. 状況依存的で行為先行的な非実体的「仕方」としてのソ. で、文脈や状況の中に置かれて初めて現出する可塑的か. フトな知識観へのシフトを見せてきたことは、偶然にし. つ実践的なものとしての「心」概念を作り上げており、. ろ必然にしろ興味深い符号の一致である。人類学におけ. ギアツがライルを引きながら定理化する「文化」の概念. るジレンマからの脱却の試みと、AIにおける新しい知. もまた、これに倣ったものである(注1)。従って、ギア. 性論・知識論は、共に概念や境界や基準点の本質化に対. ツがもしもそのように「結び方」としてしか見出し得な. して批判的であり、共に行為とプラクティスをキー概念. い非実体的でソフトなあり様をするものとして文化を捉. として持っているのである(注2) 。. えているのであれば、また、人類学の目的は「現地人」 が行う一時解釈の真似ごとなどであるべきではなく、. 3.行為からの創出―事例研究. 「彼ら」と「我々」との間の対話の地平を広げることで. 第 3 章第 1 節では、第1章にて取りあげた、閉ざされ. あると主張される限りにおいて、ギアツがバリの人々や. た私的領域として心を神秘化することに激しく反駁する. バリの社会を我々とは「異」なるものとして静態的な「バ. ライルの議論とライルを大幅に援用したギアツの論文. リ独自の文化」のなかへと閉塞させ硬直させてしまった. 「厚い記述」とを再び取りあげている。第2章における. という(有効かと思えた方の)ブロックによるギアツ批判. AI理論概観の結果採用されたヴァレラの「エナクティ. は暗黙のうちに( 「ギアツに限っては」 )退けられ、その. ブ・アプローチ」とつき合わせるとき、ライルが論じる. ような批判をギアツに向けたブロックの側の「文化」概. 「心(内部) 」とギアツが論じる「文化(外部) 」とは、. 念こそが実は硬直したものではなかっただろうかと問題. パラレルに対応しながら互いに境界を消失しようとする. 化してくるのである。. かのような色合いを帯びはじめる。心と文化のどちらに も基準点を設けず、端的に言えば心と文化つまり内部と. 2.心のモデルとしてのコンピューター. 外部を分離させずに(これはさらに、「個人」/「社会」. 第 2 章は、認知科学とくに AI:人工知能の分野におけ. という分け方までも中立化させる) 、 心と文化を共に行為. る議論を材に取っている。AI モデルの歴史は、文字通り. ―プラクティス―の結び方によってのみ現出する非実体. 人間の知性そして心をめぐる想像の歴史であり、 「自己」. 的なものとしながらその二つのあいだの境界を曖昧化し. が多くの場合意識や感覚といった心の領野に位置づけら. つつあらゆる本質化を避けようとする試みとして、すな. れてきたことを鑑みてみれば、 「自己」 の語られ方として. わち人類学における異文化解釈につきまとうジレンマを. 本論文が取り上げるに相応しいものである。AI に携わる. 抜け出す活路となり得るであろうエナクティブあるいは. 研究者たちが展開する知性論・知識論の変遷、AI 肯定. プラクティスを志向する試みとして、エナクティブを導. 派・AI 懐疑派の両者の立場を論じることで、人間の心や. 入した新しい視点の下で、ライルとギアツ両者の議論を. 「自己」がどのようなものとして捉えられてきたのかを. 大きく再評価している。. 一定の視点をもって俯瞰することができるだろう。外/. 第3章の2節以降においては、タイ研究における泰斗. 内 すなわち 世界/心 を二分した発想の下で、世界に関. である人類学者タンバイアを批判の俎上に上げることで、. する知識を「表象」して取り込む場として心を想定しな. 筆者が採用するプラクティス志向のアプローチを、 「あ. がら概念枠組みを命題化して AI の「心」に書き込んで. る」と「なる」というレトリックを意識的に用いること. きた伝統的な認知主義的 AI モデルから、概念枠組みを. により、具体的な事例に乗せて呈示している−例えば家. 予め命題化することのない、さらには「表象」を全く介. 族という概念について、我々は「家族である」から「家. さずに作動する行為先行型のモデルへという、AI 理論が. 族らしく振る舞う」 のではなく、 「家族としての振る舞い. 徐々に辿ってきたシフトを特に中心的に記述し、最終的. 方をする」からこそ「家族になる」のである−。表象に. な帰着点として、 「身体化された心」 を唱えるヴァレラの. 根ざしたコミュニケーティブな行為/実際的な効力をも. エナクティブ・アプローチを採用している。. つ遂行的行為という二分に異を唱え、言語行為論を大幅. 共に他者―前者の場合、異文化に暮らす人々であり、. に援用しながらプラクティスとしての儀礼論を構築しよ. 後者の場合、コンピューターである―の「自己」を再構. うとしている論者であるにも関わらず、タンバイアの理. 築していく営みとして、人類学とAI研究が、同様の時. 論は非常に精緻に予め設定されたシンボリズムを根底に.

(4) 持っており、人々を取り囲み人々が使用する概念を行為. (2)「実践」という訳語は practice,praxis といった複数. から乖離させて本質化しているという点に焦点を当て批. の語に当てられる訳語であるため、本論文においては極. 判している。. 力「プラクティス」という語を使用している。筆者はこ こで「プラクティス」という用語を、人間あるいは人間. 4.「自己」の語られ方. 以外の行為者が行うあらゆる形態の行いを指す語として. 本論文は、異文化を解釈する際に人類学者たちが陥っ. 用いており、praxis に特に強く意味されるような運動論. てきたジレンマの源として概念枠組みの事前的な本質化. 的・革命的色合いを付与させずに用いている。文脈上「実. を指摘し、そうした本質化が、観念と行為とを乖離した. 践」という語を用いている場面においても同様である。. 上で前者から後者への因果関係を設定すること、あるい は内部と外部を二分した上で「表象」を介してそれらを. [ 主要参考文献 ]. つなぎあわせることによって行われてきたことを示唆す. Bloch,Maurice 1977 “The Past and the Present in. るものである。終章の結論部分において、筆者は「自己」 の語られ方の二面性を示している。すなわち、我々が「自 己」を用いて語る際には、それは何らかの実体を伴った 物象化された概念として用いられるにも関わらず、我々. the Present.” Man(n.s.)12 pp.278-292. カリザス,マイケル他(編) 1990(1989) 『人というカ テゴリー』厚東洋輔他訳,紀伊國屋書店. Carrithers,Michael 1996 “Person.” ENCYCLOPEDIA. が「自己」について語る際には、それはバラバラに微細. SOCIAL AND CULTURAL ANTHROPOLOGY.. 化した具体的な事象の集合としてしか語り得ないという. ROUTLEDGE.. 二面性である。その二面性は矛盾というよりもむしろ視 点の持ち方の違いであり、物象化ゆえの確かさ―リアリ ティ―と実践のなかから立ち現れるという緩やかさを、. ギアツ、クリフォード 1987a(1973) 『文化の解釈学』 吉田禎吾他訳,岩波書店.(Ⅰを a、Ⅱを b と表記) 浜本満 1986「異文化理解の戦略∼ディンカ族の「神的な. 我々が場面に応じて使いこなしていることが強調される。. るもの」と「自己」の観念について」 『福岡大学人文. そして、異文化解釈の問題に関連して本論文全体を通じ. 論叢』Vol.18-(2)(3).. て筆者が提案するのは、あらゆる概念に敷衍されるであ. Lambek,M&A.Strathern(ed.). ろうそうした二面性を踏まえながら、複数の事象や行為. Persons. Cambridge.. を結び合わせる仕方として行為する度ごとに垣間見られ る非実態的な「輪郭」として、言わば決して慈善的には 命題化を許さないエナクティブなものとして、概念なり 観念なりを前提することにより、観察者によって予め物 象化された概念枠組みを異文化解釈に持ち込むことで引. 1998. Bodies and. マーフィー,ロバート 1997(1987) 『ボディ・サイレ ント』辻信一訳,新宿書房. ミンスキー,マーヴィン 1986(1980) 『心の社会』 安 西祐一郎訳,産業図書株式会社. Rosaldo,Michelle Z. 1984 “Toward an anthropology. き起こされる「再発見か裏返しか」のジレンマを回避す. of self and feeling.”. Shweder&LeVine(ed.). ることができるのではないかという主張なのである。. Culture Theory : Essays on Mind, Self, and Emotion. pp.137-157. Cambridge.. [註] (1)「人間は自分自身がはりめぐらした意味の網の中にか かっている動物であると私は考え、文化をこの網として 捉える[ギアツ 1987a:24]」というギアツの「文化の定義」 はあまりにも有名であるが、ギアツが、行為の連鎖によ って即時的に輪郭を垣間見ることが出来るのみのどこま でも非実体的なものとして文化概念を考えているという 筆者の主張は、 「ベートーベンの四重奏曲は、 時間的に展 開する音の構造であり、立体的な音のまとまりのある連 続−一口でいえば音楽−である[1987a:19-20]」という言 葉、さらに認識人類学に対する手厳しい批判 [1987a:20-21]などを併せ読んだときに導かれるもので ある。. Rosaldo,Michelle Z. 1980 Knowledge and Passion. Cambridge University Press. ライル,ギルバート 1987(1949) 『心の概念』坂本百 大他共訳,みすず書房. サール,ジョン 1993(1984) 『心・脳・科学』 土屋 俊訳,岩波書店. Tambiah,S.J. 1970. BUDDISM AND THE SPILIT. CULT IN NORTH-EAST THAILAND. Cambridge. Tambiah,S.J. 1985. Culture, Thought, and Social. Action. Harvard. ヴァレラ,フランシスコ(他共著) 2001(1991) 『身体 化された心』 田中靖男訳,工作舎..

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