原
著
下 眼 瞼 向 き 眼 振 を 呈 し たbow hunter's strokcの 一 症 例
小 林 泰 輔 ・中 村 光 士 郎 ・寺 岡 正 人 ・竹 田将 一 郎
A Case of Bow Hunter's
Stroke Presenting
Downbeat
Nystagmus
Taisuke Kobayashi, Koshiro Nakamura, Masato Teraoka, Shoichiro Takeda
Department of Otolaryngology, Ehime Prefectural Central Hospital
Bow hunter's stroke is vertebrobasilar
insufficiency caused by stenosis of vertebral
artery (VA) at the atlantoaxial level by head rotation. A 52-year-old man complained of
dizziness during head rotation
towards the right. Downbeat
nystagmus was noted
when his neck was rotated to the right. MRI demonstrated
hypoplasia of the right VA.
Angiography revealed the right hypoplastic VA ending at the posterior inferior cerebel
lar artery. The left VA was dominant and had normal flow with the head in the neutral
position. Head turning to the right caused complete occlusion of the right VA at the
level of the atlas and the patient felt dizziness. Surgical therapy was not performed be
cause he did not agree to the operation.
Key words: vertebral artery, stenosis, vertebrobasilar
insufficiency, dizziness
は じ め に 1978年,米 国 の 脳 外 科 医 で あ るSorensenは ア ー チ ェ リー の 練 習 中 に 発 症 し た 脳 幹 梗 塞 の1例 を 報 告 し た 。 こ の 原 因 と し て 弓 を 引 い た と き に 強 く頸 部 を 左 に 回 旋 した こ と に よ り頭 蓋 外 椎 骨 動 脈 が 血 管 攣 縮 を 起 こ し た た め と 推 察 し,こ れ をbow hunter's strokeと 呼 ん だ 。 そ の 後bow hunter's
strokeは 頸 部 の 回 旋 に よ り環 椎 ・軸 椎 レベ ル で 椎 骨 動 脈 が 圧 迫 ・狭 窄 さ れ,め ま い,眼 症 状 や 意 識 障 害 が 生 じ る 比 較 的 ま れ な 疾 患 と し て 報 告 が 散 見 さ れ る 。 今 回 め ま い を 主 訴 と し,頸 部 回 旋 時 に 下 眼 瞼 向 き 眼 振 を 呈 し たbow hunter's strokeの 一 例 を 経 験 した の で 報 告 す る。 症 例 症 例:52歳,男 性 主 訴:頸 部 回 旋 時 の め ま い 。 現 病 歴:平 成14年7月 ごろ よ り,右 側 を 向 く と 浮 動 性 の め ま い と眼前 暗黒 感 が生 じ,意 識 が遠 の く感 じが した。 め ま い は景 色 が主 に上 下 や 斜 め 方 向 に ゆ れ る感 じで,多 くは座 位 で右 側 へ 頸 部 を 回 旋 した と きに起 こ り,寝 返 りでは 起 き なか った 。 難 聴 耳 鳴 の 自覚 は なか った 。 平 成15年7.月,左 耳 下 腺 腫 瘍 の手 術 の た め 当科 を受 診 した 際 にめ ま い の精 査 を希 望 した 。 既 往 歴:40歳 腰 椎 椎 間 板 ヘ ル ニ ア の手 術 検 査 所 見:鼓 膜,外 耳 道 に視 診 上 異 常 を 認 め な か った 。 聴 力 は 両 側 高 音 急 墜 型 感 音 難 聴 で(図 1),注 視 眼 振 や 自発 眼 振 は 認 め られ なか った。 し か し右 下 頭 位,お よ び座 位 で頸 部 を 右 側 へ を 回 旋 さ せ る と下 眼 瞼 向 き を 認 め た(図2)。 眼 振 は 数 秒 問 程 度 で減 衰 した が,意 識 が遠 の くた め これ 以 上 の頭 位 眼 振 の観 察 は困 難 であ った。 頸 部正 中 位 では 小 脳 症 状 を認 め なか った。 温 度 眼振 検査 で は 左 右 差 な く,半 規 管 麻 痺 な どを認 め な か った 。 愛媛県立中央病院耳鼻咽喉科
Equilibrium Res Vol.64(4) 図1聴 力 図 図2眼 振 所見(赤 外 線CCDカ メラに よ る観 察) 耳 下 腺 腫 瘍 の た め に 撮 影 し たMRIで 右 椎 骨 動 脈 の 描 出 が 不 良 で あ っ た 。 こ れ ら の 所 見 よ り頸 部 回 旋 に 関 連 し た 椎 骨 動 脈 の血 流 不 全 が 疑 わ れ た た め,当 院 脳 神 経 外 科 に 紹 介 さ れ た 。 頭 部 ・頸 部 MRAで は 右 椎 骨 動 脈 の 描 出 が 不 良 で あ っ た(図 3)。平 成16年2月17日,脳 神 経 外 科 で 脳血管 造 影 検 査 を 行 っ た 。 左 右 の 内 頸 動 脈 造 影 で は 異 常 を 認 め な か っ た 。 右 椎 骨 動 脈 は 低 形 成 で 細 く,後 下小 脳 動 脈 で 終 止 し て お り(図4),左 側 椎 骨 動 脈 が 優 位 で あ っ た が,後 交 通 動 脈 の 形 成 は 不 良 で あ っ た 。 右 椎 骨 動 脈 は 頸 部回 旋 運 動 を 行 っ て も血 流 は 良 好 で あ っ た が,左 椎 骨 動 脈 は 頸 部 を 右 側 へ 約40度 回 旋 さ せ る と軸 椎 横 突 起 付 近 で 狭 窄 を き た し,約50度 回 旋 で血 流 は 完 全 に 遮 断 さ れ,bow hunter's strokeと 診断 さ れ た(図5)。 経 過:患 者 は 自動 車 の 運 転 な ど は し な い た め, 右 を 向 か な い よ うに す る こ とに よ り.支障が な く 日常 生 活 が 送 れ るた め,手 術 を希望 せ ず,外 来 で 経 過 観 察 中 で あ る。 図3頸 部MRA 右椎 骨 動 脈(矢 印)は 細 く低 形 成 で あ った 。 考 察 冒 頭 に も 述 べ た よ う にSorensenの 報 告 例 は 頸 部 回 旋 に 起 因 し た 脳 幹 梗 塞 例 で あ っ た が,そ の 後 bow hunter's strokeは 椎 骨 動 脈 が 頸 部 回 旋 に よ り環 椎 ・軸 椎 レベ ル で 機 械 的 圧 迫 を 受 け,血 流 が 低 下 す る こ と に よ り 発 生 す る 疾 患 と し て,1990年 代 に 入 り本 邦 で も1.に 脳 神 経 外 科 領 域 よ り報 告 例 が 増 加 し て い る(表1)。 頭 蓋 外 椎 骨 動 脈 が 頸 部 回 旋 に よ り狭 窄 し神 経 症 状 を 呈 す る 症 例 はSorensenの 論 文 以 前 に も 報 告 が あ り,頸 部 回 旋 に よ り椎 骨 動 脈 が 狭 窄 し や す い こ と は 臨 床 的 に 知 ら れ て い だ 。 椎 骨 動 脈 は 通 常, 第6頸 椎 か ら 環 椎 の 横 突 孔 内 を 走 行 し,後 方 へ 曲 が っ た 後,環 椎 椎 骨 動 脈 溝 の上 を 内 方 に 走 り, 大 孔 を 通 っ て 頭 蓋 内 に 入 る。 そ の 解 剖 学 的 特 徴 の た め 筋 肉 や 骨 棘 体,変 形 性 椎 骨 体 の 機 械 的圧 迫 を 受 け や す く,そ の 好 発 部 位 は 環 椎 ・軸 椎 レ ベル で あ る と 言 わ れ て い る 。 頸 部 回 旋 の 際,環 椎 軸 椎 関 節 の 役 割 は大 き く,環 椎 軸 椎 の 固 定 術 を 行 っ た 場 合,50∼70%の 可 動 性 制限 を き た す い と い う報 (234)
a:低 形 成 で あ る が,頸 部 右 回 旋 を行 って も血 流 に 変 化 は ない 。 b:椎 骨 動 脈 は 後下 小 脳 動 脈 で 終止 して い た 。 図5左 椎 骨 動 脈 造 影 側面像 頸 部40゜ 右回 旋 に よ り環 椎 軸 椎 レベル で 左椎 骨 動 脈 が 狭 窄 し(矢 印),500回 旋 で完全 に閉塞 す る。 告 が あ る。 頸 部回 旋時 に は 回 転 側 の 関節 は 固 定 さ れ て い る の に 対 して,反 対 側 は 環 椎 の 回 旋 に 伴 い,椎 骨 動 脈 が 環 椎 横 突 起 で牽 引 され 狭 窄 す る と 考 え られ る 。Brownら は 死 体 で 椎 骨 動 脈 造 影 を行 い,41例 中5例 で 頸 部 回 旋 に よ り椎 骨 動 脈 が 完 全 に 閉 塞 し,そ の 多 くの 部位 は環 椎 ・軸椎 付近 で あ った と報告 した 。 つ ま り,頸 部 回 旋 に よ る椎 骨 動脈 の 血 流 低下 は 生 理 的 に しば しば起 こ り うる 現 象 と言 うこ とが で き る。 しか し通 常 一側 の椎 骨 動 脈 が 閉 塞 して も他 側 よ りの血 流 が 保 たれ て おれ ば,神 経 症 状 は呈 さな い 。 本 邦報 告 例 で も頸 部 回 旋 に よ り両 側性 に 狭 窄 を きた した1例 を除 くす べ ての 例 で,狭 窄 を きた した 側 と反 対 側 の椎 骨 動 脈 は 低形 成 で,し か も後下 小 脳 動 脈 ま で しか 造 影 さ れ な い 例 が 多 い(表1)。 こ の よ う な 一 側 の 椎 骨 動 脈 低 形 成 は ま れ で な く,Brownら は41例 中3 例 で 一 側 の 椎 骨 動 脈 が 他 側 の半 分 以下 の 直 径 で あ っ た と述 べ て い る 。 こ の 場 合,優 位 側 の 椎 骨 動 脈 の 狭 窄 が 起 こ れ ば,椎 骨 脳 底 動 脈 の血 流 は 著 し く障 害 さ れ,小 脳,脳 幹 が 著 しい 虚 血 状 態 と な り, 神 経 症 状 を{.す る よ う に な り,本 症 が 発 症 す る。 さ ら に 後 交 通 動 脈 のdo流 が 乏 し い 症 例 で は こ の 症 状 が 顕 著 に 現 れ る 。 本 症 例 で は 右 側 の 椎'旨動 脈 が 低 形 成 で か つ 後 交 通 動 脈 の 血 流 も な か っ た 状 態 で,左 側 の 椎 骨 動 脈 が 頸 部 回 旋 に よ り狭 窄 を き た し て,め ま い や 眼 前 暗 黒 感 を きた した と推 定 さ れ る。 椎 骨 動 脈 圧 迫 の 原 因 と し て は 先 に 述 べ た 同 部 での 生 理 的 狭 窄 ・圧 迫 の 他,慢 性 関 節 リ ュ ウ マ チ
Equilibrium Res Vol.64(4) 表1本 邦 報 告 例 症 例1は 慢 性 関節 リュ ウ マチ に よ る環 軸 亜 脱 臼例,症 例9は 血 管 造 影 で は な く超 音 波 検 査 とMRAで 診 断 。 PICA:後 下 小 脳 動 脈,PCA:後 交 通 動 脈 。 に よ る環 軸 亜 脱 臼 や 近 傍 に発 生 した 神 経 鞘 腫 に よ る圧 迫 が 原 因 とな っ た例 が あ る。 本 疾 患 の臨 床 的特 徴 を あ げ る た め に,表1に 本 邦 報 告 例11例 を 列 挙 した。 年 齢 は26歳 か ら 73歳 で 男性9例,女 性2例 で あ った 。 最 も頻 度 の 高 い症 状 は頸 部 回 旋 運 動 に 伴 うめ まい で あ るが, 通 常,意 識 消失 や複 視 な ど の症 状 も伴 う。 め まい の性 状 は多 くは 浮動 感 で あ るが,回 転 性 め まい を 訴 え る例 もあ る。誘 発 され るめ まい は 一 過 性 脳 虚 血 発作 と して の 短 時 間 のめ まい のた め,眼 振 につ い て詳 し く記 載 され た 報 告 は少 ない 。 神 経 科 医 の Rosengartら は,第5・6頸 椎 で 頸 部 回 旋 時 に 椎 骨 動 脈 が 高度 狭 窄 す る例 を報 告 し てい る。 この 症 例 で は め ま い の 訴 え は なか った が,頸 部 回 旋 時 に下 眼瞼 向 き眼振 を観 察 して お り,骨 棘 の 除去 に よ り消失 した。 下 眼 瞼 向 き眼 振 は 一 般 に は 天幕 下 の病 変,特 に脳 幹 傍 正 中 部 や 両側 小 脳 片 葉 の病 変 に よ り出現 す る とされ る20)。本疾 患 は 椎 骨 脳 底動 脈 領 域 の虚 血 が 病 因 で あ る の で,天 幕 下 の虚血 に よ る中枢 性 眼振 が 出 現 す る と考 え られ る。 す な わ ち本 症 例 の よ うな下 眼 瞼 向 き眼 振 や 上 眼 瞼 向 き眼 振 で あ る。 しか し,Matsuyamaら は,頸 部 回 旋 と反 対方 向 へ の 水 平 性 眼 振 が あ った 例 を 報 告 し て い る。Nagashimaら は25例 のPower's症 候 群 の 手 術 を 局 所 麻 酔 下 に行 い,術 中患 側 の椎 骨 動 脈 を 用 手 的 に圧 迫 し て一 側 椎 骨 動 脈 の血 流 を遮 断 して,神 経 症 状 や 眼 振 を 観 察 して い る。 そ の結 果 14例 で 水 平 性 眼 振 を,6例 で下 眼 瞼 向 き眼 振 を 認 (236)
めた 。 しか し圧 迫側 と眼 振 の 方 向 に 一 定 の関 係 は な か った と報 告 して い る。 様 々な 眼 振 が 出現 す る 理 由 と し てNagashimaら は,以 前 に 発 生 し た 虚 血 病 変 に対 す る代 償 が脳 幹 の 様 々な 部 位 で 様 々 な 程 度 働 い てい るた め,椎 骨動 脈 圧 迫 に よ る虚 血 に 対 す る許 容 度 に個 体 差 が あ る こ と と,椎 骨 動 脈 圧 迫 に よる虚 血 の範 囲 が 後 交通 動脈 な どの 側 副 血 行 路 の 発 達 の違 い に よ り差 が あ る こ とを あ げ て い る。 本 疾 患 の診 断 は,ま ず頸 部 回 旋 に よ りめ まい や 眼前 暗 黒 感 な どの神 経 症 状 が誘 発 さ れ る場 合,本 疾 患 を疑 って 検 査 を す す め る。 頸 椎 単 純 撮 影 は 関 節 リ ュウ マチ な どに よ る環 軸 亜 脱 臼 の 合 併 を 診 断 す るた め に必 要 で あ る。 神 経 耳科 学 的 検 査 と して は,座 位 で頸 部 回 旋 を行 わせ,め まい や 眼 振 が 誘 発 され るか 観 察 す る。 確 定 診 断 は椎 骨 動脈 造影 検 査 で あ るが,本 疾 患 の場 合,一 側 の椎 骨 動 脈 が低 形 成 で,対 側 の椎骨 動 脈 が頸 部 回 旋 に よ り狭 窄 や 閉 塞 を きた す 場 合 が 多 い。 さ らに 本症 例 の よ うに 後 交 通 動 脈 の 血 流 が な い 場 合 が 多 い。 近 年,CT 撮 影 機 器 の 著 し い 発 達 に よ り,短 時 間 で3D CTが 撮 影 可 能 に な った た め,脳 血 管 造 影 を行 わ な く て もCTで 椎 骨 動 脈 を 描 出 可 能 に な って お り,こ れ で椎 骨動 脈 の描 出 を行 っ た報 告 もあ る 。 また 超 音 波 検 査 に お い て ドップ ラー血 流 計 を用 い て頸 部 回 旋 時 の血 流 低 下 を とら え,診 断 に有 効 で あ った との 報 告 が あ る 。 本 疾 患 の 治療 は,保 存 的 治 療 と手 術 的治 療 に分 け られ る。 前者 は頸 部 カ ラ ー の装 着 や 脳 梗 塞 の予 防 と して の 抗 凝 固剤 の 内服 で あ る。 手 術 的 治療 は 環 椎 と軸 椎 の後 方 固 定 術 と軸 椎 横 突 孔 開 放(除 圧)術 が あ る。 前 者 は確 実 な治 療 効 果 が得 られ る が,あ る程 度 の 頸部 の運 動 制 限 が避 け られ な い 。 後 者 は 術 後 の頸 部 運 動 制 限 は生 じな い が,解 放 さ れ た椎 骨動 脈 と周 囲組 織 と の癒 着 に よ り再 発 を き た す こ とが あ る。 環 軸 亜 脱 臼 に よる例 で は後 方 固 定 術 が選 ば れ るが,そ の他 の場 合 どち ら の手 術 法 を 選択 す るか につ い て は論 議 が あ る。Matsuyama ら は,後 方 固 定術 を行 った8例 と除 圧 術 を行 っ た9例 で術 後経 過 を比 較 し,前 者 は1例 も再 発 は な か った が,後 者 で は3例 で 再 発 し て お り,後 方 固 定術 が優 れ て い る と述 べ て い る。 し か し どの治 療 法 を選 択 す る か は患 者 の年 齢 や ラ イ フ ス タ イ ル に よ り決 定 され るべ き で あ ろ う。 ま と め 頸 部 回旋 時 に め ま い と下 眼 瞼 向 き眼 振 を 呈 した bow hunter's strokeの 一 症 例 を 報 告 し た。 本 疾 患 にお け る血 流 障 害 の機 序 や 臨床 的 特 徴,治 療 法 に つ い て考 察 した 。 本 論 文 の要 旨 は第63回 め ま い平 衡 医学 会 総 会学 術 講 演 会(高 崎 市)お よび第45回 日耳 鼻愛 媛 県地 方 部 会 学 術 講 演 会 に て発 表 した。 謝 辞 本 症 例 の検 査 と診 断 を 行 っ てい た だ いた 愛 媛 県 立 中 央 病 院 脳 神 経 外 科 武 智 昭 彦 先 生 に深 謝 いた し ます 。 文 献
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