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真田昌幸は 天文 16( 西暦 1547) 年に真田幸綱の三男坊として生まれました その幸綱が武田信玄に属していたということから 天文 22 年 (1553) 昌幸は 7 歳の時に人質として信玄の居る甲府へ参ります ところが信玄が この昌幸の人柄を見込んで 少し後のことになりますが 武田一門衆である

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NPO法人成育環境研究開発機構総会記念講演

平成28年5月16日 たかつガーデン(大阪府教育会館)

『真田信繁(幸村)の生涯と大阪城真田丸』

講師 (大阪城天守閣元館長) 中村博司 氏 (講師紹介) 1948年、滋賀県大津市生まれ。滋賀大学教育学部卒業後、1974年に大阪城天守閣学芸員として大阪市に奉職、 次いで大阪市教育委員会主任学芸員、財団法人大阪市文化財協会企画調査課長、大阪城天守閣副館長などを経 て2000年より大阪城天守閣館長就任。2007年3月に退任。最終学歴は、大阪大学大学院文学研究課博士課程満 期退学。 現在、大阪城豊臣石垣保存公開検討委員会の委員、大阪樟蔭女子大学非常勤講師。 著書『天下統一の城 大坂城』、編著『よみがえる茨木城』、共著『戦国合戦絵屏風集成』全6巻他。 ● はじめに 私は滋賀県大津市生まれの大津育ちで、今も住み続けておりまして、大阪城天守閣には 片道2時間かけて30数年間通いました。地元の滋賀大学教育学部に進みましたが、卒業後 思いがけないことから大阪市に採用され、大阪城天守閣の学芸員になりました。2007年3 月に大阪城天守閣館長を退職いたしましたが、もう少し豊臣秀吉や大阪城の研究を続けた いと思いまして、龍谷大学の修士課程、さらに大阪大学の博士課程に進みました。 さて今日は、「真田信繁(幸村)の生涯と大阪城真田丸」と題してお話させていただき ますが、真田信繁の生涯だけではなく、真田家の大坂屋敷や真田丸のことも合わせてお話 しするつもりですので、ちょっと駆け足のようなことになるかもしれません。あらかじめ ご了承ください。 ● (真田氏の出自と周囲の大名) 真田信繁の出た真田家は、元々信濃国(長野県)小県チイサガタ郡の真田郷を名字の地(本 貫地)としたごく小さな土豪でした。それが江戸時代には、信繁の兄信之を藩祖とする松 代藩(長野市)13万5千石の大名となって明治に及びました。江戸時代には、多くの藩で 藩や藩主家の成り立ちを編纂する「修史」事業が行なわれるようになりますが、松代藩で も修史事業を行っていくなかで、だんだん大層な家になっていったようです。 しかし本当のところ、真田氏は元々北信濃の小土豪に過ぎません。ですから、次第に武 名を表わすようになっても、北に上杉(謙信)、南や東には武田(信玄)・今川(義 元)・北条(氏康)、西の美濃には斎藤(道三)らの大大名が周囲を取巻いているという 情勢がありましたから、真田家としましては、如何にこうした大大名に滅ぼされずに家を 維持させていくことができるかが一番の関心事でありました。そこで真田氏は、合従連衡 と申しますか、上杉に従がったり、武田に従がったりして家名を存続させようすることと なります。真田幸村の父である真田昌幸が生まれた頃の真田家は、甲斐の武田信玄に属し ておりました。それをまず確認しておきたいと思います。 ● (武田氏への従属時代)

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真田昌幸は、天文16(西暦1547)年に真田幸綱の三男坊として生まれました。その幸綱 が武田信玄に属していたということから、天文22年(1553)、昌幸は7歳の時に人質として 信玄の居る甲府へ参ります。ところが信玄が、この昌幸の人柄を見込んで、少し後のこと になりますが、武田一門衆である武藤家の養子になって武藤昌幸と名乗ることになりまし た。そして、武田二十四将の一人にも数えられるなど武田家の有力部将に取り立てられた のです。 ところで、昌幸は先ほど申し上げましたように幸綱の三男ですから、本来なら真田家を 継ぐ身分、立場ではありませんでした。ところが、信玄が病死した天正1年の翌々年、す なわち天正3年5月に、武田家を継いでいだ武田勝頼(信玄4男)と織田信長・徳川家康連 合軍が三河国長篠で戦かった「長篠の合戦」で、幸綱長男の信綱、次男の昌輝2人ともが 戦死してしまいます。こうして、昌幸は思いがけず真田の家を継ぐこととなりました。こ の後、武藤昌幸改め、真田昌幸と名乗ります。 この頃、真田は信濃国小県の本領だけではなく、隣国上野国(群馬県)の吾妻郡の支配を 任され、岩櫃城を拠点に活動していましたが、天正6年に上杉謙信が亡くなった後の継嗣を 巡る争いのなかで、それまで同盟関係を結んでいた武田と北条の仲が悪くなり、翌7年には 同盟を破棄、両者は対陣するに至ります。そうしたなか、勝頼は、昌幸に命じて北条方の 上野国利根郡の沼田城を攻略させます。そして翌年8月、昌幸は沼田城を手に入れ、本領の 信濃小県郡と上野吾妻郡に加え、上野の利根郡をも支配するようになります。こうして、 武田信玄・勝頼のもとで昌幸は頭角をあらわし、武田家中のなかでも大きな位置を占める 存在となりました。ところがここで真田家に大きな転機が訪れます。天正10年(1582)、 織田信長から攻められて、武田家が滅亡してしまうのです。 ●(主家武田氏の滅亡) この頃の真田昌幸は、信州小県郡と上野の吾妻郡・利根郡を支配していました。周囲の 状況はと申しますと、この頃、越後には謙信の後を継いだ上杉景勝、相模の小田原には北 条氏康・氏政父子、そして甲斐には昌幸が主と仰ぐ武田勝頼がおりました。ただ、遠江の 今川義元は、既に桶狭間の戦いで織田信長に滅ぼされており、この頃は徳川家康の勢力が 及んでいました。また美濃はどうかといいますと、織田信長が永禄10年(1567)に斎藤氏 を滅ぼし、岐阜城を居城として虎視眈々と東国攻めを目論んでおりました。 そうした中の天正10年(1582)2月、織田信長は武田勝頼を滅ぼすべく、長男信忠を先発 の大将として甲斐に向かわせ、大軍を派遣いたします。昌幸は勝頼のために懸命に働きま すが、形勢不利のまま3月11日に武田勝頼とその長男、及び北条氏康の娘であるその内室 ともども甲斐国の田野タノというところで敗死し、ついに源平時代以来の名族甲斐武田氏が 滅亡してしまいました。 こうして甲斐・上野は織田信長の支配に入ります。その支配を任されたのが、伊勢長島 城主の滝川一益という部将で、昌幸もその指揮下に入ります。このようなことで、真田は 武田から一転して、織田の家来という立場になってしまいます。ところが、それも僅か3 ヵ月足らず後に、ご承知のとおり京都で起きた本能寺の変(6月2日)によって、あっけ なく信長・信忠が亡くなってしまいます。こうなりますと、もともと甲斐や上野に織田の 地盤があったわけではありませんので、たちまち武田旧臣の叛乱に逢い、織田の支配は崩 壊します。滝川一益も命からがら本城の伊勢長島まで逃げ戻ります。 真田昌幸からしますと、おそらく今後は織田家の部将として生きていこうとしたのだと 思いますけれど、それもあっけなく崩壊してしまった。その後は、上野、甲斐、信濃など の支配をめぐって、上杉、北条、徳川などの有力大名が争って軍勢を送る込むことになり

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ます。こうした状況を「天正壬午ジンゴの乱」(壬午は天正10年の干支)といいますが、と もかくそのなかで、信濃・上野で3郡を支配していたと言いましても、やはり真田は弱小 武将であります。この後間もなく、徳川家康に従うことになります。 ●(徳川氏・上杉氏に属した時期) ところがここでまた微妙な問題が起きました。天正10年10月に徳川と北条氏が和睦してし まうのです。しかもこの和睦交渉において、家康は、昌幸に無断で、以前昌幸が北条氏か ら奪い取った岩櫃・沼田などの領地を北条に返還するという約束をしてしまいます。これ には当然ながら昌幸としては納得できません。これらの領地は家康からもらったものでは ない、自分の力で攻略して手に入れたのだ、それをなぜ勝手に返すのだ、というわけで納 得いたしません。そんな事で、少し徳川と真田の間にすきま風が吹くという状況がやって きます。それでも昌幸は、家康に従っていました。翌天正11年には、上杉側からの攻撃に 対して、徳川家康が上田に真田の城を作ってやる(上田築城)ということもありました。 これが天正11年(1583)の4月であります。 なお、ちょうど同じ4月に、賤ヶ岳の合戦で柴田勝家を破って天下人候補ナンバー1と しての頭角を現してくるのが豊臣秀吉で、やはりこの年の9月に秀吉は大坂城の築城を始 めることになります。 こうしてこの後、今度は次第に信濃には豊臣秀吉の力が及んでく るようになります。 さてこの頃、真田昌幸は、先のようなこともありどうも家康は信頼できないということ で、次第に上杉に属するという姿勢を明らかにする。当然、こうした真田の動きに家康は 激怒しまして、上田城を攻めることになります。これが天正13年の8月に勃発した「第一 次上田合戦」と呼ばれる合戦です。しかしここで徳川方は大敗してしまいます。これがポ イントの一つです。 なおこの後、したたかにも昌幸は、上杉景勝に要請して、徳川防衛のためと称して上田 城改築してもらっています。要するに、昌幸は徳川・上杉によって上田城を築いてもら い、城主に収まったという訳です。 一方この頃の秀吉は、大坂城を拠点として着々と政権の足元を固めておりまして、天正 12年3月からは織田信雄・徳川家康と「小牧長久手の合戦」を戦い、翌13年の3月には紀 州の根来寺・雑賀衆を攻めています。さらに6月から四国の長宗我部攻め、8月には越中 富山の佐々成政や飛騨の姉小路を攻めて降伏させる、これで越中も飛騨も豊臣に属すると いうことで、ヒタヒタと秀吉の足音が信濃辺りの武将にも聴こえてくるわけです。そうし て秀吉はこの頃から家康や上杉景勝、さらに北条氏政に対しても「上洛して臣従する姿勢 を見せろ」と言うようになります。軍事的に制圧される前に、自ら出仕してくるようにと いうわけです(もちろん従わなかったら大軍を派遣して滅ぼすであろう、という含みがあ ってのことです)。 そうしたなかの天正14年6月、上杉景勝はついに上洛し、聚楽第の秀吉に謁見いたしま す。この時、秀吉は昌幸にも上洛するように言い、それができないなら人質を出せと言う のですが、昌幸はいずれも拒否します。これは、昌幸に秀吉の実力がまだ実感できていな い、上杉に頼っていればよいという判断があったのだと思うのですが、こうした昌幸の姿 勢に対して秀吉は「真田は表裏卑怯の者」と言って非難します。秀吉からすれば、ある時 は武田に従い、上杉に従い、北条に従い、徳川に従う、そういう真田の生き方を見てきた わけですから、こうした表裏のある卑怯者だという評価をしたのではないでしょうか。

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こうしてこの時、秀吉はその頃、家康に命じて真田の討伐を命じます。実際、家康はそ のため7月に浜松城を出発して駿府城に入るのですが、突如8月に入って秀吉が家康に出馬 の延期を要請し、9月になりますと、上杉景勝にも真田を討つのは中止だということを通 告します。結局秀吉は機嫌を直して、家康も真田討伐を中止いたします。こうして、理由 は今一つよく分かりませんが、昌幸は存亡の危機を脱することとなりました。 以上、第1段階が武田に従がった時代だとしますと、天正10年の武田滅亡後は第2段階と して織田信長、徳川家康、さらには上杉景勝に従った時代と言えるかもしれません。そし ていよいよこの後、真田氏は豊臣秀吉に仕える第3段階の時代を迎えることとなります。 ●(豊臣大名の時代) 秀吉が真田を許した翌年、天正15年(1587)1月になりますと秀吉は上杉に真田に正式 な赦免を通告しました。一応上杉の家臣という立場でその通告を受けて3月に昌幸が上洛 しますと、秀吉から家康の与力大名になれと言われます。与力というのは、戦争が起きた りすると家康に従って動きますが、元々は家来ではなく、独立した大名であるわけです。 こうしてこれ以降真田は、豊臣大名として生きていくのですが、そこには徳川の与力とい うファクターがかかっている。 いずれにしてもこれをきっかけに、昌幸は上田3万8千石、長男信之(関ケ原合戦までは 信幸と書きますが便宜上、信之で統一します)が沼田2万7千石の大名となり、次男の信繁 を人質として京に送ります。ですから、聚楽第の近くに真田の屋敷があったはずです。 こうして関東方面では、上杉景勝が、次いで徳川家康も14年10月に上洛して秀吉に臣従 する、ということで残るは北条氏です。東北地方にはまだ手がついていませんが、まずは 北条を何とかしたいと思った秀吉は、当初武力ではなく家康や景勝と同じように上洛を促 して自分に従わせようと考えます。そうして天正17年、北条に何とか上洛をさせようと、 上野国にあった真田の領地のうち3分の2(利根郡)を北条に譲り、残り3分の1(吾妻 郡)を真田に残しておくという裁定をいたします。 ここで少し話が遡りますけれど、先ほど天正10年の10月に家康と北条が和睦をすると申 しました。当時の当主は北条氏政ですが、家康は次女の督姫を氏政の長男・北条氏直と結 婚させていました。つまり徳川家と北条家は親戚になるのです。ということで、この秀吉 の裁定にも家康が関わっており、上野国の真田領3分の2を北条に渡すけれども、その替 え地を家康は信濃の領内で与えるという約束をしていたようです。 天正17年に、吾妻郡は真田に残し、利根郡を北条に渡せという秀吉の裁定があった。 ところがここでひとつ問題となる城がありました。それは利根郡名胡桃ナグルミ城で、ここ も利根郡ですから北条に引き渡されることになっていました。ところが真田昌幸は、名 胡桃は真田墳墓の地で、真田家はもともとここから出たという由緒があるから渡せない と言うのです。真田墳墓の地は、他ならぬ小県郡真田郷ですから、これは真っ赤な嘘で すが、秀吉も納得して名胡桃は真田の領地として残すこととなりました。ところが、同 年11月に北条氏直が秀吉の裁定を無視して名胡桃城を攻め取ってしまうのです。これを 「名胡桃事件」とか「名胡桃城事件」とか申します。この行為が秀吉の怒りに触れて、 それまで北条氏を上洛させたいと思っていた秀吉は、ついに北条討伐を決意、翌天正18 年に秀吉は20万人とも30万人とも言われる大軍を率いて小田原を攻め、北条氏を滅亡さ せてしまうことになります。

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この時、当主北条氏直の父親である氏政は切腹します。こうして戦国大名としての北 条氏は滅亡することとなりました。但し、氏直は高野山へ追放された後、河内国の狭山 に所領を与えられ、北条の家名は、一万石という小さな藩ですが、幕末まで続きまし た。 それはともかく、秀吉は小田原からさらに北へ向かって進軍し、最終的には会津若松 (当時は黒川といいました)まで行くのですけれど、会津に向かう途中の宇都宮で、大 規模な大名の配置換えを行います。それが「宇都宮仕置」と呼ばれるもので、この時秀 吉は、今は自分に臣従しているけれどもかつては信長の同盟者でもあり、実力者の家康 に関八州を与えて江戸へ移らせ、新たな築城(江戸城)を命じます。小田原ではなく、 江戸に築城させたのは、秀吉からしますと、今は臣従しているが実力においては侮れな い家康を、少しでも畿内から遠ざけたいという目論見があったのかもしれません。 ● (金箔瓦を葺いていた上田城) そして、秀吉は、この時関東を取り囲むように、甲府ですとか、駿府、小諸、上田、 そういう所に、新しく自分の子飼いの武将を配置します。例えば甲斐の国、かつては武 田家の本領だったのですが、ここに豊臣秀勝という時分の甥(姉の子で豊臣秀次の弟) を新たに甲府城主にすえます。その他松本城には石川数正、小諸城には仙石秀久、そし て高島城には日根野高吉、飯田城には毛利秀頼、駿河の駿府にも中村一氏という古くか らの家臣を新たに配置します。そうしたなかで、真田親子だけは、もとどおり上田城 (昌幸)と沼田城(信之)に置かれます。つまり、真田は転封されなかったのです。 ところで、これらのお城からは金箔を押した屋根瓦(金箔瓦)が見つかっています。 【図―1】 天正18年以降の 金箔瓦使用城郭 分布図 金箔の瓦とは、豊臣政権の象徴です。もともとは織田信長の安土城あたりから始まっ たのですけれど、秀吉が随分広めました。信長は自分と家族の居城にしか許さなかった 金箔瓦を、秀吉は広く自分に従う部将たちに使わせています。その分布の意味するとこ ろは何かと言いますと、江戸に移った徳川家康を牽制する、あるいは監視する、監視と いうのはちょっと言い過ぎかもわかりませんが、そういう意味もあると思います。徳川 領を囲む形で、新たに金箔瓦を葺かせた居城に子飼いの大名を配置するのですが、その

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中で真田だけは子飼いとは言えないのにそのまま元の城に居るということですから、秀 吉はこの頃随分真田を信頼するようになっていたらしいのです。 そして、長男の真田信之が文禄3年(1592)11月に従五位下伊豆守となって豊臣の姓 をもらい、豊臣信之と名乗る、次男の信繁も同じ日に従五位下左衛門佐となって豊臣信 繁と名乗ります。こうして、真田信之、信繁とも豊臣姓となります。徳川の与力大名と いう立場から、むしろ徳川を牽制する立場になることを期待されたということで、真田 はハッキリと豊臣秀吉に直属するような立場になっていったということです。こうし て、真田父子は秀吉に厚遇されて、改めて豊臣大名としての歩みを始めることとなりま した。 ●(真田家の大坂屋敷) しかし、天下統一を果たし、栄華を極めた秀吉も、僅か6歳の秀頼を残して限りない不 安の内に世を去ることとなります。慶長3年(1598)8月18日のことです。その翌4年 1月には伏見にいた秀頼が、父秀吉の遺言に従って大坂にやってまいりました。そんな なかの9月9日、徳川家康が大坂城の秀頼に重陽(9月9日)の節句を祝うという名目で 大坂にやってまいりまして、その後それまで北政所が住んでいた大坂城西の丸にやって きて、そこに天守を築き、住むことになるのです。それに付き従って諸大名も多く大坂 へやってまいります。そういう情勢のなか、真田家も大坂に屋敷を構えることになりま す。 残念ながら真田家の大坂屋敷の場所は分っておりません。おそらく屋敷の瓦には真田 の六文銭の紋所の入った瓦を使っていたでしょうから、発掘調査などでそうした家紋の 付いた瓦が発見されれば面白いのですが・・・。 ところで、郷土史家の牧村史陽さんの『大阪城物語』という本には「真田幸村の住居 の跡」という一文があります。ここで書かれていることが本当なら面白いのですが、残 念ながらかなり荒唐無稽なのです。例えば3行目に「今は跡かたもなくなっているが、 一見したところ、平屋茶室造りの普通の町家ながら、いかにも古ぼけた不気味な剣気を はらんだ建物だった」、これが幸村の住居であったとあります。ところが「茶室は、出 雲松江の松平不昧公の設計」ですから、これは風流大名として有名な出雲松平家5代藩 主松平治郷の設計、すなわち江戸時代中頃の設計ということになる。だから時代が全然 合わないんですね(もちろん、牧村さんがこの話を信じておられるということではあり ません)。ただ、これはかなり有名な家だったようです。場所は天王寺区の六万体町、 四天王寺前夕陽ケ丘駅の少し東ですからここに真田幸村の家があったとしますと、ちょ っと大阪城から離れ過ぎているように思います。 ●(関ケ原合戦と真田家) 話を戻します。慶長4年9月に家康が大坂にやってきて、そのまま大坂城西の丸に住ん でしまった。つまり、大坂城の本丸には秀頼が居て、西の丸には家康が居るという奇妙 な状況のうちに、慶長5年(1600)という年が明けました。 その6月になりますと家康は、豊臣家に謀反を企んでいると称して、家康と同じ豊臣 氏五大老の一人である上杉景勝を討伐するため、大坂城を出発して、その頃景勝は会津 若松城主ですから、会津に向かって兵を進めることになりました。この時昌幸と信繁 は、家康に従っています。当時沼田にいた信之は途中で父や弟に合流しますから、結局 この時点では親子3人とも家康に従っていたわけです。 ところが会津に向かう途中で、ある情報を手にして、昌幸と信繁は家康と手を切るこ とになります。下野国犬伏(栃木県佐野市)というところを行軍中に、大坂の豊臣奉行 衆から一通の書状が届きます。それが7月17日付で出された「内府ちかひの条々」という

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手紙であります。「内府」とは内大臣のことで、この場合家康のことです。「ちかひ」 は「誓ひ」ではなく「違ひ」です。これは本物がいくつか残っておりますが、実に13カ 条に渡って家康は間違っている、家康けしからん、という事が書かれた手紙です。例え ば3ヵ条目では、家康が上杉景勝を討つために大坂城を出発したことが書かれておりま して、「景勝には何の誤りもないのに、家康が秀吉に誓った誓詞の趣旨をわきまえずに 景勝を討ち果たすというのは大変嘆かわしいと思って、私たち奉行3人がいろいろとた しなめたけれど、遂に聞き入れてもらえなかった」などと言ってます。こういう13ヵ 条におよぶ、いわば家康糾弾状が各地の大名達に配られ、その一通が真田親子のもとに 届いたのです。 この時、真田は密かに親子三人で談合した結果、昌幸と信繁は大坂方に付いて、長男 の信之は徳川方としてそのまま家康に従うという決定をしました。徳川方が勝っても、 大坂方が勝っても真田の家が続くように考えての決定です(これが後世、「犬伏の別 れ」として喧伝されます)。こうして真田家は、親子兄弟で帰属を変えて臨むこととな り、昌幸と信繁は上田城に入って反徳川の姿勢を明らかにすることになりました。 一方の徳川方も、下野の小山(栃木県小山市)で軍議を開き、上方の情勢が緊迫して きたことから上杉攻めを中止して引き返すこととしました。この時家康は、東海道を進 みますが、息子の徳川秀忠は中山道を進んできたので、途中の上田城で真田父子と戦う ことになります。これが9月初頭に始まる「第二次上田合戦」と呼ばれる戦いです。「第 一次上田合戦」は家康と昌幸の戦い、第二次上田合戦というのは、家康の息子の秀忠と 昌幸の戦いで、いずれも真田は徳川との戦うこととなりました。こうして徳川は家康と 秀忠が、二度にわたって上田城を攻めますが、いずれも徳川は攻め落とすことができま せんでした。どうも、徳川は真田とは相性が悪かったようです。 とはいえ、ご承知のように9月15日の関ケ原合戦で徳川方は大勝利を収めることとなり ます。その結果、長男の信之は軍功を褒められて上田と沼田ともども安堵されますが、 昌幸と信繁は高野山へ追放されることになります。追放後の慶長16年、65歳で昌幸は九 度山に病死しますが、そこで不遇をかこっていた信繁にはもう一度世に出るチャンスが 与えられます。それが大坂冬の陣を前にした豊臣秀頼からの誘いとなるわけです。慶長 19年、おそらく10月頃だと思いますが、秀頼から九度山の信繁の元へ、大坂城に入るよ う使者がやってまいります。 ● (大坂の陣と真田丸) 大坂入城を果たしますと間もなく信繁は、城の最外郭である惣構の南東外側に一つの出 丸を構築します。丸というのは郭(=曲輪とも書く)という意味です。出でぐるわ郭ともいい、大 坂城の南の惣構(最外郭)のさらに外に出っ張るように配置された郭です。大坂城は南方 が弱点だということで、そこに出郭を築き、徳川勢を迎え撃つべく兵を籠めました。 大阪冬の陣は、慶長19年11月に始まるわけですけれども、実はほとんど戦闘らしい戦闘 はないのです。今の暦でいうと1月・2月ですから、お城を取り囲んでいる徳川方は寒くて かなわない。そんなことで、「大坂冬の陣屏風」などを見ますと、徳川方が焚き火をして いる様子とか温かいお茶を飲んでいる様子などが描かれています。そういうなかで、数少 ない戦いの一つが12月4日の「真田出丸の戦い」です。屏風には、徳川方の井伊隊、前田 隊、松平隊などが勇んで出丸前の堀に押し寄せている様子が描かれていますから、「真 田、何するものぞ」という意気で押し寄せたのでしょう。しかし当時の記録によります と、真田丸を

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攻めようと徳川方が大軍で押し寄せてきたのを見て、真田勢が鉄砲を持って迎え撃つと、 徳川方の怪我人・死人は数えきれないほどだとあります。これを茶臼山から見ていた家康 と秀忠の「逆鱗甚」とありますから、二人はむちゃくちゃ怒ったようです。このように徳 川方は無茶な攻め方をして 真田隊にぼろ負けしてしま うのです。 ところで、冬の陣の屏風 には四角く張り出したよう に書いてある出丸が実際は どうだったかといいます と、私は雑誌『上方』第1 1号(昭和6年11月刊行) に載っている一枚の写真 (図2)に注目していま す。 これには「慶長刊光悦本 伊勢物語の表紙裏に使用せ られし大阪役瓦版の一断片」 【図―2】大坂役瓦版の一断片(鹿田氏蔵) と書いてありまして、冬の陣 (『上方』第11号)のトレース図 の時に発行された瓦版の一断片だとされています。残念ながら現物はもうどこに行ったか わかりませんので、この図(写真)から考証するしかないのですが、私はこれがどうも今 まで知られている大坂城の真田丸の一番古い図面じゃないかと考えております。おそらく 大坂冬の陣が終わって間もない頃、すなわち、大坂冬の陣が終わり、まだ夏の陣が起こる とは思われていない時期に描かれた絵図ではないかと思います。細かい考証は省きます が、おそらく信繁はこのような構造を持った出丸を構え、そこを舞台に徳川との合戦が行 われて、大勝したということです。結局、冬の陣では徳川方は一歩も大坂城内に攻め入る ことはできませんでした。 ところが冬の陣が終わりますと、豊臣と徳川和睦の条件に本丸以外の堀・郭の撤去とい うものがあり、その結果、大坂城は本丸だけの裸城になってしまいました。ということ で、翌年5月に行われました大坂夏の陣では、もはや大坂方はろう城することはできませ ん。信繁らの豊臣方は大坂城を出て戦うしかありませんでした。ここでも、信繁はずいぶ ん敢闘したようですが、所詮は多勢に無勢、5月7日の戦いで家康の本陣を脅かしたあと、 疲れ果てて安居神社の境内で休んでいるところを越前松平家の侍に見つかり、戦死してし まいます。大坂城もその日のうちに落城し、秀頼と母の淀殿らは城内の焼け残りの蔵に隠 れますが、翌8日、蔵に鉄砲を撃ちいれられ、ついに火を懸けて焼死するに至って、豊臣氏 も僅か2代で滅亡してしまいました。 ● おわりに 以上、長々と話してまいりました。元々大阪には縁もゆかりもなかった真田氏が、さま ざまな時代の制約を乗り越えて(もし本能寺の変もなかったら、全く別の展開になったで しょう)、豊臣秀吉の厚遇を受け、大名に取り立てられていった。そして、昌幸と信繁 は、秀吉の死後も豊臣方として武勇を挙げ、特に信繁は大坂の陣における活躍によって後 世に名を残し、今も大阪人に愛される存在となりました。一方、兄の信之はと申します と、こちらは徳川方の大名として江戸時代に生き残り、今日までその家名はしっかりと続

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いています。そういう意味で、名実ともにしたたかな生き方を貫徹した真田氏であったと いうことを申し上げて終わらせていただきたいと思います。どうもご清聴ありがとうござ いました。

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